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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

「私は貴人たちと争った」―ネヘミヤの例から―キリストの御業の完全性と、キリストが御父にとって完全な満足である真理を回復する終末の運動

 さて、Dr.LukeのKFCの異端思想の分析がひとつの山を越えたので、少しほっとしている。

 むろん、これで終わりではないが、一つの山場を越えただろうと感じている。KFCの理念の異端化を明確に分析することにより、この悪しき団体と霊的な訣別宣をしたことが、今後、筆者の人生に必ずや有益な効果をもたらすであろうと確信している。

 ずっと以前に「牧師制度の危険〜偶像崇拝が大衆にもたらす偶像との一体化願望〜」という記事を書いたが、そこに記されている警告のほぼすべてがまさにKFCにぴったり当てはまっていると感じられるため、多少、追記しておいた。
 
 KFCは、キリスト教界に属さず、牧師制度を持たなくとも、教会に「御言葉を取り継ぐ」ための人間のリーダーを置けば、必ず、その人間が神格化され、どの団体でも最後には同じ腐敗に落ち込むということを証明する格好の生きた実例であると言える。
 
 キリスト教界の牧師制度を批判していたDr.Lukeが、牧師制度と同じ罠に落ちたことは、まさにカルトとアンチカルトが同一であることをよく示している。御言葉に立脚して生きないならば、他者への批判はむなしい。むしろ、御言葉に立脚せずに、人間的な観点から、政敵を批判することは、危険でさえある。Dr.Lukeもまた、村上密牧師と同じように、魔物を見つめているうちに、魔物と一体化したのである。

 神と人との仲保者はキリスト以外にはない。信者にはキリスト以外のどんな目に見える「霊的指導者」も要らない。にも関わらず、御霊以外に「みことばを取り継ぐ教師」を置き、それを介して神を理解しようとする制度を打ち立てると、必ず、それが人の心の偶像となり、神の御怒りを買う様々な呪われた事象を引き起こす源となることをKFCはよく証明している。

 確かに、Dr.Lukeの言った通り、エクレシアとは人間が造った組織ではないのである。しかしながら、Dr.Lukeはそのことを重々知りながら、自分自身が組織のリーダーとなる栄光にしがみつき、これを捨てられなかったのだから、キリスト教界よりももっと罪が深いと言えよう。
 
 ペンテコステ・カリスマ運動は、特定の霊的指導者に信徒を従わせるという共通したスタイルを持っており、KFCはこの運動と手を切らなかったのであるから、以上のような結果に至るのも偶然ではない。

 牧師制度を非難しながら、自分が牧師同然の存在となって、信徒の心を盗み(しかも現役のキリスト教界に身を置いて、他の指導者に従っている信者たちの心を盗み)、自らを「神」として、栄光を受けているDr.Lukeには、もはやニッポンキリスト教界を非難することのできる資格がない。

 にも関わらず、相変わらず同氏は、キリスト教界だけに非があるかのように非難して、自分自身をかえりみようともしないのだから、そんな同氏に降りかかる報いは、おそらくキリスト教界の牧師以上に厳しいものとなるであろう。

 Dr.Lukeは現在、自分の活動を批判する人間は、みな同氏に「嫉妬している」のだと公言している。筆者のように、あからさまにKFCの異端性を指摘している人間も、同氏から見れば、まさに「Dr.Lukeに嫉妬している筆頭格の人間」ということになるのであろう。

 だが、実際には、そんな馬鹿げた理屈は、同氏の頭の中だけで作り上げられた被害妄想に過ぎない。何しろ、筆者にはこの老境にあって自分を「神だ」と宣言しているおじさんに嫉妬しなければならない理由が何も存在しない。

 筆者は自分の人生に満足しており、主がこれから何をして下さるのか、将来どんなみわざを見せて下さるのかに霊的飢え渇きと期待を寄せている。

 普通に人間的な要素だけから考えても、筆者には、Dr.Lukeに嫉妬する理由がない。筆者はDr.Lukeよりも長生きするし、Dr.Lukeはピアノを弾けるのだろうか、楽譜を読めるのだろうか、白鍵と黒鍵の区別が分かるのであろうか、キリル文字が読めるのだろうか、それから、女性ならではのたくさんの特権を、全く味わうことができないではないか。

 一体、なぜ、筆者がそれらを全部脇に置いて、Dr.Lukeに嫉妬しなければならない理由があるのか、あるいは、Dr.Lukeを目当てに群がっている信者たちに筆者が嫉妬している、という理屈になるのであろうか。

 だが、KFCに集まっている全ての人々よりも、筆者は年少であり、さらに、KFCにいる女性たちの多くが、家庭的に不幸である。結婚していても、夫の愚痴を外で触れ回るような人たちがおり、あるいは、夫憎しという気持ちから、もしくは家庭内の孤独から、Dr.LukeとKFCに希望を託し、現実逃避しているように見えてならない。自分の抱える人生の諸問題から逃げるために、KFCを利用しているのである。

 しかも、彼らはKFCの中で、Dr.Lukeという偶像を巡って、絶えざる内紛を経験して、互いに妬み合い、押しのけ合っており、そして、いつも最も有能な人々から順番に排斥されて今日に至っている。

