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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(9)

「わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(Ⅱコリント10:3-6)

オースチンスパークスのこの度の連載は、士師記をテーマとしており、士師記に重ねて、今日の聖徒らの恐るべき弱さの原因について語るところから始まっている。これからどう展開して行くのか、非常に興味深い内容である。

「霊の力の回復」第一章 十字架についての新たな理解 (3)
 
これを読むとき、私たちの霊的な強さは、神への徹底した従順の欠如から来ることが分かる。従順とは、御言葉に従うことであり、従うためには、御言葉と反するものに決して安易な妥協をしないことが必要となる。

ある人々が教会への迫害者に対する裁判に及び、裁判外で和解したところ、賠償金の支払いを約束したはずの相手が国外へ逃げてしまったという。これなども中途半端な妥協の結果としての苦い教訓であると言えよう。

真に和解できる相手ならば良いが、約束を履行するつもりがないか、履行しない可能性のある相手との和解は禁物である。

キリスト教徒は何事においても争うべきでなく、和解を目指すべきだと言う人々がいる。しかし、この世には決して和解してはならない相手、和解が不可能な相手というものが存在する。妥協することが、福音の根幹すなわち永遠の命に関わる問題へと発展する場合があるのだ。

そのように安易な妥協を繰り返し、手を結んではならない者と妥協することが、どれほど主の民から力を失わせるか、主のための証を失わせるか、士師記における主の民の敗北の積み重ねの中に見て取れると、上記の論説でも示唆されているのではないかと思う。

しかし、妥協してはならない相手とは、この世のあれやこれやの人間というよりも、とどのつまりは、サタンである。

ところが、筆者は、最近、ある信者と話をした際に、「何でもサタンのせいにするのはサタンへの責任転嫁だ」などという発言を聞いて、心から驚愕してしまった。筆者はそれとは全く逆の考え方をしているからである。

筆者の考えを述べておこう、「どんなことでもサタンのせいにしてしすぎることはない」と。

本来、サタンが負うべきはずの重荷を、人類がどれほど不当に転嫁されて苦しんでいることか。御言葉の約束を固く信じてて、これを自分に適用しさえすれば、それが自分の重荷ではなく、サタンの重荷であることにすぐに気づいて、解放される権利があるのに、それを知らずに、悪魔から不当に押しつけられた重荷を自分の力で背負おうとして苦しんでいる信者たちがどれほどいるか。

その重荷は、御言葉に基づいて、悪魔にお返しすれば良いのである。それなのに、御言葉を適用して自由になることができるのに、それに気づかず、わざわざ自分で問題解決をせねばならないと考えて苦しんでいる人は多い。不当な重荷を押しつけられているにも関わらず、まだ自分は負うべき重荷を十分に背負っていないなどと自分を責めているのである。そして、あまつさえ、サタンに責任転嫁してはならないなどと荒唐無稽な発言を大真面目にしているのである。
 
だが、そのように無知でいる兄弟姉妹を嘲笑うこともまた禁物である。以上のようなクリスチャンの弱さを見て、「これだからニッポンキリスト教界は・・・」などと言い始めれば、まさに悪魔の思う壺である。兄弟姉妹を責めるのではなく、彼らの目をくらましているサタンをこそ責めなければならない。

(KFCのように、クリスチャンの無知を高みから見下ろしては嘲笑しているグループなどは、クリスチャンを責めながら、決して悪魔を責めようとしないところに大きな罠がある。カルト被害者救済活動が、被害者の無知を責めて、加害者を無罪放免したのと同じ理屈である。確かに、クリスチャンの弱体化は嘆かわしい問題であるとはいえ、キリスト教徒の無知を責めたり、嘲笑するような人々は、それによって、聖徒らを辱めてサタンを無罪放免する側に回っていることを思い知るべきである。)
 
かつて筆者はある交わりにおいて「サタンを責める」ことの有用性を聞かされ、そこから非常に重要な教訓を学んだと考えている。サタンを責めるなどのことは、初めは筆者にも、まるで意味のないことのように思われた。しかし、その後、不当な重荷を負わされないためには、徹底的にサタンと言い争って、御言葉に固く立って、サタンから来た重荷をサタンに跳ね返すことが必要なのだと学んだ。そして、それが可能なのだと。

もう一度、我々はどんなことでもサタンのせいにしてしすぎということはない、ということを言っておかねばならない。私たちがどれくらい解放されるかは、私たちが不当に負わされている重荷にどれほど気づいて、これをサタンに跳ね返すかにもかかっていると言えよう。筆者が多くの信者に気づいてもらいたいと願わずにいられないことは、サタンだけは、どれほど責めても、責めすぎということはなく、サタンを責めても、いかなる権利侵害も発生せず、八つ当たりにも該当せず、名誉毀損も発生しないことだ。そもそも地獄で永遠の刑罰に定められている存在に対して、私たちがどれほどひどい責め言葉を発したとしても、行き過ぎということはない。サタンには永遠の恥辱がすでに与えられているのだから、今更、回復すべき名誉などあるはずもないことは明白である。

ところが、不思議なことに、キリスト教徒を名乗っている人たちのうちかなりの数が、サタンを憎むこともなく、むしろ、サタンに同情すらしている現状があることを知って、筆者はこれに非常に驚き、嘆かわしい事態だと思っている。

聖書に記されている通り、サタンは「我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者」(黙示12:10)であり、私たちクリスチャンを日夜告発する者である。サタンがどれほど執拗に、私たちにいわれのないことで責任転嫁しては、私たちに有罪を宣告しようと機会を狙っているかは、ゼカリヤ書を見ても分かる。

「 時に主は大祭司ヨシュアが、主の使の前に立ち、サタンがその右に立って、これを訴えているのをわたしに示された。 主はサタンに言われた、「サタンよ、主はあなたを責めるのだ。すなわちエルサレムを選んだ主はあなたを責めるのだ。これは火の中から取り出した燃えさしではないか」。 」(ゼカリヤ3:1-2)

悪魔は大祭司ヨシュアを訴えたように、今日も、聖徒らを訴えている。サタンがどれほど聖徒らに濡れ衣を着せようと、日夜、神の御前で執拗に聖徒らを訴えているかを考えれば、私たちは、そのいわれのない告発から身を守るために、御言葉で武装する必要を否定することはできない。

私たちには、サタンの執拗さを上回るほどの執拗さで、サタンを神に告発することが必要なのであり、そのために、私たちは自分を贖って下さった神の約束に固く立って、御言葉を防衛の盾として自分自身に適用し、証の言葉を述べなければならないのである。

兄弟たちは、小羊の血と
 自分たちの証しの言葉とで、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」(黙示12:11)

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、”霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エフェソ6:10-18)

このように、霊の戦いは何ら荒唐無稽な作り話でもファンタジーでもない。「悪魔の策略」というものがれっきとして存在しており、これに対抗して立つために、主の力によって強められ、神の武具によって武装することが必要なのだと御言葉ははっきり述べている。

これまで当ブログでは、霊の戦いとは、暗闇の軍勢が振りまく嘘に対して、御言葉に立って反論し、激しい論戦を繰り広げ、嘘に打ち勝つことを指すと述べて来た。霊の戦いとは神社に油をまくことでもなければ、悪霊退散の祈祷を行うことでも、訳の分からなお札を家中に張り巡らすことでもない。

私たちの戦いは、悪魔の虚偽に対して、神の御言葉に固く立って反駁し、嘘を打ち破って、人々の思いの中に働く惑わしを打ち破り、この地上において、真理を浸透させて行くことである。
 
むろん、物理的な領域における戦いというものもあるとは思うが、まずもって霊の戦いとは、真理と嘘の間で戦われる激しい攻防戦なのである。そこで、私たちも日常生活において、あらゆる不当な言いがかりや圧迫を受けるであろうが、そもそも自分に非のないことで、悪魔から不当に責任転嫁される筋合いにはないということを、はっきりと言い返さなければならない。どんな些細なことであれ、心に罪悪感をもたらす重荷をきっぱりと拒否して、罪はその真の出所(悪魔)にお返しする必要がある。

その根拠となるものが、小羊の血潮による義認である。これを持って、私たちは自分がどんな事柄においても、誰にも決して責められるべきところのない完全な人だと言えるのである。

しかし、それでもサタンはあることないこと取り上げては、私たちを非難して来るであろうから、私たちはその虚偽に対しては、神に義とされた者として断固立ち向かい、神の開いた法廷の前で、日夜、サタンと対峙して、彼の罪を訴えなければならない。

クリスチャンは望むと望まざるとに関わらず、日夜、サタンから激しい論戦を挑まれ、それに対して御言葉によって勝利することが求められているのである。

ここで注目せねばならないのは、神とサタンが言い争っているのではないということだ。法廷において、対立する陣営として向き合い、論戦を繰り広げているのは、人類(聖徒ら)と悪魔であり、神は両者の言い分に耳を傾け、判決を下す裁判官の立場にある。

