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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

カルト被害者救済活動の反聖書性―キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動②ー

5.神の知恵である御言葉に逆らって、キリストの十字架を否定し、人が己の努力によって自力で救済に至ろうとする「高慢さ」

さて、前稿では、杉本徳久氏のようなカルト被害者救済活動の支持者らも含め、「プロテスタント信者特有の鼻持ちならない高慢さとナルシシズム」を持ち出して信者を非難する人々が、結局は、聖書の御言葉の「二分性」や「排他性」につまずいて、「狭き門」としてのキリストの救いに抗議していることを見て来た。

だが、ここにはさらにもう一つ大きな重要なポイントがある。

それは、信者に対する彼らの非難が、自力で救済に至ろうとしてもがき苦しむいわゆる「クルシチャン」の生き方と訣別して、御言葉を信じて、キリストの達成された御業に安んじ、「命の御霊の路線」に生きるクリスチャンに対する、暗闇の勢力からの全力を込めた妨害だったという点である。

ちなみに、筆者自身は「自己愛の病理」という言葉を使って記事を書いたことはないが、このテーマで探せばすぐに見つかるのは、KFCのドクター・ルークの次の記事である。

自己愛の病理を脱する十字架の道

記事内容は以下にも引用するが、これを読めば、カルト被害者救済活動の支持者たちや、前述の記事で挙げたブログ主の信者への非難は、ルーク氏の記事をそっくり裏返しにしたものであることが分かる。

筆者は、KFCやルーク氏の主張に対して全面的に賛同できない数多くの点があるので、この記事についても、細かい注意点を以下に詳しく記している。筆者が、ルーク氏の見解に注意が必要であると考えるのは、同氏の見解が、常に心理学とペンテコステ運動と聖書の御言葉に基づくキリストの御霊の働きとの混合になっていると思われるからである。(これについての詳細な分析は別稿でも行う。)

たとえば、「自己愛の病理」などという単語自体が、聖書に由来するものではなく、前の記事で示した元信者と同じように、心理学を模して造られたルーク氏の造語である。

だが、この造語の是非の問題は今はあえて脇に置いて、大筋でこの記事をとらえたい。要するに、同氏がこの記事において「自己愛」という言葉でバッサリと断ち切り、退けているのは、キリストと共に十字架の死を経由していない人間の生まれながらの古き人(自己)であり、また、この古き人を十字架を回避して生き永らえさせようとする、神の御言葉に逆らう人間の高ぶりとしての各種の努力のことである。

同氏は記事で言う、現代人は、自分で自分の問題を解決しようと必死の努力を重ねて生きており、クリスチャンもそれが信仰の道だと考えて、各種の自己改善の努力を必死で重ねているが、それこそ、神の御言葉に逆らって、人が自力で自分を救おうとする「自己愛の病理」であると。そうした努力は、神の一方的な恵みとして与えられたキリストの救いを退けて、人類が自らの力で自己義認し、自己救済に至ろうとするむなしい絶望的な努力なのだと。

キリスト教界においては、今日も、この種の人間が自力で自己を救済して神に至ろうとする絶望的な努力が絶え間なく続けられている――たとえば、礼拝儀式の順守義務、献金や奉仕の義務、良いクリスチャンであると人にみなされるために必要な一切の外面的・道徳的要素を整えるための果てしない努力の義務、そこには、むろん、カトリックで重んじられている社会への熱心な奉仕活動なども含まれる。

こうして「クリスチャンらしい外面」を整えるための果てしない「義務」を守ることこそ、あたかも信仰生活の根幹のように多くの人たちに誤解されているのだが、実際には、それらは聖書の御言葉の周りを包む飾り物のようなものに過ぎず、御言葉に基づく神の霊的な事実とは本質的に何の関係もない。

これらの活動はすべて、神ではなく人間の方を向いており、人間を満足させることを目的として作り上げられた活動に過ぎない。いかに神を口実に用いていても、荘厳で立派な礼拝儀式さえ、宗教指導者及び信者の「宗教的気分」を演出するために整えられるものであり、そのような儀式は、「霊とまこと」による礼拝(ヨハネ4:24)の本質ではない。それらの目に見える立派な全ての外面は、御言葉の本質ではないので、どんなにこれを整えても、信者は決してそれらの行いによって神に近づくことはできない。

しかも、こうした外面を取り繕い、人の目に優秀で立派な信徒を演じるための各種の努力や義務は、信者自身にとっても、しばしば耐えきれないほどの重荷となっている。

堕落した肉は悪しき行いに従事できるだけでなく、人の目に善と見える行いに従事することもできる。だが、人が神によらずに、己の生まれながらの力に頼って成し遂げようとする行いは、たとえ人の目にどんなに良さそうに見えても、すべて腐敗している。「肉にある者は神を喜ばせることができません」(ローマ8:8)

肉による善行は、人の目には立派そうに見え、「宗教的」に見えるかも知れないが、キリストの十字架の死に至らない人の生まれながらの命の生んだものは、すべて神の御前に無価値である。信者がクリスチャンらしい外面を取り繕うための各種の努力は、人間が獲得してもいない「神の聖」をあたかも獲得したかのように、もっともらしく演出して見せかけるための装置のようなものであり、人が神ではなく自己を喜ばせるために作りだした偽りであり、どこまで行っても偽善でしかない。

