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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

この世の臭気

 十字架で自己が死んで、復活した日。それはもしかすると、バプテスマを受けたその日よりも、もっと記念すべき日になるかも知れない。何しろ、この日を境に、やっと人は、サタンの虜から本格的に解放されて、世から隠され、主にあってまことの命を生き始めるのだから。
 そして、復活の次なるステップは、キリストと共に御座につくことである。御座につくとは、一体、どういうことなのだろうか?

 今、私は自分が御座についているとは感じない。だとすれば、それはこれから経験することなのだろう。どうか主が、十字架における死と復活を私に明確に経験させてくださったのと同じように、御座につくとは何であるか、その本質を、私にはっきりと分からせて下さるようにと願う。そのことについて、知識の上でも、理解を深めていきたい。

 さて、今日は、十字架上で自己が死に、そして復活して以来、世界の意味が私にとってまるで変わってしまったことについて話をしたい。この事件を経て、自分でも驚いていることが一つある。それは、私がこの世の全てのものに対して、無関心、かつ、冷淡となり、いや、もっと言うならば、激しい嫌悪感さえ抱くようになったことである。

 初め、こんな冷淡さが、本当にキリスト者にふさわしいものなのだろうかと、私は自分を疑った。以前の私は時々、人から言われたものだ、「あなたは人の痛みが分かる人ですねえ。弱者に優しい、人の痛みに敏感な人ですねえ」と。私は当時、それを誉め言葉として受け取り、情け深い自分自身のありようを(愚かしくも)美徳と考えて喜んでいた。

 ところが、この「弱者に優しいワタシ、ニンゲンの弱さをよく理解するワタシ」というものが、十字架上で死んでしまったのだ。そして、その代わりに、生まれながらのニンゲンに対して、無関心かつ、それを厭わしく感じる私が生まれたのである。
 かつて、私が必死でかぼうとしてきたもの、生かそうとしてきたもの(それは総体としては「この世」なのだが、天然の、生まれながらのニンゲンに何より代表される)に、私は興味を失い、それらを唾棄すべきものとして嫌悪し、厭い、退けるようになった。生まれながらのニンゲンのために涙を流し、ニンゲンに同情し、ニンゲンを滅びから救おうと汗水流して活動する運動のすべてが、御心に反する虚偽だという結論に至ったのである。

 だが、しばらくの間、自分の中に生じた嫌悪感の意味が私には分からなかった。それは非人間的な、冷たい感情のように思われた。私がかつて持っていた弱者への共感、人へのいたわりと共感、人の痛みに対する同情心、人の欠点や、悪に対してすらの共感と理解…、そういうものはどうなったのだろうか? 

 私はこの世に対する嫌悪を、かなり激しい言葉を用いて語っている自分に気づいて驚いた。もしかして、私は悪く変わってしまったのではないか? このような気持ちが、本当に、主にあって与えられたものだと言えるのだろうか?との疑問が生じた。

 だが、主はこのことの意味を、私に理解させて下さった。

 すでに書いたことではあるが、神の御前に、サタンに支配されるこの世は、唾棄すべき、厭わしいもの、呪われたもの、滅ぼされるべきものなのである。そして、サタンによって堕落させられた人間もまた、神の御前には、忌むべきもの、死すべきものである。サタン的価値観と、それに汚染された全てのものは、神の御前に、忌むべきものであり、救われる見込みを持たない。だから、キリスト者が、旧創造を目の前にして、主が感じられるのと同じように、それを厭わしく感じるのは、むしろ当然なのである。

 このようにも表現できるだろう、罪の性質を帯びたものは、すべて堕落したものであり、堕落したものは全て朽ちゆくものであり、朽ちゆくものすべては、独特の臭気を発しているのだと。それは霊的な死臭である。そして主のものとされたキリスト者には、この臭気がかぎ分けられる。だから、彼は当然のごとく、それを厭わしく感じ、できる限り、避けようとする。

 たとえば、考えてみよう、この世の物質でさえ、腐るということがある。健康な人間は、生ゴミの臭気を嫌い、新鮮さを好む。新鮮な野菜を食べれば、元気が出るし、新品の服を着て歩けば、気分も良い。
 学者でもない限り、毎朝、百年前に発行された同じ新聞をテーブルに広げて、繰り返し読みたいと願う人がいるだろうか? 私たちは常に新しいものを求める。同じことの繰り返しは、人に何ももたらさない。

 健康な人間は、朽ちてゆくものを嫌い、退ける。腐った果実は、人の体を殺すことはできても、生かす力はなく、着古した服は、さっさと捨てるべきだと、私たちは知っている。
 だから、私たちは、古くなったものに執着することなく、それを容赦なく捨て去る。そして古いもののことは忘れて、新しいものに喜びを見出し、新鮮なもので自分の生活を満たそうとする。

