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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

見ゆるところによらず

 山谷少佐の今回の説教「霊と心と身体の健康」では、「御霊に導かれて生きるとはどのようなことか」について分かりやすく解説してくれている。日常生活に起こって来る様々な問題に心が思い乱れる時、また、身体が苦しめられる時、私たちはどのようにして御霊に従って生きて、主を待ち望めばよいのか、その指針を与えてくれている。

 詳細はどうぞ記事をお読みください。私の感じたことを述べます。
 心と身体の苦しみは、私たちが常に不完全な存在であること、堕落した存在であることを示している。時には、自分の過失ゆえに、病気になったりすることもあるだろうし、自業自得の悩み苦しみも生じるだろう。そうした痛みは、私たちの目を常に自分の不完全さに留めさせようとする。自分の失敗に心を向けさせようとする。そして、現状に対する不満を心に生じさせ、いかに自分が駄目な存在であり、生きるのに不器用な人間であるか、また、将来に希望を持たない卑小な人間であるかという思いを抱かせる。

 しかしながら、自分のそうした失敗、または成功、自分側からなされるあらゆる行動とその結果を全て超えて、聖書は、ただ一方的な神の御約束として、神が私たち信じる者を、霊にあっても、心身にあっても、何一つ欠けるところのない完全な者として下さることを保証してくれている。

「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます」(テサロニケ一5:23-24)

 非のうちどころのない人間になるために、自分側からの努力はもう必要ないのだ。そのことをこの聖句がはっきりと告げている。神がそのようになして下さる、そのことをただ信じて、神の真実に身を委ねるだけである。
 私は自分の非ゆえに責められることが多い者である。周囲にいる人々は鵜の目鷹の目のようにして、私の落ち度を探し出してはあげつらう。それを聞いていると、確かに私の落ち度に該当するものは沢山あり、それを考えるならば、私はどのような罰を受けても仕方がなく、どのように扱われても仕方がなく、生存の場を失ったとて、文句を言えないという思いが去来する。だが、私は自分自身をも、見ゆるところによって判断するのをやめなければならない。私がどれほど不完全な人間のように見えようとも、未だに落ち度が多く、失敗に悩むことがあったとしても、「神の思い(御心)」は、それでも、私を完全な者とするところにあるのである。そうすることが、神の御心なのである。そしてそれは単に死後に実現されるだけで現在とは関わりのない望みではなく、今、この瞬間から、永遠の未来へと途切れることなく続いていく約束であると私は思う。

 だから、疑わないでいよう、現状の不完全さに心を留めないでいよう、人の言葉に流されるのをやめ、また状況に流されるのをやめて、御心が何であるかにひたすら思いのピントを合わせよう。そして、御霊によって祈り続けることによって、日常の浮き沈みや、身体の調子、魂の思い煩いを越えたところにある、私たちに平安を与えようとする神のご計画に思いを馳せ、やがてキリストと共に栄光に入れられる時を忍耐強く待ち望み、神が与えようとなさっておられる安息をできるだけ我が内にもいただくことができるようになろう。少佐の祈りを、心を合わせながら、引用させていただきたい。

祈り

聖なる御父。あなたは、わたしたちを十字架の道へと、お招きになりました。
わたしたちは、わたしたちの体という、小さな十字架を負って、歩んでおります。わたしたちは、わたしたちの心という、小さな十字架を負って、歩んでおります。
そのようなわたしたちに対して、あなたが今日、霊による導きを与えていてくださることを、心から感謝いたします。
わたしたちが主イエスキリストの十字架による救いを信じて、祈ったとき、御父よ、あなたとわたしたちとの間にあった隔ての中垣が取り除かれ、神の御霊であるところの聖霊が、わたしたちのうちにおいでくださり、わたしたちのうちに親しく臨んでくださり、わたしたちの霊のうちに、聖霊がお宿りくださったことを、心から感謝いたします。
どうか、わたしたちが、「自分の思い」を置いて、聖霊が示したもうところの「神からの思い」に従って、生きることができるようにしてください。
どうか、わたしたちが、見るところによらずして、信仰によって、生きることができますように。
どうか、わたしたちが、自分を見るのでなくして、ひたすら主イエスキリストを見つめることができますように。
どうか、わたしたちが、自分に望みを置くのでなくして、主イエスキリストに望みを置くことができますように。
わたしたちの心と体は、今は不完全な状態に置かれております。しかし、主イエスキリストが再び来たり給うとき、わたしたちは、まったく贖なわれ、復活させられ、まったき心と、まったき体とが授けられることを、信じて、待ち望みます。
どうか、その栄光の日に向かって、わたしたちが、おのれの小さな十字架の道を、ひた走ることができるようにしてください。
わたしたちの主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン
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