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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にして下さる。

先の記事で、筆者は、キリストのみに捧げられた聖なる花嫁としてのエクレシアの一員として、人間を頼りとしないで、改めて主にのみ頼って生きる覚悟を固めたと書いた。

これは神が筆者の心を、予め様々な別離に準備させたものであったようにも感じられる。

昨年には、困難な戦いを戦い抜くに当たり、筆者は多くの力添えを得た。しかし、筆者の事件のために、助力してくれた人々は、そのほとんどが、今年の春までには、様々な理由により、筆者のそばを離れて行こうとしている。職務上の異動が複数、他に、信念の違いが浮き彫りとなったケースもある。信仰の違いによる別離が起きる場合には、もしかすると、この地上だけでなく、天においても、別離となる可能性が考えられないことではない。

こうして、人々が散らされて行くのを見ることには、寂しさがないとは言えないが、それでも、このような現象に対して、筆者は予め心の準備がかなり出来ていたものと思う。

昨年の一年間は、それほど大きな心の生長を筆者にもたらしてくれた。この一年間の戦いは、筆者が、一人で立つために十分かつ激しい訓練の期間となったのである。

前々から述べて来たことであるが、筆者は、支持者や、理解者の人数を誇り、肉なる腕を頼りに生きたくないと願っている。預言者エリヤがしたように、ただ神だけを頼りとして、神のみに栄光を帰するために、450人のバアルの預言者を前にしても、一人で向き合うことのできる信仰が常に必要であるものと思う。

そのようにして、神以外の何者にも頼らない自由を保つために、筆者は自分の心が、周囲にいる人々に結び付けられて離れられなくなったり、あるいは、周囲にいる人々の心が、筆者に結び付けられて離れられなくなるよりも前に、彼らが様々な理由により、筆者自身の意思とは関係なく、神の采配により、去って行かざるを得なくなることを、肯定的に受け止めている。

我々の弁護者はキリスト、御霊が私たちのための約束の保証、裁き主は、天におられる父なる神であって、私たちには世の終わりまで共におられる方が一緒であるから、肉なる腕に頼る理由がない。

そういうわけで、「あえて事を難しくする」ために、筆者はますます念入りに、祭壇に水をかけているところである。

さて、代価を払って戦いを最後まで耐え忍んだ人と、それをしなかった人との間では、この先、大きな差が生まれるのではないかと筆者は思う。その差は、最初は小さなもののように見えても、十年も経つ頃には、巨大な差になっているものと見られる。

たとえば、あなたが仮に学校を卒業したばかりの若い世代であり、友人と共に、同じ企業に就職して、入社数ヶ月で、そこがブラック企業であることが判明したとしよう。賃金の支払いは滞りがちで、残業代は支給されず、果ては雇用契約書さえ交付されず、強欲な社長は、すでに多くの社員を不当に解雇している。

あなたと同僚にも、ついに順番が回って来て、共に落ち度もないのに解雇が言い渡された。あなたたちはこの措置を、何も言わずに受け入れるであろうか。働きづめに働いた期間の給与もあきらめて、路頭に迷わされる選択肢を受け入れるだろうか。それとも、何らかの方法でこの悪しき企業に打撃をもたらし、彼らが不当にため込んだ富を吐き出させて、取り返すべきものを取り返すであろうか。

それをするかしないかによって、その後の道は分かれることであろう。だが、受けた打撃を取り返すためには、声を上げて、自分の権利を主張して、戦わなくてはならない。だが、あなたの元同僚は、狭い業界で、そのようなことをすれば、次の就職先は見つからなくなると危ぶんでいる。多分、どの企業も似たり寄ったりの状態だから、このような理不尽をも、甘んじて受け入れる心がなくては、この先、どの企業でも、やっていけないだろう、などと言っている。さて、あなたはどのような選択肢を選ぶだろうか。

筆者の考えはこうである。もし抵抗しなければ、その人は、黙って就職した次なる会社でも、前よりもさらに悪い搾取の犠牲となるだけであり、おそらく、その連鎖は、本人が抵抗して断ち切ろうとしない限り、ずっと続くことであろう。これを断ち切るためには、業界からの根本的なエクソダスが必要になるかも知れない。

奪われたものを取り返す手段は存在する。また、不当な濡れ衣も返上する方法も存在する。多くの人々を傷つけ、獲物ののようにかみ砕き、食い物にして来た要塞のような企業に、恥辱と打撃をもたらし、しかるべき償いをさせてから、これと手を切る方法は、確かに存在する。
 
だが、声を上げる際にも、注意しなければならないことがある。一方には、弱い人々を食い物にする強欲な企業があるかと思えば、その反対には、食い物にされた人々の苦しみをさらに食い物として、強欲な救済ビジネスを展開している人々がいる。ブラック企業との戦いを売り物とし、成功報酬を分捕ろうと待ち構えている長蛇の列がある。このような人々に助けを求めている限り、あなたには、戦ったとしても残るものがない。だから、自分の権利や栄光を安易に他者にかすめ取られないよう、きちんと考えてから行動することが肝心である。

さて、以上の話は、ブラック企業の話をしたいがために持ち出したのではなく、信仰の世界で起きている事柄の比喩として持ち出したものである。筆者がここで言いたいのは、神の国の権益を守るために、代価を払って勇敢に戦った人と、それをしなかった人が、同じ報いを受けることは決してないということである。

キリスト者は、ただ自分のためだけに生きているわけではない。私たちは、自分が不当な濡れ衣を着せられたから、それを晴らそうとしているのではなく、神の御言葉が曲げられ、神ご自身の栄光が傷つけられているから、これに立ち上がって応戦するのであり、私たちの信仰の証しが妨げられることにより、神の国の権益が傷つけられているから、これに断固、立ち向かい、御国の前進に貢献しようとしているのである。従って、ここには、個人の失われた利益をや名誉を取り戻すというだけには決して終わらない、もっと大きな利益というものが存在する。
 
だが、いずれにしても、御言葉に従って、神がキリストを通して私たちにお与え下さった自由の絶大な価値を知って、これを守り通し、行使することができた者と、それをしないで、自由が取り上げられることに甘んじた者との間では、地上の生涯においても、やがて大きな差が現れるだろう。
 
筆者はかつて、神の御言葉の正しさを証明し、不当な言いがかりを跳ね返すために、ある人々に訴訟を勧めたことがあった。弁護士など雇わずとも、勇気と根気があれば、訴訟はできるのだから、諦めてはならないと筆者が言ったところ、彼らは言った。

「ヴィオロンさん、それはきっとあなただからこそ、出来たことだと思いますよ。」
筆者は、眉をひそめて聞き返した。
「どういう意味ですか、それは。私が文章を書くことを得意としていたから、出来たという意味ですか。」
「いや、あなたがとても強い人だからです。」
筆者はますます眉をひそめて問い返した。
「何を言っているんですか。私は一人の弱い人間に過ぎません。それでもこうしていられるのは、私の力ではなく、神様が助けてくれているからです。でも、この私にできるならば、あなたには、私よりも、助けてくれる人たちが、もっとたくさんいて、はるかに有利な立場にあるじゃありませんか。それなのに、私にできて、あなたができないはずがありません。
でも、状況はどうあれ、もしも私たちが真に正しく、御名の栄光のためになる仕事を果たそうとするならば、神様はそのために、必要なすべての手段を与えて下さることは確かです。あなたがたが、勇気を持って、御名のために立ち上がるなら、そのために必要な時間も、費用も、何もかも天が用意して下さいます。それは主のための戦いですから、必要なものは、すべて神ご自身が用意して下さらなければなりません。」
「いやはや・・・、私たちは、あなたを雇いたいくらいですね」
「何ですって?」
筆者は耳を疑い、聞き返した。
「私に何をしたいですって?」
「いや、私たちはあなたを雇いたいくらいだと言ったんですよ」

筆者はその言葉を聞いて心の中で絶句してしまった。だが、うわべはまるで聞かなかったようにして、御国のための権益を守る戦いに参加することを、真剣に検討しておいてもらいたいとのみ提案し、話を終えた。

