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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。

「わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。

わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。

それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。

つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。

キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(コンリントの信徒への手紙 二 5:11-21)

* * *

キリストの愛が私たちを取り囲んでいる、押し迫っている、圧倒している・・・。

以上のくだりは様々に訳すことが可能であるが、いずれにしても、海のように広く深い愛が私たちの周りを取り囲んでいる。

筆者はこれまで、真実、正しいことが何であるかが明らかにされるためならば、どんな代償を支払うことをもいとわないと考えて進んで来た。しかし、最近、愛のゆえに、自分の義を捨てることも、可能なのだと分かった。

可能というよりも、まず神が、そのような愛で、私たちを愛して下さり、罪人である私たちを義とするために、ご自分の義を捨てて、罪とは何の関わりもない、正しい方である御子を罪とされたのである。

何の誤りも犯していない正しい方が、罪人のために、ご自分の義を捨てて、罪となられた。それゆえ、私たちは義とされた。十字架に込められた神の深い深い愛情が、最近、ある出来事を通して、筆者に深く伝わって来た。

最近、筆者が主張しさえすれば、その主張が正しいとして、人々の違反が認定されるはずのある出来事があった。時間の経過と共に、深刻な対立が起きようとしており、そこで、筆者が主張しさえすれば、筆者を圧迫する人たちに対して、自分の正しさをアピールし、優位を勝ち得られたはずであった。ところが、筆者はそこで自らの訴えを自分で破棄し、破り捨てたのである。

それは、筆者の主張により違反に定められるかも知れない人々が、筆者を追いかけて来て、筆者をなだめ、心を変えさせたからである。筆者は、その人々が、あまりにも弱く、羊の群れのように無防備で、苦しみと蔑みでいっぱいになり、到底、打撃を加えるに忍びない人々であるのを見て、彼らに対して自分の正しさを主張しても、無意味であると考え、かえって同情心が込み上げて来て、自らの主張を破り捨てただけでなく、彼らの弱さを共に担うことに決めた。

それ以来、筆者は自分の正しさを捨てて、彼らの味方となった。それゆえ、彼らの弱さをも共に背負わされているが、それでも構わないと決めたのである。もしも彼らが罪人であるならば、筆者も一緒に罪人となり、もしも彼らが弱いなら、筆者も一緒に弱くなり、もし彼らが罰せられるなら、筆者も一緒に罰せられ、何もかもを共にして、進んで行こうと決めたのである。

しかし、それは筆者が罪に定められ、弱くなり、罰せられるためではない。むしろ、筆者の義が、彼らの中に働いて、彼らの義となり、筆者の強さが、彼らの強さとなり、筆者の潔白が、彼らの潔白となって、彼らがいかなる違反にも認定されずに、正しい生き方をするためである。

そうなるために、筆者は彼らが弱々しい赤子の状態を抜け出し、大人として立ちあがるまで、そばにいて様子を見ようと決めた。たとえ筆者にとってもどかしいほど彼らが弱く、中途半端に見えても、最後まで共にいようと決めたのである。

筆者はこれまで、人々のために、自分は無実にも関わらず、罪に定められても良いと思ったことは一度もない。むしろ、キリストにあって得られた義は、筆者をあらゆる罪定めから救ってくれるため、筆者が無実にも関わらず、罪に定められるようなことは絶対になく、不当な讒言に対しては毅然と立ち向かわねばならないと考えて来た。

むろん、カルバリで流された血潮がある限り、この先も、筆者が罪に定められることはない。筆者はそれを知っているが、それにも関わらず、この人々のためならば、かえって筆者が罪に定められ、彼らが義とされても構わないと思う人々に出会ったのである。

なぜそのような深い愛情が突然にして生まれたのかは知らない。いや、それは突然にして生まれたわけでは決してなく、最初からあったものなのだが、それが新たに強固な強い絆のようになり、人々の解放を願う心となって湧き起こって来たのである。

この人々のためならば、筆者がどんな風に思われても構わない、ただ彼らがまことの命に至り着き、本当の義とは何かを知って欲しい、そのために、彼らの弱さと恥と罪を自分のものとして共に担おうと思ったのである。

筆者は、自分の思惑次第で、人々の罪を赦すことも、赦さないでおくことも可能であると知っている。だが、赦す赦さない以前に、筆者が手に持っている訴えに記された名前を見て、彼らが罪に定められて滅びて欲しくないという願いが、抑えがたいほど強く心に湧き起こるような人々には、これまで出会ったこともなかった。

そういうわけで、筆者は自分が正しいにも関わらず、人生で初めて、正しい主張を自ら放棄し、罪人の仲間になっても構わないと思った。それは決して悪人と馴れ合い、悪事を見逃し、自分も悪事に手を染めるためではなく、むしろ、彼らが本当の義にたどり着くため、人として真にあるべき尊厳を回復するためであり、そのためにならば、筆者は自分の主張を脇に置いて、後ろに退き、彼らの生長を見守るべきと考えたのである。

そのとき、神が私たちを愛された愛が、筆者の心に押し迫って来た。

このようにして、神は弱い私たちのために、弱さを担われ、ご自分の義をとことん投げ捨てられたのである。

だが、同時に、そこまで筆者の心を変えさせた人々も、なかなかのつわものである。何かしらの相思相愛の関係のようなものが、やはり、初めに出会った時から成立していたのであろう。

この人々は、渇いた地が水を吸い込むように、筆者の中にある愛情と慰めを彼ら自身のために引き出して行った。信仰者でないのに、彼らは筆者の中に、彼らのための解放が用意されていることを知っていた。

