忍者ブログ

私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

全信者をプロレタリア化してこの世の堕落したバビロン体系に仕える奴隷とするプロテスタントの誤った理念から、愛する御子キリストの支配の中へのエクソダス

さて、一つ前の記事では、「信者は世俗生活において労働を通じて社会貢献を果たし、自らの天職をまっとうすることで、神に奉仕でき、キリスト者としての召しを全うできる」というプロテスタント独特の考えが誤っていることを書いた。
 
プロテスタントにおける以上のような(天職としての)「労働」という概念は、社会への貢献や奉仕という、表向きの輝かしい名目とは裏腹に、その実、信者の奉仕の対象を、巧妙に神ご自身ではなく、人間社会(この世)にすり替えるものであり、すでに書いた通り、その労働が生み出される動機も、神への愛に基づくのではなく、むしろ、それは自分が神に救われているかどうかが分からないという状態にあるプロテスタントの信者が、自己の抱える不安や恐怖から目をそらそうとして生み出す現実逃避のトリックでしかない。そこで、そうした文脈における労働は、神からの逃避にはなっても、神のための奉仕として実を結ぶことはなく、信者の状態を真に変えて神へ近づけるきっかけともならないのである。
 
つまり、プロテスタントにおける以上のような労働の概念は、何かが決定的に狂っており、おかしいのだと言える。その労働は、信者の神への奉仕としてなされるものでもなければ、隣人愛からなされるものでもない。むしろ、「神が分からず、救いが分からない」という不安に苛まれている信者たちが、死後、神のさばきの座に立たされる瞬間まで、地上生活で感じるあらゆる不安や恐れを少しでも和らげようと、この世における人間社会の生活に埋没し、そこで人々に熱心に奉仕することによって、内心の救いの確信の欠如を、善行などの外側の立派な行動によって補い、神から承認を受けられない分を、この世の目に見える人間からの承認や賛同によって埋め合わせようとして行う、目くらましのような時間稼ぎであり、アリバイ工作のようなものでしかない。

そんなプロテスタントの信者にとっては、世俗生活における労働だけでなく、教会生活における奉仕と献金さえも、「自分は神に救われていないかも知れない恐怖」を紛らすために行われる。

本来、信者の地上の組織としての教会への所属は、外見的な要素に過ぎず、それはその信者が真実、救われて神に受け入れられているかどうか、天のいのちの書に名が記されているかどうかをはかるものさしとはならない。ところが、プロテスタントの多くの信者は、教会に所属し、牧師の説教を熱心に聞き、熱心に献金と奉仕を行なうことでしか、自らの信仰を維持できないと思い込んでおり、教会への所属を失えば、自分は道に迷って信仰を失い、救いから漏れ、神に見捨てられて悪魔の虜とされるだけであるかのように思って怯えている。
 
そのような転倒した考えがなぜ生まれるのかと言えば、プロテスタントの教義上の欠陥のせいで、この宗教の信者たちの大半には、もともと救いの確信が内側に無く、その得られない確信を、手っ取り早く他者(牧師や他の信徒たち)からの承認へと取り替え、一体、神が自分に何を願っておられるのか、神の御心が分からない分だけ、自分たちの熱心な奉仕活動によって、自分が救われた人間であることを、人前にアピールし、客観的に証明することで、埋め合わせようとしているからであり、教会をそのようにして自分の正しさを証明するための場としてとらえ、教会への所属を捨てられないからである。

このような信者たちにあっては、この世における労働も、教会における自己の正当性の主張と基本的に同じ動機で行われる。つまり、全ての奉仕は、信者たちが、自分は贖われた新しい人であることを世間にアピールすることで、自分の内に欠如している内的確信を、外側における自分の立派な行動と、世人からの承認によって補うために行われるのである。

こうした人々の中では、救いの確信について、完全に転倒したさかさまな思考が出来上がっていると言える。彼らは救いの確信を、人が信仰を通じて、個人的に心の内側に神に直接啓示されて得るものではなく、自分の行動や、人からの評価や承認などといった、外的な、地上的な要素によって確認可能なものであるかのように考えているのである。

彼らは、神の救いを、まるで企業が社員に配る社員証のように、教会などの団体に所属していることによって、集団的に保障されるものであるかのように思い込んでいるのである。