筆者は、神の国の権益を守るための戦いのためならば、無報酬で働くつもりであったし、せいぜい要求できるとしても、紙代とインク代程度であろうと思っていた。そもそも裕福でない信者らが、弁護士に払うような報酬を筆者に払えるはずがないし、筆者も、金さえ払われれば、誰の味方にでもなる弁護士ではない。筆者はこの世の富に仕えるために、御言葉の証しを書き続けているわけではないし、この世の富の支配下に置かれるつもりもない。

それにも関わらず、もしも誰かが、このように貴重な仕事のために、筆者に金を払うというならば、それは、筆者をはした金で雇うという意味でしかない。つまり、彼らは、はした金でもいいから、筆者に金を払って、自分たちは雇い主であるという顔をすることなしに、弱く無名な存在である筆者に、無報酬で助けられるなど、プライドが許さないと、内心では思っていたものと見られた。

まるでそれは、一人で歩行がおぼつかない病人が、自分よりももっとはるかに重症に見える患者から差し伸べられた助けの手を、こんなにも哀れな人間から同情を受けたくないと、心の中で蔑み、冷たく振り払ったような具合であった。
  
以上のような返事を聞いた時点で、筆者は、彼らには決してこの戦いに参加することは無理であろうことを悟った。多分、彼らには筆者を助けてあげているという思いはあっても、自分たちも、命がけで立ち上がらなければ、救いを保てない恐れがあるとは、考えてもいなかったのに違いない。

だが、すべては神のなさることであるから、神がこの人々を導かれるのに任せようと、筆者は彼らを説得することも、異議を唱えることもなく、少し時間を置いて待った。

数ヶ月後、もう一度、彼らに心中を問い尋ねてみると、彼らは、面倒な争い事を自分から起こすのは嫌だとはっきり返答したので、筆者はそれを聞いて、この人たちのために助力することは必要ないと、主が答えを出されたのだと、ほっと胸をなでおろした。

それはちょうどギデオンが、ミデヤン人の13万5000人の軍隊に立ち向かうために、300人の勇士たちを集めた時のことを思い出させる。

主のための戦いに勝利するためには、数さえ集まれば良いということはない。むしろ、数などなくとも、心から、その戦いのために自分を捧げることに、準備が出来ているほんのわずかな人々がいれば、いなごのような大群にも、十分に立ち向かうことができる。

暗闇の勢力との戦いを貫徹するためには、代価が必要であり、世との間で軋轢が生まれることを望まない人は、これに参加することはできない。ただ人間の利益が侵害されたというだけの理由では、主の権益を守る戦いを共に戦うことはできず、兄弟姉妹との連帯さえも成り立たないのである。

かくて、エクソダスできる人々と、そうでない人々が分かれる。紅海を渡るところまでは、共に進んで行けた多くの信者たちが、その後、荒野に入ると、そこで倒れてしまう。いや、今は、荒野で倒れるというよりも、むしろ、神が奇跡によって開いて下さった紅海を、船頭を雇ってまで逆に渡り、再びファラオの奴隷となって生きるために、エジプトへ舞い戻ってしまうと言った方が良いかもしれない。
 
そのような光景を見る度に、筆者は、愚かな花嫁のたとえを思い出さずにいられない。筆者がどんなに誰かに自由になって欲しいと願ってみたところで、自分自身で代価を払おうとしない人々に、筆者は自分の油を分けてやることはできないし、それは許されない相談なのだと痛感する。

だから、そうした人々は、自分の足りなくなった油を増し加えるために、筆者の助けなど全く借りない代わりに、安価かつ偽物の油を買うために市場に走って行き、その遅れのために、結局、花婿を出迎えることができなくなり、宴会の扉が閉められて終わってしまうのである。

このようにして、今やプロテスタント全体が、御霊の油の欠如により、御言葉の証しを公然と保つことができなくなって、敵の圧迫に屈し、沈黙に入ったのではないかと思われる。この宗派に属するほとんどすべての教会と信者が、教会が迫害されても抵抗せず、御言葉が曲げられても、抗議せず、主の御名が傷つけられているのに、ほえたける獅子の咆哮に怯え、全く立ち上がることなく、腰砕けになって、一切、戦わずして、敗北する道を選んだことは、筆者には唖然とするような出来事である。

このように、神の教会が冒涜されても、立ち上がることができないという極度に情けなく臆病な有様を見ても、筆者は、プロテスタントはもはや霊的に終焉を迎えており、今、新たな信仰回復運動が起こることが必要なのだという確信を強めないわけにいかない。
 
だが、このような状況でも、絶望など一切する必要がないと言えるのは、神はどんな状況からでも、最も先駆的で前衛的な、新鮮な御霊の息吹を持つ新たな霊的運動を起こすことがおできになるからである。今日、信者に求められているのは、プロテスタントの中でも、どの教団教派ならば、多少、マシであるかなどと考えて、教団教派の間を走り回ることではなく、あるいは、プロテスタントが駄目ならば、カトリックに戻れば良いなどと議論することでもない。

新たな革新的で先駆的な信仰回復運動の登場が待たれるのだが、これから起きる信仰回復運動は、かつてのような大規模な大衆運動とはならないであろうと筆者は予想する。それはただ万民祭司という新約の原則を忠実に実行に移すだけで良く、筆者のような、無名の信者が、一人一人、知られざる場所で、ただ御言葉なるキリストご自身だけに忠実に従い、静かに自分の十字架を負って歩みを進めさえすれば良いのだと思わずにいられない。

それは牧師のいない、宗教指導者のいない、宗教団体や組織の枠組みにとらわれることのない、神と信者との直接的で個人的な知られざる信仰の歩みである。

そこで、筆者の周りに団体が築き上げられることは、今もこの先も決してないであろうと言える。筆者が何かを成し遂げる際に、周りに集まって来た人々がいるとしても、彼らも、必ず、やがて散らされることになる。なぜなら、そこにバベルの塔のような、人間の肉なる力が結集することは、神の御心に全く反するからである。
  
改めて、金持ちが天国に入るのは、らくだが針の穴を通過するよりも難しい、という御言葉を思う。「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」(マタイ22:14)

筆者は、招かれただけで終わりたくはない。神の褒賞を受けるために、試練に勝利する者でありたい。そのために、自分の心が、地上の何者にもとらわれることなく、自由であって、ただ主だけに捧げられ、御心の実現だけにいつでも傾けられる状態であって欲しいと強く願う。そこで、筆者と神との間に立ちはだかって、主の栄光の妨げとなりうるようなものは、この先も、何であれ、取り去られる必要があることを認める。

人や物や目に見えるものに心を傾注しすぎることは極めて大きな危険である。そこで、 御国の権益にとって、損失とならないのであれば、筆者は、地上的なすべての別離に対し、「主が与え、主が取りたもう。主の御名は誉むべきかな。」(ヨブ1:21)と同意したいと考えている。

* * *

さて、話が少し変わるが、裁判手続きを通して、司法の世界を垣間見るようになって、筆者はそこではかりしれないほど大きな学びを得た。

誰もが知っている通り、訴状には、まず最初に、以下のような命令文で、被告に対する請求が記される。
「被告は、××××万円を支払え。」
「被告は、××××をしてはならない。」

このように書き記すことによって、原告はその通りの判決が下されることを裁判官に求める。

しかし、この世においては、ただ訴えが出されただけで、それが認められることはまずなく、通常は、幾度もの弁論手続きが重ねられ、証拠が積み上げられ、議論が尽くされてから、判決が出される。

しかし、筆者はただ原告として以上のような文面を書いてるわけではなく、キリスト者として、キリストの御名の権威を帯びた者として、このような命令文を書いている点で、そこには世人の訴えに込められた以上の重みがあると言えよう。
 
もちろん、筆者は地上においては何者でもないただの無名の市民であって、筆者の訴えが、他の人々の訴えと異なる理由などないかに見えるだろう。しかし、筆者は、信仰によって、キリストの代理として、御名の権威を持って、自らの言葉を発している。そこで、筆者の書いている命令文は、単なる文字である以上に、霊的に、はかりしれないほどに重い意味を持つものであると言えよう。