また、クリスチャンの信仰生活とは、何か人の目に優れて道徳的に立派な生き方をして、人類社会に奉仕し、人々に賞賛されることを目的とするものではない。宗派を問わず、キリスト教からは絶えず、社会的弱者や、困っている人々を「救済しなければならない」という強迫観念にとりつかれた人々が多数、現れて来たが、これもまた往々にして神を抜きにした人間の自己救済の活動を生んできたのであり、弱者救済のための社会奉仕活動が、聖書の御言葉の本質なのでもない。

さて、ルーク氏の記事は、信者が肉によって自己改善しようというむなしい努力を手放して、自己をキリストと共なる十字架における死に同形化し、自分ではなく、キリストがすべてを達成されたという事実に安息して、そこから信仰によってすべての解決を実際に引き出すよう奨励している。

クリスチャンは自力で神の聖に至りつくための必死の自己義認の努力を放棄して、この果てしない努力の結果、ただ罪に定められるだけのむなしい『善悪の路線』を離れて、キリストの成し遂げて下さった救いの御業から、すべての必要を引き出す『命の御霊の路線』に移行しなさいと告げているのである。

この点において、筆者は記事の趣旨に大筋で異議を唱えるつもりはなく、これは極めて重要な事実を信者に告げた警告であると思う。

ちなみに、この論考は「恵みの雨」2001年9月号に掲載されたようであるが、当時、キリスト教界に投げかけられたルーク氏の主張は、多くの信者にとって非常に画期的な意味を持っていた。それは同氏が、人間側の努力によって築き上げられる一切の熱心な宗教活動が、神を喜ばせることのできない堕落した肉に由来するものであり、聖書の御言葉の本質から遠くかけ離れ、御言葉を歪める偽りであることを指摘して、キリスト教界全体を覆っているこの偽りを聖書の真理に立って鋭く糾弾したからである。

同氏による「キリスト教界からエクソダスせよ」との呼びかけも、腐敗堕落した教会や、自己の努力によって神に至ろうとする偽りの体系としてのキリスト教界と訣別すべきであるという趣旨で述べられたのであり、前の記事で挙げた元信者の例に見るように、聖書の御言葉やキリストの福音そのものを拒んで「脱福」することを全く意味しなかった。

キリスト教界からエクソダスするとは、クリスチャンが自分や他人の状態を自分で何とかして改善しようと叫び、もがき、苦しみながら、絶望的な努力を続けるという、むなしい自己主張――ルーク氏の表現によれば、自分で自分の髪の毛を引っ張って空を飛ぼうとするような無意味な努力――をやめて、御言葉の実際に入り込むことにより、神の側から達成された恵みに立って、そこから、信仰によって、すべての必要を引き出す秘訣を学ぶようにということであった。
 
このような同氏の呼びかけは、当時、教会で要求される数々の奉仕の義務や、クリスチャンらしい外面を整えるための果てしない努力に疲れ果てていた数多くのクリスチャンに多大な影響を与え、多くの信者らが、自分に無理な要求を突きつけては挫折感に苛まれるだけの「善悪路線」の誤りに気づき、そこから抜け出して、真にキリストの命の豊かさを知ることのできる「命の御霊の路線」に立ち戻る必要性に気づいたのである。

また、同氏は、キリスト教界における様々な儀式や奉仕という、人が自力で神に至るための各種の努力を否定したのみならず、キリスト教界のカルト化という問題についても、カルト被害者救済活動の支持者のように、信者が自分の受けた「被害」を訴えることにより、人間側の利益だけを回復することを目的に活動することの無意味さを主張した。

つまり、カルト化の問題は、人が「私は腐敗堕落したキリスト教界によって傷つけられた被害者だ」と主張して、教会と信者と神に抗議して、自分の権利回復を目指すことでは絶対に解決しない。むしろ、人間が自分の利益が失われたこと嘆くのではなく、「聖書の真理が損なわれて、神の利益が損なわれた」という観点からこの問題に向き合い、神の御心に照準を合わせ、キリストの十字架に立ち返り、より御言葉を実際として生きねばならないと提唱したのである。この点では筆者もほぼ見解を同じくしている。

特に、終わりの時代に、「セルフではなくキリスト」を選ぶことができるかどうかが、クリスチャンの歩みを決定的に分けるだろうとの同氏の予測には、筆者は今も同意するのであり、そこからキリストの十字架に敵対して人の生まれながらの自己を延命させようとすることが、あらゆる異端思想の基本構造であることに気づき、その思想の危険性を述べねばならないと思い至った。

キリスト共なる十字架の死と復活に共にあずかること、それがなければ、信者の信仰生活は始まらない。十字架の死未満のところでは、どんなに人が一生懸命にもがいても、その努力が霊的な実を生むことはないのである。

