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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

相模原で起きた障害者の大量殺人事件は、安倍政権の歪んだエリート主義が生んだ実である(1)―偽りのエリート主義としての優生思想とは訣別せよ

・相模原の障害者殺害事件を通して、安倍政権の推進する弱肉強食の社会の理念と、偽りのエリート主義が社会にもたらす恐ろしい弊害を考える

安倍政権が参院選後、沖縄で凶暴な牙をむき出しにしている――。
ポケモンGOなどに浮かれ、操り人形として踊らされている場合ではない。

この記事では当初、高江のヘリパッド建設にまつわる政府による弾圧について書く準備をしていたが、それをアップロードしない間に、相模原での障害者殺害事件が起きた。双方の事件に、安倍政権の残酷さがよく反映している。まずは相模原の件から書いていきたい。
 
相模原の事件は、どこかしら神戸の児童連続殺傷事件を思い起こさせる。容疑者の幼稚さのために、神戸の事件ほどの衝撃的なストーリー性を伴わないが、殺害された人数は、神戸の事件をはるかに上回り、戦後最悪の殺人事件となった。

これが神戸の事件を思い起こさせる第一の要素は、まず容疑者の名前である。スプートニク記事では、相模原の殺人事件の容疑者の名前が「聖(サトシ)」であるとわざわざ読み仮名つきで報じられていた。サトシとは、言わずと知れたポケモンの主人公の名前であり、さらに、「聖」という、凶悪な反抗には似つかわしくない、皮肉のように逆説的な名前の漢字から思い起こされるのは、酒鬼薔薇聖斗の名である。

ちなみに、神戸の事件については、筆者は今でも、酒鬼薔薇聖斗は当時の少年Aとは別人であり、これは国家による捏造された犯罪であり、警察の内部犯行であったとの見解に立っている。すでに書いた一連の記事の中で、酒鬼薔薇聖斗の持っていたような思想は、14歳の少年からは決して生まれ得ないものであること、また、犯行の特徴も少年のものではあり得ず、この事件は、少年法改正(厳罰化)という目的に向けて世論を誘導するために、国家権力によって仕組まれた犯罪であったという見解を示した。

(ちなみに、同様の見解を示している人々は他にもおり、筆者が幾たびか引用した「神戸事件の真相を究明する会編 神戸小学生惨殺事件の真相 」だけでなく、「「酒鬼薔薇事件」18年目のミステリー…別人犯行説を追う(前編)」、「「酒鬼薔薇事件」18年目の真相…犯行声明文は警察が作成!?(後編) 」などにも同様の主張が見られる。)

今、筆者は、相模原の事件について、これが神戸の事件と同様に、国家権力によって予め計画された殺人事件であったと指摘しようとしているわけではない。

だが、植松容疑者は今年2月に衆議院議長に犯行声明文を渡してこの計画に同意を得ようと試み、その手紙の中で、わざわざ安倍晋三へのコネクションを依頼していたという事実からも分かるように、植松容疑者は自らの犯行に対して、国家権力からの同意を予め得ようとしていたのである。そして、国家はそれを知りつつ、これを防ぎ得なかったことを考えれば、不作為の罪によって犯行に加担したも同然だとのそしりは免れられないであろう。

さらに、植松容疑者がわざわざ国家当局者に宛ててそのような手紙を書いた理由は、この相模原の事件にもまた、その根底に、国家権力、特に、自民党政権が歴代に渡って推進して来た偽りのエリート主義と重なる思想が流れているからである。

つまり、相模原の事件も、神戸の事件と同じく、思想的には、これまで我が国が国策として推進して来た誤った弱肉強食のエリート主義的政策の延長上に存在するのである。

そこで今回の記事では改めて、酒鬼薔薇聖斗の事件と、植松容疑者の事件には共通して、国家権力によって作り上げられた偽りのエリート主義思想の深い影響が見られること、その意味で、これらの事件を生んだ本当の責任は、国の弱者切り捨て政策にあり、これを改めない限り、同様の事件は今後も続く可能性があることを考えて行きたい。

さて、相模原の事件が、神戸の事件を彷彿とさせる第二の点は、神戸の事件でも、犠牲者の中には障害者が含まれていた点である。

第三に、酒鬼薔薇聖斗は、神戸新聞社に宛てて手書きの犯行声明文を送ったが、今回の容疑者も、衆議院議長に宛てて、手書きの犯行予告の文面を書いていた。(「逮捕の男 衆議院議長宛てに手紙 入所者の殺害を示唆」NHK NEWS WEB 7月26日 12時06分)


