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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

虐げる者から遠く離れよ、破壊する者から遠く離れよ。――コロナ後を生き延びられる価値を思う――

・コロナ後の世界は「ぼっち」が強みを発揮できる世界

コロナのせいで食べ物屋が軒並み休業し、閉店時間が早まる中でも、筆者はできるだけ、これまで通りの生活を維持することを目指して、夜も開店を続けるユニークな店を探した。

真っ暗となった車道を走ると、道路外にほんのり灯りをともしているだけの小さなお店も目立つ。大型商業施設や、大手チェーン店が閉まっていなかったならば、発見もしなかったであろうお店をいくつか見つけた。

外観はみすぼらしくとも、味もボリュームもも程よく、深夜に、いかつい兄さんたちと並んで、真剣な表情でカウンターについても、珍しがられることはない。家族連れに遠慮する必要もなく、意外な居心地の良さがあった。混雑などするはずもない小さな店舗内に、3密を避けるため、ご協力下さいなどと、手書きの貼り紙があるのも面白い。

そんな風に、お上の自粛要請の中でも、コロナをものともせず、それまで通りの営業を続けているお店を探すと、それはすべて大手ではない、細々とやっている個人経営のようなお店ばかりだった。
 
そこに駆け込んで来る人たちの顔ぶれも、トラックの運ちゃんや、バイトの学生など、大企業でテレワークを命じられて自宅に閉じこもってなどいられない、切迫した環境にある人たちばかりだった。

営業自粛しないことを非難する人がいるかも知れないが、スーパーで買いだめもできず、家にストックをおく場所もなく、家に閉じこもっていることが土台、無理な人たちが、今日を生きるためだけに、そのお店に来ていることを、責めるのは酷であろう。

そうして、暗黙のうちに、地域の助け合いが成立している。お店の人も、むしろ、こんな時だからこそ、元気で明るい。店に来るお客を励まそうと努力し、どんな事情があるのかなど一切構わない。
 
このように、コロナ禍に立ち向かい、自分らしい生活を送り、これを維持する秘訣を、筆者は探した。そうこうしているうちに、政府や、大企業や、大手チェーン店やら、巨大な権力とネームバリューのある組織の意外なほどの脆さと、ネームバリューも権力もない地域密着型の草の根的な商売の強さを知った。
 
テレワークが可能でも、ほとんどの企業は、それだけでは収益を保てない。政府の言うことだけに黙って従っていれば、倒産を避けられない会社も多いはずだ。また、給与が100%補償されたとしても、自宅にこもり続けるサラリーマンは徐々に疲弊して行く。

コロナ禍を生き延びるためには、知恵がいる。そして、コロナを生き延びる知恵は、コロナ禍の中でも、必要なものを、必要としている人々のもとに確実に届ける名もないビジネスの中に見いだされるような気がした。

コロナは、これまでの私たちのワークスタイル、ライフスタイルを津波のごとく押し流し、大きく変えてしまった。今までは、人と群れ、大規模な集団をなし、同じリーダーのもとで、皆と同じ仕事をやり続けることが、安心、安全の秘訣であるかのように思われて来た。

何を評価するにも、とにかく人数、規模、知名度などがまず真っ先にものを言い、一極集中の波に乗ることが、成功の手段であるかのようにみなされた。その一方で、人と群れず、集団を築くことに価値を置かず、皆と同じように振る舞わず、自分で考えて一人で行動する人は、「ぼっち」などと呼ばれ、蔑まれ、のけ者にされ、憂き目を見させられてきた。

だが、コロナが、人々が一ヶ所に集まる行為自体を、危険に変えてしまった後では、価値観が逆転してしまったのである。

コロナは、どこへ行っても、大勢で幅をきかせ、他人を押しのけながら、無遠慮に会話し、我勝ちに幸福を享受していた家族連れのような集団に、大変、迷惑で自己中心な人々というレッテルを貼った。彼らは、今も大人数で行楽地に駆けつけては非難の的となり、大家族で家に閉じ込もり、不自由で窮屈な思いをせよと命じられている。

TVで露出の多かったタレントやアナウンサーにも、コロナは容赦なく襲いかかり、そこでは、知名度も何の助けにもならなかった。

プロテスタントの教会の礼拝も中止され、インターネットに切り替えられた。他国の新興宗教の信者が、危険を冒して礼拝を行ったために、感染を広げたことも、非難の的になった。これまでには、「日曜礼拝を守ることこそ、信者の第一義務!」などと言って、自分を犠牲にし、他の用事もすべて脇に置いて、何が何でも教会に駆けつけていたような信者は、恥を見ただろう。

