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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

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イゼベルの霊がもたらす男女の秩序転覆――男性化した女性たちと、非男性化された男性たち

・「偽りの期待を持たせて人を欺きながら、梯子を外し、騙された相手を嘲笑する」(ダブルバインド)イゼベルの霊の典型的な心理操作のテクニック

さて、話題は少し変わるようだが、以前の記事の末尾で紹介したEden Mediaの警告動画では、興味深い事実が告げられている。それは「イゼベルの霊」が、女性の男性化と、男性の非男性化という転倒した現象を人々にもたらすという指摘である。

本稿では、ペンテコステ運動に関わった信者たちと接して来た筆者自身の実体験を通して、この問題について、より踏み込んで考察していきたい。
 


 
 
筆者は、ペンテコステ運動とはイゼベルの霊に率いられる弱者救済を装った秩序転覆(キリスト教破壊)運動であると見ており、イゼベルの霊とは、端的に言えば、グノーシス主義の秩序転覆の霊を意味する。

なぜイゼベルという女性の名がついているかと言えば、この霊は神に対する人類(霊的女性)の側からの反逆の霊であり、より低い次元では、男女の秩序を覆すフェミニズムの思想を指しているからである。ペンテコステ運動にも、その思想的な基盤に、フェミニズム神学なるものが存在することはすでに確認した。
 
このように、イゼベルの霊とは、男女の秩序を覆す霊、もっと言えば、神と人類との立場を置き換えて、被造物に過ぎない人間が、己を神として自分自身を拝み、栄光化する人類の自己崇拝とナルシシズムの霊であり、他者の心の傷をきっかけに人の心に侵入し、ターゲットを抑圧的に支配する。当然ながら、この霊は、ターゲットが自分よりも強い男性であっても、弱みを握ることで、思い通りに支配して行く。

さて、「男性の非男性化、女性の男性化」という本題に入る前に、まずは最初にイゼベルの霊の心理的支配のテクニックについて述べておきたい。

以下の図は、以上の動画の画像に筆者が注釈を書き加えたものであるが、これはイゼベルの霊がターゲットとする人間を、自分に都合の良い「箱(マトリックス)」に閉じ込めた上で、様々な心理的な駆け引きを行うことによってターゲットを自分の支配下に束縛し、搾取・抑圧する手法を構造的に表している。
 
 
  
イゼベルの霊とターゲットとは、何らかの心の傷(コンプレックスや負の記憶のトラウマ)を通じて強固なソウル・タイによって結ばれている。この霊は一見、人の心の傷に優しく寄り添い、これを癒してやるように見せかけながら、ターゲットに近づいて行く。その偽りを見抜けず、心を開いたターゲットは、彼女の偽りの優しさに依存するようになる。だが、イゼベルの霊は、ターゲットの心の傷を癒すどころか、より押し広げ、ますます重症化して行くことで、ターゲットの弱みを半永久的に握って、自分から離れられないように仕向ける。「傷」を頼りに結ばれるこの「絆」が絶ち切れない限り、ターゲットはイゼベルの霊によって永久に搾取され、人格がどんどん弱体化して行くことになる。

イゼベルの霊は、愛や同情や優しさに見せかけて、自分がターゲットを搾取し、不当に抑圧していることを気取られないように、ターゲットを自分の用意した「マトリックス」(=イゼベルの霊の管理と統制が行き届いている閉鎖的な組織や宗教団体やサークル等)に閉じ込め、ターゲットが得られる情報が非常に偏った一方的な内容に制限されるように操作する。

情報こそ、人間が物を考え、自由を希求する上で最も有力となる手掛かりなのであり、人間へのマインドコントロールは、まずはターゲットとなる人間から自由な情報源を奪い、ターゲットを社会的に孤立化させて、得られる情報を制限することから始まる。ターゲットとなる人が客観的な情報を自由に幅広く入手した上で、自分自身の頭で、何が正しくて何が間違っているのかを自主的に吟味し、物事を疑いながら批判的に考察しながら判断を下す自由と考察能力を失った時点で、マインドコントロールの基礎はほぼ完成している。

イゼベルの用意する「箱(マトリックス、子宮)」はそのためにこそ存在する。つまり、この霊は、ターゲットがまるで子宮の中にいる赤ん坊のように、彼女からの栄養補給がなければ、自分では何もできないような、依存的で手足を縛られた状態にするのである。この霊は、ターゲットを何かの閉鎖的な組織や団体に閉じ込めることで、ターゲットが誰とでも自由に交流でき、様々な情報を自分の意志で広く入手できるような環境を奪う。経済的な自立を奪うことで、行動を制限することも少なくない。そして、この霊は、自分の気に入った一方的で都合の良い偏った情報だけを、ターゲットに「正しい情報」として与え、それ以外の情報を一切、「間違ったもの」として受けつけなくなるように教え込むことで、ターゲットが不都合な情報に接するのを禁じ、マインドコントロールを施す。

多くの場合、宗教団体がターゲットを閉じ込める「マトリックス」の役割を果たすことになる。イゼベルの霊は、「神」の概念を悪用することによって、自分にとって都合の良い情報にしかターゲットが接触しなくなるように仕向ける。彼女は、世話好きで、慈愛に満ちた優しい助力者、敬虔な信者や、宗教指導者の姿に仮装し、自分こそが人生の正しい指南役であるかのように、ターゲットの前に現れてその心を掴み、「神」や「宗教」に名を借りて、ターゲットが自分の与える情報や助言だけに依存して生き、彼女の思う通りの人間になるよう操作して行く。こうして、イゼベルの霊が、ターゲットを閉じ込めるための「子宮(マトリックス)」が完成する。

もしこの霊の閉じ込めがあまりにも乱暴で性急であれば、誰でも自分が操作されている危険に気づくであろう。そこで、イゼベルの霊は、ターゲットが自分は騙され、搾取されているだけなのだとは気づかないように、様々な偽りの「餌」を与えることで、ターゲットを懐柔しながら、アメとムチによって心理的駆け引きを繰り広げる。ある時は、ターゲットをおだてあげ、立派な指導者的な立場などを用意してやることにより虚栄心をくすぐり、ある時は、か弱いふりをして、泣き落としや、同情を引き出す作戦に出、ある時は、性的な魅力をアピールし、思わせぶりな態度を取ることで、恋人の代わりを演じ、ある時は、何か偉大な奇跡のような事柄を約束し、心を揺さぶる。そのようにして、ターゲットを様々な「餌」を使って自分に引きつけておきながら、いざターゲットがそれに騙されて近づいてくると、冷たく突き放して混乱させる。そして、その混乱した姿を見て、ターゲットを侮蔑し、恥をかかせ、それはターゲットが悪かったからそうなったのだと言っては、罪悪感を持たせ、態度の改善を求めて、自分から離れられないようにして行くのである。
 
このように相矛盾するメッセージを同時に投げかける心理作戦(ダブルバインド)に陥れられたターゲットは、イゼベルの霊の絶えず豹変する矛盾に満ちた行動にどう反応すべきか分からず、立ちすくんでしまい、彼女への同情心や、自分が慰めてもらいたい願望から、彼女を憎み切ることもできず、離れられないまま、対処に悩み続けることになる。そのように悩みながらこの霊と関わりを続けること自体が、すでにしかけられた罠にはまっていることを意味するのである。

さて、このようなマインドコントロールのテクニックを用いて人を思うがままに支配するイゼベルの霊の持ち主が、必ずしも、女性であるとは限らない。なぜなら、男性であっても、イゼベルの霊とソウル・タイを結べば、その人の人格は、やがてイゼベルの霊そっくりになって行くからである。

たとえば、筆者は以前の記事で、Kingdom Fellowship ChucrhのDr.Lukeによる信者への心理的駆け引きの手法についてすでに触れた。同氏には、青春時代において、将来の結婚を前提とする交際をしていた女性から結婚を求められた際に、曖昧な態度で身をかわし、返答を先延ばしにしたことがきっかけとなって、交際が破局したという事件が起きたことを、同氏自身が、自らのメッセージにおいて明らかにしていたことにも触れた。

Dr.Lukeはそれがきっかけで神を求めて回心に至ったと証するのだが、その後の人生でも、全くこれと同じパターンの行動を繰り返し、今度は、KFCという宗教団体を舞台として、そこへ集まって来る信者に対して、以上の女性に対して行ったのと同じ心理的駆け引きを繰り広げているのである。すなわち、同氏は、ブログやインターネットや動画や様々なツールを使って、いかに自分が霊的に高邁で魅力的な存在であるか(そこには性的な意味合いも当然ながら含まれる)をしきにりアピールしながら、人望を集め、その心理的トリックを見破れずに、同氏を魅力的な宗教指導者のように思って期待して近づいて来る信者らに対して、ことごとく「梯子を外す」ような行動に出て、彼らを失望させ、恥をかかせ、その信者らの混乱した様子を見て、「自分は何も約束していないのに、彼らは勝手に期待してぶら下がって来た。そういう依存的な心に問題があるのだ」などと言って彼らを侮蔑し、嘲笑するということの繰り返しであった。それでも、KFCに残り続けているのは、Dr.Lukeのそういう残酷な性格をよくよく理解した上で、殴られても殴られても夫のもとを去らない妻のように、何かの弱みがきっかけとなって、不当な扱いに完全に抵抗する力を失ってしまった信者たちだけである。

このように、何かの約束を口にしておきながら、それを守らず、あるいは思わせぶりな態度を取って人の心をひきつけておきながら、相手を突き放すことによって、ターゲットを混乱させ、その心を傷つけ、侮辱するという不誠実な行為は、典型的なイジメのテクニックである。こうした行動は、たとえば、Dr.Lukeが一方的に杉本徳久氏を提訴すると語った行動にも、よく表れていただろう。同氏は杉本徳久氏からの非難に遭遇した時、これに対してきちんと反論しようとはせず、誰も依頼していないにも関わらず、自ら勝手に筆者の名前を持ち出して、同氏に提訴の予告を行った。ところが、多くの関係者に絶大な影響を及ぼしたにも関わらず、同氏は、全く理由不明なまま、長期間に渡り、その宣言を実行に移そうとせず、ただ巻き込まれた関係者だけが大変な迷惑をこうむるという事態が起きた。Dr.Lukeがこの不誠実な行動に対して弁明らしき言葉を公に発したのはずっと何年も後になってからのことである。当時、筆者が同氏の行動の不誠実さを責め、どんなに対立している相手に対しても、そのような行動を取るべきでないと指摘し、回答を迫った時のDr.Lukeの反応は、まさに返答を先延ばしにすることで梯子を外し、自分の発言の影響に巻き込まれた全ての人間に恥をかかせ、追い詰めるものでしかなかった。しかも、KFC外の人間に対してはこのように曖昧な態度を取っておきながら、Dr.Lukeは元KFCの信者でありながら自分を批判する人間に対しては速やかな告訴に及んだのである。当時、同氏の行動の意味を正確に理解できる者はなかったであろう。

このようなことはすべてイゼベルの霊が行う心理的な駆け引きをよく物語っている。Dr.Lukeの行動は、自分の潔白を証明するために行われたものではなく、ただKFCという団体を通じて自分に接触して来た信者たちが、偽りの期待や、もしくは、何かのこじれた事件を通して自分自身につながり、半永久的に離れなれなくなることで、苦しめることを目的とするものであった。同氏は常日頃から特に何も事件が起きないまでも、他人にいたずらに期待を持たせておいて、約束したものを決して与えないことによって、いつまでも信者たちが自分から離れられなくなるように仕向けていたのである。

若い時分に、Dr.Lukeのこうした行動の背後にある不誠実さを見抜いた上で、同氏に対する希望を完全に捨てて、同氏の元を早々に去った女性は、その意味で、慧眼であったと言えよう。その女性に信仰があったのかどうかは知らないが、それに引き換え、これまで何十年間もDr.Lukeの人柄を観察して来たにも関わらず、今日になってもまだ、心理的なトリックを見抜けず、Dr.Lukeの信奉者となってKFCに束縛されている信者たち以上に愚かな存在はいない。むろん、彼らは何かの弱みを担保に取られていればこそ、不誠実な指導者といつまでも癒着を続けねばならない状況に陥っているのである。

このようなことは、村上密牧師のカルト被害者救済活動の場合にも、同じように当てはまる。村上牧師の人柄が、その外見とは裏腹に、全く信頼できない不誠実なものであることは、約14年前に鳴尾教会で同氏が引き起こした事件によって証明されている。村上牧師は、Dr.Lukeが公然とキリスト教界に反旗を翻すことで"ワル"をきどり、その挑戦的な態度で人気と注目を集めたのと同じように、キリスト教界に恨みを持つカルト被害者を集めて、裁判を通じてキリスト教界に戦いを挑むことで、自分自身を正義の味方のように見せかけたのである。

だが、その正義の味方としての立ち振る舞いも仮面に過ぎず、この牧師のもとに身を寄せた信者の中でも、裁判による解決に至るのはごくわずかでしかなく、裁判にも至らないケースが水面下に数多く存在し、真に解決を得られる信者は稀であった。さらに、鳴尾教会に対する訴訟に見るように、村上牧師自身が、スラップ訴訟としか言いようのない勝ち目のない裁判を自ら教会にしかけて、敗訴する側に回っている。そのように、問題解決の見込みがほとんどないにも関わらず、偽りの期待を持たせることによって信者たちを自分のもとに引きつけ、かつ、反対者をひどく中傷することで、自分自身の不誠実な行為の犠牲者となった人間を愚弄し、笑い者にするというのは、Dr.Lukeの行動とほとんど変わらない狭量さである。このような指導者が自らの配下にある者たちを守ることができないのは一目瞭然であろう。

だが、そうした特徴は、Dr.Lukeや村上密牧師といった個人に限ったものではなく、ペンテコステ運動全体の特徴でもある。天声教会のケースでも、KFCと全く同じように、教会という団体そのものが、指導者層が自分にとって都合の良い情報だけを一方的に信徒に信じ込ませるための「マトリックス」となっている。指導者自身も、社会から隔絶されたこの閉鎖的な環境に束縛されて、偏った物の見方しかできなくなっているが、信者たちもそこに束縛されている。

KFCや、天声教会や、カルト被害者救済活動のすべての例に共通するのは、彼らが指導者を中心に自分たちにとっての安全地帯である何かの「マトリックス」を作り、そこに閉じ込められている者だけが、正しい信仰の持ち主であって、自分たちの活動に反対する人間は皆、悪魔の手下であるかのような虚偽を流布している点である。さらに、既存のキリスト教界に対して挑発的に振る舞い、自分たちには従来のクリスチャンにはない正しさがあるかのように主張して、自分自身を正義の味方に見せかけ、常に反対者を侮辱したり嘲笑するようなメッセージを投げかけることで、批判を封じ込め、自分たちの優越性を主張しようとしている点も同じである。

彼らのメッセージ内容はほとんど全てが自分たちの正しさと優越性を誇示するためのものとなっている。それは彼らの「マトリックス」がいかに優れて正しいものであるかを、関係する信者たちに信じ込ませ、他の教会は堕落しているので決して行かない方が良いと思わせて、接触を禁じ、情報を統制した上で、自分たちのもとに永遠に束縛するために使われるマインドコントロールの手段である。

こうした指導者たちが、本当は、自分自身がまるで牢獄のような環境に閉じ込められて、自由を失っているにも関わらず、牢獄の外にはもっとひどい世界が広がっていると思わせることで、また、自分たちの活動に与しない反対者を徹底的に吊し上げ、公衆の面前で侮辱・嘲笑することによって、彼らの「マトリックス」の異常性に人々が気づいて脱走するのを阻止するという手法は、かつてソ連が取っていた政策にそっくりである。ソビエト・ロシアは、一国社会主義路線を取っていた間、世界から孤立していたが、戦争や計画経済の失敗によって国が荒廃し飢餓状態に陥ってもなお、自分たちの政策が世界に先駆けて優れたものであるという思い込みを捨てることなく、「西側の資本主義国では地獄絵図のような風景が広がっているが、それに比べれば、我が国はまるでユートピアだ」などと偽りの宣伝を行うことによって、国民の逃亡を阻止し、国外への亡命者に対しては「人民の敵」として大々的なバッシングを行うことで見せしめとし、国外逃亡に対してはこれを「罪」として死刑に相当する厳罰を科していた。共産主義という絶対にやって来ない幻を「餌」としてぶら下げることで、無いものを担保に、徹底的に国民を騙し、搾取し、支配していたのである。
 
なぜ以上に挙げたようなペンテコステ運動の指導者たちは、自己の教会を「マトリックス」化して、自由なき牢獄に自ら閉じ込められた上、他の者たちをも同じ牢獄に閉じ込めようとするのだろうか。そこにどんな目的があるのだろうか。

第一には、指導者が信者たちを食い物にして栄光を受け、金もうけをしたいという欲望があるだろう。イゼベルの霊は名誉欲の塊である。だが、彼女の内心は非常に空虚なので、自分一人だけでは何事も果たせず、常に手下となってくれる信奉者を必要とする。支持者や信奉者たちを搾取し、彼らから盗むことによってのみ、彼女は栄光を受けるのである。

この霊は偽りの希望を信者たちに持たせて彼らを欺いている間、信者たちから栄光を盗むだけでなく、金銭(献金)や労働(奉仕)をも搾取する。すでに述べた通り、ペンテコステ運動の指導者たちは、その出身を調べて行くと、その大半が、単なる「自称牧師」や「自称カウンセラー」などの、まともな教育訓練をほとんど受けていない、ただ勝手に指導者として名乗り出ただけの、ほとんど成り上がり者と言っても良いようなにわか牧者たちである。中には、明らかに問題のある環境に育ち、非行(場合によっては殺人さえ)などの眉をひそめる行為を繰り返していたり、回心してクリスチャンになった後でも、成熟した社会生活を送った経験がないに等しいような場合も珍しくない。このように、詐欺師と言っても過言ではないような不誠実かつ不適格な人間が、「聖霊のバプテスマ」を口実にして、何かの超自然的な霊力を誇たというだけで、無から一足飛びに宗教指導者として栄光の座に就き、短期間で、自分のミニストリーを開き、信者たちを集めて大金を巻き上げるのである。

こうした指導者は、(詐欺師はみなそうであるが)大胆で厚かましくパフォーマンスが巧みで、人の心の弱点を見抜いてそれを利用する技に長けているので、最初のうちは、弱者救済などを口実にして、既存のキリスト教界を勇敢に非難してその問題点をあぶり出し、悪代官をやっつける正義の味方のように振る舞い、人々の抱える問題に寄り添うことで、救済者のように振る舞い、注目を集め、感謝され、信頼され、期待されるかも知れない。

詐欺師は、無いところから幻に過ぎない栄光を引き出すために、他人の持っている栄光を盗むしかなく、その第一歩は、既存の秩序を引きずりおろして転覆させて、権力の空白地帯を作り出すことから始まる。彼らは従来の体制の不備を突き、それを転覆させる改革者のように装って現れ、その斬新で奇抜で挑戦的なパフォーマンスに圧倒された愚かな人々が、歓呼して彼らを支持し、そうした信者たちからさらに搾取して、自分の勝手気ままに支配できる団体(ミニストリー)を作り上げるのである。

だが、以上のようなペンテコステ運動の指導者たちは、突如としてどこからから現れ来て、一瞬、人々の注目をさらうものの、人間関係の結び方、行動があまりにも未熟で幼稚であり、不誠実かつ挑戦的なために、そのうち多くの人たちから相手にされなくなり、仲間内でも分裂し、孤立化して行くことになる。そうなると、何かしら一国社会主義路線のようなものが出来て、反対者も増えて来るので、信者の離散を食い止めるために、ますます彼らは疑心暗鬼に陥り、他の団体に対する敵意をむき出しにしながら、より厳しく情報を統制して引き締めをはかり、自己の優位性をしきりに強調して、信者を引き留めるしかなくなる。最後の一人が離脱するまで、自分の縄張りの外にいる信者たちを敵視・非難・断罪しながら、「自分たち(だけ)が正しい信仰の持ち主である」と言い張り続けるのであろう。指導者の不誠実な正体が早々に見抜かれてメンバー全員が離脱すればまだ良いが、そうならないうちに、指導者がいよいよ自分の正体が気づかれそうな段階になると、自らが責任追及されることを恐れて、人民寺院事件や、戦中の日本がまさにそうであったように、信者たちを道連れに集団的な心中ような悲劇的最期に向かうこともあり得る。そうなると、まさに「盗み・殺し・滅ぼす」という悪魔の意図が達成されることになる。
 
