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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

肉のものと霊とのものを区別する必要性~キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険⑥~

「あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。

ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。 なぜなら、あなたがたは、だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えてのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです。」(Ⅱコリント11:2-4)

ウィルソンは、霊的にはただ一人の夫であるキリストと結ばれた花嫁であるはずだったのが、いつの間にか、別な存在と「結婚」させられ、いつの間にか、「違った霊」を受けてその導きのもとに歩み始めていた。そのことをまず真っ先に察知して懸念したのは彼の妻であった。
 
 

ある時は結婚記念日を祝う際、私は妻に武術の用事が
あるから明日にしようと言ったこともあった。
他にも色々と家族行事を武術のために後回しにした。



ある週末の日、妻と私が喋っていた時、
妻は昨夜見た夢について話し始めた。
私は夢に意味など無いと信じていたが、
妻は夢についてとても悩んでいた。

「エリック、これは主から来たものだと思う」



「あなたの学校の上級ランクの人たちが、
手をつないで輪になって立っていたのを見たの」
「その外側には彼らの家族が周りに立っていた。」

内側の輪がどんどん縮まるごとに、
家族はどんどん輪の外へと追いやられていた

妻が夢の話をしたあと、
彼女がその夢にとても悩まされているのを見た。


ウィルソンの妻は、正夢を見たのであり、そこでは、上級ランクの者たちが結ばれている「輪」は、家族との絆よりも強く、家族の絆を排除してしまうような残酷な「輪」だった。これはちょうど「皇国」のために命を捧げると誓い、家族を捨てて死へ赴いた三島由紀夫と盾の会のメンバーを思い出させる。

三島の盾の会と同じように、武士道に命を捧げることを誓ったウィルソンら武術学校の生徒らは、自分自身の生涯をその「道」に捧げるという、誓いによって結び合わされており、その「輪」は家族の絆よりも強い、死による絆だったのである。

 
(映画”MISHIMA"から)
 
先に述べたように、「道」とは永遠の循環を示す「輪」なのである。『龍の正体』の最後においても、この「道」が「輪(和)」であり、日輪(太陽神)であることが明かされている。
 
私たちはこのような「輪(和)」で結ばれているのは、武士道に生きることを誓った一部の人々だけだと考えているかも知れない。そういうものは、極端な宗教カルトのようなもので、今日の我々とは関係がないと。しかし、本当に、そうだろうか。私たちはこれを一部の人々だけの極端な生き様と笑うことができるだろうか? 

たとえば、戦後の日本の企業社会においても、企業戦士と呼ばれたサラリーマンたちは、妻子を置き去りにして、この「輪(和)」の闘いの中に生きる男社会を作ったのではなかったろうか? あるいは、受験のための競争社会となり、いじめによる多数の自殺者を出している学校教育も、子供たちを家庭から引き離して、この「輪(和)」に引き入れるものではないだろうか? 非正規雇用が拡大し、完全なヒエラルキーに基づく固定化された身分社会のようになっている現在の雇用情勢も、残酷な排除の「輪(和)」ではないだろうか? 

こうして、この残酷に人間を犠牲にし、死へ追いやる「輪(和)」は、今日も目には見えない武士道として、多くの日本の集団を貫く過酷な競争と排除の原理となり、人々から平穏な家庭生活から奪い去り、闘いの中で討ち死にさせている。
 
だが、ウィルソンは妻の忠告も退け、さらなる暗闇に足を踏み入れて行くことになる。

私は憤りを感じた。
今思えば、それが何を主にして仕えるかの分かれ目だった。
彼女が私を人生で一番大切に思っている
武術から引き離そうとしているように感じた。
それですごく怒りに満たされた。
彼女は理解していないと思った。

そして私はますます特訓に励んだ。
若い頃の夢の間に
何物をも立ちはだからせないと思ったからだ。

しかし理解していなかったのは
私の方だった。
それは私の自分本位の欲望を
妻と私の間に置いたからだった。

命を与える聖書の言葉は
今日、私たち一人一人に語りかけている。

「わが子よ、あなたの心をわたしに与え、
あなたの目をわたしの道に注げ。」(箴言23:26)

「夫たる者よ。キリストが教会を愛して
そのためにご自身をささげられたように
妻を愛しなさい。」(エペソ5:23)

すべての男性に立ち向かう闘いは
妻と子を自分よりも愛することだ。
苛立ちと反抗で私は
呼んでおられる神から心を遠ざけた。
服従することが勝利と自由へ導くということに気づかずに。」

 
ウィルソンは自分を縛り、幸福から遠ざけて行く偽りの契約の重さを認識していなかった。その「道」は、彼が幼少期に味わったトラウマを無意識に再現する道であり、妻子を捨て、子供にも取り返しのつかない悲劇を味わわせる道であった。
 
 


  

「願っていた夜がついに来た。
闘い相手と私はカンフーの弟子の資格を貰うことになった。
プライベートな儀式で上級ランク者しか
参加できなかった。
武術の訓練をし、教えたりしながら
17年も経ったあと
少し先に黒帯をとったライバルと共に
第五の夜明けのランクが与えられることになった。

私はその時のことを鮮明に覚えている。
師匠が我々二人と共に
弟子の資格式に入って来た。
二人とも同じ日に儀式を行った。
我々二人はこの30年間で初めての
第五の夜明けのランク受領者となった。

儀式の時、師匠が長い杖を持って入ってきた。
杖には馬の毛のようなものがあって、彫刻が刻まれていた。

儀式が終わり、皆がいなくなったあと、
私たちは師匠にそれについて尋ねてみた。
その杖は何処から来たのですか?
今まで何年もこの学校にいて
一度もそのようなものを見たことが無かった。
「この杖は誰かが弟子の資格を取った時のためだけに出すものだ」

後でわかったことは、それはシャーマンの杖だった。
師匠は主を愛していて、キリスト教だと
告白していたが、光と闇とを混ぜていた。

儀式から一週間たったころ、個人授業を
闘った仲間と一緒に受けていた時
忘れられない言葉を師匠が言った。
あなたが今学んでいることは
百年前だと魔術師とみなされていた事柄だ


ウィルソンが「結婚」(重婚)させられた相手が、どういう霊なのかが次第に分かって来た。儀式の度に、新たな異教のシンボルが登場する。師匠が持っていたのは、魔術師の杖であった。師匠はキリスト教徒を装っていたが、裏の顔があり、キリストへの信仰と、異教への信仰と、混ぜ合わせた霊を持っていたのである。
 
 



それからの二年半の特訓は想像以上のものであった。
平均台や梅花は柱の上で騎馬立ちしながら名何時間も毎日瞑想して
「気」と呼ばれる神秘的な力を引き出す訓練をしていた。
瞑想と深呼吸とイメージトレーニングをしながら、
体の温度を変えたり
精神力で環境や戦う相手に影響を及ぼしたりすることを学んだ。

訓練を進めるために、やむをえず私は神の言葉の
はっきりした啓示から妥協していった。
不従順の道を進むにつれ、心は頑なになり、
父なる神の愛する声が聞こえにくくなっていった。

神の言葉が取り去られると、私の人生の基礎が崩れ始めた。
家族と家庭が嵐によって吹き飛ばされていった。
私と神との絆と妻との契約とが壊れていった。

弟子の資格をとったあと、結婚生活が危うくなり始めていた。
そして私は誰にも相談できない悩みと格闘していた。

結婚を維持させ妻子を守るという
使命感と反対方向に私を向かわせる武術。
いまだかつてなかった難問だった。

ウィルソンの武術の特訓が、もはや体を鍛えるためのものではなくなりつつあった。彼は体の温度を変えたり、精神力で環境や対戦相手に影響を及ぼすなど、人体の通常の限界を超えた訓練を行い、自分の体を変容させ、超自然的な力を発揮する術を学んでいたのである。

通常、このようなことは、霊によって行われることであり、キリストの霊は、よみがえりの命であり、すべてを統治する神の非受造の神の命であるから、その命には、物理現象を治め、人の心にも、影響を及ぼす力がある。信者は御霊を受けて、神の言葉に従って生きる時、口では説明できない様々な不思議な現象が、祈りや信仰を通して起きて来ることを知っている。信者はそれを神が祈りに応えて下さったのだと思う。むろん、そうである。だが、同時に、それは信者の内に住んでいるキリストの御霊の働きでもある。御霊は万物を支配されるキリストの霊であるから、そこには統治という原則が存在するのである。

だが、邪悪な悪霊も、御霊の働きを模倣し、肉の力で「永遠の命」の働きを再現しようとする。

内丹術が人体を「気」によって変容させ、最終的には人を「道」と一体化させて、不老不死(永遠)に到達することを目的としていたことを思い出したい。ウィルソンの行っていた訓練はそのような人体の変容の始まりであった。

ウィルソンの家庭生活はこの頃から明らかに破綻し始める。
 

武術で学んできた技術や思想は
罪と闘って自由を得る助けにはならなかった。
武術では、なんであっても適度にとれば害はないと教わった。
絶対的な原則、白黒など無かった。
すべては真ん中の灰色。

神の言葉で明白に「人は二人の主人に
仕えることはできない」と書いてある。

しかし私はこの16年間それをしようとしていた。
家族と一緒に毎週教会に通ったが、
心は神のことと家庭のことから遠ざかっていた。
私は武術と肉の欲を妻との間に置いた。
そして神と妻との契約との間にも。

これはたぶん人生の中で一番激しい戦いだった。
長年武術を学び、古コンタクトで闘ったりして、
自分ではどんな困難にも立ち向かえる自信があった。
でも気づけば師匠の教えも
鍛えてきたものもこの困難には役に立たなかった。

「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく
もろもろもの支配と、権威と、やみの世の主権者
また天上にいる悪の霊に対する闘いである。」(エペソ6:12)

教会の中や家庭の中だけに闘いは限らず、
自分自身の中にも激しい戦いが起こる。
向かい合っていた敵は心の中に潜んでいた。

そして自分の欲望や肉欲から自由になる方法が
わからなかった。その声から逃れることも。

その声とは我々が長年聞き従ってきたものであり、
テレビ、映画、音楽や雑誌などを通じて
今日も語りかけている。
そして私にとっては師匠や武術を通しても語ってきた。

「わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、
神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。
わたしたちはさまざまな議論を破り、神の知恵に逆らって
立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いを
とりこにしてキリストに服従させる。」(第二コリント10:4-5)

しかし主なるキリストがただで与えようとしている
勝利に身を任せる者はなんと少ないことだろう。
真のクリスチャン…本当に主の弟子になることは
ただキリストを信じるだけでは足りない。
週に一回教会へ行って、朝に少し聖句を読んで
慌てて世の中に出かける以上のものだ。

主 エホバ ヤーヴェはあなたの人生の
7割を要求しているのではない。
生まれ変わるということは
すべてを捧げるということだ。
人生のすべてだ。

武術界では、キリストを見上げる代わりに、
自分の内面を見つめることを教わった。
神の聖なる御言葉の啓示より
自分の気持ちに従うことが第一だった。
そして闘いがあった。

600年前に天で起こった闘いは今もなお続いている。
目には見えないが、すべての男女、
子供のうちに激しい闘いが存在する。
日々、暗闇の中や内なる敵と
闘っている人たちが我々のまわりにいる。
常に命のパンと水に飢え渇いている魂がいる。

彼らは本当にキリストの言葉を信じ、その救いの業や
愛を知っている弟子を見てみたいと望んでいる。

私は一番主を必要としている時に
はっきりとした識別力が必要な時
私は聖霊の指示に対し盲と聾になっていた。

結婚生活の問題を解決したかったが、
聖書を読んでも昔のように理解することができなかった。
私の中で光が闇となり、悪が善に見えた。
それは聖書では「霊によって霊のことを解釈するのである」
(第一コリント2:13)と書かれているからである。

武術や師匠やメディアを通した龍の声に
長年耳を傾けていた為か、
天の父の御言葉が分からなくなった。

「なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。
すなわち、それは神の律法に従わず、
否、従い得ないのである。」(ローマ8:7)

 
 
ウィルソンは言う、「武術界では、キリストを見上げる代わりに、自分の内面を見つめることを教わった。」グノーシス主義は、神と人とが本来的に同一であるとみなして、神を探求すると言いながら、人に「本来的な自己を取り戻す」という口実で、自分自身を見つめさせる。神を仰がず、自分自身を見させるのである。

パウロはローマ人への手紙の第8章で、人間の内側では、肉の思いと霊の思いとの激しい葛藤があり、肉の思いは神に敵対し、神に従い得ないと書いている。しかし、人間の堕落を認めないグノーシス主義は、肉と霊とを区別しない。そして、堕落した肉を本来的に神と同一の「神聖な要素」の一部とみなすのである。そのため、グノーシス主義とは、「肉の復権」の思想なのだと言える。また、これに基づいて生まれるすべての思想も、人間の邪悪さを聖とみなし、光を闇とし、善を悪とし、すべての物事をさかさまに、あべこべに見るのである。

仏教では、仏(悟りを得た者)に備わる四つの知恵とされるものの一つに、大円鏡智(だいえんきょうち)というものがある。これは万物を鏡に映すようにしてそありのままの姿を真理として把握するという意味である。

だが、 鏡に映すと、すべてのものがさかまさに見えるのは言うまでもない。ここで言う「鏡」とは、聖書の神の側から見た真理ではなく、堕落した被造物が造り出した認識の世界、人間の側から見た事物の有様であり、大円鏡智なるものは、グノーシス主義の「鏡」と同じで、人間の認識が神の認識に取って代わって、普遍の真理、リアリティとなってしまっているのである。

それは「本体」がなくなり、「影」に過ぎない「映像」が自分は本物だと主張している世界であるため、それゆえ、そこで言われる「真理」はすべてがさかさまで、転倒してひっくり返っているのである。創造主の側に真理があるのではなく、被造物の認識の中に真理があるとみなすと、必ず、すべてが裏返しになった偽りの「真理」が出来上がってしまうのである。これが、グノーシス主義の「鏡」が作り出すさかさまの世界観である。

六ヶ月くらい自分の中で闘い悩んでいた。
でもそれは武術の教え通りに闘ったのである。
自分の強い意志と特訓で治めようとした。

しかしどんなに強くても、キリストの力無しでは、
人間はとうていサタンや悪天使たちに打勝つことができない。
何も解決しないことに苛立つあまり、龍の声に耳を傾け、
自己の自由を選び、とうとう離婚届を出した。

家庭が壊れた経過は言葉では言い表せない。
多くの人は、神の言葉を聞くよりも、
自分の肉の声に聞き従うと。
どれだけその選択で取り返し難い影響を
永遠に受けるか気づいていない。

「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。 だれがこれを、よく知ることができようか。」(エレミヤ17:9)
 



田舎の家から引越しトラックで出て行った日を
今でもはっきりと覚えている。

それは家に帰る最後の日で
残りの家具をとりに行くところだった。
砂利を敷いたドライブウェーに駐車する時、
私は妻と小さい息子が玄関で天に向かって
助けを祈り泣き叫んでいたのに気づかなかった。

そしてトラックで出て行く時
六歳の娘が後ろから走ってきて
「パパ、パパ、待って!行かないで!」
と泣き叫んでいたことにも気づかなかった。

何年かしてから私の去ったことが、
どれだけ妻子につらい思いをさせたかを知らされた。
 

 
ウィルソンが肉に従って歩むに連れて、彼の内側で、愛が冷え、無慈悲さ、頑なさ、冷酷さ、自己中心性など、強情で冷たい性格が育って行った。体を変容させる試みは、彼の心までも変容させた。ただし、それは彼が願っていたような変容ではなく、「神のように」なることとは裏腹に、事実は、悪魔の姿に近づいて行った。

ウィルソンが子供たちを無慈悲に捨てた行動の中には、無意識のうちに、彼自身が父に捨てられたという心の傷が影響していただろう。「気」を汲み出す訓練が、激しい苦痛の連続であったように、悪霊は、人間の加害者意識や被害者意識を通じて働く。加害者意識と被害者意識は表裏一体であり、被害者意識を抱えたままの人間は、いつ加害者に転ずるか分からない暴力性を秘めている。肉にある生き方は、憎しみと怨念と暴力の道で、永遠に終わらない心の傷の連鎖を生み出すだけである。
 
 

  

妻のサラは信仰の闘いをし始めた。
彼女は主が約束の言葉を守らないはずはないと固く信じていた。

彼女は毎日神の約束を繰り返し音読した。
「神が合わせたものを人は離してはならない」
(マルコ10:9)

「なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して
救われるからである。聖書は、『すべて彼を信じる者は
失望に終わることがない』と言っている。」
(ローマ10:10-11)

妻が聖書朗読、断食や祈りをしていた時に、
私は自分が若い時から夢に見た
武術の深い闇に自らのめり込んで行った。

神が自分の良心に語り掛ける声をずっと打ち消そうとしたが、
良心の声と神の声の問いかけが続き、罪の呵責に苦しんだ。



妻が子供たちを私のアパートに連れてくる時、
妻がとても痩せ細っているのに、
目が喜びに満ちていたのを覚えている。
それがなぜか私には理解できなかった。
私が一生懸命になって得ようとしていたものを
妻は既に持っていた。

しかしどんなに走っても、
どんなに娯楽で気を紛らわせようとしても、
一人で夜ベッドに横たわる時、深い沈黙に包まれた。

「どうか、あなたはわたしの戒めに聞き従うように。
そうすれば、あなたの平安は川のように、あなたの義は
海の波のようになり」(イザヤ48:18)

「あなたのおきてを愛する者には大いなる平安があり、
何ものも彼らをつまずかすことはできません。」
(詩編119:165)


それでも、ウィルソンの探求は終わらず、彼は新たな師匠と出会う。そして、その師匠との出会いが、武術に隠された悪魔的な起源を知らされるきっかけとなった。(写真は前の師匠。陰陽道のシンボルや、武士道などの言葉が道着に記されている。)
 



もっと深い知識と力を学びたいと思い、
中国の内家拳の太極拳、八卦拳や気功などに励んでみた。
ある週末、親しい友達が熟練した武術者が
来るからとトレーニング講座に誘ってくれた。
そこは私の住んでいるところから数時間離れた町にあった。

私はこの武術者に会いに行くのがとても楽しみだった。
なぜなら彼は名声ランクも高かった。
なにより彼は内なる力「気」を実演したり
教えたりすることのできる人だった。
彼は第十の夜明けとして認められていて、
二つの拳法のカンフーと中国の気功を教える資格を持っていた。
気功の目的とは、武術と医学のために、
「気」の力を育てるためのものだ。

講座での訓練が終わったあと、
その師匠が来て数人かの生徒たちと話した。
そして黒帯とその従える生徒たちに
訓練についての指示を与えたのち
彼らはその指示通りに行うために去って行った。

師匠と二人きりになった時、彼は私を個人的に名指した。
私は彼と初めて会うのだが、彼はこの出会いは偶然ではないと言う。
ある中国のことわざで「弟子が準備が出来た時に、師は現れる。』

その日から、私はこの師匠の元で訓練する機会を徹底的に探した。
彼には、私を教える知識があるばかりでなく、
第五の夜明けの上の生徒の進行を見守る権威があったからである。
長年彼と付き合った中で一番記憶に残るものがある。

ある夜、激しい訓練が終わった後、
師匠は「気」を獲得する方法についてのなざを語り始めた。
しかし期待していたのとは違って、
中国の勇士や賢人について語るのではなく、
現代の音楽家ジミ・ヘンドリックスや
エリック・クラフトンなどの才能について語り始めた。



