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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

バビロンの包囲の中で

 昨日、エクレシアのことを書いたが、重大な注意点を補足せねばならない。それは、キリスト者が集まって神を礼拝することの喜びが、たとえどれほど大きかったとしても、私たちは、その喜びを求めるために集まるようになってはならないという点だ。キリスト者は、人生最後の瞬間まで、ただ神ご自身のみに目を向け、神ご自身だけを切に求めるようにしなければならない。それが礼拝の目的である。

 ドストエフスキーが警告しているように、集団的な跪拝の対象を求める人類の欲望には、果てしない深みがある。私たちは人知によっては、何がバビロンであり、何がエルサレムであるのかをきっと見分けることができないだろう。それほどまでに、かの者の誘惑は深い。サタンの荒野の第三の誘惑である地上の王国の中には、必ず、繁栄ばかりでなく、統一的な地上の宗教が含まれている。私たちは、自分が神のみに目を注ぎ、神に栄光を帰するためにある場所へ赴こうとしているのか、それとも、集団的な跪拝が生み出すあの興奮を求めて出かけようとしているだけなのか、それを常に、吟味し続ける用心深さを忘れてはならない。

 たとえキリスト者の集まりがどれほどの深い感奮をもたらすものであったとしても、私たちは、それを得ることを目的にして礼拝を行おうとしてはならないのだ。仮に、隣にいるキリスト者の中に、どれほど感動的な主の臨在を感じたとしても、私たちはただ天に目をむけ、天にまします私のお一人なる神だけを見上げることを忘れてはならない。隣の人の中にこそキリストがおられると考えて、その人の内側に目を向けようとすべきではない。(確かにキリスト者それぞれうちにはキリストが住まわれているのだが。)

 なぜなら、もしもそのように注意していなければ、私たちはあまりにもあっけなく、隣人の中の「現人神」に目を奪われ、そのきらびやかさに魅せられてしまうだろうからだ。元来、神のかたちに似て創造された人間の中には、人の目を惹きつけてやまないある種の誘惑が潜んでいる。それを用いて、人が神に仮装することはまことに簡単なのだ。たとえ、その人が「私は神だ!」とあからさまに叫んでいなかったとしても。

 だから、人に惑わされないよう常に気をつけていなければならない。キリスト者はいつでも、ただ主ご自身だけを一心に見つめるようにしなければならない。そのことだけが、あらゆる惑わしからクリスチャンを救ってくれるだろう。

 考えれば、考えるほど、現代のキリスト者は、いずれも深いバビロンの中にとらわれており、バビロンによって全面的に包囲されているのではないかと思われてならない。このバビロンの誘惑は極めて深い。

 一つには、それはバビロン化したニッポンキリスト教のことであると言えるだろう。だが、しかし、これ以上、その名称を使い続けることがためらわれるのは、ニッポンキリスト教という枠組みの中だけで、背教を論じようとすることに、そもそも意味がないからだ。むしろ、ニッポンキリスト教界という名を多用することによって、私たちは、背教が、そこに限定されて働くものでなく、もっともっと深い危険性を持っているものであることを忘れ去ってしまうかも知れない。

 バビロンとはまず、私たちキリスト者を完全に包囲している空中に働く霊的影響力であり、地理的な境界や、あらゆる組織の枠組みを超えて働く、諸霊の力であると認識すべきだろう。それは決して、キリスト教界内のみに限定して働くことはない。バビロンとは、まさに私の周りに広がっている世界全体のことだ。

「それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のように輝いている。」(ピリピ2:15)

 この世はまさに曲がった邪悪な霊の支配に覆われている。キリスト者はその暗闇に囚われながら、御言葉の灯火を輝かせている小さな星だ。
 預言者エレミヤはバビロンにとらわれたエルサレムの民に、主が命じられていることを告げた。「わたしがあなたがたを捕らえ移させたところの町の平安を求め、そのために主に祈るがよい。その町が平安であれば、あなたがたも平安を得るからである」(エレミヤ29:7)。

 この言葉は、偶像礼拝の支配する土地の只中に住んで、異なる宗教的価値観にさらされて生きねばならない私のような者にとって、一種の安らぎとなる。私はこの土地の安全なしには、生きていけない。だから、この土地の実りと安全を願わずにいられないが、それは神の御心に反することではないと理解することができる。バビロンの中に住んでいるイスラエルの民は、とらわれている町の中で、安らかに暮らすために、町の平安を願っても良いとされた。

 だが、注意せねばならないことは、異教の町の安全を願うことは良くとも、エルサレムの民は、決して、その異教の町から霊的影響を受けてはならないと主から命じられたことだ。

「あなたがたのうちにいる預言者と占い師に惑わされてはならない。また彼らの見る夢に聞き従ってはならない。それは、彼らがわたしの名によってあなたがたに偽りを預言しているからである。わたしが彼らをつかわしたのではないと主は言われる」(エレミヤ29:8-9)