こうした信者たちは、教会への所属という外側から目に見えるバッジによって、内的確信の欠如を補うべく、熱心な奉仕活動(労働)を行い、自分に(偽物の)救いのバッジを与えてくれる団体に熱心に仕えようとする。だが、そのバッジは、聖書に記された神の真実な救いのように、信仰に基づいて、信者に一度限り永遠に与えられるものではなく、信者が熱心な奉仕活動を絶え間なく継続することによってしか貸し出されないものである。

そこで、プロテスタントの信者たちは、救いの確信がない不安を、人の目に正しいと認められる活動によって補おうと、教会の内・外に関係なく、どこにいても、自己の本質(不安や恐怖や罪悪感)を紛らすための奉仕活動にいそしまざるを得なくなる。だが、こうした動機からなされる彼らの労働は、自分自身の不安を覆い隠すために行われる自己欺瞞であって、神や人への奉仕ではないのである。
 
マックス・ウェーバーが書いたように、プロテスタント特有の現実逃避願望としての労働を奨励する思想が、本当に資本主義の発展に貢献したのだとすれば、そのような文脈における「発展」は、人間にとって真に望ましいものとは言えず、むしろ、資本主義そのものが、プロテスタントの信者の奉仕と同じように、人類全体が自己の恐怖から逃れ、自己の本質を偽るために生み出された壮大なフェイク、現実逃避のしかけでしかないということになろう。
 
クリスチャンであれば、この世の経済体系が、悪魔の支配下にある堕落したものであり、経済のみならず、文化的にも、この世の全ての体系が、堕落した複合的なバビロン体系であることは否定しないものと思うが、資本主義もその一部であり、それは人類の現実逃避願望から生まれて来た偽りの「マトリックス」であって、信者・非信者を問わず、真理から目を背けたい人々が互いに寄り集まって、神から遠く離れて堕落している自己の罪なる本質を覆い隠し、自己の惨めな姿から目を背け、自分は正しく立派な人間になろうと不断の努力をしている善人であるから、神も人も一目置かざるを得ないはずだと、互いに誇り合い、虚飾の外見を見せ合って、それをあたかも本物であるかのように承認し合い、慰め合うために作り出されたフェイクの体系なのである。

人類が飽くことのない経済発展を目指すのは、そのような偽りの努力の果てに、社会を向上させ、いつかは理想状態にたどり着き、神に至ることができるという驕りがその思いの根底に存在するからである。
 
このように、この世の偽りのバビロン体系は、人類が自らの努力によって社会に理想状態を来らせることができるかのような幻想に基づいて出来上がっており、そこで労働を通じてこの体系に仕える人間は、たとえるならば、フェイスブックのようなSNSに没頭する人間のようなものである。孤独な人間がある日、SNSを開設し、そこにとりわけ良く撮れた自分の写真や、耳障りの良い言葉の数々を並べて、面白い話題をちりばめて記事を作り、たくさんの「いいね!」をもらえば、何かしたような気になって、孤独も紛れる。だが、そのようにして飾り立てた写真は、本人の偏った不真実な姿しか示しておらず、耳障りの良い美しい言葉をどんなに並べても、それは人の内面を1ミリたりとも変える力とはならない。しかも、「いいね!」のほとんどは、義理で押されたお世辞の賞賛に過ぎず、「友達」の大半は、久しく現実生活でコンタクトも取っていない縁遠い人々であり、どこで出会ったかすらも思い出せないような人々も数多く含まれている。

SNSの内容が現実から乖離していることは、本人も重々承知であるが、それでも体裁を保つためには、果てしなく友達承認を続け、記事を書き続けるしかない。こうして、現実とは似ても似つかない、虚飾にまみれた、偏った、偽りの「マトリックス」が出来上がり、そこでは、誰もが自己の正しいイメージを見失って、虚像が独り歩きして行く。当初は人間が自己の満足のために始めたものであっても、途中からは、人前で自己の「有用性」や「幸福で理想的な状態」を絶え間なく証明しなければならないという強迫観念のせいで、やめたくてもやめられなくなり、最後にはすっかりSNSの奴隷状態となり、捏造してでも自慢話を披露して、「あらまほしき人間像」の演出を永遠に続けねばならない羽目に陥るのである。

プロテスタントにおける労働の奨励はこれによく似ている。ここで言う労働とは、ただ単に人が己を養うためだけに働くという単純な概念ではなく、家族を養ったり、自分の適している職業に従事することで幸福を得るというものでもなく、「天職を通じて神の召しを果たす」という、何やらよく分からない概念であり、そのような概念としての労働は、内容が規定されていないだけに、本人にとっても、とてつもない重荷になりかねない。