昨年が来るまで、筆者は主としてブログにおいて、信仰の証を続けて来たが、裁判手続きの場に信仰の証が持ち出されてからは、御名の権威を行使して証する作業が、より厳粛で重い意義を持つようになったと感じている。
 
こうした手続きの中で、極めて重要なことがいくつも分かった。そのうちの一つが、主に依り頼んで生きるキリスト者が、被告として訴えられるようなことは、絶対にあってはならず、また、あり得ない事態だということである。

この世には冤罪事件もあれば、スラップ訴訟もあり、誰かが被告として訴えられたからと言って、決してそのことは、その人々が何かの罪を犯した証拠を意味しない。事実無根の訴えや、不当訴訟といったものも、存在しないわけではないからだ。推定無罪の原則があり、何が事実であるのかは、審理を進めてみなければ分からない。

ところが、信仰の観点から見るならば、キリスト者が被告として訴えられることは、それだけで、深い霊的な敗北の意味を持つのである。そこには、何かしら非常に暗い運命的な意義があることを、筆者は思わないわけにはいかない。

筆者はこれまで、このささやかな信仰の証のブログのために、提訴、反訴、控訴、刑事告訴の脅しを幾度にも渡り受けたが、そうした脅し文句を聞く度に、ただちに以下の御言葉を使って、その脅しの効力を無効化し、敵の放った火矢が、筆者に届く前に、それを空中でへし折って来た。

「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

「わたしたちは、あなたのために
 一日中、死にさらされ、
 屠られる羊のように見られている」

と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。


わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:31-39)

そういう経緯があったおかげで、聖書の御言葉には、現実に、私たち信じる者を、完全に潔白な者として神の御前に立たせ、敵のすべての言いがかりに満ちた訴えを無効化することのできる絶大な意義があることを、筆者は幾度も実地で学ばされて来たと言える。

キリストの命は、私たち信じる者を、本当に一点の罪の曇りもない、しみもしわもない、完全かつ潔白な存在として立たせることができるのである。

そこで、私たちも、自分を見るとき、主がご覧になるように自分を見なければならない。神が選ばれた民であるにも関わらず、私たちに、被告として訴えられる根拠などがどうしてあって良かろうか。

キリスト者を訴えるという行為は、その者を贖われたキリストの贖いを無効にすることを目的とする行為であって、悪魔と暗闇の勢力のみが抱く願望であると言えるが、そのようなことをする力を、暗闇の勢力はそもそも持っていない。

暗闇の勢力にできることは、せいぜい嘘を振りまいて信者を脅すことだけであり、神の下された永遠の判決を覆すような力は、彼らには付与されていない。そういうわけで、それにも関わらず、キリスト者を名乗る人間が、訴えられて法廷で被告とされることには、何かしら非常に深い、暗い霊的な意味が込められており、筆者の目から見れば、それ自体が、すでに信仰的に敗北を意味することが分かったのである。

一体、自分が有罪者として訴えられている者が、どうして100%の潔白に立って、悪魔と暗闇の勢力を全身全霊で糾弾することができようか? 

そのようなわけで、私たちは、暗闇の勢力の不当な言いがかりには、決して屈してはならないのであり、敵のあらゆる訴えを断固、はねのけて、冒頭に挙げた通り、声を限りに、容赦のない宣告を突きつけ、
  
おまえたちは、××してはならない!!
××することを禁じる!!
××せよ!!

という強い命令を、実行力のある方法で発して、彼らの口を封じなければならいのであって、それ以外の「コミュニケーション」はあり得ないのである。

ところが、ある人々は、それは暗闇の勢力に対して失礼かつ残酷すぎる措置であると考える。彼らは、暗闇の勢力と毅然と向き合って、断固、命令するどころか、かえって、おずおずと

私たちは、あなたたちに××して欲しいと願っています。
××して下さいませんか?

と、もみ手ですり寄るような、弱腰な訴えを口にして、直接交渉に及ぼうとする。

彼らはそのような”礼儀”が、暗闇の勢力に対しても必要だと信じているのである。だが、それは訴えではなく、懇願であるから、そんな言葉は、悪魔と暗闇の勢力にとって、自信を増し加える根拠にはなっても、何の脅威にもならず、痛くもかゆくもない。

彼らはそういう風に、自分たちの意思を問う人間が現れれば、喜んでいついつまでも彼らが頭を下げて自分のもとに懇願しにやって来ざるを得ない状況を作り上げるだけである。

アダムとエバの敗北は、そもそも神ご自身を抜きにして、蛇と直接、口をきいた時点から始まっていた。

そこで、今日、我々キリスト者に必要なのは、聖書の御言葉の権威に固く立って、それに基づいて、闇の勢力に対して、有無を言わさぬ命令を発することだけであって、彼らの意思など問うてはいけないし、中途半端な和解も、懇願も、してはならないのである。

ところで、裁判においては、弁論が重ねられるうちに、必ずある種のクライマックスがやって来る。つまり、どこかの時点で、論敵の嘘と詭弁に満ちた脅しが最大に達する瞬間が来る。そのときが、弁論の激しさが最高潮に達する時であり、裁判のクライマックスだと言えるが、信者は、その時、敵のもたらす恐怖に打ち勝って、敵の最大の武器をへし折ることによって、彼らの武装を解除して、彼らを無力化せねばならない。

それができるかどうかが、勝敗を分ける。つまり、裁判の決着は、判決が述べられる瞬間に初めて訪れるものではなく、むしろ、判決読み上げの瞬間が訪れるよりも前に、私たちキリスト者の中で、霊的な勝利がおさめられていなければならないのである。

そういう意味で、訴訟は一か八かの賭けであってはならず、裁判官の善良な人柄や、証拠の分量や、支援者の人数や、精緻なロジックの組み立てや、運の良さにすべてを委ねるような受け身の態度では、勝利をおさめることはできない。
 
これは裁判のみならず、日常のすべての場面に当てはまることである。キリスト者は、日常生活においても、暗闇の勢力と対峙することが必要となるが、その際、敵が持っている最も強力な武器が何であるかをよく理解し、時が来たときに、これを粉砕して無効化することで、敵の武装を解除することなくして、戦いに勝利して、次のステージへ進むことができない。
 
一つの戦いをクリアできないと、いつまでもずっと同じ問題に悩まされ、脅しつけられ、圧迫されたまま、不自由の中を生きて行くこととなる。
 
私たちキリスト者には、聖書の御言葉を武器として用いて、敵の嘘と詭弁の要塞を破壊して、彼らの武装を解除し、すべてのものをキリストの御名に従わせ、不従順を罰することが可能とされていることを忘れてはならない。

「わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なもののになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(Ⅰコリント10:3-6)

さて、「最後の敵として、死が滅ぼされます。「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。」(Ⅰコリント15:26-27)とある通り、敵(悪魔)の最大の武器とは、死である。従って、悪魔と暗闇の勢力の最大の武器とは、死の恐怖によって、人々を脅かすことであると言えよう。

そこで、当然ながら、キリスト者が暗闇の勢力の武器を粉砕して、彼らの圧迫を打ち破り、勝利を収めるために必要なことも、死の恐怖に打ち勝つことである、と分かる。

このことは、王妃エステルが、ハマンの策略により、ユダヤ人の民が皆殺しにされるかも知れない危機にあった際、この脅しによる圧迫に立ち向かうために、自分自身も死を覚悟した上で、王の前に進み出たエピソードの中にも見て取れる。

私たちも、暗闇の勢力との戦いに勝利するためには、死をも厭わない覚悟で、自分をとことん主の御前に投げ出して、敵の脅しに徹底的に立ち向かうことが必要となるのである。

「今や、我々の神の救い力と支配が現れた。
 神のメシアの権威が現れた。
 我々の兄弟たちを告発する者、
 昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、
 投げ落とされたからである。
 兄弟たちは、小羊の血と
 自分たちの証しの言葉で、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」(黙示12]10-11)
 
