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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

この世は私に対して十字架につけられ…

 私は岡山の地がとても好きだ。長く関西に住んでいると、瀬戸内海沿岸の穏やかな気候に、心も身体もなじんでくる。この静かな田舎町にいると、いつまでも心穏やかに、健康に生きられそうな気がする。
 季節ごとに花々が咲き乱れ、米も野菜も豊富に収穫され、台風も冷害も地震もない穏やかな土地。もしも、何の問題もなかったならば、年老いるまで、ずっとここに住み続けるのも悪くない。

 けれども、それはいかにも人間的な考えである。もしも主が私について違ったご計画をお持ちならば、私は移動すべきである。失業率もますます高まっているようで、先行きが明るいとはお世辞にも言えないが、このような時だからこそ、今以上にさらに良いものが行く手に準備されていることを信じたい。神は憐れみ深い方であり、神のご計画の素晴らしさを、私たちは生きるごとにさらに深く味わうことができる。
 主とは、そのようなお方である。

 神のご計画には、後退するということは決してない。従って、神を信じて従う者たちには、生きるごとに、主のご計画の完全さ、素晴らしさ、醍醐味をリアル・タイムで味わうことができる幸せが与えられている。私もその幸いな一人である。

 さて、以下の記事で、私が反戦運動に関心がなくなったことについて書いたが、その意味について誤解が生じることのないよう、説明を補足しておきたい。

 最近、特に分かったことがある。それは、人間の道徳や、宗教、思いやり、愛、義理人情…などを含めて、人間から出て来るあらゆる「良かれ」という気持ちほど、神の御心に最も悪質に敵対する曲者はない、ということである。
 言い換えるならば、神なき世界(=サタンに支配されるこの世)を救おうとして、人間の中に生まれる各種の考えは、人間から見ればまことに道徳的で、立派な考えに思われるのだが、そのほとんどは、御心に悪質に反するものだということである。

 私たちはいつでも、自分の命を死から救うことを何よりも第一に考える。それは人間に染み付いた習性であり、本能である。その本能に基づいて、私たちは自分と同様に、大切な身近な人の命をも、死から救い出したいと考える。それこそが善であり、思いやりであり、愛だと、私たちは思い込んで生きている。

 人間の狭い考えの中では、我と他者がこの地球上で平和に生き延びられるようにすることこそが、最高の善である。愛とは、私たち人類が皆、できるだけ苦痛を減らして、平和に、生き延びられる可能性を、互いが作り出そうとする願いや努力とされている。従って、人間の考える罪とは、人間の生存を脅かす諸行為のことである。

 しかし、神の御心は、そのような人間の生命だけを中心にする狭い考えとは決定的に異なっている。聖書の定める罪とは、人間の生存を脅かす諸々の行為のことではなく、何よりもまず、神に背く行為を指す。人間にとっての最善が、究極的には、人間のこの世での命を守ろうとするものであるならば、神の最善とは、たとえ人間のこの世での命が脅威にさらされたとしても(あるいは死ぬとしても)、ただキリストとの一致の中で、人に永遠の命を与えようとするご計画である。

 従って、人間の考える罪や愛の概念と、聖書の想定する罪、愛の概念が決定的に異なっていることをまず私たちは知らねばならない。その区別ができていなければ、クリスチャンは、恐ろしい誤謬に落ち込んでしまいかねない。
 今日、カルト化教会などでは、聖書の説く「隣人愛」とは何かを知らないがための悲劇が絶えない。「隣人愛」の概念を悪用して、指導者が「日本のリバイバルのために」、弟子を過剰なまでの奉仕に駆り立て、極貧の生活を送らせたりする例がある。「隣人愛」を口実に、教会の中で過剰な奉仕や献金を要求され、人生を不当に奪われている信徒たちはかなりの数、存在するだろう。

