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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

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生ける水の川々

「おおよそ人を頼みとし 肉なる者を自分の腕とし、
 その心が主を離れている人は、のろわれる。
 彼は荒野に育つ小さい木のように、
 何も良いことの来るのを見ない。
 荒野の、干上がった所に住み、
 人の住まない塩地にいる。

 おおよそ主にたより、
 主を頼みとする人はさいわいである。
 彼は水のほとりに植えた木のようで、
 その根を川にのばし、
 暑さにあっても恐れることはない。
 その葉は常に青く、
 ひでりの年にも憂えることなく、
 絶えず実を結ぶ。」(エレミヤ17:5-8)

「『わたしは産ませる者なのに
 胎をとざすであろうか』と
 あなたの神は言われる。

『すべてエルサレムを愛する者よ、
 彼女と共に喜べ、彼女のゆえに楽しめ。
 すべて彼女のために悲しむ者よ、
 彼女と共に喜び楽しめ。
 あなたがたは慰めを与えるエルサレムの乳ぶさから
 乳を吸って飽くことができ、
 またその豊かな栄えから
 飲んで楽しむことができるからだ』。」(イザヤ66:9-11)


 オースチン-スパークスの「生ける水の川々」から

 「主は私たちを通してご自身を注ぎ出すことを願っておられ、私たちを通してただひたすらご自身を注ぎ出すことを願っておられることを、主は示しておられます。
『その人から生ける水の川々が流れ出るようになる』。これが彼の願いです。

 どうか私たちの共同の黙想が、このような結果をもたらしますように。干上がった水路はみな満たされ、乾いた土地はみな潤され、霊的干潮はみな満潮に場所を譲りますように。私たちは個人的にも団体的にも自分がまったく取るに足りない民であることを知っていますが、それでも、主はこの道を歩まれるということが新たに知れわたりますように。
 『国々や地の果てにも届くほど、水の量が増し加わることは可能である』と言っても、言い過ぎではありません。それは主が私たちにあってなさることのためです。これが現実となるよう、信仰にとどまりましょう。」

 聖霊降臨の起こったその日、聖霊である生ける水の川々が信徒に上から豊かに注がれた。その時、信徒はそれまでのように、自らの知識によってイエスを理解しようと努力する必要がなくなり、ただ御霊の教えてくれる通りに、父なる神と御子イエスを、そして主の貴い十字架の意味を理解するようになった。

 私にこのことが起こった時(それは聖霊派の言うペンテコステ体験のことではない、十字架における復活を経た後のことである)、福音の本質が驚くほど単純であることに目が開かれた。その単純さはどこから来ていたかというと、「すべては主によってすでに終わった(完成された)」というところにあった。
 この世や、私たち人間に必要な全てのことは、すでにイエスが完成された。イエスの地上での生涯と、十字架における死と、復活と、天に昇られ、御座につくことを通して、すべては成就したのだ。サタンの最後でさえも、すでに定められている。だから、私たちにはもう努力してなすべきことは何も残っていない。ただ御霊の導きに従って、地上で定められた道を歩む他には。

 そのことが分かった時に、これは本当に楽だと思った。すでに道は敷かれており、私たちはそこを安息のうちに楽しみながら歩いて行けばよいと言われているだけなのだ。聖書の字義的解釈がどうとか、神学がどうとか、終末がどうの、再臨がどうの、ハルマゲドンがどうのと言って騒いでいる人たちは一体、何をやっているのだろうか、と、その時、私は思った。1000人教会とか、5000人教会とか、リバイバルだとか言っている人たちは、何をやっているのだろうか。
 すべてはもう完成されている。人間側からの努力は一切必要ないというのに…。目的地は私たちが定めるのではなく、もうすでに定まっている。それははかりしれない神の栄光を表す永遠の都である。それに比べ、もしも1000人教会が私たちの目指すべき目標なのだとしたら、それは何という味気ない目標だろうか。

 福音を理解するのに、高度な学問的知識や、読みきれないほどの分厚い注解書は要らない。教えてくれるのは御霊だからである。漁師だったペテロなど、無学な者たちがイエスに招かれていったことには、何の不思議もない。聖書を解釈しようとして、学者たちによって書かれた膨大な量の文書のほとんどは、きっと、無駄な知識で終わってしまっていることだろう。そこには人間的な意味での知識はあるかも知れないが、どれほどの学識を積んだ人であっても、聖霊によらなければ、聖書が何を意味しているのか正しく理解することはできないのだ。

 ナビゲーターのような存在である御霊は、私の中にインプラントされてすぐに、御言葉の意味を教え、そして歩むべき道を教えてくれるようになった。だが、それで聖霊の働きは全てなのかと言えば、そうではない。

 神の御心は、私たち一人ひとりの信徒が、ただ永遠の命を受け取っただけに終わらず、このまことの命なる聖霊を、私たちの内から、生ける水の川々として豊かに溢れさせ、流すことにある。
 だが、それを一体、どうやって成し遂げればよいのか? そこで頭を抱えて悩む必要はない。それもまた主がなして下さることだからだ。神には一人ひとりの信徒に対する深いご計画があり、私たちが召し出された者である限り、そのご計画は変わらない。私たちの存在を通して、命の水がほとばしるように周囲に流れ出すことは、神の御心である。だから、私たちがそうなりたいと切に願っている限り、それが成就せずに終わってしまうようなことはない。もしそんなことが起こるなら、私たちの存在は誰にとって、何の役に立つだろう?

