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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

十字架の死と復活の原則―束の間の軽い患難と引き換えに与えられる永遠の重い栄光―

「ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。

ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。

人の子が現れる日にも、同じことが起こる。

その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。

ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」(ルカ17:26-33)

その時、かのふたりは手を伸べてロトを家の内に引き入れ、戸を閉じた。
そして家の入口におる人々を、老若の別なく打って目をくらましたので、彼らは入口を捜すのに疲れた。 」(創世記19:10-11)


このところ、筆者はひたひたと良くないものがこの街に迫って来ていることを感じ、エクソダスの時が近いと感じる。ここに残ったり、定着する選択肢はない。エクソダスできるか、できないか、それが人の生死を分けると感じている。

このような時だから、以前のような牧歌的な記事を書くことは決してできない。人の耳に心地よい言葉を一切並べることはできないし、もっともらしい説教のような告白や、人の歓心を買うための記事など断じて書くことはできない。

さて、クリスチャンは考えてみたことがあるだろうか?

もしも自分の住んでいる街が、ソドムとゴモラであったなら?

ソドムとゴモラの住人との間に、平和な隣人関係や、愛や友情を育めるだろうか? そこで住人に受け入れられ、身内のようにみなされることは可能だろうか?

ノアが箱舟を建てていた時、ノアと同じ街に住んでいた住人や知り合いの誰一人として、彼が何をしているのか理解できなかったであろうし、ノアは彼らの嘲りに直面し、孤独だったろう。

同じように、ソドムにあるロトの家に神の御使いがやって来たとき、ソドムの住人たちがロトの家に押しかけて何を要求したかを思い出せば良い。

その街で、ロトは以前からずっと孤独ではなかったろうか。ソドムの住人たちは、ロトの家にやって来た御使いたちを凌辱する目的で、ロトに向かって彼らの引き渡しを求め、彼らの要求に従わないロトに押し迫ってこう言ったのだ、「この男は渡ってきたよそ者であるのに、いつも、さばきびとになろうとする。それで、われわれは彼らに加えるよりも、おまえに多くの害を加えよう」(創世記19:9)

ソドムの住人たちは、常日頃からまるで不良集団のように、いきりたって「獲物」を求め、街を徘徊していたと思われる。ロトがどんなに彼らをいさめても、「よそ者が何を思い上がって俺たちに尊大な態度で説教するか!」と、自分に忠告して来たロトにかえって危害を加えようとするだけであったほど、彼らは常日頃からまともではなかった。

そして、こういう住人は、ソドムでは例外ではなく、むしろ標準だったのではないかと思われる。何しろ、聖書をよく読むと、ロトの家に押し寄せたソドムの住人たちの中には、老いも若きもいて、かなりの大規模な集団をなしていたと思われるのである。決して一部の不良少年のような集団ではなかったことが分かる。また、そこにいない他の住人たちも、みなこの集団を恐れてものが言えなくなり、彼らが何をしてもとがめることなく、ただ目立たぬよう陰に引っ込んでいるだけだったのではないだろうか。もしかすると、この集団は、不良集団どころか、ソドムの自警団を名乗っていた可能性さえも考えられる。

ロトの娘たちの中で、ソドムの住人のもとに嫁に行った者たちは、誰もが婿の言いなりになってソドムの気質に汚染され、脱出のチャンスが与えられても、これを活かすことができなかった。

ロトがソドムから連れ出すことができたのは、ただ未婚の娘たちだけである。未婚というのは、その地に定着していないことを意味する。

ロトの妻でさえ、脱出がかなわなかったことを考えると、まさに配偶者の存在そのものが、財産と同じように、重荷となった可能性がある。ロトの妻が、ソドム脱出の際、ソドムの富に惹かれ、後ろを振り向いて、塩の柱になったことを考えれば、妻という存在が、ロトにとって、それ以前から、ひそかな心の重荷となっていた可能性さえある。

おそらく、ソドム脱出の前から、ロトは妻と信念を分かち合うことができなくなり、孤独であったのではないだろうか?

