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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

港町の風景

 KFCから届いたワーシップソングを聴いていると、どんなに悩みが山積していても、心のもつれがほどけていくようだ。中でも、私が一番好きなのは、"Jesus you are beautiful." 最も美しく感じられるメロディーだ。
 
 つい先ほどまで、人間関係において、道を踏み誤ることへの恐れがひどく私の心を苛んでいた。今まで、弱さゆえに、何度、同じ過ちを繰り返しては、人間関係を損なってきただろう。そのことを思うと、自分の弱さが二度と、以前のような形で大失敗となって現れることがないよう、泣きながら神に祈らずにいられなかった。

 考えているうちに、自信がなくなってしまった。私は本当に、主によって与えられた兄弟姉妹を心から愛していると言えるのか? ひょっとして、利己的な感情に基づいて、相手を利用しようとしているだけではないのか? 私が愛と呼んでいるものは、正真正銘、主の御心にかなう偽りのない感情なのか? それとも、利己心を都合よく言い換えただけではないのか?
 せっかく主によって与えられた兄弟姉妹との関係を有害なものに変えてしまうくらいなら、今のうちに、全ての人間関係を断ち切ってしまった方が良いのではないか。そんな恐れをさえ感じた。

 だが、賛美を聴きながら、心を鎮めた。そして、麗しいキリストの御業を思いながら、すべての人とのつながりが、ただ主によって一方的に与えられたものであったことを思い出した。私が主の御名を賛美することを始めてから形成されてきた人間関係の中には、私が自力で掴んだものなど、何一つない。それが分かった時、恐れは消え、はっきりと、今後、どうすべきかが分かった。
 これ以上の自己批判は一切、無用である。これ以上、自分の心に起こるあらゆる感情を、良いものも悪いものも含めて、一つ一つをまるで顕微鏡で調べるようにして、丹念に吟味し、不要なものがないか探し、自分の持っているあらゆる財産をズタボロに切り刻んでは、一片一片を丹念に日に透かして吟味しようとするような作業は必要ない。

 私は、仮に弱さが残っているにせよ、確信を持って、兄弟姉妹への愛に立って生きていけば良いのだと分かった。与えられた兄弟姉妹との関係を(正しいものにしようとして)コントロールしようとすることさえ無用なのだ。すべては主が成して下さること。だから、未来に起こるどんな出来事をも、もはや恐れまいと決意した。自分が間違うことさえ、恐れない。どんな背教も、汚れたものも、キリストがうちにおられる限り、私には触れることができない、ただそう信じることができるだけだ。
 もしも私の心の中で起こっている様々な感情について、外から介入しようとする試みがあれば、一切、退けることを決意した。いわれのない非難だけでなく、人の杞憂に対しても、耳を塞ぐ必要がある。本人の自主性を侵してまで、他者の心を切り刻もうとするあらゆる力を排さなければならない。

 サタンの非難の声にいちいち親切に耳を貸していれば、義人になれない地上の人間は、誰一人、正気を保てなくなってしまうことだろう。すでに十字架によって罪赦されている以上、私たちには、善悪のものさしに立って生きる必要はもうない。たとえ色々な弱点は消えないにせよ、それを糾弾する声に耳を傾けてはいけないのだ。罪はキリストの十字架によってすでに処理されているはずであるし、弱いところにこそ、キリストの強さが現れるのだから。もしも未処理の罪があるならば、キリストの十字架へ持って行くだけでよい。自分で自分を裁いたり、吟味し続ける作業は必要ない。

 近いうちにもう一度、横浜を訪れることができればと思う。
 以下は、懐かしい神戸の海。横浜の夜景はまだ一度も見たことがないが、きっとこれに似ているのではないかと思う。


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