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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

キリストと一つであるとは

 エクレシアとは不思議です。最近、ある人が「(あなたの言う)エクレシアなんてものはしょせん虚構ではないか!」とたいそうな言葉でエクレシアを非難しました。まるで教会を迫害していた時代のサウロのような、この台詞に答えるのは私の仕事ではありません。エクレシアが虚構かどうかは、神様ご自身が必ず証明なさいます。エクレシアが非難され、迫害され、傷つけられる時、使徒時代にそうであったように、主はきっと黙っておられないでしょう。なぜなら、エクレシアとは今日のキリストだからです。

 エクレシアは永遠です。実は、エクレシアほどにリアリティを持つものは今この世にはほかにないのです。なぜなら、この世の物質は全て有限ですが、エクレシアには永遠なるキリストの性質が満ち満ちているからです。私たちがキリストのうちにあり、キリストが私たちのうちにおられ、私たち一人ひとりはキリストにあって一つに結び合わされています。キリスト者は好みや性格や主義主張を軸にして集まっている団体ではありません。そのような団体は全ていずれ消滅しますが、キリストと永遠に一つになるように、地の基がすえられる前から、私たちは神の愛によって入念に選び出されたのです。万物がキリストを表す時代の前触れのように、今、エクレシアにおいては、全てがキリストを表しているのです。

 キリストと一つであること。言葉は簡単ですが、何という驚くべき深い意味がそこにあるでしょうか。今日、自分自身がキリストと全く同じ性質であるほどまでに、彼と一つになっているとはっきり宣言できる人たちがどれくらいいるでしょう? 私たちはちょっとしりごみしそうになるかも知れません、いいえ、無理です、私は罪深すぎます、とても畏れ多くて、キリストと一つだなんて言えません…。

 しかし、これこそが主イエスが願われたことであり、御心に従って、私たちに与えられている偉大な約束なのです。ですから、大胆に、私たちは「キリストとの一つ」がもっと成就するようにと願い求めて良いのです。私たちが生きているのは、ただこのことのためだと言っても過言ではありません。伝道、礼拝、祈り…、そのような形式的な行事にいそしむことを一切停止してでも、私たちはまず「キリストとの一つ」の実質を得ることこそ願い求めるべきなのです。

私たちがキリストとの一つを得られるように、イエスは十字架へと向かわれました。この世に誕生され、十字架の死と復活を経るまでは、キリストは一人の人間の中に閉じ込められ、それを経由して働かれました。永遠かつ無限の性質を持つ神の御子が、あえて私たちと同じ罪深い肉体に閉じ込められ、御使いよりも低められ、地上の様々な制限を受けながら、私たちに仕えることを喜んで成し遂げられたのです。しかし、一人の人間としての彼が死に、復活した時に、キリストは時空を越えられました。今日のキリストは、もはやナザレのイエスという一人の人間の肉体に制限されることがなく、私たちの永遠の命そのものであり、力であり、居場所そのものとなっておられます。しかし、それでも、キリストはまだ喜んで制限されて、私たちに仕える姿勢を取っておられるのです。今度は、私たちキリスト者たちによって、キリストは制限されておられます。キリストは、御霊となって、私たち一人ひとりの中に住まわれ、私たちを霊にあっての「キリストとの一つ」に結び合わせ、またご自身の中へと私たちを迎え入れられています。しかし、私たち一人ひとりが、どれほどキリストを体現できるかは、私たちの罪深い肉体と魂がどれほど彼と共に十字架につけられて死に、復活にあずかることによって、新しい人に変えられて、キリストの似姿とされているかにかかっています。そしてキリストの似姿になっていると大胆に言えるキリスト者はほとんど地上にいません。

