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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

肉の思いと御霊の思い

「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者はそれを得るであろう。」(マタイ10:34-39)

 イエスの語られたこの御言葉が、どういうわけか、ここ数年、文字通りの形で、私の人生に成就している。「家の者が、その人の敵となるであろう」ということが、比喩でなく成就することを主がこの御言葉によって示されたのだとしたら、それは恐ろしいことだ。家庭に刺客が潜んでいるような状況で、一体、人は誰を信用し、どこに安息の場を求めれば良いのだろうか。
「兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、また子は親に逆らって立ち、彼らを殺させるであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。」(マタイ10:21-22)との御言葉もあるが、このようなことが私の身の回りに現実として起こっていることに、どんな意味があるのだろうか。思い巡らさないわけにいかない。

 とにかく、血肉にあってのつながりや、血肉にあっての望みが、キリストを信じることのために、ことごとく断ち切られなければならない瞬間が私の人生にやって来た。それは魂の暗闇と呼んでも差し支えないほど、私の心に大きな問題をもたらした。この問題に、精神的に疲労困憊せずに、勝利するためには、地上のもの、肉的なものに惹かれる魂の衝動に対して死に、真に聖霊に導かれる人となることをもっと学ばなければならないことを感じる。

 現実の様々な問題に直面する時、私たちの肉体は苦しめられ、魂は思い煩う。それは生まれながらの人間の自然の心理である。しかし、その思い煩いは、肉と魂との連携から生じるのであり、御霊が人を導く方向とはまるで異なっている。思い煩いは、何とかして肉の身体を生かし、死から救おうとする試みだが、結局、人を死から救うことはできない。それどころか、聖書は肉の思いが結局、死そのものであるとまで言っている。

「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。」(ローマ7:6-7)
「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。<…>あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。」(マタイ6:25,27)

 どうすれば、現実の問題が私たちを苛む時にあっても、御霊の思いである「いのちと平安」の中に安らぐことができるのだろうか。自己超越とか、瞑想とか、覚醒とか、そういった異教徒が様々に駆使しているような、キリストの十字架も聖霊をも抜きにした、魂の偽りの方法を通してではなく、聖霊の思いであるいのちと平安に真に安んじることは、どのようにして可能なのだろうか。

 生きることが困難となり、行動が制限され、衣食住も満足に確保されないような状態になると、私たちは強い不快感を覚える。飢えや渇きや孤独や苦痛が身体を現実に苛むようになる。だが、この肉体的苦痛に対しては、十字架にあって、すでに死んでいることを何度でも思い出す必要がある。肉体に対して死んでいる以上、肉体を取り巻く状況に対しても死んでいるはずである。肉を生かそうと試行錯誤する責任から解放されているのである。
「わたしたちは、果たすべき責任を負っているものであるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。」(ローマ8:12-13)

 キリスト者の肉体は、罰を受けて一度死んでいる以上、サタンはいかなる肉体的苦痛を伴う方法を通しても、私たちをキリストから引き離すことはできない。私たちが目指すべきは、肉を生かそうとして焦ることではなく、霊によってからだの働きを殺すことである。

 だが、そうは言っても、肉体は現実に苦痛を覚え、魂は苦しみから逃れようと、あれやこれやと思い煩い、対策を講じようとする。その時に、私たちは、魂のこの天然の衝動に突き動かされて行動しないように気をつける必要がある。主イエスは、魂の衝動を一切、父なる神に委ねられて、聖霊の導きなしには、自分からは何事もなさなかった。

「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。」(ヨハネ6:38)

 主イエスは自分の魂の願いに従って行動することは全くなされなかった。彼は御父の御心だけを行われたのである。しかし、多くのキリスト者は(私を含めてそうなのだが)、困難に見舞われると、御霊に聴くことを放棄して、御父を抜きにして、自己の内なる衝動に身を任せ、現実問題にあれやこれやの対策を講じようとする。人は苦痛を覚える状況の中で、片時もじっとしていることができない。だが、肉を救うために奔走すると、人は神との霊的合一からますます引き離されて、平安から遠ざかっていく。

 オースチン-スパークスは書いている、「サタンが常に力を注ぐ点は、(神と結ばれている)霊か(自己指向的な)魂かの問題です。サタンが聖書を引用する場合、それは神との内なる合一を破壊するためです。」
 
