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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

神を待ち望め。神は我が助け、私は主を誉め讃えるであろう。

神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、
 わが魂もあなたを慕いあえぐ。
 わが魂はかわいているように神を慕い、
 いける神を慕う。

 いつ、わたしは行って神のみ顔を
 見ることができるだろうか。
 人々がひねもすわたしにむかって
 『おまえの神はどこにいるのか』と言いつづける間は
 わたしの涙は昼も夜もわたしの食物であった。

 わたしはかつて祭を守る多くの人と共に
 群れをなして行き、
 喜びと感謝の歌をもって彼らを神の家に導いた。
 今これらの事を思い起して、
 わが魂をそそぎ出すのである。

 わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。
 何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。
 神を待ち望め。
 わたしはなおわが助け、
 わが神なる主をほめたたえるであろう。(詩篇42:1-5)

* * *
 
 「谷川の流れを慕う鹿のように…」、この賛美をかつてよく歌った。
 ある韓国人女性幹事のいる教会(KFCの姉妹教会である天声教会)に行った時、ピアノを弾いて、この賛美をみなで歌ったことを覚えている。

 しかしながら、その教会は筆者の目から見て、正常な教会ではなかった。そこにほんの束の間、力仕事を手伝いに行くと言って、教会に取り込まれたメッセンジャーの青年は、すっかり幹事女性の言いなりになって、既婚者であるこの女性と教会を拠点に共同生活を送るようになり、瞬く間に牧師的な存在と化してしまった。
 
 態度には、以前にはなかった高慢さがはっきりとにじみ出るようになり、筆者に対しても、上からものを言うようになった。かつて筆者の就職を祝ったり、さりげなく気晴らしのために教会の行楽イベントに誘ったりしていた素朴な信者の面影は全く失われた。さらには、自分の仕事を辞めて、信徒の献金で生活するようになった。

 それは、あれほどKFCが以前には批判し、嫌悪を表明していた牧師の姿そのものであり、共に賛美を歌った頃の素朴な姿は失われた。彼らの聖職者にあるまじき生活の問題点を指摘し、この危険な教会を早急に離れるようメッセンジャーに忠告した筆者も、彼らに憎まれるだけの結果に終わった。悲しいことである。

 筆者は一時は、この教会から青年を救い出さなければならないと思って、KFCのリーダーにその旨を忠告してもらえるよう事態を告げて助力を依頼したこともあったが、それは全く功を奏さなかった。KFCの関係者には、誰一人、本当に誰一人として、このような事態を異常だととらえた人間もいなかったのである。そして、そのような霊的堕落の当然の結果として、KFCも異端化した。

 だが、この二つの姉妹教会が共に手を携えて異端化して行った事実を見るにつけても、たとえ筆者の努力が功を奏さず、上記ような出来事が、単に余計な恨みを買うきっかけにしかならなかったとしても、神はすべてをご覧になっておられ、正しく裁いて下さる方だと確信することができる。

 筆者は、たとえ何があっても、以上のような事柄に賛同することはできない。そして、人に恨みを買ったとしても、何が神が喜ばれることであり、何がそうでないかを明白に表明し、神が喜ばれないものと分離したことを後悔するつもりもない。

 ダビデの詩編には、筆者が味わったのとほぼ似たような孤独が描かれている。
 
 ダビデもかつては多数の信者たちと共に連れ立って神を礼拝しに行ったのである。だが、かつて仲間として共に主を礼拝した人々は、今や彼の敵となり、破滅を願うようになった。ダビデはそうした人々の敵意と憎悪のために、昼も夜も涙を流して祈り続けた。

 ダビデの心は、かつて信者たちと共に神の家に行って、共に主を礼拝した時の喜び、楽しみを思い出して、それが失われたことを嘆く。だが、それでも彼の魂は、そうした喜ばしい思い出を離れて、ただ神だけに向かって行く。

 そして、神だけに一心に向かう思いが、鹿が谷川を慕い求めるように、我が魂は神だけを待ち望む、という告白になるのである。

 これはダビデが受けた誤解や、非難や、敵意や、嘲笑などから来る圧倒的な孤独の只中で、彼があくまで人々の理解ではなく、神の助けと慰めだけを待ち望み続けたことの証拠である。信者の仲間や、周囲の人々に対するダビデの思い入れは、断ち切られ、彼の手からもぎ取られた。だが、その空白を、ダビデはもはや人間で埋めようとはしない。ただひたすら、彼の心は神に向かって行く。