 
男性の「非男性化」と女性の「男性化」――イゼベルの霊が生み出す卑怯で軟弱化した男たちと尊大で厚かましい女性たち

さて、話を戻せば、筆者自身の目から見ても、ペンテコステ運動に関わる信者たちには、「女性の男性化」、「男性の女性化」という現象が顕著に見られた。
 
もっと卑近な言葉で説明するならば、この運動を特徴づけるのは、「男性の上に立ち、男性を思うがままに操ろうとする傲岸で不遜な女性たち」と、「そうした女性たちの尻に喜んで敷かれ、彼女たちの助けなくては何もできないほどまでに軟弱化した女々しい男性たち」であった。
 
ペンテコステ運動に関わる女性信者たちは、外見的には、非常に女性らしく、たおやかに、敬虔そうに、純粋そうに見えるかも知れない。以前、筆者は学生時代に遭遇した(後には著しいトラブルメーカーとなった)ペンテコステ信者について記事に記したことがあるが、彼女の場合も、その外見には、いずれそういう厄介な事態が持ち上がると予想させるものはなく、かえってある種の純粋な美しさのようなものさえ見て取れたものだ。その後、ペンテコステ信者たちとの関わりにおいて、筆者はこうした純粋そうに見える外見的な美が、この運動に関わる信者たちの多くに共通する特徴の一つであると分かった。

ペンテコステ運動に関わる女性信者たちは、一見、率直で、信仰熱心で、全てのことをあけっぴろげに語り、人の弱さに対しても敏感で、困っている他人にはかいがいしく寄り添う術を心得ており、その同情心溢れる行動や、親切心は、女性らしさや、内心の謙虚さの証のように見えるかも知れない。信仰生活においても、彼女たちは人助けに熱心で、自分が直面している問題や、様々な事柄についての印象を隠し立てなく語るので、それを信頼の証であるように誤解してしまう人もあるかも知れない。

だが、もう少し深く関わりを続けて行くと、そのぱっと見のたおやかさ、愛らしさ、優しさ、柔軟さとは裏腹に、彼女たちは内心では非常に頑固で、融通が利かず、しかも、一度、何かを思い込んだらどんなに周囲が止めても自制がきかないほどまでに猪突猛進で、その判断は、非常に偏っており、直情的で、非論理的で、一言で言えば、暗愚であり、何事も深く考察せず思いつきや印象だけで判断し、周囲の理解やサポートを度外視して、自分勝手に進んでいき、それにも関わらず、自分の判断に絶対的なまでの信頼を置いていることが分かるだろう。

彼女たちに何かを思いとどまるように説得するのは非常に困難である。なぜなら、彼女たちは、自分は他者よりも物事がよく分かっており、霊的に目が見えているのに、他者には自分ほど霊的視力がないから、自分の考えていることを理解できないのであって、そんな可哀想な彼らには、自分が逆に物事を教えてあげなければいけない、と考えているからだ。こうして彼女たちは、他者からの忠告を軽んじ、思い込んだ方向へまっしぐらに突き進んで行く。その勢いは止めようもないほど強引で、呆れながら見守っているしかない。すると、最後になって、やはり、彼女たちの確信は誤りだったのだということが事実として判明する。だが、それに巻き込まれた人たちは大変な迷惑をこうむるのである。

一言で言えば、ペンテコステ運動の支持者たちは、男女を問わず、大変なトラブルメーカーである。しかし、彼・彼女たちは、霊的な慢心に陥っているため、内心では自分を他者よりも賢いと思っており、自分がトラブルを引き起こしているとの自覚はない。彼らの自分は霊的に目が見えているという思い込みは、内心のコンプレックスの裏返しとして生まれる反知性主義から来る。

すでに述べたように、ペンテコステ運動の信者たちの中には、高学歴の信者は少なく、どちらかと言えば、マイノリティや、社会的に冷遇されて来た立場の信者が多く、女性信者たちの多くも、ごくごく平凡な主婦であったり、普通の人々であり、立派な学歴や、専門知識や、エリート的な職業を誇示して、自分は賢いとか、一般大衆に抜きんでた存在であるなどと言えるような人々はこの運動にはあまりいない。

だから、彼らは一見、自分たちは平凡な人間で、とりたてて賢いわけでもなく、特技があるわけでもないと振る舞っているが、その謙虚さも、真の謙遜ではなく、謙遜に見せかけた傲慢であり、彼らは謙虚そうな外見とは裏腹に、内心では、ひそかにあらゆる「知」を嫌悪し、憎みながら、無知である自分が最も賢いと考えているのである。

そのような考えが生まれる理由は、この運動の支持者らが、偽りの「霊」を受けていることにある。すでに述べた通り、ペンテコステ運動を率いる霊は、グノーシス主義的な秩序転覆の霊、人類の自己崇拝・自己栄化・ナルシシズムの霊である。この霊の特色は、まず反知性主義である。なぜなら、この霊の起源は、サタンが人類に吹き込んだ偽りの知恵に由来するからである。ペンテコステ運動が反知性主義的(別の言葉で言えば、体験主義)である理由は、まさにここにある。

なぜペンテコステ運動が体験重視なのかと言えば、それはこの運動が、もともとあらゆる知性(による考察と検証)を憎んでいるからである。この運動においては、何の論理的な裏付けも検証もなしに、信者たちが見せかけ倒しの奇跡や、安易な受け狙いのパフォーマンスに欺かれているが、そうなるのは、この運動に関わる信者たちがもともと深く物事を自らの頭で考察し、自分自身の知性によって検証することを馬鹿にし、嫌悪しているからである。こうした現象はペンテコステ運動を率いる反知性主義的な霊が引き起こしている霊的盲目である。

ペンテコステ運動の体験主義は、悪魔から来る偽りの知恵
であって、その起源は創世記において、エバが悪魔にそそのかされて、何が正しく、何が間違っているのかを自らの頭で考察・検証することをやめて、ただ感覚と印象だけに身を任せて、自分にとって美しく、好ましいと感じられる禁断の実を手に取って罪に堕落した時に、彼女に吹き込まれた偽りと同じトリックである。

悪魔は、決して信者たちに何事もきちんと考察・検証させず、ただ感覚と印象だけに従って、自分にとって好ましいものを選び取るようそそのかす。その上、そうした愚かで自己中心な行動によって、「神のようになれる」と吹き込むのである。今日も、ペンテコステ運動の信者たちは、何も考えずに自分にとって好ましいと思われる体験に安易に身を任せることで、自分が「神のように賢くなった」と偽りの高慢を吹き込まれているのだが、そんな思い上がりが、キリストの御霊から生まれて来ることは決してあり得ない。


ペンテコステ運動の信者たちは、内心では反知性主義的で、知性そのものを憎んでいる。彼らは、知性があるから、自分は賢いと考えているのではなく、「霊」を受け、何かの神秘体験を味わったから、自分には霊的視力が与えられたと思い込んでいるのである。彼らが「知性」だと考えているものは、その実、自らの欲にそそのかされる「愚かさ」であって、「霊的盲目」に他ならない。だが、その霊は、反知性主義的な高ぶりの霊であるがゆえに、それが愚かさに過ぎないことを気づかせず、むしろ、一番愚かな者に、「自分は一番賢く偉い」などと思い込ませるのである。


この反知性主義は、コンプレックスの裏返しでもある。もう一度、創世記で、悪魔がアダムとエバを堕落させるために欺いた時に用いた心理的トリックを振り返ると、悪魔は人類に向かって、「神は不当にあなた方(人類)の目から知性を隠して、知性を自分だけの専売特許として独占することによって、偉く賢い存在となっているのだ」などと思わせたことが分かる。悪魔は人類に対して、「あなた方は不当に教育(知)を受けられなかったがゆえに、未だ愚かさの中にとどめおかれているのであって、神のあなた方に対する扱いは不当である」という(神に対する)コンプレックスを植えつけたのである。

ペンテコステ運動の信者たちは、低い社会層の出身であることが多いと書いたが、彼らの中には、幼少期から満足な家庭環境がなかったために、心傷つき、あるいは低い社会層の出身であるがゆえに冷遇され、差別されたり、回心前には、少年時代からの不良であっていたり、非行に走っていたり、果てはヤクザになったりした者もある。こうした社会層の出身者には、たとえ無意識であっても、自分の生い立ちへの引け目があり、特に、「自分たちは貧しかったがゆえに不利な立場に置かれ、無学な状態に留め置かれ、十分な教育を受けられなかったために、こんなに愚かになってしまったのだ」というコンプレックスと恨みが心に存在していることが多い。そういう恨みは、特に、高い教育を独占することによって、有利な就職をし、高給にあずかり、「貴族」のごとく支配層となっている知的エリートに対する恨みとして心に潜んでいる。

その無意識の恨みと、被差別感情があるゆえに、彼らは常に自分よりも弱く、問題を抱えた人たちを周りに集めて、人々の救済者のように振る舞いたがるのであり、男性信者、男性指導者であれば、自分よりも知的な女性が目の前に現れた時に、コンプレックスゆえに彼女らを自分に対する大いなる脅威と感じ、敵愾心をむき出しにしたりするのである。

ペンテコステ運動の信者たちは、たとえ無意識であったとしても、いつまでも社会の底辺の敗残者とみなされたままでいることには我慢がならないという怒りと復讐心と、それでも、社会的弱者が知性において勝負しても知的エリートに決して勝つことはできないという確信から、自分たちを見下し、踏みつけにして来た知的エリートを出し抜くために、知性によらず、神秘体験を高く掲げることによって、エリートを凌駕し、復讐を果たそうと試みているのである。それは、彼らを導く霊がさせていることである。このようなことを全て認識した上で、この運動に入信する信者はいないであろうが、たとえ信者たちが認識していなくとも、この運動の根底に流れるものは、反知性主義を掲げることによる知的エリート(最終的には人類、神)に対する復讐である。

だから、こうした運動に関わる信者たちが、愚かな者こそ一番賢いと思って、一切の知的考察を退け、ただ感情と印象だけですべての物事をおしはかるような暗愚な行動を、「知」として誇っている背景には、自分は十分な教育の機会を不当に奪われて社会において冷遇されて来たがために、愚かさの中に閉じ込められて生きるしかなかったのだという恨みの念と、その劣等感ゆえに知性を軽んじ、嫌悪することで、あらゆる知的なものに対して優位に立ち、勝ち誇りたいという復讐心が潜んでいるのである。

筆者はむろん、この国の(あるいは世界の)知的エリートと呼ばれる人々の誇る知性が、必ずしも正しいものだとは思っていないし、彼らが高い教育を財力によって独占している状況もあるべきとは考えない。多くの国々では教育は無償化の方向へ進んでおり、それが世界的な流れであって、我が国もそうならなければならないと考えている。だが、たとえ、すべての人々が高い教育を受け、今とは比較にならないほどの知性を手に入れたとしても、まことの知恵はただ神にのみあり、人類にはどちらを向いても、正しい知恵はないのである。人間の知性にはいたずらに人を高ぶらせる効果がある。今日の知的エリートもまた歪み、病んでいる。だが、それでも、ペンテコステ運動の信者たちの知的エリート主義に対する反発から生まれる反知性主義がいただけないのは、たとえそれがどんなに表面的には、社会構造の歪みから生まれるやむを得ない反発であるように見受けられたとしても、その根底には、神に対する恨みに起因する、人類と神への挑戦という恐るべき性質が隠されているからである。特に、ペンテコステ運動の信者たちは、自らの無知や愚かさを「知」として誇ることで、内心では、悪魔の知恵を振りかざして神の知恵に挑戦しているのである。

こうした特徴のために、ペンテコステ運動に関わる信者たちは、うわべは柔軟で謙虚そうに振る舞っていても、内心では頑固で融通が利かず、一旦何かを思い込むと、周囲のどんな説得にも耳を貸さず、誰に対しても、自分の方が物事がよく見えていると思い込み、その思い込みに基づいて、他者を思い通りにコントロールしようとするのである。

だから、この運動に関わる女性信者たちは、外見がどんなに女性らしく見えたとしても、男性的なまでに猛烈なパワーを発揮してリーダーシップを握り、旋風のごとく周りを巻き込みながら、あらゆる物事を自分の思い通りに進めようとする。

そして、これと引き換えに、この運動に関わる男性信者たちは、軟弱で、意志薄弱で、女性たちからの助けがなければ何もできないほどまでに臆病で無責任な卑怯者となって、上記のような信者たちの言いなりになって、その掌で転がされ、彼女たちの命令に引きずられて行くのである。

このように「男性化した女性」と「非男性化された男性」との転倒した秩序は、たとえば、KFCで隠れてメッセージを語っていたBr.Takaこと鵜川貴範氏とその妻直子氏の関係性にも顕著に見られた。二人の内で主導権を握っていたのは、明らかに妻の方であった。直子氏の高圧的で恫喝的な物言いの前には、Br.Takaのみならず、Dr.Lukeもまるで忠犬のごとく従っていたのであった。

ペンテコステ運動に関わる男性たちが、このように大胆不敵な女性たちに屈従するのは、彼らの内面が空虚で、劣等感に苛まれ、自己が傷ついているためであって、彼らには真のリーダーシップを取れるだけの自信と力がないのである。こうした男性たちには、支持者に誉めそやされ、他者を押しのけて優越感に浸る以外には、自信の源となるものがない。そして、他者から何かを盗むことだけを生き甲斐としている。

筆者は、ペンテコステ運動(だけに限らないが)の信者たちが、勝手に人のメールを転送したり、他人のブログ記事を自分が思いついたもののようにメッセージで利用したり、聖書や先人たちの著書を無断印刷して大量に配布したり、これを自分の作品のように自分のブログで著作権表示もなしに縦横無尽に引用したり、改造する場面を幾度となく見て来た。その結果、こうした剽窃は、盗みなのだという結論に筆者は至っている。

彼らは、自分に近づいて来る信者から栄光を盗むだけでなく、手柄を盗み、思想を盗み、夢を盗む。特に、人の望みを奪って、他者を失望させ、隅に追いやっておきながら、自分だけが脚光を浴びて、すべての栄光を独占することで、気に入らない他者に対する圧倒的な優位性を誇示することが、彼らの最大の生き甲斐であり、よすがである。

この人々は内心が空虚なので、人から盗む以外には、自己の自信と力の源となるものが存在しない。彼らが力強く、大胆に、目を輝かせて、立派そうな態度を取り、雄弁なメッセージを語るのは、イエスマンの支持者に囲まれて誉めそやされ、持ち上げられている時か、教師然と人を上から教えている時か、他者を批判して引きずりおろしている時か、自分よりも弱そうな誰かに支援者のように寄り添い、人の弱みを巧みに聞き出しては内心で自分の優位性を確認して満足している時か、あるいは、自分の偉大な超自然的な力を誇っているような時だけである。

彼らは、人に正体を見破られ、おべっかを受けられなくなり、捧げてもらうものもなくなり、盗むものがなくなり、自己の優越性が失われると、完全に心弱くなって力を失ってしまう。彼らは自分が栄光を受けることのできる舞台には、好んで出かけて行くが、いざ自分が不利な立場に置かれ、人に非難されたりすると、途端に臆病になり、まともな反論一つもできずに、仲間を見捨ててさっさと逃亡し、自己弁護や反論の仕事を支持者たちに任せきりにしながら、自分は影に隠れて陰湿な復讐計画にいそしむことも珍しくない。

多くの場合、ペンテコステ運動のリーダーたちは、あまりにも自尊心が傷つきやすく、臆病で、ナイーブなので、普通の人々であれば、公然と反論できるような些細な疑問や批判にさえ、まともに立ち向かう力がない。それはただ自尊心が傷つきやすすぎるためではなく、内心では、自分が詐欺師だという自覚があるので、反論できないということもあるだろう。

こんなリーダーだから、男性であっても、自分や、配下にある人間を、各種の脅威から力強く守ることもできず、仲間が傷つけられても、我が身可愛さに、自分だけ難を逃れることを最優先して逃亡することしかできない。要するに、彼らは聖書のたとえにある通り、群れを守らない雇われ羊飼いなのであり、羊を食い物にして栄光を受けることだけが目的で、敵の襲来を受ければ、真っ先に羊を見捨てて逃亡するような、勇気と潔さのかけらもない、男らしさを失った、見栄と自己保身だけが全ての、卑怯で臆病な牧者なのである。

だから、そういう臆病で見栄っ張りで自己中心なリーダーの周りには、自然と、同じような取り巻きだけが残ることになる。そのように臆病でずるくて身勝手な人々が、自分たちの弱さ、欠点、醜さには目をつぶって、互いを誉めそやし、自分たちを高く掲げて、神に等しい存在とみなして自画自賛し、自分たちに逆らう者は「悪魔の手下」とみなして中傷し、追い払い、気に入らない他者を呪い、裁きや、破滅の宣告を下すのであるから、目も当てられない有様となる。もうこうなっては、男性らしさ、女性らしさ云々というレベルの話ではなく、人格が荒廃して狂犬のようになって人間らしささえ失っていると言った方が良いだろう。

ペンテコステ運動とは、現実の人生において、社会的に低い立場に置かれ、冷遇され、様々な弱さや屈辱感や劣等感を抱える人々が、地道な努力によって自己の弱さを克服することなく、また、真に神により頼み、信仰によって強められることによってその弱さを克服しながら歩んで行くのでもなく、自分自身の弱さからは目を背け、手っ取り早く、悪魔的な力を手にすることによって、栄光の高みに上り、自分を踏みつけにした人々を見返すための、霊的ドーピングのようなものである。

この運動に関わる信者たちは、自己の真の状態から目を背けて、偽りの神秘体験によって自分が飛躍的に偉大になったかのように錯覚している。そして、リバイバルなどと言った偽りの夢と、自分は神に油注がれた偉大な預言者であって他の信者たちとは別格の存在であるという思い込みに基づいて虚栄に生きているので、そのような目くらましの現実逃避に生きている期間が長くなればなるほど、人格が弱まり、現実の様々な問題に勇気を持って自ら直面しながら生きる力がなくなって行く。

彼らは常日頃から、宗教の世界に逃げ込み、誰もが立ち向かわなければならないような現実の諸問題との接触を避け、自分がいつでも人から賞賛を受け、決して憎まれ役や悪役になって名誉を傷つけられたり、対立に巻き込まれることもなく、ヒーローとなって活躍できるような、安全で夢のような幻想の舞台を、弱すぎる自己のための延命集中治療室として用意している。彼らはその「マトリックス」にあまりにも長期間引きこもっているため、精神的には手足をもがれたも同然の状態であり、その救命室から一歩でも外に出ると、もう自分では生きられないほどに弱くなっている。

現実世界においては、そんな彼らの弱さのために、多くの場合、こうした指導者らの家庭は深刻な危機にさらされている。夫婦仲が悪かったり、配偶者をよそにして信者との霊的姦淫にふけっていたり、子供たちが病に倒れ、自殺に追い込まれていたりするが、それにも関わらず、こうした指導者たちは、自らの崩壊しかかった家庭や、孤独に悩み苦しんでいる(あるいは死にかかっている)家族をかえりみようともせず、自分一人だけ脚光を浴びる舞台に立って、立派な教師然とメッセージを語り、人々の注目と拍手喝采を浴びて満足していたりする。最悪のケースでは、子供たちが自殺に至っても、その事件を「神が信者としての私に与えたもうた信仰の試練」などと言って美化・正当化し、自分の宗教活動の異常さに気づくこともなくさらに突き進んで行く有様である。

筆者は、異端の宗教はみな弱肉強食であり最終的には子殺しへと結びつくと述べて来たが、このような域まで達すると、信者が支払った代償も大きすぎるので、偽りに気づいて後戻りすることもほぼ不可能であろうと思う。ペンテコステ運動が信者に与える影響とは、このようなものなのである。どうしてそんなものが正常な信仰と呼べようか。

ところで、筆者の考えでは、真の男性らしさというものは、自分を傷つけられたり、脅かされたりする時にも、忍耐強く耐えしのびつつ、苦難に力強く抵抗し、言うべきことはしっかり言って反論もしながら、自分を守り、同時に仲間を励まし、希望を持ち続ける力にこそある。

真の男性らしさとは、人からいわれなく誤解されたり、非難されたり、評判を傷つけられたり、反抗されたり、あるいは突如、襲来する敵と戦いになって傷を受けても、自分と自分の配下にあるものを最後まで力強く勇敢に守り抜くことができる強さにこそある。この強さは、ただ単に肉体的な強さを意味するのではなく、何よりも精神的な強さを意味する。だが、その強さは、己のためにあるのではなく、自分よりも弱いものをかばい、声なき者の声を代弁するための強さである。だから、真に男らしい人間は、自分が憎まれ役になって泥をかぶることを厭わず、誤解されること厭わず、自分の栄光を愛さず、傷つけられても力づくで報復しない。このような強さと忍耐こそ、真の男気につながる賞賛に値する美徳ではないかと筆者は考えている。