以下の記事には、「なぜ聖書66巻だけが神の霊感を受けた書物であるのか。どうして証明の方法がないのに、御言葉は絶対的に正しいと言えるのか。」という、前稿に登場した信者の問いに対する答えも含まれている。それは、霊の機能と魂の機能の違いを理解すれば解ける問題である。
 
それほど長くないので、全文引用しておく。注釈は以下に述べる通りである。

■本稿は"恵みの雨"9月号特集記事の原稿です。


■自己愛の時代



現代はどこもかしこも"癒し"が流行し、それ自体がほとんど強迫神経症的です。クリスチャンも例にもれず、対人関係や仕事などで傷つくと、精神分析、交流分析、自律訓練法、行動療法、来談者中心療法、果ては心療内科に精神神経科・・・とさ迷っています。

このような様子をイエスがご覧になったらどうでしょうか。彼は言われるでしょう:「わたしの十字架に戻りなさい」、即ち「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分の魂(原語)を救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分の魂(原語)を失う者は、それを救う」のです(ルカ九・23,24)。

この世の方法は"まず得よう"とします。対して神の方法は"まず失う"のです。現代社会の病理は"自己愛パーソナリティ"です。この世も、キリスト教会も「私が、私は、私の・・・」と果てしない"私"の訴えに満ち溢れています。しかし真の心の癒しを得るには、その訴えと主張に満ちている"私"を下ろし、十字架におけるキリストと共なる死に与ることに秘訣があります。死は自己の終焉であって、魂の沈静と深い平安と安息をもたらします。「失えば得る(Lose to Get)、死ねば生きる(Die to Live)」のです!


■御言葉と真理



神が世界を創造された時、世界の運行を法則に委ねました。自然界には物理法則などが、精神の世界には心の法則が、そして霊的領域には霊の法則があります。いかにマッチョでも、自分の髪を引っ張って空を飛ぶことはできません。それは法則に反します。よってそうやって空を飛べなくとも自分を責めたりはしません。物理的領域においては、可能なことと、不可能なことが明確に分かるからです。

ところが、こと心の領域の問題になりますと、法則自体が曖昧です。一応精神分析学とか精神病理学などの理論はあっても、かつて幼女誘拐殺人事件の被告人Mの裁判で三人の専門家の精神鑑定が分かれたように、物理法則ほどの精密さがありません。さらに霊的要因が絡んでくると、通常の学問ではまず太刀打ち出来ません。結果として私たちは可能な事と不可能な事との識別ができず、自分はこれができないとか、あれができるとかなど、劣等感や優越感で揺れ動きます。心の問題を抱えている人々と接して分かることは、それらの法則についての無知のために、ちょうど自分の髪を引っ張って空を飛ぼうとして葛藤し、疲れ果てているケースが多いのです(ホセア四・6)。

しかし聖書はその心の法則と霊の法則を明確に提示しているのです。なぜなら聖書は被造物である私たちに関する創造主による"取り扱い説明書"だからです。私たちは物理的真理を知ることによって、無駄な努力から解かれるのと同様に、精神的また霊的な真理を知ることによって、内的な葛藤や悩みからも解かれるのです。イエスは言います、「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ八・32)。


■御言葉と御霊



このように真理には"霊的な事柄の道理"の意味があります。また聖書では真理はひとりのパースンであると啓示します。イエスは言われます、「わたしは道であり、真理であり、いのちです」(ヨハネ十四・6)。イエスは神のロゴスの受肉だからです。この世の学者先生方はそれぞれの分野で"真理"を探しあぐねています。究極の真理を得たと思うと、逃げ水のようにするっと逃げてしまうのです。

しかし私たちは自分の努力によらず、ただ信じることによってこの究極の真理を得たのです!それは私たちの霊に御臨在くださるイエスです。「真理はあなたがたを自由にする」と言う場合、単なる知的理解によるのみでなく、私たちの霊において、究極の真理なるイエスのパースンに触れるときに、あらゆる束縛から解かれるのです。イエスこそ真のワンダフル・カウンセラーです(イザヤ九・6)。そこでイエスは「もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」(ヨハネ八・36)と言われます。

現在の私たちは長血を患う女のように、物理的イエスの衣の房に触れることはできません。しかし、今や最後のアダム(=イエス)は命を与える霊となられました(第一コリント十五・45)。物理的には復活の体を持って昇天されましたが、彼は私たちを孤児として残すことはなく、御霊が来られるとき、また戻ってくると約束して下さいました(ヨハネ十四・15-21)。すなわち霊的領域において、イエスは私たちの霊に御臨在されるのです(第二テモテ四・22)。当時の弟子たちとは物理的に接触されましたが、現在の私たちとは霊的に触れて下さるのです。それは物理的触れ合いよりもはるかに深く、親密で、甘い交わりなのです。

これは御霊によりますが、御霊はご自分から語ることはなく、聞いたままを語り、イエスに栄光をもたらします(ヨハネ十六13-15)。すなわち御霊はご自分ではなく、イエスの言葉とわざそしてパースンを私たちの霊の内に実体化し、証して下さるのです。よって御霊の臨在とキリストの臨在は等価です。このとき「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」(第二コリント三・16-17)。パウロはこの文脈においてはキリストと御霊をほとんど同一視しています(注:位格を混同しているのではありません)。

