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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

虐げる者から遠く離れよ、破壊する者から遠く離れよ。――コロナ後を生き延びられる価値を思う――

・コロナ後の世界は「ぼっち」が強みを発揮できる世界

コロナのせいで食べ物屋が軒並み休業し、閉店時間が早まる中でも、筆者はできるだけ、これまで通りの生活を維持することを目指して、夜も開店を続けるユニークな店を探した。

真っ暗となった車道を走ると、道路外にほんのり灯りをともしているだけの小さなお店も目立つ。大型商業施設や、大手チェーン店が閉まっていなかったならば、発見もしなかったであろうお店をいくつか見つけた。

外観はみすぼらしくとも、味もボリュームもも程よく、深夜に、いかつい兄さんたちと並んで、真剣な表情でカウンターについても、珍しがられることはない。家族連れに遠慮する必要もなく、意外な居心地の良さがあった。混雑などするはずもない小さな店舗内に、3密を避けるため、ご協力下さいなどと、手書きの貼り紙があるのも面白い。

そんな風に、お上の自粛要請の中でも、コロナをものともせず、それまで通りの営業を続けているお店を探すと、それはすべて大手ではない、細々とやっている個人経営のようなお店ばかりだった。
 
そこに駆け込んで来る人たちの顔ぶれも、トラックの運ちゃんや、バイトの学生など、大企業でテレワークを命じられて自宅に閉じこもってなどいられない、切迫した環境にある人たちばかりだった。

営業自粛しないことを非難する人がいるかも知れないが、スーパーで買いだめもできず、家にストックをおく場所もなく、家に閉じこもっていることが土台、無理な人たちが、今日を生きるためだけに、そのお店に来ていることを、責めるのは酷であろう。

そうして、暗黙のうちに、地域の助け合いが成立している。お店の人も、むしろ、こんな時だからこそ、元気で明るい。店に来るお客を励まそうと努力し、どんな事情があるのかなど一切構わない。
 
このように、コロナ禍に立ち向かい、自分らしい生活を送り、これを維持する秘訣を、筆者は探した。そうこうしているうちに、政府や、大企業や、大手チェーン店やら、巨大な権力とネームバリューのある組織の意外なほどの脆さと、ネームバリューも権力もない地域密着型の草の根的な商売の強さを知った。
 
テレワークが可能でも、ほとんどの企業は、それだけでは収益を保てない。政府の言うことだけに黙って従っていれば、倒産を避けられない会社も多いはずだ。また、給与が100%補償されたとしても、自宅にこもり続けるサラリーマンは徐々に疲弊して行く。

コロナ禍を生き延びるためには、知恵がいる。そして、コロナを生き延びる知恵は、コロナ禍の中でも、必要なものを、必要としている人々のもとに確実に届ける名もないビジネスの中に見いだされるような気がした。

コロナは、これまでの私たちのワークスタイル、ライフスタイルを津波のごとく押し流し、大きく変えてしまった。今までは、人と群れ、大規模な集団をなし、同じリーダーのもとで、皆と同じ仕事をやり続けることが、安心、安全の秘訣であるかのように思われて来た。

何を評価するにも、とにかく人数、規模、知名度などがまず真っ先にものを言い、一極集中の波に乗ることが、成功の手段であるかのようにみなされた。その一方で、人と群れず、集団を築くことに価値を置かず、皆と同じように振る舞わず、自分で考えて一人で行動する人は、「ぼっち」などと呼ばれ、蔑まれ、のけ者にされ、憂き目を見させられてきた。

だが、コロナが、人々が一ヶ所に集まる行為自体を、危険に変えてしまった後では、価値観が逆転してしまったのである。

コロナは、どこへ行っても、大勢で幅をきかせ、他人を押しのけながら、無遠慮に会話し、我勝ちに幸福を享受していた家族連れのような集団に、大変、迷惑で自己中心な人々というレッテルを貼った。彼らは、今も大人数で行楽地に駆けつけては非難の的となり、大家族で家に閉じ込もり、不自由で窮屈な思いをせよと命じられている。

TVで露出の多かったタレントやアナウンサーにも、コロナは容赦なく襲いかかり、そこでは、知名度も何の助けにもならなかった。

プロテスタントの教会の礼拝も中止され、インターネットに切り替えられた。他国の新興宗教の信者が、危険を冒して礼拝を行ったために、感染を広げたことも、非難の的になった。これまでには、「日曜礼拝を守ることこそ、信者の第一義務!」などと言って、自分を犠牲にし、他の用事もすべて脇に置いて、何が何でも教会に駆けつけていたような信者は、恥を見ただろう。

こうして、大勢の人々が同じ時間帯に、同じ場所に集まり、同じ価値観を共有し、同じリーダーのもと、同じ作業にいそしむことで、集まった人々が特別な恩恵を享受して、そこにいない人々に比べ、有利になれるという幻想は、脆く崩れ去ったのである。
 
かえって、個人として単独で行動している人の方が、比較的安全に、はるかに自由に身動できることが分かってきた。

そのことは、決して感染のリスクの低減だけにとどまらず、あらゆることに当てはまる。コロナは、私たちの生活を塗り替え、昨日まで安定、繁栄の印のように思われていた価値観に、とどめを刺したのである。
 
コロナが明らかにしたのは、自分の頭で考えず、誰か偉い人の命令に従っているだけでは、この先、自分らしく生きることも、望んでいる幸福を手にすることもできず、豊かになることもできない、という結論であった。

そのことは、公共事業や、企業のネームバリューや、過去の成功や威信だけにすがったビジネスモデルが、この先、立ち行かなくなることをも、示しているのではないかと筆者は思う。
 
何もかもがお仕着せの、できあがったビジネスは、規模も大きく、安定しているように見えるかも知れない。だが、それは携わる人に、自分で自由に物事を決める裁量の余地を与えないため、やりがいがないし、発展性もない。

やりがいのない仕事には、やる気のない人たちしか集まって来ないので、必然的に仕事はマンネリ化し、人間関係も腐敗し、成果も出なくなる。自分では何も考えず、給料さえもらえていればそれで良いと、現状維持だけをすべてとし、面倒なことはすべて隣の他人に押しつけて、仕事をサボることこそ美徳と考えるような社員が集まる職場が出て来るのもそのためである。

そのようなビジネスでは、放っておいても、人間関係が極度に悪化して、組織が内側から瓦解して行くから、先がない。
  
そのように、自分では何も考えず、知名度や権力の大きさにすがり、ただ他人の命令に唯々諾々と従うことを是としてきた人々が、今、赤信号で立ち止まるよう命じられ、どこにも行き場がなくなっているのが現在ではないだろうか。

人はもともと、自分の自由裁量の余地がたくさんあって、これから自分が何をするのか、何のためにその仕事をしているのか、誰に教えられずとも、確かに実感できる仕事でなくては、やりがいを感じることができない。

誰に命じられるのでもなく、自分で物事を考えて決める自由を持つことが、人間の生きる力を引き出す最高の秘訣であると、筆者は確信している。
  
しかも、ただ自分のやりたいことだけをやって、自分だけが成功するために生きるのでは、本当のやりがいを見いだせない。自分だけではなく、他者の必要をも満たし、他者の幸福を助けることを目的にしなければ、長期的に成功するビジネスを行うことはできないと、筆者は考えている。
 
今、明らかになっているのは、自分の頭で何をなすべきかを考え、自分で決定することをせず、他人の指示に従って生きて来た人たちが、あたかも成功しているように見えながら、実は最も高いリスクにさらされていることではないだろうか。

信号機の色が青色であるうちは、彼らは意気揚々と進んで行けるが、赤になると、たちまち、どう生きれば良いかも、分からなくなって立ち止まり、閉じ込められた家の中で、家族の間で不毛な喧嘩が始まり、暴力を振るったり、離婚に至ったりする。

もともとしっかりした信頼関係が構築されておらず、都合の良いときの連帯があるだけだったからこそ、狭い家の中で、四六時中、ずっと一緒にいなければならなくなると、早速、人間関係の脆さが露呈するのであろう。ここでも、コロナは、家族という美名の下に、最初からあった人間関係の脆弱性を明らかにしただけである。
 
筆者は、この先、真に伸びしろがあって、人々に必要とされる事業に携わって生きたいと願うため、コロナを耐え抜き、コロナ後も生き延びるビジネスモデルとは何かを考えている。
 
コロナ後に到来する新たな価値観、これを見極めた者が、これからのビジネスにおいて勝利するのだろう。だが、そこには、決して一足飛びに派手な成果をもたらすような法則はなく、キーワードは地道な「草の根」ではないかと筆者は思っている。

昔々、「コンクリートから人へ」などというスローガンが、時の政権によって討ち出されたことがあった。それにもどこか似ているかも知れない。一極集中から地方への拡散、集団中心から個人中心の生活。家でも、職場でも、ひたすらストレスのたまる「3密」ではなく、個が中心となる新たなライフスタイルへの変化が求められているのではないか。

つまり、これまで集団によって隅に追いやられ、発言もできず、存在すらも忘れられてきた「ぼっち」にとっては、最高に強みを発揮できる時代がやって来たということである。


・自分の頭で考え、自分で決めて行動した者が勝つ

筆者の父が、筆者に早く独立するように言い聞かせていたことがあった。何年も前、筆者が様々な職場で見て来た理不尽な光景について、こんな有様は耐えられない、筆者ならばこうするのにと、改善策を語っていた時のことである。

「あなたのアイディアは面白く、経営者から見れば、利用価値があると思われるだろう。そういう観点から、あなたに目をつける人もいるかも知れない。でも、他人にアイディアを利用されるよりは、自分自身で試した方が良い。人生の残り時間は少ない。自分のしたいことを始めるのは、早ければ早いほど良い。」

と父は言った。それから何年過ぎたか分からないが、それと全く同じことを、別な人からも言われた。あなたはここにいても、自分を発揮できないだろうから、早く新しいことをした方が良いと。

だが、例によって筆者は悠長に構え、計画も熟さなかったため、そこにとどまり、以前と同じ問題に突き当たった。筆者は本当に追い詰められて、行き場がなくなり、何が何でも新しいことをせねばならないというエネルギーが極端なまでに高まるまでは、行動に至らないタイプだからである。

そんな筆者にも、ついにそのストレスが頂点に達するような時がやって来た。筆者の生長のスピードと、組織の生長のスピードが合わない。もっと多くの自由を望んでいるのに、変化を拒む硬直した入れ物に閉じ込められる。

大きく成長した魚が、狭い水槽の中に閉じ込められていれば、やがてつらくて仕方がなくなるのは当然である。それでも水槽は、自分たちのサイズは変更できないのだから、自分たちが正しいと言い張る。他方、水槽におさまりきらなくなった魚は、そんなはずはない、悪いのは、自分の成長を阻む水槽の側だと言う。

独立は、そういうせめぎあいが起きた時に、解決のために有効な選択肢の一つである。

とはいえ、筆者はこれまで自由を求めて独立した人の中に、模範となる人を見たことがないため、独立した時の展望を未だはっきりと思い描くことができないし、ただちに明日、独立することが正解だなどと言うつもりもない。

独立した者たちは、一概に、そこに高みがあり、自由があるかのように筆者に言った。だが、筆者の目には、そうは見えなかったのである。

筆者が見て来た経営者らは、筆者の生き方に自由がないと、筆者を気の毒に思っていたようであるが、筆者の目には、実は非常に狭い水槽に閉じ込められているのは、高みにいて、自由に見える彼らの方であるように見えた。

彼らは筆者から見て、極めて孤独であって、助けのない状態に置かれているように見えた。大勢の人々に囲まれているようでありながら、内心ではずっと一人のままなので、変化する機会を奪われている。また、他人を使役するだけでなく、搾取する側に立つことは、それだけで、呪われた所業であるように、筆者には感じられた。

なるほど自分のアイディアを他人に妨げられたり、かすめとられず、存分に生かせる自由があるのは良い。しかし、そこに「女房役」として、共に苦楽を分かち合い、絶えずうるさく口を出し、叱咤激励し、成功を喜び合い、あるいは誉めてくれる誰かがいなければ、その道はあまりにも孤独すぎるのではないだろうか。

自己満足のためだけに、事業を展開できるという人もあるかも知れないが、筆者にはそうは思えなかった。筆者の仕事の成果を、評価し、共に喜んでくれる誰かがいなければ、自分のためだけに、途轍もない苦労を背負って事業を続けられるとは、筆者には思えなかった。

しかも、その「女房役」は、虐げる相手ではなく、対等でなくてはならない。そのような理解者、助け手、共感者がおらず、ただ自分の目標を達成したいためだけに、事業を起こすことは、あまりに孤独で、独りよがりな道で、ほとんど不幸と言っても良い結果に行き着くしかないと思われてならなかった。

だから、自己満足だけを目的に事業を起こすことは意味がない、と筆者は考えている。誰のために、誰を喜ばせるために、新しい事業を始めるのか、そこが肝心なのである。

自分が金儲けしたいからビジネスを興すとか、有名になりたいからそうすると率直に表明し、自己満足だけを目的に、事業を始めた人を非難するつもりはない。筆者自身はそういう生き方はできないが、彼らは嘘をついているわけではない点で、非難されるべきではない。

だが、世の中には、しょせん自分の利益や、自己満足の追求に過ぎない事柄を、他者の利益の追求であるかのように見せかけ、さらには、社会貢献や、人助けを目的とするものであるかのように、美辞麗句を弄する者もいる。そのようなスローガンを掲げることは、非常に罪深い所業であると感じられたので、筆者はしたくなかった。

