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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶ。

* * *

 さて、これまで、プロテスタントはもはや霊的に終焉しており、聖書への正しい信仰を保つためには、ここからエクソダスするしかないという結論を繰り返し書いて来た。

 ここから先は、プロテスタントを脱出することが、資本主義から脱出することと本質的には同じ意味を持つこと、今や私たちはこれらの両方からエクソダスして、真に万民祭司の原則に基づき、新しい生き方をすることが求められている、というテーマについて書きたい。

 一つ前の記事で、カルト被害者救済活動は、プロテスタントの牧師制度の悪から出て来た猛毒の副産物であると書いた。

 プロテスタントは、その発生の当初は、カトリックの宗教腐敗を正し、カトリックの聖職者が独占していた聖書をラテン語から各国語に翻訳して全世界に普及させるなどして、聖書を一般に解放・普及するために、大きな役割を担った。

 さらに、プロテスタントは、聖書をただ一般の人々に解放しただけではなく、一般の信者が、聖書の御言葉を自ら知的・霊的に理解し、御言葉の証しを、自分自身の言葉で述べるという、初代教会には当たり前であった信仰を目覚ましく回復したのである。

 カトリックのミサは、儀式的な色合いが強く、司祭が聖書の内容を自分で咀嚼・吟味して、その解釈を信徒に説教として向かって語ることはない。

 しかし、プロテスタントの礼拝においては、人間に過ぎない者である牧師が、聖書の内容を自分自身で吟味・理解して、これを自分自身の言葉を通して、信徒に向かって証として語るという説教のスタイルが取られ、これは人間による聖書の知的理解という意味で、画期的な役割を担ったのである。
 
 プロテスタントにおいては、聖書の御言葉は、ただありがたいお経のように受け身に受容すべきものとしてはとらえられず、むしろ、信者らに積極的で深い知的な理解を要求するものとみなされた。牧師は信者の代表格として、「御言葉を取り継ぐ」奉仕に専念し、信者たちも、勉強会を開いたりすることによって、聖書研究を行おうと熱心に励んだ。
 
 20世紀頃になって、プロテスタントの中では、最も最新かつ先駆的な運動として、ペンテコステ・カリスマ派と呼ばれる、御霊の働きを回復しようとする各種の運動が登場して来た。

 もちろん、こうした運動は、それ以前から存在していたのだが、大規模な大衆運動として拡大し、各種の教団教派を生んだのは、20世紀になってからのことである。

 この運動は、聖書の御言葉を、ただ知的な文脈で、死んだ文字としてとらえるのではなく、聖霊の働きによって、そこに生きた霊的衝撃力を伴わせることで、信者たちの聖書研究に新たな息吹を吹き込んだ。それは現代の信者の生活においても、主イエスが地上におられた当時に行われた奇跡のように、人間の常識的な理解を超えた、ダイナミックな働きを取り戻すことを目指すものだったからである。
  
 だが、「霊」を識別することなく、霊的なムーブメントを無分別に受け入れたために、ペンテコステ・カリスマ運動は著しい誤謬の中に落ち込んで行き、多くの混乱を生むこととなる。

 そこで、今日、求められている新たな信仰回復運動も、聖霊の働きと切り離せないものであるとはいえ、偽物の聖霊運動を排除して、真の御霊の働きがどこにあるのかを見分けることは、死活的重要性を帯びた課題であると言えよう。

 さらに、プロテスタントには、もう一つの決定的と言える弱点があった。それは、この宗派においても、カトリックほどに厳格な聖職者階級というものはなかったにせよ、まだ、聖書は完全に一般に解放されたとは言えず、依然として、牧師だけが「御言葉を取り継ぐ者」であって、信徒は、牧師の説教を受け身に聞いて、牧師に教えを乞い、教会に献金を納め、牧師一家を支える奉仕者として、牧師よりも実質的に下の階級(被抑圧階級)に置かれ、聖書の御言葉の積極的な理解から排除されていたことである。