しかも、「神が分からない。救われているかどうかさえ分からない」という不安を抱える信者たちが、自己の不安を紛らすために、「天職を通じて神の召しを果たす」ことに励むのであるから、一体、そんなことがどうして可能だろうか。それではまるで現実生活の重荷から逃れて空想の中で気を紛らしたい人々が、SNSに集まって繰り広げる果てしない談話と同じく、神が分からず、自分が分からず、自己の本心と直面することを恐れ、自分に対する神の召しが何であるかすらも分からない人々が、ひたすら神を無視して、神を抜きにして、神を納得させるために行う、独りよがりな、自画自賛の、自己欺瞞の活動でしかなくなる。どんなに努力しても、そのような現実逃避的な動機からなされた奉仕や労働が、神の御心にかなう成果をもたらすことはなく、真に人類の幸福に寄与するものになることもないであろう。

筆者は個人的に、プロテスタントにおける労働奨励の理念を、「全信者のプロレタリア化の理想」と呼んで差し支えないのではないかと考えている。

プロテスタントの教義の中には、プロレタリアートという言葉こそ使われていないものの、もともと「労働を通じて社会貢献することで、人間は神の召しに応え、贖われた新しい人間としての生き方を提示できる」という発想があり、この宗教の中には、社会主義思想の登場以前に、「すべての信者をプロレタリアート化することで、神の国を到来させることが可能になる」という、発想がすでに提示されていたのであった。

一般に、プロテスタントの信者は、教会の中においては、聖職者階級を支えるための道具(労働力)として自分を差し出し、教会の外においても、社会を発展させるための道具(労働力)として自分を差し出す。

プロテスタントの信者は、このように、教会の内外を問わず、どこにいても熱心に労働や奉仕に励み、常に自己吟味を重ね、少しでも自分の目に、また、周りの人々の目に、自分をあるべき人間と認めさせるために必要な努力や学習を惜しまない。彼らはそういう努力が、神の召しに応える行為であって、神の国を地上に到来させる秘訣であるかのように思い込んでいる。

そして、このようなプロテスタントにおける「全信者のプロレタリア化」の精神こそ、資本主義の発展の原動力となったのであり、さらには、この精神を受け継いで、社会主義思想も生まれたのである。

共産主義ユートピアという発想は、それ自体、聖書における神の国の悪魔的模倣なのであるが、労働を通じて人間が自己を改造し、理想的な人間に近づけるという共産主義の理念は、もとを辿れば、その土台はプロテスタントの「天職を通じて神の召しを全うできる」という考えにあったのではないかと思われてならない。

ここで注意すべきは、筆者が、共産主義における労働の概念だけが間違っているのではなく、プロテスタントにおける労働の概念も同じほど非聖書的で間違っていると考えている点である。

筆者の見解では、労働を通じて人が自己改造して理想状態に近づくことができるという考えは、思想・宗教の形態を問わず、根本的に全て間違っている。なぜなら、労働を通じて自己改善できるという考えは、肉体改造を通じて人の自己を変革しようとするのと同じく、外側から人間を改造する試みであり、内側からの変革ではないからである。それゆえ、これは聖書の真理のベクトルとは完全に逆なのである。聖書の提示する人間の変革は、常に信仰を通じて、人間の自己の内側(霊)からなされるものであり、人間の外にある影響力を通してでなく、その人の内側で、神との個人的な交わりを通してなされるものだからである。
 
労働を通じて信者が神の召しに応答し、理想的人間に近付けるというプロテスタントの理念が誤っていることの証拠の一つとして、プロテスタントの「全信者のプロレタリア化」の理念は、教会の中においては、牧師制度のような聖職者階級のヒエラルキーをより一層、強化・固定化する材料となり、教会の外においても、バビロン化したこの世の経済体系の差別や格差を助長・固定化するのに大いに役立ったことが言えよう。熱心な奉仕や労働それ自体は、人の目にあたかも良いもののように見え、他者への愛や思いやりに基づいて行われるかのように見えるかも知れないが、それが結局、社会における差別や搾取をより一層、強固に固定化する要因になっているならば、果たして、そのような「労働」や「奉仕」が本当に社会に貢献していると言えるであろうか?

