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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

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カルト被害者救済活動の反聖書性―キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動③ー

7.キリストの十字架によらず、肉による善行を通して、人が自力で救済に至ろうとする偽りのヒューマニズムは、「神に見捨てられた罪人を、神の十字架の判決から救う」ための「神に対する被害者運動」である


さて、記事「カルト被害者救済活動の反聖書性について―キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動➀」の中では、キリスト教の不祥事につまづいたことをきっかけに、キリスト教の「二分性」や「排他性」につまずき、これを「思い上がって狭量な救い」として非難して、聖書の御言葉の否定に至る人々がいることを書いた。

カルト被害者救済活動に携わる人々が、特にプロテスタントのクリスチャンを「高慢」や「自己愛」などという言葉を用いて盛んに非難する背景には、聖書の御言葉が本質的に持っている排他性に対する抗議の念が含まれている。つまり、彼らは信者に抗議しているのではなく、聖書の御言葉に逆らっていることを見て来た。

ここから、聖書の二分性を否定する東洋思想の恐ろしさについて述べたいのだが、その前に、偽りの救済活動の持つ「高慢さ」について、さらに少し補足しておきたい。

幾度も書いて来たように、上記のような人々には、キリスト教の福音が、多くの人々を排除する残酷で狭量で反人間的な「排除の論理」であると述べて、キリストの達成された御業だけに頼ろうとせず、そこに人間の努力による自己救済という要素をつけ加え、よりヒューマニスティックな福音を作ろうとして、最後には聖書の御言葉に逆らって、これを否定して行というく特徴がある。

彼らは、神の救済を退けて、己の肉を高く掲げ、肉による善行を通して神に至ろうとする高慢に陥っているのだが、それが自分では分からないのである。

キリスト教界においては、一方では、組織に所属し、礼拝儀式への参加や、様々な奉仕活動を通して神に至ろうと、己の外面を磨き、肉の善行により頼む人々がいるかと思えば、その対極には、カルト化した教会で被害を受けた人々を救おうと、善良な救済者を名乗って登場し、やはり肉の行いにより頼んで人間を救おうとする人々がいる。

それらは対極にあるように見えて、どちらも同じように、キリストの十字架を抜きにした人間の自己救済の努力としての偽りのヒューマニズムである。これらは聖書に立脚しておらず、御言葉を曲げているという意味において、本当はキリスト教と呼ばれるべきではない。こうした活動の最たる特徴は、信者を決してキリストだけに導いて自由へ至らせることなく、むしろ、人間が作り出した様々な支配関係・依存関係の中に閉じ込めてしまう点である。

一方には、教会籍を作り、信者を組織としての教会に束縛し、キリストではなく目に見える人間である牧師という指導者に従わせ、指導者を絶対化する制度があり、他方には、自称救済者である指導者が、「教会で被害を受けた」とする信者たちを集めて自分に従わせ、離反者には容赦なく制裁を加え、離脱を許さない閉鎖的なカルト被害者救済活動がある。

筆者はこれらの二つの活動が、ともに聖書の本質から逸れて堕落した地上組織としてのキリスト教界の産物であって、根本的に同一の起源から出てきていることを指摘して来た。

これらはどちらも、聖書の御言葉を曲げて、キリストではなく人間の指導者を崇め、人が己の肉により頼んで自己救済を図るところから出て来た活動であり、本質的に聖書に反している。だが、今日、キリスト教と呼ばれているものの99%以上は、こうした活動で占められており、無知ゆえにそれに欺かれているだけの人々が、ことさらに罪に問われることはないようにと願う(だが、彼らの人生の損失は非常に大きいものと思うが)。

いずれにしても、そのようなものが聖書の御言葉の本質でないことは確かであり、そうである限り、本気で真理を求める人々が、そのような皮相な活動を離れて、神を尋ね求める例はこれからも現れるだろう。キリストのお与え下さった自由を生きて知るために、そうした虚偽の活動を離れ、人知れず、荒野を通るようにして、キリストご自身以外に頼るもののない状況で、この方だけにより頼み、御言葉の真実さ、確かさを生きて知るための訓練を受け、神の熟練した兵士となって、神の約束して下さった御国の前味を生きて知り、御旨を地上に実際に引き下ろす人々が現れるだろう。

