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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

村上密氏による反聖書的で危険な活動~悪魔の見果てぬ夢としての「カルト監視機構」~

 

大いなるバビロンからの脱却 反キリストの原則の明確な発展
――アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動――
~村上密牧師と津村牧師による鳴尾教会の私物化問題について~


 1.悪魔の見果てぬ夢としての「カルト監視機構」
~自らに与えられた権限の範囲を超えて、全キリスト教会と宗教界に君臨してこれに干渉し支配することを願う村上密牧師~

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。
しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。
彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は彼の声を知っているので、彼について行きます。
しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」(ヨハネ10:1-5)
 



アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師が、プロテスタント教会のカルト化問題を訴え、この問題を解決する手段として、カルト監視機構の設立を提唱して以後、私は、 記事
「カルト監視機構という名の秘密警察」などの中で、クリスチャンを名乗っている人々が、聖書によらずに人間の正義を掲げてこのような機関を作るべきではなく、人の心に潜む罪と悪の問題をこのような外側からの強制力によって解決しようとする試みには何の希望もなく、かえって教会に恐ろしい混乱をもたらすだけであると繰り返し警告して来た。

もしこのような機構が設立されれば、必ず、その活動は暴走し、教会のカルト化問題は解決されるどころか、密告と、疑心暗鬼が横行し、人間の思惑に基づいて今まで以上に滅茶苦茶な異端審問が行われ、魔女狩りが横行するようになるだけであると。


これに対して、村上密氏は自身のブログにおいて、こう反論している。

ザビエルの光と影 2010年 07月 22日

「雑感ですが、私は過去に「カルト監視機構」の必要性を訴えました。このことに対してある人が「『カルト監視機構』という名の秘密警察」と批判したことがありました。カルト監視機構が国家権力と結び付かない限り秘密警察とはなりません。むしろ、自民党政権下、自民党と協力していたカルト宗教が「スパイ防止法」制定に奔走しました。この法案が宗教をも監視下に置くことは一部の人にはよく知られていました。カルトを叩いていた私や他の人がカルトから監視されることも考えられたのです。危ういのは権力と結び付いた宗教です。キリスト教の一牧師の案に大袈裟な警告は夢想家の戯言です。

だが、この村上密氏の論理には重大な飛躍がある。まず、村上氏はカルト監視機構が国家権力と結びつかない限り秘密警察とはなりませんと述べているが、この点は完全な論理のすり替えであり、全くの誤りである。

おそらく、同氏がここで強調したかったことは、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を含め、プロテスタントのキリスト教界全体が、この世の政治活動と一線を画し、統一教会や創価学会などのように政界への進出を目指しておらず、国家権力の掌握を目指していないので、カルト監視機構が設立されたとしても、これが国家権力と結びついてその庇護を受けて、無制限の権力機関となることはなく、仮に暴走することがあったとしても、その被害も小さなものに食い止められるだろうという予測であったものと思われる。

だが、仮にそう考えたとしても、村上密氏の主張は、極めて大きな矛盾を抱えている。 まず、第一に、村上氏はここで国家権力だけを危険視しているが、危険なのは、国家権力だけではなく、文字通りあらゆる権力である。

そもそも権力とは、組織と個人との間に、個人と個人の間に、あらゆる形で存在しうるものであり、これを乱用する人間が現れれば、いつでもいかようにでも悪用されうる危険性を持っている。企業においても、宗教団体においても、家庭においても、権力はいかなる場所においても存在しうるのであり、むろん、宗教団体もそれ自体が強大な権力であり、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団も、一つの権力である。

そして、大小を問わず、あらゆる権力は腐敗しうるのであって、宗教もその点は同じである。このことを、教会のカルト化という問題を扱って来た村上密氏が否定することはできないであろう。

時として、宗教には国家権力以上の恐ろしさがあると言えるのは、たとえば、国家権力は、国家が定めている秩序を破壊し、これに立ち向かって来るような人物に対しては、逮捕、裁判、流刑、懲役などの、法の強制力によって脅かし、排除することができるが、宗教は、神の概念を用いさえすれば、法のどんな厳しい裁きも及ばないほどの深みまで、人の内心に立ち入ることが可能だという点である。そこにカルト化問題の源も存在する。
 
しかし、宗教がこのように悪用される危険性があるからと言って、キリスト教界のカルト化問題を食い止めるために、村上密氏が主張しているように、カルト監視機構を設立することによって教会を取り締まろうという発想は、いわば、
毒を持って毒を制す」式の考え方であり、これは教会にさらなる混乱を生みだけで、カルト化問題に根本的な解決をもたらすことは絶対にない。
 