神がサタンの言い分に耳を傾けるのかと驚く人があるかも知れないが、ヨブに試練が与えられた時、神は、サタンがまずヨブのような義人でも試練が与えられれば信仰を捨てるだろうと述べた言葉に耳を貸されたことを思い出したい。そして、サタンの提案した挑戦の方法では、決してヨブの信仰を取り去ることができないことを示すために、神はあえてサタンの提案を実行に移すことを許されたのである。

このように、神は今日も、悪魔と信じる者たちの言い分を比較衡量される。しかし、それはサタンに勝利を与えるためではなく、サタンのすべての策略を打ち破って、神の教会が、神の豊かではかりしれない知恵を表し、それによって神に栄光を帰するためである。サタンはあらゆる脅かしを使いさえすれば、信者はみな神への信仰を捨てるものと確信している。しかし、神はそうではないことを知っておられる。知っておられるが、サタンの挑発を跳ね返して、信仰に立ちおおせて神に栄光を帰する仕事を、あえて信者に委ねておられるのである。

神と悪魔との間では、キリストの十字架においてすでに決着が着いているが、被造物の世界において、決着をつけるのは、いわば、私たちの仕事である。

神はキリストの十字架において、私たちを奴隷にしていた罪の債務証書を無効にし、破り捨てられたが、その後、今度は、私たちがサタンへの告発状を書いて、それを携えて、神の御前に立っている。

サタンも被造物であるが、私たちも被造物として、神の創造された世界の主権が誰にあるのかを争っている。悪魔は、それが自分のものだと言う。しかし、私たちはそうでなく、神のものだと言う。私たちは、サタンは不法侵入者であって、サタンが主張している主権は、神から強奪したものでしかないから無効であると訴えている。

「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。」(ヤコブ4:7)

私たちに任されている使命は、キリストの勝利を被造物の世界においても打ち立て、御名の権威を行使して、すべてのものが膝をかがめてイエスは主と告白するよう、神の主権、力、支配をこの地に来たらせることである。そのために、私たちは、サタンによる占拠が不法であり、無効であることを訴えて、立ち退きを迫っているのである。
 
私たちが被造物の世界において、御名の主権を取り戻し、かつ行使して、サタンに立ち退きを迫る根拠となるのは、キリストが十字架において悪魔の支配を打ち破られ、私たちを奴隷として拘束していた罪の債務証書を無効とし、死の力を滅ぼされたことである。

この勝利の証文を振りかざして、私たちは日夜、神の法廷において、サタンの言いがかりに立ち向かい、事実を争っているのである。敗北すれば、サタンの領土が広がる。勝利すれば、キリストの主権による支配が広がる。創世記の冒頭で、人類が蛇に遭遇し、神に従うのか、悪魔に従うのか、決断を迫られた時のように、今日も、私たちは神の御言葉と悪魔の言い分のどちらを信じて従うのか、常に決断を迫られている。

だが、創世記と異なるのは、私たちにはすでに律法を成就されたキリストが共におられ、私たちのために知恵と力となって下さっていることである。
 
繰り返すが、神は確かにキリストの十字架において悪魔に勝利を下されたが、その勝利を行使することは、私たちの日々の生活にかかっている。その勝利をこの地に実際として引き下ろし、適用し、キリストの御名によって支配される領域を拡大することは、私たち自身に任された仕事なのである。

その中で、私たちは、私たちを不当に責めるサタンを責め返し、彼に重荷を跳ね返すことがどれほど必要であるかを知らなければいけない。

繰り返すが、サタンの罪というのは、もはや天に到達するほどにうず高く積みあがっており、その上に何を増し加えたとしても、加えたことにならないほどである。サタンはいわば無限大に罪を犯している存在であって、「サタンを責めるのはお門違い」などということは決してあり得ない。
 
人類が罪を犯して堕落したことも、根本的にはサタンのそそのかしによる。確かにキリスト教徒となり神の子供として受け入れられるには、私たち自身が、罪を悔い改め、神に立ち帰ることが必要であるが、それは一度限り永遠に効力を持つものであり、悔い改めとは、悪魔に向かって永遠に懺悔し続けることではない。

すべての罪の起源は、サタンにあり、サタンこそ責められるべき張本人であることを私たちは忘れるべきではない。それを忘れて、霊的に弱体化したクリスチャンばかりを責め続けていれば、いずれ悪魔に加担する羽目になって行くのは避けられないであろう。
 
聖徒らが弱体化したことの責任も、もとを辿ればすべてサタンにあると言えるのであって、サタンにはいかなる同情も憐憫も無用であり、サタンに責任転嫁してはならないなどと言った主張は、すべて荒唐無稽である。それは私たちに真の敵が誰であるかを忘れさせ、私たちのものではない重荷を私たちに背負い込ませようとするための虚偽の策略であると言えよう。

ところが、このような話を始めると、早速、耳を閉ざしてしまう信徒たちが現れる。彼らは悪魔とは何かしら形而上の存在であって、比喩のようなものだと考えて、それが現実の存在だとは信じておらず、悪魔に立ち向かうという話を聞くと、極端なたとえ話や、冗談のような話を聞かされていると考えて、耳を背けるのである。しかし、悪魔の存在を否定すれば、その分だけ、彼らは自分たちをそそのかし、惑わす存在があることに対して無知となり、抵抗する力がなくなって、無力となるのだと言える。

敵が存在しているにも関わらず、敵などいないと考えて防衛を怠るほどに危険なことはない。攻撃を跳ね返すためには、攻撃の源を知らなければならない。しかし、多くの場合、敵からくる攻撃は、物理的なものというよりも、思想的な攻撃である。敵の要塞というものが存在する。嘘、詭弁、屁理屈、神の知恵に逆らう高慢、思いをくらます惑わしなどの策略が存在し、それらを発する要塞となる拠点も存在する。

しかし、私たちは、その要塞をも御言葉に立脚して、神の知恵により、ことごとく論破して、破壊して行くのである。以下の言葉は、預言者エレミヤだけに述べられた言葉ではない。万民祭司の今日の時代には、クリスチャン一人一人がその役目を担わなければならない召しを告げたものに過ぎない。

いつまでも弱さの中にとどまっていてはならない。神の勇士たちよ。小羊の血潮により、贖われた者として、神の義に固く立って、悪魔の嘘に対抗し、主の偉大な力によって強くなり、敵の要塞を破壊して、すべての思いをとりこにしてキリストに従わせる神の戦士として大胆に前進し、新たな領土を勝ち取りなさい。
 
「主の言葉がわたしに臨んで言う、 「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」。  その時わたしは言った、「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」。

しかし主はわたしに言われた、「あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない。だれにでも、すべてわたしがつかわす人へ行き、あなたに命じることをみな語らなければならない。 彼らを恐れてはならない、わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」と主は仰せられる。 そして主はみ手を伸べて、わたしの口につけ、主はわたしに言われた、「見よ、わたしの言葉をあなたの口に入れた。 見よ、わたしはきょう、あなたを万民の上と、万国の上に立て、あなたに、あるいは抜き、あるいはこわし、あるいは滅ぼし、あるいは倒し、あるいは建て、あるいは植えさせる」。 」(エレミヤ1:4-10)

私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」

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御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(8)

今年も冬が近づいている。このところ、筆者は特注のクリスマスケーキ作りに忙しい。もちろん、これは比喩であって、本当にクリスマスケーキを作っているわけではないのだが。

筆者は今、書類の山に埋もれ、歳末総決算となる書類を書いているところだ。

こうして文書を作ることは、どうやら筆者の生涯で、避けて通れない仕事であるらしい。おそらく、これが筆者の真の仕事なのだろう。しかし、今年はこれまでに輪をかけて大変な作業であった。ブログ記事を書くための精力も吸い取られ、文章を書く力がほとんど残らないほどだ。

しかし、今年はこれまでにない大きな収穫があったと言える。それは、これまでには、ただ筆者一人だけが、孤独の中で懸命に奮闘して、正義や真実を守るための文書を作成して来たのだが、今年は、その文書の作成を、他の人々が手助し、補ってくれたことである。

それによって、筆者はどれほど肩の荷が下りて楽になったか分からない。

筆者は今年が来るまで、真に聡明な人たちに出会って、彼らの手で、筆者のために、胸のすくような文章を書いてもらったことがなかった。もしもそういうことがあったとすれば、推薦状くらいだったであろうか。しかし、推薦状には、胸のすくような内容は一行も書かれておらず、面白い内容もない。