 プロテスタントにおける牧師階級は、前述した通り、その発生当初は、人間が自ら聖書の御言葉を解釈して、大胆に証を述べるという意味で、画期的な役割を担い、また、大衆伝道を通して御言葉を全世界に宣べ伝える点で、大きな貢献を果たしたと言えるかも知れないが、その後、福音が全世界に普及し、宣教師たちが命がけで未開・未踏の地に福音を届けるというミッションがほぼ終了して消え去った後では、ただ信徒を搾取し、信徒を聖書の理解から排除し、いつまでも信徒を霊的赤子状態にとどめるという点で、信仰の前進の著しい妨げとなったのである。

 牧師だけが聖書を知的・霊的に理解・咀嚼して、信徒に説教を語り、信徒は牧師から「霊的な乳」を飲ませてもらわなければ、信仰に生きることができない「赤子」にとどめられるというプロテスタントの礼拝スタイルは、今やそのものが、キリスト教の前進の著しい妨げとなって、排除を迫られているというのが現状である。

 いわば、プロテスタントからの新たな宗教改革が必要とされているのが、現代という時代なのである。その改革の核心として、牧師階級から聖書をさらに一般に向けて解放することが、早急な課題として求められていると言えよう。

 さて、こうして、牧師階級の弊害というものが、一般に認知されるようになった大きなきっかけは、昨今、一部の教会で、牧師による信徒へのあまりにもひどい搾取や差別や虐待が行われているために、それを是正するという名目で、カルト被害者救済活動が登場して来たことによる。

 だが、この運動は、決して聖書に基づくものではなく、従って、教会に真実な信仰の回復をもたらすこともなかった。

 このことは、すでに述べた通り、ブラック企業とそれに対抗する団体との抗争を思い浮かべれば、非常に分かりやすい。

 資本主義が行き詰まりを迎えるに連れて、労働者は著しく劣悪で非近代的な労働環境に置かれるようになり、我が国でも、1995年以来続く不況の中で、追い出し部屋、賃金未払い、過重労働、過労死、リストラ、非正規雇用など、様々な悪しきトピックが取りざたされるようになり、ブラック企業という言葉も、一般に認知されて定着した。

 ブラック企業の登場と共に、ブラック企業との闘いを公然と唱える団体も、行政及び民間の中から登場して来たが、よく見てみれば分かることであるが、こうした団体が究極の目的としていることは、ブラック企業との闘いのために立ち上がった人々を支援するという名目で、これらの人々を新たに自分たちの利益の源とすることにある。

 つまり、ブラック企業との闘争を売り物にする各種団体は、弁護士ほどではないが、かなりの割合で、成功報酬をかすめ取ることを定めており、行政もまた、表向きには、ブラック企業撲滅を掲げてはいても、その本質は、ブラック企業が真になくなってしまうと、存続できないというものなのである。

 このように、ブラック企業も、ブラック企業の根絶を掲げる各種団体も、共に虐げられた弱い人々に群がり、そこにたかって、利益を食い漁る利権団体であるという点で、本質的には変わらないのであって、ただブラック企業根絶を掲げる各種の団体は、ブラック企業ほど悪質かつ強引な搾取を行わないだけである。

 それ以外の点では、これらは、双方で利益を補い合って存続している車の両輪のようなものであって、もしかすると、ブラック企業根絶を掲げる団体は、正義の旗を掲げているだけ、ブラック企業以上に悪質である可能性も否めない。

 話を戻せば、カルト被害者救済活動も、プロテスタントの牧師階級による金銭的・霊的搾取に対抗することを目的に掲げて始まったものの、結局は、牧師階級によって食い物にされた信徒を、さらに食い物にして栄光と利益を吸い上げ、かすめ取る点で、カルト牧師と同質か、より以上に悪いものであり、プロテスタントを浄化する作用を全く持たなかったどころか、かえって牧師階級の持つ致命的な毒素をそっくり温存したまま、さらにこれをより強固なものとして信徒を支配する契機となったのである。

 今や日本のプロテスタントは、牧師制度の腐敗を是正するという正義の旗を掲げて登場して来たカルト被害者救済活動によって、完全に恫喝され、沈黙に追いやられるという恐るべき状態に陥っている。