必ず、神はご自分の民を用意しておられる。この先、どのような時代が来て、拙稿がどれほど役に立つのかは分からないが、筆者がしているのは、主の民のために道を整えるために、これまでに達し得たすべての教訓を残すことである。拙稿をたたき台として踏み越えて、さらに前進して行く人も現れることであろう。

さて、話を戻せば、以上に挙げたように、神の知恵に逆らって、生まれながらの人間の肉を高く掲げる人々は、当然ながら、神に対してのみならず、人に対しても高慢になる。

筆者は、これまで奉仕精神にあふれたクリスチャンに幾人も出会った。困っている人々を見ると助けずにいられず、自分の知っている真理を人にも分かち合わずにいられない、といった人々で、必ずしも、「善魔」と呼ばれるような、押しつけがましい奉仕者ばかりではなかった。

だが、たとえどんなに彼らが謙虚に人助けに邁進しているようであっても、そこにはどうしても、彼らが自分では気づいていない密かな高慢さとナルシシズムの落とし穴が存在することを筆者は常に感じずにいられなかった。

それは、彼らが神の御前で自分こそが欠乏を抱え、自分こそが問題を抱えている張本人なのだという事実を見ることを否み、自分の問題を他者に転嫁し、他者を救済することで、自己救済をはかろうとしているという自己欺瞞である。そういう人々に対しては、

「なぜ、人を教えて自分を教えないのか。」(ローマ2:21)という一言に尽きるだろう。

「イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」」(ヨハネ9:41)

上記のヨハネの福音書の御言葉は、イエスが盲人を癒された時に言われた言葉である。だが、これは、盲人という障害者に対する健常者の差別を非難して言われた言葉ではない。この言葉は、「社会的弱者を見下してはいけません」という観点から述べられたものではなく、神を見下している人々に向かって述べられた非難の言葉である。すなわち、イエスは、偽善者たちが(人に対してではなく)神に対して「私は見える」と言い張っているところに罪があると非難されたのである。

肉による善行とは、結局、己を神以上に高く掲げ、神以上に自分が正しいと言い張り、神の最善としてのキリストの十字架の救いを退けて、人が自分自身の努力によって神に至ろうとするすべての努力を指すのである。その中には、当然ながら、カルト被害者救済活動のように、まことの救い主である神を退けてまで、己が救済者になって人助けにいそしもうとする人間の高慢さも含まれている。

このように熱心に人助けにいそしんで救済者や指導者になりたがる人々は、一様に言う、「私には分かっている」、「私は知っている」、「私は人に教えてあげられる」、「私はあなたの状態を見て可哀想に思う」云々。一見、人を助けると見せかけて、弱さを抱えた人をどこまでも見下し、自らの栄光の道具として行く人々の口調に見られる高慢な響きは、杉本徳久氏の書簡を読むだけで十分である。

彼らは外見的には、困っている人々を見捨ててはおけない隣人愛に溢れた謙虚な人間を装い、教会にも熱心に通って敬虔なクリスチャンのように振る舞い、自分の人生においてはあたかもすべての問題に対する解決をすでに得ているかのように振る舞うかも知れない。だが、そのように人前で「完全無欠」を装い、熱心に人助けに励む人間ほど、心の内側では、必ずと言って良いほど、マザー・テレサ同様に、神が分からない、自分は神に見捨てられているという絶望感や空虚さに苛まれているのではないかと筆者は思う。カルト被害者救済活動の辿って来た道のりが、そのことを十分に立証しているように思う。

他者に対して救済者になりたがる人々というのは、欠乏を抱えて道に迷い、困窮して「可哀想な」弱者とは、常に自分ではない他の誰かであると考えて、他者を心密に見下しながら、同情の眼差しで見、上から手を差し伸べようとする。

