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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

ペンテコステ・カリスマ運動の反聖書性―キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動⑧ーグノーシス主義的三位一体論

② (続き 2) 
 
・キリストによって生まれていない「私生児」を「神の子供」と偽るカリスマ運動

さて、以前に記事「クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か(終)」でも確認したように、手束正昭氏は、異端ネストリウス派の主張を擁護して、養子論的キリスト論を展開する。

同氏は、「ナザレのイエスにおいて無比なる仕方において働いていた聖霊の豊かさこそが、彼をしてキリストたらしめたと言える。」と述べて、イエスは生来は神性を持たない人間に過ぎなかったが、聖霊が吹き込まれたことによって「キリスト」としての性質が付与されたのだとする。だが、同氏の主張によれば、聖霊とは「母なる霊」なのである。

こうして、神の独り子であるイエス・キリストを、神性を持たない単なる人間に貶め、聖書に基づかない「母なる霊」という正体不明の「霊」を高く掲げる手束氏の荒唐無稽な主張がどこから来たものかは、グノーシス主義神話を考慮すれば分かる。

グノーシス主義において、悪神ヤルダバオートから創造された人間は、本来は創造神を父としているため、創造神を超えられない堕落した存在であるはずなのだが、サイト『ヨハネのアポクリュフォン』においても説明されているように、真の父の同意なしに単独でヤルダバオートを生んだ母ソフィアが、愚かな我が子を欺いて、天からの光を「息」として人間に吹き込ませたため、人間にはヤルダバオートにはない神聖な光が宿ったとされている。また、ヤルダバオートは自分の似姿だと勘違いして天上の完全な人間の姿を模して人間を造ったのだという。

こうして、グノーシス主義神話は創造神をひたすら愚弄しながら、創造神によって造られた人間を創造神より優れた存在として高く掲げ、反逆を正当化する。そして、天からの「息」が吹き込まれたことにより、人間の本来的な「父」は創造神ではなく、創造神を超える真の至高者であるとする。

聖書は、キリストの十字架の贖いを信じ、キリスト共に十字架の死と復活にあずかることによって、人は新創造とされると教えるが、聖書を否定して、聖霊を「母なる霊」とみなし、この「母なる霊」を受けることによって、人類は「新創造」に達すると主張する手束氏の見解は、以上のようなグノーシス神話に起源を持つとみなせるのである。

筆者はかつて手束氏の教えを、信者に神の子供としての地位を失わせる「私生児の教え」として非難したが、今また同じ確信を繰り返すのみである。

キリストが神の御子であるという聖書の真理を否定し、キリストと共なる十字架を経由することなく、正体不明の「母なる霊」を受けることによって、「新創造とされる」などという偽りを信じた者が、父なる神の子供として受け入れられることは決してないことは、聖書に照らし合わせて明白である。
 
グノーシス主義神話においてさえ、その「母」とは「原父」の意志を無視して単独で子を生むという「過失」に及んだのだから、その「母」によって生まれた「子」は、父を持たない子ということになる。そんな「母」の「霊」を受けたからと言って、なぜ子が「父」の承認もなしに、「父」から正統な子として認められる理由があるだろうか。そんな主張はあまりにも愚かで身勝手である。

さらに手束氏は、次のようにも述べる、
 

「信仰というものは、外に居給う神に私達が懸命に従おうというものではない。<略>いまや、私達は聖霊をいただくことによって、内に居給う神の促しに従って、その神と一つとなって生きていくことができるのである。<略>そこにあるのは、外なる神から内なる神への転換であり、服従としての神から交わりとしての神への転換である。更にこれは旧約から新約への転換なのである。

 多くの学者達は不十分なままでいる。旧約聖書は預言であって、新約聖書はその成就であると解釈し主張している。この解釈は確かにまちがいではないが、しかし重要なことは、旧約というものは外なる神であり、新約というものは内なる神であるということである。更に旧約というのは律法であり、新約というのは聖霊なのである。