ロトの心を支配する価値観、何よりもロトの持っていた神への信仰は、おそらく、その地においては、誰からも理解されていなかったのではないだろうか。家族にさえも、理解者がいなかった可能性がある。そして、当のロトでさえ、ソドムに住んでいたくらいだから、聖書では「義人」と称され、かろうじて助かったとはいえ、かなりの程度、ソドムの価値観の汚染を受け、危うい状態にあった様子が、聖書の様々な記述から伺えるのである。

「兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。」(Ⅰコリント7:29-31)

こうして、聖書は、配偶者であれ、家であれ、喜びであれ、悲しみであれ、家財道具であれ、飲んだり、食べたりすることであれ、どんなものも、キリスト者の主要な関心事になってはいけないと教える。地上にある限り、我々はそういう事柄に一切、関わらないわけにはいかないとはいえ、それらを行う時にも、ないがごとくに振る舞い、心を置いてはいけないと聖書は言うのだ。

筆者はロトの物語を教訓として振り返りながら、ますますそういう思いを強めている。

筆者は、首都圏に、また、この街に、これから何が起きようとしているのか知らず、筆者がここを出て行ったからと言って、まさかその日に天から火と硫黄が降って来るなどと言いたいわけではない。

ただもうここにいてはいけないということが分かるのみである。複数の筋から「出なさい」という忠告を受けた。

何より、筆者は、この街の住人の気質が、どんどん悪くなって行っていることを感じている。むろん、この街に限ったことではない。それは首都圏全域かもしれないし、もっと広範囲を含んでいるかも知れない。

いずれにせよ、「ソドムとゴモラ化」とでも言うべき現象が起き、洪水が少しずつ足元から押し寄せるように、じわじわと人を飲み込んで行くのを感じる。
 
「その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。」
 
脱出の日には、全く後ろを振り返ることなく、地上のものへのすべての未練を一瞬で断ち切り、ただ前だけを向いて進んで行かなければならない。

だが、現代という時代には、たとえ神が脱出させて下さるにせよ、ロトと同じように、身一つで街を逃げ出すということはおそらくないであろうと筆者は思う。それでも、地に属するものには決して未練を持ってはいけないということはいつの時代も変わらない。

筆者は、この地に定着せず、この地の住人の歓心を得ようとすることなく、この地の人々の評価を受けたいと願わず、ここに住み着いて穏便にやって行くことを目的に生きて来なかったことを、誇りに思いこそすれ、いささかも恥とは思わない。それどころか、ソドムの社会に受容され、そこに定住して、一切の孤独とは無縁で、人々と「うまくやれる」人がいたとしたら、その人は明らかにおかしいのだと確信している。その人は我が身に滅びを招いているだけなのである。

だが、筆者がこのように言ったからとて、決して筆者がこの街を馬鹿にしているなどとは思わないで欲しい。この街に比べて、他の街ならマシだとか、どこならばよりよく暮らせるか、といった比較の次元で話しているのではない。これは霊的な文脈である。

だが、脱出する前に、まだひと仕事ある。ペリシテ人の神殿を崩壊させ、宮から商売人たちを追い出し、不信者とのつり合わないくびきを根こそぎ打ち砕いて、真に自分を自由の身とし、誰の奴隷にもならずに出て行くという最後の仕事が残っている。天の大掃除である。

話が変わるようだが、筆者はこれまで、主として、思想面から異端思想の構造を明らかにし、糾弾して来た。悪魔の思想というものが、この世にあることを指摘し、それらに共通する構造を明らかにして来た(グノーシス主義の構造)。

すなわち、悪魔の思想には、聖書の神だけが神であるという地位を奪って、生まれながらの人間を神として掲げ、キリストの十字架の贖いを否定し、キリストの花嫁たる教会に敵対するという特徴があるということを告げて来た。

多くの場合、こうした異常な思想を信じる人々が「神聖な要素」であるかのように主張するのは、人間の弱さ(生まれながらの自己)である。

カルト被害者救済活動もこうした思想の一つであるが、彼らは「被害者性」という人間の弱点を、あたかも神聖なものであるかのように掲げる。だからこそ、「被害者が冒涜された」などと主張しているのである。