このような人々は、他者を「救済する」という口実に自分自身が欺かれており、人助けを口実として、自分が常に他者よりも優位に立って、人間関係において主導権を握り、相手を支配して行こうという願望をかなえようとしているだけであることに気づかない。「救済する」側の人間は栄光を受け、感謝され、脚光を浴びるが、「救済する者」と「救済される者」との間には、圧倒的な力の差が出来、その溝はいつまで経っても、決して埋まらない。これは霊的搾取に基づく支配関係である。

そのようにして、彼らは巧妙に他者の尊厳を貶めながら、真の救済者である神を押しのけて、自分が救済者を名乗り、神から栄光を奪っているのである。なおかつ、そうして他者の問題ばかりに注目し、他者に同情し、謙虚に手を差し伸べているように見せかけながら、密かに優越感を味わい、自己の抱える本当の問題や必要から目をそらし、神を抜きにして自己をあたかも完全であるかのように思い込もうとしているのである。

こうした人々は、自分の問題を決して訴えようとしないので、傍目には、謙虚に隣人愛に生きているように見えるかも知れないが、それはただ自分の内心の問題に目をつぶり、これを他者に転嫁して、自分の問題を、他者の問題として訴えることで、自分はあたかも己の利益のために行動していないかのように装っているだけである。

どんなに人助けにいそしんでも、依然として、彼らの注意は人間にしか向いておらず、キリストに向いていない。そうである以上、そのような活動に没頭すればするほど、ますます神の臨在を感じることもなくなり、神が分からないという絶望感に陥るのは当然である。

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。」(Ⅱコリント3:16)

マザー・テレサは50年以上も神の臨在を全く感じられない「神の不在」の中にあった。単に霊的な交わりを一切感じられなかっただけでなく、神そのものが生きて実在しておられると信じることさえできないほどの絶望にあったようである。他人に神の愛を伝えておきながら、自分自身は神の愛が分からないというのでは、本末転倒ではないだろうか。どうして自分が分かっていないことを、人に教えられるのだろうか。理解することもできないほどの衝撃的な自己矛盾であるが、ここに筆者は、カルト被害者救済活動の支持者らとの共通点を見ずにいられない。すなわち、自分を差し置いて、救済されねばならないのは他人だと考えて、人助けにいそしむ人々の高慢さというものを見ずにいられないのである。

さらに、彼らの人助けなるものも、本当は、世間で賞賛と共に理解されているようなものとは、全く違ったものであった。それは結局、キリストへの信仰を持たない、神に見捨てられた人々を、同じように神に見捨てられた人々が、聖書とは別の方法で「救済」しようとするという意味において、神に逆らう高慢な反聖書的な活動だったのであり、パウロの指摘した「神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶり」(Ⅱコリント10:5)にあてはまるものと言わざるを得ない。

マザー・テレサはインドの「貧しい人々の中にキリストが臨在しておられる」と述べて、信仰を持たない人々の内に「キリスト」を見いだせると主張した。だが、このことは、彼女が聖書の御言葉を曲げて、信仰を持たなくても人が救われてキリストに至ることが可能だとみなしたことを意味する。こうした彼女の主張は、ちょうどカルト被害者救済活動が、信者よりも、不信者をより多く引きつけたのと、よく似た構図を持つ。彼らの人助けは、根本的に、信者のためのものではなかったのである。むしろ、それは神が十字架で罪に定め、廃棄するしかないという宣告を下された、信仰を持たないアダムに属する古き人(旧創造)を、神が唯一の救いとして定められたキリストの十字架から救おうとする活動だったのであり、「神に見捨てられた罪人・弱者を神の残酷な死刑判決から救うための、神に対する被害者運動」だったのである。