ルターは宗教改革の合言葉として『信仰によって義とされる』と言った。<略>今、私は『律法によらず聖霊による』と言いたい。『信仰によって義とされる』というのでなく、『聖霊によって新創造される』と言いたい。」 (『聖霊の新しい時代の到来』、手束正昭著、マルコーシュ・パブリケーション、2005年、p.33-34、下線は筆者による)


服従としての神から交わりとしての神への転換」、この言葉に特に注意したい。

手束氏はこうして、「父なる神」に服従する必要をひたすら否定して行くのである。同氏は、旧約聖書は律法という父性原理に基づいて服従を求める厳格な宗教であったが、新約は「愛と赦しによる母性的な福音」であり、新約から旧約への移行は、「外なる神から内なる神への転換」であると述べて、新約の時代を生きる信者たちには、神の御言葉への従順がもはや必要なくなったかのように説く。しかし、これは全くの偽りである。

キリストの贖いを信じることにより、信者の内にはキリストが住んで下さるが、だからと言って、律法自体が無効になったわけではなく、信者が御言葉に従う必要性が消えたわけでもない。信者は律法を完全に全うされたキリストの贖いを信じ、キリストの御言葉にとどまることを通して、神の御前に律法を完全に守ったとみなされるのである。

そこで、新約になっても、信者は依然として、自ら神の御言葉を選び取り、これを守って生きることにより、神への従順を成し遂げる必要がある。律法を守るのではなく、キリストの御言葉を守り、そのうちにとどまるのである。しかし、それは信者が自らの意志によって成し遂げるべきことであり、キリストが内に住んで下さるからと言って、信者の意志を抜きにして、神への従順が自動的に成し遂げられるわけではない。

信者には御言葉に従う自由も、背く自由も存在し、もし信者が御言葉に従わず、キリストのうちにとどまらないならば、その信者は律法によって裁かれ、罪に定められる。

「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
<略>だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」(ヨハネ15:4-6)

「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

イエスも言われた、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が、みな天の御国にはいるのではなく、ただ、天におられるわたしの父みこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ7:21)。

従って、新約の時代も、クリスチャンにとって最も肝心なのは、聖書の御言葉を守ることによって、キリストの内にとどまって生きることであって、そうして初めて、キリストとの交わりがその信者の内で保たれるのである。

ところが、ペンテコステ・カリスマ運動の支持者らは、「外なる神から内なる神への転換」、「服従としての神から交わりとしての神への転換」などと主張して、信者自身が自らの意志で「御言葉を守る」ことによって、「父なる神の御心を行う」必要性、信者が神の御言葉に「服従」する必要性を否定して、あたかも、信者が御言葉に従わなくとも、「霊の父母・子の交わり」に加わってさえいれば、これを通して神に至れるかのように説く。

結局、父なる神の意志、御言葉の切り分けを全くないがしろにして、御言葉への従順なしに、人が神に至れると教えるのである。
 
だが、聖書においては、はっきりと二組の対照的な「母子」の姿が示されている。一つ目は己の肉の欲望に基づいて、父なる神の御心に背いて生きる「母子」の姿、もう一つは、己の肉の欲望を十字架の死に渡すことに同意し、父なる神の御心を行って生きる「母子」の姿である。

イサクとイシマエルは、共に同じアブラハムを父として生まれた。しかし、イシマエルは父なる神の約束の成就を待たずに、奴隷の女であるハガルを母として肉によって生まれた子であるため、アブラハムから正統な後継者とは認められず、「奴隷の女の子」として退けられた。

他方、己の肉の力に死んですでに「不妊の女」となっていたサラから、ただ神の約束に基づいて、御霊によって生まれたイサクは「自由の女の子」として、アブラハムの家の正統な後継者として受け入れられた。 

パウロは言う、

「律法の下にいたいと思う人たちは、私に答えてください。あなたがたは律法の言うことを聞かないのですか。そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。女奴隷の子は肉によって生れ、自由の女の子は約束によって生れたのです。このことには比喩があります。この女たちは二つの契約です。一つはシナイ山から出ており、奴隷となる子を産みます。その女はハガルです。このハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、彼女はその子どもたちとともに奴隷だからです。
しかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です。
すなわち、こう書いてあります。

