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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

孤独からの解放

 
夕暮れが近づいている。家人が旅行に出かけてしまったので、私は数日間、一人で留守番だ。 
 数ヶ月前ならば、こういう時、むなしく、心細く、手持ち無沙汰に感じていたことだろう。だが、今は不思議なほどに心が落ち着いており、解放感すら覚えている。

 私は今まで孤独が苦手だった。多分、孤独に耐えることが得意な人間は一人もこの世にいないと思うが…。
 私が1歳だった時、下に双子のきょうだいが生まれた。母は出産に備えて、私を田舎に預けた。その時、理由が分からず、突然、母から引き離された乳飲み子だった私には、以後、人から置き去りにされることへの強い恐怖心が心に芽生えた。

 その後、孤独への恐怖は、随分と、私の人生をいたずらに苛んだものだ。今まで、様々な困難に立ち向かって来た。貧乏、飢え、徹夜、過重労働、将来への不安、言われない非難や、誤解…。
 どんな苦難にも自分なりに立ち向かい、根気強く取り組んできたつもりだったが、しかし、孤独にだけは、取り組む方法がなかった。

 そこで私は結論づけた。人はあらゆる苦難に打ち勝てても、孤独にだけは、勝つことができないと。孤独は人を弱らせ、判断を狂わせるだけだと。

 そもそも私が、人生を狂わせる原因となった教会に足を踏み入れることになったのも、恐ろしいまでの孤独が原因だった。あの時、もしも余暇すらも犠牲にして、不健康な形で論文執筆に取り組んだりしていなければ、私はあの教会に近づこうという心境にはならなかったかも知れない。
 その頃、不況やら、就職難やら、博士の自殺やら、忌まわしいニュースばかりが、ひたすら私の耳に入って来ては、心を不安に陥れていた。その不安から逃れるために、私は間違った教会に足を向けたのだった。

 さらに、その教会で起きた惨事を解決するために訪れた別の教会でも、私が得た結論は、私のような不器用者には、教会の中には一切、居場所がない、ということだけであった。
 これ以上、一人ぼっちでいるのには耐えられない、何とかして信仰の友が欲しいという願いを持って、教会に足を向けても、返ってきたのは拒絶の返答だけであった。

 そこで、私は同じことがこれ以上、繰り返されるのを恐れた。たとえこの先、クリスチャンの交わりの中に入れられたとしても、また再び全てを失ってしまうのではないかという恐怖心を長い間、捨て切れなかった。
 
 先の記事に書いたように、教界によって傷つけられたある方に私が過度な支援を差し伸べたのも、恐らく、孤独に対する私の恐れが原因であっただろう。
 その方が悪かったのではない。その方との交わりを失って、孤独になることを私が恐れていたのだ。正直に言えば、傷つけられた被害者としての心情を率直に分かち合える人は、長い間、私にはその人の他にいなかったからだ。

 だが、私はこの不自然な関係をやめることにした。その方への期待や友情は今も変わらない。だが、その示し方を変えなければならないことに気づいた。一つの交わりを失うことから来る寂しさも、心にあったが、それはもはや重要なことではなかった。
 
 最近、人は孤独にだけは立ち向かう術がないという、これまでの私の人生訓が崩れつつある。身近に理解者がいなくとも、優しい言葉をかけてくれる人がいなくとも、私の苦しみに誰かが寄り添ってくれなくとも、憐れみの言葉をくれなくとも、そういう事柄によって、心がかき乱されることが極端に減って来たのだ。

 主の御約束は変わらない。主の私への愛は絶対に変わらない。どんな状況にあっても、人のいかなる態度にも、いかなる状況にも関係なく、また私自身の過失にも関係なく、私は完全なる神の完全なる御約束に信頼して良いのだということを、自然と、学ばされているような気がする。

 以下は、去年の8月19日、夢破れ、教会から傷つけられ、教会から見離され、職も、住まいも失って、無一文となり、受け入れ先もないまま、一人で大阪を去る直前に、私が書いた日記だ。(もちろん、ブログを書き始める前のことである。)

「主よ、もしあなたが私に人間らしく生きる道を与えて下さったなら、私はあがないだされた罪人として生きることを約束します。条件づけのない、一方的なあなたの恵みを、一方的に人々のもとへ届ける管となることをお約束します。ただあなたを賛美するために、あなたの御名のために残りの生涯を生きます。

 主よ、私の人生は八方塞がりとなり、生きる術がもうなくなりました。私の力で私の人生を支えることはもうできません。こんなになってからでは、もう遅すぎるかもしれません。でも私の生涯をあなたに委ねます。私が自分で成し遂げるべき仕事はもう終わりました。
 私は必要とされていません。私の存在を喜んでくれる人がこの世にはもうありません。助け手もありません。帰るべきところもありません。世は私を拒み続けました。

 主よ、あなたの無条件の憐れみを私に見せて下さい。私はもうどうやって生きれば良いか分かりません。どこに住まいを定めるべきか、どこで仕事に就くべきか、持ち物をどうすべきかすら分かりません。人生は重くて、とても重くて、背負いきれません。主よ、あなたのくびきはどこにありますか? どうすれば休ませてもらえるのですか? どこで生命の水がもらえるのですか? 天からのマナと、火と雲の柱はどこにあるのですか? どこにあなたの導きがあるのですか?

