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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

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我弱くとも恐れはあらじ

「『子を産まなかったうまずめよ、歌え。
 産みの苦しみをしなかった者よ、
 声を放って歌いよばわれ。
 夫のない者の子は、
 とついだ者の子よりも多い』と主は言われる。」(イザヤ54:1)

 私は最近、既存の教会で培った礼拝や信仰のスタイルからますます離れつつあるように思います。信仰に関する制限がますますとりはらわれて行っているのです。ある人はそれを見て、これは危険だ、我流の信仰の始まりだ、潔癖症の始まりだ、禁欲主義だ、既存の教会で受けた根深いトラウマが、それを思い出させるあらゆるものに対する拒否反応を呼び起こしているのだ、きっとそのうちに何か自己流の神秘主義のようなものへ堕ちて行くに違いない、と危険を感じるかもしれません。しかしそう判断するのは、もうちょっと待っていただきたいのです。

 それはまず、下で述べたように、私が記憶している賛美歌の大整理から始まりました。
 既存の教会で習い、私の血肉となったような現代音楽の讃美歌がいくつもあります。中には、美しいメロディのものもありますし、奏楽をしているうちに脳裏に焼きついて、忘れられなくなったものもあります。かなり長い間、私は教会の奏楽に携わりましたので、当然のごとく、それらの歌は私の血肉になっていきました。ひらめきの感じられる、かなり気に入った曲、叙情的な曲もありました。しかし、それらの高揚感溢れる美しい賛美歌に、どういうわけか、私は年を追うごとにだんだん馴染めなくなってきたのです。

 私の賛美歌の好みは、飾り気のない単純素朴なものへと帰って行きます。私自身の心が、自分の血肉になるほどにまで慣れ親しんだ各種の讃美歌から、どういうわけか、離れて行くのです。

 今、私の頭に残っているのは、祖父が亡くなった時に、幼い姉妹たちと共に葬儀で歌った『主我を愛す』です。あまりにも単純な飾り気のないメロディと和音には、現代流行の音楽のように、興奮を煽る要素は何もありません。音楽としてはあまりにも素朴で、やや退屈なほどです。

 主我を愛す、主は強ければ 我弱くとも 恐れはあらじ
 我が主イエス 我が主イエス 我が主イエス 我を愛す

 我が罪のため 栄えを捨てて
 天より降り 十字架につけり

 御国の門を 開きて我を
 招き給えり 勇みて昇らん

 我が君イエスよ 我を清めて
 良き働きを なさしめ給え
 我が主イエス 我が主イエス 我が主イエス 我を愛す

 この単純な歌詞、感動からは程遠いような単純な旋律を声に出さずに歌っているうちに、えもいわれぬ感動が内から沸き起こるのです。まるで獄中で、絶望の只中にありながら、ただ一人きりで、全身全霊をこめて歌っているかのようです。我が主イエス、我を愛す、この絶対的な関係の中には、いかなる他人も入り込むことはできません。四面楚歌の状況にあっても、ただ主と差し向かいで、私はこの歌を歌うのです。私の奥深いところから、その歌は生まれて来ます。

 次に、祈りが変わりました。既存の教会に通っていた頃、特に子供の頃のことですが、日曜学校などで、人前で祈らされる瞬間が嫌で嫌でたまらなかったことを覚えています。しかつめらしい、もっともらしい祈りの文句を頭の中で考えて、心にもない感謝の言葉を並べなければならないのが苦痛だったのです。

 けれども、今は、そんな形式的な祈りを一切しなくなりました。一人ぼっちで祈るのですが、声に出してつぶやくことさえほとんどありません。しかしながら、それは祈らなくなったということではなくて、生きている毎瞬が、祈りに変わったことを意味しています。今の私の祈りは、自分の魂を注ぎ出す、うめきに近いものです。ですから、言葉に直すとそれがどうなるのか、自分でもよく分かりません。ある人は、私に向かって「あなたはこのように祈ったらよいのです」と教えるのですが、私にはそれが受け入れられません。いや、いかなる形式も受け入れられません。主との二人きりの時間は、人には明かせないのです。