喜べ。子を産まない不妊の女よ。
声をあげて呼ばわれ。
産みの苦しみを知らない女よ。
夫に捨てられた女の産む子どもは、
夫のある女の産む子どもよりも多い。

兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。

しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。

こういうわけで、兄弟たちよ。
私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」(ガラテヤ4:21-31)

これら二組の「母子」の違いは、聖書の御言葉への従順によって父なる神の御旨を行って生きているかどうか、という点である。

グノーシス主義神話におけるソフィアの転落は、まさに聖書におけるハガルの姿に重なる。両者に共通するのは、父なる神の約束の成就を待たずに、己の「肉欲」に基づいて「時期尚早な出産」に及んだことにある。

聖書が全体を通して人間に求めているのは、人が己の肉の欲望により頼んで自らの願いを成し遂げることではなく、神の御言葉に基づき、信仰によって、神の約束の成就を待ち望むことである。しかし、ハガルもソフィアも、神の約束の成就を待たず、父なる神の意志を無視して、己の欲望に突き進んだ結果、時期尚早に子を生んだ。彼女たちはその子が神の家族だと主張するが、聖書はそのような「奴隷の母子」は神の国の相続者になれないと教える。

しかし、グノーシス主義のような転倒した教えは、聖書の御言葉に従わず、神の家から追い出されるべき「奴隷の母子」を逆に擁護する。だからこそ、それは「私生児の教え」なのである。

今日も、ペンテコステ・カリスマ運動運動の支持者らが、己の肉を誇っては高慢に振る舞い、延々と肉の欲を自慢しながら、至る所で真の信者を踏みつけにして迫害している様子は枚挙に暇がない。

 


 

・「分割」を「死」ととらえ、時間を逆にすることによって、「原初的統合」への回帰を主張するグノーシス主義

さて、聖書における「罪」とは、神の戒めに背くことであり、聖書において「死」は「罪」の結果としてもたらされる。「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23) しかし、グノーシス主義は「罪」というものを一切、認めず、「分割」こそ「死」をもたらした原因であるかのように話をすり替える。

多くのグノーシス主義文献では、至高者である神のみならず、人間の男女もまた対であることが完全であるとみなされているため、人間は創造された当初は両性具有的存在であったが、その後、女が男から「分割」したときに「死」が入り込んだ、とされている。こうして、人類が神の戒めに背いたため、死に定められたという聖書の記述は無視され、人間が「原初的な男女未分化の状態に回帰する」ことが、人が本来的自己に回帰すること(救済)と同一視される。
 

「――デーミウルゴスはアルコンテスと共に、自分のかたちに人を、男と女とにつくった(創世記一・二七)。この場合、「人」は単数であるから、人は元来両性具有であった、と解釈されることになる女(イブ)が男(アダム)とから離れたとき(三・二二)、死が生じた。彼女が再び入りこみ、彼が彼女を受けいれれば、死はないであろう(『ピリポ福音書』七一。――七八をも参照。)」(『トマスによる福音書』、荒井献著、p.110)


 

「実際多くのグノーシス文書において、「神は自分のかたちに人をつくられた。すなわち、神のかたちにつくり、男と女とにつくられた」(創世記一・二七)の「人」が単数形になっているところから、「原人」は男女両性具有であった、そして地上の人間(男と女)は原人から「女」が分離された時点(創世記二・二一―二二)から生じた、と解釈されている。例えば、『ピリポ福音書』には次のような言葉がある。――「イブがアダムの中にあったとき、死は無かった。彼女が〔彼から〕離れたとき、死が生じた。彼女が(アダムに)再び入りこみ、彼が彼女を受けいれれば、死は無いであろう」(七一)。「もし女が男から離れなかったら、男と共に死ななかったであろう。女の分離が死のはじめとなったのである」(七八)。」(同上、p.159)


