忍者ブログ

私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

二つの出来事 主が与え主がとりたもう(2)

私は関東に来てから、自分の職業を今後、どう定めるべきか、
ずっと祈り求めて来ましたが、その中で、
常に心に迫って来るように感じられたことが二つあります。

その一つは、ハドソン・テイラーが中国伝道に出発する前にしていたと同様に、
私は将来を拘束されるような契約に縛られて働いてはならないということ。
二つ目は、経済において、今後、ただ主にのみより頼む覚悟を決めなければならないということでした。

歴代のクリスチャンたちがそうしてきたように、
今、ただ信仰のみを頼りに生きる決意を固める誠実な働き人であるクリスチャンたちが、
主によって求められている、という感じがあるのです。
しかし、多くの人は、私がこのように言えば、仰天するだけでしょう。
テイラーが言われたのと同様に、そんな大冒険は、今の世には通用しないから、
やめた方がいいよと言われるでしょう。
にも関わらず、その考えは、日に日に強くなっていくのです。

それでも、つい最近まで、私の心には邪心とも言えるような一つの願いがありました。
それは、かつて私が自分の職業であると考えていた研究者に
何とかして戻ることはできないだろうかという願いでした。

研究者になるということは、24時間、研究のために心を捧げることを意味します。
霊によってわきまえるべき御言葉を糧として、主のためにのみ心を捧げて生きるということと、
人が魂によって描いた文学の研究者になることは、両立しません。
それでも、未だ日々の糧を得る手段が確保されていないという不安も手伝って、
せっかく新しい生活の展望が開けたのだから、それと同時に、
何か奇跡的なめぐり合わせによってでも、かつての道に復帰できないだろうかという願いが、
私の心の中に残っていたのです。

最近、私はある兄弟にこのように愚痴を言いました。
「私はこれまで一度たりとも、定職というものに就いたことがありません。
世間で認められるまともな仕事に就いて、満足できるお給料をもらったことがないのです。
それは、不幸なめぐり合わせによって、私が不況に直面してしまったせいです。
私が経験した仕事は、ことごとく、まともな俸給のもらえない仕事ばかりで、
さらに、私が持っている唯一の誇れる専門知識が生かされる仕事には、
まだ一度も就くチャンスが与えられていません。

主は、一度でいいから、私に専門知識を生かして生きる道を与えて下さらないでしょうか。
一度でいいから、私は故郷の人々に認めてもらえるようなまっとうな職業について、
安定した生活を送ってみたいのです。
一度でいいから、家族に安心してもらいたいし、自分も幸せを享受したいのです」

そんな話と前後して、つい最近、海外の本屋さんから、ある報せが届きました。
それは私がずっと前に注文していた資料が入荷したという報せです。
それは私が博士論文を書いていた頃に探していた資料の一つで、
当時には、事情があって、見ることのできなかった資料でした。

このテーマで論文を執筆するために必要な資料の全体のうち、
すでに90%以上を私は集めています。
その多くは苦労を伴って手に入れたものです。
ですから、できるならば、今後、すでに書いた論文をより発展させて、
もっと大きな論文を仕上げたい、という願いが私の心の中に残っていました。
まだその研究をやり終えていない、という心残りがあったのです。

そんなわけで、書籍の入荷の報せが届くや否や、私は早速、支払を済ませました。
ところが、待てど暮らせど、本が発送されたという通知がありません。

一体、どうしたのだろうか、といぶかっているうちに、どうやらこれは、
主の御心を問うてみるべき出来事だということが、次第に分かって来ました。

一冊の本くらい、御心をあえて問わずとも、簡単に購入できるだろう…
と高をくくっていましたが、実はそんな簡単な問題ではなかったのです。
その一冊の本を購入するかどうかに、実に、主の御心に対する
私の誠実さ全体がかかっていたのです。

資料は待てど暮らせどやって来ません。
日が経つに連れて、私は研究者に戻るべきではない、という感じが募りました。
見えない神の御国のために働くという仕事と、己の功績をこの世で打ち立てることを最終目的とし、人としのぎを削りながら、見える世界で、魂の領域に没頭して働くということが、両立しうるはずもありません。
主イエスに従い、御国のための働き人となると宣言した人が、どうやって御言葉を捨てて、人の言葉を研究する立場に戻れるのでしょうか。
その矛盾はますます明らかになっていくばかりでした。

そこで、私はついにこう祈らざるを得ませんでした。
「主よ、私の心の中に、研究者になることへの未練がありましたことをお許しください。
けれども、どうか分かって下さい、私の職業といえるものは、それだけだったのです。
私はこれまで膨大な時間と資金を費やしてその専門を学んできたのです。
にも関わらず、本領を発揮するチャンスさえ、一度も与えられませんでした。
そして、今、私には日々の糧を得る手段が明確に与えられていません。

今、ここで、改めて、私はあなたの御心を問います。
私はあなたのために生涯を捧げる決意を固めた者です。
あなたの御旨を第一として生きるべき者です。
もし、私が文学研究に二度と戻るべきではないと、あなたが思っていらっしゃるのであれば、
今、発送が遅れているこの本が、決して私の手元には届かないようにして下さい。
それによって、私はあなたの御心を知るでしょう。
そして、私はあなたの御心に従います。」

それ以後、どういうわけか、私の中での文学研究への熱意は薄れていくばかりでした。
いつしか、私はその資料が絶対に手元に届かなければ良いとさえ思うほどになっていたのです。

そして今日、素晴らしい兄弟たちとの交わりにおいて、私ははっきりとこう宣言しました。
私の職業は、御国のための働き人であって、御国に収穫をもたらさない仕事に従事することはもうできそうにもないし、したいとも思わないと。見えないもののために働くという絶大な価値ある人生を前にして、見えるものだけをゴールに働く人生に何の意味が見出せようかと。

そして家に帰ってみると、海外の本屋さんから、通知が届いていました。
私の注文していた資料は、品切れにより注文が取り消されたという報せでした。

まさに快哉を叫びたい心境でした。
ペテロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブ…、彼らが自分の仕事を捨てて主に従ったように、
主は今日、私に、まさに同じことを要求しておられるのです。
このような光栄にどうして応えないでいられましょうか。

ある人々はこのような話を聞いても、決して信じないだろうことは分かっています。
私の考えはおとぎ話のように非現実的かつ極端すぎて危険であるから、
早急に考え直した方が良いと説得されるのが落ちでしょう。
しかし、私には分かるのです、今日、主はこのような働き人を召しておられるのだと。
心底から、自分の栄光を捨てて主にお仕えする働き人が求められているのだと。

「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
だから、あすのことは思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(マタイ6:33-34)

「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。(マタイ9:37-38)

「ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。<…>働き人がその食物を得るのは当然である。」(マタイ10:8-9)

「それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。」(マタイ10:31)

「おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。」(マタイ19:29)

「自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。」(マタイ10:39)
PR