そのような意味で、これは聖書をさかさまにして、キリストの十字架を通して、神が定められた罪と死の判決から、哀れな人類を救おうとする、神を仮想敵とする、神に対する人類の被害者運動だったと言えるのであり、決して聖書の御言葉を介さずに、キリストの十字架を経由することなくして、人類を神による罪定めから解放し、人間がまことの神を退けて自力で神に至ろうとする(神の座を奪おうとする)点で、神に対する反逆運動だったと言えるのである。

そうである以上、こうした活動が人に自由をもたらすことは決してない。実際に、これは全く人助けなどではなく、あたかも人助けのように見せかけながら、人を不自由な人間関係の序列の中に束縛し、決してそこから逃がさずに、人の栄光を築き上げる道具として閉じ込める偽りの支配関係・依存関係なのであり、その残酷で不自由な支配は、この活動の虚偽を見抜き、それに反対を唱えて離脱しようとする人々が現れた時に、根こそぎ明るみに出た。カルト被害者救済活動の支持者が、この活動の危険を訴えたり、反対する者に対して、何をして来たかはすでに幾度も明らかにした通りである。

こうして、弱者救済活動に関わる人々の心に潜む、高慢さと歪んだ自己愛、さらにもっと言えば、権力欲、名誉欲、支配欲といったものが確かに存在することを筆者は考えないわけにいかない。だからこそ、一見、人の目には美しく見えるこうした弱者救済活動の持つ聖書に反する本質的な危険性について、再三に渡り、訴えないわけにはいかないのである。

さて、神を知るためには、信者がこうした偽りの運動によって身を飾ろうとすることをやめ、何よりも人の方ばかりを向くのをやめて、神の方を向くしかない。

「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。」(ローマ2:4)

新約に出て来る神のぶどう園を企業にたとえてみたい。神はある日、ぶどう園運営会社で働いていた全社員の働き方を見て、全員の解雇を決定された。これら全社員は、今や横領と背任の罪で告発されている。神は、ご自分に完全に忠実な新しい指導者を会社に送り込んで、己の罪を認めてこの新たな指導者に従う人間だけが、社員であり続けることができるという規則を定めた。社員が解雇されない道は、この新しい規則に服することしかない。すでに新しい規則に基づいて新入社員の受け入れも始まっている。なのに、会社には依然として、この新しい規則を拒んで、新しい社員をいわれなく攻撃しては排斥し、神が立てられた新しい指導者をも拒んで、罪に問われている古い社員を擁護して、彼らを残酷に排除された「被害者」であると主張して、「残酷な排除の論理」である新しい規則に逆らって、古い社員の「救済活動」を繰り広げている人々がいる。だが、そんなことをして何になるのか。それは救済ではなく反逆である。それは神のぶどう園の乗っ取り計画である。そのように、神を罪に定め、神の憐れみによって与えられた唯一の解決をも退けてでも、罪人を復権させようとする悪人どもは、根こそぎ解雇された上、監獄にぶち込まれるであろう。

神が人類全体を罪に定められた以上、人類(旧創造)の利益にこだわっても無意味なのである。キリスト者は、罪に定められた旧創造としての人類を擁護し、旧創造の思惑を忖度するために生きるのではなく、これをすべて退けてでも、神は一体、何を望んでおられ、神の目に真に価値あるものは何なのか、それをこそ考え、追い求め、実現するために生きている。

そのために必要なのは、信者が、神の御前で自分の無知を偽らず、自分が神の御前で貧しい者であることを認め、真理を求めて絶えず神に近づきたいと願うことである。自分自身の心の欠乏を他者に投影・転嫁するのではなく、人の問題にかこつけて願い出るのでもなく、強がりを捨て、素直に自分の必要を認めて、あらゆる問題について神に正直に打ち明けて助けを乞うために、自分をさらけ出して神に真剣に向き合い、心のすべてを持って誠実に語り合い、懇願するしかない。

「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る軟膏を買いなさい。
わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」(黙示3:17-19)

この終わりの時代、本気で神に従い抜きたいと願うなら、どの信者も信仰を守るためにそれなりの戦いを余儀なくされるものと筆者は考えている。パウロでさえも書いている、「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」(Ⅰコリント9:27)と。

