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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

真実な候補者

 いくつかの政党の選挙カーが緑の田舎町を練り回り、候補者の名前をやたらに繰り返している。いよいよ、今の日本も20世紀初頭のロシアのようになってきたなあと思う。私は個人的にずっと前から考えてきた、今の日本は革命前のロシアの状態に極めてよく似ていると。だから、遠からず、何らかの政変が起こるであろうとの予測は変わらない。それが、ますます現実味を帯びて来ているように思う。情勢の不安定さが政治への関心の高さとなって表れている。

 だが、よほど私はひねくれた性格なのか、世の中が一斉にその方向を向くような事件があると、それを捨て置いて、誰もいない方向へ進みたくなってしまう。だから、世間が選挙、選挙と言い始めると、途端に選挙に一切の関心がなくなってしまうのだ。もし仮にこの先、富国強兵のようなスローガンを国民が一斉に唱えるようになるならば、のんびり釣りや、山へ散策に出かけたいと今から考えている。

 だが、これではいけないのではないか、私もこの国の国民なのだから、このような世と隔絶した考えで生きていくのはよくないのではないか、私も何がしかの決断をすべきなのでは、とも思ったが、心の底から沸き起こる違和感には何かしら拭い去れないものがある。
 そんな中で、Straysheepさんの記事を読んで、ほっと胸をなでおろした。私の手前勝手な読み方で恐縮ではあるが、次の一句を読んで、何かしら心からに通じるものを覚え、また、嬉しかった。以下、引用。

蝉しぐれ マニフェストと 声競う
真実は 細き御声に あらわれり


続いて、記事では、まことに適切なことに、イザヤ書42章が挙げられていた。訳の違いはあるのだが、それは無視して、冒頭からもう一度、引用させていただきたい。

「わたしの支持するわがしもべ、
 わたしの喜ぶわが選び人を見よ。
 わたしはわが霊を彼に与えた。
 彼はもろもろの国びとに道をしめす。
 彼は叫ぶこともなく、声をあげることなく、
 その声をちまたに聞えさせず、
 また傷ついた葦を折ることなく、
 ほのぐらい灯心を消すことなく、
 真実をもって道をしめす。
 彼は衰えず、落胆せず、
 ついに道を地に確立する。
 海沿いの国々はその教を待ち望む。」(イザヤ42:1-4)

 この御言葉は、神が選ばれた、御心にかなう候補者とは誰か、私たちが支持するべき候補者が誰であるか、教えている。またその候補者は私たちの前でどのように振舞うかということも示している。

 「彼は叫ぶこともなく、声をあげることなく」、これはとても重要なことである。
 その候補者は、声を限りにメガホンを持って叫んだり、巧みに考え抜かれた演説によって、人の注意を引き、心を動かすことのない方である。
 その候補者は、弱者救済を声高に訴えることないにも関わらず、しかし、傷ついた葦を折ることなく、くすぶる燈芯をも吹き消すことなく、人の心に残っている最後の信仰のともし火(神によりすがる希望)を決して無視されないお方である、つまり、最も傷ついて弱くなった者たちの心をも、いたわりをもって扱える方なのである。

 彼は真実をもって道を示す。偽りの甘言を並べただけの公約を掲げ、政権についた途端、それをきれいさっぱり忘れる、ということはない方である。
 彼は倦むことなく、どんな状況にあっても、定めた目標に向かって働き続ける。疲れているから、今は遠慮してくれと言って、私たちの訴えを退けられることのない方である。
 そしてついに彼は道を確立するのである。私たちは、彼が作った道の後を着いていくだけでよい。もはや獣道を辿って、山の中で遭難せずともよくなるのである。

 私たちはこの候補者が誰であるか知っている! 他に誰一人、頼るべき方がないことも知っている! 今、声高に訴えられるマニフェストの中に、いずれも、真実は、ない。そのようなもの以外に、人生の指針を持たない人たちは不幸である。

 このように決め付ける私を、政治に無関心すぎる愚か者だと考える人はきっと多いだろう。今、汗水流して、一生懸命に全国を走り回っている人たちには失礼ながら、私は目に見える世界は、今後、より一層の深い闇と虚構の中に落ち込んでいき、そこには一抹の真実もなくなっていくだろうと思っている。

 けれども、何という幸いだろうか! 「私は真理であり、道である」と言われる方を私たちは知っており、この方について行けば大丈夫、この道にありさえすれば、大丈夫だという道を知っているのだ。主に感謝を捧げたい。

 
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