だから、筆者は、一体、自分はどのような「事業」に携われば、真の満足や達成を得られるのかを考えた。それは決して自分の願望の実現のためだけであってはならず、他人を使役・搾取するものであってもならず、他者に君臨して支配するものであってもいけない。むしろ、ジョージ・ミュラーが信仰により大勢の孤児を養ったように、他者に豊かに与えることが目的でなくてはならない。

さらに、その事業は、自分がこれだけのことをやったと人前に誇るためでなく、右の手がしていることを、左の手に知られないように、こっそりと人を豊かにしていくものでなくてはならない。

筆者は今までそのような事業とは何かを考え続け、未だそのモデルとなるものを発見していないが、それでも、心の内側には、自分の人生は自分で決定したいという強い願いがある。

そのため、いつも「水槽」は、筆者の成長を押し留めることができなくなり、せめぎあいの果てに、亀裂が入り、壁は崩れ落ち、ついに崩壊して、筆者を吐き出さずにはいられなくなった。そして、筆者は釈放された囚人のように、外へ出て行くのが常であった。

魚は、水槽の外に出ては生きられない、と、読者は言うかも知れない。しかし、実は水槽の外にも、海は広がっている。そこで、一つの水槽から出たからと言って、筆者の生存圏が失われ、そこで人生が終わりになるようなことは決してなかった。

そんなわけで、筆者はより広い、妨げられることなく活動できるフィールドを求め、いつかたどり着く自分の事業とは何かを考え続けている。何もかもが、最初から誰か偉い人の裁量によって決められているパッケージ、自分の裁量で物事を決める余地の全くない「水槽」の中で、思考停止状態に陥り、意欲をなくし、自分を閉じ込めた壁を憎みながら、生きて行くことはできない。

筆者は、外見的には、まだ小魚のようであるが、完全に成長を遂げたときのサイズは、とても大きく、強いので、筆者を閉じ込めようとすれば、どんな水槽であっても、結局は崩壊を免れられなくなることを分かっている。

そんな不幸な「事故」が起きるよりも前に、筆者の方からジャンプして、壁を飛び越え、水槽の外へ出るのが最善である。


・後のものが先になり、先のものが後になる時代

今回の記事は、まるで自己啓発本のようなタイトルと内容になったものの、最後に、当ブログの目的である聖書の御言葉に戻っておきたい。

この世において、器用に行動できる人々は、早々と成功を手にして、己の幸福を掴み、不器用な人たちに対して、勝ち誇っているように見えるかも知れない。

弱い人々は隅に追いやられ、声をあげることもできず、望みさえも奪われて、いつまでもずっとそんな苦しい状態が続くように感じられるかもしれない。
 
何事においてもそうだが、全ての物事をじっくりと深く考え、真相を見極めてからでなくては行動できない人々は、なかなか一歩を踏み出せないために、足踏みしながら大勢の人たちに取り残され、器用な人々に比べ、人生を周回遅れで歩いているように感じられるかも知れない。

そういう人には、以下、記事末尾に引用する御言葉を読むことを勧める。

聖書は言う、ノアの時代も、ロトの時代も、人々は飲み、食い、売り、買い、植えたり、建てたり、娶ったり、嫁いだりしながら、めいめい幸福を享受していたと。それだけでなく、彼らはそういう生活が、今日も明日も永遠に続くと思い込んで、自分たちの幸福は揺るがないと、豪語していたのである。ところが、ある日、洪水や、火と硫黄が襲って来て、その生活は一瞬で奪い去られた。

今日も同じである。今まで、飲み、食い、売り、買い、植え、建て、娶ったり、嫁いだりすることこそ、人の生活の中心、幸福の秘訣のごとく考えられて来たが、そう豪語していた人々が、突如、そういう活動の一切を、停止させられたのである。

それを見て気づくべきである。これまで繁栄の秘訣だと思われていた行動が、かえって害と見なされるようになったのは、それがもともと堅固な土台に根差していなかったからだと。早々と幸福を享受しているように見えた人たちも、永続的な土台の上に、自分の人生を打ち立てていなかったのだと。

それが真の価値ではなかったためにこそ、そうした行動は、脆さを露呈しているのであり、それを見て、今まで安楽な生活から切り離されて、除外されていた人々は、考え直すべきだと。

すなわち、真に揺るぎない幸福を掴みたければ、必要なのは、人よりも早く行動して、手っ取り早く成果を手に入れようとすることではなく、真に揺るぎない確かな価値の上に、自分の人生の土台を築くことである。

そうすれば、最初は成長が遅いように見えても、時が経てば、人に比べてはるかに多くの成果を残すことができる。

聖書は、揺るぎない価値は、ただ一人のお方、つまり、まことの神にしかないと示している。多くの人々が価値を置いて、先を争って求めている目に見えるものは、すべて永遠でなく、神に創造された被造物、物質世界の消え行く産物でしかない。

飲み、食い、売り、買い、娶ったり、嫁いだりするという刹那の行動に価値があるわけではなく、永遠に変わることのないお方に価値を置いて、その方に従い、その方に栄光を帰して生活を送るからこそ、人の生活のすべての行動に価値が出て来るのである。

己の幸福、己の満足だけを第一に求めて生きても、その人生には残るものはない。

だから、永続する幸せを手に入れたいと願うならば、まず神の国と神の義を第一として生きることである。そうしていれば、その他のすべてのものは、気づくと、添えて与えられる。

まことの神が、信仰によって生きる義人を、信仰のない人々よりも、貶められた立場に捨て置かれることは決してない。神はご自分の羊を、すべての危機から救い出し、自由と解放に導かれる。

どのような武器も、その人を攻撃するには役に立たず、どんな裁きも、その人を罪に定めることができないように守ると言われる。

その一方で、まことの神に従わないすべての人々は、どれほど富んでいるように見えても、最後には、罪に定められ、恥を被ることになる。

だから、コロナを機に言えることは、これまで述べて来たことと同じである。私たちは、まことの神に従うために、多くの人々に理解されずとも、狭き門を行くべきである。

まことの神などどうでも良いと考え、大勢の人々と共に生きるために広き門をくぐてはならない。正しい選択をなすべきである。

喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。
 歓声をあげ、喜び歌え
 産みの苦しみをしたことのない女よ。
 夫に捨てられた女の子供らは
 夫ある女の子供らよりも数多くなると
 主は言われる。

 あなたの天幕に場所を広く取り
  あなたの住まいの幕を広げ
 惜しまず綱を伸ばし、杭を堅く打て。

 あなたは右に左に増え広がり
  あなたの子孫は諸国の民の土地を継ぎ
 荒れ果てた町々には再び人が住む。

 恐れるな、もはや恥を受けることはないから。
 うろたえるな、もはや辱められることはないから。
 若いときの恥を忘れよ。
 やもめのときの屈辱を再び思い出すな。

 あなたの造り主があなたの夫となられる。
 その御名は万軍の主。あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神
  全地の神と呼ばれる方。

 捨てられて、苦悩する妻を呼ぶように
 主はあなたを呼ばれる。
 若いときの妻を見放せようかと
  あなたの神は言われる。

 わずかの間、わたしはあなたを捨てたが
 深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。

 ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが
  とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと
  あなたを贖う主は言われる。

 これは、わたしにとってノアの洪水に等しい。
 再び地上にノアの洪水を起こすことはないと
  あのとき誓い
 今またわたしは誓う
 再びあなたを怒り、責めることはない、と。

 山が移り、丘が揺らぐこともあろう。
 しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず
  わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと
  あなたを憐れむ主は言われる。

 苦しめられ、嵐にもてあそばれ
 慰める者もない都よ
 見よ、わたしはアンチモンを使って
  あなたの石を積む。サファイアであなたの基を固め

 赤めのうであなたの塔を
  エメラルドであなたの門を飾り
 地境に沿って美しい石を連ねる。

 あなたの子らは皆、主について教えを受け
  あなたの子らには平和が豊かにある。
 あなたは恵みの業によって堅く立てられる。

 虐げる者から遠く離れよ
  もはや恐れることはない。
 破壊する者から遠く離れよ
  もはやそれがあなたに近づくことはない。

 見よ、攻め寄せる者があっても
  わたしによらずには何もなしえない。
 攻め寄せる者はあなたの前に倒れる。

 見よ、わたしは職人を創造した。
 彼は炭火をおこし、仕事のために道具を作る。
 わたしは破壊する者も創造してそれを破壊させる。

 どのような武器があなたに対して作られても
 何一つ役に立つことはない。
 裁きの座であなたに対立するすべての舌を
  あなたは罪に定めることができる。
 これが主の僕らの嗣業
 わたしの与える恵みの業だ、と主は言われる。
(イザヤ第54章)

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あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死にそこに葬られたいのです。

「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女にお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(マルコ10:6-9)

「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、
そんなひどいことを強いないでください。
わたしは、あなたの行かれる所に行き
お泊りになる所に泊まります。
あなたの民はわたしの民
あなたの神はわたしの神。
あなたの亡くなる所でわたしも死に
そこに葬られたいのです。
死んでお別れするならともかく、
そのほかのことで
あなたを離れるようなことをしたなら、
主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」(ルツ1:16-17)

* * *

先日の和解協議において、被告Aは訴えを取り下げろ、さもなくば和解しない、という条件を提示して来た。

一つ前の協議において、被告Aは双方からの控訴の取り下げを和解の条件としていたにも関わらず、その要求をさらに拡大して、原審において、ちょうど被告Bと息を合わせて筆者に反訴を予告したときと同じように、筆者が訴えそのものを取り下げなければ、和解協議を決裂させるぞと言って、自らにとって不利な判決を撤回させようとして来たのである。
  
それに伴い、彼ら(人物は特定できないし、いかなる協力関係があるのかも不明だが、あえて「彼ら」と表記しておく)は、まずは当サイトの名前を悪用した権利侵害サイトを作り、そこにおいて、筆者のドッペルゲンガーを作って、彼らの前にひざまずかせ、懺悔させ、訴えの取り下げの「リハーサル」を行わせた上で、現実に行われた和解協議の場においても、訴えの取り下げを要求し、掲示板においても、匿名の投稿者が次のような投稿を行って、訴えを取り下げなければ、ひどい目に遭うぞと予告したのである。



これを見れば、筆者が向き合っている相手が、いかにまともではない人々であるかということが誰にでもよく分かるであろう。
 
しかも、こういう投稿は、これまでにも絶えまなく行われて来たのであって、何ら珍しい内容でもない。要するに、ブログを執筆するのをやめなければ、人生が破滅するぞと脅していた今までと同様である。

結局のところ、彼らはこう言っている。「被告らに対する訴えを全面的に取り下げないと、なしりすましサイトを100個作るぞ。それから、あんたを何重にも提訴・刑事告訴してやる。和解協議が決裂するくらいのことでは済まない。犯罪者にされていいのか。人生が破滅するんだ。考え直せ」

彼らは、何としても、筆者に訴えそのものを取り下げさせることで、判決を無効にしたいのである。
 
命が惜しいなら、主張を撤回せよとの「踏み絵」である。
 
控訴審では、秘匿の措置が認められていないので、判決に向かってためらいなく突き進めない事情がある。それを分かった上で、裁判所も判決言い渡し日をあえて未定としており、和解協議を勧めたのであり、さらに、被告Aも以上のような条件に、筆者が応ずるよう迫っているのである。

しかしながら、筆者はこの訴訟においては、もともと完全な敗訴もしていないし、完全な勝訴もしていない。さらに、被告Aは何年間にも渡り、筆者を告訴しようとしても、できなかった経緯があるため、この先も、告訴が受け入れられる見込みはまずないものと考える。

被告Bについても、被告Bが筆者を告訴したと主張する前から、筆者自身がすでに被告B対策を幾重にもして来たのであり、先週もさらに大量の資料を警察署に送って備えとしたところである。

さらに、以上のような投稿がなされたのを皮切りに、掲示板も、これまでは文体などが投稿者の身元の確認に役立つと考えて様子を見て来たのだが、そろそろ時期が来たと判断した。発信者を特定してIPアドレスを警察に提供し、犯人を告訴し、損害賠償請求訴訟を提起するための準備に入る。

だから、掲示板が聖域になるなどといった考えは捨ててもらわなければ困る。身元が特定された暁には、当然のこととして、人物が公表される可能性があることを十分に考慮してもらわなくてはならない。そうなれば、手が後ろに回るのは、こうして藪の中から石を投げて無責任な生き方をしている匿名の投稿者なのであって、筆者ではない。投稿前によく考えることをお勧めするのみである。
 
さて、和解協議において、被告Aから訴えを取り下げないと、和解に応じないとの条件が、裁判官を通して告げられたとき、筆者は尋ねた。

「判決が下された後に訴えを取り下げたらどうなるのですか?」
「判決は法的には効力を失うでしょう」

筆者はしばらく言葉を失った。判決を無効にしたならば、賠償も行う義務はないのであって、何のための和解なのか。ごくわずかな金銭と引き換えに、命に等しい約束を手放させようなどというこの卑劣な条件に、心の底から憤りが込み上げて来た。

ここに懐剣があれば良いのに・・・、との思いが脳裏をよぎった。

もちろん、裁判所には小刀一つ持ち込むことはできないが、筆者は、まるで武家の娘になったような気分で、裁判官の前で、黙って懐剣を差し出し、テーブルの上に置くことができればいいのに・・・との思いに駆られた。