神に従い、御言葉を地に実際として引き下ろし、御心を成就するためには、死をも厭わない決意で、主と共なる十字架において、絶えず霊的な死を帯びて、敵の脅しを打ち破ることがどうしても必要なのであり、そうした決意を抜きにして、主に従い抜いて、敵の武装を解除して勝利をおさめることはできないのである。

そこで、私たちは、敵が最大限の脅しを用いて向かって来るときには、自分自身を完全に主と共なる十字架に同形化して、これに応戦することが必要となる。この世の訴訟においても、そのような瞬間があり、言葉や証拠の争いよりも、もっと深いところで、霊的な激しい戦いが繰り広げられる。この世に現れて来る勝敗は、この領域における霊的な勝敗に沿ったものにしかならないのである。

そこで、キリスト者は、いかなる瞬間においても、まずは御言葉によって、霊的に敵の武器を無効化し、彼らの武装を解除することなくして、自由と栄光を掴むことはできないことを知るべきである。
 
とはいえ、私たちの勝利の根拠は、私たち自身にあるのではなく、カルバリの十字架で、キリストの死と復活を通して、悪魔と暗闇の勢力に下された裁きと滅びの宣告にこそある。それが、私たちが悪魔と暗闇の勢力がもたらそうとする死の恐怖に対して、すでに完全な勝利をおさめていることのすべての根拠である。

「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」(ヘブライ2:14-15)

だから、私たちがなすべきことは、いかなる嘘、詭弁、脅しを受ける瞬間にも、徹底的に十字架の原則に踏みとどまって、キリストの死を、自分自身の死として受け止め、適用し続けることによって、そこにキリストの復活の命が働いて、勝利を得るまで、御言葉を武器に戦い抜くことであると言えよう。
 
私たちを死から命へと移し出す根拠は、ただカルバリにのみ存在するのであって、十字架にかかられたキリストこそ、私たちの命の源であり、私たちの勝利、栄光、自由の源なのである。

従って、私たちの平和と自由の根拠は、決してこの世との和合にあるのではない。この世との間に軋轢を生まず、強い者たちの意向に逆らわず、世に波風立てず、ご機嫌伺いをすることによって、命を保てる者は、誰一人としていない。それどころか、そのような方法では、かえって命を失うということを、聖書は一貫して教えているのだと言えよう。

従って、私たちが世に接触する時には、深入りしないための警戒が必要である。私たちを生かしているまことの命の源がどこにあるのか、片時も忘れない用心が必要となる。

「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にして下さる。」(ヨハネ12:24-26)

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命の御霊の法則に従って支配する―朽ちる卑しいもので蒔きながら、朽ちない高貴な収穫を刈り取る

このところ、筆者は、キリスト者の人生においては、何もかも、信者が信じた通りになるということを、あらゆる機会に確かめさせられている。そして、絶大な権威を持つ主の御名を託された神の子供たちの召しについて考えさせられている。

ほとんどの人たちは、あらゆる瞬間に、自覚せずとも、何かを信じ、何かを事実として受け入れる決定を心の中で下している。たとえば、天気が良ければ、今日は良い日になるだろうと予測するが、TVで沈鬱なニュースが流されたり、どんよりした空を見れば、それに影響されて、今日という日には何も期待できないなどと気落ちしたりする。

信者の場合は、そうした予測が単なる予測で終わらず、心に確信したことが、信仰を通じて働き、事実として成就する。そこで、信者が、どんな状況でも、御言葉に約束されている神の恵みに達するまでは、決してあきらめずに進み続けるのか、それとも、状況に翻弄されて簡単に御言葉に反する現実を抵抗せずに受け入れるのかにより、信者の人生、信者を取り巻く状況は大きく変わる。

神の約束を失わないために、信者が見張り、コントロールせねばならないのは、自分の心である。

「 力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。 」(箴言4:23)

この原則は、信者が自ら主と共に絶え間のない創造行為を行い、常に恵みを天から地に引き下ろす通り良き管となるために、まずは自分自身の心の思いをしっかりと制御しなければならないことを示している。

一言で言えば、神の絶大な祝福を受けるために、信者には口を大きく開けることが求められており、目的をまっすぐに見据え、何が起ころうとも、そこから目を離さず、目的を達するまで進み続ける姿勢が必要となる。恐れに駆られて、自分の口を自分で閉じてしまうことがないよう、自分の心を見張らねばならないのである。

これまで、信者は御霊の命の法則に従って支配する存在である、ということを述べて来た。最近のオリーブ園のオースチンスパークスの連載は、奇しくも、まさに同じテーマを扱っている。

一言で言えば、信者は主の御名により、地上のすべてのものについての決定権・支配権を握っているのであり、さらに来るべき世界においても、これを行使するために、その支配権の使い方をこの地上で学ばなければならないのである。

信者にはアダムに与えられた召しである地上のすべての被造物を管理する権限が、キリストを通して託されている。そこで、信者がキリストの身丈まで成長するとは、信者の内側での信仰の増し加わりを意味し、その増し加わりは、しばしば目に見える結果を伴う。

キリストの身丈にまで成長することは、世で考えられているように、信者がキリスト教組織を拡大するために偉大な福音伝道者となることを意味せず、信者が地上の人生を通して、地上にあるものを、いかに神の御心にかなうように管理し、それによって神の栄光を表すかという度量・力量を指す。

有名なへブル書の文章は、信仰によって、私たちが目に見えない世界から、目に見える結果を引き出すことができるとはっきりと告げている。これはまさに無から有を生み出す創造行為であり、それが信仰の力である。そして、私たちはこのような形で、無から有を果てしなく生み続け、天から相続財産を地上に引き下ろし、増やし、表していかねばならないのである。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブル11:1)

信仰とは、信じる者たちがそれぞれが自らの望みに従って、目に見えない世界で創造行為を行い、自ら望んだ事柄を、事実として実体化させることを保証するものである。

私たちが望んだ事柄が、目に見えない信仰の霊的な世界で働いて、目に見える事実として結実することを、それに先立って保証するものが信仰なのである。

このような信仰のサイクル(無から有の創造)を行うためには、信者は、まず、望む(願う)という行為を行う必要がある。次に、願ったことが、まだ目には見えないうちに、すでにそれが「事実」として自分に約束されており、その成就が約束として保証されていることを、心に固く信じることが必要である。

さらに、その信念に従って、実際に、望んだものを手にするために、これを要求し、獲得するための具体的なアクションに出る必要がある。

筆者から見て、この最後のアクションである「要求する」ということは、非常に重要である。なぜなら、望んだものが実際に成就するまでには、幾多の困難があり、その困難をすべて粉砕・打破して、心に確信した目的にたどり着くために、信者には絶え間なく御言葉の約束に立って、自らに保証されたものを要求し続ける態度が必要だからである。

望んだものにたどり着くまでに、様々な困難につき当たると、たちまち諦めて退却してしまうような姿勢ではダメなのである。

無から有を生み出す行為は、天地を造られた神のなさるわざであるが、それを私たちはキリストの御名を託されていることにより、主と共に自分自身で行う権限を持つ。

御名を託されている信者は、救われた神の子供たちであるだけでなく、神の代理人としての相続人でもある。地上のものの管理を任されているだけでなく、来るべき事柄、来るべき国の管理をも任されている。

だが、信者が未熟なうちは、多くの訓練を経なければならず、その意味で、偉大な相続人であるというよりも、神の僕と呼ばれるべきかも知れない。だが、神の御心は、私たちが僕で居続けることにはない。信者が成熟した暁に、キリストと共に、神の国の跡継ぎと呼ばれるにふさわしい神の息子・娘たちになることにある。

僕、子から成人した息子・娘たちへの成熟は、私たちが神ご自身、キリストご自身とほとんど変わらないまでに絶大な権威を持つ御国の相続人となることを意味している。

しかし、そのはかりしれない意味を理解する者は、この地上には少ないかも知れない。なぜなら、神が人にご自分とほとんど変わらないほどの絶大な権限を与えられたなどということは、人にとってはまことに信じがたい事実だからである。

そして、そのことは、決して人が神と同一になることを意味しない。この世で現人神を名乗り、自らの力で神を乗り越えようとする人々は、決まって悲惨な最期を遂げる。信者にどんなに信仰が増し加わったところで、信者が神ご自身になるわけではない。