 荒野でサタンが御言葉を使ってイエスを誘惑したのは、イエスを御父の御旨から離れさせて、御霊の導きなしに、自己の内なる衝動に従わせるためであった。今日、私たちが試練に遭う時、同じように、御霊の思いとは反する魂の衝動が内に沸き起こり、私たちを御父のご計画に反する行動にひたすら駆り立てようとすることがあるだろうが、それを警戒しなければならない。

 その衝動に従うことは、一見、外から見れば、合理的な行動に見える。この競争社会では、私たちが自己の命を救おうとして取る行動は、世間からはどれも立派な行動として賞賛される。社会では、自分の命を救うためにどれくらい数多くの保障を得ることができたかということが、人としてのステータスにつながっているからだ。命を救うために、日々、行動し、立派な地位を得よ。命を救うために、自分の老い先について案じよ。命を救うために、着る物、食べる物にこだわれ。命を救うために、子を産み、出世し、趣味を持ち、老後の蓄えを築け。自分の命を危険から救うために行う全てのことは、社会では賞賛される。

「私たちの魂のいのちはなんと自己を守り、救おうとすることか!しかし、私たちの欺きに満ちた心から私たち自身が解放されるために、神に服従してこの罠の性質と暗示に対して敏感であることがどれほど必要でしょう。」

 キリスト者は、自分の命を救おうとする魂の各種の衝動に耳を傾けず、その衝動に対して死ぬ必要がある。そうでなければ、御霊に聴き従うということは不可能なままに終わるだろう。ではいかにして魂の各種の衝動に死ぬのか。

「二つのことが魂に起きなければなりません。第一に、魂は自己の力と支配に関して、キリストの死によって致命的な一撃を受けなければなりません。神がヤコブの腿、腱に触れてから、ヤコブがびっこのまま生涯の最後まで過ごしたように、『魂は何もできないし、何もすべきではない。神が魂の力を滅ぼされた』という事実が永遠に魂の中に刻印されなければなりません。

 次に、神のいっそう高い異なる道のために、魂は僕として『勝ち取られ』、支配され、治められなければなりません。聖書がしばしば述べているように、魂は私たちが獲得すべきものであり、それに対して権威を行使すべきものです。たとえば、
『あなたたちは忍耐することによって、自分の魂を勝ち取ります』(ルカによる福音書21章19節)
『あなたたちは真理に服従することによって自分の魂を清めました』(ペテロ第一の手紙1章22節)
『あなたたちの信仰の結果である魂の救い』(ペテロ第一の手紙1章9節)」

 ここで、魂を勝ち取るとは、魂を抑圧するとか、魂そのものを滅ぼし去ってしまうことでは決してないことに気をつけたい。私たちの魂は、肉にあって深く毒されているとはいえ、魂そのものを滅ぼしてしまえば、もはやまともな人間は成り立たなくなる。必要なのは、魂を肉の支配下から連れ出し、御霊の支配下へと新たに導き入れることである。魂に思い煩いではなく、いのちと平安を得させることである。
 魂の間違った衝動から逃れるために、禁欲主義的な生活を送り、魂のいかなる衝動をも滅却しようと努めることは無意味であり、それは逆に魂の反乱を招くだけに終わるだろう。私たちに必要なのは、魂を肉と連結したままで終わらせないこと、魂を霊の配下に置くことであり、それが魂を勝ち取るという御言葉の意味なのである。

「私たちの人間的本性は、すべて私たちの魂の中にあります。本性は一つの方向で抑圧されるなら、別の方向で逆襲します。これは多くの人が抱えている問題ですが、彼らはそれを知りません。抑圧の生活と奉仕の生活には違いがあります。御父に対するキリストの従順、服従、奉仕は、魂を滅ぼす生活ではなく、安息と喜びの生活でした。」

「霊性は抑圧の生活ではありません。これは消極的です。霊性は積極的です。霊性は新しい特別な生活であり、自分を治めようと奮闘する古い生活ではありません。魂は顧みを受ける必要がありますし、新しい高い知恵を学ぶようにされる必要があります。私たちが神と共に完全に歩もうとするなら、知識、理解、感覚、行いのための魂の力と能力はすべて終わらされ、私たちは――この面で――困惑し、茫然自失し、何もできずに立ちすくむでしょう。<…>
 次に、新しい別の神聖な理解力、拘束、力が私たちを前に進ませ、私たちを前進させ続けます。このような時、私たちは自分の魂に言わなければなりません、『私の魂よ、神の前に静まれ』(詩篇62篇1節)、『私の魂よ(中略)神に望みを置け』(詩篇62篇5節)、『私の魂よ、私と共に来て主に従え』。
 しかし、魂が霊に従うよう拘束され、その証しとして高い知恵と栄光を知覚する時、何という喜びと力があることでしょう。『私の魂は主をあがめます。私の霊は救い主なる神を喜びました』(ルカによる福音書1章46節)。霊に関しては完了形が使われており、魂に関しては現在形が使われています――時制に注意して下さい。