 そのようなわけで、不況下のサラリーマンがいつまでもブラック企業と労基署との間を行き来していても仕方がないように、プロテスタントの信者も、カルト化した教会とカルト被害者救済活動の間での愚かしい堂々巡りに終止符を打って、今やプロテスタントという水槽そのものから、脱出せねばならない時に来ていると言えるのである。

 「エクソダス」の原則は極めて単純であって、これ以上、人間の指導者や、組織や団体に属さず、万民祭司の原則に従い、キリストご自身に直接、属して信仰生活を送ることである。

 信者が、霊的・金銭的に搾取される立場から抜け出るためには、自分を搾取する存在から離れなければならないのは当然である。牧師制度を敷く教会の中にい続ける限り、決して搾取の構図からは抜け出られないのは明々白々の事実である。牧師のみならず、すべての聖職者制度から離れるべきである。

 さて、以上の経緯を踏まえた上で、プロテスタントからの脱出と、資本主義からの脱出は、根底では一つの事項であるという話に戻りたい。

 マックス・ウェーバーは、著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において、プロテスタントのキリスト教国において、資本主義が目覚ましく発達したのには、宗教が大きく関係しており、プロテスタントの信者は、「自分が本当に神に救われているかどうか分からない」という不安を払拭するために、神の召し(天職)としての自分の職業に邁進し、それによって、資本主義の発達が促されたのだとしている。

(ウェーバーの著書を知らない人のためには、あまりにも要約しすぎであるとはいえ、「5分でわかるウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(プロ倫)」要約」を紹介しておく。)

 福音書では、主イエスは、弟子たちに、御言葉を実践して生きるように教え、信者たちには、それによって、神の国の収穫を増し加えるというミッションが与えられていることを、次の御言葉を通して語られた。
 
 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。

 早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、②タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントンを預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。

 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントンを預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンをお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。」

 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』

 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』

 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所から書かき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりをするだろう。』」(マタイ26:14-30)

 以上の御言葉は、神の国の権益拡大の原則を示したものであって、キリスト教徒が、この地上における生涯を、神の国に利益をもたらすために、有効に用いなければならないことを示している。それが商売にたとえられ、有益なもうけを出した者が、神からの褒賞にあずかるというのである。
 
 とはいえ、神の国の権益拡大といっても、プロテスタントの一般の信者たちには、牧師と違って、それぞれに世俗の職業がある。それゆえ、彼らは、毎日、聖書の御言葉だけに没頭して暮らすわけにはいかない。

 そこで、プロテスタントの信者たちは、自分の生活において、御言葉を実践して、より多くのタラントをもうけ、まことの主人である神に誉めていただくとは、一体、どのようなことを具体的に指すのかを考えた。

 その結果、信者たちは、神の国の権益を拡大するために、日曜礼拝に出ている以外の週日は、自分の「天職」としての職業に励み、自分の資産を拡大し、その結果として、利益の十分の一を教会に献金として捧げることが、神の国の権益拡大に当たると考えて、それゆえ、自分の職業に熱心となったのである。

 ウェーバーの説を極端に要約するならば、そういうことの結果として、資本主義が発達した、という結論と至るだろう。

 さらに、これと同じ理屈を用いて、さらに前進するならば、資本主義が行き詰まりに達したのも、プロテスタントの倫理そのものが行き詰まりに達したからだ、という結論が自然と導き出される。

 なぜなら、組織としてのプロテスタントは、その霊的な息吹を失った時点で、形骸化して、自己目的化してしまい、プロテスタントにおける十分の一献金には、かつてカトリックが免罪符を売ったのと全くよく似た腐敗が隠されていたからである。

 すなわち、プロテスタントの信者たちがどんなに日々、労働に励み、自分の資産を賢く拡大し、その利益の十分の一を教会に納めても、その献金が、プロテスタントの聖職者制度という、信徒の上に君臨する独占的・特権階級をより富ませ、彼らの独占状態をより強固にするという悪しき目的のために利用されるならば、それは真に神の国の権益拡大にはつながらない。

 いわば、ブラック企業の従業員が、自分が搾取されていることも知らずに、どんなに身を粉にして会社のために働いても、その真面目な労働が、すべてブラック企業の社長の利益として吸い上げられ、その企業がますます悪くなるだけに終わるのでは意味がないのと同じである。