 
画像の出典:「植松容疑者の衆議院議長公邸宛て手紙の全文 障害者抹殺作戦を犯行予告」(ニュース速報Japan 2016/7/26)


酒鬼薔薇聖斗の犯行声明文。画像の出典:「「酒鬼薔薇事件」18年目の真相…犯行声明文は警察が作成!?(後編) 」)


相模原の事件を引き起こした植松容疑者の犯行声明の文面は、酒鬼薔薇聖斗の文章のように高度に知的かつ衝撃的な印象を与えるものではなく、はるかに単純で幼稚なものであった。両者の表面的な最も大きな相違点は、酒鬼薔薇聖斗は自らの犯行声明文を、学校と社会と警察に対する「挑戦状」として突きつけ、そこで自らの犯行を、社会を震撼させるための「復讐」であるとして、初めから社会の理解や同意を度外していたのに対し、植松容疑者は、その声明文の中で、自分の犯行が、社会に復讐を果たすためではなく、むしろ、「全社会の利益の為に」行われるものであり、自分が社会の利益の代弁者として行動しているのだという自負をしきりに強調し、自分の犯行に対して前もって国家の理解と同意を得ようとしていた点である。
 
この二つの特徴は一見、大きな相違点のように見えるが、実のところ、本質的には全く類似する思想である。

酒鬼薔薇聖斗と植松容疑者の思想の大きな共通点は、彼らが共に自らの犯行に、明らかに、個人的思惑を超えたある種の誇大妄想的な思想に基づく「大義」を付与しようとし、自らの殺人が遠大な計画の一環であることを示す記述を残している点である。

酒鬼薔薇聖斗は、自らの犯行を「透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐」と呼んで、第1、第2犯行声明文では次のように述べた。
 

汚い野菜共には死の制裁を
積年の大怨に流血の裁きを
学校殺死の酒鬼薔薇」
「ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない」 


酒鬼薔薇は自分は単なる殺人鬼なのではなく、自らの犯行は、空想の中だけにしか存在しない自分の本当の姿を人々の記憶に焼きつける自己顕示のための手段であり、自分自身が「日頃の憎悪から解放され、安らぎを得る」ために行なわれる自己救済の手段であり、なおかつ、「義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐」の意味があると認識していた。
 

しかし今となっても何故ボクが殺しが好きなのかは分からない。持って生まれた自然の性としか言いようがないのである。 殺しをしている時だけは日頃の憎悪から解放され、安らぎを得る事ができる。人の痛みのみが、ボクの痛みを和らげる事ができるのである。

 
 酒鬼薔薇聖斗は、人前に公然と姿を現して犯行に及ぶことはせず、あたかも自分が人々の「空想の中だけ」にしか「実在」しない、架空の人間であるかのように、自分は今もこれからも「透明な存在」であり続けると述べた。何よりも、酒鬼薔薇聖斗という実在しない名が、犯人が演出した自己像が「ヴァーチャル」なものであることをよく物語っている。犯人は、現実の自分自身ではなく、このヴァーチャルな自己像こそ本物の自分自身であると宣言したのである。

これに対して、植松容疑者は、堂々と自分の名を記して犯行予告の手紙を書き、自分で衆議院議長に渡そうと試みた。かつ、深夜とはいえ、自分の姿を複数の目撃者の前にさらして犯行に及んだ。この点で、一見、酒鬼薔薇聖斗とは対照的に見える。しかし、これもまた両者の事件のほんの表面的な相違点を示すに過ぎない。

結論から述べると、酒鬼薔薇の犯行の動機と、植松容疑者の犯行の動機には、両者ともに、歪んだエリート主義があり、そして、酒鬼薔薇聖斗の時代にあっては、まだ公には正体を隠していた「魔物」は、植松容疑者にあっては、現実の人間と一体化し、これを乗っ取って、公然と現実世界に姿を現したのである。
 
だが、両者ともに、この「魔物」は、我が国の政権与党の理念、自民党政権が国策として推し進めて来た数々の政策と根本的に一致する思想を持って、これと合わせ鏡のように登場して来たものである。