さらに、このような観点から、もしもクリスチャンは社会的弱者に対して冷酷だとか、差別を助長しているなどといった非難が浴びせられようものならば、プロテスタントの信者たちは、早速、今度は、その罪悪感を払拭するために、社会的マイノリティの救済のための各種の事業に乗り出して行く。

だが、こうした他者への奉仕が行われる動機は、全て信者が自己の内側に持っている拭い去れない不安や罪悪感をごまかすためであり、神との関係で救いの確信を持てない信者が、人との関係において自己の正しさを主張するために行われているのである。このような動機では、どんなに他者のための奉仕を装っていても、その労働は神への従順や、隣人愛から出た行動ではなく、すべては結局、自分のためであり、しかも信者が自己の本質から逃避するために生み出された自己欺瞞の活動でしかないのである。

だから、どんなにプロテスタントの信者が「天職」や「社会貢献」といった言葉で美化しようとしたとしても、こうした信者たちの行う奉仕や労働の目的は、本質的に、神からの逃避、自己からの逃避、自己の本質を偽ることにあり、そのような逃避行動に熱中すればするほど、その信者たちは、神に近づくどころか、ますます神から遠ざかり、本当の自分自身が分からなくなっていく。
 
プロテスタントの信者たちの世俗における労働だけではなく、彼らが作り上げる「教会」も、彼らの(贖われていない)魂の状態から来る心の不安や恐れを覆い隠すために作り出される現実逃避であり、巧妙な「マトリックス」の一環なのである。

こうした信者たちは、この世においても教会においても、自ら作り出した「マトリックス」に埋没し、そこで何らかの「役割」を演じることで、自分の真の姿から目を背ける。そして、自分は他者に奉仕しており、他者にとって「有用」な人間であるから、あるべき状態にあって、価値を持つ人間であると考え、これを救いの代替物として、自分は神の御前で単独では何者なのかという恐怖に満ちた問いと直面することを避けるのである。

信者は絶え間なく自己の外側での活動に熱中し、他者との関係に埋没することにより、神が分からないことからくる自己の不安、恐れ、罪悪感などから目を背け、そうした意識のせいで感じられなくなっている自己価値を、自分自身の善行や、他者からの承認や賛同といった外的な要素に置き換えるのである。

信者たちは教会や社会の中で、奉仕や労働を通じて「役割」を果たし、その役割を通して作られた自分のイメージを自分自身(もしくは自分に対する神の召し)にすり替え、自らが果たしている役割に他者からの承認や評価を受けることで、人の目から見た評価を、自己価値とすり替えるのである。こうして、他者との関係性の一切ない、ただ神と差し向かいで、神と自分しかいないところで、自分とは一体何者なのか、自分の価値とは何なのか、自分は本当に贖われているのか、神に受け入れられているのか、罪は赦されているのか、神は一体自分をどうご覧になり、自分に何を求めておられるのかといった一連の疑問と向き合うことを避けるのである。表向きには、神の召しに応じることを口実にしながらも、その実、ひたすら人間社会の生活に埋没することにより、神ご自身と向き合うことを避け続けていると言って良い。
 
こうして、プロテスタントは、信者が差し向かいで神とだけ向き合い、人間を通してではなく、ただ聖書の生けるまことの神ご自身を通して、聖書の御言葉の意味を理解し、キリストを内に啓示され、キリストの義と聖と贖いを、神が自分のために個人的に備えられた確かな恵みとして受け取るのではなく、むしろ、そのような揺るぎない救いの確信は、生きているうちに得られるものではないとして、信者が神と向き合わないために得られない救いの確信を、この世の人々に奉仕し、人から受ける承認や賛同によって埋め合わせることができるかのように教え、神と出会ってさえいない、贖われたかどうかも分からない信者が、熱心な奉仕や労働によって、あたかも神に近づけるかのような、偽りに満ちた教義を提示するのである。

だが、どんなに信者たちが行いによって自分を正そうと努力しても、外側の事柄は決して内側の事柄に取って代わらず、外側の目に見える人間の客観的な評価が、人の内的な自己価値を決めるわけでもない。どんなに人から承認を受け、社会で立派な役割を果たして、自他共に満足したとしても、その満足は麻酔薬のような束の間の効果しか持たず、人が内心で抱える根本的な恐怖や不安を寸分たりとも払拭する効力を持たない。真のリアリティは、信者の外側で起きることにはなく、内側で起きることにある。