 注意せねばならないのは、「わたしの名によって偽りを預言している」と、神はエレミヤを通して、はっきりと警告されたことである。異教の神の名によってなされる預言ではなく、まさに唯一の神の名においてなされる預言の中に、信じてはならないものがあると警告がなされたことである。
 現代における背教もこれと同じである。私たちが警戒せねばならないのは、非キリスト教の教えではなく、キリスト教の名でやってくるあらゆる背教である。だが、その背教が、明らかな異端と分かっている腐敗した教えや、カルトと名指しされている集団や、ニッポンキリスト教界の名だけでやって来ると思っていたら、大間違いだ。背教はまさに主の御名を通して(偽のキリスト者から、もしくは堕落しつつあるキリスト者から)やって来るのである! 主の御名をかたりながら、偽りを広める人間は、どこにでも存在しうるのだ。(明日にでも、私がそうならないという保証はどこにもない! 主が私を守ってくださり、御言葉のうちを歩めますように!)

 背教に囲まれている今の時代にあって、神の名を用いながら、神が語られたのではない教えに影響を受けた誰しもが、疫病のように、背教を持ち運ぶ器となりうることに、私たちは注意せねばならない。さて、とらわれた民に向けられたエレミヤの預言は、次の有名なくだりにさしかかる。

 「主はこう言われる、バビロンで七十年が満ちるならば、わたしはあなたがたを顧み、わたしの約束を果たし、あなたがたをこの所に導き帰る。
主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災いを与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。
その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。
あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる。
わたしはあなたがたの繁栄を回復し、あなたがたを万国から、すべてわたしがあなたがたを追いやった所から集め、かつ、わたしがあなたがたを捕われ離れさせたそのもとの所に、あなたがたを導きかえろうと主は言われる。」(エレミヤ29:10-14)

 バビロンでの捕囚には70年という月日が定められていた。この捕囚の終わりは、私の人生においては、キリスト教界を抜け出た事件とも重なって見える。だが、考えてみよう。キリスト教界を抜け出れば、それがすなわち、バビロンを抜け出たことになるのか? それが、私が背教の影響にさらされる時代の終わりとなるのだろうか? 違う。断じて、そうではない。

 この曲がった時代にあって、一体、どんなキリスト者が、バビロンの包囲から完全に抜け出たなどと豪語できるだろうか。いや、今なお、私は捕囚の状態にあると言った方がふさわしいだろう。もちろん、主はそのとらわれの苦しみの中でも、私に平安と、将来の希望を約束して下さっている。だから、主に信頼して、揺るぎない平安の中に立っていれば良いのである。だが、真実の解放は、主の定められたその時(サタンの完全な敗北と主の再臨の時)でなければやって来ないことを忘れるわけにはいかない。

 確かに、私にはかつて奪われたものが少しずつ主の恵みによって回復されつつあり、追いやられた土地から、主の御名のもとに集まる人々のもとに引き戻された。だが、それで万事が回復し、警戒の必要はなくなったのかと言えば、そうではない。もはや背教は後ろに過ぎ去り、私とは無縁になったと言えるかと言えば、そうではない。油断は禁物である。戦いはまだまだこれから始まるかも知れないからだ。(いや、恐らく、今からが本番なのであろう。)

「あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる。」

 エクレシアとは、一人ひとりの信者が神だけを一心に尋ね求めて、神に出会う場所のことだ。それはどこか限定された一区画の土地である必要はまったくないし、集まる人々の種類にもよらない。
 私たちがただ主のみに心を向け、ただ主ご自身の臨在のみを求める時に、神自らが私たちに会ってくださるのだ。仮にそれが一人ぼっちの礼拝であったとしても、神が臨在されるならば、それは十分に礼拝であると言えるだろう。だから、恐れることはない。私たちは信者に会うために常にどこかに出かけようとする必要はないし、集うことに過度なこだわりを抱く必要もない。ただ、神にお会いすることだけを切に求めていれば、全ては兼ねて与えられるのだ。
 
 集団的な跪拝というものが作り出す情熱と興奮を求めて各地を行き来することがないよう注意しなければならない。そのような情熱の中に、背教が大きな原動力を見いだしていることは確かだからだ。だが、それでも、もしも許されるならば、私は心から共に主を礼拝する仲間と出会い、喜びを分かち合いたいと願わずにいられない。そして、共にキリストの御身体なる兄弟姉妹として、欠けた部分を補い合い、互いに助け合い、支え合って生きていきたいと思わずにいられない。(もちろん、神の御前での単独者としての立場を忘れるわけではないが、これ以上、一人きりで信仰生活は、沢山である。)
 私は心の底から、兄弟姉妹と集える日が来ることを願い、また、そのことを切に主に求める。

 主よ、あなたのいつくしみ深さ、恵み深さをどうかもっと私に教えてください。
 あなたの私への愛の広さ、深さを、どうかもっと知らせて下さい。
 あなたこそがすべての恵みの源。私はあなたの愛を求めてやみません。
 花婿なる主よ、私はあなたにお会いしたいのです。
 あなたが私のうちにおられるだけでなく、主を愛される人々の只中に、
 臨在されることを知りたくてたまらないのです。
 主よ、あなたの訪れをただ待ち望みます。

 
 
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