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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

十字架に戻れ!(3)

補足:カルバリについてのありがちな重大な誤解について

 以下に書いてきたような十字架のより深い認識について語ると、ある人はこう反駁します、「御子はすでに十字架上で勝利を取られたのだから、もはや私たちにはすることは何も残されていないはずです。サタンはすでに敗北しているのでしょう? 戦いはもう終わっているのでしょう? 私はもうサタンから完全に解放されたので、二度と、罪は私に触れることはできなくなったのです。私は神によって聖なるものとされ、もはや罪けがれとは全く無縁の人間になったのです。なのに、どうして私がこれ以上、サタンを恐れたり、警戒したりしなければならないのですか。どうして私がこれ以上、サタンの道具となるようなことがあり得るでしょう? そんなのは嘘です。そんなのはクリスチャンに対する侮辱です。サタンは敗北しているのです。彼はクリスチャンに対して何の権利も持たないのです。

 ですから、日々サタンは状況を通して私を圧迫しているとか、私の内に残る旧創造をサタンが利用して私に何とか罪を犯させようとしているとか、その旧創造を私がさらに十字架で死に渡さなければならないとかいった類の話は信じません。十字架を信じた時に、私はそれら一切からすでに解放されて、旧創造から全くきよめられたのです。この上まだ、解放を求める必要があるとは思えません。」

 読者よ、このような短絡的な誤りに落ちてはなりません。このような言い分は、二つの点で完全に誤っています。一つ目の間違いは、このような考えは、キリスト者が生涯においてずっと、十字架にとどまり続け、絶えず十字架が彼に適用される必要があり、そうでなければ彼はサタンに勝利する力を持たないという事実を見落としていること、また、十字架には罪からの贖いに加えて、私たちの古い命の性質を対処するという、より深い意義があり、私たちがそれを理解しておらず、求めてもいないうちに、それが私たちの意志を越えて自動的に適用されることはない、という事実を見落としてしまっている点です。

 十字架は永遠に達成された事実です。私たちは信仰によって、それを信じ、罪からの贖いを受け取り、クリスチャンとされました。しかし、十字架の意義はそれが全てではありません。私たちが罪からの贖いを受け取っただけであるのに、そこであたかも信仰の歩みはすべて完了してしまったかのように思い、私たちにはもう何もすることは残されておらず、十字架のさらに深い意義を経験する必要もないと考え、自分はもはやいかなる罪なる性質とも無縁な、完全にきよめられた人となったので、サタンを警戒する必要もなくなったと考えることは、完全な間違いです。

 私たちが主イエスを信じた瞬間から、神は、御子を受け入れたのと同様に、私たちをも受け入れてくださいます。私たちは救いを得た瞬間から、神の子供たちとされ、御子のあらゆるご性質にあずかるものとなりました。しかし、それは私たちの地位を保証しているのであって、私たちの実際の経験を表しているのではありません。実際には、救いを得た直後には、私たちは幼子のようなクリスチャンであって、さらに成熟していく必要があります。この地上において、私たちが、主に従う成熟した働き人となるためには、私たちは自分の古い命の性質が何であるかを知り、それが十字架を通して対処されることを避けて通るわけにいきません。

 思い出してください。ペテロは主イエスをとても愛して従っていたので、たとえ全ての弟子が主を見捨てて逃げ去っても、自分だけは、主を裏切ることなどありえないと自負していました。しかし、その愛は、彼の生まれながらの人(旧創造)から出て来た愛であり、いわば、彼の肉による誇りでした。それは主に従うには全く役に立たないものでした。しかし、その時、ペテロは自分に自信を持っており、自分の生まれながらの肉の強さが主に従うのには全く役に立たないものであり、むしろ、取り除かれなければならないものであるとは考えてもみませんでした。そこで、イエスは、ペテロが主を裏切り、見捨て、三度に渡って主を否定するという手痛い失敗を経験することを通して、自分が頼みとしてきたものが、神の御前では腐敗したものであるという事実を知り、自分の生まれながらの命が、主に従うのには全く役に立たないことを理解するよう導かないわけにはいかなかったのです。

 主に従うためには、私たちの生まれながらの、肉による力や、生まれながらの魂から来る感情は役に立ちません。主に従うためには、ただ上から、御霊によって与えられる新しい命の力や愛がなければならないのです。しかし、私たちはその事実をほとんど知っておらず、何が肉であり、何が御霊からのものであるかさえ、区別がついていません。そして自分勝手な思いに基づいて、主を喜ばせようとして、肉に頼って歩んでいることが多いのです。そこで、主は私たちにそれらの区別を知らせ、私たちの生まれながらの命の性質が死ななければならないものであることを教えるために、様々な出来事を按配する必要があるのです。