しかしながら、プロテスタントの教義には、もともと神の御心をとらえがたいものとみなし、人間の価値を、神との関係性において規定されるものではなく、人間同士の関係性を通して規定されるものであるかのようにみなし、信者が神にとって有用な人間になることではなく、目に見える他者にとって有用な人間になることを、神の召しに応えることと同一視するという著しい概念のすり替えがあった。

その概念のすり替えこそ、プロテスタントの信者たちを誤謬に向かわせた最大原因なのであり、そのような転倒した文脈で信者に奨励される奉仕や労働は、結局、信者を人間の利益のために道具化する効果しか生まず、プロテスタントは、信者が人の目に有用と認められる奉仕を続けることにより、神の召しに応えられるかのような偽りを教えることで、信者の存在を、神の目に絶対的に尊い存在ではなくして、社会において役割を果たし、人間の目に有用性が認められることにより、相対的に信者としての価値が高まるかのようにみなし、こうして信者を人間の利益と欲望を叶えるための道具に貶めてしまったのである。その結果、教会の中にも外にも、神の召しや新しい人間などという言葉からはほど遠い、人間の欲望にまみれた現実逃避のマトリックスとしての一大バビロン体系が築き上げられたのである。

筆者は、このようなものが「信仰生活」であるとは考えていない。この生活の中には、ただ人類の利益だけがあって、神が不在である。

こうした文脈における労働の概念には、神の国とか、神の召しだとか言った高尚な言葉よりも、むしろ、囚人の懲罰労働のイメージの方がよく合っている。

自分が確かに救われて神に受け入れられていると信じることのできる人々は、神のさばきを恐れることなく、救いが失われるのではないかという不安や恐怖に苛まれることもなく、自分が他者に奉仕しているかどうか、他者から承認や賛同があるかないかに関係なく、安息していられる。自らの内心の恐怖から逃れるために、絶え間なく外側の活動に熱中して労働に従事したり、自らの努力によって、自分がいかに素晴らしい人間であるかを社会に言い聞かせる必要もない。

だが、自分が確かに救われているという確信がなく、キリストの贖いの完全性を信じられず、自分が罪赦され、神に受け入れられているという確信のない人間にとって、この世における生活は、自分に対する神の厳しい審判と罪の結果としての刑の執行を待つための恐怖に満ちた時間でしかない。そこで、神の恐るべき審判を待つための待合室でしかない地上での厄介で心苦しい時間をどうやってやり過ごすかということが課題になる。
 
救いの確信の欠如した人々は、この恐れを紛らすために、互いに寄り集まって、慰め合い、自己肯定し合うための各種のもっともらしい奉仕活動を生み出し、これを贖罪行為として、互いに仕え合うことで、自分は罪の償いを果たしたのだと自他に言い聞かせようとする。だが不思議なことに、その罪の意識は、決して真実、人の罪を赦す権限を持っておられる方には向かわず、むしろ、罪を赦す権限のない罪人同士の告白のし合い、傷の舐め合い、慰め合いという形で終わって行くのである。

こうして、互いに内心の恐怖を抱える人間同士が、神から逃避するために集まって慰め合うために行われる奉仕や労働は、神や隣人への奉仕にはならないどころか、それは人が自己の罪なる本質から目を背け、他者との関係性の中で偽りの自己像を作り出すことによって自己を欺き、内的な救いの確信がないのに、自分は贖われた正しい人間であると自己の正当性を主張しようとする「イチヂクの葉同盟」でしかなく、それは人類が神に逆らって、自力で自分を贖おうとする神の最も忌み嫌われる反逆的な「バベルの塔建設の試み」でしかないのである。

問題は、一体、信者は誰のための奉仕者、誰のための労働者なのか、という点にある。プロテスタントの信者が、牧師一家の生計を支えるために、あるいは組織としての教会の拡大のために、熱心に奉仕と献金に励むことと、信者が神の召しに応答し、神に仕えることは完全に別の事柄である。また、信者がこの世の不信者を助け、この世の社会を発展させるために熱心に労働に励むことと、神の召しに応答することは必ずしも同義ではない。何よりも、これらの奉仕の対象は、常に人間であって、神ではない。