「一体、あなた方は、私を誰だと思っているのですか。私がはした金と引き換えに、個人情報を開示されたくないとか、提訴や告訴をされたくないなどという願いと引き換えに、自分を生かすと言ってくれた人の言葉をやすやすと裏切って、命乞いをするような女だと、本気で思っているのですか? あなた方はあまりにも大きな考え違いをしています。そんなことをして自分の操を穢すくらいなら、私はいっそこの場で自分の命を絶って、この先の世界を一瞬たりとも見ないで済むことを願います。」

むろん、筆者は自殺などするつもりもない。以上は単なる比喩である。しかし、そのような思いが込み上げて来たとき、筆者は同時に、何かえも言われぬ感動を覚えた。

いつの間にか、判決は、筆者にとって、もはや二度と離れることのできない、かけがえのない命となり、友となっていた。これがあったからこそ、今日まですべてを耐え抜き、控訴審まで来ることもできたのだ。

これは筆者の苦悩を深く理解し、ねぎらってくれた裁判官が、その善良な思いのすべてをかけて、筆者に「生きよ」と命じてくれた、忘れ形見のような命である。

この判決と引き離されるくらいなら、筆者は、むしろ、死を選ぶ。この宣言を自分で否定して、これまで戦ったプロセスを自分ですべて否定して、抜け殻となった宣言を手に生きるくらいならば、喜んですべての苦難を引き受け、何重にも告訴・提訴された上、潔く死に追いやられることを願うだろう。

敵は何でも願うことを筆者に対してすれば良い。だが、筆者はそのすべてを恐れない。全く恐れないし、逃げようとも、隠れようとも思わない。筆者は全力でそのすべてに立ち向かい、提訴されるなら反訴するし、告訴されるなら、虚偽告訴罪を主張して、どんなに訴訟が泥沼化しようと、命の限りを尽くして徹底的に立ち向かい、彼らの常軌を逸した残酷さを証明し、身の潔白を証しする機会とするだけである。
 
筆者が恐れるのは、自分に害を加えられることではなく、自分を愛し、かばい、助け、命を与えようとしてくれた人の言葉を裏切って、否定することなのだ。そうして、自分一人だけ、身の安全を保ち、生き延びようとして、再び、真っ暗闇の世界に投げ出され、その挙句、栄誉だけでなく、命をも失うことなのである。

確かに、判決は人間の言葉であるため、神の御言葉のように完全なものではないが、自分に命を与えてくれた権威ある裁判官の判決を否定し、裏切ることは、神の御言葉を否定し、裏切ることにも通じるほどの恐ろしい効果がある。

判決を保とうとすることが、筆者の破滅につながるのではなく、逆に、筆者を生かし、守る命である判決を裏切り、これを否定し、捨てることこそ、筆者の身の破滅につながるのである。

それは、聖書がファンタジーだと言って、聖書の神の御言葉の正しさを否定している人が、その後、正常な意識を保って生きられなくなるのと同じである。

被告らは、筆者のブログをファンタジーだ、創作だと言っているが、その背後には、聖書の神の御言葉の揺るぎないことを否定しようとする思いがある。だからこそ、彼らは権威ある裁判官の下した判決にも服さず、これを何とかして自分たちの言葉で飲み尽くし、否定し、覆そうと試みているのである。

それは彼らが自分たちは裁判官よりも上に立っていると考えていることの証拠である。しかし、 聖書の秩序はこれとは逆であり、死ではなく、命が死を飲み尽くすのだ。

だから、この踏み絵を踏んではならない・・・ということが、筆者には実によく分かった。

この訴訟を提起した時、筆者には支援する者はなく、ただ一人、裁判官が、筆者の心を知っており、これを汲み上げてくれた。その後、裁判官が下してくれた判決は、筆者に命を吹き込んで、新たな場所へと導き、そこで新たな人々に出会わせてくれ、かけがえのない助言者や、理解者をも与えてくれた。

以前は支援者もなかったが、今はもうそうではない。職場も、同僚も、筆者の生活も、すべてこの宣言文が書かれた後に与えられたものであり、筆者はこれまでどんなにこの宣言に助けられて、支えられて生きて来たろうか。

その判決文から権威ある命の効力を除き去って、これを抜け殻同然の空文句に変えてしまうことに自ら同意するくらいならば、筆者はこの判決文と、目に見えない領域で、しっかりと手に手を取りあったまま、その場で一緒に殺されてただちに息絶えることを選ぶだろう。

判決文の威力を殺すことは、筆者を殺すことと同じなのであり、私たちは不可分の存在なのであるから、判決が無効化された世界に、筆者一人だけが生きていることはできない。

だから、絶対にこれを無効化するようなことに同意してはならない。

そこで、筆者は一計を案じ、自分にできるただ一つのことを提案した。

それは、判決の正しさを守り通す代わりに、筆者が自分の主張を放棄するという、これまでに幾度となく取って来た策である。

筆者はそれまでの協議の深刻な雰囲気とは打って変わって、にっこりと笑って裁判官に言った。

「私は判決文をスキャンして一般に公開したこともありませんし、事件番号も公開していません。この事件記録を閲覧した人も、今日まで誰もいませんので、被告Aについては、誰もどんな判決があったのか、現物を手にして見たわけではありません。客観的な証拠がないので、ネット上では当てにならない噂しか流れていないのです。被告Bも、自分に関することしか書いていませんので、被告Aのことは誰も知る術がありません。

ですから、そうした状況で、私が訴えを取り下げることで、判決を無効化する必要もないのです。公開しなければ、判決もただ裁判所の記録として残るだけで、その外に出て行くことはありません。実態が分からない以上、誰にも不名誉を与えることはないのです。

ですが、ネットに書かれた個人情報は、いつまでも人の目に触れるところに残り続けて、現実的な悪影響を及ぼす恐れがあります。被告Aは、個人情報を消して欲しいのでしょう? それなら、たとえこの先、被告Aが私を提訴し、告訴したところで、到底、目的は遂げられるものではありません。権利侵害の事実は、自ら立証しなければ認められませんし、権利侵害に当たらないと判断されれば、削除も認められませんので、すべての記述を取り去るためには、膨大な分量の書面を、ものすごい時間をかけて書き続なければなりません。多分、一生かかっても、目的は達成できないと思います。

そんな無駄な訴訟を起こしても意味はありませんから、その代わりに、私が自分で記述を修正してはどうでしょう。本当は一年くらい欲しいところですが、もっと早くしろというなら、可能な限り、迅速に行うことはできます。それで、この先は双方、互いの個人情報を書かないという約束で、和解すればどうでしょう?」

裁判官はその要望を被告Aに伝え、被告Aは、弁護士と協議すると言って、その日の話し合いは終了した。

すでに夕方になっていたが、筆者にはまだ裁判所に用事があったので、帰宅するわけにいかず、裁判官は何度も「被告を先に返しますよ?」と筆者に念押ししてから、実際にそうした。

実は、裁判所には、勝訴(もしくは勝訴的和解)を遂げた方が先に帰宅するという暗黙のルールがあるのだ。被告Aが先に帰宅するということは、あたかも被告Aが勝ったと言っているも同然であるが、筆者にとっては、それは些細なことであった。

被告らは、見かけの栄誉を何より重んじる。人前に自分がどう映るかを気にする。しかし、筆者は人に知られないリアリティを重んじる。だから、外見的に、被告Aが勝訴したかのごとく扱われたとしても、別にそのことで何とも感じることはない。この点で、被告らの考え方と、筆者の考え方は、正反対なのである。

これまで被告らの書面を公開しようかと考えたことも何度もあったが、それをしないで来たのも、何かしらそれを押しとどめるものがあったためである。公開すれば、どんなにひどい主張をされているのか、万人に開示して訴えることもできたであろうが、なぜかそれに踏み切れない思いがあった。

おそらく、それも理由のないことではなかっただろう。

この訴訟は、筆者にとって、人の思いを超えたところにある、何かしら神聖と言っても良いほどの価値のあるものである。特に、原審はそうであった。だから、たとえ判決が、裁判所から一歩も外に出ず、誰にも閲覧されず、何が書かれているのかも分からないまま、まるで聖域のような領域に、膨大な事件記録の一つとして、人知れず眠るだけであったとしても、その誰にも知られないリアリティの中に、筆者の栄誉、筆者の正しさが、確かに込められていることを感じてならないのである。

逆に言えば、筆者が訴えを取り下げ、その事実が、仮に誰にも知らされなかったとしても、それは確かなリアリティであるから、人が知ろうと知るまいと、筆者が判決を否認し、自分の正しさを認めてくれた人の言葉を裏切った事実は、宇宙的な規模で悪影響を及ぼし、何万光年先になっても拭い去れない罪と恥の記録になるに違いない。
 
筆者が肯定していればこそ、判決は尊い価値を持って、聖域の中に静かに保たれるのであって、もしも筆者がこれを否認すれば、それはまるで悪党どもによって暴かれた墓のように、さらしものにされ、土足で踏みつけにされ、神聖さを失って、蹂躙・冒涜されることであろう。

筆者は、これまでそのような瞬間を何度も見せられて来た。筆者が心の中で手放さなかった人々、手放さなかった団体、守り通したものだけが、確かな揺るぎないリアリティとして保たれるのであって、もしも筆者が、それらを守り通すことを断念したならば、それは敵の陣営に引き渡され、防衛の外に追いやられ、蹂躙されて、恥をこうむることになる。

だから、筆者と判決とは、互いに守り合い、かばい合う関係にあり、それはかけがえのない強い愛の絆にも似て、私たちは見えない領域で結ばれた手を、互いにしっかりと握り合い、死に至るまで、決して離してはならない。筆者が新たに出会った人々との関係においても、同様の愛の関係が成立しているのである。

それは死によっても、引き離すことができないほどの強い結びつきであり、命をかけてでも、守り抜きたいと願う、かけがえのない価値である。

ところで、筆者にも、和解協議の期日が来る前に、弁護士に相談することができそうなチャンスがあった。だが、のど元まで出かかった言葉を、筆者は飲み込んで、何も言うべきでないと思い直した。

信頼できる人に、せっかくの貴重な時間を、わざわざこのような事件のために費やさせる必要もないと思っただけではない。それ以上に、筆者の助言者は、ただ一人、キリストだけであり、御霊だけであるから、誰にも助けを乞わずとも、自分自身で何が正しく、何が間違っているかを判断することができるはずだと信じた。その強さ、独立性を失ってはならない、と思い直したのである。

さて、前回の期日に、双方から控訴の取り下げを行うという提案がなされた後、控訴の取り下げを行うと、事件記録が横浜地裁に戻って来ることを筆者は書記官から聞かされた。

その時、筆者の心には大きな喜びが湧き起こり、まだ結果が確定もしていないうちから、そうなることが動かせない事実であると感じた。被告Aから訴えの取り下げを要求された時でさえ、その確信は変わらなかった。

あの陰気な東京高等裁判所の建物ではなく、この海と空のある地にこそ、事件記録を迎えてやりたい。戻って来たら、おまえはよくやった、勇敢に戦った、と言って、その栄誉をたたえて、いつまでもここで静かに眠りなさいと、まるで祖国のために勇敢に戦って戦死した夫の亡骸を迎える妻のように、心の中で花束を携えて、出迎えてその労をねぎらってやりたい。

そして、その後も、筆者の生きているそば近くの、人に知られない静かな聖域のような一区画に、記録を眠らせておこう。あの電話会議が実際に行われた明るい裁判所の中に、海と空を同時に見ることのできるこの開放的な空間の只中に、その記録を保ち、それがいつも自分と共にあること、今も生きて効力を及ぼしていることを思い出し、見えない領域で互いを見守りながら生きて行きたい。

そうこうしているうちに、きっとその判決は、ますます不思議な効力を及ぼして、多くの人々を筆者のもとに送り、多くのかけがえのない宝をこの地にもたらしてくれるに違いない。それは誰も見ることのない秘められた聖域として、契約の箱のように、この地に眠るだろう。

筆者は人生で初めて、自分以外のものを、命がけで守りたいと願った。冒頭に挙げた御言葉は、ただ人間の男女のことを指しているだけではない。霊的には、それにはもっと深い意味があって、それは神の御言葉と、人が一体となること、御言葉なるキリストが、信仰によって、人の内に住まわれ、神と人とがもはや不可分の引き離せない関係になることを言い表している。

神はどれほど人を愛され、また、人の側でも、神を慕い求めた結果、神と人との出会いが生まれることだろうか。双方からの強い願いの結果、神が人に対してご自身を現して下さり、人の内側に住まわれるという信じ難い出来事が起きるのである。

そのことが、この事件を通して、筆者はよく分かる気がする。

判決はもはや筆者と不可分の関係になったのであり、今更、これを分離することはできない。歴史を逆行して、出会わなかった前に戻ることはできないし、出された宣言を無効化することもできない。 神が出会わせて下さったものを、人の力で引き離すことはできない。

だが、筆者は新たに出会った人たちにも、全く同様のことを思う。私たちは、人の力によって、決して引き離すことのできない領域で出会い、結び合わされたのだと。その結びつきから、未だかつて見たことのない新しい歴史がすでに始まっているのだと・・・。

そういう意味で、判決以前の世界と、判決以後の世界は、まるでノアの洪水のように、大きな境界となって、筆者の人生を二つに分けている。それには、まるでB.C.(Before Christ)とA.D.(Anno Domini)を隔てるくらいの威力があり、これも大きな十字架なのである。洪水と共に、以前の筆者は死んだのであり、泥沼の法廷闘争にも、すでに終止符が打たれた。その大いなる宣言がある以上、今更、被告らが筆者に何を述べたとしても、結論は変わらない。

紛争は、もはやとうに終わっているのであって、筆者には、ただ筆者に命と平安を与える命令に服し、これを忠実に実行に移すために労する義務と、これにそぐわないすべての行きがかりを最終的に終わらせるために知恵を尽くす任務が任されているだけである。


