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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

悪しき支配者は滅びる

 カルト化教会で被害を受けた人々に接触するようになってから、一年半以上が過ぎた。
 こうした人々と関わるようになって、人生が本当に豊かになってきたと思う。

 もちろん、ここで言う被害者とは、被害者運動を組織したり、被害者というレッテルに寄りすがって、いつまでも人の同情と支援ばかりを乞い求めて生きるような人々のことではない。むしろ、被害者を自称せず、信仰によって勇敢につらい体験を乗り越え、今は淡々と、普通の生活を送っている人たちだ。

 私自身が教会で深刻な事件に遭遇して以来、私と同様に、既存の教会で想像を絶するような体験を味わった人たちと関わる機会が格段に増えたのは感謝なことであった。自分がそのような体験をする以前ならば、彼らの存在に、私は注意も払わずに通り過ぎたかも知れない。けれども、今は、こうした人々の存在と励ましが、私の心の大きな支えになっている。
 何しろ、私が遭遇したような事件のスケールを、ありのままで理解できるのは、私と同様の体験、もしくはもっと深刻な体験を味わってきた人々の存在を置いて他にないからだ。一時、職も、家も、将来も、何もかもを失い、生存の恐怖の中を、信仰だけを頼りにくぐり抜けた人々が存在する。その人々は、普通の人々に理解できない問題を理解することができ、今、私が直面している問題についても、将来に有益なアドバイスをすることができる。
 これは、不幸な体験抜きにはありえなかった共感だとは言え、このような素晴らしい理解者、助言者、何よりも神にあっての家族を与えて下さったことをただ主に感謝したい。

 先日、ある教会に献身したために、人生の半ばを棒に振らされ、あまりにもひどい被害を受けられた方が、来客中であったにも関わらず、我が家での揉め事について、電話で親身に相談に乗って下さった。その方は言われた、
「あの時は、自分が身を捧げていた教会が間違っていると判断することは、私にはできなかったのです。けれども、主は、事の是非、善悪を超えて、ただ私の神に対する熱心さ、純粋さだけをご覧になったのだと思いますよ。ですから、結果的には、その当時は、間違った献身をしていたのですが、そのために何もかも失った私の人生を、主は後になって、ちゃんと保障してくださいました。
 もちろん、生活の苦労を思い切り味わわされたこともありましたよ。肉体労働に従事していたこともありました。でもね、主は色々な奇跡を起こしてくださり、私が人生を確実に生きられるようにして下さり、今はこうして、やりたいことができているし、夢もかなったし、あなたたちのような、主にあっての家族も与えられ、望む生活を送れるようになったのですよ…。
 主を信頼して自分を主に捧げた者に対しては、主が最後まで全ての責任を取って下さるんです、キリスト者の道とは、そういう道ですよ。だから、あなたも今は、ただキリストだけを信じて、他の全てのものへの信頼を捨てて、新しい一歩を踏み出すべき時ではないでしょうか…。」

 主に対する純粋さ。そうだ。それを忘れないでいたい。どんなに深刻な問題が目前に迫っていようとも、ただキリストと私との関係がいかにあるか、それだけが私の人生を決定する要因なのだ。主の御前で誠実であり、真実であり、神の戒めを守り、主に信頼することだけを考えていれば、後のことは全て主が備えて下さるだろう。

 全く恐ろしい話ではあるが、私は今、全治数週間の怪我を負わされている。外から見て誰にでも分かる怪我だ。先日の旅行前のいさかいもひどかったが、今回の暴力的な事件を通して、家人の私への一方的な憎しみがより深刻化したことを感じさせられた(私は誰にも指一本触れていない)。さらに、昨日、何の断りもなく、私の持ち物の中から、あるものが抜き取られていたが、これも、間違いなく、家人の仕業である。このようなことは今日に始まったのではない。彼らの迫害がより陰湿なものになってきていることを示している。

 一時は、友人を家に招待できるほどに我が家の状態が改善したように見えたこともあったし、家人が随分、態度を和らげてくれたこともあった。だが、本質的に、この人たちとは相互理解が成り立たないことをいつもいつも感じさせられる。事態がここまで悪化した以上、早急なエクソダスが必要であることは明白だ。悪しき人々からは離れ、健全な人々と関わろう。そして家人が救われるかどうか、それは全て主の御手に委ね、一旦、靴の塵まで払い落として、この地を後にすることにしたい。ブログは私がまだ無事に生きていることを世に示す証拠である。