むろん、「男女未分化の原初的統合」などと言っても、半ば言葉遊びのようなもので、実際にそのような「原初的」状態に回帰できる人間はいない。だが、グノーシス主義は以上のような確信に基づき、人間に「叡智」を告げる「真の開示者」は、単に人間に、出生を巡る「真実」を告げる役割のみならず、人間を「男女未分化の原初的状態」に回帰させる「統合者」としての役割も担うものとみなす。
 

「<略>イエスは「父のもの」(本来的自己)の具現者として分裂に統合をもたらす者であり、それを「分ける者」「分割者」ではないというグノーシス的意味をも含ませている可能性がある(六一参照)。――「分離が死のはじめとなったのである。それ故に、はじめからあった分離を再び取り除くために、彼ら両人を統合するために、そして分離の中に死んだ人々に命を与え、彼らを統合するために、彼が来たのである」(『ピリポ福音書』七八)。」(同上、p.235)


ここまで来ると、なぜ手束氏や、フェミニズム神学者、鈴木大拙氏のような人々が、聖書の「二分性」に激しい反発を示し、キリスト教に「母性原理が回復される必要がある」と主張したのか、もう十分に理解できよう。

彼らは「分割」が「死」をもたらしたとみなすグノーシス主義の考えに立てばこそ、あらゆる「分割」を廃して「原初的統合を回復」することが「救済」だとみなしているのである。

彼らの嫌う「分割」とは、男女の区別にとどまらず、聖書におけるあらゆる「二分性」に及ぶ。鈴木大拙氏が「神ががまだ「光あれ」といわれなかったときのこと」、「明暗未分化以前」、(善悪を峻別する)「知性発生以前」などと呼んでいるのがまさにそれであり、これらはすべてグノーシス主義的な「二分性が生まれる前の原初統合の状態」を指す言葉である。

こうして、彼らは歴史を逆行させ、時間軸を逆にして、分割が発生する以前の状態に人類が自ら回帰することによって、原初的統合が成し遂げられ、人類は神に至る、と主張しているのである。

これは聖書の時間の流れとは逆である。

聖書においても、男女の「二分性」が廃される道が備えられている。「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(創世記2:24)とある通り、聖書によれば、時間を逆行することなく、「子」が成長して自らを生んだ「父母」を離れ、新しい伴侶を見つけることによって、男女の「一体化」が成し遂げられる。
 
この男女の統合は、キリストの十字架の死と復活による新しい人の誕生、すなわち、キリストとエクレシア(教会)との結婚を予表している。

聖書は言う、

「これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」(コロサイ2:16)

ここで言う「影」とは直接的には、律法や、人間を縛る様々な古い規定を指しているのだが、同時に、目に見えるすべての被造物も「影」に含まれると言えよう。聖書によれば、罪によって堕落して、信仰を持たず、神に受け入れられることなく滅びゆく人類(旧創造)は、神の御前にすでにないも同然の「影」であり、真のリアリティはキリストのみなのである。

神の目には、真の「男子」、真の「人間」はただ一人しかおらず、それが「ひとりの人」(Ⅱコリント11:2)キリストである。キリストの内にこそ、すべての二分性の敵意を廃したところに存在する新しい完全な人の姿がある。

この新しい人であるキリストは、地上に来られたとき、神としての性質を持ちながら、同時に、罪の他は、何ら我々と変わることのない、人としての性質もすべて備えておられた。そして、神でありながら、ご自分を低くして人となられ、十字架の死と復活を成就して、人類のために贖いを達成されたのである。

このキリストこそ、神の御心を真に満足させることのできる真の人間なのであり、人は、神が十字架でキリストに下された裁きを自分自身に対する裁きとして受けとり、キリストの贖いを信じて受け入れ、キリストと共に十字架において自らの肉の出自に死んで(=その父母を離れ)、キリストの復活の命によって新たな人として生かされることにより、キリストの御霊によって上から生まれ、神の家族として、新創造に加えられる。そして、キリストの花嫁たる教会を形成する。

主イエスは、「次の世にはいるのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。」(ルカ10:35)と言われ、来るべき世には「男女の二元論」はもはや存在しないことを示されたのである。

