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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

ある失敗―音楽の恐ろしさ―(続)

キリスト者とのメールのやり取りから。

「改めて一つ気づかされたことがあります。
音楽が生み出す感動や、陶酔感というのは、たとえどんなに宗教的に見えたとしても、
私はそれを一種の偽物だと思うべきだということです。
 
かつて私は、レフ・トルストイの「クロイツェル・ソナタ」について記事の中で触れた時に、
そのことをはっきりと書きました。

けれども、それは私がまだ霊と魂の区別もつかなかった頃に書いたものですから、
その点で、お読みになる価値はありませんが、ただご参考までに挙げておきます。
「クロイツェル・ソナタに見る男女の悲劇」
「クロイツェル・ソナタに見る音楽によるマインドコントロールの危険」
 
この作品の中で、トルストイは、今や音大受験生の教科書のようになり、
現代人がきっと最も、安全かつ、厳格だと思い込んでいるベートーヴェンという作曲家を取り上げて、
その音楽芸術が持つ潜在的かつ重大な危険性について警告しています。
 
この物語は、いつも決まって、男女の性、夫婦の性という観点から語られますが、
実は、音楽によって破滅させられた夫婦の物語でもあるのです。
音楽というものが、特にこの終わりの時代にあって、いかに危険なものであるか、
それを示すことが、トルストイのこの物語の第二の非常に重要なテーマだったのですが、
その問題は、多くの人から無視され、未だかつて、それを十分に論じた人は
一人もいないのではなかろうか?と私は思います。
 
しかし、今から振り返ってみると、小説「クロイツェル・ソナタ」は、まさに私にぴったりの、
しかも、目を背けたくなるほどに運命的な話でした。

音楽がいかに麻薬的な陶酔状態、幼児的退行にも似た無防備な心理状態を人の心のうちに作り出すか、
いかに下劣な人間であっても、音楽という手段を巧みに用いさえすれば、
自分をたやすく聖人や救世主にまで見せかけることができるか、
かつて自分で書いた警告を、今、もう一度、自分に強く繰り返したいと思います。
 
セザール・フランクは教会奏楽者ですから、彼の音楽に信仰が表れていることは否定できない事実でしょう。
それでも、彼の音楽をすら、私は、退けるほどの慎重さが必要です。
幼少期から音楽を少しばかり学んだために、より一層、私の魂と肉体は、
音楽に影響されやすい構造になっているのです。
そのことが、過去の教会での手痛い失敗においても、私の弱さとして顕著に表れています。
そこから学ばなければなりません。
 
本当の御霊から来る感動とは、常に深く理性に裏付けられたものであり、
同時に、感情も伴うものであるはずです。
しかし、音楽が作り出す陶酔感は、外的影響が理性を覆ってしまうのです。

たとえその音楽が厳格な構成の上に成り立ち、
深い思想や哲学や信仰が内にこめられているとしても、
音楽が外的影響となって、聞く者の耳に及ぶ時、それは聞く者の理性のたがを外し、
魂の極めて無防備な心理状態(=一方的な受容)を引き起こし、
その結果、音楽は彼の魂の奥深くにまで到達、浸透していくのです。
その時、聞く者は、作曲者(または演奏者、あるいはその音楽を利用している人たち)の思いを、曲と共に一方的に受け入れてしまうのです。
 
一言で言えば、音楽に身を任せる人は、たとえ気づいていなくとも、同時に、
その場の雰囲気にも身を任せてしまうことになるのです。
ですから、音楽と共にやって来る支配をも、一緒に受け入れることになってしまうのです。
意識的に、その影響力に抗うことは困難です。
 
御霊に導かれている時、私はどんなことにも、激怒することはありませんし、
異が痛くなるほど悩む、ということもありません。
自分が取っている行動を客観的に見つめることができなくなるほどに、自制心や、コントロールを失うということはありません。
 
しかし、私の魂と肉体が、たとえば音楽の影響によって、
「非常に影響されやすい」状態(=心の無防備な全開状態)になっていれば、
私は御霊の声を忘れて、その場の雰囲気が作り出す影響力に、疑いもせずに流されていくことになるのです。
 
そのようなわけで、音楽に対して心を開きすぎることは、実に警戒すべきことです。
この辺りのこと、魂の混ざった霊的なものの見分けが、もっと私につくようになったならと思います…」


 
「このような「音楽の時代」に あなたが堂々と
「そのようなこと」を言われる潔さに快哉を叫ぶ思いです。
 
結論から言えば 「魂と物質」起源のものは 総て敵の手の武器となり、
キリストから彼を切り離し得るのです。
でも このように 総論だけを言うのは 簡単ですが
その各論となると 極めて受け入れられにくい状況があります。
  
しかし、事実としては
音楽、美術等 最高の美でさえ、たやすく キリストに代わり得るのです。
基本的な相違は 前者が旧創造に属し、後者は復活を経たものであることです。
これこそ決定的なことであり、
神がこの世の最高の美さえも あの木に釘付けたことは明白です。
 
今日のキリスト者であればこそ、その各論を受け入れることはまず不可能でしょう。
ですから、彼らは音楽と共に滅ぶ可能性さえあるのです。
 
ウォッチマン・ニー は言います:
天の実際と 霊的命の完全さを知って 初めて
彼はそれらを 心からさげすむでしょう。
なぜなら その両者は比べ物にならないからです
、と。
 
キリスト者にとって 最も難しいものは 己であり、物質であり魂です
何故なら それらには ある美しさがあるからです。
見て美しく、好ましいからです。これに勝利し得る人は おりません
 
 「真に霊的で永遠に属するもの」を見る目、
 そのための光こそが
 何にもまして 貴重である理由が そこにあります。
 
 これは 今日 私達がこれから遭遇するであろう
 極めて困難な問題です。
 
 さて対策は 
 私達が 天的で、超越した美しさを この人間性から
 真に表現しえるかどうか、ではないでしょうか。
 
そのような「真に美しい人間」が
 現にこの地上に 現れなければならない、ということです。 
 
 イエスこそ、谷間にひっそりと咲くユリです。
 その美に本当に吸引される人は 誰でしょうか。
 誰がその美しさを真に発見できるでしょうか。
 
そして、
 誰が その生活の中で イエスと一つとなり 
 彼の美しさを 真に現しえるのでしょうか。」
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