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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

平和と繁栄の回復――捕囚の終わり――

 今日も元気だご飯がうまい。
 今までの疲労を一挙に取り返すように、沢山眠って、沢山食べて、健康な生活へ戻ろうとしている。荷物を整理しようと思って、この地に来てから、一度も紐解かれなかったダンボールの山を見て、ため息ついた。どうして私の荷物はこんなに増えてしまったのだろう? どうやってこれを整理して身軽になろう?

 研究生活を送っている間にかき集めた書籍の山。師匠から譲り受けた書籍の山。10分の1もまだ目を通していない。本など、図書館で借りて必要部分だけコピーすれば済むのに、随分、無駄な買い物をしてしまったものだ…。これからはもっと計画的に自分の荷物を管理することを心がけたい。

 地上のものの良き管理者になれなくて、どうして主の見えない財産を管理することができようか? 私にはまだ主のためにどんな小さな仕事も引き受ける資格がなさそうだ。浮世の生活を通して、学ばなければならないことがこんなに沢山ある。今、御許に召されたら、破産者として神の御前に立つことになってしまう。これでは駄目だ。まだ、御国へ行くべき時ではない。とにかく、毎日の生活をしっかり送ろう。
 
 さて、選挙が近づいているが、平穏な田舎町では、特に未来を憂える人もいない。植えて、収穫して、いつも通りの生活があるだけだ。だが、識者たちは一様に、我が国の未来について暗い言葉を投げかけている。
 ブログを書き始めた頃、私もずっとそのような言葉を並べてきた。この国は一旦、燃え盛る炉の中に投げ込まれなければならないだろう、政治が弱体化すればするほど、虐げられた弱者の怨念を起爆剤にして、何かしらの革命的な事件が起こらずには済まされないだろう…、信徒を躓かせたキリスト教界にも粛清が行われるだろう…etc.

 もしいずれ政変のような事態が起これば、それが私の生活にも無関係には終わらないことは分かっている。だが、私の心にはとても大きな安心感があって、政情の移り変わりがどうあろうとも、主は私を守って下さるだろうと信じられるようになった。

 私たちの目に見える世界が焼け野原になる時、人々は阿鼻叫喚の中を逃げ惑うかも知れないが、神は必ず、焼け野原の中から、小さな可愛らしい芽を生じさせる。どんなものによっても、一度も汚されたことのない、主ご自身が植えられた聖なる芽を。

 人の目には破滅としか思えないことが、神の御前では始まりとなる。神はいつでもどこででもどんな状況の中からでも、ご自分の栄光を現すことがおできになるのだ。そして聖徒たちの思いは、地上の栄えではなく、ただ神の栄光が地に現されることだけである――それがどんな形なのかは私たちには予測できないが――私たちの思いは、神の栄光が全地に現されること、ただそれだけ!

 だから、私はとても喜んでおり、日本の行く末を思って憂う気持ちが吹き飛んでしまう(ある人々は私の無関心と楽観ぶりを見て気分を害するかも知れない)、滅ぶべきものが滅ぶ時、神の栄光がますます地に現されることを信じているから、喜ばずにいられないのだ!

 主の懲らしめの中を通された時、私は自分の肉なるものが、全て滅びねばならないものであることを知った、この身体も、髪も、皮膚も、私の魂も…(まだその学習は完全には終わっていない)。私は自分を苦しめるものすべてに怒りと涙を持って立ち向かおうとしたが、結局、分かったのは、人間の善意の全てが、人の死すべき運命を変える力を持たない、忌まわしいものであるということ、自分の力で自分を救おうとする一切の試みが、無意味であることだった。 

 生活の土台が根底から揺らぎ、健康が揺らぎ、生存そのものが危うくなる時、私たちは何に頼って、一日、一日、希望をつなぐのか、試される。その時、頼れるお方が、ただ一人しかいないことを学ばされる。政治などが、この世のものが、何の助けになろう(もちろん、それも私たちを生かすのに完全に無関係な要素とは言えないのだが)。しかし、全ての条件を、私たちの人生にタペストリーのように絶妙に織り込まれるのは主なのだ。