 今は、祈りとは、四面楚歌の状況にあっても、ただひたすら、うめきながら、泣きながら、神に助けを求め、罪を告白し、勝利を宣言し、来るべき出来事を知らせて下さいと頼むことへと変わりました。神への愛を静かに告白し、喜びに満たされることも自然に起こるようになりました。とりなしの祈りもあります。けれども、どのような順番で何を祈っているのか、自分でもよく分かっていません。それは全て密室の祈りであり、神と私だけの秘密であり、そこにはどんな形式も、入り込む余地はありません。

 礼拝も変わりました。毎瞬が祈りになったので、神を賛美することもそこに含まれるようになりました。ですから、礼拝という特別な時間を持たなくなりました。歌も特に歌わなくなりました。それで不自由を感じることもなくなったのです。

 今の私はちょうどサムエル記上の冒頭に登場するハンナのようです。ハンナはあまりにも深く嘆き悲しんでいたので、主の神殿を訪れても、まともに礼拝することができませんでした。楽しい歌も歌えませんでしたし、もっともらしい祈りを捧げることもできませんでした。ハンナの態度があまりにも常軌を逸していたので、エリは彼女が酔っ払っているのだとさえ誤解しました。しかし、ハンナは、愚痴のように、積もる憂いと悩みを神に告白することしかできなかったとはいえ、確かに、心のすべてを主の前に注ぎ出していたのです。

 礼拝とは何でしょうか。私たちが喜びと感謝を惜しみなく主に捧げることが礼拝なのでしょうか。
 楽しく主を賛美し、大胆に勝利を宣言し、快い、高揚した気分で、感動しながら、感謝しつつ主と向き合うことが礼拝なのでしょうか。
 必ずしも、そうだとは思いません。

 悲しみと憂いの只中から主に捧げる歌もあります。
 絶望の只中から生まれる涙の歌もあります。
 声にならない声、祈りにならない祈り、歌にならない歌があります。
 とても礼拝という範疇にはおさまらない、霊の切なるうめきがあります。

 主は、私たちが自分の心を偽らず、主に正直に申し上げることをこそ、何より喜ばれるのではないかと私は思います。それが憂いであるにせよ、悲しみであるにせよ、です。私たちが神の御前に格好をつけて、かくあれかしと思う装いを整えて出て行くことは、これ以上、必要ないのではないでしょうか。砕かれた魂を持って主に向き合うこと、それ以上に、神が私たちに求められ、また喜ばれるものはないと思うのです。

 今日の礼拝と呼ばれるものは、ほとんどが、人が人知により礼装を整えて主の御前に出ようとするものであるように私には感じられてなりません。その礼装が、霊によって着せられる服であれば良いのですが、ほとんどは、人が裸の惨めさを覆い隠して、神の御前で、また人前で格好をつけるための、人工的な服装、形式に過ぎないように感じられます。だから、心から悲しんでいる人たちは、教会の中に居場所を見いだせないのです。苦しんでいる人たちは、礼拝の中に居場所を見いだせないのです。そういう人たちに対しては、自己憐憫に溺れている、礼拝に水を差すので気持ちを改めて出直して来いとの非難の言葉がかけられるだけです。

