忍者ブログ

私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

十字架に戻れ!(4)

主にあって強くなりなさい!

 肉には色々な性質があります。必ずしも否定的に見える性質だけではありません。すでに語ってきたように、肉には長所もあり、善を行う能力もあります。しかし、いずれにせよ、御言葉は、私たちの肉そのもの、さらに、肉や魂を支配している、生まれながらの古い命そのものが、堕落・腐敗した、罪なる性質を帯びたものであり、神の御前に、呪われた厭うべきものであることを示しています。肉にある者は神を喜ばせることはできません! 私たちが持っている生まれながらの命、古き人は、神の御前に永久に呪われ、廃棄されねばならないのです。

 人の生まれながらの魂は、自己を喜ばせ、自己に栄光を帰するために活動しようとします。私たちの魂は常に「自己」を中心として活動します。魂のそのような利己的で邪悪な性質も、古い人に属するものであり、私たちが御霊に従って歩むことを絶えず妨げます。
 「魂は、見られ、知られ、聞かれることを望む自分の中の『わたし』という自己愛、高慢の場所です。また、実際は『わたしは他の者のようではないことを神に感謝します』と言っている、宗教的高慢さに満ちた所でもあります。この宗教的高慢さは、最も霊的な魂の中にも忍び寄り、汚してしまいます。」(ウォッチマン・ニー全集第一巻、付録1、チャールズ・アシャー、p.248)

 私たちの肉と魂を支配するこの古い命の邪悪な性質を対処することができるのは、カルバリだけです。
 主イエスの御血の清めは、私たちを罪の汚れから清めますが、十字架は、私たちの古い命の邪悪な性質そのものを対処します。チャールズ・アシャーは言います、「わたしたちの邪悪な性質を対処するのは、血の清めではなく、十字架です。『わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた』(ローマ六・六)。『キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を……十字架につけてしまったのである』(ガラテヤ五・二四)。」(同上)

 カルバリの十字架において、主イエスはご自身の肉に私たちの肉を含められ、それらを全てはりつけにされました。信じる者にとって、十字架は、私たちの古き人―罪の肉が最も恥辱をこうむった形で永遠にさらしものとされている場所です。そこでは、私たちの古き人が、キリストと共に、死刑宣告を受け、刑罰に処され、殺されました。私たちの古い命は、カルバリで死に渡されました。サタンの思うままに支配されていた肉は、もはや死んだので、効力を失いました。これは霊的な事実です。私たちがこの霊的な事実を信仰によって日々、自分のものとして受け取る時、キリストの死と復活の力が私たちの内で実際となるのです。

 パウロは、コロサイ人への手紙第二章十四、十五節でこう言います、「神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。」

 イエスは十字架に向かわれるよりも前に、こう言われました、「…ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」(ヨハネ三・十四、十五)
 モーセが荒野で青銅の蛇を掲げ、それを見た民が、蛇の毒から救われて生き延びた(民数記二一・九)ことは、このカルバリの予表でした。今日、御子の十字架を信じる者は、蛇(サタン)の死の毒から救われて、もはや罪に汚されることのない、清く、新しい、神の霊なる命によって生きるのです。

 御子が十字架につけられた瞬間は、サタンにとって、あたかも、勝利の瞬間のように思われたでしょう、それはあたかも神の敗北であるかのように見えたでしょう。しかし、主を誉めたたえます、御子はサタンによってもたらされた死を通して、逆説的に、サタンに勝利されたのです。主イエスは「死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし」(ヘブル二・十四)たのです。

 主イエスは蛇(サタン)によって堕落させられた人類の罪を贖うために、十字架に上げられました。主イエスはそこで死なれましたが、カルバリで実際に滅ぼされたのは、蛇(サタン)でした。主イエスは肉体においては、全人類の身代わりに罪に定められて一度、死なれましたが、彼の内にある神の命は、彼の人としての死によっては何の損傷も受けることなく、よみがえりの命として、主を三日目に復活させたのです。それによって、主は蛇が人にもたらすことのできる最大の破壊である死に打ち勝ちました。そして、十字架を通して、主は、ご自身だけでなく、御子を信じる全ての人が、蛇に毒されることのない、神の新しい命によって生きる道を、キリストのご性質によって形作られる新しい人として生きる道を開かれました。カルバリは、主の死によって、蛇自身が滅ぼされる場所となったのです。