 ところが、そのように新鮮さを好む人間が、自力ではどうしても理解できないことが一つある。それは、生まれながらの人間もまた、朽ちてゆくものの一部であり、容赦なく捨て去られるべきものであり、人間は例外なく死の臭気を発しているということである。
 これを一言で言い換えるなら、Sugarさんがかつて書いておられたように、人間は皆、神の御前に、腐乱死体だということになる。

どんな人であっても、その正体は神に呪われた墓の下の腐乱死体に過ぎないことを
 私達は決して忘れてはなりません。<…>

 いわゆる霊の切り分けは、魂側からの切り分け、即ち
 『自分の魂の正体への深刻な認識』からもたらされるものでもある、
 と私は思っております。」

 十字架の死と復活を経験した後に、この言葉の意味が、私にはっきりと分かった。
 朽ちてゆくもの全てが発する臭気を、御霊を通して、感じ取るようになったからである。そこで、腐乱死体という言葉が、決して、大袈裟な比喩でなく、真実であると理解できる。

 残念ながら、腐乱死体の死臭は、たとえば、私の肉の体からも発している。今、私の身体には青あざがある。ようやく腫れは引いたが、血液が紫色に変色して皮膚の内側で凝固しているのが不気味であり、もしそれを絆創膏で覆っていなければ、人は誰もその醜い傷跡を正視し得ないだろう。

 この傷は、あと2,3週間ほどもすれば、きれいさっぱり癒えて、元通りになる。そういう意味では、何の心配も要らない、他愛のない、一時的な怪我なのだが、深刻な事実が一つある。それは、この醜い怪我が、私の肉なる性質の本質を表しており、たとえ身体の傷は癒えても、霊的な意味では、私の身体は全身、醜い傷跡と腐敗に覆われているミイラも同然だということなのである。
 
 もしも今、私の全身が、内出血や、かさぶたや、みみず腫れに覆われていたとしたらどうだろう? 誰一人として、私の姿を二目と見られないだろうし、まともなおつきあいも成り立たなくなるだろう。だが、霊的な観点から見ると、それこそが、肉なる私の本質なのである。
 全身、生々しい傷とかさぶたとみみず腫れと内出血と腐敗に覆われたミイラ、それが肉なる私なのである。

 私の肉体は、罪なる性質を帯びた全てのものが発するのと同じ、独特の死の臭気を発している。それはこの先、どんどんひどくなっていき、やがて死に至るだろう(この死臭を薄め、かなりの割合で、かき消すことができるのは、キリストの香りだけである)。私の肉体は、不治の病にとりつかれている。それは私がどんなに流行の化粧をして、髪型を整えて、美しい着物を着て、颯爽と人々の前を歩いて、元気そうに見せてみたところで、絶対に変わらない、動かせない事実である。

 肉なる私の本質は、腐乱死体である。どんなに隠そうとしても、分かる人にはそれが分かる。だから、たとえ私の身体が何らかの事故で変形したとしても、あるいはもっと極端に、生きたまま焼かれようと、はっきりと言えるのは、それは(以前に考えていたほど大きな)損失だとは言えないということ、醜く歪み、朽ちてゆくこと、それはまさに堕落した肉の本質であり、避けて通れない道だということである。

 肉体がキリスト者にとって、仮の宿に過ぎないことは幸いである。何と不思議なことにか、永遠の存在である聖霊は、このように忌むべき容器としての、私の罪と死のからだの内に宿られ、今、それを通して働かれている。だから、その限りで、私たちは宮の外殻を成しているこの肉体をも、大切に扱う必要がある。そして、やがて、来るべき時に、私たちは、この死の体から解放されて、もっと良い、朽ちない体をいただくだろう。

 だが、いすれにせよ、死すべき存在として、私の肉は死臭を発しており、それは肉体にとどまらない。その臭気は魂からも発するのである。
 私は10代前半の頃から、ほとんど途切れることなく、日記をつけて来た。荷物の整理をしていると、書き溜めたノートが出て来る。以前は、そのような文章を、魂の軌跡として、大切に保管していた。ところが、今になってページをめくってみると、それらの文章に表れている私の天然の魂である「自己」が発する強烈な臭気に、耐えられない思いがして、読む気がうせてしまう。人の自己憐憫、自己義認、自己を立てようとする願い、そういった、神を介さないで生まれてきた天然の魂の衝動が全て、腐臭を発していることが分かるようになったのである。