パウロでさえこのように言わなければならなかったのであるから、今日の信者が、キリストに忠実であり続けるために何の覚悟も要らないというわけにはいかないだろう。

確かに、信者がキリストの十字架を信じ、救われている事実は永遠に変わらない。我々の内におられる方は「世に勝った方」であり、この世の君であるサタンよりも強いのである。そして、キリストから生まれた者たちも、この世よりも強いのである。だから、勝利は常にキリスト者のものである。

「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。
なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(Ⅰヨハネ5:3-5)

だが、その勝利は、信者が生きて御言葉を信仰によって実際にこの地に引き下ろすことなくして、世に現れ出ることはない。そのために、信者はのんきに悠長に構えているわけにはいかないのである。もし御言葉を実際としたいならば、日々、自分の十字架を負って、自己を否んでキリストに従い、御言葉の内にとどまり、これを守らなければならない。

神の御前で真に「豊かな者」となるために、自分が貧しい者であることを認め、神に叱られたり、懲らしめられたりしながら、あらゆる試練を潜り抜けて、より御言葉のリアリティの中に入り込んで前進し、やがて勇敢で強い兵士になって、御言葉を毀損するこの世のあらゆる偽りと高ぶりを打破し、キリストが十字架で取られた勝利をこの地に実際として打ち立てて、復活の領域を押し広げて行く必要がある。

このような戦いの中で、神に絶えず知恵と助けを求めて近づく必要を覚えない信者がどこにいるだろうか。だが、自分自身を偽って、神と人との前で、「私は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない」と言い張っている人間だけは、例外である。

彼らは神と人との前で自分の無知を認めることもなく、自分の弱さを認めてキリストに助けを乞うこともなく、自分の内側にある問題を神に正直に打ち明けることをもしないで、あたかも自分には何の不足もないかのように装い、自分の抱える見たくない問題には一切蓋をしながら、他者の問題だけにスポットライトを当て、容赦なく人の問題を暴き、他人の窮状について言葉を尽くして語りながら、それがさも隣人愛であるかのように偽り、神と人との前で自己を偽り、自分は優れて立派な人間であるかのように取り繕う。

このようなやり方では、どんなに他者をたくさん助けて感謝されてみたところで、彼ら自身の抱える心の必要性は永久に忘れ去られ、放置されたまま、誰にも振り返ってもらえず、置き去りにされるであろう。そのためにこそ、彼らの心の内側には、「自分は神に見捨てられている」という絶望感・空虚感が人知れず日々増し加わって行くのである。

そうして、人に宣べ伝えておきながら、自分自身は救いの対象外であり、自分の問題は永久に見捨てられており、解決されることもないという癒しがたい孤独と絶望感から目を背けるために、彼らは日々より一層、熱心に人助けに励み、自分の問題を他者に転嫁せずにいられなくなる。そうして、同じように「神に見捨てられて理不尽な状況に陥っている可哀想な弱者」(ほとんどが不信者)のために東奔西走することで、まことの救い主である神を否定し、神の栄光を盗みながら、神に見捨てられた旧創造の代表として、「生まれながらの人類を罪に定め、救いから排除した残酷な神の横暴さと理不尽」のゆえに神に抗議活動を続けるのである。

このような堂々巡りの罠にはまってしまうと、助ける側も、助けられる側も、永久にその偽りの救済活動が作り出す依存関係・支配関係の癒着から抜け出せなくなる。これこそが、謙遜とヒューマニズムに見せかけた、神によらない人類の絶望的な自己救済が生み出す高慢さと自己愛とナルシシズムの道である。

だが、主イエスの御言葉は、決してこんな恐ろしい不自由な束縛の中に人間を閉じ込めることはない。キリストご自身が、信者にとってすべての解決であり、まことの命であり、救い主であり、カウンセラーであり、弁護者である。従って、この方を内に得ている以上、信者はすべての必要をこの方のところに持って行き、解決をいただくことができるのであり、地上の誰にも助けを求めて走り回る必要がなく、神の地位を奪って「救済者」を名乗る人々に、栄光をかすめ取られ、道具とされる必要もないのである。