わたしが、あなたと争う者と争い わたしが、あなたの子らを救う。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。

『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せになる。

 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。』
 全能の主はこう仰せられる。」

 愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」(Ⅱコリント6:14-18,7:1)

* * *

8月15日を境に秋の気配が漂うようになった。夏が去ってしまうことが名残惜しい。

今年の前半はほとんど審理の準備に費やされたが、筆者の人生はそれによって停滞することなく、実人生においても、これまでにない大きな前進と収穫があった。

裁判で学んだ様々な有益な教訓を活かして、人々を助けるために、社会との新たな接点や、新たなミッションが与えられたからである。

一審判決が言い渡された時には、地球上にたった一人の裁判官以外には、筆者の主張を認める人もないかのように見えたが、たった一人であっても、信頼と協力を打ち立てることのできる人間が現れたことの意味は大きく、これを突破口のようにして、その後、援護者、協力者が増えつつある。

今や様々な人々と円滑な協力関係を築きながら、事件の解決へ向けて、物事を進められるようになった。気軽な世間話のように、この事件の行く末に関して論じ合うことのできる日も、そう遠くはないであろう。

それは世の人たちであって、信仰者ではないが、筆者はこの地にやって来た時から、ここを生ける水の川々の流れ出す場所にしたいという願いを持っていたので、人々との間で、真実で偽りのない信頼関係、協力関係が築かれつつある有様を見ると、その願いが、少しずつであるが、実現していると思わずにいられない。

紛争は、筆者を絶望に追いやることなく、かえって、一見、厭わしく、みすぼらしく、無益のように見えるこの「干潟」を中心に、そこから流れ出す命の泉が、確実に周囲を潤し、人々の心の思いや、関係を変えて行くようになった。紛争を機に、静かに、そして人目にはつかない形で、確実に社会のあり方が変わって行くのである。

控訴審が開かれるのは、秋になろうが、昨年に比べ、筆者の荷は軽い。相手方が遅れに遅れて出した書面も非常に軽いが、それだけではなく、今や筆者は、様々な重荷を自分の手から離し、その本来の持ち主にお返しする方法を学び始めた。

重荷を減らすためには、これを本当の持ち主に返還するのが一番である。主イエスは、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われたのであるから、負うことが困難なほどに重い荷がやって来れば、それは主から来たものではないものとして、持ち主をよく調べて、真の受取人にお返しすべきである。

控訴審の荷が軽いのは、主がすべてを筆者に負えるよう采配して下さっていることはもちろんのこと、判決が守りの盾となっているからでもある。

一般に、法律家でもない素人が、新たな証拠もなく、判決を覆すのは、まず無理だと言って差し支えない。だから、判決を不服として控訴する者は、判決と戦っているのであって、事件の当事者と直接、戦っているわけではない。

その上、筆者は、キリスト者を訴えられる者は誰もいないという聖書の御言葉を繰り返し引用しているのであるから、そのバリアを破ろうとする不遜な試みは、聖書の御言葉そのものに逆らい、これを破ろうとすることを意味するわけで、神を相手に戦いを挑んでいるようなものである。

そういう試みの結果、生じる途方もない重荷は、その本人のみが負えば良いものであって、他の人たちには関係がない。アナニヤとサッピラが、聖霊が定めた境界を欺きによって乗り越えようとして、エクレシアの戸口で神に討たれて死んだように、不遜な試みは、ただ失敗に終わるだけではなく、必ず、何かの恐るべき報いを伴うこととなる。

筆者はそのようなことが起きないように、モーセが燃える芝の前で靴を脱いだように、自分の超えてはならない分を超えて、立ち入るべきでない領域に足を踏み入れないよう、聖なる領域の前で、心の靴を脱ぐ。

筆者自身も、判決の変更を求めている部分があるが、筆者は、裁判官の下した判断と戦うのではなく、むしろ、判決と筆者の主張の両方を土台に、新たな共同作品を打ち立てるつもりでいる。

そのために一審において言い尽くせなかった新たな主張を加え、新たな証拠を提出し、数ヶ月間を費やし、書面を作成した。ちなみに、高裁では、裁判所ではなく、「裁判体」という言葉が多く聞かれるが、複数の裁判官が事件を裁くわけであるから、その意味でも、新たな判決は共同作品となる。

だが、筆者にとって、一審判決は、まだ筆者の主張に味方する者も、これを公に認める者も、助けの手を差し伸べてくれる者も、ほぼ皆無に近かった頃に下されたものであるという意味で、一人の善良な裁判官の残してくれた、忘れ形見のように、かけがえのないものである。唯一無二の「オーダーメイド」の判決と言ってもよく、これを無に帰するようなことは決してしたくはない。

聖書にはこうある。

「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。

「死は勝利にのみ込まれた。
 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
 死よ、お前のとげはどこにあるのか。」

死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」(一コリント15:54-57)

この御言葉は不思議である。なぜなら、朽ちるものと、朽ちないものとの間には、接点はなく、それはどこまで行っても、異質なもののはずである。ところが、聖書は、朽ちるものの上に、朽ちないものが着せられ、死は勝利に「のみ込まれた」と言う。

ここに、筆者の言う「上書き」の原則もある。

一審判決には、幾分か、死の棘がまだ残っている。この小骨のような棘を、敵の主張と共に飲み込み、上書きする過程で、取り除いて行くのである。

それはちょうど壁に塗られたペンキの剥げた部分を丁寧に塗り直しながら、壁全体を新たな色に塗り替えて行くようなものである。

筆者の主張の中で、欠けている部分を補い、古いもの、過ぎ去るべきものを、新しいもので上書きし、覆い、造り変える。

それによって、判決にも新鮮な生きた新しい命を吹き込み、新しい命が、古いものを覆い尽くし、みすぼらしい部分、恥となる部分、瑕疵となる部分は消えて、見栄えのする部分、光栄な部分、完全な部分に変えられる。

どうしても造り変えを拒むようなものも、新たな命に飲み込まれ、覆われて消える。

このように、自らの主張と判決とを合わせて補強・上書きし、さらに新鮮な命の通うものにして行くことができると筆者は信じている。

だが、そうこうしているうちに、おそらくやがて紛争自体が、命によって飲み込まれ、上書きされ、消えて行くだろう。

たとえば、昨年は、筆者は審理を進めることを第一目的として仕事をしていたが、今年は、仕事も審理と同じほど重要になったので、これを守りながら、審理を進めて行くこととなる。そのことは、次第に、紛争が筆者の人生に占める割合が減って来ていることを意味する。これが進むと、やがて実人生の方が、紛争よりもはるかに重いものとなる。
 
そうなる頃には、判決も、筆者の書面も、何もかもが、もはや過ぎ去ったものとして、足の下となり、人生が紛争から解放されることとなる。論敵の主張などは、無かったもの同然に忘れ去られ、消え去ることであろう。

だが、そうなっても、この事件に生きて関わってくれた多くの人々の存在は、筆者の中で、かけがえのない貴重な財産として残るに違いない。

「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイ10:40-42)

筆者を受け入れ、助けてくれる人たちは、神の御前に覚えられ、筆者と同じ報いを受ける(=似たような性質が分与される)。また、筆者自身も、彼らから何がしかの性質を受け、そこで「命の交換」が行われる。

筆者が紛争を通して裁判所や警察に関わり、それによって彼らの仕事の内容を知り、それが筆者の血肉のようになって、紛争が終わっても、そこを立ち去ることなく、筆者の生きるフィールドに定めたいと願ったように、筆者に関わった人々も、信仰者でなくとも、筆者から何か大切なものを受ける。(むろん、筆者の与えられる最高のものは、キリストご自身である。)

このようにして、何がきっかけであるにせよ、新たな命の通う、真実で、良き関係を築くことは可能なのである。

今や筆者は紛争の当事者という立場を離れ、これを天高くから、まことの裁き主と一緒に、見下ろす立場に立とうとしている。天の御座に就いておられる方が、地上におけるすべての物事をはるか足の下に見下ろすことができる視野を与えて下さる。

だから、筆者は自分の人生を、紛争から徐々に解放すると同時に、より自分自身という一人の限界ある人間の立場を離れて、物事を見るよう促されている。少しずつではあるが、筆者はこれまで絶え間なく行って来た「モーセの書」の作成とそのための議論から解かれ、膨大な書面からも解かれて、顔を上げる。

その時、私たちは、サタンの訴えの前に必死になって自己弁護を行う当事者の立場を離れ、むしろ、モーセの書を事件ファイルのように手にしながら、まことの裁き主なる神と共に、地上のすべてのものを足の下に治め、敵(サタン)を目の前に、私たち信じる者には勝利を、敵には敗北を力強く宣告することになる。

そうなるまでの間、筆者はこの紛争から、学べるだけのものを学び、これを糧として吸収し、その教訓を活かして、自分以外の人々にも利益をもたらす秘訣を探ろうとしている。それができるようになった頃、この紛争はすっかり終結して、誰にも用のない抜け殻のようになって、消えて行くことになろう。

紛争によって筆者に重荷をもたらそうとした者たち、また、その渦中で筆者を見捨てて行った者たちが、その頃、どこでどうなっているか、筆者は知らない。可能な限り、筆者はそうした人々をも、敵に引き渡すことなく、取り返したいと願っているが、仮に彼らが戻って来なかったとしても、その代わりに、新しい人たちが筆者の人生を占め、にぎわせるだろう。

筆者が以下の御言葉を引用したのは、2018年2月のブログ記事「十字架の死と復活の原則―敵のあらゆる力に打ち勝つ御名の絶大な権威を行使し、サタンを天から投げ落とし、イエスの命を体に現す―」のことである。

それから今まで、筆者は猛特訓を受けて、勇気と力を与えられた。筆者の人生においては、以下の御言葉における多くの事柄が成就したものと思う。

「主のほかに神はいない。
 神のほかに我らの神はいない。

 神はわたしに力を帯びさせ
 わたしの道を完全にし
 わたしの足を鹿のように速くし
 高い所に立たせ
 手に戦いの技を教え
 腕に青銅の弓を引く力を帯びさせてくださる。

 あなたは救いの盾をわたしに授け
 右の御手で支えてくださる。
 あなたは、自ら降り
 わたしを強い者としてくださる。

 わたしの足は大きく踏み出し
 くるぶしはよろめくことがない。
 敵を見、敵に追いつき
 滅ぼすまで引き返さず
 彼らを打ち、再び立つことを許さない。
 彼らはわたしの足元に倒れ伏す。
 
 あなたは戦う力をわたしの身に帯びさせ
 刃向う者を屈服させ
 敵の首筋を踏ませてくださる。
 わたしを憎む者をわたしは滅ぼす。

 彼らは叫ぶが、助ける者は現れず
 主に向かって叫んでも、答えはない。
 わたしは彼らを風の前の塵と見なし
 野の土くれのようにむなしいものとする。
 
 あなたはわたしを民の争いから解き放ち
 国々の頭としてくださる。
 わたしの知らぬ民もわたしに仕え
 わたしのことを耳にしてわたしに聞き従い
 敵の民は憐れみを乞う。
 敵の民は力を失い、おののいて砦を出る。

 主は命の神。
 わたしの岩をたたえよ。
 わたしの救いの神をあがめよ。

 わたしのために報復してくださる神よ。
 諸国の民をわたしに従わせてください。
 敵からわたしを救い
 刃向う者よりも高く上げ
 不法の者から助け出してください。
 
 主よ、国々の中で
 わたしはあなたに感謝をささげ
 御名をほめ歌う。
 
 主は勝利を与えて王を大いなる者とし
 油注がれた人を、ダビデとその子孫を
 とこしえまで
 慈しみのうちにおかれる。」(詩編18:32-51)

以上の御言葉の後半はこれから成就しようとしている。報復の時、敵に対する裁き、敵の敗北、そして、キリスト者の完全な勝利は、これからもたらされる。

だが、それと同様に、筆者の心の中にはいつも次の聖句がある。テーマは「失われたものの回復」である。

「島々よ、わたしに聞け
 遠い国々よ、耳を傾けよ。
 主は母の胎にあるわたしを呼び
 母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。

 わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き
 わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して
 わたしに言われた

 あなたはわたしの僕、イスラエル
 あなたによってわたしの輝きは現れる、と。

 わたしは思った
 わたしはいたずらに骨折り
 うつろに、空しく、力を使い果たした、と。

 しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり
 働きに報いてくださるのもわたしの神である。

 主の御目にわたしは重んじられている。
 わたしの神こそ、わたしの力。

 今や、主は言われる。
 ヤコブを御もとに立ち帰らせ
 イスラエルを集めるために

 母の胎にあったわたしを
 御自分の僕として形づくられた主はこう言われる。

 わたしはあなたを僕として
 ヤコブの諸部族を立ち上がらせ
 イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。

 だがそれにもまして
 わたしはあなたを国々の光とし
 わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。

 イスラエルを贖う聖なる神、主は
 人に侮られ、国々に忌むべき者とされ
 支配者らの僕とされた者に向かって、言われる。

 王たちは見て立ち上がり、君侯はひれ伏す。
 真実にいますイスラエルの聖なる神、主が
 あなたを選ばれたのを見て。

 主はこう言われる。
 わたしは恵みの時にあなたに答え
 救いの日にあなたを助けた。
 わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて
 民の契約とし、国を再興して
 荒廃した嗣業の地を継がせる。