 神はどんな事柄についても、人の自由意志を尊重されます。それは、言い換えるならば、私たちの同意なしに、神は私たちの内で働かれないということを意味します。私たちが、日々、信仰と意志を活用して、神に向かって、具体的に祈り求め、信じた分だけしか、神は私たちに働くことができないのです。たとえ私たちの内にどれほどの腐敗が残されていたとしても、神は私たちの意志を越えて私たちを対処することはなさいません。それほどまでに、神は人の意志を尊重しておられるからです。

 このことは、私たちの内の古き人が十字架で対処されることについても言えます。神は決して、強制的に、あるいは自動的に、十字架を通して、何が何でも、私たちの古い命を対処するというようなことはなさいません。それは私たちの信仰による理解と求めに応じて、実際となります。もしも私たちが、キリストと共に、十字架で自分の肉がはりつけにされたという事実を信じないらば、十字架は実際に私たちの肉の働きを殺すことはありません。もしも私たちが十字架で自分の古い命の性質が死んだという事実を信じないならば、それは私たちの古い命の性質を実際に死に渡すことはありません。

 私たちの信仰(理解し、求めること)に応じて、十字架はより深く私たちの内に働きます。私たちが理解しておらず、求めてもいないものが、自動的に、私たちに適用されるようなことはありません。私たちがただ罪からの贖いのためだけに十字架を信じているうちに、十字架を通して、私たちの古き命の性質が死に渡されるようなことはないでしょう。後者は、私たちがより深く十字架の意義を認識し、それを求めた時に、それに応じて実際となるでしょう。

 私たちは恐らく、ペテロの失敗とよく似たような体験を通して、救いを得た後になっても、様々な出来事を通して、依然として、自分の肉がまだ生きていることを知るでしょう。主に従っているつもりが、肉によって歩んでいるだけであることを、神からの光を通して、何度も、何度も、教えられるでしょう。こうして、自己の腐敗の深さを知り、十字架を通して、自己を対処される必要があることを、私たちは、幾度も学ばされます。私たちは、救いを得たからといって、決して、その瞬間から、いかなる罪や汚れとも無縁のスーパーマンになったのではないことを思い知ります。救いを得た後も、私たちの自己は、依然として生きており、常に主に従う妨げとなっており、サタンを利する機会を与えていることを知らされるのです。それが分かる度に、私たちは沈痛な思いで、以前よりもさらに深く自己の腐敗を感じるようになるでしょう。そして、深いうめきを持って、その腐敗した性質から神が私たちを解放して下さることを願い求めるようになるでしょう。その時、私たちは十字架を以前よりもより一層深く理解し、旧創造を殺す十字架の働きを求めて祈るようになります。

 もしも私たちが「自分の内には十字架で対処されなければならないような古き命の性質は何もありません」と言い張るならば、神がそれを対処されることはありません。ですが、もし私たちが様々な失敗を通して、自分の内にある古い命から来る性質が、十字架によって死に渡される必要があることを認め、それを望むなら、その時、十字架上での御子の死はあなたの内で実際となり、古い性質は死に、よみがえりの命によって、あなたは全く新しくされるでしょう。

 こうして、十字架を通して、生まれながらの命である自己が対処されることは、一瞬で終わるようなことはなく、生涯に渡って、何度も、何度も続くでしょう。それなくして、私たちがさらにきよめられて、御心を地に成すための忠実な働き人へと変えられていくことはありません。自己の腐敗が明るみに出され、私たちが主の光によって倒されることは、痛みを伴う過程ですが、このような、痛みを伴う日々の十字架を避けながら、クリスチャンが実際にキリストの似姿へと変えられていくことは決してありません。

 これは決して、禁欲主義的な自制を通して、私たちが自分で自己を抑圧することと混同されてはなりません。私たちの旧創造を対処できるのは、神ご自身だけです。十字架は確かに、私たちが全く新しい人へと変えられる権利を保障してくれています。私たちは、それを信仰によって受け取り、神の命によって、日々、新しくされる必要があります。ある日、信じたから、それで終わりということは決してありません。古き命に死に、新しくされることは、人生を通じてずっと続かなければなりません。私たちはパウロのように、自分は日々死んでいるという認識に立たねばなりません。神の命の現われを妨げている私たちの自己、すなわち、古い命は、日々、死に渡され、無効にされなければなりません。

