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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

キリストの十字架にとどまれ!

十字架にとどまれ!

今日、サタンが最も恐れていることは何でしょうか。それは一人ひとりのクリスチャンが、自分の無力な力(魂と肉)によって闘う戦士ではなく、神の絶大な力(御霊)によって、サタンに立ち向かう強力な戦士へと変わることです。ですから、サタンが今日、最も心を砕いて行っていることがあるとすれば、それは、クリスチャンが神の力に信頼せず、己の力により頼んで闘おうとする無力で愚かな戦士にとどまるように仕向けることです。

私たちクリスチャンと神との関係を、手をつないで歩く親子にたとえることができるでしょう。御父ははかりしれないほどに力強い大人ですが、私たちは小さな子供なので、一人では全く無力です。私たちは父なる神の見えない手を堅く握り締めて歩いている間は、御父に守られているので安全です。しかし、そこにサタンが邪魔をしにやって来ます。

サタンの目的は、私たちを御父との「一つ」の状態から切り離し、私たちを神の守りから遠ざけて孤立させ、無力にした上で、私たちを打ちのめし、滅びへと引きずり込むことです。サタンは私たちが神と離れて単独では非常に弱い存在であることをよく知っています。そこで、私たちを神から引き離そうとして、私たちの信仰をぐらつかせるような状況を作り、闘いを挑んでくるのです。

サタンは自分の手下となっている人間たちを使って、私たちを攻撃します。また、日常の出来事を通して攻撃します。(不快な事件だけでなく、愉快な事件や、成功も、サタンに用いられる可能性がありますが、そのことについて今は述べません。)サタンは私たちをあらん限りの罪で告発し、非難するでしょう。私たちの過去の失敗を持ち出しては、くどくど非難したり、馬鹿にしたり、屈辱を加えたり、願いを潰して失意を抱かせたり、予想外の困難を置いて慌てさせたり、突然の不幸に出遭わせたり、脅して恐れを抱かせたり、信頼している人に裏切らせたりすることによって、様々な打撃を加え、私たちを挑発するでしょう。

そんな時、私たちは自分の力を使って彼と闘わないよう、よくよく気をつけなければなりません。なぜなら、サタンの目的は、私たちが御父の力によってではなく、自分の力により頼んで彼と闘おうとして、自己防衛に走った結果、敗北することだからです。御父の手を振り切って、私たちが自分の判断で勝手に走り出し、神の守りの外へ飛び出せば、敗北することは決まっています。それが彼の狙いなのです。つまり、私たちが神の導きを待たずして、神の守りに信頼せず、己の魂と肉により頼んで、問題解決しようとして、失敗し、恥辱をこうむることが彼の目的なのです。

人が自分の力でできることには非常な限界があります。たとえ生まれつき素晴らしい才能と能力を持っている人がいたとしても、やはり、人の力でできることには限界があります。私たちが肉と魂によって、何かを達成しようとしても、私たちにできるのは小さなことだけです。

神が私たちに望んでおられるのは、私たちがそのような生まれながらの限界だらけの力を頼んで善行を成したり、御心を行い、問題を解決しようとして苦しんだり、悪の軍勢と対決しようとして敗北することではありません。神の御心は、むしろ、私たちが生まれながらの自己に死んで、純粋に、神の力によって、日々、生きるようになり、勝利をおさめることなのです。私たちが天然の自己にますます死んで、御霊の力によって、生きるようになることが神の願いなのです。

ではどうすれば、御霊によって生きることができるのでしょうか? 

心から主イエスを信じているクリスチャンの中には、たとえ一人ひとりが自覚できなくとも、聖霊が確かに住んでおられます。そのことに反対するクリスチャンはいないでしょう。ところが、実際に、その御霊の力を経験しながら生きているクリスチャンはあまりにもわずかしかいません。

それは、一つには、私たちが主イエスの十字架を自分の十字架として受け止めておらず、主イエスの死を自分の死として受け止めていないからです。多くのクリスチャンは、主イエスの十字架が自分の罪の贖いのためであったことは信じていますが、自分の自己(魂と肉)も、イエスと共に十字架につけられて死んだという事実を知りませんし、その事実を自分に適用したことが一度もありません。彼らには十字架の経験が個人的にないのです。十字架についての、そのような認識が欠けているのです。

その結果、多くのクリスチャンの場合がそうですが、信仰によって罪は赦され、永遠の命は得られても、古き人である自己は、一度も十字架で死ぬことがないままに延命します。そして、アダムの堕落した性質を帯びた肉と魂が、あまりにも堅い覆いとなって、聖霊の現われを全く阻んでしまうのです。そのようなクリスチャンには、古き人(肉と魂)の力がまだ強く働いていますので、彼らは肉的、もしくは魂的なままにとどまってしまいます。本当に御霊に働いていただきたいならば、私たちは、「イエスと共に、私たちの古き人(自己、魂と肉)はすでに十字架につけられて死んだ」ということを事実として受け止め、それを実際に経験せねばなりません。その信仰の適用によって、私たちの古き人である自己が十字架で死ねば、それだけ、聖霊は私たちの内で解放され、外へ向かって自由に流れ出るようになっていくのです。