なぜなら、宗教権力を超えるさらなる権力を作り出すことによって、宗教権力の腐敗を取り締まろうと言う村上氏の発想は、権力によって権力を制するという考えを意味し、これでは、権力は腐敗するという根本問題を含め、人間の心の悪の問題の本質に迫ることができないばかりか、宗教全体を取り締まることのできるこれまで以上に強大な権力を作り出すことによって、さらなる権力の悪用と腐敗の危険性に道を開くことなるからである。


村上氏は、カルト監視機構が
国家権力と結びつかない限り、秘密警察とはなりません」と述べているが、同氏は、カルト監視機構そのものが、腐敗した宗教権力や、悪意ある宗教指導者と結びつく危険性をまるで考慮しようとはしない。
 
腐敗した宗教指導者が自らの悪事を覆い隠すためにカルト監視機構を隠れ蓑に活動する危険性や、カルト監視機構のメンバーが自ら誘惑に駆られて権限を悪用する危険、もしくは、最初から悪用を目的にして、悪意ある人間がカルト監視機構に入り込む危険は、誰にでもすぐに思い浮かべることが可能だ。なのに、どうしてそのような単純な危険性さえ、同氏の構想においては全く考慮されていないのだろうか?

 
村上氏の構想では、悪意ある人間によってカルト監視機構そのものが悪用された時、誰がこれを「監視」し、その暴走を食い止めるのかという問題は、極端なまでに過小評価され、全くと言って良いほど考慮されていない。このことは、カルト監視機構は決して間違うことはないという前提を、同氏が思い浮かべていることを意味し、その前提の下に、この監視機構に事実上、無制限の権限を付与することを同氏が提唱しているにも等しい。

村上氏は、カルト化教会の牧師が誤りに陥る危険については声を大にして訴えながら、自分自身を含め、カルト化を監視する側の人間もまた同様に、与えられた権力の大きさに誘惑されて、誤りに陥る危険性を微塵も考慮していないのである。取り締まられる側には誤りがあっても、取り締まる側である自分たちは決して誤ることはないとの思い込みの下に、同氏の構想は述べられているのである。


なぜ村上氏はそのように自分自身だけは決して誤らないという絶対的なまでの自信を持つことができるのだろうか? それは同氏がよほど自らの信仰に自信を持っているためなのだろうか?
  
それにしても奇妙なのは、村上氏が、
カルト監視機構のメンバーに、初めからキリスト教の信仰を持たないこの世の有識者を据えようとしていた点である。村上密氏は、カルト監視機構の設立を呼びかけるにあたり、最初からそのメンバーとして、宗教家や臨床心理士や弁護士や法律家などといったこの世の有識者を念頭に置いており、さらには日蓮宗や天理教の教職者といった協力者も思い描いていた。こうしたことを見ると同氏がカルト監視機構のメンバーとなるための条件として、敬虔なキリスト教の信仰は必ずしも必要ないと考えていたことむしろ、キリスト教とは全く異なる他宗教の信者も最初から大いに歓迎するつもりであった様子が伺える。

そうなったのは、村上氏がカルト監視機構におそらくは最初から、
プロテスタントのキリスト教界のみならず、全宗教を監視する役割を持たせようとしていたためだと考えられる。すなわち、同氏はカルト監視機構というアイディアによって最初から、あらゆる宗教の枠組みを超えて、全ての宗教を上から監視し、抑圧することのできる強大な抑圧機関の創設という構想を提起していたのである。それゆえ、同氏は最初からこの機構のメンバーを「リベラルな」ものとしておくために、キリスト教の信仰者に限定するつもりがなかったのだと見られる。

「■ 『カルト監視機構』、設立へ
 村上密(アッセンブリー京都教会牧師)とウィリアム・ウッドは、『カルト監視機構』の設立に向けて、具体的に動き始めました
。この機構の目的は、カルトと疑問視されている団体を調査し、適正な判定を下し、発表することです。
構成は、カルト問題に精通している宗教家、臨床心理士、弁護士、法律家など、6人から12人ほどです。先日、プロテスタント教会、聖公会、日蓮宗、及び天理教の教職者で、カルト問題に取り組んでいる方々への協力要請の手紙を出し、六月中に最初の会合を持つことを予定しています。

また、『集団のカルト度に関するアンケート調査』も作成しています。その内容は六つの項目(組織、指導者、信者の実生活、組織活動、家庭生活、被害)に分かれており、百以上の質問からなっています。一つの団体に関する、正確でかつ公正な判断を下すのに不可欠な資料になると思われます。自分の属している団体の『カルト度』を計りたい方に、『集団のカルト度に関するアンケート調査』をお送りします。」 
真理のみことば伝道協会 カルト関連NEWSより)
 
