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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

聖霊運動についての補足

 ところで、次の話題に移る前に、私がここで第三の波、ペンテコステ・カリスマ運動をひっくるめて非キリスト教であるとみなしていることが、物議をかもすかもしれないので、それについてお断りを入れておきたい。

 記事を読んで、私を次のように非難する人がいるかもしれない、「あなたは自分も聖霊派で信仰を持ったのに、聖霊派の信仰を一概に否定するつもりなのか」と。けれども、私はそんな主張を展開したいのではない。私は確かに聖霊派の枠組みの中で信仰を持ち、バプテスマを受け、彼らの言う聖霊体験にもあずかった。しかし、それが聖霊派の教会の中で起こった出来事であったからと言って、すべて間違っており、無効であったとは考えないし、聖霊派の牧師から洗礼を受けたために、その洗礼は無効であり、受けなおすべきだとも思わない。

 私がここで取り上げているのは、個々の信者の信仰の真偽ではなく、あくまで聖霊運動が打ち出す一般的教説とプログラムの問題性なのである。聖霊派の中にも真の信仰を持った信者は当然、いるであろう。そのことまで否定するつもりは私にはない。個人がイエス・キリストを信じ、御言葉に従って歩んでいくならば、たとえ彼を取り巻く環境がどうあろうとも、その信者の決断は神の御心にかなったものとして祝福されたものとなるだろう。
 どのような教団教派の中であろうと、あるいは教会の枠組みの外であろうと、主は一人ひとりの信仰に応じて働いて下さる。神にとっては教団教派の枠組みなど全く問題ではない。だから、ペンテコステ・カリスマ運動が仮にこの先、どれほど過激化し、どれほど深刻なカルト化現象を引き起こしたとしても、それはその運動の将来が絶望的であるというだけの話で、個々の信者の中には、立派な信仰を持つ人々も当然存在するであろうし、またこの先、現れるだろう。

 繰り返すが、私は聖書に記された聖霊降臨の出来事が今日も起きうるものであること、聖霊の賜物が存在すること、異言、預言が存在し、御言葉による超自然的な癒しや奇跡などが今日も起きうるものであることを否定するつもりはない。そのような超自然的現象が起きているところがすべて非キリスト教だと決め付けるつもりもないし、聖霊のバプテスマを信じているから、あるいは、「ペンテコステ的現象」が観察されたから、一概に拒絶し、異端だと決め付けることは、それもやはり現象に頼った浅はかな見方であると思う。

 問題なのは、聖霊運動推進者たちが、ただ聖霊のバプテスマを、回心とは別個の体験としてとらえて、十字架にさらに何かを付け加えた段階的な祝福を唱えていることだけではない。問題は、彼らが超自然的な現象や、超自然的な体験を、個々の一過性の祝福や恵みとしてとらえるのではなく、それを一つの類型と考えて、万人にあてはまり、かつ、いつでもどこででも繰り返しうるプログラムとみなして唱道し、集会等において、おびただしい回数、実践していることなのである。そうなると、そのプログラムは私たちを解放するのではなく、むしろ、拘束するものへと変わる。

 カルト被害者救済活動についても同じことが言えるのだが、たとえば、私たちのうちの誰かが、ある日、家に空き巣に入られたとしよう。被害はかなり深刻であった。当然、それ以後、私たちは家のセキュリティを強化する。けれども、一回、空き巣に入られたからと言って、私たちは残る全生涯を空き巣撲滅運動に捧げ、全国各地の空き巣被害のニュースを聞く度に、現地へ飛んで被害者の救済につとめたりするだろうか。そんな人がいたとすれば、その心理は何かしら不自然だと誰でも感じるだろう。
 同様に、一度、カルト被害に遭ったからと言って、残る全生涯をカルト撲滅運動に捧げるという発想にも、同じ異常性(強迫反復的なとらわれ)が見て取れるのである。