とはいえ、それにも関わらず、神は、一人一人の信者に、実際にキリストと同じほど、御子と変わらないまでの高貴な性質を約束しておられ、それに一人一人をあずからせたいと願っておられ、そのためにこそ、惜しみなく御子を私たちにお与えになられたのである。

神は唯一であり、ご自分の栄光を決して他の者にお与えにならない方である。ところが、エステル記において、王がエステルに向かって、もし彼女が願うなら、王国の半分でも与えようと述べたように(王国の半分を与えるとは、王と共に共同統治者になることである)、神はご自分の子供たちに、ご自分と同じような、共同の統治権を与えたいと願っておられる。それほどに、人に大きな期待と権限を託されているのである。

神は、天地創造以来、この目に見える地上の世界を治める役目を、人間に託されたが、それだけでなく、その目に見える世界における支配を、やがて来るべき霊的な世界(新しい天と地―御国)における支配の土台とされようとしているのである。

私たちはこのことをよく理解する必要がある。それによって、どれほど大きな権限を神が人間に付与しようとしておられるか、理解できるからである。

マタイによる福音書の第25章14節から30節までに記されているイエスの語られた有名なタラントのたとえが何を意味するのかは、それによって理解できる。

「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。

早速、五タラントンを預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、二タラントンを預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントンを預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。

さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』

主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。:主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った、『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』

主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

このたとえは、一言で言えば、信仰による創造行為を指している。たとえば、目に見える容姿、身体的特徴、知能などの卑しい体の性質が一人一人異なるように、一人一人の信者に、目に見える形で与えられている資質、才覚、賜物はそれぞれに異なっている。

しかし、それとは別に、それぞれの信者に、からし種一粒のような信仰が、御霊によって与えられている。そこで、この信仰を経由して、信者には今現在、自分が手にしている目に見える賜物を元手に、それを信仰によって何倍にも増やして、天の父なる神に栄光を帰することが求められているのである。

それが「霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」(ガラテヤ6:8)の意味である。

また、「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。」(Ⅰコリント15:43)という御言葉の意味である。

後者の御言葉は、死者の復活だけに当てはまるのではなく、無から有への創造行為のすべてに当てはまる原則である(死と復活の原則)。

つまり、このことは、この目に見える世界に生きている信者らが、目に見えるごくわずかな取るに足りないものを元手として、それらを目に見えない信仰の世界を経由させることによって、自ら望んでいるものを、目に見えない世界から、目に見える形で呼び出し(生み出し)、それによって、霊的な収穫を得て、天に栄光を帰することを意味する。

タラントのたとえでは、そのような創造行為を盛んに行い、神の栄光を表すに十分な収穫を得た僕だけが、主人の心にかなう者として、よくやったと褒められるのである。

このたとえを読む限り、たとえば、「私はしょせんどこにでもいる取るに足りない人間に過ぎませんから、信仰などあっても、どうせ大それたことなどできるはずがありませんし、そんなことは初めから望んでもいません」などと言い続けている信者は、まさに、与えられた賜物を全く活用せずに地中に埋めて隠した悪い僕と同じであることが分かる。

あるいは、「私は可哀想な人間です。私はこれまで絶えず運命に翻弄されて追い詰められて来た被害者です。こんな風に絶えず傷つけられ、卑しめられている弱い人間に、一体、何ができるでしょう。私を哀れんで下さい」などと言い続けている信者も、同じである。

確かに、人間一人一人には弱さがあり、この地上の体は、有限であり、様々な制約に縛られている、朽ちる卑しい体である。また、私たちが地上で与えられているものも、ちっぽけでささいなものに過ぎないかも知れない。しかし、少年が差し出した二匹の魚と五つのパンを、イエスが祝福して、何倍にも増やされた時と同様に、私たちは、自分に任されている、朽ちる卑しい、弱くちっぽけなごくわずかなものを使って、これを何倍にも増やし、はかりしれない天の祝福を表すことを求められているのである。

たとえば、あなたが今ごくわずかなお金を手にしているとする。そのお金を、あなたは信仰を経由することなく、地上の必要に費やすこともできるが、そうすれば、そのお金はただ消費されてなくなるだけである。

しかし、あなたはそのお金を、信仰を経由して、キリストの栄光のために、地上の必要に費やすことができる。ただ飲み食いし、買い物をして、自分の必要を満たすためだけに使うのであっても、それをキリストのために、天の栄光のために行うならば、そこで費やしたものは、ただ消費されてなくなるのではなく、さらに豊かな収穫を伴って帰って来るのである。

つまり、そこで消費されたお金は決してなくならない。これは本当のことである。(しかし、そうなるためには、真に信仰によって、神の栄光になるように使わなくてはならない。)

だが、あなたがごくわずかなお金しか手に持っていないときに、この原則を試すのには、まさに勇気と信仰が要るだろう。ごくわずかなお金しか持っていない人は、通常、これを使うことをひかえる。貧しい人たちは、そのようにして、外出も、飲食さえも、最小限度にとどめ、自分が持っているごくわずかなものを消費することを何とかして避けようとする。しかし、そのような姿勢は、まさに地中に一タラントを埋めた悪い僕と同じなのである。

もしあなたに信仰があるならば、自分が持っているごくわずかなもの(それはお金だけでなく、あなたの心、体、資質、才覚、あなた自身であるかも知れない)を、恐れの心から、なくならないように自分で握りしめ、使用を制限しようとすることをやめて、大胆にそれを消費するために差し出さねばならない。

(だが、繰り返すが、それは真に信仰によってなされなければならない事柄であって、たとえば宗教指導者など他人からの命令や、他人の期待に応えるためにやってはいけない。)

この原則を試してみることをお勧めする。信仰によって、消費すれば消費するほど、それはすり減ってなくなるどころか、かえって増えるという原則をあなたは見い出すだろう。

前回、私たちが信仰によって求めるものは、主に対するつけ払いのようなものだと書いたが、私たちは、今、地上にうなるほどの財産があって、はてしない土地を所有しているから、自分は豊かだと宣言するのではない。

それらの目に見えるものが、まだ目の前にない時に、来るべき豊かな相続財産が確かに約束されていることを信じて、これを宣言し、そこへ向かって、信仰によって一歩を踏み出すのである。
 
聖書は、主の御名によって求めなさい、と教えている。私たちが何を求めて良く、何を求めてはいけないか、という具体内容は、聖書にはほとんど書かれていない。主を悲しませると明らかに事前に分かっている悪でなければ、私たちは自分に必要なものを、どんなものでも、大胆に御座に進み出て神に希う自由を与えられているのである。文字通り、どんなものでも。

しかし、目に見える保証が目の前にない時に、その望みに向かって一歩を踏み出すことは、まさに信仰のわざである。ほとんどの信者は、目に見えるちっぽけな財布、さらに、自分のちっぽけな狭い心と相談の上、受けられるはずの祝福を自分で拒否する。そして、偉大な主人の僕であって、はかりしれない御国の相続人でありながら、まるで奴隷のように行動し、あらゆる恵みを自分で拒否した挙句、「なぜ神は私には恵みを与えて下さらないのか。なぜ私の人生はこんなに惨めで不幸の連続なのか。神よ、どうして私を憐れんで下さらないのですか」などと神に問うのである。

それが、一タラントを地中に埋めた男のたとえである。しかし、彼は自分で自分の恵みを制限しているのであって、神が彼を制限したわけではない。神は私たちにそれぞれの分に応じて、十分な人間的な個性や、能力をお与え下さり、さらに財産をもお与え下さった。それが今現在、あなたの目にどんなにちっぽけで些細なものに見えたとしても、私たちは、からし種一粒ほどの信仰を経由して、それらの目に見えているものを何倍にも拡大し、神に栄光を帰するためのはかりしれない富を生み出すことが可能なのであり、その成果を現実に期待されているのである。