信仰の戦いをどう戦いぬくかという問題についても、あの指導者、この指導者のもとへ行かずとも、内なる油塗りであるキリストの御霊を通して、信者は必要な真理を十分に教わることができる。真理の御霊が内におられるからこそ、信者には自由があるのであり、どのように御言葉の内にとどまるかを理解するために、人の助けを求め、人の知恵に依存する必要がないのである。

「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31-32)

「あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、――その教えは真理であって偽りではありません。――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」(Ⅰヨハネ2:27)



8.御言葉(十字架)の「二分性」、「切り分け」の機能に基づき、信者が目を覚まして、真理と偽りとを峻別する必要性

さて、以上に記したように、弱者救済という名目で、あからさまに旧創造の「救済」を唱えて、罪に定められた人類の復権のために、聖書の御言葉の否定に至る人々がいるだけではない。

前稿では、「霊と肉の切り分け」という極めて重要な事柄について言及しながらも、ペンテコステ運動の誤りを無批判に取り込んでしまったがゆえに、偽りの霊の運動に惑わされてしまったKFCについても触れたが、このように、聖書の御言葉に忠実にとどまりたいと考えているクリスチャンにも、ペンテコステ運動のように、巧妙に聖書の御言葉の「分離」や「切り分け」を否定する偽りの教えの危険が迫っている。

だが、公平のために断っておけば、ペンテコステ運動は、何よりアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団が推進していることで知られる。上記のKFCも、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒のゆえに道をそらされた部分が大きく、同教団に属する現役信者と、ルーク氏との交流も、Br.Takaによって始まったものではなく、もっと古くから存在するものであった。

キリスト教界の危険性を見抜いていたルーク氏であるから、この危険な教団の信者との交流は断つべきであったろうというのが筆者の見解であるが、いずれにしても、数々の誤った霊的ムーブメントを日本に引き入れる原因を作ったアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の危険性については数多くの記事を書いて来たので、ここで改めて言及するまでもない。聖書に逆らう腐敗したカルト被害者救済活動もこの教団から出て来たのである。

ペンテコステ運動の危険性については、稿を改めて分析を続けるとして、その前に、ルーク氏が幾度も強調していた「善悪の路線」から「命の御霊の路線」へ(=「罪と死の法則」から「命の御霊の法則」へ)というテーマについて、さらに補足しておきたい。なぜなら、そのことによって、KFCがなぜ偽りを見抜けなかったのかを明確に理解し、二の轍を踏むことを避けられると思うからである。

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(ローマ8:1-2)

キリストと共に十字架において自己の死を受け入れ、彼と共に罰せられ、共に復活にあずかり、彼の命によって生かされたことにより、信者は律法による罪定めから解かれ、自分で自分を義とするために果てしない努力を重ねた挙句に罪に定められる必要はなくなった。そして、まことの命なるキリストの御霊の法則によって生かされるようになった。

ここまでは良いとして、だが、それで「善悪の法則」(罪と死の法則)自体はなくなったのであろうか? 信者に対して無効にされたのであろうか?

いや、決してそうではない。「しかし律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです。」(ルカ16:17)と言われる通り、信者が「罪と死の法則」に死んで、「命の御霊の法則」によって生かされるようになった後も、律法そのものがなくなったわけでなく、「善悪の法則」自体が死んだわけではないのである。

信者が律法によって罪に問われなくなったのは、「キリストのからだによって、律法に対しては死んでいる」(ローマ7:4)ためであり、「自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えている」(ローマ7:6)ためである。つまり、信者の側が律法に対して霊的死を帯びているので、この死が信者に対する律法の訴えを無効化しているだけであって、律法そのものは依然として有効なものとして存在しているのである。