我々は想像力を働かせなければいけない。酒鬼薔薇聖斗のように、自分の殺人に、社会・学校・警察など、国や社会の組織や機関そのものへの挑戦・復讐の意味合いを込めるという思想は、かなりの知的な成熟がないと生まれて来ない。

その意味で、こうした思想は、社会や世の中に対するものの見方が固まっていない中学生からは到底、生まれ得ないと考えられるだけでなく、さらに、これほど根深い義務教育への復讐心は、おそらく義務教育以上の高等教育を受けた人間にしか持ちえない感情だと考えられるのである。

酒鬼薔薇の文面は、その知的さ、思想的深みから判断して、このような文章を書く犯人は、決して義務教育において「落ちこぼれ」の立場に立つ劣等生ではなかっただろうという推測を生む。このような文章を書く人間は、劣等生どころか、むしろ、義務教育では「エリート」として成功をおさめる優等生の側に立っていただろうと推測される。

つまり、酒鬼薔薇聖斗の持つ人物像とは、学校の成績も悪く、家庭にも色々な問題があって、いつも問題行動ばかりを起こしては、教師や他の生徒から睨まれ、要注意人物のようにみなされているような、あからさまな「義務教育の失敗作」と見えるような問題児ではあり得ないということである。

むしろ、学校では良い成績を収めて、良い大学に進学し、人前では常に自分を抑えて模範的に行動し、周囲の人々から立派だと褒めそやされて、外見からは、とても残忍な犯行に及ぶことができるとは想像もつかない、立派な人物と映っていたのではないかと思われてならない。
 
酒鬼薔薇聖斗ほどの深い義務教育への怨念と復讐心は、義務教育で「落ちこぼれ」とみなされ、恥をかかされ、失望したというような表面的な動機から生まれるものではなく、むしろ、義務教育において優等生とみなされ、成功例とみなされたがゆえに、その成功体験から抜け出られなくなり、一生、さらなる高みを目指すために階段を上り続けねばならないという、エリート教育のシステムから永遠に抜け出せなくなり、自由と個性を圧殺された人間の怨念と復讐心を示すものであるように思われてならない。

つまり、酒鬼薔薇聖斗の本当の人物像は、義務教育の落ちこぼれではなく、むしろエリートなのである――その確信は、「懲役13年」の以下の部分を読むとより一層深まる。
  

 大多数の人たちは魔物を、心の中と同じように外見も怪物的だと思いがちであるが、事実は全くそれに反している。通常、現実の魔物は、本当に普通な彼の兄弟や両親たち以上に普通に見えるし、実際そのように振る舞う。彼は徳そのものが持っている内容以上の徳を持っているかの如く人に思わせてしまう… ちょうど、蝋で作ったバラのつぼみやプラスチックでできた桃の方が、実物が不完全な形であったのに、俺たちの目にはより完璧に見え、バラのつぼみや桃はこういう風でなければならないと俺たちが思い込んでしまうように。


この文章が示しているのは、他でもなく酒鬼薔薇自身が、現実の生活においては、「徳そのものが持っている内容以上の徳を持っているかの如く人に思わせてしまう」ような、外見から判断するに、残忍な犯行には到底、似つかわしくない人物だったのではないかということである。

以上のような事柄から察するに、やはり、筆者には、酒鬼薔薇聖斗の本当の人物像とは、家庭でも学校でもぱっとしない平凡な14歳の少年などでは決してなく、義務教育において着々と成功をおさめ、周囲からは実に優秀な人間だとみなされながら、エリートコースを上って行った人間、エリートコースから失敗して脱落することができなかったからこそ、永遠にそのシステムの奴隷とされながら、自分を奴隷とした国家と社会に無言のうちに尽きせぬ復讐心を抱いていた人間なのではないかと思われてならない。
 
劣等生であれば、早々に自分の能力の限界を表明して、過酷な競争の舞台から降り、別の世界に生きることが出来ただろうが、下手に高度な知能を持っていたがために、いつまでもエリートコースから外れることができず、周囲の期待に応え、優秀な外見を取り繕うために、一生、優等生の仮面を外すことができなくなって、競争の舞台から降りられなくなったのである。

彼はまさに「お国のために優秀な人間を生み出す」ことを最高の目的とする歪んだ教育システムの犠牲者となった人物であり、そのような歪んだエリート主義が結集している場所は、国家権力(国家公務員制度)を置いて他にはない。