 このような行き詰まりを打開するためには、ブラック企業の従業員は、ただ身を粉にして働くだけではいけないのであって、自分の労働が真に正しい成果を生むように、ブラック企業を退職して、自分のためになる事業を起こすなどするしかない。

 だが、そこに一つの困難がある。その従業員は、ブラック企業を辞めても、これまで、社長の定める指揮命令系統に忠実に従って労働を受け身に提供するだけの雇われ社員であったので、自分の事業を起こすためのアイディアやノウハウの蓄積がないということである。

 この状態は、プロテスタントの信者たちの霊的「赤子状態」に非常によく似ている。十分の一を教会に納める代わりに、聖書を知的・霊的に理解する仕事を、牧師という存在に任せっきりにし、自分たちは、月曜日から金曜日まで、望むがままに世俗の生活を自由に送り、牧師から「霊的な乳」を飲ませてもらうことで、かろうじて信仰を保っていたに過ぎない弱々しい信者には、いざ牧師を離れて、自分自身の力で信仰生活を送る力が、ほとんど養われていないのである。

 とはいえ、どんなに信者たちが霊的に幼く弱くとも、プロテスタントが行き詰まりを迎え、牧師階級そのものがこの宗派の重荷となっている以上、牧師制度の下に身を置いている限り、信徒らも、ますます貧しく、弱くなって行くしかないのであって、そうこうしているうちに、ついに信者には牧師たちを経済的に支える力もなくなり、教会は完全に押しつぶされてしまう。

 その悪循環を抜け出すための選択肢はただ一つしかなく、信徒が牧師の霊的赤子状態から自立して、聖書の御言葉を自分自身で咀嚼・理解・実践することのできる霊的「おとな」になって、御言葉により、何者にも奪われることなく、永遠に残る収穫を生み出す存在となることである。

 このようにして、霊的「おとな」になることには、信者の生活をすべてにおいて富ませるのであって、経済的な富も、当然ながらそこに付随して着いて来る。

 もしも資本主義の発達が、ウェーバーの言うように、プロテスタントの倫理によって促されたものであるならば、新たなる経済発展の鍵も、聖書の御言葉の中にこそ存在することを、信者らは特に否定しないことであろう。

 歴史を振り返るならば、経済の発達は、霊的優位性と密接な関係があり、いわば、聖書の御言葉をよく理解し、これを実生活に応用する秘訣を知っている者が、この世においても、真の意味で支配者となり、不足のない豊かな生活を送ることができたという原則があることが分かるはずである。

 すなわち、世界史を大きく動かしているのは、戦争でもなければ、国際金融機関の動きでもなく、宗教であって、その中でも、キリスト教の最も先駆的で、革新的な信仰回復運動こそが、時の経済の発達と密接な関係を帯びていることが分かるであろう。

 現代キリスト教においては、プロテスタントが最も先駆的な信仰回復運動であり、資本主義はその倫理を土台として成り立ったと言って良いが、プロテスタントは、キリスト教の教会史の発展の一時的な形態に過ぎず、プロテスタントの次に来る信仰回復運動というものが、必ず存在するはずである。

 だが、なぜ宗教すなわちキリスト教が、経済の発達を促す原動力になり得たのか。

 カトリックの聖職者制度およびプロテスタントの牧師階級に注目するならば、そこには、救いの確信を心の内に得ている者が、救いの確信を持たない者よりも霊的に優位に立って、彼らの労働の成果を搾取して支配する根拠を得て来た、という構図があることが分かるであろう。

 ここには、非常におぼろげかつ不正確な形であるとはいえ、「罪人の富は正しい者のために蓄えられる」という聖書の原則が、影のように反映している。

 カトリックの聖職者や、プロテスントの牧師たちが、多くの信徒に君臨して彼らを搾取の材料とし、支配することのできた理由は、自分たちがあたかも人間の罪を指摘し、これを赦す権限を持ち、何が正しい生き方であって、何が誤った生き方であるかを人に教え、彼らを導くことのできる者であるかのように振る舞うことで――言い換えるならば、聖書の知識を独占し、自分たちこそ神かその代理人であるかのように振る舞うことで――罪赦されて義とされたいという人々の心の不安を巧みに利用して、彼らよりも優位に立ち、信者らに対して指導的権限を握ることができたからである。

