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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

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魂の命を否む(1)

魂の命を否む

「信者が十字架上での主イエスの身代わりの死という恵みを受ける時、神はその命を彼の中に置き、彼の霊を復活させます。この新しい命はそれと共に新しい性質をもたらします。その時以来、その信者の中には二つの命、霊と魂の命とがあるようになります。彼の中にはまた二つの性質、神の性質と肉とがあるようになります。」(ウォッチマン・ニー、『クリスチャン生活と戦い』、日本福音書房、p.98-99)

キリストを信じ受け入れた時から、私たちの中には、肉、魂だけでく、神の霊が宿ります。信じる以前には私たちの霊はただ死んだ状態にありました。しかし、神の霊の命が私たちの内に宿るとき、私たちの霊も、御霊の命によって再生され、新しく生かされるようになります。信仰生活において、私たちがきよめられるためには、私たちは肉から脱却し、魂的なものからも脱却し、ただ御霊によって生きることを学ばなければなりません。

しかし、今日、多くのクリスチャンは、キリストを信じたとはいえ、依然として「肉的なクリスチャン」の段階にとどまっています。彼らの霊の命は肉に閉じ込められ、まるで再生されていないかのようなみじめな状態にあります。彼らの日々は、肉の欲との絶えざる格闘です。どんなに聖書を読み、御言葉に従いたいと願っても、罪の誘惑が強い力で彼らを後ろへ引っ張るので、それと格闘するだけで日々が過ぎていきます。罪を犯すのをやめようと思っても、やめることができません。この肉的な段階は、アクセルを踏みながら同時にブレーキを踏むようなもので、クリスチャンは勝利と敗北の間を行ったり来りするだけで、前進していくことはほとんどできません。彼はまことの命を実際に生きるということを知りません、依然として、悪い思いの数々の影響下にあり、罪のとりこにされています。サタンにとっても、このような罪の捕われの状態にあるクリスチャンはほとんど何の脅威にもならないでしょう。

次の段階として、「魂的なクリスチャン」がいます。彼らは「肉的なクリスチャン」よりは、少し前進した存在だと言えるでしょう。なぜならば、彼らは十字架上でのイエスの死を自分のものとして受け取ることによって、自分の肉が十字架につけられるということを実際に経験したからです。まだ肉体を持って生きているとはいえ、十字架で、自分の肉に対して死ぬことを学ばされたので、もはや以前のように、汚れた肉の欲のままに引きずりまわされることはありません。彼らに対して、肉は十字架を通して一定の効力を失い、弱められました。彼らは肉の思いではなく、御霊の思いによって、新しくされ、新しい命に生きることをある程度、学んでいます。

この段階のクリスチャンは、神の聖なる霊が自分の内に宿っていることを文字としてでなく、徐々に、実際に経験として知っているでしょう。彼の思いはきよめられ、彼の自己は大きく対処されました。御霊に導かれるようになった彼は、もうあからさまな罪を犯すことはできなくなりました。しかし、多くのクリスチャンは、この段階へ来ると、あたかも自分が高度な成長を遂げたかのように誤解し、そこで自己満足してしまいます。肉的なものにある程度、死ぬことを学んだだけで、それがキリストにあって得られる勝利の全てであるかのように誤解してしまうのです。肉に引きずられさえしなければ、自分が勝利しているのだと思い込んでしまうのです。

しかし、本当の闘いはまさにここから始まると言えます。肉的なものが十字架で対処されなければならないと同様、魂的なものも、同じように、十字架で対処されなければならないのです。しかし、そのことを今日、ほとんどのクリスチャンは知らされてもいません。私たちは肉の罪深さについては知っていますが、魂の堕落した性質についてはほとんど知らないのです。人間の魂というものが、いかに自己を愛するものであり、自己のためだけに企画・提案を行うものであり、呪われた旧創造に属する性質を多く含んでいるか、私たちは知りません。私たちの心がいかに欺くものであり、神の御前に汚れているものであるかということを、上から示されることなくして、私たちは自分では思いもかけないのです。


魂のクリスチャン

なぜ彼は魂のクリスチャンなのでしょうか? わたしたちは、いかにして十字架が働き、いかにして信者たちの肉、罪深い性質がそこで十字架につけられたかを見てきました。しかしながら、魂の命は依然として残っています。すべての罪は肉からやってくるのであり、魂はただそれによって導かれ、その操り人形として行動するだけですが、魂はアダムから受け継がれたものであり、完全に汚されているわけではありませんが、アダムの堕落によって影響を受けていることは避けられません。

天然の存在と神の命との間に違いがあることは、真実です。信者の中にある汚れた肉は死にましたが、彼の魂は彼の生活の背後で力を持ち続けます。罪の性質は死にましたが、自己の命は残っています。ですから、必然的に、人は依然として魂からのものです。

今や、罪深い性質、肉は死にましたが、魂は人の振る舞いの背後で力を持ち続けています。神の性質が肉に置き換わったのであるからには、自然に、すべての好み、願望、提案は義しく(ただしく)なり、もはやかつてそうであったように汚れたものではありません。しかしながら、この新しい性質の提案と願望を遂行しているのは、依然として、以前の魂の命なのです。<…>

 わたしたちは、必ずしもすべての魂の経験が邪悪で、汚れているわけではないことを、認識する必要があります。肉というのは、罪深い性質がある限り、汚れた、罪深い事柄を産出しますが、魂は必ずしもそうではありません。魂の命とは、わたしたちの本来の命、すなわち、わたしたちを生きた被造物とする命にすぎません。この命は、いったん罪深い性質、肉から切り離されれば、必ずしもその思うことが常に邪悪であるわけではありません。多くの人は、最初から生まれつきの善、忍耐、愛、優しさを持っています。これらの徳は、誕生によります。」(p.100-101)

 それぞれの魂には、個性があり、長所や美徳もまた備わっています。私たちが神を愛するのは、魂を経由して愛するのであり、私たちが心から主を讃美する時、私たちの魂も霊と共に喜び歌います。私たちは自分の魂を注ぎ出して、主に祈り、仕えることが求められています。ですから、クリスチャンは、決して、魂のあらゆる機能がすべてが悪いものであると決めつけ、魂そのものを敵対視して、魂そのものを滅却しようとする必要はありません。しかしながら、たくさんの長所を帯びているように見えても、私たちの魂は、深くアダムの堕落によって汚染されており、この堕落した部分について、私たちは神の対処を受ける必要があるのです。このことを知らないまま通り過ぎてしまうと、自分では御霊によって生きていると思いながら、実は、魂の堕落した性質によって御霊を閉じ込め、御心から遠く離れた生活を送ってしまう危険性があります。

 「クリスチャンは自分の肉を十字架につけた後、一つの危険性の中にあります。それは、神の性質からの新しい提案を、魂の命の力によって遂行することです簡単に言えば、これはわたしたち自身の力によって善を行うことです。このような人は、部分的には成功するかもしれません。これは正確にはそれています。信者たちが、『自分の自己を活用する』と効果があると見いだす時、自分は霊的な成長に到達したと考えます。彼らは、魂の力によって善を行っていることに、気がついていません。彼らは善を行っているかもしれませんが、依然として魂的です。<…>

霊の命それ自身は、とても強いものではありますが、魂の命の深く根ざした働きは、わたしたちの全存在を支配します。人が進んで自分の魂の命を捨て、霊の命が生き、働くようにしなければ、霊の命が発展する可能性はほとんどありません。

 霊的なクリスチャンとは、聖霊に自分の霊の中で働いてもらう人です。かれは 聖霊を自分自身の霊の中に住まわれるかたとして受け入れ、聖霊によって与えられた命に、自分の歩みのために必要となるすべての力を供給してもらう人です。彼の生活の原則すべては、もはや思いや感情によって導かれたり、影響されたりはしません。むしろ、彼は霊の中で冷静に生きています。

