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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

聖霊の訓練

 以下で、私はバイクの盗難事件について書いたが、それを読んで、あまり悪い印象を受けて欲しくない。特に、それを、神に従う生活の味気なさや、虚しさの表れであるかのように誤解しないで欲しい。神は、愛する者たちの全ての必要に応えて下さり、また、私たちを悪から救い出し、守って下さる方である。神は耐えられない試練を私たちにお与えにならないし、決して、ご自身に心から従っていきたいと願っている者に、理不尽かつ意味のない事件を起こされることはない。

 私は、今回の事件もまた、上からの訓練の一つとしてやって来たのだろうと思っている。まだはっきりとは分からないが、それは私の所有物への取り扱いであったかも知れないと思う。何しろ、今回のことは、私が自分の持ち物を、天幕の中にあるものとみなし、もはや自分の所有物とはみなさないことを決意して後、起こったことである。口で言うほど、私の所有物への執着心は、完全には吹っ切れてはいない。そのことを、事件に対する私の反応が証明している。

 私たちは自分の魂が執着するもの全てについて、神の対処を受ける必要がある。ある時、私たちが自分の人生を神に全面的に捧げる決意をする。すると、その時から、神は私たちの存在そのものや、生活や、思いの中から、不要なもの全てを取り除く作業を開始される。それが、私たちの外なる人が、聖霊の訓練によって、砕かれる過程である。絶対的な献身の決意の後で、私たちの人生に起こることの中には、何一つ、偶然や、意味のない事件はない。たとえ突然に降って沸いた災いのように感じられる事件であっても、それは全て、私たちを訓練するために、上から与えられる必要な経験である。だが、不平不満の多い私たちは、いつでも、一つ一つの出来事から、神が自分に願っておられることを的確に理解できるとは限らないのだが…。

 私たちは神に自分を捧げる決意をした時から、神によって訓練されなければならない。キリストを信じれば、ただ平安と喜びだけに満ちて、毎日、優雅で快適で何不自由ない生活を一生、送れると思うのは大きな勘違いである。私たちが、本当に神がかくあれかしと願っておられる栄光の姿に近づくためには、私たちは、何度も、何度も、打ち叩かれ、失敗させられ、失望させられ、剥ぎ取られ、予想外の苦難に遭い、打ちのめされ、それらの経験を通して、この世をますます手放していかなければならない。この世からますます遠ざかっていかなければならない。私たちは途方に暮れるだろう、行き詰るだろう、しかし、それでも、主の守りの御手は、私たちから去ることはない。そこで必要とされていることは、どんな状況の中にあっても、私たちが神の采配が最善であることを信じ、神が望んでおられることは何かを理解し、それを受け入れ、従うことである。

 私の人生を振り返って言えることが一つある。それは、神は決して、信徒の意志に反して、信徒の人生に強制的に介入されるということはないということだ。ヨブは試練に見舞われた時、「主の御名は誉むべきかな」と、神を賛美することができたが、それは、裏を返せば、彼が信仰において、試練に遭うことに対して、心の準備ができていたことを示している。

 神はヨブの信仰の状態をご覧になられ、彼がどの程度、耐えられかを確認して、ふさわしい試練を与えられた。多分、今日、多くのクリスチャンは、神からのいかなる試練をも、与えられる恩恵にあずかることはできないだろう。それは彼らが、主が彼らに「与える」ことだけを願っており、主が彼らから「取られる」ことに対して、何一つ、同意しようとしないからである。かつての私の人生もそうであった。

 私が自分の所有物にしがみついて、どうしてもそれを手放そうとしなかった間、神は私の上に全く働かれず、私を無視し、目を背けておられた。しかし、私が心のどこかで、その所有物にもはや満足できなくなった時、そのような事物を大量に抱えた生活が、御心に反しており、間違っていること、そこに私の真の幸せがないことを、心のどこかで、かすかにでも理解し始め、そのような生活にうんざりし始めると、その瞬間から、ただちに、神は私の上に働きを開始された。