 そういう恐るべき様子を実際に見ていながら、誰がそんな集団を妬むのであろうか。
 すぐに考えれば分かることだが、すべてはさかさまであり、逆なのである。Dr.Lukeこそ、キリスト教界と、彼に理解できない真理を知っている信者たちに、嫉妬して来た人間である。

 まず、Dr.Lukeがとりわけ憎しみを向けているキリスト教界の牧師には、自分の教会と信徒の群れがおり、彼らはDr.Lukeよりもはるかに商売上手でしたたかであるから、礼拝堂さえ持たないKFCとDr.Lukeを妬まなければならない理由は存在しないであろう。

 さらに、キリスト教界には、真理がそれほど開けていなくとも、Dr.Lukeには逆立ちしてもできないような、神に対する貞潔な生き方をする信者たちが存在している。多くの富はなくとも、主だけを愛する人々が存在している。そのような人々は、たとえ組織の中にいたとしても、エクレシアの一員なのである。

 そして何よりも、我々には、御言葉なるお方への確かな信仰が存在している。我々はキリストのうちにあって「神の子」とされる特権にあずかっているので、Dr.Lukeのようにキリストを否定して、「私は神である」などと決して宣言する必要がない。そのように言うことによって、Dr.Lukeは自らまことの神、唯一の神を否定して、自らを救いの対象外としているのである。

 大体、ペットが飼い主になり代わろうとは願わないのと同じように、我々は神の地位を乗っ取ろうと願う必要がない。ペットは慈しまれ、可愛がられ、育てられてこそ、幸せなのであり、我々は、神になるためではなく、神を賛美するために造られたのである。

 ペットは飼い主と共に泣き、喜び、楽しんでこそ、幸せである。ペットがパソコンに向かって複雑な作業をする必要もないし、生活のことで思い煩い、月曜から金曜まで満員電車に乗って通勤して働かなくとも良い。学術論文も書かなくて良いし、偉業を成し遂げることも期待されていない。そんなことは彼らに最初から求められていない。ペットを養うのは飼い主の責任であり、飼い主がペットの命を支えるために偉業を成し遂げるのである。

 我々は動物以上の存在であり、ペット以上の存在であり、神に愛され、育まれ、訓練される神の子供である。しかし、子供であり、僕でありながら、同時に、キリストは我々を友と呼んで下さり、花婿の愛を持って接して下さり、もし私たちが切に願い求めるならば、ご自身を現し、御心を分かち合って下さる。果てしなく偉大である方が、我々人間に過ぎない者を心に留めて、愛し、慈しみ、ご自身を分かち合って下さるのである。

 そのように愛され、キリストを通して、父なる神の子供として受け入れられているのに、一体、何の不満があって、我々が、神の地位を乗っ取る必要があるのか。神の子らは、時が来れば相続者として、父の財産をすべて受け継ぐのである。主イエスの御名によって、彼のものはすでに私たちのものとされている。御霊が、約束のものを受け継ぐ保証として与えられている。なのに、一体、何のために、我々が神の子の特権を捨てて、「神」ご自身になり代わろうとする必要があるのか。

 神から疎外されていればこそ、彼らはそのように企てるのである。相続者でないからこそ、家長を押しのけて、家の財産を乗っ取り、盗もうとするのである。

 現在のDr.Lukeの姿は、まるで一杯のレンズ豆のあつもののために、長子の特権を売り払ったエサウのようである。己の肉欲のために、子としての特権を売り払ってしまったので、もう「神の子である」と言えなくなってしまったのであろう。だからこそ、家全体を乗っ取ることによって、不法に相続にあずかろうと、家長を否定してまで、「私が神である」と主張しているわけである。まだ時も来ていないのに、自分が家長になろうとしているのである。

 腐敗した富や特権が彼らをそこまで盲目にさせたのであろうか。救いは、神の恩寵であって、人間の覚醒によっては決して手に入らないことを彼らは忘れたのである。エサウは泣いて懇願したが、長子の特権はもう戻って来なかった。

 これまでにもそうであったが、自分がいかに愛されているかではなく、いかに妬まれているかということばかり強調するDr.Lukeは、自ら悪しき言葉を振りまくことによって、自分で自分を貶め、自分で自分を呪い、自ら全世界の信者の憎まれ者・嫌われ者となり、悪霊の攻撃を自ら呼び起こしているのである。

 日本には言霊信仰というものがあるが、ましてクリスチャンは御言葉なるお方を信じているわけであるから、自分の述べる言葉の大切さを理解しなければならない。我々は自分の言葉によって、自分の歩みを規定しているのである。

 悪い言葉を自分に対して吐けば、悪霊がそれに乗じてやって来る。Dr.Lukeのように、絶えず「私はキリスト教界から標的にされ、大勢の信者たちから憎まれ、嫉妬され、歯ぎしりされる対象となっているのだ」などと豪語する人間が、無傷で済まされるはずがない。

 そういう自虐的な言葉は、悪霊たちの大好物であり、そういう台詞を吐き続けて自分で自分を傷つけている人間を、悪霊どもが放っておくことはなく、喜んで人間関係のもつれと混乱の中に投げ込み、彼を自分で述べた通りの結末へと導くであろう。

 いい加減に気づかなければならない。日本キリスト教界がDr.Lukeを攻撃しているのではなく、彼が自分で自分を貶めているだけである。 Dr.Lukeのことばを聞けば分かるが、同氏は自分で悪しき汚れた言葉を連発しては、自ら暗闇の勢力の敵対感情を煽り、自分で破滅と呪いを招き続けているのである。