 魂のクリスチャンは、まさにその反対です。彼は霊の命を持っていますが、自分の霊の命から活力を引き出しません。むしろ、彼の日常生活は、依然として魂をその命としており、続けて思いや感覚によって導かれ、影響されています。」(p.102-103)

 魂的なクリスチャンの問題点は、彼が神の霊を受け、御霊の導きを受けながらも、同時に、依然として、自分の思いや感情、感覚を中心としてそれをエネルギー源としながら生きていることです。この段階にあるクリスチャンは、自分の力で神に従って生きようとして、活動に励むことが多いかも知れません。熱心に聖書を読み、熱心に伝道するかも知れません。人から善いと勧められることをみな実行しようと頑張っているかも知れません。しかし、彼はただ自分の心の提案に従っているだけであり、御霊によって生きているのではないことを知りません、自分の心を中心にすえて神の御心を成し遂げようとすることがもともと不可能であることを知らないのです。

 彼の思い、感覚、感情は、ある程度、きよめられて、以前のように肉に影響されたあからさまに罪なるものではなくなったでしょう。とはいえ、やはり、それらは彼の天然の人から出て来るものであって、自己を中心として活動し、自分を立て、自己を守り、自己の好みを遂行し、自己を義としようとつとめるのです。それは自己保存の法則に支配されたものであり、自己の好みに限定されており、神に栄光を帰する御霊の思いとは決定的に異なります。魂の命は、根本的に、御霊の命とは対立します。しかし、彼はしばしば、自己の魂から来る思いが、御霊からのものであると勘違いします。
 彼は魂と霊との区別を知りません。自分の心の思いや好みに従って歩む人生は、御霊に導かれる人生ではないということを知りません。その結果、彼は甚だしく汚れた罪を犯すわけではないかも知れませんが、御霊を自分の魂の中に閉じ込めようとし、御心からは逸れた生活を送ることになるのです。彼は絶えず自分の心を中心にして活動しているため、その活動は彼の自己を強化し、彼に栄光を帰し、神の栄光のためにはほとんど実を結びません。彼は自分の心、感情、感覚、すなわち魂の命そのものを、十字架に置かなければならないことを知りません。

 さらに、ニー兄弟によれば、魂的なクリスチャンの中には、これより少し進んで、霊と魂が混合されている信者もいます。彼らは多くの御霊の賜物を持ち、貴重な霊的な経験をさえ持っているかも知れません。そのような点から見れば、彼らには霊的な要素の現れが見られるので、彼らこそまさに「霊的なクリスチャン」であるように見えるかも知れません。しかし、彼らは自分が非常に霊的になったと勘違いしているだけで、まだ魂に導かれて生きていることを知らないのです。

「霊と魂とが混同されているこれらの信者たちは、その実際において魂的です。しかしながら、その知識においては、彼らは霊的であるように見えます。この種の信者については、霊と魂とが一つに合わされています。彼の魂は肉(罪深い性質)から分離されていますが、彼の霊はまだ魂から分離されていません。以前は、彼が肉的であったとき、彼の魂は肉に密接に結びついていました。一方は彼の命であり、他方は彼の命の性質でした。今や、同じように、彼の霊は魂に結びついています。一方は提案し、他方はその力となります。

体は魂の外側の殻であり、魂は霊の外側の殻です。わたしたちはこれを覚えておくべきです。すなわち、魂は霊の殻であるということです。こういうわけで、霊は魂によって囲まれており、魂によって絶えず影響を受けます。魂は、思い、感情、感覚、意志などを含みます。霊は魂によって囲まれているのですから、魂の中に埋没されているようです。こういうわけで、それは思いと感覚とによってしばしば影響を受けます。」(p.106-107)

 以前は、肉がクリスチャンのまことの命を暗闇に閉じ込め、振り回しました。肉が彼を導き、彼に罪を犯させ、御心から遠く引き離しました。今は、魂がクリスチャンを振り回しています。彼はあからさまな罪からは離れましたが、彼の信仰生活には依然として安定がありません。

 人の肉体が食物を採らなければ維持されないのと同じように、魂も供給を受けなければ生きられません。人の魂の機能は、刺激というガソリンが供給されなければ、活動が止まってしまう小さなエンジンのようなものです。そのようにして活動停止に陥らないために、魂は、本能的に、自分のための供給を絶えず必要とします。魂的なクリスチャンは、神のために生きていると自分では思いながら、実際には、自分の好みに応じて、自分の魂を喜ばせてくれるものをひっきりなしに追い求めています。神に従っている、と自分では思いながら、実は自分の思いや感情や感覚にコントロールされ、それらの囲いによって御霊を圧迫して生きていることを知りません。

 魂と霊の混合したクリスチャンは、神についての知識を得ることを追い求めますし、主にあっての喜びや、平安や、素晴らしい「霊的な」体験を追い求めます。彼らは自分の興味あるテーマに関してならば、非常に熱心に勉強を積んでおり、御言葉に関する知識が豊富かも知れません。様々な活動の経験があり、また、特異な霊的経験をさえ持っているかも知れません。しかし、彼らは、自分がそれらの知識や経験を、ただ魂を喜ばせ、魂を生かすために追い求めているだけであることを知りません。それがなければ、彼らの心は塞ぎこみ、活動は止まってしまうのです。

 ですから、そのような信者には、安定性と首尾一貫性がありません。ある時は御霊の平安に満たされていたかと思えば、何かのきっかけで、不安のどん底に突き落とされたようになるかも知れません。あるいは、自分の好みに合うものに囲まれている時は、非常に喜びに満ちていますが、自分の好みに合わないものに対しては、冷淡で、そっけなく、無関心な態度を取るかも知れません。彼は自分が依然として感覚や感情に導かれているだけであることを知りません。このような、魂に従って生きるクリスチャンの人生は不安定で偏ったものとなり、自分の望むものが供給されなかった場合、すぐにでも活動停止に陥るでしょう。

「この段階における信者は、おもに彼ら自身の思いによって管理されています。彼らは知識を愛し、真理を追い求めることを愛します。彼らは、何かを思いの中で完全に理解するまでは、満足することができません。彼らは、興味をそそる思想を好みます。彼らはさらに多くを知ることを好みます。なぜなら彼らは、自分が知っていることが、自分の所有しているものであると考えるからです。

彼らはまた、自分の感情によって管理されています。彼らは、主の臨在を感じることを求め、喜びの感覚を持つことを求めます。彼らは心の中に燃え上がる火を感じる時、百マイルでも歩くことができ、霊的行程において飛び跳ねながら進んでいくことができます(もちろん、外面的に言ってですが)。もしこのような感覚がなく、あるいは憂うつであると感じるなら、彼らは怠惰になり、全く前進しなくなります。彼らは良い感覚を求めます。彼らの心の中の感覚の善し悪しが、彼らの外面的な霊的状態の高低を決定します。

彼らはまた、彼らの意志によっても管理されています。彼らは、ピリピ人への手紙第二章十三節の約束を彼らの中にあって成就する聖霊の力を、まだ受けていません。彼らは、決定がすべての働きの始まりと終わりであると考えます。彼らは多くの決心をし、多くの規則と規定を定めますが、さらに多くのなわめへともたらされるだけです。これらのうちのどれも、彼らが霊的命における真の前進を持つことを助けません。」(p.108-109)

