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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主を離れ去っている人は。

「待ち続けるだけでは心が病む。

かなえられた望みは命の木。」(箴言13:12)


少し前の記事で、筆者は二着の「アカンの外套」を心から捨て去ったと書いた。このアカンの外套とは、人の心の偶像となりうるものの比喩である。神は、信じる者が、ただご自分だけに頼ることをお求めになる。人間への愛情と、神への愛情はほとんどの場合、両立しない。このことを私たちはよく覚えておく必要がある。主を経由しない魂の愛情はことごとく腐敗したものとして取り除かれる。


「主はこう言われる。

 呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし

 その心が主を離れ去っている人は。

 彼は荒れ地の裸の木。

 恵みの雨を見ることなく

 人の住めない不毛の地

 炎暑の荒野を住まいとする。

 祝福されよ、主に信頼する人は。

 主がその人のよりどころとなられる。

 彼は水のほとりに植えられた木。

 水路のほとりに根を張り、

 厚さが襲うのを見ることなく

 その葉は青々としている。

 干ばつの年にも憂いがなく

 実を結ぶことをやめない。」(エレミヤ17:5-8) 


この原則は厳しいものがある。真に実を結ぶ生き方をしたいなら、目に見える一切のものに心を留めず、ただ真直ぐに主を見なければならない。上にあるものを求めなさい、と聖書は言う。地上のものに心を惹かれると、それが私たちに絡みつき、足手まといとなる。人間に頼る者は滅びる。

だから、主の御前に静まって、いつもただ主にのみ己の心を注ぎだすことを忘れてはならない。異教徒の娘デリラを愛しすぎたサムソンは、聖なるものと、汚れたものとの区別を見失ってしまった。デリラの愛は不実であって、デリラに心を秘密を打ち明けたことがあだとなり、眠っている間に、サムソンは髪の毛を切られ、力を失ってしまう。

目覚めたとき、サムソンの怪力は失せており、彼は奴隷として捕えられ、引いて行かれることとなった。何度も書いたことであるが、その後の彼の運命は悲惨であった。両眼をえぐり出され、奴隷として重い引き臼を引きずり、ついに生涯の終わりにはペリシテ人の宴会の余興として引き出される。そのとき、サムソンは、最後の力を振り絞ってペリシテ人の神殿を崩壊させるが、自分もその下敷きになって死んだ。

もちろん、サムソンの運命は、人の堕落した肉の性質がどれほど深いかを表しているのであって、それは主イエス・キリストが十字架で担われた刑罰の予表でもある。サムソンは、信仰を失うことはなく、生涯の終わりには、自分自身のすべてをかけてまことの神を証した。しかし、できるならば、キリスト者はそんな運命を辿ってはならない。

サムソンの勇者としての力は、ただまことの神のみを信頼するところにあった。そこで、私たちが鷲のように翼をかって、天高く舞い上がるためには、同じように、主のみを信頼して、足手まといとなる地上のものへの信頼をすべてを心から振り捨て、ただ上にあるものを真直ぐに求めねばらならない。

そのために、人の目に慕わしいもの、心に好ましいもの、地上的なものへ心惹かれ、それを信頼しようとする傾向を警戒しなくてはいけない。真に重要な事柄を、神ではなく人間に打ち明け、人を信頼して歩いて行くことをやめなければならない。

神の御言葉を流暢に語っているからと言って、誰もがキリストの僕であるわけではない。霊を試さなければならない、と聖書は言う。さらに、仮に忠実なキリストの僕であっても、主ご自身以上に、目に見える人間に頼ることも非常な危険である。

そういうわけで、この道の原則は厳しい。どんな人であれ、肉なる人間には誰も信頼してはならず、すべてのことを主にのみ相談せねばならないからだ。それができなくなると、多くの誘惑に直面することになり、天の高度から引きずりおろされ、その高さを歩めなくなってしまう。

だが、偶像を心の中から捨て去り、天にのみ目を注ぐなら、主はその人を喜んで迎えて下さり、恵みを与えて下さる。これは霊的に動かせない法則性であるものと筆者は感じている。鷲も足に錘をつけながら、軽々と飛び立つことはできない。人間も、どんなに心の望みによって羽ばたこうとしても、その心に、地上のものに対する未練が含まれていれば、飛び立つことさえ叶わないのだ。

