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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

神の国の秩序(キリストの至高性)

神の国の秩序は、キリストの十字架の死と復活を通したキリストとの合一によって
キリストの至高性が確保された信者の内に到来する


さて、以前の記事の中で、私は御国の法則について説明しようとしたが、御国の秩序、御国の統治形態、御国の法則全体を指すものとして、ひとまず、御国の秩序という言葉を使うことにしたい。

 「…わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。」(マタイ12:28)とイエスは言われた。このことは、御国の秩序が、人となって地上に来られ、バプテスマと聖霊を受けられた御子イエスを通して、地上に実現したことを意味する。

 御国の秩序とはどのようなものか。次の通りである、

「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
 天国は彼らのものである。
 悲しんでいる人たちは、さいわいである、
 彼らは慰められるであろう。
 柔和な人たちは、さいわいである、
 彼らは地を受けつぐであろう。
 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
 彼らは飽き足りるようになるであろう。
 あわれみ深い人たちは、さいわいである、
 彼らはあわれみを受けるであろう。
 心の清い人たちは、さいわいである、
 彼らは神を見るであろう。
 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
 彼らは神の子と呼ばれるであろう。
 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、
 天国は彼らのものである。」  (マタイ5:3-10)

 イエスは山の頂きに座して、ご自分も安息されながら、弱く打ちひしがれた人々を御元に集めて、彼らにも、安息の時が到来したことを告げられた。すなわち、イエスを通して、御国の秩序が、神を信じる人々のもとにやって来たことを告げられた。その御国の秩序とは、人に安らぎをもたらすものであり、人を罪と死とあらゆる汚れ、捕われから解放するものであり、人に神の無尽蔵の富を豊かに分かち与えるものであることを告げられた。御国の秩序のあるところには、自由があり、汚れたものの一切が追放され、まことの命の豊かさが惜しみなく現れ出る。

 御国の住人として(エクレシアとして)召し出されている人々は、神を抜きにして幸せ一杯に、満ち足りて、悠々自適に暮らしているこの世の人々とは一線を画している。召し出された者たちは、この世においては、絶えず心の飢え渇きを覚えている人たちだ。彼らは、この世においては、悩みが絶えない。病や貧しさや困難に絶え間なく見舞われ、人よりも不幸に見える人生を送っていることも多い。またイエスの名のゆえに迫害されていることも多い。彼らは戦闘的ではなく、心優しい、謙った人々であるがゆえに、この世では軽んじられ、見下され、侮られている。彼らはこの世に正義がないことを知っており、神の義だけを切に求めている。彼らは神に出会って、慰めを得て、解決を得られる時を切に待ち望んでいる。

 こうした人々が主に出会って、心から慰めを得、神の義を見て、満足し、平和を見て、満ち足りるようになることが、御国の秩序が到来することの結果である。その御国は、イエスと共にすでに神を信じる者たちのもとに到来している。聖霊が私たちの内に住まわれることによって、すでに私たちの只中に成就している。神の国とは、私たちが死後になってやっと手に入るようなものではない。

 だが、肉なる人間は、御国とは何であるかを理解できない。そこで、いつも経済的祝福や、病からの癒しなど、この世的な現象、奇跡的な祝福にばかり注目し、尋常でないいくつかの現象だけを取り上げては、それが神のご性質の全てであるかのように騒ぎ立てる。そこに大きな間違いがある。イエスの時代にも、群集の多くが、イエスが病を癒されると、その奇跡だけに注目し、パンと魚を増やされると、その奇跡だけに熱狂し、そして同じような奇跡が再び起こるのを見たいという衝動だけから、イエスに着いて行った。

 だが、神の国とは、そんな個々の現象にとどまらない、一連の秩序体系を指す。人知では理解できない、霊的な、見えない秩序が、御国の秩序なのであり、その秩序に従って、イエスは不思議な御業を行われた。その神の国が、神を信じる者たちのもとにすでにやってきていることをイエスは告げられたのだ。だが、このすでにやってきているということの意味が、またまた、人知では理解できない。そこで、神の国の意味を誤解した人々は、弟子訓練などの各種の方法論を通して、改めて神の国を地上に大規模に「建設」しようとなどと考え始める。そこにも大きな間違いがある。神の国とは、地理的領土のことではなく、この世的な、人間による支配体系のことでもなく、神の御心に沿って作り出される、御霊による、見えない秩序のことである。そして、その御国の秩序に従って、イエスはこの地上での業を成され、イエスが天に昇られた後、御霊によって生まれたクリスチャン一人ひとりが、イエスと基本的に同じ働きを任されているのである。クリスチャンたちの只中に、すでに御国はあるのだ。

