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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

主を待ち望む者は新たに力を得る

この記事には当初、W.ニーの『創世記を黙想する』についての感想を書いていたのだが、今、内容を変えて、ちょっと違うことを書いてみたいと思う。

今、この記事を書き変えているのは2016年の夏。蝉の鳴き声がよく聞こえ、筆者の家ではペットたちが静かに休息している。この夏はショパンのノクターンの全曲制覇という目標を立て、何年間もご無沙汰していたピアノに熱中して取り組んだ。7割ほど目的を達したと言えるかも知れない。

不思議なことに、若い頃は、ピアノという楽器の演奏は、十代で完成の域に達していなければ、その先、取り組んでもあまり大きな成果はないという思い込みを筆者も多くの人々同様に持っていた。確かにプロのピアニストを目指すのであれば、どんなに遅くとも20代の前半までに完全な技術的完成が必要とされるのだろうとは思う。

しかしながら、音楽的素養というのは、年齢には全く関係ないどころか、生きれば生きるほどに深みが増すということが今になって分かる。どんな曲を弾いても、多分、十年前には、今のような深みを持ちえなかった。曲への理解は、人の心の深いところから生まれて来るもので、その人が人生で苦しみや悲しみ、痛みを通り抜けた分だけ、本人の中で生きて来るものなのだ。

だから、ピアノに限らず、仕事に明け暮れたり、愚にもつかないことにうつつを抜かしたために、いたずらに通り過ぎた月日のことで悔やむ必要はないと分かる。若ければ若い分だけ、たとえ成功したとしても、すべてのことが皮相である。

だから、たとえ十年間、無実の罪でラーゲリに入れられて、そのせいで生活を奪われていたのだとしても、絶望する必要はない。一番肝心なのは、その月日の間に、本人の心の中に何が醸造されたのか、ということである。そしてその成果は決して人が外から目で見ておしはかることのできるものではないのである。

筆者は、2009年に輝く展望を持ってこの地にやって来た時のことを思う。その時から、現在に至るまで、何か大きな展開があったかと言うとそうではない。むしろ、その時には予想もしていなかったような恐るべき暗闇が解き放たれ、我が国そのものに暗黒時代が今、始まろうとしているような有様である。

しばらくの間、筆者はそうした世の中の悪化して行く情勢に驚き呆れ、嘆き悲しみ、これを変えようと試み、憤りを示した。クリスチャンの交わりについても同様である。なぜ人の心の中に隠されていた罪や悪がこれほど暴かれ、人間への絶望だけが増し加わるのか、筆者には理解できなかった。

だが、その果てに、ついに筆者の心に、そうした現象がほとんど影響を及ぼさないまでになり、それらのものを変えようという願いの代わりに、むしろ、変えられる自分自身のうちに希望を託すに至った。

レニングラード封鎖の生き証人たちが語っていたことを思い出す。独ソ戦の最中、ドイツ軍に包囲されたレニングラードの町では、食糧が尽きて、大飢餓状態が起きた。その中を人々がどう生き抜いたかという証言である。

町からはネズミ一匹さえ姿を消した。ある人々は家人にさえ黙って、ペットを殺して食べたという。人間の赤ん坊でさえ食べられた。だが、ある人々はそんな中でも、ペットを殺して食べることを拒み、なおかつ、今まで通りの生活を送ったのである。朝起きて、歯を磨き、学校が閉鎖されているのに、子供は学校へ向かった。一体、どこに登校する気力が残っていたのか知らないが、彼らは町中が飢餓で苦しみ、死へ向かう中、あくまで平常通りの日常を送ろうと心がけた。そこに、人間性を失うことへの確固たる抵抗があった。そして、そういう人々が最も長く生き永らえたというのである。それに引き換え、ペットを殺して食べた人々は、長くは生きなかった。

あるいは、日本の戦時中に思いを馳せる。当時は、お国のために、一般家庭からは、鍋や釜だけでなく、ペットまでも供出させられたそうだ。兵隊の着物の毛皮にするためと言って、猫や犬までお国に捧げられたというのである。そのくせ、殺されたペットの毛皮が戦地に送られることなどなかった。何という悲惨な話だろうかと思う。

筆者は、そのような全く無意味でしかない事柄に振り回されて貴重な人生を失うことの愚かしさを思い、この世の情勢がどんなに悪化して行ったとしても、仮に我が国が暗黒時代に突入するようなことがあっても、それと一切無関係に生きることを、ある時点で心に決めたのであった。

筆者の属している世代については、すでに失われた20年世代だとか、色々なことが言われており、暗黒時代はとうに降りかかっているし、それなりの苦労もあった。かつては、年配の同窓生たちの輝かしい活躍の記録などが送られて来ると、自分もこれから何かを打ち立てなければならないといった危機感を覚えたりすることもあり、あるいは苦労を知らない世代との話のかみ合わなさにもどかしさを覚えたりすることもあった。だが、今は、そうしたことに目を向けようという気にもならず、この世の情勢によって人生を奪われないで生きることが肝要だと分かるのである。

