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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

統一教会に後押しされる安倍首相が推進する共謀罪が日本経済にもたらす破滅的な委縮効果

統一教会に後押しされる安倍首相が推進する共謀罪の成立が、日本経済にもたらすであろう壊滅的な委縮効果

さて、新年になって、これまで統一教会の機関紙「世界日報」の表紙を何度も飾り、統一教会と密接な関わりがあることがインターネットではもはや周知の事実となっている安倍首相が、またもや国民を恐怖に陥れ、新たに重荷を課すための、悪巧みに満ちた法案を国会へ提出することに意欲を示した。

今月20日から始まる通常国会に、与党自民党はこれまで3回、国会に提出されて廃案となった悪名高い「共謀罪」を法案として提出するという。この法案の成立にとりわけ執心しているのが、他ならぬ安倍首相であることが、ニュースを通しても明らかにされている。将軍様が独裁を完成するためには、必要不可欠な法であるわけだ。

(「<安倍首相>「共謀罪」に意欲 通常国会で提出か」(Yahooニュース掲載 毎日新聞 1/5(木) 20:58配信などを参照。)

だが、共謀罪は、何よりも、統一教会が以前から熱心に成立を推進していることが知られている。統一教会の機関紙「世界日報」においては、2006年の時点で「共謀罪/与党再修正案で成立させよ」(「世界日報」2006年5月14日付社説)との社説が掲載されるなど、それ以来、以下に見るように、今日に至るまで、一貫して、共謀罪の成立に俄然、意欲を示す一連の社説が掲載されている。

統一教会は、ごく最近の社説「共謀罪創設、テロ対策強化に不可欠だ」(「世界日報」編集局 2017年1月07日付社説」においても、「2020年東京五輪・パラリンピックを控え、テロ対策強化は喫緊の課題だ。共謀罪創設法案は過去3度にわたって国会に提出されたが、野党の反対で廃案となった。今度こそ成立させなければならない。」などと、3回の廃案にも全く動じる気配なく、オリンピックにかこつけて、法案成立への強い意気込みを示している。

これを見れば、安倍の共謀罪へのこだわりが、まぎれもなく、長年、この法案成立に執拗にこだわり続けて来た統一教会の野望と一致すること、共謀罪の成立を推し進めているのは、何よりも、政界と結びつき、政治家を陰で操るカルト宗教勢力であることが誰しもよく分かるだろう。

共謀罪という呼び名は、過去3回、廃案となった際に、すっかり世間に拒否反応を呼び起こすマイナスイメージとして定着してしまったので、今回は、東京五輪にかこつけたテロ対策を前面に押し出した、「テロ等組織犯罪準備罪」という名に変更する予定のようだ。

さて、当ブログの以前からの読者には、筆者の立場は、あえて説明せずとも、了解済みの事項であるものと思うが、それでも改めてもう一度、触れておきたい。

当ブログでは、統一教会出身で、現在、プロテスタントのキリスト教界のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に属する牧師である村上密が、「キリスト教界のカルト化を取り締まる」という名目で提唱した「カルト監視機構」の危険性を、早い段階から訴えて来た。この監視機構は公には設立されなかったが、村上密はその思想を捨てることなく実行に移し、そして、筆者の危惧した通り、村上密の活動は暴走し、最後にはほとんど無差別的なキリスト教徒の迫害を引き起こしたのである。

最初は「カルト化した一部の教会だけを監視と取締の対象とする」と言っていた牧師が、疑心暗鬼に陥り、途中からは自分の活動に理解を示さない者をすべて「カルトの疑いがある、敵」のようにみなして、インターネット上で支持者などを利用して人格攻撃し、ついには、敗訴も覚悟で、ただ教会に打撃を与えるためだけのスラップ訴訟に及び、自分の活動に賛意を示さないすべてのクリスチャンへの無差別的な迫害に及んだ様子は知られている。同氏の疑心暗鬼の対象は、ついには同じ教団に属して同労していた牧師や、自身が所属しているアッセンブリーズ教団にまで及んだ。

こうして、最初は「カルト(だけ)を取り締まる」と言っていたカルト監視機構の提唱者は、最後には、「自分に反対する者はみなカルト」と考えて、無差別攻撃に及んだ。「カルトを取り締まる」という一見、正しそうに聞こえる牧師の使命感は、最後には信徒の自主的な信仰生活と、福音伝道という教会の本来的使命を著しく害して終わったのである。

安倍の提唱する「共謀罪」は、かつて村上密が提唱した宗教版「カルト監視機構」を、そのまま土台として政治版に書き変えただけのものと見て良い。なぜなら、両者に流れる思想的基盤は、全く同じだからである。

しかも、上記の村上密牧師は、若い時分に統一教会に入信していた経緯があることが知られており、その意味でも、安倍と思想的な基盤が非常によく似ていると言える。そもそも「カルト監視機構」という同牧師の発想は、まさに統一教会流の思考からこそ生まれた発想であり、統一教会で受けたマインドコントロールの影響や、統一教会流の二元論的思考の教え込みが、形を取って表面化したものと考えられる。そして、この発想は、後述するように、もとを辿れば共産主義思想に遡るのである。

だから、共謀罪が成立すると、カルト監視機構を巡ってキリスト教界で起きたような事件が、今度は政治の世界で繰り広げられることになるのは自明の理である。安倍の提唱する共謀罪は、成立すれば、必ずや、村上密の唱えたカルト監視機構の発想と同じように、暴走するであろう。この法案はすでに多数の場所で、数えきれない人々によって、治安維持法の再来だとの懸念が表明されているが、まさにその懸念の通りに、当初は「テロを防止する」(≒「カルトを取り締まる」)という名目を掲げていたものが、必ずや、最後には「全国民」(≒「全クリスチャン」)を無差別的な嫌疑の対象とするであろうことを予測しないわけにはいかない。

共謀罪は、「カルト監視機構」の場合と全く同じように、それを提唱した人間の思考が、完全に悪魔的発想に毒され、狂わされていることをよく物語っている。共謀罪の法案を推進する勢力に、統一教会があるのだから、カルト思考に毒されるのは当然である。

だが、ここから先、今までとちょっと違う論調で記事を書いていきたい。

この場所において、共謀罪の成立に声を大にして反対するのは簡単なことである。「共謀罪は一部のテロリストだけを取り締まる」と言いながら、結局、最後には、全国民を無差別的に迫害する巨大な暴力・抑圧装置となるだろうことは明白だから、絶対に阻止しなければならない」と訴えることはたやすい。

筆者の目から見れば、安倍晋三はすでに村上密とほとんど変わらないパラノイド的思考に陥っており、この法案を利用して、自らの独裁を完成するつもりなのであるから、なおさら、危険である。

だが、この記事は、何よりも、聖書の信仰に基づく分析記事であるから、ここから先、筆者は、共謀罪を成立させてはならないということだけに力点を置くのではなく、共謀罪が成立すると具体的にどういう現象が起きるかについて、共謀罪や、カルト監視機構という発想の生まれる本家本元となったソ連の歴史をも振り返りつつ、それを日本に当てはめて考えていきたいと思っている。

統一教会は、共謀罪(≒カルト監視機構)の土台となる発想を、ソ連の共産主義思想から学んだのである。前にも書いた通り、統一教会の政治組織である勝共連合は、「共産主義の脅威に立ち向かう」ことを旗印に掲げながらも、共産主義国に対抗するために、核武装を含めた、自国の防衛と軍備の強化に関するほとんどの手段を共産主義国から学び、内に取り入れたのであった。

統一教会がこうして共産主義国から学んだ発想の一つが、国家(≒教会組織)を世界革命(≒統一教会の人類一家族理想)の中心となる神聖な母体とみなし、国(≒教会)の転覆を企てた罪(≒教祖や宗教団体に逆らう罪)に対しては、死刑に相当する罰を持って報いる(≒悪魔扱いして教会から追放し、一生呪い、迫害する)という、ソ連が取った反革命分子の取り締まりのために秘密警察を設立するという手法であった。

ちなみに、このようにして、国家や、企業や、あるいは、教団や、教会などの宗教組織、またそれを統治する指導者を含め、人間自身、または人間の作った組織や団体を、何らかのユートピア的理想的共同体社会を到来させるための「神聖な母体」とみなし、組織そのものを絶対化することにより、それを批判したり、逆らうことを「罪」とみなし、反対者を実力行使によって強制的に排除・処罰するという思想は、すべて元を辿れば、グノーシス主義に由来する悪魔的発想である。いう間でもなく、ペンテコステ運動のリバイバルなども同じである。

ちなみに、プロレタリア国家としてのソ連を神聖視するがゆえに、世界革命をもたらす母体となる社会主義国家を転覆させる思想をテロリズムと位置づけ、危険思想を未然に取り締まるための法整備と、反対者を実力行使によって排除するための秘密警察組織を設立するという発想は、ソ連の成立以前から、社会主義思想から受け継がれたものであった。

ソ連における秘密警察は、最初の名称はヴェーチェーカー(反革命・サボタージュ取締非常委員会)であり、革命直後に設立され、それが後に巨大な秘密警察組織へと発展するのだが、この組織は、レーニンが革命のわずか前に著した『国家と革命』の中で、反革命分子としてのブルジョアジーの抑圧のための機関として、青写真が提示されていた。さらに、レーニンの唱えたこの発想も、それ以前の社会主義者の思想にも見られたものであった。そもそも、社会主義革命それ自体が、暴力によって既存の国家秩序の転覆をはかるものである以上、革命を維持し続けるためには、旧体制の支持者を抑圧するための暴力装置が必要になるのは、自明の理である。

だから、筆者が「カルト監視機構はキリスト教界に恐怖政治をもたらす秘密警察である」と述べたのは、まさに統一教会が借用した、こうした社会主義思想のルーツと歴史を踏まえた上での発言であり、村上密が考えたような、夢想のとごとき戯言ではないのである。そして、カルト監視機構についても、筆者の懸念が裏付けられたが、共謀罪にも全く同じ危険が当てはまると言える。

村上密は、カルト監視機構を設立できなかったにも関わらず、その発想を独断で実行に移し、教会内規則や、法を無視して、自らの反対者に対する実力行使としての迫害に及んだのであるから、共謀罪の場合も、成立の可否に関わらず、これを唱えた人間が、自らを神として、自分への反対者をことごとく迫害するために悪用する可能性が十分にあると言えるだろう。

共謀罪は、現存の政府を率いる一人の為政者が、日本版NSCや、秘密保護法などと連動して、自らに反対する者たちをことごとく弾圧・排除するための巨大な秘密警察組織を作り出し、独裁を完成するために打ち出されたという線が濃厚である。オリンピックなどはほんの口実に過ぎない。

プーチンも、ブッシュも、これまでテロとの闘いを口実に、反対者を駆逐し、政治権力を強化して来た。安倍も、いよいよ「テロとの闘い」を口実にして、自らに逆らう人間をすべて「テロリスト」の汚名を着せて、実力行使によって排除できる権限を手に入れる手前まで来ているのであり、これに自衛隊の軍隊への昇格を加えれば、核のボタンを独断で押すことのできる無制限にも近い権限を手に入れて、歴代首相を超える権力を手にすることができる。そして、その背後では政治指導者を操り、これに寄生したカルト団体が己が権勢を拡大するのである。 

実際、ソ連ではスターリンという一人の為政者が、法制度と秘密警察を手足のように駆使して国民への無差別的な抑圧を行ったのであり、共謀罪も同じように一人の為政者によって存分に政治利用されるであろうという懸念が生じるのは当然である。
 
しかしながら、結論から言えば、筆者は、この日本で、仮に共謀罪を成立させてみたとことろで、恐るべき独裁体制を確立し、維持することのできるような体力は、おそらくもう残されていないのではないかという気がしてならない。太平洋戦争の際にも、日本軍が最も計算を誤ったのは、兵士の兵糧だったという。常に国民の体力を無視して無謀な計画に走って自滅するとところが、この国の政府の変わらない欠点である。

安倍はこの国の経済の状態を偽っているため、国の恐るべき貧困化という現状が見えておらず、独裁や、核武装など、みな現実を無視した夢想に過ぎないことが分かっていないのである。今の日本国の経済状態では、これ以上のどんな圧迫にも耐えうる力はないと筆者は見ている。この先、雇用情勢の悪化による国全体の急速な貧窮化と、急速な高齢化、それに加えて原発事故の悪影響による多死社会という要因が、国の体力をあっという間に削ぎ落とすと考えられるからだ。

ソ連も、国内戦の疲弊と一国社会主義の孤立によって貧困化に追い込まれたが、それでも革命を維持することができたのは、徹底的な恐怖政治を強いたことと、反革命・テロリストの汚名を着せて大量に強制収容所に送り込んだ囚人を奴隷的無賃労働に従事させることを経済効果に見込んだからである。我が国に、そこまでのことができるか。無理であろう。高齢化した社会では、囚人の奴隷労働も笑い話である。

さらに、安倍政権には国民全体に貧苦を耐え忍ばせてでもけん引することのできる理想が決定的に欠けている。ロシア革命の際には、社会主義イデオロギーの正しさを本気で確信する人々が相当数存在しており、思想教育によって人々はそれが正しい国家的イデオロギーだと信じていたので、欺かれているとは知らず、心から国家政策に身を捧げる一定数の人々が存在したが、我が国に、あるのは安倍率いる腐敗した政治家たちの卑しい金儲けの願望だけであることが見え透いているので、オリンピックもそうだが、国民感情が着いて来ないし、人々に大志を抱かせるイデオロギーが何ら存在しないのである。

今、我が国政府の要職に就いているのは、クーデター後のウクライナと同じような、犯罪者、ギャング集団ばかりであり、彼らには国を率いて行くだけの知性が存在しない。ロシア革命にはレーニンという指導者があったが、今の日本には唾棄すべき悪魔的思想を率いるのにさえ、ふさわしい指導者がない。クーデターによって犯罪者が政権の座に就いたウクライナは、今やもはや国の形を成しておらず、再生の見込みもなくなっている。

このようなことを踏まえると、共謀罪を仮に与党が成立させたとしても、それを機に自らの権力を絶対化したい人々の思惑とは裏腹に、日本をソ連のような国に変えてしまう効果を及ぼすとは考えにくい。むしろ、共謀罪は、東京オリンピックの高揚感に著しく水を差し、日本経済にも絶大なマイナス効果を及ぼし、日本経済を死滅させる決定打となるだろう。

昨年末に、以下のようなニュースが発表されたことは、まだ我々の記憶に新しいが、国土交通省の調査結果では、日本国民全体の外出率が低下していること、特に、若者の外出率の低下が著しく、過去最低を記録したことが発表された。20代では就業者の外出率(移動回数)が60歳以上の世代を下回っており、20代では、就業者も、非就業者と同様の貧困に見舞われている可能性が高いことを予想させる。

筆者は、若者の外出率の低下が、ネットやゲームの普及によって外出の魅力が失われたせいだとは考えていない。若者の結婚離れなどの現象にも共通して見られるのは、その背景にある、若者世代の貧窮化である。つまり、若い世代ほど、仕事に就いても、低賃金で過酷な労働に従事させられる割合が高く、外出に伴う出費と疲労に耐えられないので、休日にも出かけない、という選択肢を選びがちなのである。
 

約4割が「休日出かけない」 1日の移動回数も過去最低に 国の交通特性調査
gooニュース 2016年12月27日 06:30 から一部抜粋

若者の「移動回数」、高齢者を下回る

 国土交通省は2016年12月26日(月)、2015年度の「全国都市交通特性調査」(速報版)を公表しました。

人がどのような目的で、どのような交通手段を利用して移動しているかなど、人の動きをおおむね5年おきに調査するものです。今回は、調査日に外出した人の割合が平日で80.9%、休日で59.9%、ひとりが1日に移動する平均回数(移動回数)が平日で2.17回、休日で1.68回と、いずれも1987(昭和62)年の調査開始以来、最低の値でした。

 若者の移動回数が減少し、高齢者の移動回数が増加しています。休日における20代の移動回数1.43回に対し、70代の移動回数はそれを上回る1.60回でした。特に20代の非就業者における外出率が大きく低下している一方で、人口が増加している60歳以上では就業者、非就業者ともに移動回数が増加していることがわかりました。(以下略) 

 

この調査結果は、共謀罪などが成立して委縮効果が及ぶよりもはるか前から、我が国の国民の自主的な活動が、すでに死に絶えつつあり、この国に巨大な世代間格差が生じていることを想像させるものである。日本経済は特に何事も起きずとも、すでに今の時点で瀕死の状態にあり、その上、共謀罪が成立すれば、老いも若きも、共に外出を控え、人の多い場所や、人との交流を避けるようになるだろう。

何しろ、スタジアムでうっかり隣の席に座って、気さくに話しかけて来た人間が、実は政府が前々から目をつけていたテロの容疑者だった…、などと後になって判明すれば、自分だけでなく自分の周囲の人々にも迷惑が及ぶ。気晴らしに街を歩いていて偶然、昔の知り合いに会って談義していたら、「あいつはどこそこの喫茶店で疑わしい人物と親しく話し合い、交流していた」などと、自分の全く知らないところで、誰かから密告されたりしても困るからである。

東京五輪などは、エンブレム問題や、競技場問題、招致の腐敗した過程、予算の膨張などのスキャンダルが絶えず、政府や五輪組織委員会や、利権団体による自己満足と非難されて久しく、国民の間では、盛り上がりも人気もない。その上、五輪を名目とする共謀罪が成立すれば、五輪は完全にお上によって強制された「官製行事」になってしまい、国民的人気は死に絶えるだろう。

国民の間では、「五輪を批判しただけでも、お上が思想犯の疑いをかけてくる危険があるから、五輪については沈黙するに限る」という暗黙のお約束事が出来上がり、東京オリンピックは腫物扱いされ、話も絶えて聞かれなくなるであろう。オリンピック景気や、盛り上がりどころの話ではない。国民が無差別的にテロリストの疑いをかけられるかもしれない法が成立しようとしている時に、わざわざ自ら出費して、オリンピック観戦に出向く酔狂な者がどれくらいいるのだろうか。

そもそも、共謀罪が成立すれば、日本国民は、人の集まる公共の場へ出かけて行くことを自ら避けるようになる可能性がある。これは人々の草の根ネットワークを一網打尽にすることで、経済を委縮させる危険がある。こうして、貧困に加えて、思想犯との疑いをかけられたくないがために、人々の交流、会話、出会いが途絶えて、少子高齢化にさらに拍車がかかり、すでにあった自主的なサークルや団体も解散することで、無縁社会が加速化し、日本経済に著しいマイナス効果が及ぶであろうと筆者は思う。

それでも成立にこだわりたい勢力は、強行採決に及ぶ所存なのであろうが、カジノ法の強引な成立と同じく、そんなことをしたからと言って、人気が戻ることはなく、彼らに何一つリターンはない。

さらに、次に、共謀罪の真の目的とは一体、何なのか、ということについて考えてみたい。

一つには、共謀罪は、政府に対する草の根反対運動を委縮させて潰すことが狙いである、ということが考えられる。つまり、この悪法の成立を機に、安倍政権への批判が委縮すること自体が、法案成立を目論む勢力の狙いの一つであるかも知れない。

だが、その他にも、筆者は、共謀罪の真の目的として、「テロリストの嫌疑」を名目とする➀国民財産の不当な没収と、②奴隷労働の強制という事実がある可能性を指摘しておきたい。なぜなら、これは、ソ連では実際に行われた事実だからである。

ソ連においては、革命後のアバンギャルドの高揚などは、ネップの終了と共に、1920年代に終わり、1930年代を迎える頃には、すでにスターリンが権力を完全に掌握して、官僚制に基づく巨大な中央集権的な国家を作り上げていたため、ソビエト国民の間では、政権を批判できない空気が出来上がっていた。国民の間での格差は、開く一方で、20年代の終わりに、強制集団化が行われて農民を含む一般国民は、徹底的な窮乏に陥れられる一方で、官僚が貴族のような存在となって特権的な生活を謳歌し、国民に君臨していた。革命の息吹を直に知っている当時の生き証人は官僚機構から次々と粛清されていた。1934年に祖国への裏切りに関する法が成立し、ソビエト国民は政権を批判しただけでも「国家転覆罪」の容疑をかけられて死刑に処される可能性が生じ、実際に、それに基づき、スターリンの政敵が粛清されて行っただけでなく、その弾圧は一般国民にも及び、36-38年の大粛清の時期には、スターリンの指示により数えきれない国民が「人民の敵」のレッテルを貼られ、無実の罪で大量に逮捕され、死刑や強制収容所送りとされた。その後もソ連が崩壊するまで、国家権力にとって好ましくない人物への弾圧は続くことになる。

ソビエト政権がこのように国民に無差別的に「反革命分子」の汚名を着せて大量逮捕に及んだ背景には、疑心暗鬼による恐怖政治の強化、残酷な見せしめ効果、実際に反対者を抑圧したいとなどの思惑があっただけでなく、もう一つの隠れた目的に、収容所群島と呼ばれる大量の強制収容所網を国内に作り上げて、故意にでっちあげの罪により逮捕して囚人とした人々を収容所に送り込んで、強制労働に従事させることによって、囚人労働によって、国内経済の回復をはかろうとする意図があった。だが、むろん、囚人労働を財源とするという意図は隠され、それは表向きには「労働による再教育」と謳われて、美化された。

ソビエト政権は、たとえ宗教のように「神聖」という概念を用いなかったにしても、事実上、プロレタリアートを神聖視し、労働を神聖視する疑似宗教国家であったので、この国家の疑似宗教理念にそぐわない人間を、当局は、「思想的に再教育」して「矯正する」必要があると考えており、再教育の手段として、強制収容所(矯正収容所)に送り、そこで「奴隷的無賃労働」という懲罰に従事させたのである。

だが、実際のところ、その再教育なるものの本当の目的は、国内戦と計画経済で疲弊したソビエト政権が、国力を回復して世界に向けて体面を保つために、国民をタダ働きさせたい、そのために、どうしても一定数の人々を収容所に送り込んで、懲罰的な囚人労働に強制的に従事させる必要がある、ということに尽きた。

むろん、その当時は、ソビエト政権下で、数えきれない人々がいわれなき罪により銃殺されていたわけだけだから、そんな野蛮な環境で、囚人労働がどれくらい国力の回復に役立ったかは分からず、ただ人類に対する無意味な苦痛と抑圧を増し加えただけと言えるわけだが、このようにして、「労働による再教育」という美名を囚人を意図的に作り出してタダ働きさせる口実として用いた詭弁に、労働というものが本質的に持っている忌まわしさが究極の形で現れているように筆者は思う。

実は、筆者が、現在の日本は、事実上の社会主義国であると考える所以もここにあるのだ。話が脱線するようだが、ここで労働の本質とは一体何なのか、考えてみたい。

当ブログではこれまでにも幾度か、触れたように、筆者は、聖書においては、人間の労働は、もともとは罪の結果としてもたらされたものであり、苦役にも等しい呪われた労役であるとみなされていると考える。だが、罪に堕落したアダム来の人間が、実り少ない労働に従事して、自分で自分を支えねば生きられないという恐怖に絶えず脅かされているのに対して、キリストへの信仰を持つ信仰者は、自分の努力によって自分を生かすのではなく、神が養って下さるという信仰に生きる安全と自由がある。

だが、社会主義者は、労働をどうとらえていたのかと言うと、1917年のロシア革命においても、それ以前の社会主義思想においても、彼らは出発点においては、労働について、以上のような聖書的概念から、それほどまでにはかけ離れた考えを持っていたわけではなかった。つまり、社会主義者の目から見ても、常に解雇の危険に脅かされながら、身を粉にして実りの少ない労役に従事せねばならない労働者は、非常に不憫で気の毒な立場に置かれている可哀想な人々であって、プロレタリアート全体が「虐げられている人々」であるから、それゆえに、救済されなければならない対象だとされていたのである。

それにも関わらず、社会主義国は、気の毒な状態にある可哀想なプロレタリアートを解放するどころか、彼らを救済の対象とすると言いながら、その哀れな状態をより一層強固に固定化し、プロレタリアートを賛美することで、抑圧された人々の抑圧された状態を美化し、ついには神聖視までし、永久不変の人間のあるべき姿にまで高め、そこから自由になろうとする人々に「再教育」を無理強いしてまで、抑圧状態から決して逃がすまいと連れ戻したのである。ここに、我々が目を背けるべきではない、非常に深刻かつ危険なパラドックスがある。

ここには、筆者が当ブログで常に訴えてきたマイノリティの美化に潜む危険があると言えよう。カルト被害者にせよ、障害者にせよ、病者にせよ、同性愛者にせよ、ハンセン病者にせよ、元ヤクザ、元カルト信者にせよ、対象が誰であっても同じなのだが、「虐げられている弱者」を、その弱者性のゆえに美化し、同情し、彼らを賛美する思想というものは、およそすべて、結果的に、以上に述べた通り、人間の罪なる状態と、抑圧そのものを神聖視し、人間を抑圧から解放するどころか、ますます抑圧の枷の中に強固に閉じ込めて行く枷になるというパラドックスが存在するのである。

そうなるのは、こういう思想にとりつかれた人々がみな、人間のあるべきでない「可哀想な状態」そのものを美化し、人間の弱みを神聖視しているからである。実際は、罪のゆえに起きただけの不自然で抑圧された状態を、「罪がないのに犠牲者とされた悲劇の人々」のように美化し、弱者の悲劇に酔いしれ、これに涙を流し、人間を美化しているために、そういう現象が起きるのである。

このようなパラドックスが働くために、本来は、低賃金で重い労役からいつまでも逃れられないプロレタリアートを解放するために起きたはずの社会主義革命が、人間をより強固に奴隷的労働の枷の中に閉じ込めて行く檻となったのである。同じ逆説が、カルト化した教会から信徒を救うと言って始まったはずの牧師による救済活動が、信徒をよりひどいカルトの危険にさらしつつ、無差別攻撃し、教会から抜け出せないようにがんじがらめにして行くというものになるのである。

彼らは「可哀想な人々」に同情の涙を流し、人の弱みに上から助けの手を差し伸べることにより、実際には、抑圧された状態を神聖視し、人の罪や、弱みを美化して、そこから人々が抜け出すことが決してできないように仕向けているのである。この偽りの思想に欺かれた人々は、弱者のユートピアという、決してやって来ることのない嘘の理想郷の夢と引き換えに、自主的にあらゆる権利を放棄して、自己犠牲を耐え、宗教団体に献金をし、無償で奉仕をしたり、果ては奴隷的囚人労働にさえ喜んで赴いて行くのである。

だから、こういう偽りの弱者救済の思想が引き起こす矛盾に満ちた現象は、宗教団体であっても、政治的組織であっても、国家であっても、基本的には変わらない。筆者はクリスチャンであるにも関わらず、地上の組織としての教会は、キリスト不在の、牧師という人間の指導者の統治する悪魔的な場所となっているという見解を幾度も述べて来たが、地上の組織としての教会が教えているのは、「人が救われて神に到達するために精進する方法」である。霊的ヒエラルキーの階段を上り、いつかは神に到達するためにこそ、献金や奉仕や学びが奨励されるのである。だが、それは結局、プロレタリアートの国を作り、労働に励むことで、いつかは共産主義ユートピアが到来すると信じた人々の自己救済の努力と何ら変わらない、人間が自力で救済にあやかろうとする終わりなき努力なのであり、聖書の神の提供する救いに本質的に敵対する悪魔的思想なのである。

だからこそ、人が救われて神を信じるために足を向けたはずの教会が、信徒から法外な献金を巻き上げたり、気に入らない信徒を呪ったり、悪魔扱いして追放したり、障害者や、病者や、元ヤクザや、元カルト信者を看板のように売り物にして、伝道を繰り広げたりするといった、歪んだ組織に成り果てたりするのである。それは、そこで提供されているものが、もともと、自分一人では神を求めることができないと考える弱者の弱みにつけこみ、弱者の心を甘言でくすぐり、彼らを美化し、助け手やるように見せかけながら、彼らをダシに己の権勢と利得を追求したいだけの人々が、神を口実にして、永久に彼らを食い物にするために作り出した偽の救済システムだからである。

だから、そういう組織は、自分一人では、決して救済を求めることができず、一人では生きられず、常に誰かの助けや慰めを必要とする人間が、寄り集まって、互いの弱さをかばい合い、弱さを美化して自己肯定感を得るための場所となっており、そのために、そこに集まった人々は、自らの抑圧された状態を美化し、神聖視して、己が不幸に酔いしれて涙を流し続けるのである。

そのようなことをしている限り、彼らの目指す解放は、絶対にやって来ることのない嘘の約束で終わる。そういう場所で、「神聖視」されているものは、人間の抱える弱さであり、罪であり、被害者意識であり、抑圧された状態であって、自由でも、解放でもない。解放は、未来にやって来るかのように各種の謳い文句として掲げられてはいるが、虐げられた哀れな状態を美化する人々がそれに到達することは絶対にない。