 しがみついていた所有物は、ほとんどの場合、あっけなく、取り去られた。それは友人であれ、家であれ、持ち物であれ、名誉や、地位であれ、誇りであれ、将来の夢であれ、みな同じであった…。神の御前に好ましくない私の所有物は、全て剥ぎ取られた。それは決して、神の側からの強制的な介入ではなく、私自身でさえ、心のどこかで、その生活が悪いものであることを分かっていたのに、それでも、私は失ったものを思って、嘆き悲しんだものだ…。二心に生きていた私の魂は、一つ剥ぎ取られる度に、大きな打撃を被った。

 クリスチャンは、自分の魂と肉体、そして所有物について、神に厳しく対処されなければならない。神が見てよしとされるのは、キリストの命を経由したもの、御霊によって生まれたものだけである。私たちの魂も、肉体も、神は肯定されない。私たちはあまりにも余計なものを持ちすぎ、神以外のあまりに多くのものに目を奪われすぎている。私たちがこの世のものを愛する時、神はそれを喜ばれない。この世の楽しみ、面白おかしい刺激、興奮、自分を楽しませてくれるあらゆる物質や、富…、そういうものを、神に徹底的に従うことを決意した時から、私たちは、一つ一つ、手放すことを学ばせられる。

 私たちが、神がかくあれかしと望んでおられる「真のあるべき人間」になるためには、物質的なものや、肉的なもの、魂的なものに惹かれる心、要するに私たちの旧創造に属する古い性質は、徹底的に滅ぼされなければならない。これは私たちが自虐的な方法で自己を取り除こうと努力すべきだという意味ではなく、聖霊が、そのような働きを私たちの上に自然に開始するのである。

 私たちの外なる人(魂と肉)は、御霊の訓練によって、打ちのめされ、剥ぎ取られ、苦しめられ、砕かれていく。その痛みを伴う学課(=日々の十字架)を受けずして、私たちがキリストの似姿へと変えられ、内なる御霊が私たちから自由に外へ向かって流れ出す日は来ない。ウォッチマン・ニーは再三に渡りそのことを述べている。以下、彼の著作から。

 「わたしたちの外なる人が砕かれるためには、わたしたちは自分自身を主にささげる必要があります。しかしながら、献身がすべての問題を解決するわけではありません。それは、わたしたちが喜んで自分自身を、無条件に、徹底的に、明確に神へささげる意図の表現にすぎません。<…>

 人が神によって用いられることができるかどうかは、献身だけにかかっているのではありません。献身がなされた後、聖霊から来る訓練がやはり必要です。これは非常に重要です。わたしたちが神に対して有用になるかどうかは、この点に大いにかかっています。<…>

 わたしたちは、自分についてしばしば無知です。わたしたちは、自分が何を通過する必要があるのか知りません。わたしたちの最も賢明な選択でさえ、間違いに満ちています。

わたしたちが必要であると考えるものは、往々にして、神によればわたしたちが実際に必要とするものではありません。わたしたちが自分の側から見るものは、全体の絵のごく一部にすぎないかもしれません。しかしながら、聖霊は神の光にしたがって、わたしたちのために事物を指図されます。聖霊の訓練は、わたしたちの思いが考え及ぶものをはるかにしのぎます。

わたしたちはしばしば、ある訓練に対して準備ができておらず、わたしたちはそのような訓練は必要ないと考えます。聖霊の訓練が実際にわたしたちを訪れる時、わたしたちは驚いてしまいます。環境の中で聖霊がわたしたちのために指図したものは、わたしたちが期待していたものではありません。聖霊からの多くの訓練が、神からの警告無しにやってきます。突如として、わたしたちは強打を被ります。

わたしたちは、自分は神の光の下で生活していると考えるかもしれませんが、神にとっては、この光は実に弱いかすかな光です。神は、それを光とは全く考えないかもしれません。しかしながら、聖霊は神の光にしたがって、わたしたちを対処されます。わたしたちは自分の状態を知っていると思いますが、実際には知っておりません。神だけがわたしたちを知っておられます。わたしたちが神を受け入れた時から、神はわたしたちの環境を整えてこられました。神が整えたものはすべて、わたしたちの最上の益のためです。神はわたしたちを知っておられ、またわたしたちの必要を知っておられるからです。