依然として有効であるだけでなく、律法は、これを完全に全うして父なる神の前に義と認められた御子が、信者の内に御霊として住んで下さることにより、信者もまた、彼と共に完全に律法の要求を満たしたものとして神の目に義とされ、さらに、御霊を通して、律法は信者の内に書きつけられているのである。

「主が、言われる。
 見よ。日が来る。
 わたしが、イスラエルの家やユダの家と
 新しい契約を結ぶ日が。
 それは、わたしが彼らの先祖たちの手を引いて、
 彼らをエジプトの地から導き出した日に
 彼らと結んだ契約のようなものではない。
 彼らがわたしの契約を守り通さないので、
 わたしも、彼らを顧みなかったと、
 主は言われる。
 それらの日の後、わたしが、
 イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、
 主が言われる。
 わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、
 彼らの心に書きつける。
 わたしは彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 また彼らが、おのおのその町の者に、
 また、おのおのその兄弟に教えて、
 『主を知れ。』と言うことは決してない。
 小さい者から大きい者に至るまで、
 彼らはみな、わたしを知るようになるからである。
 なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、
 もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」
(ヘブル8:8-12)

キリストの御霊を通して、律法は信者の心に書きつけられ、信者はもはや自分の外側にある律法によって罪に定められることはない。が、だからと言って、善悪の区別そのものがなくなったわけではなく、今度は、信者自身が、御霊によって心に書きつけられた律法を通して、御言葉を理解し、神との交わりを得るだけでなく、自分に起きるすべての出来事を吟味し、見分け、識別して行く責任を負うのである。それによって、信者は御言葉の内にとどまる秘訣を知るのである。

ここで、大きな転換が成し遂げられていることに気づく。キリストを受け入れ、御霊が内に住んで下さるまでは、信者は律法によって調べられ、追及される対象であった。しかし、御霊によって律法が心に書きつけられてからは、今度は、信者自身が、すべてのことを識別し、吟味し、追及する側に立ったのである。

そのことは、信者が意識的に御言葉の中にとどまり続ける義務と密接な関係がある。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。」と、主イエスが言われた通り、御言葉にとどまる(御言葉を守る)とは、信者が自分で意識的に行わなければならない選択であり、救いが与えられているからと言って、信者の意志を抜きに、自動的に成し遂げられる事柄ではない。

「義務」とは書いてはみたものの、これは筆者の見解であって、御言葉に従うかどうかは、あくまで信者の自由意志に委ねられた選択なのである。もし信者がそんな義務は自分にはないとか、果たしたくないと考えるならば、御言葉の内にとどまらず、外に弾き出されてしまうこともありうる。(たとえば、自分で御言葉の真実性を拒み、否定した場合など。)

信者には救われて後も、依然、御言葉を拒む選択の自由もある。さらに、望んでいなくとも、敵の偽りに欺かれて、御言葉の外に引き出されることもある。御言葉にとどまるのかどうか、とどまるとしても、どうやってとどまるのか。それは信者自身が自ら御霊を通して学び、考え、識別し、能動的に選択して行かなければならない。

真理の御霊は、ただキリストとの麗しい交わりのためだけにあるのではない。それが教える真理を通して、信者は自分に起きるすべての出来事を理解し、吟味し、何が御言葉に忠実な、神から来た事柄で、何がそうでない偽りであるかを見極めて、絶えず自らの意志によって、御言葉の内にとどまり、御言葉を実体化して行くのである。(それが信者が霊によって自分自身を治め、環境を治めることにつながる。そのようにして御国の霊的統治が実体化されるのである。)

だが、御言葉にとどまることは、信者が主体的になすべき事柄であり、神を信じているからと言って、自動的に達成されるものではない。信者が御言葉を守ってその中にとどまっている限りは、信者はキリストのうちにとどまり、父なる神との交わりを失わない。内におられる御霊が、御言葉の内にとどまる方法を信者に教えてくれるので、これに忠実に従いさえすればである。

「あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、――その教えは真理であって偽りではありません。――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」(Ⅰヨハネ2:27)
 