 キリスト者の人生は、どこまで行っても、ただ神だけのものであり、どんなに信者と共に神を礼拝する体験が喜ばしいものであったとしても、被造物との癒着のような関係は、すべて絶たれる。

 若かりし頃のダビデは、生き生きとして美しい紅顔の少年で、何をしても、人に抜きんでて、輝いていた。彼の非凡な能力だけでなく、正直さ、率直さ、心の美しさが、優れた外見と共に、人の注目を集めた。そのダビデの生き生きとして、輝いている姿は、しかし、晩年にはもう見られない。晩年のダビデは、多くの悲しみを経て、もはや非凡な人間の面影を持ち続けてはいなかった。彼は人の注目を集め、人と連帯して活発に活動する代わりに、静かに心を神だけに向けて、神だけに注ぎだすことに専念した。

 このようなことは、人間的には、痛みを伴う過程であろうが、信者が誰しも通過すべき出来事であると筆者は思う。こうしたこともまた十字架なのである。

 KFCも天声教会も、キリスト教界の中ではもともと知られない片隅の存在、初めから異端児的存在でしかなかったが、それでも、かつてはそれなりに栄華を誇っていた時期があった。指導者たちは若さとエネルギーに輝き、その解放的な福音の斬新さによって、キリスト教界で重荷にあえいでいた信者たちを惹きつけた。キリスト教界にない讃美歌も、人の心を惹きつけた。あたかも、そこに命の泉があるかのように多くの人々にとらえられた時期が存在したのである。
 
 だが、その栄華が、上からの打撃により破壊され、群れはますます離散へと追い込まれた。そのようにして、当初、見えていた輝かしいビジョンが、ただ単に破壊されて終わったことは、人間の目には悲惨と映るかも知れないが、筆者はそれで良かったのだと思っている。

 信じる者の喜びは、大勢の仲間の信者たちと共に、集団的に神を跪拝する熱狂にあるのではない。そうした礼拝は、人の目にどんなに素晴らしく見えたとしても、その中には、何かしら神ご自身ではないもの、生まれながらの人間を喜ばせるもの――群れ集う人間自身の自己満足が入り込んでいる。

 神はそれらを一つ一つ取り除いて行かれる。どんな状況にあっても、信者の生きる目的は、人間同士の連帯にはなく、ただ神のみを見上げ、神にのみ栄光を帰し、神のみのためだけに徹底して心を注ぎだすところにある。

 信者自身の満足が、信者にとっての喜びなのではなく、神が満足して下さることが、信者の喜びなのである。だから、信じる者は、たとえかつて自分にとって喜びであったものが、すべてなくなり、仲間だと思っていた人々がことごとく離反し、全世界が自分に敵するような状況の中にある時でさえ、ただ神が神であることを喜び、神が助け手であることを喜び、孤独の中でも、神を待ち望み、我が魂は、主によって慰められ、主によって喜ぶ、と告白するのである。

 かつて追い求めていたものに対する憧れはなくなり、魂は、周囲の状況に関わらず、静かに、神を待ち望む。いや、表面的には、魂はまだもがいているかも知れない、何か失ったものを嘆いているように見えるかも知れないが、心の深い所で、静かに、落ち着いて、神こそ我が望みである、と言えるようになる。

 信者は心の中で静かに言う、

「主よ、あなたご自身が共にていて下されば、私には他のものは何も要らないのです。あなたが満足して下さることが、私の願いなのです。それが私の本心であることは、私の生き様が証明しています。あなたは私の通過して来た魂の痛みも、苦しみも、何もかもすべてをご存知です。もう私の手には何もありません。あなたご自身の他に、慕うもの、追い求めるものは何もありません。どんな優れた人間とのどんな出会いも、どんな熱狂も、全く私の関心を惹きません。それらはすべて我が敵となって行きました。ですが、こうして私が、私の心の喜び楽しみを追い求めて生きたのではなく、あなたご自身を追い求めて生きたことを、あなたはご覧になれます。私があなたご自身を得て、あなたが私を得て満足されることが、私の願いの全てなのです。それ以外の望みはありません。どうか私の魂をお受け取り下さい。」

 わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。
 何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。
 神を待ち望め。
 わたしはなおわが助け、
 わが神なる主をほめたたえるであろう。
 
 
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