「創造主はその御子のパースンにおいて、全世界の罪をご自身の上に担い<…>、血と肉にあずかり、堕落した種族へと結合されるという束縛を受けられ、その神聖な性質において、あの堕落したアダムの命を十字架へともたらし、避けることのできない当然支払うべきものでもあり、またその結果でもある死の刑罰をそこで受けられました。それは、彼がその堕落した被造物のために、神へと立ち返る道を切り開き、彼の性質と実質そのものから建造され、形づくられた新しい種族のかしらとなるためです。」(付録5、ジェシー・ペン-ルイス、「十字架は蛇を滅ぼす」、p.297)

 十字架は堕落したアダムに属する人類の古い命が、神の刑罰を受けて死に渡される場所です。そしてまたカルバリは、堕落した古い種族が死んで、その代わりに、神の命と性質にあずかる新しい種族が生まれる場所でもあります。このカルバリに立ち、主の死に自分の死を同一化し、私たちの罪なる肉がすでにキリストと共に死刑に処せられた事実を、信仰によって受け取ることを通して、私たちは初めて、それまで自分を支配してきた罪の肉による支配から解放され、サタンによって支配されることのない、復活の新しい命によって生かされるのです。

 私たちの堕落した肉、魂、古き人は、これまで、邪悪な暗闇の勢力のもろもろの支配と権威に服し、邪悪な勢力によって思うがままに占有されてきました。わたしたちの内の古き人は、常に、サタンとその邪悪な霊たちを強めるための武具となり、彼らの家財道具となってきました。しかし、主イエスはカルバリで彼らに打ち勝たれ、強い人であるサタンを縛り上げ、サタンの武具とされて来た私たちの罪の肉を、ご自身からはぎとって、逆に、永久にさらしものとされたのです。こうして、サタンの支配と権威は、私たちから解除され、カルバリで主と共に私たちも凱旋し、サタンと邪悪な霊たちの支配と権威は永久に打ち負かされ、恥辱をこうむったのです。

「これが、その神聖な目的における十字架の意味であり、堕落した人がこの世、肉、悪魔に打ち勝つ勝利の道です。これが、堕落、すなわちサタンの霊によって占有された堕落した肉の意味です。これが、サタンに対する、また罪に対するカルバリの答えです。堕落した被造物が十字架につけられたのは、すべての人が古い種族から離れ去るという選択を持ち、最初のアダムという共通のかしらから離れ去り、『キリストにあって』再び新創造を始めるためです。」(同上、p.297-298)

 私たちは、自分は長い間、罪に支配されてきたので、そこから抜け出すのはあまりにも困難である、と言うかも知れません。私はあまりにも弱く、罪や誘惑に打ち勝つ力が少しもない、と言うかも知れません。しかし、私たちは決して、自分自身の弱さを見つめて絶望してはなりません。私たちがどんなに弱く、未熟であり、信仰生活において勝利した経験が少なくとも、カルバリには神の勝利の命があります。私たちは絶えず、十字架を通して、自分がすでに暗闇の支配から新しい命へと移し出されたことを信じる必要があります、そして、御子が十字架で達成された事実に基づき、古い命ではなく、新しい命である聖霊によって支配されて生きることを、大胆に神に願いもとめる権利があります。十字架は私たちをアダムの種族から連れ出し、新創造へ入らせる道をすでに開いてくれているのです。私たちは道であられるイエスを通って、キリストの新しい命を生きなければなりません。そのことによって、私たちは暗闇の勢力に実際に勝利し、キリストの支配をこの地にもたらす人となるのです。

「キリストにある信者と、やみの力に関する神の目的は何でしょうか? これを見るために、わたしたちはカルバリにおけるキリストの働きへと目を向け、カルバリの勝利を理解しなければなりません。カルバリの十字架において、彼はご自身から邪悪な支配と権威とをかなぐり捨てて、彼らをさらしものとされました。

キリストの死において彼と同一化された魂は、彼と共に、また彼にあって、『やみの王国』から昇天された主の『統治する命』の中へと移されています。カルバリの勝利を通して、あなたは神の目的にあってやみの王国から移し出され、その領域の中を歩かず、その視点、尺度、方法、邪悪さを受け入れないのです。

 しかし、これが実際の経験となる前に、あなたはまず、あなたに対する神の全き目的と、彼があなたをやみの力から移し出してくださったことを理解する必要があります。それは、やみの君がもうあなたに要求したりせず、あなたに対する権利も持たないようになるためです。というのは、神はその統治する命にあって、『(わたしたちをキリストと共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さった』からです。

たとえどれほどあなたがその経験に不足していようとも、あなたは自分に対する神の目的を決して引き下げずに、常に彼の意図を見つめ続け、彼が目的としておられる命へと、あなたを導いてくださるよう彼に求めなければならないことを覚えてください。あなたの立場は、『やみの力から移し出されている』というものです。