カンフーで使うエネルギーを
有名な音楽家が欲望に満ちたロックミュージックに
注いでいたエネルギーと比べていた。

その時彼が教えてくれたのは
初心者は「気」は「内なる力」と教わり、
中級レベルでは「気」は「息」と教わり、
上級レベルでは「気」を「霊」と教わる。

そしてこの霊的なエネルギーが何千という違う形で現れる。
それは武術者にとっては速度と力い使われ、
ホリスティック治療家は
患者を癒す振動エネルギーとして用い
会社重役や指導者は部下を
巧みに制御し影響することに用い、
役者は観客を虜にさせるような演技をするため、
音楽家はパフォーマンスに活気をつけさせ、
聴衆の感情や心を意のままに動かすために、
霊的なエネルギーは使われる。

 
新しい師匠に出会って、初めてウィルソンはそれまでは「内なる力」や「息」のようなものだと教えらえていた「気」の正体が「霊」であることを明かされる。「気」は「霊」から引き出されるエネルギーなのである。

その霊的なパワーが一種の見えない「波動」となって、音楽の演奏や、気功による治療や、企業活動などの場面で、人間関係に影響を及ぼし、自分の望む効果を相手から引き出すために利用されているのである。

だが、一体、それは何の「霊」から引き出されるエネルギーなのか? ウィルソンは師匠の自宅を訪問した際に、その秘密を知ることになる。
 

数年間この師匠の下で訓練を受け
もし本当にこの人の教えをすべて受け入れるなら
もはや他の主人に仕えることが出来ないと気づいた。

弟子が師匠から離れて別な学校で教師になって
教え始めるというのは珍しいことではない。
私はそうすることにした。

そして忠誠が引き裂かれたと悩む必要がなくなった所で
東洋武術に隠された力を探ろうとし始めた。

その力は見えるものであったが、その力が何処から
来るのかは常にわからないあやふやなままであった。

私はよく師匠の住んで教えている町まで
六時間かけて運転して行った。
ある時、師匠の家を訪問した。
ここで世界中の弟子たちが長年闘って
訓練してきた裏の秘密を知った。



師匠の家に入ると、意外なものを見た。
長年親しんだ少林拳の将軍や伝統的な着物を
着た僧などの絵が貼ってあるのではなく
部屋のすべての壁に飾ってあったのは、
等身大のヒンズー教の神々の壁掛けであった。

 

  
 
自分の頭の中で危険信号が鳴り響いた。
聖句の警告や子供の時教わったもの
今まで押し殺してきたものが、
すべて浮かび上がってきた。

師匠はその日、私に不思議な質問をしてきた。
「もしも、武術がすべて少林拳から始まったのであれば、
なぜこんなにも多く同じ思想で違う表し方が存在するのだろうか?」
私はそれを聞いて驚いたが、しかし興味深いと思った。
この質問の答えは長年探していたものだったが、
どう言葉で表現していいか分からなかったものだった。
危険信号がさらに大きくなった。



師匠の家にはヒンドゥー教の神々の壁掛けが飾られていたが、それによって、武術で見られるあの圧倒的なパワーが、聖書の神ではない、異教の神々すなわち悪魔と悪霊に由来して引き出されるエネルギーであることが徐々に分かって来た。師匠は示唆する、武術は少林拳から始まったのではないと。もっともっと古い起源があると。そして、そのことは、むろん、ただ武術だけに限るのではない。太古からあるものが、武術を含め、あらゆる分野において、様々なバリエーションとなって現れているに過ぎないのだ。

では、その太古からある起源とは何なのか? すべてのバリエーションに共通する型とは何なのか?

何事も徹底的に究明しようとするウィルソンは、ついに自分をそれまで導いてきた武術のパワーの根源がどこにあるかを知ることになる。すなわち、彼がそれまで追って来た「霊」の思想の起源を発見する。
 

その年は2007年であった。
武術では、夢見てきたことを何もかも成し遂げた。
ある夜、八卦掌のクラスを教えていた時のことだった。
八卦掌は太極拳と良く似ていてゆっくりとした正確な動きで
深呼吸や瞑想しながら動きに集中した。
私は生徒たちを円を描くように歩かせながら、
深呼吸や手のしぐさに集中していた。

それをしている間に、生徒の目を見た。
彼らが本当に武術の力を引き出しているか
どうかを確かめるためだった。

すると目を見ていると、生徒全員が催眠状態のような目つきをして
汗でびしょぬれであることに気づいた。
武術の経験のある私は、こんな軽い運動で
汗をかくなど人間的に不可能だと思った。
肉体訓練や柔軟体操などしてなかったはずだ。

その瞬間、私の精神は上に引き上げられて
生徒にフォームを教えている間に、まるで上から見下ろすように、
生徒たちと私が道場の床で作っている形が見えた。
こんなことはかつて経験したことはなかった。
まるでミステリー・サークルみたいだった。
百姓が畑に出るとただの散乱した畑であっても、
上から見下ろして鳥瞰図にしてみれば模様の形が見えてくる。



私が見た形は円で、その中心に点があって
まるで図星のようなものだった。
この形に関して非常に悩んだのは、
同じ形がすべての武術文学、書き物、師匠達の
様々な本などに載ってあるのを見たからだ。

その夜家に帰って自分の本棚をあさってみた。
合気道、日本武術、カンフー、気功、中国武術と
どの本を見ても同じ円の形があった。
そしてその意味もわかった。
それは太陽の神「道」をさすものであった。

生徒たちにどう説明するか迷った。
どうやって百人近くの人に
これまで学校で教えていた武術というものが、
太陽の神の霊を呼び出すものであったと伝えられるのか。


今までにも説明して来たように、「道」(=世界の根源となる混沌)とは、グノーシス主義の「虚無の深淵」や「鏡」、仏教の「空(無)」と本質的に同じ概念であり、日輪すなわち太陽神と一体である。シンボルとしての「道」は、永遠の循環を表す円(輪)である。

それが分かれば、たとえば、禅において、悟りに至る諸段階を、十枚の絵で表してるとされる「十牛図」が、なぜすべて円の中に描かれているのかも分かる。この円は「道」なのである。
 

十牛図

ウィルソンは、それまで人生で最も大切な価値だと信じて来た武術が、反聖書的な悪魔的な教えを起源としていることに気づいた時、その事実から目を背けなかった。彼はただ力が欲しかったのではなく、真実が知りたかったのである。そこで、彼は生徒たちにも、「輪」のシンボルについて調べさせた。すると、「道」(=「輪」=「鏡」=「太陽神)のシンボルは文化の壁を超えて様々なところに見られることが分かる。



そこで次の週、上級クラスに宿題の課題を出した。
家に帰ってこの形の意味を探してくるように
と言ってその円を黒板に描いた。

その次の週、クラスでは深い沈黙があった。
水を打ったような静けさだった。
すべての生徒たちは厳粛な表情をしていた。

私は一人ひとりにクラスの前で何を見つけたか発表させた。
宿題の課題を出す時、どこでその意味を
探しても構わないと前もって伝えてあった。

歴史の本、アステカやマヤ文化、エジプトやローマ、バビロン、
刺青の本やウィッカなど魔術の本からも探していた。







 





  どこで探したにせよ、結論は同じであった。
太陽の神の象徴、中国では「道」や
「陰と陽」などで表されている。
 


(陰と陽 Wikipedia「内丹術」から陰陽道大極図)

そしてある生徒が「これはどういうことですか?」と聞いて来た。
これからどうすればいいのですか?何が変わるのですか?
私は彼らに言った「これからはもう八卦掌を教えない」

しかしまだそれ以外にもありそうだと思い、
夜帰宅してまた本を探り始めた。
太極拳、ヨガ、気功、少林派のものも調べてみた。
調べているうちに想像以上に色々と発見してしまった。


武術の圧倒的なパワーが、反聖書的な、悪魔的な起源を有する悪霊による被造物崇拝から来るものであると分かった以上、もうこのようなものを教えることはできない、とウィルソンは考える。彼はそれが分かったにも関わらず、なお自分をごまかして、武術にすがり続けようとは思わなかった。

だが、武術の思想の誤りが分かると同時に、彼が歩んできた道が、聖書の神に逆らい、悪霊に従う誤った道であり、それによって彼は自分の家族を破滅させてしまったのだという事実がはっきりと見えて来た。幼い頃から親しんできたキリスト教の信仰が、彼の心に呼びかけていた。今、まことの神に立ち戻らなければ、彼の人生も家族の人生も破滅すると。
 

昔、母が不安そうにしていた記憶が蘇った。
そして武術で学んでいた霊的な力で私は家族を
破滅に追いやったのだとはっきりと見えてきた。

主は私を呼んでおられた「子よ、今こそ帰ってきなさい」
彼は私に繋がれていた鎖を解放しようと闘われていた。
そして妻子に変わらない忠誠の約束を示すために。
主は私と私の家族を仲直りさせていたと
同時に私の盲の目を回復させていた。

その週のうちに私は生徒たちに発表をした。
もう内家拳の太極拳や気功も八卦掌も
少林派のカンフーですら教えない。
私は肉体的な武術を霊的な武術から引き離そうとしていた。
しかしこれは非常に難しかった。
六、七カ月挑戦してみたところ、
肉体的特訓を霊的な基のある武術から
引き離すことは不可能であると気づいた。

この発表した時、たぶん生徒の四割は去った。
これは経済的打撃が強かった。
それだけではなく、長年付き添ってくれた
生徒が去っていくのをみるのも精神的に堪えた。
 

ウィルソンはそれでも何とかして武術から悪しき霊的な教えだけを切り離して、肉体的訓練の部分だけは残せないかと試行錯誤してみたが、それは不可能であることが分かった。思想はすべての土台であり、その上に生じる現われの部分だけを、思想と切り離して残すことはできない。だが、肉体的特訓ができないことを表明すると、多くの生徒は去って行った。経済的にも、これ以上、武術を教え続けることはもうできないことが明白であった。

しかし、ウィルソンが儀式を通して結ばれ、長年、心を捧げて来た対象には、ウィルソンが武術の精神と訣別することを決めても、そう簡単にウィルソンを手放すつもりはなかった。武術の精神とは、彼を飲み込もうとし続けて来た死の力である。
 

ある夜、クラスを教え終わったあと帰宅した。
真夜中近かった。
ドアを入ってジムバッグを
玄関近くにおろして台所に歩いて行った。
飲み物を取りに冷蔵庫を開けようとしたその時、
首筋に一気に鳥肌が立った。
なにか得体の知れない大きなものが
後ろに迫っているのを感じた。



それはひどく恐ろしいものだった。
長年武術の特訓をして、怖いものなど
自分にはもうないと思っていたのに、
しかし後ろにいたものは私を恐怖に陥れた。

もうどうしていいかわからなかった。
師匠たちに教わったことや読んで学んだ
知識などが頭の中をよぎった。
ここは闘うべきか? 逃げるべきか?
しかしどれも通用しなかった。
どちらも無意味だった。

何が後ろから見下ろしているのかと
みるのは怖かった。
4メートル近くあるように感じた。
その瞬間だった。
耳の中である名前が聞こえてきた。
「イエス・キリスト」
それを聞いたとたん一筋の希望が見えた。

もしかしたら、こんなに反抗した道を
歩んできた私を救って下さるのでは?
家族や他の人を傷つけてきたのに、私を救ってくださるのか?

使徒行伝2章の21節では
私達に約束が与えられている。
「その時、主の名を呼び求める者は
みな救われるであろう」と。

そんなに簡単なのだろうか?
本当に可能なのだろうか?
本当に私の声を聞き届けてくださるのか?
その時、私はひざまづいて、
上を見上げ、思いっきり叫んだ。
「イエス様、助けてください!
主よ、助けてください!」



どれくらい泣いたかは覚えていない。
頬に涙が伝った。
後ろの気配はまだ消えず、ただひたすら
イエス・キリストの名前を呼んだ。

永遠のように長く感じた時間が過ぎ去ったあと
誰かもうひとり部屋に入ってくる気配がした。
そして入ってきた人は、私の後ろにいた
巨大な悪霊のような人をつかんで、
部屋からぶっ飛ばした。
それは見えなかったが、
でも見えるかのように感じた。

私は涙でぐしょぐしょで、ずっと主に向かって呼んだ。
その時から、主は私の個人的な救い主だと知った。
その時から、主は力強い救い主だと私は知った。

2007年8月、離婚の5年後、南フロリダの静かな浜辺で
妻サラと私は聖なる結婚の契約を結びなおした。


2008年にイザヤ・ミニストリー誕生。
我が家は信仰によって、
「主がどんなに大きなことをしてくださったか。またどんなに
あわれんでくださったか、それを知らせなさい」(マルコ5:19)
というキリストの訓戒に従った。 



むろん、この最後の部分をどう受け止めるかはその人次第であろう。筆者は、ウィルソンを殺そうと迫って来たのは、悪魔的な起源を持つ死の力であったとみなす。それが「道」の正体である。永遠の循環を示す蛇の輪は、人間を死と呪いから決して逃がすまいという悪魔の決意を示している。だが、キリストは死を打ち破った方であり、信じる者をそこから解放する力を持っている。

ウィルソンの中で真理が勝った。徹底的に物事を見極めようとしていた彼の性格、知らされた真理から目を背けなかったことが幸いして、彼は信仰を取り戻したのである。他方、彼の師匠たちのような人々は、武術の起源がキリスト教にないことを知りながら、武術が与えてくれる力、栄誉に魅了されて、これを手放さず、うわべだけはキリスト教徒を演じながら、他の神々に仕え続けたものと思われる。

映画"MISHIMA"や、『龍の正体』は、どちらも東洋的な文化の中からは、決して提起できなかったであろう鋭い問題提起を行ている。

『龍の正体』では、「気」を通して「道」(永遠)との合一を目指す思想が、悪魔的な思想であり、「道」とは死そのものであること、また、「気」を引き出す訓練は、人間のトラウマ、利己主義、敵意、憎悪、怨念、憎しみ、欲望などの肉の思いを通して生まれて来るものであることを見て来た。

東洋思想の「道」とは、死に脅かされる被害者としての人類が、自力で永遠性を身に着けて、死を克服して、神のようになろうと、自分を脅かす者に闘いを挑む道である。だが、武術が敵としているのは、悪魔ではなく、聖書の神である。武術は、人類による単なる自己防御の手段ではなく、人類に死の判決を下した神ご自身に対する、悪魔と暗闇の軍勢による反逆の闘いの一部なのである。

十二神将の像に見られるすまじい形相には、自分に永遠の滅びの判決を下した神に対する悪魔の敵意、憎しみ、憤り、怨念、攻撃性が反映していると言えよう。それゆえ、その「道」を行く者は誰でもやがては悪魔と一体化して、鬼と化すのである。

だが、今や、映画の冒頭の警告にあるように、東洋神秘主義の教えは、キリスト教文化圏にも入り込み、それが欧米を経由して東洋に逆輸入されるようになって来ている。ペンテコステ・カリスマ運動も、東洋神秘主義がキリスト教と混合した上で、それが我が国に逆輸入されて入って来たものである。そのことは、ペンテコステ運動が、武術が誇るのと同じような魔術的な超自然的な力を通して神に近づくことを目指している様子からも分かる。そのペンテコステ運動の只中から、カルト被害者救済活動が生まれて来たことは、偶然ではない。

悪霊は、人間の傷やトラウマを足がかりにして、そこから内に侵入し、怨念や憎しみをパワーに変えて活動する。加害者意識と被害者意識はどちらも、悪霊の働く通路であり、人はこれを神に委ね、癒しを求めて祈る必要がある。

ダビデは祈った。

「神よ、わたしを究め
わたしの心を知ってください。
わたしを試し、悩みを知ってください。
御覧ください
わたしの内に迷いの道があるかどうかを。
どうか、わたしをとこしえの道に導いてください。」(詩編139:23-24)

ここで「迷いの道」と訳されている部分は、別の訳では、「傷ついた道」、「悪しき道」となっている。人が心傷つき、トラウマを心に抱えれば、無意識のうちに、そこから他人にも自分と同じ苦しみを味わわせることで報復を果たそうとする終わりなき罪の連鎖が生まれる。

だが、人は自分で自分の心を見極めることはできない。人の心を深みまで探って下さり、病んだ部分を探し出して、それを癒し、「とこしえの道」へと人を導いて下さる方は、神だけである。そして、その方に従うためには、人は自分を捨てねばならない。自力で武装して、自力で弱さを克服し、自衛することをやめ、弱さのゆえに十字架につけられたキリストと一つとなって、その死に神のよみがえりの命の力が働くことを信じねばならないのである。

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肉のものと霊とのものを区別する必要性~キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険⑤~

さて、武術がどのように悪魔的な起源を持つものであるかを知るために、『龍の正体』の解説に戻ろう。ウィルソンはその後、大学に通いつつ、ビルマ拳法の学校に通うようになり、そこで5年間の月日をかけて黒帯を取り、キックボクシングの大会に出場して勝利をおさめる。その成功体験が、彼の虚栄心とプライドをさらに建て上げることになる。
 

「クリーブランドの町にいた頃、
いくつかの武術学校に通った。
最初に通った武術学校は
一心流空手道だった。
大学に通いつつ、二年半訓練を受けた。
それからある武術のクラスが
YMCAで行われていると耳にした。<略>

そこで習ったのがバンドー空手だった。
ビルマの国から来たものだ。
中国や日本、沖縄の武術の影響が強く
色んなものがごちゃまぜになった武術だった。
フルコンタクトが基本でボクシング
徒手格闘、五形拳もあった。
カンフーと少し違った動物が出てきたが、
似ていたのですぐに慣れた。

五年間の訓練でやっと黒帯が貰えた。

その直後、全国キックボクシング大会に
出場することになった。
こんな大きな大会に出たのは初めてで
ものすごく緊張した。
あんな大勢の前で戦ったことが無かった。
スポットライトが当たり、本当に緊張した。
リングに上がった時、大勢の観客を見渡し、
ラウンドガールが水着姿で番号を持って歩くのを見て
これは現実か?と思った。
とにかくリングの反対側の相手を見た。
そして、彼と目が合った瞬間、周りのすべてが消えた。
もう誰も見えず、何も聞こえず、観客は姿を消し、
ただ目の前にある闘いだけが重要だった。

振り返れば、あの闘いはすごく自分を変えた。
試合後、自分と自分の武術チーム仲間について
書かれた新聞記事が出ていた。
非常に優れた成績を獲得したと書いてあった。
自分の中のプライドがまた少し膨らんだ。


ウィルソンは、ある意味で、パウロがそうだったように、何事も徹底的に追求して熱心に極めようとするタイプだったらしく、一つの成功体験だけで満足することなく、自分にはまだ足りないものがあると感じ、なんと最初に学んでいた武術学校へ戻って、緑帯からやり直そうとする。
 

「ビルマ拳法で黒帯を取ってから
師匠たちは他の生徒たちを指導するよう勧めてきた。
だが何か足りないものを感じていた。
まだ獲得していないものがあったからだ。

すぐに私は最初に通っていた武術学校に戻ることにした。
最初に始めたところで自分の能力を試してみたかった。
だがその選択が暗闇への道に導くことになるとは
少しも気づかなかった。

武術学校史上四人目の黒帯獲得者に
出会ったのはこの頃だった。
その儀式は今まで見たことが無いようなもので
畏敬の念を起こさせるようなものだった。

最初の学校に戻って、緑帯からまたやり直し。
六ヶ月のうちに優等緑帯になり、
一年半後には茶帯になった。
師匠は私が黒帯になって教えるようになりたい
と思っていることを知っていた。