真に完成された「男らしさ」は、人間にはなく、人類の救いのために、あらぬ嫌疑をかけられ、いわれなく誤解され、憎まれて、十字架において死に渡されることによって、人類の反抗を耐え忍ばれたキリストにこそ、最もよく表れているのではないかと思う。キリストにこそ、神は男性に本来的に与えられた理想的な忍耐力を余すところなく表されたのではないかと筆者は考えている。その忍耐力とは、自己の名誉や、自己の評判や、自己の安全を守るために、自己の圧倒的な強さを他者に見せつけ、他者を力づくで排除してでも、自分の正当性を主張するというものではなかった。むしろ、自分を理解しない者、自分を誤解する者、自分を非難し、自分に石を投げ、嘲笑する者のために忍耐し、また、自分の愛する者、自分の信じる者のために、自分自身を完全に投げ出して犠牲にし、愛する者が真に自分を理解して振り返ってくれる時まで、誰にも何事も押しつけることなく待つことのできる力であった。

むろん、このような完全な忍耐と自己犠牲は、キリストにしか提供することのできないものであり、神がついておられればこそ、御子の正しさが証明されるのであって、人間が神に代わって自己犠牲することで他者を救うことはできないし、それによって自分の正しさを証明することもできないであろう。だが、我々は、キリストを模範として、そこから学ぶことはできる。キリストは聖霊を受け、神の力を持っておられたにも関わらず、それを自己の強さや優位性を他者に見せつけて、他者を圧倒して排除する目的では用いられなかった。キリストの力は、自己の正当性を主張するためではなく、神の栄光を証するために、他者を生かすために用いられ、ご自身はその力によって武装することなく、自分自身を誇示することもなく、むしろ、徹底的な弱さの中を通らされることによって、ご自身ではなく、神に栄光を帰されたのである。

その行動を見れば、ペンテコステ運動の信者たちの目指している目的が、どれほどキリストの示された模範からほど遠いものであるかが分かるであろう。この運動は、神に栄光を帰さず、キリストを証しない。むしろ、神を口実として、人類が己を神以上に高く掲げ、自己を栄光化し、自分自身を「神」として崇拝することを正当化する。この運動は、キリスト教に名を借りていても、その本質は全くキリスト教ではない異質な思想であり、そこでは、劣等感や心の傷や怨念によって癒着した人々が、キリスト教界を仮想敵として団結しながら、聖書の御言葉に基づく真の知恵ではない、体験主義という偽りの知恵を掲げて、キリスト教に戦いをしかけ、怨念と反知性主義によって、クリスチャンを引きずりおろして、その代わりに自分自身を高く掲げるのである。

彼らは常に仮想敵を作っては、自分たちは敵に囲まれ、不当に攻撃されていると言って騒いでいる。その仮想敵は、主にキリスト教界を指しているのだが、一体、それほどまでにキリスト教界を非難し、攻撃し、侮蔑せずにいられない彼らの恐怖と疑心暗鬼はどこから来るのであろうか。それは、彼らの内心の拭い難い恐怖と劣等感――根源的には悪魔の恐怖と屈辱感――に由来する。自分たちの卑怯さを重々内心では分かっており、自分たちはいつか罪のゆえに必ず裁かれ、その裁きはすでに決定済であるという確信あればこそ、彼らは絶えず恐怖に怯え、自己正当化のために、キリスト教とクリスチャンに有罪宣告せずにいられないのである。彼らに裁きを宣告するのが、聖書の神であり、キリストの十字架であり、クリスチャンの証であればこそ、彼らは自分たちを訴える者を早々に取り除き、消し去ろうと、今日もキリスト教界を敵とし、キリストの十字架を敵とし、クリスチャンを敵として非難しながら、「バラバを赦せ!キリストを殺せ!」と叫んでいるのである。どうしてこんな運動がキリスト教の一派のわけがあろうか。

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韓国キリスト教(ペンテコステ運動)のシャーマニズム化の危険―霊媒師と相違ない偽りの牧者と信徒たち

・韓国キリスト教(ペンテコステ運動)のシャーマニズム化の危険

ところで、以前に天声教会のことに触れたので、ここで少しばかり、韓国のキリスト教、中でも韓国キリスト教の中で特に勢力を伸ばしている韓国のペンテコステ運動の独特の特徴について補足しておきたい。韓国のペンテコステ運動には、日本とは異なる独特の歴史と形態がある。それは韓国という国が辿って来た歴史とも無関係ではないと思うが、韓国キリスト教(以下、主として全てペンテコステ運動を指す)には、必ずしも日本のクリスチャンにとって(世界のクリスチャンにとって)決して好ましいものではない異教からの影響が強く見られると筆者はみなしている。

ペンテコステ運動については、日本、韓国を問わず、異端であると筆者はみなしていることはすでに述べたが、中でもとりわけ、韓国におけるペンテコステ運動には、シャーマニズムの強い影響を受けていることが様々な指摘から読み取れる。

掲載元のPDFを見つけることができなかったので、別サイトに転載された内容を引用するが、たとえば、渕上恭子著「韓国のペンテコスタリズムにおける『祈禱院運動』の展開―キリスト教土着化論の考察―」(南山大学南山宗教文化研究所懇話会、2010年10月)という興味深い考察においては、韓国のキリスト教におけるリバイバルの発生時期と異端の発生との関連性、また、韓国キリスト教の興味深い成り立ちが説明されている。
 

韓国・朝鮮のキリスト教史において、1907 年の大復興會運動に始まって、国家が危機に瀕し大きな社会変動に直面する時、熱烈なリバイバルが沸き起こってきたが、これらのリバイバル運動と連動しながら、キリスト教史の節目節目で種々の「祈禱院運動」が現出してきた。民族の危機にあって、宣教奇蹟と謳われる韓国キリスト教の急成長を牽引してきた大復興會運動と、「祈禱院運動」を担った異端キリスト教や新興宗教、さらにはシャーマニズム化したキリスト教が、各々の信仰形態を流入させ合って、今日の韓国キリスト教の基本的性格を形作ってきたと考えられる。


引用は最小限にとどめるので、詳しくはご自分で本文を読んでいただきたいのだが、この考察から分かるのは、韓国キリスト教界においては複数回の「リバイバル」が起きた時期があること、そのリバイバル発生時期は、大体、国家が存亡の危機に脅かされた時期に重なっていたこと、また、そうした「リバイバル」の発生の陰には、初期の異端である「祈祷院運動」などのような疑似キリスト教的な神秘主義的な異端の発生が常につきまとっていたという事実である。

何より興味深いのは、「国が存亡の危機にある」という危機感が、韓国の「リバイバル」の発生の土台となったという指摘である。なぜなら、「自己が脅かされている」という危機感は、これまで当ブログで述べて来たように、グノーシス主義の発生にはうってつけの土壌だからである。

おそらくは全世界で「リバイバル」の発生時期と神秘主義的な異端の発生は常に並行しており、両者の境界は極めて見分けがたいのではないかと思う。上記の考察からも分かるのは、韓国でも、リバイバルが起きると同時に、神秘主義異端の様々な潮流も隆盛を極めたという事実であり、さらに、韓国におけるペンテコステ運動は、初めから正統な教義と異端の二つが見分けがたく混合し、さらにそこにシャーマニズムなどの土着の民間信仰の影響も合わさって、キリスト教と非キリスト教的な要素が混合して生まれたものであり、韓国キリスト教はこの独特の成立過程のために混合の性質を否定することができないものとなっているということである。

なお、上記の考察以外にも、今日の韓国キリスト教の基本的性格が、シャーマニズムに大きく影響を受けており、非キリスト教的民間信仰と切り離せない関係にあることは、他の場所でも指摘されている。

韓国キリスト教には、早天祈祷などの「祈祷」を特別に重んじる習慣がある。彼らの「祈祷」への熱中は、日本人の常識を超えるものであり、特に、韓国人のペンテコステ運動の信者は、祈りを通して聖霊と交わることにより、自分に超自然的な能力が付与されるとみなし、熱心さの表れとして、文字通り、朝から晩まで祈祷に没頭し、現実生活が送れなくなっているほどである。

しかしながら、こうした異常とも見える熱烈すぎる「祈祷」の習慣も、もとを辿れば、特に早天祈祷などは、非キリスト教的な他宗教の習慣に由来するものであるという。

以上の考察によると、韓国キリスト教の早天祈祷の習慣は、韓国最初のリバイバルの立役者である吉善宙牧師(Kil,Sun-Ju:1869~1935)が、キリスト教徒になる前に入信していた朝鮮民族伝来の神仙思想である仙教の習慣を取り入れて始まったものだという。
 

その際、吉善宙が仙教に帰依していた時分に、仙門では降神の時間とされている夜明けに祈禱をしていた習慣が、キリスト教徒となった後までも引き継がれたことにより、朝鮮のキリスト教で早天祈禱が行われるようになったのである。このようにして、古代朝鮮の仙教で降神の方法として行われていた早天祈禱が、吉善宙牧師の宗教遍歴を介して、韓国キリスト教に入り込んでくることとなった。


このように、今日の韓国キリスト教のあり方には、儀式的な側面においても、他宗教の影響が見られ、さらに、韓国キリスト教の根本には、シャーマニズムが欠かせない要素として存在することが様々な場所で指摘されている。たとえば、<随筆>◇韓国文化のシャーマニズムパワー◇ 広島大学 崔 吉城 名誉教授(東洋経済日報 2009/11/13)から抜粋する。
 

私は学校で教育を受けるにつれてシャーマニズムを遠く避けるようになり、批判的になった。そしてクリスチャンになった。多くのキリスト教会はシャーマニズムを迷信として扱った。しかし、シャーマニズムは消滅するものではなく、キリスト教会の核心部分において信仰として生き残っていることが分かった。多くのキリスト教会が土着化する中でシャーマニズム化する現象が起きているのである。教会の中で病気治療のための祈りなどはシャーマニズムと変わりがない。


この著者は幼い頃からシャーマニズムに接し、その後、シャーマニズムを離れてクリスチャンになったが、韓国のキリスト教を振り返ると、まさに韓国キリスト教のシャーマニズム化が起きているとしか言えないと結論づけるのである。

さらに、「キリスト教受容における韓日の比較 (A comparative Viewon the Reception of Christianity in Japan and Korea)」(朴 正義(Park Jung-Wei) 圓光大学校 師範大学 日本教育学科副教授 日本語教育学科長)では、韓国の土着の信仰であるシャーマニズムの世界観が、韓国人のキリスト教の受容と理解にある程度、役立ったことを肯定的に評価しつつも、シャーマニズムは韓国キリスト教の信仰生活のあり方に必ずしも良いとは言えない大きな影響を及ぼしている事実を指摘する。
 

四、韓国におけるキリスト教とシャーマニズム

 キリスト教、特に改新教の韓国伝来期において、衰退した仏教・儒教はキリスト教に対抗する力はなく、唯一対抗する力をもっていたのは巫俗信仰シャーマニズムだけです。すでにお話いたしましたように、巫俗信仰は、韓国民衆の中に深く根を下ろした民衆の現世利益をかなえる唯一の宗教といえます。しかし、この巫俗信仰が意外にも、韓国民衆のキリスト教理解に大きな役割を果たしたのです。<中略>

 シャーマニズムは本来汎神論ではありますが、しかし全体の霊界を支配する最高神が存在するという観念をもっています。韓国において古くから〔ハン〕という語がありますが、これは天を意味する語で、また唯一とか偉大という意味も含んでいます。このハンに韓国語の人格的な尊称であるニム(様)を付け、つまりハンニムとなりますが、これは天の神様とか唯一神または偉大な神の意味です。さらに、このハンニムの音を分けハヌニム・ハナニムと呼んでいます。いずれにせよ宇宙を支配する最高神で、この神が雨を降らし収穫を左右する神と信じられており。祈雨祭を捧げる対象の神となっています。韓国において、儒教と仏教がともにこの神の存在を認めております。

  そして、これは全知全能でこの宇宙の支配者であるキリスト教の唯一神を容易に理解させる助けとなっており、さらに、キリスト教は天主の意味としてこの名称(ハナニム)を使用することによって、キリスト教の神に対する民衆の違和感を取り除いています。最近ではハナニムがハヌニムと区別され、キリスト教の独占物のように使われていますが、元来は韓国シャーマニズムの最高神の名称です。また、シャーマニズムがもっていた雑霊邪鬼とこれとは区別されるハナニムの存在は、キリスト教の神と天使・サタンの世界の理解を早めるのにも役立っています。


このように、シャーマニズムの世界観が土台となって、韓国民衆のキリスト教への理解と受容が促進されて来たのは事実であろう。だが、以下の引用にあるように、韓国教会とシャーマニズムとの接近はそれだけにとどまらず、教会は自ら積極的にシャーマニズムを取り入れることによって韓国人の共感を呼びおこし発展してきた事実があるという。著者はシャーマニズムとの接近の結果として、「韓国キリスト教のシャーマニズム化」が起きたこと、つまり、現在の韓国のキリスト教自体がシャーマニズムに大きな影響を受けて成立していることを認めている。

見ようによっては、こうした事実はクリスチャンにとって極めて危険なものである。なぜなら、たとえ世界観が似ていたとしても、シャーマニズムを導く「霊」は、聖書における神の聖霊とは全く別の霊に由来することが明らかだからである。そこで、キリスト教とシャーマニズムの混合が、キリスト教に良い影響を及ぼすことはまずありえない。韓国キリスト教には何かの異変が起きていると考えるのが妥当であろう。

しかしながら、以下に見るように、ここで「シャーマニズム化」と呼ばれている現象は、具体的には、信者が自己の魂の平静さを失って、一種の「神がかり状態」のような熱狂と狂乱に陥った状態で祈祷を捧げるなど、今日の世界各国におけるペンテコステ運動が異常だと非難されている点とさほど変わらない。特に、そのような祈祷を現世利益を求めて行うことが、韓国シャーマニズムの特徴であるのだと著者は言う。
 

 また、韓国教会の祈祷会に、特に世界で初めて韓国で聞かれたとされている早朝祈祷会に参加すれば、信者たちが一種の陶酔状態の中で個人個人が大声で自己の救いを求めている光景にでくわします。そして、祈りの言葉のほとんどが、現世利益を追求するものです。これは、日本の教会で見られるような静かな祈りの光景とは全く異質のもので、同じ宗教とは思いがたいものがあります。韓国キリスト教は、自らのシャーマニズム性を否定しますが、「韓国のキリスト教は、厳密な意味においてシャーマニズムと対決し精算しなければならない問題点が多い」と、キリスト教者自らが言わざるを得ないように、韓国キリスト教のシャーマニズム化は否定できないでしょう。
  以上のように、韓国人の原宗教的要素であるシャーマニズムは、韓国人がキリスト教を受け入れるにおいて、障害とならずむしろキリスト教理解の助けとなっており、そして、キリスト教はシャーマニズムを取り入れることによって韓国人の共感を呼びおこし発展してきたと言えます。

今日、日本に存在する韓国系の教会でも、このような「信者たちが一種の陶酔状態の中で個人個人が大声で自己の救いを求めている光景」は見られる。むろん、それは必ずしも韓国キリスト教だけの特徴とは言えず、ペンテコステ運動自体に共通する特徴だと言えるのだが、それでも、韓国のペンテコステ運動には、世界のペンテコステ運動と比べても、とりわけ現実逃避的な性格が強い様子が見受けられると筆者は考えている。

なぜなら、キリスト教における常識的な見解においては、信者はすでに聖書の信仰に立って自己の救いを得ているわけだから、改めて自分の救いのために祈る必要はない。信者が様々な困難に直面する時などを含め、日々、信者は神に具体的な助けを求め、信仰生活において祈りることが必要であるとはいえ、その祈りは、必ずしも、教会の礼拝堂や、祈祷院にこもってしかなされ得ないものではなく、日常生活の様々な場面で、信者は様々な用事をこなしながら、心の内で自ら神に祈ることはできる。さらに、祈りと同じほど重要なのは、信者が家庭や、社会において、信仰を態度で表しながら具代的に行動して生きることである。

ところが、信者が自分がすでに得た信仰的事実に基づいて実際に行動することよりも、「大声で自己の救いを求めて」教会や祈祷院にこもって祈り続けることを優先する韓国クリスチャンの姿には、信仰に基づいた現実的な行動よりも、ただ祈りを通して、すべてを神に解決してもらいたいという受け身の姿勢、あるいは、祈っているうちに何か超自然的な現象が起きて、自分が直面していた問題が劇的に消失してほしいとでも言うかのような、他力本願で現実逃避的な願望が非常に強く表れているように筆者には見受けられる。

このような韓国ペンテコステ・キリスト教徒のあまりにも熱心かつ長時間に渡る祈祷への没頭には、韓国人信者たちを現実生活から引き離そうとする何かしらの良くない願望が表れているように筆者には思われてならない。このような祈祷に没頭し続けている限り、信者は家庭や社会から引き離され、クリスチャン以外の人々の間で信仰を表明する機会を失い、現実の諸問題に自ら向き合いながら、現実を力強く生きて行くことはできなくなるであろう。しかも、その祈りの内容が、現世利益を求めるものであれば、なおさらのこと、自己中心な内容のために、祈祷は社会との広い接点を失い、ますます内向きになる結果になりかねない。

日本における韓国系のキリスト教会では、実際に、早天祈祷会から、夜の断食祈祷会などまで、朝から晩まで祈祷が行われているわけであるが、そのように信者が家庭や社会で現実生活を送ることを妨げるほどまでに祈祷に熱中することは、果たして正常と言えるのであろうか、現実逃避でないと言えるのかどうか、筆者は深く疑問に思う。さらに、その祈祷が、「キリスト教のシャーマニズム化」と評されるのであれば、そもそも何の霊と交信しているのか分からない祈祷の効果は薄いというよりも危険ではないかと思われる。
 
このように、韓国キリスト教は、その成立過程で、シャーマニズムや他宗教や異端思想の影響を強く受けているという複雑な事情を持ち、そうした歴史ゆえに韓国キリスト教と異教との境界線は極めて分かりにくいものとなっている。

だから、このような韓国ペンテコステ運動を導く霊が何であるのか、それについては警戒が十分に必要であると思う。これまで筆者は、ペンテコステ運動がグノーシス主義的・東洋思想における母性崇拝の霊を基調とする疑似キリスト教であることを指摘して来たが、この異教的な基礎は、原始宗教であるシャーマニズムにも通じるところがあるかも知れない。

特に、シャーマニズムには、巫女(女性だけでなく男性も)のように、霊媒のような存在が必要とされる。人々は特別な力を持つシャーマンを通してお告げを聞いたり、厄除けをしてもらう。そのような「霊を受ける器」としての霊媒の存在は、ペンテコステ運動におけるカリスマ指導者の役割にも非常によく似ていることを思わせる。

「牧師」という名で呼ばれるために疑いが生じにくくなっているだけで、特別に神の霊を受けたとして超自然的な力を誇示したり、神がかり状態となって理解できない言語を話し続けたり、預言と称して正体不明の霊のお告げを語るペンテコステ運動の指導者は、本質的にはシャーマニズムと同じ霊媒師なのだと考えるのが適切ではないかと筆者は考える。
 
韓国キリスト教に限らず、ペンテコステ運動の基礎は、原始宗教を含めた異教的な信仰にあり、ペンテコステ運動そのものがキリスト教に仮装したシャーマニズムだとさえ言えるかも知れない。

少なくとも、韓国キリスト教が明らかにシャーマニズム化しているという危険な特徴や指摘を見落として、信徒が教会行事を全て正しいものと考えて没頭していれば、おそらく、その信者は現実における家庭や社会での生活からますます遠く引き離され、ありもしない夢のようなお告げや祈祷に熱中し、現実感覚を見失って行くだけであろう。

ペンテコステ運動は、それ自体が、悪い意味での宗教的「阿片」であり、目くらましのための、まやかしの信仰である、と筆者は考えている。この運動に接触した信者は、現実生活に起きる諸問題に勇気を持って直面しながら、これを解決して行く力を失い、むしろ、自分を哀れんで現実のあらゆる問題から逃げ出し、神に他力本願でな期待を託すという受け身の生き方に転じる。このような現実逃避運動にどれほど没入してみたところで、その信者は、人生の貴重な時間を失って、ますます人格が弱くなるだけで、現実の諸問題に立ち上かう知恵と勇気を得ることはないであろう。
 

・女性を男性の「被害者」とみなすことで、男女の秩序を覆そうとするペンテコステ運動の異常性――天声教会のメッセージから

さて、このような韓国キリスト教の独特の成り立ちと性質を踏まえれば、こうした教会のどこに警戒すべき危険があるのかも理解できるだろう。筆者がKFCの姉妹教会である天声教会のあり方について深刻な危惧を覚え、いくつかの記事を記したのも、こうした事情があるためである。