 Dr.Lukeはこれまでニッポンキリスト教界に破滅の宣告を下し続けたが、かえってその報いは、KFCに降りかかり、キリスト教界の手先が送り込まれてKFCは会堂を失うということも起きた。
 
 また、KFCでは、絶え間なく、信者たちの妬みによる足の引っ張り合いが起きて来たが、それもまたすべてDr.Lukeが自らを神格化したことによって引き起こした現象である。

 KFCにはこれまで絶え間なく不幸な事件が起きて来たが、そうした事件は、全てDr.Lukeのことばによって招かれたものであった。今や、同氏は、自分や自分たちの団体が、全世界から憎まれ、とりわけキリスト教界から激しい憎しみの対象とされ、絶えず攻撃されているかのように主張しているが、そのように主張することによって、自ら悪霊につけ入るすきを与え、霊的に敵を呼び込んでいることに全く気づいていないのである。

 そんな自作自演劇によって自ら滅んで行こうとしているのだから、全く取り合う価値もないほど馬鹿馬鹿しいことである。しかも、自分たちを「神だ」と言いながら滅びゆくのだから、何とも形容しがたいほどに愚かしいパラドックスである。

 だが、約70年ちょっと前に、そういう人々が我が国には大量に存在していた。その人たちは、全身全霊で「神になる」ことを求めながら、異常かつ悲劇的な死に方で、死んで行ったのである。いつの時代にも、恵みによって救われるのでなく、自分から神になろうとする人々の行き着く先は、同じなのである。

さて、今回の本題は、T. オースチン-スパークスの「ネヘミヤ 今日への生けるメッセージ」を示すことにあった。これを読んで気づかされたことがある。

 筆者はこちらに来た当初、こちらには、エクレシアに属する民が大勢いるのだろうと想像していた。そこで、そのような信者たちと出会い、今までと違ったより充実した交わりを育めるだろうと期待していた。

 ところが、現実はまるで逆であった。筆者がここに来るまでは、高みに存在するかのように見えていた輝ける信者たちのほとんどが、筆者の仲間でないどころか、聖書の御言葉に反する憎むべきものを手放そうとしないアンシャン・レジームの代表者であることが判明したのである。

 彼らは、自分たちは組織を持たない、と言いながら、組織を作り、指導者を置かない、と言いながら、指導者を崇拝し、自分たちはキリスト教界の信者とは違う、と豪語しながら、キリスト教界よりももっと悪い霊的姦淫に落ちていた。そして、地上の富を誇り、肉欲を誇り、十字架を語りながら、自己を決して十字架の死に決して渡すことなく、神の御言葉を曲げて、高慢に、忌むべきものを宝として歩んでいたのである。

 筆者は当初、人間的な未熟さから、そのような人々を説得可能であるかのように思っていた。彼らを公然と辱めることがためらわれ、何より、彼らの存在が惜しまれたのである。だが、それが、不必要な同情であることに気づき、また、すべての説得は意味がなく、それはミイラ取りがミイラになる道でしかなく、この人々はもともと仲間ではなく、むしろ、公然と対峙せねばならない敵同然の裏切り者の相手だったのだ、という事実に気づき、彼らを説得しようという考えを捨てて、ただ主に向かって行ったのである。
  
 だが、しばらくの間、こうした事態は筆者の目に異常すぎるように映ったので、一体、これは何だろうと思いめぐらしていた。一体、筆者が期待していたエクレシアはどこへ行ってしまったのか。こんな有様が主の御心なのか? 何のために筆者はここに置かれたのであろうか? なぜにこれほど主に忠実な民がいないのか?

 だが、T. オースチン-スパークスの「ネヘミヤ」を読むと、そんな疑問も氷解する。
 
「終末の状況」、これは主イエスが地上に来られた当時の様子と重なる。

・・・ネヘミヤ記は一貫して主の来臨と関係しているということです。ルカはただちに主イエスを示します。彼は宮の中で少数のレムナントに囲まれています。これらのレムナントは旧経綸から来た人々であり、新経綸の証しを担います(なぜなら、主イエスが来られた時、証しを担っている人はごく僅かしかいなかったからです。シメオン、アンナ、他の少数の人々だけが、イスラエルの慰め、主のキリストを求めていました)。

主イエスは確かにこう言われたのである、「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」(ルカ18:8)

これは主の来臨に向けて、エクレシアが地上で大規模に拡大して行くというある人々の予測とは全く逆である。彼らは、神の家を建設するという名目で、絶えず人間の方ばかりを向いて、普通に考えても、到底、満足できない水準にある人々、しばしば堕落した人々を助けようと、活動にいそしんでいる。その結果、ほとんどの場合は、ミイラ取りがミイラに、盲人による盲人の手引きになって終わるのである。

キリスト者は、弱さや問題によって連帯することはできない。十字架を経て、エクレシアの戸口で自己に死んで、キリストの復活の成分によって結びつかなければ、エクレシアとは呼べない。キリスト以外のものによって連帯する時、決して持ち込んではならないものが神の家に持ち込まれ、交わりが損なわれることになるのを私たちは理解しなければならない。