だが、もし信者が、自分は何をしても罪に定められないから良いだろうと考えて、御言葉に照らし合わせて識別することもなく、偽りを退ける必要性も認めずに、どんな影響力でも警戒することなく自分の内に招き入れて、何にでも扉を開き続けていれば、いずれ敵の嘘に欺かれ、御言葉の外へおびき出され、堕落することは避けられないであろう。さらに、そんなことばかりずっと続けていれば、神との交わりも失われ、御霊の警告もやみ、悪魔の虜となってその奴隷とされる人生へ逆戻って行くだけである。御血の清めによって神に立ち返ることが可能なうちは良いが、意図的な反逆を続けていれば、どこかで引き返せなくなる。そんなことにならないように、偽りは初期のうちに見分けて退けられるように、信者は絶えず目を覚まして警戒を怠らないようにしておく必要がある。

そのために、信者は積極的に御言葉を行使して、すべての影響力(自分自身の外からやって来る影響力だけでなく、内側から起こる思いや感情をも含む)を鋭く識別し、神に属さないものを切り分け、退けて行く必要がある。

「御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。」(Ⅰコリント2:15)

ここに、以前は律法によって罪に定められるだけであった信者が、今度は、キリスト共に、自ら心に書きつけられた律法によって、すべてを識別する側に立つという立場の転換がある。
 
上記の御言葉は、クリスチャンのこの世に対する超越的な地位を示している。たとえどんなに幼子のように未熟なクリスチャンであっても、まだ霊的な事柄をほとんど知らない生まれたての信者であっても、キリストの御霊が内に宿り、律法が心に書きつけられていることは、この世のいかなる裁判官よりも高い地位に信者がつけられ、どんな法律家よりも深遠な知識を持っているのと同じほどの意味なのである。

だからこそ、その内なる御霊によって、信者はすべての出来事をわきまえ、その識別力を生長させ、発展させなければならないのである。信者は、この世の常識によってではなく、識者の言葉によってでもなければ、学問によってでもなく、人情によってでもなく、感覚によってでもなく、御霊を通して、御言葉によって、すべての事柄をわきまえるのである。その御霊による霊的識別こそ、神の観点から何が本当に重要で、価値ある事柄なのかを信者に教えてくれるのであり、その識別力を失えば、信者は信者としての特質を失い、この世の人と同じように、「人の悪だくみや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりする」(エペソ4:14)だけである。

KFCの問題点は、信者が「命の御霊の法則」に生きる重要性を唱えた点では、極めて重要な役割を果たしたが、同時に、「罪と死の法則」から解かれた自由を強調するあまり、信者が主体的に御言葉を守り、そのうちにとどまることの重要性、すなわち、御霊を通して、心に書きつけられた律法を通して、信者が全ての事柄をわきまえ、識別して、虚偽を退けることの重要性を見落とした点にあるかも知れないと筆者は考えている。あるいは、言葉では語っていても、それを実際には行使しなかったのである。

今日ほど、御言葉の切り分けの機能が重要な時代はないであろう。信者が暗闇の勢力のもたらす偽りを目を覚まして警戒し、御言葉を通してすべての事柄を識別し、偽りを見抜いて退ける作業は、どんなに強調してもしたりないほど重要である。

聖書の御言葉の持つ二分性は、信者が命の御霊の法則によって律法に対して死んだ後も、絶えず残り続ける。信者が律法によって罪に定められることがないからと言って、御言葉の二分性が消えたとか、信者にとって失われたとか、御言葉(十字架)の切り分けや、分離する働きが無効になったわけでは全くない。むしろ、御言葉は、諸刃の剣よりも鋭く、信者にとっては、何が神から来たものであり、真理であり、何が偽りであるかを識別する強力な武器となるのである。この武器を信者はただ持っているだけでなく、実際に行使しなければならない。

「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえ刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(ヘブル5:12)

さて、ようやく次回から、聖書の御言葉の二分性を否定して、人を「善悪未分化」の状態に引き戻そうとする東洋思想の危険性について述べて行きたい。

<続く>

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