神を愛すると言いながら、この世を愛し、この世における人々の寵愛、賞賛、慰めを愛すれば、結局、その人はいずれ神を捨てることになる。


「命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。」(黙示21:14)


アダムとエバがエデンの園を追放されたのは、神の御言葉に背いたためであり、背いた者が、命の木の実を取って食べることによって、永遠に生き、聖なる者とされた者たちと同じ命にあずかることがないためであった。

命の木とは、キリストご自身のことでもある。彼が人となられ、十字架にかかられ、復活された後は、死を経て復活された彼のまことの命のことである。その命は、すべてを超越して支配する命であり、私たちの望みをかなえる力も持っている。だが、その木の実を取って食べることは、神の御言葉を守って生き、これに背かないという、御言葉への従順と一つである。

御言葉を守らない者が、命にあずかることはない。黙示録の上記のくだりの直後にはどうあるか、「犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。」(黙示21:15)


犬のような者とは、偽善者たちのことを指すと見て良いだろう。当ブログでは、ずっと牧師という存在は、神と人との唯一の仲保者であるキリストの代用であり、聖書に反した制度であると言い続けて来た。だから、牧師たちも「犬」の中に当てはまる。キリストに頼らず、牧師に頼って生きるなら、その人は偶像崇拝者である。さらに、牧師を名乗らずとも、牧師と同じことをしている者たちも同じように偽善者に含まれる。

キリストの御名を使いながら、命を失った偽りの一大宗教体系というものがあり、それはこの世そのものである。この世を愛しながら、神に従うことはできない。偽りを好む者も、命の木から取って食べることはできない。こういう人たちはみな門を通っていないので、命の木へ近づくどころか、都の中に入ることもできない。

黙示録をどんなに読みふけったところで、御言葉を守らなければ、その人たちは滅びの中に投げ入れられることとなるだけなのだ。

* * *

「あの犬どもを警戒しなさい」

聖書にはそういうフレーズが幾度も出て来る。主イエスは、偽預言者たちを警戒せねばならないことを、繰り返し、繰り返し、弟子たちに教えられた。

当ブログ始まって以来、ずっと述べ続けていることは、「人間に優しい生き方」と「まことの神に従う生き方」は決して両立しないということである。一方は、世を愛し、世人と協調して歩む道であり、もう一方は、世に対して死んで、まことの神だけを主として生きる生き方だからである。聖書にこう書かれてある通りである。


「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光とやみとに何のつながりがありますか。キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰とに何の関係がありますか。神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。

「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。

 そして、彼らの神となり、

 彼らは私の民となる。

 だから、あの者どもの中から出て行き、

 遠ざかるように』と主は仰せになる。

 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。

 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、

 父となり、

 あなたがたはわたしの息子、娘となる。』

 全能の主はこう仰せられる。」(2コリント6:14-18)


信仰のない人たちと手を携えて生きようとすれば、彼らが抱えている、負い切れない軛を私たちも負わされることになる。

だが、ここで言う「信仰のない人たち」が、キリスト教を全く知らない世の人たちだけを指すと考えてはいけない。それは何よりもこの世と迎合した偽りの宗教体系としてのキリスト教も含んでいるからだ。

つまり、訣別せねばならない「あの者ども」の中には、非常に敬虔そうに見えるが、人工的に作り上げられた、命を失ったキリスト教という一大宗教体系が含まれているのである。

だからこそ、「キリスト教界からエクソダスせよ」というスローガンは、偽りではないと、筆者は言う。この偽りの一大宗教体系に属しながら、同時に、まことの神に従って生きる、ということはできない相談なのだ。死んだ組織としての「宗教体系」に触れるとき、私たちはデリラの誘惑に、死の力に触れることになる。

だが、非常に根深い誘惑は、エクソダスせよ――と言いながらも、その圧倒的大半の人々は、この世を愛しすぎたために、自ら組織に戻って行くか、組織と混合するかし、結局、自分たちが訣別せよと叫んでいるものと、むしろ逆に一体化してしまったことである。