おそらく、エクレシアの発展とは、規模の増し加わりではなく、質の深まりなのであろう。キリストが増し加えられる度合いが、エクレシアの拡大であり、それは明らかに規模の問題ではなく質の問題なのである。

そこで、終末の時代に、主に忠実な民がほんの少ししか残っていないように見えたとしても、落胆すべきではないことが分かる。

さて、ここからは解説を省くことにする。筆者の言いたいことは、もはや解説しなくても明らかだからだ。ネヘミヤの物語のどれほど多くの部分が、実際に、筆者自身の経験して来たことと重なるであろうか。

ネヘミヤは神の家の腐敗に直面した。大祭司や、神の家にいて高い地位に着いている指導者や信者たちの堕落を見た。信者が自分の兄弟を貶め、踏みにじり、兄弟を搾取することによって利益を得ているのを見た。また、信者が分不相応な贅沢を享受した結果、負債から抜け出られなくなっている様子を見た。信者と呼ばれている人々の多くは、大会、指導者のメッセージ、先人たちの書物など、外からの教えの助けにすがり、自分自身の信仰によって立っていなかった。また、多くの信者が、神によらない汚れた教えを大目に見て、異端が公然と神の家に入りこんでいた。ネヘミヤはこうしたものを見逃さず、「貴人たちと争った」――、すなわち、主イエスが商人たちを宮から追い出したように、妥協することなく、混合を退け、十字架に敵対する人の自己からのものを神の家から断ち切ったのである。そして、神の満足は、ただキリストだけであることを示し、キリストだけを土台として据えるよう、神の民に促した。神の家の回復はただそのようにしてしかなされ得ない。



当時の状況

さて、この本に戻ってそれを読み通し、ネヘミヤの時代の状況を示すものに注目するなら、とても嘆かわしい状況が示されていることがわかります。第一に、神の家の明確な証しは崩れ去っています。エズラが反対した問題が舞い戻り、よみがえっています。エズラ記が示すあの麗しい運動、神の家に関するあの真理の回復、この証しや神の家に反する事柄の放棄は、すべて台無しになっています。そして、昔の悪がふたたび台頭しています。証しは弱く、効果のない状況にあります。

エズラ記を背景として、エズラ記とその内容をすべて生き生きと心に留めながらネヘミヤ記を読み通すなら、ネヘミヤの時代、誰もそれらに気づいていなかったこと、そして、ネヘミヤが登場して神の御心にかなうことを行った時、初めてそれらが白日の下にさらされたことに、私たちはびっくり仰天するでしょう。

これは常にそうです。心から神のために出て行かない限り、そこにいかなる邪悪なものや神に反するものがあるのか、あなたは決してわからないのです。しかし、そうする時、以前なら存在するとは信じられなかったものを、あなたは見いだします。それらはひっそりしており、隠されています。ひっそりと進行しつつあり、人々の生活をとらえ、主の証しを破壊しつつあります。神のための積極的な何かが到来する時、初めてそれらの生命や活動が明らかになるのです。



抑圧

そのいくつかを見て下さい。主の民の多く(歴史的に言ってユダヤ人のこと)は、自分の兄弟たちの間で奴隷として売り飛ばされていました。主の民はお互いを売買しあい、自分の兄弟を犠牲にして、自分の権益や利益を求めていました。自分の兄弟を辱め、貶めることで、自分の地位を維持していたのです。

「今日の霊的状況はこれとは異なる」と言う自信は、私には到底ありません。自分の支配下に置ける人々がいなかったなら、また神の民をも自分の食い物にすることができなかったなら、一部の人々はどうするのでしょう?私にはわかりません。これは単純な形から極端な形に至るまで、様々な形で現れます。これは、あの聖くない不快な批判という単純な形で、主の民の間に現れるかもしれません。そうした批判は結局のところ、「自分たちは彼らよりも優れている」と言っているにすぎず、相手を犠牲にして自分たちを正当化しているにすぎません。

私たちの相互批判のうち、これが隠れた動機ではないものがどれくらいあるでしょう。ああ、あの永遠の恒久的な「しかし」、留保が常にあるのです!「ご存じのように、彼らは主を愛しています。しかし……」「彼らは主のためにとても熱心です。しかし……」「彼らには長所がたくさんあります。しかし……」。この「しかし」が、長所全体よりも大きく浮かび上がって、長所をすべて傷つけるのです。

この「しかし」を用いる私たちの多くは、「自分はすぐれている」という思い込みや自分のプライドのために、そうするよう駆り立てられているにすぎません。つまり、他の人を貶めることによって優位に立つことが、私たちにはあまりにも多いのです。そして、神の子供たちを損なう高ぶりのこの形態により、私たちは自分の優位性、地位、影響力を得ますし、また得ようとしているのです。これはそれを霊的に示す単純な例なのかもしれません。

新約聖書の勧めはすべて、これとは別の方向を強調しています。それが強調しているのは、他の人を自分よりも上に置くこと、他の人を自分よりも優れていると常に思うことです。これは反対の方向です。これをするのは肉にとってとても辛いことです。天的なものの証しを神の家の中で十分明確に維持するには、十字架が最初に到来して、この高ぶり、この傲慢、この狡猾な自己充足、自己評価、この「謙遜な」(?)批判――これは結局のところ、高慢の本質そのものです――の根元に直ちに至らなければなりません。