 霊と魂の混合したクリスチャンは、ひたすら自分の魂を喜ばせる計画や活動を追い求めます。しかしそのような魂の活動にいそしむことが、まさに彼らに霊的な貧困をもたらしている原因であることをほとんど自覚しようとしません。彼らは自分の魂が活動停止状態に陥ることを極めて恐れています。また、少しばかりの霊的な経験を持っているだけに、自分が通常のクリスチャンよりも高められていると勘違いし、それによって、ますます、その状態が御霊の真の豊かさからはほど遠いものであることを自覚しようとしなくなるのです。

「最もあわれなことは、この段階における信者たちが、たいてい自己満足しており、とても頑固に彼らの経験に固執するということです。彼らは、自分の認識がすべて霊的な認識であると思っています。彼らは、『頭脳の銀行』の中にある豊富さを誇ります。彼らは、ときどき起こる『第三の天』の経験が霊的な経験であると考えます。彼らは感覚や、燃えるような感動、喜び、主の臨在にふけります。彼らは、これをほかにしては、もっと高い霊的な生活などないと考えます。それにもかかわらず、彼らは、外側の事柄が依然として自分の心を迷わせ、平安を妨げていることを、謙虚に認めようとしません。彼らの振る舞いは外側の演技であり、それは多くの企てと計画から来るものであり、彼らの内側の状態と一致しません。」(p.106)

 私たちの魂は、絶えず外から供給され、絶えず動いていなければバランスをとって生きていることができず、何物にも左右されずに、真に自立的に働くことができません。最も活発に活動しているときでさえ、それらの命は、外側の何かに依存し、大きな限界と制約の中で活動しているのであり、最も素晴らしく神のために有益な活動をしているように見えるときでさえ、これらのものは本能的に、自己保存という目的のために働いているのです。

 肉も魂も、基本的には、死というものを受け入れることができず、それに徹底的に逆らう性質を持っています。そこで、人の魂もまた、死を避けるため、自己の目的をかなえ、自己を延命し、自己保存のために働き続けようとするのです。しかし、この自己保存という目的は、御霊の性質と相反しています。そこで、私たちは肉だけでなく、魂の機能に対しても死ぬ必要があるのです。私たちが、絶えず外的刺激というガソリンを注入されなければ活動することもできない魂という小さないれものを通して、神の御心を実現しようとしている限り、それは外側の演技のようにしかなりません。私たちが魂を中心として生きる限り、魂は霊を圧迫し、霊を閉じ込め、霊を間違った方向へ引きずって行こうとし、真に自由で独立的で無制限な御霊の現われを阻んでしまうのです。

 御霊の命の性質は自己保存を追い求める魂の性質とは全く異なっています。それは人の自己を満たすためでなく、神の栄光のために生きます。また、御霊は、刺激や物質の供給といった、外側の何物かに依存しなければ働けなくなるということは全くありません。ですから、真に御霊に導かれて生きる人には、外的刺激をひっきりなしに受けなければ、進んで行けなくなるとか、楽しい活動がなければ、憂うつに落ち込むということはないのです。強力な迫害にさえ、耐えうる力をクリスチャンに与えるのは、私たちの魂ではなく、御霊です。ですから、御霊によって生きる人は、外側で何が起ころうと、内には平安があり、力があるでしょう。疲れることがないのも、御霊の特徴の一つなのです。

 クリスチャンは、この倦むことも疲れることも休むこともなく、神の栄光のために絶えず働かれる無制限のキリストの命の霊をすでに内にいただいているのです。しかし、私たちの内に住まわれる霊は、何と実際にはみじめな状態にとどめおかれていることでしょう。私たちの肉体と魂の殻が、絶えず、御霊を閉じ込め、御霊の現われを妨げ、逆に、御霊を私たちの自己に従わせ、自己のために利用しようとしています。

 こうした自己の魂の厭らしい性質を、たとえ気づいたからといって、私たちが自力で取り除くことは容易ではないばかりか、不可能です。霊と魂を切り離すその「手術」は、御言葉によって、十字架上によってのみ可能だからです。私たちが魂の命を否むことは、自分の力でなすべきことではなく、十字架上で、神ご自身によって行われなければなりません。ですから、私たちは自分を絶えず十字架に持って行く必要があるのです。

 次回は、十字架上で魂の命を否むとはどういうことなのかを具体的に見ていきたいと思います。どうか主が私たちにあれあみをかけて下さり、魂の命の本質が何であるかを見せて下さり、私たちの魂と霊とを切り離して、御霊によって生きることを教えて下さいますように!

 

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ある失敗―音楽の恐ろしさ―(続)

キリスト者とのメールのやり取りから。

「改めて一つ気づかされたことがあります。
音楽が生み出す感動や、陶酔感というのは、たとえどんなに宗教的に見えたとしても、
私はそれを一種の偽物だと思うべきだということです。
 
かつて私は、レフ・トルストイの「クロイツェル・ソナタ」について記事の中で触れた時に、
そのことをはっきりと書きました。

けれども、それは私がまだ霊と魂の区別もつかなかった頃に書いたものですから、
その点で、お読みになる価値はありませんが、ただご参考までに挙げておきます。
「クロイツェル・ソナタに見る男女の悲劇」
「クロイツェル・ソナタに見る音楽によるマインドコントロールの危険」
 
この作品の中で、トルストイは、今や音大受験生の教科書のようになり、
現代人がきっと最も、安全かつ、厳格だと思い込んでいるベートーヴェンという作曲家を取り上げて、
その音楽芸術が持つ潜在的かつ重大な危険性について警告しています。
 
この物語は、いつも決まって、男女の性、夫婦の性という観点から語られますが、
実は、音楽によって破滅させられた夫婦の物語でもあるのです。
音楽というものが、特にこの終わりの時代にあって、いかに危険なものであるか、
それを示すことが、トルストイのこの物語の第二の非常に重要なテーマだったのですが、
その問題は、多くの人から無視され、未だかつて、それを十分に論じた人は
一人もいないのではなかろうか?と私は思います。
 
しかし、今から振り返ってみると、小説「クロイツェル・ソナタ」は、まさに私にぴったりの、
しかも、目を背けたくなるほどに運命的な話でした。

音楽がいかに麻薬的な陶酔状態、幼児的退行にも似た無防備な心理状態を人の心のうちに作り出すか、
いかに下劣な人間であっても、音楽という手段を巧みに用いさえすれば、
自分をたやすく聖人や救世主にまで見せかけることができるか、
かつて自分で書いた警告を、今、もう一度、自分に強く繰り返したいと思います。
 
セザール・フランクは教会奏楽者ですから、彼の音楽に信仰が表れていることは否定できない事実でしょう。
それでも、彼の音楽をすら、私は、退けるほどの慎重さが必要です。
幼少期から音楽を少しばかり学んだために、より一層、私の魂と肉体は、
音楽に影響されやすい構造になっているのです。
そのことが、過去の教会での手痛い失敗においても、私の弱さとして顕著に表れています。
そこから学ばなければなりません。
 
本当の御霊から来る感動とは、常に深く理性に裏付けられたものであり、
同時に、感情も伴うものであるはずです。
しかし、音楽が作り出す陶酔感は、外的影響が理性を覆ってしまうのです。

たとえその音楽が厳格な構成の上に成り立ち、
深い思想や哲学や信仰が内にこめられているとしても、
音楽が外的影響となって、聞く者の耳に及ぶ時、それは聞く者の理性のたがを外し、
魂の極めて無防備な心理状態(=一方的な受容)を引き起こし、
その結果、音楽は彼の魂の奥深くにまで到達、浸透していくのです。
その時、聞く者は、作曲者(または演奏者、あるいはその音楽を利用している人たち)の思いを、曲と共に一方的に受け入れてしまうのです。
 