以上から分かるのは、村上氏が、教会のカルト化という問題をきっかけに、キリスト教会を外部から監視する必要を訴え、この役割を、信仰を持つクリスチャンではなく、信仰を持たないこの世の不信者に委ねようとしていたことである。

ここに、キリスト教の信者にとっては決して看過することのできない極めて恐ろしい問題がある。もし村上氏のこのような構想が実現したならば、必ずや、キリスト教界の自治が破壊されるだけでなく、
キリスト教会がキリストへの信仰を持たないこの世の不信者の管理下・支配下に置かれ、聖書に基づく霊的秩序が、この世の秩序よりも下位に置かれるようになるためである。

他の記事でも幾度も訴えて来たことであるが、そもそもキリスト教会における信仰生活の正常性を、キリスト教の信仰を全く持たない外部の人々がおしはかるという発想自体が、ナンセンスである。使徒パウロは、教会の中で起きた争い事を、信者がこの世の人々の前に持ち出して、不信者の裁きに委ねるようなことをを勧めていない。

「あなたがたの中には、仲間の者と争いを起こしたとき、それを聖徒たちに訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え出るような人がいるのでしょうか。
あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。
私たちは御使いをもさばくべきものだ、ということを、知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないはずではありませんか。
それなのに、この世のことで争いが起こると、教会のうちでは無視される人たちを裁判官に選ぶのですか。
私はあなたがたをはずかしめるためにこう言っているのです。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか。
それで、兄弟は兄弟を告訴し、しかもそれを不信者の前でするのですか。
そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。」(Ⅰコリント6:1-7)


このように聖書的な観点から見ると、たとえ教会の中で仮に権力の乱用という問題が起き、それによって争いや混乱が引き起こされることがあっても、村上密氏の考えるように、カルト監視機構を作って、教会の問題を世の人々の仲裁に委ねることは、全く勧められていないのである。

それどころか、争いごとの発生をきっかけに、教会がこの世に助けを求め、この世の法則を内に取り入れ、この世の評価や裁きに身を委ねて行くことは、聖書の定める霊的秩序の転覆を意味する。なぜなら、それは
キリストの十字架を通して、この世に対して死んで、神の定めた霊的秩序に生きるようになった信者(この世から召し出された人々―神の教会なるエクレシア―)を再びこの世の堕落した秩序の管理下に置いて、この世を教会の上位に据えることで、最終的には悪魔の秩序を神の秩序よりも上位に掲げることを意味するからである

もし村上氏の唱えるカルト監視機構が実現すれば、教会はカルト監視機構を通して、絶えず、自分たちが外からどう見えるかにおびえ、気を遣わなくてはならなくなり、この世の有識者の判断や評価に気を遣い、振り回され、カルト監視機構から「疑いあり」とみなされて、取り締まりの対象とされたくない恐れから、自主的にカルト監視機構に迎合し、喜んでこの世と一体化する道へも逆戻って行くことであろう。

その結果、この世の権力闘争とは一線を画して、平和で穏やかな信仰生活に専念することを決めたプロテスタントの教界が、再びこの世の権力闘争に引き戻され、この世の権力と結びつくという、歴史を逆行するような結果も生まれかねないと予想される。

こうしたことからも、村上密氏が思い描く発想は、決して聖書から出て来たものではなく、むしろ、聖書の秩序を否定する悪魔的な発想だと言って差し支えない。それは、
信仰者の生活を、不信者の判断の下に置き、この世を教会の上位に置き、それによって肉的な秩序を霊的な秩序よりも優先し、目に見えるものを目に見えないものの上位に置くという、聖書の秩序を完全に転倒させるものであり、神と悪魔との秩序を逆転させようとする唯物論的発想だと言えるのである。

カルト監視機構が危険なのは、宗教全体を監視するという口実の下、カルト化した宗教権力が人になしうる人心支配よりも、はるかに強力な支配を人の心に及ぼしかねない点にある。カルト監視機構それ自体が、人間の心の自由に対する無制限な干渉や抑圧を正当化する手段となりかねず、もっと言えば、この抑圧機関は、初めからそれを念頭に置いているのだと言える。