 このような罠にはまってしまうのは、私たちが、聖書の説く愛が、人の考える愛とどう異なっているかを知らないためである。一言で言うならば、神の愛を、人間に都合の良い愛や、義理人情とすりかえ、神の御心の代わりに、この世を救おうとする人間の「良かれ」という計画や理論を、最高の善としてしまうためである。そして、そのように人間の考え出した教えや計画に背くことを「罪」だと教えるためである。

 人間にとっての最高の善とは、自分の肉体や世界を滅びから救い、できるだけ人類が平和に調和して長く生き永らえることであろう。しかしそのようにして、人間が十字架によらず、自分自身の肉体をも含めて、この世全体を救おうとする思いは、神のご計画とは根本的に異なっている。
 Dr.Lukeの記事「この世」から抜粋しよう。

「『この世』とは、神に対立してサタンによって確立された一種の霊的体系を指します。例えば、宗教・哲学・科学などは一見人の目にとっては高貴なものであって、問題はないかのように見えますが、真の神であるの御言葉や価値観に対立しているとすれば、神の目から見れば良しとされません(例えば進化論を考えて下さい)。むしろそれらはもっともらしい装いによって真の神を見えなくすることにおいては、単なる罪の享楽よりも、狡猾なサタンの欺きと言えます。

すなわち、『この世』とは、真の神であると私たちの間に立ちふさがり、私たちの信仰を破壊し、神との交わりを絶ってしまうあらゆる要素を含んだサタンによって組織された一つの霊的体系と定義されます。したがって人間的価値判断による善か悪かということから切り離して考えないと、『この世』を霊的文脈において正しく評価し、それに適切に対処する際に、混乱や誤りを生じることになります。あくまでも神の目から神の御言葉に基準を置いて判断する必要があります。」

 私たちが自分の生命だけを基準にして、何が正義であるかを考え、自分や他人を肉体的滅びから救うことをこそ善であり、愛だと考えているうちは、私たちは、聖書の御言葉を基準にして、何が罪であり、何が愛であるかを正確に理解することは決してできないままに終わるだろう。聖書の説く愛とは、この世や、この世における人の命を可能な限り、苦痛なしに生きながらえさせようとするあれやこれやの対策ではないのである。

 話を進めよう。聖書の説く隣人愛を考える上で、何よりも、クリスチャンの出発点となるべきは、人類はそのままでは神の御前に皆、立ち果せず、死に絶えるべき存在である、という事実である。これはショッキングな事実であるが、真実である。

 「それを食べれば必ず死ぬ」と言われた実を取って食べたアダムは、自ら、死すべき運命を選んだ。そのアダムとエバの堕落以降、肉なるもの、目に見えるものは(被造物の全てがそこに含まれるのだが)、全て人類の罪のために呪われてしまった。
 そのため、やがて来る神の永遠の御国は、今の堕落した世界の上には建設できない。御国が到来する前に、見える世界は全て滅びなければならない。今、私たちの住む世界全体は、人類の罪のために、まさに滅びへと向かっているのであり、その運命は私たちが変えられるものではない、いや、私たちこそが父祖アダムと共にそれを自ら選んだのだと言えよう。

 人間は神に背いた時点で、死すべき存在となり、この地上で平和に生きる生存権を失った。(サタンは最後まで人間の生命を取ろうとして、執拗に人間を脅かし続ける。それでも、人が生きているのは、ひとえに神の憐れみによる。)

 だから、たとえ私たちが今、声を大にして平和運動を展開したとしても、世界を救うにはもう遅いのである。どれほど医学が進歩し、科学技術が進歩したとしても、どれほど政治情勢が良くなったとしても、束の間、平和が訪れることはあるかも知れないが、肉なるものとしての人類と、旧創造に属する被造物全体の滅びを阻止することは私たちにはできない。

 黙示録の記述は、私たちの住んでいる地球そのものが、いずれ荒廃した場所へと変わるだろうことを示している。イエスご自身が、戦争、飢饉、地震の噂を聞くであろうと警告されたことを思い出したい。その噂を通して、私たちは、今、終末がそこまで近づいていることをすでに感じ取っている。
 聖書を素直に読むならば、この先、人類を待っている未来が暗黒であり、絶望だけがそこにあるということが分かるだろう。