一言で言えば、音楽に身を任せる人は、たとえ気づいていなくとも、同時に、
その場の雰囲気にも身を任せてしまうことになるのです。
ですから、音楽と共にやって来る支配をも、一緒に受け入れることになってしまうのです。
意識的に、その影響力に抗うことは困難です。
 
御霊に導かれている時、私はどんなことにも、激怒することはありませんし、
異が痛くなるほど悩む、ということもありません。
自分が取っている行動を客観的に見つめることができなくなるほどに、自制心や、コントロールを失うということはありません。
 
しかし、私の魂と肉体が、たとえば音楽の影響によって、
「非常に影響されやすい」状態(=心の無防備な全開状態)になっていれば、
私は御霊の声を忘れて、その場の雰囲気が作り出す影響力に、疑いもせずに流されていくことになるのです。
 
そのようなわけで、音楽に対して心を開きすぎることは、実に警戒すべきことです。
この辺りのこと、魂の混ざった霊的なものの見分けが、もっと私につくようになったならと思います…」


 
「このような「音楽の時代」に あなたが堂々と
「そのようなこと」を言われる潔さに快哉を叫ぶ思いです。
 
結論から言えば 「魂と物質」起源のものは 総て敵の手の武器となり、
キリストから彼を切り離し得るのです。
でも このように 総論だけを言うのは 簡単ですが
その各論となると 極めて受け入れられにくい状況があります。
  
しかし、事実としては
音楽、美術等 最高の美でさえ、たやすく キリストに代わり得るのです。
基本的な相違は 前者が旧創造に属し、後者は復活を経たものであることです。
これこそ決定的なことであり、
神がこの世の最高の美さえも あの木に釘付けたことは明白です。
 
今日のキリスト者であればこそ、その各論を受け入れることはまず不可能でしょう。
ですから、彼らは音楽と共に滅ぶ可能性さえあるのです。
 
ウォッチマン・ニー は言います:
天の実際と 霊的命の完全さを知って 初めて
彼はそれらを 心からさげすむでしょう。
なぜなら その両者は比べ物にならないからです
、と。
 
キリスト者にとって 最も難しいものは 己であり、物質であり魂です
何故なら それらには ある美しさがあるからです。
見て美しく、好ましいからです。これに勝利し得る人は おりません
 
 「真に霊的で永遠に属するもの」を見る目、
 そのための光こそが
 何にもまして 貴重である理由が そこにあります。
 
 これは 今日 私達がこれから遭遇するであろう
 極めて困難な問題です。
 
 さて対策は 
 私達が 天的で、超越した美しさを この人間性から
 真に表現しえるかどうか、ではないでしょうか。
 
そのような「真に美しい人間」が
 現にこの地上に 現れなければならない、ということです。 
 
 イエスこそ、谷間にひっそりと咲くユリです。
 その美に本当に吸引される人は 誰でしょうか。
 誰がその美しさを真に発見できるでしょうか。
 
そして、
 誰が その生活の中で イエスと一つとなり 
 彼の美しさを 真に現しえるのでしょうか。」

ある失敗―音楽の恐ろしさ―

今日の昼下がりのことだった。
昨日から、今日の午後には、予めリストアップした書籍を予約するため、図書館へ行くことを予定していた。
だが、午後になって、とても良い日差しが窓から差し込んでおり、ちょっと今しばらく、外出を遅らせて、ここ数日、ほとんど鍵盤に触れていなかったピアノを弾こうと思った。

久しぶりに弾いた曲はどれもこれも新鮮に、とりわけ美しく感じられた。特に、教会オルガン奏者の作曲した曲は、信仰の友に聞かせたいほどの美しさだった。「この曲はきっと、イエスの誕生と復活を謳っているのに違いない」という以前からの確信を私はその時も新たにした。

音楽の美しさは、私をまさに天にも昇るような気持ちにさせた。
そこで、私はこれはとてもとても信仰的な曲なのに違いない、イエスを証しているのだから、この感動や、喜びは、信仰から来るものなのに違いない、と思い、それから、弾くのを終えて、予定通り、外出の準備にとりかかった。

予め図書館に問い合わせねばならない用件があったので、電話をかけた…
「すみません、レファレンスサービスについてお伺いしたいことがあるんですが、よろしいですか?」

ところが、向こうで受話器を取ったのは、ひどく横柄なもの言いをする職員。
彼は開口一番、明らかに、私を門前払いしようとして、事務的な口調で言った。
「あ、それね、今日は注文できないから、明日、平日にまたかけ直して」

はあ!?
私は心の中で怒りを覚えた。
休館日でもないのに、明日かけ直せって、どういうこと?
(その時、今日が祝日であることは私の念頭から消え去っていた。)
まだ一つの質問もしていないのに、かけ直せって、どういうこと?

私は怒りをかみ殺して、職員に質問を重ねた。
「あのー、私は注文をしたいのではなくて、問い合わせのために電話をかけているだけなんですけど…」
「あ、そう、じゃあ、どうぞ」
悪びれる様子もなく、職員はぞんざいに返事を続けた。

それは時間の経つごとに、苛立ちの増す会話だった。
何を聞いても、曖昧な回答ばかり。
判で押したように、基本的なことしか言わない。
説明が他館で聞いた内容と食い違う。
明らかに、その職員が電話応対を面倒だと思っている様子が声を通じて伝わって来る。

親切心のかけらもない応対に、私は電話の間中、心底、業を煮やしていた。
また、結局、私が利用しようとしていたサービスは有料であることが判明した。
そこで、それを利用するならば、大がかりな出費が余分に発生することが分かり、
私は今までの計画をあきらめざるを得なくなった。

その時の私の落ち込みようといったら、限りなかった。

かろうじて、職員にクレームはつけずに済んだが、私は憤りのあまり、
かなり語気を荒げて会話を終え、投げ捨てるように受話器を置いた。
失望が大きすぎたため、電話後も、しばらくの間、胃がキリキリと痛んだほどだった。

だが、しばらくして、心が落ち着いてきて、私は思い至った。
おかしいのは、職員の対応ではなく、私の方だと!
(もちろん、市立図書館員として、彼の応対が、非常にまずかったことは事実である。
私がここで述べているのは信仰による見方である。)

私は自分の反応が、自分でも驚くほどに感情に流されていたことに気づいた。
まるでパブロフの犬のように、私は職員の物言いに、ただ肉的に反射しただけだった。
私は、神の御前に、深く、うなだれなければならなかった…。

昨日、一切の不平不満を捨てると、あれほど決意したのに、それはどうなったのだ?
不平不満は、全ての物事に主の最善の采配を見ることと正反対の行動であるから、
そのようなものは捨て去るべきだと、あれほど思ったのに、
なぜ、今日はそのことを思い出しもしなかったのか?

それどころか、思い返すと、私はその電話の間中、完全に神の御心を忘れ切っていた。
たった一瞬たりとも、主が私をどう見ておられるか、考えもしなかったのだ。
これは、何かがおかしい、と私は思った。
ただ私が利己的な反応を返したということに終わらない、恐ろしいほどの冷静さの欠けがそこにあった。

そのようなことは、御霊に導かれて生きるようになってから、一度も起こったことはなかった。
完全に、主を忘れ去っていたなんて!?
完全に、肉だけで反応するなんて!?