「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。
 わたしはキリストと共に十字架につけられた。
 生きているのは、もはや、わたしではない。
 キリストが、わたしのうちに生きておられるのである
。」(ガラテヤ2:19-20)

今日、多くのクリスチャンは、イエスの十字架を、ただ約2000年前に起こった過去の出来事として信じているだけで、経験としては、自分とは全く関係ないものと思っています。しかし、実際には、私たちが罪の贖いとして十字架を信じるだけでは、不十分なのです。私たちがクリスチャンとして真に霊の命を生きるようになるためには、自分の人生においても、私たちはキリストと共に十字架につけられ、イエスの十字架を通して、自分が個人的に死んだという経験することは、避けて通れないのです。

神の御霊は、私たちが十字架上で自己に死ぬことによって解き放たれます。神の法則はいつもそうですが、私たちの古き人の死があって、初めて、次にイエスの復活の命が現れ、私たちは新しくされるのです。私たちの古き人が死ななければ、復活の命もありません。ですから、私たちは自分の古き人の死がすでに十字架上で成就していることを、機会あるとごに、信じ、それを宣言し、十字架を自分に適用し、受け入れなければなりません。

私たちが古き人をしっかり握り締め、古き人の中で生きている状態では、御霊は働かれません。ある人たちは、御霊をまるで生まれながらの自己の威信を誇示する道具であるかのように勘違いしています。彼らは自己を保ったまま、その上に、聖霊という力を新たにいただけるのだと誤解して、聖霊の賜物を得て、自分がパワーアップするために色々な集会に顔を出しています。また別の人は、ペンテコステとは、ある日、突然、自分がスーパーパワーを手にした超能力者となることであるかのように勘違いしています。そうやって特別な力を得たいがために、聖霊、聖霊と言っている人がいますが、それは大きな間違いです。

御霊に導かれて生きるとは、決して、そんなことを意味するのではありません。聖霊は、私たちの生まれながらの自己、すなわち、古き人を強めるための道具では決してありませんし、そのような安っぽい方法で働かれることはありません。そのようにして、人に栄光を与えるために用いられる「霊」があるとすれば、それは全く神から来たのではない力であるとして警戒すべきです。

御霊は私たち自身の思いではなく神の思いを表します。そして私たちの古き人が死んだ後、全く新しい人を私たちの中に形作ります。それは神の霊によって生かされる新創造、神の御心にかなう新しい人間です。私たちの外側の殻である古き人が十字架につけられて死に、私たちの内側で御霊が働かれるようになって初めて、私たちに、霊的な視界が開けるでしょう。自分の魂と、霊とは、全く別次元に属しているように、全く違うものであること、魂が感じることのできる世界の他に、霊の世界があることを、はっきりと感じ取るようになるでしょう。

しかし、そのためにはまず古き人の死がなければなりません。バプテスマを受けて再生したクリスチャンが、その瞬間から、御霊が自分の内に宿っていることをはっきりと自覚することはまずありません。幼子のようなクリスチャンは、霊に関することをほとんど感知することができません。それは彼が古き人に死んでいないし、キリストと共に自分が十字架につけられて死ぬという経験を経ていないからです。

私たちがキリストの十字架を自分の十字架として受け止め、彼と共に自分もはりつけにされて死んだことを事実として信じ、その死を完全に信仰を持って受け入れる時にこそ、私たちは新しくされます。私たちはこの世ではますます無力になりますが、信仰をもって十字架を受け取る時、私たちの内から外へ向かって御霊が自由に解き放たれるのです。私たちの自己が追い詰められ、この世で居場所をなくし、力を失い、絶体絶命となり、死へ向かう時、それを信仰を持ってイエスと共なる十字架上の死として受け止めるなら、御霊が私たちの自己から解放されるでしょう。私たちはこの世では決定的に無力となりますが、その私たちの死が、キリストの復活の命に接木され、復活の命の力が地上にもたらされるのです。私たちはその死を経て初めて、自分がそれまでと違う全く新しい命の力によって生かされるようになったことを経験することができます、その時、御霊によって生かされるとはどういうことであるかを実際に感じ取るでしょう。