だから、キリストにある新しい人には、もはや男女の区別も、国籍の区別もない。新創造には、「ただひとりの男子」(Ⅱコリント11:2)キリストがいるだけであり、キリストにあって召された男女はすべて花嫁たる教会である。

「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。」(ガラテヤ3:27-28)

キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁をうちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に作り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」(エペソ2:14-16)

そして、聖書は、キリストこそ、万物をご自分に服従させることで、すべての被造物の二分性を廃し、万物を一つにされる方であると述べている。神は被造物全体が堕落して神への反逆のうちに滅びることを望んでおられない。しかし、堕落した被造物が神に回帰する方法はただ一つ、キリストの十字架によって贖われることにしかない。こうして、万物をご自分に従わせることで、キリストは万物を神の御手にお返ししようとしているのである。

「それは、神が御子においておあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついてに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者となったのです。」(エペソ1:9-11)

「それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。「彼は万物をその足の下に従わせた。」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。」(Ⅰコリント15:24-28)

こうして、すべてのものがキリストを通して、神に帰せられることが聖書の目的であり、これはただ死に至るまで神の御心に従順であったキリストを通してのみなされうることである。

被造物が神に立ち返る道は、ただキリストの十字架の死と復活の贖いを経由することにしかない。神の用意されたこの救済としての十字架を通らず、堕落して廃棄されるべき被造物が、自らの力で神に立ち帰る術はない。

しかし、グノーシス主義者は、このように、キリストこそ、十字架において「二分性の敵意を廃棄した」唯一の方である事実を認めず、時を逆行して原初的な未分化の状態に回帰することによって、神と人との統合が成し遂げられるとし、キリストも「原初的な統合者」に変えてしまう。

グノーシス主義者らは、徹底して、御言葉への従順なくして、神への回帰が成し遂げられるかのように主張する。こうして、彼らが聖書の「二分性」に反対する背景には、鈴木氏の言う「主客未分以前」へ回帰したい願望、すなわち、「創造神と被造物との区別」をなくしたいという欲望がある。

彼らの言う「男女未分化の原初的統合」も、結局は、この「主客未分以前」という欲望を意味する。ここにこそ、神によって造られた被造物でありながら、人間が「神の御心に反して、神の性質を盗み取り、単独で神になりたい」とする欲望が込められている。

フェミニズム神学者リューサーは言う、「男だけが神の像に似せられて造られ、女は男から造られたために、男性を抜きにしては、単独では完全な神の像をもたないとする聖書の教えは、女性を男性より劣った存在に貶める女性蔑視の思想である」と(『解放神学 虚と実』、pp.62-64参照)。

すでに述べた通り、この主張を推し進めて行くと、必然的に、「神だけが神であり、人類は神によって神に似せて造られたが、神との結合を抜きにしては、完全な神の像を持たないとする聖書の教えは、人類を神より劣った存在に貶める人類蔑視の思想である」という主張が出て来る。

そこで、聖書における男女の二元論に反対する人々は、結局のところ、神が唯一であり、人類は神の被造物に過ぎず、神の介在と承認を抜きに完全な存在になれず、神に属する者とみなされることはない、という聖書の真理に反対しているのである。そして、人間が神に創造されたことにより、神から分離されたという事実そのものに反対しているのである。(人類は神によって造られた被造物であるという点で、霊的には「女性」である。)

そして、グノーシス主義者は「神ががまだ「光あれ」といわれなかったとき」にまで時をさかのぼることによって、人類が神から分かたれる前の合一に回帰できるはずだと主張するのである。

しかし、そんな時間の逆行は無理な相談であり、現実を否定しているとしか言えない。そんな方法で、被造物が神と一体化しようとするのは、「小なる者」が「大なる者」と自らを同一視する高慢であり、被造物の分を超えているとしか言えない。

しかも、そこには、人類が自ら神に背いたために堕落して、自力で神に回帰する道が永久に閉ざされたという聖書の真理の否定がある。

もし新しい人であるキリストに目を向けさえすれば、上記のフェミニズム神学者やグノーシス主義者らが主張しているように、「神は自分だけを神として、人間を劣った被造物として創造した」という非難は全くあたらないことがすぐに分かろう。

