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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

内なる人と外なる人(2)

「今日、神の霊は人を通して解放されなければなりません。他の人が神の愛を見ることができるには、人の愛がなければなりません。他の人が神の思想を見ることができるには、人の思想がなければなりません。他の人が神のみこころに触れることができるには、人の決定が見いだされなければなりません。

しかし、人の問題は、その外なる人が自分の事柄で多忙すぎることです。彼には自分自身の見解があり、自分自身の思想があります。彼は自分のことで多忙すぎます。その結果、内なる人は解放される道がないのです。
こういうわけで、神は外なる人を砕かなければなりません。」(ウォッチマン・ニー、『霊の解放』、p.53)


 今日、多くのクリスチャンが、神のために働いていると自分自身では思いながらも、その実、自分のための計画や思いや活動でいっぱいになっており、そのせいで、少しも御心を表すことができないでいる。多くの教会が、クリスチャンが、毎週、毎日、自前のスケジュールに従って、ひっきりなしに、「神のために」何らかの活動を続けているのに、それらの活動が、ほとんど実を結ぶこともなく、無駄に終わっているのはなぜなのか、その理由をどれほど多くの人々が真剣に考えたことがあるだろうか。

 しかも、それほど忙しく働いているにも関わらず、彼らと接するとき、私たちは彼らの中に、少しも「キリストの香り」を感じることができない。そこには何らの神のご性質をも見ることができず、ただむき出しの生身の人間性と、頑なな性質以外には、何も感じることができないのはなぜなのか、考えたことがあるだろうか。人々は、自分たちは正しい活動をしているのであって、実を結ばないことこそが、おかしいと考えているかも知れない。しかし、心から神を求める人々は、そのような説明は何かがおかしいと感じ、そこには何か本質的なものが欠けていることを感じ取るだろう。

 私たちがどんなに神のために働いたつもりになっていても、現実には、ただ空振りにおわる諸計画を持って、地上を右往左往し、いたずらに彷徨っているだけのように思われることがよくある。その理由は、私たちが、自分自身の力では、何が滅びゆく魂を起源とする、御心にそぐわない思いや計画であって、何が、真に御霊の指し示す思いや計画であるかを区別する力を持たないために、魂の衝動を、御心であると勘違いして、自己を起源とするむなしい活動にひっきりなしに没頭しているからである。

 私たちは自分の力では、自分の思いや計画がどこから来たのかを識別することができない。霊と魂を区別することができない。自己の魂というものが、どれほど徹底的に自己保存の思いにとりつかれており、自分を喜ばし、自分を満たすことだけを念頭に置いて、御心をおしのけ、御心に反して、自分を守ろうとし、神をも自分自身をも欺くものであるか、魂というものが、そもそも御心からどれほど遠くかけ離れた、呪わしい、汚れたものであるかを知ることができない。

 しかし、たとえ私たちが自覚していなくとも、私たちの天然の自己、魂は、どんなに「神のための奉仕」のような形を装っていても、その実、自分自身のためとい動機に基づいて働いており、私たちの魂から捧げられる賛美・祈り・奉仕は、神の御前には決して受け入れられることはない、むなしい捧げ物である。私たちが自分の天然の魂から来る衝動に真に死んで、霊に導かれて生きるようにならない限り、どれほど必死になって奉仕を積んだとしても、それが神の御国のために役立つ日は来ない。それどころか、私たちが自己の思いを増強する度に、それがより一層、固い殻となっていき、一粒の種の発芽を阻み、御国のために実を結ばなくさせてしまうのである。

 神はこのように自己という固い殻に覆われた私たちの状態を変えたいと願っておられる。神が望んでおられるのは、私たちの天然の自己のエネルギーが弱められ、死ぬことである。そこで、神は私たちの人生において、外なる人(魂、肉体、古き人である自己)を御霊によって処理しようとされる。イエスを救い主として受け入れたクリスチャンには、その人がたとえ気づいていなくとも、神は彼の外なる人に対して、御霊による訓練、もしくは啓示による、魂の取り扱いを開始する。外なる人を、御霊と共に生きているその人の内なる霊に服従させるための訓練が始まる。御霊は、何度も、何度も、根気強く、私たちの人生に臨み、さまざまな障害物を置くことによって、外なる人を傷つけ、環境というるつぼの中で練り、砕き、ろ過し、不要な部分を取り除き、柔軟にしようと働きかけている。