筆者は2009年から現在に至るまで、同じことを主張し続けているが、その中で、かつてはエクソダスに共感していたほとんどの人々が、上記のような過程を辿り、組織へ舞い戻り、おのおの好き勝手な指導者の教えに帰依し、清さを失った様子を見て来た。

だが、そうして交わってはならないものと交わると、私たちからは神の清さ、聖別が失われ、かえって敵の重荷が押しつけられることとなる。

私たちに与えられているのは、主イエスの軛であり、その軛は軽く、負いやすいと言われた、日々の十字架である。しかし、信仰のない(もしくはキリストの十字架に逆らう)人々には、その負いやすいと言われた十字架がない代わりに、彼らは自分たちでは決して返済することのできない、自己の罪という無限大の負債を背負っている。

偽りの宗教体系とは、一言で言えば、人類が己が返しきれない罪を、自力で返済しようと、終わりのない精進を続けるための体系なのである。従って、そこには様々な儀式は存在するものの、そのどれ一つとして人の罪を贖う効果はない。

もしも私たちがそのように信仰のない人々を信頼し、彼らを友のように考え、彼らと交わり、その宗教儀式に参加し、彼らと手を携えて生き始めれば、彼らが負っている無限大の負債が、私たちのものとして押しつけられることになる。

それが、サムソンがデリラに心を打ち明けたことによって、デリラから押しつけられた「負債」だったのである。本来、その苦しみは、デリラが担うべきであったが、サムソンがデリラに心を打ち明け、彼女と交わった結果、その負債がデリラからサムソンに転嫁された。

有史以来、サタンが人間に対して試みて来たのは、そういうこと(=罪の責任転嫁)であり、偽りを好む人たちが、聖徒らに自分たちの重荷を転嫁しようとしていることを、私たちは忘れてはならない。サタンは自らに対して地獄で定められている永遠の刑罰を、何とかして人(信仰者)に転嫁しようと考え、さらに転嫁できなくても、できる限り多くの人間を同じ滅びの運命に引きずり込みたく、それゆえ、自前の偽りの福音の「布教」を試みているのだと言えよう。

だから、私たちはそのような思想を受けた人々との交わりを続けてはならない。エクソダスを遂げた――と言いながら、依然、組織の中を歩き回り、宗教儀式に参加し、また、人前でメッセージを語っている人は、エクソダスを完了しておらず、それどころか、彼はまさに牧師でしかないのである。

神と人との仲保者は、キリスト・イエスだけであるにも関わらず、その間に無資格の「代理人」として立ちはだかって、神の御言葉を独占して、信者に自分自身で聖書を理解させようとしない牧師という教職者は、信仰の妨げになるから、必要のないものである。必要ないだけでなく、キリストになり代わって、信徒の心を支配するものであるから、悪しき職であり、神の栄光を盗むものであると言って良い。だが、そのことを理解して、あえて信仰の道を行くために牧師は必要ない、と言いながら、自分で牧師と同じことをしている人は、単なる牧師よりもさらに罪が深いと言えよう。

筆者が過去に遭遇した事例の中には、「私は何も分からず組織にとどまっている人々に、本当の福音を教えてあげて、彼らを助けたいんですよ」などと言いながら、訣別したはずの組織の中を歩き回っている人がいた。だが、そのような二重性を帯びた生き方を続ける人も、当然ながら、偽り者である。

私たちはソドムを脱出したならば、後ろを振り返らず、前に向かって歩かねばならないのであって、ソドムに残っている他の人々を助けてあげようなどという理由で、ソドムの町の中を歩き回っていれば、自分も彼らと一緒に火と硫黄によって滅ぼされてしまうだけだ。それはミイラ取りがミイラになるだけの道である。しかも、ソドムに残っている人々に「布教」するということは、ソドムの土着の宗教と交わり、その影響を受けた新たな混合キリスト教を形成することしか意味しない。そのようなことをすれば、神に最も忌み嫌われる偽りの福音が出来上がるだけである。

生まれながらの人間の魂には、神の救いを知らない人々に対して、神が定められた滅びの刑罰を、受け入れられない残酷なものとみなして、これに反発する性質がある。ソドムが滅びに定められたことに反発し、ソドムの人々が「可哀想」だから、助けてあげなければ・・・、などとみなして、ソドムに残って布教し続ける人たちは、実のところ、神が下された滅びの宣告そのものに逆らい、それと同時に、神がもうけられた救いにも逆らっているのだと言えよう。