さらに御霊は私たちの魂にも触れます。私たちは罪による霊的な死のために、自分の魂と体のみで奮闘努力していました。その生き方のパタンがパウロの言う肉です。肉は私たちの罪によって腐敗していますので、死に渡すのみです(ガラテヤ五・24)。一方私たちの魂は、霊から照らし込む霊的な光によって露にされ(詩篇三十六・9)、古い価値観や生き方などが廃棄されるごとに(エペソ四・22、コロサイ三・9)、御言葉によって再構成されることにより(コロサイ三・16)、思いから造り変えられて行きます(ローマ十二・2;原語)。意志は神に対して柔らかくされ、感情は神の愛で潤されて平安と安息に満ち、思いは神の言葉に沿った考え方が条件付けられていきます。こうして心の中にキリストの形が造られていきます(ローマ八・29、ガラテヤ四・19)。これは主なる御霊の働きによるのです(第二コリント三・18)。


■御言葉と私たちの霊



人には霊があります(ヨブ三十二・8、イザヤ五十七・15、ゼカリヤ十二・1)。鍵は霊の内で御霊と御言葉が相互作用することにあります。霊には、良心、直覚、交わりの三つの機能があります。私たちは良心が探られて自分の罪を認め、イエスを受け入れました。また真理を直覚によって知り、霊なる神との甘い交わりを得ます。神は霊ですから、私たちは霊によって礼拝する必要があります(ヨハネ四・24)。光は目によって、音は耳によって感知されるのと同様です。

すでに十字架の救いは百%完全に成就しています。私たちのすべての罪は赦され、すべての病も癒され、すべての必要も満たされたのです(完了形)。御言葉はこれらの客観的事実(=真理)を語ります。何かを客観的に表現する言葉をロゴスと言います。ちなみにイエスは神を語る神のロゴスでした(ヨハネ一・1)。このロゴスを私たちが信仰によって受けるとき、御言葉は光を放って(詩篇百十九・130)、レーマとなります。レーマとは即時的に語られた主観的なことばです。イエスは「わたしが話したことば(レーマ)は霊であり、いのちである。人を生かすのは霊であって、肉は何の役にも立たない」(ヨハネ六・63)と言われました。すなわち私たちの信仰と御言葉が結び付けられて(へブル四・2)、レーマとなり、霊的な光を放ち、またいのちとして私たちの魂を、さらに体をも生かすのです(ローマ八・11)。これは私たちの霊の内でなされるのです。まさに人の霊は神のともし火です(箴言二十・27)。

私は以上のことを<ロゴス+信仰=レーマ=霊=いのち>、および<客観的真理+信仰=主観的経験>と定式化しています。この霊的な"いのちの方程式"が働くのは、私たちの霊の内であり、それを実現するのが御霊です。この霊的作用の中で、いわゆる心の傷なるものも自然と癒されてしまうのです。


■御言葉と信仰



御霊の御わざには、私たちの信仰が必須です。新約聖書で唯一の信仰の定義は「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるもの」です(へブル十一・1)。Darby訳聖書では"保証"と言う単語に"substantiating"を使っています。日本語では"実体化"です。すでになされている客観的な霊的リアリティを私たちの内で実体化すること、これが信仰です。目を開けば、電磁波である光は私たちの視覚野においてただちに実体化されます。同様に霊的リアリティは私たちの霊に実体化されるのです。これが信仰です。「私は信じます、信じます・・・」と念じることではなく、霊を開けば霊的リアリティはただちに私たちの霊に感光します。「得た!」と分かるのです。大切なことは知恵と啓示の霊を受けることです(エペソ一・17)。単純に父なる神に求めましょう。

そして信じた者は自分のわざを止めて安息に入ります(へブル四・3)。自分のもがきを止め、完成されたキリストの十字架の事実の中に休むのです。御霊のみわざが自分の内で進展するに任せるのです。愛、喜び、平安などの御霊の実(単数形)が結びます(ガラテヤ五・22)。これは自己努力によるのではなく、御霊のみわざです。私たちの責任ではありません。私たちの責任はキリストの死に与って、自分の体を罪と死の法則の支配に委ねず、いのちの御霊の法則に委ねることです(ローマ六・11-12、八・2)。

まず自分の傷の癒しを求めるのではなく、そのような自己主張はひとまず下ろして、キリストの十字架の事実に戻り、そこに留まり続けるだけです。サタンやこの世、さらに肉はそこから私たちを引き出そうとします。しかしその誘惑に乗ってはなりません。もし乗って罪を犯しても、ただちにイエスの血によって洗っていただき、十字架に戻ることです。天には大祭司であるイエスがおられます(ヘブル九・11-14)。


■自己愛からキリストへ



自分で何とかしようとしている限り、癒しは得られません。まず自分を放擲することです。痛んだままの自分を十字架に投げ出すことです。そこではイエスの圧倒的な愛が私たちの凝り固まった魂を融かし、御霊がひび割れた心にモイスチャ・クリームを塗って下さるのです。自己に向いていた注意がキリストに向くとき、そこには自由、平安と安息、そして癒しがあります。私たちは自分を忘れて、ただこのキリストの甘い愛の交わりの中に留まり続けるだけです。God bless you!