戦前、官僚が天皇の直属の機関とされ、国民に君臨するエリートとみなされたのと同様に、敗戦後も、日本の教育システムは、国家公務員試験を上位で突破できるような、偏差値優秀な人間を育て、「お国のために」役立つ優秀な人材を育てる以外の目標を何ら打ち出すことができなかった。そのようなものが「エリートコース」なのだという幻想が、この国では愚かにも未だに信じられている。

この偽りの歪んだエリート主義教育の弊害は、このシステムで落伍者となった人間よりも、むしろ、比較的成功者となった人間にこそ、強く現れるものではないだろうか。すなわち、虚栄のために果てしない競争の中で踊らされ、試験の点数などの全く無意味なうわべだけの評価に基づいて作られた人間関係の序列の中に一生、自分自身を絡め取られ、閉じ込められ、自分本来の自由な人格や個性を見失ってしまった人々にこそ、そのような教育システムや、それを生んだ社会に対する誰よりも強い憎悪と復讐心が生まれるのではないかと考えられる。

だが、こうした偽りのエリート主義に汚染された人々の怨念と復讐願望は、決してあるべき方向へ向かわない。つまり、彼らの恨みは、決して本当の責任者には向かわずに、常に彼らよりも弱い者たちに向かって吐き出される。

仮に義務教育が間違っているというのであれば、文部科学省に抗議文書を出せば良かったであろう。デモにでも参加すれば良かったであろう。だが、偽りのエリート主義者は、決してそんな方法を取らない。彼らは自分を支配しているものが偽りであることを知りながらも、自分よりも強い者(国家)には決して復讐せず、ひたすら自分よりも弱い者に憎しみを向けるのである。

偽りのエリート主義とは、すでに述べた通り、差別の制度であり、常に自分より下位にいて嘲笑したり、踏みつけにできる相手がいないと成立しない。そのような価値観によりすがって生きて来た人間は、どんなにそれが誤っていると頭では分かっていても、他者に対する自己の優位性以外に、己の価値を認識する術を持たないので、ヒエラルキーが否定されると、自分の価値が全く見失われ、自分が完全に空っぽになったような恐怖に陥る。

だから、彼らはどんなに内心では自らの生き方を嫌悪していたとしても、あるいは、自分自身もまたより強い者に踏みしだかれ、嘲笑され、愚弄され、苦しんでいたとしても、ヒエラルキーを手放せないがゆえに、その生き方を脱することができず、従って、その鬱憤の全てを、自分よりも弱い者に向けるしかないのである。

子供や、障害者は、弱者の中でもとりわけ弱者であり、ほとんどの場合、攻撃されても、抵抗する力も、抗議する力も持たない。このような、自分に立ち向かう力を全く持たない人間を相手に攻撃するのは、あまりにも卑劣で不当な所業であり、それによって「義務教育への復讐」が成し遂げられることなど絶対にあり得ないことは、多少なりとも知性があれば誰にでも分かることであり、まして酒鬼薔薇聖斗に分からなかったはずはない。

にも関わらず、酒鬼薔薇が、義務教育に復讐を果たすという身勝手な「大義」を口実に、子供や、障害者を痛めつけたのは、彼がとことん精神を病んだ者だからこそできる仕業であり、彼が偽りのエリート主義と、それに由来する優生思想を誤りと分かりながら訣別できなかったために、その魔物に飲み込まれた様子をよく表している。

つまり、酒鬼薔薇は、自分自身が、義務教育が目的とする「偏差値による淘汰」という残酷な優生思想の犠牲者となっていること、またそのようなシステムが非人間的で間違っていることを十分に知りながら、そのシステムに対する鬱憤と怨念を、自分よりも弱い者に向けることで、「淘汰されているのは、自分ではなく、これらの人々である」とみなし、自分のコンプレックスと怨念を彼らに転嫁して、自分の苦しみから目をそらそうとしたのである。

その上で、きっと彼は、自分の犯行をさえ他者に転嫁したのであろう。「現実の魔物は、本当に普通な彼の兄弟や両親たち以上に普通に見えるし、実際そのように振る舞う。」と自ら述べている通り、彼は、そんな犯行には到底、及びもつかない高潔で立派な人物を装いながら、今も社会のどこかで生き続けているのではないかと筆者は思う。

<続く>

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