ショパンの舟唄やら、バラードやら、ノクターンやらを久方ぶりに引っ張り出して来ているのもそうした文脈でのことだが、驚くべきことに、記憶は鮮明で、それほど苦労なく曲を思い出すことができ、新たな曲も、CDなどを聴いているうちにあっという間に覚えてしまった。筆者はここ数年のうちに多少は記憶力が衰えただろうと予測していたので、これは存外な驚きであった。逆に、10代の頃は最も共感を覚えていたベートーヴェンに対する興味が失われた。受けつけられなくなって来たと言っても良いかも知れない。

多分、たとえ明日、明後日にこの世が終わると言われたとしても、やはり、筆者は通常通り、ピアノを弾いているだろうと思う。残念ながら、この町ではピアノの音など絶えて聞かれなくなった。これも国民生活が窮乏していることの証だろうと思う。かつては町を歩けば、どこかの家から子供の弾くピアノの音が聞こえて来たものである。筆者も、ここ数年間は、仕事に追われ、いくつかのなじみの曲をさらうだけで過ぎて来ていたのだが、そのようなことでは気が済まないし、そうしていてはならないという気が起こって来た。かつて目指し、未だ到達できていない水準に達するために、新しい試みをしなければならない。

かつて日本が豊かな国であった時に受けたすべての教育の良い名残が筆者の中にとどまっていて、それはただ受けた教育の水準の高さを示しているだけでなく、その当時、その豊かさによってこの国が至りつこうとしていた高み、あるいは、筆者自身が生きて培って来た人間性とビジョンの高さを示している。その到達した高さと、見えていたビジョンがまだ鮮明に記憶に残っているのに、これらの水準を無理やり世の悪化する情勢に合わせて人間のレベルを下げて生きることに対する無言の抵抗が心のうちに生まれたのである。

筆者がこの地へやって来たとき、家の契約手続きをしているカウンターの向こうで、フランクのヴァイオリン・ソナタがかかっていた。このソナタは、天地創造からキリストの昇天(聖徒らの携え挙げをも象徴)までを示していると筆者は考えていることはすでに書いたが、今新たな門出が必要であろう。

今、筆者は、もし次に住まうとすれば、どこに住もうかと思いを巡らしている。これは郷里に帰るという意味ではない。地境を広げるためである。神奈川県というのは、全国で唯一「神」の名がついている県というだけでなく、横浜市の区には、聖書的と思われるような名前が散見されて、面白い。神奈川区、泉区、栄区…。

40歳になるまでは自分を公然と世に表してもの申すことを控えようと筆者は思って来たので、このブログもペンネームである。だが、そろそろ、筆者の人生の最も重要な時期が来ようとしているのを感じる。これから何をするのかはまだはっきりと決めているわけではないが、いずれにせよ、今まで自分自身の内に蓄積して来た宝を結晶化させて外に出す時が次第に近づいて来ていることが分かる。だが、それは何か輝かしい金字塔を打ち立てるといったようなものではなく、おそらく、神に向かう静かな生活の中で起きて来ることであろうと思う。

たとえば、人間生活が極度に圧迫される時には、猫や犬を殺して食べたりしない、というごくごく当たり前のことでさえ、金字塔のようになり得るのである。人がそれぞれの生活においてどうやって自分の人間性を守り、人として満足しうる水準を引き下げずに生きるのか、その方法は時によって様々であるが、いずれにしても、我々には立ち向かって撃退しなければならない暗闇からの圧迫があり、闘いぬいて守り抜かねばならない、人としての高度な水準が存在するのである。本当は、その水準を脅かすものこそ、当時のレニングラードの人々にとってのドイツ軍や、戦中の日本人にとっての米英などの全ての外敵にまして真に立ち向かわなければならない敵なのであり、その脅威は、世の情勢をまことしやかに装いながら、人自身の心につけこんで、価値あるものを放棄させ、人間性を貶めるようにそそのかすために、巧みに嘘を吹き込もうとする悪魔の誘惑なのである。

さて、世の中の情勢は全く異なるのに、2009年の夏と今年の夏は少し様相が似ているように感じる。それは筆者が神にしか満たすことのできない深い深い井戸を掘って、主のみを待ち望んでいるからであろう。その間にどのクリスチャンが誰と離反し、誰が異端の教えに走ったとか、そういうことはみなどうでもいい話である。筆者自身がどれだけの月日を無駄に失ったかということさえ、関心の対象外である。

キリスト者にあっては神がすべてのことを益とされるので、無駄というものは存在しない。たとえ外なる人は日に日に衰えても、内なる人は、まるでこの世に絶望が増し加わるほどにより一層、輝きを増すとでも言うかのように、外なる人とは対照的に、新たに強くされて行く。

筆者はすでにキリストと共に死んで、神のうちに隠されて生きている。神にだけしか満たすことのできない深い渇望のうちに主を待ち望みながらも、この先、キリストの豊かさを体現し、栄光から栄光へと主の似姿に変えられて行くために、どのように生きようかと、思いを巡らしている。
 
  

 
 

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