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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

先の者が後になり…

 家を一歩、外に出ると、緑がギラギラ。水がギラギラ。
 河べりの土手を走ると、中州に生い茂る緑と、河を流れる濁流のような水が、凶暴なほどの生命力となって私の身体を刺し貫く。これが主から来る生命力なのか、被造物そのものが持っている生命力なのか、よく分からないが、照りつける太陽の下で、いかに被造物全体が成長の喜びの雄たけびを上げているかが分かる。木も、森も、水も、河も、まるで音に聞こえない大合唱のように、生命の賛歌を歌っている。

 川沿いの道を走ると、いつも喜びが心に溢れてくる。まるで何ヶ月か分くらいの若返りの力をもらっているような気がする。被造物全体が主の現われを切に待ち望んでいる、という聖書の箇所は、ひょっとして、こんなことにも通じるのだろうか…。被造物の大コーラスの中に入れられて、私は喜びに浸される。彼らと一緒になって、いつまでも歌い続けたい。
 このまま、ガードレールを突っ切って、車ごと河の中に飛び込んでしまえれば、どんなに心地よいだろうか!

 さて、このブログは、真理を覆い隠す偽りの教えについての分析をも課題としているので、この先、その作業を続けていきたいと思っている。多分、かなり深刻な描写も加わるだろうことをお許しいただきたい。

 だが、それとは関係なく、私自身について言えば、今は主によって、不思議なほどの安息の喜びに入れられている。主にあっての兄弟姉妹たちを得たことの喜びがあるだけでなく、これまでに辿って来た様々な苦難のために生じた心の傷や痛みが、完全に過去のものとなりつつあり、回復の最後のステージに自分が立っていることが分かる。

 これまで、私に最も苦痛をもたらした問題は何であったか、誰か想像することができる人がいるだろうか。
 それは、長子であるがゆえのプライドであった。

 ある時点で、私は主の御名のために、どんな災難をこうむっても構わないと覚悟を決めたが、それでも、私の心を苛み続けたのは、私が自分の人生において、年少のきょうだいたちよりも、遅れを取っているという自覚であった。カルト化教会の事件が、私から貴重なものを根こそぎ奪ったためである。その意味で、私は長子でありながら、まるで末のきょうだいよりも劣った者のようにされた。

 さて、先の者が後になり、後の者が先になる、というのは、聖書にはよく見られる光景である。たとえば…。
 アダムは誘惑に屈して死んだが、第二のアダムなるイエスは人を救い、天に昇られた。
 カインは兄であったのに、アベルに勝る者となれなかった。
 エサウは兄であったのに、ヤコブに長子の権と祝福を奪われた。
 ヨセフの兄たちは、年長者であったのに、弟ヨセフに父の愛を奪われた。
 放蕩息子の兄は、間違いを犯さなかったのに、弟の方が盛大な祝宴にあずかった。
 イスラエルは選ばれた民であったのに、異邦人が先に救われることになった。etc.
 
 だが、長子として生まれた私は、そういう話を聞くと、いつも何かしら侮辱のようなものを感じてしまうのだった。どうしても、私は年長者の立場に立って物語を眺めてしまい、彼らの方に同情してしまう。「父よ、あなたの祝福はただ一つだけですか。父よ、わたしを、わたしをも祝福してください」(創世記27:38)と声をあげて泣いたエサウの気持ちが、私には痛いほど分かる。彼が弟ヤコブを殺そうと思った、その復讐心もよく分かる。

 長子としてのプライドというのは抜き難い、厄介なものだ。年少者に見下されることは、本当に、つらいものがある。そうなっても、怒ったり、仕返ししたりせずに、悠然と顔を上げて、非難や軽蔑をかわせるようになれば、もはや、地上でやり残した仕事はないと言えるほどに、人格ができ上がったと言えるかも知れない。生まれ持った自己のプライドを捨てるということは、人にとって、それくらいに難しい。

 だが、聖書はあくまで、選びによる救いではなく、恵みによる救いを主張する。長子として生まれた、あるいは、自分は神に選ばれた選民である、そのような「選び」の上にあぐらをかいて、その特権に満悦し、そのステータスが自分に義をもたらすと考えて自己安堵しているような人々は、必ず、後から来た者に祝福を奪われ、出し抜かれる羽目になるのだ。

「なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。」(ローマ10:3-4)

 自分の義。それは「私は神によって選ばれた者である。それゆえ、私は神に祝福されて当然である」という高ぶりであり、それは神の恵みを自分の当然の権利であるとみなし、たとえ神に祝福されても、ただ自分に栄光を帰そうとする。
 対して、神の義。それは選びではなく、信仰による義である。「神はご自分があわれもうとする人間をあわれんで下さる。私は神にあわれまれる資格を持たない人間だったにも関わらず、恵みを受けたので、ただ神に感謝を捧げよう」と、祝福されても、自分ではなく、神に栄光を帰する。

 私はかつて誤った信仰を持ち、誤った教会に足を踏み入れ、そこで人生を浪費させられた。そのことで、深い挫折と、失望と、恥の意識を感じてきた。まるで詐欺師の甘言に騙され、自己破産してしまった人のように、肩身が狭かった。肉親の前に顔を上げられない。きょうだいと合わせる顔がない。親族の幸せな人生のニュースをまともに聞けない。長いこと、そういう心境が続いた。それは私が頼みとして来た自分の義、自分のステータス、自分のプライドが、最後の最後まで、完全に打ち砕かれた瞬間であった。