この事実を強調しなければならない理由はおわかりでしょう。高慢は他の多くの方法で現れるかもしれませんし、実際に現れています。たとえば、神の民を支配すること、地位を得ること、奉仕の特権や機会を自分が地位を得るための機会とすることです。新約聖書風の別の言い方をすると、次のようになります。

弟子たちは聖霊でバプテスマされる前、自分の兄弟たちよりも上に立つ機会、互いに優位を競いあう機会、首位の座を占める機会ばかり求めていました。主イエスは彼らに強い言葉を述べなければなりませんでした、「私はあなたたちの間で仕える者のようです」「人の子が来たのは、仕えられるためではなく、仕えるためです」。これが十字架の精神です。

さて、ネヘミヤ記に記されている状況に相当する霊的状況がまぎれもなく存在していることを、あなたは理解できると思います。他の人々が私たちの利益の手段とされており、霊的な意味で私たちは自分の益のために自分の兄弟たちを奴隷として売り払っているのです。もしよければ、あなたはこれをもっと詳しく追うことができます。



破産

この本に出てくるもう一つの点は、主の民であるユダヤ人の多くが破産した生活を送っていたことです。その理由の一部は質入れによるものであり、自分の息子や娘を奴隷として売り飛ばしたことによるものでした。つまり、彼らは自分の権利にしたがって生活していなかったのです。彼らは困窮に陥り、資産もありませんでした。それゆえ、威厳も誉れもなく、負債を負った民だったのです。

この状況も今日霊的にあてはまります。愛する人たち、私たちや主の民の多くは、今日、自分の身分にふさわしく生きているとは到底言えません。残高を調べるなら、破産していることが明らかになるでしょう。もっと簡単な言い方をすると、私たちのうちどれくらいの人がキリストの富を自分で知っているのでしょう?また、私たちのうちどれくらいの人が、他の人々の富に頼って生きなければならない誤った立場にあるのでしょう?

つまり、霊的助けになる外側のものをすべて剥ぎ取られるなら、集会や交わりやそうしたものをすべて取り去られるなら、私たちのうちどれくらいの人が、「私は自分の身分にふさわしく生きています。徹底的分析によると、そうしたあらゆるものから私は完全に独立しています」と言えるでしょう?

私たちはそれらを享受し、それらから益を受け、それらのゆえに神に感謝します。しかし、私たちの命を構成するものは外側のものではなく、主の尊さを知る自分自身の知識なのです。たとえ外側のものをすべて剥ぎ取られたとしても、私たちには決済する能力があり、立ち上がって言うことができます、「あなたは私自身の嗣業を奪うことはできません。私はキリストの内に嗣業を持っています。

それは集会、大会、メッセージ、外側のいかなるものにもよりません。それは主と共にある私自身の内なるいのちです。私は彼を知っているのです」。主はご自分の民の多くを召して、このような状況に直面させられるでしょう。それは、彼らが自分で発見して、見い出すためです。

愛する人たち、終末はまさにこのような状況かもしれません。私は確信していますが、「神の子供たちはみな、個人的な内なる方法でキリストを知り、キリストにあって充足と満足に至らなければなりません」「外側のものが取り除かれ、崩壊し、失望を与えたとしても、自分のためにキリストの内に豊かさを見いださなければなりません」と、終末の時に主は要求されるでしょう。

あなたには決済する能力があるでしょうか?あなたは抵当に入れられているのではないでしょうか?あなたは他の人々がくれるものにすがって生きているのではないでしょうか?それがあなたの支えなのではないでしょうか?

それとも、あなたは自分が主から得るものによって生きておられるのでしょうか?もしそうなら、もしあなたが自分のものを持っているなら、あなたは与えるものを持っており、この人々が陥っていたような物乞いや困窮の状態にはありません。

喜ばしいことに、ネヘミヤは奴隷として売り飛ばされていた人々を贖い、買い戻して、正当な権利を得させました。喜ばしいことに、ネヘミヤは生計を維持するための質入れや子供の売買の仕事をやめさせて、すべての人が自分の足で神の御前に立って自分の道を歩めるようにしました。これは主の民にとって重要な霊的思想であり、終末における運動を示しています。なぜなら、私たちはあまりにも長いあいだ恵みの外的手段にすぎないものに基づいて生活してきたからであり、主ご自身が自分にとっていかなる御方であるかに基づいてあまりにも少ししか生活してこなかったからです。




汚された神の家

次に、宮が異教徒によって汚され、世俗的な用途に用いられました。これを適用する必要はほとんどないと思います。この二つは共に進みます。天から直接生まれた純血の者ではない人々、新生した神の子供ではない異教徒が神の家の中に入り込み、主の民の間に場所を得る時、主の家はただちに主の御心とは正反対の関心や用途の方向にそらされてしまいます。地に引きずり降ろされてしまいます。神の家は地的なものにされ、あるべき場所から引き出されてしまいます。

敵は常にこれをしようとしています。真に再生されているわけではない人々や、再生されたと思い込んでいる人々を、主の民の間にこっそり入り込ませることが、敵の常套手段です。彼らは主の民に属する者としてやって来ますが、主の民ではありません。彼らの存在によって、この世的判断、この世的方法、人の方法、人の考えが、神の家の中に入り込み、それを肉の水準の低い生活にまで引き下げてしまいます。これは悪魔の主要な働きの一つであり、悪魔は絶えずこれを試みています。そして、この試みは成功することがあまりにも多いのです。