天声教会においては、教育訓練の欠如したパスタ―が講壇に立って信徒を教え、教会を拠点に信徒の結婚生活を侵害するようなあるまじき生活を送っているという問題があることを指摘したが、それに加えて、同教会には、祈祷への現実逃避的な熱中を含め、韓国ペンテコステ運動につきものの、およそ正常とは考えられない様々な危険な特徴が見受けられる。

天声教会のメッセージの主題を見ただけでも、同教会のメッセージ内容はペンテコステ運動のすべての危険な特徴を踏襲していることがよく分かる、すなわち、➀地上的な豊かさを求めるご利益信仰に信者の関心を引きつける手法、②悪霊との目に見えない戦いを極度に強調することで、信徒の心に恐怖と疑心暗鬼を植えつけ、教会指導者への忠誠を要求する手法、さらに、KFCにも共通して見られたように③荒廃と破滅の預言によって、教会の外の世界は荒廃と衰退の一途を辿り、教会しか安全地帯はないと信徒に思わせることで、教会に囲い込んで行く手法、④信徒の心に罪悪感と被害者意識を植えつけることで支配の手がかりとする手法、などがある。いくつか目についたタイトルを挙げておく。

大地が喜んで実りを結ばせるために(創世記1:24-31) 主日礼拝2部 2016年11月20日(Sun)
ダビデに仕えた勇士たち - 登録された三十勇士と除外されたヨアブ(2サムエル記23:18-39) 2サムエル記講解説教 2015年11月19日
悪しき者に占拠された都の中で働く御国のスパイ達(2サムエル記15:24-37) 2015年9月21日
「サタン 偽りの言葉巧みな二等兵(ルカ10章17-20節)」 主日礼拝2部 2015年10月18日
イゼベルを為すがままにするなかれ(黙示録2:18-29) 金曜徹夜祈祷会 2016年9月2日(Fri)
世界の荒廃の預言 - 全ての人は等しくなり格差は破壊される(イザヤ24:1-13) 이사야 강 해설교 イザヤ書講解説教 2015年11月18日

➀は繰り返される年中行事のようであるが、「大地が実りを結ばせる」という用語そのものに、キリスト教ではない異教的な要素を強く感じざるを得ない。なぜなら、キリスト教においては、実りをもたらす方は神しかおられないが、世界各国の様々な国では、大地を「母なるもの」として賛美し、大地そのものが豊穣をもたらす源であるという異教的な考えが強く残っており、豊穣を祈願して「母なる神」に様々な供物が捧げられるためである。

②では、神と悪魔との戦い、悪霊との戦いなどが強調されているが、ペンテコステ運動が常にそうであるように、こうした「霊の戦い」は終始、拡大解釈がいくらでも可能なほのめかしによって語られ、具体的に説明されない。指導者が「悪霊」や「サタン」という言葉を用いて一体、何を糾弾しようとしているのか、現実的にどのような危険を指して信徒に警告しているのか、聖書の例話が比喩として語られるだけで、具体的に説明がされない。そこで、こうした漠然とした形で霊の戦いについて聞かされた信徒の間では、恐怖が募り、疑心暗鬼が蔓延し、結果として、教会指導者に従わない信徒を互いに悪霊扱いし始めたり、自分自身が「悪霊」として非難されないために、より一層、教会指導者に尽くそうなどと考えるのである。

このように、すでに救われて教会を訪れたはずの信徒を改めて「敵・味方」に分類し、仲間を疑わせ、神への愛からではなく、敵とみなされて排斥されたくない恐怖心から、信徒がより一層指導部への忠誠を誓うよう仕向ける方法は、カルトの常套手段である。かつては我が国で「非国民」という言葉を使うことによって、国民を「敵・味方」に二分し、国の指導に従わない国民を事実上、悪魔扱いして排除していたのである。

彼らがこうしてしきりに「スパイ」や「悪霊」などを引き合いに出し、敵に脅かされているかのような印象や、疑心暗鬼を信徒に植えつけるのは、指導者自身を疑わせないためである。実際には、このように、人々の心に恐怖を煽る二項対立を持ち出して、信徒を敵味方に分類し、信徒を見えない神ではなく、目に見える人間の指導者の判断に従わせて行こうとする方法こそ、悪霊に由来するものである。すでに述べた通り、天声教会が追放しなければならない「イゼベルの霊」も、既婚者でありながら教会指導者と教会を拠点に共同生活を送り、教会全体を思うがままに操るような信徒を指すのであって、そのような信徒に牛耳られている教会のあり方に危機感を覚え、外から異議を唱える信徒たちを指すのではない。

にも関わらず、こうしたメッセージでは、すべてがさかさまにされ、自分たち教会は「聖なる者」とされて絶対化される一方、自分たちの信仰生活のあり方を疑ったり、批判する者はみな「悪魔」扱いされる。このような極度に単純化された図式に逃げ込むことで、自分たちへのいかなる批判にも耳を塞いで、ただ教会だけを安全地帯としてそこへ引きこもることで現実逃避をはかるという完全な錯誤が成立しているのである。

さらに注目すべきことは、天声教会が、聞く者(特に男性)の心に罪悪感や、自己嫌悪感を呼び起こすようなメッセージを語り、聖書において神に従った人物のイメージを極度に歪め、女性の被害者意識を煽るようなセンセーショナルなタイトルをメッセージに使っている点である。

一度に強姦加害者の親、強姦被害者の親となってしまったダビデ(2サムエル記13:7-19) 2サムエル記講解説教  2015年9月3日

通常のキリスト教会では、どんな牧師も自分のメッセージにこんな題名をつけることはしない。そんなことをすれば良識を疑われるだけである。通常の教会においては、ダビデの罪が語られる時には、必ず、それと並行して神の赦しが語られる。ダビデは大きな罪を犯したが、その罪は、神の御前にはすでに赦されている。ダビデはこの失敗のために、人生において厳しい刈り取りをし、苦しみを受け、神はそのことをご存知で、もはやダビデを責めてはおられない。

だから、ダビデの失敗を通して、今日、クリスチャンの目に明らかになっているのは、人間の罪の深さと、それに対する神の憐れみの深さであり、人はたとえ思わぬ罪を犯しても、ダビデのように悔いることさえできれば、神に立ち返る道は常に開かれているという事実である。

イエス・キリストが、ダビデとバテシェバの子孫から生まれたという系図を見るだけでも、二人の関係が、最終的には、神に受け入れられたことが分かる。ダビデはバテシェバを愛し、二人の子孫の系譜はキリストの誕生へと続く。それを考えると、バテシェバの人生は単なる不幸な被害者や、悲劇の主人公として終わらなかったことが分かる。人間が罪を犯すことは、あるべきでないとはいえ、この出来事にも神の深い配材があり、ダビデの過ちも、最終的には神のご計画を妨げるものとはならなかったのである。

しかしながら、上記のメッセージはあまりにも歪曲に満ちており、こうした深い文脈で物事をとらえようとせず、父なる神がすでに赦された罪に対して、ダビデの失敗をとげとげしく非難し、彼の落ち度を針小棒大にあげつらい、ダビデの犯した悪事を標本のように見立ててさらし者とし、他方で、バテシェバは「強姦被害者」であるとして二人を貶める。こんな天声教会のメッセージの何といやらしく意地悪く、高慢なことであろうか。

だが、このような物の見方は決して偶然に生まれて来るものではない。彼らがバテシェバを一方的な被害者と見なしているところにも、ペンテコステ運動に流れるグノーシス主義的な特徴が見ごとに表れている。結局、このメッセージが言わんとしているのは、「女性は男性の被害者だ」ということに尽きるのである。

天声教会の指導者は、バテシェバをダビデの被害者と見ることを通して、男性とは欲望に満ちて、暴力的で、わがままで、女性を常に虐げ、踏みにじる悪しき存在であるかのように描いている。なおかつ、こうした歪んだ物の見方に基づいて、男女の関わりそのものまでも否定的に、汚れた、悲劇的で、歪んだ、嫌悪すべきもののように描き出すことで、神が定められた男女の本来的にあるべき健全な秩序や関わりそのものまでも歪めてしまっている。

こうしたメッセージの根底に隠れているのは、女性の心に男性への対する嫌悪を植えつけ、被害者意識を煽ろうとするフェミニズムの思想であり、このメッセージは、ただ歪んだ男女の関係を極度に誇張し、男性を断罪するだけで、人間の罪の悔い改めに与えられる神の赦しの完全性や、キリストがご自分の花嫁なる教会を愛されたような夫婦の健全なあり方への視点が欠落している。また、ダビデの生涯に渡るバテシェバへの愛情も全く否定されている。ここに見られるのは、ただ男女の関わりそのものに対する徹底的な嫌悪感、拒否感だけである。

すでに説明したように、女性を男性の「被害者」とみなし、男性への憎悪を煽るフェミニズムの思想は、もとを辿ればグノーシス主義から出たものであり、ペンテコステ運動も、グノーシス主義に起源があると筆者は考えている。

グノーシス主義に起源があればこそ、ペンテコステ運動はマイノリティを美化し、女性を美化し、女性を男性の「被害者」であるかのように描き、男性には罪悪感や自己嫌悪を植えつけ、女性には被害者意識と男性への憎しみを植えつけることで、女性と男性を闘争関係に起き、男女の秩序を転覆しようと狙うのである。フェミニズムとは、結局、神と人類との秩序を覆そうとする試みであるから、この運動は人類の側から神に対して挑まれた闘争なのである。

グノーシス主義は、被害者意識を軸として、力の弱い者が、力の強い者との支配関係を覆そうとする秩序転覆の思想であり、フェミニズムの思想が男性を女性への加害者として描く目的は、男性に罪悪感を持たせることによって、男性の力を封じ込め、女性を男性よりも上位に置いて、男女の秩序を覆し、女性が男性を支配することで、男性に対して復讐を果たすことにある。

この手法はペンテコステ運動においては、人類を神の被害者とすることによって、人類が神を訴え、神を乗り越え、自ら神となるという構図となる。だが、一応、ペンテコステ運動はキリスト教に偽装しているので、あからさまに神を加害者とすることはせず、隠れたプロットの中でそれを持ち出すのである。

天声教会の上記のメッセージは、ダビデを罪深い加害者、バテシェバを罪なき被害者として描くことで、男性を罪深い加害者とみなして、女性をその被害者とみなすフェミニズム的思考パターンをよく表している。

だが、このメッセージは、より深い意味では、グノーシス主義的な秩序転覆の構図を示すものであることは、ダビデとバテシェバの関係を、神と人類との関係に置き換えると理解できる。

彼らが「加害者」として糾弾しているのは、ダビデだけではなく、その背後に存在し、ダビデを義と認められた父なる神である。そして、彼らが「被害者」としてかばっているのは、バテシェバとその死んだ子だけでなく、堕落した人類という「母子」なのである。

このメッセージの本質がグノーシス主義にあることは、グノーシス主義神話を通して理解できる。すでに述べた通り、グノーシス主義神話においては、幾通りかのパターンで筋書きに多少の差異はあるものの、その中には、自ら神のようになろうとして、単独で子を生むという過失によって天界から転落しかかったソフィアが、自分の過失によって生まれた醜い悪神にさらに凌辱されて、その子孫として人類が誕生するという筋書きもある。

このようなグノーシス主義神話では、人類の直接の父は、この世を支配している暗愚で暴力的な悪神だということになり、この悪なる父を否定的に乗り越え、その上に自らの本当の父があるという事実を見いだすことによって、人は神に回帰するというのがこうした思想の基本的な考え方である。

そこで、このような神話に照らし合わせれば、人類とはまさに「父による母への凌辱」の結果として生まれた悲劇の子供ということになるため、「父」は悪者である。天声教会のメッセージには、このような意味で、グノーシス主義神話の構図を、ただ聖書におけるダビデとバテシェバの関係に置き換えただけとしか言いようのない隠れたプロットが存在することが分かる。彼らがダビデの行為を「強姦」として糾弾しているのは、実は、グノーシス主義的な文脈における人類の誕生のことで神を非難しているのである。

むろん、このような思想を人間に語らせるのは霊である。(その意味でも、ペンテコステ運動の指導者は霊媒師であると筆者は言うのである。)彼らの語るメッセージは、彼ら自身が自分の知性で思いついたものではなく、彼らを支配する霊が、自らの思想として語るものである。それが聖書に由来するものでなく、悪霊の思想に他ならないことは、聖書の御言葉との対比と、いつの時代も変わらない悪霊の思想共通の特徴がある事実によって見分けられる。

このことが分かれば、以上の天声教会のメッセージが、隠れた霊的暗示の効果を持っており、そこにおいては、ダビデが象徴的に「悪神」になぞらえられていること、その「悪神」による暴力の結果、侮辱され、愚弄された「母」(バテシェバ)と、さらに「父」の暴力の結果生まれて来た悲劇の「子」が、被害者として美化されていることが分かる。

このように「父」の横暴の犠牲となった「悲劇の母子」にスポットライトを当てて、これに同情し、彼らを無罪放免し、このような「神の不当な暴力の被害者」を救済しようとするのが、グノーシス主義の目的であり、このメッセージは、そうした意味で、グノーシス主義の基本理念にまさに合致している様子が見えて来る。

結局、このメッセージが暗に言わんとしているところは、「人類は(神の)被害者である」ということに尽きる。ダビデを「加害者」の立場に置くことによって、このメッセージは暗黙のうちに、男性全体だけでなく、聖徒らをも罪に定め、ひいては神までも「加害者」の立場に起きつつ、他方、自分たちは、その被害者だということにしてしまうのである。

こうした考えは、聖書の象徴的な意味を無視している。ダビデの罪の結果として生まれて間もなく死んでしまった子供は、最初の人間アダムをも暗示していると見ることができる。そして、ダビデとバテシェバから生まれ、父の王国を受け継ぐ子供となったソロモンは、第二のアダムであるキリストを暗示する。第一のアダムは、罪に堕落したゆえ命へ至る道を見つけられずに死んだが、第二のアダムは、神への従順ゆえに義とされて命と安息に至る。こうして「後の者が先になる」――というのは、聖書の至るところに共通する型である。

しかしながら、以上の天声教会のメッセージは、死んでしまった子供のために同情し、これを父の罪の結果であるとして糾弾する。そこから見えて来るのは、バテシェバと死んだ子供という「母子」を「弱者」としてかばうことで、神に創造されながらも、罪に堕落したために神から切り離された人類をかばい、人類を父なる神よりも高く掲げ、無罪放免しようというグノーシス主義的な思惑である。

彼らの考え方には大きな錯誤がある。それは、バテシェバも、その子も、ダビデと同じような罪を犯さなかったかもしれないが、罪人の一人に過ぎず、決して罪なき聖なる存在ではないということである。人間を義とすることができるのは、神であって、人ではない。ダビデを義とされたのは神であって、バテシェバが彼を赦したから彼の罪が消えたわけではないのである。

だが、ペンテコステ運動の支持者たちは、すべての人間関係をただ「加害者・被害者」という二項対立のフィルターを通してしか見ようとせず、「被害者」を神聖なまでに美化し、祀り上げる一方で、「加害者」を罪人として断罪する。そして、ただ被害者によって無罪放免されることだけが、人間の罪が赦される唯一の道であるかのように主張して、ひたすら、人を罪意識や被害者意識に閉じ込め、人間の罪を赦す権威は、神にこそあって、人間にはないという聖書の事実を忘れさせるのである。そして、被害者を名乗る人たちが、気のすむまで「加害者」を断罪し続け、償いを要求することを「救済」に置き換えて行くのである。

ペンテコステ運動を導くイゼベルの霊は、被害者意識の霊であると筆者は述べて来たが、この霊の手口は、他人に不当な因縁をつけて恐喝するヤクザの手法と同じである。ヤクザに脅され、ゆすられ、たかられている人は、恐怖のあまり、ヤクザから解放されるためには、ヤクザに赦しを乞うしかないと思い込む。だが、どんなにヤクザに赦しを乞うても、赦されるどころか、ますます弱みを握られ、責められ、思うがままに操られるだけである。人が悪魔に罪の赦しを乞うても無駄なのである。

しかし、ペンテコステ運動を含め、グノーシス主義は、人間の罪というものを、神に対して犯されたものではなく、人に対して犯されたものとしてのみ理解することによって、罪を指摘したり、罪を赦す権威が、あたかも被害者である人間にあって、被害者意識を持つ人間は、自分の被害者意識を盾に取って、他者を永久に脅し、断罪し続けることが正当化されるかのように考えている。

天声教会のメッセージ内容には、男性にしきりに罪悪感や嫌悪感をもたせることで、思うがままに支配しようとする「イゼベルの霊」の精神構造がよく表れていると言えよう。

すでに述べたように、統一教会における「エバ国家」の概念に見るように、他者の心に罪悪感を植えつけることで、その人間を脅し、思い通りに支配して行こうとするのは、悪霊の常套手段である。村上密牧師が、統一教会を脱会して後も、自らの心に植えつけられた加害者意識を捨てられず、キリスト教に入信後も、自分自身を依然、「加害者」の立場に置いて、キリスト教会で傷つけられたカルト被害者の救済活動にいそしんでいることについて書いたが、天声教会の指導者も、これと同様に、自ら男性でありながら、自分自身をダビデに重ねて「加害者」の立場に起き、「被害女性」の心境に寄り添うかのようなメッセージを語ることで、「被害者」の心を慰撫し、彼女たちに暗黙の懺悔を果たそうとしているのである。

だが、このようなフェミニズム的な思考の影響を受け、自己嫌悪、負い目の意識を背負わされた男性たちは、自分への健全な自信を失って行くことになる。ダビデの罪を責めている彼らは、彼を責めることによって、自分自身を罪に定めているのだとは気づかないのである。

しかし、自分自身をこのようにしか見られなくなった人間は、どんなに自己批判を続けても、その負い目の意識は払拭できないであろう。こんなメッセージは、語っている本人ばかりか、聞いている人の心にも、男性への嫌悪と、男女の関わりへの嫌悪を植えつける。

人間の罪に対する神の憐れみの深さと、人間の罪を超えて働く神の計画よりも、ただ人間の罪に対する負い目と、嫌悪感だけが募って行くことになる。早い話が、男性であれ、女性であれ、そのようにまで自分の性についてこれほど悲観的な考えを持つに至った人々が、健全で幸福な結婚生活を送り、伴侶を愛して、共に手を携えて生きることは、まず無理な相談ではないかと考えられる。

以上に挙げたような天声教会の極端に誇張された男性嫌悪のメッセージは、KFCがそうであったように、自分を夫の被害者であると考える女性信徒たちの思いが強く投影・代弁され出来上がっているものだと言えよう。日ごろから、家庭において、社会において、何かの被害者意識を持つ女性たちが、自分たちの被害者意識を、真の加害者に向けられないので、他の誰かに吹き込み、代弁させるのである。心傷ついた、子供のような誰かをターゲットとして捕まえて来て、自分好みのメッセ―ジを語らせ、自分を虐げる男性たちの代わりにその人間を懺悔させることで、自己を慰めるのである。ターゲットとされる人々にも、母親に愛されないで育ったなどの何らかの弱みがあって、その弱点と、自分を認めて欲しいという願望を担保に取られ、彼女たちに利用される結果となるのである。

こういう関係こそ、その本質は、霊的姦淫に他ならず、糾弾されてしかるべきものである。真に問題なのは、姦淫の罪を犯したが、それを神と人の前で真摯に悔いることができたために罪赦されたダビデではなく、自ら霊的姦淫の罪を犯していながら、その罪を隠し、認めようともせず、誰の前にも悔いようともしない教会指導者と信徒たちの方にこそある。

神が罪とみなしておられるのは、男女関係そのものではなく、結婚の枠組みを侵害するような男女の関わりであり、姦淫の罪とは、何も肉体的な関わりだけを指すのではなく、霊的姦淫という罪もある。ある信徒が、他の信徒を家庭から引き離し、日常生活から引き離し、配偶者から引き離し、教会生活や宗教行事に過度に没頭させ、その心を神や配偶者や家族から奪って自分に向けさせるなどのことも、霊的姦淫の罪である。

教会指導者自身が、誰よりも誤解を呼ぶような、他者の結婚生活をないがしろにする生活を教会を拠点に送り、他の信徒の心を盗んでいる状態で、他の信徒に向かって、姦淫の罪について警告するのは、まさに笑止としか言えない。この指導者は、姦淫の罪の本質を、男女の肉体的な関係だけに限定することによって、霊的姦淫という、それよりもさらに恐ろしい罪の本質から目を背けているのである。

他のメッセージのタイトルや内容からも判断できるように、この教会で語られているメッセージは、KFCと同じように、常に自分たちを他の信者たちと引き比べて、他の信者の失敗や欠点をあげつらいながら、自分たちだけは、彼らの誤りを踏襲せずに、神に受け入れられる優秀な信徒であり続けられるかのような内容となっている。こうして他者の誤りを引き合いに出すことで、自分自身を高く掲げるのである。先人たちの失敗を意地悪くあげつらい、彼らの信仰の薄さと罪深さを心の内で断罪しながら、自分たちだけは決してそんな愚かな誤りは犯さず、神に見捨てられることのない、正しい道を進んでいけると豪語しているのである。