彼らがこうして「被害者性」という「弱さ」を聖なる要素であるかのように掲げるのは、マザー・テレサが「貧しい人たちの中にキリストがおられる」と表現したのと同じ理由からである。彼らは要するに神でないものを神としているのであり、本当は、貧しさも、弱さも、被害者意識も、神聖とは何の関係もない、ただの堕落した人間の一部に過ぎない。

ところが、マルクス主義もそうなのだが、虐げられた人々が集まって、自らの弱さをあたかも神聖な要素であるかのように掲げ、それを軸にして連帯すると、強者と弱者の関係を覆し、自らの弱者性をバネに神にまで至ろうとする思想が生まれる。

これが社会主義思想くらいの程度にとどまっていればまだ良いのだが、本当に神の教会に敵対することを目的とする思想になってしまうことがある。それが、カルト被害者救済活動である。この思想の極めて悪質なところは、神聖な方は、聖書の神ご自身であり、また、キリストの十字架の贖いを受け入れ、御子を信じて救われた信者によって構成される神の教会こそ、その聖にあずかっている存在のはずなのに、彼らは「教会で被害を受けたという人の弱さ(被害者性、弱者性、自己)」を神聖な要素とはき違え、教会を悪者として訴えながら、自分自身が教会の裁き主となろうとし、教会を押しのけて、あたかも自分こそ神聖な存在(宮)であるかのように主張している点なのである。

むろん、今日、組織としてのキリスト教会には様々な堕落が起きて、神の御心から離れていることは事実である。だが、そのことを内側から憂慮し、御言葉に立ち戻ることで是正していくことと、堕落しつつある一部の教会のために、教会全体を敵に回して告発することはわけが違う。

後者の思想・運動は悪魔的な構造を持つものなので、これに関わって行くうちに、人々は悪霊に深く憑りつかれて正気を失い、無実のクリスチャンに対する迫害・弾圧に及ぶことになる。筆者はこれまでに幾度もそう警告して来た。そして実際にその通りのことが起きているのである。

にも関わらず、大勢のクリスチャンを名乗る人々が、この思想に貫かれてクリスチャンを弾圧する者どもらの勢いに気圧されて、沈黙してしまった。あるいは、脅しつけられて、黙ってしまった。ちょうどソドムとゴモラの中で、ロトが住人たちに押し迫られていた時、他の住人たちはどこにいたのかも分からず、ロトの家族でさえ、一切抵抗できずに口をつぐんでいたのと同じである。

しかし、突如、話が変わるように思われるかもしれないが、筆者は次の言葉が好きである。

ソドムの住人たちが、ロトの家に御使いの引き渡しを求めて押し迫った時、御使いたちがソドムの住人たちの目をくらませたので、彼らは大勢であったにも関わらず、ロトの家に押し入ることができなかった。

もう一度言うが、筆者はこの言葉がとても好きである。

「彼らは入口を捜すのに疲れた。」

聖書を読むと、悪霊たちは、人間を宿として、人の中に住もうと絶えず願っていることが分かる。

「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになるだろう。」(マタイ12:43-45)

悪霊に入られないための秘訣は、家を「空き家」にしないことだ。もしキリストが住んでさえおられるならば、悪霊はそこに入ることができない。ソドムの住人たちがロトの家に押し寄せて来たとき、ロトの家の中には御使いたちがいた。そこで、御使いたちは、住人たちがどんなに大量であっても、彼らの目をことごとく打ってくらませ、入り口が見つからないようにさせたのである。

住人たちはそんなに大きくもないと思われるロトの家の周りをぐるぐるぐる行き巡ったが、入り口が見つからず、疲れ果てて帰ったというのだから、筆者はこの場面を想像すると、思わず笑ってしまう。