 しかし、神はハンナの正直な告白に耳を傾け、彼女の涙とうめきをかえりみられたのです。神はいつも、自分は強いと自惚れ、自分は正しい心の持ち主であり、主を大胆に礼拝できるから感謝ですと告白する者たちではなく、自らの弱さを知って打ち砕かれた者たち、自分には神を礼拝する資格さえないと感じている者たちの味方なのです。
 主はいつも心砕かれた者を引き上げて下さいます。ハンナがサムエルを得た後に、喜びのうちに主に捧げた歌は、逆説的な勝利を謳ったものでした。
「勇士の弓は折れ、
 弱き者は力を帯びる。
 飽き足りた者は食のために雇われ、
 飢えたものは、もはや飢えることがない。
 うまずめは七人の子を産み、
 多くの子をもつ女は孤独となる。
 主は殺し、また生かし、
 陰府にくだし、また上げられる。
 主は貧しくし、また富ませ、
 低くし、また高くされる。
 貧しい者を、ちりのなかから立ち上がらせ、
 乏しい者を、あくたのなかから引き上げて、
 王侯と共にすわらせ、
 栄誉の位を継がせられる。
 地の柱は主のものであって、
 その柱の上に、世界をすえられたからである。
 主はその聖徒たちの足を守られる、
 しかし悪いものどもは暗黒のうちに滅びる。
 人は力をもって勝つことができないからである。
 主と争うものは粉々に砕かれるであろう<…>」(サムエル記上2:4-10)

 キリストにあっての勝利とはいつもこのようなものです。勇士が与えられた力を感謝し、富める者がその安定した生活を感謝し、子沢山の女が神に感謝を捧げたからとて、何の不思議があるでしょうか。
 かえって、産まず女として軽んじられた女が、子を授かって喜びの声を上げ、貧しく蔑まれていた者たちが王侯のような栄誉を与えられて感謝を捧げ、弱い者たちが強くされて躍り上がる時にこそ、主の栄光が輝くのです。「夫のない者の子は、とついだ者の子よりも多い」、ここにこそ、神の御業の不思議があり、神の憐れみの深さがあり、人間の力によらない、神による逆説的な力の反転があるのです。

 神は常に心砕かれた弱い者たちと共におられます。礼拝とは、私たちが神の御前にまず自分の心を砕かれた状態で進み出ること、弱いままの自分を隠さずに御前にさらけ出すことから始まるのではないでしょうか。そこにはどんな装飾をちりばめた祈りも、高揚感溢れる情緒的な音楽も、大胆な宣言も、叫びも、踊りも、必ずしも必要ではありません。ただ単純素朴な、声にさえならないうめきがあるだけで十分なのです。

 工夫や粋を凝らした装飾を捨てて、ただ弱さだけを携えて静かに主の御前に出ませんか? そうすれば、私たちのその無の中に、弱さの中に、静寂の中に、主は限りなく現れて下さると思うのですが?

 主我を愛す、主は強ければ 我弱くとも 恐れはあらじ
 我が主イエス 我が主イエス 我が主イエス 我を愛す
 
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騒がしい信仰から静寂な信仰へ

 主が今、確かに働いておられる、主は、牧者から打ち捨てられ、教会から捨てられて傷ついた羊のもとを一匹、一匹、訪ねておられる、社会から、家庭から、見捨てられかかったような貧しい人々のところを訪ね、魂の打ち砕かれた人々を神の御前に集めようとなさっておられる…、そのことをまさに実感できるような嬉しい手紙を遠方のクリスチャンからいただきました。
 その方は、金もうけ主義に堕した教会で思い切り傷つけられ、ショックのあまり御言葉を読むことさえできなくなり、一時は、聖書を封印すると宣言されていました。
 しかし、それほどの苦しみを乗り越えてでも、主は、その方を率直に御言葉に立ち戻るよう促されたのでした。それは、その兄弟が主によってどれほど愛され、どれほど主が彼を切に求めておられるかを示す出来事でした。

 彼が主にあっての兄弟であることを私は疑ったことはありませんが、それにしても、兄弟が父なる神の懐に大胆に飛び込み、主によって抱きしめられた瞬間を目にすることができたのは、私にとっても、大きな喜びであり、感動でした。

 ところで、彼は賛美について書いています。
「静寂な信仰をモットーにしています。
 あの、新興宗教(メガチャーチ)のライブ系、ヒップポップ系のノリノリの賛美礼拝というドンチャン騒ぎの大宴会場と化した教会は祈りの家と呼ぶのにふさわしくありません。あれは教会のクリスチャンの士気と結束力を高めるための歌にしか私には聞こえないです。神様に対して真心を込めた賛美ではないと感じます。」