そういう目線に立っていればこそ、この教会の指導者は、自分たちはまるで被害者であるかのような立場に立って、自分自身が現実に犯している罪には一言たりとも言及しないまま、自分たちは心美しい、罪なき人間であり、残酷で暴力的で自己中心な連中や、堕落した「スパイ」どもとはわけが違うと主張するのである。

こうした人々の思考においては、すべてがさかさまに見えている。彼らは悔い改めて罪赦されたクリスチャンを断罪し、加害者呼ばわりする一方で、自分たちは悔い改めることもなく罪赦されるはずもないのに、「被害者」であると主張することによって、自分自身を一方的にて無罪放免しながら、改めて、聖徒らを訴えようとしているのである。

だが、このようにひたすら他者の罪をあげつらいながら、自分自身を義とする高慢な人間にこそ、「私たちは見える」と言い張った罪が残り続けることであろう。

最後に、ダビデの失敗は、ただ単に姦淫の罪の恐ろしさと共に、人間のナルシシズムの罪を示しているように思われてならない。ダビデは、若い時分には、大変美しく、活発であり、バテシェバに出会うまでは、自らの美しさ、若さ、力といった、天然の生命の力や美を疑うことはなかったに違いない。バテシェバも大変美しく、ダビデは彼女を見たとき、自分にふさわしい人間を見つけたと思ったに違いない。そして、おそらくは、バテシェバの方でも、ダビデがあまりにも魅力に溢れていたので、その行動を疑うことができない心境にあったのではないかと考える。平凡な人間であったウリヤに比べ、ダビデは彼女の心を圧倒する様々な術を持っていたのではないだろうか。ダビデはそれまで、望むものを何でも手にすることができた。女性の心も思いのままであり、何を望んでも罪になることがなかった。だが、彼が自分の力に慢心し、自己の美や力を当然のものと考えた時、失敗が訪れたのである。この出来事があって初めて、ダビデは自己の存在の根本に潜む罪なる性質に気づいたのではないかと思われる。

人間の判断は極めて身勝手で、人間は自分の感覚にとって心地よく、美しいものだけを好む。自分にとって美しく映るものを義ととらえ、醜く映るものを悪ととらえ、新鮮で、若々しく、命の力に溢れた、自分の目を楽しませてくれる美に価値を見いだす。しかし、人間の目にどう映るかとは別に、美というものの中には、根本的に悪に傾きやすい危険が潜んでいること、その危険性が自分自身のうちに潜んでいることに、ダビデは気づいたのではないだろうか。サタンは、自己の美しさに慢心して神への反逆に至った。もしもサタンが美と無縁であったなら、高慢に陥ることは決してなかったであろう。

ダビデの息子の一人であるアブシャロムは、父よりも美しかったと思われる。その美しさのゆえにも、ダビデは彼を愛したのであろう。だが、この息子が自らの美しさに慢心し、ダビデへの反逆を企てることになる。その姿を見て、ダビデは、自分の外見の美の力を疑うこともなかった若い当時の自分自身を思わなかったであろうか。人間の美というものがいかに人々を眩惑して物事の本質を簡単に見失わせる欺きに満ちたものであり、その美の持ち主自身をも狂わせるものであるかを考えなかっただろうか。

このようなことから見ても、人間の罪というものは非常に巧妙で見えにくく、ダビデは罪を犯したがバテシェバは一方的な被害者であって罪がないなどと簡単に言えるような図式は存在しないことが分かる。ダビデの犯した罪は、女性も含め、人間そのものに根本的に流れる罪なのである。

なのに、こうした事実を見ずして、人が自分の目と耳を喜ばせてくれるうわべだけの綺麗事に熱中し、この綺麗事を握りしめて、それによって自分自身の存在を美化し、正当化し始める時、その人間は真実から逸れて、罪なる本質の中に陥って行くのではないだろうか。

ダビデがバテシェバを何が何でも手に入れようとしたように、今日、多くの宗教指導者は、エクレシアの強奪に余念がない。キリストの花嫁たるエクレシアは、神にとっての宝である。だが、この花嫁たる教会をめぐって、人はどれほどの争いと罪を繰り広げて来ただろうか。

ペンテコステ運動の指導者たちは、ダビデがウリヤを殺してでもその妻を奪ったように、心ある信者たちを追放してでも、教会を私物化し、残る信者たちの心を神や配偶者から盗んで自分に向けさせている。こうして教会を自分の栄光、手柄の手段へと変えている。

ダビデと違って、彼らはこれを恥ずかしいと思わず、霊的姦淫の罪とも考えない。彼らはあまりにも自己の力に慢心しているので、教会が自分の前に跪くのは当然だとさえ思っている。ペンテコステ運動が支持者にもたらすのは、このような不遜なまでの、あるいは痛ましいまでの、自己の力へ慢心、自己の美への賛美である。こうした指導者たちはあまりにも己惚れすぎているために、誰から指摘されても、その状態が罪であるということに気づけない。本当は、こういう指導者こそ、霊的姦淫の罪により糾弾されるべきである。

こうした指導者は、片方では、信徒の耳に都合の良いことを約束しながら、もう一方では、公然と「世界の荒廃」などを予告して、破滅や呪いの予言を語り、信者を恐怖と疑心暗鬼に陥れることで、自分の教会に束縛し、思惑通りに行動させようと促す。(その点でも、KFCと天声教会は似ている。)そういうことになるのは、この人々が神から遣わされた預言者ではなく、ただ自分自身の心の欲望と荒廃を信徒に向かって語っているだけだからである。こうした指導者に着いて行けば、羊には正常な未来はまず望めないであろう。

傷ついたアイデンティティと被害者意識を原動力として生まれる偽りの世界救済の思想の危険

・「自己を脅かされている」という被害者意識が生む危険な人格障害

ひとつ前の記事では、文学上の主人公であるエフゲニー・オネーギンの人格を例に、ロシアという国家の歴史的に傷ついたアイデンティティという問題について見て来た。

筆者の見解では、オネーギンという人物像には、ただ単に帝政ロシアの時代のロシア知識人の内心の問題が反映されているだけでなく、そこには、今日までロシアという国家、また、ロシア人が自己のアイデンティティにおいて抱えて来た傷、さらに、その傷のために生じる病理現象が、端的かつ象徴的に凝縮してこめられている。

ところで、オネーギンに代表されるような「傷ついた人格」は、現代の日本人とも決して無縁ではない。かつて我が国の文学においては、ロシア文学の「余計者」とよく似た「高等遊民」などと呼ばれる憂愁を抱える知識人のタイプが登場したが、現代社会においても、オネーギン的な人格は、知的エリートのみならず、幅広い社会層に広がっている。

我が国には、敗戦、占領、属国化政策などの歴史的な負の過去があることに加えて、戦後の偏差値を重んじる受験競争や、高度経済成長期の就職戦線、その後も現在にまで受け継がれる企業への絶対服従の風土などが、国民の間に健全な自尊心が育つことを妨げている。

こうした状況の中で、健全な自尊心を養うことのできなかった人間は、傷ついて、病んだ、オネーギン的な(あるいはそれをさらに上回るもっと深刻な)歪んだ人格障害の特徴を抱えながら、良心を失った知的エリートとして生活しており、官僚や、聖職者などの中にも、こうしたタイプの人間が見受けられる。

その他にも、たとえば、ネトウヨや、植松容疑者といった知的エリートと呼べない、比較的社会の下層に位置する人々の中にも、同様の人格障害の持ち主は広がっている。彼らはオネーギンのような高い教養、巧みなパフォーマンスを持たないが、自己の内面に抱える鬱屈した被害者意識、社会で適切な居場所を見いだせないための絶望感、絶えず自分の心の空洞を転嫁できそうな相手を獲物のように探し求めているなどの点で、上記の人々と共通していると言えよう。

現代という時代は、被害者意識が急激に社会に蔓延した結果、人々のアイデンティティが侵食されており、傷ついて病んだ人格の特徴を持たない人間を探す方が極めて困難な時代であると言える。

そして、ロシアと同様に、我が国においても、健全なアイデンティティを養うことのできなかった人々の被害者意識は、個人のレベルで人格障害を生んでいるだけでなく、国家のレベルでも、集団的に危険なナショナリズムを生んでいる。

先の記事で述べた通り、ナショナリズムとは、「自分(自国)が脅かされている」という恐怖感、被害者意識、劣等感などからこそ生まれて来るものである。

被害者意識というものの厄介な点は、個人には(あるいは、国家にも)プライドがあるため、自己を脅かされているという恐怖感や、被害者意識を感じていればいるほど、人はかえって自己の弱さや恐怖を必死になって覆い隠し、否定しようとすることである。

そして、自分の弱さ、内心の恐怖から目を背けるために、自分を鍛えたり、優れた思想を学んでそれを取り入れようとしたり、熱心な宗教家を装ったりして、むしろ、自分をあるがまま以上に強く、美しく、優秀で、完全無欠な正義の味方のように見せかけようとするのである。

そうした自己欺瞞の行き着く最高の形態がメシアニズムの思想である。

「自分を脅かされている」と感じている存在が、プライドのゆえに、自分の抱える弱さや恐怖心から目を背け、その弱さを他者に転嫁し、助けを必要としているのは、自分ではなくむしろ他者なのだと考えて、他者の救済者を名乗り出て他者よりも優位に立つことによって、自尊心を満たし、そのような方法で、自分に劣等感を味わわせた存在を見返すと同時に、他者の救済に便乗して自己救済を成し遂げようとするのがこのメシアニズムの思想の特徴である。

メシアニズムの思想とは、いわば、被害者意識を覆い隠すためのトリックとしての自己救済の思想なのである。


・怨念や、劣等感や、被害者意識を原動力として発生するメシアニズムの思想の危険

ロシアにおけるメシアニズムの思想の中には、たとえば、すでに述べたように、「モスクワは第三の(最後の)ローマである(第四のローマはない)」などとする、「ロシア正教こそが唯一正しいキリスト教の担い手であり、ロシアには世界を救う資格がある」といった救済思想がある。

この「モスクワ=第三ローマ説」は、ロシア(16世紀頃のモスクワ公国)がモンゴルの支配を跳ね返し、ロシアのキリスト教の本家であったビザンチン帝国が滅亡し、ヨーロッパのカトリックの腐敗が明らかになった頃に生まれた概念であり、ようやく滅亡の危機を脱して国力を回復したばかりのロシアのキリスト教が、ヨーロッパのキリスト教の危機的な状況を利用して、あたかも「ロシア正教こそが世界で唯一正しいキリスト教であり、ロシアはその担い手であるから、世界を救済する資格がある」かのように提唱する思想であった。

これは修道僧によって提示された思想であり、国家権力の側から公式に流布されたものではなく、実際に、当時のロシア正教全体の中にこのような思想がどの程度、広まっていたのか、それがロシア民衆の間にどの程度、定着して、国の団結に役立ったのかも不明であるが、いわば、これはロシアのメシアニズムの思想の先駆けであり、宗教に名を借りて、国の団結や威信を強化し、国家を神聖視する思想の土台を形作る思想の早い段階での明確な現れの一つであったと見ることができるだろう。

このようなロシアのメシアニズムの思想の基本構造は、その後も、宗教とは異なる形態において現れる。20世紀に、世界初の社会主義国であるソ連が、全世界を資本主義の弊害から救い、世界をプロレタリアートの天国である共産主義社会へと塗り変える拠点となるなどといった思想の中にも、以上に挙げた宗教メシアニズムとそれほど変わらない、メシアニズムの思想の基本構造が継承されていると見ることができる。

以下でも説明するように、「(母なる)ロシアを世界の諸国の脅威から守る」という被害者意識から生まれて来たプーチン政権が、「強いロシア」を提唱していることの中にも、以上のような「ロシアによる世界救済」の思想が受け継がれているという見方も可能である。

さて、メシアニズムの思想は、戦前の日本においても、「八紘一宇」などというスローガンの下、「天皇を「神」として頂く「神の国」である日本こそ、キリスト教の弊害・ヨーロッパ的な植民地主義の弊害から、アジアを含めた世界の諸国を解放する資格があるのだ」などとする国家神道の形で登場して来た。

一体、国境を超えて、宗教や、政治を問わず、様々な形態で現れ出て来るこれらの世界救済の思想の共通点は何であろうか? 端的に、二つの共通点が挙げられる。一つ目は、こうした思想が、真に世界をリードするにふさわしい先進国から出て来ることは決してなく、どちらかと言えば、歴史的な進歩から大きく後れを取っている後進的な国々から登場して来ること、第二に、こうした思想は、国が存亡の危機にあって「自己を脅かされている」という集団的な危機意識・被害者意識を持つ国々から、そうした弱さから目を背けるためのトリックとして生まれて来るという点である。

結論から言えば、メシアニズムの思想とは、被害者意識を抱える弱者救済の思想であり、それは自己を脅かす敵を根絶して、自己を世界一とすることで、自己救済を成し遂げようとする思想である。こうした思想は、健全なアイデンティティを持つ者から生まれることはなく、必ず、傷ついたアイデンティティを持つ存在からのみ生まれて来る。すなわち、こうした思想の根本にあるのは、被害者意識を持つ者が、脅かされ、傷ついた自分を「神聖な存在」とみなし、その「神聖な核(=被害者意識)」を全世界に押し広げ、全世界を自己に同化することによって、自分を脅かす存在を駆逐して、世界征服を成し遂げ、偽りの平和を築こうとする願望である。

こうした考えの根本には、「脅かされ、虐げられている弱者にこそ、世界を理想的に変革し、救済する資格がある」とみなす考え方がある。だから、こうした思想は、人々の内にある被害者意識、脅かされているという恐怖を「神聖なもの」にまで美化し、それを世界救済のための「神聖な核」にまで高めて行くのである。

ロシアの初期の社会主義の思想においても、虐げられているがゆえにロシア民衆を「神聖な存在」として美化する思想が至るところに見られた。虐げられているゆえに、民衆には、ロシアばかりか、世界の救済の担い手となるような優れた要素が宿っているというわけである。そうした考え(民衆の美化)は、当時のロシア文学には至る所に見られ、ゲルツェンなどの初期の社会主義者も、同じ路線に立って、ロシアの農村における農村共同体に、世界を理想的に変革する核となる要素があるとみなしていた。

「虐げられた者」を美化し、被害者意識によって団結を迫る思想は、社会主義時代においてはプロレタリアートの美化、「万国の労働者よ団結せよ」などのスローガンとなり、虐げられているがゆえに、プロレタリアートを世界を理想的な変革の担い手とする思想へと結びついた。

このように、メシアニズムの思想において、中核的な役割を果たすのは、決まって何らかの脅かされている社会的弱者の存在である。さらにもっと言えば、そうした弱者の内に見出される「被害者意識」こそ、「神聖な核」とみなされるのだと言える。被害者意識を軸に、自国ばかりか、全世界の人々が団結・連帯することによって、それまでの支配関係を覆し、理想的な世界を打ち立てることができるというのが、そうした思想の基本構造である。

このような思想は、むろん、偽りである。そこで被害者意識が「神聖」な要素にまで高められているのは、恐るべきことである。被害者意識に脅かされる者たちが、怨念と復讐心によって団結・連帯したからと言って、それが世界救済になどつながるはずもないのは明らかであるが、いずれにしても、その思想は「自己存在を脅かされている」と感じる者たちが、その被害者意識を軸に集結・決起することによって、自己救済を成し遂げようという思想であるから、そうした思想の担い手にとっては、その被害者意識に加わらない者たちは、「神聖」ではなく、世界の変革にふさわしくもなく、そのような存在がどうなろうとも全く構わないのである。

少し先走って言えば、これまでにも再三、述べて来たように、ペンテコステ運動も、基本的に上記のような思想と同種のメシアニズムの思想であると言える。

これまで述べて来たように、ペンテコステ運動の拠点となった教会は、ほぼ例外なく、全世界を自分たちと同じ信仰に塗り変え、同じ「霊の家」に帰依させることを目的に掲げる「リバイバル」を提唱している。だが、貧しく、無学なゆえに、既存のキリスト教からは伝道の対象ともみなされずに、打ち捨てられて来た社会的弱者を主な伝道対象として始まったこの運動が今も盛んに提唱している「リバイバル」とは、その概念をつぶさに見て行けば、「八紘一宇」(国家神道)、「全人類一家族理想」(統一教会)、プロレタリアートの天国としての共産主義などと全く変わらない、弱者のユートピアに他ならず、これもまた虐げられた弱者による被害者意識に基づく偽りの世界救済の思想であることが見えて来る。

次回以降の記事でも詳述するように、ペンテコステ運動はキリスト教ではなく、疑似キリスト教的な異端であり、ペンテコステ運動の原動力となっているものは、(既存の)キリスト教に対する被害者意識である。

この事実さえ見れば、なぜキリスト教を名乗っているはずのペンテコステ運動の只中から、既存のキリスト教界の「カルト化」を糾弾しつつ、キリスト教会に次々と裁判をしかけて、教会を取り潰すようなカルト被害者救済活動といった異常な運動が生まれて来るのか、なぜそれにも関わらず、カルトとみなされる教会の数多くがまさにペンテコステ運動に属しているといった矛盾が存在するのか、といったことの謎が解けるであろう。このようなことが起きるのは、ペンテコステ運動が本質的にキリスト教を仮想敵とする疑似キリスト教であるために他ならない。

ちなみに、聖書によれば、終わりの時代になればなるほど、公の会堂(教会)は偽の信者たちで占拠され、信者たちは迫害を受け、散らされることが記されており、古代ローマ帝国時代のように、クリスチャンの爆発的増加によって全世界がキリスト教に塗り替えられるといったことは、聖書には記述されていない。それにも関わらず、ペンテコステ運動の支持者たちが、自分たちと同じ信仰を持つ教会を全世界に押し広げるための「リバイバル」を唱え続けるのは、この思想が本質的に自己増殖を目的とする異端であり、最終的には、キリスト教の駆逐を真の目的としているためである。

興味深いのは、「モスクワ=第三ローマ説」も、社会主義思想も、国家神道も、統一教会も、ペンテコステ運動も、みなその本質においては、キリスト教を仮想敵としていると見られることである。

「モスクワ=第三ローマ説」は、ロシア正教から生まれたのだから、キリスト教を仮想敵としているとは言えないのではないか、といった反論もあるだろう。しかし、以下に見るように、ペンテコステ運動がその本質においては疑似キリスト教であると筆者が指摘するのと同様に、ロシアのキリスト教も、ヨーロッパのキリスト教とは根本的に受容の過程が異なっており、その意味で、大きな弱点を抱えており、そのために、ロシアという国には、その本質において真にキリスト教信仰が浸透することなく、むしろ、文化的な土壌においては、常に異教的な世界観に立ったままであったと筆者は見ている。

それだからこそ、ヨーロッパにおけるキリスト教全体に対する敵視に基づく「モスクワ=第三ローマ説」が登場したり、あるいは、長年のキリスト教国でありながら、ロシアが20世紀にはあっさりとキリスト教を捨てて、社会主義化の道を辿るなどの出来事が起きたのである。

次の記事でも詳述するが、こうしたすべてのメシアニズムの思想の背後にあるのは、キリスト教に敵対するグノーシス主義的・東洋思想的・異教的世界観である。これまでに見て来たように、グノーシス主義とは、基本的に、「神秘なる母性」を崇める母性崇拝の思想である。

なお、ロシアにおいては、今日でも、「母なるロシア」(Матушка Россия, Россия-матушка, Мать-Россия, Матушка Русь)といった表現が、愛国心を込めた表現として広く使われている。ソ連時代には「母なる祖国」(Родина-мать)と言った呼び名も頻繁に使われ、このように国そのものを母なる女性人格として誉め讃える思想が今も伝統として受け継がれているのである。

だが、このような用語は、決してキリスト教的なものではなく、明らかに、異教的な発想を土台として成立したものである。それは単なる愛国心の表れではなく、グノーシス主義における「神秘なる母性」崇拝を国家に当てはめ、国家そのものを「神聖なる母性」として崇拝する一種の信仰であると言った方が良いと筆者は考えている。

Wikipediaの説明によると、「母なるロシア」というシンボルは、政治的にも利用されて来た。つまり、ロシアの統治者は、自分は「母なるロシア(が内外の敵に脅かされないための)守り手である」と名乗り出て、「母なるロシア」と「神聖な結婚の関係にある」という概念を用いて、自らの政治権力を正当化する根拠として来たのだという。