グノーシス主義者らが考えているように、もし創造主である父なる神が、人間を自分よりも劣った存在にとどめておきたかったのだとすれば、独り子なるイエスを人として地上に遣わす必要がどこにあったろうか。なぜ愛する御子に人類のための贖いとして十字架の死を通らせる必要があったろうか。これらはすべて人類に対する神の果てしない愛のゆえになされたことなのである。

しかし、解放神学者や手束氏、鈴木大拙氏などは、決してキリストの十字架によって二分性の敵意がすでに廃棄されたのだという事実を見ようとはしない。彼らが最も反対しているのは、神によってしか、人間は救済され得ないという聖書の事実であり、彼らはどこまでも神の意志を抜きにして、人類が自らの力で神に至る道があるかのように主張する。

その過程で、彼らは神と人との区別、旧創造と新創造との区別を否定して、神の側からの救済としてのキリストの十字架の死を介さずに、神と人との区別を一方的に無効化することによって、神から神としての性質を盗み、神の地位を奪い、自らを神と宣言しようとしているのである。

従って、これらの人々がキリスト教の「二分性」によって不当に「抑圧されている」と訴えて、しきりに復権・擁護・救済しようとしているものは、神がキリストの十字架において完全な死の判決を下された旧創造全体としての人類なのである。

そこで、彼らの主張する「善悪を問わずにすべてを受容する母性原理の回復」というのは、結局、キリスト教は、神が滅びに定められた朽ちゆく旧創造と、堕落した旧創造が抱くすべての悪しき欲望をを罪に定めるのをやめて、これを正当化し、神の聖なる性質として認め、受け入れよ、ということなのである。

むろん、これは聖書の神に対する反逆の思想である。すでに見て来たように、グノーシス主義神話では、父なる神の同意によらずに、神の「血統」に属する命をわがものとしたいと願った「女性的属性」の欲望に基づき、父なる神を抜きにして生まれた「私生児」が、人類なのであり、人類はこの母の「過失」を修復することで、自らの出自を正当化することを、全生涯の目的として生きていることにされる。

しかし、それはどこまでも「父」の意志というものを抜きにした、人間側の身勝手な主張でしかない。仮に「母」が「父」を欺いて生んだ「子」が、「母」と一緒になって、「我々こそは神の血統に属する正統な後継者であるから、我々を神の家族として認め、家族の交わりを回復せよ」と主張したからと言って、「父」がそれを聞き入れ、この「母子」を家庭に迎え入れることがあろうか?

そんな行為は「母子」の側から「父」への反乱、神の家の乗っ取り計画、神の家族の詐称でしかない。たとえ血を分けた親子として長年同じ家に暮らしたとしても、親子の絆は絶対的なものではなく、もし子が父の訓戒や戒めに絶えず背き続けるならば、勘当されることもありえようし、子が自ら家出して親と絶縁することもありうる。

いずれにしても、父の承認なしに、家族としてとどまりつづけられる子はいないのである。そこで、もし神の家族としてとどまり続けたいならば、御言葉に服従するということが、信者の側にどうしても必要となる。

にも関わらず、グノーシス主義者はひたすら「(御言葉に)服従する」ことを拒みながら、それでも、「自分は神の正統な子だ」と主張するのである。そして、自分たちを神の家から排除した聖書の御言葉の二分性を、許しがたい傲慢かつ狭量な排他性として非難し、父なる神はこのような父性原理の残酷な「排他性」を克服して、もっとすべてを優しく受け入れる受容性を補うべきだと、神に向かって上から「説教」するのである。

そんな企ては、人間の物語としても破綻しているが、まして聖書に照らし合わせて、絶対に受け入れられることはない。このような「母子」は罰せられ、排除されるのが当然である。


