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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

ペンテコステ・カリスマ運動の反聖書性―キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動⑦ーグノーシス主義的三位一体論

② (続き) 

・カリスマ運動の異端的な「父・母・子」の三位一体の家族モデルのグノーシス主義的起源

さて、前稿では、プロテスタントの牧師であり、カリスマ運動の指導者である手束正昭氏の主張を取り上げて、同氏が牧師夫妻を「霊の父母」とし、信者をその「子」とする家族モデルが、統一教会において指導者夫妻を「真の父母」と崇め、信者を彼らの「子」とみなす家族モデルにそっくりであること、また、手束氏の述べている家族モデルは、フェミニズム神学に基づいて同氏が聖霊を「母なる霊」とみなす「父・母・子」という異端的な三位一体論から導き出されたものであることを確認した。
 
聖書の従来の解釈において、万物を創造したのは「父なる神」であり、聖霊が「母なる霊」とみなされて生命の根源とされることはない。しかし、東洋思想においては、万物の生命の源は、母性原理にあるとされ、母性原理の象徴である「神秘なる母性(母なる混沌)」が賛美される。

そこで、統一教会であれ、ペンテコステ・カリスマ運動のようなキリスト教を自称する内部の異端であれ、「キリスト教に母性原理を回復せよ」という主張は、すべて東洋思想とキリスト教との合体を目指しているとみなせる。それは次回に述べるように、国家神道の目的でもあった。

このように、キリスト教と東洋思想との合体によって生まれる混合物こそ、悪魔の悲願としての聖書における終末のバビロンの姿なのである。
 
終末における世界規模での背教の象徴として聖書の黙示録に登場する大淫婦バビロンは、「混ぜ合わせた杯」(黙示18:6)を持っていることからも分かるように、混合の教えを意味する。大淫婦バビロンとは、キリスト教と非キリスト教的思想との混合体であり、ドストエフスキーの描いた大審問官のように、一見、キリスト教に偽装しつつも、本質的にはキリスト教に敵対する思想を内に秘めており、キリスト教を内側から転倒させ、食い破り、瓦解させていく効果を持つものである。
 
東洋思想は、太古から存在するグノーシス主義と密接な関係がある。グノーシス主義という名称自体は、初期キリスト教の異端として名付けられたものであるが、グノーシス主義的な思想はキリスト教の登場以前から存在していた。

グノーシス主義は旧約聖書の否定の上に成り立っており、この教えにおいては、聖書の創造神である「父なる神」は、悪神(デーミウルゴス、ヤルダバオート)として侮蔑の対象とされる。そこでは、聖書の創造神は愚かな悪神であるがゆえに、他の「神」を否定して自らを「唯一の神」と称するようになったとされて、この「偽りの神」よりも上位に「真の神」(真の至高者)が存在し、その至高者に回帰することが人間の「救済」であるとみなされる。

グノーシス主義とは、このように聖書の秩序を完全に転覆させて、「唯一の神」の概念を否定し、聖書の神に対する反逆を正当化する教えである。
  
そこで、グノーシス主義とは、聖書に照らし合わせると、その起源は蛇(サタン)によって人類に吹き込まれた悪魔的な思想にあると考えられ、その秩序転覆の教えが、古代バビロニアなどのオリエント文化において発展し、東洋思想や文化の中に保存されて、今日に至っているものとみなせる。

グノーシス主義それ自体は宗教ではなく、厭世的・悲観的な世界観であり、時代や社会や宗教の枠組み超えていつでも生じうるものであり、さまざまな宗教に形を変えて入り込み、その宗教を内側から乗っ取り、変質させてしまう効果をも持つ。
 
ペンテコステ・カリスマ運動は、このグノーシス主義的思想がキリスト教に入り込んでできた混合物の一つである。

その証拠の一つとして、手束氏のようなカリスマ運動指導者が提唱している「父・母・子」の異端的三位一体論は、グノーシス主義に原型が見いだせるのである。

以下で引用する荒井献氏によるグノーシス主義神話論では、グノーシス主義的な三位一体論が解説されているが、そこでは、グノーシス主義において「真の神」とされる至高者「原父(プロパテール)」(または「霊(プネウマ)」)は、原初、女性的属性(「思い(エンノイア)」や「知恵(ソフィア)」や「魂(プシュケ)」といったギリシア語の女性名詞で表される)と対をなし彼らの「子」と共に「三位一体」をなしていたという。