 では、そんな中で、私たちクリスチャンがなすべきことは何であろうか? 核廃絶を訴えること? 反戦運動を繰り広げること? 地雷撤廃運動に参加すること? 温暖化防止に努めること? 平和運動を進めること?
 いや、これらの「良かれ」と思われる全ての運動には、キリストの命がないことを私たちは知っている。

 幾度も繰り返してきたように、戦争も、争いも、搾取も、対立も、人類の罪から出て来るのであり、人類の罪を浄化する力は人間にはない。従って、人類救済のために打ち出される全ての運動、計画が、それらを阻止することができないままに、無効に終わってきたのである。

 イエスの十字架による罪の贖いを受け取らないままで、人類が、自らの力によって、人類を救おうとする試みは、キリストを抜きにした人類の自己救済の道であり、それは御心から出たものではない。ここには人間が善意によって作り出すあらゆる運動や活動も含まれている。クリスチャンは、罪と死の法則に支配されている人類を救済しようとする一切の組織的な運動や活動が、全て虚しく終わることを知っている。
 だが、それでは、クリスチャンは何をすれば良いのか。絶望のうちに手をこまねいて、人類の破滅を待つべきなのか? まさかそうではない。

「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。」(ローマ8:1-2)

 滅びへと向かうこの地上世界にあって、唯一滅びないもの、永遠へ続くものがある。それは地上でキリストの十字架を信じ、水と霊によって生まれ変わったクリスチャンである。私たちの肉体は、まだ「罪の法則の中」(ローマ7:23)に閉じ込められており、肉体の完全な贖いはまだ再臨の時を待たねばならないとはいえ、御霊によって生きることによって、キリスト者はすでにこの罪と死の法則から解放されている。

 従って、滅び行く世界のためにキリスト者が出来ることは何か。それは世界全体を滅びから救うために活動することではない。地上における存在に目を留めて、それらを危機から救うためにナントカ運動に生涯をささげることでもない。目に見えるものを救おうとして奔走することは無駄である。そこで、見えないものに目を留めることこそ、重要である。
 ちょうど、ノアが神のご計画に従って、愛する者たちを箱舟の中に避難させたように、私たちは見える世界に住んでいる人たちを、滅びから救うために、キリストの十字架という箱舟に案内し、見えない世界(朽ちない永遠の世界)へと誘導することができる。

 ここで、個人の体験に話を移すことをお許しいただきたい。私は先日、神のはからいによって、肉体的な死を免れたと信じているが、それでも、同時に、自分が死んだのをはっきりと感じる。
 何を矛盾したことを言っているのかと笑われるかも知れない。これを上手く説明することはできそうにないが、それでも、あえて説明を試みよう。

 以前、カルト化教会で事件に遭遇した時、私は何ヶ月間も、悲しみに暮れて泣き暮らした。そのせいで白髪は増え、表情は人も驚くほどやつれ果て、それが分かった時には、そのせいでさらに悲しんだものだ。
 だが、今、私は、自分が今、負っている怪我についても、何の心配もしていないし、衣食住についても、心配していない。私は自分の肉体に対して死んだ、ということをはっきり感じるからである。主は私に本当の意味では死をくぐらせなかったとはいえ、この事件を通して、私に、肉体に対して死ぬことの意味を学ばせたのである。つまり、この滅び行く肉体が私を生かしているのではなく、御霊が私を生かしているのだという事実を、はっきりと思い知らせたのである。

 さらに、私はこの世に対して死ぬことを学ばせられた。この世にあって、何とか人々と折り合いをつけて、知恵をめぐらして、摩擦を減らして生きて行かなければならないという、あの生存の恐怖と、絶え間ない人間関係の苦労に対して、私は死んだのである。私はぎりぎり限界まで力を振り絞って、自分の生存を確保しようとしてみたが、そこに下されたのは、死刑判決のみであった。そのことを通して、もはやこの世が私を生かしているのではなく、主の霊が私を生かしておられるのだという事実を、神は私にはっきりと伝えられたのである。
 再び、Dr.Lukeの記事からの引用。
 