結局、教会にある「教え」とは、ソビエト政権が行った「労働による再教育」とカラクリは同じで、生涯、雇用主との関係から逃れられないプロレタリアートを養成するのと同じように、生涯、宗教指導者から離れられない信徒を養成するための再教育の仕組みである。救いに到達したい(≒自分はまだ救われていない)という弱みを持つ人々に、偽りの救済を提供することによって、いつまでも解決を与えないで、弱みを持つ人々から利益だけを搾り取る仕組みである。だからこそ、そこでは牧師(≒官僚)が特権階級として各種の利益を享受している一方で、平信徒(≒一般国民)は彼らに献金と無償奉仕を貢ぐ存在として、終わりなき精進を求められているのである。

むろん、本来、信徒は信仰を持った時点で、すでに救われているのだから、それ以上、救いを求めて精進する必要などないのだが、「教会を離れれば救いを失う」と脅されているために、奉仕や献金をやめれば信仰を維持できないように思わされ、恐怖のために、そこを出られなくなっているのである。

そして、そんな臆病な信徒たちを騙すがごとくに自らの生活の糧を得る手段として利用している牧師たちは、そんなにも立派な教師や人格者なのかというと、それはない。そのほ多くは、村上密自身が、自らの反対者について書いた批判内容のあまりの一方的な決めつけと根拠の薄さ、感情論を読めば分かるように、自分が批判されることにも全く耐えられないほどの未熟者である。

かつてある人が、プロテスタントの牧師には、人格的に未熟で幼稚な者があまりに多いと語ったが、筆者にも同感できる部分が多々ある。若くして、大した人生経験もないまま、自分の教会を任され、一国一城の主のようになって、自分よりもはるかに年上の信徒から敬われ、誉めそやされながら、人生の早い時期に「先生」として持ち上げられることに慣れてしまえば、高慢になるのは無理もない。牧師家庭に婿養子に入って牧師になった者や、二世三世の牧師が、親の七光りと親族のコネを利用して神学校に入り、二、三年、勉強したというだけで、信徒とは別格の存在となり、自分は神の御言葉を取り継ぐ偉大な聖職者だという自負に落ち込むのだから、自惚れにつける薬がなくなるのも当然である。

そのように幼稚で未熟な人間が、事実上の現人神のようになって、信徒に君臨し、栄光を受けている呪われたシステムの中で、信徒がどんなに奉仕と献金に励んだとしても、そこで神を見いだすことは決してなく、高慢になって罪に罪を増し加えるだけで、救いから遠のいて行く一方であろう。

だから、プロテスタントに少数の潔癖で良心的な牧師が仮に存在したとしても、教職者と平信徒の差別的な階級制度を固定化している以上、教界組織には未来がないと筆者は判断するのである。

さて、労働に話を戻せば、我が国における労働にも、教会と似たような効果があると思われるのだ。筆者は、人が働くことに伴う楽しさもないわけではないと思うが、それにしても、我が国における労働の賛美は異常である。日本にはソビエト社会と同じほど、勤労を美徳として、働くことこそ、まっとうな社会人の証であり、働かない人間は、人間でさえないとみなすような風土がある。ひとつ間違えば、それは自主的な囚人を作り出すための思想教育と同じであり、人間の自由よりも、隷従や、抑圧や、束縛を重んじる本末転倒な思想となる。

そして、見渡せば、我が国の労働市場の現状は、ソビエト政権(あるいは教会)と同じように、人間を組織の存続のために容赦なく選別し、踏み台とし、排除する場となっている。社会主義国が、事実上、プロレタリアートを神聖視していたのと同じように、我が国も、労働者を美化することで、これを永久不変の人間のあるべき姿のように目指していると感じられてならない。

だが、こうして人が自由を奪われて抑圧された状態を、望ましい理想のように掲げている限り、我が国における労働は、年々、ますます苦役としての様相を増し加え、勤労者が不憫で気の毒な状態から抜け出せる日も来ない、と思わざるを得ない。

ソビエト政権は、囚人労働まで使って国力を維持しようとしたが、それで国が豊かになることはなかった。ソ連の貧しさ、発想の貧困は、今でも当時を知る人々の記憶にとどめられている。そういう体質、風潮は、今日のロシアにも残っている。なるほど見かけは街や商品が美しくなったように見えるかも知れないが、ソ連時代に教育されて人々に植えつけられた気質は、そう簡単になくなるものではない。特に、抑圧を美化し、不幸を耐え忍び、自由や解放を自ら拒む精神性は、今でも根強く残っていると感じざるを得ない。

だから、結論を述べると、今回の記事では、共謀罪というものは、筆者の目から見れば、すでにずっと前から社会主義国である我が国が、およそ全ての社会主義国が辿った必然的な過程を進む中で登場して来たものに過ぎない。つまり、共謀罪という法案は、国民の自主的な囚人奴隷労働のシステムの完成のために現れて来たのである。

共謀罪の根底には、国家の威信強化のため、官僚制の維持と、大企業の利益と存続のために、我が身を資材として積極的に投げ出す覚悟のない、プロレタリアートの自覚がない人間は、この国の国民としてはふさわしくないので、財産を没収し、強制労働に従事させたい、という意図があったとしてもおかしくない。歴史上、似たようなイデオロギーを持った別な国ではすでに大規模に行われたことであるから、これを妄想として片付けるのは早すぎるであろう。


・人間の定める恣意的な「罪」の概念に振り回されることなく、キリスト者が小羊の贖いの完全性に確固として立ち続ける必要性

さて、ここから先は、信仰の話に戻りたいが、ネット上で起きる出来事は、現実生活において起きる事柄について、筆者に多くの示唆を与えてくれた。そこから学んだ大きな教訓の一つが、人間の考える罪の概念と、神の定める罪の概念の大きなズレであった。

特に、もし共謀罪などというものが成立すれば、そこで定められる「テロ」やら「罪」の定義は、人間が恣意的に解釈するものとなるため、その結果、この法に基づいて、罪人が罪人を罪に定め、万人の万人に対する告発と闘争のような、醜い泥仕合が持ち上がる可能性がある。

だが、たとえそのようにして、人間が人間を訴え、互いに告発し合う、修羅のような社会が広がったとしても、信仰者に必要なのは、ただキリストの義認の永遠性に立脚して、悪魔のいわれない脅しに毅然と立ち向かう姿勢であると筆者は確信している。

人間による罪の定義は、偏っており、不公平で、不完全である。社会は、人間の心身を傷つけ、人間の気分や名誉を害することだけを罪と呼んで、社会的立場が低い者が傷つけられても声をあげない一方で、社会的立場が高く、人々の尊敬や注目を集め、大勢の味方がいる者が傷つけられる時には、我が事のように立腹し、声を上げる。

人はただ自分の心境がいたく傷つけられ、自分の名誉や利益が少しばかり損なわれたというだけの理由でも、他人を罪人呼ばわりし、存在しない嫌疑をかけて誹謗したり、過剰な報復行為に及んで、集団的に痛めつけたりもする凶暴な生き物であるが、ただ人間が傷つけられたというだけの理由では、本当の意味で「罪」と呼べないことは、聖書の御言葉に立脚して主張して行けば分かることである。

人間は、罪について、どこまで行っても、不公平な定義と判断しかできない。だが、神はそのような見方を全くなさらず、人を偏り見ず、しかも、人間の心証を害することを罪とせず、ご自分の御言葉を曲げることを罪とみなされる。

だから、我々は、真に「罪」と呼ばれるにふさわしいものは、一体何なのか、ということを常日頃からよくわきまえておく必要がある。そのことによって、自分自身の身を守ることができるのである。

特に、聖書によれば、悪魔は「日夜、兄弟たちを告発する者」であるから、信者をあることないこと、日々、訴えることをその仕事とし、よすがとしている。これに対して、信者がただ手をこまねいておとなしくその言い分に耳を傾けているようでは、信者には義認の感覚もなくなり、生きる道すらも残らないであろう。

悪魔に立ち向かいなさい、そうすれば、彼はあなたから逃げ去るだろう、という聖書の御言葉が言うのは、この訴える者のいわれなき嫌疑には、毅然と「立ち向かう」ことが必要だという意味であるが、それは「反駁しなさい」という意味を持つと同時に、「悪魔の有罪性を指摘して追い払いなさい」という意味をも含んでいるものと筆者は解釈する。

人があらぬ告発に対して自分を弁護し、自分の正当性と相手の不当性を訴えようとする時には、一定の技術力が必要である。論戦は、格闘技と同じであり、自分が向き合っている相手の特徴と弱点をきちんと見抜いて、取り組み方を考えることが必要である。

あらゆる戦いには防衛と攻撃とがあり、キリスト者の自己防御のためには、小羊の血潮によって保証された自分の潔白と神の守りを微塵も疑わないでいられる揺るぎない信仰が必要となる。信者の攻撃のためには、信者は、真に神の御前で罪とみなされるものは何か、という事実をきちんと踏まえ、悪魔の有罪性を確信し、これを容赦なく追及して訴え、退かない姿勢が必要となる。この防御と攻撃の両者が上手くかみ合えば、どんな者を相手にしたとしても、信者は揺るがされることはない。

キリストが地上におられた時、立派な宗教家である律法学者やパリサイ人たちは、常に御子を罪に定めようとして論戦を挑んだが、キリストはかえって彼らの有罪性をはっきりと指摘された。

筆者がこれまでの経験から分かるのは、人をいわれなく脅し、中傷し、罪に定めようとするような人間は、多くの場合、彼らこそ良心が汚されており、自分は有罪であるという事実を、心の深いところで知っているので、自らの悪事が見抜かれ、暴かれる前に、自分を訴えることのできる潔白な人間をいわれなく罪に定めることで、自分を守ろうとしているだけである。

だから、彼らの良心がすでに汚されているという事実をこちら側が理解し、彼らの弱点に対して彼ら自身が使っているのと同じ方法を適用して、彼らの有罪性を指摘すれば、ほとんどが退散するしかなくなる。

なぜなら、人の自己弁護は、その人の良心が本当に曇りなく明らかでないと、できないからである。罪人も自己弁護するし、悪事を言いぬけようとする。だが、彼らは良心が潔白でないため、自分に対する全ての有罪宣告をことごとく覆すことができるような信念の持ち合わせはないのである。

罪にとらわれている人間は、罪の奴隷であり、打撃が加えられ続ければ、必ずどこかの時点で妥協する。それが罪ある人間の生まれ持った弱点である。

ソビエト政権下では、スターリンによる大粛清の期間には、秘密警察のそれぞれの地域の組織に、逮捕者数のノルマ、銃殺者数のノルマ、強制収容所送りの囚人数がノルマとして極秘に割り当てられた。各地域の秘密警察は、国民の一定数に不当にテロリストの容疑をかけて、逮捕し、拷問により自白を引き出し、あるいは銃殺するか、あるいは強制収容所送りにするか、これを職務上のノルマとして遂行することを求められたのである。

この大量逮捕を実現するために、国家規模で、国家転覆を目的とした大規模なテロ犯罪の容疑がでっち上げられた。スターリンに好ましくない政界の大物を中心として、大規模な秘密のテロ計画があったことにされ、その末端に位置するとの容疑で、一般国民が大量に巻き込まれて逮捕されたのである。

逮捕された中には学生もいれば、アルバイト中の労働者もいれば、主婦もいれば、教師もいた。全くごく普通の生活を送る人々が、突如、職場で、あるいは自宅で、あらぬ容疑をかけられ、あるいは就寝中の真夜中に秘密警察に踏み込まれ、家族の前で連れ去られたのである。だが、そんな不当逮捕にも関わらず、多くの人々は、身内がテロリストの嫌疑をかけられて、警察に連れ去られたことを社会にひた隠しにした。抗議すれば、自分自身も同じ道を辿るだけであると分かっていたからである。隣人や職場の同僚であっても、苦難を分かち合うのは無理であった。そこで、夫を秘密警察に連れ去られた妻が、勤め先では、夫は愛人のもとへ走って自分を捨てたのだと触れ回った例もある。夫が収容所から戻って来た初めて人々は事実が何だったのか理解した。

逮捕された人々の多くは、過酷な拷問や、心理作戦に耐えられず、取調べの途中で司法取引に応じ、当局に指示された通りの嘘の供述、嘘の自白をして、供述書にサインして、自ら犯してもいない犯罪を認めた。その中には、家族や知人に迷惑をかけたくないので取引に応じたとか、親しい誰かに裏切られたショックに耐えられなかったとか、様々な理由があり、人々の心理を熟知した上で、取調官は、できるだけ早く自白を引き出すために、彼らの尋問に当たったのである。

筆者が不思議に思うのは、もしソビエト当局が、警察に逮捕者、銃殺者、強制収容所送りのノルマを課すなら、初めから有無を言わせず有罪という結果を人々に押しつけることもできたはずであり、なぜわざわざ人を痛めつけ、恐怖を抱かせるという手の込んだ手法を使ってまで、時間のかかる嘘の自白を強要したのだろうか、という点である。そこでは、あらゆる証拠よりも、自白こそ最も有力な手がかりとされたわけだが、容疑のみならず、供述書も、果ては自白すらもでっちあげられる状況で、なぜ彼らは嘘の自白の有無にそれほどこだわったのだろうか。

ここに、明らかに国家権力の側からの一方的な暴力だけでなく、人々がそれにどう応じるかという自主性を確かめる余地がある様子を見る。不思議なことに、人間の人生には、特に残酷な時代には、多くのことが、抵抗できない不可抗力のように降りかかるように見えても、実は、その中にも、一抹の自己決定の余地が残されている場合がある。そして、この一抹の関与の余地にどう応答するかが、人にとって極めて重要な問題なのである。信仰者にとっては、これこそ、悪魔の嘘に対して、どう応答するのかを示すとても良い機会なのだ。

以上のような、ソ連で行われたでっちあげの大規模テロ犯罪の容疑と、それに伴う国民の大量逮捕などという恐るべき出来事は、今日の日本には起きない、と人々は言うかも知れない。だが、共謀罪は、そのような国家規模の捏造された事件を生まない保証はなく、さらに、類似した事件は、はるかに小さい規模で、信者の人生には毎日のように起きている。

信者は、毎日、毎瞬、訴える者の告発や脅かしに対してどう向き合うかという選択を迫られているのである。そして、筆者がここで言えるのは次の通りである。

信者は、本来、自分に効力を持つはずのない、魔法のようにいい加減な他人の言葉を信じず、人間が恣意的に定めただけの不安定な罪の概念をも信じず、永遠に変わらない聖書の御言葉が何を言っているかだけに立脚して物事を考える必要がある。

人間は過ちの多い存在であるが、それにも関わらず、キリストの贖いの血潮の効力が永遠である以上、血潮により頼んでいるキリスト者を罪に定めることのできる者は、地上に誰一人としていないのである。その事実は、信者がそこに立ち続けるなら、信仰を通じて現実世界にまで波及する。これが分かると、キリスト者の生き方は変わるであろう。

筆者は上記で、社会主義国が賛美していたプロレタリアートとは、人間の抑圧された状態であって、労働を賛美する人々は、己の罪なる呪われた状態を賛美しているのにも等しいということを述べた。別の言い方をすれば、己の罪を己の努力によって贖う終わりなき苦役を、彼らは賛美しているのであって、労働とは、人類による決して叶うことのない自己救済の方法なのである。

今日、事実上の社会主義国である我が国においても、同様の思想が奨励され、教会に所属している信者が、所属していない信者を見下して、自分は救われており安全だと誇るのと同じように、正社員になったとか、役員になったとか、理事になったとか、どこの団体に所属しているとか、どんな立派な企業や組織に身を置いて、どんな立場や肩書を持って、どれほどの俸給をもらっているかに立脚して、己の完全性を誇ろうとする者は多い。

だが、そんな彼らの義認は、彼らの所属先が奪われた瞬間に、はかなく消え去るであろう。もともと、人間に過ぎない者が、己の罪を自分の努力によって贖うことはできず、所属団体に尽くしたことによって免罪してもらうのは無理なのである。

だから、生まれながらの罪人は、どのように自己救済の努力としての労働を褒めたたえ、自分を選民だと豪語し、己の権力によって他者を脅かし、踏みつけにしようとしても、もしその人間が、救いを知らない単なる罪人であるなら、あるいは、神の御言葉を知りながら、それに従わない罪人であるなら、彼らは結局、自分の罪の奴隷でしかないのである。

そうである限り、罪の奴隷である人間は、一歩たりともその終わりなき贖いという苦役の外に出られない。たとえ無限大の権力を誇っているかのように振る舞い、どんなに支持者が数多くいても、その強大な権力は単なる見せかけであって、彼は自分自身の罪に束縛されて、そこから自由になれず、罪の中に生き、死んで行くしかないのである。その本質を見抜けば、彼らの限界がはっきりと理解でき、その人々が振り回す恣意的な「罪」の概念による脅しは、嘘のように消えて行くだろう。

だから、当記事では、共謀罪の成立を全力で阻止せよという政治的な主張を述べるよりも前に、悪魔的思想に息吹かれた人々が、どんなに無実のクリスチャンを訴え、迫害しようと願ったとしても、クリスチャンには、これを超越するだけのキリストの義認がある、という事実を語ったのである。共謀罪などというものが成立しようとすまいと、小羊の血潮の過越の中にある信者には、悪魔は手を触れることができないのであり、かえって、聖徒を罪に定めようとする人間の方が、それによって罪に定められることであろう。共謀罪が想定する罪状が千になろうと、一万になろうと、それは変わらない。

もともとあらゆる法体系は、人間の良心から出て来たものであり、書かれた文字が全てなのではない。法には、それを超える人間の見えない良心の体系が存在する。最近、イタリアの最高裁では、飢えた者が少量のパンを盗んでも罪には当たらないという判決が出されたそうだ(「「飢えた時、食べ物を少し盗むのは罪ではない」イタリア最高裁の判決とは」 ハフィントンポスト 更新: 2016年05月12日 12時35分 JST )が、それもまた、法の適用にはどんなものであれ、例外が確実に存在することと、法とは本来的に、人間の良心に照らし合わせて解釈すべきものだということを表しているに過ぎない。

そして、人間がどんな悪法を定め、どんなに厳格にそれを人々に適用しようとしても、それは決して律法以上の効力とはならない。この律法による罪定めをキリストは廃棄して、ご自分の霊を通して、律法を信じる者の心に焼きつけたのであるから、この律法によって裁かれ、律法に対して死んだキリスト者は、もはや律法によって罪定めされない自由を持っているのである。だから、キリスト者こそ、本当の意味で、この世の法体系を超える超法的な存在なのだと言って良い。地上にどんな法があっても、キリストに連なる信者を罪に定められる法は事実上、存在しない。小羊の贖いの義認は、この世の全ての体系を超えるのである。

逆に、懸念されるのは、カルト監視機構に賛成していたような教会の行く末である。もしもこの先、キリスト教が「政府に逆らう危険な宗教」と認定されて、信者が教会に集うこともできなくなれば、「教会を離れれば救いを失う」などと言っていた信徒たちは、どこへ行くのであろうか。何しろ、エキュメニズムなどというものが存在する教界であるから、その日には、彼らは「神はキリスト者だけの神ではなく、統一教会の信者の神でもある」などと言って、統一教会にも喜んで合流して行くかも知れない。

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人間の指導者崇拝という偶像崇拝の罪と手を切ることこそ我が国の主権回復の道――安倍による宮中クーデターとトランプ・プーチン賛美者を待つ暗い未来――

・安倍政権が宮中で繰り広げるクーデターと、2017年も終わらないであろう米ロの対立
 
2017年が始まった。今年に予想されるいくつかの問題について述べておきたい。

まず、安倍政権による天皇の政治利用の問題と、米国におけるオバマからトランプへの政権の引継ぎが本当に順調に行われるのか、それによって米ロ関係に緊張緩和が訪れる可能性があるかどうかという疑問から入ろう。

筆者はオバマ氏がこのまま政界から引退することがあるのかどうかに疑問を持っている。すでに他所でも指摘されているように、大統領選前、ヒラリー・クリントン、トランプの両氏が候補者として様々なスキャンダルの疑惑と非難にさらされる中、オバマには不思議なほどスキャンダルがなく、安倍に真珠湾詣でをさせたことなどにも見るように、最後の最後まで、政治家として一定の功績を挙げた。

むろん、筆者はオバマの政治手法を評価しているわけではない。広島訪問の際のオバマ氏の空虚な演説内容によく表れているように、それは単に政治家としての表面的なパフォーマンスに過ぎず、同氏の人間的な資質や誠意や良心などといった事柄とは全くかけ離れた次元の話である。

それでも、国内で大きな反乱を経験せず、最後まで比較的クリーンに見える功績を積み上げたことは一つの成功と言えるであろう。それが、ただ任期が終わったというだけで、政治の舞台から退場して消え去るとは、筆者には思いがたいものがある。

他方、トランプは選挙中から人種差別的・性差別的な偏見に満ちた様々な発言が取りざたされて、相当に偏った狭量な思想を持つ人間であることが明らかになっており、最近も、ツイッターで新年のあいさつと称して爆弾発言をして非難を浴びていることなどにも見るように、その思想的狭量さは本人の人格の深い所に根差すものであって、単なる選挙中の受け狙いのパフォーマンスではないと考えられる。

このような人間が大統領に就くことは、米国国民にとって決してプラスとはならないと筆者は確信するが、とりわけ、この人間に黙って道を譲ることは、オバマにとって、自分の在任中の功績を全て無にするにも等しいだろうと思われる。

オバマ自身が、もし自分が今回の大統領選に出馬していれば、ヒラリー・クリントンとトランプの両候補を凌ぐ功績を残せただろうと語った事実にも見るように(「オバマ氏「私なら勝てた」 クリントン氏批判」毎日新聞2016年12月27日 10時50分(最終更新 12月27日 12時55分)参照)、ひょっとすると同氏にはこの先も何か仕事してやろうという思いがある可能性が否定できない。そういう意味においても、米国の今後は予想不可能な要素に満ちている。

さて、安倍はプーチン訪日の際に、経済協力と称してロシアに無償で国富を提供する約束をしたことにより、領土問題の解決をさらに遠のかせただけでなく、真珠湾訪問では、日本やアジア諸国の戦死者をよそにして、米国の戦没者だけを讃え、慰霊することによって、太平洋戦争を正当化したいという自分の思想を脇に置いても、オバマの引退のための花道を整えるという属国首相ぶりを発揮した。

安倍はその際、パールハーバーで犯した罪の前に頭を垂れるという「屈辱感」から目を背けるためであろう、自分の卑屈さを、天皇に転嫁して話をすりかえたのであった。すなわち、安倍は、今上天皇が、被災者を含め、日本人の苦しみの前に膝をついて耳を傾ける姿を「卑屈」なものとして揶揄することによって、自分は、天皇のように日本人のために跪いたりせず、むしろ、米国人の前に膝をつくのだから、天皇以上の存在である、と、暗黙のうちに、安倍以外の人間には誰も納得できないような、ねじ曲がった理屈によって、パールハーバーを訪れねばならない内心の屈辱感から目を背けようとした。天皇に対して上から目線で接することにより、自分は天皇に「模範を示した」と考えていたものと思われる。

(「生前退位で天皇の意向無視した安倍首相が親しい政治家の前で天皇を茶化す発言! 天皇は誕生日会見で何を語るか」LITERA 2016.12.18.参照)

実際に、安倍は自分をすでに天皇を超える存在とみなしているものと思われる。それが証拠に、自分の息のかかった人物ばかりを集めた有識者会議で、今上天皇が表明した生前退位に関する希望を、一代限りに限定し、皇室典範の改正を拒むことで、事実上、退けてしまった。それも憲法改正という自身の野望の実現に向けてスケジュールを乱されないための策であり、同時に、国家神道の復活にとって障害となりうるような皇室典範の改正を拒むためであったと見られる。

それに加えて、今年は、天皇の新年のあいさつもとりやめになった(「天皇陛下、新年の感想取りやめ=年末年始の負担軽減で-宮内庁」JIJI.COM 2016/12/26-15:32等参照)。

巷では、これについて「天皇の負担軽減のため」という公式説明をほぼ誰も信じていない。今上天皇の新年のあいさつとりやめの事実は、生前退位に関する天皇の意向をNHKが突如スクープした時と同じように、国民の間では、内閣による陰謀として受け止められている。そこでは、➀安倍が自らの政治思想とははるかに隔たりのある今上天皇から発言の機会を奪うために口を封じ、この先も、天皇からは徹底的に出番を奪う気だ、という説と、②天皇自らが安倍に対する無言の抵抗として、自らあいさつを控えたのだ、という二つの観点が論じられている。

だが、今回は、ネットを見る限りでは、➀の観点を支持する人々が圧倒的に多いように見受けられる。LITERAの以下の記事などは明らかにその立場に立っていると言えよう。(「天皇が「主権回復の日」に「沖縄の主権は回復されてない」と異議を唱えていた! 安倍政権に奪われる天皇の発言機会」LITERA 2017.01.01.)