 捕らわれ人には、出でよと
 闇に住む者には身を現せ、と命じる。

 彼らは家畜を飼いつつ道を行き
 荒れ地はすべて牧草地となる。

 彼らは飢えることなく、渇くこともない。
 太陽も熱風も彼らを打つことはない。
 憐れみ深い方が彼らを導き
 湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。

 わたしはすべての山に道をひらき
  広い道を高く通す。

 見よ、遠くから来る
 見よ、人々が北から、西から
 また、シニムの地から来る。

 天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。
 山々よ、歓声をあげよ。
 主は御自分の民を慰め
 その貧しい人々を憐れんでくださった。

 シオンは言う。主はわたしを見捨てられた
 わたしの主はわたしを忘れられた、と。

 女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
 母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
 たとえ、女たちが忘れようとも
 わたしがあなたを忘れることは決してない。

 見よ、わたしはあなたを
 わたしの手のひらに刻みつける。
   あなたの城壁は常にわたしの前にある。

 あなたを破壊した者は速やかに来たが
 あなたを建てる者は更に速やかに来る。
 あなたを廃虚とした者はあなたを去る。

 目を上げて、見渡すがよい。
 彼らはすべて集められ、あなたのもとに来る。
 わたしは生きている、と主は言われる。
 あなたは彼らのすべてを飾りのように身にまとい
 花嫁の帯のように結ぶであろう。

 破壊され、廃虚となり、
 荒れ果てたあなたの地は
 彼らを住まわせるには狭くなる。
 あなたを征服した者は、遠くへ去った。

 あなたが失ったと思った子らは
 再びあなたの耳に言うであろう
 場所が狭すぎます、住む所を与えてください、と。

 あなたは心に言うであろう
 誰がこの子らを産んでわたしに与えてくれたのか
 わたしは子を失い、もはや子を産めない身で
 捕らえられ、追放された者なのに
 誰がこれらの子を育ててくれたのか
 見よ、わたしはただひとり残されていたのに
 この子らはどこにいたのか、と。

 主なる神はこう言われる。
 見よ、わたしが国々に向かって手を上げ
 諸国の民に向かって旗を揚げると
 彼らはあなたの息子たちをふところに抱き
 あなたの娘たちを肩に背負って、連れて来る。

 王たちがあなたのために彼らの養父となり
 王妃たちは彼らの乳母となる。
 彼らは顔を地につけてあなたにひれ伏し
 あなたの足の塵をなめるであろう。

 そのとき、あなたは知るようになる
 わたしは主であり
 わたしに望みをおく者は恥を受けることがない、と。

 勇士からとりこを取り返せるであろうか。
 暴君から捕らわれ人を救い出せるであろうか。

 主はこう言われる。
 捕らわれ人が勇士から取り返され
 とりこが暴君から救い出される。
 わたしが、あなたと争う者と争い
 わたしが、あなたの子らを救う。

 あなたを虐げる者に自らの肉を食わせ
 新しい酒に酔うように自らの血に酔わせる。
 すべて肉なる者は知るようになる
 わたしは主、あなたを救い、あなたを贖う
 ヤコブの力ある者であることを。 」(イザヤ書第49章)


実際に、神は力強い助け主として、筆者と共にいて下さり、多くの人々を筆者の前に連れて来て下さっている。筆者はこれらの人々を花嫁の帯の飾りのようにつなぎ合わせながら、心に思う、「私は助けのない状態に、一人で置かれていたはずなのに、この人々はどこから現れたのか」と。

さらに筆者はいつか周囲を見渡してこう思うだろう、「私たちにはもっと広い場所が必要だ。ここは住むには狭すぎる」と。その願いは筆者の内にすでに生まれている。

主がどのような形で、今後、信じる者の人生を豊かに満たして下さるかは分からないが、筆者はすでに泉のほとりに導かれた。判決が守りの盾になるように、まして神の御言葉は、私たちの揺るぎない強固な防衛の砦であって、これにより頼む者と争う人は、主ご自身と争うのである。

だから、そのような争いには主ご自身が応えて下さり、私たちはその重荷を負わなくて済む。

改めて、筆者はこの年の後半、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」という御言葉の意味を知りたいと願っている。
  
「書類から人へ」のシフトは、ゆっくりではあるが、確かに進行中で、干潟に流れるうたかたのように、紛争もゆっくりと終わりに向かっている。
 
神に望みを置く者が恥を受け、敗北に終わることはない。その御言葉は、真実であるから、主が筆者の人生をどのように豊かな宝で満たし、飾って下さるのか、楽しみにしている。  


自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。

「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」(ヤコブ4:6)

「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、 ただあなたの御名にのみ帰してください。」(詩編151:1)

「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。<略>
わたしたちは、他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません。ただ、わたしたちが希望しているのは、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたの間でわたしたちの働きが定められた範囲内でますます増大すること、あなたがたを超えた他の地域にまで福音が告げ知らされるようになること、わたしたちが他の人々の領域で成し遂げられた活動を誇らないことです。

「誇る者は主を誇れ。」自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。」(二コリント10:12-17)

 とある用事を終えて人と別れ、東神奈川の駅に続く高架橋の階段を上った途端、ダイナミックな花火が始まった。大勢の人たちが足を止めて夜空を見上げ、スマホで撮影していた。筆者も足を止めて、ビルの合間から、夜空に万華鏡のように映し出される光景に見惚れた。週末に向けて、天からの思いがけない特別なプレゼントを受け取ったような気分である。

キリスト者の人生は、神とその人との共同の歩みであり、そこで起きる出来事に偶然はない。主はまことにすべての出来事を、信じる者のために絶妙なタイミングで計らって下さり、ご自分に聞き従う人たちのために、良い出来事も、悪い出来事も、何もかも最終的に益になるようにとりはからって下さる。
 
さて、今日のテーマは「顔を上げて主をまっすぐに見る」必要性である。

これまで筆者にとって、書類の束は、人生には欠かせない道連れのようであった。仕事でも、それ以外の場所でも、果てしない時間を、書類とのおつきあいに費やして来たのである。

しかし、このところ「書類から人へ」のシフトが起きつつある。

それが起き始めたのは、皮肉なことに、当ブログを巡る裁判の第一審の最中であった。

ちょうど約一年前、最初の期日に出廷した際のことは今でもよく覚えている。

その日、筆者は人生最初の裁判に臨むために、百ページを超える訴状を携えて、被告が出廷するよりもかなり前に、法廷に入って着席していた。それは筆者にとって初めて法廷を見る機会であったが、およそすべてが常識から外れたこの事件では、何もかもが通常通りではなかった。

遮蔽の措置を願い出ていた原告の席は、被告席とも、傍聴席とも、囲いで隔てられ、顔を合わせるのは裁判官のみであった。

書記官に案内されて、その衝立で囲まれた席に着席した後、筆者は表情をこわばらせたまま、机の上に訴状を置いて、開廷の時を待った。裁判官が法廷に入って来て着座したが、それでも被告はまだ来なかった。

非常に長く感じられる沈黙の数分間が過ぎたが、裁判官が、その間、まじまじと筆者を見つめているのが分かった。一体、このような非凡な事件を提起したのはどういう人間なのか、今、原告は何を考えているのか、心の中まで観察されているようであった。

法廷の主は、裁判官ただ一人であり、そこで裁判官の意思を妨げるものは何もない。

だが、被告と対面せずに審理を進める手続きが取られた時点で、裁判官は、筆者の危惧を真剣に受け止めてくれていることが分かっていたため、裁判官は決して筆者に悪意を持っておらず、筆者の敵でもない、ということは分かっていた。

そこで、裁判官から観察されていることは、筆者にとって、不快な印象ではなかったが、筆者はあえてそれに気づかないふりをして、緊張気味に、手元の訴状に視線を落とした。

それが、筆者と法廷との最初の出会いであったが、こうして人生最初の裁判の期日において、法廷に最初に登場して来たのが、裁判官であったこと、一審の最初から最後まで、筆者が対面したのも、裁判官と書記官だけであったというのは、何かしら非常に印象的かつ象徴的な出来事であった。

筆者は以前にも書いた。対面することは、知り合うことを意味し、関係性が深まって行くことを意味するのだと。この審理において、筆者は被告とは知り合わず、全世界に対して、自分を閉ざしていた代わりに、ただ一方向に向かってのみ、裁判所の人々に対してのみ、心を開いていた。

そのため、この審理の間に学んだことも、被告に対してどう答えるかということではなく、むしろ、裁判官の言動の一つ一つに注意を払うことの重要性であり、控訴するに当たっても、判決文を読んで、自分の主張の足りないところを学ぶことが必要となった。

裁判官の書いた判決と争うのではなく、それを読んで、自分の論理にどう足りない部分があったのかを学んだのである。
 
これは裁判というもの自体に対する筆者の見方を変えた。筆者はそれまで裁判とは、主に被告に反論するための場所だと考えていたが、実際には、裁判において注意を払うべき相手は、被告ではないこと、また、以前にも書いた通り、裁判官と心が通わないまま、被告との議論に誘い出されて行き、それに溺れることが、いかに重大な危険であるかを知らされた。

さらに、裁判官は決して筆者に言葉で注意を促したことはなかったが、筆者が裁判官の話している最中に気もそぞろであったり、うつむいたり、わき見していたりすると、やや苛立たし気に、自分に注意を向けるよう、暗黙のうちに促していたように思われた。

そうして裁判官に注意を向けることには、ただ裁判の進行から目を離さないとか、自分に有利な結果を得たいがために、裁判官の心を自分に向けさせるといった目的とは異なる、より深い意味があったように思う。

なぜなら、その頃、筆者の勤めていた会社でも、上司がさかんに同じようなことを筆者に求めていたからである。

その当時の筆者に必要なのは、自分を生かし、解放することのできる権威者から、片時も目を離さず、その人間のそばを離れず、その陰に隠れ、一人で危険や死へ赴かないために、絶えずその人間に注意を注ぎ続けることであったように思う。

それまで何事も自分で判断し、自分で決断して歩み続けて来て、それに不足はないと考えていた筆者にとって、それは新しい学びであった。

とはいえ、それは裁判官や、あるいは上司の判断を鵜呑みにして、自分自身では何も判断しないということとは異なる。他者へ依存することをも意味しない。それだからこそ、判決を得ても、筆者の判断で、審理はまだ続いているのである。

とにもかくにも、このようにして、筆者が書き上げて来た膨大な書面に、注意深く耳を傾ける者が現れ、権威を持って事件を裁く者が現れたおかげで、筆者の作り上げた書面は、一方通行ではなくなり、裁判をきっかけに、筆者の注意は、「書類から人間へ」シフトし始めた。

当初は高みから筆者を観察していた裁判官は、次に筆者のそばへやって来て、同じ目線で語り合い、やがて筆者の眼差しをとらえ、筆者の関心をとらえた。

そうして、筆者が果てしない時を費やして積み上げて来た膨大な書類に生きた光が当てられ、それに見えない承認印が押され、現実に大きな変化をもたらす効果的な宣言が下された。だが、そのように解放的な宣言を受けたこと以上に、筆者は、不思議な「干潟」に働く作用に何より心を奪われたのであった。

だからこそ、筆者は一審が終わった後も、このフィールドに尽きせぬ関心を寄せて、そこにとどまり続けて、そこから、自分だけでなく、他者のためにも、不思議なエネルギーを汲み出す方法を開発しているのである。

ところで、「顔と顔を合わせて『知り合う』」ということは、ただ面識が出来て互いが何者であるかを知ること以上の意味がある。

聖書において、キリストと人とが顔を合わせるのは、人の贖いの完成の瞬間のことであり、顔と顔を合わせた者は、似た者同士になる。

「このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは”霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。

わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(二コリント3:15-18)


これまで当ブログでは、聖書をさかさまにした偽りの悪魔的教えであるグノーシス主義の構造の分析に、多くの紙面を費やしてきたが、「鏡」とは、グノーシス主義において、極めて重要なシンボルとして利用されていることをも示した。

グノーシス主義における「鏡」とは、弱い者が、強い者の性質を盗み取る(簒奪する)ために使うトリックである。

映画"MISHIMA"の分析シリーズでそのことはすでに示したので、詳しく繰り返さないが、「神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画"MISHIMA"から③」などを読んでいただければ、そのトリックがよく分かるものと思う。

グノーシス主義においては、被造物は「神々」であり、そこには無限のヒエラルキーがあり、その頂点に君臨する至高神とされている「神」は、「鏡」にたとえられる。
 
グノーシス主義では、神を「鏡」にたとえることにより、神があたかも被造物によって「見られる存在」、「知られる存在」(=対象)であるかのように置き換え(貶め)、被造物の誕生は、神が造物主として自らの意思で被造物を創造したことによるのではなく、至高神という「鏡」に、神の意思とは関係なく、神の姿が似像(映像)として乱反射するように映し出されることによって、そこに映し出された映像が、「存在の流出」として、「神々」すなわち被造物を誕生させたのだという。

このような概念の「鏡」は、神の概念を骨抜きにするものであり、被造物が何らかの方法で神を盗撮することにより、神の意思とは関係なく、神の聖なる性質を盗み取って、自己を栄光化したと言った方が良く、聖書における創造とは正反対である。

上記のコリント人への手紙を読めば、聖書において「鏡」とは、神ではなく、むしろ、被造物を指していることが分かるはずである。
 
鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。」というフレーズによく表れているように、私たち信じる者たち一人一人が、神の栄光を、鏡のように映し出すことにより、主の似姿に変えられて行く存在なのである。

つまり、神が被造物の栄光を映し出す「鏡」なのではなく、被造物である私たち人間こそが、神の栄光を反映するための鏡なのである。だから、グノーシス主義はこの点で、聖書とはさかさまであり、神と被造物との関係性を逆転させていることがはっきり分かる。

