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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

主が与え、主が取りたもう

 今日昼ごろ、兄弟との電話での交わりを終えて、買い物をするために外へ出た。あれ、おかしいな?との疑問が脳裏をよぎった。いつもバイクを置いているはずの場所に、単車がない。
 あたりを見てみると、私が年中つけっぱなしにしていたハンドル・カバーが、植え込みの中にぞんざいに放り捨てられていた。きっと盗難だろうな…、そう思った。

 ハンドル・カバーを拾い上げ、それを持って、念のために、付近を見回りながらも、なぜか不思議に心が落ち着いていた。その上、不謹慎かも知れないが、何となく可笑しかったのだ、まあ、この道に歩む限り、何と毎日のように、事件が絶えないのだろう、と…。確かに、私は少し無用心だったかも知れない。見知らぬ土地に来たにもかかわらず、単車に何重にもロックをかけたりしなかったし、最後に使った日には、特に、確かにハンドルロックがかかっているかどうか、注意深く確かめなかった。

 だが、あのバイクは一度、車に当てられて、主軸が曲がり、全損と判定されているし、2万キロを走って、そろそろベルトの交換の時期が来ていたので、バイク屋にはこのままでは危ないと忠告されていた。前後のタイヤとブレーキ・パッドも、そろそろ取り替えなければいけない時期が来ていた。メットが壊れてしまったので、冬になる前にそろそろフルフェイスのヘルメットを買わなくちゃ、駅前に駐輪するなら、予備のロックも必要だなあと思っていたところだった。ずぼらな性格の私は、それら全部の用件を放置していた。誰が持っていったにしろ、あのまま乗り続けて、危ない事故が起きなければいいが…。

 だが、そんなことはどうでもいい。私はさまざまな土地で、何年来、同じバイクを使ってさまざまなところを走り、時には無用心な駐車や、危ない走行をすら、何度も行ってきたが、それでも、大事故や、盗難に遭ったことは一度もなかった。それは全て主の守りのおかげである。今回のことが、敵の仕業であるにせよ、何にせよ、全てのことは、神の主権の下でしか起こらない。特に、このような財産の「はぎ取り」は、神が許されない限り、決して、起きるはずがない、という確信が心にあった。

 しかも、ちょうど昨日、私は、サタンがヨブを試みることを願い出て、神に許された場面を聖書で読んだばかりだった。あり得ないほどの試練が次々と、ほぼ同時に、ヨブを見舞う。使用人や家畜は一挙に死に絶え、財産はなくなり、大切な子供たちは、不慮の事故で全員亡くなった。だが、ヨブは言う、

「わたしは裸で母の胎を出た。
 また裸でかしこに帰ろう。
 主が与え、主が取られたのだ。
 主のみ名はほむべきかな。」

 ヨブはそれでも、その上、さらなる試練に見舞われるのだが、すぐに私もヨブと同じことを祈った。主のみ名は誉むべきかな。どうぞこの事件を通して、より主に栄光が帰され、主の御名が崇められますように。私の財産など、どうでもよいのです。もとより私は、主が与えて下さるのでなければ、何一つ所有できず、主の御前に、自分の財産というものを持たないのですから…。
 まあ、一応、この世のしきたりに従って、交番に届け出て、盗難届けを作成してもらうことになって、警官がやって来るのを待っている。日々の生活は多少、不便にはなるが、構いはしない、しばらく様子を見よう。

 このところずっと、私は兄弟姉妹との交わりを通して、現代の志あるクリスチャンは、獄中のウォッチマン・ニーがそうであったように、制限の中で、神の無限な現われを体現して生きなければならないということを痛感させられていた。私たちは、時空間の制限の中に閉じ込められた中を生きているが、その制約の中から、逆説的に、神の無限の現れをこの世に豊かに流し出す、そのような管とならなければならない。

 神は霊である。だから、私たちは肉によって神の言葉を宣べ伝えるのではなく、霊によってのみ、御言葉を宣べ伝えることができる。私たちの肉体は、さまざまな制限を受けるが、神の言葉は決して制限されることはない。そこで、神は、クリスチャンのために、大変に矛盾した、しかも極限にまで矛盾した状況を作り出されることがある。神は私たちを極度の不自由の中に投げ込まれ、肉体の自由が、ことごとく奪われ、生きることさえ、ままならないような状況となって、あるいは、御言葉を語ることさえ、禁じられるような中にあって、それでも、私たちが神の無限の現れを豊かに流し出す管となることを求められるのである。それは私たちがますますこの肉体と魂に死んで、霊なるキリストを表すようになるためである。