ちなみに、「男女が対をなす」という考え方は、グノーシス主義に特徴的であり、この考えに従って、グノーシス主義においては「真の神」も男女の対をなすとみなされる。それが「子」と共に原初は「父・母・子」の「三位一体」を形成していたというのである。

ところが、グノーシス主義神話においては、ある「事件」が発生する。女性的属性の中でも最下位である「ソフィア(知恵)」が、単独で子を生みたいと願い、至高者の命令なくして、また自らの「伴侶」である男性人格を抜きに、自ら至高者を「知ろう」とした。その過ちの結果として、彼女は上界から転落しかかり、中間界に醜い悪神であるデーミウルゴスと諸々の権威と支配を産んだ。さらにそのデーミウルゴスによって、下界に狂ったこの世と堕落した肉体を持つ人間が生まれたという。これはグノーシス主義において一般に「ソフィアの転落」と呼ばれている出来事である。

つまり、グノーシス主義においても、男女のペアが存在しないことには子が生まれないという前提があったようで、女性的属性であるソフィアが、自分だけで子を生もうと願ったことは、「過失」とされている。しかし、グノーシス主義では、ソフィアは同情されても、罰せられることはない。そして、人間の内にはこの「母」を通して、「真の神」である「霊の欠片」が宿っているので、人間は本来的に、創造神よりも優れた存在であり、創造神はその「真実」を人間の目から不当に隠しているがゆえに、人間は無知の中に閉じ込められて悪神の道具となって支配されているだけで、人間は真の神についての「叡智」を告げる「真実の開示者」に出会うことによって、自らの出生をめぐる「真実」を悟り、堕落したこの世と悪神である創造神を否定的に越えて、魂の本来の故郷である上界に戻って行く、それがグノーシス主義的な「救済」だとされるのである。

キリスト教における「救済」とは神の側からの恵みであり、神の介在なくして成り立たないものであるが、グノーシス主義における「救済」とはすべて人間が自ら「叡智」に目覚めることにより自己の出自を悟り、本来的自己に回帰することが「救済」とされるのである。
  

「グノーシスの神話論
 <略>
 ――はじめに上界に、至高者(「原父(プロパテール)」「父(パテール)」または「霊(プネウマ)」があった。彼は女性的属性(「思い(エンノイア)」(「知恵(ソフィア)」または「魂(プシュケ)」)と対をなし、彼らの「子」と、いわば「三位一体」を形成していた(この三体は<略>「父」と男女二体の「子」から成り立っている場合もある)。

 女性的属性は至高者(または男性の「子」)を離れて、上界から中間界へと脱落し、ここで「諸権威(エクスウーシアイ)」あるいは「支配者たち(アルコンテス)」を産む。彼ら――とりわけその長なるデーミウールゴスーーは、至高者の存在を知らずに、「母」を凌辱し、下(地)界と人間を形成する。こうしてデーミウールゴスは「万物の主」たることを誇示し、中間界と下界をその支配下におく。しかし至高者は、女性的属性を通じて人間にその本質(霊)を確保しておく。

デーミウールゴスの支配下にある人間は、自己の本質を知らずに、あるいはそれを忘却し、「無知」の虜となっている。人間は自力でこの本質を認識することができない。そこで至高者は、下界にその「子」を啓示者として遣わし、人間にその本質を啓示する。それによって人間は自己にめざめ、自己を認識して、「子」と共に上界へと帰昇する。中間界と下界(宇宙全体)は解体され、万物は上界の本質(霊)に帰一し、こうして「万物の更新」が成就する。」

(『トマスによる福音書』、荒井献著、講談社、1994年、p.103-104。
改行・ふりがな等は読み見やすさを考慮して筆者が変更を加えた。)


 



・自ら神のようになり創造の力を得たいと願った「女性的属性」の欲望を正当化するために作られたグノーシス主義神話


しかしながら、以上のような神話を読めば、グノーシス神話における女性的属性「ソフィア(知恵)」は、大した悪者の反逆者だったのではないかという疑問が生じざるを得ない。以下の記述を読んでも、彼女を「過失」へと突き動かしたのは、「原父」の力によらず、自分だけが単独で「原父」と同じように、自分に似た生命を創造する力を得て、神のようになりたいという願望であったことが分かる。