こうして、国そのものを「聖なる母」として神格化し、至高の価値として崇め奉り、「ロシアとの結婚」を何より重んじていればこそ、プーチン氏のような為政者は、自らの夫人との生活にも訣別し、ただ国の統治者としての公の人生だけに全存在を投じようとしているのだと見ることもできよう。そうした観点から見るならば、「母なるロシア」とは、ただ単に愛国的な表現であるのではなく、文字通り、全身全霊を母国のために捧げて祖国防衛に努めよという、一種のカルト的とも言えるほどの信仰を土台としている用語であると言うこともできよう。

このように、ロシアの政治的な統治の背景には、常に「母なるロシアを様々な脅威から守らねばならない」という発想があったが、この「母を守る」という発想は、明らかに、当ブログで指摘して来た、グノーシス主義的・東洋的な世界観の根本に横たわる「母を守る」という発想に通じる。

そこにあるのは、「神聖な母が脅かされている」もしくは「脅かされる危険がある」から、「子らが立ち上がって、家全体で、母を防衛しなければならない」という危機意識、もっと言えば、母子ともに、家が脅かされているという被害者意識である。

現代のような時代では、確かに、ロシアという国は様々な危機に囲まれていると言えようが、このような被害者意識は、必ずしも、現実的な根拠があって生まれるものではない。「母なるロシアが脅かされている」という被害者意識は、表面的な政治的対立よりももっと深いところから生まれて来る世界観である。先の記事でも述べたように、「ロシアを脅かす脅威」とは、文字通り、ロシア以外のすべての国々を指すのであるが、中でもとりわけ、真の脅威となっているものが、実はキリスト教であることを、以下で詳しく見て行きたい。


・メシアニズムの思想は、怨念と復讐心から生まれるものであって、真に優れて先駆的な文化の只中から出て来ることは決してない

ところで、メシアニズムの思想は、決して真に優れた国や、優れた文化の只中から登場して来ることはない。このような思想は、早い話が、劣等感と、遅れの意識、屈辱感の裏返しとして生まれるものであって、決まって、どちらかと言えば、文化的に後進的な国々の中から発生して来る。

先に述べたように、ロシアのキリスト教には、世界を救済できるような要素は全くなかった。それどころか、ロシアのキリスト教は、その受容の過程からして、ヨーロッパのキリスト教とは大きく異なっており、最初から大きな弱点を抱えていたのである。ロシアには、ローマ帝国時代のキリスト教のように、迫害の只中で、信徒の信仰の自発的な増加によって、やむにやまれず国教にまで拡大したといった歴史はなかった。ロシアのキリスト教は、民衆の只中から自発的に広まった信仰ではなく、ただ単に国家の威信強化のために、外側から移植され、半強制的に民衆に押しつけられたものに過ぎず、そのため、内心の伴わない、うわべだけの偽装のような改宗であった。

このような半強制的な改宗によって、キリスト教の精神の本髄が、国民の間に浸透・定着するはずもなく、それだからこそ、うわべだけの改宗後も、ロシアには依然として、異教的な民間信仰の要素が色濃く残り続けたのである。そのような意味で、ロシアという国の本質は、その深部においては、たとえ表面的にはキリスト教国となった歴史があったとはいえ、ずっと変わらず異教的な信仰にとどまっていたのだと言って過言ではない。

帝政時代、ロシアはキリスト教国であったが、その間の歩みも、ロシアを本質的に変えることがなかった。だからこそ、20世紀になると、ロシアはキリスト教の仮面を投げ捨てて、社会主義的無神論に転身し、共産主義思想によってキリスト教国に敵対する道を選んだのである。そして、ソ連崩壊後の現在に至るまでも、ロシアでは未だオウム真理教が圧倒的な増加を誇って政府の規制の対象となっているなどの事実からも分かるように、異教的な土壌が大きくものを言っている。新興宗教はロシアに積極的な活動の場を見いだしているが、それは非キリスト教的な異教的世界観が、この国の土壌に今も深く根差しているためであり、共産主義思想も、まさにこの異教的な土壌の中でこそ培養されたのである。

このように、ロシアという国は、歴史上、決して表層のみでしか、キリスト教を受容したことはなく、ロシアにおけるキリスト教は決して真の自発的な信仰として、国民の間に深く浸透して行くことがなかった。だから、その意味で、ロシアのキリスト教には、決してヨーロッパと比べて、これを優れたものとして誇れる要素はなかったのである。

ヨーロッパのキリスト教は、確かに、国教化されて以後、著しい世俗化の道を歩み、その意味において、この世と妥協して堕落したと言えるかも知れないが、それゆえ、宗教改革が起こりもし、絶えず、聖書の本質に立ち戻ろうとの試みが生まれて来た。それに引き換え、ロシアにおけるキリスト教には、ヨーロッパのキリスト教に匹敵する意味での宗教改革がなかった。ロシアにはルネサンスがなく、ニーコンの改革とそれに反対する古儀式派との対立も、儀式のあり方を巡って生じた争いに過ぎず、教義面における深い討論には全く結びつかなかった。

ロシア正教は、もともと荘厳な宗教絵画などの装飾や儀式などの印象を感覚的に受容することや、瞑想に近い祈りなどに重きを置いており、プロテスタントのように信徒自身が主体的に聖書を理解する過程を重んじない。もともと一人一人の信者が聖書を知的・論理的に解釈し、理解するという主体的な側面が薄いことから、教義面における討論が高まって、聖書に立ち戻るべきとの訴えがなされて、大々的な宗教改革に結びつくといった現象が起きなかったのも不思議ではない。

このように、ロシアのキリスト教が、ヨーロッパのキリスト教と比較して、当初から抱えていた大きな「弱点」を全て無視して、ただカトリックの腐敗や、ビザンチン帝国の崩壊などを口実に、「ロシアこそが正しいキリスト教の最後の担い手であり、世界に正しい信仰のあり方を教え、世界を救済することのできる国である」と自負するという思想は、まさに現実を無視した幻想であり、根拠なき自惚れであるとしか言えない。

こうした発想は、ロシアのキリスト教が、ヨーロッパのキリスト教に比べて、もともと大きく遅れを取っており、また、ロシアという国そのものが、モンゴルの占領によって存亡の危機に脅かされ、長く発展を阻害されたという悲劇的な歴史があればこそ、その反発として生まれて来たものであったと言えよう。つまり、ヨーロッパに対する遅れの自覚がそれほど深く、無意識のうちにも、ヨーロッパのキリスト教に対する激しい敵愾心・復讐心を生んでいたからこそ、いつかこれを見返し、凌駕することで、その遅れを取り戻し、世界一に名乗り出て雪辱を果たしてやろうとの復讐心が、以上のような思想の形となって現れたのだと考えられる。

もっと言うならば、ロシアのキリスト教は、決して土着の信仰として根づかない「借り物」のようなものであればこそ、ヨーロッパのキリスト教からは遅れた信仰、あるいは「フェイク」のようなものとみなされ、断罪されたり、侮蔑される危険があった。あるいは、ロシアの文化が、本質的には、キリスト教に染まらず、異教的な世界観のままであればこそ、そうした異教的世界観が、キリスト教の側から暴かれ、断罪され、駆逐される危険があった。「モスクワ=第三ローマ説」は、こうした意味で、ロシアがその本質において持ち続けて来た異教的世界観の側からの、自己防衛を目的としたキリスト教に対する敵対宣言であった可能性も考えられる。

こうした思想的傾向は、ロシアにその後も変わらず持ち続けられる。帝政時代には、封建的な権力による民衆への抑圧のために、ロシア社会の進歩がヨーロッパに比べて著しく停滞し、そのために、ヨーロッパにおける資本主義の目覚ましい発展からロシアは遅れを取っているという危機意識がロシア知識人に広まった。こうした遅れを取り戻して、世界に先駆ける存在とならねばならないという危機意識が、その後、社会主義化によってロシアが世界をリードするといった発想へと結びついたものと見られる。ソ連崩壊後は、資本主義国の見舞われなかった経済的混乱の只中から、「強いロシアを取り戻す」ことをスローガンに掲げるプーチン政権が登場して来た。これらのことはすべて、ロシアという国が内面で抱えていた「国が脅かされて滅亡の危機にあり、このままでは世界から取り残されてしまう」という強い危機感と、遅れの意識や、劣等感を克服して、自国よりも進歩的な全ての国々を凌駕したいという無意識の敵愾心・競争意識・復讐心が生み出した現象であったと言えるのではないかと思う。


・ヨーロッパ文化の急激な受容により東洋的な世界観が圧迫されたことへの反発として生まれた日本の国家神道というメシアニズム

翻って、戦前・戦中の日本の国家神道を見てみると、以上に挙げたような、ロシアとさほど変わらない現象が起きていたように見受けられる。日本は、歴史上、一度もキリスト教国になったことはないが、それでも、開国以降、ヨーロッパ産業文明の目覚ましい進歩に圧倒され、急激にヨーロッパを模倣して近代化をはからねばならなくなった過程で、自国はヨーロッパに著しく遅れを取っているという危機感やコンプレックスが生まれたものと見られる。

我が国の場合は、ロシアの場合とは多少、事情が異なるとはいえ、宗教的にも、キリスト教を土台として成立したヨーロッパ文化と、日本がもともと伝統的に継承していた東洋的・異教的な世界観との間にはあまりにも大きなずれがあり、それらは互いに異質であり、なじまないものであったため、外側でヨーロッパ文化を模倣すればするほど、日本が内側で持ち続けて来た東洋的な世界観との乖離状態が無視できないギャップとなって表れ、このギャップを克服するために、何かの心理的トリックが必要となったものと見られる。

そこで、表面的には西洋文化を受け入れた風を装いながらも、内側では、東洋思想を保存して、西洋的な思想(特にキリスト教)の侵食を決して許さないために、人工的に作り出されたものが、国家神道を土台とするメシアニズムの思想であったと考えることができる。

日本は事実上のメシアニズムの思想である国家神道の理念を打ち出すことにより、日本こそ、西洋文明の二元論的行き詰まりから全世界を救うことのできる特別な使命を持つ国であると自認した。

日本は、キリストに代わり、「天皇」を神聖な存在として掲げ、かつ、日本という国家自体を、「天皇を中心とする神聖な一大家族国家」とみなすことによって、国全体をキリスト教に対する防波堤としようとしたが、その理念の最大の目的は、全世界をキリスト教の侵食から「保護し」、異教的(東洋思想的な)世界観を保存することにあったと見られる。

このような「全世界をキリスト教の弊害から救う」という理念を正当化するために、国家神道は、西洋文化と東洋文化の合体によって、新たな文化を創造できるという折衷案的な解決方法を編み出した。キリスト教の神の概念はあくまで受け入れられないものとして、それに代わるものとして天皇崇拝を提唱しながらも、西洋文明の長所だけは取り入れ、これを日本がそれまで伝統的に持ち続けて来た東洋思想、東洋文化と合体させて、新たな混合文化を創り出し、それによって、「キリスト教と西洋文明の欠点から来る世界の行き詰まりを打破・是正できる」と主張したのである。

だが、むろん、こうした思想も甚だしい偽りであって、天皇崇拝や、東洋文化や、国家神道が、キリスト教に優る、世界に先駆けて優れたものだから、世界を行き詰まりから救うなどといった思想には、お世辞にも肯定することはできないし、それが根拠なき自惚れに過ぎなかったことは、歴史が証明済みである。むろん、それぞれの文化には、独自の長所が存在し、東洋文化にも、文化的な長所というものは存在するであろうが、だからと言って、その長所を持って「世界の救済者」を自認するといった厚かましい思想は、文化的な長所とは全く関係ない話である。

そのような思想は、日本が開国以降、ヨーロッパ産業文明に対して感じていた著しい遅れの意識と、劣等感、何よりもヨーロッパにおけるキリスト教に対する無意識の敵愾心が生み出したものであるとしか言えない。


・異教的・東洋的世界観の持つ被害者意識はキリスト教への敵意から来る

幾度も述べて来たことだが、東洋思想の根底には、キリスト教に対する根強い恐怖感と被害者意識が存在する。東洋思想の根底に流れる「母を守らなければならない」という発想は、要するに、「西洋的なキリスト教の父性原理の脅威から、東洋的・異教的な母性崇拝を守らなければならない」ということに尽きる。

だから、そこで言う「母」とは、異教的世界観の総体なのである。戦前の日本や、ロシアにおいて、国そのものを神聖な存在のようにみなし、国民全体が団結して立ち上がって、この「母なる国」を内外の脅威から防衛することにより、自国のみならず、世界を行き詰まりから救済できるかのような思想が度々、生まれて来たのは、こうした思想の背景に、まさに異教的・グノーシス主義的な世界観が存在しているからに他ならない。

つまり、ここで言う「国」とは、単なる国家ではなく、異教的な世界観、とりわけ、グノーシス主義的な「神秘なる母性」崇拝を保存するための「神聖な母体」としての入れ物(宮)なのである。だから、その「母」を脅かす存在とは、ただ国を脅かす内外のあれやこれやの政治勢力を指すだけでなく、本質的には、キリスト教(の父性原理)の脅威を意味するのである。

結局、こうした思想が最終目的に掲げているのは、異教的世界観(異教的な母性崇拝)をナンバーワンに据えることによって、全世界をキリスト教の(父性原理の)「脅威」から守り、聖書とは異なる異教的な「神」を世界の中心に据えようという思惑である。

「モスクワ=第三ローマ説」も、ロシアのキリスト教こそが世界で唯一正統であるという、一見、あたかもキリスト教という宗教の中での対立のように見受けられる主張の陰で、その実、真の目的は、ロシアという国家そのものを「神聖なる母」として、全世界の上に掲げることにあるものと考えられる。こうした思想の根底に流れるものは、決してキリスト教的な理念ではなく、単に政治的な争いを宗教的な装いのもとに表現しているに過ぎない。ロシア正教がビザンチンから伝来したと言っても、ローマはもともとキリスト教の聖地ではないので、ローマを継承したからと言って、本来、それは正統なキリスト教のシンボルにはならないはずである。それでも、あえてそのような表現が用いられたのは、明らかに、そこにカトリックに対する敵意が込められているからであり、モスクワ(公国)が、ビザンチンを継承して、バチカンに代わる新たなローマを名乗ることによって、ロシアにカトリックに優る宗教権力を打ち立てようとの願望が表れていたに過ぎない。

ただし、その後、ロシア正教はソ連時代に受けた弾圧などによって、かつての勢力を失い、今日のロシア正教に以上のような宗教的なメシアニズムの思想が残っているかと言えば、その可能性はかなり薄いであろう。むしろ、そうした思惑は宗教の舞台を離れて、政治の世界にこそ色濃く受け継がれている。

筆者は、それぞれの国の抱える文化的な土壌というものは、地層のようなもので、よほどのことがない限り、覆されることも、変化することもないと考えている。だから、ロシアも我が国も、文化の深層において抱える異教的な土壌というものがある限り、おそらく、以上に挙げたような忌むべき世界救済の思想は、今後も、繰り返し、繰り返し、何度でも形を変えながら、これらの国々から現れて来るであろうと思う。それらの思想は、現れる度ごとに、キリスト教への敵意をより一層、明白にしながら、最終的には、キリスト教を完全に乗っ取って、「我こそは正しい宗教である」と宣言することを目的にして行くのであろう。

結論として言えるのは、以上のようなメシアニズムの思想は、すべて怨念と被害者意識を基に生まれる復讐の思想である、ということである。こうした思想を育む土壌となる被害者意識は、ただ単に歴史的な負の事件だけをきっかけに生まれるものではなく、その根本には、キリスト教(の神)に対する、異教的・グノーシス主義的世界観の側からの怨念と被害者意識が存在する。だから、こうした被害者意識に満ちた思想が、真の復讐のターゲットとして定めているのは、内外のあれやこれやの脅威ではなく、まさにキリスト教そのものであり、聖書における唯一の神であることを知らなければならない。

次回以降の記事では、グノーシス主義的・異教的世界観がいかに被害者意識と切り離せないものであるか、また、グノーシス主義的・東洋的な母性崇拝の総称としての「イゼベルの霊」がいかに被害者意識に満ちているか、また、「イゼベルの霊」の支配に導かれる疑似キリスト教としてのペンテコステ運動に関わることが人にとってどれほど危険であるか、具体例を挙げながら考察して行く。


ロシアという国の危険な本質と、北方領土返還の完全な実現の前にロシアと平和条約を結ぶことの愚かさ、無益さ、有害性について

・日ロ両国の接近が我が国に将来的にもたらすであろう悲劇について

・ロシアビジネスの不幸な現場から


かつてロシア人の友人が、筆者に面と向かって言った。

「プーチン政権に逆らうと社会的に抹殺される」

比較的リベラルで、特に体制反対派とも言えないロシアの知識人が口にしたその言葉は、筆者にとってもそれなりに重く響いた。その言葉の重さは、徐々に増し加わり、様々な実体験と共に、筆者のロシアという国への淡い期待を打ち砕き、我が国とロシアとの平和条約締結を無意味なものととらえさせるに十分なきっかけへと発展した。
 
母国をいたく愛するそのロシアの友人には残念なことかも知れないが、ロシア人が一般にどんなに信用ならない、したたかで、ずるい国民性を持っているか、ロシアと我が国との誠実な取引がいかに成立困難であり、またこのような国と取引すること自体が危険な行為であるか、これから具体的に記して行く予定である。

一言だけ先に書いておくと、ロシアビジネスを営む多くの企業を知っている者として筆者が言えることは、この業界は根本的に不幸である、ということだけだ。レールモントフの詩に表現された「奴隷の国(ロシア)」という響きは、当時だけに限ったことではない。ロシアビジネスに携わるほぼすべての企業で敷かれているのは、レールモントフが詩に書いた通りの、細部に渡るまでの行き過ぎた管理と統制、相互監視・密告体制である。そして人命の軽視、人権の軽視、不法と虐げの恒常化…。

むろん、日本にもブラック企業と呼ばれるビジネスが溢れ、テレマーケティングなど業界そのものがブラックと言われている分野もある。状況は似たり寄ったりだと言われるかも知れない。確かにそうとも言えるだろう。今や我々はビジネスそのもの意味が全く異なり、労働そのものが非人間的な苦役と化そうとしている時代にさしかかっているからだ。

だが、ロシアビジネスの場合は、さらにそれに輪をかけて別種の危険が増し加わることになる。まず第一に、ロシア人は一般的に約束を守らないことで有名である。たとえば、仮に日ロ政府間で正式に合意が交わされ、シベリアに何かのモニュメントの建立が決められたとしよう。それでも、ロシア企業は、必要な資材の納期を一年間先延ばしにしても平気である。契約違反と言われようが、全く意に介さず、どうせ自分たちの他に頼る相手などいないだろうと言わんばかりに、追及されてもダラダラと言い訳を並べ、あるいは情に訴えて真相をごまかそうとする。そのくせ、自分に有利な条件を引き出すための交渉には余念がなく、平気で取引相手を出し抜き、利用する。

したたかで、狡猾で、平気で約束を反故にし、常に勝ち馬に乗ろうと、それまでの仲間を捨ててでも強い者に寝返る。こうした手法について、ロシア人に恥を知れと言っても無駄なことである。ロシア人にはこうした方法が、モラルに反しているという認識はない。取引や交渉の進め方について、同じ土台に立てないのであるから、お人好しの日本人には、彼らのしたたかさに太刀打ちする術はないと言って差し支えない。もしどうしても太刀打ちしたいならば、相手にまさるヤクザ的手法を身につけて恫喝するしかない。

だから、こうしたことの自然の成り行きとして、ロシアビジネスに長年、関わっている日本人は、次第に性格がロシア化して行く。見栄と出世だけが全てだとでも言うかのように、とてつもなく厚かましく、尊大で、利己的で、傲慢になり、かつて持っていたはずの礼儀正しさやつつましやかな謙虚さや誠実さを失って、態度からもはっきりと分かるヤクザ者となり、他者の功績を平然と盗んだり、横取りし、あるいは嘘をついて、ルールを破り、同僚を出し抜き、貶めても平気な人間と化してしまう。そして、たとえ自分の非を突かれ、失敗を突きつけられても、頑なに認めず、謝ろうとしない。どこまでも言い訳を並べて居直るか、同情を引き出して言いぬけようとする。

むろん、以上のようなロシアの実情に心を痛めているロシア人もいないわけではないであろうが、それはあくまで例外に過ぎないことが問題だ。ドストエフスキーも、レフ・トルストイも、すべて例外的なロシア人であり、彼らの文学は当時のロシアの現状に対する深い絶望感から生まれて来たものと言っても過言ではない。我々は、ロシア文化のうわずみのような良いところだけを見て、これがロシアだと断定し、国全体を美化することはすべきではない。