神は、救われる人と、そうでない人たちの間に峻厳な区別をもうけられた。それがキリストの十字架であって、この贖いを受け入れない人々は助からない、そのことが、聖書がはっきり示している結論である。だが、信仰のない人々は、それを指して、キリスト教の神は残酷であると非難し、キリスト教徒を名乗っている人でさえ、その線引きは残酷すぎるとして、それを巧妙にずらそうとする。キリストを信じている、と言いながら、主にのみ従うのでは、やっていけないとして、そこに人間の指導者をつけ加え、人間を神として拝むがごとく、人間に栄光を帰そうとする。そういう人々も、偶像崇拝者なので、命の木の対象外である。

カトリックの法王への崇拝はもちろんのこと、プロテスタントにおける牧師崇拝という偶像崇拝の罪からも、信者は離れなければならない。人間に栄光を帰するすべての宗教組織を離れなければならない、ということを当ブログではずっと主張して来た。世の一部と化した偽りの宗教体系に未練を持ちながら、同時にまことの神だけを愛することはできないのである。

偽りの宗教体系とは、この世そのものであるから、そこには大勢の人々がおり、富があり、平穏があり、敬虔そうに見える様々な儀式と、人間の栄光を誉め讃えるチャンスがある。だが、それが偽りである以上、真理とは相容れず、それに接触するならば、私たちは清さを失って、返しきれない負債を押しつけられてしまうだけなのだ。そこにいる人たちが「可哀想」だから、救い出してあげなくてはならない、などと言って、その宗教体系が偽りなることを知りながら、そこに舞い戻って行く人たちも、滅びからは免れられない。

だから、世とは、聖書を知らず、神を知らない人たちだけのことを指し、そこに信者を名乗る人々は含まれていない、などと決して思っていていはいけない。主イエスが言われた最も警戒せねばならない相手とは、そういう人々ではなく、信者を名乗りながら、この世を愛し、この世に生きる偽預言者、偽教師たちのことなのである。

そういう人々の言い分に欺かれないためにも、有効かつ必要な自己防衛策は、私たちが心を向けねばならない相手は、あくまで「人」ではなく「神」であるという点を見誤らないことである。自分の心のすべてを尽くして、ただ神を愛せよ。隣人に対しては善良であり、親切である必要はあろうが、それは決して、彼らが抱えている罪の負債を、押しつけられて共に連帯責任として背負わされるためではないのである。

* * *

そういうわけで、筆者のそばに、知らないうちに、「犬」と呼ばれて差し支えない人々が接近して来たこともあった。彼らは筆者の心を逸らして、何とかして人との交流に第一に心を向けさせようと、大変、熱心であったが、ある瞬間が来たときに、はっきりと自己の偽りの福音を語ったため、筆者には彼らが偽り者であることが分かった。

それはいわば、「交わり教」とでも呼んだ方が良いもので、彼らはあまりにも人との交わりを熱心に追い求め、人を愛するあまり、(というよりも、彼らが交わりを愛するのは、自分たちが指導者となって、集めた人々の心を支配し、栄光を受けるためなのだが)、彼らは自分たちが忌み嫌っているこの世と妥協した既存のキリスト教体系の中にも、積極的に出入りしては、人々をスカウトし、そこで自己流のネットワークを作り上げ、これを繁栄させ、自分たちがその恩恵を受けることを、第一に念頭に置いていた。

前にも言った通り、それはマルチ商法にもどこか似ており、彼らは自前の組織を持たないまま、様々な出来合いの組織の中に入り込んでは、心の定まらない人たちをスカウトし、自分たちの組織を作り上げて行くのである。「宗教組織からエクソダスせよ」などというスローガンを片手に、宗教組織の中に入り込んで行くこともある。

だが、はっきり言えば、それは他に指導者がいる組織から人員を盗んで、彼らの心を自分に向けさせることであるから、信者の心を盗むことである。もちろん、彼らが人々をスカウトして来る先の組織も偽りなのだが、この人たちは、他の牧師たちから信徒を奪って、自分が牧師になろうとしているだけなので、単なる牧師よりも、さらに質が悪い。