こうして、大勢の人々が同じ時間帯に、同じ場所に集まり、同じ価値観を共有し、同じリーダーのもと、同じ作業にいそしむことで、集まった人々が特別な恩恵を享受して、そこにいない人々に比べ、有利になれるという幻想は、脆く崩れ去ったのである。
 
かえって、個人として単独で行動している人の方が、比較的安全に、はるかに自由に身動できることが分かってきた。

そのことは、決して感染のリスクの低減だけにとどまらず、あらゆることに当てはまる。コロナは、私たちの生活を塗り替え、昨日まで安定、繁栄の印のように思われていた価値観に、とどめを刺したのである。
 
コロナが明らかにしたのは、自分の頭で考えず、誰か偉い人の命令に従っているだけでは、この先、自分らしく生きることも、望んでいる幸福を手にすることもできず、豊かになることもできない、という結論であった。

そのことは、公共事業や、企業のネームバリューや、過去の成功や威信だけにすがったビジネスモデルが、この先、立ち行かなくなることをも、示しているのではないかと筆者は思う。
 
何もかもがお仕着せの、できあがったビジネスは、規模も大きく、安定しているように見えるかも知れない。だが、それは携わる人に、自分で自由に物事を決める裁量の余地を与えないため、やりがいがないし、発展性もない。

やりがいのない仕事には、やる気のない人たちしか集まって来ないので、必然的に仕事はマンネリ化し、人間関係も腐敗し、成果も出なくなる。自分では何も考えず、給料さえもらえていればそれで良いと、現状維持だけをすべてとし、面倒なことはすべて隣の他人に押しつけて、仕事をサボることこそ美徳と考えるような社員が集まる職場が出て来るのもそのためである。

そのようなビジネスでは、放っておいても、人間関係が極度に悪化して、組織が内側から瓦解して行くから、先がない。
  
そのように、自分では何も考えず、知名度や権力の大きさにすがり、ただ他人の命令に唯々諾々と従うことを是としてきた人々が、今、赤信号で立ち止まるよう命じられ、どこにも行き場がなくなっているのが現在ではないだろうか。

人はもともと、自分の自由裁量の余地がたくさんあって、これから自分が何をするのか、何のためにその仕事をしているのか、誰に教えられずとも、確かに実感できる仕事でなくては、やりがいを感じることができない。

誰に命じられるのでもなく、自分で物事を考えて決める自由を持つことが、人間の生きる力を引き出す最高の秘訣であると、筆者は確信している。
  
しかも、ただ自分のやりたいことだけをやって、自分だけが成功するために生きるのでは、本当のやりがいを見いだせない。自分だけではなく、他者の必要をも満たし、他者の幸福を助けることを目的にしなければ、長期的に成功するビジネスを行うことはできないと、筆者は考えている。
 
今、明らかになっているのは、自分の頭で何をなすべきかを考え、自分で決定することをせず、他人の指示に従って生きて来た人たちが、あたかも成功しているように見えながら、実は最も高いリスクにさらされていることではないだろうか。

信号機の色が青色であるうちは、彼らは意気揚々と進んで行けるが、赤になると、たちまち、どう生きれば良いかも、分からなくなって立ち止まり、閉じ込められた家の中で、家族の間で不毛な喧嘩が始まり、暴力を振るったり、離婚に至ったりする。

もともとしっかりした信頼関係が構築されておらず、都合の良いときの連帯があるだけだったからこそ、狭い家の中で、四六時中、ずっと一緒にいなければならなくなると、早速、人間関係の脆さが露呈するのであろう。ここでも、コロナは、家族という美名の下に、最初からあった人間関係の脆弱性を明らかにしただけである。
 
筆者は、この先、真に伸びしろがあって、人々に必要とされる事業に携わって生きたいと願うため、コロナを耐え抜き、コロナ後も生き延びるビジネスモデルとは何かを考えている。
 
コロナ後に到来する新たな価値観、これを見極めた者が、これからのビジネスにおいて勝利するのだろう。だが、そこには、決して一足飛びに派手な成果をもたらすような法則はなく、キーワードは地道な「草の根」ではないかと筆者は思っている。

昔々、「コンクリートから人へ」などというスローガンが、時の政権によって討ち出されたことがあった。それにもどこか似ているかも知れない。一極集中から地方への拡散、集団中心から個人中心の生活。家でも、職場でも、ひたすらストレスのたまる「3密」ではなく、個が中心となる新たなライフスタイルへの変化が求められているのではないか。