ところが、困難な事件に遭遇した時に、目に見えない「推薦状」を書いてくれる人たちが現れたのだ。彼らは、きっと自分たちがそんな重大な役目を果たしたとは、夢にも思っていないかも知れない。しかし、彼らは、ちょうど痒い所に手が届くように、筆者が言いたくても言えなかった言葉を代弁してくれたのだ。頼んだわけでもないのに、まさに心の中を見通したかのように、今、筆者が最も必要としていることを言い当ててくれたのだ。

こういう文章を読み聞かされるとき、生きていて良かったとでも表現するしかない、何か深い感慨が心の内側に込み上げて来る。自分によく似た人間を見つけ、理解者を得た、という感慨のようなものか。

筆者はこれまで言葉の世界に生きて来たため、常に言葉を通して、相手の人格や、心の内を確かめることに慣れている。多くの人は、外見を見て人を判断するのであろうが、筆者は、まるで目を閉じて、暗闇の中で、声だけを頼りに人を判断するように、人の発する言葉の内容を通して、その人の人柄、生き様を確かめる。

もしかすると、究極的には、初めから最後まで全く互いの姿を見ずとも、言葉さえあれば、かなり深いレベルまで、その人を理解することができるのではないかと思う。学術研究などでは、そのように時代を超えて、姿を見ることもできない人物を深くまで理解する力は助けとなる。
 
しかし、筆者の孤独は、そのような方法で、共通理解に達することのできる人がなかなかいないことであった。耳を澄ましても、賢明かつ品位ある言葉はほとんど聞くことができない。聞こえて来るのは、虐げられている人、苦しんでいる人がいても、これを踏みにじり、罵り、嘲る言葉ばかりで、彼らを救うために、必要なタイミングで、権威ある言葉が発せられるのを聞いたことがなかった。

ところが、そのような状況がどういうわけか、大きく変わって来たのである。こうして聞こえて来る解放の言葉は、筆者にとってはまるで音楽である。

筆者が自由と解放を求めて言葉を発すると、その言葉が、水面に広がる波紋のように、目に見えない形で世界に影響して行き、虚空から、こだまのように言葉が返って来る。

その言葉が、筆者の言葉と同じように、自由と解放を求める言葉であったときの感動は、表現できない。

言葉を介して、同じ考えを共有する者たちの間で、音楽が成立する。言葉と言葉が、まるでフーガのような追いかけっこをしながら、一つの調べになって行き、複数の人間が同時にそれに参加して、一つの音楽を奏で、一つのストーリーを作り上げて行く。黙示録の十四万四千人の歌は、ちょうどそんな感じではないだろうか、と思う。

それはまさに人を解放する福音の調べである。

それは、互いが必死になって自分の言いたいことばかりをしゃべって、互いに押しのけ合うような、攻撃的な言葉ではない。あるいは、自分の方が相手よりすぐれて賢明であることを思い知らせようという意図で発せられる、人を圧倒する言葉ではない。揚げ足取りでもなければ、注意や叱責や非難の言葉でもない。

それは、一つの歌なのである。筆者には考えつくこともできない、非常にすぐれて賢明な言葉が、筆者ではない他人の口から発せられる。ところが、その言葉は、まるで筆者の言葉の続きであるかのように、何の違和感もなく、筆者の言葉となじみ、一つになって行くのである。

こうして、同じ心を持つ人々が集まって、壮大な歌が作り上げられる。

そういう光景に出くわしたとき、筆者は、それまで必死に言葉を紡ぎながら、弱者を守るため、自分を守るために、神の国の権益を、信仰を守るために、文章を書いて来た仕事を、途中で投げ出したくなった。これほど優れた人たちが現れたなら、筆者のすることはもう残ってはいないと、緑の草原に仰向けに寝ころび、そのまま心地よく寝入ってしまいたい気持ちになった。

どう表現すれば良いのかも分からないが、この地上は、隅から隅まで悪人ばかりではなかったのだと、途方もない安堵の念が込み上げて来たのである。

もちろん、だからと言って、筆者は自分のなすべき作業を投げ出したりはしない。そしてもちろん、束の間、少しばかり助けてもらったと言って、誰かを過度に賞賛したり、人間に栄光を帰するつもりもない。

私たちの助け手は神であり、ここで筆者が言及している人々は、あれやこれやの特定の人間ではなく、神がその時、その時に送ってくれる必要な助け手に過ぎない。
 
さて、コメント投稿欄も閉鎖してかなりの月日が経つ。ブログを書いても反響はなくなり、あるのは悪意による中傷ばかりで、真剣な応答が見られなくなって久しい。

かつてあれほど真剣に神を求めて共に歩もうとしていた民は、生活の心配の中で散り散りになり、もはや言葉を交わすこともできない遠い領域にまで去って行った。

各種の抗議文やら、訴えやらは、愚かしい虚偽の中傷を撃退して、自分の権利を守るために、避けては通れない戦いであるから、真剣に書き記す必要があるが、それはあくまで自分の正当な権利を守るために書き記すものであって、それ以外に、何を目的とし、誰のために、何のために、文章を書き続けているのか、誰がそれを読んで理解し、賛同を示すのか、反響もなく、目的がほとんど分からないまでになっていた。

ところが、その作業の最中に、思いもかけないことが起き、筆者が途中まで歌って、疲れて歌いやめようとしていた歌の、続きを歌う人たちが現れたのである。その時、これまでこういう大変な作業を続けて来たことは、決して無駄ではなかったのだと心から感じた。

心理的な負担の大きい文書は、初めからイメージ通りに作れるものではない。芸術作品としての詩や小説を書くことと、論文を書くことは、全く異なる。さらに、論文を書くことと、訴状を書くことは全く異なる。同じ訴えを出すにしても、他人に起きた事件について書くことと、自分の遭遇した事件について書くことは全く種類が異なる。

人は自分にとって重大な意味を持つ出来事であればあるほど、その事件について、冷静に客観的に分析することができなくなる。文才のある人でも、おかしなくらいに、紙の上でしどろもどろに、ろれつが回らなくなる。

そのような大きな心理的負担の伴う作業をこなせるようになるまでには、何年間もの歳月が要るのだ。

その間に、いくつもの試作品を作り上げては、何度も書き直す。最後の最後になって、ようやく人前に出せるような、意味の通る文書が出来上がる。

だが、すでに書いた通り、最も大変なのは、人に認められる立派な形式の伴う文書を書き上げることではなく、心の整理をすることである。自分の遭遇した出来事を客観的に見つめ、自分に起きた事件が、自分のみならず、この社会全体にとって、どういう意味を持つのか、普遍的価値を見つけて、これを引っ張り出して来なければならない。そうして、起きた出来事に意味づけを行うことができた時に初めて、その文章が一人の人間の訴えを超える重みを持ち、万人に対する説得力を持つものとなる。

しかし、そうなるまでに心の整理が必要であり、それには歳月を要する。

かつては司法の場に信仰に関する争いを持ち出すことに反対していた筆者が、司法の場に決着を委ねようとしているのは、皮肉な巡り合わせのようにも感じる。しかし、筆者は、宗教界の中では、決してこのような事件について正しく決着をつけ、これを裁ける人もいなかったであろうと思う。

それは非常に残念なことであり、また、恥ずべき有様なのだが、それにしても、ここには、御子はまず真っ先にユダヤ人の救いのために地上に来られたのに、選民たちの心には彼を受け入れる願いがなく、パウロがユダヤ人に伝道したのに、ユダヤ人に拒絶され、異邦人伝道に回ったと同じようなパラドックスがあるように思う。

筆者は、クリスチャンであるが、ある意味では、かなり長い年月、この世に足をつけて生きて来た人間であり、宗教界で純粋培養された信者ではない。その筆者が、若い頃から様々な文書を作り続けて来た人間であることも、決して偶然ではあるまいと考える。

司法の場での争いの形を取っているが、その本質は、異端反駁であると筆者は感じている。

さて、カルト被害者救済活動は、これまでキリスト教界の争いを、先手を打って、司法の場に持ち出すことで、クリスチャンを脅かして来た。多くの人々は、訴訟で訴えられること怖さに、この運動の支持者から恫喝されると、たちまち反対して声を上げることができなくなった。

しかし、筆者は今、その恫喝の手段を、敵から奪ったのである。

やたら裁判という言葉を振りかざしては、クリスチャンを脅し、罪に定めようとして来た勢力の手から、司法という手段そのものを取り返したのだ。

すると呆れることに、かつてはあれほど裁判、裁判と叫んで、牧師たちやクリスチャンを非難していた人たちが、自分ではまともな文書一枚、書けなかったことが判明した。

何ということであろうか。一体、教界の中には、なぜこのようなこけおどしのレベルの恫喝に、毅然と立ち向かえる人が、一人もいなかったのであろうか。

筆者は今、自分が行っていることを、ハマンを訴えた王妃エステルの所業になぞらえるが、果たして、教界にはこの出来事の重さを理解している人々がいるのだろうかと思う。

人里に熊が下りてくれば、捕獲せねばならない。そうでなければ、里に住む人々の生活が脅かされる。熊が可哀想だなどと言っている場合ではない。小熊くらいなら、まだ命は助けられるかも知れないが、野生の親熊を野放しにしておくわけにはいかない。動物愛護法も、人間のために作られたものであって、人間を犠牲にしてまで、野生動物を助けることを目的とはしていない。人里において、野生の熊と人との生活は併存し得ない。