反カルト運動も、原則はそれと同じである。それはすべて既存の組織の中にいる人、もしくはそこにいた人たちを引き抜いて、自分たちが新たな指導者となり、さらに彼らを出て来た既存の組織と敵対させて、かつての指導者に戦いをしかけ、人間同士を争わせるために行われているに過ぎない。それをやっている限り、彼らは出て来た組織と訣別することができない。

いずれにせよ、この人たちが一番大切にしているものは、敵対運動を組織する時でさえ、人との交流、人の集まりと、そこに生まれる熱狂、そして人間の栄光なのであって、彼らは目に見えるもの――人間の数や栄光しか見ておらず、彼らが愛しているのは、真理でもなければ、神との交わりでもない。彼らがそうまでして熱心に作り上げている人との交流は、ソドムの滅びゆく人々が、一刻でも滅びのときを先送りしながら、互いに慰め合うための協同組合のようなものでしかなく、彼らが積み上げているすべての所業は、彼らの罪を贖う効果を持たないものであり、時が来れば、火と硫黄で滅ぼされてしまうものでしかない。

さて、こうした人々には、どういうわけか知らないが、共通して、このブログを憎み、忌み嫌うという特徴があるようだ。そこで、ある時までは、筆者に対しても、仲間のように振る舞いながらも、突如として、筆者がブログを書くことには反対だ、ブログをやめない限り、交わりを断つ、などと言ってくるケースもある。

彼らは、人との交流を失いたくないがゆえに、筆者がそう言われれば、彼らにすがりつき、どうか私を一人にしないで下さい、と追いすがって懇願すると考えているのかも知れないが、筆者はその逆に、「どうぞお考えの通りになさって下さい」と言うだけだ。

非常に可笑しいのは、「あなたのブログには、私の出る幕は微塵もない」という理由で、筆者にブログを書きやめるよう要求する者もあったことだ。だが、「私の出る幕がない」とは、どういうことであろうか?

当ブログは、神の栄光を証するために作られたものであって、もともと人間に「出る幕」を与えることを目的としていない。人を批判することが目的もでなく、人はみな不真実な存在であって、真実な方は、ただ神お一人しかいないことを証し、まことの神に栄光を帰することを目的としている。だから、人間に「出る幕」がないのは、大いに結構なことである。人間がここで栄光を受けたり、注目と賞賛を浴びるようなことがあってはならない。それは筆者自身も同じである。筆者自身も、生まれながらには不真実な人間の一人であって、キリストと共に死の刑罰を受け、復活の命にあずかることによって、初めて神に対して生かされたのであり、今もこれからも、証するのはキリストの栄光だけだ。

それだからこそ、このブログで、筆者は自己を証しないと決めている。筆者が個人情報を公開しないことを責め立て、これを暴き立てようとした愚かしい者たちもあったが、そもそもなぜ彼らはそうまでして神ではなく人間のことにばかりこだわるのだろうか。神の御前で死の刑罰を受け、死んだ人間の名や功績など記すことによって、何が得られると思うのであろうか。

自分の名を知らしめ、自己を偶像化して人々の心を引くチャンスが欲しくて執筆を続けている人々であれば、自分の情報を大いに利用するであろうが、そんなことが当ブログの目的では初めからないので、筆者はそうしないだけである。

筆者は、このブログを通して組織を作ることなど考えたこともなく、そのような組織が作られた過去もなく、神の御前の単独者として歩むことを決めているので、人の歓心を失うことを恐れない。

そういうわけで、アカンの外套がそばに置かれていた間に、この重い外套が足手まといとなって、様々な遅延が生じてしまったが、これから先は、その遅れを取り戻して、さらに前進を続けて行かねばならない。今、詳しくことのことについて説明できないが、いずれ、はっきりと遅れを取り戻すとは何か、進んで行った先に何があるのか、結論を示すことができる日が来よう。