その頃に、優等茶帯が黒帯になる儀式が行われた。
ろうそくが並べられ、かなり本格的なものだった。
茶帯の人が黒帯を受けとるところで
師匠の目が私を見つめていたのを覚えている。
自分もいつかこの日が来る。
この学校で黒帯を取る日が来ると悟った。」



最初に通った武術学校で、ウィルソンは、人体の限界を超えた魔法のような驚異的な技を使うためには、「気」というものを引き出す秘訣を学ばねばならないことを知らされる。彼がはっきりと「暗闇への道」に引き込まれて行くのは、彼が「気」を汲み出す訓練を始めてからのことであった。

すでに述べたように、「気」というものの存在は、科学的には全く立証されていない。これは中国の伝統的な思想に由来する、非科学的な、純粋に東洋的な概念である。

中国の伝統的な思想では、「気」とは天地万物を構成する見えない根源的なエネルギーであるとみなされており、すべての物質に「気」が宿っているため、人が自らの体内にある「気」を汲み出し、養うことで、体の状態を変容させる修行法(=内丹術)が歴史を通じて編み出されて来たのである。

今や「気」という概念は世界中に広まり、欧米諸国においても、ヨガや瞑想、あらゆるトレーニングの宣伝広告に使われており、あたかも人間が簡単に「気」を高めることで体の調子を良好にし、人生を好転できるかのように謳われている。

だが、多くの人々は、そのその源流となる思想が、東洋神秘主義にあることや、「気」を引き出すために通らなければならないとされる激しい苦痛に満ちた修行のことを知らない。

ウィルソンが通っていた武術学校は、キリスト教文化圏の学校であるから、その師匠は、「気」が東洋思想に由来する異教的概念であることは明かさず、それはただ「神が人間に植えつけた内なる力」であると説明していた。

「気」こそ、圧倒的で驚異的な技を生み出すエネルギーの源であることに気づいたウィルソンは、自分もその力が欲しいと願う。だが、「気」を技に適用する方法を学ぶことは、黒帯のような選ばれた者だけに許された訓練であり、その訓練は、閉じた扉の向こうで行われる、武術の奥義の世界を意味していた。
 

「1999年私はこの学校で黒帯を取る五人目となった。
30年間での五人目だった。
14年もの特訓を経ての取得だった。
一番激しい内家拳(太極拳・形意拳・八卦掌など)の特訓は
閉じた扉の奥の上級クラスの中で行われた。

その特訓で私たちが教わった思想に
「気」というものがあった。
今日ではテレビなどで
良く使われる言葉だ。
歯医者の待合室にある健康雑誌にすら載っている。
しかし80年や90年代の頃は、誰にでも
通用する言葉ではなかった。

師匠が私たちに説明した「気」とは
神が人間の中に植えつけたもの、内なる力である。
それを自分の中から引き出して
技と一緒に使う必要があるのだと。
サンドバッグを蹴るにしても、
二百回腕立て伏せするにしても、
その「気」を内側から引き出して
一緒に使わなければいけない。

そしてこれこそ必要不可欠な力であり、
茶帯や上級茶帯や黒帯が成す驚異的な技は
すべてこの力に基づいている。

現代の映画やハリウッドや
ドキュメンタリー番組などで見かける
200キロの氷を一撃で打ち砕く技
鉛筆二本折るような話ではなくて
本格的なすごい力。

こういった技はどうしたらできるのかと
上級緑帯の頃に師匠に聞いたことがある。
こういう訓練は黒帯限定だと返された。
そういう訓練のための準備については教えられるが
「気」を汲み出す方法を学ぶのは
黒帯になってからの話だと言われた。」


 
ウィルソンは緑帯の時に、まずは「気」を汲み出す方法を学ぶ訓練を始めるように言われる。だが、その訓練は痛みの連続だった。生徒同士が、渾身の力で平手打ちを加え合う、板で腹を打つ、といった暴力的な訓練を通じて、激しい痛み苦しみが加えられ、それによって引き出される憎悪、敵意、攻撃性の只中から、「気」が引き出されるというのであった。

 


緑帯の頃、この「気」を出す準備訓練

というものは痛みの特訓だった。
この訓練をする数週間前から師匠は私たちに
これから始めることを少しずつ話した。

まず最初に自分と同等の実力の相手を選び、
そしてお互いに平手で顔を打ちあった。
私が相手を引っ叩いたら、交代で向こうも私を引っ叩いた。
最初は普通に叩くのだが、だんだんと一発ごとに強く叩く。
相手が私を強くたたけば、私はそれ以上にもっと強く叩く。<略>

緑帯たちはお互いに緊張していて
控えめに打ち合っていた。
だが茶帯の方は本格的に平手で叩きあっていた。
サメのようにお互いの攻撃性で刺激を増していた。
顔が終わったら、腕、そして足にうつった。

そのうち約3センチの太さの板を持ち出してきた。
この板は頑丈なオークやヒッコリーの木で出来ていた。
そして体を引き締めて、相手に板で腹の方を打たせる。
そして打たれる際に思いっきり息を吐き出す。

師匠は私たちにこれが内なる力を
引き出す第一歩なのだと説明した。

あの夜あったことは、今となれば
あの頃よりも理解できると思う。
特訓が終わったあと、師匠が私たちにその夜は格闘を禁じた。
いつも特訓が終わった後は、互いに格闘をし、
訓練するのが上級クラスの特徴だった。
数年後、師匠にどうしてかを尋ねてみた。
「あまりにもテンションが上がりすぎてお互いを傷つけてしまう。
あの状態だとお互いに手加減はしないだろう」
彼の言葉は私の頭に残った。」 


 
「気」を引き出す訓練の最中には、生徒たちがあまりにも激しい痛みを互いに加え合い、敵意が高まったために、そのまま格闘に入れば、相手を死に至らせてしまう可能性があることを師匠は理解しており、格闘を禁じた。

一体、これほどまでの憎悪、殺意、攻撃性を通じてでなければ、養えない「気」とは何なのだろうか?
 
そこで、「気」を汲み出すことで、人体を変容することを目指す内丹術が、一体、どのような経緯で生まれたのかを見てみたい。これは調べてみると、老荘思想、神仙思想、禅宗、儒家の思想など、数々の思想を合体して出来た思想・修行法であることが分かる。

特に、注目されるのは、これが神仙思想の流れを汲んでいることである。神仙思想では、不老不死の神仙(仙人)が実在するとみなして、人間は生を養い(養生術)、丹(または金丹)という薬を作り服用する(錬丹術)などの修行を行うことで、神仙となり、不老不死(永遠性)を手に入れられるなどとしていた。

この神仙思想がやがて道教に取り入れられて、煉丹術となり、そこでは金などを液体として服用する「外丹」と、体内で気を養う「内丹」の二つの方法が編み出され、金属などを摂取する方法は人体に有害であったため、次第に廃れて行き、不老不死の素となる要素を体内に求める内丹術の方が後まで残った見られる。とはいえ、外丹術は中国の医薬学の発展を促し、火薬の発明の基礎になるなどしている。

このような経緯を見ると、内丹術が「気」を汲み出し、練ることで何を最終的に目指しているのかが見えて来る。この思想では、万物が生まれる前の「混沌とした状態」を「道」と呼び、この「道」こそが物質世界の真の根源であり、「道」が目に見える物質を生み出す際のエネルギーが見えない「気」だとみなす。

内丹術は、人間も「気」によって生み出され、構成されているため、人がいたずらな「気」の消耗を防ぎ、自らの体内で「気」を集め、これを練り、「内丹」という霊薬を生み出す方法を学べば、損なわれた人間の生命エネルギーが回復されて、生み出された当時の人間の自然なありようが回復され、最終的には「道」との一体化が成し遂げられるとする。

だが、端的に構造だけを見つめれば、この思想に表れているのも、やはり、グノーシス主義と同じ「原初回帰」の願望であり、時間軸を逆にすることで、人間が、創造される前の状態に自力で回帰することで、神と一体化し、永遠の命に到達しようという欲望であることが分かる。

つまり、この思想が目指しているのは、 ただ「気」を集めてこれを「内丹」として再生させることで、人体の生命力を回復しようという単なる健康法のレベルの達成ではなく、それをはるかに超えて、人間が自ら「気」を養う修行を通して「本来の自己」に立ち戻り、「道との合一に至る」ことによって、永遠性を身に着けることなのである。
 

内丹術の修煉とは、本来純粋な気を宿して生まれ、生から死への過程で欲望などで損耗しつつある人体の気を「内丹」として再生させ、気としての自己の身心を生成論的過程の逆行、存在論的根源への復帰のコースにのせ、利己たる存在を超えて本来の自己に立ち戻り、天地と同様の永遠性から、ついには道との合一に至るという実践技法である。(Wikipedia 「内丹術」より)



ここで「道」と呼ばれているものは、「神秘なる母性」「虚無の深淵」「空=無」「永遠の循環(輪)」に置き換えることができよう。そう考えれば、そのままグノーシス主義の思想が成立する。結局のところ、内丹術が目指している究極的な目的は、人間が生まれながらの自己のままで、「神」(道)と合一し、永遠存在となることなのである。

中心概念の「道」は、宇宙と人生の根源的な不滅の真理を指し、道家と儒家で説かれる概念である。『老子』は第一章と第二十五章で、世界の根源である混沌を「道」と呼び、道は天地万物の一切を生みだす霊妙な働きがあるとする。それは「無為自然」で、おのずからそうなるという自然の働きそのものである。第十四章で、道は姿や形はなく目で視ることも聴くこともできないとされる。<略>『荘子』は「知北遊篇」の東郭子で、真実在としての「道」はこの眼前の世界を離れて在るのではなく、万物は道を含み「万物は道のあらわれ」であると説き、道はこの現実世界にこそ在ると示す。「齊物論篇」は、人為による二元的判断を捨て去ってありのままの真実を観れば、人間を含む一切の万物は齊(ひと)しく同じであると「万物齊同」を説き、道は通じて一と為すと「万物の一体」を言う。<略>

『老子』第二十五章は「大なれば曰(ここ)に逝き、逝けば曰に遠く、遠ければ曰に反(かえ)る」と万物の循環を説き、『易経』は万物を陰陽魚太極図に示される、陰陽の消長する運動体であるとする。仙学では、宇宙の万物にはすべて生成があれば必ず死滅の終わりがあり、一切が止むことがない生死消長の変化の過程とされ、虚無だけが唯一永久不変不滅のものである。虚の中に物はなく、質も象もないから天地が崩壊しても虚空だけは生死を超越し、崩壊することがない。虚無は「道」である。
Wikipedia 「内丹術」より)


 このような概念は、まさに神と人とが本来的に同一であるとするサタンの偽りの「道」である。聖書において、イエスはわたしが道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)と言われたように、聖書におけるイエス・キリストという「道」は、不可逆的な一方通行の道である。人間は堕落した存在である自己に、キリストへの信仰によって一度限り永遠に死んで、彼のよみがえりの命にあずかり、新たな自己として父なる神のもとへ召されるのであって、このプロセスを逆行する者は、自分を救いから切り離すことになるだけであり、呪われた存在である。

しかし、東洋思想における「道」は、直線的な概念ではなく、曲線を描いて円(輪)となる。東洋思想の「道」、すなわち、世界の根源である混沌には、形はないとされるが、もしそれをあえて象徴として表すならば、永遠の循環としてのウロボロスの輪と同じものになるだろう。なぜなら、創造された当初の状態に人間が自力で回帰することにより、人が「神」(=混沌)と一体化して永遠の存在になれるとする教えは、時間軸を完全に無視してこれを逆行するものであり、永遠の堂々巡りとして、円を描くからである。このように、サタンの「道」は、直線ではなく、原初回帰の無限ループとしての「輪」なのである。

よって、これはグノーシス主義と同じように、物質世界に存在する人間が、キリストへの信仰を持つことなく、本来的に神と同一の性質を持つとみなす反聖書的な悪魔的思想である。世間一般で宣伝されている「気を養うことで健康を回復する」とか、「運気を高める」などということは、いわば、この思想のほんの前半部分に過ぎない。「不老不死に到達する」「神のような永遠の存在になる」という隠れた後半部分こそこの思想の中核である。

ウィルソンは、「気」という概念の背景に、そのような反聖書的で悪魔的な思想が込められているとは気づかずに、訓練に励むが、後になって、彼は「気」を通じて人間を自己を強化する術の完成である「武士道」は、人間の内に憎しみと怨念をかきたて、人が生涯を戦いに投じる戦士となって神に反逆する道であると結論づける。
 

 

「武術では色んな拳法に分かれていて、

ある拳法では内家拳と外家拳というものがある。
外家拳は肉体を鍛えることに集中するが、
内家拳は内なる力「気」を引き出すことに集中する。

そしてすべての武術はその武士道という言葉に基づいている。
武士の道、武士の心、その道を行けば、
武士になる、いわゆる戦士になる。
しかし、エホバ、神の戦士ではなく、肉の戦士である。

「サタンは戦争を喜ぶ。なぜなら戦争は魂の最悪の激情をかきたて
悪と流血に染まった犠牲者たちを永遠に葬り去ってしまうからである。
なぜなら、そうすることによって人々の心を神の日に立つ備えの働きから
そらすことができるからである」
(各時代の大争闘下巻第36章351ページ)」
 
「その時から、武術とは闘いや自己防御だけに限らず、
武道、生き方の一つであると気づき始めた。
武道は武術の道で「道」がつくものは
すべて生き方を示す。合気道、空手道、柔道…。」


  

(映画”MISHIMA"から)



さて、アメリカ軍には、第二次世界大戦とその後の沖縄駐留などを通して、1950年頃から東洋世界の武術が積極的に取り入れられた。その後、60年代から米国にはヨガやヒッピー・ムーブメントを通して、東洋の文化が流行し出す。カンフー映画なども多数、作り出されて茶の間に流され、東洋神秘主義があたかも「文化」の一部のようになって行く。
 

「キリスト教の集まりの中でも、
多くのクリスチャンが質問をする。
自己防御の何が悪い?
国の軍隊はどうなのか?
法律を守らせる役目のある人はどうなのか?
よく質問されるのは「お巡りさんはどうなの?」
もし彼らが格闘の仕方を知らなければ国はどうなる?
軍隊で訓練したり、弱いものを守ることは、
武術で学ぶ事柄と明らかな違いがある。

アメリカの軍隊で武術を取り入れ始めたのは1950年頃である。<略>
1950年頃、第二次世界大戦後、
軍隊は武術を持ち帰ってきた。
多くの軍隊は戦争の頃、沖縄に配置され、
そこで武術というものを知った。
小柄な東洋人が不可能に思える技や
超人的な力と速さを持っているのを彼らは見た。
そこで、その技を持ち帰り、また東洋の師匠たちの
多くがアメリカに上陸してきた。
始めは日本人や沖縄人が柔道や柔術を教えていた。
そのうち60年代に東洋の文化が流行りだし
ヨガやヒッピー運動と繋がっていった。

こういった武術や神秘的思想、哲学が、
私たちの国に持ち込まれている間、
メディアはそれらを取り上げた。
武術に関する映画が出始めたのはその頃だった。<略>
こういうヒーロー達が次々と
私たちの家族や子供たちの脳裏に埋め込まれていった。
伝統的なキリスト教徒でさえ
今までオカルトと思っていたものに対して、
これは肉体的な運動?
我々がまだ発見していない人間の
エネルギーなのか?と思い始めている。
私にとってこれらの映画は魅力的であった。
私たちにも現実にできるものだったからだ。」


  
沖縄の空手道の師匠である船越義珍は、武術は勝ち負けではなく、人間の品性を養い、建て上げるものだと述べたそうだが、その言葉は、米国で武術の宣伝のために大いに利用された。しかし、ウィルソンは、武術が人に学ばせようとしている本当の品性は、表向きに宣伝されているような美しいものとは全く異なると言う。武術がどんな品性にかたどって人を形造ろうとしているのか、それは船越の書物を見れば分かると。
 

「現代の武術の基を据えた者がいた。
その名は船越義珍である。
彼は現代の空手の父と呼ばれている。
彼の引用が読んだ色んな本に書かれてあり、
道場の壁に良く貼ってあったりする。

両親が子供たちを連れて空手を習いに行く時、
船越の言葉が彼らの心を掴むのである。
船越はこのような言葉を語った。
「武術は勝ち負けではない…競争や敵を打ち負かすことではない。
参加者の品性を完全にするものである。」

その引用を見た親たちは思う。
すばらしい!こういうものを子供に与えたい。
品性を極めさせ、やる気を起こしたい。
自制や自信をつけて欲しい。

しかし殆どの親たちが知らず、師匠すらも
見せないのは、船越の本の表紙だ。
表紙の絵を見れば、どういう品性にかたどっていくのかに気づく。

戦う精神。
数年前、私はこの表紙の絵を見て、
これは何処から来たのだろうかと思った。
こんな怒りに満ちた怖い鬼のようなものを
理由なしに表紙にするはずがない。
調べてみるとそれは
十二支の守り神の一人であった。

この絵がパンチや蹴り、闘いなどの
芸術のたしなみを通して見える真の姿であった。
武術とは武の芸術である。
果たしてこういう品性を自分と自分の子供たちに
受け継いでほしいものであろうか?」

 


船越の本の表紙にあるグロテスクな絵は、武術が形造ろうとしている人間の本当の姿をよく物語っている。怒り、憎しみ、怨念に満ちた鬼のような人間の顔。しかも、その姿はもはや人間の姿からもほど遠く、鬼というより、妖怪のようである。

これは調べて行くと、十二神将、十二夜叉大将などと呼ばれ、大乗仏教で悟りを得た仏の一人とされる「薬師如来」を護衛する「神々」であるとされている。しかし、夜叉(悪鬼)という言葉からも分かるように、これはもとはインドの古代宗教で悪鬼とされていた存在が、仏教に取り入れられたものである。

私たちは、多くの寺院で、知らず知らずのうちに次のような恐ろしい形相をした、甲冑をつけた武将の像が飾られているのを至る所で見て来たはずだ。



   
 


左から順に、新薬師十二神将毘羯羅、奈良興福寺十二神将像波夷羅)、新薬師寺十二神将像、(伐折羅)、浄瑠璃寺伝来・十二神将立像『辰神』、大興寺木造十二神将(巳神将)新薬師寺十二神将伐折羅(CG)(写真の掲載元はリンクで示しています。)


 一体、なぜ悪鬼とされていた存在が、仏教に取り込まれて守り神とされたのか。そのいきさつは明らかではないが、そこには、般若の面と同じ原則が働いていると思われてならない。

つまり、般若(悟り)にはもともと二つの面があり、表向きの顔は、すべての戦いが終わり、涅槃の安らぎに到達した平安な顔であり、裏の顔は、怨念と憎しみに満ちた般若の面である。それと同じように、薬師如来という、悟りに達し、現世で人類にあらゆる幸福を願う幸福の象徴のような「仏」と、永遠に戦いを終えることのない悪鬼の武将たちとは、表裏一体なのである。

一般には、薬師如来とは、「約壺を持つ仏」として、医薬を司る「仏」とみなされ、現世において病気や厄災に苦しむ衆生の治癒を祈願し、安楽を与える現世利益の象徴である。薬師如来と、錬丹術との間には、直接的な関連は見いだせないが、薬師如来への「信仰」の根底にも、深い文脈では、人間が不老不死に自力で辿り着こうとした錬丹術と同じ欲望が流れていることは明らかである。
 