 そんなわけで、もしも前進するクリスチャン生活を送りたいのであれば、このようにしてキリストとの結合を積極的に選び取ることは、生涯、必要です。もしも、私たちが、日々、自分の十字架を取って、イエスに従うということを自主的に選び取らないならば、もしも自分の生まれながらの命の性質を憎み、それが死に渡される必要があることを認めないならば、私たちは、(たとえ永遠の命は得ていたとしても)、キリストの似姿へと変えられるチャンスを失うでしょう。キリストの死とよみがえりの命は、私たちの信仰による日々の応答なしに、自動的に私たちに適用されません。もしも私たちが自分の中には何もきよめられる必要のあるものはないと言うならば、神はそれ以上、私たちを新しくすることはなさらないでしょう。御子の勝利は永遠ですが、私たち自身が、御子の勝利を実際に受け取るためには、日々、私たちが肉を拒んで、肉を死に渡して、御霊によって歩むことを選び取っていかねばなりません。そこに一種の戦いがあることは明白です。

 さらに、前述のような意見の二つ目の間違いは、今の時代が何であるかということを読み違えている点です。御子が十字架でサタンに対して勝利を取られたのは永遠の事実です。しかし、この時空間において、今はまだサタンが実際に滅ぼされて地上から一掃されていないことは明らかです。今は恵みの時代です。御言葉がはっきりと語っているように、この時空間の中では、サタンはいまだにこの世を占拠しており、この世の君として支配、君臨しているのです。あなたは今、地上を見渡して、地上には災いも悲惨も流血もなく、サタンはすでに滅ぼされて地上を支配する権限を失っているので、クリスチャンは安堵してよいと言うことができるでしょうか。クリスチャンの間で、サタンは全く働く余地を失っているでしょうか。神の子供たちの間にはいかなる争いも分裂も見受けられないでしょうか。地上はキリストの支配だけに満ちているでしょうか。

 いいえ。永遠においては、カルバリでサタンは滅ぼされています。その事実は決して変わることはありません。その永遠の事実は、必ずや、神の御旨に従って、この地上にも、実際の事実となっていつか成就するでしょう。しかし、私たちはまだその途上の時代にいます。サタンが事実としてこの時空間の中でも敗北し、火の池に投げ込まれるまでには、まだ時間があります。そうなるまでに、私たちは何をしなければならないと、聖書は教えているでしょうか。

 御言葉は、私たちに「目を覚ましている」ことの重要性を教えています。サタンはほえたける獅子のように食い尽くすべきものを求めて地上を歩き回っており、神からのものとみまごうようなしるしと不思議と奇跡を行って、あわよくば、選民をも惑わそうとしていると御言葉は教えています。今の時代にあって、サタンは依然としてこの世を支配しており、多くの人達を罪の虜にすることによって、自分の滅びの道連れにしています。暗闇の勢力は、人の肉や魂を拠点として、人に働きかけ、人に住み込み、悪を行わせ、人を食い物として活動しているのです。サタンは神に逆らう人達を道具として用いることによって堕落した考えをこの世に普及し、さらに、人々の好みに合わせた偽の教えを流布することによって、キリスト者の思いをさえ不信でくらまし、神の民でさえも惑わそうと、日夜、激しく活動しているのです。御言葉は、信徒がこのサタンに対して信仰によって武装し、油断なく立ち向かう必要を教えています。それは、もし油断するならば、選民でさえサタンに惑わされる可能性があるということをはっきりと物語っているのです。

 キリストが達成された永遠の事実に基づいて、この時空間の中でサタンの敗北が実際となるためには、聖徒たちがさらに祈り、教会がさらなる前進を遂げなければなりません。クリスチャンたちは「御国が来ますように」、「御心が天になるごとく、地にもなりますように」と、祈ります。また、「主よ、来たりませ」と祈ります。それは、今の時代、教会がまだ前進している最中であるからです。御心は(永遠においては不変ですが)まだ今の時代にあってはこの地上に成就しつつある途中です。キリストの支配は地上にはまだ完全に確立されてはいません。キリストはまだ再び地上に来られてはいません。ですから、私たちはそれを求めて祈りつつ、自分自身が世の光として、御国を実際にこの地に現し、流し出していく管となる必要があるのです。もしも、私たちが日々の生活において、罪と欲に溺れ、サタンを実際に敗北させていないどころか、自分が罪の虜となって、暗闇の支配の中に生きているならば、どうしてそこに教会の前進があると言えるでしょうか。もしも私たちクリスチャンが肉に従って歩み、御霊を妨げているならば、どうしてそこに御国が現れていると言えるでしょうか。