同様に、クリスチャンは、暗闇の勢力に対しては毅然と立ち向かわなければならない。そして、これを勇敢に撃退して、自分たちの生活の安全を守らなくてはならない。ところが、今やどうだろうか。人里には野生の熊が溢れ、人々はやられ放題、それどころか、人里にいる人間が、普段から戦争し、憎み合い、殺し合っている有様なので、彼らは熊を見ても、これを排除するどころか、どうやって熊をうまく利用して、嫌いな人間を始末できるかなどと考えている有様である。

彼らは、内心、自分の憎む同胞をかみ殺してくれた熊には、勲章を授けたいほどなのだが、大っぴらにそうとは言えないので、動物愛護法などを持ち出して、脅かされ、傷つけられ、殺された熊のために涙を注ぎ、塚を作っている。それでいながら、熊にかみ殺され、傷つけられた人間のためには一滴の涙も流さない。

このようなものは、「人里」の生活ではないだろう。このようなものは、人間の暮らしではない。人間が獣のレベルにまで堕ちてしまったのだ。ここまで堕落した倫理道徳を、どうやって引き上げ、回復できるのか。こんな「人里」を、そもそも「熊の脅威」から守る必要が本当にあるのか。

しかし、それでも、教会は、神がご自分の瞳のように愛される、神の聖なる花嫁なのである。ゴリアテが大暴れして、神を穢す言葉を吐いているときに、神はこの地上をあまねくご覧になって、そこに誰か一人でも、神の御名の永遠に揺るぎない権威であることを確信して、信仰によって、勇敢にゴリアテに立ち向かう人間がいないかを探し出される。そうして選び出されて来るダビデは、いつの時代にも、まだうら若い未熟者で、誰から見ても勇士と呼ばれるような偉大な存在ではない――。

今日、キリスト教界がどれほど弱体化したか、どれほど倫理を失ったか、どのような恐ろしい内紛に陥ったか、そんなことは、神がご自分の花嫁たる教会――エクレシアーーをご覧になられる際には、全く関係ない事柄なのである。

そういう腐敗堕落にばかり目を留めてはいけない。神はバアルに膝をかがめない勇者たちを、いつでもどこからでも選び出して来ることがおできになる。

私たちは、御名を掲げる主の民であるから、その中から、神の国の権益のために、主の民の権益を守るために、暗闇の勢力に対して、勇敢に立ち向かう新しい人となる必要がある。

敵が手にしている武器を奪還し、敵の名の記された旗を引き下ろさなければならないのだ。

筆者は本年になってから、その手法を少しずつ学んだ。そのおかげで、今や敵軍は、自分たちの名を冠した旗を恥ずべきもののように降ろし始め、遁走態勢に入っている。

私たちは、彼らが私たちの名を奪い、私たちの存在を奪って、歴史を彼らにとってのみ都合よく書き変え、私たちの存在を地上から消し去ろうとしたことに対し、全力で抵抗し、敵のやり方を逆にして、彼らに攻撃をしかけ、彼らの名を奪い取って消し去り、彼らの武器を奪い取って我がものとし、彼らの改ざんした歴史を、我々にとっての真の歴史(His-story)に戻すために、勇敢に戦ったのである。

私たちは常に、我々人間の目から見た歴史ではなく、神がこの地上をどうご覧になるかという歴史を、追求し続けている。

神が御子の命と引き換えにしてまで贖われたのは、野生の熊ではなかった。神は悪魔と暗闇の勢力を惜しまれたがゆえに、地上に御子を送られたのではない。神は人間を惜しまれ、人間を救うために、ご自分の独り子を十字架にかけられたのである。

今日、神がご自分の民と認識しておられ、瞳のように守っておられるのは、十字架に敵対し、贖いを否定し、神を穢す言葉を吐き続けている旧創造ではない。

私たちは、自分が、神が御子の命と引き換えにしてまで贖われた民であることを自覚し、キリストの血の代価が支払われた民であることを自覚し、その価値をもっと惜しまなければならない。そして、自分が何者であるかをきちんと自覚して、その尊厳を守らなければならない。

私たちは、くつわをかけて引き回さなければ言うことを聞かない愚かな家畜や、捕獲されるべき荒々しい野獣ではなく、上品で、つつましく、教養があって、礼儀正しく、何が正義であり、真実であるかをわきまえ、御心に忠実に従うことのできる花嫁であり、御霊に導かれる民なのである。

しかし、御霊に導かれる民としての品格が、今、主の民の中にどれほど残っているであろうか?

いずれにしても、荒くれ者たちは、人里から去って行かねばならない。そうして、荒れ果てた庭は、花々が咲き、人々が行き交い、小鳥たちが歌う楽しい園が回復されなければならない。

筆者自身も、危ういところまでは行ったが、少なくとも、自分の名を敵に奪われることなく、取り返すことはできた。たとえ賛同する者が誰もおらずとも、これは神の教会を、暗闇の勢力から奪還し、キリストの花嫁としての尊厳を回復するために、なくてはならない戦いなのであり、主の民が、命をかけて戦い通さなければならない信仰の歩みの一歩なのである。

筆者は2009年に「キリストの十字架以外に救いはない!」と題する記事を書き、カルト被害者救済活動のむなしいことを訴えたが、その後、もしもその筆者が、自分の掲げていた御名の記された旗をあっさり降ろしてしまえば、筆者の証しは、本物ではなかったことになろう。

それでは、筆者の救いも、本物ではなかったことになろう。

そうなれば、筆者の名は、インターネット上だけでなく、命の書からも抹消されることであろう。人前で神を拒む人間を、神も拒まれるのだから。

そこで、筆者は、神が今日も生きて力強く働かれ、ご自分の愛する民を力強く守って下さり、ご自分の愛する子供たちを、この世の終わりまで見捨てず、共にいて下さり、助け、支えて下さることを生きて証明せねばならない。

しかし、その戦いの中で、いわゆるクリスチャンを名乗る人々ではなくて、この世の信仰を持たない人々が果たした役割のことをもきっと忘れないだろう。

だが、信仰があるかないかに関係なく、私たちは、すべてのものがひざをかがめ、キリストに服従する時が来るまで、この地上に、御名の権威を記した旗を立てるために進軍している。すべての目に見えるものが、目に見えないキリストの御名に服するときまで、十字架を貫き通すことが、私たちの戦いなのである。

その中で、私たちは、ただ自分の生存を保ち、支えるというだけではなく、主の民の霊的状態を整え、貧しく、荒廃した今日の民の状態を、回復するという役割を与えられている。

それが今日の祭司としての役目である。熊の脅威が取り除かれれば、人里の復興という課題が待ち構えている。しかし、それとて、私たち一人一人が、キリストにある新しい人として、命の御霊の路線をどう生きるかにかかっている。

キリストの花嫁たる教会の回復は、私たちの内なる尊厳の回復と密接な関係がある。落胆することはない――試練が大きければ大きいほど、その中で与えられる慰め、栄光も大きいからだ。どのような試練があろうとも、最後まで御言葉に固く立って信仰を守り通した者には、命の栄冠が待ち受けている。御霊の内なる油塗りが、私たちの心の内側に、高貴な花嫁としての人格を形造ってくれるだろう。

試練が、一人一人の信者の内側に、キリストの人格を、痛みと共に彫り刻んで行く。しかし、まさにその彫刻がなされている最中には、私たちは痛みしか感じず、それが一体、何のためであるのか、どのような実を結ぶのか、理解もできないことであろう。しかし、すべてを忍び通した後には、思いもかけない栄光が待ち受けていることと思う。それは、私たちの内側に、主の花嫁にふさわしい高貴な人格が造られることである。

外面の回復ではなく、内面の回復という新たな局面に、私たちは差しかかっている。このことについてはまた追って書いていきたい。


祝福あれ、主の御名によって来る人に。私たちは主の家からあなたたちを祝福する。(2)

「義のために迫害される人々は、幸いである。
 天の国はその人たちのものである。

 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:10-12)
 
厳粛かつ喜びに満ちた朝である。戦略的なことなので今は詳しくは話せないが、最初の訴えの提起が終わり、これから順番に複合的な訴えを次々に出して行くことになる。ものすごい量の文書だ。受けとる者をさぞかし煩わせることになろう。インターネットに発表する文章にはいかなる法的価値もないが、ネット上によた言を並べるくらいなら、ちゃんとした効力を持つ文書を書いた方が良い。
 