薬師如来は十二の祈願を捧げたというが、その内容を見て行くと、まさに人間のすべての欲望を叶えるユートピアである。そこには、男女同権の基礎のようなことまでも含まれているから驚きで、共産主義思想が生まれるよりもはるかに前に、すでに共産主義のような特徴を備えていたのである。
 

  1. 全ての人を仏にする。(=光明普照)
  2. 全ての人を明るく照らし、善行できるようにする。(=随意成弁)
  3. 全ての人が悟りを得るために必要なものを手に入れられるようにする。(=施無尽物)
  4. 全ての人を大乗仏教の教えに導く。(=安立大乗)
  5. 全ての人に戒律を守れるように援ける。(=具戒清浄)
  6. 全ての人の生まれつきの身体上の障害や苦痛、病気を無くす。(=諸根具足)
  7. 全ての人の病を除き窮乏から救う。(=除病安楽)
  8. 女であることによって起こる修行上の不利な点を取り除く。(=転女得仏)
  9. 全ての精神的な苦痛や煩悩から解かれるように援ける。(=安立正見)
  10. 国法による災いなどの災難や苦痛から解放する。(=苦悩解脱)
  11. 全ての人が飢えや渇きに苦しむことがないようにする。(=飽食安楽)
  12. 全ての人に衣服を与え、寒さや困窮から救済する。(=美衣満)

十二の大願の意味(十二の大願とは) から



だが、大乗仏教は、一方ではこのように人間が現世において悟りに達し、すべての苦しみや欠乏から解かれ、自己存在を永遠にまで高められるかのように説きながら、そこへ至るために、人が通らなければならないもう一つの苦しみの道として、十二神将の恐ろしい姿を突きつける。つまり、人類が地上を幸福の楽園に変えて、現世と彼岸とが一体化したユートピアに至るためには、このように憎しみと怨念に満ちた悪鬼たちによる激しい自己防衛の死闘の道を通らねばならず、彼岸の理想は、悪魔の庇護のもとにしか成立しないことを暗示しているのである。
 
さて、ウィルソンは知らず知らずの間に、武術を通して、このような邪悪な東洋的世界観の中に取り込まれて行くことになる。
 

「黒帯(中国ではブラック・サッシュ)
あるいはカンフーの第一夜明けの獲得に近づいていた頃
私は一番最強の競争相手と闘っていた。
彼は私と同じ上級茶帯であった。
上級茶帯から黒帯になるまで二年半掛かった。
私と競争相手は毎週闘った。
彼は私より50キロ重かった。
彼との闘いによって、どんな困難でも
乗り越えるという自信はお互いについた。

ある夕方、師匠が格闘中の私たちの間に入り、
私の目を見つめて、もう良いだろうと言った。
そして私を引き寄せ、五月はどうだ?と日にちを言ってきた。
私はその意味をすぐに悟り、彼は私に微笑んだ。

その日が来た時、妻と子供たちを連れて私は学校まで運転した。
そこには卒業生、上級ランク、茶帯、上級茶帯、緑帯などが
参加するのが長年の伝統だった。

車から降りると師匠、師父は上級ランクの人たちに
私の妻子を学校に案内させた。
そして彼は私を学校の外にある別の部屋へ連れて行き、座らせて
エリック、話したいことがある。今は理解できなくても
いつか理解できるだろう
今から始まることは昇進する儀式
というよりも結婚式に近い
そして彼は部屋から出て、私を一人で考える時間を与えた。



ウィルソンはこの頃はまだ武術とキリスト教の信仰は両立するものだと考えていたため、自分の晴れの昇進の儀式を妻子に祝ってもらおうと、ためらいなく妻や子供たちを学校へ連れて行った。しかし、師匠は、この時からすでに分かっていた、もしも彼が武術の道を究めようとするならば、必ず、途中で妻子を捨てねばならなくなることを。

師匠がウィルソンに黒帯を取る儀式が「結婚式」と同じであると述べたのは、それによって、ウィルソンが新たな存在と「結婚」することを示唆していた。一体、誰との結婚なのか? 師匠を導いているのと同じ霊との結婚である。つまり、キリストに属さない、キリストの霊とは異なる霊的姦淫の霊としての東洋思想の霊との結婚である。その儀式が持つ邪悪な意味を師匠は知っていたが、ウィルソンは理解していなかった。
 

「儀式の準備が出来た一時間後に私は学校に戻ってきた。
歩く道にはろうそくが備えてあった。
先に師匠が歩いて来て、上級ランク、
茶帯、上級茶帯、緑帯と続き、
茶帯がろうそくを持ち歩いて、
それを一人ずつ置いていった。
まるで炎の道を作るように。
私が最後に来て、ろうそくの道を通って行って前に座った。

学校には何百人もの人がいた。
師匠と一緒い前に座ると、
彼は足を組んで私の前に座った。
そして師匠はスピーチを始めた。
私の今までの業績と克服した困難について。

彼が話している間、そばを見ると
きゅうすと二つのろうそくがあった。
彼はお茶を飲む前にそこのろうそくを
指で消しなさいと言った。
そのあとお茶を酌み交わした。
それで同じ器でお茶を飲んだ。
それは象徴的な行動で、
彼の教えは私の教えとなって、彼の命は私の命、
彼の霊は私の霊となって、私と彼は一つになったのである



クリスチャンはこれが「異なる霊との聖餐式」であることを理解できる。キリストへの信仰に立つ者は、霊においてキリストに花嫁として結ばれており、その信仰の中で、地上における自分の配偶者や家族を愛し、仕える。聖餐は、信じる者がキリストの体の一部とされて、彼の血によって清められ、主の死と一体となっていることを証するものである。この体と血潮にあずかっていればこそ、信者は、潮によって罪を清められ、死を超えて、彼のよみがえりの命にあずかり、信者も家族も、あらゆる呪い、災いから遠ざけられて、神の命の中に隠されている。キリストがすでに呪いとなって木にかかって下さったからである。パンとぶどう酒による聖餐式は、信者がキリストの体の一部であることを確認するものである。

「すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りを捧げてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(Ⅰコリント11:23-26)
 
 
だが、これとは異なる「別の聖餐式」が存在する。映画"MISHIMA"においても、三島由紀夫と盾の会のメンバーたちが、各自がそれぞれ自分の血を垂らした杯を共に飲み干す場面が登場する。
 

 



血を入れた杯を飲むことは、その血によって、飲んだ者同士が霊的に一つに結ばれる契約を意味する。それゆえ、彼らは肉親や愛する人々を捨てて、団結して最後の決戦としての自決へ赴いたのである。

ウィルソンが出席した儀式は、もう一つの聖餐を意味した。注がれたのはお茶であったが、それは混ぜ合わせた血、混ぜ合わせた霊を象徴していた。炎はおそらく地獄の炎の象徴であろう。キリストの霊ではない、異なる霊との聖餐にあずかれば、人はその霊と一つになる。その時、武術の先人たちにならって、彼も怨念、憎しみ、憤怒によってすべてを焼き尽くす地獄の炎の道に生きることが誓われたのである。ウィルソンは師匠と同じ霊にあずかり、キリストとの結合とは異なる霊との結合の中を歩むことになった。

以下の聖書の御言葉は、ただ単に娼婦との関係を避けるようにという警告ではない。そこには「キリストの霊とは異なる霊と交わることを避けなさい」という警告が含まれている。

「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。しかし、主に結びつく者は主と一つの霊となるのです。みだらな行いを避けなさい。

人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。知らないのですか、あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Ⅰコリント6:15-20)

ウィルソンが新たに「結婚」した霊は、キリストの霊とは異なる「高慢の霊」であり、ただちにウィルソンに人々に仕えることをやめさせて、彼に地上的な栄光を受けさせ、人前で自分を偉い人間と見せるよう促した。
 



「儀式の後、食事をし、生徒たちやその家族が

大勢集まっていた。
私は人を助けることを教育されていたので、
上級ランクや緑帯と連なって食事の給仕を手伝おうとした。

すると師匠が私の肩を叩いて引き寄せて、
「あなたはもう彼らと同じではない。
給仕を手伝うな。ここに来て座りなさい」

そこで私はテーブルに行き、黒帯の仲間と共に座り、
師匠も私の隣に座った。
「あなたが給仕されるのですよ」と彼は私に言った。
そこで緑帯達が次々に食事を持ってきた。

その時、何かこれはおかしいという
シグナルを神が送っていたような気がする。
これは神の言葉と相反する行動だからである。

マタイの福音書の20章にイエスは言っている。
「そこで、イエスは彼らを
呼び寄せて言われた、
『あなたがたの知っているとおり、
異邦人の支配者たちはその民を治め、
また偉い人たちは、その民の上に
権力をふるっている。
あなたがたの間では
そうであってはならない。
かえって、あなたがたの間で
偉くなりたいと思う者は
仕える人となり、
あなたがたの間でかしらになりたいと
思う者は僕とならねばならない。』」
(マタイ20:25-27)

考えが頭の中を廻った。私が仕える立場なのに
なぜ仕えられているのだろうか?

しかし、その時14年間育ててきたプライドが
仕えられる立場を気に入っていた。
注目を浴びるのも嫌いではなかった。」

  
黒帯を取るための「結婚」の儀式を境に、ウィルソンは武術にのめり込み、特に、魔術のような技を使えるようになるために「気」を引き出す修行に熱中することになる。その過程は、同時に、彼がどんどん家族から引き離されて行く過程でもあった。
 

「儀式の次の週、学校に戻り
いつもの個人授業を受けた。
もっと武術に進みたいと思い、
個人教授をすることにしていた。

その日、師匠は私に鋭い質問を投げかけた。
儀式の後、師匠と私との間の何かが変わった気がした。
今まで上目線だったのに、まるで生徒を師匠から
遠のかせていた壁が外されたみたいだった。
「エリック、黒帯をとった今
これから何をしたいのか?」
「あなたのもっている能力が欲しいです」
14年間師匠を見ていたが彼の成す技は魔法のようだった。
師匠は私にもう少しほかの武術に励むようにと勧めてくれた。<略>

師匠は「気」を引き出す訓練にのみ
集中することだと言った。
そこで私はどんな武術で訓練するにしても
これらの業がどう「気」と関連するか、
どうやってこの武術を使って
超人的な技をこなせるかを考えた。

少林寺の書き物には「師匠と弟子の絆は血よりも強い」
訓練のために週に五、六回通った。
そして安息日に教会に行くのは週に一日、
他の日は武術の特訓に励んでいた。
友人たちと出かける時もいつも武術関係だった
武術がすべての中心になっていた。
武術の中に深く入り込んでいけばいくほど
家族との関係から少しずつ引き離されていった

 

<続く>


肉のものと霊とのものを区別する必要性~キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険④~

さて、ここで少しだけ、映画『龍の正体』の解説を離れたい。ウィルソン青年が武術を身に着け、次第に自信とプライドを増し加え、キリスト教の信仰を離れて行く様子を見ながら、筆者は、カルト被害者救済活動を率いている村上密牧師のブログ内容を思い出さずにいられない。

カルト被害者救済活動が、当初は拉致監禁という方法を用いて、暴力的にカルト宗教から信者を奪還し、密室で説得工作を行い、強制的に彼らの信仰を打ち砕いていたことは、すでに述べた通りである。

最近では、このような方法で信者の心を無理やり入れ替えることはできない相談であることが常識となりつつある。拉致監禁などという暴力を用いた方法に非難が集まり、それが信教の自由、身体の自由の侵害を含む人権侵害であるとして、カルト宗教の側からも訴訟などが起こされているだけではない。

そのような暴力的な方法で人の心を変えようとする説得工作自体に、大きな問題があり、そのような方法で棄教を強制された人は、心に深い傷を負い、場合によっては、強い洗脳を短期間で一挙に解こうとすることで、人格が崩壊する恐れさえあるとされている。

筆者はこれまで、そのようにして強制的に脱会させられ、クリスチャンとなった人たちと幾度か接触したことがあるが、その際、彼らの内心が根本的に変化して、心底からのクリスチャンになったとは思えない何かの違和感を感じ続けて来た。

むろん、そうした脱会者らは、表面的には穏やかで、敬虔そうに見える。彼らは口では、脱会できて良かった、何某先生のおかげでカルトから足を洗うことができて、自分は本当に幸運であった、などと一様に感謝を述べるが、一旦、彼らの心の琴線に触れるような話をすれば、心の内側に隠されていた憤りと憎しみが噴出する。これらの人々は、本当に解決すべき問題と向き合わないまま、表面的な回心を経て、キリスト教に入信させられた上、自分の精神的支柱を打ち砕かれているため、あまりにも傷ついた自己を抱えており、デリケートな話になると、常に感情的な爆発に直面する恐れがある。

だが、カルトでの洗脳が終わったかと思うと、今度はカルト被害者救済活動によって、新たな洗脳を施され、自我をへし折られたまま、いつまで経っても本当の自分を取り戻すことができずに、力の強い指導者の言いなりになって生きねばならないことは、本当に哀れである。

筆者から見て、本当に注目せねばならない問題とは、この人々がカルトに入ったことが間違っていたという事実ではなく、むしろ、なぜ彼らが、カルトに逃避の場を求めずにいられなかったかという理由である。

人は自分に何も悩みがないのに、いきなりカルトに接近したりはしない。青年期にカルト宗教に接近する人たちのほとんどは、そのきっかけとなる何かの悩み苦しみ、人生や世界に対する疑問を抱えており、そうした悩みのきっかけとなるのは、ほとんどが家庭内問題ではないかと筆者は見ている。

人は幼少期から受けた教育の中に、何かしらカルト的な教えに心惹かれるような土壌がなければ、そのような宗教に抵抗感を覚えずに接近して行くことはなかなか少ない。つまり、常日頃から何かしら「カルトと似たような教育」を家庭で施されているために、抵抗感が薄められている場合が少なくないのである。

そこで、こうした人々が最も考えなければならない問題は、一体、自分が何の問題からの逃避を求めてカルトに接近したのか、という具体的な理由である。それは家庭内の問題であったかも知れないし、親の暴力や暴言、抑圧的な態度、あるいは両親の離婚、学校や職場のいじめであったりと、原因は様々であろう。

だが、いずれにせよ、彼らが、一体、自分は何から逃げるためにカルトへ走ったのか、自分の個人的な人生にスポットライトを当てて、その本当の原因に迫ってこれと向き合って問題解決しようとしない限り、ただカルトの教義の誤りだけを認めただけでは、彼らが心の深いところで抱えている問題は何ら解決しないままなのである。

そのような状況だと、彼らはキリスト教に改宗しても、以前から引きずり続けて来た問題をまた新たな宗教の中に持ち込み、さらなる厄介な問題を引き起こし、それに巻き込まれて行くことになるだけなのである。

そこで、カルト被害者救済活動が、なぜこうした人々がカルトへ走らざるを得なかったのかという本当の原因を考えてこれを解こうとするのではなく、ただ親たちの訴えだけに耳を傾け、子供たちが親に迷惑をかけて、人生を棒に振っているという理由で、子供たちの信仰を強制的に打ち砕いて、誤りを認めさせ、その逃避をやめさせようとして来たことは、非常にまずい悪質なやり方であったと言えよう。

もしもこれらの人々がカルトに助けを求めた最も深い理由が、家庭内問題にあった場合、ただ親たちの言い分だけを鵜呑みにする被害者救済活動では、子供たちがカルトへ走った真の原因を探り出して明るみに出すどころか、それをより深く隠ぺいし、見えにくくして、こじらせる結果にしかならないためである。

その危険性は、村上密自身の人生を見ても分かることだ。村上は、若い時分に統一教会に入信していたわけであるから、本当は、こうした問題点を理解していておかしくなかった。暴力的に信仰を打ち砕かれることが人の心にもたらす傷や、強い者が支配する理不尽な環境の家庭や学校や社会からの逃避の場を求めてカルトに走らざるを得ない者たちの心の痛みを理解していておかしくなかった。

にも関わらず、なぜ村上は、暴力的に他人の意志を打ち砕いてまで棄教させるという活動に関わり、これを「救済」ととらえていたのだろうか。それを考える上で興味深い材料が、村上のブログに記載されているので、今回、その問題について具体的に考えてみたい。

この問題を理解する鍵となるのは、村上と父との関係である。村上はブログにおいて幾度も、幾度も、子供時代に父から暴力を振るわれ、深刻な虐待を受けていたことを示唆する記述を行っている。ただし、村上自身は現在に至っても、これを虐待と認識しておらず、実はそのことこそ、村上の抱える最も深刻な問題なのである。
 
通常、牧師は回心前などに、学校で級友と流血沙汰の喧嘩をしたことがあったとしても、それは信仰を持つ前の神を知らなかった頃の行為であるから、愚かだったと思いこそすれ、そのような話は福音伝道のためにならないと思い、公に告白しないことであろう。

ところが、村上密は今になっても、自信ありげに、子供時代の殴り合いの喧嘩を武勇伝のごとく吹聴している。村上はいくつかの記事で、高校時代に他の生徒ににらまれた際、殴り返して撃退し、それに懲りた相手方の生徒が、自ら転校して行って勝利をおさめたという話を自慢げに繰り返している。

だが、この記述の中で、注目すべきは、そのような喧嘩の仕方を村上に教えたのが、彼の父であったことである。父が息子に喧嘩の仕方を教えていたので、高校時代には、村上はすでに相手を殴るだけでなく、蹴倒して蹴り回すなどの術をも身に着けていたのだという。

村上の父は、言葉で息子を諭すよりも、体で「教える」タイプの人間だったらしいが、そのように喧嘩の仕方を教わったことで、いじめっ子を撃退できたことが、村上の中では誤った「成功体験」となり、村上は牧師になった今でも、それを「父のけんかの教え」と呼んで(あえて「教え」という言葉を使っていることに注意したい)、「父の先見の明に感じ入った」などの賞賛の言葉を記している。未だに「父に忠実な息子」であることを誇りとし、その教えの中に悪しき思いが入り込んでいることに気づかないのである。
 

高校1年生の時のことである。Aが私の机でパンを食べ散らかした。私はごみをかき集めて、Aの机の上に置いた。Aは授業が始まってから、教師の目を盗んで、パンくずを私に投げてきた。授業が終わって教師が退室すると、ぬしゃ~(おまえは)と言い寄り、つかみ合い、殴りかかってきた。椅子や机がなぎ倒され、けんかの場所がべランダになった。私は父の言いつけを守ってきた。1発、2発は殴られてやれ。3発目は油断して殴ってくるのでカウンターで急所を殴り返せ。忠実に相手の鼻を拳骨で殴った。たちどころに鼻から血が流れだし、戦意を喪失した。私は蹴倒して、蹴りまわそうかと、父のけんかの教えを再現しようと思ったが、さずがに同級生たちが束になって止めにかかった。Aは翌日から高校に来なくなった。いつまでも来ないので心配していたら、転校していったとのことだった。高校生の時「わる」に絡まれたのはこの時一度だけだった。以後は争いのない高校生活を終えた。

それでも、私は二度高校をやめようと思った。一度はけんかの後、退学か停学かを受けるのではないかと思い、どうせなら自主退学をしようと覚悟していた。ところが、担任教師がこのことを知っても何も処分について口にしなかった。正当防衛が成立しているからである。ちょっと行き過ぎた正当防衛である。父の先見の明に感じ入った。<略>
拳骨で平和を 2018年 04月 25日 )