 わたしたちの中における聖霊の働きには、積極的な面と消極的な面とがあります。建造する面と取り壊す面があります。わたしたちが再生された時、聖霊はわたしたちの中に住んでおられますが、わたしたちの外なる人は聖霊の自由を制限します。これは新しい靴を履いている人に似ています。靴があまりに堅くてきついため、その靴では歩きにくいのです。

外なる人が内なる人を困らせます。内なる人は外なる人を管理できません。こういうわけで、わたしたちが救われた日から、神はわたしたちの外なる人を対処し砕いておられます。神がわたしたちの外なる人を対処されるのは、わたしたちが知覚する必要にしたがってではなく、神が見られるわたしたちの必要にしたがってです。神はわたしたちの中で何が固執するものであり、何が内なる人が管理できないものであるかを見いだされ、神が知っておられるものにしたがってわたしたちを対処されます

 聖霊は、わたしたちの内なる人を強化することによってわたしたちの外なる人を対処するのではありません。聖霊は、内なる人にさらに多くの恵みを供給することによって外なる人を対処するのではありません。これは、内なる人は強められる必要がないという意味ではありません。この意味は、神には外なる人を対処するには、異なる方法があるということです。

聖霊は、外側の事柄を手段として用いて、わたしたちの外なる人を減少させます。内なる人をもって外なる人を取り扱うことは、決して容易ではありません。なぜなら、これら二者は異なる性質を持っているからです。内なる人が、外なる人を傷つけたり砕くのは難しいことです。外なる人の性質は、外側のものの性質に対応します。すなわち、外なる人は外側の事柄に容易に影響されます。外側の事柄は、外なる人を、内なる人ができるよりももっと上手に押しつぶし、痛みを与え、傷つけることができます。こういうわけで、神は外側の事柄を用いて、わたしたちの外なる人を対処されます。」(ウォッチマン・ニー著、『霊の解放』、『p.105-109)

 さまざまな事件に遭遇する時、私たちは、すぐには神の御心が分からないことがあるだろう。望ましくない事件が起こった時には、特にそうだ。こんな事件のどこに、有意義な意味を見出せるだろう?と、私たちの心は混乱する。しかし、どんな時でも、それは私たちに必要な経験なのだ。どうか、神が私たちに光を送って下さり、一つ一つの事件を通して、神が私たちに願っておられることは何であるか、御心を理解できるよう、助けてくださいますように!

「十字架は単なる教理ではありません。それは、実行されなければなりません。十字架は、わたしたちにおいて実行されなければなりません。わたしたちに属するすべての事物は、滅ぼされなければなりません。私たちが一度、二度、また幾度も打たれていると、わたしたちが自然に目が覚める時が訪れます。…」(p.123)


 
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主が与え、主が取りたもう

 今日昼ごろ、兄弟との電話での交わりを終えて、買い物をするために外へ出た。あれ、おかしいな?との疑問が脳裏をよぎった。いつもバイクを置いているはずの場所に、単車がない。
 あたりを見てみると、私が年中つけっぱなしにしていたハンドル・カバーが、植え込みの中にぞんざいに放り捨てられていた。きっと盗難だろうな…、そう思った。

 ハンドル・カバーを拾い上げ、それを持って、念のために、付近を見回りながらも、なぜか不思議に心が落ち着いていた。その上、不謹慎かも知れないが、何となく可笑しかったのだ、まあ、この道に歩む限り、何と毎日のように、事件が絶えないのだろう、と…。確かに、私は少し無用心だったかも知れない。見知らぬ土地に来たにもかかわらず、単車に何重にもロックをかけたりしなかったし、最後に使った日には、特に、確かにハンドルロックがかかっているかどうか、注意深く確かめなかった。