さて、重要な日に限り、道路へ出ると仮免許の車がノロノロと前を走っていたり、渋滞に巻き込まれたりして、なかなかスリリングである。だが、心の中は実に平安だ。主よ、目的地へたどり着くまで守って下さいと祈りつつ、何だかアクション映画の主人公になったような気分だ。
 
ところで、最近、ある若い登山家が、エベレスト登頂に失敗して亡くなったという。なんとそれまで7度挑戦し、7回とも失敗した上での8度目の挑戦だったのだという。その人は登山家と呼ぶには、世界ではあまりにも無名の存在で、プロの登山家の間では、登山家としての評価はあまり受けていなかったらしい。

むしろ、世間からの応援を受けて、「登山のショー化」とでもいうべき、プロの登山家とは全く異なる挑戦を行う異色の存在として見られていた。近年は、実績がなさすぎるのに、あまりにも無謀な挑戦をしているとして、このまま行くと死の危険があるという警告すらもなされていたというのだ。まさにその危惧が的中した形となった。
 
その登山家には大企業のスポンサーやファンの数々がついて、熱烈な応援が続けられていたという。プロの登山家の目から見れば、到底、エベレスト登頂(しかもただの登頂ではなく極めて困難な挑戦)を果たす実力などなかったにも関わらず、おだてられ、祀り上げられ、担ぎ上げられて、引くに引けなくなり、毎年の失敗の後に、ついに最後の挑戦に赴き、そこで命を落としたのだという。
 
嘘の混じった感動体験の終わりは何とも悲惨なものである。束の間の高揚感の後で、手痛いツケがやって来る。担ぎ上げた人々の心にも、忘れられない苦い教訓となって残ることだろう。

この登山家は決して詐欺をやっていたわけではないが、自分の身の丈を知らず、本当の意味での登山家の精神を持っていなかったと見られる。決してこれと同列に並べるわけではないが、最近では、ピアニストとして活躍するのに十分な実力と才能があったわけでもない日本人の若者が、「シチリア公マエストロ殿下」などと詐称して、自分を偉大なピアニストに見せかけて、ヨーロッパなどで詐欺的公演活動を繰り広げていたというニュースもあった。

約10年前の日本では、日本人が国外でこのような大規模な詐欺活動を行うとは、ほとんど考えられていなかった。我が国の人々は、根気強い努力や、忍耐力で知られていた。それがここほんのわずかな間で、地道な努力を嫌い、時間をかけて高い目標を目指すのではなく、短期間で、ドーピングのような不正な方法を使って、人を出し抜き、欺きながら、虚構の実績を築き上げ、人々のアイドルとなり、大金を稼ごうとするような人々が現れるようになった。だんだんこの国が本当に壊れて来ていることを感じる。
 
ペンテコステ運動もこれに似ている。この運動からは、実に様々な「霊の器」たちが、線香花火のように束の間、現れては消えて行った。この運動では何かの超自然的な力を持っていれば、それだけで、誰でも指導者になれる。地道な教育訓練など必要ない。短い間で人々の注目を集め、華やかな舞台を作り上げることさえできれば、それが成功なのだ。彼らの「ミニストリー」は、まさにショーと呼んだ方が良いであろう。

だが、ショーであるがゆえに、それは内実が伴わない、束の間の幻のような夢でしかなく、その夢のあとで、苦い教訓が訪れる。

ペンテコステ運動から生まれて来たカルト被害者救済活動も同じである。これは『水戸黄門』や、『暴れん坊将軍』といったドラマと全く同じ、キリスト教界を舞台とした勧善懲悪のドラマである。正義の味方をきどる人達が、勇敢に次々と悪者をやっつけるというドラマを、現実を舞台にして演じ続けているのである。

観客は斬り合いの場面を見て溜飲を下げ、悪者とされた人々をさらしものにして引きずり回し、その悪事の証拠をつつき回し、非難する。

これがドラマであるうちは良いが、現実を舞台にしているところが、非常にいやらしく、恐ろしい。現実では、一人の人間が、ずっと絶え間なく正義の味方を演じ続けるなどのことは不可能だ。むろん、そうそう都合よく悪者が次々と登場して来るはずもない。

それにも関わらず、たとえばネット上で誰かが正義の味方のように発言を始めると、おかしなことが起きる。取り巻き連中が集まり、ヨイショしてショーが始まり、彼らは現実を舞台に、ずっと正義の味方を演じ続けるしかなくなってしまうのだ。

すると、どういうことが起きるだろうか? 

悪者を「製造」するしかなくなる。次から次へとドラマの材料となりそうなストーリーをかき集めて来ては、絶えず悪者を作り出し、これを糾弾するしかなくなる。

現実にはそんな都合の良いドラマがあるはずもなく、彼らに人を裁く権限もないにも関わらず、ただ自分を正義と見せかけるために、「カルトの疑いあり」と嫌疑をかける相手を終わりなく見つけて来ては、自分が勇敢に「敵」と戦い、「敵」をやっつけているという演出を行うしかなくなる。

観客は、血に飢えているので、もはや現実と虚構の区別がつかなくなり、「生きた生贄」を次々と求める。どこかで聞いたような話だ。ローマの衆愚制の末期状態の「パンと見世物」にも似ている。
 
私たちの進むべき道は、自己栄化の道ではない。自分で自分を義とし、誉めそやし、人々から注目を浴びて、群衆と手に手を取り合って歓呼されて進んで行く道ではない。

自分に都合の良いことを言ってくれる人が、真実を述べているのだという短絡的な考え方を、いい加減に卒業せねばならないのだ。

人々があなたを取り巻き、あなたにおべっかを使うのは、決してあなたを愛し、あなたのためを思っているからではない。コメント投稿者は、ただ自分の欲望を誰かに重ね、その人間に賛辞を送ることで、自分はしかるべき代価を払わずに、誰かの中に手っ取り早く夢を見、自分の代わりに、その人物を前線に立たせて自分の夢を実現するために戦わせようとしているだけだ。

要するに、あなたを破滅させるために、あなたを賞賛しているだけなのだ。

虚栄の生き方を行う人々の末路は非常に厳しいものとなる。そのようにして偽りの高みに祀り上げられた挙句、破滅することに比べれば、低められることは、イエスの過越の血潮の中に隠れることであるから、まことに幸いである。

主イエスは罪がなかったのに、罪とされ、十字架の死に至るまでの苦難を受けられた。ご自分の生きておられた時代にもてはやされることなく、宗教指導者として祀り上げられ、権威を振るうこともなく、地上では、家も、財産も、ご自分の職業も、家族も、友人も、何一つ所有せず、何も持たない人として、ご自分の生涯をすべて人々のために捧げられた。

我々の救い主が地上で栄光をお受けにならなかったのに、その僕である私たちが彼に先んじて栄光を受けるとすれば、それは何かが完全に間違った生き方であると言える。

これが試金石なのである。私たちがイエスのために、自己を否むことができるのかどうか、蔑みや、嘲笑や、悪罵の言葉をも乗り越えて、福音のために身を捧げることができるかどうか。それとも、ただ自己の栄光のために福音を利用しているだけなのか。

それをはっきりさせる何より明白な試金石である。

地上のエルサレムはそれぞれの石が残らないほどに崩壊したが、天のエルサレムにこそ、神の眼差しが注がれている。

誰がご自分の僕であり、誰が神の義に立っているかは、必ず、神ご自身が証明される。だが、私たちは、それを自分で人前に振りかざすことはしない。悪魔の不当な訴えには毅然と立ち向かい、当然ながら虚偽をのべている人々は恥をこうむることになるが、それでも、私たちがよって立つのは、神の義であって、自分自身の義ではないのだ。

地上のエルサレムは、神が遣わされた預言者らを受け入れることを拒んだ。
今の言葉で言えば、彼らは神が遣わされた預言者や僕らを、カルト扱いしたということになろう。

しかし、私たちは、心から言う、

「祝福あれ、主の御名によって来る人に。私たちは主の家からあなたたちを祝福する」と。

私たちは誰が主の御名によって来る人々であるかを見分け、彼らを追い出したり、排斥することなく、喜びを持って迎え入れる。

そう、この言葉は、私たちが「主の家」にいればこそ、言えることだ。

ダビデは言った、

主はわたしの光、わたしの救い
 わたしは誰を恐れよう。
 主はわたしの命の砦
 わたしは誰の前におのおくことがあろう。

 さいなむ者が迫り、
 わたしの肉を食い尽くそうとするが
 わたしを苦しめるその敵こそ、かえって
 よろめき倒れるであろう。

 彼らがわたしに対して陣を敷いても
 わたしの心は恐れない。
 わたしに向かって戦いを挑んで来ても
 わたしには確信がある。

 ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
 命のある限り、主の家に宿り、
 主のを仰ぎ望んで喜びを得
 その宮で朝を迎えることを。

 災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ
 幕屋の奥深くに隠してくださる。
 岩の上に立たせ
 群がる敵の上に頭を高く上げさせてくださう。
 わたしは主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ
 主に向かって賛美の歌をうたう。」(詩編27:1-6)

偽りの証人、不法を言い広める者が、ダビデに逆らって立つ時、ダビデは、はっきりと彼らの前で、神の守りと慈しみを宣言する。神が自分の頭に油を注いで下さり、敵前で食卓をもうけて下さることを確信していた。
 
「わたしは信じます。命あるものの地で主の恵みを見ることを。
 主を待ち望め。雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。」と。

命あるものの地で、主の恵みを見る。何と良い言葉ではないか。私たちはまだ見ぬ都に思いを馳せながら、主の御顔を尋ね求める。主に似た者とされるために。エクレシアは要塞をも打ち破る力を持った強力な神の軍隊。神の守りが私たちを覆い、私たちの霊・魂・肉体のすべてを人知を超えた平安により守っている。


小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国をくださるのだから!