もちろん、御霊に導かれて生きるようになってからも、私には色々な失敗があったわけで、
ここには書かなかったが、私の魂や肉が先走りしてしまうことは往々にしてあった。
それでも、そんな中でも、常にどこかで、御霊の声を聞いてはいたのだ。

だから、私には、我を忘れるほど激怒することはなくなり、絶望することもなくなっていた。
どんな混乱の最中にあっても、いつでも、不思議な落ち着きが心の底にあった。
(「御霊の思いはいのちと平安である。」)

ところが、今日、ある一定時間、私は、まるで神を全く知らない人間に逆戻りしたかのように、
魂と肉100%の反応を返していた…。
自分でも気づかない間に、私は御霊によるコントロールの完全な埒外へ出ていた。
無意識のうちに、内なる人のコントロールを完全に失っていた。
なぜ、そのようなことが起きたのか?
なぜ、私はある時間帯、御霊の平安を完全に失ったのか?

考えていくと、音楽という原因の他、思い浮かべられるものはなかった。
楽曲の演奏の際のあの高揚感、陶酔感、歓喜、それらがいつの間にか、私を完全に魂と肉体だけの領域へと連れ出し、私の魂と肉体の感覚を異常なほどに鋭く研ぎ澄まし、その研ぎ澄まされ(すぎ)た感覚を維持したまま、私は電話をかけて、職員の対応を聞いたのだ。

音楽が私の心を全開にし、私を魂の領域へと連れ去った。
私はそれが純粋に霊的な感動だと思っていたが、そうではなかったのだ!
音楽を聴いて、喜びに浸っていた間は、それで良かったかも知れないが、
そのままの調子で、私は魂が全開になったまま、不快な会話の中に、突入して行った。
それはちょうど、静かな音楽を楽しんで聴いていた人が、突然、何の断りもなく、
最大のボリュームで、いきなり、ヘビメタやロックを聞かされるようなものだ。

職員の言ったことが、心を開きすぎていた私には、200%くらいの衝撃となって及んだ。
私はその印象に圧倒されてしまった。
魂と肉体の過剰反応が私の外なる人を圧倒し、御霊の声を聞けるだけの余地は、もはや私には残されていなかった。外なる人がビジー状態になったため、内なる人には全く居場所が与えられなかった。

私が信仰的な音楽だと思ったものは、魂と肉体の過剰反応を引き起こしていた!
霊的な感動だと思っていたものの中に、魂の過剰な活動を引き起こすものがあった!
そのことに気づいてから、私は今更のように、音楽に含まれている「魂的なもの」に、強い警戒心と恐れを抱かずにいられなかった。
以前から、音楽の危険性については、記事の中で幾度か触れて来たのだが、その頃はまだ、私には魂と霊との区別を通してその危険を理解する能力がなかった。
だが、今や、私は、音楽を含めて、クリスチャンを内なる霊から、いつの間にか、魂の領域へと引きずり出すあらゆる外的刺激(それは見かけはとても快いものとしてやって来る)を警戒せずにいられない!

もちろん、外的刺激を楽しむことを全て一概に悪だと決めつけたいわけではない。
(そのようなものを全て排除するためには、私たちはこの世を去らなければならない。)
私たちが警戒すべきものは、気づかないうちに、私たちの心を極めて無防備にしてしまう感奮、私たちを御心から引き離してしまう、魂と霊の混ざりものである。
極めて崇高で宗教的な形式や、霊的な風を装って、私たちの魂に巧みに働きかけてくる、かの者からの影響力である。

主よ、私をあわれんで下さい、欺きは予想を超えて深いのです!
何と私は外からの影響に弱い人間なのでしょう!
何が魂であり、何が霊であるか、私はもっとはっきりと知らねばならないのです!

霊の人が直面する危険

「神の言葉は生きていて、活動しており、どんな両刃の剣よりも鋭く、
魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して、
心の思いと意図を素早く識別します。」(ヘブル4:12、改訂訳)

 今までの流れから見ると、急に話が飛躍してしまうが、ある必要性から、この記事をぜひとも書かせていただきたい。

 すでに幾度も書いてきたように、多くのクリスチャンは、御子イエスを救い主として信じた時から、内側に聖霊をいただいているが、依然として、自己が強く働いているため、御霊の働きを妨げ、実を結ぶことができないでいる。そこで、私たちは御霊によって訓練を受け、また啓示を受けることにより、自己を否み、自己に死ぬということを経験し、外なる人の固い殻から解放され、外なる人と内なる人が真に一体化した霊的な人へと変わらなければならない。

 しかし、ここに第二、第三の重大な危険性が潜んでいることについて述べたい。私たちはどのようにして自己を否むのだろうか? どのようにして自己から脱却するのだろうか? 自分の努力で? 環境を変え、心機一転することによって? 催眠療法によって? カウンセリングによって? 旅行に出ることによって? …そんなことはまず不可能である。外的影響力によって、私たちは少しも自己から抜け出ることはできない。それどころか、私たちが外的影響力に自己を解放し、誤った方法で自己から脱却しようとする時、それはかえって、私たち自身を悪霊の影響下へと導き出すものとなるだろう。

 人の魂と霊を切り分け、何が人の自己であって、何が神の霊であるのかをはっきりと指し示すことができるのは、生きて働く神の御言葉だけである。
 私たちは、聖霊の照らしを抜きにしては、何が自分の自己の魂に由来する衝動であり、何が悪霊から来る影響であり、何が神の御霊から来るものであるか、決して識別することはできない。私たちにそれを教えてくれるのは御言葉だけである。他の方法によって、自己を否もうとすることは、私たちを破滅へと導く。

 私たちは御霊に導かれる「霊の人」となる必要があるが、同時に、御霊以外の霊から影響を受けてしまうことに警戒しなければならない。全ての霊が神から来たわけではなく、サタンに支配されるこの世には、諸霊と呼ばれる邪霊や悪鬼がおびただしく働いている。そのようなものに影響される危険性にさらされているのは、スピリチュアル・カウンセリングや、ニューエイジや、占いや、オカルトにのめりこんでいる人々だけではない。また、巨大集会や、クルセード、個人預言集会などに駆けつけて、やたらと超自然的な現象の現わればかりを追い求めている聖霊派の熱狂的な信者だけが、悪霊の攻撃対象となっていると思うのは間違いである。

 私たちは、自らを「霊的な人」であると自称し、「私は自己を否んでいる」と自称する、随分と経験を積んだ、高度な段階にいるように見えるクリスチャンでさえも、キリストを証する霊ではない霊によって欺かれてしまう危険性があることによくよく注意する必要がある。

 もしも私たちが、生きて働く御言葉を通して、霊を識別する力をいただかなければ、私たちは自称「霊的な」人々にすぐにも欺かれてしまうだろう。誰でもちょっと観察すれば、すぐにでも、御霊に導かれているのではないと見抜けるような、キリスト教界でスキャンダルを起こし続けている有名指導者たちは、さほど大きな問題ではない。それよりも、私たちが本当に注意し、警戒すべきなのは、外なる人が一旦、砕かれ、御霊に従って生きる人になったクリスチャンでさえも、その後で、警戒を怠るならば、知らず知らずのうちに、各種の欺きや誘惑にさらされて、神の霊を封じ込め、神から来たのではない霊の影響下に陥ってしまう危険性があるということである。いや、一旦、霊的な人になった信者であるからこそ、全く霊的な方面に関して閉ざされている信者よりも、より一層、偽りの霊からの攻撃を受けやすくなっているのだということを知らなければならない。

 以下は、ジェシー・ペン=ルイス夫人著「魂と霊」第五章「霊的なクリスチャン」の中から、「霊の人が直面する危険」の抜粋。
 
* * *

 真に「霊的」になった信者、すなわち霊によって魂と体を治めている信者は、その時、戦いの領域から出たわけではありません。むしろ、エペソ人への手紙6章10~18節に記されているように、いっそう微妙な戦いの段階に入ったのです。エペソ人への手紙2章6節では、その人は「キリストと共に天上に座らされて」いると言われています。しかし後の方では、彼が「高きところ」にいる悪霊の軍勢と「格闘」している様子が描かれています。彼は特に、悪魔の「策略」に立ち向かわなければなりません。