 健康な人間は、生ゴミに顔を突っ込んで、その臭いを嗅ぎたいとは思わないだろう。同様に、私は人の生まれながらの魂が発する腐臭に、嫌悪を催す。それをあえて吸い込みたいとか、保存しておきたいとは、少しも思わなくなった。
 だが、文章の中に、神に誠実に向き合う姿勢が出て来たり、真摯な祈りが現れたりすると、私の心は喜び、共感を覚え、嬉しくなってくる。そういう、キリストの香りが表されている文章は、私の魂に喜びを与え、御心にかなったものだとすぐに分かるのである。

 こうして、神を経由しないもの、まことの命をいただかないもの全てに、私は何の共感も感じられなくなり、それら全てが忌まわしく感じられるようになったので、それを弁護しようという気持ちも、なくなってしまった。(こうして今書いている文章すらも、キリストの香りを放たない、ゴミ捨て場行きの文章だと非難されたとしても、何も言い返すまい、御心にかなわないものが、全て処分されることは、私にとって喜びだからである。)

 腐乱死体はもともと命を持たない、死すべきミイラであるからして、たとえ腐乱死体の上に最も残酷な実験や拷問が行われ、世界で最も残酷な見せしめ処刑が行われたとしても、それは誰にとっても、脅威とはならず、損失ともならず、「被害」は全く発生しないのである。

 つまり、堕落した罪深い人間(この世を含む)は全て、滅ぼされるべきものであり、幾重に処罰されたとしても、どれほど厳しく罰せられたとしても、誰もそこに文句をさしはさむ余地がなく、滅びるべきものが滅ぶのは当然であり、そうなることが、むしろ、より良い秩序へとつながるのだ、との結論に至るのである。だから、滅ぶべき運命にあるものの存続を願う気持ちは消えうせるのである。

 ところが、生まれながらの人間には、この事実が、決して理解できない(なぜなら彼も腐乱死体の一人だからである)。生まれながらの人間は、腐乱死体に対する(神からの)処罰を決して認めないし、それに徹底的に抗おうとする。腐乱死体という「弱者」を必死になってかばい、腐乱死体を何とかして延命させようと、腐乱死体の「痛み」をあるまじきこととして訴え、腐乱死体の「生きる権利」を主張し、それを脅かすものを「罪」として告発し、腐乱死体へも「隣人愛」を注ぐよう要求し、腐乱死体のために涙を流すよう要求し、腐乱死体が一日でも長く生きながらえられるように、救命運動をし、闘うのである。その愚かしさが理解できないのである。

 だが、着古した服は、廃品回収業者に任せるか、ゴミの日に出して、焼却されるのが最善であるのと全く同様に、腐乱死体にとっての最善は、処刑されて滅ぼされることであり、自分勝手な願いに基づいて、いつまでも、公衆に迷惑を巻き散らしながら、生きながらえることではないのである。
 もしも今日、どこかの病院の霊安室から、死後何週間も経た身元不明の腐乱死体が一人起き上がって活動し始め、自分にも生きる権利があると主張し始めたら、社会にはどんな混乱と騒ぎが持ち上がるだろう? 人々はどんな迷惑をこうむるだろう? そのようなことはあってはならないし、誰にとっての利益ともならない。

 これと同じことが、神の国の秩序についても言えるのである。神の御国は、死すべき罪人のための場所ではなく、まことの命をいただいて生きている人たちのための場所である。生きている人とは、イエスの十字架によって、復活の命にあずかった人たちのことである。その命を持たない死人が御国に闖入することは、あり得ないし、決して、許されることではない。

 ある人々は、それを聞くと、早速、怒り出し、反論するだろう、やっぱり、キリスト教徒は独善的で傲慢で、自分たちだけが救いに価すると思い込んでいる、視野の狭い人たちなのだと。クリスチャンは、自分だけが正しく、天国を独占できると思い込み、他宗教の信者を見下し、彼らの救いを否定し、救いの可能性を奪おうとしている、愛のない、心の狭い人たちなのだと。
 そのような反論こそ、腐乱死体の身勝手な言い分であり、腐乱死体の支離滅裂な「生きる権利の要求」である。

 腐乱死体のためには、この世という霊安室がちゃんと用意されており、それで十分である。この世は彼らのものであり、そこで彼らは住人としての権利を思うままに行使して、何でもやりたいことをできる。だが、その代わり、死体は霊安室を出て、御国の秩序に入ることはできない。死体は死体であるから、よみがえることはできず、死すべき世界を一歩も出ることができない。腐乱死体が、いつまでも生きながらえ、神と人との愛を一身に受け、永遠の命までも得たいと願うのは、わがままである。