御霊によって導かれ、御霊によって強められ、御霊の力によって生かされるためには、私たちは必ず、イエスと共にゴルゴタの十字架につけられねばなりません。それは一度限りのことでは終わらないでしょう。日々起こる大小様々な出来事をも、十字架の経験として受け止めることは大切です。私たちがどんな小さな出来事をも、イエスと共に十字架で死に、復活の命をいただく機会として、喜びを持って受け入れるならば、イエスの復活の命が、あらゆる機会に私たちの人生に現れるようになるでしょう。御霊がどのくらいあなたを通して働くことができるかは、信仰暦の長さにかかっているのではなく、あなたの勉強の程度にかかっているのでもありません。あなたがどのくらい実際にイエスの十字架を個人的に経験し、自己の生まれながらの力に死んでいるかが、御霊があなたの内でどれくらい自由に働くことができるかの秘訣なのです。

私たちの生まれながらの自己(魂と肉)は、常に、神の力が現れる妨げになっています。考えてみましょう、私たちの天然の自己は、自分が攻撃されたり、脅かされるような出来事が起こると、自己を守ろうとして必死に防衛します。私たちの魂は、人から非難されると、怒って、反論しようとします。いわれのない非難には、無実を証明しようとして、自己弁明します。屈辱をくわえられると、それを晴らそうとして闘います。そのような時、私たちは、考えるよりも前に、本能的に、自己防衛に走っています。

私たちの生まれながらの魂は、常に自分の力で自分を守ろうとしています。自分を圧迫するネガティブな出来事に対して、私たちの魂は、何とかしてその状況から逃れようと、ありとあらゆる策を振り絞って立ち向かい、負担となるものを取り除けようとします。理不尽な事件の中に意味を見出すことは、私たちの自己にはできない相談です。

しかし、神が願っておられることは、そうやって私たちが自分のちっぽけで自己中心な力により頼んで、自分を守ろうとすることではなく、私たちがどんな問題にも、イエスの復活の命により頼んで立ち向かうことなのです。私たちの天然の力は弱すぎるために、元々、サタンに立ち向かう何の武器にもなりません。また、堕落し腐敗しているので勝利の力とはなりません。神の力は無限ですが、私たちの天然の自己から来る力には大きな限界があります。たとえ全力を振り絞って闘ったとしても、十字架の死を経由しない、生まれながらの古き人の方法を用いて闘っている限り、私たちには遅かれ早かれ敗北が待っているのだけなのです。

神が願っておられることは、私たちが自力ではなく、神の力によって生きるようになることです。私たちが日々、己を頼りとせず、神を絶対的に信頼して、生きるようになることなのです。私たちが困難にぶつかる時には、神を信頼して、神の影に隠れるべきなのですが、むしろ反対に、自分で問題に取り組もうとして、己の正義や、己の考えを武器にして、戦場へ出て行くと、私たちは敗北します。キリスト以外の方法を用いて闘おうとすると、私たちは神の守りを失い、復活の命を生きるチャンスを失います。私たちが自己を生きれば生きるほど、その分、私たちは神のまことの命を生きるチャンスを失っていくのです。

私たちが御父の手をしっかりと握って離さず、キリストが用意して下さった神との「一つ」の中にいつでもしっかりとどまりながら、自分の力では何もせず、ただキリストご自身が、私たちの力となって下さり、あらゆる問題への解決となって下さり、私たちを守って下さることを信じ、そうなるまで忍耐強く待っていることができるようになれば、私たちは自然と、これまで知らなかった力によって生きるようになり、思いもしなかった勝利を得るようになります。

それができるようになるために、私たちは、幾度もの失敗を経ながら、自分の力を使って闘うことの無意味さを思い知らされる必要があります。十字架を通して自己に死ななければ、どんな解決もなく、ただ復活の力によって生きることだけがすべての解決であることを見るようになります。神を信頼し、己を頼まず、いつでも十字架に立ち戻ることの重要性を、私たちは何度も学ばされるでしょう。

私たちは自己の無力を知らなさ過ぎるのです、自分に力があると思い込んで、自惚れています。私たちはわざわざ十字架を経由しなくとも、自分には知識があり、沢山の方法があるから大丈夫だと思っています。私たちは本能的に自分を信頼しており、自己がそれほどまでに悪しき、無力な、汚れたものであり、私たちの魂の最も善良な思いつきですら、堕落によって汚されているということを知りません。

そこで神は、私たちが、己を頼みとして行動しなくなるまで、何度も、私たちに失敗させるでしょう、私たちに、十字架以外の拠点に立って闘うことの無意味さを思い知らせるでしょう。自分が傷つけられるのを防ごうとして、あるいは、自己を立てようとして、何かをしようと駆け出す度に、私たちは手痛い失敗をこうむって、敗北して帰ってくるのです。そして、神の導きを待たずして、自分勝手な考えを実行したこと、十字架の死と復活を経由しない、天然の力を用いて闘おうとしたことを反省しなければならなくなるのです。そうして、私たちは改めてイエスの十字架に立ち戻り、自己の力では何もしないことを学び、この世ではひたすら無力になりながら、自分の死の上に、ただイエスの復活の力が働いて下さるまで、信仰を持って待つようになります。