パウロは自分自身を「キリストの奴隷」と呼んだが、今日のプロテスタントは、信者を「キリストの奴隷」よりも「教会組織の奴隷」、「聖職者の奴隷」、「社会の奴隷」、「この世の奴隷」に変えようとする各種の運動を生んでいる。

かつてプロテスタントには、ハドソン・テイラーのような宣教師や、ジョージ・ミュラーのような信仰の偉大な先人たちが存在し、そうした信仰者たちは、大衆を対象とする大規模な伝道や、困っている孤児たちを信仰によって養うという、一見、社会奉仕活動にも似た活動を行った。

だが、世が終わりに近づけば近づくほど、そのように大衆の心を動かして社会に変革をもたらす偉大な信仰者の時代は過ぎ去り、むしろ、大衆受けするものの中に潜む「セルフ」の堕落が、この上なく明らかになって、ますます「セルフかキリストか」の厳しい選択を信者一人一人が迫られることになっているように感じられてならない。

今日、一般大衆に大規模に影響力を及ぼそうとする全ての活動は、反聖書的で、堕落したものであり、たとえクリスチャンの活動であっても、大衆の心を掴むことを目的にし始めた時点で、神に向かう純粋な信仰から逸れてしまう。

さらに、目下、世界経済が行き詰まりを迎えていることは、誰も否定しない事実であり、そこで従来通りの考えで、大衆を喜ばせ、「社会を発展させる」ことを目的に労働に従事したとしても、かえってますます矛盾が深まるだけであることは、誰しも気づいていることであろう。現在の我が国において、年金制度は崩壊に向かい、税は正しく運用されず、国富はまるでATMのように米国へ注がれ、吸い取られている。マスコミや、大学や、政府からは、良心的な知識人が次々と排除され、権力を批判する言論は封殺され、人々の良心の声は踏みにじられ、犠牲とされている。この国はすでに社会主義国と何らか変わらない歪んだイデオロギーに基づく偽りの社会となっており、あたかも一般大衆の信任を得たかのように、公の場で繰り広げられる運動は、ことこどく虚偽と化しているという印象を受けざるを得ない。

このような現状で、人がただ社会の発展のために己を労働力として差し出して生きるだけでは、実際には何の社会貢献にもならず、そのようなことが決して人の使命ではなく、正しい生き方でもないということは、多くの人々がすでに理解しているところであろう。

むしろ、この状況下で、人がただ黙って労働に従事することは、バビロン体系とそのイデオロギーを延命させる措置にしかならず、それは「一億総プロレタリア社会を作り、労働を通じて自己改善することで、理想社会を到来させよう」という、神に逆らう人間中心の歪んだイデオロギーを、人が無意識に肯定し、自らをその「マトリックス」の発展の礎として捧げることにしかつながらない。

そんな奉仕や労働を通して、クリスチャンが神の召しに応えることはできないばかりか、それでは人間の幸福に寄与することもできず、社会貢献にもつながらないであろう。むしろ、社会をより不幸な場所とし、自分と他者を道具化して、より一層の不幸に追いやる原因を作るきっかけにしかならない。

キリスト者とは、本来、この世の君の支配する「マトリックス」としての世をエクソダスした人々である。キリスト者は、贖われていない人々の堕落した自己(セルフ)の集大成としてのこの世のバビロン体系を出て、御子の復活の命によって治められる領域に召し出された人々である。

この贖い出された新しい人々の目的は、すでに後にして来たエジプト・バビロンを振り返ってこれに仕えることにはなく、神に対して生き、御国の権益に仕え、神に栄光をもたらすことにこそある。そこで、キリスト者にあっては、人間を喜ばせ、自分自身を喜ばせ、滅びゆく地上の人々の欲望から成るこの世の社会をより一層、発展させるために、自らを奴隷のごとく差し出して仕えるという生き方はすでに終わっていると言って良い。

キリスト者は、人類の栄光のためではなく、神の栄光のために、キリストと共に死を経て、よみがえらされ、キリストの復活の証人として、この新しい命の領域の中で、神の国の統治を地上にもたらすための働き人として召し出されたのである。