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4:7)

さて、当方が申し立てた民事調停の第二回目の期日が開かれなかったことを、まるで当方が一方的に調停期日を「キャンセル」したかのように、自分に都合よく言いふらしている連中がいるようなので、一言断っておきたい。

普段から、裁判、裁判と叫んでいる割には、彼らは裁判手続きの詳しいことをよほど知らないらしい。当方は、申立を取り下げたわけでは全くなく、そもそも民事調停のキャンセルと不成立は全く違うものなのだ。

今回は、訴訟へ切り替えるために、裁判所に調停不成立としてもらえるよう要請を行った。後日、必要文書が裁判所から送られて来るので、それをつけて訴状を出すだけである。

民事調停は不成立になれば、これを前提として訴訟に移行することができる。その方がゼロベースから訴訟を起こすよりはるかに有利なのだ。しかも、今度は、原告の住所地の裁判所へ訴状を出すことになる。わざわざ遠方へ足を運ぶ必要がない。実に便利である。

訴えは複数、提起することになろう。しかし、この辺のことは戦略なのでブログで詳細を公にはしない。だが、本訴となれば、判決も含めて、申立の内容も、答弁書も公表されるため、誰が嘘を言っているのかは、当然ながら、万人に知れ渡ることになる。訴えに反論するためには十分な証拠が必要であり、根拠のある反論ができなければ、原告の言い分が認められるだけである。

カルト被害者救済を唱えている陣営は、案外、裁判手続きに疎いようで、この当たりのことを何も知らずに、ただ調停が開かれなかっただけで、争いは終わった、自分たちは勝った、通常通りの生活に戻ったと、恥ずかしげもなく嘘のプロパガンダを流布しているようだ。相変わらず、刑事事件も終結していないうちから、あまりにも軽率な連中である。
  
だが、考え違いをしないでもらいたいのだが、彼らのついた嘘は必ず、責任追及されることになる。当ブログは信仰告白がメインなので、裁判手続きについて細かいことは、これからも事前には決して書かない。場合によっては、事後も書かないことがあるかも知れない。今、言えるのは、こちら側では必要なアクションを着々と取って行くだけであり、脅されたからと言って退却することは決してないということである。

向き合う価値のない連中、あまりにも愚かな論争とは思うが、バアルの450人の預言者を相手取ったエリヤと同じように、勇敢に、決して途中で諦めたり、手を引くことはせず、決着をつけるまで戦い抜く所存である。

これまでも、幾度も見て来た光景なのだが、理屈の勝負となった時に、人数や力だけをよりどころとして来た連中は、絶対に勝てない。仮に向こうが当方を「口達者なだけで臆病な兎」と考えて馬鹿にし、見下げているとしても、口で筋の通った理屈を唱えられなければ、負けるのが裁判というものなのだ。そこでは、人数も図体も腕力も何の頼りにもならない。

それが証拠に、鳴尾教会との裁判で、アッセンブリー教団・村上サイドはボロ負けしている。そうなるまで、鳴尾教会の信徒の人数の減少を、村上は鬼の首でも取ったように吹聴して、さんざん上から目線で馬鹿にしていたが、その村上が負けたのだ。次には、「穴にこもった兎」と揶揄してさんざん馬鹿にしていた人間に負けることになる。事前に馬鹿にすればするほど、敗訴した時にはさらに面目丸つぶれとなろう。
 
このように、ジャイアン対のび太、ジャイアン対スネ夫の勝負であっても、ジャイアンが必ず負けるのが裁判というものなのだ。ジャイアン相手であれば、誰でも訴状を出しさえすれば、自動的に勝てると言っても過言ではない。別に口達者でなくてもよいのである。ジャイアンには腕力以外の取り柄がないので、誰にとっても恐れるに足りない。しかも、申立書は8割方出来ている。

もっと言えば、私たちはロゴスなるキリストに立脚して、信仰によって、すべてのことを行っている。私たちには、決して揺るがされることのない永遠の岩なるお方がおられる。だが、向こうには何も立脚するよりどころがない。あえて言うなら虚無の深淵、混沌から生まれて来たような、信仰のない連中である。このような闇が光に打勝つことは決してあり得ない。よろめいても、つかまる支えになるものさえ彼らにはなく、風に吹き去られるもみ殻である。

このような状況で、とある連中が、決着も着いていない争いについて、嘘のプロパガンダをさんざん流布していることは、こちらにとっては、実に好材料である。間違いなく、彼らが垂れ流す嘘は、賠償金や罪の重さに関わって来ることになるからだ。大いに油断させて、言いたい放題言わせて、周到に材料を集めながら、様子を見るのも一つの戦略で、愚か者は口が軽く、思い込みが強く、自惚れ切って、慢心しているため、自らの愚かさによって墓穴を掘るに任せよう。

ちなみに、参考までに書いておくと・・・

(被告の)名誉毀損行為が違法でないと認められるには以下の3つの条件が必要になります。
• 【公共の利害に関すること】
• 【書き込んだ目的が公共の利益を図るもの】
• 【その内容が真実である又は真実と信じる相当の理由がある】
これらを1つでも満たしていないことを裁判所に主張し、認められれば(原告の)請求が認められる可能性はあります。

これを読めば、我々にとっての戦いのハードルがどんなに低いかすぐに分かるのではないだろうか。筆者に関する誹謗中諸の書き込みは、この条件を全部満たしていない。筆者は公共性のある人間ではない。当ブログは公刊論文でもなく、宗教団体の発信したメッセージでもなく、公共の利益とは関係のない、私人の信仰告白に過ぎない。さらに、最後の真実であることの立証責任を彼らは絶対に果たせないであろう。本人でない者がこれを立証するのはもともと至難の業だからだ。

たとえば、実際に刑事告訴された人物について、事実に基づき、「誰それが刑事告訴された」とブログに書くのは、事実なので、基本的に違法行為とはみなされない。しかし、「誰それのブログ内容が犯罪的である」とか「誰それは精神疾患である」などと書き、それが名誉毀損の違法行為に当たらないと主張するためには、「誰それのブログに具体的な犯罪性があること」および「誰それが精神疾患に陥っていること」を、書いた本人や情報を掲載した者が、具体的根拠と共に立証せねばならないのである。

そこで、相手をよく知りもしないのに、根拠なく人を貶める印象批評ばかりしていれば、その記述のすべてについて、立証責任を問われることになり、それが立証できないために、誹謗中傷になって終わる。記事の削除くらいで済めば良いが、賠償請求の対象となる危険が極めて高いのだ。

だからこそ、当ブログでは結論を述べるに当たっては、必ず根拠となるソースを明白にするようにしている。画像の転載でも、安全と認められなければ、出典を記載しないことはない。こういう細かい作業は、論文の書き方の基本である。しかし、彼らの主張には根拠となるソースがいつもない。そこで、多分、彼らは反論のために論拠を探し出すだけでも、大変な苦労となるだろう。次々とネガキャンを書けば書くほど、立証責任がますます重く彼らにのしかかって来るというわけだ。

それから、もう少しだけついでに予告すると、訴えの内容如何によっては、賠償金は必ずしも判決が出てから支払いになるとは限らない。さらに、調停で一回請求がなされていると、延滞利息がつけられることもある。むろん、追加の請求が発生することは言うまでもなく…あとは、残念ながら、訴状が届いてからのお・楽・し・みだ。