セツ派のグノーシス文書である『ヨハネのアポクリュフォン』には、ソフィアの「過失」の動機が次のように描かれている。

「今度は、『見識の知恵』でありアイオーンでもあるソフィアが、『見えざる霊』と『先住の知識』を思い抱きながら、自らの内に一つの考えを宿した。自分と似た姿のものを生み出したいと思ったのだだが、それまでも賛同することのなかった『霊』の同意もなければ、斟酌してくれる伴侶もいなかった。ソフィアの男性格は賛成しなかった。ソフィアは伴侶を見いだしておらず、『霊』の同意もなければ、伴侶の知識もなしにこの考えを抱いた。そして、子を産んだ。不屈の力を内に秘めたソフィアの思い付きは無益には終わらなかったのだ。だが、伴侶なしに彼女が生み出したものは不完全で彼女に似ていなかった。母に似ていないだけでなく醜かった。(Ⅱ・9-10) 『原典、ユダの福音書』、ロドルフ・カッセル、マービン・マイヤー他著、日経ナショナル ジオグラフィック社、2006年、p.171から引用、下線は筆者による)


 
ソフィアがどうやって単独で子を産むに至ったのか、ここには具体的な記述がないが、考えられることはただ一つ、ソフィアが「原父」の子を生むために、彼の創造の力を何らかの方法で盗んだということである。そうして産まれたのが醜い悪神ヤルダバオートであり、彼女はその自分に似ても似つかぬ醜い子を見ると、上界の外へ投げ捨てたという。

こうして、グノーシス主義ではソフィアの過失がすべての悲劇の原因となって、あらゆる出来事に秩序転覆と反逆の思想が満ち溢れるようになるのだが、その転覆行為に一切、責任が追及されることがない。上記の「過ち」ゆえに、「ソフィア」は上界から転落しそうになるが、彼女は激しい後悔のゆえに同情を受けて上界からの追放を免れる。

グノーシス主義神話においては、霊的存在には序列があるため、本来、最下位の女性的属性が、最上位の「真の神」に対して越権行為に及んだことは「反逆」であるはずだが、それも後悔すれば罰せられずに赦されてしまう。さらに、グノーシス主義神話においては、男女の対が完全であると主張されているにも関わらず、女性的属性であるソフィアが自分一人だけで子を生んだわけだから、それ自体が神話そのものを崩壊させるような矛盾である。

しかし、グノーシス主義では、こうして秩序を揺るがしたソフィアとその産んだ子らが罰せられ、退けられることによってこの問題が片づけられる、ということにはならない。

むしろ彼女の「過ち」によって、人間には逆に「神聖な霊の欠片」が伝わることになったので、人間がその「神聖な自己」に目覚めて本来的故郷に帰ることによって、ソフィアの過ちが「修復される」のだとされ、彼女の過ちは正当化される。
  

「神聖なる世界とその下に位置するこの世界の欠乏はすべて『知恵』が犯した過ちに始まったものであり、人々の内に宿る光が再び神聖さを取り戻せば、ソフィアの過ちは修復され、完全なる神聖さが実現されるのである。」(同上、p.173)


こうして、グノーシス主義神話においては、人間とは自らの出生の「真実」を知ることによって「母の過ちを修復する」ためにこそ存在しているのだと言って過言ではない。それによると、人類は、本来は彼らが悪神とみなされている創造神と同様に、真の父の同意なしに、母の過失によって、「望まれない子」として「母子家庭」に生まれて来たことになるが、その人類が自分の出自を正当化して、自分は創造神ではなく「真の父としての至高者の子供である」と自称して、「真の父」に回帰することによって、「母の過ちが結果的に修復される」のだという。

こうして「子」が「母」の過失を正当化し、母の願いを正当化するための道具となって生きることを最大の目的として作り出された物語が、グノーシス主義だと言えるであろう。



・「母」を守るのが「子」の使命とする転倒した東洋思想

以上のようなグノーシス主義神話の特徴を踏まえた上で、改めて東洋思想の思想家である鈴木大拙氏が、東洋思想においては「母」を守ることが根源にある、と述べていることを考えてみると興味深い。

鈴木氏は述べる、
  

「万物分割の知性を認識すること、これもとより大事だが、「その母を守る」ことを忘れてはならぬ。東洋民族の意識・心理・思想・文化の根源には、この母を守るということがある。母である。父ではない、これを忘れてはならぬ。

 欧米人の考え方、感じ方の根本には父がある。キリスト教にもユダヤ教にも父はあるが、母はない。キリスト教はマリアを聖母に仕立てあげたが、まだ絶対性を与えるに躊躇している。彼らの神は父であって母ではない。父は力と律法と義とで統御する。母は無条件の愛でなにもかも包容する。善いとか悪いとかいわぬ。いずれも併合して「改めず、あやうからず」である。西洋の愛には力の残りかすがある。東洋のは十方豁開である。八方開きである。どこからでも入ってこられる。