 この言葉をここに引用させていただいたのは、「静寂な信仰」という言葉が、まさに私が求めている信仰のあり方とぴったり一致するからです。私は先日、ある人に向かって断言しました、「今日の教会は騒がしい現代音楽の賛美歌を捨てて、バッハに立ち戻れば良い」と。
 多分、このような意見を聞いた方は、誰でも、気分を害されるでしょう。それはよく分かっています。しかし、あえてこのような極論を述べるのは、現代音楽というものがいかにサタン的なものによって深く汚染され、堕落しているかということを、ひしひしと感じるからなのです。

 このように述べると、早速、「あんたは超保守派だ!」「どうせロックは悪魔の音楽だとか、そういうことを言うつもりなんだろう?」との批判が私に向けられるだろうことは分かっています。現代の化石、空気読めない人、クラシック・アニア、音楽的潔癖症…、まあ、ありとあらゆる非難の言葉が向けられるでしょうね。

 しかし、私にとって、特に、聖霊派の現代流行となっている賛美歌は、皆、人の感情や感覚に訴えかけることばかりが巧みで、肉的高揚感をひたすら煽るための一種の装置となっており、知性の感じられない、芸術性に乏しいものです。それはまるで濁った水溜りのようです。そこには、形式的に完成された美はありませんし、それを目ざそうとの意欲もありません。歌詞も極めて軽薄であり、知性に乏しく、音楽的に計算されつくした形式と美がありません、単調な歌詞と和音の繰り返しは、まるで人を暗示や催眠に陥れようと狙っているかのようです。

 現代音楽そのものがこういう道を辿っているので、非難されるべきは何も聖霊派の賛美歌だけではないのですが、このようなものは本物の音楽ではありません。私たちは水溜りを指して、これが海だと言うことができるでしょうか? インスタントラーメンを指して、これが本場のラーメンだと言うことができるでしょうか?

 特に聖霊派の流行の賛美歌は、どれもこれも、人間の肉を手っ取り早く喜ばせるには都合が良い、インスタント食品のようになってしまっています。手早く空腹を満たそうと思うならば、それは役に立つでしょう。しかし、そこには、沈黙の中で忍耐強く主の訪れを待つという要素は何もありません。静寂の中にこめられた深い感動、完成された形式の中にこめられた美、苦しみの極致から生まれて来る調和、といったものは、何も感じられないのです。言い換えるならば、それらの賛美歌の中には、手っ取り早く、主の素晴らしい臨在を我が物にしようとの欲望が働いており、人間が自分の心を無にして、ただ静寂の中に座し、主に心を明け渡して、忍耐強く、主の訪れを待ち望もうという覚悟が全く感じられないのです。

 とはいえ、私自身も、現代流行の賛美歌の中で育てられてきました。そこで、それらの音楽と私は切り離すことができません。私が曲を作ろうとしても、やはりそのような「くだらない音楽」が出来上がってしまうのです。それは時代の影響です。
 しかしながら、それでもあえて言うならば、今となってはもう、そのような賛美歌の底の浅さ、軽薄さ、無意味さに私は耐えられないのです。それらを「霊的」な賛美として理解することは、私にはもうできません。音楽に合わせて、叫んだり、泣いたり、手を叩いたり、騒いだり、跪いたり、歩き回ったり、そういうパフォーマンスを、霊的衝動であるかのように勘違いしていた時期が私にありましたが、今はもう、そんな外的現象、感覚的な要素は、霊的なものとほとんど関わりがないどころか、むしろ障害物のようにしか見えないのです。

 主の御前では、私たちが肉的衝動に突き動かされて忙しく動き回ることは、主の訪れを邪魔するものにしかなり得ないように思います。まるで片時もじっとしていられない駄々っ子が教室内を忙しく歩き回るように、次から次へと行動に移るのをやめて、自分の内に沸き起こるあらゆる衝動を鎮めて、ただ主にのみまっすぐ心を向けて、静けさのうちに主を待ち望むことが、今、私たちに求められているのではないでしょうか。古典音楽の中には静寂が絶妙な形で織り込まれていますので、それは私たちが主を静かに待ち望むことと矛盾しません。