そういうわけで、今、思い出されるのは、以前、筆者がこちらへ引っ越して来たばかりの頃に、筆者のバイクがいたずらで盗まれ、犯人が全員検挙された時のことだ。筆者は警察に被害届を出した際、犯人が見つかることには大した期待を寄せておらず、バイクも見つからないかも知れないと半分あきらめていた。しかし、すぐに近所で乗り捨てられていたバイクが発見され、それほどの故障もなく、十分に使用可能であったので、日常生活にはまるで支障をきたさなかった。後ほど弁護士から示談の電話がかかって来て、その時に、筆者のバイクを盗んだのは、8人くらいの少年グループで、あちこちで似た様な事件を引き起こしていたため、別の家で防犯カメラにばっちりと犯行の映像が映っていたことから、全員、面子が割れて捕まったと聞かされた。悔やまれるのは、その時、一人一人にきちんと賠償請求していれば、即座に新しいバイクが買えていたに違いないということだけである。

そこで、以前にも書いたように、村上密、杉本徳久を含め、カルト被害者救済活動の支持者らに誹謗中傷された人々は、集団訴訟に移行することを強くお勧めする。筆者はカルト団体は基本的に支持しないが、信教の自由を守る戦いにおいては、心は一つである。しかも、以上の連中は「不正に時効はない」という考え方のようなので、大昔の事件でも思う存分に追及されたら良いと思う。根拠のない脅しメール一通であっても、賠償請求に上乗せすればよろしい。迷惑を受けた宗教団体の方々は、アッセンブリー教団に公式に苦情と罷免の請求を送りつけられたらどうだろうか。当ブログでも、訴訟が開始すれば、署名なども募るかも知れない。

当ブログは、裁判沙汰やネガキャンにのめりこむことなく、この先も、あくまで基本路線の穏やかで平和な信仰告白と異端反駁を続けて行きたいと考えているが、おそらく、この事件の決着をつけることと、安倍政権の崩壊は深い所では一つにつながっているのではないかと感じられてならない。ネトウヨが跋扈して弁護士に勝ち目のない懲戒請求を送りつけるような、薄汚れた曲がった時代は早く終わらねばならない。きっと大勢の人々がそう感じているはずだ。

しかし、神の国の前進は、我々がぽかんと空を仰いでいてやって来るものではなく、一人一人のクリスチャンの毅然としたアクションにかかっている。そこで、我々は勇敢に真実を持って誠意ある行動を取るべきなのである。

「小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ12:32)

キリストの花嫁たる教会の聖と高貴さについて―キリストと共にすべての権威を超えて支配する教会―

オリーブ園に非常にタイムリーな記事が載っているため、転載したい。オースチン-スパークスの「土台のある都」 第六章 都――天の統治の座 (5)から。


三.その行政上の特徴

 教会に関して、また私たちの現在の題目である「土台のある都」としての教会のために、この手紙の中に示されている三番目の点は、その行政上の特徴です。この手紙の中にこれを明らかに示す数々の事柄が示されています。この都、この教会を構成するこの民の天的性質と霊性のゆえに、そこには一つの強力な行政上の要素があります。これに関して一つか二つの節を見ることにしましょう。

 エペソ一・二一~二二。「すべての支配、権威、力、主権、この世界だけでなく来るべき世界においても唱えられるあらゆる名を遥かに超えて高くされました。また神は、万物をキリストの足の下に服従させ、そして彼を万物の上にかしらとして教会に与えられました……」。主御自身と共に、そして教会の主権的かしらとしての彼の地位から始まります。

 二章六節。「キリスト・イエスの中で、私たちを彼と共に復活させ、彼と共に天上に座らせて下さいました」。ですから、彼の地位だけでなく彼の存在とも一つになる特権を私たちは与えられています。私たちは彼と霊的に結ばれたと見なされています。天上における彼の地位だけでなく、天上における彼の存在とも一つなのです。それはあらゆる支配、権威、力、主権等を遥かに超えています。教会は彼のこの地位とつながっています。

 三章一〇節。「それは今や天上にいる主権者たちや権力者たちに対して、教会を通して神の多様な知恵を知らせるためです」。これは行政上の要素ではないでしょうか?教会により、神は主権者たちや権力者たちという知的存在を支配しておられること、この知的存在に強い印象を与え、彼らを教え、御自分の多くの面にわたる知恵を知らせておられることは、極めて明白です。

 六章一二節から。この天上では、教会は戦いの中にあると見なされている一方で、教会は権力の座にあるとも見なされています。これは優位に立つため、優勢になるための戦いではなく、むしろ優位性を示すため、次の事実を示すための戦いです。すなわち、これらの主権者たちや権力者たちは敗北しており、天上にあるキリストとその教会とに服しているという事実です

 ここでエペソ六章と黙示録一二章とを比較する必要があります。エペソ六章では、教会は天上で主権者たちや権力者たちと格闘中であると見なされています。黙示録一二章の場合、一つの群れが悪しき者、暗闇の軍勢の激しい襲撃を受けています。その後、この群れはそれらの軍勢を天から投げ落とし、それらの軍勢が活動していた領域を統治する地位を完全かつ最終的に受け継ぎます。これがこの戦い、敵との大きな最後の戦いの終わりです。この戦いにより、敵は空中または天上の自分の場所から投げ落とされます。エペソ六章から黙示録一二章に目を向けるとよいでしょう。エペソ六章では戦い、代々にわたる戦いが進んでいます。黙示録一二章では、この戦いが最高潮に達していることがわかります。その結果、依然として天上にいたエペソ六章のこれらの軍勢は天から追い出され、もはやそれらのための場所は見つからなくなります。そして教会は天に残されて、王座の支配する地位を完全に占めます。



 以上の記事では、キリストは万物のかしらであり、万物を足の下に従わせ、「すべての支配、権威、力、主権、この世界だけでなく来るべき世界においても唱えられるあらゆる名を遥かに超えて高くされ」た方であるが、教会は、万物のうちから初穂として贖われたキリストに連なる存在として、キリストをかしらとしてその支配に服し、キリストと共に復活し、彼と共に天に座らされた者として、サタンが最終的な滅びと罰を受けるまでの間、この世を超越したキリストの目に見えない絶大な支配を、この地上において目に見える形で体現し、サタンのわざを打ち壊し、サタンを天から投げ落としながら、神の国の前進に寄与すべきミッションを負っていることが理解できる。
 
 前の記事にも書いた通り、キリスト者はこのように誰しもが、自覚しようとすまいと、暗闇の勢力との間での主権の激しい争奪戦にすでに巻き込まれているのである。
 
 それは、霊的陣地を巡る激しい争奪戦であり、戦いを開始するからには、必ず、勝利をゴールとせねばならない。
 
 この争奪戦の原則は、この世のチェスや将棋やオセロなどのゲームと基本的に同じである。戦いに勝利して、敵を敗北に追い込み、敵の財産を奪い、陣地を勝ち取り、そこに敵である暗闇の勢力の支配とは異なる、キリストの復活の命の支配を打ち立てることが目的なのである。

 パウロは次のように述べた、わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(Ⅱコリント10:4-6)

   すなわち、キリスト者は誰しも霊的戦いに遭遇しており、その戦いの中で、敵の要塞を打ち破り、敵の屁理屈をすべて打破し、敵の武装を解除して、その領土を明け渡させ、財産を分捕り、敵軍を捕虜として自らの隊列に加える権限を与えられているのである。

 キリスト者はこの戦いに無知であってはならない。霊的な敵を敗北に追い込み、捕虜として引いて行き、凱旋の行進で辱めてさらしものとして処罰を加えるまで、決して退かない覚悟を決めねばならない。
 
 だが、神の民と暗闇の勢力との間の争いについては、往々にしてクリスチャンがあまりにも未熟かつ無知なので、神の子供たちよりも、暗闇の勢力の方がはるかに狡猾で戦いに精通しており、それゆえに、先に神の子供たちに攻撃をしかけて優位に立とうとして来ることが多い。

 たとえば、カルト被害者救済活動を率いる村上密が、教会に恨みを持つ被害者を募っては、諸教会に裁判をしかけ、その教会を弱体化して、牧師を追放し、自らの教会に併合する(ブランチ化する)ということを繰り返して来たことをよく考えてもらいたい。

 彼らは、諸教会に激しい戦いをしかけて弱体化・疲弊させるために、自称被害者らを募り、その証言を利用しては、諸教会を中傷し、リーダーに悪者のレッテルを貼り、ネガティヴ・キャンペーンを張って悪評をまき散らし、信徒の離散を促し、さらに、それでも教会に残った信徒には、密偵を送り込んでは分裂工作をしかけて結束を弱め、それでも教会が陥落しなければ、教会に裁判をしかけ、教会が徹底的に弱体化したところを狙って、リーダーを追放し、教会の領土、信徒、財産を奪って、暗闇の勢力の財産に加えるのである

 このようなことは、福音伝道を主たる職務とする牧師の活動に全くそぐわないことは言うまでもないが、しかし、こうした彼らの活動は何よりも、暗闇の勢力が、村上密という一人の人間を利用しながら、神の教会に激しい戦いをしかけて、教会を弱体化させては陥落し、暗闇の領土として加えて支配するという方法論を取って来たことをよく示している。