 しかし、私たちは「外なる人が打ち砕かれる」という表現を耳にする時、何と好ましくない印象を受けることだろう。人生に突如として起きてくるさまざまな困難を通して、御霊が私たちの外なる人を取り扱う時、私たちはほとんどの場合、それが神による取り扱いであることを理解せず、ただ何とかして痛みを避けようとして、嵐が静まるまで、逃げ回っているだけである。私たちはこう考える、自分の意志を放棄すると、ロボットになってしまう! どこかのカルト団体に入信している信者のように、自分の意志を全て失い、うつろな目つきになって、ぼんやりと誰かの命令通りに動かされるだけの操り人形になってしまう! 私はそんな風になりたくない! 自分の意志、自分の願い、自分の計画、それらを放棄してしまったら、人間としての私は終わりだ! だから、どんな困難な状況にも屈服してはならない! 私は私の願いを決してあきらめない、私は「私らしく」生き続ける!

 しかし、このような考えがどれほど御霊にとって妨げとなり、私たち自身にとっても、深い欺きとなっているだろうか。神は人の自由意志を尊重される方であり、御霊は紳士的に働かれる。私たちは、神の真実な御霊による訓練を、人間性を奪うためのカルト団体における強制的な信者の訓練と混同すべきではない。御霊は、決して、私たち人間を、自由を奪われた操り人形や、拘束された囚人のようにされるために働いておられるのではない。

 しかし、今日、キリスト教を名乗っている多くの教派の間で、聖霊でないものを聖霊であると偽り、「これは聖霊が言われていることなのだ」と言いながら、人を人に服従させ、支配するための各種の訓練が行われているから、その点については、要注意である。そこでは、神の名を用いて、あらゆる偽りが行われ、人間の自己を砕いて、ただ他の人に服従させるために、さまざまな最新の運動が行われている。そのような場所では、悪しき霊が働いており、私たちはそのような偽の訓練や運動には近づいてはならない。神は私たちを真に自由にするために、訓練を行うのであって、私たちを、意志も感情も思いも奪われた他人の操り人形にするために、外なる人を打ち砕こうとしているのではない。

 私たちが追い求めているのは、人の思惑ではない。誰か人間の指導者による啓発や、訓練ではない。だから、私たちは、人を人に服従させるための諸計画に欺かれないようにしよう。人の考えとは関係ないところで、真に神の御前に静まって、畏れを持って進み出て、次のように祈るならば、真実なお方である神は、きっと私たちの願いに答えてくださるだろう、「主よ、私はあなたの御心を知らなかったがゆえに、これまで、あなたの計画を妨げ続けて来ました。けれど今日、自分自身を改めてあなたに捧げます。私をあらゆる偽りから遠ざけて、ただあなたの真実な御霊によって、導き、啓示を与え、訓練してください。あなたが私を貫いて働くための方法を持つことができますように、あなたが私を通して自由に働くことができるようにと願います。私の自己があなたのご計画の妨げとならないように、私の外なる人を砕いてください。必要な学課を最後まで学ばせて下さい。何が魂であり、何が霊であるかを私に教えて下さい。」

「こういうわけで、神は外なる人を砕かなければなりません。しかしこれは、意志はすべて殺されるべきであるという意味ではありません。この意味は『手のもの』、すなわち、意志の中のあるものは、意思がもはや独立的に振舞うことがないように、はぎ取られなければならないということです。これは、わたしたちの思想はすべて殺されるべきという意味ではありません。この意味は、わたしたちは自分自身にしたがってもはや考えないということであり、また、わたしたちはもはやあらゆる種類の考えを提案することができなくなり、また、わたしたちのさまよう思いによって迷うことがなくなるということです。これは、わたしたちの感情はすべて殺されるべきであるという意味ではありません。この意味は、わたしたちの感情は、内なる人の管理と指示の下に置かれるようになるということです。このようにして内なる人は、思い、感情、意志が、すぐに用いられる状態になっていることを知ります。」(p.54)