そこで、あなたがもし真に豊かになりたいと願うならば、自分が持っているものを、なくならないように握りしめて、誰にも触れさせないように金庫に保管するのではなく、豊かに蒔き、散らさなければならない。それは絶え間ない消費活動であって、そのサイクルの中で、初めてあなたは獲得物を増やしていくことができる。

そのようにして信者一人一人が自分に地上で任された目に見えるものを、目に見えない信仰を経由して、どのように管理するか、どのように収穫を得るのか、得られた成果に応じて、来るべき御国における信者一人一人の権限や分が決められて行くのである。
 
このような地上での訓練を通して、最終的に、御国の相続人(神の代理人)にふさわしい権威、尊厳、支配権を持つことが、父なる神が、信者一人一人に期待されている事柄なのである。


聖霊の訓練

 以下で、私はバイクの盗難事件について書いたが、それを読んで、あまり悪い印象を受けて欲しくない。特に、それを、神に従う生活の味気なさや、虚しさの表れであるかのように誤解しないで欲しい。神は、愛する者たちの全ての必要に応えて下さり、また、私たちを悪から救い出し、守って下さる方である。神は耐えられない試練を私たちにお与えにならないし、決して、ご自身に心から従っていきたいと願っている者に、理不尽かつ意味のない事件を起こされることはない。

 私は、今回の事件もまた、上からの訓練の一つとしてやって来たのだろうと思っている。まだはっきりとは分からないが、それは私の所有物への取り扱いであったかも知れないと思う。何しろ、今回のことは、私が自分の持ち物を、天幕の中にあるものとみなし、もはや自分の所有物とはみなさないことを決意して後、起こったことである。口で言うほど、私の所有物への執着心は、完全には吹っ切れてはいない。そのことを、事件に対する私の反応が証明している。

 私たちは自分の魂が執着するもの全てについて、神の対処を受ける必要がある。ある時、私たちが自分の人生を神に全面的に捧げる決意をする。すると、その時から、神は私たちの存在そのものや、生活や、思いの中から、不要なもの全てを取り除く作業を開始される。それが、私たちの外なる人が、聖霊の訓練によって、砕かれる過程である。絶対的な献身の決意の後で、私たちの人生に起こることの中には、何一つ、偶然や、意味のない事件はない。たとえ突然に降って沸いた災いのように感じられる事件であっても、それは全て、私たちを訓練するために、上から与えられる必要な経験である。だが、不平不満の多い私たちは、いつでも、一つ一つの出来事から、神が自分に願っておられることを的確に理解できるとは限らないのだが…。

 私たちは神に自分を捧げる決意をした時から、神によって訓練されなければならない。キリストを信じれば、ただ平安と喜びだけに満ちて、毎日、優雅で快適で何不自由ない生活を一生、送れると思うのは大きな勘違いである。私たちが、本当に神がかくあれかしと願っておられる栄光の姿に近づくためには、私たちは、何度も、何度も、打ち叩かれ、失敗させられ、失望させられ、剥ぎ取られ、予想外の苦難に遭い、打ちのめされ、それらの経験を通して、この世をますます手放していかなければならない。この世からますます遠ざかっていかなければならない。私たちは途方に暮れるだろう、行き詰るだろう、しかし、それでも、主の守りの御手は、私たちから去ることはない。そこで必要とされていることは、どんな状況の中にあっても、私たちが神の采配が最善であることを信じ、神が望んでおられることは何かを理解し、それを受け入れ、従うことである。

 私の人生を振り返って言えることが一つある。それは、神は決して、信徒の意志に反して、信徒の人生に強制的に介入されるということはないということだ。ヨブは試練に見舞われた時、「主の御名は誉むべきかな」と、神を賛美することができたが、それは、裏を返せば、彼が信仰において、試練に遭うことに対して、心の準備ができていたことを示している。

 神はヨブの信仰の状態をご覧になられ、彼がどの程度、耐えられかを確認して、ふさわしい試練を与えられた。多分、今日、多くのクリスチャンは、神からのいかなる試練をも、与えられる恩恵にあずかることはできないだろう。それは彼らが、主が彼らに「与える」ことだけを願っており、主が彼らから「取られる」ことに対して、何一つ、同意しようとしないからである。かつての私の人生もそうであった。

 私が自分の所有物にしがみついて、どうしてもそれを手放そうとしなかった間、神は私の上に全く働かれず、私を無視し、目を背けておられた。しかし、私が心のどこかで、その所有物にもはや満足できなくなった時、そのような事物を大量に抱えた生活が、御心に反しており、間違っていること、そこに私の真の幸せがないことを、心のどこかで、かすかにでも理解し始め、そのような生活にうんざりし始めると、その瞬間から、ただちに、神は私の上に働きを開始された。

 しがみついていた所有物は、ほとんどの場合、あっけなく、取り去られた。それは友人であれ、家であれ、持ち物であれ、名誉や、地位であれ、誇りであれ、将来の夢であれ、みな同じであった…。神の御前に好ましくない私の所有物は、全て剥ぎ取られた。それは決して、神の側からの強制的な介入ではなく、私自身でさえ、心のどこかで、その生活が悪いものであることを分かっていたのに、それでも、私は失ったものを思って、嘆き悲しんだものだ…。二心に生きていた私の魂は、一つ剥ぎ取られる度に、大きな打撃を被った。

 クリスチャンは、自分の魂と肉体、そして所有物について、神に厳しく対処されなければならない。神が見てよしとされるのは、キリストの命を経由したもの、御霊によって生まれたものだけである。私たちの魂も、肉体も、神は肯定されない。私たちはあまりにも余計なものを持ちすぎ、神以外のあまりに多くのものに目を奪われすぎている。私たちがこの世のものを愛する時、神はそれを喜ばれない。この世の楽しみ、面白おかしい刺激、興奮、自分を楽しませてくれるあらゆる物質や、富…、そういうものを、神に徹底的に従うことを決意した時から、私たちは、一つ一つ、手放すことを学ばせられる。

 私たちが、神がかくあれかしと望んでおられる「真のあるべき人間」になるためには、物質的なものや、肉的なもの、魂的なものに惹かれる心、要するに私たちの旧創造に属する古い性質は、徹底的に滅ぼされなければならない。これは私たちが自虐的な方法で自己を取り除こうと努力すべきだという意味ではなく、聖霊が、そのような働きを私たちの上に自然に開始するのである。

 私たちの外なる人(魂と肉)は、御霊の訓練によって、打ちのめされ、剥ぎ取られ、苦しめられ、砕かれていく。その痛みを伴う学課(=日々の十字架)を受けずして、私たちがキリストの似姿へと変えられ、内なる御霊が私たちから自由に外へ向かって流れ出す日は来ない。ウォッチマン・ニーは再三に渡りそのことを述べている。以下、彼の著作から。

 「わたしたちの外なる人が砕かれるためには、わたしたちは自分自身を主にささげる必要があります。しかしながら、献身がすべての問題を解決するわけではありません。それは、わたしたちが喜んで自分自身を、無条件に、徹底的に、明確に神へささげる意図の表現にすぎません。<…>

 人が神によって用いられることができるかどうかは、献身だけにかかっているのではありません。献身がなされた後、聖霊から来る訓練がやはり必要です。これは非常に重要です。わたしたちが神に対して有用になるかどうかは、この点に大いにかかっています。<…>

 わたしたちは、自分についてしばしば無知です。わたしたちは、自分が何を通過する必要があるのか知りません。わたしたちの最も賢明な選択でさえ、間違いに満ちています。

わたしたちが必要であると考えるものは、往々にして、神によればわたしたちが実際に必要とするものではありません。わたしたちが自分の側から見るものは、全体の絵のごく一部にすぎないかもしれません。しかしながら、聖霊は神の光にしたがって、わたしたちのために事物を指図されます。聖霊の訓練は、わたしたちの思いが考え及ぶものをはるかにしのぎます。

わたしたちはしばしば、ある訓練に対して準備ができておらず、わたしたちはそのような訓練は必要ないと考えます。聖霊の訓練が実際にわたしたちを訪れる時、わたしたちは驚いてしまいます。環境の中で聖霊がわたしたちのために指図したものは、わたしたちが期待していたものではありません。聖霊からの多くの訓練が、神からの警告無しにやってきます。突如として、わたしたちは強打を被ります。