そうしているうちに、いつか、私たちは困難な事件に遭遇しても、衝動的に、自分の知恵によってそれに立ち向かったりせず、十字架を拠点とし、そこで忍耐強く、神の解決を願い求めるようになるでしょう。あらゆる困難は、自己を十字架につけ、キリストに働いていただくための貴重な機会であり、神から特別に提供された学課であることが分かるようになるでしょう。十字架の死と復活を経由しないどんな力も、自分の助けにはならないことを理解するでしょう。たとえいわれなく非難されたり、恥をこうむることがあっても、それをも、キリストの命が働いて下さる貴重な機会として耐え忍ぶことができるようになるでしょう。全ての事件は、イエスの死と復活をさらに経験する機会とするために、神が特別に送って下さったものであると理解するようになります。

こうして、十字架は私たちの家となります!

「人は主イエスが十字架につけられたことを、彼の失敗であると見なすかもしれません。しかしながら、そここそまさに勝利の場所なのです。<…>
 主は十字架につけられ、死人の中から復活されました。彼は死の中へと入れられ、死と戦い、死の力に打ち勝ち、あらゆるものに対して勝利を得られました。主が死んで復活しなかったとしたら、サタンに勝利を得たと言うことはできません。<…>

 サタンはゴルゴタで打ち破られました。別の場所でサタンと戦おうとする者はすべて、失敗する運命にあります。ゴルゴタ以外では、サタンは常に勝利を得ます。彼はただゴルゴタにおいてのみ打ち破られました。また、彼は永遠にゴルゴタで打ち破られました。こういうわけで、ゴルゴタの小羊に結合し、ゴルゴタにおける彼の勝利の土台の上に立ち、別の新しい勝利を獲得しようとせず、ただ一つの勝利を現在の戦いで表現する者はすべて、勝利を得るでしょう。敗北は、自己に信頼することからやってきますが、勝利は、ゴルゴタの立場に立つことからやってきます。ゴルゴタが勝利の場所です! ゴルゴタがわたしたちの家です! 何がわたしたちを恐れさせることができるでしょうか?
(ウォッチマン・ニー著、『クリスチャン生活と戦い』、p.202-203)

 ところで、イエスと共に自己を十字架につけるとは、決して、私たちが自分からわざと苦しもうとして、自虐的な生き方を選ぶことではありません。私たちは自分から困難を願い求めたりしてはいけません。自分で自分を十字架につけようとして、自虐的な行動に走ったり、自己を打ち砕こうとして、あれやこれやの方法を試して四苦八苦する必要はありません。誰かの指示に妄信的に従って、自分を不当に苦しめる必要もありません。私たちは御言葉を信頼して、自分がイエスと共に十字架につけられたことをただ信じ、日々、様々な出来事の中で、それを自分に宣言し、適用するだけでよいのです。自分から十字架を求めてどこかへ出かけて行く必要はありませんし、自分でそれを作り出そうとする必要もありません。自分で自分を痛めつけることによって、人は自己の死を経験できるわけではありません。

また、私たちがイエスと共に十字架で死ぬことを選ぶ時、復活を神に願い求める必要は全くありません。どのような方法で復活の力が私たちに働くのかは、神が決められることであって、それは私たちのあずかり知らぬことです。私たちは「何月何日までに復活したいので自己の死はそれまでにして下さい」などと指定することはできませんし、あれやこれやの復活の方法を指定することもできません。ただ神を信頼して、十字架上での己の死に徹し、神が働いて下さるのを信じて待つことができるだけです。

私たちがなすべきことは、良いことも悪いことも、あらゆる出来事を、神の私たちへの最善の采配として受け止め、そこに御心を求め、ただ神を信頼し、十字架の地点に立ち続けることです。どんな状況にあっても、神が私たちを守って下さり、私たちのために必要な備えと解決を下さり、万事を益として下さると堅く信じ、キリストという解決を待ち望むことです。

こうして、あらゆる出来事が、神によって与えられたものであり、キリストが働いて下さる機会であることを信じ、自分の感覚や感情、思いに頼らないようになれば、私たちから、本当に、はかりしれない神の力が実際に外へ向かって、自然に流れ出すようになるでしょう。信仰、そして十字架における死と復活によって、私たちは勝利を得るようになるでしょう。御霊は、もはや私たちの不信に妨げられることなく、自由に私たちを通して働かれるようになるでしょう。そのようにして神の力を帯びたクリスチャンこそ、神の敵にとって大いなる脅威となり得るのです。