この記事の後半で、その当時に村上が禅に心惹かれていたと記述されていることも興味深く、やはり、東洋思想からの思想的な影響を感じさせる。筆者はDr.Lukeを初めて実際に見かけた際にも、どこかしら禅寺の僧侶を思わせるような人物だという印象を記事に記している。(筆者は実際に禅寺がどういうところであるかを知っているので、これは単なる印象批評ではない。)

村上は暴力事件については、さらに、なんと保育園時代から、年長者に兄を相手に、相当な手傷を負わせることで、兄から手を出されることがなくなり、不戦の関係が築かれたと自慢している。
 

私は兄とけんかした記憶がない。これは両親と兄から聞いた話である。私は保育園児の頃に兄とけんかをした。肥後刀の取り合いになって、貸して、貸さんのやり取りになった。兄は怒って、肥後刀を私に投げた。それが私の左目の目じりの端で眼球まで数ミリの骨の部分に当たった。瞬く間に左目は血だらけになり、ポタポタと血が流れ出した。私は近くにあった鎌を手にかけて上段に兄の頭に振り下ろした。兄は頭から血がだらだらと流れた。兄弟とも血まみれになった。急いで病院に連れて行かれたと聞いた。昨年、兄と何かを話しているとき、まだ、あの時の傷が目じりに残っているよと話すと、おる(私)もまだ頭に傷が残とっととたいと頭の傷を指した。互いに大笑いした。私たちは私たちのけんかがどのような結果になるかを経験した。その結果、私たちは互いを恐れ、暗黙のうちに不戦の関係を築いたのではないかと思う。口げんかさえ記憶にない。
血まみれのけんか   2018年 04月 25日)


幼児だから力が足りなかっただけで、もう少し成長していれば、殺人事件になっていてもおかしくなかった。このことから分かるのは、村上は、かっとなると、見境のない行動に出て、身内が相手であっても、とてつもない暴力性を発揮する可能性のある性格の持ち主だということである。

だが、なぜ幼児期から、村上はこのような衝動的な行動に出ていたのであろうか? おそらく、この兄弟喧嘩が発生したこと自体に、親の影響が相当にあったと思われる。村上の父がどのような人間であるかは、以下に挙げる記事からも分かるが、父の影響を受けて、すでにこのような幼児期から、村上は、自分の家庭では、「目には目を、力には力でやり返せ」といった、力の論理で生きるしか、身を守る術はないという考えを会得しており、口で説得したり、言葉を用いて相手をねじ伏せるよりも前に、まず手が先に出て、体でやり返し、本能的な自己防衛の思いから、相手に打撃を与え、痛い思いを味わわせることで、自分を守ろうとする方法論が身に着いていたと思われる。そして、そのような方法論を村上に体得させたのは、他ならぬ父だったのである。
 

子どもの頃、けんかして泣いて帰ると、父からげん骨を食らう。やり返してこい。何かで泣いていると、男が泣くもんじゃない。馬鹿たれ。なんば泣くか、とげん骨である。父の前では涙を見せられない。歯を食いしばって我慢するしかない。おかげで奥歯が擦り切れた。けんかに負けないように、教えてくれと言っていないのに、勝つ方法を教えてくれた。以来、けんかで負けたことはない。負けるかんか(ママ)はしない。父親の方が怖い。

高校の時である。クラスのワルがけんかを仕掛けてきた。二発殴らせてやった。向こうは安心して三発を打ってきた。それで相手の鼻をカウンターで打ち返した。鼻血を流して戦意喪失。クラスメートが間に入って止めた。相手は翌日から学校に来なくなった。転校したのだろう。以来、私はけんかをしなくなった。その代り、論争に負けないように努めた。こうやって、私の性格は父のげん骨で作られた。父の最高傑作品ではない。父の前で泣かないだけだから。クリスチャンになって、天の父の前ではよく涙を流すようになった。私は二人の父親を使い分け、次第に変わってきた。
ところが、自分が父親になって、子どもが泣いたり、めそめそしていると、なんば泣くか。男が泣くもんじゃない、と聞かなくなった父の言葉を今度は自分の子どもに言い、げん骨を食らわしている。父親の血は私の中に流れていたわけである。そのたぎる血も、頭を打つのは止めてください。手でおしりを叩くぐらいにしてくださいとの懇願に転向を余儀なくされた。そして父親と同じように子たちが中学生になる前には手をあげることを止めた。
父とげん骨 2017年 11月 19日)


 
これはまさに武術に励むことで、いじめっ子を撃退し、プライドを立て上げようとしたウィルソン少年の姿を彷彿とさせる。村上ははっきり述べている、「私の性格は父のげん骨で作られたと――。これは非常に恐ろしい告白である。彼はキリストの成分が自分を形作ったのだと言っておらず、父の暴力が自分の性格を形作ったと言うのである。

クリスチャンには、「二人の父親」はいてはならず、まして「二人の父親の使い分け」などあってはならない。だが、村上の告白は、クリスチャンになった後でも、村上の中には、キリストの教えと、もう一つ、それとは異なる肉の父親が教えた「力の論理」がずっと併存して息づいていたことを示している。

村上は少年時代に、たとえ子供のけんかであっても、負けて帰って来ることは恥であると父に責められ、自分で自分の身を守れと言われ、力の論理を体得させられた。すでに保育園時代から、村上は、自分の家庭では、力が弱いがゆえに喧嘩に負けても、誰からも同情などしてもらえず、相手が兄であっても、負けることは恥であり、涙を見せることは心の弱さの証拠でしかなく、馬鹿にされるだけだと学んでいたのではないかと思われる。

以上の喧嘩に関するすさまじい記述は、どれもこれも、村上が少年時代に、親から事実上の虐待を受けていたことをよく物語る。たとえば、子供同士の喧嘩で負けて帰って来た子供を、親が慰めず、子供の心配をするどころか、みっともないと叱りつけたり、「泣いてはならない」と命じたり、「喧嘩の仕方を教えてやる」という口実で、父が子供に取っ組み合いのわざをしかけるなどの行為は、れっきとした虐待である。さらにもっとひどい虐待の様子も、後述するように、村上の記事にはいくつも記されている。
 
親の庇護がなければ、子供はもともと生きていけない存在である。弱い子供に自分で自分の身を守れるはずがない。ところが、親が、子供の弱さをかばうどころか、子供自身が強くなって自衛するのが当然であり、それができないのは恥だと教え、弱い子供を突き放し、泣くことさえ禁じるのは、ただ親が子供への保護責任を放棄しているだけである。

だが、問題は、村上が未だに自分の親のこのような行動が、深刻な虐待であったという意識をまるで持っていないことである。それどころか、村上はキリスト者になっても未だに、そうした父の「教え」が、自分に役に立ったと考えて、それによって得られた「成功体験」を重んじ、継承しているのである。

級友に暴力を振るい、級友が学校に来なくなった時点で、村上は、自分の暴力が、イジメ問題に発展し、自分が学校で罰せられるかも知れないという自覚を持っていたと書いている。正当防衛を主張するには、明らかに分を超えてやり過ぎたのだ。しかも、相手が不登校になってしまえば、何が原因であれ、やはりそれはあるまじき結末だ。きちんと和解して両方が同じ教室で学べるように決着をつけるべきだったのだ。

ところが、学校側は無責任で、和解の努力もせず、村上は罰を受けることもなく、ただ喧嘩の相手となった生徒だけが転校するという重荷を負うことで、事件が済まされてしまった。そのことは、村上にとって悪しき「成功体験」となる。この時、村上の中では、大人たちの世界では、たとえどんな卑劣な方法を使おうと、どんなにやり過ぎようとも、とにかく力の勝負で勝ちさえすれば、それが勝利としてまかり通るのだ、従って、そのような方法で自分が身を守ったのは正しいことだったのだという認識がさらに強化されたと思われる。

それは、喧嘩に負けることを恥であると普段から教えて来た父親の言葉に、学校側も呼応して同じ見解を示したことを意味する。そこで示されたのは、世間は「力の論理」で成り立っている、何が正義であるとか、真実であるとか、何がほどほどの妥協点であるかなどは関係なく、「力の論理」で相手を打ち負かした者が、勝つのだという理屈であった。

こうして、村上はキリスト教に改宗した後も、暴力で弱い者を打ち負かすことを恥とせず、何事をも父から教わった「力の論理」によって解決しようとし、力によって身を守れた者が勝つのであって、それができなかった者は敗北するのが当然だという考え方を持ち続けることになる。そして、キリスト教とは根本的に相容れないこのもう一つの肉的な教えを、キリスト教と同時に使い分けて行くのである。

村上の「力の論理」は、村上自身が親となった際にも、自らの子供への体罰という形で受け継がれる。 

前にも書いたことだが、筆者は村上密の教会に実際に通い、村上の家族を実際に目撃しているが、一番最初に疑問に思ったのは、村上の妻が少しも幸せそうでない、ということであった。

牧師がワンマンでないか、本当に謙虚な人格を持ち、周囲のことを思いやっているかどうかをはかる最も良いバロメーターは、妻との協力がどれくらいうまくいっているか、牧師夫人が本当に生き生きして満たされて行動しているかに注目することである。牧師の行動はいくらでもごまかせるが、牧師夫人が幸せであるかどうかは、人の目にごまかすことができない。
 
村上自身は、筆者の前で、一度も怒鳴り散らしたり、不機嫌なところを見せたり、取り乱した態度を取ることはなかった。むしろ、常に温和で人好きのする態度を見せていたので、筆者は初めの頃、村上の人柄に全く不信感を持たなかった。だが、おかしなことに、まだ若く、幸せいっぱいの家族であるはずの村上ファミリーの様子が筆者にはどうにも変に感じられたのであった。子供たちは比較的、のびのびしているように見えた(弱さを見せることを禁じられていたので、そのように振る舞うようしつけられていたのかも知れない)。だが、夫人は、村上と接触する時でさえ、感情を押し殺したような表情で、伸び伸びした態度も、心の余裕もないことが分かった。
 
これは非常に奇妙なことであった。特に、被害者のケアに当たるという仕事を常日頃から夫婦でやっているのであれば、夫人の側には、夫の手が回らない部分まで、慈愛に満ちた思いやりある行き届いた態度が求められるのが通常であるが、そういうものからはほど遠い夫人の行動を見たあたりから、この家族は何かどこかが変なのではないかという気が筆者にははっきりとし始めたのである。

だが、以上の村上の記事などを読めば、なぜそのようなことになっていたのか、その理由もある程度は理解できよう。村上は、決して信徒らの目には触れない場所で、子供への折檻を行っていたと自ら告白しているのである。しかも、その折檻は、子供が何かあるまじきいたずらに手を染め、あるいは万引きしたり、非行に走ったりと、誰が考えても社会的に容認できない行動に走ったために加えられた体罰ではなく、ただ「子どもが泣いたり、めそめそしていると、なんば泣くか。男が泣くもんじゃない、と聞かなくなった父の言葉を今度は自分の子どもに言い、げん骨を食らわしている」と村上が書いている通り、ただ子供が気落ちして、心弱くなっているところを目撃しただけで、それを「罪」のようにみなして殴っていた、というのであるから驚きである。

その記事からも分かるのは、おそらく、村上は、かっとなれば、突然火がついたように自制心を失い、普段とはまるで違った形相になって、子供を思い切り打ち据えずにいられなかったのだろうということだ。決して人前で弱さを見せるなと、自分が幼少期から父に厳しく叩き込まれたために、子供たちが弱さを見せただけでも、許せない思いになり、見境なく手を出さずにいられなかったのである。
 
しかし、妻を含め、周りで見ていた者たちは、村上の血相を変えた尋常ならぬ様子に怯え、その体罰に命の危険をさえ感じていたのであろう。その記述は、幾度、やめて下さいと、妻も懇願したか分からない様子を伺わせる。だが、村上を止めることは誰にもできない相談であった。

こうしたことは、まさにこれまで書いて来た「般若の面」を思わせる出来事である。明らかに、村上には、表向きの、弱者に対して優しく親切そうな表情とは別の、牧師として第三者に接触している時には、決して見せることのない、もう一つの顔があった。彼は二つの面を使い分けており、隠れたもう一つの面が隠されていたのである。

その「鬼の面」は、カルト被害者に対して親切で、思いやり深く、彼らの心の傷や弱さに寄り添い、それに我が事のように共感を寄せる牧師という表向きの顔とは全く逆の、決して人が自分の弱さを打ち明けることも、そのために涙を流すことも許さず、力の勝負で「負けて帰って来る」こと自体を恥とみなし、負けて帰って来た者にはさらなる罰を加えてこれを恥として責め立てるような、残酷な般若の面だったのである。

その鬼の面は、村上自身にもコントロールできない「父親の血筋」であり、一旦感情に火がつくと、自分の生んだ子供たちという最も身近な愛する者たちにさえ、容赦なく手をあげ、向けられるような憎しみだったのである。

だが、村上は、自分の中にそのような「父親の血」が流れていることを、以上の記事でも、反省すべきあるまじき出来事としてはとらえていない。むしろ、子供が中学生になる前に手をあげることをやめたのだから、それでいいではないか、と言いたげだ。自分は親から教えられた通りのことを忠実にやっているだけで、それで自分も無事に生きて来たのだから、それはしつけであり、処世術であって、何が悪いと言いたげである。

自分の仕打ちが、子供たちの心の中で深い傷となり、それを見ている者にもはかりしれないショックとトラウマを与え、自分が育てた子供たちが、いずれ親になって、自分と同じことを繰り返すかも知れないということには、全く思いが至っていないのである。

さらに、もっと注目すべきは、村上が統一教会から脱会したいきさつである。

筆者はまだ幼い頃に、筆者が所属していた教会に、村上がやって来て、セミナーやら講演やらを開いていたことがあるのを覚えている。そのような集会の一つで、村上は直接、自分の口で、どうやって統一教会を脱会したのかといういきさつを語っていた。

一方では、村上は、統一教会の用事であったのか、それとも他の仕事であったのかは分からないが、トラックか何かを運転中に、「密、密、なぜ私を迫害するのか」というキリストの声を聞いて、滂沱の涙を流して自分の誤った信仰を悔い改めた、などと話していた。

あたかも、パウロのダマスコ途上の回心のような、劇的で自主的な回心があったような話しぶりであったが、この種の話はかなり眉唾物だと思わざるを得ない。

ところが、そのように話した舌の根も乾かないうちに、村上は、統一教会を脱会するに当たり、もう一つの決定的事件が起きたことを自ら告白していたのである。彼は会衆からの質問に答えて、「統一教会を脱会する際、父から半殺しの目に遭わされ、力づくで連れ戻された」と自分で語っていたのであった。

「半殺しの目に遭わされた――」、この非常に穏やかならぬ、牧師にふさわしくない言葉に、筆者は驚き、それが記憶にとどめられた。 今、村上のブログを開いてみると、やはりその言葉は、筆者の思い過ごしでもなく、誇張でもなく、まさしく事実であったことが分かる。村上は脱会のいきさつについて、次のように語っている。

統一教会の研修に参加するため家を出た。その後、家は大騒動。父と兄と叔父が、私が匿われている場所を捜し当てた。父が2階にいる私を見つけ出し、私が死んでも帰らないというので、父が殺して連れて帰ると言って、殴る、蹴る、引き回す。2階から髪の毛をつかんで引きずりおろし、車で連れ帰された。

11月に熊本で兄と母と一緒に食事をしているとき、先の話をしていると、兄が、そるわ~、おとっつあんじゃなか、おったい。用心棒がおっと思ったけん、木刀ば持って殴り込んだたい。わっが、死っでん帰らんていうけん、うちくらわし、けたぐっ、ぞびきまわし、連れち帰ったたい。兄から記憶違いを起こしていることに気づかされた。私の瞼に浮かぶ、手をあげる父は実は兄だったとは。驚きである。そして、兄が、おまえがにぐっといかんけん、3日間、ロープでしばって、座敷にとじこめとったたい。おまえは3日間、めしもくわんでおったたい。この辺の記憶はない。母がそぎゃんだったたい、と言ったので確かだろう。私は兄に、その節は大変お世話になりました、とその場でお礼を言った。その場で私たちは大笑いをした。

兄が、おまえはこまかっとき、おやじに梁からロープで吊るされ、竹ん棒でたたかれたこつば~あったたい。母が、あんたはなきもせんで、歯ばかみしめっ、引きつけばおこして気おとしゃせか~、しんぱいしたとたい。
これも記憶にない。記憶は作り変えられ、消されるものだと分かっているが、自分のことでわかって驚いている。

一部を熊本弁で書いた。迫力ある場面、追憶する話し方、このような話し方はどれもなじみの言葉である。「その場で私たちは大笑いした。」つらい事、悲しい事、大変なことも笑いでくるむ話し方は我が家の話し方である。
記憶は作られ 削られる 2017年 12月 12日)


ここでは、笑いごとではない話が、笑いごとのように済まされている。しかも、この記述は、本当のところは、どうだったのか分からないと思わせる。父と兄と叔父の三人が、村上を連れ戻すために、統一教会のアジトに殴り込んだのだ。そこで行われた乱闘において、誰が村上に手心を加えたのかは、今となっては誰にも分からない。それは兄だったのかも知れないし、父だったのかも知れないし、叔父だったのかも知れない。いずれにせよ、みなの連携プレーがあったのだ。みなが一体となって暴力を振るっていたことはほぼ間違いない。兄が後になって父をかばっているだけの可能性も高く、記憶違いをしているのが誰なのかすらももう分からない。

さらに、この話の中には、村上が小さい時から、父が彼をロープで縛って、梁から吊るし、竹刀のような棒で打ち据えていたなどのことも書かれている。しかも、子供は泣くことも許されなかった。幼い頃から、このようなすさまじい有様だったのだから、この父ならば、何でもやりかねないと思うのは当然である。

いずれにせよ、親族たちの暴力的な連携プレーで、村上青年がカルトから連れ戻されたのは確かであり、そこで誰がどれくらい村上に直接、手を下したのかなどは重要な問題ではない。とにかく村上青年は、父、兄、叔父の三人によって、殴る、蹴る、引き回す、髪の毛をつかんで階段を引きずりおろす、殺してでも連れ戻してやる、などの暴行と暴言を受け、無理やり拉致されて、車に詰め込まれ、その後、家では、逃げないようにロープで縛られた上、座敷に閉じ込められて、三日間、飲まず食わずだった、ということが分かるだけである。

全く恐ろしいほどの暴力沙汰の脱会劇である。しかも、これを身内がみなで一致協力してやったというのだから、恐ろしく、通常であれば、これほどのことをされてしまうと、身内に対する不信感から、完全に周囲に対して心を閉ざしてしまったとしても不思議ではない。村上の場合、そうならなかったのは、おそらく、普段からそのような暴力沙汰が、珍しいことでなかったためであると思われる。
 
こうして、「死んでも帰らない」と豪語していた村上青年の脱走劇は、あえなく暴力によって打ち砕かれて終わった。そもそもなぜ村上が統一教会に心惹かれ始めたのか、その動機はそれほど定かではなく、世界を滅びから救うとか、日本が罪の懺悔を果たすとか、統一教会が表向きに掲げているスローガンはいくらもあって、そのどれに心惹かれたのかも定かではない。

だが、村上自身の記述を読むにつけても、想像されることはただ一つ、そういった統一教会の唱えている表向きのスローガンへの傾倒とはまた別に、村上には、自分の家庭から何とかして逃げたい、もしくは、家庭で味わい続けて来た苦痛の意味を知りたい、という動機があって、その逃避の場を統一教会にしか求められないと考えて、カルトに走ったというのが真の動機ではないかということだ。