 残念だが、すべては己を義とし、自分の罪から顔を背けるところから始まるのだ。自己の絶対性を確信し、自分は決して間違うはずのない人間であると確信し、己を義としてやまない人々は、自分の罪を認めようとせず、自己の責任を問われるようなことが起こると、必ず、他人に罪を転嫁し、他人を自分の身代わりに罰する。それだけでなく、自分を間近に見て知っている人々に対して、病的なまでの猜疑心を抱く。それは、彼を身近に見ている人々は、必ずや、彼の弱さ、至らなさを知っているだけでなく、その病的で悪魔的な正体に気づかないはずがないからである。だから、彼は人を全く信頼できない。あらゆる友人や知人、家族のメンバーを絶えず疑い続け、その猜疑心ゆえに、必ず、身近な人々の存在そのものを、最後には、都合の悪い生き証人として、排除、粛清することになる。こうした人々は、誰をも信じることができない、誰をも愛することができない、誰をも残酷に支配することしかできない人間であり、彼らの思いは、結局、殺人である。それは、ネロしかり、スターリンしかり、ヒトラーしかり、毛沢東しかり、ポル=ポトしかり…。歴史上、そういう人格破綻者たちが権力を握って、どれほど恐ろしい世の中が築かれたか、その例は枚挙に暇がない。

 自分の罪から目を背けることがいかに恐ろしい結果をもたらすか。その実例はもう十分に証明されてきたと言える。己が罪を否認すること――それは自分を神とすることと同じであり、人格破綻への最短コースだ。主を畏れることこそ、知識の始めである。私たちは神の御前に誠実にへりくだり、自分がただの弱い一人の人間であることを忘れないようにしたい。
 最後に、詩篇94編を私の祈りとして捧げたい。

 あだを報いられる神よ、主よ、
 あだを報いられる神よ、光を放ってください。
 地をさばかれる者よ、立って
 高ぶる者にその受くべき罰をお与えください。
 主よ、悪しき者はいつまで、
 悪しき者はいつまで勝ち誇るでしょうか。
 彼らは高慢な言葉を吐き散らし、
 すべて不義を行う者はみずから高ぶります。
 主よ、彼らはあなたの民を打ち砕き、
 あなたの嗣業を苦しめます。
 彼らはやもめと旅びとのいのちをうばい、
 みなしごを殺します。
 彼らは言います、「主は見ない、
 ヤコブの神は悟らない」と。
 民のうちの鈍き者よ、悟れ。
 愚かな者よ、いつ賢くなるだろうか。
 耳を植えた者は聞くことをしないだろうか、
 目を造った者は見ることをしないだろうか。
 もろもろの国民を懲らす者は
 罰することをしないだろうか、
 人を教える者は知識をもたないだろうか。
 主は人の思いの、むなしいことを知られる。
 主よ、あなたによって懲らされる人、
 あなたのおきてを教えられる人はさいわいです。
 あなたはその人を災いの日からのがれさせ、
 悪しき者のために穴が掘られるまで
 その人に平安を与えられます。
 主はその民を捨てず、
 その嗣業を見捨てられないからです。
 さばきは正義に帰り、
 すべて心の正しい者はそれに従うでしょう。
 だれがわたしのために立ちあがって、
 悪しき者を責めるだろうか。
 もしも主がわたしを助けられなかったならば、
 わが魂はとくに音なき所に住んだであろう。
 しかし「わたしの足がすべる」と思ったとき、
 主よ、あなたのいつくしみは
 わたしをささえられました。
 わたしのうちに思い煩いの満ちるとき、
 あなたの慰めはわが魂を喜ばせます。
 定めをもって危害をたくらむ悪しき支配者は
 あなたと親しむことができるでしょうか。
 彼らは相結んで正しい人の魂を責め、
 罪のない者に死を宣告します。
 しかし主はわが高きやぐらとなり、
 わが神はわが避け所の岩となられました。
 主は彼らの不義を彼らに報い、
 彼らをその悪のゆえに滅ぼされます。
 われわの神、主は彼らを滅ぼされます。
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