人情に流されて十字架を拒絶することの大きな誤り

「『すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、『主よ、とんでもないことです……』と言った。イエスは振り向いて、ペテロに言われた、『サタンよ、引き下がれ』(マタイ十六・二二―二三)。

悪魔は自分の敗北を十字架上に見いだしました。こういうわけで、彼は、人が十字架へと行き、ゴルゴタの勝利を得ることを最も恐れます。ここでサタンは、大胆にも主イエスご自身を誘惑しました。彼は主イエスに、神のことよりも人のことを思わせようとしました(二三節)。

悪魔は人情を用いて、人を十字架の道から引き離すのが上手です。彼は人に、この道は非常に苦しい、困難なものであり、その道を取ることはとても過酷なことであると思わせます。もしわたしたちが人のことを思うなら、神のことを思うことはできないでしょう。こうして、自己憐憫を通してであれ、他人に対する天然の関心を通してであれ、わたしたちは必然的に神の御心に損失をこうむらせることになるのです。<…>

自己愛、自尊心、自己憐憫はすべて十字架の道に反します。逃避すること、自己をあわれむこと、恐れること、妥協することは、北が南に対するように、ゴルゴタに対するものです。サタンの方法は、人に自己をしっかりと握らせ、人情にしがみつかせることです。サタンは、人が十字架に行き、十字架につけられ、そして死から復活することを恐れます(二一節)。こういうわけで、彼は力を尽くして、人が十字架に行くことを妨げます。というのは、十字架以外には、主によって定められた他の方法はないからです(Ⅰテサロニケ三・三)。

今日、あなたはどの道をとろうとしているのですか? 多くのクリスチャンが十字架を見ると横に避け、すすんで十字架につけられようとしないことは哀れなことです! 彼らは苦難を免れますが、彼らが獲得する安楽さと慰めとは、彼らが失う神のみこころとは比較になり得ません! もし彼らが真に死ぬなら、真に復活するでしょう。そして、サタンの立つ場所はなくなるでしょう。これが、サタンの最も憎むことです。サタンは、わたしたちが十字架上で死に、死から復活することを恐れているのですから、なおさらわたしたちは主に信頼することを通して自己に死に、死から復活すべきです。」(p.208-209)


今日、キリスト教界には背教がはびこり、痛ましい事件が多発し、クリスチャン同士が互いに傷つけ合い、相争っています。ある人々は、受けた被害を取り返し、自己の名誉を晴らそうとして、裁判を起こし、抗議行動を行っています。そしてそのような被害者たちの周りには、人情に従って、彼らに同情の涙を注ぎ、彼らに甘い言葉をかけて、もっと自己の名誉を毅然と取り戻し、雪辱を晴らすために闘い、報復するようにと促す人たちがいます。
一体、誰が正しいのでしょうか。悪事を声を大にして糾弾し、傷つけられた名誉を取り返すために闘っている人たちが正しいのでしょうか?

私たちも、生活の中で、何らかの理不尽な被害を受けることがあるかも知れません。そのような時、私たちはイエスの十字架を取るのか、それとも、自己の名誉を取るのか、選択を迫られることになるでしょう。神を信頼して十字架の死に徹するのか、それとも、己の正義を信頼して自分を生かそうとするのか、選択を迫られるでしょう。

甚大な被害を受ければ、誰しも、自分を被害者とみなしたい気持ちになります。自分の名誉を守るために闘い、裁判を起こし、街頭に立って署名を募り、デモを起こし、一大運動を組織したくなるでしょう。声を限りに、自分の被害を世に向かって訴えたい気持ちになるでしょう。しかし、それがどんなに重大な被害であっても、理不尽な事件であっても、どうか気をつけてください、私たちが不当な目に遭わされたと思って、その事件に怒りと不満を抱けば抱くほど、私たちはその事件の中に神の御心を見いだせなくなります。どんな事件に遭遇しても、神を信頼し、神が全ての事柄を私たちのために按配して下さっており、いつでも必要な解決を与えて下さることを信じて待つことと、自分を被害者だと思って、自分を憐れみ、自己の名誉を取り戻すために、立ち上がって闘おうとすることは、正反対です。前者は神を選ぶことですが、後者はこの世を選ぶことです。自分を助けるために自分で闘う道を選ぶことは、私たちが「神ではなく、人のことを思う」ことであって、御心から逸れることを意味します。私たちが自力で自己の名誉を取り戻そうとして闘うことは、十字架の道を選ぶこととは正反対なのです!