さて、以上のようなルーク氏の主張に対しては、当然ながら、暗闇の勢力からのすさまじい反撃があったと見られる。

なぜなら、この主張は、キリストの十字架における「切り分け」――特に、霊と肉の切り分け――という問題を明確にキリスト教界に投げかけたからである。

霊と肉の切り分けの問題は、今日に至るまで、キリスト教界ではほぼ見失われている真理である。それを回復するという点において、ローカルチャーチ出身の同氏の主張は、画期的であったが、同時に、ある種の人々からは、大きな反発をも呼び起こした。

何しろ、人間の努力(肉)によって成し遂げられる熱心な宗教活動こそ、今日、キリスト教と呼ばれているものの99%以上を占めるのである。そうした人間側の極めて熱心な努力によって築き上げられた一切の良さそうに見える宗教体系が、すべて無意味かつ、御言葉に悪質に逆らう虚偽であり、しかも人間の身勝手な自己愛の産物でしかないということになれば、目に見えるキリスト教はほぼ完全な失業状態に陥るだろう。

さらに、そのような肉に基づく熱心な自己救済の努力は、「キリスト教界のカルト化を是正する」という名目で、キリスト教界を浄化するために絶え間ない争いを続けているカルト被害者救済活動のような運動にもあてはまるのである。これもまた「被害者のため」という名目で、人間が御言葉によらず、神の救いにより頼まずに、自己の力で自己を救済するために繰り広げるむなしい活動に過ぎない。

だが、そのようにして自己の熱心な努力により頼んで生きる人ほど、その生き様が、神の御言葉に逆らう偽善であり、神の知恵に逆らう高慢さであることが明らかにされるのを嫌う。そこで、上記のような言説に対しては、当然ながら、猛反撃に出た。彼らは自分たちの熱心な努力が「自己愛」や「ナルシシズム」と呼ばれて退けられることに猛反発し、むしろ、聖書の御言葉に基づいて、人が自力で救済に至る努力をやめるように促している人々の方が、「聖書の御言葉を絶対的なものとみなし、これに従って自分たちだけが正しい信仰を持っていると思い込み、自らの見解に合致しない他者を容赦なく裁いては切り捨てる、思い上がって高慢な、自己愛とナルシシズムに満ちた信者」だと非難することによって意趣返しに及んだのである。

だが、このような主張は、前稿で見た通り、結局は、信者の心の排他性ではなく、聖書の御言葉の持つ「排他性」、キリストの十字架そのものが持つ「二分性」や「切り分け」につまずく思想なのである。

そのような人々は、ルーク氏の唱えた「自己愛の病理」という言葉に反発しているのではなく、その向こうにある聖書の二分性の原則に逆らっているのであり、人類の自己救済の努力が否定されることに我慢がならず、キリストの十字架におけるアダムの死を回避するために、霊と肉の区別そのものを否定してかかりたいのである。とどのつまり、彼らが逆らっているのは、アダムに属する古き自己は神の御前に無価値であり、キリストと共なる十字架の死に渡されて廃棄されるしかなく、肉は何の役にも立たないという神の事実なのであり、「肉にある者は神を喜ばせることができません」(ローマ8:8)という聖書の真理なのである。



6.魂と霊を混同し、信仰によらずに、感覚的な陶酔によって霊の事柄をわきまえようとするペンテコステ運動の危険

このように、以上で挙げたルーク氏の記事の趣旨には、大筋では同意できるものの、同時に、極めて重要な注意点が含まれている。それは、同氏が霊と肉の切り分けの重要性を主張しながらも、同時に、明らかにこの切り分けを意図的に曖昧にしようとするペンテコステ運動の悪影響を無批判に取り込んでいると見受けられるからである。

まず第一に、ルーク氏は神との交わりが「甘い」ものであるとしきりに強調するが、神との交わりが常に「甘美さ」を伴うかどうか、筆者は断言できない。神との甘美な交わりが存在すること自体は否定しないが、聖書においては、霊において主イエスのパースンに触れた人々の反応は様々に異なり、必ずしも交わりの「甘美さ」だけが強調されてはいない。最も極端な例では、「それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。」(黙示1:17)

神との交わりは、霊における確かなリアリティとして強い臨在感を伴うこともあるが、常にそうであるとは限らない。それは必ずしも何らかの感動体験を伴うものではなく、時には、全く何の感覚も伴わず、あるとさえ感じられないこともある。だが、感覚において何も感じられないからと言って、神が不在になったり、信者との交わりを絶たれたわけではないのである。

神との交わりは、信者に何かが「見えて」いるかどうかや、何かが「感じられる」かどうかといった人の感覚によってとらえられるものではなく、霊において、あくまで信仰によって知覚するものである。確かに、霊においても、魂によく似た「直覚」の機能はあり、信者はこの機能を通して神との交わりを知り、御言葉の啓示を明確に受けることがある。その啓示に、喜びや、深い感動や、安らぎや、畏れの念が伴うことはある。