今日、キリストはナザレに住まわれるイエスというお方として地上を生きておられるのではなく(もちろん、一人の人間であることは変わりませんがそれと同時に)、まことの命そのもの、霊による壮大なリアリティ、霊のはかりしれない生命体として、キリスト者を通してご自身を地上に表現しようとしておられます。それが神の願いなのです。私たちはまだ人としての有限な体を持ち、時空間に制限されて生きていますが、同時に、この霊なるキリストの無制限のリアリティの中に住んでいます。キリストの霊と私たちの霊が結び合わされ、キリストの霊の永遠のリアリティの中に、私たちの全存在が結びつけられています、キリストの死と復活にあずかることによって、私たちも罪の体に死に、魂の堕落した性質にも死に、全身、存在の全てで、キリストを体現することをその使命として、召し出されています。

 「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。
 それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。
 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」

 私たちは今日、主イエスが御父から愛されたように、御父から愛されています。主イエスが栄光を与えられたように、私たちも栄光を与えられています。この世は、御子が神から愛されたと同様に、私たちも神から愛されていることを知るべきです。それを世が知れば、エクレシアこそが今日のキリストであり、全てにまさるリアリティであることを認めざるを得なくなるでしょう。
 
 これは御言葉ですから、事実であり、成就する約束です。しかし、現実を見ると、この御言葉と、私たちの周りに広がっている世界にはまだちょっと(いや、かなりの)隔たりがあるように思われないでしょうか。私たちは今、どのくらい神の愛を反射しているでしょうか? 世がそれを知るに十分なほどでしょうか? 私たちはどれくらい全うされて一つになっているでしょうか? まだ一つが全うされていないと感じないでしょうか? 私たちはキリストが与えられたのと同じ栄光を持っているでしょうか? いや、栄光からはまだまだ遠いと感じないでしょうか?

 どうすれば、もっともっと私たちは全うされて一つになるのでしょうか? 私たちはどうしたら、もっともっと御父とキリストとがそうであったように、キリストとの一つの中にしっかりと入れられることができるのでしょうか? どうすればキリストを自らの存在を通して、もっともっとこの時空間に流し出す管となれるのでしょうか?
 きっとこのことが成就され、キリストがもっともっと地上にもたらされることこそ、キリストの再臨へとつながる鍵となるのに違いありません。

 以下は、ある兄弟にお願いして送ってもらったメールです。

「私達がキリストと一つでなければ、キリストの実際、豊かさ 事実が
どうして私達を通して 時空の中に現れ得ましょうか。

問題は
①今日のキリストをどうとらえるか、今日のキリストとは
どんなキリストなのか と言うこと
また 
②どんなふうに キリストと私達が一つであるのか、ということ
③何によって そのキリストの実際を 時空に引き出すか、
即ち、何によって
復活のキリストが「本当に」地上に現れるのか 
と言うことでしょう。

もしもキリストが現れさえするならば、
万事はオーケーなのではないでしょうか。」

またある兄弟は言います、私たちがキリストの実際を時空に引き出す鍵は、やはり私たちが「死ぬこと」ではないかと。復活の要素が現れるためには、私たちはまず十字架で死ななければなりません。日々十字架で私たちの自己が死に、その死が積み重なり、見えない永遠の世界から私たちを通してこの時空間に引き出される復活の命が一定量に達する時にこそ、キリストが再びこの地に来られる時なのではないでしょうか。

私たちが十字架で日々自分に死ぬこと、それは言い換えるならば、私たちがますます魂と肉体の命に弱められ、その支配から解放され、ただ霊によって導かれる人となり、霊によって魂と体を支配する人へと変えられることを意味します。ですから、今日、私たちの使命は、キリストが地上でそうなさったように、一粒の麦として死ぬことに徹し、自分の天然の命ではなく、キリストの復活の命を人々に分け与える管となることです。地上での死をもいとわず、キリストに従って生きることを全うすることによって、霊のリアリティをこの時空間に流し出す管となることです。私たちが常に十字架で死ぬことにより、自然と、そこに復活の命が芽生え、多くの実がそこから結ばれるのです…。

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