いずれにしても、安倍と天皇との間でバトルが繰り広げられていることは今やほとんど誰も否定しない周知の事実となっている。そして、安倍が着々と今上天皇の意向を退けながら、自分自身が天皇以上の存在であるかのように傲慢に振る舞い、宮中をも自らの勢力下に置きつつあることは、あらゆる事実から察することができる。

当ブログでは前々から予測して来たことであるが、安倍政権の目論見は、巧妙に今上天皇と現皇太子(徳仁)から力を奪って、いずれ秋篠宮家を担ぎ上げて将来的には悠仁を天皇の座につけることにあるだろうと予測する。なぜなら、それによって、安倍政権は今上天皇にしたたかに報復できる共に、最も操りやすい天皇を手に入れることができるからである。仮に現在の皇太子徳仁が天皇に即位したとしても、安倍政権は、その在位を短期間に終わらせるか、実質的な権力を初めから秋篠宮に与えようとしていることが予想される。そのための「皇太子待遇」である。

秋篠宮さまを「皇太子」待遇…「退位」特例法案」(YOMIURI ONLINE 2017年01月01日 12時02分)

上記記事は、タイトルを見ただけでも、安倍政権が今上天皇の「生前退位」の意向を利用して、「退位」と「皇太子待遇」を引き換え条件のようにして、自らに有利な形で皇室に介入を試みている様子が理解できる。

筆者は以前から、佳子様ブームなるものも、秋篠宮家に注目を集めるために意図的に作り出された現象であって、安倍政権の目論見は、今はほんの子供に過ぎない人間(悠仁)を将来的に天皇の座につけることで、天皇を完全に内閣の奴隷、政権の操り人形とすることにあるものと語って来た。
 
そうした懸念は、現在、至るところで表明されており、何ら珍しいものではない。たとえば以下の記事の中には、読売の記事で発表された特例法案に対する分析と批判が詳しく書かれており、今回、内閣が行おうとしていることの恐ろしさが見て取れる。詳細は記事を読んでいただきたいが、要点は、今回の変更は天皇家の三代にまで及ぶものであるにも関わらず、これを憲法と皇室典範の改正という正式な手続きを経ずに、政府が「一括」の特例法案で済まそうとする目論見の恐ろしさ、そこに隠されたやましさである。
  

生前退位特例法案(「一括」という罠)自民党憲法改正草案を読む/番外62(情報の読み方)」詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)2017-01-01 10:42:19 から抜粋
   
 安倍は「ていねい」に審議することを嫌い、すべて「一括」ですまそうとする。そこに多くの「隠し事」がある。
 秋篠宮の経済負担を軽くする(皇族費を値上げする)といえば「聞こえ」はいいが、その背後にどんな思惑が動いているか、見過ごしてはいけない。
 さらに「18年中の退位を視野」というのは、天皇を18年中に退位させ(邪魔を取り除き)、19年には憲法改正を推し進めるというスケジュールを安倍が組んでいることを語っている。安倍の暴走はますます加速している。


安倍の押し通した解釈改憲の時もそうであったが、このように、常に規則破りな形で、自分が超法的な存在ででもあるかのように、法を骨抜きにして、あるいはないがしろにして、己が意向を無理やり押し通そうとするのは、異端・グノーシス主義者の常なる行動である。グノーシス主義は「秩序転覆の霊」だから、そのような思想を持つ人間は、必ず、何事においても、秩序を破壊して行動する。まだ現在の皇太子が即位もしていない今から、秋篠宮をあたかも皇太子と対等であるかのように扱うニュースを発表させるなどのことも、まさに秩序転覆の思想がなければ出て来ない発想である。

しかしながら、ロシアのSputnikなどは、安倍政権のこの卑しい目論見に便乗し、勝ち馬に乗ろうとして、今上天皇の新年のあいさつがとりやめになっただけでなく、来年からは一般参賀もなくなるであろうと、すでに今上天皇を完全に過去の人のように扱う記事を出している。「今日、天皇陛下の最後の新年一般参賀であろう?」(Sputnik 2017年01月02日 07:59)一応、疑問符はついているものの、実際には、もはや今上天皇は安倍の言いなりになるしか道はないと見透かして、今から今上天皇にさよならを告げているのである。常に強い方へばかり簡単に寝返るロシア人の精神性が見事に表れている記事と言える。

しかしながら、こうしたことがあっても、筆者は長期的な展望に立てば、このようにまで安倍政権が暴走して、天皇を再び、内閣の奴隷として政治利用しようとしていることは、将来的には、マイナスにならないと考えている。なぜなら、このようなことをすれば、安倍政権の倒壊と共に、必ずや、天皇制自体の廃止が訪れるからである。ここまで極端な天皇の政治利用が行われなければ、天皇制は今後も平和裡に我が国に存続した可能性が高いが、安倍政権の暴走が決定的な負の事件として歴史に刻まれることにより、やがては天皇制にも終止符が打たれるのである。

本当は、今上天皇により「生前退位」の意向が表明された時点で、この国の天皇崇拝者にとっては「太陽がお隠れになった」のであり、天皇制についてはすでにパンドラの箱が開かれたのである。国民は天皇の苦悩を理解しており、天皇制は国民の前に意義を失っている。この国の「神」(むろん、天皇崇拝者にとっての神)は、この国を精神的な象徴として統治する仕事を自ら放棄したいと望んだのであるから、この国は偶像にさえ見捨てられ、末法のような闇の世界となったのである。

従って、天皇自身がこうして「お隠れになった」以上、今上天皇の退いた後の空席を誰に譲り渡し、誰を後の天皇や摂政に据えてみたところで、この見捨てられた国には日は再び昇らず、この国を統治することは、その人間にとって栄光となるどころか、むしろ、とてつもない重荷となるであろう。末法と化した世を収束させるためには、天皇制を廃止し、安倍政権を終わらせるしかないが、多少、先走って言えば、安倍は必ず最後には、祖父の負うべきであった罪を自ら負って果てるであろうと筆者は予測している。ちょうどヒトラーの最後のようなものだ。全ての事柄について常に規則違反を繰り返すヤクザ・博打・軍国主義政権の指導者には決してまともな最期は来ない。
 
さて、安倍の真珠湾訪問に話を戻せば、オバマに花を持たせることで、属国の卑屈さをこれでもかと見せて、安倍が拙速なトランプ詣でのお詫びをしたにも関わらず、真珠湾での安倍の表情は写真で見ると、どれもこれもプーチンと共にいた時とは比べものにならないほど暗くさえない。顔は悲愴感に歪み、やつれている。それはただ単に慰霊のための演技とは思えず、この真珠湾への訪問が、安倍にとっておよそ報いのないものであったことをよく物語っていただろう。
 
安倍が真珠湾で見せたこのやつれ具合は、何よりも、オバマから受けた精神的苦痛のためと思われる。おそらく、オバマには安倍のお追従が全く通用せず、憎悪にも近い嫌悪感をあからさまに向けられていたのであろうと推測せざるを得ない。そう思っても不思議ではないほど苦り切って困り果てた表情である。
 
死を前にした病人のようなこのひどい表情は、安倍が一方では米国との同盟関係を強調しながら、他方では、トランプとプーチンに拙速に媚を売ったという、理念と礼節の欠如した安倍の八方美人外交に対して、オバマから非常に手厳しい「お仕置き」をされたことの証明であるように思われてならない。

オバマは、安倍が拙速なトランプ詣でをしただけでなく、米国に先んじて、プーチンとの「仲良しごっこ」を世界に見せつけて自慢し、制裁を受けている最中のロシアの大統領に手柄を与えたことを、決して内心では許さなかったものと思われる。そこには、もしかすると、初の黒人大統領としてのプライドもあったかも知れない。
 
ABE OBAMA

写真は以下から転載。「安倍首相の前に現職首相3人が真珠湾を訪問していた、外務省が確認
 The Huffington Post    |  執筆者: ハフィントンポスト編
投稿日: 2016年12月26日 18時51分 JST   更新: 2016年12月26日 18時51分 JST

「真珠湾、安倍」の画像検索結果

写真は以下から転載。「安倍首相を敬語で讃えるワイドショーキャスター、真珠湾訪問報道の違和感-「ポスト真実」支えるメディア」志葉玲  | フリージャーナリスト(環境、人権、戦争と平和) YAHOO!JAPANニュース 2016/12/28(水) 20:49 
 
何しろ、口にするにも値しないほど愚劣極まる発言のため、我が国でさえ、すでに人々には忘れられている可能性が高いが、自民党のさる議員が、昨年に次のような発言をしたことも、当然ながら、オバマの耳に入っていたに違いないと思われる。安倍の軽はずみな行動は、まさに以下のような人種差別的な思想が、安倍の心の中にも存在している可能性を、改めてオバマに想起させた可能性があるだろう。
 

丸山和也議員、オバマ大統領についての「黒人奴隷」発言を謝罪

CNN.co.jp 2016.02.19 Fri posted at 13:52 JST から抜粋

丸山議員は17日の参院憲法審査会で、「いまアメリカは黒人が大統領になっているんですよ。黒人の血を引くね。これは奴隷ですよ」と発言した。

この発言は日本の憲法改正を巡る論議の中で飛び出した。丸山議員は米国の「ダイナミックな変革」を引き合いに出し、「アメリカの建国、あるいは当初の時代に、黒人、奴隷がアメリカの大統領になるなんてことは考えもしない」と力説していた。

<中略>

オバマ氏は初のアフリカ系米国人の大統領だが、奴隷の子孫ではない。父はケニア人、母はカンザス州出身の白人だ。

丸山議員の発言は人種差別的と見なされ、審査会後の記者会見で同議員は「誤解を与えるようなところがあった」として謝罪した。<後略>


オバマはトランプのように表立って相手を罵り、踏みつけにして勝ち誇ったりはしないが、自分が「歴史の舞台から消えゆく人間」として存在を軽んじられたことに黙ってはおらず、静かに怒りを表明し、大統領として残された時間を使って、対ロ制裁強化という「最後っ屁」を放ち、自分をないがしろにした安倍やプーチンやトランプへの置き土産とした。(「オバマ政権、対ロシア制裁発表へ 米大統領選への介入めぐり」CNN.co.jp 2016.12.29 Thu posted at 12:46 JST等参照)。

そこで、2017年の米ロ関係は緊張関係で幕を開けることになるが、それでも、世には未だトランプ大統領の出現によって米ロ関係は緊張が緩和されるという楽観的なムードが漂っている。だが、筆者にはそのように単純に物事が運ぶとはどうしても思えないのである。
 
米ロの二国は、この先、どんなに歴史が進んだとしても、仮想敵国同士の立場から解放される道はないであろう。その点で、天木氏の以下の見解に、筆者はかなり同感する。それはロシアという国が持つイデオロギー本質がもたらす当然の結果である。

そして、その対立は必ず、日本にも波及する。つまり、ロシアが日本にとって真に友好国となることは、多分、この先も決してないと筆者は見ている。だから、安倍が勇み足でトランプとプーチンの二人に媚を売ったことは、全く愚かしい徒労にしかならず、この先も頭痛の種をさらに増やすだけに終わるのではないかと思う。
 

最後に凄みを見せたオバマとひとたまりもないプーチン
2016年12月31日 (天木直人氏のブログから抜粋。)

(前略)
 そして、米国にとって、ロシアは今も昔も、価値観が最も異なる潜在敵国なのである。

 今度の対ロ報復制裁措置は、弱腰大統領と言われ続けてきたオバマ大統領が最後の最後に見せた、プーチン大統領に対する必殺のカウンターパンチだ。

 そして、それはまた同時に、オバマ大統領のレーガシィを全否定しようとするトランプ氏に対する、これ以上ない重い置き土産だ。

 トランプ大統領は、みずから繰り返す米国の国益ファーストと、プーチン大統領のロシアとの関係構築の間で、また裂き状態で出発することになる。

 そして、わが日本の安倍首相は、トランプの米国とプーチンのロシアの間で、また裂き状態となる。

 最後まで、オバマ大統領は安倍首相にとって相性の悪い米国大統領だったということである。


ロシアはしたたかで、プーチンはこの程度のことでは動じない。だが、筆者は、もしかすると、オバマと安倍との因縁は、今回限りで終わらないという気がしている。この先、安倍政権の暴走にどのような形で終止符が打たれるかは分からず、誰にも未来のことは断言できないが、安倍に引導を渡す役割が、政界に返り咲いたオバマになる可能性も、完全には捨てきれないような気がするのだ。いずれにしても、ロシアとの融和を唱えてトランプとプーチンを浅はかに支持した者たちは、間もなく馬鹿を見させられることになるであろう。

さて、ロシアという国のイデオロギー的本質の問題に関してであるが、筆者は以下の一連の記事において、ロシアは共産党政権が崩壊しても、未だ共産主義思想のままなのであり、それはこの先も決して変わらないという見解を述べて来た。そうである限り、ロシアはいつまで経っても、思想的に危険をはらむ国のままであり続けるのであって、我が国がそのような国を信頼することは不可能である。
 
これとほぼ同じ見解を、筑波大学名誉教授の中川八洋氏がブログに記している。同氏のブログはつい最近拝見したばかりだが、その論調は檄文かと思うほどの激しい非難に貫かれていたため、筆者はこれを最初に読んだ際には、学者の見解だとは思わなかったほどである。

しかしながら、よく読んでみると、その内容は、国際政治学、政治哲学の観点から書かれたものであり、相当にロシアという国の歴史や文化に迫って、この国の本質を解明しようとしていることが見えて来る。ロシア人とロシアという国を実際に知っている人間には、痒い所に手が届くように、うなずけるロシア批判なのである。

中川八洋氏は上記のブログで、この度の安倍・プーチン会談の合意を、日本の国益を著しく損なう売国行為として厳しく非難しているが、筆者にとって、何より興味深いのは、同氏がそこで、ロシアという国において、共産主義思想は、ただソ連時代だけに限定して一時的に国家イデオロギーとされただけのものではなく、この国と本質的に一体不可分の精神的基盤をなすとみなし、それゆえ、ソ連崩壊後の新生ロシアも、事実上の共産主義ソ連の延長であるとみなしている点である。こうして、ロシアは今でも思想的に共産主義のままであるゆえに、ロシアと日本との間には、いかなる友好・信頼関係も、決して発生し得ないと結論づける点には、筆者は同感する。

このような説を学者が唱えているとは予想しておらず、それゆえこれが学説としては批判を受けるであろうことも理解できるが、このような見解は、以前に筆者が当ブログで他所の引用をしながら述べたのとかなりの部分で一致しており、国際政治学者でさえ、現在のロシアを共産主義時代の延長とみなしているというのは、大変興味深い。

筆者の見解では、すでに述べたように、ロシアにおける共産主義思想は、1917年革命によって初めてロシアに公に取り入れられたものでは全くなく、それはナロードニチェストヴォなどにも見るような、ロシアの初期の社会主義思想から受け継がれて、その思想が変化したものに過ぎず、そうした思想の起源はさらに古くは、正教の宗教的メシアニズム、より古くはキリスト教導入以前の異教信仰(グノーシス主義)に求められる。要するに、社会主義思想もまた、ロシアにもとからあった異教的精神を土台として移植されたものなのである。

筆者は、「母なるロシア」を神格化する母性崇拝の思想こそ、ロシアの精神性の核となる土着の異教的信仰であり、これが歴史を通じて、ロシアの真の宗教、真の政治思想を形成していたものと見ている。キリスト教や、共産主義といったものは、みなロシアのこの土着の異教的信仰の上にコーティングされた表層に過ぎない。この国の根底に流れるものは、昔も今も変わらず「母なるロシア」への信仰なのである。これは、本質的にはグノーシス主義の変種であり、母性崇拝(=人類の自己崇拝)の思想なのであるが、ロシアのこの異教的本質は、強制的なキリスト教の移植によっては変わらなかった。革命と同時に、表層に過ぎなかったキリスト教の仮面はあっさり脱ぎ捨てられ、代わりに共産主義が表層に移植されたが、それもまた表層だけのことであり、ロシアの本質はずっと異教的精神性のままであったが、ソ連崩壊後に、共産主義の表層が取り去られた時に、内側にあるこの異教的本質が「強いロシアの復活」というスローガンになって表に出て来たのである。

だから、筆者が、ロシアは今でも共産主義国だと言うのは、何もマルクス主義に限定した話ではなく、もっと深い意味で、ロシアの本質が、国家(及び指導者たる人間)を賛美・神聖視する母性崇拝の思想にあり、この国が国家を神聖な世界救済の母体とするメシアニズムの思想に貫かれていることを広義で言い表したものに過ぎない。ロシアのマルクス主義においては、世界初の社会主義国家であるソビエトが、全世界に共産主義ユートピアをもたらす母体として事実上神聖視されたのであるが(しかし、その母体は、望まれた子を生むことなく、むしろ子を食い殺して自分が永遠に存続しようとした)、「母なるロシア」の思想に流れるのも、ロシアが世界を破滅から救う神聖な母体だという思想である。そうした思想は、決して宗教や政治思想の形をとってはいないが、これまでのロシアの国家イデオロギーは全てこの「母なるロシア」を神聖視する異教的信仰が、キリスト教や共産主義を含む多くの異なる思想と合体•混合して生まれたものである。現在のプーチンの「強いロシア」に源流として流れるのも、ロシアそのものを神聖視する異教的信仰なのである。こうした思想があるゆえに、ロシアでは国家指導者が、事実上「母なるロシア」と神聖な結婚の関係にあるものとみなされ、その人物の意向が、国家の意向と同一視され、神格化されるのである。
 
そして、このロシア賛美という母性崇拝の思想の本質は当然ながら、人間を神とするグノーシス主義である。もともとグノーシス主義は、様々な宗教や哲学の中にもぐりこみ、そこに寄生することで知られている。ロシアでは、それがキリスト教や共産主義の中にもぐりこみ、息づいて来たと共に、ソ連崩壊後にもこの国の精神的基盤をなし続けているのである。

だから、ロシアという国が、思想的に大いなる脅威だと筆者が言うのは、この国が本質的にずっと「母なるロシア」こそが世界を救うというメシアニズム信仰に立ち続けているためである。これは統一教会や国家神道やペンテコステ運動と同じく、世界救済の思想であり、言い換えれば、世界征服の野望を示すものでしかない。

ところが、我が国の世論の一部も、このようなロシア美化、ロシア賛美を疑うこともなく取り込んで、すでにかなりの割合、ロシアのメシアニズムに毒されている。たとえば、ネット上では、プーチンを「米国という巨悪と対立して、NWOと勇敢に戦う善人」のように描こうとする意見があるかと思えば、プーチンが日本の国家主権を危ういものとして、「あなた方はどの程度自分で物事を決められるのですか」と問うた台詞を、我が国が対米隷属から脱し得ていないことを見ぬいてこれを鋭く糾弾する慧眼だともてはやし、ロシアこそ、我が国を自立に導く助け手だとする説まである。

こうしたロシア賛美者は、全く愚かなことに、我が国がただロシアに欠点をあげつらわれて、足元を見られ、余計なお節介を受けているだけだという事実がまるで見えていないのである。そもそも、自国の外交の欠点や弱みについて、他国の指導者からお説教され、それを疑問にも思わず、善意と受け止めて喜んでいる時点で、そのような人々はとてつもなくおめでたい愚者としか言えないだろう。
 
実のところ、プーチンは日本人の心に揺さぶりをかけ、分裂を促すために以上のように言ったのであるが、こうしたやり方で、接近した相手の尊厳を貶め、現在、その相手が享受している大いなる特権を自ら捨てさせ、何らかの短絡的なアクションを取るよう促す方法は、まるで聖書の創世記において、悪魔が人類をそそのかすために吐いた言葉にそっくりである。

「それを食べると、あなた方の目が開け、あなた方が神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記3:5)

プーチンの言説のポイントは次の通りである。「米国は本当にあなた方にとって『友』なのでしょうか? もしそうなのだとしたら、どうして米国の許可なしに、あなた方は自分では何も決められない惨めな状態に留め置かれているのですか。あなた方が誰の許可もなしに自分で物事を決められるだけの知恵と力を得ることこそ、あなた方の自立であり、完全な主権ではありませんか。その自立を奪うことによって、米国はあなた方の主権を侵害しており、そうすればあなた方を無力化できると知っていて、わざとそうしているのです。あなた方にそのような状態を強いて、あなた方の主権を侵害している存在が、果たしてあなた方の『友』なのでしょうか。それは友というよりも、敵と言った方がふさわしいのではないでしょうか…」。

これは米国に対する暗黙の反乱の勧めである。国家主権や対米隷属からの脱却や「自立」という甘い言葉を餌にして、同盟国でもないロシアが、我が国に向かって同盟国への裏切りを勧めているのである。それは、ただ我が国を貶める発言であるばかりか、我が国をいずれ米国と分裂させて弱体化させる目的あってこその発言であり、その先には、我が国を侵略し、米国の代わりに属国化したい目的あってのことである。それをなぜ見抜けない人々が多いのであろうか。

筆者は、日本は確かに米国に対して多くのことを物申さなければならず、日米の関係性は変化し、属国状態は解消されなければならないものと思う。沖縄にも、自由が与えられるべきであって、我が国の現在の自立の程度が完全でないことは認めるべきであるものと思う。だが、その自立や、米国からの分離は、これから先、日本人が文化的・精神的成熟によって自ら勝ち取って行くべきものであり、ロシアには関係ない事柄である。我が国の自立の問題は、我が国固有の問題であって、ロシアに指図されるべきものでなく、また、ロシアに接近することによって解決が与えられるような種類の問題でもない。

それにも関わらず、プーチンの言説は、話が途中ですり替えられている。日本が主権を完全に取り戻すという問題が、我が国がロシアへ接近することによって、ロシアから承認されるべきだという内容に話がすり替えられているのである。
 
こうした論理のすり替え、ごまかし、トリックはソ連時代からのロシア人の常套手段であり、プーチンは、同じような論理のすりかえにより、四島返還はナンセンスであるという話題を持ち出し、二島返還の可能性をもはぐらかし、帳消しにした。

「ロシアとは決して交渉してはならない」という中川八洋氏の主張がまことに正しいと言えるのは、こうした事情があるためである。上記で、聖書の創世記で悪魔が人類をそそのかした誘惑の言葉を筆者が引用したのは故なきことではない。こうして、相手の弱点を巧みに突いて、その弱みを最大限に利用して、不当な交渉を行って自分にとってのみ有利な解決を引き出し、相手の弱みを利用して相手の心の内側に侵入し、精神的に揺さぶりをかけ、分裂させて、支配するというやり方は、一連の記事で述べて来たグノーシス主義者のマインドコントロールの手法に共通する。こうした人々が、弱みを抱えた人たちの前にぶらさげる餌も、約束も、決して果たされることのない嘘の「夢」である。

ロシアは、我が国の弱みを盾に取って、我が国を脅し、ゆすっているだけである。つまり、日本が「完全なる主権」を回復し、「自立した外交」を打ち立てるためには、米国から距離を置くだけでなく、むしろ、ロシアに接近し、ロシアとの「友好関係」をロシアに承認してもらえるよう努力すべきだと言っているのである。米国に従っている限り、日本には、ロシアとの友好はなく、領土問題の解決もないのだとささやくことで、「主権」や「自立」や「平和条約の締結」や「領土問題の解決」などを餌に、ロシアに接近すれば、米国との関係からは生まれ得ない利益が我が国に飛躍的に生じるかのように思わせて、その絶対に実現しない期待を担保に、我が国から融資を無限にむしりとり、領土返還についての話もはぐらかして帳消しとし、さらには、あわよくば日米同盟にもヒビを入れて、日本を孤立化させて、ロシアが日本を思い通りに操ることがより容易になるように仕向けようとしているのである。

このように、ロシアと交渉することの危険性は、ロシアが相手の弱みや、利益となりそうな餌をちらつかせることによって、征服したい相手の心に揺さぶりをかけて、思う存分気を持たせて利用し、あわよくば分裂を引き起こし、弱体化したところで、支配して来る点にある。

筆者は、以前に、キリスト教が社会的弱者に対して冷たい宗教であると断罪することによって、クリスチャンに罪悪感を持たせ、キリスト教徒を思い通りに変革しようという悪しき試みがあることに言及したが、ロシアがやっていることはそれに非常に似ており、「日本には完全な主権がない」と暗に示唆することにより、プーチンは日本人に自らの状態が不完全であるかのような自覚を与え、その問題の解消のために、ロシアの指南に従うよう仕向けようとしているのである。
 
プーチンは、安倍や、日本人の心に眠る米国への心理的恨み、対米隷属から脱していないという屈辱感やコンプレックスを存分に利用しながら、以上のようなトリックを用いたのであり、それによって、ロシアこそ、日本のパートナーにふさわしく、世界の未来の覇者にふさわしいかのように見せかけて、日本を自分にひきつけようとしたのである。だが、ロシアが我が国にそのように思わせる目的は、決して我が国の誠意あるパートナーになるためではなく、日本の完全な主権の回復のためでもなく、ただ日本の弱みを盾に取って、脅し、ゆすり、騙すためである。もし、我が国がそれを理解せずに、ロシアに弱点を逆手に取られ、ロシアから承認されたいばかりに、ロシアへの接近を続ければ、どこまでもロシアに思い通りにゆすられる運命が待っているだけである。
 
我が国は、どの国の指導者にも、国家としての主権の不完全性などを指摘されてはならないのであり、まして弱みを利用して足元を見られ、嘘に満ちた不誠実な誘惑の台詞を語らせるような隙を与えてはならない。我が国が完全な主権を回復し、これを発展させ、真の自立と尊厳をぜひとも身につけたいと願うなら、米国に支配の口実を与えてはいけないのと同様、ロシアにも、内政干渉される隙を決して作ってはならないのである。そのような初歩的な事柄も理解できないで、他国から完全な主権がないと言われてそれに反駁するどころか、その説教に喜んで耳を傾けているような愚かさでは、外交などおよそ無理であって、どの国に接近しても、属国化される以外の運命はないであろう。

ロシアが善意から我が国の「主権」や「自立」の問題に言及するなどあり得ないことを理解すべきである。それはただ「分割して統治せよ」の法則に乗っ取り、相手をより操りやすくするために、疑いを吹き込んで分裂を促しているだけである。こうして近づいた相手をまず分裂させて弱体化させることこそ、侵略しようとの意図を隠し持つ国の使う古典的な外交手段なのだと、いい加減に早く理解した方が良い。

すでに述べた通り、ロシアという国の国家イデオロギーは、いつの時代も、ロシアが世界の覇者となることにこそあり、そのためにこの国は膨張・拡大を続けて来た。ロシアはその精神性において、今でも世界征服を国家の最終目的とみなしているのである。そうである以上、必ず、同じように世界の覇者を目指す米国とも対立関係になる運命にあり、米国だけでなく、ロシアに接近する全ての国は、この国に飲み込まれないために対策を講じなければならないのである。

オバマにはおそらくプーチン率いるロシアの戦略がよく理解できており、安倍が心理的な弱みを握られてすっかりプーチンの手玉に取られていることも分かっていたであろうし、それが分かっていればこそ、対ロ制裁の強化という形で抗議を残して行ったのであろうが、残念ながら、安倍の方では、自分がプーチンに何をされているのかさえ、見抜く力はなかったと思われる。

安倍のみならず、我が国の世論の一部は、あまりにも未熟で、お人好しすぎるために、ロシアという国が持つ潜在的な悪意を見抜くことができないで、70年間、関係が膠着状態にあった国と、望みさえすれば、速やかに友好や信頼が成立するように思い込んでいる。プーチンに「私を信頼してほしい」と言われれば、疑うこともなく「はい」と頷いて着いて行くのでは、まるでショッピングモールで迷子になった子供が、知らない大人に声をかけられて、そのまま疑うこともなく誘拐されるのと同じような愚かさである。

インターネット上では、プーチンとトランプがタグを組むことで、この二人があたかも現在の悲壮感溢れる諸問題から世界を救ってくれる救済者になるかのような楽観的な期待さえ漂っているが、こういう安易な期待に身を任せる人々は、何度、騙されれば、自ら愚かな為政者(しかも他国の!)の野望の道具とされる馬鹿さ加減から、目覚める時が来るのであろうか。
 
このような人々の心理は、いかがわしい宗教指導者の言い分を真に受けてカルト団体に入信する信者たちによく似ており、自分を誰かから完全な存在と認めてもらいたい、自分を承認し、受け入れてもらい、自分が今抱えている問題に一足飛びに解決を与えて欲しいという願いがあだとなり、自分に都合の良いことを言ってくれる宗教指導者に群がり、子供のようにその後を追って誘拐されて行くのである。彼らは連れ去られ、戻って来ないであろう。

そのように、自分の抱える問題を、自分の手で解決しようとする忍耐強い努力を常に怠って、誰か強そうな他者にすり寄り、手っ取り早い助言や解決を求めて彼らにすがり続ける幼児的な欲求があだとなって、彼らは自分に優しくしてくれる者を簡単に善人だと思い込み、他人の悪意や、下心を見抜けず、その不誠実な発言に何度でも騙され、振り回され、人生の宝を奪われるのである。
 
そして、そのように自ら騙されて行く愚かな人々は脇に置いたとしても、詐欺師と詐欺師との間にも、友情と信頼が成立するはずがないのは言うまでもなく、この先、トランプとプーチンとの間に、決して信頼関係が生まれることはないと筆者は確信している。そこにあるのはただ、どちらが先に食われるかという問題だけである。

イスラエルが孤立化へ向かっているのと同じように、どの時点で、どこの国が、ロシアに対して実力行使に立ち上がるのか、ということが問題なのである。そうなるまで、ロシアは自分には敵を作ったり、世界と戦ったり、世界を征服する野望など全くなく、目指しているのはあくまで友好と信頼関係だと言い続けるであろうが、いつまでそのように気を持たせて時間を稼ぐことができるだろうか。
 
プーチン訪日前には、ソフトバンクの孫正義氏が、海底パイプラインを使ったロシアの電力会社との取引に乗り気だというニュースが流れたりもした。(「プーチン氏とも会談 北方領土の鍵握る「孫正義ペーパー」」(NEWS ポストセブン 2016.11.21 07:00)参照。)だが、もしも我が国がこの先、ロシアのエネルギーに依存して、ライフラインをロシアにあずけたりすれば、有事の際には、早速、我が国も現在のウクライナのような運命を辿るだけである。IT事業や人工知能の分野でロシアと協力すれば、すべての情報がロシアに渡り、もはや国防どころではなかろう。

トランプ、プーチン、安倍、孫正義などの面々に共通するのは、彼らが本質的に理念の欠如した商売人だということである。彼らは常に儲け話を追い、自らの権勢の拡大と栄光を飽くことなく追い求め、常に勝ち馬に乗って、自分を素晴らしく偉大に見せかけてくれる環境を求め、そのためには、人を欺いたり、約束を翻すなどの不誠実な行動も平気で取り、自分が騙して凋落させた敗残者を容赦なく踏みしだいて勝ち誇ることを、己の人生のよすがとしている。このような商売人が政治の世界に足を踏み入れ、為政者になると、国民はひどく不幸になる。

孫正義氏は、以下の記事等にも見るように、以前には60歳を迎えれば引退するかのように表明していたが、これを撤回することにより、グーグルから自らの後継者と目して引き抜いたニケシュ・アローラ氏をわずかな期間で退任させた。「アローラ退任、孫社長「変心」までの22カ月 「欲が出てきてわがままで続投」は本当か?」(東洋経済ONLINE 2016年06月27日)

複数の情報によると、関係者は、孫氏がアローラ氏に事業を譲るなどの計画は初めから信じていなかったように見受けられる。だが、もし後継者として道を譲るという期待を持たせておかなければ、アローラ氏は孫氏のもとへやって来たであろうか。

ビジネスの世界では、他人を騙すがごとくに出世を約束し、存在しない偽りの期待を持たせることで、その人の人生を自分に都合よく利用して、短期間で使い捨てるなどのことは、ありふれた現象に過ぎず、ブラック企業では毎日のように起きている。まさに生き馬の目を抜く世界である。

上記のような出来事を通して、孫氏が個人的にどういう人柄であるか、我々は伺い知ることが出来る。勝つためには、手段を選ばず、他人を踏み台にしてでも、勝ち残るというタイプである。こういう人間であれば、トランプやプーチンとはウマが合うであろう。

だが、孫氏がアローラ氏に対して行ったことは、違法ではなくとも、必ず何かの報いを伴うであろう。なぜなら、人にいたずらな期待をもたせて失望に追い込む人間は、自分が他人にしたことの報いとして、もっと大きな罠にかけられる危険があるからだ。おそらく、このような理念の欠如した商売人のタイプの人々は、何人集まっても、意気投合するのは一瞬だけで、互いに利用し合い、最後には裏切り合って終わり、彼らの間に真の友情や連帯が生まれることは決してないであろうと予測する。誰が最初に食われるのか、問題はそれだけなのである。

さらに、日本国では急速に国民の貧困化が進んでいるため、高額な携帯料金を払えないで解約する人々も続出している。ただでさえスマートフォンが盗聴や監視の手段として利用されている事実が世間に広まっているため、人工知能も警戒されており人気がない。携帯業界はこの先、急速に斜陽になる可能性があるものと筆者は思う。