確かに、私たちはこれを今日見ることができます。なぜなら、これは大いに広まっているからです。これについて教えてもらう必要はほとんどありません。私たちは至る所でこれに気づきます。しかし、ネヘミヤは終末の神の動きを代表する者として、それに終止符を打ちます。彼は神の家から異教徒を一掃し、神の家が神の御思いにしたがって維持されるように、そして人の考えや人の方法が排除されるようにしました。

もちろん、私が物質的な神の家のことや、人々の集まる諸教会や場所のことを述べていると思う人は誰もいないでしょう。それもこの一つの適用になりうるかもしれませんが、私の念頭にあるのは、神のために天的な民になるよう召された神の民です。

この民の中に肉的な原則、天然的な活動や力を持ち込もうと、敵は絶えず試みています。それは、この証しを天上から引きずり降ろして、人によって運営される地的なものをそれから造り出すためです。ネヘミヤはそれを許しません。彼はそれに抵抗します。こういうわけで、彼は終末に神がなさることを示しているのです。




破られた安息日

次にまた、安息日が無視されていました。安息日がそのあるべき地位から転落し、軽視され、脇にやられ、見過ごされ、無視されていたとは、エズラからこのかた、とんでもないことではないでしょうか。

ここでただちに言いますが、私たちが今考えているのは、これに相当する新約聖書的な霊的意味であり、日のことではありません。ここの時としての安息日のゆえに私たちは依然として神に感謝していますし、それに固執して容易に手放しはしません。しかし、安息日に関する私たちの理解は遙かに高い水準に引き上げられていて、私たちは次のことを見るに至っています。

すなわち、安息日は、神が主イエスによって安息に入られる時の、神の働きの完了の歴史的な型なのです。また、安息日は御子のパースンによって神の働きがすべて完全に成就されたことを物語っているのです。

キリストによる神の働きの完成を脇にやり、見過ごし、無視するなら、あなたには安息も平安もありません。あなたは依然として荒野の中をぐるぐるとさまよっています。あなたは依然として、成就されていない不完全な働きの領域の中にいます。「成就した」という言葉を宣言する立場の上に、あなたはいまだ落ち着くには至っていません。

完成されたキリストの御業を霊的に真に理解している魂は、安息している魂です。神の安息の中に入って、悪魔の圧制から解放されています。完成されたキリストの御業は「もはや罪定めはない」と言っているのに、この事実にもかかわらず、悪魔は常に訴えや罪定めをもたらそうとしています。このせわしなさ、熱っぽい内省、自己分析、ひきこもりはすべて、安息日を見過ごしているせいです。決して安息することも、落ち着くことも、確信を持つこともなく、確かなものが何もないのは、すべてそのせいです。


私たちにとって安息日とは一人の御方であって、日のことではありません。したがって、毎日が私たちにとって安息日でなければなりません。私たちはみな、聖書の一節、テキストとして、「主の喜びはあなたたちの力です」という御言葉を引用しますが、これがこの素晴らしい御言葉の最も深い意味に違いありません。主の喜びとは何でしょう?「神はすべてのわざを休まれた」「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それははなはだよかった」。

主の喜びとはもっぱら、十字架によって完全に御業を成就されたキリストなのです。神はキリストにある新創造を見て、「よし」と言われました。「主の喜びはあなたたちの力です」。神はキリストによって完全に満足しておられます。これを見過ごしたり、見逃したりするなら、あなたは安息日の休みを失い、心の安息を失います。これがこの状況の原因でした。

しかし、ネヘミヤはそれを回復しました。終末時の運動は、キリストの御業の完全性と、キリストが御父にとって完全な満足であることを回復するものであり、神の民をその中にもたらすものです。

ああ、愛する人たち、この重要性はどんなに評価してもしすぎることはありません。なぜなら、敵は必死になってこれに反対するからです。二つの運動が終末を特徴づけることになると私は見ています。一方において、敵は神の民の足下から確信の根拠を断ち切るために、彼らから安息、確証、平安、確かさ、確信を奪い去ろうとしており、彼らを疑い、恐れ、心配で取り囲んでいます――兄弟たちを訴える者は、終末にこのような方法で、強烈な姿でやって来ます。

神はそれに対抗して、キリストによるご自分の御業の十全性と完全性を回復されます。そして、ご自分の民を安息日の休みの中に置き、その民の心をキリストの方に向かわせて、「これは私の愛する子、私は彼を喜ぶ」「あなたは彼にあって受け入れられており、私は満足しています」と仰せられます。これはみなキリストによります。

主イエスのこの証しを終末に回復すること、これは大いなる対抗要素です。「ネヘミヤ」は終末における回復のための一人の人かもしれませんし、あるいは一つの団体的な器かもしれません。いずれにせよ、「ネヘミヤ」は自分の務めの重要な一部分として、このような意味で安息日を確立しなければならないのです。




十分の一を納めることを怠る

状況の一部分として、もう一つのことがこの本の中に出てきます。それは、主の民が自分の持ち物の十分の一を納めるのを怠っていたということです。私たちが十分の一について述べる時、「十分の一だけが主に属しており、残りの十分の九は自分に属している」とは誰も思わないで下さい。これはまったく間違った聖書理解です。十分の一は全体を表すものであり、「一切を主のために所持する」という事実を示すものとして献げられたのです。