筆者は以上のような現状を見つつ、ロシアとのビジネスを発展させても、我が国にさして利益があるわけではない、と結論づけている。これほど長い間、この分野に発展がなかったこと自体、理由のないことではなく、誠実に約束を履行できない相手と取引することは無謀な行為でしかない。これまで我が国にかの国と平和条約の締結がなかったのはむしろ当然で、幸運なことだったのではないか。ロシア人が誠実に物事に対処することを学ぶまで、ロシアとの友好など我が国には要らないのである。


・ロシアの抱える「被害者意識」と歪んだメシアニズム――他文化の絶え間ない「借用」と侵略によって、国力を強化し、傷ついた自己イメージを救おうと試みて来たロシア

ロシアという国は飽くことのない権力闘争に生きる不幸な国である。すでに書いたことであるが、ロシアにアルコール中毒患者が多いのも、あまりにも過酷な権力闘争の中で打ち負かされて、心破れたロシア人男性が多いためであり、ロシア人女性は美しく心優しいと言われるが、その優しさとて、以上のような自国の厳しい現状の只中から生まれて来た一種の諦念と結びついた同情でしかなく、自分よりも弱い者に対しては同情的かも知れないが、決して真の独立や自立を目指す心意気を生まない。

これまでの記事の中で、筆者は、ロシアという国は、文化も借り物ならば、宗教も借り物、およそすべてが借り物で成り立っている、存在そのものがフェイクに近いような幻の国だという、ある種の極論めいた結論を述べた。そのフェイクに近い国が歴史上、ずっと絶え間なく拡大・膨張政策を取り続けて来たことに、ある種の不気味さがある。今回、なぜそのようなことが起きているのか、ロシアという国が自己意識の深層で抱える問題について詳しく考えてみたい。

まず、ロシアという国は、自国にとって有利で、国家の威信を強めてくれそうなものであれば、どんなものでも、他から平然と「借用」する国である。その例は枚挙に暇がない。ロシアの大都市圏で誉め讃えられるヨーロッパ的町並みは、ロシアの近代化のためにピョートル大帝時代に輸入されたものであり、キリスト教も、ロシアを周辺国に一流の国と認めさせるために、国家の威信強化を目的にビザンチンから借用されたものである。ウラジーミル大公の命令によって、それまで民間の異教信仰に頼って生きていた多くの農村の民衆までもが、教義さえ分からないまま、無理やり洗礼を受けさせられ、キリスト教徒に改宗させられた。こんな強制的な集団改宗の有様を見るだけで、それがロシアがうわべだけ「キリスト教国」を偽装するための儀式に過ぎなかったことは明らかである。さらに、ソ連時代にロシアが取り入れた共産主義思想も、ヨーロッパからの輸入である。マルクスは、社会主義は資本主義の発展の結果として起きるものだと考えていたので、自らの思想の最初の実験場が、当時、ヨーロッパには経済的にも文化的にもかなり遅れを取っていたロシアに定められようとは、想像してもいなかった。

マルクス主義思想も含め、このようにロシアが、自国を飛躍的に「世界一」へと高めてくれそうなアイテムであれば、他国に先駆けてでも、それを導入した理由は、ロシアがそれまでずっと自己意識の深層で持ち続けて来た傷ついた国家のイメージ被害者意識の裏返しであったと言える。自国のアイデンティティの根幹で、傷ついた自己意識、被害者意識を持ち続けていたがゆえに、他を凌駕して世界一の存在に躍り出ることで、世界を救済し、劣等感を払拭し、雪辱を果たそうとする歪んだメシアニズムの思想が生まれたのである。

マルクス主義などは、ロシアという国がこのようにもともと深層で持っていたメシアニズムの思想が表面化するときに取った形態の一つに過ぎない。プーチン氏の目指す「強いロシア(の復興)」にも同じ思想が表れており、おそらくは、こうした思想は今後も二度、三度と、現れて来るものと思われる。

さて、以上で見た通り、ロシアが他国の優れた文化や思想や宗教を、自国に「借用」しようとするのは、それらの優れた価値に本気で学ぶためではなく、むしろ、それらの価値を表面的に取り入れることで、一流国の仲間入りを果たしたかのように見せかけ、自国の威信を強化する目的でしかなかった。だから、こうして行われる改革や変化はいずれも、対外的に見栄を張る必要のためだけに行われるものであって、ロシアという国の歴史や文化の只中から必要に迫られて生まれて来たものでない以上、ロシアという国に本質的に根差すことなく、根本的な変化をもたらすものとはならなかった。それでも、一流国であるために、昨日までの民衆の生き様を根底から覆し、自国のそれまでの歴史や文化の価値を根こそぎ否定してでも、急激で極端な改革を実行しようとすることが、ロシアの歴史には度々あった。このように、ロシアにとって、自国が他国に比べて引けを取らず、周辺国と対等に肩を並べ、これらを凌駕する存在となることこそ、いつでも第一義的な課題であり、その目的の達成のためならば、他国の持っている優れた価値を強引に剽窃したり、自国の歴史や文化の連続性を無視してまでも、他文化の物真似に走ることも辞さないのである。すべての価値が、民衆には還元されることなく、ただただ国力の強化、国家の威信の増強へと吸い尽くされて行くところに、この国の不幸が存在する。

このような現象は、国家的なアイデンティティをいたく傷つけられ、ひどいコンプレックスを抱えている国にしか起き得ない事柄である。自尊心を失い、心傷つけられ、本当は自分は一流国でないという劣等感に苛まれていればこそ、借り物の衣装を身にまとってでも、自分を一流国であると認めさせたいのである。軍備の増強と、国家の拡大・膨張政策(マッチョイズム)に走ることで、真の自分自身から目をそらさざるを得ないのである。

うわべだけ他者の真似事に走っても、決して本質では一致することはできないが、かりそめにも自分はエリートの一員となったと思うことで、傷ついた自己を慰めることはできる。こうして、他者のやり方を真似ることで、他者にあたかも自分が仲間であるかのように見せかけて油断させておいて、本心では、自分にひどい惨めさとコンプレックスを味わわせた他者を打ち倒そうと考えながら、その内心を隠して、友好を装ってその相手に近づき、やがて相手をぱっくりと飲み込んでしまう。何しろ、本家本元が消滅していなくなってくれれば、自分をフェイクだと主張する者もなくなる。それが他国とのロシアの絶え間ない争いの歴史であると言えるのではないか。キリスト教の中においてさえ、ロシアには、カトリシズムを堕落したものとみなすあまり、ヨーロッパのキリスト教全体を侮蔑し、自国のキリスト教こそが世界で唯一正しいと自負する思想が存在した。このような優越意識は、劣等感の裏返しとしてしか決して生まれて来ないものである。

筆者は歴史家ではないので、モンゴルによる統治時代に、ロシアに対してひどく残酷な所業が行われたという言い伝えの中に、果たして誇張はないのかといった点についてここで争う気はない。だが、重要に思われるのは、仮にロシアの傷ついた自己意識が、それ以前から持ち続けられたものであったとしても、異民族の占領・統治下に置かれ、国が消滅に近い状態となったタタールのくびき時代の歴史的な記憶が、今日までも、ロシア人の心に大きな屈辱感・劣等感、被害者意識を生む一因となっているのではないかという疑いである。さらにもっと重要なのは、このタタールのくびきを跳ね返すために、ロシアは精神的に敵(モンゴル)と同化し、モンゴル的統治方法を己が内に取り込んだのではないかということである。

ロシア人の多くは、屈辱的なこととして決して認めたがらないであろうが、以上のような指摘はすでになされているものであり、モンゴルによる制圧時代に、事実上、モンゴル人とロシア人との混血が進んだだけでなく、両者の文化が混合し、異質なものが混ざり合い、ロシアにとって、モンゴルとの一体化という後戻りできない変化が起きたのである。

何よりも、ロシアという国を今日まで特徴づける、強大な中央集権的な国家権力による圧倒的な民衆支配の原型は、まさにこのモンゴル統治時代にこそ生まれたのではないかと想像せざるを得ない。なぜなら、このような統一的な政権は、絶えず諸公が分裂していたキエフ・ルーシ時代にはまだ見られなかったものであり、こうした中央集権的な政権そのものが、モンゴルの統治方法の借用であると見受けられるためである。ロシアはモンゴルの抑圧から脱するために、モンゴル以上の強力な国家権力を打ち立てねばならない必要に迫られており、そのために、モンゴルの統治手法を己が内に取り込むことで、これを跳ね返す必要があった。ロシアはモンゴル貴族との婚姻によってモンゴル支配に微笑みながら友好的に協力の手を差し伸べ、これと協力し同化する風を装いながら、これを飲み込んで、相手を打倒して立ち上がった。以後、ロシアの歴史は、モンゴル的な占領・拡大政策と、それ以前からずっと続けて来た絶え間ない「借用」の連続である。

こうして、タタールのくびきは終了し、敵は弱体化し、駆逐されたが、それでも自分たちは踏みにじられ、痛めつけられ、今も絶えず脅かされている弱者だという被害者意識はなくならなかった。その弱者性と屈辱感と恥の意識を覆い隠すために、より一層、国家権力の強化に励み、他国を凌駕しようとの強迫観念から抜け出せなくなったのが、それ以後のロシアなのではあるまいかという気がしてならない。

とにかく、ロシアという国の国家観の根底には、自国の発展と威信強化のためならば、自国民や他国や果ては世界全体がどうなろうとも構わないといった発想があるように思われてならない。なぜ彼らはそこまで「国」というものの強化にこだわるのか? 強迫観念のようなこの思想は、タタールのくびきをきっかけに生まれたものではないとしても、かつて異民族の統治下に置かれて、自国が占領され、抑圧され、消滅同然となった時代に、より強化され、こうして傷つけられて失われた国家の自己イメージを今も引きずり、絶え間ない恐怖と屈辱感に脅かされているために、その傷ついた自己を救うために、永遠に自分を脅かす敵がいなくなるまで、世界征服を模索し続けねばらないという思い込みが生まれているのではないだろうか。

このような批評を「あまりにもひどい一方的で根拠なき感情的な決めつけだ」と考える人がいるならば、ロシア人がかつてシベリアの強制収容所でどのような生活を送ったのか、その記録を読んでみれば良い。同胞同士がどれほど憎み合い、殺し合い、貶め合ったかが分かるであろう。何よりも国力強化のために、このように憎悪すべき強制収容所群島を国中に作り上げ、自国民を徹底的に虐げ、収奪するシステムを完成させたこと自体、ロシアにおける「国」の概念が、どれほど恐ろしく歪んでいるかをよく物語っていると言えよう。

そして、大変、残念なことに、ロシアという国の持っているこのように傷ついた自己イメージ、被害者意識、それを跳ね返すために生まれて来る歪んだ世界征服の夢(メシアニズムの思想)は、かなりの部分がほとんどそっくり、今日の我が国の国家像にも当てはまるのである。

* * *

・安倍氏とプーチン氏に共通する「被害者意識」と、これを跳ね返すためのマッチョイズムとしてのナショナリズム

ソ連が行ったシベリア抑留や、北方領土の占領、またロシアの社会主義化などの出来事のために、我が国では、相当長い間、ロシアに対する不信感が国民に根付いていた。また、プーチン政権に対する我が国世論の批判や不信感も、つい最近まで相当に根強いものがあった。それが激変するのは、明らかに、安倍政権になってからのことである。安倍氏がプーチン氏との個人的な親密さを積極的にアピールしながら、領土問題の解決を自分の手柄にしようと動き出してから、それまで暗黙の了解となっていたロシアへの不信感が、世間で語られなくなって行ったのである。

何度か書いて来たことであるが、安倍政権の思想的特徴は、プーチン政権と本質的に同じである。また、人間としての両者の人格的な欠点も非常に酷似している。彼らには、一部では、サイコパスや、自己愛性人格障害といった評価も向けられているが、それも当然であろう。飽くことのない権力欲、人前で栄光を受けることを愛してやまない名誉欲、困っている人間には同情的なそぶりを見せながらも、人の弱みをとことん利用して出世の手段として行き、その陰で反対者は容赦なく力で抑圧し、駆逐して行く。非情さ、冷酷さ、猜疑心、復讐心の強さ、などは互いに似通っている。
   

安倍政権によるメディア懐柔・統制はすでに批判を浴びて久しいが、プーチン政権に逆らって殺害されたり、不明な死を遂げたジャーナリストの噂も絶えない。

日曜未明、あるジャーナリストの不審死と、先を行く205人のジャーナリストの死 (2016年8月29日)(HKennedyの見た世界から)

「ヴラジミール・プーチンが大統領に就任してからのロシア、及びロシア連邦で暗殺されたり、不審死を遂げたジャーナリストの数は205人に上ります。」

プーチン政権下、暗殺されるジャーナリスト達 
 

  
安倍氏がしきりにプーチン氏を評価するのは、ただ単に同氏が領土問題をきっかけに脚光を浴びたいだけではない。その接近には、何よりも、両者の持つ思想的な親和性が影響しており、安倍氏の目指す理想的な統治像が、プーチン政権にこそあることが影響している。

安倍氏の目指す「美しい日本」像は、プーチンの掲げる「強いロシア」と本質的に同じなのであり、それは我が国においてかつて否定され、退けられた軍国主義・国家主義の再来を意味する。

両者の思想的な親和性がどこから生まれているのか、その理由は、安倍氏と密接な関わりのある統一教会の思想を考慮しても、理解できることである。すでに述べたように、統一教会はかつて「共産主義の脅威」に対抗することを目的に掲げながら、共産主義との闘いの過程で、政敵からすべての忌むべき手法を自分自身の内に取り込んで行った。統一教会が共産主義と一体化した過程は、統一教会の組織である国際勝共連合の掲げる「核武装」や「憲法改正」、「スパイ防止法」などのスローガンが、すべてもとを辿れば共産主義国が実施した人民統制の手段と重なることからも理解できる。これはモンゴル統治を廃するために、ロシアがモンゴル統治と一体化して行った過程とよく似ている。統一教会は、表向きには共産主義と闘っているように喧伝しながらも、実際には、共産主義を手本として、その手段を己が内に取り込むことで、自己の権力拡大の手段としたのである。

そこで、このような全体主義・宗教カルトに関わる全ての人に、今日も、親ロ的な思想が伝統のように受け継がれているのは不思議ではない。KGB出身のプーチン氏の統治方法がソ連時代に極めて酷似していることが示すように、また、日本にいるロシア研究者の数多くが今日も思想的には共産主義に親近感を抱き続けているように、たとえ時代が変わっても、彼らは本質的には今も変わらず共産主義者のままなのだと言って差し支えない。筆者は、共産主義思想ももとを辿ればグノーシス主義思想に行き着くものと考えているが、グノーシス主義とは、元来、被害者意識から生まれるものであって、何よりも「神に対する人類の被害者意識」から発生する思想である。聖書の神によって罪に定められた人類が、被害者意識によって神に敵対して団結し、神の下した判決を覆して自力で自分を無罪とし、名誉回復を遂げようとする思想がグノーシス主義である。

安倍氏には同氏が国家観として持ち続けている「被害者意識」に加えて、個人的なルーツとして持ち続けている「被害者意識」もあり、この二つは安倍氏という個人の人格の中で密接に結びつき、同氏は双方の「名誉回復」を目指している。安倍氏の政策がどれほど対米隷属的だと批判されようとも、同氏のルーツを辿れば、安倍氏が心からの親米派であるとはおよそ考えられないのもそのためである。同氏が望んでいるのは、一時はA級戦犯とされ死刑に処されるかという恐怖を味わった祖父の「名誉回復」であり、それによって自分自身のルーツを「浄化する」ことであろう。だが、そのようにして祖父を名誉回復するためには、どこかで「米国のくびき」を跳ね返すことがぜひとも必要であり、戦勝国によって下された審判を覆して汚名を返上せねばならない。その意味も込めて、ロシアへの接近をはかっているのではないかと考えられる。(だが、以下に書く通り、こうした行為はすべて祖国への裏切りとして、したたかに報いられるであろう。ロシアに接近しても、北方領土の返還にはつながらないどころか、安倍のこうもりのような振る舞いの陰で、同氏は最終的には米ロの両国に裏切られ、敗戦時と同じように、米ロによる新たな日本の領土の占領・分割という悲劇を招くことにもつながりかねないと懸念する。)

さらに、上記したようなロシアが国家像として抱えている「傷ついた自国のイメージ」と、それを跳ね返すために「強い国を取り戻そう」とするスローガンは、敗戦によって「屈辱を受けた」ゆえに、これを「跳ね返さなければならない」と考える、安倍氏を含む日本会議メンバーのような人々の心境にも重なる部分が大きい。

内心では、自国の占領、抑圧、消滅の恐怖を今も持ち続け、歴史的事実のために屈辱感、劣等感に苛まれているという共通点があればこそ、彼らは一人のリーダーのもとで団結する「強いロシア」の国家主義にも親近感と憧れを抱くのである。

ロシア国家が国民性として抱える「傷ついた自己」の本質については、次のような指摘もある。
  

ロシア、アメリカ、日本のナショナリストの抱える危険(HKennedyの見た世界 2016年8月30日、太字、赤字は筆者による)

現在のロシアにあるのは、共産主義というイデオロギーではなく、プーチン大統領を筆頭にしたマフィア集団に政権を牛耳られたロシア・ナショナリズムです。これを要約すれば「すべて周りの国々は我々に対抗している。我々は敵によって周りを囲まれている。我々は強く在らなければならず、プーチンを必要としている。プーチンのみが我々を救う事が出来る」という考えです。

但し、言ってみればこのような主張は、ロシアのナショナリストだけではなく、日本のナショナリストやアメリカのナショナリスト(多くのナショナリストはトランプ支持者です)の間にも広まる『被害者意識』に繋がります。

外国や周辺国が危害を与えようと自分たちの国に敵対しているという『陰謀説』から来る『被害者意識』の蔓延るナショナリズムには、他者(他国)との共存や協力は全て『売国奴』『国の敵』と映ります。ここから考えても、国中にプロパガンダを流してナショナリズムを鼓舞しているプーチン大統領が、外国との連携や協調路線や柔軟路線をとることは無く、又対日外交で言えば、北方領土を返還する意思が微塵も無い事はあまりにも明らかであり、強権を振るうプーチン大統領なら「解決するかもしれない」のではなく、プーチンだからこそ「解決にならない」ことを見極めるべきです。

  
以上の記事では、ロシアの国家の本質は、「すべての国がロシアに敵対している」という「被害者意識」にあるとされる。今日、状況はまさにそれに近いものとなっているので、こうした思い込みは全く根拠がない単なる被害妄想とも言い切れない有様だが、しかし、こうした敵対状況すらも、場合によっては、より深い次元では、ロシアが抱える「被害者意識」が現実に投影されて起きて来たものと見ることもできる。(あるいは、ロシアが己が利益のために、「米国という世界的巨悪に対し、孤立状態に陥ってでも、決然と立ち向かう勇敢な一国」の姿を好んで演出しているという見方もできる。)

だが、このように「周辺国から敵対されている」という被害者意識・危機意識は、「中国の脅威」などをしきりに煽る安倍晋三の「被害者意識」とも共通するものがある。両者ともに、「自分は脅かされている」という危機感から抜け出すことができず、他国に対する不信感・敵意・不安を煽ることによって、それを自己の政治権力強化の手段として行く点は同じである。仮想敵を作り、対立や被害者意識を煽ることによって、「強い統一的なリーダーのもとに国民が一致団結し、国家を強力な防衛の砦としていくこと以外に、我が国民が身を守る術はない」などと訴え、国と自分自身を同一視し、自分という政治的なリーダーの下に国民を集結させようとする政治手法は極めてよく似ている。

こうした人々にとっては、平和が訪れるよりも、敵が存在し、国が危機に晒されているという恐怖感が絶えず国民の間に存在する方が好都合なのである。

かなり古い記事ではあるが、以下のような記事も、プーチン氏個人の世界観をも読み解く鍵となるであろうと思う。「荒海でクジラ撃ちのプーチン首相、「人生は危険なもの」とうそぶく」(2010年8月27日)AFPBB News

全世界が自分に敵対しているという被害者意識を持ち続けていればこそ、こうした人間たちは、人生を絶え間ない権力闘争に置き換え、周囲の人間を「敵か味方か」に二分し、飽くことなく闘争や、スリルに生きることが人生であると捉える。彼らにとっての人生とは、最初から安息の場ではなく、絶え間ない闘争でしかない。このような人間には、他者を信頼するとか、愛することはできない。だからこそ、その証拠に、長年連れ添った伴侶をも離縁してしまうか、家庭内離婚状態となり、家庭に決して平和が訪れないのである。それは彼らが人生の目的としているものが、最初から、家庭の安らぎとは程遠いものだからである。