 ここに母というのは、わたしの考えでは、普通にいままでの注釈家が説明するような道といったり、また「ゴッドヘッド」といったりするものではないのである。もっともっと具体的な行動的な人間的なものと見たいのだ。しかし今は詳説するいとまをもたぬ。」
(『東洋的な見方』、鈴木大拙著、岩波書店、p.13-14、太字、下線は筆者による)


鈴木氏の言葉から考えられることは、もし「母」が「子」によって守られねばならないほどに弱い存在でなければ、あるいは「母」が絶えず何者かに脅かされているという前提がなければ、「母を守る」という言葉は、決して生まれて来ないという事実である。

むろん、「守る」という言葉の中には、保存するとか、継承するとか、崇め、奉るという意味もあろうが、それだけではない。たとえば、「母を守る」とは言っても、「父を守る」とは言わないからだ。

特に、聖書の「父なる神」は全知全能であり、人間によって守られなければならないような弱い存在ではない。むしろ、「父なる神」の方が、信ずる者を日々「子」として力強く守って下さるのである。聖書の秩序は一貫して「強い者である親が弱い子供たちを守る」というものである。

ところが、東洋思想はそれとは逆で、弱い立場にある「子」が、自らよりも強い者である「母」を守ることを求めるのである。

手束氏は、心理学者河合隼雄氏の言葉を引用して、こう述べている。
 

「河合隼雄氏は日本社会の様々な病理的現象の背後には、父性が欠如し、母性が過剰になっているとことにあると分析している。さらに遡って河合氏は、このような日本の母性文化の発生の理由を、日本の宗教の母性的性格に見ている。日本人は『父なる宗教を知らぬ国民』なのである。」(『教会成長の勘所』、p.74-75)


もし河合隼雄氏の言うように、「日本人は父なる宗教を知らぬ国民』」であるならば、鈴木氏が述べる「母を守る」という言葉も、東洋思想の心理的特徴が本質的に父を持たない「母子家庭」であるか、もしくは、「母」が「父」に比べて圧倒的に弱く、「母が父によって不当に脅かされている」という被害者意識を前提に成立しているものと考えられてならない。

手束氏が『教会成長の勘所』でこう述べていることを思い出そう。
 

今日の『フェミニズム神学』の評価すべきところは幾つかあるが、そのうちの一つはこれまで父性的男性的な傾向の強かったプロテスタント的キリスト教のあり方に批判を加え、長い間隠され抑圧されていた母性的女性的な要素を回復しようとしたことにある。」(同上、p.77-78)


鈴木大拙氏の言う「母を守る」という言葉もこれと同じで、「キリスト教の父なる神の二分性の脅威から東洋的な母性を守らなければならない」という前提あってこその言葉のように思われる。

むろん、鈴木氏はキリスト教社会に生きておらず、リューサーのようにキリスト教がもたらす女性蔑視により被害を受けたと主張するわけでもなく、また、日本において東洋思想が抑圧されたマイノリティに追いやられている現実もないため、鈴木氏が一体、「母を守る」という言葉によって、何を具体的に指していたのか、文脈は明らかでない。

しかし、鈴木氏自身の主張全体を振り返っても、東洋思想における「母」を脅しうる存在とは、キリスト教の父性原理の二分性を置いて他にないものと考えられる。

そして、キリスト教の父性原理とはすなわち聖書の御言葉なのである。

鈴木氏の言う「母を守る」とは、以上に挙げたような、「原父」に逆らった母ソフィアの過失を「修復」することがその「子」である人類の使命だ、とみなすグノーシス主義の主張を考慮すると、より理解しやすい。

鈴木氏が「善いとか悪いとかいわぬ。いずれも併合して「改めず、あやうからず」である。西洋の愛には力の残りかすがある。東洋のは十方豁開である。八方開きである。どこからでも入ってこられる。」と主張しているのも偶然ではない。

彼らが目指しているのは、「父」だけが最高の権威者で、他の者はみな「父」に従わなければならないという制約の存在しない、「母」が「父」に等しい力と権威を持ち、「父」の御言葉に縛られる必要がなく、これに背いたからと言って罪に定められることもなく、「善悪」の判断自体が存在せず、どんなものでも受け入れ、どこからでも入って来られる世界であり、言い換えれば、「母」の欲望が無制限に肯定され、正当化される世界なのである。