 
「神秘なる母性」を褒めたたえることにより、肉欲を賛美する危険な思想

以上のように、聖書は明確に「肉によって女奴隷から生まれた子供」と「御霊によって自由の女から生まれた子供」の二種類があることを教えている。

御国の相続者は、父なる神の約束に基づいて、御霊によって生まれた子だけである。しかし、「肉によって生まれた者」は、自らの堕落した肉欲の罪が暴かれることを嫌うため、「キリスト教の御言葉の二分性」を己に対する脅威とみなし、「抑圧されている母性原理の回復」を唱えることで、己の欲望を正当化し、無罪放免しようとする。
 
解放神学者リューサーは、伝統的なキリスト教の「二分性」に対して、激しい憎悪と非難の言葉を浴びせるが、彼女がとりわけ強く反発しているのは、キリスト教が人間の肉欲を堕落したものとみなしていることである。
  

(伝統的キリスト教における)「救いとは、肉的なものを抑えることによってくるものであると解釈される。肉欲と感情の抑制、そして内的・超越的・霊的自己への逃避。食べること、眠ること、入浴さえもが、また、視覚的・聴覚的楽しみ、そして何にもまし て、一番強烈な肉体感覚である性の喜びなどが真の『悪魔の住処』とされた。文字通り、死の倫理を形成したのである。救いは死を目指しつつ生涯かけて『苦行』を実践することによって与えられる『魂の肉体からの分離』である。創造を堕落と見るグノーシス主義的思考を訂正しようとして苦心したにもかかわらず、 キリスト教はその同じグノーシス的精神性の多くをそのまま保存するにとどまった」(『解放神学 虚と実』、勝田吉太郎他著、(大石昭夫著、「解放神学の基本構造」)、荒竹出版、昭和61年、p.61-62)。


リューサーは、キリスト教は肉欲を堕落して罪深いものとみなしたがゆえに「文字通り、死の倫理を形成し」、一生かけて「魂の肉体という牢獄からの解放」を目指すしかないという、グノーシス主義と同じ罠に落ちたのだと言って、キリスト教を非難する。

彼女は「食べること、眠ること、入浴さえも<…>一番強烈な肉体感覚である性の喜びなどが真の『悪魔の住処』とされた」と嘆き、「飲んだり、食べたり、めとったり、とついだり」(マタイ24:38)といった行為に加え、「視覚的・聴覚的楽しみ」がキリスト教で罪に定められていることに異議を申し立て、巧みに「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」(Ⅰヨハネ2:16)を復権させようと試みる。

しかし、聖書ははっきりと、こうした人間の一連の肉欲が、この世(悪魔)に由来するものであると告げている。

「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」(Ⅰヨハネ2:15-16)
 
さらに、キリスト教の救いとは、リューサーが述べているような、「肉的なものを抑えることによってくる」ものではない。キリストの救いは人間側の自己努力によって達成されるものではなく、神の恵みとして神の側から与えられるのであり、キリストの十字架の霊的死にこそ、堕落した肉に対する問題解決がある。

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:24)
 
しかし、リューサーはキリストの十字架を見ない。そして、神の側から人類に与えられた完全な解決を退けて、キリスト教には肉欲を制する方法がないのに、肉欲を罪に定めているのはおかしいと言って、神が十字架において旧創造に下された有罪宣告そのものを不当であると主張し、この理不尽な有罪宣告のせいで、人間は自らの肉体を嫌悪し、自分の肉欲を厭いながら、もがき苦しむ状態から抜け出られなくなったのであり、キリスト教のこの不当な罪定めから人類は解放されなければならない、と主張する。

こうして彼女は、神が救済として人類に与えられたキリストの十字架の死の判決から、人類の堕落した肉を救い出そうとするのである。

従って、こうした人々が「キリスト教において不当に抑圧されている」と非難している「母性原理」とは、結局、人間の欲望そのものであり、神が十字架で死に定められた人類の古き自己と、古き人に付随するもろもろの情と欲なのである。

彼らの言う「解放」とは、「キリスト教の二分性の抑圧からの人類の欲望の解放」を意味するのであり、こうした教えを奉ずる人々は、みな己の「欲望の解禁」を主張しているのである。

だからこそ、ペンテコステ・カリスマ運動の教えの影響を受けたクリスチャンたちはみな「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」に走り、「飲んだり、食べたり、めとったり、とついだり」という話ばかりを延々と繰り返し、地上的幸福の自慢話を「信仰の証」にすり替え、己の欲望に突き進むことが神の国の到来を招致する手段であるとはき違えるのである。