自分を被害者とみなして自己を憐れみ、不満をいだくことは、信仰による態度ではありません。なぜなら、自分が不当に扱われたという怒りと不満を抱くことは、あらゆる出来事の中に神の最善の采配を見て、神を信頼する姿勢とは相容れないからです。

人情の世界では、虐げられた人に同情することは、尊い美徳のように思われるでしょう。傷つけられた人の名誉を挽回するために、被害者と共に闘うことは、美しい行為のように見えるでしょう。しかし、それはイエスが十字架へ向かわないよう、主をいさめようとしたペテロの言葉と同じく、サタンから出た巧妙な欺きなのです! 私たちは信仰を働かせさえすれば、どんなに理不尽な事件の中にも、神の最善の計画を見ることができます。困難な事件は、私たちを訓練するため、私たちの自己を十字架につけるため、一粒の麦が死んで豊かに実を結ばせるために、神から贈られた特別な贈り物であることを見ることができます。信仰があれば、あらゆることに感謝して、それを十字架として受け止め、勝利を得ることができるのです。

ところが、人の愚かな知恵は、理不尽な事件は神からの贈り物ではないから、決して私たちに役に立つことはないだろうと言い聞かせます。そんな事件からは、何も学べることはないから、あらゆる手を尽くして、早く逃れた方が良いと思わせるのです。また、理不尽な事件に遭遇したならば、苦しい状況を終わらせるために、自力で闘うべきだと思わせます。被害者となった自分を、思う存分、憐れみ、自己憐憫を吹聴し、世の人々の同情を乞い、もっともっと自分の権利を取り返すために、みんなで一緒になって闘うべきだと思わせるのです。こうして、人が生まれながらの自己を守ろうとすることこそ、「美しい行為」であり、「人間の当然の権利運動」であり、人が十字架上で自己の死を遂げることなど「言語道断」であるとサタンは人に思わせます。

しかし、人が生まれながらの自己を守り、「虐げられた可哀想な弱者である私」の名誉を挽回しようとして起こすあらゆる運動や思想は、神から出たものではありません。それは私たちが十字架を目を逸らし、それを避けるようにと、サタンから出た誘惑です。それは私たちの自己愛と自己憐憫を刺激することによって、私たちの目を自分に向けさせ、決して神の御心を見ないよう、十字架を受け入れないよう注意をそらし、私たちを天然の自己の力によって闘わせることによって、敗北へと導くのです。

ここで私は、決して、どんな悲惨な出来事に遭遇しても、悪いことは全て無かったことにして、泣き寝入りすべきだと言っているわけではありません。また、苦しんではいけない、怒ってはいけない、悲しんではいけない、と言っているわけでもありません。私たちは生きた魂であって、命のない人形ではありませんから、感情を殺すことはできません。理不尽な事件に遭遇する時、私たちの魂が怒りや、苦痛を覚えたり、誰かに同情したり、悲しんだりするのは自然なことであって、感情そのものを否定することは無意味です。

しかしながら、私たちは、事の理不尽さに注目しすぎるあまり、そこに神のご計画が働いていることを忘れて、ただ怒りや、憐れみや、義憤などの感情に押し流されて、安易な解決を求めて、古き人の力で立ち上がることがないよう、気をつけなければなりません。一時的に怒ることは許されても、ずっと怒りを持ち続けてはいけません。怒りを一つの主義や、信念や、運動にまで高めて、それを武器に、生涯かけて闘ったりしてはなりません。度を越えて怒りの感情を持ち続けることは、非常に危険なことであり、サタンに機会を与えることにつながります。
また、自己憐憫、被害者意識などの感情を、長期にわたって持ち続けることも同様に危険です。それらの感情に圧倒されそうな時は、神に向かって助けを求める必要があるでしょう。どれほど多くの人々が、怒りと、被害者意識と、自己憐憫を過剰に持ちすぎたせいで、人格を損ない、不毛な戦いに人生を費やし、暗闇に落ち込んでいったでしょうか。

私たちはネガティヴな感情も、ポジティヴな感情も、全ての感情を含めて、魂に由来するどんな感情にも、決して、過剰に固執したり、のめりこんだり、溺れてはなりません。私たちが自分の感情を見つめ、それを中心として生活し、自分の感情を大事にし、いたわろうとすればするほど、私たちは十字架から逸れていき、サタンの誘惑にさらされるでしょう。むしろ、そんな時には、私たちは御言葉を通して、キリストと共に、私たちは十字架上で魂の古い性質に対しても、すでに死んでいるのだという事実を思いださなければなりません。

これは決して、私たちが自分の心を乱暴に扱い、自分の感情をことごとく否定し、無視すべきだという意味ではありません。私たちは生きた魂ですから、魂を全て殺してしまうことが求められているのではありませんし、魂の活動によって生きることを避けられません。しかし、過剰な感情に支配されてはなりません。古き人の感情を中心にして生活を送ってはいけません。嵐のような感情が自分を支配しそうになっているならば、それを十字架上に置いて、宣言しましょう。私たちはイエスと共にこの世に対して十字架につけられ、私は死に、この世(魂を苦しめるあらゆる状況を含む)に対して、死んだのだと。そして、もはや生きているのは、私(の古き人である魂と肉の性質)ではなく、キリストなのだと。