つまり、こうした人々が否定しようとしているのは、人は聖書の御言葉に基づいて、父なる神の意志に従わなければならないという聖書の事実、それに背けば、罪に定められるという事実なのであり、彼らの言う「キリスト教の二分性の抑圧から母性原理を回復せよ」という主張は、結局、神に背いたために、神の家族から疎外された母子(=人類そのもの)を、神の意志に反して、神の家族に加えようという企てを指していると言えよう。

いずれにしても、鈴木大拙氏、手束正昭氏、リューサーなどの面々が、全く異なる立場から、キリスト教に対する同様の批判を提起していることは興味深い。そこで、こう言えるのではないだろうか。キリスト教徒を名乗っているかどうかに関わらず、また性別の如何や暮らしている国や社会の形態に関わらず、ある人々にとっては、キリスト教の父性原理の二分性それ自体が重大な脅威と映り、彼らはどうしても、キリスト教の「二分性」を、この宗教の「欠点」として告発し、これを乗り越えるために、キリスト教に母性原理を回復せよ、と訴えずにいられないのである。

しかし、彼らが「キリスト教の父性原理の二分性が母性原理を抑圧している」と述べる時、それは結局「聖書の御言葉の二分性が人類全体を脅かしている」と言っているに等しいのである。

こうした人々は、聖書の「二分性」につまづいているのだが、つまづいた自分自身を反省して自己吟味するのではなく、むしろ、自らをつまづかせたキリスト教の側に「重大な欠点」があって、キリスト教がそれを克服せねばならないと述べることで、キリスト教に「有罪」を宣告する。

そうした告発が、キリスト教界の内側から出てくるときには、それは解放神学や、ペンテコステ・カリスマ運動や、あるいはカルト被害者救済活動のように、うわべはキリスト教の装いをまとって、キリスト教の中から始まった自己批判や、改革運動のような形を取る。

しかし、彼らの主張は「聖書の御言葉のみ」に基づく信仰を否定して、本来、キリスト教に異質な思想(異端)を持ち込むことであるから、必然的に、それはキリスト教を内側から変質させて、キリスト教を内側から食い破って、破壊しようとするキリスト教への敵対運動になる。

他方、キリスト教の「二分性」への告発が、キリスト教の外側から発せられる時には、それは鈴木大拙氏の主張や、次に述べる国家神道の理念のように、明らかにキリスト教とは異なる(東洋)思想を公然とキリスト教と合体させよ、という主張になる。

だが、これらのキリスト教批判は、外側からの批判であれ、内側からの批判であれ、本来的には同一の起源を持つのであり、それは以下に述べるように、キリスト教を変質させてグノーシス主義的原初統合を実現しようという試みに他ならない。

彼らが最も激しく逆らっているのは、「わたしの他に神はない」とする聖書の唯一の神という概念である。彼らは、父なる神が単独で神であるという事実に我慢がならず、何とかして、唯一の神から神としての性質を盗み取りたいのである。それを、キリスト教における父性原理の「二分性」への批判と、「母性原理の回復」を主張することによって成し遂げようとしているのである。

つまり、聖書の御言葉を否定して、神の意志を抜きに、人類が単独で己の欲望を成し遂げて、神に至ることを正当化したいという欲望こそ、
おそらく、鈴木大拙氏の言う「母を守る」ことの意味ではないかと考えられる。

「唯一の父の意志に縛られず、従わないで良い世界、御言葉の切り分けを否定して、どんなものでも主人として受け入れることが可能な世界」、だからこそ、「八方開き」なのである。

だとすれば、そのような無分別な「母」から生まれて来た「子」とは、まさに父不明の「父なし子」、「私生児」ということにしかならないであろう。
  
だが、彼らには己が罪に定められることが我慢できない。「母の過ち」を擁護することによって、何とかして自らの出生を正当化したい。そのためにこそ、彼らは「キリスト教には母性原理の回復が必要である」と唱え、自分たちが「父なる神」の正統な家族であるかのように訴えて、神の家の乗っ取りを企むのである。

そのような理屈を正当化するために、彼らは「キリスト教にグノーシス主義的な「男女の原初的統合」を「回復」することが必要である」と主張するのである。

こうして結局、東洋思想もその根底にはキリスト教の唯一の神への敵意、聖書の御言葉へ敵意と否定を宿していることになる。これは決してキリスト教と別個に発生し、発展して来た思想ではなく、その起源は、グノーシス主義なのである。

<続く>

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