 これは神の教会と暗闇の勢力との間で、激しい陣地の争奪戦がすでに開始していることを表している。すでに数多くの教会が脅しつけられて圧迫を受け、降伏するか、弱体化しており、Dr.Luke率いるKFCなども、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団によってすでに陥落された恥ずべき集会の一つであると言える。

 我々は、こうして、霊的な敵が、神の教会に執拗かつ激しい攻撃をしかけては教会を城のごとく陥落し、暗闇の領土に併合しようともくろんでいると分かっている以上、キリスト者の側でも、これに積極的に応戦して、敵に反撃し、敵の作戦を打破し、その悪しき計画を破綻せて、むしろ、敵の領土を奪い取って、キリストの復活の命によって支配される陣地を拡大せねばならない必要性に直面していることに気づかねばならない。

 つまり、我々は敵の望んでいることと正反対の現実が起きるよう、手を尽くして立ち向かわねばならないのである。

 敵が以上のように卑劣な方法と作戦を用いて、キリストの花嫁たる諸教会を蹂躙・冒涜し、教会から神の聖を取り除こうとしているならば、神の子供たちも、ただその作戦から自らを防御するだけでなく、これに徹底的に応戦して、敵に反撃して勝利をおさめなければならない。

 敵の中傷に対して、それが嘘であると説明して自己弁護しているだけでは全く足りない。霊的な敵どもは、神の教会を地上から殲滅・駆逐することを目的としており、その目的を成就しない限り、決して攻撃の手を休めることもなく、ターゲットから手を引くつもりもないことを理解して、これはどちらかが殲滅されるまで、決して終わらない戦いであって、神の子供たちも、決して手をこまねいていてはならず、敵と同じだけ執拗さと激しい憤りを持って、敵軍が完全に殲滅して力を失うまで、徹底的に攻撃をしかけて敗北に追い込まねばならないことを自覚すべきなのである。

 むろん、我々は誰からも戦いをしかけられていないのに、自ら誰をも攻撃する必要はないし、誰からも憎まれていないのに、誰をも憎む必要はない。

 しかし、神の教会の殲滅を目的として悪霊の思いを体現して活動している人間どもが確かに存在するという事実が分かったならば、これらの連中は完全に福音の敵であるから、それに立ち向かう過程で、容赦してはいけないことを知るべきである。彼らが自ら犯した悪事に対する処罰を受け、恥をかかされ、逃げ去り、彼らが神の教会をさらしものにして嘲笑したのと同じように、いや、その何倍も、嘲笑され、辱められ、さらしものとされる結果に追い込むまで、決して攻撃の手を緩めてはならないのである。

 なぜなら、こちらが徹底的に応戦しない限り、彼らは次々と教会に打撃を与えては教会を破壊することを決してやめないからである。キリスト者は敵のわざを完全に破壊するために、具体的な反撃を行わねばならないのである。
 
 それは、真の意味での「聖戦」であり「十字軍」である。

 ほとんどのクリスチャンは、信仰生活とは、教会で讃美歌を歌い、楽しい昼食会を開き、お気に入りの信徒たちと歓談にふけり、折り紙を折ったり、キャンプに行ったりすることだと考えており、霊的な戦いが常に進行中であることを全く知らないし、意にも解さない。

 しかし、そのような未熟なクリスチャンであっても、思ってもみない激しい攻撃をしかけられれば、さすがに何かが起きていることに気づかないわけにいかないだろう。

 だが、落胆することは全くない。戦いが起きるときには、それを機に、キリスト者の側でも、積極的に敵の要塞を打ち砕き、敵陣を我が物として勝ち取るチャンスが与えられていることを思うべきである。

 神は、我々が勇敢にその戦いを戦い抜いて、勝利をおさめることを願っておられる。

 そこで、こちら側も、勝利するまで退かない覚悟を固めねばならない。

 さて、我々が用いる武器とは、敵が用いているような肉による方法ではない。我々は聖書の御言葉に立って武装することで、敵の嘘を論破して打ち破り、彼らの暴虐を声を大にして非難し、彼らの悪事の証拠を白日のもとに晒すことで力を失わせ、また、この世のあらゆる正当かつ常識的で合法的な手段に則り、彼らを武装解除して抑える(縛り上げる)ために必要な具体的な措置を取るのである。

 そのように反撃を続けることで、我々は敵の要塞を最終的に陥落し、敵の領土を完全に明け渡させて、これを神の国の主権が及ぶ領域に加え、敵軍のリーダーとその手下たちを戦利品として勝ち取ることができる。彼らを凱旋の行列でさらし者として辱め、処罰することが可能である。

 多くのクリスチャンは、全くと言っていいほど次の重要な事実を知らない。

 すなわち、神の教会を冒涜・蹂躙することは、この世においても、来るべき世においても、重い罪に相当するにも関わらず、サタンを中傷することは少しも罪にはならないのだと。サタンにはどれほど激しい憎悪と悪罵の言葉を浴びせても、決してやりすぎということはなく、どんなに口汚い非難や冒涜の言葉でさえ、むしろ全く足りないくらいなのである。

 クリスチャンには、悪魔に対する憎しみがなくてはならない。何よりも、悪を憎む心がなくてはならない。悪魔の犯した罪が、永遠の刑罰に相当することを考えれば、クリスチャンが悪魔に対して向けるべき憎しみと非難は底なしであって当然なのだ。

 我々は贖われる前の記憶では、滅びゆくアダムである人間の一人として生まれているので、どのような人間に対しても、まずは同胞としての憐れみの感情を持つであろう。同じ人間に対して憎しみや敵意を向けたり、戦いの相手とみなすことはためらわれるはずだ。

 しかし、信仰者になった以上、我々は、ただ単に人間的なものの見方から、全ての人間を自らの同胞として考えることをやめて、神の側から物事を見、神の国の権益に立って、何が神に栄光をもたらすかという観点で物事を見るように、思考を変えて行かなくてはならない。

 その過程で、私たちは、たとえクリスチャンの同胞を名乗り、兄弟姉妹を名乗っていたとしても、明らかに贖われていないと分かる行動を取る者たち、もっと言えば、明らかに暗闇の勢力の手先となって、聖徒たちに敵対し、神の教会やクリスチャンの破壊と殲滅を願い、それを職業として実行に移しているような者たちに対しては、兄弟姉妹としての容赦や憐れみを決して持ってはいけないことを知るべきなのである。

 こういう悪しき人々の存在を利用しながら、霊的な敵が、キリスト者の殲滅と死を願って攻撃をしかけている以上、キリスト者の側が、こうした敵どもに対する憐れみや容赦を持つことは、自ら敗北を望み、死を望んでいるのと同じであり、それは憐れみではなく、取り除かれねばならない甘さ、弱さでしかないことを理解せねばならない。

 神の教会は、教会を冒涜して荒らし回る者たちの薄汚い手をはねのけて、キリストの花嫁たる高貴さと尊厳を公然と証明せねばならない。

 その根拠として、教会はすでに「すべての支配、権威、力、主権、この世界だけでなく来るべき世界においても唱えられるあらゆる名を遥かに超えて高くされ」た方の頭首権に服し、この方と共に、この方の御名によって、この世だけでなく来るべき世においても、すべての支配、権威、力、主権を超える絶大な権威を与えられていることを思うべきである。

 サタンを天から投げ落とす権威は、教会にこそ与えられている。神はその仕事を教会に託しておられるのだから、教会はその権威を大胆に行使すべきである。それによって暗闇の勢力が権威を行使していた領域を明け渡させ、そこにキリストの復活の命による支配を打ち立て、御国の前進に貢献すべきなのである。

 キリストの花嫁は、花婿なるキリストのゆえに、高貴で聖なる貴い存在であり、勇敢な戦士のように強い存在でもある。この花嫁は、決して穢れた者たちに自分を冒涜させたり、蹂躙させたりすることはせず、むしろ、最後までキリストに対する貞潔を捨てず、むしろ、穢れた者たちが、この花嫁のゆえに、恥をかかされて敗退するよう、勇敢に戦いを戦い通す。

 この花嫁は、賢い花嫁であり、花婿なるキリストが地上に来られるまでの間に、花婿に栄光を帰するよう迎えるべくすべての支度を整える。

 繰り返すが、教会は、キリストの花嫁であるから、キリスト以外の何者にも服することをせず、神の知恵に逆らうあらゆる高慢を論破し、暗闇の勢力を敗北に追い込み、その陣地と手下を戦利品として勝ち取りながら、そこにキリストの支配権を打ち立てて、神の国の前進に寄与し、花婿なるキリストに栄光を帰すべきなのである。

 悪魔がほえたけるししのごとく獲物を求めて徘徊していても、全く恐れるに足らない。勝利はキリストにあり、教会にあるのだから。