 主よ、私を荒野に導かれたのはあなたなのですか? あなたはどこにおられるのですか? 被造物に過ぎない私がどうやって自分の人生を操れるでしょう。
 主よ、あなたはどこにいますか? 答えて下さい、私はあなたを探しています。あなたの声が聞こえれば、私は従って行きます。牧者であるあなたの声を羊は待っているのです。道はどこにあるのですか? 泉はどこにあるのですか? 牧草はどこにあるのですか? どこに行けば、麗しいあなたの御姿と、御足を見ることができるのでしょう?

 この世はもういやです。このあわれみのない砂漠のような世の中ではもう生きていく力がありません。私の罪を叫びシュプレヒコールが鳴り止みません。私を殺すための十字架がそこにあります。私は自分の罪状から逃げることはできません。
 主よ、この絶体絶命の窮地から私を救えるのはあなた一人です。私の罪状が無効であることを証明できるのはあなただけです。」

 今から振り返っても、やりきれないほど、悲壮感溢れる文章である。私は神に向かって命乞いをし、もしも助けてもらえるなら、残りの人生を捧げると交換条件までつけているのだ。だが、その時、私は死に物狂いであった。神と取引しようなどという狡猾さなど持ちようがないほどに、絶望的な状態に追い詰められていた。

 その後、嵐のような紆余曲折を経て、「あなたはどこにおられるのですか?」と、私が問うた神は、実は、私の中にお住まいになっておられるという理解にようやく達した。そして完全なる主が、不完全な私の内にすでにおられるという事実をかみ締めた時、「私は主の一方的な恵みを一方的に人々に届ける管となります」とか、「残りの生涯をささげます」とか、力をこめて叫ばなくとも、すでに私は神の栄光を表わすための宮とされているという事実に安らぐことができるようになった。

 もちろん、そうなるまでに、私を助けてくれて、私に真理を指し示し、私を導いてくれた方々が幾人も存在したことは確かである。真実な福音がどこかにないかと、ネット上を目を皿のようにして、探し回っていたこともあった。そしてやっとある人々のブログの中に真実を見出したことも確かである。
 そして、その後、実際に出会うことのできたクリスチャンの愛や助けがなければ、私には今日という日は来なかったかも知れない。今、生きていたかどうかも分からないし、生きていたとしても、多分、私一人では、いまだに絶望の淵をさまよっていたことだろう。

 だから、ただ愛ゆえに、私の苦境に手を差し伸べてくれた人たちに、どんなに感謝してもし足りないことは確かである。

 だが、同時に、私は助けてくれる人に依存することなく、むしろ今、助け手という杖をふりはらって、初めて、自分の足で立ったのを感じる。今までは、人からの励ましがあるから、私は喜んで生きていくことができた。同情や、励ましや、支援が、生きる支えとなり、苦難を乗り越えるエネルギーとなった。

 だが、今は、人の助けによらず、主が生きておられるからこそ、私は全ての必要が満たされ、豊かに生きていけるのだという確信にたどり着くことができた。これから先、たとえ身近に一人の理解者も、支援者もいなくなることがあったとしても、そのことを恐れる必要はもうない、私が生きているのは、ひとえに主の恵みであり、主の力なのである。

 こうして、次の御言葉は私の上に成就した、「『だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう』。
 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである」(ヨハネ7:37-39)。

 あの恐ろしい日々、砂漠でオアシスを求めるように、私は生ける水を求めて、教会という井戸を探し回った。だが、私が辿り着いた井戸はことごとく枯れていた。そこには、乏しい一滴ほどの水を求めて、大勢の人が殺到し、私がどんなに望んでも、水を得ることはできなかった。そして私はへとへとになって、もうこれ以上、生きていられないと、神に向かって叫んだ。しかし、生ける水の源はすでに自分の中にあったのだ。その確信にしっかり立つことを学べば学ぶほど、私の渇きは癒されてゆき、孤独はもはや恐れるべき敵ではなくなった。

 人がいるから孤独を防ぐことができるのではない。主が内におられるから、人はもはや孤独ではないのだ。

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