さて、ロシアに話を戻そう。以上に挙げた国際政治学者の中川氏は、Wikipediaには、「政治哲学に関しては、1980年代はマルクス・レーニン主義に対する批判的研究をしていたが、1992年から英米系政治哲学に研究の軸足を移した。2000年に入り、フランクフルト学派社会学を含め、ポスト・モダン思想、フェミニズム、ポストコロニアリズムにまで研究対象を広げ、これらの思想の危険性を訴えている。」とあり、詳しい研究内容はまだ知らないのだが、おそらく共産主義思想とフェミニズムなどの思想に、共通の土台がある事実を見ていたであろうと思われることが極めて興味深い。

こうして、学者の世界においても、共産主義や、フェミニズムの思想に、本質的な共通性があって、それは古くはグノーシス主義にまでさかのぼることを、「正統と異端」という概念に照らし合わせて研究していた人々の存在があることは興味深く、このような視点は、『解放神学 虚と実』(荒竹出版)を著した勝田吉太郎氏らと重なる部分を感じさせる。

筆者の考えでは、現代政治のあらゆる問題は、その本質を辿って行くと、最終的にはみな「正統と異端」という対立構図に行き着く。世界のおよそ全ての政治的・思想的対立の背後には、未だに「キリスト教対グノーシス主義」という構造が潜んでいると言っても過言ではない。

むろん、ここで筆者の言う「キリスト教」とは決して、決してプロテスタントやカトリックや正教といった今日的なキリスト教界の宗教組織を指すのではなく、聖書の記述が現す見えない思想的(霊的)本質を指す。

そして、グノーシス主義の危険とは、今までずっと当ブログで述べて来たように、ロシアの国家イデオロギーだけにつきものなのではなく、欧州・米国・我が国などのキリスト教界にも公然と入り込んでおり、統一教会と深い関わりのある安倍政権や、日本会議に支配された日本政府を通して、我が国の政界に深く浸透している。政府与党が暗黙のうちに目指している国家神道に基づく戦前回帰のイデオロギーなども、まさにグノーシス主義を起源としている。その意味で、現在の日本の政府と政治は全体がグノーシス主義に汚染されてしまっている。

だが、だからと言って、もともとすでにある危険の上に、さらなる危険として、ロシアにおける共産主義までも取り込んで、国を消滅の危険にさらす必要はないであろう。


・人間に過ぎない宗教・政治指導者を美化・神格化して崇拝する偶像崇拝の罪と訣別しなければ、沖縄を含め、我が国には自由も解放もない

信仰者の目から見れば、この世の事象と霊的世界は合わせ鏡であり、この世の問題の根底には「正統と異端」の対立があることが見て取れる。

2009年、自民党から民主党への政権交代が起きたのは、日本のクリスチャンの間で、グノーシス主義に汚染されたキリスト教界への批判がかつてなく高まっていた時期であった。ペンテコステ運動のような米国発の非聖書的な偽りのキリスト教への疑念と批判が信者の間で噴出し、さらに、人間に過ぎない宗教指導者を絶対的な存在として崇め、奉る牧師制度がキリストへの信仰に反する人間崇拝の罪であるとの批判が噴出し、この罪と手を切って、キリスト教界からエクソダスしようとする信者が続出していた。

これは、キリスト者が人間を美化・賛美する偶像崇拝から脱し、聖書に基づく正しい信仰に立ち戻ろうとする正しい運動であったと筆者は見ている。

しかし、この運動がその後、辿った経緯は非常に教訓に満ちたものであった。この時に生まれたキリスト教界への批判者たちが、その後、どうなったかというと、彼らは自分が批判していた教会からエクソダスして、聖書に基づくまことの信仰に立ち戻るどころか、再びどこかの宗教指導者や、組織や団体に帰依して、前よりも深く巧妙な偶像崇拝に落ちて行き、その結果、キリスト教界における偶像崇拝の罪を批判する者たちや、教界をエクソダスした者を同士討ちに陥れて口を封じ、自ら改革を潰すという愚行に及んだのである。

当初、見えない神にのみ従うことを誓って、人間に過ぎない指導者への隷従からの自由と解放を目指して、組織や団体を出ようとしていたはずのクリスチャンたちの、この180度の転向と愚かしい同士討ちという、腐敗と堕落の過程は、民主党の瓦解の経過にも似ており、筆者がそれらの出来事の分析から得た教訓は計り知れないほど大きい。

この草の根的な運動を堕落させて潰すために、とりわけ信者たちに巧妙な分裂の罠をしかけたのが、キリスト教界の宗教指導者であり、その中に、信者を泥沼の裁判に引きずり込んで疲弊させる村上密やDr.Lukeのような人々がいた。

この人々は、キリスト教界に対する信者たちの怨念を巧みに吸い上げる形で、人々の弱みを利用して自らの運動を作り上げた。彼らは、不誠実で信頼ならない指導者であったが、彼らを非難したり、告発する人間たちが、彼らよりもずっと不器用でみっともなく見えたため、人々は立ち回りが上手く声の大きいこの指導者の方を支持し、すすんでその手先となって利用されて行ったのである。

人前で救済者を演じる詐欺師のような宗教指導者たちは、人々の心の中にある勝ち馬に乗りたい願望、人前で見栄を張り、自分が攻撃されて恥をかきたくない願望などを大いに利用して、反対者を徹底的に嘲笑して、見世物にすることで、自分を勝者に見せかけて、支持を拡大したのである。

しかし、彼らの虚勢は見せかけに過ぎなかったので、以上のような宗教指導者に信頼を託した人々の希望は、すぐに風船のように弾け飛び、解放や自由の代わりに、隷属と恐怖だけが残った。

トランプとプーチンの手法は、以上のような宗教指導者らの手法に非常によく似ている。彼らは反対者を貶めることと、自分が勝利者であるかのような「ムード」を醸し出すのは得意だ。だが、彼らの主張には内実がないため、「まことしやかな雰囲気」に欺かれて、彼らを支持した人々は、悲惨な結果に至るだろうと筆者は見ている。この人々の連帯は、気の持たせ合い、騙し合いの連帯なので、長く続くことはないからだ。

筆者が、沖縄は米軍基地問題を巡る政府との闘いで敗北するであろうと言っているのにも、以上と同様の理由がある。沖縄の解放という問題の根っこには、偶像崇拝が深く絡んでおり、筆者は、沖縄クリスチャンがカルト被害者運動と公然と訣別しない限り、彼らには政治的にも勝利はないと考えている。

なぜなら、人間の利益は神の利益に勝らないからだ。自分の生活の安寧や自分の名誉を、信仰よりも優先して、人間に過ぎない指導者につき従っている限り、その信者にはいかなる自由も解放もない。まことの神は全てをお造りになった方であり、この方のみを崇め、従うことは、辺野古の海を守るよりもはるかに重要事項である。そのことをクリスチャンが理解して、自分を解放してくれそうな人間への浅はかで愚かな期待を捨てない限り、沖縄が騙され続けることは変わらないであろう。しかし、それは沖縄だけでなく、日本全体に共通する問題なのである。

改革者や解放者を名乗って現れる人間の指導者に安易な期待を託して欺かれる人々の心の根底には、いつも自己美化の願望がある。自分を美化しているから、宗教・政治指導者などを美化して、期待を寄せるのである。しかし、聖書は人間の本質について何と言っているか。クリスチャンが聖書の事実に立ち戻り、真に頼るべき存在は誰かという問いに正しく答えを出さない限り、我が国にはただ人の奴隷となる道だけが延々と続くのである。だが、かつて起きた出来事は、信者が人間崇拝という罪と完全に手を切って、まことの神への貞潔を回復するならば、速やかな解決があることを示している。


欧米諸国を裏切ってまでロシアにすり寄る安倍政権を待ち受ける国際的孤立と、極東シベリア共同開発に名を借りた日本政府の大陸侵略の野望

・米国とEU諸国との協調を裏切って、ロシアと「同衾」した日本政府の二股外交が必然的に招く国際的な孤立

カジノ法案の衆院での強行採決以来、我が国の多少なりとも見識ある全ての人間の目には、安倍政権が詐欺の温床であり、危険極まりない地獄への暴走列車であることがはっきりと見えてしまった。

安倍政権には、もはやインテリ知識人層からも、カルト内閣、広域暴力団安倍組、博打政権の博打外交など、歯に衣着せない容赦のない呼び名が向けられ、人々が侮蔑と憎しみを隠さないようになっている。

反原発、反TPP、北方領土返還、アベノミクス…、これまでに安倍政権が打ち出したすべての施策が、国民を欺くための詐欺の仕かけでしかなく、それは国民に嘘をついて存在しない偽りの甘い夢を見させておいて騙し、その間に、可能な限り、国富を収奪して、外国に貢ぎ、我が国を破滅へ導くために打ち出される詐欺と売国のスローガンであることが未だかつてないほどに明白になったのである。

そもそも「この道しかない」などと言い始めた時点で、すでにそれはカルトなのである。「この道」という言葉は、宗教の信者がよく使うものであるが、クリスチャンにとっての道とは元来、一つしかなく、どこかの目に見える人間が、「私が道だ、私が唯一の道を指し示す」などと言い始めた時点で、その人間は反キリストの霊の持ち主であることが確定していると言って良い。

キリスト教徒でなくとも、おそらく、宗教家はいち早く安倍政権の恐ろしさ、特に、安倍が現人神となって国民に強要しようとしている自分への崇拝が極めて危険な似非宗教であることにすぐに気づくはずだ。このような政権を支持する者には、どんな宗教を信じていようと、信仰者としての矜持はない。都議会における自民党と公明党との分裂が取沙汰されているが、いずれ国会でも両者は分裂し、現役官僚からも離反者が出ることであろう。この先、みなが安倍に騙されていただけであることが、もっとあからさまに分かって来る。どんなに控えめに言っても、安倍はもはや正気ではないのだと、誰もが思うようになろう。

だが、目下、正気を失った博打政権が、自分が倒される前に、もっと壊せるだけ徹底的に日本を壊そうと、ロシアからマフィアの親分を連れて来て、二人で一晩以上をかけて懇ろに仲むつまじく語り合ったというのだから、このニュースには背筋がぞっとするとしか言えない。

領土問題に何の進展もないことが前もって分かっていたので、筆者はプーチン訪日という出来事には何の期待も寄せず、冷ややかに見つめるのみであったが、プーチン氏の到着から一夜明けて、当初感じていた不快感は、安倍の犯した売国の罪によって、取り返しのつかない事態が起きたのだという、さらに不気味な予感へと変わった。

領土が返還されないのに、安倍がロシアに3000億円もの経済支援を申し出たという狂気じみた外交的敗北から始まり、タイ人のウォン・ウティナン君には強制国外退去処分を言い渡しておきながら、ロシア人の入国のためにはビザ要件を緩和するという。平和条約も締結されていないうちから、北方領土やシベリアの共同開発という無謀な計画に前のめりになり、さらに平和条約をダシにして、「信頼関係の構築のために、双方の国民感情を傷つけないよう配慮する」などといった無茶な約束まで口にする。

やはり、安倍は空恐ろしいことをやってしまったという印象である。天木直人氏が12月16日の記事「歴史に残る安倍首相の対プーチン屈辱外交」に書いているように、この「屈辱外交」が我が国にもたらす弊害ははかりしれない大きさになると思われる。最悪の影響は、今後、日米同盟関係が急速に悪化しかねないことだ。

筆者は、日本は対米隷属から脱しなければならないと考えるため、日米同盟は必ず見直され、最終的には、日本は米国の傘下を出なければならないと思う。だが、その方法が、日本政府が米国の意向を無視してロシアに寝返ることによって、日米関係を急速に悪化させるというあまりにも拙速かつ愚かな方法であるべきでないのは明白である。

しかしながら、この度の安倍・プーチン会談は、EU諸国、そして米国との関係においても、日本の外交の決定的かつ明白な分岐点となるであろうと筆者は予測する。70年間続いて来た戦後体制は、プーチン訪日という日に終わったのである。だが、それは実際、安倍の望むような美しい形ではなく、また、我が国の自立という形でもなく、ただ米露への二股外交というあまりにも恐るべき裏切りに満ちた不誠実なドロドロの関係で終わった。

これまでの事実から、筆者には、日本政府は、国民をイジメ抜くための悪意を込めた政策を、大抵、週末に向けて発表することが分かっている。

いかがわしいカルト宗教は、信者を徹底的に疲労困憊状態に追い込むことで、信者が片時も落ち着いて物事を考えることができず、カルトの偽りに気づくチャンスがないようにすることが知られているが、カルト化した安倍政権が国民に対して絶え間なく行っていることも、それと同様の精神的な攻撃である。

つまり、勤労者の国民の大半は、月曜から金曜までの平日は、サービス残業や、過重労働でへとへとにさせられた上、週末に向かっても、心を締めつけられる不穏なニュースばかりを聞かされて、休日にも精神的な苦痛の中に置かれることになるが、これは、国民を決して精神的にリラックスさせないために、政府が故意に行っていることである。
 
これまでのあらゆる出来事から判断して、この国の政府高官及び官僚たちは、休日を迎える前に、特に念入りに、自分たちの権力が永久に安泰だと信じて高枕で眠れるように、国民に向かって精神的な圧迫と恐怖を増し加えるような残酷な政策を発表することを悦楽にしているものと見られる。
 
だから今回、安倍が国民を愚弄するがごとく、北方領土返還という存在しない偽りの夢をちらつかせながら、あろうことか、その存在しない夢と引き換えに、日本の国富を早々とロシアに売り渡すと決めたことを、週末に向けて発表したのは何ら不思議ではない。
 
もしも今回、そんなことよりももっと驚くべき事実があったとすれば、それはちょうどプーチンが日本に来たのと同じタイミングで、EU首脳会議で対ロ制裁の延長が決定されたというニュースが流れたことである。

以下に引用したニュースでは、NHKが懸命に、EU諸国のロシアへの強硬路線と、米国および日本のロシアへの立場は違うのだと強調しようとしているが、今のタイミングで、EU諸国がこれほど強烈にロシアへの対決姿勢を明白に示したのには、明らかに、ロシアに対する恫喝と警告だけでなく、ロシアに協力関係を申し出る日本政府に対する牽制と恫喝の狙いが暗黙のうちに含まれているように感じられてならない。

今回のEU首脳会談と、プーチン訪日という出来事が、どこまで互いに影響を与え合っているのかは分からないが、EU首脳は一致して、彼らの敵意をよそに二国首脳だけで懇ろな関係を強調するプーチンと安倍の両者に対して、厳しい警告と弾劾と受け取れるメッセージを発したのである。

そこで、今回のEU諸国の対ロ制裁の延長の発表のタイミングは、今回の日ロ首脳会談が、これからの日本の外交にはかりしれないほどに暗い影を落とすことを暗示するものであると筆者は見ている。つまり、今回、日本は欧米の対ロ制裁の足並みから完全に外れたのであり、そうなった時点で、ロシアと共に国際的に孤立の悪影響に巻き込まれる道はすでに定まったのである。
 

EU首脳会議 ロシアへの経済制裁延長で一致NHK 12月16日 10時21分

EU=ヨーロッパ連合は首脳会議を開き、ウクライナ情勢を受けて続けてきたロシアへの経済制裁を、来年7月末まで延長することで一致し、日本やアメリカがロシアとの関係強化に向けて動き出す中、ヨーロッパは引き続き、厳しい姿勢で臨む方針を打ち出しました。

EU各国は15日、ベルギーのブリュッセルで、ことし最後の首脳会議を開き、対外政策を中心に話し合いました。

この中で、おととし、ウクライナ東部で、政府軍と親ロシア派の戦闘が起きて以降、EUが親ロシア派の後ろ盾となっているロシアに対して続けている経済制裁について、来年7月末まで延長することで各国が一致しました。

この制裁は、ロシアの政府系の金融機関や、エネルギー関連企業がEU域内で資金調達を行うことや、ロシアとの武器の取り引きを禁止するものです。

EUは制裁を延長する理由として、去年、ウクライナ政府と親ロシア派が合意した停戦が、完全には履行されておらず、ロシアが役割を果たしていないことを挙げています。

ロシアに対しては、日本がプーチン大統領の訪日をきっかけに関係強化に乗り出しているほか、アメリカのトランプ次期大統領もオバマ政権とは一転して関係改善に意欲を示しています。

しかし、EUでは、ロシアがウクライナの主権を侵害しているとの非難が根強く、ロシアと国境を接し、警戒を強めている国も多いことから、引き続き厳しい姿勢で臨む方針を打ち出したかたちです。


果たして、この先、米ロの関係が本当に改善されて、日米ロ間に緊張緩和の蜜月が訪れるなどといった保証はない。トランプはまだ大統領になっておらず、米国がロシアへの態度を軟化させるだろうという予測は、トランプの意向だけに基づく期待値込みの楽観に過ぎない。

いずれにしても、米ロの関係改善がまだ実現していないにも関わらず、安倍が米国に先んじてロシアを味方につけて関係改善を誇ろうとしたことは、米国に対する挑発行為のように受け止められて仕方がなく、安倍が各国首脳に先駆けて、一人トランプ詣でをして得意になった時と同じように、そこからは、米国を出し抜いて世界をリードする立場に立ちたいという野望を誇示する浅はかな狙いが透けて見えるだけである。このような行為に厳しい報いが伴わないとは、到底、考えられない。
 
それにしても、ヨーロッパ諸国は、地理的にロシアとの距離が近いことから、ロシアに占領される恐怖がよほど根強いものと思われる。我々はEU諸国の「ロシアに占領される」という恐怖に鈍感であるべきではないと思う。

むろん、ウクライナのユーロマイダンの政変は、親EUを旗印に掲げる人々を使った陰謀によるところが大きく、この政変によって引き起こされた同国の混乱を一方的にロシアの非とするのは適当でないと筆者は考える。クリミアも自らロシアへの帰属を望んだのであり、これをロシアが軍事力で侵略したと述べるには無理がある。

だが、そういう事情をさて置いても、ウクライナにおける親EU派と新ロ派の対立は政変が起きるずっと以前から続いて来たものであり、両者の間には水面下での激しい駆け引きがあった。
 
これまで幾度となく繰り返して来たことだが、米国も深い闇であるが、ロシアも米国と同じほど(あるいはもっと)深い闇である。

プーチン政権は、ブッシュ政権がそうであったように、偽のテロ事件を引き起こすことによって、国家権力を強化し続けて来たと言われる。いわば、敵を自ら生産することによって、国内の団結を作り上げるという、米国と同じ手法を取ってこの政権は成長して来たのである。

チェチェン戦争が、米国にとっての9.11と同じような、ロシア政府による偽旗事件であったことや、プーチンが権力を握り続けた代償が、ロシアの議会制民主主義の死であったことなどは、アンナ・ポリトコフスカヤのようなジャーナリストによってすでに幾度も指摘されている。

そのポリトコフスカヤを含む、プーチン政権に手厳しい批判を向けたジャーナリストの数多くが暗殺と思われる不審死を遂げている事実や、そもそも、これほど長い間、ロシアでプーチン氏の政権が続いているという事実だけを見ても、それ自体がおよそ民主主義からはほど遠い尋常でない状況と言わざるを得ない。そして、ロシアという国は、体制がどれほど変わっても、歴史的にはずっと絶え間ない国家権力の増強、領土拡張政策を取って来たのであり、現在、起きている出来事も、その延長上にあるとみなされる。

特に、ソ連時代のロシアは実際に軍事力による侵略・制圧を繰り返して来ており、ヨーロッパではそのことはまだ記憶に新しい。だから、武力による制圧であれ、どんな方法であれ、ロシアが領土を拡張して影響力を増し加えようとすること自体が、EU諸国からは「脅威」とみなされるのは不思議ではない。

そのような事情を加味すると、EU諸国の「ロシア恐怖症」は、ただ単に米国に一方的に肩入れしているがために生まれたというよりも、もっと深い意味を持つものであり、何よりも、それは自国がロシアに占領され、侵略されることへの本能的な恐怖から来るのだと言えよう。

もしそうだとすれば、我が国は、こうしたロシアの隣国による直観を決して軽視すべきではない。人間であっても、国家であっても、原則は同じであるが、遠くにいる他人だけから好意的な評価を受けていても、近くの隣人との間で絶えまなくトラブルを起こし続けて、隣人からの評価がことごとくマイナスだという人物は、要注意である。そうなるには、必ずそれだけの理由が存在する。ロシアには、いつも次々に敵が現れ、しかもロシアがその敵を利用して、自分が不当に攻撃されている被害者であるかのように装いつつ、着々と力を蓄え、味方を増やして来たこと自体が、政治的に巧妙な作戦であると見なければならない。

米国が世界各地で絶えず戦争やクーデターを人工的に引き起こしては金儲けの手段として来た事実が全くいただけないものであると同様に、ロシアという国に、次から次へと敵対する国々が登場して、戦いが起きているのも、決して良い特長とは言えない。ある意味では、その敵意と反目自体が、ロシアが自ら引き起こしている現象だという可能性がある。

だから、あえてそのようなトラブルの渦中にある国に、同盟国の出方もまだ決まっていないうちに、日本がわざわざ自分から先んじて接近して行くメリットなどどこにもないのは明白である。特に、日本のこれまでの米国追従に貫かれた戦後史全体を振り返っても、日本の首相が米国大統領に先んじて、そのような行動を取ることは異例であり、それ自体が、同盟国へのとてつもない裏切り行為、挑発行為と受け止められて、したたかに報いられる危険は否めない。

折しもちょうど沖縄でオスプレイが落ちて、日本国内で反米感情が高まっている時である。それを好機とばかりに、巧妙に米国に悪役を押しつけて、日本の首相が他国に媚を売ったのだから、そうした事実は、米国から見れば、「同盟の意味が全く分かっておらず、守ってやる価値もない国」と見られ、蔑まれるだけに終わりかねない。

もっとはっきり言えば、米国のポチに過ぎないはずの属国が、恐れ知らずにも、親分を悪者に見せかけながら、親分を裏切って、他国と密通し、不義を重ねたという話なのだ。

安倍がどうしてもロシアに接近したいのであれば、米国との関係を清算して、我が国が自立した外交を打ち立て、対ロ制裁の行方に対しても、国際社会において態度を明白にしてから、そうすべきであった。一方では米国の庇護を求め、対ロ制裁に加わっておきながら、もう一方では、制裁中の国に自らすり寄り、信頼関係を強調し、経済支援を申し出るなどの無節操な二股外交は、全く筋が通らず、国際的に何の信頼にも結びつかないのは当然である。

むろん、今のところは、オバマも含めて、公然と安倍の恥ずべき振る舞いを非難する者は各国首脳の中にはないであろうと思う。なぜなら、安倍の振る舞いは、あまりにも幼稚すぎて、知識人が言葉に出して取り沙汰する価値すらもないからだ。だが、彼らが名指しで非難しないことと、報復して来ないこととは訳が違う。愚か者には、愚か者にふさわしい返答の仕方がある。安倍の卑しい野望は、すでにトランプからTPP離脱で梯子を外されたことにも見る通り、諸国に見透かされており、この先、国際社会から黙ってのけ者とされ、一斉に梯子を外されることで、報復を受ける可能性がある。そういうしっぺ返しがなくとも、このまま安倍の二股外交が続くと、その結果として、日米同盟は揺るがされ、米国の代わりに日本がロシアへ追随するという事態さえ考えられないことではない。

そうなった場合に最も恐ろしいのは、日本がロシアに代わって世界的な孤立をその身に背負わされることである。

今までにも述べたように、日本が今ロシアに接近しても、損害以外に受けるものは何もない。ロシアは、日本が対ロ制裁に加わっている間に、中国をアジアの経済的なパートナーとして選んだため、日本が今から極東開発にどれだけ協力してみたところで、しょせん、ロシアから中国以上の経済的なパートナーとみなされることはない。

中国とロシアは安倍の望んでいる「中国包囲網」を知った上で、決してこれに手を貸すことはなく、むしろ、この二国は、安倍の心の内を完全に見透かした上で、いずれそれを裏返しにする形で、逆に日本を包囲して孤立化させて来る可能性が高いと思う。仮にもしそういうことが行われるとすれば、それは、ロシアがさらに親密さをアピールして、何かの餌をぶら下げて、より懐深く日本を自らに引きつけることにより、また、その誘いに乗って、安倍政権が一見、自立を装った米国との訣別を持ち出すことにより、日米関係に本格的にヒビが入り、日本が最も無防備になった瞬間に行われるであろう。

筆者の考えでは、ロシアは必ず、したたかに日本の期待を裏切って、いつかこの国に攻め入って来るはずだ。その裏切りは、すでに領土返還なしにロシアが経済協力だけを日本からむしり取った時点で始まっていると言える。ロシアとはいかなる信頼関係の構築も土台、無理であり、この国は他国を利用することしかできない。思想的にも、KGB出身のプーチン氏を頂点に頂いている事実にはっきりと見ることができるように、この国ではソ連時代の歴史と教育の影響は未だ根強く、ロシアは今でも共産主義のままなのである。

だから、ロシアと共産党政権下の中国との間には、もともと安倍の思想など全く及ばないほどに、より強力な結びつきと、親和性があると考えられ、仮に対ロ制裁に日本が全く加わらなかったとしても、日本が両者の間に割って入ることはもともとできない相談であったと思う。

そして、そのことは日本にとって幸運だったのである。共産主義という思想は、我が国が決して内に取り入れるべきではない危険な思想であり、また、「強いロシアの復活」を目指すプーチン型の国家主義的な統治も、非常に危険な性質を持つものである。ロシアには歴史上、強大な国家権力が圧倒的大多数の民衆を抑圧し、虐げるという以外の国家形態が存在したことがない。だから、これまで日本が米国に阻まれ、中国に出遅れてロシアへの接近の機会を失って来たことは、何ら問題ではなく、ロシアとは距離を保っておくに越したことはないのだが、安倍は自ら米国をよそにしてロシアにすり寄り、他国がロシアに厳しい態度で接し、距離を置いている時に、抜け駆けしてロシアと懇ろに「同衾」したことによって、ロシアという国家に歴史を貫いて流れて来た負の思想を、完全に内に取り込み、輸入してしまった。山口でのプーチンへのもてなしという安倍の行動は、プーチンこそ安倍の本命であったことをよく物語っている。なぜなら、安倍は日本を裁いて軍国主義政権を終わらせ、祖父をA級戦犯とし、日本を属国化した米国を憎んでいるからである。プーチンへの思慕は米国への当てつけであり、まさに、裏切りであると言える。だが、当てつけであり、裏切りであればこそ、プーチンへの接近は決してどの国にも何の信頼関係ももたらさず、ただ裏切りによって終止符が打たれのである。

米国は、そんな愚かで節操のない安倍の振る舞いに内心で呆れ果てながらも、ロシアと同じように、何らかの形で手ひどく報復することで利益を奪い返すチャンスを伺って、あえてこの問題に言及することなく、安倍政権を泳がせる可能性がある。何しろ、米国は、かつて日本軍による真珠湾攻撃を知っていながら、あえてこれを阻止せず、日本軍の愚かな暴走を許して意図的に泥沼の戦争に引きずり込み、広島と長崎に原爆を二つも実験的に投下し、日本が一億玉砕の手前になってやっと敗戦を受け入れるまで導き、今もこの国を事実上の占領状態に置いている国であるから、精神的に未熟でお子様のままのこの国と、決して国民を大切にしようとしない日本政府の精神的弱点をどのように利用し尽くして利益を得るかなど十分に研究済みのはずである。

だから、筆者の見立てによる最悪のシナリオは、日本という国が、今後、安倍の野望を見透かされた上で、米ロの両国から可能な限りゆすられ、たかられるだけでなく、やがては米ロが犯した似たような悪事の尻拭い役として、それ以上の悪事を犯すようにそそのかされて、国際的に悪魔役を演じさせられ、その結果として再び権威失墜して、かつての敗戦のごとき破滅に至り、自国をまともに統治する能力のない国として、第二の占領状態に置かれ、様々な国に領土を分割されて他国に統治されて終わるという悲劇である。

今のままでは、そうした結末も、あながち幻想だとは言い切れない。安倍はまさに外患誘致に等しい形で、最も危険な国と自ら懇ろに通じ、国のトップとして公に国を売り、危険を誘致しているのである。そのようなことの結果としてやがて起きるのは侵略である。我が国が侵略するのでなく、侵略されるのである。これを止める方法は、安倍政権を退陣に追い込み、安倍の唱える地獄へ直通する「この道」を封鎖し、なおかつ、米国ともロシアとも距離を置いて、平和的な方法で自存する道を探すことだけしかない。

 
・かつての満蒙開拓団とシベリア抑留の悪夢をよみがえらせる北方領土やシベリアにおける日ロ経済協力と共同開発

国家の病とは厄介なもので、国家権力による民衆弾圧の歴史がずっと繰り返されているロシアの例を見ても分かるように、この亡霊のような歴史的負の遺産を払いのけ、これと訣別するのはそう簡単でないと思われる。そこで、仮に安倍政権が早期に打倒されなかった場合、今後、善良な国民は、日本政府の唱える欺瞞に満ちた抑圧政策からどのようにして身を守るかということだけが、焦眉の課題となるだろうと思う。