わたしたちは、自分は神の光の下で生活していると考えるかもしれませんが、神にとっては、この光は実に弱いかすかな光です。神は、それを光とは全く考えないかもしれません。しかしながら、聖霊は神の光にしたがって、わたしたちを対処されます。わたしたちは自分の状態を知っていると思いますが、実際には知っておりません。神だけがわたしたちを知っておられます。わたしたちが神を受け入れた時から、神はわたしたちの環境を整えてこられました。神が整えたものはすべて、わたしたちの最上の益のためです。神はわたしたちを知っておられ、またわたしたちの必要を知っておられるからです。

 わたしたちの中における聖霊の働きには、積極的な面と消極的な面とがあります。建造する面と取り壊す面があります。わたしたちが再生された時、聖霊はわたしたちの中に住んでおられますが、わたしたちの外なる人は聖霊の自由を制限します。これは新しい靴を履いている人に似ています。靴があまりに堅くてきついため、その靴では歩きにくいのです。

外なる人が内なる人を困らせます。内なる人は外なる人を管理できません。こういうわけで、わたしたちが救われた日から、神はわたしたちの外なる人を対処し砕いておられます。神がわたしたちの外なる人を対処されるのは、わたしたちが知覚する必要にしたがってではなく、神が見られるわたしたちの必要にしたがってです。神はわたしたちの中で何が固執するものであり、何が内なる人が管理できないものであるかを見いだされ、神が知っておられるものにしたがってわたしたちを対処されます

 聖霊は、わたしたちの内なる人を強化することによってわたしたちの外なる人を対処するのではありません。聖霊は、内なる人にさらに多くの恵みを供給することによって外なる人を対処するのではありません。これは、内なる人は強められる必要がないという意味ではありません。この意味は、神には外なる人を対処するには、異なる方法があるということです。

聖霊は、外側の事柄を手段として用いて、わたしたちの外なる人を減少させます。内なる人をもって外なる人を取り扱うことは、決して容易ではありません。なぜなら、これら二者は異なる性質を持っているからです。内なる人が、外なる人を傷つけたり砕くのは難しいことです。外なる人の性質は、外側のものの性質に対応します。すなわち、外なる人は外側の事柄に容易に影響されます。外側の事柄は、外なる人を、内なる人ができるよりももっと上手に押しつぶし、痛みを与え、傷つけることができます。こういうわけで、神は外側の事柄を用いて、わたしたちの外なる人を対処されます。」(ウォッチマン・ニー著、『霊の解放』、『p.105-109)

 さまざまな事件に遭遇する時、私たちは、すぐには神の御心が分からないことがあるだろう。望ましくない事件が起こった時には、特にそうだ。こんな事件のどこに、有意義な意味を見出せるだろう?と、私たちの心は混乱する。しかし、どんな時でも、それは私たちに必要な経験なのだ。どうか、神が私たちに光を送って下さり、一つ一つの事件を通して、神が私たちに願っておられることは何であるか、御心を理解できるよう、助けてくださいますように!

「十字架は単なる教理ではありません。それは、実行されなければなりません。十字架は、わたしたちにおいて実行されなければなりません。わたしたちに属するすべての事物は、滅ぼされなければなりません。私たちが一度、二度、また幾度も打たれていると、わたしたちが自然に目が覚める時が訪れます。…」(p.123)


 

主が与え、主が取りたもう

 今日昼ごろ、兄弟との電話での交わりを終えて、買い物をするために外へ出た。あれ、おかしいな?との疑問が脳裏をよぎった。いつもバイクを置いているはずの場所に、単車がない。
 あたりを見てみると、私が年中つけっぱなしにしていたハンドル・カバーが、植え込みの中にぞんざいに放り捨てられていた。きっと盗難だろうな…、そう思った。

 ハンドル・カバーを拾い上げ、それを持って、念のために、付近を見回りながらも、なぜか不思議に心が落ち着いていた。その上、不謹慎かも知れないが、何となく可笑しかったのだ、まあ、この道に歩む限り、何と毎日のように、事件が絶えないのだろう、と…。確かに、私は少し無用心だったかも知れない。見知らぬ土地に来たにもかかわらず、単車に何重にもロックをかけたりしなかったし、最後に使った日には、特に、確かにハンドルロックがかかっているかどうか、注意深く確かめなかった。

 だが、あのバイクは一度、車に当てられて、主軸が曲がり、全損と判定されているし、2万キロを走って、そろそろベルトの交換の時期が来ていたので、バイク屋にはこのままでは危ないと忠告されていた。前後のタイヤとブレーキ・パッドも、そろそろ取り替えなければいけない時期が来ていた。メットが壊れてしまったので、冬になる前にそろそろフルフェイスのヘルメットを買わなくちゃ、駅前に駐輪するなら、予備のロックも必要だなあと思っていたところだった。ずぼらな性格の私は、それら全部の用件を放置していた。誰が持っていったにしろ、あのまま乗り続けて、危ない事故が起きなければいいが…。

 だが、そんなことはどうでもいい。私はさまざまな土地で、何年来、同じバイクを使ってさまざまなところを走り、時には無用心な駐車や、危ない走行をすら、何度も行ってきたが、それでも、大事故や、盗難に遭ったことは一度もなかった。それは全て主の守りのおかげである。今回のことが、敵の仕業であるにせよ、何にせよ、全てのことは、神の主権の下でしか起こらない。特に、このような財産の「はぎ取り」は、神が許されない限り、決して、起きるはずがない、という確信が心にあった。

 しかも、ちょうど昨日、私は、サタンがヨブを試みることを願い出て、神に許された場面を聖書で読んだばかりだった。あり得ないほどの試練が次々と、ほぼ同時に、ヨブを見舞う。使用人や家畜は一挙に死に絶え、財産はなくなり、大切な子供たちは、不慮の事故で全員亡くなった。だが、ヨブは言う、

「わたしは裸で母の胎を出た。
 また裸でかしこに帰ろう。
 主が与え、主が取られたのだ。
 主のみ名はほむべきかな。」

 ヨブはそれでも、その上、さらなる試練に見舞われるのだが、すぐに私もヨブと同じことを祈った。主のみ名は誉むべきかな。どうぞこの事件を通して、より主に栄光が帰され、主の御名が崇められますように。私の財産など、どうでもよいのです。もとより私は、主が与えて下さるのでなければ、何一つ所有できず、主の御前に、自分の財産というものを持たないのですから…。
 まあ、一応、この世のしきたりに従って、交番に届け出て、盗難届けを作成してもらうことになって、警官がやって来るのを待っている。日々の生活は多少、不便にはなるが、構いはしない、しばらく様子を見よう。

 このところずっと、私は兄弟姉妹との交わりを通して、現代の志あるクリスチャンは、獄中のウォッチマン・ニーがそうであったように、制限の中で、神の無限な現われを体現して生きなければならないということを痛感させられていた。私たちは、時空間の制限の中に閉じ込められた中を生きているが、その制約の中から、逆説的に、神の無限の現れをこの世に豊かに流し出す、そのような管とならなければならない。

 神は霊である。だから、私たちは肉によって神の言葉を宣べ伝えるのではなく、霊によってのみ、御言葉を宣べ伝えることができる。私たちの肉体は、さまざまな制限を受けるが、神の言葉は決して制限されることはない。そこで、神は、クリスチャンのために、大変に矛盾した、しかも極限にまで矛盾した状況を作り出されることがある。神は私たちを極度の不自由の中に投げ込まれ、肉体の自由が、ことごとく奪われ、生きることさえ、ままならないような状況となって、あるいは、御言葉を語ることさえ、禁じられるような中にあって、それでも、私たちが神の無限の現れを豊かに流し出す管となることを求められるのである。それは私たちがますますこの肉体と魂に死んで、霊なるキリストを表すようになるためである。