私たちはたとえ理不尽な事件に遭遇したとしても、自己憐憫や不平不満や復讐心に溺れることを拒み、ただ神を信頼して、そこに神の最善の采配を見いだして、十字架を自分に適用して、魂に平安を得るべきです。そうすれば、神ご自身があなたのために立ち上がり、あなたのための解決となって下さいます。どんな時でも、私たちは神にありのまま思うことを申し上げ、自分の裁きを性急に下そうとせず、まことの裁き主であられ、私たちのまことの牧者である神が、問題に適切な解決を与え、私たちを守って下さることを信じ、神の解決を信頼して待つべきです。自己憐憫、被害者意識、正義感など、魂の命を守ろうとする感情に駆り立てられて、性急に立ち上がり、この世的な方法を用いて悪と闘うことは、十字架を退けて、自分の方法を取ることであり、それは一見、近道のように見えても、私たちを必ず敗北へと導きます。なぜなら、ゴルゴタ以外の場所には、私たちの勝利は一切ないからです。

理不尽な状況にあっても、神を信頼することは、私たちの魂にとって十字架となるでしょう。私たちの心は、逆境にある時、疑いや不信や怒りや不満にさいなまれます。そのような魂の衝動を積極的に拒まなければ、私たちが、神を信頼することはできません。不平不満と、疑いと、怒りと、不信に満ちた自己の魂を、キリストの十字架に重ね、キリストと共に私の自己がゴルゴタで死んだことを事実として受け入れ、もはや自分の力でなく、キリストの復活の力によって生きることを願い、また信じるならば、素晴らしい祝福を私たちは受け取るでしょう。どんなに神を信頼することが困難な状況にあっても、それでも、私たちが神を信頼し、十字架を経由してこの世に対して死んで行く時にこそ、イエスの復活の命が本当に私たちの力となって現れるのです。

私たちの闘いは、血肉による闘いではありません。私たちに敵対しているのは、人間ではなく、その背後にいて彼を操っている悪しき霊なのです。従って、私たちが裁判その他のこの世の方法を用いて、どんなに人間と闘ったとしても、本質的な問題は何一つ、解決しません。本質的な問題は、霊的な世界にあり、私たちの闘いの相手は、暗闇の勢力だからです。

私たちは暗闇の勢力に対して、血肉によって、つまり、自分の力や、この世的な方法を用いて、勝利をおさめることはできません。だからこそ、そこにはイエスの十字架の死と復活が必要なのです。そしてキリストはすでにサタンに勝利を取られたのです。にも関わらず、クリスチャンが相変わらず、キリストを退けて、この世的な方法を用いて悪と闘っている限り、サタンは私たちを嘲笑うだけでしょう、なぜなら、そのような闘いには全く勝ち目がないからです。光以外のものは、闇に打ち勝つことはできません。私たちが暗闇の勢力を打ち負かすことができるのは、光なる御子イエスの復活の命に生きる時だけです。サタンが最も恐れるのはゴルゴタの十字架です。そこに復活があるからです。だからこそ、サタンは教会からも、十字架を取り除こうと必死なのです。サタンは十字架を遠い日の物語に変えてしまい、十字架を単なる飾り物に変えてしまい、一人ひとりのクリスチャンが自分の人生において、決して十字架を経験しないように妨害し、むしろ、十字架を退けて己の力で問題に立ち向かうようにそそのかしているのです。

サタンは、私たちの注意を十字架からそらすために、私たちを人情にしがみつかせます。自己憐憫や、被害者意識や、同情心や、自己愛や、自尊心を煽り立てることによって、私たちがどんな困難に直面しても、決して、神に信頼せず、それを十字架として受け取らないように、むしろ己が苦しめられたことを不当に感じるように仕向けています。そうして自己を憐れみ、自己を延命させようとしている限り、私たちはサタンに勝利する力を持たないからです。

サタンは、十字架は、あまりにも重く、苦しく、つらく、困難すぎて、イエスには負えても、私たち人間には負えるはずがないから、私たちが十字架を本気で経験しようとすると、必ず病気になるだろうと、今日もさかんに脅しをかけています。彼は十字架には死があるだけで、復活はないと思わせます。私たちが十字架を経由するなど、全く馬鹿らしいことであり、泥臭く、時代遅れであり、当世風のスマートな生き方ではないと、さかんに言い聞かせています。問題があるなら、裁判所へ行きなさい、弁護士を頼んで、自分の力で、名誉挽回しなさい、有名な先生にカウンセリングを受けて、慰めてもらいなさい、嫌なことは忘れて、気晴らしに楽しいことでもやりなさい、美味しいものでも食べなさい、旅行にでも出なさい、そんなに十字架ばかり見つめて、自己の死という憂鬱なテーマを思い巡らしていると、あなたはきっと精神の健康を害しますよ、と、十字架以外のあらゆる他の方法を私たちにすすめるのです。