さて、神と人との関係は、どこまで行っても、神は「知る者」であり、人間は「知られる者」であるという秩序から出ることはない。とはいえ、神と人とが対面して知り合うことによって、むなしい鏡に過ぎない被造物に、神の聖なる性質が光のように反映するのである。

このことは、人間が宮であり、神殿として創造されたことと密接な関係がある。

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」(一コリント3:16-17)

人間は誰であれ、信仰の有無に関わらず、神を迎えるための宮として造られている。神に見捨てられ、神が不在となった宮は、単なる空っぽな入れ物に過ぎず、何の価値も持たず、聖なる場所でもない。

神が不在である宮は、灯りをともされない真っ暗な建物にもよく似て、そこに光が当てられない限り、どんな機能があって、どんな構造になっているのか、誰にも分からない。しかも、宮として造られた建物は、通常の住居としても使えないので、どんな優れた装飾が施されていようと、神がやって来られて使用されなければ、何の役にも立たない無用の長物でしかない。

同じように、鏡は、映し出すべき対象がなければ、誰に対しても役目を果たさない。そのことは、私たち人間が、自己の力では、自分を知ることさえできないことをよく表している。

私たち被造物という「鏡」には、私たちが目にするもの、心に注意を向けるものが映し出される。

だが、その「鏡」に映し出されるのは、誰なのか、何なのか。この世の移ろいゆく事象か、自分自身の思いか、それとも、サタンの姿なのか、神の姿なのか・・・。

私たち自身が誰に目を向け、何に心を留めるかによって、私たちが心の鏡に映し出す映像が変わる。だが、その映像の如何によっては、その鏡は、ナルシスが覗き込んだ水面のように、「虚無の深淵」となって、私たち自身を吸い込んで終わるだろう。

なぜなら、鏡それ自体には、何も創造する力もなければ、自力で映し出すべき対象を見つけることもできず、映し出した対象に命を与えることもできないからだ。ただ鏡の持ち主がやって来て、自分の姿をそこに移し出すとき、初めて、鏡の役割が全うされるのである。

そのことは、被造物それ自体は、罪に堕落した瞬間から、滅びに定められ、虚無に服しているため、被造物の栄光は、ただお一人の神に目を向けることからしかやって来ず、人間は、自分では何も生きたものを生むことのできない虚無であることをよく物語っている。

人間の知識は、無限の鏡と、そこに映し出された果てしない自己の映像の中を生き巡っているだけで、どんなに鏡の中に自己の姿を映し出しても、そこから真実は見えて来ず、永遠の堂々巡りというトートロジーに陥るだけである。
 
そこから解放される手段は、私たちのまことの主であるただお一人の、生きておられる神に目を向けることだけである。

モーセの書は、何も映し出さない鏡のようなものである。それは、筆者が書き上げた膨大な訴状や、準備書面にも似て、そこには、意味のない事柄が書き連ねられているわけではないが、事件を裁く者が誰もいなければ、それは誰からも認定されることのない、正しいのかどうかも分からない、命が与えられることもない、一方的な主張に過ぎない。

モーセの書は、人間の違反を宣告するものであり、人間には自力で神の聖に到達する手段がないことを告げ知らせるだけの、人を生かす力のない「死んだ文字」である。その書のどこを探しても、終わりなき善悪の議論が展開しているだけで、そこから人間を救い出し、人にまことの命を与えるために、キリストが来られる必要があったのである。

第一審の開始当初、筆者の鏡には、まだ自分のモーセの書しか映し出されるものはなかったが、裁き主はすでに登場していた。

筆者はこの審理の最中、自分の心の鏡に「被告(ここでは象徴的にサタンとする)」を映し出すことをやめねばならないことに気づかされた。対面せずとも、心の鏡に映し出された対象と、筆者は向き合っているのと同じだからである。
 
そこで筆者は、自分の心の鏡には、真に価値あるものしか映してはいけないということに徐々に気づかされた。映し出された者と、筆者とは、鏡を通して「知り合う」こととなり、その鏡を通して、映し出された者の性質が、筆者に命として分け与えられる。
 
それは簒奪によるのではない、善意と自由意志と責務に基づく真実な分与である。

もしも筆者よりも弱い者が、鏡を使って筆者の映像を盗み取ろうとするならば、筆者はそれによって力を奪われ、卑しめられるであろう。しかし、筆者よりも強い者が、筆者を解放するためにやって来て、その鏡に自分の姿を映し出すならば、それによって、その者の強さが、筆者に分与されるのである。
 
不思議なことに、判決を通して、裁判官の持っていた性質が、幾分か、筆者にも付与された。裁判官の書いてくれた判決は、筆者に法的な世界へ扉を開いてくれる目に見えない紹介状となり、その紹介状を持って、新たな場所へ向かったところ、利害の異なる、対立する人々の言い分をジャッジするという、裁判官の仕事にどこかしら似た、新たな任務が与えられた。

これが命の分与の結果であった。筆者は判決を通して、ただ自分が訴状において求めていた解放を幾分か得たというだけにとどまらず、裁判官から分与された目に見えない命を通して、裁判官の行っていた仕事の性質を、幾分か分け与えられたのである。

こんなことは、およそ信じがたい、ファンタジーのような話だと思われるのは結構である。幻想と言われようと、そうなったことは変わらない事実である。

筆者の心には、自分に解放的な宣言を与えてくれた人にならって、自分も他者に同じように解放を与えることのできる仕事をしたいという願いが生まれ、その願いに応じて行動した時、次なる出来事が起きたのである。
 
* * *

さて、ある日、仕事に従事している最中、同様の作業に従事する人たち全員に一人一枚の「抽選券」が配られた。

そこには、仕事の奥義を学びたい、とりわけ熱意あるえりすぐりの有志たちに向けて、ある学習会が提案されていた。

誰もが参加できるわけではないが、申し込みは誰でも可能だというので、筆者は浅はかにも、学習を積む良い機会だと思って、行列ができる前に、応募してみた。

ところが、その抽選は極めて当たる確率が低く、しかも、学習会は、建設中の「バベルの塔」の中で行われることが判明した。
 
申し込んだ後で、当選の条件も変更された。学習会へ招かれるためには、まずは分厚い学習書として、モーセの書を自費で購入した上、それに精通し、ピラトの階段をひざで上り、今いるよりも上層のヒエラルキーまで昇格せねばならないことが知らされた。

だが、モーセの書は高価で、通常の書店に売っていない上、分厚く、とてもではないが、その勉強は、学習会の開催に間に合いそうにもなかった。しかも、ピラトの階段は、人がようやく登れる程度の幅しかなく、大変な高所にあるため、登っている最中に落ちて死んだ人が後を絶たないのだという。

筆者はピラトの階段に挑戦しようとしたが、一段、登ろうと、上の段に手をかけた途端、背中のリュックに入れていたモーセの書が、途方もない重さになって体にのしかかり、思わずよろめいた。

その瞬間、筆者の後から階段を上って来ていた同僚の誰かが「大丈夫ですか?」と親切そうに声をかけ、手を差し出してくれたので、筆者がその手につかまろうとしたところ、その同僚は、筆者の手を思い切りつかんで、筆者を下に引きずりおろし、筆者を押しのけて、さっさと上段に登って行った。その際、聞こえよがしに「身の程知らず」とささやいて行った。

こうして、階段を上るどころか、早々にひきずりおろされた筆者は、学習会と書いた旗が、はるか階段の上方にひらめいているのを見て、これは何かしら人間を愚弄するとてつもない罠のような話だから、そのような提案には乗らない方が賢明だとようやく理解した。

さて、見学会を率いる隊長は、ピラトの階段どころか、断崖絶壁を膝でよじ上るのが趣味で、すでにいくつもの奥義的な知識を身に着け、誰よりも上層のヒエラルキーに到達しているという噂であった。その人自身が、「ラビ」と呼ばれ、まるで断崖絶壁のような性格であった。親切そうに、謙虚そうに振る舞ってはいたが、人を容易には寄せつけず、また、彼の後を追って、ピラトの階段を登って行く人たちは、みな彼と同じような性格の人たちばかりであった。

いつの間にか、筆者を笑顔で階段から蹴落とした誰かが、当選者になっているという話も聞こえて来た。

筆者は、少数精鋭の当選者の集団が、バベルの塔で開かれる特別な奥義的知識を得るための学習会に向けて出発した後で、彼らが捨てて行った抽選券を拾い上げてみた。すると、そこには、誰が書いたのか、赤文字で、「クーデター。盗んだ水は甘く、ひそかに食べるパンはうまい。高ぶりは倒れに先立つ。バビロンから遠ざかれ。塔の崩壊に巻き込まれるな」と書き込まれてあった。

その時、筆者のもとには、紹介状に形を変えた判決文があったので、それを見ると、そこには、「あなたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたを選んだ。権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によって。わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さの中に完全に発揮される。」との文章が書き加えられていた。

筆者はそれを見て、塔の見学は高ぶりへの道だったことに気づき、このような抽選には申し込んではならなかったのであり、行かなかったことも、幸いだったと知った。そして、今一度、偽りの知識をためこむ生活から離れ、手元にあるモーセの書から目を離し、まことの主人に向かって目を上げなければならないと気づいた。

バベルの塔とは、別名を善悪知識の塔と言い、そこには、人が獲得した知識の程度に応じて、無数のヒエラルキーがあることを示す、果てしのないピラトの階段が、まるで塔にからまるツタのように、周りをらせん状に取り巻いている。その上層部には、あらゆる学者、宗教学者、数々の「専門家」らが名を連ね、彼らには絶大な富と、栄光が約束されている。

だが、筆者は、その塔が人に約束している幸福を与えず、彼らの独占する知識が、人を解放にも導かないことを知っていた。筆者自身が、専門家という呼称がいかにむなしいものでしかないかを思い知らされて来たのである。

しかも、このヒエラルキーがよすがとしている知識とは、昔々、サタンがエデンの園で、蛇の形を取って人類の前に現れ、この知識を身に着ければ、あなたは神のようになれると嘘を吹き込んだ、偽りの知識に由来するものである。

それは人を高慢にする知識であり、それをサタンから伝授された日以来、人類は果てしなく天に至るまでの塔を建設し続け、ピラトの階段をひざでよじ登り続け、互いに分裂と争いを続けている。

だが、筆者に与えられたミッションは、他でもないバベルの塔建設や、ピラトの階段を上る最中に、不幸な目に遭った人たちを助けることにあり、そこで筆者の課題は、人を不幸に追いやるピラトの階段のヒエラルキーを承認するのではなく、かえって、そこから零れ落ちた人々を助けることにあった。

この塔がためこんでいる知識は、どこまで行っても、人間を生かさない、独りよがりの閉ざされた知識であり、その知識を追求する限り、その人の人生に、他者というものは、一人も現れて来ない。

どんな家庭を築こうと、どんなに友達を増やそうと、どれほどの権威を身に着けようと、その知識を追求する人間にとっては、すべての人間が競争者であるから、彼は徹底的に孤独であり、人を信頼することができないのである。

筆者は、目の前に置かれたモーセの書を見ながら、法廷で訴状を前に、緊張しつつ、裁判官に見つめられていた瞬間のことを思い出した。

その時、筆者を取り囲んでいた囲いは、筆者が八方塞がりの状況にあること、解放は、ただ裁判官だけから来ることを告げていた。

だが、その時、筆者はまだ目の前に置いていたモーセの書にすがりつくように、これを一心に見つめ、裁判官でさえも、筆者の人生に、まだ生きた人間として、受け入れられていたわけではなかった。

その書面は、筆者の精いっぱいの自己防衛の手段であり、他者に自分を理解してもらうための唯一の説明であったが、筆者はその頃、他者とは誰かということさえ分かっておらず、裁判官でさえ、きっとこのような事件は、理解できまいと、心の中で考えていたのであった。

そこで、筆者は、自分で自分を肯定するために作り上げた書面を、唯一の武装手段のように思い、それが他者から承認されることなくして、生きたものとならないという現実――それゆえの他者の重要性――を、まだ十分に分かっておらず、事件の解決は、自分の努力によるものであって、他者からの助けは要らないかのように考えていたのである。

モーセの書は、人間の目に、あたかも正しい知識や、身を守るための理論武装の方法を教えてくれる武具のように見える。それは知識による人間の自己防衛の手段である。

だが、それを手に入れるために、人はどれほど果てしない苦労を費やさねばならないだろうか。筆者も、自分なりの書面を作り上げるために、どれほどの月日を費やしたかを思い出すが、その時、目の前に置かれていた訴状は、今でもまだ筆者の人生に形を変えては現れている。

裁判官は、筆者の作り上げた書を隅から隅まで読み、何度もそれを読み返し、その作成の苦労を知りつつも、その後、時間をかけて、筆者がモーセの書から目を離し、そこから解放されるように仕向けた。

裁判官は、筆者の作成した命の通わない書物に光を当てて、これを蘇生させた上で、共同作品のような宣言を作り上げたが、最も重要なのは、そこに書かれていた理屈ではなかった。

重要なのは、筆者の命の通わない訴えに、他者が命を吹き込んだということなのである。それによって、筆者に新たなミッションが与えられ、裁判官の任務の重要な性質の一部が、筆者の人生に分与され、それまで一方の当事者の立場にしか立つことのできなかった筆者に、自分を離れて、物事を俯瞰する新たな視点が与えられた。