彼らは筆者のうわべだけの様相に欺かれず、筆者の心の中にある本当の願いを掴んでおり、それを巧みに弾き出して、自分たちのために必要なものを獲得したのである。

* * *

筆者は、筆者を生かすと書いた判決を受け取り、それによって吹き込まれた命を携え、新たな場所に赴いた。そこで干潟を開拓しているのだが、干潟から命の水を存分に汲み出すためには、筆者自身の心を、何よりコントロールせねばならない。

「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)

この御言葉は、私たち信じる者自身が、生ける水を流し出す泉となることを表している。そして、その生ける水の根源となるものは、御霊であり、キリストの復活の命である。

だが、これを流し出すためには、私たちが不信感で心を曇らせてはならず、どんな困難に見舞われるときも、平安の中にとどまり、人々に命を与えることができるという強い確信を、決して手放さないようにしなければならない。

「わた子よ、わたしの言葉に耳を傾けよ。
 わたしの言うことに耳を向けよ。
 見失うことなく、心に納めて守れ。
 それらに到達する者にとって、それは命となり
 全身を健康にする。
 
 何を守るよりも、自分の心を守れ。
 そこに命の源がある。
 曲がった言葉をあなたの口から退け
 ひねくれた言葉を唇から遠ざけよ。

 目をまっすぐ前に注下。
 あなたに対しているものに
 まなざしを正しく向けよ。
 
 どう足を進めるかをよく計るなら
 あなたの道は常に確かなものとなろう。
 右にも左にも偏ってはならない。
 悪から足を避けよ。」(箴言4:20-27)

目の前には、常に心に思い描くものと相反する光景が広がっている。私たちを失意に突き落とす材料は尽きず、目的の達成が不可能だと思わせる材料は山とあり、忍耐を圧迫する出来事は果てしなく起きる。

約束の地は目の前にあるのに、そこは敵に占領されており、我々のための場所はなく、敵はあまりにも強そうで、我々を傲然と見下ろし、勝利の確信は遠のく。

だが、目の前の混乱に気を取られず、信じ続けなければならない、必ず、この地に目指している秩序を打ち立て、命と平安に至り着くことができると。そこは敵のための場所ではなく、我々のための領土なのである。

* * *

先週から今週にかけて、書面を次々に書き終えて発送した。筆者は時折、紛争に「とどめを刺す」ために、アクロバティックな行為に及ぶことがある。本来ならば、1ヶ月以上の時間をかけて準備すべきところを、一挙に書類を放出する。これは、相手方の主張が筆者に到達する前に、これを空中で相殺するための太刀打ちである。

告発を放置していれば、それは徐々に効力を及ぼし、死の力を発揮する。だから、飛んでくるミサイルは即座に迎撃しなければならない。紛争が持つ強力な罪定めの力を、瞬時に無効化するための時間が用意されたので、必要な作業を完遂した。

こういう作業をしていると、敵は人間ではないということが身に染みて分かる。人間を含め、目に見える様々な事物の背後にいて、これを動かしている悪の勢力が存在する。戦いは人間相手のものではなく、人々の背後にいる見えない悪意を打ち砕くことが目的である。その悪意とは、告発や非難の中に込められた罪定めの力、もっと言えば、罪そのものが持つ死の効力である。

人々には、サタンから発せられた罪定めの火の矢に込められた死の棘が、いくつもいくつも突き刺さり、これがじわじわと効力を発して、人格を傷つけ、肉体をむしばみ、最終的には死へと追いやっている。

筆者は、この死の棘を自分自身からも抜き取り、そして他の人々からも抜き取り、人々を死ではなく命へと向かわせるための作業をしている。飛んでくるミサイルに対しては、迎撃ミサイルを撃ち込まねばならないが、筆者の目的は、人間を攻撃して滅ぼすことにはなく、ミサイルすなわちサタンの放つ火の矢を粉砕・撃墜することで、人々をその火中から救い出すことにある。

そのために、この巨大な死の棘が、これ以上、人々を傷つけることのないよう、命によってこれを飲み込んで解毒・無害化せねばならない。それができるのは、キリストの復活の命を用いる場合のみである。

死を打ち破ったこの命に立つときのみ、私たちは、敵からのどんな攻撃からも身を守ることができる。そこで、この命を引き延ばして、防衛の盾を張り巡らして、愛する人々をその要塞にかくまう。かつては敵対していても、投降して来る人々はことごとく安全地帯に避難させる。

筆者は、敵陣に捕虜として連れて行かれた人々を奪還し、これ以上、誰も敵に渡さないために、心の中で奮闘している。なぜなら、戦いは、まずは筆者自身の心の中から始まり、そこにおいて、筆者自身が、アブラハムが人々のためにとりなしたように、自分自身と周りにいるすべての人々のためにとりなし、勝利の確信を打ち立てなければならないからだ。

心の中から不信感を追い出し、失意や無力感や敵意を追い払い、自分を含め、愛する全ての人々を、確固とした神の守りの中にかくまい、彼らを縛っている罪と死の力が打ち破られるよう主に願い出、敵に奪還された人々を取り返すための作戦を練り、心の中で、勝利の確信が訪れるまで、戦い抜かねばならない。

これまで、筆者はソドムとゴモラに飽き飽きしてそこからの脱出をひたすら願っていたが、今はどれほど嫌悪を催す光景が目の前に広がっていても、神が未だ忍耐されていることを心に覚え、今ひとたび、何とかしてこの世の腐敗から救い出されて、罪赦されて命に至り着く人々が少しでも増えるようにと願っている。

その奮闘の中で、最近、どういうわけか、敵陣から命からがら筆者の陣営に投降して来る人々の数が増えるようになった。見かけは取るに足りない、何らの価値も持たないように見える筆者のもとに駆け寄って来るのである。神の御前でとりなす作業は一人だが、孤軍奮闘する時代が明らかに終わったことを感じる。
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