しかし、私たちに必要なのは、十字架から逃げることではなく、まさに十字架にとどまることなのです! 十字架を避けて、人のちっぽけな力を頼みに、悪と闘おうとすれば、その方がよほど苦しい闘いを強いられるでしょう。たとえ安逸が得られとしても、それは絶えざるごまかしと敗北の中にあります。そこに勝利はありませんし、神の御心もありません。あなたは神から賞与を得る機会を逃してしまうのです。十字架を避けて他の方法で問題解決しようとすることは、永遠の世界では、常に私たちの損失であり、命の浪費へとつながります。

今日、私たちが十字架を経由して、キリストと共に自己に死に、復活することをサタンは最も恐れています。なぜなら、私たちの生まれは罪深い肉に過ぎませんが、もしも私たちが真に十字架上でキリストと共に死に、復活するならば、神の命が私たちを真に生かすようになり、神のはかりしれない力が、私たちを通して実際に外に流れ出るようになるからです。その時こそ、私たちは勝利者となります。だから、復活の命が、サタンにとって最も脅威なのです。そこで彼は、多くのクリスチャンが、十字架を過小評価し、自分には適用する意味がないと思わせ、あるいは、自己を哀れんで、十字架を拒否するように仕向け、その結果、彼らが復活の命の性質を帯びることが決してないように妨害します。ほとんどのクリスチャンは、その策略に騙されて、復活の命を一切、経験することなく、御霊とは何であるかを知らないままに、無力な生活の中にとどめ置かれているのです。

クリスチャンは、神を信じ、聖霊を内にいただいている誰もが、キリストの復活の命を実際に生きているわけではない、ということを知る必要があります。いくら聖霊が内に宿っていても、私たちの自己が死を経ることがなければ、私たちは、依然として古き人にコントロールされて生きているままで、御霊によって生きることがどういうことなのか、その実際を分からずじまいに終わるのです。私たちがイエスの十字架を自分の十字架として経験し、古き人に死ななければ、復活の命を見ることは決してないのです。

自分で自分を救おうとする者は、かえって自分の命を失います。自分の魂の命をイエスと共に十字架上で拒否する者だけが、永遠の命と共に、自分の魂をも取り戻すのです。私たちが自分を憐れみ、キリストの十字架なしに、自力で、自分を守ろうとすればするほど、私たちはますます危険にさらされ、解決は遠のいていきます。私たちが自分の名誉を挽回しようとして闘えば闘うほど、ますます問題はこじれ、争いは泥沼化し、生きる希望がなくなっていくでしょう。自分で自分を守るための闘いは、私たちをただ消耗させるだけで、何の実も結ばせません。理不尽な事件に遭遇する時に、神を信頼せずに、自分で自分を助けようとすることは、最悪の対処方法です。そんな時にこそ、私たちは、キリストご自身がその問題に解決となって下さることを信じ、神を信頼して忍耐強く、解決を待ち望む必要があります。そうして私たちが十字架にとどまり、そこで自己の死に徹し、神が復活の命を与えて下さることを信じて待つならば、いつでも、驚くべき解決が与えられるでしょう。

私たちが自己を否んで、キリストに道を譲るのを、キリストはずっと待っておられます、私たちのあらゆる罪を引き受けて死んで下さったキリストは、今日も、喜んで私たちを守るための闘いを引き受けて下さいます。古き人を否んで、キリストに道を譲るときこそ、私たちから圧倒的な御霊の力が現実に流れ出すようになります。私たちの勝利の力の源はすべて十字架上にあります。たとえ苦しめられたり、辱められることがあっても、それをただの事件として終わらせず、イエスの十字架の死と復活が、あなたの人生に直接、働く機会として受け止めるならば、この世での損失は、御国の成果へと変わります。あなたはあらゆる場面で霊の命を生きるようになり、素晴らしい祝福があなたに臨むでしょう。自分で自分を救おうとしてはいけません。古き人の力ではなく、イエスの復活の力によってのみ、私たちは暗闇に覆われたこの世のあらゆる問題に立ち向かうことができます。キリストの復活の霊なる命こそが、クリスチャンの勝利の秘訣です。イエスのまことの命こそが、私たちをあらゆる問題に勝たせ、悪しき勢力から救い出し、真に御心にかなった人間として生かす力なのです。

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