こうして、筆者が一方の当事者である自分の立場だけから、すべての物事を見、主張し、判断するという制約から解き放たれたことは、おそらく筆者の人生を根本的に変えてしまうほどの大きな転換であって、これから先、徐々に筆者を取り巻くすべての人間関係に波及していく絶大な効果を持つ出来事なのだろうと予想する。

さらに、それまでモーセの書の研究という果てしなく孤独な作業に従事していた筆者が、そこから解放されて、生きた関係性の中に入れられたのである。

何か大きな逆転現象が起き、筆者がピラトの階段から、訣別宣言を突きつけられたのを機に、筆者と入れ替わるように、それまでモーセの書になどほとんど縁もゆかりもなかったと思われる大勢の人々が、筆者を押しのけるようにして、その階段に殺到して行った。

筆者は未だ手元の書面から、完全に目を離したわけでなく、そこから完全に解放されたわけでもないが、それでも、モーセの書をよすがに生きる人生を離れ始めた。

筆者のためのまことの裁き主は、常に筆者のそばにいてくれ、筆者に目を注ぎ、筆者の訴えを精査して、筆者の苦労を隅々まで分かち合いながら、常に筆者のために、弁護人となってくれ、知恵を与えてくれると同時に、筆者に対し、自分自身から目を離し、主ご自身に目を向けるよう、いつも教えてくれている。

「わたしを見なさい。わたしこそが、あなたにとって道であり、真理であり、命なのです。あなたの思いをわたしにすべて分かち合いなさい。わたしこそが、あなたの知恵であり、豊かさであり、あなたのための解放であり、安息なのです。わたしを見なさい。」

筆者は以前に、女性とはなぜ絶えず愚痴ばかりをこぼし続けている存在なのだろうかと書いたことがあった。このようなことを言えば、フェミニストが早速、抗議して来るかも知れないが、女性の話す内容に耳を傾けてみれば、その8割から9割は、愚痴と不満から成り立っており、残りの1~2割が自慢話と他愛のない雑談である。

古来から、異教の宗教では、女性は命を生み出す者として、豊饒のシンボルとして扱われて来たが、筆者はそうは考えない。聖書的な観点から見れば、命は女性から始まるのではなく、あくまで男性から始まる。その性質は、あらゆる場所に波及しており、フェミニストは、女性は男性と対等であるべきと言うが、筆者から見れば、女性には、男性と対等であれるだけの資質が初めから備わっていない。女性の働きは、どこまで行っても、陰のようである。

とはいえ、女性がその弱さを男性に対して率直に打ち明けるならば、男性は大いに彼女をかばい、守るであろうし、己が力を誇示して優位に立とうとは考えず、むしろ、彼女を助けることを光栄に思うだろう。

ただし、どういうわけか、そういう結果になることは少ない。弱いにも関わらず、女性が男性に君臨し、支配するというケースは至る所で見られる。多くの家庭ではそうなっているらしい。だが、もしも筆者の見立てが正しく、女性が本質的に虚無であるとすれば、女性による支配は、決して功を奏することはないだろう。

それでも、例外的に、女性の中には、女性の抱える弱さの制約を超えて、男性と同じような働きを成し遂げる人々がいないわけではない。だが、その場合でも、女性の抱える制約は、男性に比べて、圧倒的に強い束縛となると筆者は考えている。それは社会の進歩が遅れているせいではなく、生来の特徴から来るものである。

もしもそうした制約から完全に逃れたいと思うならば、条件はただ一つ、神に直結し、キリストに結ばれることである。そうすれば、その人は性別に関係なく、この世のすべての人々を超越することになる。
  
だが、そうした場合を除き、筆者から見ると、女性とは、限界ある被造物の象徴のようである。女性の弱さと限界は、被造物が、造物主なくしては、虚無でしかないことをよく表している。従って、女性が絶え間なく口にし続けている愚痴と不満も、とどのつまり、「私は単独では虚無である」ということを述べているに過ぎない。そこで、この虚無の中をどんなに探しても、正しい答えは見つからない。
 
この話は、性別の問題を論じるために持ち出したものではないし、女性差別の観点から主張しているわけでもない。

筆者はただ、女性の弱さと限界は、神の助け手として造られた人類が、神の御前で抱えている弱さと限界を象徴的に表している、ということを述べているだけである。

男であろうと女であろうと、人類が神の御前でしたためた書面には、自己の弱さと、限界と、苦悩の跡と、愚痴と不満しか書かれていない。誰であれ、神の御前では、弱さ以外に主張するものはないからである。

だが、神は人間が切なる訴えを抱えて、ご自分の御前に進み出るとき、決してこれを軽く扱うことはされないし、もちろん、人間の弱さを嘲笑うこともされない。

神の御前で全被造物は虚無であり、神は私たちの弱さ、限界、それゆえの惨めさをよく知っておられる。徹底的に心の中を探られても、私たち自身の内には、いかなる善も見つからないことも、予め知っておられる。

しかし、神はキリストのゆえに、私たちのすべての訴えに承認印を押して下さり、私たちの泣き言にも、十分に耳を傾け、疲れ切った私たちに新しい力を与え、罪に堕落し虚無に服した被造物を、御子のゆえに、洗い清め、義とし、新たな命を与え、生かして下さる。

それだけでなく、弱く、限界ある、堕落した、朽ちゆく卑しい存在であったはずの人間を、神の栄光を受けて、これを反映させる新たな高貴な人へと造り変え、万物を御子と共に統治する権威者、天の無尽蔵の富を受け継ぐ御国の相続人へと引き上げて下さる。

そこで、神と人とはもはや対立し、支配し合う関係ではなくなり、どちらかと言えば、パートナーのようになる。あれほど人間が求めてやまなかった神の聖、神の義、贖いが、すでに恵みによって、信じる者には約束されており、幾分か、実現してさえいる。もはや人間は、見捨てられて、弱く、孤独で、卑しい、寄る辺ない、蔑まれるべき存在ではない。

とはいえ、それはあくまで神の側からの恵み(恩寵)によるのであって、この恵みを受けるためには、人間の側でも、自己の限界を率直に認め、その恵みを求め、受け入れる姿勢が必要となる。

人間が、自分に弱さはなく、限界もないと言い張り、自分は神の助けを受ける必要はないと、自分を取り繕い、自力で神に等しい存在になろうと自己を鍛え、学習を積んでいるうちは、神の恵みはその人に注がれることはないであろう。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。」(ヨハネ15:16-17)

そこで、筆者は改めて、自己推薦によってえりすぐりの集団に属するのではなく、神の推薦によって選ばれる人になりたいと願う。神ご自身が、ご自分の尊い性質を、私たちに分け与えようと自ら願って下さり、私たちを引き上げて下さる瞬間を待ちたいと思う。自力でピラトの階段を這い上り、自ら神の聖に到達しようとして、そこから転落して不幸になる道は御免である。

そこで、誰にも安息を与えることなく、高ぶりだけをもたらす偽りのヒエラルキーには背を向け、人の目に尊ばれるのでなく、恵みによって、神に選ばれ、生ける石となる道を行くことこそ、最高の安全策であることを思う。

そういうわけで、実に緩慢な変化であるとはいえ、筆者は手元の書類から徐々に目を離し始めた。書類は、これまで筆者にとって唯一の救命ボートのように見えており、武装手段でもあったが、力強い援護者が現れた以上、もはやそれにしがみつく価値はなくなったのである。

このことは、筆者が今後、訴訟を起こすことはないとか、書面を作成することはないという意味ではない。だが、モーセの書は高価な上、あまりにも重すぎて抱えきれず、救命道具どころか、大変な重荷となって、筆者の前進を阻んで来た。
 
ピラトの階段に別れを告げると、いつの間にか、主が筆者のそばにやって来て、筆者の手からこの重荷を取り上げ、代わりに持ち運んでくれるようになったのである。

今や筆者の人生には、様々な人々がやって来て、「あなたがこのような荷物を運ぶ必要はありません。私に任せなさい」と言って、筆者の手から重荷を取り上げて行く。そうでなければ、その重荷がまるで貴重な宝であるかのように、率先してそれを筆者から奪い取って行く人たちが現れる。
 
これは不思議な現象である。これまでの筆者は何でも自分でやってみたいと考え、挑戦するのが好きであり、苦労を苦労とも考えていなかったので、自分から断崖絶壁を登っていたのであり、その際、重荷を持ち運んでいるという自覚すらもなかったが、確かに、考えてみれば、このような重すぎる書物を自力で持ち運ぼうとすることは、それ自体が「身の程知らず」な行為だったと言える。

そういう意味で、バベルの塔へと続くピラトの階段の最初の一段目で、筆者が階段側から拒否されてこの道を離れたことは、まことに正しい結果だったと言えよう。それはまさに人にとって負い切れない重荷を担う苦行にしかならないからである。

今でも、目に見える地上の多くの教会には、まるで標語のように、以下の聖句が掲げられているが、筆者は、これを標語としてではなく、真実として受け止め、重荷を主に任せ、神によりかかって、安らぎのうちに歩きたいと願う。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)
  
この道は、筆者が始めたものではなく、神ご自身が始められ、筆者を任命されたものであるから、その行程を歩き通す力も、筆者自身に由来するのではなく、神が与えて下さるものでなくてはいけない。イザヤ書(40:25-31)にはこうある。

「お前たちはわたしを誰に似せ
 誰に比べようとするのか、
 と聖なる神は言われる。 

  目を高く上げ、
 誰が天の万象を創造したかを見よ。

 それらを数えて、引き出された方
 それぞれの名を呼ばれる方の
 力の強さ、激しい勢いから逃れうるものはない。

 ヤコブよ、なぜ言うのか
 イスラエルよ、なぜ断言するのか
 わたしの道は主に隠されている、と
 わたしの裁きは神に忘れられた、と。

 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。
 主は、とこしえにいます神
 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。
 倦むことなく、疲れることなく
 その英知は究めがたい。

 疲れた者に力を与え
 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。

 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
 主に望みをおく人は新たな力を得
 鷲のように翼を張って上る。
 走っても弱ることなく、
 歩いても疲れない。」

筆者に与えられた新たなミッションは、鳥のように天高く舞い上がり、そこから、地上のすべてを俯瞰するというものである。バベルの塔がどんなに高くとも、その高度はさらにそれを上回る。

筆者は天的な法廷に招かれ、そこで安全な囲いの中に入れられ、正しい裁きを宣告された。筆者の訴えは忘れられておらず、神ご自身が、筆者に正しい訴えを提起するための知恵を授けられたのである。
 
このように、神の側には、常に信じる者がすべての出来事に対処するに十分な備えがあり、神はへりくだった方であるから、へりくだった人を助けて下さる。そして、神は弱い人間を助けることを、心から光栄に思って下さる。人間が神の助け手として造られたにも関わらず、神は喜んで私たちを助けて下さり、またそうしたいと常に願って下さる。

だから、何事も主に相談し、すべての重荷を神ご自身と分かち合い、主に委ねよう。そうして、主と共に進むならば、私たちの荷は軽くされる。そして、自己の生来の限界と弱さにも関わらず、私たちは疲れることなく、立ち止まることもなく、常に軽い足取りで、心に喜びを絶やさず前進して行くことができるだろう。

走っても弱らず、歩いても疲れないだけでなく、翼をかって天高く舞い昇り、この世のすべてを天的な高度から見下ろし、平安のうちに統べ治めることができる。


御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(9)

「わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(Ⅱコリント10:3-6)

オースチンスパークスのこの度の連載は、士師記をテーマとしており、士師記に重ねて、今日の聖徒らの恐るべき弱さの原因について語るところから始まっている。これからどう展開して行くのか、非常に興味深い内容である。

「霊の力の回復」第一章 十字架についての新たな理解 (3)
 
これを読むとき、私たちの霊的な強さは、神への徹底した従順の欠如から来ることが分かる。従順とは、御言葉に従うことであり、従うためには、御言葉と反するものに決して安易な妥協をしないことが必要となる。

ある人々が教会への迫害者に対する裁判に及び、裁判外で和解したところ、賠償金の支払いを約束したはずの相手が国外へ逃げてしまったという。これなども中途半端な妥協の結果としての苦い教訓であると言えよう。

真に和解できる相手ならば良いが、約束を履行するつもりがないか、履行しない可能性のある相手との和解は禁物である。

キリスト教徒は何事においても争うべきでなく、和解を目指すべきだと言う人々がいる。しかし、この世には決して和解してはならない相手、和解が不可能な相手というものが存在する。妥協することが、福音の根幹すなわち永遠の命に関わる問題へと発展する場合があるのだ。

そのように安易な妥協を繰り返し、手を結んではならない者と妥協することが、どれほど主の民から力を失わせるか、主のための証を失わせるか、士師記における主の民の敗北の積み重ねの中に見て取れると、上記の論説でも示唆されているのではないかと思う。

しかし、妥協してはならない相手とは、この世のあれやこれやの人間というよりも、とどのつまりは、サタンである。

ところが、筆者は、最近、ある信者と話をした際に、「何でもサタンのせいにするのはサタンへの責任転嫁だ」などという発言を聞いて、心から驚愕してしまった。筆者はそれとは全く逆の考え方をしているからである。

筆者の考えを述べておこう、「どんなことでもサタンのせいにしてしすぎることはない」と。

本来、サタンが負うべきはずの重荷を、人類がどれほど不当に転嫁されて苦しんでいることか。御言葉の約束を固く信じてて、これを自分に適用しさえすれば、それが自分の重荷ではなく、サタンの重荷であることにすぐに気づいて、解放される権利があるのに、それを知らずに、悪魔から不当に押しつけられた重荷を自分の力で背負おうとして苦しんでいる信者たちがどれほどいるか。