 だから、物質界のことなど、ある意味、もうどうでもよい。決して、生きることをおろそかに考えるわけではないのだが、私の生活が、肉体が、移動の自由が、たとえどれほど制限を受け、追い詰められようとも、ただ神の御心が、私(や兄弟姉妹からなるエクレシア)を通して、より自由に地上に現されるようになりますように、私が砕かれ、閉じ込められ、制限を受けることによって、神の豊かな現れをもっと人々が知ることができるならば、ぜひともそうなりますように、と、祈ることしかできない。

 以下は昨年6月5日、まだ私が関西にいて、京都の教会に通っていた頃に書いた日記だ。この頃に書いた膨大な量の無意味な文章の中で、次の言葉だけは、真実、神を求める心から書かれていたような気がする。

「私はある法則性を学んだ。私が間違った選択をすると、それにこめられていた全ての期待が砕け散るということだ。私は日曜を休日にするために、生保の仕事を選んだ。だが、この日曜が、私に痛みをもたらすものにならないだろうか。それは怖いことだ。とても怖いことだ。そして、試練は、すでに始まっているという気がする。

 惑わしの風が強く吹いている。人の自惚れをくすぐり、好意を勝ち取り、それを担保にして、偽りを教え、自分たちの集団に緊縛し、詐欺を働く行為が全地に満ちている。自分の心の望みさえ、警戒しなければならない。ピアニストにしてあげるよと言われても、信じてはいけない。君の心の痛みは、私が分かってやれるよと言われても、信じてはいけない。どんなに私が聞きたかった言葉を言ってくれる人があらわれても、よくよくその人の行動を吟味してからでなければ、信じてはいけない。以前、私は『君は学者になる人だ』と言われ、その言葉を後生大事に温めてきたが、もうそんなことはどうでもいい。

 私の野心よ、全て消えてしまえ。物乞いにはなりたくない、誇りを失ってまで生きていたくないという思いも、消えてしまえ。私の生死は神様の掌中にあり、神様が生きよと命じる限りにおいて、私は生きていればそれで良いのだ。私の存在そのものが、風のようだ。どこから来てどこへ行くのか、私自身すら知らない。だがそれで良いではないか。神様が吹かせた風ならば、命じられるままに吹くがいい。

 自分で自分を救おうという努力はもうやめよう。決して自暴自棄になろうというのではない。生きようが死のうがどうでも良いというわけではない。私自身の心は、精一杯、豊かに 美しく生きることを望んでいる。だが、神様の御心がもし私にとって最善であるならば、御心の前に、私は自分が望み得る最高の願いさえ放棄しよう。

 それは人の言葉に従うのではない。もっともらしいクリスチャンのもっともらしい説教を聞いて、自分の願いを捨てるわけではない。人からは離れたところで、私は静かに、神様に申し上げる、私の全知識と全人生経験を合わせて下した結論さえも、あなたの御心にはかないません。だから御心を教えて下さいと。神様の思いの中で、神様の計画の中で生きることだけが、私の人生と心に最善の安らぎをもたらす秘訣なのだ。それを求めなかったことで、どれほどの傷を私は今日まで受けて来ただろう。

 私は羊として囲いの中に戻ろう。その囲いとは、決して、決して、教会というこの世の組織を意味しない。その囲いとは、神の御心なのだ。私を生かそうとして神が用意してくれた、私のための牧草地なのだ。隠れたところにあるその囲いを求めて、私は人里を離れて祈ろう。」

 この文章を書いてから一年以上が経った。既存の教会と訣別し、さまざまなことが起き、前よりも、エクレシアが近くなったように思われる。前よりも、少しばかりは光を見て、御心を知ったような気がする。私の野心も、願いも、あれから、ことごとく微塵に打ち砕かれなければならなかった。それでも、私は、今になっても、まだ完全な答えを得てはいない。隠れたところにある囲い=霊なるエクレシアを今日もまだ探り求めている。キリストを頭として、霊の一致の中に織り込まれた兄弟姉妹との交わり、彼らと共に作り上げられる霊の建造物の中で、礎の一つとなることを、求め続けている。その旅は、まだまだ続いていく…。

アブラハム、イサク、ヤコブの神

つい先日、ある青年を病室に訪ねた。
数ヶ月前、初めて彼に会おうと思いついた時、
私はまだ遠い地に住んでおり、
こんなにも早く、主が私たちを会わせて下さるとは思ってもみなかった。

私とある兄弟とは、主のすばやい采配に驚きつつ、病院へ向かった。
だが 二人の心の中には、溢れる喜びがあった。
受付で面会を申し出て、青年と三人で向き合った時、
開口一番、彼が私に向かって話し出したのは、
『アブラハム、イサク、ヤコブの神』についてだった。

私は度肝を抜かれた。
わずか数日前に、私はその本を贈呈されて、読み始めたばかりだった。
しかも、青年が話し出したのは ヤコブがもものつがいを外された話。
道中の電車の中で、私がちょうど目を通したばかりの箇所だった。

すべてが偶然とは思えない面会。
主は何を意図して、この状況を整えて下さったのだろう?

さて、クリスチャンは、
アブラハム、イサク、ヤコブの3人全ての経歴を持たなければならない、
この本の中で、W.ニーは確かにそう言っている。
アブラハムだけではダメ、イサクだけでもダメ、ヤコブだけでもダメなのだ。
この3人全ての経歴を クリスチャンは持たなければならない。

信仰の父と呼ばれたアブラハム、
彼は信仰によって、父なる神から約束の嗣業を得た。
イサクは父に従順に従い、全てのものを父から受け継いだ。
策謀家だったヤコブは 生まれつきの性格を聖霊から取り扱われなければならなかった。

この3人のうち、私たちが最も避けて通りたいのは誰だろう?
きっと ヤコブ だろう。
私たちは 自分の生まれつきの性格が 聖霊によって打ち砕かれることを好まない。
自分の性格が それほどまでに悪く 腐敗しており、
神の働きの妨げになっているとは 認めたくないのだ。

だが、主はクリスチャン人生のどこかで、私たちの性格を取り扱われる。
私たちが 持って生まれた性格に、絶望せねばならない時が来る。
天然の魂から来るエネルギーが もはや 私たちを生かさない時が来る。

青年は私に向かって言った、
「生まれつき活発な人がいたとしても、果たして、その活発な性格が、
本当に主に喜ばれるものなのか、分からないですよね。
生まれつき、内向的な人がいても、その性格が、
そのままで主に用いられるのかどうか、分からないですよね。
自分の性格を聖霊によって管理されなければ、
本当の意味で 私たちが神のために働ける日は来ないのでしょう」

私たちは注意しなければならない、
アブラハムの子孫すべてが神の民なのではない。
イサクの子孫すべてが神の民なのではない。

ハガルから出たイシマエルは 父の嗣業を受け継ぐことはできなかった。
長子の権を売り渡したエサウも 父の嗣業を受け継ぐことはできなかった。
これらの人々は、選ばれた者の血筋をひいてはいるが、本質的には
肉によって生まれた 神の民に敵対する 約束の子ではない者たちである。

バプテスマのヨハネが民に向かって言った言葉を思い出そう、
「まむしの子らよ! 
迫り来る神の怒りから逃れられると 誰がおまえらに教えたのか。
自分たちの先祖には、アブラハムがあるなどと、思ってもみるな。
神はこの道端の石からでも、アブラハムの子孫を起こすことができる!」

今、その言葉通りに 肉によれば アブラハムの子孫であるはずの民が退けられ、
肉によっては アブラハムの子孫たり得ない異邦人が 
信仰によって アブラハムの子孫に接木されて 約束の子とされた。

だが、注意しよう 約束の嗣業を受け継ぐためには、
私たちは アブラハム、イサク、ヤコブ全ての子孫でなければならない。

今日、とりわけクリスチャンに欠けているのは、
ヤコブの経歴、だろう。
信仰によって義とされ、従順に恵みを享受し、聖霊によって管理され、日々、自己を否む。
この最後のステップが 何と私たちには 欠けていることだろう。

私たちは ヤコブのように 御霊によって びっこにされなければならない。
天然の自己を失うことなくして クリスチャンは 決して神の望んでおられる完成に至ることはない。
願わくば 主が私たちを憐れんで 早くもものつがいに触れて下さるように。