今日、デリラは大きな都にまで発展している。それはバビロンという名の巨大な都であり、神ではなく人間の栄誉を称え、人間を拝ませるために作られた偽りの宗教体系である。そして、偽りの宗教をエクソダスしなければならならないと叫びながらも、デリラの魅力が忘れられない大勢の人たちが、この堕落した都に吸収されて行った。その際、彼らは、自分たちは世故に長けており、如才なく器用に立ち回れるタイプなので、今までにも決して一人になったことはないし、孤独を味わったこともなく、これからもそのようなことは決してない、などと豪語しながら、貧しい者たちを踏みつけにし、嘲笑うことも忘れなかった。

そして、彼らは、自分の好みに従って、好き勝手な教師たちを集め、彼らに自己の心を慰めるための作り事の福音を語らせ、真理から逸れて行ってしまったのである。

哀れなことである。筆者は彼らから見れば、あまりにも不器用過ぎたために、様々な苦難に遭ったこととされているようであるが、この人たちには、あまりにも誇るべき様々な長所がありすぎ、あまりにも多くの世の富を持ちすぎていたので、それが妨げとなり、主の御前で、それを捨てるに忍びなかったのだ。

こうしてデリラはバビロンと化し、女王のように栄耀栄華を極めている一方で、今日のサムソンは、怪力を奪われ、奴隷のごとく両手を縛られ、視力を失い、惨めな状態で、ペリシテ人に対する復讐を神に叫び求めつつ、苦役に従事させられている。これが、今日のまことのキリスト者の全体的に置かれている有様である。偽りの宗教体系は、巨大な都となって繁栄している一方、正しい人が、悪者たちに踏みつけにされ、神の御言葉が冒涜されても、立ち上がる者もない。

だが、なぜそんな状態に陥ったのか、考えてみるが良いのだ。キリスト者にも反省すべき部分が大いにあり、その弱体化は、神の聖を知っているはずの民が、この世との接触を断たなかったからではないのか?

戦いに勝つためには、二心のない清さが必要である。私たちが目指している見えない天の都と、地上に築かれたこの偽りの都(この世と合体した偽りの一大宗教体系)とは、正反対の方向にある、完全に相容れないものである。一つは上にあり、もう一つは地上に、私たちの足の下にある。もしも私たちが足の下にしているはずのもの――デリラに少しでも未練を持ち、これを聖なるもののように見上げて――この世の都を振り返るなら、私たちの霊的優越性は失われる。その先には、サムソンの最期が待ち構えているだけなのである。

そこで、何度も繰り返すが、主に信頼して、この方にのみ頼って生きることが、私たちの驚くべき力の源であり、秘訣なのである。望みがかなうことは、命の木である。その命の木にあずかり、天の高度を羽ばたいて生きるためにも、地上のものに決して心を惹かれてはならないし、肉なる人間を信頼してもならない。

この秘密を敵に明け渡し、後ろを振り向きながら、同時に前に進んでいくことは誰にもできない相談であり、キリスト者が、敵に定められた運命を、自分の運命と交換するようなことは、絶対にあってはいけない。

だが、神は真実な方であるから、私たちがどんなに不真実であっても、意図的に神に反逆することなく、御言葉に従って生きようと心から決意し、神の忌み嫌われるものと分離し、この世を愛さず、デリラへの信頼を心から完全に断つならば、ご自分の栄光のために、御言葉の約束を成し遂げて下さり、そうしてペリシテ人の神殿が崩壊する時が実際に来るのを、私たちは見るであろう。

筆者はそのことをよく知っている。そして、筆者が必ずそのように成るから、この先に起きることをよく見ていて欲しいと語っただけで、以上に書いたようなことが起き、偽預言者は、そんな証は決して聞きたくないと、筆者の証にも、このブログの内容にも耐えられないと、耳を塞いで自分から去って行ったのであった。それは、万民祭司の原則が忠実に履行され、一人一人の信徒が自立して自ら御言葉を咀嚼するようになり、自分たちの証を語り出し、神の命の豊かさにあずかり、牧師も教師も必要なくなり、彼らが偶像として拝まれ、栄光が帰されることがなくなって、バビロンが崩壊して焼失すれば、偽預言者たちはみな失業し、一切の「出る幕」がなくなると悟ったからであろう。

そういうわけで、罪人は正しい者の集いに耐え得ないという御言葉が成就して、何の論争もなく、信仰の証は、敵の思想を受けた人々をふるい分け、分離すべきものと分離するための良い試金石となってくれたのであった。

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