「死んでも帰らない」という穏やかならぬ村上青年の言葉が、家や、親に対する悲壮なまでの抵抗の決意を表しているように思われてならない。それがただ統一教会の洗脳だけの結果であったとは思えず、もっと深い動機から出たものであったと考えざるを得ないのである。とにかく、それが本人にとっても命がけの家庭からの逃走劇だったことを思わせる。

だが、不幸なことに、その命がけの試みさえも、中途で打ち砕かれて、再び、彼は以前と同じ牢獄に引き戻されてしまった。ロープで縛られ、身体の自由も奪われ、憔悴の果てに、飲まず食わずで時を過ごし、それによって、「どんな卑劣な手を使ってでも、最終的には、力の強い者が勝つのだ」という、村上家の暗黙の掟が、またもや彼に体で叩き込まれたのである。

肉の父親による暴力的な支配と、家に恥をもたらさないように行動をすることだけを第一とする価値観は、文鮮明の教えよりももっと強かった。肉の父に対する反抗は、どんなことをしても許されず、カルトに走り、父に逆らい、家の恥となる行動をしたことに対する罰は耐え難く重かった。

村上はこうして統一教会に逃げることで、何とか得ようとしていた家庭からの脱出口も失ってしまう。そして、そのまま、一体、自分がどんな問題に悩み、何からの解決を求めてカルトに走ったのか、という根本問題をさえ、自分で封印してしまった。もはや父親に対する抵抗はどんなものであれ、許されないものとなり、父が間違っているかもしれないなど、考えることもできないタブーとなった。
 
村上は実際には、幾度も、幾度も、弱い立場にある子供としての自分からのSOSを無言のうちに発していたのであろう。カルトに走ることも、親に対するSOSだったのだ。ところが、親からも親族からも、その言い分に耳を傾けてもらうことができず、ただ一方的に自分の心の弱さだけが「悪」であると決めつけられ、暴力的に発言の機会を奪われ、口を塞がれ、意志を打ち砕かれて従わされた。彼は、ウィンストン・スミスのように、絶対的な権力によって無理やり自分の意志を打ち砕かれたことにより、暴力事件によって深い心の傷を負ったと考えられる。

そのために、村上は、自分の子供たちが心の弱さを見せることさえ許せなくなり、キリスト教の牧師になった後も、カルト被害者救済活動という名目で、自分以外のカルト信者に対して、自分が受けたのと同様の暴力行為を行うことで、暴力の連鎖を生み始めたのである。つまり、他のカルトへ走った信者らに対しても、拉致監禁という方法で、自分がされたのと同じような暴力に走り、他の信者らの信仰を容赦なく打ち砕いて来たのである。それは信仰がなせるわざではなく、人の心の傷が生み出す連鎖であり、救済ではなく、トラウマの連鎖であった。

いかにカルトから脱会させることを目的に掲げていても、暴力を振りかざす親の理屈が間違っていることを心から理解せず、親から訣別を果たすことができないままであった村上は、傷ついた自分の心と向き合う機会が失われたまま、その傷を、今度は他人に植えつけ始めたのである。

村上の信仰は、いわば、強者の論理によって獲得されたものであると言えるだろう。彼は暴力的に自立の試みを妨げられたため、父を批判することが未だに出来ず、「それで人はその父と母を離れて・・・ 」(創世記2:24)というステップが未だに完了していないのである。しかも、ただ両親から離れられないでいるだけでなく、受け継いではならない「父親の血(肉による力の論理、暴力の連鎖)」に疑問も持たずにこれをそのまま継承してしまっているのである。

それゆえ、牧師であるにも関わらず、このような物騒な暴力事件の話を自慢げにブログに書いているわけだが、しかし、その心の中には、「とにかく勝ったのだから、あれで良かった」という思いと、「なぜ自分があんなことをされなければならなかったのか」という思いが無意識に交差しているように見える。

村上は気づいていないであろうが、彼が救おうとしているのは、カルト被害者ではなく、本当は、痛めつけられた自分自身なのである。弱く、言葉を発することもできず、立ち向かう力もなかったがゆえに、無視され、侮られ、踏みつけにされ、否定され、傷つけられ、それでも立ち上がるよう強制されて来た自分を救いたいという動機が、被害者への共感を生んでいるのである。

だが、彼は、それを父親が自分に教えたのと同じ理屈で成し遂げようとしていることろに誤りがある。すなわち、弱い被害者たちに「裁判」という力を付与し、自分の力で戦わせることによって、彼らに自衛の方法を教え、この世の力を帯びさせて勝利をおさめさせようとしているところに誤りがある。

村上は自浄作用の働かない教会では、被害者の訴えは浮かばれず、そんな教会は教会とは呼べず、「だまされ続けることを聖書の教えと思い込む愚か者の集まり」だと決めつける。

互いが和解できなければ、それは裁判に持っていくべきではなく、教会の中で正しく裁かれるべきである。それをしないで、世の裁判に訴えることは敗北であると言うのである。<略>パウロは教会の中に「兄弟の争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか。」(1コリント6:5)と語りかけている。赦しなさいは仲裁ではない。正しく判断をしないならば加害者への加担である。教会の中で正義と公平を持って裁く人がいないなら、教会は教会性を失ってしまうことになる。すなわち、もはや教会は教会ではなくなっているわけである。どんなに礼拝会や祈り会に出席者が多くても、賢い者のいない教会、正しい判断をすることにできない教会となる。不正が正されず、不正のはびこる教会、だまされ続けることを聖書の教えと思い込む愚か者の集まりとなる。
誤用される聖句 2018年 04月 19日) 


しかし、このようなものは本当の解決とは言えない。人間の世界で起きる真に残酷な「被害」は、決して人が口に出せるようなものではなく、裁判にも持ち出せるようなものでもない。世の中には、赤ん坊や、子供を含め、自分が受けた不当な仕打ちを、決して論理的に説明することもできず、それを代わりに訴えてくれる味方もいない人々が数多くいる。

村上は言う、教会が教会性を失わないためには(何を持って「教会性」と考えているのかは不明だが)、裁判によって、被害者を救済せねばならないと。外から力を行使して、教会を正さねばならないと。

しかし、そういう理屈だと、人が言葉にもできず、裁判にもできず、誰にも打ち明けられない問題は、どこへ消えて行くのであろうか? 誰に助けを求めることもできない環境に置かれ、訴えを出すこともできない人々の「被害」はどこへ行くのであろうか? 自ら立ち上がり、理屈を駆使して相手を言い負かし、裁判という力を行使して、それによって勝利をおさめて、初めて教会が「教会性」を取り戻すというなら、被害者が名乗り出ず、訴えもしないがゆえに、誰も気づかない不正はどこへ消えるのであろうか? それらは神の御前に悪事でさえなかったことになるのだろうか?
 
村上が述べていることは、どこまでも終わりなき「力の論理」であって、そこには、被害者といえども、ただ力を行使することに成功した者の訴えだけが、最終的に認められるという理屈しか存在せず、すべてのことを公平に裁かれる神が不在なのである。
 
このような考え方は、被害者の中にも、格差を生み出す。裁判で勝ったのか、どれくらいの賠償金を取り返せたのか、相手をどれくらい重い罪に問うことができたのか。どれくらい短い間で訴えを終わらせたか。効果的な裁判を行えたか。弁護士はいたのか。云々。

だが、私たちの聖書の神は、そういうお方ではない。我々の聖書の神は、乳飲み子、みどりご、やもめ、寄る辺ない者全ての庇護者であり、自分で声を上げることができないすべての弱い人々の味方であって、一人一人の思いを知っておられ、自ら立ち上がることのできない人々のために正義を行って下さるのである。

村上の論理の矛盾と破綻は、この世の力を行使しなければ、決して教会に是正はあり得ないと考えている点にある。それでは、教会の主人は人間ということになってしまい、教会は神の支配が及んでいる領域ではないと言っているも同然である。つまり、そこでは、正しい裁きを行う者は、常に人間でなくてはならず、神が裁きを行われるということを信じてもおらず、それに任せるつもりもいないのである。

だが、人間の行う裁きは、そもそも偏っていて、不公平であり、必ずしも正しいものとは限らない。現に、世間では、冤罪事件で有罪とされた人もおり、裁判という枠におさまらない悪しき事件は日々、膨大に起きている。裁判の判決さえ、しばしば公正でなく、まして、裁判に訴えることもできない人々の訴えはどうなるのか。

教会の問題を裁判所に持ち出し、そこで勝利を収められさえすれば、勝ったことになるという村上の理屈は、結局、自分の父がしたのと同じ方法で、弱者に自衛を求めているだけなのであり、弱い者に力の論理を身に着けさせ、それによって武装した者が勝つのだという教えなのである。

村上は、弱者が自分に従順で、自分の「教え」を忠実に学んでいるうちは、助けようとするであろうが、それは離脱を許さない残酷な支配であり、その優しさは本当のものではない。彼は決して自分が許した範囲外に、弱い者たちが出て行くことを許さない。

村上は、彼の活動に反対する一人や二人の人間だけに対して残酷なまでの非難を繰り広げているだけではない。村上の教団の配下から出て行こうとした牧師や信徒たちにも、同じように残忍な非難の刀を振りかざして、彼らを打ちのめそうと、彼らに落伍者の烙印を押し、離脱した教会を再び傘下に連れ戻すべく、裁判にまで及んで敗北している。

こうしたすべての行為は、村上が統一教会に走ることで、家から脱走することを決して許さず、彼の行為を「家の恥」とみなして断罪し、彼を辱めて滅多打ちにして、力づくで座敷牢に閉じ込めてまで、その意志を暴力的に打ち砕き、家庭に連れ戻した父親の行為の二の舞でしかない。

村上が被害者たちに言い募っているのは結局、こういうことである、「おまえら子供たちは家を守るために勇敢に戦いに出ていけ。そして勝って戻って来い。自分を傷つけた者を打ちのめし、そいつに勝利を果たして、我が家に栄光を携えて戻って来い。正義がこの世に存在することを思い知らせてやれ。おまえの存在はこの家のためにあるのだ。おまえは家に栄光をもたらす道具であって、そこから出て行くことは決して許さない。」
 
分かるだろうか、こうした発想の根底にあるのは、「母を守る」という東洋思想の危機感と同じなのである。「家が脅かされているから、家族の成員が皆立ち上がって家を守らなければならない。そのために、一人一人が力を身に着けて、自衛しなければならない」ということである。『国体の本義』が、家の名誉のために、ためらいなく皆が死ぬことを奨励しているように、もし家の名誉を守る戦いの最中で命を落とすのであれば、それは名誉の戦死として扱われるのである。

村上が、自死に対して寛容なのも、おそらくそのためであろう。被害者が脅かされながらも、決して家や両親に逆らって自分を守ろうとすることなく、むしろ、家の犠牲となって、その名誉のために命を落としたのなら、それは名誉の戦死であって責められるべきことではないというわけである。自死した本人を免罪しようとしているというより、家と親たちを守ろうとしているのである。
 
このような世界観に立って、彼は教会というものも「脅かされる家」と見ている。だが、そこで抜け落ちているのは、教会の支配者は人間ではなく神であって、神の正しい裁きが存在し、それに委ねる必要があるという点と、教会を脅かしているのは、あれやこれやの人間ではなく、最終的にはサタンであるから、人間相手の戦いで、教会を脅威から守ることは決してできないという点である。

人間相手の戦いには「目には目を」の法則が働いて、「殺す者は殺される」という結果に至るだけである。

村上のブログからは、当ブログの他にも、村上の行き過ぎた活動を批判し、村上を名誉毀損で訴えようと具体的に動いている勢力があるらしいことが分かる。以下で言う「スピリチュアル系カルト」とはその他の記事を合わせて読めば分かるように、当ブログとは一切無関係である。

最近、スピリチュアル系カルトからのインターネット上での嫌がらせが増えている。それは指導者がヒステリーを起こしているからである。名誉棄損されていると信者に警察に相談に行かせたりしている。事実、警察から注意とも警告とも思われる電話があったが、別に私の意見を述べているだけで、名誉棄損になるような記事ではない。一種の脅しである。自分たちのネット上の攻撃は悪質であることを棚に上げてである。国外からだとどうすることもできないが、国内であれば対処できる。エスカレートしてきているので、こちらも対処しなければならないレベルになってきた。放っておいて罪がまし加わるのを待つのがいいのか。軽いうちに止めさせる方がいいのか。後者の方が相手思いかもしれない。   (スピリチュアル系カルト 2018年 04月 16日)

この記事によると、すでに警察からも警告が入っているらしく、そうなると、事件はかなり深いものと予想される。実際に名誉毀損による告訴が成立している可能性も十分に考えられる。
 
今や村上についてはかなり各方面から物騒な話題が持ち上がり、だんだん抜き差しならない事態になって行っていることが分かる。むろん、カルトと名指しされる団体に自ら首を突っ込み続けると、いずれ手に負えない反撃が来ることはもともと予想されていたことである。村上から被害者を通じて思わぬ干渉を受けた団体は、当然ながら、反撃に出て来るであろう。相手はもともと正常な団体ではないのだから、そのような争いに自ら首を突っ込み続ければ、いずれは命の危険にも遭遇する。そのような戦いが、牧師の正常な活動ではないことは言うまでもない。

しかも、村上は、自分だけは決して誤りを犯すことはないという前提に立って物事を考えているようであるが、彼が他人に振りかざした厳しい基準が、彼自身に適用されるのだ。和解できない場合には、いずれ村上自身が裁判に引き出され、決着を求められることになる。その時、他人に憐れみを示さなかった彼に対する裁きは容赦のないものとなろう。「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。」(ヤコブ2:13)

さらに、村上が次のように書いていることも実に要注意である。

聖書には、殺してはならないとの神の命令があり、時には、殺せとの神の命令がある。殺してはならないが浸透し過ぎて、殺せがないかのように思っている人がいる。聖書には、赦しなさいとの神の命令があり、時には、裁きなさいとの命令もある。赦しなさいが浸透し過ぎて、裁きをしてはならないかのように思っている人がいる。

偏った聖書理解によって、被害者が被る言葉には滑稽なのがある。謝罪もしない加害者に対して、聖書には赦しなさいと教えているから赦しなさい。それでも赦せないでいると、赦しなさいと聖書に書いてあるのに赦さないあなたは神に逆らている。それは罪だと裁かれる。赦しなさいと言っている人が自分の言うことに従わない人を裁くわけである。(偏った理解   2018年 04月 08日)

   
これは非常に恐ろしい記述である。誰一人、村上に殺人について尋ねたわけではないのに、彼は自らこのように「聖書は殺人をも禁じているわけではない」という誰も聞いたことのない自らの奇抜な「信仰告白」を繰り返す。ここで村上が、「殺せ」という命令と「裁きなさい」という命令を一つに結びつけて話していることは注意である。このことは、村上自身の中で、この世の強制力である裁判を用いて教会の問題を解決しようとすることと、殺人とが、同じ力の論理に属するものとして同一線上にあることをよく物語っている。

だが、彼が聖書が殺人を正当化していると述べる根拠として、引き合いに出しているのは旧約聖書の記述である(「クリスチャンの裁判」 参照)。聖書において、神が主の民に神に背いた人々や異教徒を「殺せ」と命じたのは、旧約聖書の時代の話であり、新約になってからは、そのような命令は一切、主の民に下されておらず、むしろ、キリストは弱さのゆえに十字架につけられ、主の民が殺される側に回り、殉教している。村上がなぜ問われてもいないのに、聖書を悪用しつつ、「聖書は必ずしも殺人を禁じているわけではない」と、殺人を正当化しようとしているのか、いぶかしく思われる。

そこには「自死を正当化する」という目的と、もう一つ、「殺して連れ帰る」という父の言葉が暗黙のうちに反映していると思われる。村上は、沖縄の被害者のグループ「カイロスの会」で、自死は罪ではないと語り、大変な物議をかもした。このように、彼は自死を罪とみなすどころか、むしろ、奨励するかのような言葉を発しているが、そこには、子供が自死するまでその思いに気づけず、子供を犠牲としてしまった残された遺族らが、これ以上、罪悪感を感じたくないという自己正当化の思いが代弁されていることに加え、子供が家の恥になる行為に手を染めるくらいならば、親は子供を殺すことも厭わないという父の発言を正当化する思いが暗黙のうちに含まれているものと見られる。

暴力的な手段を講じて強制的に相手の意志を打ち砕いてでも、自分の信念の正しさを相手に押しつけることは、それ自体、精神的殺人であると言えよう。このように、聖書を悪用しながら、「正義のためなら殺人も厭わない」という誤った思いを正当化しようとする村上の姿勢は、暴力による強制的な脱会工作だけでなく、アッセンブリー教団に背いた教会や信徒にとことん誹謗中傷を浴びせ、破滅に追い込むまで手を緩めないという行動にも表れている。

村上は、他の人々を差し置いてでも、傷ついた自分自身の心に目を向け、自分自身が幼い頃から父によって受け続けて来た暴力、虐待を悪しきものとして憎み、これを退け、下からの出自である「父親の血」を断ち切り、「父のげん骨で作られた」性格と訣別し、真に親離れを成し遂げなければ、父親が自分に向けて来た殺意を、自分の心の中に育み続けることになるであろう。そうなれば、たとえ憎き敵に復讐を果たしても、彼自身がいずれ死の中に飲み込まれて終わるだけである。それはカインの道であっても、アベルの道ではない。憎悪は新たな憎悪を生むだけで、鉄拳では平和は作れない。それは血塗られた悪魔の道であって、断じてキリスト者の道ではないのである。

「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。」(ローマ8:6-7)

肉のものと霊とのものを区別する必要性~キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険③~

さて、今回から、しばらく以下の映画『龍の正体』などを通して、武士道が「魂の力」を開発して人が神のようになろうとする東洋的神秘主義に由来するものであり、今日、それがキリスト教の中に入り込んでいることの危険性について考察したい。

ペンテコステ運動の指導者などが行使している超自然的な力も、東洋的神秘主義に由来するものと理解できるため、この動画は、この運動の危険性を考える上でも、非常に参考になるものである。

今日、もしも信者が「肉のものと霊のもの」を見分けることができなければ、信者は「魂の力」を開発して超常的なパワーだけを得ることで、あたかも神の聖霊を受けたかのように錯覚したり、キリストの十字架の霊的死を経ないのに、それによって自分が偉大な霊的存在になったかのように錯覚する危険性がある。

また、信者がこうした力に手を伸ばしてしまう背景には、「魂の力」を引き出し、自己を強めることによって、心の内側にある自信喪失や被害者意識や自己憐憫などと言った心の傷を隠したいという動機が隠れていることが多い。

家庭で受けた心の傷や、人生で味わった数々の自信喪失などのトラウマから抜け出したいと願うがゆえに、信者は手っ取り早く自らの心の傷を覆い隠して、自分自身の弱さから目を背け、自分を強めるために、こうした超常的なパワーを手に入れたいと願うことが多いのである。

『龍の正体』では、武術がキリスト教の信仰と両立できるかのように誤解したまま、少年時代から武術の訓練にのめり込んで行ったウィルソンというクリスチャンの男性が登場する。彼の告白を通して、私たちは、武術の起源とその本当の目的がどこにあるのかを理解することができる。

詳細は動画を見てもらえば分かるが、この映画が言わんとしているのは、武士道は決してキリスト教の信仰と両立するものではなく、その起源は悪魔的なものだということである。 また、この映画は、ここ数十年間の間にキリスト教界に積極的に入り込んだ東洋神秘主義の武術に対して警告を呼びかけている。

一見、武術は無害な自己啓発やスポーツや芸術の一部のようにみなされ、巷に広まっているが、その奥に潜むものは何なのか。その起源は、東洋神秘主義思想にあり、決して、キリスト教と両立するものではなく、その道を行けば、悪魔の虜とされてしまうだけである。以下では、要所をピックアップしながら、ペンテコステ運動やカルト被害者救済活動の危険性と会わせて解説して行きたい。
  
  


  
 
  



「今日、武術はスポーツや健康維持または芸術として見なされている。

しかし、武術とは昔からそうだっただろうか?
超人的な技術で観衆を驚かせる彼らは一体何者なのか?
彼らはどうやってこの能力を得たのか?