 教会が偉大な古典の遺産を捨てて、さらには聖歌や新聖歌まで捨てて、どうして軽薄な即席の音楽を選び取らなければならないのか分かりませんが、時代の風潮は確かにその道を行っているようです。知性ではなく、感情や感覚に訴えかける音楽ばかりがますます採用されるようになってきているのです。しかし、私は、キリスト者はこのあたりで最新流行とはきっぱり手を切って、静寂の中に、沈黙の中におられる主に立ち帰った方が良いのではないかと思います。それほどに、現代流行の音楽には何かしらの危険を感じずにはいられません。

神を待ち望め。神は我が助け、私は主を誉め讃えるであろう。

神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、
 わが魂もあなたを慕いあえぐ。
 わが魂はかわいているように神を慕い、
 いける神を慕う。

 いつ、わたしは行って神のみ顔を
 見ることができるだろうか。
 人々がひねもすわたしにむかって
 『おまえの神はどこにいるのか』と言いつづける間は
 わたしの涙は昼も夜もわたしの食物であった。

 わたしはかつて祭を守る多くの人と共に
 群れをなして行き、
 喜びと感謝の歌をもって彼らを神の家に導いた。
 今これらの事を思い起して、
 わが魂をそそぎ出すのである。

 わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。
 何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。
 神を待ち望め。
 わたしはなおわが助け、
 わが神なる主をほめたたえるであろう。(詩篇42:1-5)

* * *
 
 「谷川の流れを慕う鹿のように…」、この賛美をかつてよく歌った。
 ある韓国人女性幹事のいる教会(KFCの姉妹教会である天声教会)に行った時、ピアノを弾いて、この賛美をみなで歌ったことを覚えている。

 しかしながら、その教会は筆者の目から見て、正常な教会ではなかった。そこにほんの束の間、力仕事を手伝いに行くと言って、教会に取り込まれたメッセンジャーの青年は、すっかり幹事女性の言いなりになって、既婚者であるこの女性と教会を拠点に共同生活を送るようになり、瞬く間に牧師的な存在と化してしまった。
 
 態度には、以前にはなかった高慢さがはっきりとにじみ出るようになり、筆者に対しても、上からものを言うようになった。かつて筆者の就職を祝ったり、さりげなく気晴らしのために教会の行楽イベントに誘ったりしていた素朴な信者の面影は全く失われた。さらには、自分の仕事を辞めて、信徒の献金で生活するようになった。

 それは、あれほどKFCが以前には批判し、嫌悪を表明していた牧師の姿そのものであり、共に賛美を歌った頃の素朴な姿は失われた。彼らの聖職者にあるまじき生活の問題点を指摘し、この危険な教会を早急に離れるようメッセンジャーに忠告した筆者も、彼らに憎まれるだけの結果に終わった。悲しいことである。

 筆者は一時は、この教会から青年を救い出さなければならないと思って、KFCのリーダーにその旨を忠告してもらえるよう事態を告げて助力を依頼したこともあったが、それは全く功を奏さなかった。KFCの関係者には、誰一人、本当に誰一人として、このような事態を異常だととらえた人間もいなかったのである。そして、そのような霊的堕落の当然の結果として、KFCも異端化した。

 だが、この二つの姉妹教会が共に手を携えて異端化して行った事実を見るにつけても、たとえ筆者の努力が功を奏さず、上記ような出来事が、単に余計な恨みを買うきっかけにしかならなかったとしても、神はすべてをご覧になっておられ、正しく裁いて下さる方だと確信することができる。

 筆者は、たとえ何があっても、以上のような事柄に賛同することはできない。そして、人に恨みを買ったとしても、何が神が喜ばれることであり、何がそうでないかを明白に表明し、神が喜ばれないものと分離したことを後悔するつもりもない。