つまり、これまで集団によって隅に追いやられ、発言もできず、存在すらも忘れられてきた「ぼっち」にとっては、最高に強みを発揮できる時代がやって来たということである。


・自分の頭で考え、自分で決めて行動した者が勝つ

筆者の父が、筆者に早く独立するように言い聞かせていたことがあった。何年も前、筆者が様々な職場で見て来た理不尽な光景について、こんな有様は耐えられない、筆者ならばこうするのにと、改善策を語っていた時のことである。

「あなたのアイディアは面白く、経営者から見れば、利用価値があると思われるだろう。そういう観点から、あなたに目をつける人もいるかも知れない。でも、他人にアイディアを利用されるよりは、自分自身で試した方が良い。人生の残り時間は少ない。自分のしたいことを始めるのは、早ければ早いほど良い。」

と父は言った。それから何年過ぎたか分からないが、それと全く同じことを、別な人からも言われた。あなたはここにいても、自分を発揮できないだろうから、早く新しいことをした方が良いと。

だが、例によって筆者は悠長に構え、計画も熟さなかったため、そこにとどまり、以前と同じ問題に突き当たった。筆者は本当に追い詰められて、行き場がなくなり、何が何でも新しいことをせねばならないというエネルギーが極端なまでに高まるまでは、行動に至らないタイプだからである。

そんな筆者にも、ついにそのストレスが頂点に達するような時がやって来た。筆者の生長のスピードと、組織の生長のスピードが合わない。もっと多くの自由を望んでいるのに、変化を拒む硬直した入れ物に閉じ込められる。

大きく成長した魚が、狭い水槽の中に閉じ込められていれば、やがてつらくて仕方がなくなるのは当然である。それでも水槽は、自分たちのサイズは変更できないのだから、自分たちが正しいと言い張る。他方、水槽におさまりきらなくなった魚は、そんなはずはない、悪いのは、自分の成長を阻む水槽の側だと言う。

独立は、そういうせめぎあいが起きた時に、解決のために有効な選択肢の一つである。

とはいえ、筆者はこれまで自由を求めて独立した人の中に、模範となる人を見たことがないため、独立した時の展望を未だはっきりと思い描くことができないし、ただちに明日、独立することが正解だなどと言うつもりもない。

独立した者たちは、一概に、そこに高みがあり、自由があるかのように筆者に言った。だが、筆者の目には、そうは見えなかったのである。

筆者が見て来た経営者らは、筆者の生き方に自由がないと、筆者を気の毒に思っていたようであるが、筆者の目には、実は非常に狭い水槽に閉じ込められているのは、高みにいて、自由に見える彼らの方であるように見えた。

彼らは筆者から見て、極めて孤独であって、助けのない状態に置かれているように見えた。大勢の人々に囲まれているようでありながら、内心ではずっと一人のままなので、変化する機会を奪われている。また、他人を使役するだけでなく、搾取する側に立つことは、それだけで、呪われた所業であるように、筆者には感じられた。

なるほど自分のアイディアを他人に妨げられたり、かすめとられず、存分に生かせる自由があるのは良い。しかし、そこに「女房役」として、共に苦楽を分かち合い、絶えずうるさく口を出し、叱咤激励し、成功を喜び合い、あるいは誉めてくれる誰かがいなければ、その道はあまりにも孤独すぎるのではないだろうか。

自己満足のためだけに、事業を展開できるという人もあるかも知れないが、筆者にはそうは思えなかった。筆者の仕事の成果を、評価し、共に喜んでくれる誰かがいなければ、自分のためだけに、途轍もない苦労を背負って事業を続けられるとは、筆者には思えなかった。

しかも、その「女房役」は、虐げる相手ではなく、対等でなくてはならない。そのような理解者、助け手、共感者がおらず、ただ自分の目標を達成したいためだけに、事業を起こすことは、あまりに孤独で、独りよがりな道で、ほとんど不幸と言っても良い結果に行き着くしかないと思われてならなかった。

だから、自己満足だけを目的に事業を起こすことは意味がない、と筆者は考えている。誰のために、誰を喜ばせるために、新しい事業を始めるのか、そこが肝心なのである。

自分が金儲けしたいからビジネスを興すとか、有名になりたいからそうすると率直に表明し、自己満足だけを目的に、事業を始めた人を非難するつもりはない。筆者自身はそういう生き方はできないが、彼らは嘘をついているわけではない点で、非難されるべきではない。