 だが、あのバイクは一度、車に当てられて、主軸が曲がり、全損と判定されているし、2万キロを走って、そろそろベルトの交換の時期が来ていたので、バイク屋にはこのままでは危ないと忠告されていた。前後のタイヤとブレーキ・パッドも、そろそろ取り替えなければいけない時期が来ていた。メットが壊れてしまったので、冬になる前にそろそろフルフェイスのヘルメットを買わなくちゃ、駅前に駐輪するなら、予備のロックも必要だなあと思っていたところだった。ずぼらな性格の私は、それら全部の用件を放置していた。誰が持っていったにしろ、あのまま乗り続けて、危ない事故が起きなければいいが…。

 だが、そんなことはどうでもいい。私はさまざまな土地で、何年来、同じバイクを使ってさまざまなところを走り、時には無用心な駐車や、危ない走行をすら、何度も行ってきたが、それでも、大事故や、盗難に遭ったことは一度もなかった。それは全て主の守りのおかげである。今回のことが、敵の仕業であるにせよ、何にせよ、全てのことは、神の主権の下でしか起こらない。特に、このような財産の「はぎ取り」は、神が許されない限り、決して、起きるはずがない、という確信が心にあった。

 しかも、ちょうど昨日、私は、サタンがヨブを試みることを願い出て、神に許された場面を聖書で読んだばかりだった。あり得ないほどの試練が次々と、ほぼ同時に、ヨブを見舞う。使用人や家畜は一挙に死に絶え、財産はなくなり、大切な子供たちは、不慮の事故で全員亡くなった。だが、ヨブは言う、

「わたしは裸で母の胎を出た。
 また裸でかしこに帰ろう。
 主が与え、主が取られたのだ。
 主のみ名はほむべきかな。」

 ヨブはそれでも、その上、さらなる試練に見舞われるのだが、すぐに私もヨブと同じことを祈った。主のみ名は誉むべきかな。どうぞこの事件を通して、より主に栄光が帰され、主の御名が崇められますように。私の財産など、どうでもよいのです。もとより私は、主が与えて下さるのでなければ、何一つ所有できず、主の御前に、自分の財産というものを持たないのですから…。
 まあ、一応、この世のしきたりに従って、交番に届け出て、盗難届けを作成してもらうことになって、警官がやって来るのを待っている。日々の生活は多少、不便にはなるが、構いはしない、しばらく様子を見よう。

 このところずっと、私は兄弟姉妹との交わりを通して、現代の志あるクリスチャンは、獄中のウォッチマン・ニーがそうであったように、制限の中で、神の無限な現われを体現して生きなければならないということを痛感させられていた。私たちは、時空間の制限の中に閉じ込められた中を生きているが、その制約の中から、逆説的に、神の無限の現れをこの世に豊かに流し出す、そのような管とならなければならない。

 神は霊である。だから、私たちは肉によって神の言葉を宣べ伝えるのではなく、霊によってのみ、御言葉を宣べ伝えることができる。私たちの肉体は、さまざまな制限を受けるが、神の言葉は決して制限されることはない。そこで、神は、クリスチャンのために、大変に矛盾した、しかも極限にまで矛盾した状況を作り出されることがある。神は私たちを極度の不自由の中に投げ込まれ、肉体の自由が、ことごとく奪われ、生きることさえ、ままならないような状況となって、あるいは、御言葉を語ることさえ、禁じられるような中にあって、それでも、私たちが神の無限の現れを豊かに流し出す管となることを求められるのである。それは私たちがますますこの肉体と魂に死んで、霊なるキリストを表すようになるためである。

 だから、物質界のことなど、ある意味、もうどうでもよい。決して、生きることをおろそかに考えるわけではないのだが、私の生活が、肉体が、移動の自由が、たとえどれほど制限を受け、追い詰められようとも、ただ神の御心が、私(や兄弟姉妹からなるエクレシア)を通して、より自由に地上に現されるようになりますように、私が砕かれ、閉じ込められ、制限を受けることによって、神の豊かな現れをもっと人々が知ることができるならば、ぜひともそうなりますように、と、祈ることしかできない。