カルト監視機構は、人の信仰生活という、人間の内心の自由の最も奥深くにあって、神にしか立ち入ることができず、神にしか判断し得ない事柄に関して、これを外部から別な人間が監視し、その是正を判断し、干渉し、抑圧することを肯定することにより、人の内心の自由に対する最大限の侵犯を肯定していると言って良い。そこで、この計画は人間の自由や自主性という、人の侵しがたい領域に対する侵犯に他ならないことが明白であるだけでなく、その設立自体が、神に対する越権行為なのだと言える。一体、誰が、他人の信仰生活という、神でしか判断しえないような事柄を、外から見て正確におしはかることができるだろうか。

聖書は述べている、
生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(Ⅰコリント2:14)

聖書はこのように、
信仰に属する霊的な事柄を、御霊を持たない人々、つまり、信仰を持たない生まれながらの人々が理解し、わきまえることは決してできないことを教えている。キリスト者の信仰生活における霊的な事柄は、この世的な観点からは決して価値判断することが不可能なのである。この世の常識や道徳や伝統など、たとえこの世の英知の全てを結集したとしても、それによって、神に属する霊的な事柄(信仰生活)をおしはかることはできず、ましてこれを裁いたり、評価することはできないのである。

にも関わらず、村上氏は、カルト監視機構の設立により、霊的な(信仰の)領域に肉的な(この世的な)原則を堂々と持ち込み、聖書の秩序を転倒させて、不信者が信者の内心を監視して取り締まることを肯定し、それによって、キリスト教が再びこの世の支配下に引き戻され、教会がこの世の権力と一体化し、結果的には、真のキリスト者がこの世の思惑によって干渉や弾圧を受ける道を開いて行こうとするのである。

村上氏は、カルト監視機構が悪用されれば、これまで宗教権力が悪用されて起きて来た最も恥ずべき歴史である「魔女狩り」や「異端審問」よりも、さらにもっと恐ろしい抑圧行為が容易に繰り返されかねない危険について、全く何の考慮もしておらず、一切沈黙を守っているが、これは極めて恐ろしいことである。

万民祭司となった新約のこの時代、キリスト者は一人一人が神に直接、聞き従うことが求められているのであって、たとえ信者であっても、他者の信仰生活の内面に立ち入って、これを管理したり、取り締まったりすることはできない。まして、キリスト教の部外者である信仰を持たない人々がそれをしようとしたならば、どれほど的外れで支離滅裂な評価や裁きが行われ、でたらめな「カルト狩り」が横行し、キリスト教という宗教全体がどれほどそれによってひっかきまわされることになるかは誰にでも予想できる。


にも関わらず、村上密氏はこのような危惧を一顧だにせず言い放つ、「
キリスト教の一牧師の案に大袈裟な警告は夢想家の戯言です」と。

このような同氏の態度からは、カルト監視機構の真の狙いに対する疑いが逆に生じない方がおかしい。カルト監視機構は、本当にカルト化問題の解決を目的としたものと言えるのか。むしろ、これを提唱する者たちの真の狙いは、キリスト教界の不祥事を口実にして、強制力をふりかざしてキリスト教界に介入し、教会をこの世の管理下に置いて、彼らの思惑に従わないキリスト教徒をことごとく弾圧し、迫害し、排除することにあるのではないだろうか? 教会を、御霊を知らず、神の霊的秩序を全く知らず、これに従うこともしない不信者たちの手に委ね、こうした者たちが、この世の法則をふりかざして教会を占領し、聖書の秩序に忠実に従おうとして彼らの支配を拒む善良なキリスト教徒を、教会からことごとく駆逐することを、この計画は最初から、隠れた目的としているのではないのか? たとえ村上氏が何千万回、そのようなことはあり得ないと述べたとしても、カルト監視機構そのものの悪用と暴走という問題が何ら考慮されていない以上、この機関は、設立されれば、やがてそういう結果に至りつくのは必至だと考えられるのである。

実際に、村上密氏がインターネット上に作り上げた「サイバーカルト監視機構」とでも呼ぶべきネットワークによる教会の監視活動がどれほどの暴走を見せたかについては、別に述べるとして、そもそもカルト監視機構の設立を提唱する村上氏自身は、本当に、同氏の言うように無害な「
キリスト教の一牧師」に過ぎないのであろうか?