 だから、物質界のことなど、ある意味、もうどうでもよい。決して、生きることをおろそかに考えるわけではないのだが、私の生活が、肉体が、移動の自由が、たとえどれほど制限を受け、追い詰められようとも、ただ神の御心が、私(や兄弟姉妹からなるエクレシア)を通して、より自由に地上に現されるようになりますように、私が砕かれ、閉じ込められ、制限を受けることによって、神の豊かな現れをもっと人々が知ることができるならば、ぜひともそうなりますように、と、祈ることしかできない。

 以下は昨年6月5日、まだ私が関西にいて、京都の教会に通っていた頃に書いた日記だ。この頃に書いた膨大な量の無意味な文章の中で、次の言葉だけは、真実、神を求める心から書かれていたような気がする。

「私はある法則性を学んだ。私が間違った選択をすると、それにこめられていた全ての期待が砕け散るということだ。私は日曜を休日にするために、生保の仕事を選んだ。だが、この日曜が、私に痛みをもたらすものにならないだろうか。それは怖いことだ。とても怖いことだ。そして、試練は、すでに始まっているという気がする。

 惑わしの風が強く吹いている。人の自惚れをくすぐり、好意を勝ち取り、それを担保にして、偽りを教え、自分たちの集団に緊縛し、詐欺を働く行為が全地に満ちている。自分の心の望みさえ、警戒しなければならない。ピアニストにしてあげるよと言われても、信じてはいけない。君の心の痛みは、私が分かってやれるよと言われても、信じてはいけない。どんなに私が聞きたかった言葉を言ってくれる人があらわれても、よくよくその人の行動を吟味してからでなければ、信じてはいけない。以前、私は『君は学者になる人だ』と言われ、その言葉を後生大事に温めてきたが、もうそんなことはどうでもいい。

 私の野心よ、全て消えてしまえ。物乞いにはなりたくない、誇りを失ってまで生きていたくないという思いも、消えてしまえ。私の生死は神様の掌中にあり、神様が生きよと命じる限りにおいて、私は生きていればそれで良いのだ。私の存在そのものが、風のようだ。どこから来てどこへ行くのか、私自身すら知らない。だがそれで良いではないか。神様が吹かせた風ならば、命じられるままに吹くがいい。

 自分で自分を救おうという努力はもうやめよう。決して自暴自棄になろうというのではない。生きようが死のうがどうでも良いというわけではない。私自身の心は、精一杯、豊かに 美しく生きることを望んでいる。だが、神様の御心がもし私にとって最善であるならば、御心の前に、私は自分が望み得る最高の願いさえ放棄しよう。

 それは人の言葉に従うのではない。もっともらしいクリスチャンのもっともらしい説教を聞いて、自分の願いを捨てるわけではない。人からは離れたところで、私は静かに、神様に申し上げる、私の全知識と全人生経験を合わせて下した結論さえも、あなたの御心にはかないません。だから御心を教えて下さいと。神様の思いの中で、神様の計画の中で生きることだけが、私の人生と心に最善の安らぎをもたらす秘訣なのだ。それを求めなかったことで、どれほどの傷を私は今日まで受けて来ただろう。

 私は羊として囲いの中に戻ろう。その囲いとは、決して、決して、教会というこの世の組織を意味しない。その囲いとは、神の御心なのだ。私を生かそうとして神が用意してくれた、私のための牧草地なのだ。隠れたところにあるその囲いを求めて、私は人里を離れて祈ろう。」

 この文章を書いてから一年以上が経った。既存の教会と訣別し、さまざまなことが起き、前よりも、エクレシアが近くなったように思われる。前よりも、少しばかりは光を見て、御心を知ったような気がする。私の野心も、願いも、あれから、ことごとく微塵に打ち砕かれなければならなかった。それでも、私は、今になっても、まだ完全な答えを得てはいない。隠れたところにある囲い=霊なるエクレシアを今日もまだ探り求めている。キリストを頭として、霊の一致の中に織り込まれた兄弟姉妹との交わり、彼らと共に作り上げられる霊の建造物の中で、礎の一つとなることを、求め続けている。その旅は、まだまだ続いていく…。
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