日ロの首脳会談に合わせるように、EU首脳陣が対ロ制裁の延長を表明したことには、上記した以上の意味があって、筆者は、今回のプーチン訪日は、安倍の本心を試すために、日本に対してあえて仕掛けられた一種の罠なのだという気がしてならない。

なぜなら、この度、安倍首相がロシアにすり寄った背景には、日本政府も、あわよくば大陸へ進出して、ロシアと同じように領土を拡張するという利益にあやかりたいという野望が透けて見えてならないからだ。

つまり、安倍が北方領土を取り返すという「夢」を国民の前にぶら下げて、シベリアや北方領土の共同開発に積極的に乗り出そうとしているのは、その実、日本政府の領土拡張政策という悲願の一端を示しているに過ぎず、この政府が真に目指しているのは、かつてと同じように、大陸にまで国土を広げること(要するに侵略)なのだと筆者は考えざるを得ない。

安倍の目が今見ているのは、現実の日本ではなく、かつての「大日本帝国」の抱いていた幻想なのであり、同氏にとっては、現実の北方領土が今どこの国の帰属であるかなど、全く大した問題でなく、大陸へ進出する機会を掴むことによって、かつての軍国主義政権の偽りの夢であった「大東亜共栄圏」の再生へとつながるきっかけをつかむことこそ重要のだと思われてならない。

だから、実のところ、安倍がロシアに肩入れすることによって、擁護しようとしているのは、自分自身の侵略の野望であり、ロシアへの制裁を緩和することによって、解き放ちたいと思っているのは、かつての軍国主義時代の侵略と世界征服の夢なのである。安倍はできれば、ロシアからも北方領土を奪い返したいと思っているが、それがならずとも、まずは北方領土やシベリア共同開発という名目で、大陸進出のきかっけを与えてくれそうなプーチン政権に、味方のようにすり寄り、跪いてでもその機会を頼み込みたいわけである。足がかりさえ作ってしまえば、あとはどうにでもなる、活動しているうちに、いつかその地を我が物として奪い取ってしまえば良いという算段なのであろう。

むろん、ロシアはロシアで、安倍の魂胆は十分すぎるほどに見抜いた上で、したたかに日本を利用するためにやって来たに過ぎない。当然ながら、ロシアは日本に1ミリたりとも領土を割譲してやる気などなく、ただ安倍政権の野望を思う存分に利用して、日本企業を自国の領土開発の都合の良い使い捨て材料として徹底的に利用し尽くすことを考えているだけである。

この両国首脳は腹黒さという点では同じであり、お互いに「友好」、「信頼」、「協力」などの甘い言葉をちらつかせながら、自らの本心を隠して、相手をどうやって騙そうかと虎視眈々と互いに目配せし合っているだけである。

安倍が今回、プーチンを山口に招いてもてなし、経済協力を約束したことを通して、言わんとしているのは、「どのような方法であれ、己が領土を先に拡大した者が勝ちなのですよ、ねえ、ウラジーミル(ちなみに、ウラジーミルという名前は、「世界征服」を意味する象徴的な名である)。ロシアはウクライナとクリミアでは実によくやりましたね。我々はあなたの手腕を高く評価していますよ。だって、あなたのなさったことは、全ての国が自分もやりたいと望んでいることじゃありませんか。それにも関わらず、制裁でそれに答えるというのは、我々も本心では納得できないところです。しかし、これまでにはアメリカの力が強すぎて、我々としても、勇気を持って物申せない部分があったのですが、これからは少しずつこの煩わしい関係を見直して行くことにしますので、もう少しだけ待っていていただけませんか。ここは一つ、提案ですが、本格的に我が国が米国から自立し、貴国と平和条約を結べるまでに成熟する前に、まずはあなた方に支援を約束しますので、その見返りに、我が国にもぜひ新たな出番を与えていただけないでしょうか。あなたの国の豊富な天然資源、広大なシベリアの領土の開発などは、我が国にとっては前々から実に魅力的な投資材料と映っているのです…」

いつまで経っても、歴史に学ぶことなく、自ら墓穴を掘り続ける愚かな政府である。

かつて日本が大陸に侵略を企てたときにも、今と同じように「経済」が謳い文句であった。それは領土の拡張という国家的な野望のためだけでなく、まずは財閥をぼろ儲けさせることをこそ主たる目的に行われたのである。大陸での「開拓」は、要するに、大企業にとっての新たなフロンティアであり、カジノと同じような一獲千金の夢であった。

従って、筆者の目には、現在の安倍政権にとって、北方領土とシベリアに眠る利権を狙ってロシアと経済協力を行うことは、かつてこの国が目指した「大東亜共栄圏」という悪夢を再びよみがえらせるための侵略戦争に向けての初めの第一歩なのだと感じられてならない。

つまり、安倍のプーチン政権への憧れにも似た思慕には、国家主義の復活という夢だけでなく、何よりも領土拡張の夢が込められているものと考えられる。北方領土問題を持ち出したのは、そのきっかけに過ぎないのである。

だから、これから先、日本政府が打ち出すであろうシベリアの共同開発や、日ロ経済協力などといった美辞麗句は、そういう文脈でこそ、とらえなければならない。要するに、それは開発(開拓)に名を借りた侵略の野望の言い換えに過ぎないのであり、日本政府は、ロシアと同じように、無限な膨張拡大を夢見ているのであり、北方領土についても、本心ではロシアの主権を全く認めておらず、今後も認めるつもりがなく、ロシアもこれと同様に、4島を日本に返還する気などさらさらなく、日本の活動拠点とするつもりもないにも関わらず、二つの政府が互いに本心を隠しながら、互いを欺き合って、どうやって利権を餌にちらつかせることで、相手を最大限に利用し、巻き上げられるかを考えながら、「互いの主権を尊重する」といったむなしい絵空事のような空文句を弄して騙しあっているという恐ろしい現実があるに過ぎない。

そこには「友好」もなければ、「信頼」もなく、ただ互いに相手を騙し、食い尽くそうという悪意が存在するだけである。他国の領土に意欲的に開発に出かけて行くことは、いつの時代であれ、侵略の野望を隠し持ってこそ行なわれる行為であり、警戒される。かつての日本軍による「満州開拓」がそうであったように、そういう政策にすすんで巻き込まれた人間を待つものは、破滅以外にはない。

そもそも国家としてこれまで長期に渡る交流の積み重ねも実績もなかったロシアと日本の二国の首脳が、突然、まるで夏休みのキャンプ中に仲良くなった中学生のように、首脳同士の相性だけで、「友情」や「信頼」を言い始めるのは、とてつもなく不気味で、信用ならない事態であり、こういう形での親密さのアピールは、すべて国民を欺くための偽りの舞台演出であって、詐欺のしかけでしかない。このような信頼だの友情だのに見せかけた目くらましの魔法は、必ず、裏切り、騙し討ちの侵略となって本質を現わすだろう。

安倍晋三のような人間は、これまでどの場面においても、誰との関係においても、嘘ばかりを並べて、不誠実な言動を繰り返して来た。ついに米国にさえ不忠実な行動を取り始めたのである。このような人間が、親しさを演出して誰かに近づくのは、ただその相手を食い物にする目的のためだけでしかない。ロシアはそんな安倍には似合いの相手で、安倍がロシアに近づいたのは、ロシアから奪い取りたいという目的あってのことで、プーチンもそれはよく分かっていながら、自分の方が上手であると自負していればこそ、あえてその誘いに応じたのである。こうして、二国の首脳が互いを騙し合い、互いから奪い取るためにこそ、「友情」を演出して、互いを懐に引きつけあっているのである。こういう恐ろしい関係には、決して関わらず、巻き込まれないのが一番である。

これから先、どういう形で日本政府が日ロの経済協力や、極東や北方領土の共同開発を宣伝するのかは分からないが、「行きは良い良い、帰りは怖い」で、政府の打ち出す一獲千金の夢にたぶらかされて、目をくらまされ、その政策に浅はかに踊らされれば、その人間には、以下のごとき愚かしい悲劇が繰り返されるだけだと筆者は予想する。

画像は「満蒙開拓団の集団自決」(季節の変化、2015-08-30)から引用。



右は長野県が作成した「満蒙開拓青少年義勇軍募集」のポスターだが、見るからに知性の感じられない若者の姿を故意に描いたとしか思えない悪趣味な絵である。(シベリアと北方領土の開発利権に内心で涎を垂らす今の安倍の心境はまさにこのようなものではないかと推測される。)

満蒙開拓団とは、かつて日本政府が行った大々的な開拓キャンペーンにより、大陸に移住すれば豊かになれると言われ、一獲千金の夢で心を釣り上げられた日本の農村の貧しい人々が、騙されるも同然に、日本政府が作った傀儡国家としての満州へ国策として移住させられた挙句、第二次世界大戦中、ソ連軍の参戦により同地が戦禍に見舞われると、日本軍によってたちまち容赦なく見捨てられ、地獄の逃避行へ追い込まれ、集団自決などの悲劇へ追いやられたものである。

戦禍の中、かろうじて生き残った人々も、ソ連軍によって強制収容所へ送られたり、家族と生き別れになって、中国人の間で売られたり、働かされたり、現地人と結婚させられたりして、つらい生活を余儀なくされた。山崎豊子が『大地の子』で描いたような中国残留邦人も、そのような中を生きた人々である。

大陸に置き去りにされて、帰国がかなわなくなった中国残留邦人や、ソ連の強制収容所に送られた抑留者の存在があることは、戦後すぐに分かっていたが、中国残留邦人については、1972年9月の日中共同声明による日中国交正常化が起きるまで、中国領内で起きていることの事情は我が国では容易に知り得ず、調査もかなわなかった。日中国交正常化後も、日本政府は、かつて自らが積極的に推進した開拓キャンペーンの悲惨な結果と責任を直視したがらず、政府が中国残留邦人の肉親調査に乗り出したのは、ようやく80年代になってからのことであった。

さらに日本政府に残留邦人と認められて帰国や帰国後の支援を受けるには条件があり、必要な証言がそろわず、残留邦人と認定されず帰国もかなわなかった人々もおり、認定を巡って長期に渡り、日本政府と訴訟となり、裁判によってようやく認められたケースもある。日本政府から残留邦人と認められて日本に帰国しても、あまりにも長い年月、大陸で暮らしていた人々には、日本人としての記憶は薄く、言葉の壁や就労の壁が立ちはだかり、日本人としての暮らしは困難であった。また、中国残留邦人に比べれば数は少ないとはいえ、ロシア領内に取り残され、ロシア人と同化して暮らした人々も存在し、中には、本当にロシア人となって日本人のアイデンティティを捨てて生きた人もいた。

ソ連兵から帰国させると言われて騙されてソ連の強制収容所に送られた日本人は、そこで想像を絶する悲惨な生活を強いられ、実に数多くが飢えと過酷な労働で死に絶え、ようやく帰国しても、世間からアカになったなどと言われて後ろ指を指され、過酷な差別を受けた。

中国残留邦人の存在が80年代には日本の世間の注目を浴びてメディアに盛んに取り上げられたこととは対照的に、シベリア抑留者に対する戦後の補償は、あまりにも長い間、日本政府からも、ロシア政府からも見向きもされず、シベリア抑留者への補償という問題自体が、戦前戦中に「非国民」扱いされて特高警察によって拷問されて死に至らしめられた国民への補償と同様に、長年、差別感情などの中で、タブー視され、深く覆いがかけられ、隠されて来た。

仮に過酷な収容所生活のせいで発生した深刻なPTSDの影響などがあったとしても、彼らが肉体的にも精神的にも受けた苦痛に対する公のケアは全く行われず、抑留生活のために生じた苦しみは、長年、個人が心の内に抱えて耐え続けるしかなかった。そのようなことになった背景には、かつて敵軍の捕虜とされるくらいならば、自ら命を絶つべしと教えて一億玉砕を唱えた日本政府の洗脳の結果、他国の捕虜となって抑留されたこと自体を、国への一種の裏切り行為のようにみなして暗黙のうちに個人の責めに帰そうとする政府の暗黙の考えと、そういう考えに迎合して抑留者の存在をタブー視し、抹殺し、擁護しようとしなかった世間の風潮の影響が根強くあったのではないかと考えられる。

戦後強制抑留者法に基づき、シベリア戦後強制抑留者に対する政府の特別給付金の請求受付が始まったのは、ようやく2010年(平成22年)、民主党政権下のことである。しかも、すでにあまりにも多くの抑留者が亡くなった後のことで、政府の施策としては遅すぎるものであった。おそらく、民主党への政権交代が起きていなければ、未だに抑留者への補償は皆無だった可能性があると思われてならない。

だが、それよりもっと恐ろしいのは、こうして他国の領土で起きた外国絡みの事件で、対外的にも存在が否定できない人々については、まだしも真相解明の努力が行われ、補償の話が持ち上がったものの、たとえば、日本国内で特高警察によって「非国民」の罪を着せられ、拷問を受けて獄死した人々や、隣組の密告に基づき、そのような嫌疑をかけられて殺された人々の遺族などには、今ももって政府からの謝罪や名誉回復はおろか、何らの補償も行なわれておらず、真相究明の努力が一切なされていない事実である。これは非常に恐るべきことであり、日本史の深い闇であるとしか言いようがない。

話を戻せば、侵略戦争はまさに博打のような賭けであり、政府の美辞麗句と甘い儲け話に踊らされて、実現できもしない夢を思い描いて、大陸に赴いた人々は、日ソ中立条約を破ったソ連の侵攻と、都合が悪くなると国民を置き去りにさっさと逃亡した日本軍によって、騙し討ちにされるようにして二重に裏切られ、生き地獄のような環境をさまよわねばならなかった。以下は、Wikipediaの「中国残留邦人」から抜粋しただけの短い文章だが、ここに日本政府の無謀な大陸進出という無責任な夢に巻き込まれた人々が、どんな悲劇に見舞われたのか、その一端を伺い知ることができる。
 

1931年9月18日以降の満州事変後、直ちに日本は清の最後の皇帝である溥儀を担ぎ出し、旧満州(現中国東北部)で満州国をつくった。建国と同時に満州事変以前より提唱されていた日本の内地から満州への移住(満蒙開拓移民)が実行され、日本は1936年の廣田内閣の計画では500万人、実数では32万人以上の開拓民を送り込んだ。

移民が大規模になった背景には、アメリカ合衆国発の世界恐慌の影響を受けて発生した昭和恐慌によって、当時の日本の地方の農村地域は疲弊と困窮をきわめていた事にある。娘を身売りさせる家が続出し、窮乏生活を送らざるを得ない農業従事者は強い移民志向を持っていた。

第二次世界大戦末期の1945年8月に日本と中立条約を結んでいたソ連が同条約の一方的破棄を宣言し、8月9日、ただちに中国東北部(満州国)への侵攻を開始した。これを既に予測していた関東軍は民間人よりトラックや車の徴用を済ませ、列車も確保した。軍人家族らはその夜のうちに列車で満州東部へ避難できたが、翌日以降に侵攻の事実を知った多くの一般人や、遅れをとった民間人らは移動手段もなく徒歩で避難するしかなかった。国境付近の在留邦人のうち、成人男性は関東軍の命令により「国境警備軍」を結成しソ連軍に対峙した。避難民はおのずと老人や婦人、子供が多数となった。

ソ連侵攻と関東軍の撤退によって満州における日本の支配権と、それに基づく社会秩序は崩壊した。内陸部へ入植した開拓民らの帰国は困難を極め、避難の混乱の中で家族と離れ離れになったり、命を落とした開拓民も少なくなかった。遼東半島にソ連軍が到達するまでに大連港からの出国に間に合わなかった多くの人々は日本人収容所で数年間にわたり収容、帰国が足止めされた。収容所での越冬中に寒波や栄養失調や病気で命を落とす者が続出した。1946年(昭和21年)春までその帰国をソ連が許さなかった為、家族離散や死別の悲劇がここにも生まれた。この避難のさなかで身寄りのなくなった日本人の幼児は縁故または人身売買により現地の中国人の養子(残留孤児)に、日本人女性は同様に中国人の妻となって生き延びることになった(残留婦人)。


かつて日本政府が抱いた侵略の野望は、大陸諸国の人々に深い苦痛と悲劇をもたらしたのみならず、日本人にも、数えきれない悲劇をもたらした。だが、安倍晋三の主張を通して、まるでその悲劇が、何の反省もないまま、現代によみがえろうとしているかのようである。かつての歴史の反省も不十分なままに、今度は「行け、北方領土!! 目指せ、シベリア開発、日ロ経済交流の発展の夢!!」といった軽はずみなスローガンを唱えて、またもや政府が企業の尻を叩いて金儲けを目的にシベリア開発に参入させるつもりなのであろうか。

これまで政府が後押しするまでもなく、日ロ経済交流を目指した企業はいくつもあったが、結局、そういう業界が栄え、ロシア企業との密接な信頼関係を構築することはほとんどと言って良いほどなかった。それは、ロシア独特の様々な制度的弊害がビジネスの障害となって立ちはだかって来たことの結果でもある。さらに、ロシア人には歴史的に約束を守らない国民性があり、これまでプーチン大統領が会談の約束を守らなかったことも、一度や二度ではないと言われる。このような国民性は、日本人の常識から見ると、全く考えられないものであり、ロシア人の常態化したルール違反と、法外に煩雑化された法律上の手続きは、日本人の想像を超えており、日ロのビジネスの発展にとって極めて有害な阻害要因となって来た。

そうしたことに加えて、ロシアが以上に述べた通り、ソ連崩壊後も、日本人のシベリア抑留者に対して何の補償も行なっておらず、中立条約を破っての参戦という歴史の総括も行なわず、ソ連時代に抑圧した自国民や他国民への補償問題を棚上げしたまま今日に至っていることが、日本人のロシアという国に対する負の感情を醸造する大いなる原因となり、信頼関係の構築を妨げて来た。自国にとって都合の悪いことは歴史的過去であっても認めようとはせず、決してこれを謝罪することも責任を負うことも補償することもしない、このような体質の国と友情や信頼は育めないと考えるのは、日本人の自然な国民感情である。

だから、このような政治状況では、今後も、日ロ関係が活発化するとは思えず、大企業であっても、中小零細企業がこれまで幾度となく阻まれて来た壁を超えるのは困難であろうと筆者は予想する。たとえこの先、北方領土で、あるいはシベリアで、日本人とロシア人の自由な行き来が出来るようになり、共同経済開発が行われたとしても、それだけでは、ロシア人を日本人が信頼するには早すぎるのであって、それだけでこれまで培われなかった信頼関係が突如として生まれるようなことは、決して今後も起きないであろうと言える。

今回、ロシアとの信頼関係が長い時間をかけて構築されるよりも前に、北方領土や極東シベリアにおける経済協力を日本政府が自らロシアに申し出たことは、北方領土に対してロシアの統治権を認めることに等しい敗北であるばかりか、それはさらに日本人をロシアの国益のために、自国の法の及ばない領土に向けて差し出すことを認めたも同然である。自国の法の保護外に出た人間は、単なる外国人であり、いざ政変が起きれば即、難民にしかならない。

そういうあいまいなゾーンで、これら二つの国がこれからやろうとしていることは、どこからどう見ても、シベリア抑留の時代とさほど変わらない日本人に対する無責任な騙しと搾取でしかないように筆者には見受けられる。

とにかく、国際社会におけるロシアへの扱いが今後どのようなものになるのかさえ、まだ分かっておらず、ロシアへの不安材料が山積みになっている今のような時に、やれロシアとの信頼関係の構築だの、経済協力を申し出るだの、安倍の主張していることはまるで正気の沙汰ではない、と言わざるを得ない。経済協力は、領土問題に決着がつき、平和条約が締結されてから、その後、考えてみても良いことであって、それが領土返還や、平和条約締結のための前提条件のように差し出されるのは異常である。

そのようなことをやっていれば、平和条約の締結という言葉で、今後も無限にゆすられ、たかられることになるだけである。そもそも、平和条約の締結の対象外である国と、どんな協力関係があり得るのか、それ自体が笑止千万であり、平和条約の締結がなされて来なかったのには、それだけの理由があることを考慮せねばならない。にも関わらず、平和条約締結がないことを「異常」とみなして、これを日本側からの積極的な歩み寄りの努力によってのみ解決しようと主張すること自体が、すでに常軌を逸した発想であり、狂気の沙汰としか言いようがない。

そういう転倒した理屈になるのは、結局、安倍政権の本当の狙いが、ロシアとの信頼関係の構築などにはなく、要するに、カネと利権に目がくらまされて、大陸進出という悪夢に再びうなされて飛びつこうとしているだけだからである。開発、協力といった美名の裏で、領土拡張の野心を燃やし、再び、一獲千金の夢で人の心を釣り上げて、安全の保障のない危険な地域に国民を送り出し、一山築こうと考えているから、そうなるのであって、他国との友情や信頼などは騙しの口実に過ぎない。政府のそうした騙しの手口は、戦前から今に至るまで何ら変わっていないと言えよう。

繰り返すが、本当は北方領土も奪い取ってでも取り戻したいという本心を隠したままで、口先だけ友好や協力を申し出ることで、他国に味方のように近づいて行く、そんな不誠実で下心の見え透いた政策が功を奏することは絶対にない。そんな提案を受け入れる方も、提案した側にまさる悪魔なのである。はっきり警告しておくが、このような政策はしたたかに裏切られて終わるだけで、善良な国民はこの手の未来も希望もない儲け話に決して巻き込まれるべきではない。

実のところ、ロシアとの経済協力もまた、アベノミクスの失敗を糊塗するためににわかに作り出された新たな幻想に過ぎない。失敗の上塗りに過ぎないので、すぐに成果なしに行きづまるであろう。我々は、満蒙開拓団が集団自決させられた事実や、ソ連軍が日本人を強制収容所に送ってただ働きさせたという恐るべき歴史的事実に学ぶべきである。そういう過去から目を背け、新たに領土を開発するなどといった夢のような儲け話に乗った人々は、命を脅かされ、殺されて死ぬだけである。

だから、今、北方領土を材料にして、目の前に新たなフロンティアという餌をぶら下げられて、国民が見せられているのは、かつて大日本帝国の抱いた野望と同じ、大陸侵略の悪夢であることに気づくべきである。友情だとか、協力だとか言ったきれい事の甘言はみなその野望を隠すためのカモフラージュである。

シベリア抑留という歴史の清算さえできない国と、共同経済開発など絶対にあり得ないことであるが、そのあり得ない事柄を日本政府がやるというのだから、それは第二の抑留にしかつながらないのは明白である。日本政府とロシア政府の両者によって、日本国民が再び騙され、見捨てられ、シベリアで命を落とし、あるいは戦禍に巻き込まれ、命を脅かされる悪夢が再び近づいているのである。

安倍は南スーダンだけでなく、世界各国で自国民を紛争に巻き込み、殺したいのであろう。だからこそ、わざと危険な国にばかり国民を差し向けて、自ら人の命を売ろうとするのである。数えきれない人々が、このような政府の唱える偽りの夢に欺かれて命を落としたという過去の歴史の苦い教訓を、善良な国民は決して忘れるべきではない。歴史を直視せず、都合の悪い過去には蓋をして、全て無かったことにする現在の日ロ両政府が唱えていることは、共に甚だしい虚偽でしかない。彼らの語る夢は、どれもこれもむなしい偽りの幻ばかりでしかなく、彼らの行く道は、詐欺師や盗人や殺人者と同じ道であり、彼らが口先で弄する美辞麗句に欺かれて、その背中につき従った人々を待ち受けるのは破滅だけである。

悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。
しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。
(Ⅱテモテ3:13~14)


わが子よ、悪者があなたを誘っても、それに従ってはならない。
 彼らがあなたに向かって、
 「一緒に来なさい。われわれは待ち伏せして、人の血を流し、
 罪のない者を、ゆえなく伏してねらい、

 陰府のように、彼らを生きたままで、のみ尽し、健やかな者を、墓に下る者のようにしよう。
 われわれは、さまざまの尊い貨財を得、奪い取った物で、われわれの家を満たそう。
 あなたもわれわれの仲間に加わりなさい、われわれは共に一つの金袋を持とう」
 と言っても、
わが子よ、彼らの仲間になってはならない、
 あなたの足をとどめて、彼らの道に行ってはならない。

 彼らの足は悪に走り、血を流すことに速いからだ。
 すべて鳥の目の前で
 網を張るのは、むだである。

 彼らは自分の血を待ち伏せし、自分の命を伏してねらうのだ。
 すべて利をむさぼる者の道はこのようなものである。
 これはその持ち主の命を取り去るのだ。
」(箴言1:10~19)


カルト化する安倍政権――霊媒師・安倍晋三率いるオカルト政府による、国民への「呪い」と目くらましの「魔法」としての「まつりごと(祭祀)」と、偽りの人工芝・反対運動――

・ソ連の末期状態との類似性――いよいよカルト化・反社会化して、凶悪さをむき出しにする安倍政権――

安倍政権はいよいよ断末魔の状態にさしかかっているように見受けられる。この政権のやることなすことすべてが支離滅裂・あからさまな反社会的・国民蔑視・愚弄の抑圧政策になっている。

憲法改正や、緊急事態宣言など、この政権が実行を目論む凶悪な政策は、これからが本番とはいえ、あまりにも政治の劣化が激しいので、いよいよ体制の崩壊が近いのかも知れないと感じられる。まさに国家のメルトダウンが起きている。

戦後、本来ならば、もっと早くに倒されていなければならなかった体制が、そのまま温存された弊害がいよいよ誰にも無視できないほどに明らかになって、真の意味での体制転換の日が迫っていると見られる。

ソ連はチェルノブイリ原発事故後、そう長くは持ちこたえられなかった。ゴルバチョフが推し進めたペレストロイカ、グラースノスチによって世に出たスターリン時代を含むソビエト体制の暗黒時代の政府の機密資料の存在が、ソ連の体制の信頼失墜の決定打となり、崩壊を導いたことは疑いがないが、それに加えて、チェルノブイリ原発事故の悪影響をソ連政府が隠蔽し続けた悪影響も、相当に大きかったことであろう。

ソ連に限らず、理念を失った国家は滅亡する以外に道はない。戦前の財閥と天皇家の血縁と肥大化した官僚機構に支えられる現在の日本の国家体制が辿りつつある道は、古代ローマ帝国の崩壊や、ソ連崩壊を彷彿とさせる、内側からの道徳的腐敗・腐食による国家のメルトダウンである。

この政府の終わりは存外に早く来るかも知れない。今、国会を蹂躙している政権与党は、力が尽きるまでやりたい放題のことをするであろうが、彼らの拙速すぎる愚かな行動が、報われる日は来ないと思う。

景気が回復しないのに、国家公務員の給与やボーナスだけを政府がずっと引き上げ続けて、官僚のご機嫌を取っている近視眼的な策も、政府の寿命をさらに縮めるだけであろう。

福島原発事故にかかるコスト、さらにオリンピックによって生じる多額のコストも、急速な人口減少とあいまって、国家財政の赤字化に急速に拍車をかけるであろう。

ここに一つの予測を述べておくと、2020年を境に、この国の人口バランスと財政状態は目に見えて急速に悪化するものと思う。従って、公務員の給与引き上げなどは、あと二、三年もしないうちに、タブーとなるものと思う。そして、この国の行政府は、全体が、間もなく夕張市のような縮小の末路を辿ることになる。

だから、国民は、劣化する政府のまやかしの言辞に全く希望を託すことなく、今から自存できる方法を探しておくに越したことはない。遠からず、今のような政府の形態は終焉を迎えることになるだろう。そうなれば、組織や団体にすがってしか生きられない人々が、真っ先に難民化することになる。

国内の足元の土台が崩れ始めている時に、防衛費を拡大し、戦争に前のめりになっても、労働力と食糧さえまともに自給できないこの国に戦争の遂行が無理であるのは、すでに70年以上前に立証済みである。我が国には戦争に長期に渡り持ちこたえられるだけの体力も知恵もない。経済活動においても原則は同じであり、国内で需要を満たせない分、野心を抱いて海外に進出すれば、情勢の悪化に伴い、撤退を迫られたり、社員が現地に取り残されて帰国できなくなるだけである。


・リゾート法の二の舞となるであろうカジノ法案――20年と経たずに次々と破綻したテーマパークの前例――
 
さて、カジノ法(案)については、政府与党は、参議院での採決を延期するか、省略するかして、国民の目を欺き、国民感情が冷めてから実行に移せば何とかなると考えていると思われるが、現実はそれほど甘くない。

国会で拙速に法案を通したとしても、その後、カジノ法には、予想もしなかった様々な障害が持ち上がり、結果として、近道をしたはずが、最も遠回りになるだけであろう。

そもそもカジノなど、原発と同じで、いざ立地となれば、強硬な住民反対運動が起きることは目に見えている。
 
自分の住む街を、一攫千金の夢に騙されて賭けに負けた、人生のうらぶれた敗残者たちが、夜な夜な当てもなくうろつくような、恐ろしい界隈にしたいと願う住人は一人もいない。