だが、たとえ何も感じられなかったとしても、御言葉の通り、神が常に信者と共におられ、霊において絶えず交わりが可能であるという事実が変わることはない。信者は常にその事実の中を歩んでいるのである。信者が何を「感じる」かが重要なのではなく、あくまで御言葉が何を告げているかが信者にとっての現実なのである。

しかし、記事「ペンテコステ運動はなぜ誤っているのか(1)―カリスマ指導者に栄光を帰し、五感を信仰よりも優先する教え―」でも指摘したように、ペンテコステ運動はほとんどと言って良いほど、霊的なものを感覚的なもの(魂的なもの)と混同し、御霊の働きを何らかの感動体験、恍惚体験と結びつけてとらえ、極端なまでに感動体験を強調する。そこに危険な偽りの誘惑がある。

なぜなら、悪霊もまたキリストの御霊を装って、人間に何らかの幻や感動体験をもたらすことが可能だからである。そうして、悪霊がキリストの御霊に偽装して信者のもとにやって来て、喜びに満ちた感覚によって信者を欺き、これをあたかも信仰であるかのように思わせて、信者を深くとらえて支配するということがあり得る。悪霊が麻薬のように、恍惚体験や感動体験を利用して、信者をこれに病みつきにさせ、何も考えずに信者が喜ばしい感覚に身を委ねて自己放棄することを求め、冷静で現実的な思考を失わせて、信者を思い通りに支配して行くことがありうる。

偽りの霊の狙いは、聖霊の働きを模倣することにより、聖霊に偽装して、信者を神の真の霊的秩序から堕落した感覚世界へとおびき出し、信者の冷静な思考と判断力を眠らせて、恍惚体験の虜にしてしまうことにある。

神の霊は決して人に主権を放棄させることがない。人は自分の意志によって自分を治める必要があり、常に自分の主権を守り、これを誰にも奪われることなく保持しながら、何に対して扉を開き、どこまで自分を委ねて良いのか、絶えず自分で吟味し、自己決定せねばならない。玄関の扉の鍵を開けっぱなしにしていれば、強盗や詐欺師も入って来るのは避けられない。鍵をかけておくのは、人として当然の態度である。神の霊の働きは決して人の主権を侵害したり、これを放棄させることがない。

キリストの御霊の働きは常に霊⇒魂⇒身体という順序を取り、決して人の自己決定権を脅かすことはないが、悪霊の働きは、まず何らかの体験を通して、喜ばしい感覚や、あるいは恐怖などによって人の魂をとらえ、圧迫し、これをきっかけとして人の主権を侵害して奪い取って行く点で、キリストの御霊とは正反対である。



だから、信者が何も考えずにただ甘美で喜ばしい感動体験に自分を開いて無条件に身を委ねることが、「セルフを否んでキリストに従う」ことだと勘違いすることは危険である。信者の正常な理性や判断力に基づいた正常な警戒心までも眠らせて、「無私」、「委ねる」、「明け渡す」、「身を任せる」などの言葉で、恍惚体験の中に自己放棄させる教えは危険であると見抜かねばならない。

東洋的な瞑想の危険性もここにあり、「無私」を強調することによって、人の正常な警戒心を眠らせて、人が主権を放棄して、無防備に環境から来る影響力を受け入れ、結果として正体不明の霊に扉を開くよう促すのである。

ペンテコステ運動は、キリストに属する聖霊の働きを装ってはいるものの、実際には、東洋的な未分化の状態へと信者を回帰させる目論見を含んでいるように筆者には感じられてならない。すなわち、喜びに満ちた恍惚体験をきっかけに、信者が「霊に対して自分を明け渡す」よう求めることにより、信者が自らの知性によってあらゆる物事を識別し、何を受け入れて何を退けるかを自ら選択する作業をやめさせて、すべての識別・区別を排除したところにある未分化の状態、すなわち、人が自らの主権を放棄して、自分を取り巻く環境と一体になって受動的に身を委ねる無防備な状態へ回帰するよう、信者を誘い込んで行く狙いがあるものと見ている。

ペンテコステ運動はなぜ誤っているのか(1)」から抜粋

「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)


 信仰は、目に見えない(五感では感じることのできない)神の側の霊的事実を自分の事実として信じ受け取ることによるのであり、すでに見たり、聞いたり、感じたりしている出来事をその感覚ゆえに受け入れることとはわけが違う。

 特別な喜びや感動が全く伴わなくとも、信じる者は御言葉を根拠として神の事実を受けとるのである。

 このように、正しいクリスチャンの信仰の歩みは、すべてのことが霊から始まる。まず霊的事実があって、次に魂や体で知覚することのできる感覚世界がこれに従属する。聖霊が働くのは、人の霊に対してであって、魂や体の感覚世界の中ではない。感覚世界はこの世の物質世界、人の堕落した肉に属するものであって、これは神と接触するための媒体ではない。神と交わることのできるのは、人の感覚ではなく霊である。