 だが、そのために生じた失意や挫折の意識も、今、主によって取り扱われ、消滅しつつある。すると、以前は失意が占めていた場所を、今度は平安が占めるようになって、新たな喜びが心に増し加わるのである。

 今、私は思う、私の失敗は何のためであったか。それは私でなく、他の人々の命が救われ、他の人々が恵まれるためであった。それは私が神から捨てられたことを意味しない。私は苦しみによって、人格を練られ、信仰が増し加わり、一度は、失われた者となっていたが、今は再び見いだされた。さらに、この先、私の挫折体験は、きっと、今はキリストから離れている、肉にあってのきょうだいたちを、救いに立ち返らせるきっかけともなろう。だから、万事これで良かったのである。

 兄たちに妬まれてエジプトに売られたヨセフは、兄弟に再会した時に言った、「わたしをここに売ったのを嘆くことも悔むこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。」(創世記45:5)
 主は兄弟全員の命を救うために、時に、順番を入れ替えられることがある。

 ローマ人への手紙にもこれと類似した内容が見いだせる。神はイスラエルの民の心をかたくなにして、異邦人を先に救われたが、それは神がイスラエルを無用なものとして捨てたことを意味していなかった。それは選びによる義を打ち砕いた後で、信仰による義という恵みによって、全ての人を救うための神の計画であった。神は、兄たちに先んじて弟ヨセフをエジプトに送ったように、全ての命を救うために、イスラエルの民より先に、異邦人を遣わしたのである。

 選びによる義は信仰による義に勝らないが、それにしても、選びそのものが無意味なのではない。切り捨てられた枝としてのイスラエルについて、パウロは言った、「神には彼らを再びつぐ力がある。なぜなら、もしあなたが自然のままの野生のオリブから切り取られ、自然の性質に反してよいオリブにつがれたとすれば、まして、これら自然のままの良い枝は、もっとたやすく、元のオリブにつがれないであろうか。」(ローマ11:23-24)

 私はこんなことも考えてみる。ひょっとすると、選びの上に自己安堵していたがゆえに、キリスト教界は今日のような有様となったのではないだろうか。そこでは、名の通った教会に所属し、教会籍を持ち、立派な牧師や信徒と呼ばれ、世間でもクリスチャンとして知られ、自分でも信仰暦何十年との自負を持つ多くの信者が、心頑なにされ、御言葉から遠く離れ、愛から遠く離れ、偽りの信仰と無知の中に落ち込んで行った。そして、逆に、選びから漏れ、教会を追い出され、所属場所も失ったような人々が、神への愛と真実に立ち戻り、熱い信仰に立っている。

 だが、たとえそうだとしても、私たちは決してそのことで誇らないようにしよう。
 「あなたがたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである。<…>高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。」(ローマ18,20-21)

 神は不信仰な者をいつでも切って捨てることがおできになる。生きている限り、神の御前で、自分は天国の住人として完全に選び出され、その約束と権利は永遠に変わらない自分固有のものだと言い切って、誇ることができる人は一人もいない。それらの約束はひとえに、神のあわれみと恵みによって私たちに与えられたものであり、私たちが御言葉のうちにとどまらないなら、いずれ取り上げられることは間違いない。

 だから、他人の不従順を見たとしても、自分が恵まれていることを決して、誇らないようにしよう。なぜなら、神のご計画は、人の不従順の中にさえ働いているからである。
 どうして今日のキリスト教界がこのような様相を呈しているのか不明だが、恐らく、もしもそれがなければ、救われなかったであろう人々が、今、救いにあずかっているのであろう。だから、心頑なになった人々を、私たちはあざけることなく、むしろ、全てのことの背後に働いておられる神のご計画に厳かに思いを馳せ、恵みを与えられた喜びをもう一度、心の中で味わうにとどめたい。

 「神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。
 ああ、深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。」(ローマ11:32-33)

 この御言葉は、私の不従順ゆえの挫折に関しても、深い慰めをもたらす。私自身にとっては失敗であり、遅れでしかなく、恥にしか感じられないような様々な体験も、神の深遠な知恵の中では、必ず、益として用いられることが定まっているのである。私自身に益をもたらさなくとも、それは必ず他の人々に益をもたらすのである。
 そして、「神の賜物と召しとは、変えられることがない」(ローマ11:29)。
 私は神から捨てられたのではない。この私にも、主は何らかの召しと賜物とを確かに与えておられるのである。

 だから、順番にはあまりこだわらないようにしよう。自分の賜物や召しがどんなものであっても、それを人前で、あるいは、主の御前で誇ることがないようにしよう。神は日暮れ前になって後から雇われた人々にも、先に雇われていた人々と同じように、永遠の命という恵みを平等に分け与えて下さる寛大な方なのである。
 先の者も、後の者も、共に救いにあずかることが、主の御心である。救われる人が一人でも増えることが天における喜びである。だから、先であるか、後であるかにこだわる必要がない。今はただ、失われた者であったのに、見いだされ、切り捨てられるべき枝であったのに、幹であるキリストに接木され、キリストを知る絶大な喜びの中に導き入れられ、豊かな命を得ている幸いに思いを馳せよう。

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