 私たちを通して、内なる聖霊が生ける川々となって流れ、御国が実際にこの地にもたらされる時、初めて、サタンは敗北して私たちから逃げ去るでしょう。そうしてサタンに占拠されていた場所が、明け渡されることによって、そこに御国の秩序が到来するのです。この働きは、霊的なものであり、決して、地理的な領土の話であるかのように誤解されてはなりません。教会の地上の領土が広がり、教会の数が増えることや、クリスチャンの人数が増えることが、御国の拡大を意味するのではありません。御国の拡大、前進は、霊的な領域の事柄であり、何よりもまず、私たちの内側でこそ、日ごとにより深く、成就しなければなりません。まず、私たち自身の古き人が日ごとに十字架上で死に、私たちが日ごとに、古い命に従って生きるのではなく、キリストの新しい命によって生かされる新しい人とならなければ、どうして私たちは神の国を他の人にもたらすことができるでしょうか。

 一粒の麦が死ななければ、豊かに実を結ぶことはありません。これが神の国の変わらない原則です。御霊の現われを妨げている私たちの天然の命が死に渡される時、初めて、御国に収穫がもたらされるようになるのです。古き命が死んで、復活の命が芽生えた場所にのみ、御国が現れることができるのです。これが御国が地に実際にもたらされることの内容であり、私たちが自分の天然の命を拒み、神の命によって新しくされるその度合いに応じて、私たちを通じて、御国が実際に地にもたらされるのです。クリスチャンは、このようにして、神の国である教会を前進させ、神の光を世の光として輝かせ、闇を駆逐する使命を負っています。私たちがそれを成し遂げるならば、すみやかに主はこの地に来られるでしょう。

 いずれにせよ、私たちはまだサタンが激烈な活動を行っている時代に生きていることを忘れるわけにいきません。それを前にしながら、「主イエスが十字架で勝利を取られたのだから、私たちにはすることはもう何も残っていないし、私たちがもはや二度とサタンの虜にされることはなくなったので、安心して良い。」と、安易に考えてまどろむのは愚かなことです。私たちは決して、サタンを恐れる必要はありません。御子がサタンをすでに打ち負かし、世に勝ったのですから、それをあらゆる状況に対して信仰によって適用することが私たちに権利として与えられているのです。しかし、私たちが勝利を得るためには、「目を覚まして」いなければなりません。サタンが信者をさえ惑わそうと罠をしかけることを知り、目を覚まして警戒し、その罠を見破り、罪の誘惑や圧迫がやって来る時には、カルバリを拠点として、サタンに決然と立ち向かう必要があるのです。

 私たちは、御子の十字架に堅く立ち、キリストの死を絶えず自分の死として受け取り、この世の古い命の性質や、罪けがれとは一切関係のない、キリストの命によって新しく生かされることによってしか、サタンに対抗できません。しかし、それは、私たちが何も考えず、目をつぶっていても、自動的に起こる勝利ではなく、私たちが日々、信仰と意志によって選び取らねばならない決断です。ある日、十字架を信じたので、その時から、私たちにはもはやキリストの死と復活に自分を同一化することは二度と必要なくなったと考えるのは愚かなことです。

 神は人を通してサタンの敗北がこの地で実際となるよう願っておられます。そのために、神は御子の御血によって私たちのために道を切り開かれたのです。私たちは御子が開かれた道を通って実際に進んで行かねばなりません。御子によって永遠に達成された事実を、日々、信仰によって、自分自身に、また、実際の状況に適用しなければなりません。もし私たちが絶えず、キリストの死を自分の死とみなし、キリストの復活を自分の復活とみなさないならば、私たちはキリストとの結合から切り離されます。キリストとの結合から切り離されれば、御子の勝利は私たちには無関係なものとなり、私たちがサタンに勝利できる根拠はもはや何一つなくなるのです。

 十字架の意義は、罪からの贖いだけには終わりません。私たちはこの地上を生きている限り、さらに深く十字架を理解し、実際に経験していく必要があります。そのことを通して、私たちは御霊に従って歩むとは何であるかを理解し、神から賞与を得られる生き方を地上で送る秘訣を学ぶでしょう。旧創造から解放されて、罪の痕跡を一切持たない、御子の似姿なる新しい創造へと限りなく近づいていくことができるでしょう。神が人を通して実現しようと願っておられる素晴らしい計画を実際に生きることができるでしょう。
 十字架は理論ではなく、私たちが実際に経験していく必要があります。それは一歩、一歩、信仰によってたゆみなく続けられる歩みとなるでしょう。十字架はクリスチャンの生涯に、いかなる瞬間も、もはや要らなくなったとは言えないものです。十字架だけが、私たちをキリストへ結合し、私たちに、サタンに支配される旧創造に対する勝利の力を与えます。私たちが日々、目を覚まし、意志を活用して、常にカルバリの立場に立ち続けるならば、サタンは私たちから逃げ去り、主イエスが取られた勝利は、この地に実際としてもたらされるでしょう。
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