 これからわかるように、戦いの中にある霊的な信者は、おもに霊の敵の巧妙な霊的策略に対して警戒しなければならないのです。敵は彼を、ガラテヤ人への手紙5章17節で描写されている肉と霊の戦いよりも、霊の領域に関する事柄に巻き込もうとしています。

 戦いのこの局面における暗闇の軍勢の策略は、霊の人を霊にしたがってではなく、ある程度魂にしたがって歩ませること、すなわち、神の聖霊と協力している霊によってではなく、感覚領域の中にある事柄によって歩ませることに、おもに向けられています。

 サタンの欺く霊どもは、人の霊の偽物を魂の領域に造り上げることができます霊的な信者はこのことを理解しなければなりません。これは重要です。欺く霊どもは、策略を用いて外なる人に接触することにより、次に霊からではない動きをその人の中に生じさせることにより、これを行います。このような動きは霊的に見えるかもしれませんが、いったん主導権を握ると、真の霊の動きを封じ、圧倒するほど強くなります。もし信者がこのような敵の戦略を知らないなら、たやすく真の霊の動きを棄ててしまうでしょう。彼は、「霊にしたがって歩んでいる」つもりなのですが、霊的な感覚の偽物にしたがっているのです

 真の霊の動きがやむ時、「神は今、新しくされた思いを通して導いています」と悪霊どもはほのめかすかもしれません。これは、彼らの偽りの働きと、人が霊を用いていないことを隠すためのたくらみです。それと同時に偽りの光が思いを照らし、続いて偽りの推論や判断などが生じます。その人は、「自分は神からの光を持っている」と思います。なぜなら彼は、自分が「霊にしたがって歩く」ことをやめてしまったこと、そして今、天然的な思いにしたがって歩んでいることに、気づいていないからです。

 霊の人が直面するもう一つの危険は、彼を肉(体)にしたがって歩ませようとする、サタンの欺く霊どもの巧妙なたくらみにあります。欺く霊どもは、人が「霊的」だと思う感覚を体の中に生じさせることにより、「自分はなおも霊にしたがって歩んでいる」という確信の下で、人を肉にしたがって歩ませようとします

これらの策略を打ち破るには、超自然的事柄を知覚するすべての肉体感覚だけでなく、通常の事柄を知覚する過度の肉体感覚をも拒まなければならないことを、信者は理解しなければなりません。なぜなら両方とも、思いを「霊にしたがって歩むこと」から逸らし、肉体的な感覚に向かわせるからです。

過度の肉体感覚は、絶えず精神を集中する妨げでもあります。敵は、霊的な信者の「肉体感覚」を「攻撃」することによって、精神の集中を乱し、霊を覆おうとします。ですから、体は平静に保たれなければなりませんし、完全な統制の下に置かれなければなりません。この理由により、過度の笑いや、精神と霊を支配するまでに肉体のいのちを高揚させるすべての「衝動的行動」は、避けなければなりません。「霊的」になって、神のいのちの中で「成熟」することを願う信者は、万事について、行き過ぎ、無節制、極端を避けなければなりません。(コリント人への第一の手紙9章25~27節参照)

 人の肉体的部分が支配し、体に感じる超自然的経験を誤解することから、体は霊の働きをさせられ、真の霊の動きを抑圧する最高の地位に無理矢理着かせられます。このような状況の下、は圧迫を感じ、葛藤を感じます。こうして、精神と霊のかわりに、体が「感覚」になります。信者は、真の霊の感覚を識別することを学ばなければなりませんし、それを見分ける方法を知らなければなりません。霊の感覚は、感情的(魂的)な感覚や肉体的な感覚ではありません。(マルコによる福音書8章12節、ヨハネによる福音書13章21節、使徒の働き18章5節などを参照)*

(筆者コメント:
 敵は信者の中に、偽物の「霊的感覚」を作り出します。それは御霊から来たのでなく、信者自身の魂から来るさまよう思いと、感覚(五感)に頼った刺激なのですが、信者はそれが「偽物の霊的感覚」であることに気づかず、それらが神から来たものであると思ってしまう場合があります。
 また、敵は信者に、五感に頼った外的刺激を霊的感覚であると取り違えさせることがあります。あまりにも五感から来る刺激が素晴らしく、快楽的である場合、信者の魂は、それに病み付きになり、自分が外的刺激のとりこにされていることにも気づかずに、むしろ、それが神の恵みであり、自然な生き方であると取り違えさえするのです。このようにして、自分を楽しませる刺激に過度に(もしくはひっきりなしに)身を委ねることを、私たちは警戒しなければなりません。)

 無知のゆえに、信者の多くは、「霊にしたがって歩んでいる」と感じながら、「魂にしたがって」、すなわち思いや感情にしたがって歩んでいます。信者は活気に満ちた霊の力を奪われています。悪魔の軍勢は、あらゆる策略を用いて信者をおびき寄せ、魂や体によって生きさせようとします。悪魔の軍勢は、閃く幻を心に見せたり、祈りの間思いに出現したり、強烈な喜びや生命の躍動感を体に与えます

(筆者コメント:
キリスト教界で頻繁に、神の名を語って与えられる幻や、祈りの時に信者に与えられる思いや、個人預言などが偽りである危険性がまことに高いことについては、再三、このブログでも触れてきました。それらは全て直ちに信ずるに値するものではなく、御言葉を通して吟味、識別しなければならないものであることには何度も触れました。しかし、ここで注意が必要なのは、別のことです。たとえば、強烈な喜びや、生命の躍動感などといった、一見、宗教とは何の関係もないところで起こる、極めて自然に思われるような感覚でさえ、敵からの欺きの感覚として信者に与えられる場合があることに、改めて注意してください。敵の狙いは、物質界から来る刺激を、私たちに唯一のリアリティとして信じ込ませて、真のリアリティである神の霊の領域から目を逸らさせることです、物質に目を向けさせて、御霊を見失わせることなのです。)


 外から与えられる超自然的事柄や、感覚領域の経験に頼ることは、内側の霊のいのちを妨げます感覚による「経験」というエサによって、霊の真の領域に生きるかわりに、体の外側の領域に生きるよう、その信者はおびき寄せられますその時彼は、自分の中心から行動することをやめ、自分の周辺領域で外側の超自然的働きに捕らえられ、無意識のうちに内側で神と協力することをやめます。そして、霊の敵と戦う聖霊の器官である彼の霊は、機能停止に陥り、黙殺されてしまいます。なぜなら、その信者は感覚的な経験で満たされているからです。その結果、霊は事実上、導く働きをやめ、奉仕や戦いの力を与える働きをやめます。

 聖霊と協力せずに働く人の霊から、深刻な危険が生じます。霊が魂から「切り離され」、支配的になる時、それは全く違った方法で欺く霊どもの影響を受けるようになります。前に示したどれかの方法により、あるいは他の方法により、(無意識のうちに)聖霊と協力することをやめてしまった人を考えましょう。

彼はなおも自分の霊によって導かれています。彼は、「自分の力強い霊は神の力の証拠である」と考えます。なぜなら、他の方面で聖霊が自分を用いて魂を勝ち取られるのを、彼は見るからです。このような幻想の下、彼の霊の中に怒りが込み上げてくるかもしれません。彼は、その怒りはまったく神からのものであると考えて、怒りをぶちまけます。しかし、真の識別力を持つ他の人々は、明らかに神からではない荒々しい調子に気づきます。