 プロテスタントの信者は、「自分が本当に救われているかどうか分からない」という不安を埋め合わせ、慰めてもらう代価として、目に見える教会と、目に見える指導者の教えのもとにつなぎとめられ、週日の労働の成果を、十一献金という形で教会に納めたのである。

 今日でも、自分が確かに救われて、罪赦されているという、信仰による平安を持たない信者たちは、手っ取り早く、目に見える形で、自らの不安を解消しようと、目に見える教会に籍を置き、見えない命の書ではなく、目に見える会員名簿に自分の名前を記載してもらい、見えないキリストではなく、目に見える牧師に教えを乞い、その”ありがたい”説教を聞くことで、まるでお祓いでも受けるように、自分の罪が清められたかのように思い込み、教会に献金を納めることで、神に仕えているのだという安心感を持ち、目に見える自分の名札(教会籍)と、目に見える兄弟姉妹を見て、自分は神の国に連なって救われているのだと、心慰め、安心しようとする。

 しかし、それは手に取ればすぐに消えてしまうあぶくのような、不確かな保証に過ぎず、信者たちの心の中の永遠に取り去ることのできない確信ではないから、信者たちは、まるで鎮痛剤でも打ってもらうように、その効果が消える頃に、またも同じ痛み止めを打ってもらうことを求めて牧師たちのもとを訪れるしかない。牧師たちは、このような信徒たちの拭い去れない不安を定期的に慰めてやる代価として、彼らの献金によって支えられ、信徒らの上に君臨しているのである。

 筆者は、牧師たちが、救いの確信を本当に得ているとは言わない。ほとんどの場合、彼らは、ただ自分たちが他の信徒に優って、聖書の御言葉をよく知っており、あたかも揺るぎない救いの確信を持っているかのように振る舞う秘訣をよく心得ているだけであり、なおかつ、他の信徒たちの不安を見抜き、これを自分に都合よく利用して、利得の手段と変える心理的トリックを豊富に持っているだけである。

 多くの牧師たちは、筆者から見て、外面的行動だけを取っても、本当に救われているかどうかさえ、全く分からないような人々である。

 しかし、いずれにしても、彼らは自分たちがまるで魂の医者よろしく、揺るぎない救いの確信に立っているかのように振る舞う術を心得ている点で、一般信徒以上にしたたかなのであって、自分の心の内側に、救いの確信を持たない信者は、心の不安を巧みに利用されて、こうした自分の救いを保証してくれそうな指導者(もしくは団体)にいつまでもすがりつき、彼らに年貢を納め、心の不安を解消してもらうことで、平安を得るという生き方をやめることができない。

 こうした信者たちは、自分で自分の貧しい心の状態に気づかない限り、その霊的弱さのゆえに、自分たちの汗水流して真面目に働いた労働の成果を、いつまでも詐欺師のような人々に吸い取られ続ける運命にある。

 このような弱く貧しい信者が、経済的にも、魂的にも、自由になるためには、彼らが一刻も早く、目に見える人間の指導者から自立して、その助けなしに、キリストに直接、連なり、御霊によって直接、御言葉の意味を教わり、誰にも保証してもらう必要のない救いの確信をはっきりと心に得て、御言葉を自分の人生に実際に適用して生き、その成果を勝ち取る秘訣を自分で学ぶしかない。

 すなわち、霊的な優劣を作り出す差別的な宗教制度を離れ、霊的中間搾取者階級を自分の上に置かず、組織や目に見える人や事物に依存せず、あらゆる虐げから遠ざかり、自分の救いの確かさが自分で分からないほどまでに惨めな霊的赤子状態から抜け出すしかないのである。

 霊的な乳を、牧師から飲ませてもらうことをやめて、キリストご自身から、御霊によって、すべてを教わる方法を知り、それによって生長して、霊的に「おとな」になって、すべての物事について自立した大人の考えを持つこと、そうして生長することだけが、「赤子」と「大人」との霊的優劣を撤廃するただ一つの方法である。
 