だが、現代のキリスト者もこれと同じで、キリストが内に住んでさえおられるならば、悪魔に入り口を自ら指し示したりすることはないのだ。

しかし、もしキリストが住んでおられなければ、悪魔にとっては入り口を見つけるのは容易であろう。

今は、カルト被害者救済活動の思想的な構造について言及することはしない。ただ、この悪魔的な思想に憑りつかれてしまった人たちが、筆者を攻略するために、すさまじい呪いと中傷を筆者に投げかけていることだけを述べて糾弾しておきたい。

筆者の周りにいるクリスチャンたちは、これに抵抗できず、自らが罵倒されているにも関わらず、立ち向かうどころか、彼らの軍門に下ってしまった。今や彼らを公然と糾弾しているのは、ただ一人筆者しかいない(もちろん、彼らを非難している人たちはいるのだが、立ち向かうという点では、筆者一人のように思われる)。

だからこそ、彼らは何とかして筆者の証をも地上から取り去りたいと業を煮やしていればこそ、筆者にすさまじい呪いと迫害と中傷を加えているのである。

彼らの言い分の中核は、「おまえはこのソドムの街でうまくやれず、ソドムに定着もできず、ソドムに受け入れられず、ソドムで生計を立てることに失敗した情けない落伍者だ。このソドムの住人は、誰もおまえの存在を喜んでいないし、おまえの証にうんざりしている。あとから来たよそ者のくせに、おまえは自分が俺たちに受け入れられなかったからと言って、まるで俺たちのさばきつかさのように尊大に振る舞い、俺たちに上から目線で説教しようとした。そんな高慢な態度は許せない。だから、カルト化教会の道を踏み外したどんな牧師よりも、おまえをもっとひどい目に遭わせてやる」ということに尽きる。

まさにロトに対してソドムの住人たちが述べた言葉と同じである。

それに対する筆者の反論はすでに記した通り。ソドムに受容され、ソドムで孤独を感じず、ソドムに定着する人間の方が全くどうかしているのだ。筆者は一度たりともそんな人間になりたいと考えたことはなく、彼らに「落伍者」であるかのように罵られても、それをむしろ当然であると思う。

むろん、筆者は彼らの呪いや中傷を放置する気はないし、彼らの思い通りになることもない。彼らの手から筆者自身を救い出す。二度と彼らが筆者を呪ったり、汚し言を言うことができないように。

だが、ひとこと断っておけば、この戦いは長期に渡り続いており、激しい迫害になっているとはいえ、そんなに次元の高い戦いではない。こうした人々によるネット上のクリスチャンに対する迫害は、現実生活においてまで、信者に危害を加えるレベルに達しておらず、また、影響の範囲も限られている。何より、きちんと手を打てば終結するし、このような低い次元の情報を鵜呑みにして信じる人々の数もごくわずかに限られている。

学者にとっては自分の主張の論拠をどこから引っ張って来るのかが大切であり、誰も自らの論文で三流・四流のゴシップ新聞の記事を引用したりしないのと同じように、あまりに低い次元の誹謗中傷などを大真面目に信じて吹聴していれば、その人の人間性が疑われるだけである。

だから、一定の洞察力を持っている人は、誰もこういう低次元の情報に振り回されることはない。

しかし、この度、筆者は、そうしたものを超える、もっと高度な迫害が現実にありうることを述べておきたい。それは歴代のクリスチャンがずっと耐え抜いて来た、本当の迫害のことである。

再び、話が変わるように思われるかも知れないが、悪霊は人間を宿としてその中に入り込み、その人間を思うがまま操るが、人間の中に悪魔自身が入ることがありうることを、聖書ははっきり教えている。

「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」(ルカ22:4-6)

これはイエスを売り渡す行為が、決して下級の悪霊にはできない仕事だったことをよく表している。だからこそ、サタン自身がそれを遂行するために、ユダの中に入ったのである。そして、注目したいのが、ユダに悪魔が入ったのはいつなのか、ということである。

「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。

弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。シモン・ペテロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。

その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。

それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。

座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」(ヨハネ13:21-30)

前にも書いたことがあるが、神はクリスチャンに代価を要求される時、決して本人の承諾なしに何かを強制的に剥ぎ取ったりはなさらない。たとえば、殉教を願っていないクリスチャンに殉教を強制されるようなことは決してない。