 ダビデの詩編には、筆者が味わったのとほぼ似たような孤独が描かれている。
 
 ダビデもかつては多数の信者たちと共に連れ立って神を礼拝しに行ったのである。だが、かつて仲間として共に主を礼拝した人々は、今や彼の敵となり、破滅を願うようになった。ダビデはそうした人々の敵意と憎悪のために、昼も夜も涙を流して祈り続けた。

 ダビデの心は、かつて信者たちと共に神の家に行って、共に主を礼拝した時の喜び、楽しみを思い出して、それが失われたことを嘆く。だが、それでも彼の魂は、そうした喜ばしい思い出を離れて、ただ神だけに向かって行く。

 そして、神だけに一心に向かう思いが、鹿が谷川を慕い求めるように、我が魂は神だけを待ち望む、という告白になるのである。

 これはダビデが受けた誤解や、非難や、敵意や、嘲笑などから来る圧倒的な孤独の只中で、彼があくまで人々の理解ではなく、神の助けと慰めだけを待ち望み続けたことの証拠である。信者の仲間や、周囲の人々に対するダビデの思い入れは、断ち切られ、彼の手からもぎ取られた。だが、その空白を、ダビデはもはや人間で埋めようとはしない。ただひたすら、彼の心は神に向かって行く。

 キリスト者の人生は、どこまで行っても、ただ神だけのものであり、どんなに信者と共に神を礼拝する体験が喜ばしいものであったとしても、被造物との癒着のような関係は、すべて絶たれる。

 若かりし頃のダビデは、生き生きとして美しい紅顔の少年で、何をしても、人に抜きんでて、輝いていた。彼の非凡な能力だけでなく、正直さ、率直さ、心の美しさが、優れた外見と共に、人の注目を集めた。そのダビデの生き生きとして、輝いている姿は、しかし、晩年にはもう見られない。晩年のダビデは、多くの悲しみを経て、もはや非凡な人間の面影を持ち続けてはいなかった。彼は人の注目を集め、人と連帯して活発に活動する代わりに、静かに心を神だけに向けて、神だけに注ぎだすことに専念した。

 このようなことは、人間的には、痛みを伴う過程であろうが、信者が誰しも通過すべき出来事であると筆者は思う。こうしたこともまた十字架なのである。

 KFCも天声教会も、キリスト教界の中ではもともと知られない片隅の存在、初めから異端児的存在でしかなかったが、それでも、かつてはそれなりに栄華を誇っていた時期があった。指導者たちは若さとエネルギーに輝き、その解放的な福音の斬新さによって、キリスト教界で重荷にあえいでいた信者たちを惹きつけた。キリスト教界にない讃美歌も、人の心を惹きつけた。あたかも、そこに命の泉があるかのように多くの人々にとらえられた時期が存在したのである。
 
 だが、その栄華が、上からの打撃により破壊され、群れはますます離散へと追い込まれた。そのようにして、当初、見えていた輝かしいビジョンが、ただ単に破壊されて終わったことは、人間の目には悲惨と映るかも知れないが、筆者はそれで良かったのだと思っている。

 信じる者の喜びは、大勢の仲間の信者たちと共に、集団的に神を跪拝する熱狂にあるのではない。そうした礼拝は、人の目にどんなに素晴らしく見えたとしても、その中には、何かしら神ご自身ではないもの、生まれながらの人間を喜ばせるもの――群れ集う人間自身の自己満足が入り込んでいる。

 神はそれらを一つ一つ取り除いて行かれる。どんな状況にあっても、信者の生きる目的は、人間同士の連帯にはなく、ただ神のみを見上げ、神にのみ栄光を帰し、神のみのためだけに徹底して心を注ぎだすところにある。

 信者自身の満足が、信者にとっての喜びなのではなく、神が満足して下さることが、信者の喜びなのである。だから、信じる者は、たとえかつて自分にとって喜びであったものが、すべてなくなり、仲間だと思っていた人々がことごとく離反し、全世界が自分に敵するような状況の中にある時でさえ、ただ神が神であることを喜び、神が助け手であることを喜び、孤独の中でも、神を待ち望み、我が魂は、主によって慰められ、主によって喜ぶ、と告白するのである。