だから、キリスト者はあくまで神のための働き人であって、この世や、この世の目に見える人間のための働き人ではないのである。たとえ他者に愛ゆえに奉仕するにしても、それは人間的な動機からなされるべき事柄ではなく、まして、神が分からない自己の不安や恐怖から逃避するために行われるのでは本末転倒である。だが、プロテスタントでは、この点において、極めて重要な争点がごまかされ、すり替えられており、御国のために召し出されたはずの人々を、再び、世の方を振り向かせ、信者が神からの承認を受けるのではなく、人(世)からの承認を受けるために生きるように唆す教えが語られている。そして、この教えは、信者が世人の前で自分自身の価値を自ら証明するよう促す。その手段が労働なのであり、己が労働を通じて、信者は天地の前に、自らの正当性を、自分が贖われた者であることを証明せよ、というわけなのである。

キリスト者がこのような無限ループのような悪魔的罠に、これ以上、はまっていてはならないと筆者は確信する。もしこのような偽りの囁きに耳を傾けるならば、クリスチャンは早速、ユダヤ教の時代に引き戻され、再び、律法の要求にがんじがらめになるだけであろう。社会の発展に貢献するとか、天職に邁進するとかいった、一見、もっともらしく聞こえる、美しい言葉に欺かれるべきでなく、そのようなところに自分の召しを置いてしまうと、その人は結局、見に見える人間や、この世の贖われていない人々の思いや、価値観、評価を通して、自分自身の価値を規定されてしまうことになる。

その結果、贖われた人々が、再び世の支配下に置かれることになるのである。世人は、信者がどんなに労働を通じて社会に貢献しても、「もう十分だ」とは決して言わず、「もっと寄越せ」、「まだまだ足りない」と言ってくるであろう。何しろ、人の魂の身代金は高すぎて、自分では払いきれず、人間が労働を通じて自己の罪を贖う試みは、永久に終わらないからだ。それはいつまで経っても登り切れないピラトの階段、グノーシス主義の果てしない偽りの霊性の梯子であり、信者が自分で自分を人の奴隷とすることと同じなのである。
 
神は、キリストを通して、信じる者のために必要なすべてをすでに備えて下さり、信者のために完全な贖いを提供して下さった。そこで、信者は、神の目に完全になるために、これ以上、自分の努力によって自分に何かをつけ加える必要はないのである。健全な労働は、自己を改造して理想状態に近づくために行われるものではない。絶えず他者との関係性において自分があるべき役割を果たしていることを確認することで、自己の正当性を主張するために行われるものでもない。

そのような文脈で、絶え間なく自己改造の努力にいそしまなくとも、神は信じる者をご覧になって、キリストをご覧になるのと同じように、「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ」と言って下さり、また、最初に創造された人類を見て満足されたのと同じように、信者を見て「甚だ良い」と言って下さる。

神が「甚だ良い」と言っておられるものを、何のためにそれ以上、信者が自己改造する必要があるのか。むしろ、キリスト者は、そういう不安を抱かせる世人の偽りの評価を、自分の心から完全に締め出し、絶え間ない奉仕を通して、自己を吟味し、自力で自己を改善することで、世人の批判を交わし、神の召しにも応じて、理想状態に近づけるかのような思い上がりを一切、捨て去るべきである。そして、自分の義と聖と贖いは、目に見えるどんな人間の評価にもよらず、ただキリストだけから来るものであり、自分は信仰を通じてそれをすでに受け取っている以上、自己改善は不要であることを認識し、キリストの贖いの完全性の確信に安んじると共に、絶え間なく社会の思惑を気にするのではなく、神は何を喜ばれ、何を自分に望んでおられるのか、それだけに関心を絞って生きるべきであろう。

信者の古き自己は、あらゆる点で不完全さしか想起させないであろうが、それはすでに水の中に沈んで、主と共に十字架で死んでいるのであり、もはや信者が注意を払うべき対象ではない。信者は、神の目に生きているのは、「もはや私ではない」ことを認識すべきなのである。そう、とてつもないことであるが、神はご自分の愛する子供たちを、キリストと同じ性質にあずかる者として見て下さるのである。だから、信者は自分自身を規定するものさしを、人間の評価や、社会の評価から、聖書の御言葉を通して注がれる神の変わらない眼差し、神の変わらない約束へと変えるべきなのである。そうしてこそ初めて、「私ではなくキリスト」が実現する。他者に仕えるにしても、全てはその次の段階の事柄であり、神との関係があるべき状態へ是正されて初めて、人への奉仕もなしうる。その順序は決して逆になってはならず、それが守られない時には、人間への奉仕が、結局、神への反逆へと結びつくのである。

たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは
あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。」(ローマ3:4)

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です」(ガラテヤ2:20-21)

PR