 イエスが(旧約時代の預言者が)死人を復活させた、という聖書の記述を私は否定しない。また、今日(からし種一粒ほどの信仰があればの話だが)、キリスト者には、パウロがまむしを腕から払い落としたように、毒物の害を受けず、病人を癒し、あるいは死人をも甦らせる力さえ与えられているだろうことも信じる。それは次の聖句の通りである、「信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」(マルコ116:17-18)。
 しかし、私たちは、イエスが死人を復活させ、病人を癒し、その力が今日のキリスト者にも与えられているという記述を文字通り信じていることをただ証明したい、というだけの理由で、毎日、自分も病人を癒し、死人を復活させるべく、病室や霊安室を巡り歩いたりすべきであろうか? イエスが悪霊を追い出された記述が聖書にあるからといって、毎日、自分も悪霊の潜んでいそうな家の片隅やその他の場所に向かって悪霊追い出しの祈りをしたりすべきであろうか?

 私たちは、繰り返せない時空間の中に生きていることを自覚し、今、何が主の御心であるかに耳を澄ますべきであるし、また、今しか味わうことを許されていない恵みを存分に受け取り、楽しんでよいのである。神が起こして下さる奇跡は、本来、繰り返せない一過性の出来事であり、私たちの人生に与えられる固有の恵みであるはずである。しかし、そのような奇跡を常習化して、手っ取り早く、いつでも、どこででも、引き起こそうとするプログラムがあれば、私たちはそれを警戒すべきである。
 人間側のニーズに応じて、イエスの御名を用いて、繰り返し奇跡を引き起こそうとすることは、主の御名をみだりに唱えることを意味し、また、神を試す行為である。そのように、みだりに主の御名を濫用する、パターン化された各種の超自然的体験のプログラム(神癒、預言、奇跡、いやし、各種の超自然現象)を推進しているのが聖霊運動であるのだが、そのようなプログラムにはまってしまうと、私たちは人生の貴重な時間をパターンの繰り返しという退屈な作業に浪費していくことになる。

 ペンテコステ・カリスマ運動、第三の波運動が華々しく打ち出している神癒、預言、悪霊追放の超自然的プログラムを実行している信奉者たちは、それらの事柄が繰り返せない時空間内で一過性のものとして与えられる恵みであることをほとんど考慮していない。この運動に関する書物を読めば、そういう超自然的な出来事は、まるで特定の時間・場所で起こった一度限りの物語のように描写されているが、ところが、実際にそれが現場で推進される際には、運動の推進者・信奉者たちは、まるでテレビゲームの戦闘を繰り返すようにして、神癒、預言、悪霊追放などを日常的に実行し続けているのである。
 たとえば、信者達が集団で、何時間もぶっ通しで患者を拘束して悪霊追い出しの祈祷を続けた挙句、患者が亡くなった。神癒を信じるがゆえに、医学的治療を拒否した患者が、症状が悪化し、後遺症が残った。そのような例は、すべて、奇跡をパターン化して実行しようとするプログラムの中で起こったことである。そこにはもはや奇跡はなく、ただ、奇跡を麻薬のように求め続ける人たちの果てしない欲求、一種の禁断症状のようなものがあるだけである。神から恵みを与えられたという喜びがあるのではなく、奇跡を求めねばならないという強迫観念があるだけである。

 超自然的な体験がプログラム化されると、それは人間を解放するという表向きのスローガンとは裏腹に、人間を拘束するものとなり、それを繰り返し実行せねばならないという恐怖の中に人を陥れていくのである。そういう意味で、私は聖書に記されている奇跡そのものを否定するわけではないが、プログラム化された奇跡や、悪霊追放や、預言などは、愛ではなく、恐れから出て来たものであり、イエスの御名をみだりに唱えている点でも、キリスト教ではありえないと断言して構わないと思っている。

 

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 ひまわりがきれいに咲きました。暑さに弱い私は、昼間はほとんど何も手つかず。私の住んでいるところから、Sugarさんの山小屋まではかなり遠いようです。本当にたどり着けるのでしょうか。無事に帰って来られるのでしょうか。無謀な思いつきをしてしまったのではないか…、関係諸氏に随分と迷惑をかけてしまっているのではないかしら…と、今更ながら、ちょっと心配になりつつも、ただ主がすべてを成して下さるように、恵みを分かち合う良い機会となるように願いつつ、準備を進めています。
 皆様に祝福がありますように!

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