十分の一は「すべては主のものであること」の印であり、証しでした。十分の一が献げられた時、「この収穫全体の十分の一は、すべては主のものであることの印であり、あらゆるものを主からの賜物として主のために所持する印です」という精神で献げられました。

さて、生活がこの域に達する時、神の祝福があります。十分の一を献げることをあなたが始めておられるかどうか、私にはわかりません。それは始まりにすぎません。これが十分に確立される時、主はそれを遙かに超えることを可能にされることがわかるでしょう。そして、この道に沿って到来する主の祝福に、あなたは驚くでしょう。

主の民の多くは、収入や現世の所有物のことで苦しみ、心配し、悩んでいます。この領域での彼らの生活は苦しいものです。これは主に正当な地位を与えていないからです。「あなたの持ち物をもって、あなたの収穫の初なりをもって、主をあがめよ」「私を尊ぶ者を私は尊ぶ」。主のために所有するという主の法則を悟り、真っ先に十分の一をもって主をあがめるようにしさえするなら、現世の困窮から大いに解放されるでしょう。

この言葉を忍んで下さい。これをもう一度強調しても構わないでしょう。神はあらゆるものに対して権利を持っておられます。私たちの十分の一は、すべては主のものであること、そして、すべては主に属するものとして保たれ、用いられねばならないことの、初歩の証しにすぎないのです。

さて、ネヘミヤは民の所有や収入に関して主を正当な地位に置き、これを正常化しました。これは霊的繁栄と現世の安寧に寄与します。さしあたって、これはこれで良いことにします。




混合と区別の喪失

また次に、主の民の多くが外国の妻と結婚していたこと、そうして彼らの区別が失われていたことが、ここでわかります。ネヘミヤはそれらの婚姻関係を断ち、違反者たちに妻を郷里や祖国に送り返させて、そうして神聖な原則を確立しました。

さて、これに対応する霊的意味は、「回心していない夫や妻を持つ人は、彼らから離れ、彼らを無視しなさい」ということではありません。しかし、遺憾ながら多くの人がそうしています。回心していない夫や妻は、主のことも主の権益も心にかけません。そのため、彼らの伴侶たちは多くの集会に出かけて、彼らを独りぼっちにしてしまいます。この罠にかかってはいけません。

これに相当する霊的意味は、「旧約聖書の中のこれらの妻たちは、常に原則を表す」ということです。ご存じのように、女性は聖書全体を通して数々の原則の型です。ここで型として示されているのは、神に完全に属しているものとは異なる数々の原則との同盟、関係、関わりです。こうした原則のいずれかと自発的に関わるなら、主の民を常に特徴づけているべき、あの霊的区別は破られてしまいます。

これはとても広範な領域を網羅しており、数え切れないほど多くのことを含んでいます。しかし、これがその包括的適用です。ここに記されているのは、啓示された神の御旨に反する要素、特徴、原則、法則であり、主の御心、神の御言葉、御霊の道とは別の相容れないものです。ここに示されているのは、それと自発的に関わりを持つこと、それが自分と関係を持つのを許すことです。そのような道の結果、混合という子孫が生じます。これは、神に属するものと敵に属するものとの混合です。神の御言葉に啓示されているように、神が最も忌み嫌われるものは混合です。至る所で神は混合に反対されます。神は物事を全く完全かつ絶対的にはっきりと規定して、完全にご自分に属するものとされます。

ネヘミヤ記のこの城壁は、神に完全に属するものと神に属さないものとを分ける印です。神から出ていないものの割合や程度の問題ではなく、神からではないものが少しでもあってはならないのです。内側にあるものは隅々まで神に属していなければなりません。神に属していないもののための余地は、そこにはありません。ですから、これらの妻たちはその領域から追放されて、送り返されなければなりません。これが示されている霊的原則です。神は混合に反対されます。主の民の間には、恐ろしいほどたくさんの混合があります。




郊外のクリスチャンたち

述べるべきことが、おそらく他に二つあります。ここに見られる民の大部分は、エルサレムの外の郊外に住んでいました。そのため、エルサレムには手仕事に十分な人がおらず、ネヘミヤは彼らに、出て来て他の人々を中に連れてくるよう訴え、励まし、勧めなければなりませんでした。この霊的解釈はとても単純ですが重要です。

霊的郊外に住んでいる主の民が大勢います。彼らは主の証しの中にいません。ほんの少しだけ外にいるのかもしれませんし――ほんの少しとはいえ、外にいることに変わりはありません――あるいはかなり離れているのかもしれません。彼らはあらゆる種類の理由をあげることができるでしょう。「変人になりたくありません」「バランスを欠いていると思われたくありません」「バランスを取りたいのです」と言う人もいるでしょう。あらゆる種類の理由(?)が挙がるでしょう。偏見や疑いのためかもしれません。安全な道を進み続けたいからかもしれません。代価への恐れや、価を払いたくないからかもしれません。中に入ってネヘミヤに協力するなら、サヌバラテやトビヤが好意的でない目で自分たちのことを見るようになるためかもしれません。

これに関して全く確信がないからかもしれません。事がどう運ぶのか見ることを彼らは願っています。事がうまく運ぶなら、そして事が堅固な土台の上に据えられていることがわかるなら、彼らは危険を冒すでしょう!事が堅固なら何の危険もなく、したがって何の英雄的行為も栄誉もありません。

私が何を言っているのか、おわかりでしょう。主が新しいことをなさる時、また、全くご自分と天――そこには天然的な肉の人のための余地はまったくありません――に属するものに対する完全な証し、全く主に属するものに対する完全な証しを得ようとされる時、それは代価を払うこと、好意を失うこと、友人をなくすことを伴います。誤解や誤報を伴います。批判や、「あまりにも極端で変わっており、他のすべての人たちと異なっている」という非難を伴います。そのようなあらゆることを伴うのです!そうではないでしょうか?