クリスチャンが神に従う過程で、何を手放すかは、神とその信者との間で合意があった上で、決められる。そして、神は決定的に重要な事項は、信者が目を覚ましてさえいるならば、前もって知らせて下さる。大きな迫害が迫っている時や、危機が訪れようとしている時、もし信者が御霊に聞く姿勢さえ失っていなければ、必ず知らせて下さる。

だから、もし何の前触れもなしに、不意にとてつもなく悪しき出来事が起きてそれに翻弄されるようなことがあれば、その時は、クリスチャンが目を覚ましていなかった可能性が高い。
 
主イエスは、ご自分が父なる神に従うために、命を投げ出さなければならないことを、以上に挙げた場面で、すでに知っておられた。それが避けがたい召しであることも知っておられた。そして、神との間で、命を投げ出すことにすでに同意されていたのである。

主イエスが、その召しに承諾してから、初めて、サタンは動くことができた。いわば、サタンは、イエスの許可なく、ユダを使ってイエスを裏切ることができなかったのだと言える。そこで、イエスが「今こそ、その時だ」と、指示した時、初めてサタンがユダに入った。イエスは裏切られることを前もって知っており、ご自分が死に渡されなければならないことをすでに承諾しておられたからである。

我々クリスチャンの人生にも、似たようなことが起きる。

悪魔がどんなに猛威を振るうように見える時でも、最終的に見れば、それは神の支配下で許された範囲内でしかないのである。たとえば、クリスチャンには、兄弟姉妹を名乗る人たちによる手ひどい裏切りが起こることも稀ではないが、そのようなことは、ある日、突然、起きるものではない。あるいは、肉親にまで裏切られることもあろうが、そういうことは、必ず、神ご自身が信者に教えて下さる。我々はすべての兆候から、そうなることを前もって予測できるのである。むろん、心の準備も可能である、目を覚ましてさえいるならば。

クリスチャンを罵るくらいのことは、下級の悪霊のレベルでも可能であろうが、クリスチャンに手をかけて命を取るような危害を加えるというようなところまで行くと、これはサタン自身の仕事である。サタンの霊を受けた人間しか、そのようなことを大規模に実行できる人間はいない。だが、心配しなくて良い。そのような迫害は、それを受けるクリスチャン自身が、神との間で、前もって同意しない限り、その人の身に起こりはしない。

聖書は言う、

「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。

しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。

あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(ルカ21:10-19)

筆者は今まで幾度も殉教について述べて来た。最終的には、すべてのクリスチャンは殉教を目指すべきであると思う。だが、筆者について言えば、今はまだその時ではない。これは殉教を恐れるがゆえに言うのではなく、すべての物事に時があることをただ述べているだけだ。だが、上記の御言葉の実に多くの部分はすでに筆者の人生で成就している。戦いはかなり深いレベルにまで達した。

これから先、クリスチャンに対する迫害は、時をかけて、より一層、巧妙に、深化して行くであろうし、ついに最後には殺意のレベルへまでも進行して行くであろうと予想する。そうなるためには、まだしばらく時があり、時代の状況そのものが変わることであろうが、すでにその戦いが始められようとしていることを筆者は知っている。

この地へやって来たときとは正反対である。やって来たときには、筆者はキリスト者の純粋な交わりを求めて、それに憧れ、心躍らせていたが、牧歌的な時代は終わったのである。

そして、筆者は心の中で神に向かって言う、「いいでしょう。同意します。私にはあなた以外で価値あるものは何もありません。」と。「たとえ兄弟姉妹であろうと、ソドムの住人であろうと、誰であろうと、あるいは物であろうと、家であろうと、何であろうと、あなた以外のもので、私が自分の心の中心として据えるものは何もありません。私はあなたが私に望んでおられる道を生きることに同意します。ただその道において、あなたが束の間の苦難と引き換えに、はかりしれない重い栄光をすでに天に用意しておられることも私は知っており、その褒賞を見上げ、それに至り着きたいと願っているのです。どうか私があなたの栄光に入り損なうことがありませんように。」

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