こうした人々は、神がキリストの十字架で死の宣告を下された己の欲望を「神聖」とみなし、欲望を通して神に至れるという誤謬に本気で落ち込み、欲望の解禁を主張することによって、絶えず神に反逆を企てているのである。

彼らがとりわけ十字架の死の判決から解放したいと願っているのは、リューサーも書いている通り、「一番強烈な肉体感覚である性の喜び」である。

手束氏はこう述べた、
 

「しかし聖霊を示すヘブル語のルァハは女性形であるばかりか、『人間のダイナミックな生命力が表現される特別な呼吸の出来事』を意味した。これは具体的には性的興奮分娩を指しているという。」


胸が悪くなるような記述だが、こうして彼らは「奴隷の女」の抑えがたい欲望を賛美することで、自らが「奴隷の女の子」であると告白しているのである。

一つ前の記事で筆者は、手束氏の言うように、聖霊を「母なる霊」とみなせば、乙女マリアが聖霊によってイエスをみごもったのは、女性が女性の霊によってみごもったことになるが、そんな理屈が成り立つだろうかと書いた。その疑問は、グノーシス主義神話を考慮すれば解ける。

こうした人々の主張の背後には、神に対して霊的に女性である人類が、徹頭徹尾、神を抜きにして、己の力だけで神と同等になりたい、神を愚弄する形で神の創造の力を盗み取り、自分も神のようになりたい、という願望がある。

そこで、彼らが正当化し、誉めたたえているのは、結局、人類が己の肉欲のうちに自己陶酔に浸り、神を抜きに自分の力だけで神に属する子を単独で生みたいとする欲望なのである。

このような教えを奉じた人々は、物事を深く考える力を失い、自分を満たしてくれそうなあらゆる「良さそうなもの」に無分別に飛びいては、これと霊的姦淫を繰り返すようになり、己の肉欲を賛美しながら、軽薄で愚かな感覚的・情緒的な享楽に陶酔し、あらゆる汚れた行いに手を染めながら、やがて善悪の感覚そのものを完全に失って、神への反逆に至る。まさに無分別で見境のない「八方開き」の状態に陥るのである。

こうした人々の異様な自己陶酔の様子は、ペンテコステ・カリスマ運動の支持者らが「聖霊のバプテスマ」と称して、理性を失った恍惚状態に陥っている様子を見ても分かるであろう。彼らの中にはすでにその自己陶酔の結果、己を神と宣言し、神属人類を自称する者たちもいる。

主イエスは言われた、

「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪をも赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」(マルコ3:28-29)

聖書の「二分性」に逆らって、己の肉欲を誇り、「神秘なる母性」を崇拝し、神の戒めを守らないのに、父なる神の子供を名乗って、十字架を否定してまことの神への反逆を正当化しているペンテコステ・カリスマ運動が、聖霊を冒涜する教えに該当しない理由があるはずもない。
 
この運動に限らず、「キリスト教に母性原理を回復せよ」と主張する教えは、すべてキリスト教と東洋的・グノーシス主義的異端との混合であり、人類が聖書の御言葉の「二分性」であるキリストの十字架を退けて、己の欲望を誇り、自らの欲望を通して神に到達しようという偽りの教えである。

聖書の御言葉は完全であり、これにつけ加えようとする者も、取り除く者も、災いを受ける(黙示22:18-19)。聖書の御言葉の二分性を否定すれば、待っているのは破滅だけである。
 
このように反逆的で汚れた秩序転覆と肉欲を賛美する教えには、絶対に関わるべきではなく、このような教えを信奉した結果、自らを神と宣言するに至った人々に、悔い改めの余地は残されていないであろう。
 
そこで、このような異端とそれを奉ずる人々からは、全力で遠ざかり、永遠に訣別するだけである。

わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。なぜなら、彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神は彼女の不正を覚えておられるからです。」(黙示17:4-5)

<続く>

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