 以下は昨年6月5日、まだ私が関西にいて、京都の教会に通っていた頃に書いた日記だ。この頃に書いた膨大な量の無意味な文章の中で、次の言葉だけは、真実、神を求める心から書かれていたような気がする。

「私はある法則性を学んだ。私が間違った選択をすると、それにこめられていた全ての期待が砕け散るということだ。私は日曜を休日にするために、生保の仕事を選んだ。だが、この日曜が、私に痛みをもたらすものにならないだろうか。それは怖いことだ。とても怖いことだ。そして、試練は、すでに始まっているという気がする。

 惑わしの風が強く吹いている。人の自惚れをくすぐり、好意を勝ち取り、それを担保にして、偽りを教え、自分たちの集団に緊縛し、詐欺を働く行為が全地に満ちている。自分の心の望みさえ、警戒しなければならない。ピアニストにしてあげるよと言われても、信じてはいけない。君の心の痛みは、私が分かってやれるよと言われても、信じてはいけない。どんなに私が聞きたかった言葉を言ってくれる人があらわれても、よくよくその人の行動を吟味してからでなければ、信じてはいけない。以前、私は『君は学者になる人だ』と言われ、その言葉を後生大事に温めてきたが、もうそんなことはどうでもいい。

 私の野心よ、全て消えてしまえ。物乞いにはなりたくない、誇りを失ってまで生きていたくないという思いも、消えてしまえ。私の生死は神様の掌中にあり、神様が生きよと命じる限りにおいて、私は生きていればそれで良いのだ。私の存在そのものが、風のようだ。どこから来てどこへ行くのか、私自身すら知らない。だがそれで良いではないか。神様が吹かせた風ならば、命じられるままに吹くがいい。

 自分で自分を救おうという努力はもうやめよう。決して自暴自棄になろうというのではない。生きようが死のうがどうでも良いというわけではない。私自身の心は、精一杯、豊かに 美しく生きることを望んでいる。だが、神様の御心がもし私にとって最善であるならば、御心の前に、私は自分が望み得る最高の願いさえ放棄しよう。

 それは人の言葉に従うのではない。もっともらしいクリスチャンのもっともらしい説教を聞いて、自分の願いを捨てるわけではない。人からは離れたところで、私は静かに、神様に申し上げる、私の全知識と全人生経験を合わせて下した結論さえも、あなたの御心にはかないません。だから御心を教えて下さいと。神様の思いの中で、神様の計画の中で生きることだけが、私の人生と心に最善の安らぎをもたらす秘訣なのだ。それを求めなかったことで、どれほどの傷を私は今日まで受けて来ただろう。

 私は羊として囲いの中に戻ろう。その囲いとは、決して、決して、教会というこの世の組織を意味しない。その囲いとは、神の御心なのだ。私を生かそうとして神が用意してくれた、私のための牧草地なのだ。隠れたところにあるその囲いを求めて、私は人里を離れて祈ろう。」

 この文章を書いてから一年以上が経った。既存の教会と訣別し、さまざまなことが起き、前よりも、エクレシアが近くなったように思われる。前よりも、少しばかりは光を見て、御心を知ったような気がする。私の野心も、願いも、あれから、ことごとく微塵に打ち砕かれなければならなかった。それでも、私は、今になっても、まだ完全な答えを得てはいない。隠れたところにある囲い=霊なるエクレシアを今日もまだ探り求めている。キリストを頭として、霊の一致の中に織り込まれた兄弟姉妹との交わり、彼らと共に作り上げられる霊の建造物の中で、礎の一つとなることを、求め続けている。その旅は、まだまだ続いていく…。

アブラハム、イサク、ヤコブの神

つい先日、ある青年を病室に訪ねた。
数ヶ月前、初めて彼に会おうと思いついた時、
私はまだ遠い地に住んでおり、
こんなにも早く、主が私たちを会わせて下さるとは思ってもみなかった。