 塩はその味を失っては、何の役にも立たない。エクレシアがエクレシアとしての存在意味を失うならば、それは誰からも用のないものとして捨てられるだけだろう。そんなことは決して起こらない。主はそんなむなしいことのために、十字架というはかりしれない代価を払って、私たちを贖い出されたのではないからだ。私たちの命には、イエスの十字架の値段がついている。主がそれほどの代価を払って、私たちを買い戻されたのだ。だから私たちはもはや自分自身のものでなくなり、主のものとされている。僕は主人に何と言うべきか。「僕は聞きます、主よ、お語りください。」 それで十分である。僕が主人に代わってあれこれ悩み、命令を考える必要はない。進むべき道は主人が教えてくれる。

 生ける水の川々を豊かに流し出す管となるために、まず、必要なのは、私たちが日々、十字架における自己の死(大小さまざまな形でやって来る)を通して、自分がこれまで立ちふさがってきた水路を聖霊に譲り、御霊が自由に流れる広い水路を開くことである。

 次に、生ける水の川々を豊かに流れさせるためには、「神の宮」の中に、つまり、エクレシアの中にとどまっている必要がある。私たちは個人としてすでにエクレシアを形成しているが、より広い意味でのエクレシア、つまり、兄弟姉妹たちとの愛による一致の中にとどまる必要がある。

「川は第一に十字架と関係しています。十字架は道を開き続け、水路を深め、広げます。
次に、川は宮と関係しています。なぜなら、この経綸時代だけでなくあらゆる時代において、神の御旨のすべては『神の宮』という名が示すもの――教会――と関係しているからです。教会は『永遠の時の前』に神が計画した素晴らしい神の傑作です。偉大な聖霊経験を持ちたいのなら、この実に偉大なものの中にいる必要があります。 」

 エクレシアの一致とは、主にあっての兄弟姉妹たちと、恵みを分かち合い、豊かに与え合い、喜んで仕え合う関係である。エクレシアにおける兄弟姉妹関係は、キリストが弟子達にそうされたように、限りない恵みと祝福を互いに与える関係である。エクレシアには、互いを限りなく愛し、互いのためにわが身を喜んで差し出して奉仕する、キリストのご性質がそのまま体現される。「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22-23)であり、私たちが御霊の導きに素直に身を委ね、御心の通りに生きたいと心から願う時、それらの実は、ことごとく、私たちの努力によらず、主によって、私たちの人生に結実するだろう。

 生ける水の川々には豊かな恵みの現れが伴う。その川々の水量が豊かになり、エクレシアの隅々にまでびっしりと流れて恵みを漏れなく行き届け、(果てはエクレシアの外にさえ流れゆく)に連れて、エクレシアの一致はますます強固なものとなり、そこから分裂や党派や妬み、陰口などが一切、自然消滅していくことだろう。御霊の命が溢れるほどに流れるようになるに連れて、私たちの内からも、肉的な性質の残滓がますます消えていくだろう。
 この途方もない計画は、私たちの努力によって築き上げるものではなく、主自らがなそうとしておられることである。だから、私たちはその成就を信じて、主のご計画に身を委ねたい。

「親愛なる友よ、もしあなたがイエス・キリストの召しと神の恵みに応じてきたのなら、何か途方もないもの、何か巨大なもの、何か抗えないものに捕らえられていることを、先に進むにしたがって知るようになるでしょう。それがどのようなものなのかを描写しようとする時、エゼキエル書は見事に私たちを助けてくれます。覚えておられるでしょうが、川はその幅と深さを増しながら、宮の敷居の下から発し、祭壇の横を流れ、聖なる敷地全体を通り、国土を流れ下りました。

この預言者が告げるところによると、幻の中で一人の人が彼を川に連れて行き、次に川の中に連れて行きました。最初、川はかかとの深さでした。それから、川が膝の深さになるまで、さらに腿の深さになるまで、彼は導かれました。そして、『泳げるほどの水』になりました。最後の描写は、『渡ることのできない川』(エゼキエル47:1-5)です。

 これは素晴らしいです!これが神の恵みの川だとすると、それはあなたや私の理解・能力を超えたものであり、自分たちの貧弱な限られた容量内には収まらないものです。どんなに必要が大きくても、この川は私たちを超えています。この川は常に私たちを超えています。あなたはもうこのことを悟っておられるでしょうか?私は悟りつつあります。あなたは自分自身に絶望し、『もはや神の恵みも自分を助けることはできない』と思ったことはないでしょうか?しかし、この川が完全に自分を超えていることをあなたは知ります。あなたはこの恵みの川に抵抗することができません。前に述べたように、もし恵みの呼び声に応じるなら、それが何か途方もないものであることをあなたは発見するでしょう。恵みの川は時の前に遡り、時の後にも進み続けます。それは永遠と同じく広大無辺です。」
 

 

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