どんなにIRに建設されるのはカジノだけではないと役人が念を押しても、住民は「今のままで十分」、「怪しげな大人たちにウロウロされたんじゃ、子供を連れて散歩もできなくなる」、「治安が悪くなり、地価が下がる」などと言って反対することだろう。

カジノ建設を巡っても、原発建設の場合と同じような、建設反対派と賛成派とによる住民同士の分断や、長期に渡る反目が助長されかねないことだけでも、すでに今から大いなる負の懸念材料である。

さて、「「巨大カジノ」で日本経済は本当に良くなるのか?」(静岡大学人文社会科学部教授 鳥畑与一 YOMIURI ONLINE 2016年11月07日 11時43分)などの論稿を参照しても、改めて、カジノを誘致して栄えた都市は基本的に世界にはないのだ、と思わざるを得ない。

カジノ大国の米国でさえ、
  


カジノによる繁栄の象徴であったアトランティックシティ(ニュージャージー州)が、カジノ収益の半減により、12あったカジノのうち、5つが閉鎖し、市経済が破綻に瀕している。ミシシッピ州の貧しい街がカジノで再生し、「チュニカの奇跡」と称賛されたカジノ街・チュニカも同様である


という状況であり、世界では希少なカジノ誘致の成功例のように言われるシンガポールでも、国内客のカジノ利用は厳しく規制されている。つまり、シンガポールのカジノは主として外国客向けで、国内客が集まらないおかげで、ようやく治安と依存症対策が保たれている様子である。

だから、もともと観光を主産業としているわけでない日本にカジノを建設してみたところで、外国客だけを最初からターゲットに絞るのは極めて困難と思われる。複合型施設というのであれば、なおさらのことである。従って、日本にIRを建設し、これを日本人客向けに経営すれば、結局、日本人の利用客を対象として見込むことになるが、この娯楽は日本人の従来の生活観・道徳観になじまないので、客足が遠のいて米国の二の舞となり、カジノは早期に破綻し、街の活性化にはつながらず、ただ治安が悪くなるだけに終わることは目に見えている。

カジノ法案は、かつてのリゾート法を彷彿とさせるが、カジノも、経営戦略においては、他の娯楽施設とそう大きな違いはないはずである。

かつてバブル期の87年に「総合保養地域整備法(通称リゾート法」が成立した。これに基づき、全国に無数のテーマパークの建設ラッシュが相次いだが、そのほとんどが、わずか20年も経たずに経営破綻したという事実に、大型娯楽施設の経営の難しさがよく証明されている。

次のサイトに掲載されているだけでも、リゾート法成立後に建設され、破綻(閉園)となった有名どころのテーマパークはこれほど数多く存在する。(紫字はすでに閉園済)。

倉敷チボリ公園の閉園や、ハウステンボスの経営破綻などは有名な例だが、リゾート法に後押しされて、国内客を当て込んで建設されたテーマパークは、その9割近くがすでに閉園となり、しかも、カジノの場合は、対象客が絞り込まれておらず、需要が明白でない上に、他の娯楽施設にはない弊害が「負のおまけ」として着いて来る。
 

長崎オランダ村(開園1983年、閉園2001年)
ハウステンポス(開園1992年、2003年破綻)
グリュック王国(帯広市 開園1989年、閉園2003年)
カナディアンワールド公園(芦別市 開園1990年、閉園97年)
志摩スペイン村(三重 開園1994年、2006年経営再建)
レオマワールド(丸亀市 開園1991年、2000年閉園)
呉ポートピアランド(呉市 92年開園、98年閉園)
柏崎トルコ文化村(柏崎市 96年開園、2001年閉園)
ナムコ・ワンダー・エッグ(1992年開園、2000年閉園)
シーガイア(宮崎 開園1994年、2001年破綻)
ワイルド・ブルー・ヨコハマ(開園1992年、2001年廃園)
鎌倉シネマワールド(95年開園、98年閉園)
富士ガリバー王国(上九一色村 97年開園、2001年閉園)
アジアパーク(熊本県荒尾市  93年開園、2000年閉園) 
チボリ公園(倉敷市 97年開園、2001年経営建直し、2008年閉園)
スペースワールド(北九州市 90年開園、2005年破綻)
新潟ロシア村(1993年開園、2003年閉園)
フェスティバル・ゲート(97年開業、2004年閉業)
ネイブルランド(大牟田市 95年開園、98年閉園)
伊豆長岡スポーツWワ-ルド(伊豆の国市、88年開園、96年倒産 )


かつてのリゾート法の反省もないままに、またぞろ過去と同じような政策を打ち出して来るのだから、よくよく過去の総括ができない愚かな政府である。

リゾート法とカジノ法案の抱える問題の類似性は、どちらもが、地元の歴史や伝統に根差した独自性のある産業の育成に力を入れず、外国からの借り物に過ぎないノウハウを使った娯楽施設を一朝一夕で建設し、短期間で一獲千金を狙うという安易な発想と、地域産業の活性化を国が主導・管理しようとする越権行為である。

早い話が、地域の活性化に名を借りて、国が大規模な建設需要を作り出して、手っ取り早く土建業者に利益を渡すための癒着の仕組みである。地元を犠牲にした利権にまみれた儲け話だから暴走しているのである。

安倍首相はカジノで雇用が創出できるなどと吹聴しているようだが、カジノを使わなければ創出できない雇用など、なくて結構である。売春宿に雇用されていることが、人にとって何の誇りともならないのと同じように、人様の不幸を踏み台にしてまで、自分だけが雇用にありつくことを、人に平気で願わせるような仕組みはこの国に必要ない。そんな「就職」がカタギの人間の人生にとって誇りとなり幸いをもたらすと思っている人間はすでに気が狂っている。

それにしても、市場原理主義もここまで行き着くいたのかと思う末期状態である。もともと金儲けが全てという価値観を教育現場にまで持ち込み、学校時代から、級友を出し抜いて、自分だけがテストで良い点数を取り、受験競争を勝ち抜いて、良い学校へ進学し、エリート官僚になり、エリート企業に就職して、上級国民の仲間入りすることだけを隠れた「国是」とするような、歪んだ教育システムを普及させ、国民の間に無駄に競争を煽った結果がこれである。

国民同士が互いを騙し合い、踏みつけ合い、食い合ってでも、人の弱みを利用して、他者を最大限不幸に追いやりながら、自分一人だけ、利益を得て甘い汁を吸い、勝ち残りさえすれば、人生の「勝者」だというわけであろう。

こんな悪魔的な競争からは、早期にリタイアするに限る。

カジノ法のようなものを放置していれば、次なる儲け話として、今度は国際的な大規模売春施設のビジネス展開やら、福島原発における廃炉作業や、自衛隊のかけつけ警護などを含めた、「現代の特攻・人材派遣ビジネス(実質的な人身売買)」などといった話も出て来よう。

戦前・戦中もそうであったが、人々の経済難・就職難という不幸を悪用して、人間を死出の旅路に赴かせる「人材派遣業(人身売買)」が隆盛を極めるのであろう。

我が国政府は、戦前・戦中も、国民の犠牲の山を作り出し、これを踏み台として、蓄財の根拠とすることにしか関心がなかったのである。その体質は今日に至るまで変わらない。

地方は、これ以上、地元の活性化という自分たちの大切な仕事を、この悪魔的な日本政府に奪われるべきではないだろう。地方の成長には、中央集権化された政府のマニュアルは必要ない。何百年間とそこに暮らす人々の間に受け継がれて来た地の利に関する知識や、伝統産業の技法や、地元の人々の自主的な暮らしの中で得られた知恵と工夫によって、生き延びる策は見つかるはずだ。それは外国から輸入することによって補いうるような紛い物のにわか知識ではないはずである。

大体、人間が自分の頭を使ってきちんと物事を考えなくなり、安易なマニュアルに頼って一獲千金の夢を目指し、それによって経済成長を成し遂げることができると考えるようになれば、そんな人間はもうおしまいであり、そういう考えの地域は真っ先に衰退して滅びるだけであろう。ギャンブルに手を出す人間も、そんな「ビジネス」に頼って産業を活性化できると考える面々も、どうかしており、共に気が狂っている。結局は両者共に同じ穴の狢で、悪魔的破滅へ落ちて行くだけである。関わらないのが一番である。


・各種の目くらましの反政府運動――SEALDsの人工芝・ネームロンダリング・政治資金規正法違反疑惑――

さて、少し遅くなったが、色んな場所で以下のビデオが拡散されていたので、ここにも貼り付けておきたい。

御用メディアと新聞がもはや人々に飽きられて見向きもされなくなってしまった中、アーティストによるこのような「抵抗運動」は、今後ももっと増えて来るものと思われる。もともと芸術には真の犠牲に裏打ちされた迫真性がなければ、決して人々に支持されることはない。

長渕剛について筆者は今は何とも言えないが、各人の抵抗がどれだけ本気であるかは、その生き様によって裏付けられるだろう。中島みゆきのように、ある程度までは、はみだし者・反骨精神のアーティストとしてかなり良い線を行きながらも、団塊の世代の代弁者として高度経済成長などの国策に沿った歌を作り、最終的には国策及びメディアと合体してしまうのか、それとも最後まで反骨精神のアーティストとして残るのか、興味深いところである。


【長渕剛】FNS歌謡祭 初出演!『魂の叫び〜乾杯』(2016/12/07... 投稿者 happy274

ただし、LITERAの解説「長渕剛がFNS歌謡祭でワイドショーや歌番組を真っ向批判! 凍りつくフジ、『とくダネ!』は長渕映像を封印」(2016.12.08.)を読むと、長渕剛は反安倍政権デモの学生団体SEALDsを支持していたようであり、この点はいただけない。

SEALDsについては、すでに色々なところで疑惑が表明されており、その中でも最も有力な説はこれが草の根反対運動に見せかけだけの「人工芝運動」であるということである。以前から当ブログでも、この学生運動は、体制側によって巧妙に仕組まれた偽りの運動に過ぎないという見解を示して来た。

特に、信仰者の立場からあえて言わねばならないことは、聖書に基づくキリスト教信仰と、組織としてのキリスト教界は全く別物であり、キリスト教界(関係者含む)は偽善にまみれて腐敗した組織となっているため、キリスト教界とその関係者から出て来る「善良そうに見える弱者救済運動」は、特に内容を疑ってみる必要があるということだ。

SEALDs代表者の奥田愛基氏の父奥田知志氏は、すでに述べた通り、ホームレス伝道という弱者救済事業に従事する牧師であるが、奥田牧師の弱者救済思想の理念をつぶさに見て行けば、それが極めて聖書から離れた、牧師にふさわしくない異端的な思想であることは、すでに記事の中で明らかにした。

そもそもキリスト教は、聖書の神の御言葉に基づく信仰による救いという、目に見えないパンを人々に紹介することを第一義的課題としており、これは経済困窮者に地上のパンを与えることを主たる目的とする弱者救済の思想や社会活動ではない。にも関わらず、目に見えないパンと、目に見える地上のパンの優先順位を逆にしたとき、それはたとえどんなに人間の目や耳に優しく心地よく響いても、もはやキリスト教ではない悪魔的な思想へと変わって行くのである。

こうした見地に立てば、奥田牧師は真の信仰者でなく、キリスト教徒に見せかけた非キリスト教思想の持主であり、愛基氏は幼い頃からホームレス伝道にのめりこむ父親の悪影響を受けて、自身が深い孤独や絶望を経験したにも関わらず、父親の活動の欺瞞を批判することなく、むしろ、これを継承し、同じ手法によって、弱者の弱みにつけ込み、救済者のような役を演じることによって、世間の注目を浴びて有名人となった。愛基氏の活動は、キリスト教のホームレス(路上生活者)伝道の手法から宗教色を除き去り、対象者を路上デモ者に置き変えただけのものである。

SEALDsはこれまで幾度も名前をころころと変えては活動を行い、現在は、Re:DEMOSと改称している。奥田氏が2011年の震災後に主宰した政治団体だけでも、TAZ、SASPL、SEALDsといくつも名称が変わっている。

これほど短期間で頻繁に名称を変えねばならない理由は不明であり、特に、SEALDsが何の目的達成もされていないのに、昨年8月15日という時期に解散した意味も全く不明であり、その解散前に、この団体に対する政治資金規正法違反の疑惑が浮上していた事実は見逃せない。

SEALDs、政治資金規正法違反の疑惑浮上…違法な手段で寄付募集や政治活動か」(BUSINESS JOURNAL 2016.06.27)などを参照。

結局、SEALDsの解散は、政治資金規正法違反の疑惑から世間の目をそらすための目くらましであった可能性があり、その意味で奥田氏の度重なる政治団体の改称は「ネームロンダリング」とも揶揄される。

筆者は当ブログにおいて、ペンテコステ運動に属する似非キリスト教の教団である日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の(牧師でもない)信者の鵜川貴範氏が、幾度も幾度も名前を変えて、経歴を詐称しながら、自分のミニストリーを開いて来た過去があることを指摘した。

鵜川貴範氏に限らず、そのような方法は、ペンテコステ運動の偽指導者の使う常套手段である。この似非キリスト教運動は、短期間で、次々と新たな「自称預言者」を生産しては、社会的弱者などを旗印に使って、お涙頂戴の物語を提示し、指導者に派手なパフォーマンスを伴う新種のミニストリーを打ち出させることで、信者から金を巻き上げるプロの宗教詐欺である。

ペンテコステ運動の指導者らは突然、どこからともなく現れて、人目を引く派手なパフォーマンスを行い、弱者救済の理念を打ち出して、人々の同情や共感を巧みに引き出しながら、その間に集金活動にいそしみ、短期間で大量の献金を募って姿をくらますのである。しかも、鵜川氏に見るように、指導者としての訓練さえ受けていないたった一人の信徒が、生涯に渡り手を変え品を変え、このような詐欺的な活動を繰り返す例もある。

奥田愛基氏の行動は、こういう偽りのキリスト教徒の用いる方法を彷彿とさせるものである。

しかも、ペンテコステ運動の詐欺師と呼ばれて差し支えない宗教指導者の多くは、社会的マイノリティの出身であったり、元ヤクザや、病者や、自殺志願者であったり、過去に何かしら不幸な体験や生い立ちを抱える「いわくつきの人間」であることが多い。

そうした人々が自分の負の体験や生い立ちを売り物にして、自らを「社会的弱者の代表者」のように見せかけ、人々の被害者意識と一体化し、同情票を得ながら、集金活動を行う。奥田氏の活動はその点もよく似ている。

多くの日本人は、弱者救済に見せかけた偽りのお涙頂戴物語を疑うことができないので、これが詐欺の仕掛けであることをも見抜けず、自分の代わりに抗議の声を上げてくれそうな誰かに安易に期待しては、資金を託そうとする。

だが、こうして自分自身は声を上げずに、今まで通りの生活を送りながら、自分の代わりに疑問を代弁してくれそうな誰かに期待を託した時点で、裏切られることはすでに決定済だと言えよう。

そのことは、川内原発の再稼働反対を訴えて当選したはずの鹿児島県知事三田園氏の「変節ぶり」からも見えて来る。同氏の変節は選挙当選直後から始まっていたようである。

【三反園ショック(上)】「原発ばっかり、答えようがない」 当選後、報道陣振り切る三反園氏…九電「元の木阿弥」募る懸念」(産経WEST 2016.7.12 07:36更新)

三反園鹿児島県知事の正体(上) 」(ニュースサイト ハンター 2016年10月11日 11:10 この他にも一連の記事あり)などを参照されたい。

同じことが、翁長知事にも当てはまる。翁長知事は「辺野古に基地を作らせない」ことを公約に掲げながらも、その行動を見れば、結局、基地建設を容認する側に回るであろうという予測を、植草一秀氏が何度も訴えている。

筆者は、これまで幾度か、沖縄の基地問題について、記事を書こうとしたが、その度ごとに思い起こされるのが、沖縄のキリスト教界におけるカルト被害者問題であった。

筆者にはどうしても沖縄の人々を一方的な被害者として描くことはできない。筆者は当ブログにおいて、上記した通り、似非キリスト教であるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団において、キリスト教界において被害を受けたとする「カルト被害者らの救済活動」を主導する村上密牧師が、どれほど危険で信用ならない人物であるか、再三に渡り、書いて来た。

だが、沖縄のカルト被害者の一部は、同牧師の信用できない人柄を筆者以上によく知っていながら、それでも公然と反対の声を上げないのである。沖縄には村上氏の統制が本土以上に行き届いており、反対者は即座に報復を受けるというのが理由であった。

これを知った時、筆者は何と臆病なことかと思うと同時に、直観的に翁長知事のことが頭をよぎった。沖縄の人々は、自分たちの問題を手っ取り早く解決してくれそうな政治的リーダーに安直な期待を寄せるという受け身の生き方を未だやめられないのかと思ったのである。

リーダーに欠点があることを知っていても、それでもまだ自分ではない誰かに自分たちの「被害」を代弁してもらおうというナイーブで依存的なものの考え方をしている限り、きっとこれからも騙され続けるだろうという気がしたのである。

 これはあながち厳しすぎる書き方とは言えない。それは筆者自身が、キリスト教界において「神の代弁者」をきどる牧師やパスタ―などといった人種がどれほど不誠実で信頼ならない私利私欲にまみれた偽善者であるかを軒並み見続けて来たことから来る直観的な確信である。

政治家も宗教家も、騙しのテクニックはみな同じで、人が自分に関する極めて深刻重要な問題の解決を、自分ではない誰かに全権委任し、その人間が善意によって自分の要望に都合良く応えてくれるだろうと期待し始めた時点で、敗北はすでに始まっているのだと言えよう。

沖縄の独立という問題は、日本全体の独立とも深くつながる精神的には一つづきの問題だと筆者は考えるが、この問題が長引いている背景には、人々の弱みを利用し、依存心につけこむ悪なる権力者たちの存在があるだけでなく、そうした欲深い権力者の正体を見抜けず、彼らに自ら期待を託そうとする人々の愚かさという問題がある。

人間の真の自立は、目に見える人間のリーダーへの安易な依存や期待を捨てて、まず、自分の抱える問題を、誰にも明け渡さず、ただ自らの力だけで解決してみせるという意気込みを持たない限り、決してやって来ることはない。自分の抱える問題を他者に解決してもらおうとしている限り、その人間は自立のスタートラインにさえ立てないと思われてならない。

SEALDsにも全く同じことが言える。人々がこの団体に希望を託そうとするのは、自分にはできないことを彼らが自分に代わって成し遂げてくれるという期待からである。この団体を支援する人々の心理は、慈善事業への支持とほぼ同じで、要は特権階級による一種の罪滅ぼしである。
 
若者だから、話が巧みだから、勢いがあって、純粋で善良そうだから・・・、そんなうわべは、彼らが信用できる人間だという何の根拠ともならない。いつの時代も詐欺師ほどパフォーマンスは巧みなのである。

奥田愛基氏のように、2015年以前にはほとんど注目されていなかった若者が、何のバックアップなしに独力でメディアで注目される活動を行うことは、まず無理なのだという事実に気づかなければならない。メディアに好意的に取り上げられていること自体が、すでに十分な疑いの根拠になりうる。以下の画像は、「元SEALDS政治資金規正法違反、カンパの使途不明、収支報告非公開、資金源についての調査1」M.x.file (2016/9/21(水) )から転載したものだが、このような広告を朝日新聞の前5段に載せるには、定価ベースで1500万円の資金が必要となるという。

この不況下で、求人広告さえ有償で出せない中小企業も多い中、学生団体に過ぎないものが、このような高額な広告を出し、それが社会に容認されていること自体、随分、おかしな話であると、多くの人々はなぜ疑わないのか。こんな広告が出せるなら、SEALDsがカンパを募らなければならない必然性はもとよりないと言えよう。にも関わらず、「学生の善意と借金で運営されている」などとアピールして、しきりにカンパを募り、しかも、そのカンパさえ、政治資金規正法違反の疑いが濃厚というのだから、こんな団体のどこに透明性・信頼性があるだろうか。

よくよくダブルメッセージが大好きな連中であると思う。美しい謳い文句だけを掲げて、この国が民主主義国家であるかのように見せかけて、人々を酔わせておいて、本質的に重要なアクションが何であるかを人々に見失わせ、人の目を欺いて、正反対の結果を導くのである。

「断固、ブレない、TPP反対」などと言っていた連中と全く同じ手法である。目下、我が国の民主主義は立ち止まり、機能停止の上、死に瀕している。SEALDsが民主主義の前進の何の役に立ったというのか。言っておくが、歴代首相のすべてが天皇家の血縁だという事実だけを見ても、我が国はもとより民主主義国家ではないことは誰の目にも明白である


イメージ 1
 (この新聞広告が出せる団体は大企業に匹敵する。カンパの必要はない。)



・死者が大好きなオカルト政府とオカルト信者の安倍晋三による
真珠湾の死霊詣で

さて、この度、突然に発表された安倍晋三の真珠湾訪問について、これをサプライズ外交だなどともてはやすメディアはともかく、なぜ、今、真珠湾なのか。日本人の多くは突如、発表されたこの訪問について非常に不気味な印象を覚えている。

安倍のパールハーバー訪問は、まずは拙速なトランプ詣でに対して抗議を申し入れたというオバマ政権からのお仕置きのためのお詫び行脚の要求であった可能性が高いが、そうでなくとも、政治的に過去の出来事が引き合いに出される時には、いつでも現在の出来事と同時進行するものとして、二重のコンテクストを持つ。

安倍の他ならぬこの時期のパールハーバーへの訪問は、南スーダンへ自衛隊の派遣が行われたことなどともおそらく無関係ではあるまい。

つまり、この訪問は、これから先、自衛隊を軍隊に昇格させて「お国のために」命を捧げる人間たちを英雄化したいという安倍の野望に、米国の側からしっかり釘を刺す機会として利用されるものと思われる。もしも日本がこの先、軍国主義の復活を目指して、米国の指示に一歩でも先んじて暴走しようとするならば、何度でも同じことが起きるぞ、という警告である。

だから、安倍の今回の真珠湾訪問は、自衛隊の任務が着々と拡張されつつあることに対する米国からの牽制の意図があると受け止められる。70年以上前の日本軍の”罪過”を今再び蒸し返すことで、安倍の国家主義の暴走に釘を刺しているのである。

だが、それだけではない。兵頭正俊氏は、この訪問は、オバマの広島訪問と対を成すものであり、原爆投下に対する国際的な非難や、米国内での罪意識が高まる中で、要するに、原爆投下は日本軍の暴走を止めるためにやむを得ない措置だったというストーリーを強化し、今日の日米軍事同盟が、日米両国の双方からの合意に基づく欠かせないものであるものと見せかけるための儀礼的なパフォーマンスであるとみなす。
 

ポピュリズムとファシズム」(2016年12月8日)から引用 

「太平洋戦争における、軍事的には不必要だった広島・長崎への原爆投下は、インディアンや黒人への原罪意識と同様に、時間とともに米国の贖罪意識に深化しつつある。また、米国の若い世代では、原爆投下は不必要だったという認識が増えてきている。それを解消するために、米国の1%はオバマを広島に遣わしたのである。

その意味は、太平洋戦争は、日本の宣戦布告なしのパールハーバー急襲から始まり、広島・長崎への原爆投下によって終わった。原爆投下は、戦争を終わらせるためにやむを得ないものであった。オバマの広島見物はこのストーリー強化の第一幕なのである。

(中略)

このストーリーを完成させるためには、第二幕として日本の首相にパールハーバーを訪問させ、謝罪させなければならない。そこで初めて米国は太平洋戦争の贖罪意識を払拭できるのだ。

米国にとってはパールハーバーがあくまでも中心であり、パールハーバーによって広島・長崎を相対化したいのである。

(中略)

広島とパールハーバーを両国の首脳が相互訪問する戦略は、

1 米国の広島・長崎への贖罪意識の払拭

2 米日軍事同盟の強化

の2点から成っている。

(中略)

行き着く果ては米日軍事同盟の強化なのだ。

第一幕はすでに上がった。オバマの広島見物で日本が失ったものは大きい。いずれオバマによって拡大強化された小型核兵器を、米軍支配下の自衛隊が使う時代がくるかもしれない


こうして、「真珠湾攻撃があったから、原爆投下もやむを得なかったのだ」というストーリーが強化され、到底、つり合わない二つの出来事を「相殺」することによって、原爆投下の罪悪が「帳消し」にされるだけでなく、結局、米国の助けなしには、日本は永久に自立などできない半人前の国家なのだというストーリー立てが日米の両政治家によって流布されるのである。

つまり、日本という国は、今も昔も、己自身の力だけによって自分を正しく治めることのできない半人前の未熟な国家であり、米国の庇護なしには一瞬たりとも自存できず、それは日本政府自らが認めている事実なのだから、日本の自衛隊も、日本国民も、米国の絶えざる監視と制約の下で行動するのは当然であるという見解を、日米両国の合意事項として既成事実化し、事実上の占領状態を半永久的に長引かせる狙いがあると考えられる。

安倍自身の思想に照らし合わせても、今回の真珠湾への慰霊訪問は、おそらく本意ではなかったに違いないと思われるが、そのようなストーリー立てにチャンスを与える隙を、拙速なトランプ詣でにより、安倍が自ら作ったのである。

日本という国は、70年以上も前の「罪過」をもとに未だに精神的に脅され、ゆすられ、半人前扱いされているのであるが、ある意味では、そのためにこそ、日本の政府高官や国会が、日本会議メンバーで占められているという事実や、安倍が首相であるという事実があるのではないだろうか。

岸信介がCIAに身売りしたことと引き換えに、A級戦犯としての処刑を免れ、首相の座にまで上り詰められたのだという話はよく広まっているが、米国は安倍晋三の危険な政治思想をよく知っているはずである。

こうした事実は、日本という国をあえて「自立できない危険な国」に見せかけ、思い通りに操り、弱体化しようと考える国が絶えず行っている見えないクーデターであると考えられないだろうか。

だが、安倍晋三は、我が国政治家が、単に政治的に米国に身売りしているだけでなく、霊的・魂的なレベルでも、悪魔に身売りしているのだという事実をよく示しているものと思う。

これまで当ブログでは、米国から持ち込まれたキリスト教の異端としてのペンテコステ運動が、いかに日本のキリスト教界を堕落させたかという危険な特徴について分析して来たが、安倍晋三は、この運動の危険な霊媒師と非常に共通する特徴を持っている。

ペンテコステ運動は一応表向きにはキリスト教を装っているが、実質的には、統一教会と変わらないただの異端であり、彼らを動かしているのは悪魔に由来する偽りの霊であって、彼らはその偽りの霊を受けて語る霊媒師なのである。

聖書のたとえでは、悪霊は、人間の中に大量に住むことができることが示されている。以下に挙げる安倍首相夫人の言を通しても、安倍が関わって来た「宗教」は統一教会だけではないこと、従って、安倍晋三はもはや一つや二つだけでないあらゆる正体不明の汚れた霊どもの住処になっている可能性が高いように思われてならない。

以下の記事がどこかの新興宗教のパンフレットであれば、誰も相手にせず笑って通り過ぎるだけであろうが、首相夫人の発言だというから呆れる。
 

 「「日本の精神性が世界をリードしていかないと地球が終わる」 安倍昭恵氏インタビュー BLOGOS 2016年11月09日 11:14 以下、昭恵夫人の発言

深く考えないで」というか。何をするか考える時にも、「じゃぁ、これ!」みたいな感じで生きているので。

「そうですね。でも今はごちゃごちゃで、自分でも何してるのか、よくわかっていなくて。でも「神様に動かされてる」と思っているので(以下略)」 

「キリスト教の学校で育ったんですけど、今は別にキリスト教というわけじゃなくて、どちらかというと神道です。」   

私は、大きな自然の一部であって、“動かされてる感”がすごくあるんですよね。主人もよく言うのですが、総理大臣は努力でなれるものではなくて。」  

「そこで総理大臣になるっていうのは、“何か持ってる”“何か別の力”だと思うんですよ。「神」という言い方をしなくてもいいんだけど、なんかこう、“大いなる力”が働いていると私は思っていて。その力にある意味流されてるというか、乗っかっているのかなと、私は感じます。  」 

主人自身も特別な宗教があるわけじゃないんですけど、毎晩声を上げて、祈る言葉を唱えているような人なんですね。 」


こういう人々が「神」と呼んでいるものは、間違いなく、悪魔に由来する霊であって、この夫婦は正体不明のオカルトの「霊」に操られていればこそ、自分では主体的・能動的に物事を考えられなくなって、印象と感覚が命じるままに、受け身に流されて生きているのである。

ペンテコステ運動のようなキリスト教の異端の最たる特徴は、人間が知的・論理的に深く物事を考察することをやめて、ただ印象と直感を重視して、考えもなしに愚直な体験主義に走るようになる反知性主義にあって、その危険は、人間に理性を失わせる麻薬と同じである。だが、そのようにして理性を失っているにも関わらず、この運動の信者たちは、愚直な自分たちこそ最も賢く正しいと思い込むのであって、こうした頑なさ、高慢さは、悪魔に由来する「偽りの知恵」から来るものであることを再三に渡り、述べて来た。