私とある兄弟とは、主のすばやい采配に驚きつつ、病院へ向かった。
だが 二人の心の中には、溢れる喜びがあった。
受付で面会を申し出て、青年と三人で向き合った時、
開口一番、彼が私に向かって話し出したのは、
『アブラハム、イサク、ヤコブの神』についてだった。

私は度肝を抜かれた。
わずか数日前に、私はその本を贈呈されて、読み始めたばかりだった。
しかも、青年が話し出したのは ヤコブがもものつがいを外された話。
道中の電車の中で、私がちょうど目を通したばかりの箇所だった。

すべてが偶然とは思えない面会。
主は何を意図して、この状況を整えて下さったのだろう?

さて、クリスチャンは、
アブラハム、イサク、ヤコブの3人全ての経歴を持たなければならない、
この本の中で、W.ニーは確かにそう言っている。
アブラハムだけではダメ、イサクだけでもダメ、ヤコブだけでもダメなのだ。
この3人全ての経歴を クリスチャンは持たなければならない。

信仰の父と呼ばれたアブラハム、
彼は信仰によって、父なる神から約束の嗣業を得た。
イサクは父に従順に従い、全てのものを父から受け継いだ。
策謀家だったヤコブは 生まれつきの性格を聖霊から取り扱われなければならなかった。

この3人のうち、私たちが最も避けて通りたいのは誰だろう?
きっと ヤコブ だろう。
私たちは 自分の生まれつきの性格が 聖霊によって打ち砕かれることを好まない。
自分の性格が それほどまでに悪く 腐敗しており、
神の働きの妨げになっているとは 認めたくないのだ。

だが、主はクリスチャン人生のどこかで、私たちの性格を取り扱われる。
私たちが 持って生まれた性格に、絶望せねばならない時が来る。
天然の魂から来るエネルギーが もはや 私たちを生かさない時が来る。

青年は私に向かって言った、
「生まれつき活発な人がいたとしても、果たして、その活発な性格が、
本当に主に喜ばれるものなのか、分からないですよね。
生まれつき、内向的な人がいても、その性格が、
そのままで主に用いられるのかどうか、分からないですよね。
自分の性格を聖霊によって管理されなければ、
本当の意味で 私たちが神のために働ける日は来ないのでしょう」

私たちは注意しなければならない、
アブラハムの子孫すべてが神の民なのではない。
イサクの子孫すべてが神の民なのではない。

ハガルから出たイシマエルは 父の嗣業を受け継ぐことはできなかった。
長子の権を売り渡したエサウも 父の嗣業を受け継ぐことはできなかった。
これらの人々は、選ばれた者の血筋をひいてはいるが、本質的には
肉によって生まれた 神の民に敵対する 約束の子ではない者たちである。

バプテスマのヨハネが民に向かって言った言葉を思い出そう、
「まむしの子らよ! 
迫り来る神の怒りから逃れられると 誰がおまえらに教えたのか。
自分たちの先祖には、アブラハムがあるなどと、思ってもみるな。
神はこの道端の石からでも、アブラハムの子孫を起こすことができる!」

今、その言葉通りに 肉によれば アブラハムの子孫であるはずの民が退けられ、
肉によっては アブラハムの子孫たり得ない異邦人が 
信仰によって アブラハムの子孫に接木されて 約束の子とされた。

だが、注意しよう 約束の嗣業を受け継ぐためには、
私たちは アブラハム、イサク、ヤコブ全ての子孫でなければならない。

今日、とりわけクリスチャンに欠けているのは、
ヤコブの経歴、だろう。
信仰によって義とされ、従順に恵みを享受し、聖霊によって管理され、日々、自己を否む。
この最後のステップが 何と私たちには 欠けていることだろう。

私たちは ヤコブのように 御霊によって びっこにされなければならない。
天然の自己を失うことなくして クリスチャンは 決して神の望んでおられる完成に至ることはない。
願わくば 主が私たちを憐れんで 早くもものつがいに触れて下さるように。