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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

我が街倉敷に寄せて


 正確に言うと、今、私が住んでいるのは倉敷市ではない。だが、かつて幼い頃、私はこの街で暮らしたことがあった。この街の見所は、よく知られているように、美観地区に立ち並ぶ倉(蔵)屋敷であり、有名な観光スポットにもなっている。

 十数年以上前、この倉敷市にチボリ公園を建設する計画が持ち上がった。当時、それを聞いて私は心の中で首をかしげたものだ。すでに全国に誇れる歴史的名所があるというのに、どうしてそれを差し置いてまで、何の文化的ルーツも持たない、ただの外国のモノ真似のようなハコモノ建設計画を進めるのか。
 その頃、私は関西に住んでいたが、幼い頃に、記憶に刻み付けられた街の思い出を壊されるようで、不快だったのを覚えている。

 だが、建設は進められ、テーマパークは駅からすぐに見えるところに建設された。JR倉敷駅のプラットホームには、倉屋敷の模様がデザインされているが、その和の趣と、おとぎ話から抜け出たような洋風の城の尖塔が、まことにちぐはぐな印象を醸し出している。

 案の定、チボリ公園はたった11年で採算が取れなくなり、閉鎖された。建設に使われた莫大な費用は、ただ借金となって県の財政に残ったのだろうか。もちろん、チボリ公園で散策を楽しんで、それが記念になったという人も沢山いただろうが、それにしても、風に吹きさらわれるもみがらのように、はかなく消えていった愚かな計画であった。他方、歴史ある倉屋敷の方は、今でも夕涼みに人々が楽しく散歩し、静かな観光名所として続いている。

 今、私はこの街を歩きながら、幼い頃に見た風景を一つ一つ、思い出している。アイビーガーデンの壁は、私にクレムリンの城壁を思い出させる。もう10年近くも前になるが、モスクワの赤の広場から、川にそって、どこまでも続く長い城壁の下をよく歩いたものだ。その時、どこかで見た風景だと思ったのは、この壁を思い出していたのだろうか。煉瓦の壁は、キエフの大門をも髣髴とさせる。

 かつて、この街に住んでいた頃、私の記憶にはまだ何の悲しみもなかった。それが私の人生で、最も純粋無垢で、楽しかった時代かも知れない。キリスト教界のドグマティズムも、まだ私の生活に入り込んでいなかった。近所の子供たちと、広い田畑を駆け回り、喧嘩をし、毎日、疲れ切るまで、夢いっぱいに遊んで過ごした。

 今、街を歩きながら、私は人生の敗残者かも知れないなあと、思い巡らすことがある。「故郷に錦の御旗を飾る」どころか、まさか、こんな風にして、手ぶらで街に戻って来ようとは、考えたこともなかった。田舎にはいつも世間の動向の波が遅れて届く。この土地に多く暮らす裕福なお年寄りたちは、失業や不況にあえいだことがないので、若者の苦労を知らない。そこで、時に、思い切り残酷な言葉を投げかけられることもある。

 先行きが見えない時代になった。私が最近、どのようにして死を迎えるかということばかり考え続けているのも、きっとそんな状況が影響してのことだろう。人間らしく生きるために必要な希望が手に入らないので、自分の手でコントロールできる、残されたただ一つのものが、死なのだ。
 キリスト者として、尊厳に満ちた死に方ができれば良い、そのことで、少しでも主をお喜ばせできれば良いということが、心の支えになっているのだ。我ながら、不健全であると思う…。

 マイホームを築き、子供を育て、希望ある未来を思い描いて、懸命に働くべき世代が、こうして、社会から外側にはじき出されてしまった。正規雇用の道から一旦はずれた人々が、二度とそこへは戻れなくなるような社会の仕組みの中で、それまで人々を守るために作られてきたはずの様々な制度が、逆に、人々を疎外するものへと変わった。
 システムが、人を守るためのものから、人を食らい、排除するためのものに変わった。このシステムの下で、あまりにも多くの人々が押しつぶされ、呻吟している。そこで、やがてこのシステムそのものを破壊しようとして立ち上がる人々が現れるのは避けられないだろう。革命的な混乱の時代がやって来る足音が聞こえるような気がする。

 伝統的に続いてきた文化をこそ守らなければならない。昔ながらの暮しを守らなければならない。なのに、一攫千金の夢を見る者たちが、砂上の楼閣を打ち立てるために、湯水のように金を使い、伝統を破壊してしまった。そのために、社会の様々な組織が、鬼のように人を食らっては、バブルのようにはじけ飛ぶものとなり、人を成長させるための基盤が根こそぎ消えてしまった。キリスト教界も然りである。

 打ち捨てられた世代はどこへ行けば良いのか。今、私の属する世代は、社会の中で食い物にされる以外、ほとんど行き場を失いつつある。ある者は派遣の地獄の中ですり減らされ、ある者は引きこもりとなり、ある者は私のように死に様を思い巡らしながら、街を歩き、最後の生命の糸をつないでいる。運良く家庭を築き、安定した生活を送っている人でも、将来の事を考えると、きっと不安が絶えないだろう。はっきり言って、この社会はもう、私のような人々にとって、生きていたいと思える魅力を失っている。未来が今よりも良くなるという見込みを私はほとんど抱けない。

 「時が良くても、悪くても、しっかりやりなさい。」
 弱気になる時、聖書の言葉が私を励ます。もしも、主によって注がれる愛がなければ、生きてはいられないだろう。こうして、多くの人に支えられ、励ましを受けている恵まれたキリスト者の私にさえ、他者の幸福な人生のニュースが、時折、鋭い矢のように胸に突き刺さることがあるのだ。いつまでこんな時代が続くのか…。そして、出口が見えないまま、さらなる混乱の中へと社会は突入してくのか…。私たちは最後まで、置き去りにされたままなのか…。殺伐とした暮しの中で、人間性を失う人々が続出するのは全く理解できないことではない。

 だが、主は一人ひとりの悩み苦しみを確かに知っておられる。そして人の弱さを覚えておられる。耐えられないような試練を主は人に与えられない。システムには頼れないことが分かった今だからこそ、悔しい時、泣きたい時は、人のもとへ行くのではなく、キリストの懐に駆け込むことができる。
 主よ、あなたの花嫁を迎えに来て下さい、混乱の中に置き去りにしないで下さい、主よ、私はここにおります。あなたが頼りなのです、主よ、来たりませ。そう祈りたい。

 「わたしに喜びと楽しみとを満たし、
 あなたが砕いた骨を喜ばせてください。
 み顔をわたしの罪から隠し、
 わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。
 神よ、わたしのために清い心をつくり、
 わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。
 わたしをみ前から捨てないでください。
 あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。
 あなたの救の喜びをわたしに返し、
 自由の霊をもって、わたしをささえてください。
 そうすればわたしは、とがを犯した者に、
 あなたの道を教え、
 罪びとはあなたに帰ってくるでしょう。<…>
 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
 神よ、あなたは砕けた悔いた心を
 かろしめられません。」(詩篇51:8-13,17) 

 故郷の馴染み深い風景が、主の愛と共に、私の傷ついた心を黙って優しく包んでいる。

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