 ですから、満ち満ちた喜びに至るには魂が必要です。魂は暗闇と自分自身の能力の死を通されなければなりません。それは高くて深い現実――霊がそのための第一の器官であり機能です――を学ぶためです。

 あなたの魂を抑圧したり、さげすんだりする生活を送ってはなりません。そうではなく、霊の中で強くありなさい。それはあなたの魂が勝ち取られ、救われ、あなたの満ち満ちた喜びに役立つものとされるためです。主イエスが望んでおられるのは、私たちの魂に安息があることです。これは彼のくびき――合一と奉仕の象徴――によって実現されます。」

 魂の暗闇。恐らく、何年間もかけて私はそこを通過しつつあるように思う。ここでは逆境に対するいかなる抵抗も無意味となる。自分の無力さを思い知らされて、魂は思い煩い、悩み、苦しむが、暗闇から抜け出そうとするあらゆる試みが無駄に終わり、人間的な努力のすべてが打ち砕かれてしまう。平安はなくなり、安息は消え、不安、恐怖、苦痛、悲しみ、悩み、といったものだけが残る。
 文字通り、そこでは人間は虚無に服さなければならなくなる。この暗闇を無事に通過するためには、人知や努力やごまかしによらない、別の方法――従来の魂に導かれた生き方ではなく、御霊に導かれることを第一とする生活に転換すること――が必要である。

 聖書は、滅ぶべき肉のからだを持ちながら、霊に導かれるキリスト者として生きることが、矛盾に満ちた苦しみであり、決して単純な喜びだけに貫かれた生活ではないことを示している。

「実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。」(ローマ8:22-25)

 だが、このように矛盾に満ちた状況にあっても、キリスト者がなお望みを抱くことができる秘訣は、どこにあるのだろうか。肉はただ苦痛をもたらす目先の状況から逃れ、一瞬でも肉の命をつなぐことだけを希望としている。しかし、御霊にあっての望みは、具体的状況をはるかに越えて、逆境を忍耐強く忍びつつ、その先にあるまことの解放、まことのいのち、まことの平安、真の自由を思うことを意味する。それは、被造物同様に、人間が滅びのなわめから解放されて、栄光の自由に入る時を待ち望むことである。それは主の再臨を待ち望むことと同義である。

 さらに、驚くべきは、地上的なものに死んで、見えないものへの望みに堅く立つことが、逆説的に、今日に限定された具体的状況の中で、私たちの死ぬべき身体を生かすことにもつながるということだ。
「もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。」(ローマ8:10-11)

 ここに、「キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださる」と書いてあることに注意しよう。魂の思い煩いが、死ぬべき身体の寿命を一日たりとも延ばすことができない代わりに、神は御霊によってそれが可能となると示されている。これはどういうことだろうか?

 終わりの時代にあって、経済は不安定となり、保険会社も破綻し、地上の生を安楽に暮らすためのあらゆる保障が不確かなものとなり、家庭内暴力の話題が毎日のように新聞に載り、血肉にあってのつながりさえ、頼りがいのない、危険なものへと変わっていく時、聖霊に導かれて生きることこそが、人がその日、その日の人生をつなぐ保険となると言っても、過言ではない。なぜなら、聖書はこう言っているからだ、「あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。」(エペソ1:13-14)

 この御言葉を読む時、聖霊が、私たちがただ未来に神の国を継ぐことを漠然と保証してくれているだけで、今日という日については何も語っていないと考えるべきではないと思う。これは神がキリスト者に与えて下さった永遠の約束であり、今日という日から、未来へと絶え間なくつながる力強い保証である。これは人類が未来にかける「切ない望み」などではなく、私たちが神の国をつぐことの保証を受けることによって、あらゆる問題への解決をすでに得ていること、私たちの弱さにも関わらず、私たちがキリストにあってすでに全てを得ていること、今日を生き抜くために必要なものをすでに備えられていることの力強い約束である。

 

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