その重荷は、御言葉に基づいて、悪魔にお返しすれば良いのである。それなのに、御言葉を適用して自由になることができるのに、それに気づかず、わざわざ自分で問題解決をせねばならないと考えて苦しんでいる人は多い。不当な重荷を押しつけられているにも関わらず、まだ自分は負うべき重荷を十分に背負っていないなどと自分を責めているのである。そして、あまつさえ、サタンに責任転嫁してはならないなどと荒唐無稽な発言を大真面目にしているのである。
 
だが、そのように無知でいる兄弟姉妹を嘲笑うこともまた禁物である。以上のようなクリスチャンの弱さを見て、「これだからニッポンキリスト教界は・・・」などと言い始めれば、まさに悪魔の思う壺である。兄弟姉妹を責めるのではなく、彼らの目をくらましているサタンをこそ責めなければならない。

(KFCのように、クリスチャンの無知を高みから見下ろしては嘲笑しているグループなどは、クリスチャンを責めながら、決して悪魔を責めようとしないところに大きな罠がある。カルト被害者救済活動が、被害者の無知を責めて、加害者を無罪放免したのと同じ理屈である。確かに、クリスチャンの弱体化は嘆かわしい問題であるとはいえ、キリスト教徒の無知を責めたり、嘲笑するような人々は、それによって、聖徒らを辱めてサタンを無罪放免する側に回っていることを思い知るべきである。)
 
かつて筆者はある交わりにおいて「サタンを責める」ことの有用性を聞かされ、そこから非常に重要な教訓を学んだと考えている。サタンを責めるなどのことは、初めは筆者にも、まるで意味のないことのように思われた。しかし、その後、不当な重荷を負わされないためには、徹底的にサタンと言い争って、御言葉に固く立って、サタンから来た重荷をサタンに跳ね返すことが必要なのだと学んだ。そして、それが可能なのだと。

もう一度、我々はどんなことでもサタンのせいにしてしすぎということはない、ということを言っておかねばならない。私たちがどれくらい解放されるかは、私たちが不当に負わされている重荷にどれほど気づいて、これをサタンに跳ね返すかにもかかっていると言えよう。筆者が多くの信者に気づいてもらいたいと願わずにいられないことは、サタンだけは、どれほど責めても、責めすぎということはなく、サタンを責めても、いかなる権利侵害も発生せず、八つ当たりにも該当せず、名誉毀損も発生しないことだ。そもそも地獄で永遠の刑罰に定められている存在に対して、私たちがどれほどひどい責め言葉を発したとしても、行き過ぎということはない。サタンには永遠の恥辱がすでに与えられているのだから、今更、回復すべき名誉などあるはずもないことは明白である。

ところが、不思議なことに、キリスト教徒を名乗っている人たちのうちかなりの数が、サタンを憎むこともなく、むしろ、サタンに同情すらしている現状があることを知って、筆者はこれに非常に驚き、嘆かわしい事態だと思っている。

聖書に記されている通り、サタンは「我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者」(黙示12:10)であり、私たちクリスチャンを日夜告発する者である。サタンがどれほど執拗に、私たちにいわれのないことで責任転嫁しては、私たちに有罪を宣告しようと機会を狙っているかは、ゼカリヤ書を見ても分かる。

「 時に主は大祭司ヨシュアが、主の使の前に立ち、サタンがその右に立って、これを訴えているのをわたしに示された。 主はサタンに言われた、「サタンよ、主はあなたを責めるのだ。すなわちエルサレムを選んだ主はあなたを責めるのだ。これは火の中から取り出した燃えさしではないか」。 」(ゼカリヤ3:1-2)

悪魔は大祭司ヨシュアを訴えたように、今日も、聖徒らを訴えている。サタンがどれほど聖徒らに濡れ衣を着せようと、日夜、神の御前で執拗に聖徒らを訴えているかを考えれば、私たちは、そのいわれのない告発から身を守るために、御言葉で武装する必要を否定することはできない。

私たちには、サタンの執拗さを上回るほどの執拗さで、サタンを神に告発することが必要なのであり、そのために、私たちは自分を贖って下さった神の約束に固く立って、御言葉を防衛の盾として自分自身に適用し、証の言葉を述べなければならないのである。

兄弟たちは、小羊の血と
 自分たちの証しの言葉とで、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」(黙示12:11)

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、”霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エフェソ6:10-18)

このように、霊の戦いは何ら荒唐無稽な作り話でもファンタジーでもない。「悪魔の策略」というものがれっきとして存在しており、これに対抗して立つために、主の力によって強められ、神の武具によって武装することが必要なのだと御言葉ははっきり述べている。

これまで当ブログでは、霊の戦いとは、暗闇の軍勢が振りまく嘘に対して、御言葉に立って反論し、激しい論戦を繰り広げ、嘘に打ち勝つことを指すと述べて来た。霊の戦いとは神社に油をまくことでもなければ、悪霊退散の祈祷を行うことでも、訳の分からなお札を家中に張り巡らすことでもない。

私たちの戦いは、悪魔の虚偽に対して、神の御言葉に固く立って反駁し、嘘を打ち破って、人々の思いの中に働く惑わしを打ち破り、この地上において、真理を浸透させて行くことである。
 
むろん、物理的な領域における戦いというものもあるとは思うが、まずもって霊の戦いとは、真理と嘘の間で戦われる激しい攻防戦なのである。そこで、私たちも日常生活において、あらゆる不当な言いがかりや圧迫を受けるであろうが、そもそも自分に非のないことで、悪魔から不当に責任転嫁される筋合いにはないということを、はっきりと言い返さなければならない。どんな些細なことであれ、心に罪悪感をもたらす重荷をきっぱりと拒否して、罪はその真の出所(悪魔)にお返しする必要がある。

その根拠となるものが、小羊の血潮による義認である。これを持って、私たちは自分がどんな事柄においても、誰にも決して責められるべきところのない完全な人だと言えるのである。

しかし、それでもサタンはあることないこと取り上げては、私たちを非難して来るであろうから、私たちはその虚偽に対しては、神に義とされた者として断固立ち向かい、神の開いた法廷の前で、日夜、サタンと対峙して、彼の罪を訴えなければならない。

クリスチャンは望むと望まざるとに関わらず、日夜、サタンから激しい論戦を挑まれ、それに対して御言葉によって勝利することが求められているのである。

ここで注目せねばならないのは、神とサタンが言い争っているのではないということだ。法廷において、対立する陣営として向き合い、論戦を繰り広げているのは、人類(聖徒ら)と悪魔であり、神は両者の言い分に耳を傾け、判決を下す裁判官の立場にある。

神がサタンの言い分に耳を傾けるのかと驚く人があるかも知れないが、ヨブに試練が与えられた時、神は、サタンがまずヨブのような義人でも試練が与えられれば信仰を捨てるだろうと述べた言葉に耳を貸されたことを思い出したい。そして、サタンの提案した挑戦の方法では、決してヨブの信仰を取り去ることができないことを示すために、神はあえてサタンの提案を実行に移すことを許されたのである。

このように、神は今日も、悪魔と信じる者たちの言い分を比較衡量される。しかし、それはサタンに勝利を与えるためではなく、サタンのすべての策略を打ち破って、神の教会が、神の豊かではかりしれない知恵を表し、それによって神に栄光を帰するためである。サタンはあらゆる脅かしを使いさえすれば、信者はみな神への信仰を捨てるものと確信している。しかし、神はそうではないことを知っておられる。知っておられるが、サタンの挑発を跳ね返して、信仰に立ちおおせて神に栄光を帰する仕事を、あえて信者に委ねておられるのである。

神と悪魔との間では、キリストの十字架においてすでに決着が着いているが、被造物の世界において、決着をつけるのは、いわば、私たちの仕事である。

神はキリストの十字架において、私たちを奴隷にしていた罪の債務証書を無効にし、破り捨てられたが、その後、今度は、私たちがサタンへの告発状を書いて、それを携えて、神の御前に立っている。

サタンも被造物であるが、私たちも被造物として、神の創造された世界の主権が誰にあるのかを争っている。悪魔は、それが自分のものだと言う。しかし、私たちはそうでなく、神のものだと言う。私たちは、サタンは不法侵入者であって、サタンが主張している主権は、神から強奪したものでしかないから無効であると訴えている。

「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。」(ヤコブ4:7)

私たちに任されている使命は、キリストの勝利を被造物の世界においても打ち立て、御名の権威を行使して、すべてのものが膝をかがめてイエスは主と告白するよう、神の主権、力、支配をこの地に来たらせることである。そのために、私たちは、サタンによる占拠が不法であり、無効であることを訴えて、立ち退きを迫っているのである。
 
私たちが被造物の世界において、御名の主権を取り戻し、かつ行使して、サタンに立ち退きを迫る根拠となるのは、キリストが十字架において悪魔の支配を打ち破られ、私たちを奴隷として拘束していた罪の債務証書を無効とし、死の力を滅ぼされたことである。

この勝利の証文を振りかざして、私たちは日夜、神の法廷において、サタンの言いがかりに立ち向かい、事実を争っているのである。敗北すれば、サタンの領土が広がる。勝利すれば、キリストの主権による支配が広がる。創世記の冒頭で、人類が蛇に遭遇し、神に従うのか、悪魔に従うのか、決断を迫られた時のように、今日も、私たちは神の御言葉と悪魔の言い分のどちらを信じて従うのか、常に決断を迫られている。

だが、創世記と異なるのは、私たちにはすでに律法を成就されたキリストが共におられ、私たちのために知恵と力となって下さっていることである。
 
繰り返すが、神は確かにキリストの十字架において悪魔に勝利を下されたが、その勝利を行使することは、私たちの日々の生活にかかっている。その勝利をこの地に実際として引き下ろし、適用し、キリストの御名によって支配される領域を拡大することは、私たち自身に任された仕事なのである。

その中で、私たちは、私たちを不当に責めるサタンを責め返し、彼に重荷を跳ね返すことがどれほど必要であるかを知らなければいけない。

繰り返すが、サタンの罪というのは、もはや天に到達するほどにうず高く積みあがっており、その上に何を増し加えたとしても、加えたことにならないほどである。サタンはいわば無限大に罪を犯している存在であって、「サタンを責めるのはお門違い」などということは決してあり得ない。
 
人類が罪を犯して堕落したことも、根本的にはサタンのそそのかしによる。確かにキリスト教徒となり神の子供として受け入れられるには、私たち自身が、罪を悔い改め、神に立ち帰ることが必要であるが、それは一度限り永遠に効力を持つものであり、悔い改めとは、悪魔に向かって永遠に懺悔し続けることではない。

すべての罪の起源は、サタンにあり、サタンこそ責められるべき張本人であることを私たちは忘れるべきではない。それを忘れて、霊的に弱体化したクリスチャンばかりを責め続けていれば、いずれ悪魔に加担する羽目になって行くのは避けられないであろう。
 
聖徒らが弱体化したことの責任も、もとを辿ればすべてサタンにあると言えるのであって、サタンにはいかなる同情も憐憫も無用であり、サタンに責任転嫁してはならないなどと言った主張は、すべて荒唐無稽である。それは私たちに真の敵が誰であるかを忘れさせ、私たちのものではない重荷を私たちに背負い込ませようとするための虚偽の策略であると言えよう。

ところが、このような話を始めると、早速、耳を閉ざしてしまう信徒たちが現れる。彼らは悪魔とは何かしら形而上の存在であって、比喩のようなものだと考えて、それが現実の存在だとは信じておらず、悪魔に立ち向かうという話を聞くと、極端なたとえ話や、冗談のような話を聞かされていると考えて、耳を背けるのである。しかし、悪魔の存在を否定すれば、その分だけ、彼らは自分たちをそそのかし、惑わす存在があることに対して無知となり、抵抗する力がなくなって、無力となるのだと言える。

敵が存在しているにも関わらず、敵などいないと考えて防衛を怠るほどに危険なことはない。攻撃を跳ね返すためには、攻撃の源を知らなければならない。しかし、多くの場合、敵からくる攻撃は、物理的なものというよりも、思想的な攻撃である。敵の要塞というものが存在する。嘘、詭弁、屁理屈、神の知恵に逆らう高慢、思いをくらます惑わしなどの策略が存在し、それらを発する要塞となる拠点も存在する。

しかし、私たちは、その要塞をも御言葉に立脚して、神の知恵により、ことごとく論破して、破壊して行くのである。以下の言葉は、預言者エレミヤだけに述べられた言葉ではない。万民祭司の今日の時代には、クリスチャン一人一人がその役目を担わなければならない召しを告げたものに過ぎない。

いつまでも弱さの中にとどまっていてはならない。神の勇士たちよ。小羊の血潮により、贖われた者として、神の義に固く立って、悪魔の嘘に対抗し、主の偉大な力によって強くなり、敵の要塞を破壊して、すべての思いをとりこにしてキリストに従わせる神の戦士として大胆に前進し、新たな領土を勝ち取りなさい。
 
「主の言葉がわたしに臨んで言う、 「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」。  その時わたしは言った、「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」。

しかし主はわたしに言われた、「あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない。だれにでも、すべてわたしがつかわす人へ行き、あなたに命じることをみな語らなければならない。 彼らを恐れてはならない、わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」と主は仰せられる。 そして主はみ手を伸べて、わたしの口につけ、主はわたしに言われた、「見よ、わたしの言葉をあなたの口に入れた。 見よ、わたしはきょう、あなたを万民の上と、万国の上に立て、あなたに、あるいは抜き、あるいはこわし、あるいは滅ぼし、あるいは倒し、あるいは建て、あるいは植えさせる」。 」(エレミヤ1:4-10)

私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」