だが、世の中には、しょせん自分の利益や、自己満足の追求に過ぎない事柄を、他者の利益の追求であるかのように見せかけ、さらには、社会貢献や、人助けを目的とするものであるかのように、美辞麗句を弄する者もいる。そのようなスローガンを掲げることは、非常に罪深い所業であると感じられたので、筆者はしたくなかった。

だから、筆者は、一体、自分はどのような「事業」に携われば、真の満足や達成を得られるのかを考えた。それは決して自分の願望の実現のためだけであってはならず、他人を使役・搾取するものであってもならず、他者に君臨して支配するものであってもいけない。むしろ、ジョージ・ミュラーが信仰により大勢の孤児を養ったように、他者に豊かに与えることが目的でなくてはならない。

さらに、その事業は、自分がこれだけのことをやったと人前に誇るためでなく、右の手がしていることを、左の手に知られないように、こっそりと人を豊かにしていくものでなくてはならない。

筆者は今までそのような事業とは何かを考え続け、未だそのモデルとなるものを発見していないが、それでも、心の内側には、自分の人生は自分で決定したいという強い願いがある。

そのため、いつも「水槽」は、筆者の成長を押し留めることができなくなり、せめぎあいの果てに、亀裂が入り、壁は崩れ落ち、ついに崩壊して、筆者を吐き出さずにはいられなくなった。そして、筆者は釈放された囚人のように、外へ出て行くのが常であった。

魚は、水槽の外に出ては生きられない、と、読者は言うかも知れない。しかし、実は水槽の外にも、海は広がっている。そこで、一つの水槽から出たからと言って、筆者の生存圏が失われ、そこで人生が終わりになるようなことは決してなかった。

そんなわけで、筆者はより広い、妨げられることなく活動できるフィールドを求め、いつかたどり着く自分の事業とは何かを考え続けている。何もかもが、最初から誰か偉い人の裁量によって決められているパッケージ、自分の裁量で物事を決める余地の全くない「水槽」の中で、思考停止状態に陥り、意欲をなくし、自分を閉じ込めた壁を憎みながら、生きて行くことはできない。

筆者は、外見的には、まだ小魚のようであるが、完全に成長を遂げたときのサイズは、とても大きく、強いので、筆者を閉じ込めようとすれば、どんな水槽であっても、結局は崩壊を免れられなくなることを分かっている。

そんな不幸な「事故」が起きるよりも前に、筆者の方からジャンプして、壁を飛び越え、水槽の外へ出るのが最善である。


・後のものが先になり、先のものが後になる時代

今回の記事は、まるで自己啓発本のようなタイトルと内容になったものの、最後に、当ブログの目的である聖書の御言葉に戻っておきたい。

この世において、器用に行動できる人々は、早々と成功を手にして、己の幸福を掴み、不器用な人たちに対して、勝ち誇っているように見えるかも知れない。

弱い人々は隅に追いやられ、声をあげることもできず、望みさえも奪われて、いつまでもずっとそんな苦しい状態が続くように感じられるかもしれない。
 
何事においてもそうだが、全ての物事をじっくりと深く考え、真相を見極めてからでなくては行動できない人々は、なかなか一歩を踏み出せないために、足踏みしながら大勢の人たちに取り残され、器用な人々に比べ、人生を周回遅れで歩いているように感じられるかも知れない。

そういう人には、以下、記事末尾に引用する御言葉を読むことを勧める。

聖書は言う、ノアの時代も、ロトの時代も、人々は飲み、食い、売り、買い、植えたり、建てたり、娶ったり、嫁いだりしながら、めいめい幸福を享受していたと。それだけでなく、彼らはそういう生活が、今日も明日も永遠に続くと思い込んで、自分たちの幸福は揺るがないと、豪語していたのである。ところが、ある日、洪水や、火と硫黄が襲って来て、その生活は一瞬で奪い去られた。

今日も同じである。今まで、飲み、食い、売り、買い、植え、建て、娶ったり、嫁いだりすることこそ、人の生活の中心、幸福の秘訣のごとく考えられて来たが、そう豪語していた人々が、突如、そういう活動の一切を、停止させられたのである。

それを見て気づくべきである。これまで繁栄の秘訣だと思われていた行動が、かえって害と見なされるようになったのは、それがもともと堅固な土台に根差していなかったからだと。早々と幸福を享受しているように見えた人たちも、永続的な土台の上に、自分の人生を打ち立てていなかったのだと。

それが真の価値ではなかったためにこそ、そうした行動は、脆さを露呈しているのであり、それを見て、今まで安楽な生活から切り離されて、除外されていた人々は、考え直すべきだと。