それでは、どれだけあなたは自分自身の中で、また自分の生活の中で、実際的に敵を縛っているでしょうか? <…>あなたの願いは、『やみの力から、その愛する御子の支配下に移され』、『キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さった』という神のみこころと同じでしょうか?(コロサイ一・十三―筆者註)」(付録6、ジェシー・ペン-ルイス、「やみの力から移し出される」、p.300-301)

 ジェシー・ペン-ルイスによれば、クリスチャンは三つの側面で勝利を得なければなりません。一つ目は、罪に対する勝利であり、すでに再三、語ってきたように、私たちが肉や魂の古い人に対して打ち勝つことです。ローマ人への手紙第六章は、十字架によって、私たちが「罪に対して死んだ者である」ことを認めるように教えています。第二の面は、たとえ私たちがキリストの御名のために人々に誤解され、そしられ、迫害され、罪に定められるようなことがあったとしても、その苦難を最後まで耐え忍ぶことによって勝利を得ること、あらゆる苦難に「勝ち得て余りがある」(ローマ八・三七)ようになることです。第三の面は、「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、彼はあなたから逃げ去るであろう。」(ヤコブ三・七)、キリストの御名によって悪魔に堅く抵抗する(Ⅰペテロ五・九)ことです。

 時々、これらの三つの面は互いに関連し合ってやって来ることもあるようです。たとえば、サタンの圧迫は、しばしば、身近な人々を通して私たちにもたらされます。身近な人々が、私たちに、信仰から逸れるように要求したり、圧力をかけたりすることがあります。それらの要求は、私たちが御霊ではなく、再び、肉に従って歩むようにという内容であるかも知れません。さらに、もしも私たちが彼らの助言や要求を拒否するならば、多くの人たちから非難されるかも知れない状況があるかも知れません。そんな時、私たちはこの全てに立ち向かって勝利せねばなりません。肉に従って歩むことは拒否せねばなりません。しかし、人々に対しては、小羊のようであらねばなりません。たとえ人から誤解され、そしられ、不当な苦しみを受けても、それらを耐え忍び、人を脅かさず、悪をもって悪に報いてはなりません(Ⅰペテロ三・九)。しかし、サタンの要求そのものに対しては、毅然と立ち向かって、それを積極的に拒まなければなりません。

 クリスチャンには火のように試練が降りかかることが御言葉によって予告されていますが(Ⅰペテロ四・十二)、これらの試練に打ち勝つことは、自分自身の力によっては到底、不可能です。私たちはただ「しし―小羊」であるキリストの命によって強くならなければなりません。試みを受けた時、私たちの内にキリストの霊が見いだされるのでなければなりません。

エペソ人への手紙第六章は、敵に抵抗することにおける、勝利の生活のこの最後の面を描写しています。主イエスは人に対して『小羊』であると共に、悪魔に対しては『しし』でした。彼はもろもろの支配と権威との武装を解除し、彼らをさらしものとされました。そして、人の目には敗北であったことが、神の目には勝利となったのです。人の目には『恥』であったことが、神の目には勝利であったのです。サタンとその邪悪な軍勢すべてに対しては、キリストはしし、すなわち、ユダ族のししでした。

 エペソ人への手紙第六章でわたしたちは、やみの力に対する何か霊的な戦い、ししの命を見ます。ここでわたしたちは、兵士の霊を持った兵士を見ます。『こういうわけで、強くなりなさい』。人の側では、キリストは『弱さのゆえに十字架につけられた』(Ⅱコリント十三・四―筆者註)のでした。しかし、彼は『強く』、『強い人』よりももっと強いのでした。彼の名は『強い』です。『もっと強い者が襲ってきて』(ルカ十一・二二―筆者註)。ですから、キリストの名は『もっと強い者』です。彼は『強い人』よりもっと強いのです。

ですから、『キリストの中に』立ち、サタンへと立ち向かう信者に対するメッセージの言葉は、『強くなりなさい』です。もはやあなたは、『弱さ』について語ってはなりません。あなたは人性と自分自身においては弱いかもしれません。しかしあなたは『主にあって強く』ならなければなりません。」(付録4、ジェシー・ペン-ルイス、「勝ち得て余りがある」、p.291)

 クリスチャンはたとえどのように信仰の幼い者であっても、すでに主を信じた時から、サタンとの荒れ狂う霊的な戦いへと一歩を踏み出しています。その戦いにおいて、いつまでも自分の弱さばかりを見つめている未熟な新兵であってはなりません。私たちは主にあって、強くされる方法を学ばなければなりません。

「最後に言う、主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。」(エペソ六・十、十一)

「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ十六・三三)

<つづく>
PR