 ところが、ペンテコステ運動は、霊→魂→肉体という聖書的な秩序を覆してしまい、人の魂や肉体に巧妙に働きかける感覚的なものを霊的なものと呼び変え、すり替え、混同し、結果として、信仰よりも感覚を重んじるのである。そこで、ペンテコステ運動は、再生も、聖霊のバプテスマも、説教も、単に「喜びの伴う感覚体験」に変えてしまう。そしてついにはその「喜びの伴う感覚体験」が欠落していれば信仰ではないとまで言い切るのである。

 そこで、セス・リースの論説集もそうだが、ペンテコステ系の指導者のメッセージは、共通して極めて情緒的で、非凡な言葉を述べては人の感情を強く揺さぶり、感動を呼び起こそうとする手法に満ちている。だが、少しでも冷静に吟味すれば、常に感動しっぱなしということは、人にとって極めて不自然な状態であることが分かる。音楽の楽曲でもそうだが、初めから最後までずっとクライマックスということは絶対にない。しかし、ペンテコステの指導者の説教は最初から上り調子一辺倒で、テンションが全く下がらず、常なる感動を目指している点で、極めて不自然で人工的な作為を感じるものなのである。

 こうしたことが分からないまま、ペンテコステ運動に一度でも深く関わったことのある信者には、霊的な事実よりも感覚を重視するという危険な傾向――しかも、深く物事を吟味することを嫌い、自分の感覚にとって好ましいものだけを「信仰的・霊的なもの」だと勘違いする危険な傾向――が深く根付いている。それは一種の麻薬のような陶酔感に似ていて、人を盲目にさせて、繰り返し、繰り返し、聖書の御言葉に基づく冷静で穏やかな信仰よりも、自分を感動させ、手っ取り早く喜びや興奮をもたらし、感覚を喜ばせてくれるような偉大で非凡な体験へ飛びつかせようとその人を誘導するのである。

ペンテコステ運動につきものである、偉大な英雄の物語や、奇跡や感動体験の描写、あるいは感動的な礼拝音楽などといった偽の信仰物語は、人の耳を喜ばせることで、聞く人の心を釣りげるためのしかけである。このしかけに慣らされた人は、その感動体験を疑うことなく、条件反射のようにあっけなく飛びついては欺かれてしまう。そうなるのは、その信者の考えの根本に、セス・リースの書いたような、「信仰とは五感によって知覚できるものだ」という誤った思い込みが消えずに残っているためであり、霊の事柄と感覚的な事柄を混同しているからである。

 だが、信仰を五感によってとらえようとするこの試みこそ、聖書が最も人に警告している危険なのである。

「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。」(創世記3:6)


この点で、やって来る霊を信者自身が鋭く吟味し、識別する作業をしないまま、ただ「霊の流れに身を任せる」などの言葉で、その場の空気やムードに無防備に自分を委ねるよう呼びかけるKFCの「セレブレーション」には、甘美な恍惚体験を餌にして、信者の正常な警戒心を眠らせて、偽りの霊に身を委ねさせるペンテコステ運動と全く同種の危険が潜んでいると筆者は考えている。



ある兄弟は、ルーク氏が魂の事柄と霊の事柄を混同し、
偽りの霊による魂的な体験に深く欺かれていると述べた。
しかし、受けた体験が甘美であればあるほど、また、
捕えられた人の感受性が鋭く豊かであればあるほど、
こうした甘美な体験を疑い、抜け出すのは難しくなる。
当初、ルーク氏の主張はかなり理知的であったが、
年々、同氏のミニストリーは深い論理的思考の裏づけを失い、
喜ばしい感覚体験をしきりに強調するものとなって行った。
標題にも見るように、正体不明の感動体験に信徒が
無防備に身を委ね、自己の主権を放棄して明け渡すように求める
ミニストリーは、聖霊派に特徴的であり、極めて危険である。


キリストの御霊の働きは、必ずしも心地よい感覚や、高揚感や、感動体験を伴うものではなく、たとえて言えば、「無色透明な」、信者が自分の意志や知性も含めて、完全な判断力や識別力を決して失うことなく、自ら選び取ることのできる現実である。

信者は心地よい感覚が伴うかどうかに従ってではなく、あくまで御言葉が何を言っているかに基づいて、何を信じて受け入れるべきかを自分自身で判断する。

キリストと共なる十字架における自己の死という事実についても、自己が死んだと感じるからそう信じるのではなく、御言葉が事実であるから信じて受け入れるのである。そのようにして絶えず、自分の感覚ではなく、御言葉への信頼に立ち続ける時に、ある時点で、信者は確かにその霊的事実が、自分の日常生活において実際になっていることを見るのである。

こうして、キリストの十字架の死に古き自己を同形化しながら、絶えず御言葉に従って歩むことは、人の自己にとっては、必ずしも喜ばしく感動的なことではない。日々自分の十字架を負い、キリストの勝利を実際として生きるとは、激しい霊的戦いでもある。

信仰の世界においては、言いっぱなしということは決してなく、信者は自ら信仰によって行なった告白を必ず試される。信者は、自分で宣言した御言葉の事実が確固たる現実になって生活に実際に現れるまで、絶えずそれに逆らうすべての有様を拒否して戦いを続け、これに勝利しなければならない。