その意味で、安倍首相夫妻の思想的高慢さは、まさにペンテコステ運動の信者たちと全く同じ病理的様相を呈している。物事をきちんと吟味・考察する力を失い、フワフワとした印象と感覚だけに流されて直情的・衝動的・受動的に、愚直な思いつきで生きているにも関わらず、そんな自分たちが世界で最も賢い知恵ある人間であるかのように思い込み、自分たちの指南がなければ「地球が終わる」とまで思い込んでいるのである。ほとほと呆れるとしか言いようがない。

どんな宗教を信じていようとも、こういう高慢さが、日本人の精神性のうちには含まれていないということだけははっきり言える。日本人はもともと謙遜を重んじ、決して自分自身を人前で高く評価したり、自ら勝ち誇ることを美徳としない国民性の持ち主である。

だから、上記の安倍首相夫人が述べているような思想は、明らかに、日本人の伝統的な精神性から出て来るものではなく、何か「外来の異質な思想」がそこに加わった結果である。

そして、こうした根拠のない思い上がりは、元を辿れば、大抵、悪魔が人間に吹き込んで生まれる異端思想へと行き着く。人間が自分自身できちんと物事を考えず、オカルト的な霊の言いなりになって受動的に動いていればこそ、「何か大きな力に突き動かされている」という自覚が生まれるのであり、悪魔に操られているにも関わらず、自分たちは「神に従っている」と思い込んでいるのである。

上記のインタビューの中で、首相夫人が、安倍総理が、総理にふさわしい実力もないのに、何か得体の知れない力が働いた結果、首相の座に返り咲いたと語っていることは重要である。

これは、安倍が首相の座に再び返り咲いたのが、(米国からの政治的なバックアップのみならず、)まぎれもなく悪魔的な力、オカルト的な力との闇取引の結果であることを物語っている。おそらくは、安倍はその正体不明の”霊力”を受けるためにこそ、毎晩、得体の知れない相手に向かって祈祷を続けているのであろう。そして、安倍の政治は、このオカルト的な呪いに満ちた霊力を我が国のみならず、全世界に波及させるための「祭祀」であり「儀式」なのである。

宗教に全く理解のない人々は、こうした話を笑って受け流すかも知れないが、悪魔と契約を結んだ結果、人が地上で偽りの栄光を受けることは、ハリウッドスターなどの芸能人や芸術家やマジシャンなどには極めてありがちな話である。

すでに述べた通り、悪魔に魅入られる人間には、幼少期からの暗い特殊な生い立ちがあることが多いが、安倍晋三にはその意味でも絶好の材料を持っている。これに加えて、人生のどこかの時点で、安倍自身がオカルト的な力に自分の魂を完全に売り渡し、それと引き換えに現在の立場を得ているのであろう。

悪霊から来る力を受けていればこそ、同氏の思想は反知性主義、人権抑圧の悪魔的思想に貫かれているのであって、同氏の用いる論法は、ことごとく嘘、詭弁、ごまかし、論理のすり替え、脅しなどの暗闇の手法に満ちているのである。

首相夫人の言葉によると、彼ら夫妻は、日本のみならず、全世界をも自らの悪魔的思想によって統治することを目指しているオカルト政治家ということになる。要するに、世界征服の野望に憑りつかれているのであって、彼らの言う「地球儀俯瞰外交」なるものはその野望の言い換えなのであろう。

そして、以前から書いている通り、悪魔的な思想は、常に死者の世界に非常な関心を抱いており、多くの霊媒師たちは、死者の霊と好んで交流する。

だから、安倍晋三が真珠湾に赴くのは、同氏による死者の霊への追っかけとみなせる。”英霊”に対する愛着もそうなのだが、そこには基本的に死者の霊への愛着が表れているだけでなく、もっと言えば、「自ら殺害した犠牲者の霊への尽きせぬ思慕」という、まさに犯罪者の精神性としか言いようのない異常嗜好が込められている。

以前、筆者は、安倍晋三の内心は、いや、安倍晋三だけでなく、日本政府の異常な精神性は、童話の『青ひげ』とまるで同じだと述べたことがある。『青ひげ』の童話においては、青ひげの家の秘密の部屋には、青ひげが自ら殺した数多くの妻の亡骸がうずたかく積まれていることになっている。だが、現実に、これを地で行っているのが我が国政府であり、我が国の厚労省の建物内部には、未だ70年近く前の戦没者の白骨がうずたかく積まれている。これはオカルトや創作ではなく、現実の話であり、どこにも引き取り手がなく、他に行き場がない戦没者たちの遺骨が当局に何十年間とため込まれているのである。

政府当局が、70年近く前に死んだ国民の身元も知れない白骨化した遺骸を、何十年間も公の官舎に大量にため込んでいるなどという話が、世界のどこか別の国で聞かれるであろうか?

この政府は、そういう異常なことをしておきながら、もう一方では、戦没者たちの亡骸の前に立って、さめざめと頭を垂れて空涙を流し、「二度と過ちは繰り返しませんから」などと述べて、反省したふりをしながら、犠牲者を上から見下し、人々の犠牲を利用して偽善者ぶりを最大限に発揮して、脚光を浴び、自己満足しているのである。

このようなものが真の反省とどうして言えるであろうか。我が国では、かつての軍国主義政府に逆らって特高警察に殺された人々の名誉回復さえまともになされていない。約70年前に政府が自ら殺したも同然の国民の亡骸さえも十分に弔っておらず、遺族のもとに返されてもいない。にもかかわらず、この国の政治家は、もう国内の犠牲者や、自国の戦没者はさて置いて、他国の戦没者を「追悼」するという華々しい役割を引き受けて、全国民に頭を下げさせ、自らを栄光化しようと言うのであろうか。どこまで浅ましい人たちなのか。

こうして、このオカルト政府は、自分たちが踏みにじり、愚弄し、犠牲とした人々を、死後までも半永久的に愚弄し、己が栄光の手段に変えることに、手放せない快楽を見いだし、そのためにこそ、彼らは好んでもの言えない死者を訪問するのである。生者からも生き血を吸うが、死者の栄光までも盗むのである。

こうして、一方では、口先だけで過去の「戦争の罪過」を反省したかのように装いながら、もう一方では、着々と防衛費を拡大し、自衛隊の任務を押し広げ、近々新たな戦争を起こして、どうやって自国民を犠牲にするか、機会を伺って話し合い、戦争が起こらないまでも、国民を紛争地へ送り込んで、どうやって国民の白骨をまた増やそうかという考えに胸躍らせているのである。

一体、これが青髭の異常な精神性とどう違うというのか。我が国はまさにかつてのソ連やナチスや北朝鮮とそっくりになって来ているとしか言えない。


・「風が吹けば桶屋が儲かる」――他者の弱みを食い物にして利益に変えるカルト宗教と偽善者政府とのマッチポンプ――

さて、このカルト化した政府は、死者から栄光を盗むだけでは飽き足らず、自らが国にもたらした恐るべき人心荒廃、国土の荒廃、国民に強いた犠牲に対する「処方箋」として、自分たちの偽りの「宗教」をマッチポンプとして提示する。

医者が人の病気なしには儲からないのと同様、詐欺師の政治家にとって最も困るのは、人々が自立して、彼らの助けを必要としなくなることである。だから、詐欺師の政治家にとっては、雇用情勢の悪化や、経済の貧困化など、国民の問題は山積しておいた方が良い。

だから、彼らは必ず人の弱みや、他者の犠牲を自分たちのパフォーマンスの材料として利用する。人の弱みにつけこんで、救済者のように登場し、脚光を浴び、栄光を受けようとする。彼らの政策はもともとすべてマッチポンプである。

もし他者に弱みがなければ、あえて問題を作り出してでも、彼らはターゲットとなる人間を弱体化させる。弱体化させた上で、自分たちの助けなしには生きられないと言って人を自分に依存させ、栄光を盗むのである。

安倍晋三の政治家としての手法は、人々の弱みを利用することで成り立って来た。だが、北朝鮮拉致被害者の問題もそうであるように、安倍晋三が着手して成果らしきものがわずかでも出た問題が一つでもあったか。

彼らにあずけた問題には解決がないのは当然で、こうした連中にとっては、いつまでも人を脅しつける材料として、人の弱みは永久になくならない方が有利なのだ。

こうして国民の弱みに寄生し、それを食い物とする政治家たちのマッチポンプが最後に行き着くのが宗教である。

この度、衆院でのカジノ法案の審議中、国会で般若心経を読み上げて批判を浴びたという自民党の谷川弥一衆院議員が、無駄な長広舌の中で語ったのが、カジノ法案がもたらす「負の部分」としての人心の荒廃に対する「処方箋」として宗教の必要性であった。

(「カジノ法案質問で般若心経 「採決前」6時間審議の中身」(J-Castニュース 2016/12/ 5 21:00等を参照。)
 
つまり、カジノ法などを通して徹底的に国民生活を荒廃させれば、人心荒廃現象に対する「救い」として、自ら宗教に走る人々が増えるから、宗教が儲かる、そこで政府は宗教の必要をぜひとも見直して、宗教ともっと緊密に連携していただきたい、というのが、この議員の主張であった。

自ら人心を荒廃させるような政策を推進しておきながら、「(野党のように対案もなくただ一方的に)批判するだけでは芸がない」、「我々には宗教というれっきとした『対案』がある」と言うわけである。

何ともおぞましいまでの偽善者ぶり、典型的なマッチポンプ型思考ではないか。

こういう偽善者の宗教家らにとっては、原発事故の被害を含め、国土の荒廃、人心の荒廃、国民の不幸、犠牲、弱みこそ、まさにビジネスチャンスなのである。徹底的に人を苦しめ、不幸に追いやり、犠牲にしておいて、自分たちは混乱の最中に、犠牲になった人々に優しく「救いの手」を差し伸べるヒーローを演じ、それをきっかけに人々をまた新たな抑圧の中へと閉じ込めて行くのである。

こうして、前回の"On your mark"に関する記事でも述べたように、放射能汚染などの恐怖によって人々を脅すことで、国民を自由なき牢獄に閉じ込めて支配するカルト宗教と、この宗教と一体化した政府が出来上がる。

谷川弥一衆院議員の主張の趣旨は、「カジノ法案その他その他で、この国が暗黒国家へと転落し、人心が荒廃した分は、我々宗教が受け皿になりますよ。こんな美味しい話はないじゃないですか。ですから、政府もぜひともここは一つ宗教と手を組んでですね、利益を山分けしましょう」ということに尽きる。

こんな話が国会で聞かれるということは、悪魔的宗教と政府が公然と手を結んで、祭政一致に至ろうとしている事実を示すものでしかない。我が国は、まるでヨーロッパ中世を彷彿とさせるような、暗黒国家への転落にさしかかっているのである。

この国の国民はそろそろ、この国のトップや要職の座についているのは、シャーマンと同様のいかがわしい霊媒師・詐欺師であって、彼らは次から次へと国民に目くらましの魔法(呪い)をかけては国民を抑圧し、国民が弱体化したところに偽りの助けの手を差し伸べることによって、救済者を演じながら、自らの魔術師としての仕事の需要を作り出しているだけだということに、いい加減、気づく必要がある。

彼らは、ペンテコステ運動の指導者と同じく、詐欺師であり、霊媒師なのである。彼らにとっての政治とは、自分たちのオカルト的な霊力を全国に押し広げ、波及させるための魔法としての「まつりごと(祭祀)」である。

彼らが次々と打ち出す政策は、霊媒師のお告げと同じく、決して的中することのない嘘の予言であり、彼らの繰り広げるパフォーマンスは、国民を欺くための「魔法」であると同時に、「呪い」である。これ以上、彼らに嘘と呪いの言葉を言わせないためには、彼らに口を開く機会を与えるべきではない。

安倍政権はそもそもが違憲内閣であり、この政権が実行することは、ことごとく規則破りであり、彼らの権威は、現実に立脚しない幻の上に築き上げられたものに過ぎない。安倍政権とそれに追従する人々は、害ばかりもたらす凶悪な政策を次々実行し、国を徹底的に破壊し尽くす前に、憲法違反の罪に問われ、公職から追放されなければならない。

だが、偽りの指導者とそれにつき従う従者たちは、自分たちが詐欺師であることをよくよく分かっていればこそ、その正体が告発される前に、先手を打って、憲法を改正し、人権を抑圧し、自分たちを告発する可能性を持つ人間(国民)を根こそぎ抑圧し、滅ぼそうとしているのである。

王妃エステルが大臣ハマンに立ち向かったように、自分の全ての利益と引き換えにしてでも、これらの連中を弾劾する人々が出て来なければならない。


国家権力は大昔から検閲・監視・密告を統治の手段として活用していた―ASKAの事件から見えて来るもの―

・事実上の共産主義国と化した日本――残された時間で全力で国の破壊にいそしむ安倍独裁政権――
 
安倍政権による日本破壊が続いている。政策にも外交にも全く成果が出ず、アベノミクスの破綻が明らかになって、いよいよ終わりが近いことを悟った現政権は、残された時間でこの国に対するありったけの破壊行為にいそしむつもりだと思われる。

国会でろくな審議もなしに凶悪な法案を次から次へと強行採決しているのはそういう意図を込めてである。もはやこの国の民主主義はほんの建前だけ、うわべだけのものとなった。前々から国会での審議など予定調和的な出来レースだと言われてきたが、かろうじて民主主義国の保たれていたうわべだけの体裁もかなぐり捨てて、今はあからさまな安倍の自民・官僚独裁体制へと移行している。

原発の爆発のツケは国民に回し、GPIFによる年金の運用損も国民に押しつけ、消費が活発化しない分は、カジノ法案を通し、ギャンブルで国民から巻き上げようという所存である。

10年を超える休眠預金はすでに国有化されることが決まった(「貧困対策や若者支援に活用=「休眠預金法」が成立」gooニュース 12月02日 12:20)。この「忘れ去られたお金」は500億~600億ほどは存在するという。貧困対策や若者支援など、これまで政府が一度たりとも本腰を入れてやったことのない政策へ活用するというのだから、そんなことは国民の資産を国が奪うための単なる口実に過ぎないのは明白である。この休眠預金の国有化は来るべき預金封鎖へとつながる初めの第一歩になるのではないかと囁かれている。

これから先、肥大化した官僚機構に率いられる国家権力が少子高齢化(と原発事故の影響による人口の著しい減少から生じる)財政難を乗り越えるために、いかに国民財産のありったけを強制的・合法的に収奪できるか、国会はただそのためだけの法整備の場所へ変わるものと見られる。
 
筆者は、この国はずっと前から事実上の共産主義国であると述べて来たが、いよいよ一人のカリスマ(というのにはあまりにも力不足だが)政治指導者のもとで、事実上、独裁化した中央集権が国民を徹底的に抑圧し、収奪するという、共産主義国には欠かせない政治形態が整ったと言える。もはや天皇さえも国家権力による抑圧のための飾り物のようにされてしまっている。
 
安倍は「美しい国」という偽りの夢(存在しないユートピア)を口実に、とことん人を騙し、国を滅ぼして来ただけで、何一つとしてこの国にリアルな成果を提供することはできていない。

安倍晋三を率いているのは、共産主義や、統一教会、ペンテコステ運動、国家神道を率いる悪霊と同じ種類のカルトの霊であって、これは偽りの父である悪魔から出て来た霊である。
 
安倍の政策は、ペンテコステ運動などと同じく、そもそもの最初から最後まで徹底的な詐欺の仕掛けなのである。その嘘の仕掛けは、かつてソ連が共産主義という、絶対にやって来ない夢を担保にして、とことん国民を騙し、巻き上げたのと同じである。
 
強行採決は、この偽りの霊が、安倍晋三というリーダーを現人神化し、残された時間内で、この人物を通して、とことん民主主義を破壊し尽くすという意志表示である。これを放置していれば、この国は暗黒時代に突入するだけである。


・偽りの北方領土返還の夢――無い夢を担保に、米国とロシアの二国にATM扱いされる悪夢をこの国はどう防ぐのか――

安倍は「強いロシアを取り戻す」というスローガンを掲げるロシアのプーチン政権に自分と同じ思想を見いだし、それゆえ親和性を感じ、個人的な親交を結ぼうとして来たわけだが、日ロの首脳会談は、今やまるで狐と狸の化かし合いのようになって来ている。

むろん、両方が精神性においては詐欺師と言って差し支えないのだが、こういう場合は、悪がより強い方が勝つと相場は決まっている。悪が強い方とはむろんロシアのことであって、この国の闇の深さは、これまで70年間平和を保って来た我が国の想像をはるかに超える。

一説によると、本物のプーチンはすでに死亡しており、現在のウラジーミル・プーチンは替え玉によるなりすましだと言う。プーチンの別れた元妻さえ替え玉であると証言しているというのだ。

長い間、筆者はそんな話はロシアを悪魔化するためのプロパガンダに過ぎないと考え、取り合わずに一蹴して来たが、最近になって過去の動画を比較してみると、確かに、以前のプーチンとは声も顔も違う。身体的特徴も異なれば、声のトーンも違う。


 

若い頃のプーチンには表情にどこかしら敏感で神経質そうな個人的特徴があったが、現在のプーチンには、それが見られず、物腰は訓練された工作員そのもので、電話機や銃を持つときの仕草にその特徴がよく表れている。面長だったプーチンの顔の特徴が丸く変わっており、目の色も変わっていると言われている。かつては流暢に話せたはずのドイツ語では、通訳を介さなければ意思疎通ができなくなった。

 

(秋田犬ゆめ、飼い主から撫でられそうになると顔を背け、逃げ去る)

プーチン死亡・替え玉説という話は深入りせず、この辺でさて置くとしても、こういう話を冗談として一蹴できない国がロシアなのだ。

話を戻せば、安倍が拙速なトランプ詣でをしたことによって、以下のニュースにも見るように、北方領土の返還は、ますます一層、遠のいたと言える。もはや日本は完全にロシアにいいようにあしらわれている様子がよく分かる。
 

岸田外相、プーチン大統領と会談 交渉の難しさ露呈フジテレビ系(FNN) 12/3(土) 1:14配信、から抜粋

岸田外相は、ロシアのプーチン大統領との初めての会談に臨んだが、2時間という、大遅刻の洗礼を受けた。
さらに、ロシア側との交渉の難しさが露呈する出来事が、次々に起こった。1時間50分遅れで始まった会談では、待たされていた岸田外相の前に、笑顔のプーチン大統領が現れ、会談は30分で終わった。
これに先立ち行われた国内行事で、プーチン大統領は、会談の予定開始時刻を1時間すぎても、雄弁に演説し、あわてる気配はない。
 思いがけないハプニングは、これだけにとどまらず、日本時間2日になって、ロシア側から日本側に、会談の出席者を4人から3人に絞るように要請があり、ロシアを担当する欧州局長が協議に入れない事態になった。


 筆者は必ず、こういうことになるだろうと前もって告げておいた。北方領土問題には、1%も希望などもともとなかったのだが、それでも、領土問題に進展がないのだと分かれば、即座に経済協力をひっこめ、プーチン大統領の訪日も中止するくらいのしたたかな駆け引きが日本の首相にぜひとも必要だった。しかし、安倍にそのような決断が出来るはずがない。

仮にもしもここ数年間に起きた日ロの急接近の中で、北方領土返還のチャンスが1%でも我が国にあったとしたならば、それはただロシアが米国に睨まれて国際的に孤立し、悪魔化されて包囲されていた他ならぬその時期だけであったと言えるだろう。だが、その間に安倍政権はロシアに近寄ることなく、むしろ、公然と対ロ制裁に加わった。そして一時はあわや世界大戦勃発に至るかと見られた米国とロシアとの対立も、今はトランプが次期大統領に選出されたことによって、ロシアにとっては緊張緩和の見込みが開けている。そんなバラ色の期待が高まっている今の時期のロシアにとって、わざわざ米国の傀儡に過ぎない日本の安倍政権に自ら歩み寄り、助けを求めねばならないような必然性はまるでない。

むしろ、この先は、米国とロシアとがタグを組んで可能な限りこの自立できない卑屈な属国を踏みつけにして、カモれるだけカモろうという態度を明白にしないように、釘を刺しておかなくてはらない時期に入ったのだ。確かに、安倍氏はそのようなことをされて仕方がないだけの卑劣な二枚舌外交を発揮して来た。自分が最も困難に陥った時期に、敵に回り、信頼と友情を確固として示さなかった人間に、誰がその人間が困ったときに救いの手など差し伸べるであろうか。そういうやり方は、人間関係にも通用しないが、外交としては完全な失敗である。

しかしながら、筆者は、たとえこの国のトップが狡猾な外交作戦を展開できうるだけの頭脳を持っていたとしても、やはり安倍政権の存続中に北方領土が返還される見込みは、初めから1%も存在しなかっただろうと考えている。そのようなことがもし起きうるとすれば、それはこの国が米国のくびきを断ち切って、完全に自立を成し遂げたその後のことである。

もともとロシアから見て、今の日本は米国の延長のようなものに過ぎない。そして、米国はロシアにとってずっと前から仮想敵なのである。日本が米国と共に対ロ制裁に加わった事実は、日本が自ら米国の手足に過ぎないと名乗り出たも同然であり、その記憶はロシアからこの先も決してなくなることはないであろう。いざとなればいつでも敵に変わり得るような国と見えているのだから、そんな国に、どの国が1ミリたりとも領土を明け渡すことがあろうか。そうでなくとも、どの国も自国の領土は1ミリでも大きい方が良いと考えるはずだ。普通に考えさえすれば結論は最初から見えている。

実際は、北方領土返還のテーマもまた国民を欺くための安倍のトリックに過ぎなかったのだが、安倍自身も、それが偽りの夢でしかないことに気づいていなかった可能性がある。

だが、こうした楽観の結果、日本は米国のみならずロシアからもATM扱いされ、国際的に自立できない国として蔑まれ、孤立して行く危険性に直面しているのだと言えよう。だが、ヘタレ国家のヘタレ政権には、そうなってもまだ、このくびきを跳ね返すだけの勇気も力もなく、自分たちが屈従を強いられている分の腹いせを、これから先、すべて国民に向け、国民をいたぶることで晴らそうとして来る可能性がある。それが最悪の結末である。


・強制集団化の始まり――原発事故処理の収束という天文学的負債を国家の破綻を経ずに乗り越えるには、国家が国民を徹底的に抑圧するしかないという悪夢――
 
いずれにしても、少子高齢化の中、半永久的に終わらない原発事故処理という天文学的な負債を抱え、これから先、財政難へと急落して行くことが目に見えている国である。その限りない負債をやりくりするために、この国では、この先、私有財産の国有化がなされ、徹底的に国民の資本と労働力を収奪するための強制集団化が始まるものと見られる。(ただし、こうした現象が起きるであろうという筆者の予測は、実のところは、日本だけでなく、米国やロシアにも当てはまるのだが、そのことは今は置いておく。)

さて、強制集団化とは何か。それは国民の労働力と財産を最後の一滴に至るまで搾り取って国の財産へと変えるための制度づくりである。安倍による農協潰しは、コルホーズ・ソフホーズの建設を思い起こさせる。マイナンバーも、国民財産と労働力を合法的に収奪するために活用されるであろう。いずれマイナンバーは体内埋め込み型のマイクロチップに取って変わり、その刻印を受けた人々はみな「マトリックス」に奴隷として拘束される仕組みが完成すると考えられる。

さて米国では、このほど、時期米国大統領に選出されたトランプの支持者であり、同氏の選挙チームの有力メンバーでもあった人間が、第二次世界大戦中の日系人強制収容所を手本として、米国で移民向けに強制収容所を建設することに言及したという(「「イスラム教徒の入国管理には、戦時中の日系人強制収容が前例になる」トランプ氏支持者が発言」The Huffington Post 投稿日: 2016年11月18日 17時15分 JST   更新: 2016年11月18日 17時31分 JST)

以前からネット上では、全米各地に大規模な強制収容所の建設が進んでいるといった話や、大量の棺桶が用意されているなどの怪しい話が飛び交って、国民に対する大規模な弾圧が行われると言われて来たが、こんな発言を見ると、以前には都市伝説や、流言飛語と思われても仕方がなかったような話が、いよいよ現実味を帯びて来たように感じられる。

つまり、米国は未来のトランプ政権下で、いよいよ本格的に戒厳令国家へと変貌しようとしているのではないかという予想が起きて来るのである。実際、米国民が最も懸念している点はそこであろう。移民抑制など単なる口実に過ぎない。まずは人権抑圧の最初のターゲットとなるのが、トランプが幾度となく憎しみを向けて口撃して来たマイノリティであるというだけで、最終的にはトランプ政権にとって不都合なすべての米国民は、みな強制収容所行きとなる危険を覚悟しなければならないような世の中になるのではないか。それがトランプ一人の治世で終われば良いが、米国の政権の特徴として後戻りできない形で浸透してしまう危険が考えられる。
 
そうなった場合、米国との腐れ縁を断ち切らない限り、我が国も、米国に続いて戒厳令国家へ突入することを免れられなくなるであろう。なぜなら、これまでの歴史的経験から、米国で起きたことは、数年遅れて、我が国の現実となって来たということが言えるからだ。たとえば、官僚だけがヒーローとなって、国民は恐怖に逃げ惑うか、もしくは移動も制限されて、家屋に閉じ込められて、TV画面を通じて報道される大本営発表を固唾を飲んで見守るしかない、という『シン・ゴジラ』のストーリーなども、未来の予表として描かれたものであるように思われてならない。

だが、一体、なぜ国家がそのような戒厳令下の世の中を用意せねばならないのか? 何のために国民の人権を抑圧するのか? それは、いよいよ国家が財政難その他のために経済的にも道徳的にも落ちぶれて行き詰まり、信用を失って崩壊の危機に瀕し、己の生き残りだけが全てとなって、いよいよ犯罪政権としての性質と正体を隠せなくなって来た時に、それでも滅亡を免れるためには、国民から収奪を強化し、手ひどいやり方で反対を封じ込めるために、国民の人権を大規模に抑圧することしか、残る方法はないからだ。

かつての一億玉砕と同じである。国の面子が保たれ、国体が護持されるためであれば、国民が残らず死んでも構わないという発想である。そのような発想の下では、国民は文字通り、犯罪性を帯びた政府と心中させられることになる。
 
だが、人は通常、自分自身の幸福のために生きているのであり、誰も強いられない限り、「お国のために」生きようなどとは考えない。だから、国民の財産と労働のすべてを国家のために合法的に供出させる仕組みを作るためには、まず、国策に反する者は誰であれ、権力の判断で恣意的に逮捕でき、人権(財産権を含む)を放棄させるような仕組みを作らなければならない。強制集団化のような過酷な政策の実施は、流血を伴うのであり、まずは国策に従わない国民から人権を奪って強制的に収容所に送って奴隷労働に従事させるなどの恐怖政治の仕組みを作らない限り、実行できない。
 
だが、初めから、権力のために国民の人権を抑圧しますなどとは、おおっぴらに言えないので、緊急事態や、外敵の脅威を口実に、国内で恐怖政治を常態化させるのである。しかも、最初から国民全体を縛るためにと言っては誰も同意しないので、最初はあくまでごくごく一握りの社会にとって不都合な、国民全体にとって脅威となりうる集団だけを取り締まり、排除するのだと言って、人権抑圧の仕組みを作り、作った後で抑圧の対象を無限大に広げて全国民を取り締まるのである。こうして戒厳令国家の仕組みが成立する。


・国家権力は大昔から検閲・監視・密告を統治の手段として活用していた――ASKA逮捕の事件から見えて来る監視社会――

ところで、筆者はCHAGE&ASKAのファンではなく、この事件にそんなに興味もないが、この度のASKAの逮捕という出来事は、以上のような文脈において、実に象徴的・暗示的であったと思うので触れておきたい。

このほど、二度目に逮捕された歌手のASKAは、本人の言によると、盗聴盗撮の被害を訴えて警察に被害届を出そうと通報したところ、その言い分が「薬による幻覚」であるとみなされて、自身が逮捕されてしまったという。
 
芸能人であるとはいえ、政治家でもない人間が、何らかの犯罪被害を訴えて警察に通報したことがきっかけとなって、逆に自分が疑われて逮捕されたというわけだから、これは人々を震撼させる出来事であり、この日本社会の大きな曲がり角である。

ASKAは週刊誌では脳が壊れたなどとしきりに笑い者とされ、危険な薬中毒患者だから何をされても仕方がないかのような報道がされているが、世論はASKAにかなり同情的で、この行き過ぎたバッシングに拒否反応を示し、真相を疑っている。

実のところ、ASKAに起こったことは、明日には国民全体に誰でも起きうる現実である、と言える。それが分からずに、ASKAを特別な人間と考えて笑い者とし、人権侵害を正当化している人間は、よほど愚かである。

ASKA逮捕が、当局によって周到に仕組まれた計画のもとに行われた罠であったろうことは、逮捕前からメディア中ですでに逮捕の予告が公に報道され、乗ったタクシーの映像まで勝手に公開されるという異常な状況から容易に推測される。