本稿では、これから鳴尾教会に関する事件の顛末を振り返りながら、村上密と言う人物について考えて行くが、その過程で私たちは、鳴尾教会に起きた事件を通して、自分は無力で無害な「
キリスト教の一牧師」に過ぎないと述べている村上氏が、当時から、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団という強大な宗教権力を味方につけて、自分よりも弱い立場にある教職者や個人の信徒、ひいては教会そのものに対して、どれほどの影響力を及ぼし、これを蹂躙して来たかを伺い知ることができる。

この事件を通して、私たちは、村上密氏が、カルト監視機構の設立を提唱するよりもはるか前から、自らに与えられた権限を踏み越え、教団や教会の規則を無視して、他教会を私物化し、自分たちの利益にかなわない者にはいわれなき嫌疑をかけて追放し、暗闇の密室に置いて恣意的な「魔女狩り」を繰り広げて来た事実を知るのである。

こうした事件を詳細に振り返る時、「キリスト教の一牧師の案に大袈裟な警告は夢想家の戯言です。という村上密牧師の言葉が、どれほど信用ならない発言であり、これは同氏が心に抱いている野望の重大な危険性と、同氏がこれまで暗闇の密室で、他教会の内政へ不当に干渉し、不法な形で権力の拡大をはかって来た過去をカモフラージュしようという意図のもとに発せられた詭弁であることがよく分かるのである。

村上氏は、自分は善良で無力な一人の牧師に過ぎず、大それたことなどできるはずがないと印象づけることで、自分が全宗教界に君臨してこれを抑圧することのできる機関を作り、その強大な権力機関の頂点に立つという、どんなキリスト教の牧師も心に抱いていないような並外れた計画と野望を心に抱いていることの恐ろしさを人に悟られまいとしているだけである。


こうしたことから思い出されるのは、次の聖句である。
彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。」(Ⅱテサロニケ2:4)

聖書によれば、
あらゆる宗教を超えて、それに君臨するほど自分を高く掲げることは、反キリストの特徴であることが分かる。

地上のどんな人間にも、他者の内心を取り締まることのできるような権限は与えられていない。自由意志が保障されることは、人間が人間であり続け、人としての尊厳を保つために決して奪われてはならない条件である。

にも関わらず、人間のこの最も本質的で侵しがたい自由の領域に手を付け、人の内心を取り締まり、抑圧することを正当化するような思想は、表向きどんなもっともらしい口実がつけられていたとしても、事実上、無制限の権力、無制限の人心支配の手段を得たいという欲望から出たものなのである。

いつの時代も、強大な権力を手にした独裁者が最後に目指すのが、言論弾圧と、言論が生まれる源となる人間の内心の自由の弾圧であった。そういうことが起きるのは、権力に憧れる者が、己の手にした権力の完成形として目指すのが、完全な人心支配、すなわち、自分が絶対者となって人々に君臨し、人々の心を完全に掌握し、支配すること、つまり、己が神となって人の心を治めることだからであると筆者は考えている。

ヒトラーもスターリンも、単なる一人の人間に過ぎなかったが、今日、彼らの所業に対して、「
大げさな警告は夢想家の戯言である」などと言える者は誰もいない。こうした独裁者たちは、一個の人間であるよりも前に、強大な権力機関を歯車のように回す司令塔であり、システムであった。

だとすれば、宗教教団全体を味方につけて、教団や教会の規則を無視して他教会の内政に干渉し、教会の自治を破壊し、教団教派の枠組みを超えてプロテスタント教界全体に君臨し、さらには、宗教界全体を取り締まることのできるカルト監視機構というはかりしれない権力を持つシステムの設立を提唱し、その頂点に立ちたいという野望を自ら述べている宗教指導者が、どうして無力で無害な一個の牧師であり続けられようか。強大な権力機構の指導者となった人間は、もはや単なる「キリスト教の一牧師」ではあり得ない。それは大勢のクリスチャンに思うがままに影響力を与え、大勢の信者の運命を狂わせることのできる強大なシステムなのである。
 
こうしたことを考えるならば、人間の信仰生活という、神でなければ決しておしはかることのできない人間の内心の自由の最も深みにまでも干渉し、これに外から価値判断を加え、支配し、取り締まろうという願望を述べる者は、神に代わって人の心を裁き、統治したいという欲望を述べているのであって、それは神に対する越権行為であり、人類が神に反して抱きうる欲望の中でも、最悪の性質のものであると言える。

こうした願望はサタンから来るものであって、神から来るものではない。その欲望の本質は、信者の心を神の御手から引き離して横領しキリストの花嫁である教会をキリストから奪い教会を私物化して、自分が神となってこれに君臨し支配したいという悪魔的願望である。

ちなみに、聖書はこのような願望を述べる指導者が偽り者であって、羊の群れを食い物にするためにやって来た強盗であり、その声に信徒が聞き従ってはならないことを警告している。そこで、聖書に忠実に生きることを真に願っている敬虔な信仰者の目には、彼らの目的が、神に対する反逆としての人間による教会の私物化であることが明確に分かるのである。

<続く>
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