(筆者のコメント:
 欺く霊からの影響が、怒りの爆発や、過度な落ち込み、悲嘆など、あからさまにネガティヴな感情となって現れる場合は、周囲にいる人々は、その人が神の霊でないものに影響され、異常事態に陥ったことに比較的簡単に気づくでしょう。しかし、それが、普段より少しばかり大目の陽気さ、かなりの活発さ、多大な喜び、子供のような無邪気さ、歓喜や興奮、楽観、有頂天、自己愛、御霊に基づかない予知能力や、各種の霊的な洞察力となって現れた場合、そのようなものが、悪魔的起源を持つものだと、すぐに人々が見抜くことは困難です。なぜなら、それはすぐにその人や周囲に破滅的影響を及ぼすわけではないからです。しかし、このような影響は必ず、その本人を徐々に、そして最終的に破滅へと導いていきます。)


祈る人が警戒していなければ、語る時だけでなく、戦いの時にも、このようなことがすぐに起きるでしょう。悪魔的な力は、直接的に、または魂的な感情を通して、霊に影響を及ぼします。

 悪霊は人自身の中の神の働きを真似します人が聖霊と協力していない時、彼の霊は悪霊の影響を受けます。神と共に歩むことを求める信者は、この影響を理解し、見抜く必要があります。彼は霊的だからこそ、彼の「霊」は霊の領域の二つの力に対して開かれているのです。彼はこのことを知る必要があります。

もし「聖霊だけが霊の領域の中で自分に影響を及ぼすことができる」と考えるなら、彼は確実に誤りに導かれるでしょう。もしそうだとしたら、彼は絶対に間違いを犯さなくなるはずです。しかし彼は、目をさまして祈り、神の真の働きを偽物から区別するために、理解力の照らしを求める必要があります

(筆者のコメント:
キリストはカルバリーで勝利を取られ、天に昇り、御座につかれましたが、私たちはまだこの時空間に残されて、神とこの世の両方の陣営から引っ張られ、両方の影響を受けながら、神のために戦うことを要求されています。私たちはおびただしい敵に包囲されています。そこで真に勝利するためには、私たちは霊的に目を覚ましていなければなりません。それがなければ、私たちは敗北するでしょう。目を覚ましているとは、敵の働きが深く強力であり、自分では太刀打ちできないことを知り、決して、自惚れや、増長や、霊的怠慢、平和ボケに陥ることなく、絶え間なく、イエスの十字架の死と復活と昇天の力を自分のものとして受け取り、神の武具によって武装し、敵の欺きを看破し、来るべき試みに対して警戒していなければならないということです。)

 「霊的」な信者は、エペソ人への手紙第6章に記されている天的戦いの啓示を、深く熟慮しなければなりません。そして、「神のすべての武具」の経験的な意味を完全に知るよう努めなければなりません。敵の猛攻の「邪悪な日」に際して、彼は神のすべての武具を「取り」、用いなければなりません。

 この現在の時における神の霊の負担は、キリストの体の肢体を完成させること、完全に成熟させることです。それは、彼の再来が速やかに起こり、キリストとその共同の相続人たちの千年間の統治がもたらされるためです。こうして、世界は平和になり、サタンは敗北します。サタンは穴に投げ込まれ、この世の王国は主とそのキリストの王国になります。

 「主イエスよ、速やかに来てください。アーメン」

(筆者のコメント:
 言葉を変えるならば、千年王国が来るまで、戦いは少しも終わってはいないのです。それにも関わらず、キリストの勝利だけを指して、戦いはすでに終わっているので、クリスチャンは警戒する必要もないと思ったり、敵を何らかの団体や組織だけに限定して、それに近づきさえしなければ、自分は守られていると浅はかに考えようとすることは、私たちを敗北へと導くでしょう。
 私たちはこの世の影響に絶えずさらされており、この世は私たちを絶えず魂と肉に従って歩ませようとします。この世から来る全ての影響が、私たちの注意を御霊から逸らせます。しかし、私たちはキリストの身体をさらなる完成、成熟へともたらすために、絶え間なくこの世を拒み、私たちを滅びゆくこの世の影響力、外的刺激、魂の衝動に服従させようとする、敵のあらゆる策略を打ち砕き、それに勝利し、暗闇を駆逐しながら、御霊の照らしを受けて、まことの命である復活のキリストだけを選択し、前進していかなければならないのです。すべての命と勝利は(サタンの敗北でさえ)キリストの中に含まれており、キリストは完全な勝利を取られたのですが、しかし、この時代にあって、この時空間の中で、私たちが真実、それを受け取るためには、私たち自身がキリストの勝利をこの地に現実にもたらし、暗闇に支配される世に光をもたらす必要があるのです。それには、私たちが目を覚まして、敵の策略に一つ一つ打ち勝つことが不可欠なのです。


 どうか御霊の光によって、私たちが、神の霊ではないものを識別し、それらを看破して退け、私たちを、魂と、肉へと引き戻し、感覚に従って歩ませようとする全ての偽りの影響から抜け出すことができますように!)


荒野を生きる

命が測られるのは、得ることによるのではなく、失うことによる;
どれだけぶどう酒を飲んだかによるのではなく、どれだけぶどう酒を注ぎ出したかによる;
なぜなら愛の最大の力は、愛の中で犠牲にすることであり、
最も深く苦しみを受けた人が、最も多く与えるものを持っているからである。
           
自らを最も苛酷に取り扱う人が、最も神のために選択することが容易であり;
自らを最も傷つける者が、人の涙を最も拭うことができ;
損失と剥奪に慣れていない人は、鳴り響く鐘や騒がしいシンバルであるにすぎない;
自らを救うことのできる人は、すべてに勝る喜びを持つことがない。
                              ウォッチマン・ニー


 (上記の文章はウィットネス・リーに関する記述を含むサイト「今の時代における神聖な啓示の先見者ウォッチマン・ニー」からの引用です。著作権の関係上、このサイトを記述しましたが、私とこのサイトを記述した団体との間につながりはありません。)

 上記のニー兄弟の言葉は、クリスチャンに対する自虐の勧めではありません。今日、クリスチャンでなくとも、自分のために自分を傷つけ、自分のために自分を過酷に取り扱い、あるいは、誰か親しい人や、指導者や、特定の組織や団体のために自分を進んで苦しめ、進んで損失と剥奪に耐えようとする人たちは沢山います。

 ある人はトラウマのために、自傷行為にふけり、ある人は「正義」のためにカルト団体の圧制に耐えます。しかし、それらの苦しみと損失は、すべて、滅びゆく肉のために、朽ちゆく魂のために支払われた代償であり、朽ちゆく地上の富のために支払われた損失であるために、永遠の朽ちない宝に還元されることは決してありません。
 上記の文章は、そのようにして、肉なる者が、肉なる者のために進んで苦しみに耐えるという、人間の自虐的、または自己犠牲的な生き方を奨励するために書かれたものではありません。

 私たちが自分の命を失い、損失と剥奪に耐える価値があるとすれば、それはただ一つの場合だけです、つまり、それが自分や誰かという生まれながらの人間を救うために支払われる代価ではなく、ただ見えない世界に永遠に存在する神への愛のために支払われる代償である場合です。

 私たちは朽ちる世界に富を積み上げるのでなく、朽ちない世界に富を蓄えるために召し出されています。地上ではなく、天に宝を積むように召し出された者がクリスチャンです。しかし、私たちは何と多くの捨てられない宝を地上に持っていることでしょう。何と多くの地上的な富が私たちの視界をさえぎり、この地上とは別に永遠の世界があることを見えなくさせていることでしょう。