なぜこの10数年の間に東洋神秘主義思想がキリスト教会の
中に広がっているのか?

それはただ競技の技術に焦点を当てているのだろうか?
それとも千年の平和をもたらす道徳的指導者に準備させる
ためのものなのか?

この東洋神秘的武術は自己啓発のためのものか?
それとも背後に何者かが潜んでいるのか?」


 
さて、ウィルソン少年が武術に心惹かれるようになったきっかけは、物心つかないうちに、テレビで小柄な東洋人が不可能に近いような技を使う場面を見たことであった。
 



「初めて武術のことを知ったのは4歳か5歳のことだった。
 小柄な東洋人が不可能に近い技を使うのを見て驚いた。
 あの日から私の中に小さな種が植え付けられた。
 その種は静かに育って行った。


「テレビで小柄な老人が超自然的な武術を披露するのを見た。
 卵を地面に置いて、その上に片足で立ち、20秒ほど、そのままだった。
 その時の映像がずっと私の脳裏に焼きついた。

 すごい、奇跡だ、と思った。」

「あの日見たものを忘れることはなかった。
 あんな技を使えるようになりたいと夢見るようになった。
 だがその裏に潜む暗闇に気づかなかった。
 そして、その選択によって自分と周りの人々の人生が
 どんな影響を受けるかにも。

 
だが、少年が、東洋人の使う魔法のような武術に心惹かれたのは、ただ神業のような芸が脳裏に焼き付いたためだけではなかった。彼は家庭の問題に見舞われており、12歳の時に、両親が離婚、父親を失った少年は、自分は愛される価値のない子供として見捨てられ、人生が滅茶苦茶になったかのように感じた。

両親の離婚によって生じた心の傷、被害者意識や自己憐憫から抜け出し、失意や、男性として生きる上で必要不可欠な人生のモデルを失ってしまったという空虚感を埋め合わせようと、少年は、自分の力で強くなりたい、自分で自分を守るために強くならねばならない、と意識するようになる。おそらく、そこには、無意識のうちに、残されてすべての苦労を一人で負わされている母を守りたいという気持ちもあっただろう。

人生の嵐に立ち向かう力もない弱い子供でありながら、世間の様々な脅威から自分で自分を守って生きるしかない立場に立たされたことが、彼の中で、無意識のうちに、自己を強めることによって、何者にも脅かされることのない、神のような力強い者になろうとする東洋神秘主義の武術への共感に結びついて行ったのである。
  

 

 
12歳の時、両親は離婚した。人生が滅茶苦茶になった気がした。
親に対する怒りが込み上げてきて反抗するようになった。
傷つけるつもりではないと分かっていたが、
見捨てられ、拒絶され、守られる価値が無いのだと感じた。
この頃から、人生の目的、生きる意味、男としての価値を探し始めた。
そして母に武術の学校に行きたいと言うようになった。」


  
ウィルソン少年は母と共に、街で開かれていた沖縄流の空手道場を尋ねる。だが、ウィルソンの家庭は敬虔なクリスチャンの信仰を持っていたため、彼の母は、訪れた道場に違和感を持つ。キリスト教信仰によって育てられた少年自身も、武術の訓練の風景に心惹かれながらも、同時に、よく分からない違和感を持った。幸い、授業料は高く、母子家庭には負担が大きすぎたために、その道場に通うことはできなかった。
 

「帰り道は魂が抜かれたようだった感じだったことを覚えている。
夢がやっと叶うと思っていた。
しかし授業料は高く、
母と二人で町の中を歩いていると気まずい雰囲気だった。
お金のことというより、
道場自体の何かに違和感を感じている様子だった。
実は私も同じ気持ちだった。
勿論、この習い事をできたらとすごく興奮はしていたが、
何か異質なものを感じた。

キリスト教の家庭で育ち、
安息日にはいつも教会に通っていた私には、
何かがどこかで噛み合わなかった。

道場で見た力、猛威、武の芸術世界の数々を、
自分の中でどう整理したらよいか分からなくて
良い気持ちにはならなかったので、忘れることにした。

それに母にとってはそんなに簡単に無視できる問題ではないと
なんとなく分かっていたから
家に帰ったその夜、母には何も聞けなかった。
でも私には母の考えていることが分かっていた。」


この告白の中では言及されてはいないが、もしかしたら、ウィルソン少年の両親が離婚した原因には、父の暴力などがあったかも知れない。彼の母親が敬虔なクリスチャンであったことを考えると、母親が自ら離婚を望んだと思えず、それにも関わらず、そのような結末が避けられなかったのは、それほどやむを得ない深刻な事情があったためと思われるためである。もしかすると、母親は、道場で行使される「力」の中に、自分自身が受けた深刻な出来事の片鱗のようなものを見いだしたのかも知れない。
 
だが、少年と武術との接近はそれで終わらなかった。キリスト教の信仰と関係ない道場で武術を学ぶことはできないという彼の悩みを解決するかのように、友達からキリスト教的な武術学校があることを知らされたのである。
 

「ある時、親友の兄に食堂で会った。
彼は高校の3年か4年の先輩で、
私は高校に入ったばかりだった。
彼は近くの武術学校でカンフーを習っていると言った。
習い始めて一年か二年ということだった。
私は彼に質問をした。
「どれくらいのお金がかかるの?」
すると彼は「毎晩一ドルだ」
「本当?」「うん本当だよ。」
「どんな学校なの?」と彼に聞いた。
母の心配する顔がよぎった。
「教えている先生はクリスチャンで毎晩聖句を読んでから
訓練したり格闘に励むんだ」
「キリスト教の学校だし、毎回払うのはたったの一ドル。
契約もいらないよ」
私はそれを聞いてとても喜んだ。眠っていた夢と希望が
一斉に蘇ってきたから。
家に帰って母に話すと彼女も喜んでくれた。
次の週、友達と二人で学校を訪問してみた。」



武術学校に行ってみると、訓練生たちは白帯、緑帯、茶帯、黒帯という四つのステージに分けられており、学校始まって25年の歴史の中で、黒帯を取ったのはたった3人だけだった。

ウィルソン少年は、武術の力を身に着けることで、世界の状況をコントロールする力を身に着けたいと願う。彼は自分の人生が、様々な状況に一方的に振り回されているばかりで、自分で人生をコントロールできておらず、自分が本当に人生の主となって、状況をコントロールする力を手に入れねばならないと願う。その背景には、両親の離婚という、自分にはどうすることもできない出来事によって心傷つけられ、運命に翻弄されるだけの弱い自分から逃れたいという思いがあった。
 

「最初の日は男たちがお互いを蹴ったり、
色んな格闘するのをみて圧倒される気持ちだった。
これこそが真の力だと思った。
いや力というよりコントロールだと。
自分の人生はコントロールできていないように見えた。
状況や成り行きに身を任せるだけで、
何も抵抗できずにいた。
だからコントロールできる力が欲しかった。
問題を一人で対処したり自分にもっと自信をつけて
一旦これと決めたら諦めずに
やり遂げるという人間になりたかった。」



さて、これまで当ブログでは、グノーシス主義はヒエラルキーの教えだということを繰り返し述べて来たが、ウィルソンの通った武術の学校にもヒエラルキーがあった。グノーシス主義は、もともと神聖な叡智(グノーシス)は、限られた人数の選ばれた人々にしか知ることのできないものであるとして、真理の知識を少数の人々に限定する教えである。そこで、この教えは、霊性のヒエラルキーを定め、その階段を徐々に上に上って行くことにより、「より高い霊性が身に着く」かのように宣伝して、もっと優れた者になりたいと願う人間の欲望を刺激して、その教えの中に深く引き込んで行くのである。それゆえ、こうした思想に基づくすべての運動には、階層を上に上らない限り伝授されることのない秘儀のような儀式がある。




カンフーの学校では階層制度があり、
白帯は初心者なので緑帯の言うことを聞き、
緑帯は茶帯に脅えていて
茶帯は黒帯となるべく関わらないように避けていた。
いわゆるつつき順だ(強いものが弱いものをつつく)

私が入った頃に気になったことは
緑帯が一週間に一度、皆が帰った夜の十時ごろに、
特別な訓練を師父(先生)から受けていたことだった。
訓練する時ドアを閉め、誰もそこで何が起こっているか、
見ることも話すことも出来なかった。

裏では何をやっているのだろう?
私も訓練にあずかりたいと思った
それほど緑帯の技は優れていた。
あのドアの奥に入れば、特別な技が
手に入るのかと思うと、
早く緑帯になりたかった。


ウィルソンは緑帯になった時に「特別な授業」を受けることになるが、それに当たり、まず新人が受けるべき最初の秘儀を受ける。それは次のように、新人の腹を他の生徒たちが集まって思い切り素手で叩くというものであった。



「緑帯になった後
特別な授業を受けることにした。
最初に新人が入った時の儀式があり、
床の上で仰向けになり、他の生徒たちが、
新人のシャツを上げ、
授業を受ける一人一人が新人の腹を
思いっきり強く平手で叩いた。
だが儀式で誰もけがはしなかった。
ただ私の腹の痣は4、5日くらい
消えなかったのを覚えている。
強い刺激を受け腹の表面に
血が浮かんでくるからだ。
でも、その儀式を経たあと自分が認められた気がした。
まるで努力の結果の報酬であるかのように。」


当ブログでは、前回まで、三島由紀夫の割腹自殺、イスカリオテのユダの自殺時に腹が裂けたことなどを取り上げ、キリストの十字架に敵対して歩むグノーシス主義者にとって「腹」は特別な意味を持つ部位であることを見て来た。

ここで、再び、「腹」が、儀式の中で重要な部位として登場する。そこで、東洋神秘主義において「腹」とはどのような意味を持っているのかを調べてみると、これは古来からの中国思想において極めて重要な役割を担う体の部位だと見なされて来たことが分かる。中国思想においては、「気」こそ、自然界に存在するすべての物質の最も基本的な構成単位であり、エネルギーの根源であると考えられて来た。あらゆる現象や変化は、「気」が動き流動することによって現れ、「気」が無くなると、その物質や生命体は存在できなくなり、消滅するとされたのである。

そこで、「気」の作用によって、人間が自分の体の状態を強化し、人間存在と生命の意味を極める方法を編み出そうという試みがなされ、そのための修行法の一つである内丹術においては、ヘソの下あたりの「丹田(たんでん)」に「気」を集めて煉ることにより、霊薬の内丹を作り出すことができるとされて来た。

おそらく、腹を叩くという儀式は、「丹田」に「気」を集めることと密接な関連があるのだろう。今日でも、「丹田に気を集める」、「気を練る」、などの方法は、禅、神道、仏教、気功、ヨガなど東洋神秘主義の流れを汲むすべての流派で使われている。

ただし、西洋医学において「気」といったものの存在や、「丹田」という体の部位は確認されていない。これは科学的には何ら証明されていない純粋に東洋的な概念である。「気」や「内丹術」がグノーシス主義的世界観とどのような関わりを持つか、さらに詳しい内容については、追って述べることにしたいが、結論から言えば、西洋思想のものの考え方が、デカルトの有名な「われ思うゆえにわれあり」という言葉にも表れているように、「精神=頭」を中心として、あらゆる物事を知性よってわきまえようとするものであるとすれば、東洋思想は、知性や思考とは関係のなく、より情意的に、また本能的で動物的なエネルギーによって、物事をわきまえようとするものであり、その試みは「頭」ではなく「腹」を中心に始まっていると言えるかも知れない。

そういう意味で、「キリストの十字架に敵対してい歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」(フィリピ3:18-19)という聖書の御言葉の警告は、決して故なきことではなく、実際に、東洋思想世界では、「腹を神」とする教義体系のようなものさえ、長年かけて作り上げられて来たと言えるのである。

さて、ウィルソンは父親との関係が全くなくなっていたわけではないらしく、大学進学の際に父と共に住むことが決まった。その時にはウィルソンが成長していたためか、親子の確執はなくなっていたようだが、それも、ウィルソンがキリスト教の信仰から離れて武術にのめり込んだことと無関係ではなかったかも知れない。ウィルソンが母親の世界観から離れ、父親の世界観により近いものを持ったために、温和な関係が築けるようになった可能性も考えられる。

以下の告白からは、彼が武術にのめり込んで行くのと同時に、キリスト教の信仰から遠ざかって行った様子が分かる。力によって人や物事を制圧し、コントロールすることを学ぶに連れて、彼にとって、信仰は何ら現実的解決を与えない味気ない理想論のようにしか見えなくなって行ったのである。

「高校卒業する頃に
父が大学の学資を出すと言ってきた。
チャタヌーガの町から外れた所だが
遺書に住むなら大学資金を出してやろう」
引越しが決まった。
武術学校を去るのは残念だった。
他にも武術学校があるとは知らなかった。
我が校が一番の武術学校だ。
ここのように教える学校は他にない、と教えられていた。
それが果たして本当かを探る良い機会でもあった。

テネシー州のクリーブランドという町に引っ越してから、
武術学校を電話帳で探すことにした。
電話帳をあけると、町が大きいほど
武術学校や道場が多く、
ある広告では、師匠の名前と黒帯何段とか、
第五、第六の夜明けや
どれだけ経験があるかなど
どういった武術を教えているかが書かれていた。

ほとんどの広告は、自分を守ろう、自信を持とう、
自尊心を高めよう、などと書かれており、目を惹きつける。
何が皆に欠けているかを広告は知っている。

改心した後に気づいたことは、すべての欠けたところは、
イエス・キリストによって本当に満たされるということ。
神に対する絶対的信仰の中でのみ見つかるということだった。

しかし、当時の私はまだそれを悟っていなかった。
神と教会から離れたのは14歳の時だった。<略>

少しずつ、私は敵の計画によって、
一つの宗教から別の宗教へと変わっていった。
教会の中で見つからない答えを武術の中で見出そうとした。

あいにく、私の求める答えはそこにあった。
自信がついて自分の生活をコントロールできていた。
もういじめっ子も怖くなくなり、頑固一徹になっていった。
時々口のほうが先走って
自分が出来る以上のことを言ったりもした。
武術で鍛えた技によりプライドが
自分の中で大きくなっていた。



こうして、武術を身に着けたことにより、ウィルソンはいじめっ子にも勝てるようになり、学校生活でもあたかも自分が悩んでいた数々の問題に勝利をおさめる力を得たように思えた。彼はそうして力によって問題を制圧し、勝利をおさめ、人生のコントロール権を得たかのように錯覚する度に、自分が本当は少しも成長したわけでなく、生まれながらの自己中心なプライドが大きく膨らんでいるだけであることに気づかなった。

<続く>


肉のものと霊とのものを区別する必要性~キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険②~

さて、「肉のものを霊のものに見せかける」ことにより、その「霊」の力を得れば「神のようになれる」と偽りを教えるのがグノーシス主義であり、ペンテコステ・カリスマ運動はグノーシス主義と合体して生まれた疑似キリスト教である。

だが、そのようにして生まれる疑似キリスト教はペンテコステ・カリスマ運動だけには限らない。そこで、これから、「聖霊の働き」であるかのように偽りながら、人間の堕落した「魂の力」に由来する超自然的な力を行使する疑似キリスト教に共通する特徴について見て行きたい。

この考察を始めるに当たり、改めて以前にも紹介したジェシー・ペン-ルイス著「魂の力」対「霊の力」"SOUL-FORCE" VERSUS "SPIRIT-FORCE"by Jessie Penn-Lewisを参考として挙げておきたい。

この論説にも詳しく説明されている通り、「魂の力」という言葉は、人間の堕落した肉に働く生まれながらのアダムの命を指している。「魂の命」という呼び名からも分かるように、それはとりわけ人間の堕落した魂の思念と深く関係している。

「魂の力」は、生まれながらのすべての人間に備わっている堕落して滅びゆく有限なる生命のことであり、人間の贖われない「肉」(=魂および肉体)を活かす、キリストによって贖われていない有限な動物的命である。この堕落した命は、罪と死の法則に支配されて神に敵対している人間の堕落した「肉」(魂と肉体)全体を動かす原動力となっている。

インドやアジアの異教の修行僧やシャーマンたちは昔から、人間の生まれらながらの堕落した命に本能的に備わっている力を引き出すことにより、魔術ように見える様々な超自然的な働きを駆使する術を学び、継承して来たが、それはもはやキリスト教とは無関係のインドやアジアの異教に限ったことではないのである。

ペンルイスが以上の論説の第一章で述べていることを以下に抜粋するが、これを読めば、東洋神秘主義に由来する「魂の力」が、どのように人間に危害を及ぼすために行使されるかが分かると同時に、そのようにして異教徒たちが「魂の力」を行使する様子は、今日、まるでキリスト教であるかのように自分を偽っているペンテコステ・カリスマ運動の指導者たちや、また、ペンテコステ運動の只中から出現して来たカルト被害者救済活動の支持者らが、インターネットを通じて、反対者らに対して行っている迫害・妨害・中傷行為に、恐ろしいほどにぴったり当てはまることに、どうして気づかないでいられるだろうか。
 

地獄の軍勢が全世界を欺くために出て行きました(黙示録一二章七~一二節)。その結果、政治の世界で大変動が起きています。私たちはこれらの出来事を考慮する必要があります。なぜなら、それらはキリストの教会に重大な影響を及ぼすからです」

「以前、私は北インドで一人の人に出会いました。その人はシムラの最上層の社交界である、インド政府の夏の議会に出入りする資格を持っていました。ある晩、彼は私に、彼がインドや他のアジアの国々のマハトマ(聖人)たちと接触をもっていることを話してくれました。彼が言うには、政治的な大事件が起きる数週間、数ヶ月前に、彼はそのことを知っている、とのことでした。彼は、『私は情報を得るのに、電報や新聞には頼りません。それらは過去の出来事を記録するだけですが、私たちは出来事が起こる前にすでにそのことを知っているのです』と言いました。どうして、ロンドンにいる人がインドの出来事を知ったり、インドにいる人がロンドンの出来事を知ることができるのでしょう?」。

私はこの現象を、マハトマの秘訣を知る人々が投影した『魂の力』によるものと理解しました。魂の力とは何でしょう?神の霊から教わっている信者は、神の御言葉の光によって、それが地獄の力であることを知っています。この地獄の力は、壊滅的変化を生じさせるために、世界の国々の上に投影されているのです」。

『魂の力』という言葉の魅力や魔力は、東洋でだけ知られています。東洋では、マハトマのような聖人はこの力を行使することができると信じられています。彼らは過去数世紀にわたってインドの霊的指導者でした。そして、昔と同じように今も、超自然的な力を持つと信じられています。彼らは人を強める力を持つだけでなく、人の意志をコントロールする力も持つと言われています」。

「ヒンズー教徒とイスラム教徒は、祈り――瞑想行為――によって結ばれて、共に『魂の力』を生み出す働きに従事しています。彼らは、東洋における西洋諸国の権力や威信を失墜させるために、『魂の力』を西洋諸国の上に投影しているのです。これは歴史上最大の反乱です!……」。