信者は、霊においては、キリストがすべてを達成して下さったという事実に立脚して、これがすでに現実であることを知って、安息している。だが、日常生活においては、その霊的事実に反するような事柄が押し寄せて来て、自らの確信が揺るがされそうになったり、御言葉の外に引き出されそうになるのに抵抗しながら、堅く御言葉に踏みとどまって、御言葉のリアリティを地に引き下ろし、自らの生活において実際とせねばならない。この戦いは容易なものではなく、時には信者自身の魂が、霊を裏切って、敵の作業場になることもある。

霊は直覚によって御言葉をレーマとして受け取るので、何の証明もなくても、信者にはそれが真理であることが分かる。だが、信者は、霊においてはすでに御言葉の意味を悟り、複雑な状況の中で、どう行動すべきかを知っていても、魂は、常に常識に従ってものを考え、自分に納得の行く説明や証明を求めるので、霊が受けた啓示を受け入れがたいと感じ、これに逆らうことがある。

人の魂は、霊とは異なり、堕落した古き人(肉)に属するものであるから、御言葉に逆らい、肉の欲を遂げようと願うことがある。

たとえば、主イエスが共に船に乗っておられるのに、外の嵐を見て恐怖に駆られた弟子たちのように、信者は自分を取り巻く環境状況に実際に大きな波乱が巻き起こる時に、御言葉の平安の外に引き出されそうになることがある。

そのような時には、信者は「御霊によって、からだの行ないを殺」し(ローマ8:13)、御言葉に逆らう自分の魂の動きを全力で屈服させて、自分の心を治め、御言葉に従わせなければならない。

「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。<…>
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:16-24)

私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。
私たちは、さまざまな思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち破り、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、
また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を制する用意ができているのです。」(Ⅱコリント10:3-6)
 
時には、信者は感覚的には平安さえも失われたかのような状況も通過しながら、御言葉が実際になって自分の生活に現れるまで、戦い抜いて勝利せねばならない。環境を治め、自分の心を治め、自分の身体を治め、自己の内外に御言葉に逆らって立つあらゆる「高ぶり」を打ち破り、戦いに勝ち抜いて、御言葉を実体化することが求められるのである。そのような霊的戦いを経て、信者の内側での御言葉に応じた造り変えも進行する。

さらに、ルーク氏の言説には決定的に重要な問題点がある。それは信者にとって最も重要なのは、同氏の言うように「キリストの甘い愛の交わりの中に留り続ける」ことではなく、「御言葉の中にとどまり続ける」ことだという点である。

キリストとの交わりの中に留まることと、御言葉にとどまることは、ある人々にとって、ほとんど同じに聞こえるかもしれない。だが、順序が違うのである。聖書が繰り返し、述べているのは、信者がまず御言葉にとどまり、御言葉を遵守せよ、ということである。そうするならば、おのずと、その人の内側で、キリストを介した父なる神との愛の交わりも保たれる。だが、逆の順序はあり得ない。御言葉にとどまらず、御言葉を守らない人の内側で、神との交わりが保たれることはあり得ない。

従って、信者にとって重要なのは、自分の感覚にとって甘美で好ましく感じられる交わりにとどまろうとすることではなく、たとえ自分にとって好ましい感覚が全く伴わなくとも、それでも「御言葉に従う、これを遵守する」ことなのである。

だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
 わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。」(ヨハネ14:23-24)

もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31-32)

ルーク氏は、「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」という後半部分の解放は幾度となく強調するが、その前半にある「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら」という、信者の側の責任を、半ば意図的に見過ごしている趣があることに注意が必要である。

つまり、キリストの達成して下さった御業に安息するためには、人間の側にも果たさなければならない一定の義務があり、それが御言葉の中にとどまり、御言葉を守ることなのであるが、この点については、意図的にほぼ言及されていないのである。

こうしたことの中にも、筆者はペンテコステ運動の影響を見ざるを得ない。そこでは、人間にとって好ましく喜ばしい体験は幾度も強調されて、その体験に信者が自分を開いて受動的に身を委ねることは求められても、信者の側にも、主体的・能動的に果たさねばならない義務があり、中でも特に、御言葉に基づいて、信者が片時も警戒心を鈍らせることなく、目を覚まして自分に起きるすべての物事を鋭く吟味し、何が真理であるか、何が偽りであるかを自ら識別し、虚偽を見分けて退け、真理だけを選び取って受け入れるという識別の作業、すなわち、御言葉による「分離」や「切り分け」の機能を用いて、信者自身が何が真理であるかを識別する作業の重要性が、見落とされている点である。

こうした教えの中では、信者が疑ったり、識別したりする作業をやめて、受動的に感動体験に自分を委ねることは求められても、信者が片時も自分の理性を眠らせず、自分の主権を(キリスト以外の)何者にも明け渡すことなく、積極的・能動的に虚偽を退けて、御言葉の中にとどまりつづけねばならないことの重要性については言及されないのである。


<続く>

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