「そして『この世』からの圧迫と圧力に対して神が用意された策は、『この十字架によって、この世は私に対して十字架につけられ、私もこの世に対して十字架につけられた』(ガラテヤ6:14)とある通り、やはり『この世』に対する死です。十字架は私と『この世』の関係を絶ち切るのです。したがって、私たちはもはや『この世』の価値観によって、あるいは『この世』からの評価を気にして生きる必要はありません(ローマ12:2)。」

 これに加えて、次の御言葉をも引用しよう。
「それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。」(ローマ8:12-14)

 私はこの御言葉の意味を、今回の事件を通して、理性ではなく、御霊によって、初めて明確に理解させられた。私はこの世に対して死んだのであるから、もはやこの世がどうあろうとも、それと取っ組み合って生きる責任を負わなくてよくなったのである。世界情勢、家族関係、近所づきあい、日本の政治、就職率、不況、…今まではそういった要因を絶えず気にしながら、何とかして、それらと折り合いをつけて、刻一刻と変わる情勢を読みながら生きていくことが、私の自己責任として求められていた。自分の生存に対して自分で責任を負わねばならなかった。しかし、私はそれを全うすることができないまま(元々私は世を生きるにはかなり不器用な人間だったが)、十字架を通して、この世に対して死ぬことによって、ついにそこから免責された。そして、気づくと、自分がこの世とは違った世界に生きていることが分かった。

「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちはキリストと共に神のうちに隠されているのである。」(コロサイ3:1-3)

 確かに、肉体を持っている限り、この世との接点はなくならない。我が国の政治とも、地域社会とも、家族とも、何らかの関わりは続くだろう。しかし、それは薄い膜を一枚、隔てたような関わりであって、真の関わりではない。キリスト者の命は、キリストと共に神のうちに隠されている。従って、この世に対して、私たちは亡き者も同然であり、私たちが生きているのはすでにこの世とは違った永遠に続く世界なのである。だが、私たちがこの世に死んで、御霊によって生きるようになる時、逆説的に、主は私たちがこの世でも生きられるように必要を整えて下さる。だが、そのことは決して、私たちが再びこの世の支配下に置かれるようになったことを意味しない。
 今となっては、私たちが自分の努力によって生存を保っているのではなく、あるいはこの世との良好な関係によって生存を保っているのでもなく、主ご自身が御霊によって私たちを導かれ、私たちの死ぬべき身体があえてこの世で生きながらえることができるようにして下さっているのである。それは私たちがこの地上で神のために果たすべき仕事を全うすことができるためである。

 だから、私は反戦運動を含めて、この世を存続させようとするあらゆる運動や試みに、関心が持てなくなった。それらは全て、地上にあるものを何とかしてそのままで(十字架を経由することなく)存続させたいという人間の願いから出て来るものだからである。

 キリスト者は知っている。水と霊によって生まれなければ、誰一人、滅びから救われることはないのだと。たとえ全世界をもうけても、まことの命を損じたら、無意味であると。私たちがどんなに努力したところで、一人の隣人も死から救うことはできない。いや、一人、二人の命くらいならば、もしかしたら、救うことはできるのかも知れない。だが、その人の魂を滅びから救う力は私たちにはないのだ。

 人を滅びから救いうる力はキリストの十字架にしかない。
 従って、もしも誰かを心から愛するならば、私たちが彼のためになすべきことはただ一つ、キリストの十字架を伝えることである。それが、何より最高の愛であり、御心にかなった愛の形である。
 私たちはそうして、たとえ何が周囲で起ころうとも、ひたすら上を、上にあるものを、すなわち神の右に座しておられるキリストを見上げながら生きていくのである。
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