 かくてプロテスタントは霊的に役目を終えて終焉しつつあり、プロテスタントに次ぐ新たな信仰回復運動の登場が待たれているのであるが、資本主義の行き詰まりを打開する鍵も、その新たな信仰回復運動にあるものと筆者はみなしている。
 
 その新たな信仰回復運動とは、万民祭司の原則に基づき、信者がいつまでも自分を赤子にとどめるゆりかごなる「囲いの呪縛」(目に見える組織や団体による束縛)から抜け出て、キリストご自身から来る、誰にも奪われない救いの確信を心に得て、その命の自由の中を生きることである。

 自分が救われているかどうか分からないという心の不安を埋めるために、自分で自分を贖おうと、ひたすら労働に励み、かつ、その成果を、いつまでも目に見える指導者や、組織に貢いでは、その対価として慰めを受けるのをやめることである。
 
 資本主義における労働は、救いの確信を持てないプロテスタントの信者が、自分で目に見える救いを確保しようと、自分で自分を贖う悲痛なまでの努力が、体系化して生まれたものであると言えるかも知れない。

 そのような意味で、今日には宗教的要素が抜け落ちて形骸化しているにせよ、資本主義における労働には、初めから、人類による人類の自己救済という、聖書の御言葉とは相反する願望が込められていたのであって、それゆえ、その労働は実を結ばずに終わることが運命づけられているのかも知れない。

 それでも、プロテスタントが全世界に福音を届ける使命をまだ積極的に担っていたうちは、資本主義も、その対の車輪として勢いよく回り続けたかも知れないが、今は両方のタイヤにヒビが入り、取り換えが必要な時期が来ている。

 私たちキリスト者は、信じる者として、一人一人が神の祭司であり、御言葉の奉仕者であるが、自分たちの働きが、誰からも不当にかすめ取られることなく、真に実を結ぶものとなるように、今一度、自分が誰に奉仕しているのか、どこに向かって種を蒔き、どうやって収穫を勝ち取るのか、私たちの本当の主人は誰なのか、といった問題について、考えるべきであろう。

 以下のよく知られている聖書箇所も、御言葉には、信じてこれを行う者に、天においても地においても、豊かな実りと栄光をもたらす力があることをはっきりと示している。なぜなら、御言葉は、復活されたキリストであって、私たち一人一人をすべての問題から救い、満たすことのできるのまことの命だからである。

 聖書の御言葉は、信じてこれを行う者に、どんなに少ない場合でも、三十倍の収穫をもたらすことができるのであり、その収穫とは、天的な利益だけでなく、この世のすべての必要性が満たされることをも含んでいる。

 だが、信者が実際にその収穫を獲得し、これを存分に享受し、キリストの満ち満ちた命の豊かさの中を生きるためには、盗人だけでなく、中間搾取を行う者どもをも、自分たちの生活から徹底的に排除しなければならない。

 御言葉を実践しているのに、収穫がもたらされない信者には、常に邪魔しているものが存在するのであって、自分のための泉の水を、道端にまき散らし、自分のための栄冠を常に他人に奪われているような生き方では、残るものがないのは当然である。

 従って、自分一人では十分に物事を考えられないとか、一人では救いの確信が持てないとか、一人では自己価値を感じられず不安だなどといった理由で、常に自分以外の目に見えるものにすがりつき、それによって自己価値を保証してもらおうと頼っている限り、その信者に蒔かれた種は、発芽しても、その実はすぐに奪い取られ、手元には何も残らないことを知るべきである。

 組織や、事物や、指導者に依存して、目に見えるものによって自己価値を保証してもらうことをやめ、霊的な中間搾取者から離れなさい。そうすれば、信者は、見えない神に直接、仕えることができるようになり、その働きが、誰にもかすめ取られず、信者自身の人生に利益として還元され、いつまでも残る実りになるでしょう。

「よく聞きなさい。種を蒔く人が種まきに出て行った。

 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。

 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ目を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。

 他の種はいばらの中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。

 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。


「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。

 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。

 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐに喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。

 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるのである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。

 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。
」(マルコ4:1-8, 14-20)

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