 信仰という、かぼそい糸以外に何も頼るべきものがない、真っ暗闇の中を通される時、それまで状況に頼って生きて来た私たちの心は変えられる。徹底的に低められ、弱くなる体験を通して、逆説的に、キリスト者はこの世に対して死に、内側から、ただ霊によって、強くされるのだ。そして、たとえ全世界が焼け野原と化したとしても、私たちはこのお方に頼っていさえすれば、安心だという確信が与えられる。

 だから、この先、世界がどう変わって行こうとも、恐れはない。今後、この過越しの印としてのキリストを内にいただいていない者、サタンとの馴れ合いの中で生きて来た全ての人たちは、その報いとして、混乱に投げ込まれ、朽ちない火で焼かれることになろう。キリスト者を捕囚として来た者が、捕囚にされる時がやって来たのだという気がする。

 だが、私について言えば、捕囚の時代は終わったのだと確信している。ついにシオンの娘が解放されて、バビロンが成敗されるべき時が来たのではないだろうか。いよいよ神は、これまで敵の手の中でもてあそばれたキリスト者のために妬みを起こされ、彼らの悲しみをかえりみて、彼らを奪還し、真に成敗されるべき者たちに怒りを移されるのではないだろうか。神に背いたために荒地となったエルサレムは、美しい都、新エルサレムとして建て直され、姿を現し、バビロンは混乱と破滅に向かうだろう。神の花嫁の回復、それは今すでに始まっているのだ。

 不謹慎な表現としてひんしゅくを買うとしたら申し訳ないが、私には今、反戦を呼びかけようとの気持ちがまるでなくなってしまった。たとえバビロンに幾度、最新の核爆弾が投下されたとしても、私は、それを人道に対する罪として訴えることも、それゆえに嘆くこともしないだろう。むしろ、廃墟の中から、神が新エルサレムを建設されることを信じて、その誕生を喜び、神を誉めたたえるだろう! (主はそのようなことがおできになる方である。)

 私にはやっと分かって来た。私たちが真に訴えるべき相手は、人間を脅かすあれやこれやの脅威ではなく、主に敵対する者なのだと。人間は元来、滅ぶべきものであり、人道に対する罪など初めから問題ではない、むしろ、神に背く罪こそ告発されるべきものなのだ。そして平和は、死すべき人類を救おうとする反戦、核軍縮、政治改革、政権交代その他によってもたらされるのではなく、ただ、人を水と霊によって生まれ変わらせ、死すべき命を生かすことのできる神によってのみ、もたらされるのだ。

 ゼカリヤ書8章1-13節から。
「万軍の主はこう仰せられる、『わたしはシオンのために、大いなるねたみを起し、またこれがために、大いなる憤りをもってねたむ』。主はこう仰せられる、『わたしはシオンに帰って、エルサレムの中に住む。エルサレムは忠信な町ととなえられ、万軍の主の山は聖なる山と、となえられる』。
万軍の主は、こう仰せられる、『エルサレムの街路には再び老いた男、老いた女が座するようになる。みな年寄の人々で、おのおのつえを手に持つ。またその町の街路には、男の子、女の子が満ちて、街路に遊び戯れる』。
万軍の主は、こう仰せられる、『その日には、たとい、この民の残れる者の目に、不思議な事であっても、それはわたしの目にも、不思議な事であろうか』と万軍の主は言われる。
万軍の主は、こう仰せられる、『見よ、わが民を東の国から、また西の国から救い出し、彼らを連れてきて、エルサレムに住まわせ、彼らはわが民となり、わたしは彼らの神となって、共に真実と正義とをもって立つ』」。

 万軍の主は、こう仰せられる、『万軍の主の家である宮を建てるために、その礎をすえた日からこのかた、預言者たちの口から出たこれらの言葉を、きょう聞く者よ、あなたがたの手を強くせよ。この日の以前には、人も働きの価を得ず、獣も働きの価を得ず、また出る者もはいる者も、あだのために安全ではなかった。わたしはまた人々を相たがいにそむかせた。
しかし今は、わたしのこの民の残れる者に対することは、さきの日のようではないと、万軍の主は言われる。そこには、平和と繁栄との種がまかれるからである。すなわちぶどうの木は実を結び、地は産物を出し、天は露を与える。わたしはこの民の残れる者に、これをことごとく与える。
ユダの家およびイスラエルの家よ、あなたがたが、国々の民の中に、のろいとなっていたように、わたしはあなたがたを救って祝福とする。恐れてはならない。あなたがたの手を強くせよ。
 
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