さて、これはどうなのでしょう?問題は、神と共に完全に中に入るのか、それとも郊外にとどまり続けるのか、ということです。ネヘミヤは促し、勧め、嘆願し、励まし、手を差し伸べ、招き入れようとします。神はほむべきかな!必要を満たすのに十分な応答がありました。周辺にとどまるのか、それとも中に居てそのような立場の結果を受け入れるのか、私たちは決心しなければなりません。私たちは徹底的にこの問題に決着をつけなければなりません。私たちの中にはそうしなければならない人がいます。

これが何を伴うのか、どれだけ代価が必要なのか、私たちはわかっています。少なくとも、神と共にこの道を取ることによって実際に生じる必然的結果について、私たちはかなりよく見てきました。そうです、しかし、「これは主の道だったのでしょうか?もし主の道なら、長い目で見て、その外側にいても仕方がないのではないでしょうか。一時のあいだ何かを得たとしても、遅かれ早かれ、それは失われてしまうにちがいありません」ということこそ、まさに問題なのです。確かに、私たちは低い水準――損得――で物事を見るべきではありません。結局のところ、「私たちは何のためにここにいるのでしょうか――主のためでしょうか、それとも自分のためでしょうか?」という問題なのです。

主のためでしょうか、それとも自分のためでしょうか?肝心なのは、「主は何を欲しておられるのか?」ということです。それには代価が必要かもしれません。それは多くのことを意味するかもしれません。多くの方面で交わりを失い、好意を失うかもしれません。敵の恐ろしい悪意に巻き込まれるかもしれません。しかし、私たちに何ができるというのでしょう?私たちは神と共に進み続けなければならないのです。私たちはみな、この場所にいるでしょうか?この問題により、様々な思いが私たちの心に迫っているのではないでしょうか?




公の妨害

次に、締めくくるに当たって、これまで誤謬や悪について述べてきましたが、それらのものにネヘミヤはことごとく遭遇しました。それらの誤謬や悪が存在していたにもかかわらず、彼が登場するまで何の注意も払われていませんでした。有力な、影響力のある、公の階級、祭司たちや貴人たちが、それらの誤謬や悪を支持していました。大祭司ですらそれらにくみしていたのです。ネヘミヤはこれに反対しました。

主と共に進むことを決意する時、公的要素が妨害します。これはまさに真実です。私たちは影響力を持つ勢力に出会い、地位や身分のある人々から反対されます。大祭司のように神の最高の権益を公に代表し、人からもそのように受け入れられている人々ですら、神のご計画や神の御旨に対して好意的ではなく、神の完全な証しに全く反するものを大目に見ていることに、私たちは何度も気づきます。これはまさに真実です。

あなたたちの中にはこれを証明した人もいます。主と共に進むことを決意するなら、あなたにもこれがわかるでしょう。ネヘミヤはそれにことごとく出会いました。勇気をもって出会いました。「私は貴人たちと争った」と彼は言いました。影響力を持つ階級を前にして、彼は屈しませんでした。彼は公人たちに屈服しませんでした。彼は貴人たちと争いました。自分が神の委託を受けていることを彼は知っていました。これが人々の間で、天然的権威だけでなく霊的権威をも彼に与えたのです。なぜなら、神から与えられた立場に立って、神から与えられた務めを果たす時、神が自分の傍らに立って下さることを彼は知っていたからです。 彼をこのような人にした他の数々の要素が背景にあったことを、私たちは理解しなければなりません。しかし、これが彼の態度でした。

自分が神の御旨の中にあることがわかるのは素晴らしいことです。自分が神の働きの中にあることを知る時、あなたは大きな確信を持ちます。あなたがその中にあるものは、あなたが始めたものではなく、天から来たのです。そして、あなたはその中に天から霊的に入ったのです。それは神に属しています。これはあなたを道徳的にも霊的にも優った地位に置きます。そして、形式的なものにすぎない非霊的な威厳を上回る威厳をあなたに与えます。


<略>私たちは主の来臨にかかわる終末の時にいるのであり、終末における働きは際立った証しを起こすものなのです。その証しは復活のいのちと力によるものであり、まったく神から出ており、その中に人からのものは何もありません。この証しは、自らに反する多くのものを対処して取り除くことを要求します。」




最後にもう一度だけ繰り返しておこう、

「主の喜びとはもっぱら、十字架によって完全に御業を成就されたキリストなのです。神はキリストにある新創造を見て、「よし」と言われました。「主の喜びはあなたたちの力です」。神はキリストによって完全に満足しておられます。」

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