 肉なる人は、しるしと不思議と奇跡という、現象や結果ばかりをいつも追い求めているが、私たちクリスチャンがいただいているのは、そのような一切の現象を引き起こす源であるイエスであり、まことの命である聖霊であり、見えない秩序である神の国である。

 神の国の法則に従って起こることが、世の人々には常に奇跡のように見えるのは、御国の秩序と、この世の秩序が決定的に異なっているためである。しかし、神の視点から見れば、転倒しているのはこの世の秩序なのであり、イエスが行われたことは全て、御心にかなったあるべき秩序なのである。

 だから、そのことを思う時、私は、この先、クリスチャンの間にまことのエクレシアが建て上げられていくに連れて、私たち一人ひとりのクリスチャンも、ますますイエスに似た者とされて行き、使徒のように大胆な働きをするようになり、各種の聖霊の賜物が、豊かに現れて来るだろうと思わずにいられない。

 神の国のはかりしれない秩序を、クリスチャンは内側にすでにいただいている。外見的には、みすぼらしく、取るに足りない、いつも危機に晒されて、追いつめられているようにしか見えない、弱く、脆い器である私たちの日々の営みを通して、神の国の圧倒的な秩序が、否応なしに、この世に流れ出て、現実化していくところを、私たちは今後、これでもかと言うほどに、目撃させられることになるだろう。こうして、初めは小さな種であった御国は、大きな木へと成長し、私たちの内側から、光が輝き出て、生ける水の川々が溢れ、流れ出すようになる。エクレシアが建て上げられていく時、神の国の秩序とは何なのか、まことの命の豊かさとは何なのか、神のご性質とは何なのか、その人知でははかり知れない不思議さ、豊かさを、私たちは隅々まで味わい知るだろう。そして、神の義の現れを見て、その中で歓喜し、主をほめたたえるだろう。

ーーー
2016年追記。
キリストがどれくらい信者の歩みを、ご自身と不可分のものとして心に留め、注意を払って下さるかは、信者の側が、どれくらいキリストと一つとされているかによる。

それは信者がどれくらい主と共なる十字架の死と一体となって、主の死と復活にあずかっているかによるのである。

これまでの間、筆者は誰にも頼らず、神にのみ頼ることを学んだ。人に頼れば、必ず、間違いが起きる。そもそも人に頼るということ自体が、心の助け手である神の栄光を曇らせる不信仰であると言って過言ではない。

しかし、主にのみ頼って行くときに、信者を中心として、この世の法則によっては到底理解できないような、霊的法則が実際に働き、すべての必要が満たされるということを経験的に知って来たのである。

たとえば、筆者が何を欲しているのか、その願望を口にするまでもなく、心に描いた望みを主が知っていて下さる。自分の資産を数え、足りないものをあげつらう以前に、筆者にどんな必要があるのか、主が知っていて下さる。

そして筆者の知恵を超えた不思議な方法ですべてを満たして下さるのである

だから、涙に暮れ、叫んだりして、仰々しい祈りを捧げなくとも、すべてにおいて主が共におられることを静かに確信し、キリストが信じる者と共にこの地を治め、信者の願いを通して今日も生きて働いて下さることをこれまで知って来たのであり、今も常にそれを信じて一歩を踏み出す。

だが、主が共におられるからと言って、どんな問題にも一切遭遇することがなくなるというわけではない。しかし、どんな問題に遭遇する時であれ、主がすでに解決となって下さっていることを理解するのである。

もし信者が目に見える人間の誰にも助けを求めることなく、人間に栄光を帰することなく、全ての必要をただ主にのみ率直に打ち明け、信頼して御手に自分自身を委ねて行くならば、日々の糧、生きる方法は、すべてが天によって備えられる。

そんな中でも、信仰の戦いは次第に難易度を増し、以前には通らなかったような細い道を通らされることもあり、信仰が苦難によって試される必要がなくなるわけではない。

だが、神への信頼に立つなら、その信頼が裏切られることは決してない、ということが、その歩みの一つ一つから理解できるのである。

多くの信者たちは、日々人助けに邁進することが、信仰の道だと考えている。まるで企業に雇われて働くような感覚で、「どれくらい人様の役に立って、感謝され、評価されているか」という、人間のために提供した「サービス(奉仕)」の量が、信仰生活をはかる重要なバロメーターだと思い込み、それゆえ、困っている人たちを探し出しては、絶えざる人助けに邁進し、他者からの評価の度合いを、自分自身の信仰生活の前進だととらえている信者が多い。