すなわち、真に揺るぎない幸福を掴みたければ、必要なのは、人よりも早く行動して、手っ取り早く成果を手に入れようとすることではなく、真に揺るぎない確かな価値の上に、自分の人生の土台を築くことである。

そうすれば、最初は成長が遅いように見えても、時が経てば、人に比べてはるかに多くの成果を残すことができる。

聖書は、揺るぎない価値は、ただ一人のお方、つまり、まことの神にしかないと示している。多くの人々が価値を置いて、先を争って求めている目に見えるものは、すべて永遠でなく、神に創造された被造物、物質世界の消え行く産物でしかない。

飲み、食い、売り、買い、娶ったり、嫁いだりするという刹那の行動に価値があるわけではなく、永遠に変わることのないお方に価値を置いて、その方に従い、その方に栄光を帰して生活を送るからこそ、人の生活のすべての行動に価値が出て来るのである。

己の幸福、己の満足だけを第一に求めて生きても、その人生には残るものはない。

だから、永続する幸せを手に入れたいと願うならば、まず神の国と神の義を第一として生きることである。そうしていれば、その他のすべてのものは、気づくと、添えて与えられる。

まことの神が、信仰によって生きる義人を、信仰のない人々よりも、貶められた立場に捨て置かれることは決してない。神はご自分の羊を、すべての危機から救い出し、自由と解放に導かれる。

どのような武器も、その人を攻撃するには役に立たず、どんな裁きも、その人を罪に定めることができないように守ると言われる。

その一方で、まことの神に従わないすべての人々は、どれほど富んでいるように見えても、最後には、罪に定められ、恥を被ることになる。

だから、コロナを機に言えることは、これまで述べて来たことと同じである。私たちは、まことの神に従うために、多くの人々に理解されずとも、狭き門を行くべきである。

まことの神などどうでも良いと考え、大勢の人々と共に生きるために広き門をくぐてはならない。正しい選択をなすべきである。

喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。
 歓声をあげ、喜び歌え
 産みの苦しみをしたことのない女よ。
 夫に捨てられた女の子供らは
 夫ある女の子供らよりも数多くなると
 主は言われる。

 あなたの天幕に場所を広く取り
  あなたの住まいの幕を広げ
 惜しまず綱を伸ばし、杭を堅く打て。

 あなたは右に左に増え広がり
  あなたの子孫は諸国の民の土地を継ぎ
 荒れ果てた町々には再び人が住む。

 恐れるな、もはや恥を受けることはないから。
 うろたえるな、もはや辱められることはないから。
 若いときの恥を忘れよ。
 やもめのときの屈辱を再び思い出すな。

 あなたの造り主があなたの夫となられる。
 その御名は万軍の主。あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神
  全地の神と呼ばれる方。

 捨てられて、苦悩する妻を呼ぶように
 主はあなたを呼ばれる。
 若いときの妻を見放せようかと
  あなたの神は言われる。

 わずかの間、わたしはあなたを捨てたが
 深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。

 ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが
  とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと
  あなたを贖う主は言われる。

 これは、わたしにとってノアの洪水に等しい。
 再び地上にノアの洪水を起こすことはないと
  あのとき誓い
 今またわたしは誓う
 再びあなたを怒り、責めることはない、と。

 山が移り、丘が揺らぐこともあろう。
 しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず
  わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと
  あなたを憐れむ主は言われる。

 苦しめられ、嵐にもてあそばれ
 慰める者もない都よ
 見よ、わたしはアンチモンを使って
  あなたの石を積む。サファイアであなたの基を固め

 赤めのうであなたの塔を
  エメラルドであなたの門を飾り
 地境に沿って美しい石を連ねる。

 あなたの子らは皆、主について教えを受け
  あなたの子らには平和が豊かにある。
 あなたは恵みの業によって堅く立てられる。

 虐げる者から遠く離れよ
  もはや恐れることはない。
 破壊する者から遠く離れよ
  もはやそれがあなたに近づくことはない。

 見よ、攻め寄せる者があっても
  わたしによらずには何もなしえない。
 攻め寄せる者はあなたの前に倒れる。

 見よ、わたしは職人を創造した。
 彼は炭火をおこし、仕事のために道具を作る。
 わたしは破壊する者も創造してそれを破壊させる。

 どのような武器があなたに対して作られても
 何一つ役に立つことはない。
 裁きの座であなたに対立するすべての舌を
  あなたは罪に定めることができる。
 これが主の僕らの嗣業
 わたしの与える恵みの業だ、と主は言われる。
(イザヤ第54章)

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