(筆者注:我が国の国家神道が自らを東洋思想に基づくものとみなして、西洋文明や西洋文化に対する優位性を誇り、西洋文明のもたらした個人主義を弊害とみなしてこれを取り除くために西洋文明に対抗することを強力な柱としていたことを思い出したい。こうした思想が持つ西洋文明に対する敵視は『国体の本義』の中に非常に詳しい。)


ペンバーの「地球の幼年期」の中に、これに光を当てる節があります。彼は次のように記しています。「『魂の力』を生み出すためには、肉体を魂の支配下に置かなければならない(筆者注:これは聖書に則って、魂(精神)が肉体を治めるという正常な支配関係を意味するのではなく、人が自らの思念によって、肉体の限界を超えて自分自身の影響力を行使する方法を学ぶという意味であると理解できる。)そうすることによって、自分の魂と霊を投影し、地上に生きていながら、あたかも肉体を持たない霊のように行動することができるようになる

この力を会得した人は『導師』と呼ばれており……意識的に他人の心の中を覗くことができる。彼は自分の『魂の力』によって、外界の諸霊に働きかけることができる。……彼は凶暴な野生の獣をおとなしくさせ、自分の魂を遠方に送ることができる」「彼は遠くにいる友人に、肉の体と同じ様で自分の霊の体を見せることができる」「長期間の訓練によってのみ、これらの能力を会得することができる。訓練の目的は、体を完全に服従させて、一切の喜び、痛み、地的情動に対して無感覚にならせることである」。

インド人の宗教生活は、まぎれもなく、これらの魂の力を発達させています。キリストの福音を知らない数十万の人々が、ある特定の対象に向けて強烈な「祈り」を放つ効果は、いかばかりでしょう。彼らはこの世の神に導かれて、自分の望む対象に魂の力を「投影」しているのです。

魂の力の無意識的な行使は、霊的な信者にいかなる影響を及ぼすのでしょうか?最近受け取った手紙の中にその実例があります。手紙の著者は次のように記しています。「私はたった今、敵の襲撃から逃れてきたところです。出血、心臓病、動悸、疲労。全身ボロボロの状態でした。私が祈っていた時のことです。(魂的な)『祈り』によって私の上に働く魂の力に対抗して祈るよう、突然示されました。キリストの血の力を信じる信仰によって、私はそれを自分から断ち切りました。結果は驚くべきものでした。たちまち呼吸は正常になり、出血は止まり、疲労は取れ、すべての痛みは去り、体にいのちが戻ってきました。それ以来、私は新たにされ、強められています。この解放の経験から、神は私に次のことをはっきりと教えて下さいました。すなわち、私の体がボロボロになったのは、私に反対しているある異端のグループが、私について祈った『祈り』のためだったのです。神は私を用いて、そのグループから二人の人を解放して下さいました。しかし、残りの人々は恐ろしい地獄の中にいます。……」。

このような他の事例を見ると、何らかの方法で自分を悪霊に対して開いて、超自然的経験をしている人々は、祈りを装って魂の力を生み出せるようです。これらの人々は、「他の人々も自分と同じ経験をするべきだ」という偏執狂的な霊を持っているようです。もし、人が自分と同じ経験をしようとしなかったり、他の人々の邪魔をするようなら、彼らは自分たちが「祈り」だと思っているものをその人に向けて、「あの人は神に裁かれるべきです」とか、「あの人は『真理』に服従するよう強制されなければなりません」と祈ります。

しかし、これらの人々は、主を受け入れようとしなかった町に対して、「主よ、私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか?」*と言った弟子たちにとてもよく似ています。主は弟子たちに答えて、「あなたがたは自分がいかなる霊なのか、わかっていません」と言われました。神は決して、自分を受け入れるよう、人に強制なさいません。たとえそれがその人自身の益であったとしてもです。聖霊なる神は、神の救いを受け入れるかどうかを選択する人の責任を認識しておられます。


以上の引用の最後の部分に書かれている記述は、とりわけ、今日のペンテコステ・カリスマ運動という異端運動の邪悪さを考える上で重要である。

ペンテコステ・カリスマ運動の指導者らが、祈りを装って、悪霊に由来する超自然的な魂の力を生み出し、それをクリスチャンに向けて行使し、クリスチャンを床に倒したり、意識を失わせたりできることは、すでに説明した通りである。おそらく、そのような行動は、彼らの持っている力のほんの一端でしかないことであろう。
   
「魂の力」を行使する人々が、「他の人々も自分と同じ経験をするべきだ」という偏執狂的な霊を持っている、というペンルイスの指摘は、まさにペンテコステ運動の支持者らに当てはまる。

この運動の指導者らは、まずは自分たちが持っている超自然的な力を見せつけることにより、他の信者らにも、「その力が欲しい」と思わせ、彼らが「聖霊のバプテスマ」と称しているその偽りの「霊」を、誰もが受けるべきとみなして、これを求めて祈るよう、各地で祈祷会や待望集会を開いている。いわば、これは彼らが自分たちを導いている悪霊を、他の人々にも受けさせるための最初のイニシエーションであると言えよう。

こうして正体不明の「霊」を受け、ペンテコステ運動の仲間入りを果たした人々は、最初は穏やかな顔で、敬虔かつ熱心なクリスチャンの伝道者を装いながら、自分の所属していない既存の教会に入り込み、勝手に自分たちの「教え」を宣べ始める。そして、誰にも理解できない異言や、超自然的なパワーを売り物のように誇示しながら、それに関心を示す人々を募り、そうした人々が得られると、彼らを既存の教会から引き抜いて自分たちのグループを形成し、いわば組織内組織を育てるようにして、既存の教会や教団の枠組みを食い破って成長して行こうとするのである。
 
そのような行為に及べば、様々な反対が起きてくるのは当然だが、ペンテコステ運動の支持者らは、自分たちの考えだけが正しく、他の人々はみな彼らと同じ考えを持つべきであって、それ以外の考え方は一切、認められないという偏執的な考え方を持ち、周囲のすべての人々を、自分たちと同じ考えに染め上げることを自らの使命であるとみなしているため、周囲の反対や批判に全く耳を貸さず、むしろ、他人の自由意志を侵害してでも、自分の考えを押しつけようとする。彼らの考えを理解しようとしない人々、彼らの活動に反対する者たちに対しては、残酷なまでに容赦のない批判を繰り広げ、呪詛と言って差し支えない言葉を述べて、その人たちを冒涜し、呪いを浴びせる。

このような人々は、必ずしも、暴力的な抑圧を伴わないかも知れないが、祈りを装った呪詛によって、自分たちの活動に賛成しない者たちの人生に現実の危害を及ぼそうとしているのである。当ブログに対してペンテコステ運動の支持者(カルト被害者救済活動の支持者と同じ)が行っている名指しの中傷などは、まさに呪詛に他ならず、このような呪詛は、ペンテコステ運動の支持者らが、自分たちの考えに従わない者に対して常日頃から行っている、信仰に見せかけた呪いの祈祷の一端を示していると言えよう。

さらに、こうした人々は自らの信念の「布教」のために暴力を用いることも当然ある。彼らは一方では、穏やかな「福音宣教者」を装うが、他方では、暴力を正当化しながら、自分たちの「信念」を他者に押しつける。ペンテコステ運動の中から生まれて来たカルト被害者救済活動にそれが最もよく表れており、この活動は、「カルト宗教から信者を救う」という名目で、カルトと名指しされている他の宗教から、信者を拉致監禁という強制的な方法で奪い取り、密室に監禁して、信者自身の自由と意志決定権を奪った上で、長時間に渡る説得工作を行い、その人の信仰を暴力的に打ち砕いて、誤りを認めさせ、棄教させて来た過去を持つ。

カルト被害者救済活動は、まさに『1984年』の主人公ウィンストン・スミスの最期を思わせるような暴力的なやり方で、自分たちの信念だけが唯一正しい教えであるとして、それを他の人々に強制的に押しつけて来たのである。

カルト被害者救済活動の支持者は、かつては聖書を使って他者の信仰を暴力的に打ち砕いて来たが、今や、筆者のような人間が、聖書を使って彼らの誤りを指摘し始めると、今度は、筆者から聖書を奪い取るべきだなどと主張している。このような主張を見ても、この異常かつ邪悪な運動が真実なキリスト教であるはずもなく、彼らが聖書を用いて他宗教の信者を説得して来たのは、うわべだけの偽装であり、この運動は本質的に聖書の信仰とは完全に無関係の、キリスト教に偽装した邪悪な異端である事実は明白である。

聖書の神は決してご自分に従わない人々を辱めたり、その意志を暴力的に打ち砕いてまで、ご自分の正しさを主張されることはない。人類の滅びは決定しているとはいえ、それが来るまでの間に、どれほど大勢の人々を信仰によって救えるかというところに神の御心がある。キリスト教は決して強制された暴力的な運動ではないのである。

しかし、ペンテコステ運動は、本来的にキリスト教とは無縁のグノーシス主義・東洋的神秘主義が、キリスト教に偽装して出来あがった異端の運動であるため、人間の自由意志をかえりみようとせず、これを暴力的に侵害してまで、自らの信念を他者に押しつけようとし、全世界を自分と同じ考えに染め上げることを目的に、反対者を抑圧し、呪詛や冒瀆の祈祷によって、邪悪な諸現象を引き起こすのである。

その時、彼らが反対者を呪い、冒涜し、傷つけ、抑圧するために用いるのが、堕落した「魂の力」に由来する邪悪なパワーである。神と人とが本来的に同一であるとする東洋的神秘主義は、、堕落した「魂の力」から超自然的なパワーを引き出すことにより、人間に通常の範囲を超えて行動する力を得させ、それによって、本当は神の霊に導かれておらず、霊的な人間となったわけでもない者に、あたかも高次の霊を受けて、霊的な存在として高められ、神に近づいたかのように錯覚させて、最終的には、「神のように」死を超越して、自分を永遠の存在にできると説く。

このような教えを受けた人は高慢になり、自分は正しいと頑なに思い込むようになり、他者の意志を暴力的に打ち砕いたり、自分に反対する他者の人生を呪い、抑圧することを何とも思わなくなる。

東洋的神秘主義が、そのように超自然的な力を開発することで、最終的に目指しているのは、死によって脅かされている人類が、自力で死を克服し、聖書の神による人類への滅びの判決を乗り越えることである。そのための方法論が、日本においては武士道という最も洗練された形で結実しているのであって、超常現象を誇るペンテコステ運動の宣教師たちが引き出して来たのは、東洋神秘主義に由来するこの邪悪な力なのである。
  
「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」と言われているように、それはまさに「死の美学」である。だが、なぜ人類が自己の力で自分を強め、「魂の力」を霊の命であるかのように引き出して、自己を神のように高めようとすることが、死と一つに結びつくのか?

その問いは、東洋的神秘主義が、キリストの十字架の死の悪魔的模倣だという点に注目すれば、解くことができる。

東洋思想の根幹には「母を守る」(=人類を守る)という発想が流れていることは幾度も述べた。ここで東洋思想の主張する「母を守る」とは、人類を守るということと同義であるが、東洋的神秘主義とは、東洋思想の実践面であるから、武術は究極的には「死によって脅かされている人類が、自らの力によって死を飲み込み、死を超越することで、人類(=自分自身)を守ろうとする方法論」であると言えるだろう。

その目的は、神によって罪と死に定められた人類が、神の判決に逆らい、自分を哀れみ、惜しむがゆえに、自力で神に対抗し、自分自身を縛っている死の力を自分で滅ぼそうと、自ら死と一体化して、肉体の限界を乗り越えることで、神の判決を否定するという、悪魔的な力による自己防御の方法論なのである。

これまで見て来たように、東洋思想の基盤には、すべての生命が、脆く儚いものであることを惜しみ、哀れむがゆえに、生命を愛でる美的感覚と、慈悲の念がある。だが、その美学や、慈悲の念は、裏を返せば、すべては「母を守る」という使命に直結しており、要するに、死によって脅かされ、滅びゆく存在である人類が、自分で自分を惜しみ、自分に同情し、自分の滅びを決して認めまいとするがゆえに、自分を愛でるという、自己憐憫と被害者意識につながって行く。

つまり、東洋思想は、人類の「私は死によって不当に脅かされている」という自己憐憫と被害者意識が生んだ思想なのであり、その思想に基づき、人類が被害者意識のゆえに神の判決を否定して、自力で死を滅ぼそうとして生まれた方法論が、武術なのである。

それゆえ、こうした方法論の前半では、人は自分を守るために、肉体を鍛えることによって、自分の弱さを自力で克服することを目指す。だが、後半になると、この方法論は、人が自分の肉体そのものを制圧して、肉体に自然に生まれるあらゆる感覚を自力で滅却して、ついには肉体から解かれることにより、肉体の制約から自分を解放するという「自死のプロセスと選択」を取らざるを得ないのである。

武士道は、インドやアジアで異教の導師たちによって開発され、受け継がれて来た「魂の力」が、最も洗練された方法論として集約されたものであり、その根底には、人類を楽園から追放し、滅びに定めた聖書の神に対する怨念と憎しみが込められ、何とかして人類が自力で神の判決を退けたいとする願望が隠されている。
 
このように、東洋的神秘主義は、人が自力で弱さを克服し、最終的には死を克服することによって、神を否定的に乗り越えるための方法論なのである。だが、死を克服することは、現実にはどんなことをしても、人間には不可能であるため、グノーシス主義のような神秘主義の思想が、死を通して人が自分の肉体の制約から解かれることができるかのように見せかけているのは、もちろん、トリックであり、偽りでしかない。

だが、彼らは、死に至るまでのプロセスの中で、実際に、「魂の力」を引き出すことで、自分が肉体に縛られない霊的存在になったかのように振る舞う術を会得したり、あるいは、肉体を通して、通常の人間には及ばないような超自然的な力を行使する方法を会得するため、そのようなうわべだけに注目すれば、彼らはそうした自己を強める魔術のような力によって、いずれ死をも超越できると錯覚する者もあるかも知れない。
 
クリスチャンは、人類の中で死を克服された方はただ一人であり、しかも、その方が東洋的神秘主義とは真逆の方法で死を克服されたことを知っている。

キリストこそ、十字架の死を通して、すでに「死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさ」った(ヘブライ2:15)唯一の方であるから、我々はこれを退けて、自力で死を克服しようともがく必要はない。

しかも、キリストは東洋的神秘主義のような方法で、死を超越されたのではなかった。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリピ2:6-9)

創世記でサタンは人類に、人が自分の創造されたありようを捨てて、神のもうけた制約を自ら取り払い、自力で神のようになって、神を乗り越えるべきだと嘘を吹き込み、今日も、人が自分で自分を強め、高めることで、神に至り着けると偽りを教える。
 
しかし、キリストは、それとは逆に、むしろ、神のありようを捨てて人となられ、人間としての弱さ、限界のすべてを身に負われ、罪は犯されなかったが、罪ある人類の代表として、人類が身に受けるべき残酷な刑罰としての十字架の死を最後まで耐え忍ばれたのである。
 
彼は自己を強めることで、死を克服したのではなく、「弱さのゆえに十字架につけられ」(Ⅱコリント13:4)のであり、神の超自然的な力を駆使することで、痛みや苦しみを超越することで十字架の死を乗り超えたり、そこから逃れようとすることなく、人としての弱さや痛み苦しみのすべてを余すところなく負われ、ただ信仰だけによって、人類の力ではなく、神の力によって、人類のためによみがえりとなられたのである。

「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。

確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブライ2:14-18)

「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きているのです。」(Ⅱコリント13:4)

イザヤ書第53章には、キリストが人となられて負われた苦しみがいかなるものであったかが克明に記されている。

彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。」(2-4)

主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。彼は暴虐なさばきによって取り去られた。」(6-8)

「 彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。」(9-10)

「しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。 」(4-5)

彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。

それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。」(10-12)

キリストは、人となられたにも関わらず、人の弱さに同情するがゆえに神の判決を不服とされることなく、神がご覧になられるように、人類の姿を見られ、神が人類に下された死の判決に全く抵抗されず、これを自分自身のものとして受け入れ、身に負われた。

キリストには、人類の滅びゆく美を愛でて、それが滅ぼされることを惜しみ、神の判決に反対するがゆえに、ご自分の美に執着されるということが全くなかった。彼は弱く脆い存在である人間の痛み苦しみを十分に分かっておられ、死に脅かされる人類の悲しみをも十分に知っておられ、死を憎んでおられたため、人間に対する深い同情ゆえに、病を癒すことだけでなく、死者を復活させることもしばしばなさったが、それでも、ご自分は、神の超自然的な力を思い通りに駆使することで、十字架の死に反抗してそこから逃れようとすることはなく、むしろ、すべての理不尽を一身に背負われ、何の罪もなかったにも関わらず、罪ある人間と同様に、神の判決の前に従順に頭を垂れて、十字架の死に従順に従われたのである。それは、ご自分の苦しみによって贖いが全うされることを知っておられたためである。

キリストが死に至るまで、ご自分の魂の命を注ぎだされ、魂の命を十字架の死に渡されたことは、人が自己の魂の命を開発・強化することで、死の克服を目指すという東洋的神秘主義の方法とはまさに正反対である。そして、人が死を克服するためには、ただ一つこの方法しかないのである。弱さのゆえに十字架につけられたキリストだけが、ご自分の死によって、死を滅ぼされたのであり、信者には、そうして十字架で死なれたキリストと霊的に一つになることによってしか、死を超えて、彼のよみがえりにあずかる方法はない。

そうして信者がキリストの死と復活に同形化されるためには、信者自身もまたキリストがなされたように、神の御手の下に自分を低くして、人生で己の美が傷つけられたり、自分が脅かされることがあっても、自力で自分を強めてあらゆる困難を克服して死に立ち向かおうとするもがきをやめて、自分の弱さの中に、信仰によって神の力が働くのを待つしかないのである。

しかし、東洋的神秘主義はこれをさかさまにして、人が決して弱さのゆえに十字架の死を介することなく、人がむしろ自己を強め、罪に対する刑罰としての十字架の死を回避しながら、自ら死を飲み込み、滅ぼせるかのようにみなす。こうして、この思想が、人が自ら死と一体化することにより、死を克服・超越しようとするその方法論は、ある意味で、これはキリストの御業の悪質な模倣であると言えよう。

だが、その方法論は悪魔的なものであり、聖書とは真逆の方法であるゆえに、決して目的に達することがない。これは欺きの教えであり、このような方法を通して、人類が自力で死に立ち向かい、死を克服しようとすることは、キリストの十字架に悪質に敵対し、キリストの十字架とは決して両立することのない悪魔的な試みであるから、結果として、必ず滅びで終わることになる。それだからこそ、武術の根底には、自分を脅かすすべてのもの(=とりわけ、聖書の神に対する)憤り、憎しみ、暴力、怨念、嫉妬、復讐心が満ちているのであり、そこには、自らの力で永遠にたどり着きたいと願いながらも、それを達成できない悪魔の神い対する憤りと怨念が投影されているのである。

人類が死を克服するための方法は、弱さのゆえに十字架につけられたキリストの中にしかなく、それ以外のすべての方法は偽りである。武術(武士道)は人が強さのゆえに十字架の死の判決を回避して、自分の罪を正当化して、自力で神の永遠に至ろうとする東洋的神秘主義の生み出す偽りの十字架としてであるから、それは滅び以外のものを決して人類にもたらさない悪魔的な試みなのである。まずはそのことを理解した上で、次の章に入りたい。