だが、筆者の目から見ると、信仰生活は、そのようなものではなく、この世の人間の観点とは逆になっているように思われてならない。つまり、信仰生活とは、そもそも人間の欲求を満足させるためにあるのではなく、神の願いを満足させるために存在するのだ。

そして、神は誰よりも、ご自分の子供たちが、神の恵みを豊かに知って、喜んで生きることを願っておられる。キリストは、すでに信者の内に住んで、共に生きて下さっている。だから、信者は、他者の中にキリストを見いだそうとする以前に、まず自分自身を大切にし、そして、自分自身の内でのキリストとの結合をより強固なものとしなければならない、と筆者は思うのだ。

とりわけ今日、キリストの名を用いながら、人を欺く偽信者が数多く登場して来ているので、どんなに敬虔そうに見えたとしても、目に見える人間の言動に左右されることなく、内なるキリストだけに頼って生きることが、必要なのである。

そして、 自分の願い、計画、歩みに神からの承認を確かに受けるために、主と共なる十字架の死と復活により立脚することが必要になって来るのではないか。この土台を離れては、御霊からのいかなる承認も受けることはできないからだ。

ところで、人が神の恵みを受けるために何より必要なのは、自分自身の欠乏を率直に認める素直さなのではないだろうかと筆者は思う。たとえば、ホームレス伝道のような慈善事業に明け暮れたり、カルト被害者救済などの旗を掲げて、常に他者の問題を解決することに明け暮れ、他者の欠乏を満たすことにばかり目を向けようとするクリスチャンたちに、筆者がどうしても欺瞞を感じずにいられない理由がここにある。

人助けに邁進する人生は、世の中から見れば立派である。しかし、他者の欠乏を満たしてあげる親切な人間を演じることは、人の自負心や、見栄によって支えられている場合が少なくない。さらに、そこには、助けてあげるという名目で、他者に対する優越感が入りこむ余地があり、助けの手を差し伸べている相手を、自分に依存させ、自立から遠ざける危険もある。結果として、人助けという名目で、一種の共依存関係ができあがることになる。

このように、他者の欠乏ばかりに目を向け、そればかりを議題にあげる人間は、往々にして、自分自身の欠乏を決して見ようとせず、自分に一体、何が足りないのかという、己の限界を謙虚に見据えることをしない。むしろ、自分には何も欠けたところがないかのように装って、他者の欠点ばかりを取り上げて、他者に恥をかかせながら、それを解決してやる心優しい人間を振る舞うことに、大きな落とし穴があるように思うのだ。

信者は、他者の欠乏をあげつらう以前に、己の欠乏に目を向け、神の御前で自分がどれほど満たされる必要を抱えている、心貧しき、飢え渇いた、哀れな存在に過ぎないかを、率直に認めるべきである。自分が神の御前に多くの必要を抱えていることをまず認め、幼い子供が父に願い出るように、自分のすべての願いと必要を正直に父なる神に申し上げ、神と相談しながら、日々、歩んでいくことこそ、信者の信仰生活に真に必要なことではないかと筆者は思う。

他者が満たされる必要ばかりを説き、己の必要に目を向けない人には、その強がり、虚勢のために、一向に、神の恵みを味わうチャンスが巡って来ないのである。

そんなわけで、筆者はあらゆる悩みや欠乏や苦難や試練を通らされる度に、それをただ主に向かって打ち明け、その都度、主に信頼することには大きな報いが伴うことを思い知らされている。他者の憐れみや、助言や、支援を宛てにして生きるのでなく、すべての必要を、信仰によって天の銀行から引き出すということこそ、最も確かな方法であると感じる。

この世においては、人間の生存は己の労働によって支えられるという間違った考え方が普及しているが、しかし、神はクリスチャンにそのようなことを要求されない、と筆者は思う。

野の花も、空の鳥も、己の労働の対価として命を得ているわけではないのだ。これは決して怠けることの勧めではないし、人は自分で働いて人を頼りとせず生きるべきであるが、それにしても、この世的な観点における労働というのは、根本的に、「他者の目にどう評価されるか、他者をどう喜ばせるか、他者にどう役に立つか」という観点ばかりに基づいたものであり、「神をどう喜ばせるか」ということにつながらない。

だから、必死の自己犠牲に基づく労働によってしか、生きる術を獲得できないというこの世的な考えは間違っており、そのような観点から、自分で自分を養おうと努力すると、自由なきつらい生き方が待っているだけであろう。

おそらく、この地上における労働の概念は、ますますこの先、人間をいたずらな苦しみに追いやるものとなるだろうが、神は、人間に苦役ではなく自由を与えられたのであり、この自由を行使し、二度と人間の奴隷にならずに生きるためにも、天の経済に支えられて生きる必要があると感じる。

  
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