 人間の魂が朽ちゆくものであり、腐敗した旧創造、肉なるものに属していることを一度も知らされたことのないクリスチャンたちは、それとは別に、キリストの復活の命に属する霊的な世界があることを知らないがために、魂から発する愛情を賛美します。人間の魂の世界においては、肉親への愛情は、恐らく、最高の価値を持つ愛情としてたたえられていることでしょう。あらゆる詩が、文学が、人間の人間への愛や犠牲を誉めたたえます。しかし、聖書は、それよりもはるかに高い愛、いや、魂と肉の愛には対立する、それとは次元の異なる愛があることを教えています。それが、神の愛です。

 神の愛は、肉なるもののあらゆるつながりを越えて、上位(至高)に存在するものであり、魂から来る愛を完全に焼き尽くしてなお永遠に残る最高の価値です。神の愛の前には、人間の魂と肉から発する愛情、すなわち、この世的な愛情は、不純物にしかならず、忌まわしいものとして拒絶され、価値あるものとして残ることは決してありません。

 このことを言うと、きっと多くの反対があるでしょう。禁欲主義だと誤解する人々も現れるでしょう。私が世的な愛と楽しみを酷評する度に、どれほど多くの反対がやって来るでしょうか。確かに、神は大いなる憐れみを施して、クリスチャンのために、日々の糧を備えてくださいます。私たちは主にあって、この世に生きることを楽しんでいますし、恵みを享受しています。人間である私たちはこの世で命を存続させることなくして、地上で生きていけません。毎日与えられる食べ物は私たちにとって欠かせない満足であり、家族の愛は慰めであり、この世界の美は、あらゆる場面で私たちを楽しませます。

 しかし、クリスチャンは知っているのです、それらの地上的な愛と満足と楽しみが、根本的には、神の愛と対立するものであり、決して永久に続くことのない、一時的なものでしかなく、滅びゆく性質を帯びたものであることを。

 御霊によって生まれた者は、そのような満足をどこかで厭わしく思っています、決して、呪われた死の身体が毎日のように貪欲に要求する活動によって、本当に満足させられることはありません。クリスチャンは、朽ちることのない、揺るぎない価値によって生きることを真剣に追い求めています、目には見えないが、目に見えるもの以上のリアリティを持ったお方の中で生かされることを求めています、私はありてある、と言われる方の命につらなって生きることを求めています、そして、それはただ、人となって地上に来られたキリストの復活の命を受けることによって、私たちが永遠に導きいれられることを通してのみ、成り立つものであることを知っています。

 金持ちが天国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいと、イエスは言われました。キリストの復活の命に至る小さな狭い門を私たちがくぐりぬけようとする時、私たちの肥大した自己がつっかえ棒になります。私たちが両手に抱えきれないほどぶらさげている財産(世の楽しみへの執着)が邪魔になります。肉親への愛が障害になります。

 ここで、私たちが人知を振り絞って企画した各種の宗教活動さえも邪魔になると言えば、多くの人たちが首をかしげるでしょう。しかし、言わねばなりません、私たちが心から神を愛し、賛美していると自分で思っている時でさえ、私たちのほとんどは、ただ自分の魂の善意を働かせ、自分の肉と魂を喜ばせることをひたすら追い求めているだけであることをもっと知るべきであると。

 多くの人々は、自分が信仰心だと思っているものが、実は魂のエネルギーから出た活動であり、人間の所有欲、自己顕示欲など、各種の欲望と密接に結びついて生まれたものであることを知りません。
 神のため、という名目で、今日、あらゆる教会で終わりなく行われる興行的なイベントは、一体、誰のために催されているのでしょう。美しい賛美歌は、誰のために歌われているのでしょう。私たちは根本的に勘違いしているのです、霊的な礼拝の本質が、人間の魂の活動の中にはない、ということを知らないのです、そして、自分たちが、肉体に鞭打って、魂の力を極限まで働かせて、宗教的な名前を冠したイベント活動にひっきりなしにいそしみ、絶え間なく刺激を受けて、何らかの活動を成功に導き、自分と人々を喜ばせることが、同時に、神を喜ばせることにつながり、霊的な礼拝になりうると勘違いしているのです。

 私たちは「主のために」、知恵を振り絞って、善良な計画表を練ります、今まで以上の素晴らしいメッセージや賛美歌をもひねり出します、今日の成功で満足せず、明日は神のためにどんなに内容の充実した催しを企画しようかと、終わりのないスケジュールを思い巡らし、兄弟姉妹たちを集会に招いてどう助けるべきか考え、彼らに教えています。集会が大きくても小さくても、私たちは自分をとても信仰的だと思って満足し、自分の善良な計画表にうっとりしています。とんでもありません! そんなものはもう沢山です! 

 それは片時も鳴り止まない、迷惑でうるさい鐘、騒がしいシンバルと全く同じです。私たちは自分の出番を決して失いたくないがために、指揮者も、楽譜も、音楽全体を無視してまでも、自分のシンバルをひっきりなしに叩き続けている迷惑な奏者と同じなのです。
 
 今日、神が私たちに望んでおられるのは、そんなむなしい活動ではありません。むしろ、私たちが自分のシンバルをさっさと捨て去ることを、恐らく、神は望んでおられるのではないでしょうか。私たちが自分の血と汗と涙(または魂から来る衝動と喜びと満足)によって練り上げたその愚かしい自己満足的な計画表を捨て去って、自分自身の力で神を喜ばせようとすることに絶望して、肉と魂にとって、まさに無一文の状態に戻り、御霊だけがすべてを始められるように、ただ制止して待つことを、神は願っておられるのではないでしょうか。私たちが自分の出番を作りたいと願う心さえ放棄し、肉と魂によって捧げるカインの礼拝を捨て去り、霊によって捧げられるまことの礼拝とは何かを、真に見ることこそ、神は私たちに願っておられるのではないでしょうか。

 人間がひっきりなしに人知によって考え出す礼拝は、人間の善意と活動意欲を満たすことはあったとしても、神と喜ばせる礼拝にはなり得ません。霊とまこととによって捧げられる礼拝とは一体何なのかを、私たちはもっと知る必要があるでしょう。

 朽ちない霊の世界には、霊なるものしか持っていくことはできません。それなのに、私たちはそこに至るまでに、当然のごとく焼き尽くされていなければならないあれやこれやの財産を、どうしても手放したくなくて、手を鋤にかけてから、後ろを振り向いているのです。そんな私たちにとっては、天国に至ることは、まさに針の穴をくぐるように困難であることでしょう!

 神は今日、御子イエスがそうされたのと同じように、見えない神の御心のために、見える世界を犠牲として喜んで捧げ、手放すことを知っているクリスチャンを求めておられるのではないかと私は思います。自分を喜ばせ、楽しませる手段に事欠かない、物質界のオアシスのような時代にあって、神が私たちに求めておられるのは、荒野を生きること、オアシスを荒野のように生きること、すなわち、肉と魂に果てしなく絶望し、その腐敗した活動を放棄して、自分を喜ばせるために生きることをやめて、自己に死んで、ただ朽ちないまことの命だけによって生かされることを学んだクリスチャン、キリストの十字架を通して、肉と魂に死に、日々それを拒否して、御霊によってのみ生かされることを学んだクリスチャンこそが求められているのではないでしょうか。

 人生が荒野のようにつらく厳しい時には、私たちは否応なしに神の懲らしめの学課を学びますが、人生がオアシスのように豊かな時に、その学課を自ら学べる人はほとんどいないのです。願わくば、神が私たちに知恵を与えて下さり、私たちが、物質世界の豊かさが、霊的世界の豊かさからどれほどかけ離れているかをはっきりと知ることができ、魂の活動に絶望して、ただ御霊だけによって、真のリアリティであるまことの命を生きるために、必要な学課を学び取ることができますように。