 この世は霊的に見るならば、そのものが巨大な霊安室であり、巨大な火葬場であるとさえ言えるだろう。この世はどこまでも累々たる死体が連なる焼け野原と同じであり、そこに生きているように見える人たちも、全員が、焼却を待っている腐乱死体でしかない。この世は、滅びるべき定めをどうしても変えることはできない。

 神はしかし、この世がただ滅びるのを望まれなかった。神はこの世を愛されるがゆえに、この世を救おうとなさったのだ。だが、それは、霊安室を霊安室のまま保存し、火葬場を火葬場のまま存続させ、腐乱死体を腐乱死体のまま永久に生きながらえさせることではなかった。

 神はこの世を刷新することで、この世を滅びから救おうとなさったのだ。その刷新は、ただイエスの十字架によってしかもたらされない。それは自動的な刷新ではなく、信仰を働かせなければできない選択であり、霊的な切り分けである。人が十字架の死を経由して、イエスの命によって、もう一度生まれ変わるならば、御国の秩序の中に移されて、永遠に生きることができるが、それを経由しないならば、その人はこの世と共に滅びて終わる(その上、魂には永遠の刑罰が待っている)。神の救いの不思議さは、この世の忌まわしい終局としての滅びすら、新しいキリストの命に接木するプロセスとして、活用されていることである。
 再び、Sugarさんの記事から。

 「十字架は完全な死であり完璧な終結なのですが、
 しかし何と、その後、それに復活の要素を入れ込むことを可能とするお方が
 私達の神なのです。

 そこで神は、サタンの故に、サタンから出てきた終結(死)というものを、
 神の至高の知恵によって、時間の中においてそれを『活用された』のです!

 時間の中で死は完全終結です。
 従って時間の中に存在する旧創造・旧物質は死によって完全に終結されます。
 しかし、もしも ここに、キリスト・イエスにある神御自身が介入されるのであれば、
 イエスの復活において、死・終結は完全打破されるのです。
 それは、神に創造されたいかなるもの(時空と万物)も
 創造者御自身に勝ることなどあり得ないからです。
 敵によって汚染された万物を完全終結し、
 しかもその万物を生かして、それを『新物質』とする唯一の手段、
 それが死と復活であったのです。

 ここに初めて人は復活において『卓越した永遠』と
 一つに結合されることが可能となったと言えます。<…>

 信仰とは結合を意味します。従って信仰がなくては
 『復活と卓越した永遠』に対して人が結合されることはあり得ないのです。」

 こうして信仰によって、十字架を受け取り、それを自分に適用し(自分の力によってではなく)、自己に死んで、復活の命をいただくという過程を経ない限り、人はいつまでも、滅び行く死臭を発する腐乱死体のままであり、そこに永遠の命が宿ることはあり得ない。
 だから、たとえ腐乱死体が生きる権利を主張し、隣人愛を要求し、天国にまで入る権利を主張していたとしても、そのような主張は一切、耳を傾けるに価しない、滅茶苦茶なものである。人間が腐乱死体のまま、生きながらえることが、御心なのではない。死すべき人間が十字架を経て完全に死に、復活して、キリストの命によって生きることこそ、御心なのである。

 だから、十字架の死を経由しない人間にそのままで生きてもらおうと願うことは、聖書的な愛とは呼べない。堕落した人間をそのままの姿で何とか生かそうと延命をとりはからうことが、人への愛なのではなく、そのような生まれながらの自己に、十字架のもとできっぱり死んでもらい、その後で、永遠の命を受け取ってもらうように願うことこそが、御心にかなう愛なのである。
 人にとっては残酷なようであるが、それが神の、人に対するご計画であり、愛なのである。この点を間違って理解してしまうと、私たちの主張する「愛」は、容易に、人間の、人間による、人間のための、人間救済活動となってしまう。それは腐乱死体のみっともない延命活動であり、死体の生存を確保するための(ナンセンス極まりない)権利運動となってしまうのである。

 アブラハムはソドムの街のためにとりなしの祈りを捧げたが、それはソドムの街そのものの存続を願うがゆえではなかったし、ソドムにいて、やりたい放題している悪人達の延命を願うゆえでもなかった。アブラハムは、ソドムに住む義人のためにとりなしたのである。神を信じる正しい者たちが、悪人と一緒になって滅ぼされるようなことがないよう、神に祈ったのである。(従って、とりなしの祈りとは、神を冒涜する者たちの延命を願う祈りでは決してないことが分かる。)

 私たちは、神を喜ばせる、まことの命を生きる者たちをこそ、擁護し、彼らのために真剣にとりなすものでありたい。

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