 神は私たちから、意志と感情と思いを奪って、私たちをロボットにするために、外なる人を打ち砕こうと願っておられるのではない。むしろ、私たちの自己を限りなく弱めることによって、私たちが内に住まわれる聖霊に柔軟に応じるようになり、私たちがもはや二重性を持たない、内的な矛盾を持たない、真に統一された自由な人として、神のために有用に働くことができるようにされたいのである。

 イエスを救い主として受け入れたその時から、聖霊と私たちとの二人三脚は始まっているのだが、私たちは絶えず、自分だけの意志、自分だけの思いによって、御霊を自分の思う方向へ引っ張って行こうとしているので、両者は絶えず対立し、せめぎあい、私たちは失敗するばかりで、二人三脚は一度としてうまく行った試しがない。にも関わらず、私たちはもっと頑張って、自分の思いで御霊を強く引っ張っていかなければならないと誤解している。だが、必要なのは、私たちがその自分勝手な活動に死ぬことである! 御霊は、私たちの自己に引きずられるのでなく、私たちの自己のエネルギーを極限まで弱め、私たちの外なる人が内なる人と調和して、両者が一体となって働くことを望んでおられる。もしもそれがなければ、決して、私たちは神のために有用な働き人となることはできないだろう。そのために、私たちは自分の手の中に固く握り締めてきたもの――自分のためだけの意志、自分のためだけの計画、自分のためだけの思い――を一旦、放棄して、それを神のためにいつでも用いられる状態へと解放し、自分を御霊に明け渡しながら、共に進んでいくことを学ばなければならない。

 それは決して、私たちが骨抜きにされて、死人のように生気を失ったり、自分の意志も感情も思いも持たずに、命令どおりに動かされるロボットのような状態になることを意味しない。外なる人が打ち砕かれる過程には、確かに、痛みが伴うだろう。しかし、御霊と調和して生きるところには、私たち自身にとっても、真の解放があり、自由がある。なぜなら、そうなって初めて、私たちはもはや分裂のない、統一された「新しい人」として調和の中に生き、神のために豊かに実を結ぶ働き人となるからである。

「霊は、自分自身を表現するために、思い、感情、意志を必要とします。霊は、自分自身を表現するために、死んだ外なる人ではなく、生き生きした外なる人を必要とします。霊は、封印されて触れられていない外なる人ではなく、打たれ、傷つけられ、砕かれた外なる人を必要とします。

今日、最大の障害物はわたしたちです。神の霊はわたしたちを貫き破ることができません。神の霊は、わたしたちの霊の中に住んでおられますが、わたしたちの霊から出て来ることができません。わたしたちの外なる人は、あまりにも満腹しています手のもので満ちていますわたしたちは、外なる人が砕かれて、内なる人が出て来るための道を持つことができるように、神にあわれみを求めなければなりません

 神は、わたしたちの外なる人を滅ぼしません。しかし、神は、外なる人が触れられることがなく、砕かれることがない状態のままであることを許されません。神は、わたしたちの外なる人を通過されたいのです。神は、わたしたちの霊が、わたしたちの外なる人を通して愛し、考え、決定をして欲しいのです。神の働きは、砕かれた外なる人を通してのみ達成することができます。もしわたしたちが神に仕えたいのであれば、わたしたちは、この基本的な対処を経なければなりません。<略>

 外なる人は、真に砕かれた後はもはや独立的には振る舞わなくなります。外なる人は滅ぼされてはいませんが、もはや内なる人と対立していません。内なる人に服従しています。このようにして、わたしたちの中には、ただ一人の人しか残らなくなります。外なる人は粉々に砕かれ、内なる人が用いるのに用意されています。
 外なる人が砕かれた人は、『一体化された』人です。彼らの外なる人は、内なる人の管理の下にあります。<略>

 人が主の御前で役に立つかどうかは、その人の霊が外なる人を通して解放されているかどうかにかかっています。内なる人が束縛されていると、外なる人がすべてのことを自分で行います。<略>主の恵みにより、主が坂道を平坦にし、外なる人を砕いてくださるなら、外なる人はもはや、提案をしたり、決定をしたりすることはなくなります。このことが起こると、内なる人は、外なる人の何の妨げもなく、自由に解放されます。もし主がわたしたちに恵みを賜り、外なる人を砕かれるなら、わたしたちは、自分の霊を活用する上で熟達した人になり、わたしたちは自分の願う時に、霊を解放することができるようになります。」(p.54-57)


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