 かつて追い求めていたものに対する憧れはなくなり、魂は、周囲の状況に関わらず、静かに、神を待ち望む。いや、表面的には、魂はまだもがいているかも知れない、何か失ったものを嘆いているように見えるかも知れないが、心の深い所で、静かに、落ち着いて、神こそ我が望みである、と言えるようになる。

 信者は心の中で静かに言う、

「主よ、あなたご自身が共にていて下されば、私には他のものは何も要らないのです。あなたが満足して下さることが、私の願いなのです。それが私の本心であることは、私の生き様が証明しています。あなたは私の通過して来た魂の痛みも、苦しみも、何もかもすべてをご存知です。もう私の手には何もありません。あなたご自身の他に、慕うもの、追い求めるものは何もありません。どんな優れた人間とのどんな出会いも、どんな熱狂も、全く私の関心を惹きません。それらはすべて我が敵となって行きました。ですが、こうして私が、私の心の喜び楽しみを追い求めて生きたのではなく、あなたご自身を追い求めて生きたことを、あなたはご覧になれます。私があなたご自身を得て、あなたが私を得て満足されることが、私の願いの全てなのです。それ以外の望みはありません。どうか私の魂をお受け取り下さい。」

 わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。
 何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。
 神を待ち望め。
 わたしはなおわが助け、
 わが神なる主をほめたたえるであろう。
 
 

創造主のみわざを誉めたたえる


私の住んでいる地域は、田舎ゆえに、季節の移り変わりがまことに美しい。
花好きの家人のおかげで、庭には私の名も知らない、数え切れないほどの花々が日々、咲き乱れている。

元々、農業のための土地だったところに住んでいるため、周りには住宅が少なく、田園が広がっている。

自然に恵まれた環境に住んでいながら、今まで、写真を一枚も載せなかったのは、このように調和の取れた美しい映像を目にした読者は、私の迷いや、紆余曲折の多い文章など、読みたくなくなってしまうような気がしたからだ…。

これまで、話題の深刻さ、不親切な長文ゆえに、きっと悪評高かっただろう私のブログだが(笑)、残念ながら、このブログでは、さらに一層、深刻な話題を扱うことになるかも知れないので、どうぞご覚悟下さい。

けれども、主にあっての健全さ、魂の調和を保つために、今後、話題が深刻なものに偏りすぎないよう、身近な風景を少しずつ紹介していくことにしたい。また、できるならば、音楽を紹介することができればベストだと思っている(試行錯誤中ですが)。

 「人はみな草だ。
 その麗しさは、すべて野の花のようだ。
 主の息がその上に吹けば、
 草は枯れ、花はしぼむ。<…>
 しかし、われわれの神の言葉は
 とこしえに変ることはない。」
 (イザヤ40:6-8)

 逆境にある時、私は人間の命の脆さ、はかなさを思い知った。若さが花のようにあっけなく散ること、悲しみが人の生命力を急激に衰えさせることを知った。その時の体験を通じて、人を生かしているものが、その人の肉体だけではあり得ないことを痛感させられた。


「目を高くあげて、
 だれが、これらのものを創造したかを見よ。」
(イザヤ40:26)

まことに、命の源であるただ一人の方を失ってしまえば、たとえ健全な肉体を持ち、優れた頭脳を持っていたとしても、それが何になるだろう、滅びは一瞬にしてその人を襲うだろう。

だが、今、たとえ苦しみの中にある方がいたとしても、その人が神により頼んでいるなら、幸いだ。主を待ち望む者の人生は、決して失望に終わることがない、聖書はそう約束してくれている。

主に信頼するクリスチャンは、必ず、一人ひとりが、この美しい野の花に全く劣ることなく、主の栄光を表わすために、それぞれに不思議な形で用いられるだろう。

「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の花でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。」(マタイ6:30)

私たちクリスチャンは一人ひとりが主のくすしきみわざによって造られた聖なる神殿である。神を誉めたたえよう。