つまり、ASKAが逮捕されるはるか前から、警察、メディア、民間企業などが連携プレイを行って、本人に対する監視体制を作り上げ、網で魚を捕えるように、ただ逮捕の機会を伺っていただけであるとみなさなければ、そういう事態は起き得ないのだ。
 
(「ASKA逮捕を事前予告して“見せ物”に! 清原逮捕に続く警視庁組対5課の情報操作とそれに乗っかるマスコミの手口」 LITERA2016.11.28.などを参照。)

このようにメディア・警察・民間企業の見事な連携プレーを見せられると、「盗聴・盗撮されている」というASKAの言い分が、逆に正しかったのではないかと見えて来るのも当然である。
 
ちなみに、タクシー内の映像ではしっかりと運転手と話をし、料金を支払っているASKAの姿が映っているようなので、覚せい剤の影響で脳が壊れたとの公式発表を完全に否定する証拠となっている。

もちろん、ASKAの逮捕が、年金カット法案や、廃炉費用の国民負担や、カジノ法案の強行採決など、政府の実行しようとしている恐るべき凶悪な国民の権利抑圧の政策を覆い隠すためのスピン報道として存分に用いられたことは疑いの余地がない。だが、この事件は、スピンだけが目的の全てではなかったものと思う。

ASKAはこの逮捕がなければ、活動を再開する準備が整っており、今回の二度目の逮捕は(一度目の逮捕に至る経緯も周到に計画されたものであった可能性が高いが)、社会復帰を妨害する上で重要な役割を果たした。中でも、特に、ASKAが執筆しすでに公刊が近かったとされる『盗聴国家・日本』の出版を妨げるために極めて重要な役割を果たしたのは見逃せない。

(「ASKA容疑者 著書執筆中だった テーマは「盗聴国家・日本」」 スポニチ 2016年11月29日 05:30参照)

ちなみに、今でもごく普通の生活レベルで人々が接触する街の交番や警察署のお巡りさんは、道に迷った人にも親切で、気前も良く、そんな街のお巡りさんだけを見ていたのでは、警察が凶悪な組織だという印象は持ちにくいであろうが、しかし、それはあくまで警察組織の最下層の話であって、組織の上層部はこれとは全く異なる性質を持っているものと考えられる。国家権力の一部としての警察組織が恐るべき腐敗・犯罪性に陥っている可能性については、たとえば、神戸の児童連続殺傷事件についての少年A君冤罪説に関する一連の記事の中でも触れた。

今日、国民の誰かが仮に自転車盗難などの被害を訴えて交番に赴いたからと言って、自らが窃盗容疑で逮捕されるようなことはないと思うが、ASKAの事件は、これから先、平凡な国民が、本気でこの国の闇・タブーに触れるような何かの事件を告発する側に回ると、それをきっかけに、警察を含め、国家権力全体から監視対象としてマークされ、社会活動が不可能となるような妨害を受け、警察に何かを相談しても、かえって疑われ、狂人扱いされ、逮捕され、隔離されるきっかけとされるような、恐ろしい社会が到来しようとしていることをよくよく物語っているように見受けられてならない。

筆者はASKAをかばいだてするためにこう言うのではなく、国民に対する権利侵害に鈍感でいると、それがいずれ全国民の身に降りかかって来ることになると言っているのである。芸能人だから、再犯を疑われたから、自分とは扱いが違うとみなすのは誰しも早すぎるであろう。
 
仮に今、ASKAが訴えた盗聴・盗撮の被害は事実であり、この度のASKA逮捕は、この組織的犯罪を隠すための国策逮捕であったと仮定しよう。

すると、浮かび上がって来る疑問は、これら二つの間には密接な関連性があって、集団ストーキングは連携プレーによる逮捕と同じく、国家権力が不都合な人間を抑圧し、追い込むための闇の統治手段ではないのかということだ。

集団ストーキングという用語は、ネット上で調べると、カルト宗教から脱退した人への報復措置として言及されていることが多く、ネット以外の世界では、そういう話は、ほとんどが薬による幻覚か、もしくは、統合失調症のもたらす妄想として片付けられて終わっているようである。いずれにしても、現実世界はこのような問題の存在自体を頑なに否定しているのである。

だが、盗聴・盗撮という問題を単純に妄想と片づけるのは極めて愚かなことである。何より、ソビエト・ロシアの歴史を知っている者として、ここではっきり言えるのは、国家権力による盗聴・盗撮は、何世紀も前かられっきとして存在しており、いわば使い古された手段であって、何ら個人の妄想の産物でもなければ、新しい発想でもないということである。

全体主義政権は、いつの時代も、自らの政策の異常さ、残酷さ、誤りを、民衆の心に単純に訴えかけるアートの形で発表されることを何よりも嫌がった。そこで、政治家だけでなく、詩人、作家、音楽家など、芸術家をとりわけ厳しい監視対象としたのである。

たとえば、19世紀ロシアの詩人レールモントフは次のような詩を書いた。
 

Прощай, немытая Россия,
Страна рабов, страна господ,
И вы, мундиры голубые,
И ты, им преданный народ.

Быть может, за стеной Кавказа
Сокроюсь от твоих пашей,
От их всевидящего глаза,
От их всеслышащих ушей.



この詩には違うバリエーションもあるようだが、今はこの詩に正確かつ芸術的に完成された訳をつけることは目的とせず、単に意味を大まかに理解するだけに専念したい。もし逐語的に訳せば、次のような意味になるだろうか。

さらば、*無割礼のロシアよ、
奴隷らの国、ご主人様らの国、
おまえたち**青い制服にも、
奴らに忠実な民衆にも。

(注*無割礼と訳した言葉は、原語では「洗礼を受けていない」の意味、つまり、野蛮な、下品な、といった意味合い)
(**青い(空色の)制服とは、帝政ロシアの憲兵の制服)
 
ひょっとして、*コーカサス山脈の向こうまで行けば、
おまえの**官憲から逃れられるかも知れない、
奴らのすべてを見通す目から、
奴らのすべてを聴く地獄耳から。

(注*=僻地への兵役や流刑の方が都にいるよりもはるかにましだという意味)
(**原語では、パシャというオスマン帝国軍司令官の称号、複数形)
 
レールモントフがこの詩の中で激しい侮蔑と嫌悪感を示して糾弾しているのは、帝政ロシアの巨大な権力機構によって国民の間に徹底的に張り巡らされた監視・密告・検閲体制である。当時、ロシアの帝政権力による検閲は、ただ単に政治的な出版物やパンフレットの検閲だけでなく、あらゆる分野の出版物に及び、国民のあらゆる会話の監視・盗聴と、それに基づく密告が行われていた。貴族であっても、この監視体制から逃れられる者はいなかった。

このような徹底的な監視・密告・検閲体制は、ロシア国家の不治の病として、この国の歴史に深く刻まれ、ソビエト体制にも受け継がれる。帝政ロシアが権力を批判する文書を細部に至るまで統制し取り締まっていたと同様、特にスターリン体制になって以後のソビエト権力は、国内のすべての文書を厳しく事前検閲して取り締まりの対象とし、国民のあらゆる会話を盗聴し、国民同士による盗聴・密告体制を作り上げて、国家にとって不都合な人間を排除する手がかりとした。ソルジェニーツィンが収容所群島と呼んだ強制収容所には、国民同士の密告に基づいて「人民の敵」とのあらぬ嫌疑をかけられて秘密警察により逮捕され、証拠もなく有罪にされた数知れない人々が送られた。

だが、ソビエト体制になるよりもずっと前に、レールモントフが自らの詩に描いたのが、まさにこれと同じ世界であった。この詩人にとっては、それこそが「ロシア」であり、ロシアとこの盗聴・密告・監視システムは切り離せないものとして一体化して機能している。しかも、その奴隷のシステムは国家権力だけが独断で作り上げたものではなく、民衆の自発的協力と一体になって成立しており、そのようにして権力に自ら迎合し、媚びへつらい、屈従する国民の卑屈さ、精神的奴隷ぶりが、この誇り高い詩人には我慢がならなかったのである。

今日のロシア人は、この詩はシニカルに過ぎるものとして否定したがるかも知れない。そのような卑屈な奴隷根性を国民的歴史としては認めたがらないであろう。だが、これはロシア国家の不治の病であり、今日もそうした体質は変わらない。ロシアという国に対して幻想を持つのは早くやめた方が良いであろう。

筆者はかつて半数ほどがロシア人から成る小規模な仕事場で働いたことがあったが、そこで、毎日、毎日、ロシア人の集団と顔を合わせているうちに、普通ならば、国際結婚でもしなければ見えて来ないような彼らの国民性の負の部分を間近で観察することになった。その結果分かったのは、ロシア人には自分たちは虐げられているという被害者意識による団結力はあるが、それがあだとなって、自ら監視・密告体制を作り、信念を持たず、浮草のように力の強い者から力の強い者に流れ、何度でも寝返りながら、本心を隠して媚びへつらうという無節操ぶりであった。ロシア国民の大半はこのような無節操な人々から成ると見て良い。筋を通して権力に戦いを挑む真のインテリなど極めて稀である。

そのようなわけで、我が国の現状を相当に辛辣に批判する数多くの人々が、米国嫌いの反動のためか、今もロシアには甘い点をつけ、淡い期待を託している現状を、筆者は残念に思う。

たとえば、兵頭正俊氏でさえ「南スーダンの黙示録」(2016年12月1日)において次のように語っている。
       
 

2015年にノーベル文学賞を受賞したスベトラーナ・アレクシエービッチが日本にきている。

11月28日に、東京外国語大学で講演して、「日本には抵抗の文化がない」と発言した。福島第1原発破壊の福島を視察して、被災者から国の責任を追及する声が少ないことに驚いたものである。

福島で目にしたのは、日本社会に人々が団結する形での『抵抗』という文化がないことです。祖母を亡くし、国を提訴した女性はその例外です。同じ訴えが何千件もあれば、人々に対する国の態度も変わったかもしれません。全体主義の長い文化があったわが国(旧ソ連)でも、人々が社会に対する抵抗の文化を持っていません。日本ではなぜなのでしょうか

「全体主義の長い文化があったわが国(旧ソ連)でも、人々が社会に対する抵抗の文化を持っていません」という言葉をそのまま受け取るわけにはいかない。ロシアは、世界史に残るロシア革命を成し遂げ、またその革命が裏切られると、ソ連邦をも倒した

 
隣の芝生は青く見えるのであろう。だが、アレクシエーヴィチはロシアという国を十分に知った上で、以上のように発言しているのだ。それは知らない者に否定できる見解ではない。さらに、ロシア革命は、今日の言葉で言うカラー革命の一種であり、ソ連崩壊も同じことである。それらは決してロシア人の勇敢な抵抗の精神を物語る立派な歴史的事実ではない。とにかく、ロシアを色眼鏡で見て甘く評価することは、相当に危険である。この国の流血の歴史に比べれば我が国の方がまだ幾分か罪が軽いとさえ言える。
 
またもや話がロシアに飛んだので、ASKAの話に戻らねばならないが、ASKAが訴えている盗聴・盗撮などといった手法は、以上に記したように、何世紀にも渡り、国家権力が国民を取り締まり、統治を強化するために実際に用いて来た闇の手段なのであり、何も病人による筋の通らない戯言ではなく、さらに、公権力を批判する者が「狂人」や「病人」扱いされるという歴史も、今に始まったことではないのである。

いつの時代にも、国家権力は、人々が何千ページもある難解な論文や報告書を書いて政権を批判することよりも、絵画や、音楽や、詩などの、人の心に単純に訴えかける、民衆に広く理解される単純な形式による政権批判の方を目の敵にして取り締まって来た。
 
何千ページにも及ぶ論文は、読む人も限られるが、わずか数十分のプロモーション・ビデオなどは、誰でも容易に理解できる。

筆者が何を言わんとしているかもう分かる人もいるかも知れない。ASKAが訴えたような執拗かつ大規模な集団ストーキングが、もし国家権力と結びついたものであった場合、一体、それは何を理由として始まったのか。何がきっかけで、同氏はそれほど激しい妨害にさらされることになったのか。
 
誰でもすぐに思いつく重要なきっかけの一つは、 CHAGE&ASKAがかつて宮崎駿監督のスタジオ・ジブリの制作により、反原発をアピールする以下のプロモーション・ビデオ"On your mark"を作ったことである。「ああ、またもや、原発反対派による国家権力による陰謀説か。そんなものは聞き飽きた」と一笑に付すのは簡単だが、少し待ってもらいたい。
  


このプロモーション・ビデオは、Wikipediaの記述によれば、最初に公開されたのは1995年で、その後も、コンサートツアーで使われたり、2005年にはスタジオジブリのDVDにも収録されたりして、問題なく公開されていた様子なので、その事実を見る限り、最初からこのビデオが問題作として当局からの攻撃の対象となったという事実は全くないものと考えられる。

おそらく、福島原発事故が起きるまでの間は、かなりディープな問題提起がなされているとは言え、それほど物議を醸すことのない比較的無難な作品であったように思われる。

しかしながら、3.11後、権力にとって、このプロモーション・ビデオは、それまでとは全く違った意味合いを持つものとなった。すなわち、原発推進という「国策」に真っ向から逆らう、「権力に盾突く」深刻かつ見過ごせない内容の「危険作品」になったのである。

特に、当のASKA自身が明白に反原発のプロパガンダの意味を込めてこの作品を利用しようとしたことが、余計に当局の反発を買ったのではないかと予想される。

このプロモーション・ビデオのタイトルは、CHAGE and ASKAのライブとしては6年ぶりに予定されていた再始動の意味を持つスペシャルライブ2013“On Your Mark” にも大々的に利用されていた。このライブは、ASKAに「一過性脳虚血症の疑いがある」という理由で延期され、その後、完全中止になったが、この時につけられた病名が本当に正確な診断であったのかどうかについては色々な憶測が飛んでいる。

ASKAが最初に覚せい剤取締法違反の容疑で逮捕されたのは、2014年5月17日であり、この逮捕の影響により、それから約1か月後の6月18日に予定されていた上記のビデオの「宮崎駿監督作品集」の特典映像としての収録が中止になった。

筆者は、ASKAの覚せい剤使用の容疑が全て捏造であったと言っているのではない。おそらく一度目の逮捕の容疑は事実だったのだろうと想像する。だが、芸能人と暴力団や薬の使用との結びつきは、ASKAに限らず、あまりにもありふれた話でしかなく、当局はそのようなことはすべて知った上で、いつそれを大々的な事件として取り扱うかということだけに焦点を絞っていた可能性が高い。

当局は、有名人CHAGE and ASKAの華々しい再デビューと、反原発のプロパガンダのビデオが一つに結びついて、大々的に国民感情を揺さぶる現象を引き起こすことを何より恐れ、一計を案じたのではあるまいか。これを防ぐために、ライブの中止に向けて逮捕を計画しただけでなく、ASKAの名誉を徹底的に貶める執拗な報道によりビデオの信憑性を国民に疑わせ、その普及を阻止すべく手を打ったのではないかという見方が可能である。
  
さらに、上記のプロモーション・ビデオの他に、当局の恨みを買うきっかけとなったもう一つの事件が、ASKA自身が、(おそらくは国家権力と結びついた)大規模な盗聴・盗撮のシステム(集団ストーカー)の存在を告発しようとしていた事実である。

集団ストーカーの存在は、これまでネット上の妄言とされるばかりで、芸能人や著名人がその存在を認めることはほとんど無かった。影響力の大きい著名人の発言だけに、余計にそれが社会的に認知される前に早々に闇に葬る必要があったと見られる。

ASKA本人の手記によれば、同氏がこの問題に深入りするきっかけとなったのは、身近な他者が集団ストーカーの被害に遭い、自殺したという事件から生じた慙愧の念と義憤だったようである。同氏の手記を額面通りに受け止めるなら、他者の無念を晴らそうと、自らその事件に深入りしているうちに、組織的な盗聴・盗撮集団の存在を突き止め、これを追跡しているうちに、自身がターゲットとされたということになる。

だが、ASKAの手記を読むと、同氏は人を信じやすく、正義感が強く、疑うことのできない人柄の持ち主であったように見受けられてならない。そういう性格の人間を闇の中に誘導して陥れるには、親しい知人を痛ましい事件に巻き込むだけで良い。だから、真相は分からないとはいえ、監視集団の真のターゲットは、初めからASKAだった可能性も考えられる。

こうしたことは、栩内香澄美容疑者についてもあてはまる。ASKAはこの女性をも疑うことができないでいる様子だが、パソナにおける会長秘書という役職を考えるとき、おそらくこれは普通の人間ではないだろうという印象が拭い去れない。彼女はもともと一定の目的で派遣されたエージェントであった可能性が考えられる。道連れに逮捕されたのは目くらましで、当局の真のターゲットはもともとASKA一人だったのではないだろうか。
  
今回、二度目に逮捕される直前、ASKAは盗聴・盗撮集団の存在について、次のように言及していた。
   

  「ASKA容疑者 謎の言葉「ギフハブ」とは?」daily sports 2016.11.30 によると、
 
「同容疑者は警視庁に28日に逮捕される約5時間前に宮根誠司キャスターと電話で話し、その模様を29日に同番組で放送した。その際、同容疑者は「組織があるんですけど、ギフハブっていう。そこが組織を作って今…」などと自分の行動が監視されていると訴えていた。」



そこでASKAの語った具体的な内容は次のようなものだったという。
 

「ギフハブ」っていう組織があるんですけどそこが組織を作って。
今AR(拡張現実)っていう仮想現実なんですけど僕のいるところを映したりして。
携帯の中にそのアプリが埋め込まれてたんですよ。その証拠もとってるんですね。」


この秘密組織の存在は、様々な場所で、ASKAの妄想と幻覚を示す証拠のように嘲笑されているが、本当にすべてが作り話と決めつけられるであろうか。

何しろ、スマートフォンを含む携帯電話が、人々の位置情報、通話内容を含め、音声の盗聴及び盗撮に利用されうること、携帯電話を通して得られた情報をすでにCIAなどの大規模組織が大がかりに利用していることは、エドワード・スノーデンなどもすでに指摘していることであり、何ら新しい情報ではない。

それはあくまで米国の話だと我が国の人々は思って安心している。しかしながら、もしASKAの証言により我が国においても、同様の大規模監視集団の存在があることが明るみに出れば、人々はパニックに陥り、携帯電話を二度と使わないと決意するであろう。そのようなことを防ぐために、こういう話は早めに「妄想」と決めつけるのが手っ取り早い。病気でないなら、薬による幻覚、脳の破壊ということにして、「妄想の持ち主」を徹底的に見せしめに嘲笑すれば、そんな「作り話」は誰も口にしなくなる。

ところで、ARを作って、そこに現実の人物を置くことで、現実世界のパラレルワールドを作り、人間を監視するという、ASKAの語る監視手法は、上記のプロモーション・ビデオの中にもヒントがある。

"On your mark"のストーリーは、すべてがパラレルワールドから成り立っているとも言える。まず、そこでは、現実世界は放射能に汚染されて、人が住めなくなっており、人々は地下に現実を模した人工都市を作って、そこをあたかも現実世界のように思って生活している。それは人々を人為的に閉じ込める一種の「マトリックス」である。

この自由なき地下社会を支配しているのは、現実世界を放射能に汚染させて人が住めないようにした犯罪者政府であり、その犯罪者政府が、いかがわしいカルト宗教と手を結んで人心を統治しているというのが、このビデオの動かせない「現実」である。



ちなみに、このカルト宗教の掲げる標語"God is watching you"「神はあなたを見ている」は、この宗教の第一目的が、全ての人々を「監視する」ことにあるとよく物語っている。要するに、「おまえらはみな監視されているぞ」という脅し文句である。この宗教はフィクション版のフリーメーソンであり、そこで言う「神」とは悪魔を指す。

このすべてが裏返しのフィクションにおいて、主人公は、警察官の職に就いている友人同士の二人である。だが、二人がカルト宗教団体に突入するというストーリーの始まりは、そこからしておそらくはすでに幻想であり、妄想であると筆者は思う。

本当は、この世界においては、犯罪者政府とカルト集団による支配から逃れられる者は誰一人いない。現実における主人公は、カルト宗教・政府の手先としての「官憲」でしかないであろう。だが、ちょうど映画「マトリックス」がそうであるように、現実の欺瞞に気づき、これに耐えられなくなった主人公が、この「マトリックス」を脱し、勇敢に巨悪と闘うる正義の味方となるという「夢」を一人、空想の内に思い描くのである。

この「夢」の中で、主人公はカルト宗教にとらわれていた一人の翼ある少女を救出するというミッションを帯びる。が、何度も失敗しては、また最初からやり直しになる。ゲームのように、一度失敗すると、オールリセットして、また新たな策を練って、初めから出直しとなる。このストーリーでは、少女を救出して解放することが、人類全体の自由を取り戻すことと同義になっている。

その救出作戦の途中で、研究資料として政府に連れ去られた少女の位置情報を探り出すために、主人公はパソコンに向かう。パソコンの上には、不思議の国のアリスに登場するウサギを思わせる置物が置かれている。

少女の位置情報は、パソコンの向こうの仮想現実の中で見つけられる。「マトリックス」の世界に存在するすべては、コンピュータープログラムによって監視され、記録されているので、システム上で探り出すことが可能である。

CHAGEを思わせるもう一人の主人公が作ったものは、無線機のようにも見えるが、少女が監禁されている装置のロックを解除するためのリモコンであるらしい。





 
  
なぜこの少女は国家による研究材料にされて、試験管のような装置の中に閉じ込められたのであろうか?

推測に過ぎないが、この少女にはおそらく、放射能を無害化する特殊能力があるのだと思われる。そのことは、このストーリーの最後に、汚染された町で、少女一人が生き生きと羽ばたいて空へ向かっていく様子からも理解できる。

犯罪者政府とカルト宗教は、放射能を無害化する技術が一般大衆に知れ渡ると、地球が再生され、自分たちが人々を脅し、「マトリックス」である地下都市に監禁する口実がなくなるので、自分たちの支配が永遠に続くように、少女を隔離することによって、その技術を政府が独占し、外へ知られないように手を打ったのである。

むろん、この少女は存在自体が、主人公の「妄想」の産物である。実際には、この少女はカルト宗教に捕われて、無残に犠牲にとされた信者(もしくは奴隷)の一人に過ぎない。その犠牲者の少女に、地球再生の鍵が秘められているというのは、主人公の「夢」でしかない。

だが、その「夢」においては、政府と宗教団体の犠牲となって閉じ込められている一人のか弱い少女を救出して、汚染区域に解き放つことは、少女一人だけでなく、地球全体が救出される道である。少女が持つ放射能を無害化する力によって、汚染区域は、長い時間をかけて、再生の道を辿り、それによって地球は再び人の住める場所となり、未来の人類に、犯罪者政府とカルト宗教による支配から逃れる道が開かれるのである。

つまり、一人のか弱い人間を救うことが、地球全体の救済へとつながっているのであって、それを成し遂げることが、主人公が真の英雄へ至るミッションである。主人公二人は、汚染区域に入ったことによって、死ぬ羽目になるが、少なくとも、自己を犠牲にして、地球を汚染から解き放つ方法を提供することで、真の英雄になれたのである。

このビデオはフィクションとはいえ、現実世界の歪みを鋭く暴いて糾弾する意味を持っている。それは放射能の脅威(だけでなく人類の直面するあらゆる問題)を逆手ににとって、その脅威を悪用して人々を脅しつつ、カルト宗教と結びついて、人々の自由な暮らしを奪いながら、恐怖によって人心を支配する政府の存在を指摘していることである。その犯罪者政府にとって、放射能汚染という恐怖は、永久に取り除かれずに存在していた方が、むしろ、好都合なのである。

3.11以降、このフィクションに込められた現実の矛盾を暴きだす力が、あまりにも強烈なメッセージになったがゆえに、当局はこれをお蔵入りとし、闇に葬る必要があったのである。

そのために、フィクションの物語を裏返しにして、ASKAを模した主人公が、現実世界においてはスキャンダルと恥辱にまみれた「容疑者」となり、決して「英雄」にはなれず、少女も飛び立てず、再生の道が絶たれるように、悪意を込めて物語の事実をひっくり返したのである。

この悪意ある監視集団は、そのために現実とは別のもう一つの仮想現実であるARの世界をコンピュータ内に作り、そこでASKAを監視の対象、さらし者にした。そのARにおいて、彼らはどうやって同氏を罠にかけ、貶めるかを話し合ったのであろう。そして、その悪意が現実世界にも及ぶように、周到な計画を練ったのである。現実世界において、同氏をどんな風に罠に引き込んで凋落させるかを話し合ったのであろう。

「落ちて行くだけのコインは二度と戻らない」とか「流行りの風邪にやられた」などの歌詞を彼らは弄び、悪い事柄だけが現実になって降りかかり、作品自体が本人を嘲弄する手段となるように粋を凝らしたのである。

この犯罪者集団は、おそらくはASKAの他にも自らの脅威となりうる人間に対して、ずっと同じ方法で監視を繰り広げ、その人物が真の社会的脅威となる前に、あらゆる方法を使って社会から排除されるよう、引きずりおろして来たものと想像される。小沢一郎、植草一秀、鳩山由紀夫などの政治的大物は言うまでもないが、影の政府にとって不都合な人間を欺き、その人間性を貶め、周到に罠にかけるのが彼らの仕事であり、今やその手法はただ単に社会的な大物だけでなく、一般人にまで及ぼうとしている・・・。

しかしながら、こうした恐るべき推測を一旦、脇に置いても、このビデオは宮崎駿の作品にしては、随分、不吉な印象である。特に、この翼ある少女には、宮崎作品に登場する多くの女性主人公のような主体性があまり感じられず、彼女はただ受動的に救いを待っているだけの、意志を奪われた無力な人間であり、どちらかと言えば、『風立ちぬ』に登場する女性のように、悲しい犠牲者の風貌をしている。このストーリーの中では、本当の彼女はきっと、翼もなく、ただ痛ましい犠牲となって死ぬおびただしい屍の一人に過ぎないのであろう。この犠牲者としての風貌の中には、汚染された地域の被災者の悲しみのすべてが、隔離された人類全体の悲しみが投影されている。

この哀れな犠牲者の少女を解き放つために、結果的に、二人の主人公も命を失う(としか思われないのだが)というエンディングもかなり悲愴である。話の運びのテンポは良いが、『風立ちぬ』もそうだが、エンディングが、ハッピーエンドなのか、悲劇なのか分からないという消化不良を観た者に引き起こす。『風立ちぬ』の主人公は、明らかに体制側についた人間であり、自らの想像力を悪なる戦争のために利用され、妻を救う手段も見つけ出せなかった無力な人間である。彼には妻の愛情に報いる術もなく、彼女が死の床についてから、病める時も、人生を共にしてやるという伴侶のつとめを果たせず、むしろ戦争の大義を優先したような非力で無能な男性である。それとほぼ同じように、このビデオの中でも、主人公が英雄になれるのは、自分の空想の中だけである。

もしかすると、このあたりが、現在の日本人一般男性の思考と能力の限界かも知れないと思う。何しろ、この国は、真の意味での精神的自立を成し遂げたことが今まで一度もないのだ。だから、これまで、この国で生きるということは、多くの人々ににとって、マトリックスの一員、体制側の人間として生きることしか意味しなかった。特に、男性が、社会に認められようと思ったときに、完全に反体制的人間として、マトリックスを告発する側に立つことはほぼ許されなかった。こうした意味で、我が国の遅れて閉塞的な文化的・精神的な状態はロシアに非常によく似ているのである。

だから、この国の男性たちはおおむね誰もが自分の魂をどこかで置き去りにし、権力に売り渡しながら生きて来たのであり、それが悪であることは、本人の魂が重々知っている。だが、それより他の生き方を選択できないので、その人々は自分の心の本当の願いを、フィクションや、仮想現実や、空想に託すしかない。上記のプロモーション・ビデオも、ある意味では、良心を曲げられ、屈従を強いられた人間の慙愧の念と良心の叫びから出て来る「妄想」や「幻覚」に近い現実逃避としての「夢」のように見受けられる部分がある。

しかし、ASKAはおそらくこの仮想現実の物語を地で生きようとしていたのであろう。カルト宗教団体に捕われ、犠牲となった少女を見捨てておけなかった主人公のように、集団ストーカーの犠牲となった死んだ友達をも放っておくことができず、原発事故被害を見過ごしにすることもできず、犠牲となった人々を助けたいという生来の義憤と同情から、深い暗闇に自ら首を突っ込んで行き、自分自身もその犠牲となったのである。

だが、その同情と義憤にこそある種の非常な人間観の甘さ、お人好しさがあったのだと言える。結局、人間が自分の手で人間を救おうとする試みは必ず頓挫し、犠牲は犠牲の連鎖を生むだけで、どんなに美しく見える人の良心も、愛情も、義憤も、決して人を生かす真の力とはならない。人間の救いは神にしかなく、人間自身には義はないからである。犠牲の連鎖を抜け出る新たな生き方が必要なのである。