だが、そのようにして対外的な危機ばかりを煽り、疑心暗鬼から武装を強化し続けていれば、いずれ叫んでいた対立が本当になる日が来ないとも限らない。だから、このような心理的傾向を持つ二つの国の接近は、大変、危険なものであると言える。何よりも、共に被害者意識と疑心暗鬼に苛まれるだけの二つの国の間に、決して真の友情と連帯などあり得ない。あるのは、どちらが先に食うか、食われるか、という問題だけである。


・ロシアはソ連時代と本質的に変わらない――決して北方領土を返還しないばかりか、さらなる領土侵略に及ぶ危険性を考えなければならない
  

侵略国家ロシアは「北方領土」を返さないばかりか北海道の侵略占領を狙う

 「平和条約の締結」は、ロシアが違法に侵略して占領し続けている日本の北方領土を日本に返還し、謝罪と賠償をして、結ばれるものだ。つまり、ロシアが国際法を守り、侵略を否定する「平和愛好国家」に転換したときに結ばれるものだ。だが、そんなことはありえない。ロシアは2008年8月にはグルジアを軍事侵略したのだ。これを、安倍首相のブレーンであり、反米の思想工作を巧みに展開する中西輝政京大名誉教授は強く支持した(私の2013年11月21日脱の文の2節参照)。中西氏は安倍首相の私的諮問機関「安全保障と防衛力に関する懇談会」(2013年9月10日)の委員である。ロシアは、シリアのアサド独裁政権を支援し、化学兵器の原料を提供してきた国だ。

 つまり、 2月8日の日露首脳会談での、<戦後68年間にわたって平和条約がないという異常な状態を終わらせなければいけない>というプーチンの「認識」は、日本国民を騙すための嘘である。同じく安倍首相の「同認識」も、国民を騙すための嘘である。

<略>

 新ロシア帝国は、マルクス・レーニン主義は棄てたが(共産主義では経済を発展させることができないこと、西側自由主義国を騙すため)、ソ連時代のKGBによる国内弾圧体制と、ソ連時代の対外政策=侵略主義を断固として継承したから、国家の本質はソ連時代と同じである。

 ソ連時代の対外政策の侵略主義は、帝政ロシアの対外政策の継承であった。沿海州のウラジオストクは、「東方(日本)征服」の意味である。新ロシアの国章は、帝政ロシアの「双頭の鷲」である。新ロシアの国歌のメロディーは、スターリン作のソ連のものであるし、レーニン廟もソ連時代のままである(中川八洋氏『地政学の論理』17,18頁参照。2009年5月刊)。このように「新ロシア」と称しているが、本質はソ連時代の継承であり、悪の帝国なのだ。

 なによりも、新ロシアの支配者はソ連時代と同じだ。 旧東欧諸国のように、弾圧されていた側が政権を取ったのではない。ソ連共産党の代わりをKGBが担うようになっただけであり、「ソ連崩壊」は、「国家の偽装倒壊」なのである。西側は騙されたのである。

  
「悪の帝国」などという半ば陳腐化してしまった台詞にも見られるように、以上のような記事に、学術的な検証としての価値を見いだすのは困難かも知れないが、しかし、言わんとしていることの趣旨はそれなりに理解はできる。

プーチン氏が、いかに表向きはソ連時代への反省と共産主義と訣別したと宣言し、ロシアが新しい国家として出発したように見えたとしても、実際には、それは見せかけに過ぎず、国家の本質は変わっていないというのである。そのことが、現在のロシア国歌にも表れており、KGB出身のプーチン氏が長期政権を維持している事実にも表れており、レーニン廟が一度も取り払われたことがない事実にも表れているのだという。

そして、ソ連の本質とは、絶え間ない拡大・膨張(侵略)政策であった。それは今も変わらないロシアの国家政策である。別の指摘では、ソ連時代、東欧も含め、ロシアと「平和・友好条約」などといった美しい名前の条約を結んだ国は、ほとんど約束を裏切られて侵略の対象となった。たとえば、アフガニスタンは、1978年にソ連と結んだ善隣友好条約が口実となって、翌年、ソ連に侵攻された。日本はかつて日ソ中立条約に違反して、ソ連からの対日参戦を受けた。こうしたことからも、ロシアにとっては、「中立」や「平和」や「友好」といった名のつく約束は、ただ相手方の行動の自由だけを縛っておいて、自分は約束など無いがごとくに好き勝手に振る舞い、自分にとってのみ有利に事を進めるための裏切りと侵略の第一歩でしかないと見る向きもある。

いずれにしても、ソ連に形式的な終止符が打たれたからと言って、それだけを持って、ロシアという国の、こうした信頼のできない不誠実で裏切りに満ちた歴史的な習慣、ずるくて抜け目のない国民性がなくなったと考えるのは早すぎるであろう。まだソ連時代に学校教育を受けた人々がこの国では若者層を支えている。そうしたことだけを取っても、共産主義のイデオロギーが、体制の変革と共にただちに消え失せたと考えることはできない。

だが、共産主義にこだわらずとも、ロシアという国は、歴史上、強大な国家権力が絶え間なく拡大を続けながら、自国の民衆を容赦なく抑圧するという道を外れたことが一度もない国である。赤の広場はかつてイヴァン雷帝によって人民の公開処刑が行われた場所でもあった。このような悲劇的な過去を持つ国家としてのロシアの本質は、今後も決して変わらないであろうと筆者は考えている。

何よりも、歴史的事実によって傷つけられた自己イメージを、軍備の増強や、国家の威信強化といった表面的な手段(マッチョイズム)で補うとすること自体に無理があるのだ。そのようにして、自己の内面と向き合って、真の健全さ、高貴さを身に着けるために、何が必要なのかを考える代わりに、ただ手っ取り早く他者の持っている優れた価値を強奪したり、仮想敵を作り出すことによって、諸悪の根源が自分以外の何者かにあるように見せかけ、これを口実に軍備を増強し、周囲を屈従させることによって、仮に世界一の座を手に入れたとしても、そんなことで一流国としての気品が身に着くことはない。そうしたことによっては、より一層深い疑心暗鬼と対立関係が生まれるだけで、傷ついた自己イメージが回復されることもなければ、決して本当の安らぎと満足もやって来ない。真の尊厳は、人間の場合も、国家の場合も、等しく内側から始まるのであって、外側から身に着けることはできないのである。

そして、我が国は、敗戦を経て、軍国主義や国家主義とは訣別したはずであるが、「お上」を至高の価値とする以上の価値観を未だ持てず、何事も個人から出発せず、「お上」から出発してしか考えられないない点で、ロシアと同じような精神的遅れを抱えて今日に至っている。そして、かつて大国になろうとして失敗したという汚名を返上するために、より一層、強い国作りに励まなければならないという強迫観念に駆られている点でも、ロシアと似ている。国家としての自信、品格、プライド、尊厳などを、内側から支えるための真の心の支柱を未だに持てず、それを外側からの「借り物」によって補強しながら、「国家」だけをハリボテのように増強し、今またいつかきた道を逆戻って行こうとしている点で、我が国はロシアと非常によく似た病理現象に陥っているのだと言えよう。

このように欠点を同じくする者同士が、己が欠点には目をつぶりながら、互いを誉めそやし、美化し合って、手を結んだ日には、今まで以上の悲劇が起きるであろうと予測するのは当然である。このような光景に対して、筆者がかけられる言葉は次の一言だけである。

「悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。」(テモテ3:13)

だから、筆者は、我が国がロシアに接近することは、我が国にとって何のメリットもなく、それどころか、有害な結果をもたらすだけに終わるだろうと確信している。安倍政権がこれまで推進した政策のうち、どれ一つとして、我が国の国益にかなったものはなかったが、とりわけ、ロシアには北方領土を返すつもりなど微塵もない。北方領土を餌にして、我が国はロシアの国益のために仕えさせられ、シベリア・極東開発に存分に利用されるだけで、したたかに欺かれて終わるであろう。それくらいであればまだ良いが、米ロの間に本当の対立が起きた日には、我が国はどちらからも裏切られ、国土が真っ二つに分割されるなどという悲劇にも巻き込まれかねない。そうなった日には、シベリア・極東開発という名目で現地に送り出された我が国民は、シベリアに取り残され、帰国もかなわなくなって、またも第二のシベリア抑留のようなことが起きるだけである。

* * *

・文学的主人公に擬人化されるロシアの傷ついた自己イメージ

エフゲニー・オネーギンの人物像には、ロシアという国の一般的な国民性、また国家観が象徴的に込められていると筆者は見ている。むろん、これは文学的な創作の主人公であり、同種のアンチヒーローとしての「余計者」の系譜は、オネーギン一人では終わらないのだが、オネーギンの人物像は、「傷ついたロシア」の自己イメージを非常に簡潔に象徴的に体現していると言えるのではないかと思う。

オネーギンは、上流階級の出身であるから、うわべは立派で、紳士的で、教養や知識もある前途有望な青年である。ヨーロッパの水準に比べても劣らない立派な教養人であり知識人の紳士であるように、人目には映ることであろう。何よりも、彼は世渡り上手で、空気を読むことに長けており、社交の場では自分を上品に、賢く、魅力的な人間と見せかける術を持っている。彼は人の心を上手に掴むことができる。だが、それは計算づくの行動で、当世風の流儀の上手な模倣に過ぎず、彼の内心は深く心傷ついており、病んで、自信を喪失している。そのため、彼には社会において決して自分のあるべき居場所を見いだすことができず、他者を本気で愛したり、信頼することもできず、人間関係においては、ただ自己の利益のために、相手を期待させて利用しておきながら、したたかに裏切り、傷つけることしかできない。外見は知識人だが、知識人として当然、持っていなければならない倫理や道徳が、彼には決定的に欠けているのだ。

オネーギンにはまだサイコパスとまでは言い切れない、良心の呵責や、ためらいや、後悔も含めた人間らしい感情が備わっているが、それでも、彼の人格は、深い所ですでに致命的な根腐れを引き起こしており、どんな反省も後悔も彼を変えることはできない。彼の傷ついた人格は、決して彼の人生において、あるべき決断をさせず、軽薄でうわべだけの利益になびいて、本質的に重要なものを常に見誤らせ、他者との長続きしない不誠実な関係を結ぶよう仕向けるだけで、彼をどんどん不幸においやってしまう。そのため、オネーギンの人生に巻き込まれた人々は、みな結果的に不幸になる。タチヤーナは一見、優しく誠実な女性のようであるが、彼女の生涯を通じての振る舞いも、オネーギンには何の薬ともならず、彼女はただオネーギンの犠牲者としての立場を抜け出ることはできない・・・。オネーギンに対する処方箋はロシアにはないのである。

オネーギンというのは、単なる創作上の主人公ではなく、「傷ついたロシア」そのものを擬人化した人格だと言えるのではないかと筆者は考えている。同種の人格は、他の文学的創作にもおおむね受け継がれているが、こうしたアンチヒーローは、ただ単に創作上の存在であるだけでなく、ロシア人が国民性として歴史的に常に抱えて来た根深い心理的なコンプレックスと、歪んだ被害者意識と自己憐憫、その心の傷ゆえに、彼らが正しくあるべき関係をどんな他者ともきちんと構築できず、常に嘘や騙しや利用や裏切りといった、他者ばかりか、自分自身にとってもいずれ手痛いツケとなって跳ね返って来るような有害な関係しか結べないという重大な精神的・人格的な欠点を象徴的に示しているように思われてならない。

むろん、すべてのロシア人が同じ人格的欠点を持っていると言うつもりはないが、それでも、こうした人格には、創作の域を超えて、何かしらこの国全体に共通するような深い意味が込められており、ロシアという国の未来が抱える絶望が象徴的に暗示・投影されているように感じられてならない。どんなに個々のロシア人が誠実であっても、国家としての運命全体が不幸であるならば、個人がそれに巻き込まれることを避けるのは難しいであろう。

歴史的に、ロシアの良心的な知識人は、国全体が抱えるこの心理的な傷をどのように克服するかという課題を常に切実なものとして受け止め、ロシアという国から何とかこの不幸の源を切り離して、誠実で温かな心を取り戻して、平和と安息に満ちた国を作ろうと模索した。だが、彼らはその解決方法を見いださなかった。そして、ロシアは国全体として、常に誤った道を選び取ることによって、この問題と向き合うことから目を背けて来たのである。

すなわち、国力のさらなる強化というマッチョイムズへの傾倒によって、己が内面の空虚さ、傷、腐敗を覆い隠し、自己の抱える恐れや劣等感や屈辱感を、うわべだけの模倣や、力によって補強し、他国を制圧することで憂さを晴らそうとする間違った方法を取った。武装することによってしか、人格的欠点を覆い隠せないほどに危険なことはない。傷ついた人格に強力な武器をもたせるのは、周囲にとっては重大な脅威以外の何物でもない。

オネーギンは傷ついた国家、傷ついた国民性の象徴であり、我が国の国民性とも決して無縁とは言えない欠点を持っているのだが、オネーギンと我が国の国民性の違いがあるとすれば、それは我が国にはオネーギンほどの狡猾さ、したたかさがないという点であろうか。もしそうだとすれば、なおさらのこと、我が国は、到底、ロシアのような国を相手にしてはならないと言えよう。もし人生を幸福に送りたいならば、これは決して出会わない方が良く、決して関わるべきでない危険なタイプの人格である。

現在は、米国のやりたい放題の陰で、ロシアが多くのことでいわれなく非難され、国際的に追い詰められているがゆえに、ロシアを被害者のように見て、「可哀想」と考えたり、逆に反米感情からロシアに拍手を送るむきも世間には存在するものと思う。筆者は米国を擁護したいたがために、ロシアのイメージを貶めようとしてこう述べているわけでは決してない。だが、ロシアについては、決してこの国の言い分をいかなる点についても信用しないことが得策であるというのは、歴史があらゆる場面で物語っていることではないかと思う。だから、現状の政治的孤立状態を利用して、この国が自分をあたかも「可哀想な存在」であるかのように見せかけて、被害者のように同情票を得ることもまた彼らの戦略の一環であるから、それに加担しない方が良いと言えるだけである。ロシアはそもそも他国から同情を受けなければならないようなか弱い存在ではない。国家の沽券にかかわる問題については、恐るべき強固なプライドを持って、どれほどのすさまじい犠牲を肯定してでも、面子を守り通そうとする。まさにその途方もないプライドと力こそが、被害者意識と表裏一体をなしているのであって、そのような強さは、本質的には悪であって、決して同情に値するものではない。そのことを見抜けなければ、他国に同情しているつもりが、したたかに利用され、気づいた時には犠牲者にされるだけに終わるであろう。


伊勢志摩サミットにおける米国と日本の首脳による戦争犯罪の正当化―「皇軍」と「米軍」の一体化―

さて、伊勢志摩サミットは、落ちぶれた政治家たちが、名誉挽回のために思う存分、この会合を利用した他、誰にも成果などないままに終わった。

安倍首相の最大の「成果」は、皇国史観・軍国主義の復活への願いを巧みに隠しながら、G7首脳のキリスト教徒を伊勢神宮に招くことで背教へ導き堕落させる計画に成功したことであろう(G7諸国の先行きは暗いと、もっぱらの評判だ。)

安倍氏とその背後に控える国家主義者らの真の意図については、エコノミスト誌がサミット前にすでに指摘している。(訳全文は、星の金貨プロジェクト、記事「宗教も政治も、そして原爆の投下すら、安倍首相の国家主義政策実現のための演出に利用される 憲法9条の廃止、歴史の書き換え、国家神道の復活 - 伊勢志摩サミットの演出に隠された国家主義的野望  安倍首相は戦前の宗教的、社会的、政治的秩序を甦らせようとして活動を続ける組織の一員」参照。以下は一部のみ抜粋する。)
 

星の金貨プロジェクト
に掲載された「エコノミスト」誌(
5月21日)の訳文から抜粋

広島と長崎に原爆が投下され、第二次世界大戦に日本が降伏してからそれほど日数も過ぎていないある日、アメリカ軍兵士の一団が日本の本州にある三重県の伊勢市にある、この国で最も神聖視されている神社の一つにやってきました。

彼らは貴重なイトスギ材で造られた長さ100メートルの宇治橋をジープで渡り、そのまま神社の境内に入ろうとしたため、一人の警備員が押しとどめようとしました。
しかし彼はピストルを突きつけられ、退くように脅されました。
この1,300年の歴史を持つ伊勢神宮の本殿は遷宮と言って20年ごとに作り直されますが、宇治橋も同様に20年ごとに作り直されるため、損害を被ってもいずれ修復されることにはなっていました。
日本は敗戦国として戦後様々な屈辱的な目にあいましたが、これなどは些細な出来事であり、いつのほどか忘れられてしまいました。
世界の中でも富裕な国々のクラブである主要先進7カ国の年次サミットが伊勢神宮近くの島で開催され、5月26日に安倍晋三首相がその仲間のリーダーたちを歓迎するために宇治橋を使うことになっており、その時こそかつての屈辱が拭いさられることになるでしょう。


この施設は人里離れた目立たない場所にあり、海外ではほとんど知られておらず、戦後その神聖特権が廃止された神道により守られてきました。
1947年に施行された日本国憲法はいかなる宗教的特権も認めていません。
「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」
憲法第20条にはこう明記されています。

伊勢市、志摩市を中心に三重県はほぼ無競争でサミットの会場に選ばれましたが、その背景には安倍氏が率いる首相官邸の強い意向がありました。
安倍首相は自らの政治的使命について「戦後体制からの脱却」と規定し、日本を再び誇り高い強力な国家として蘇らせることを主張しており、今回の選択については隠された意図がほの見えます。

いずれにせよ今回のサミット開催は、特にバラク・オバマが広島を訪問する初のアメリカの大統領になることにより、安倍首相にさらなる政治的恩恵をもたらすことになるでしょう。


ホワイトハウスは、オバマ大統領は1945年8月6日に広島に、そしてその3日後に長崎に課された大量虐殺と大量破壊について謝罪はしないという方針を明確に示しました。
しかし世論調査の結果は、日本人の90パーセントがオバマ大統領の広島訪問を歓迎する意思があることを明らかにしました。



 オバマ大統領の広島訪問の「成果」は、原爆を投下しても被害者はただで許してくれて謝罪は求められることなく、その上、被害者に寄り添う心優しき同情者にもなれて脚光を浴び、なおかつ「核なき世界」を提唱するリーダーにもなれるという、魂の安い買い物が可能だと世界に示したことである。何しろ、ノーベル賞の返却まで求められたというオバマ氏である(「ロシアの声」参照)から、この不名誉を払拭するために広島訪問は政治的に利用したかったことであろう。

だが、実際にはどこにも「成果」などない。このサミットは、 まさに我が国が被害者をダシにして魂を売ったことの証明にしかならず、しかも、他国までもその罠に引きずりこんだのである。
 
沖縄で米軍属により事件が起こされたとされる4月28日は、日本にとっては主権回復の日であり、子の日に起きた沖縄の事件が伊勢志摩サミットに永久に暗い影を投げかけることは間違いがない。沖縄だけではない。広島も、徹底的に被害者を利用して手柄を立てることしか考えない政治家の野心と冷酷無慈悲に利用されたのである。

ともあれ、沖縄の事件は、我が国の真の「主権回復」を決して真に実現したくない勢力の思惑をよく示しているように思われる。本当にこの事件は偶発的に起きたものだろうかという疑問を起こさせる。この事件は、この日をいつまでも沖縄及び日本全体にとっての「屈辱の日」とし、度重なる凶悪事件を起こすことによって、日本国民全体の心に恐怖と無力感を植えつけ、間違っても、日本の国民が属国を脱し主権を求めて立ち上がらないように仕向けることが目的なのだと思わずにいられない。 
 
「ジャーナリスト通信」(執筆者は創価学会員のようである)が、この主権回復の日に起きた二つの凶悪事件について書いていることは興味深い。さらに同ブログの著者は、米軍属による事件が、かつての皇軍の仕業と同じだと指摘する。折しもネットアイドルの巻き込まれたこれまた凶悪事件等が盛んに報道されているのもスピンとは言え単なる偶然とは思えないのである。すべては属国民に無力感を植えつけるためとしか思われない。
  
そして、主語を省くことによって、原爆投下という恐るべき殺戮を誰が行ったかにさえ言及せず、米国の罪を巧妙に隠すオバマ演説の虚偽性については、「原爆は誰が落としたのか」オバマ広島演説 騙しの手口 [核兵器]」でよく解説されている。

上記の記事は次のように締めくくられている。

 

「原爆は誰が落としたのか」オバマ広島演説 騙しの手口 [核兵器]」から抜粋

これで日米はお互いの非人道的な行為をとやかく言わないことになる。法の支配からいよいよ離れたズブズブの関係になって行く。それは例えばすでに沖縄の米兵や米軍関係者の容疑者の身柄をアメリカ側の「特別の配慮」で日本側に引き渡したり、日本からの「思いやり」で米軍駐留費の一部を肩代わりするようなところに現われているが、今後は日本自衛隊がアメリカの戦争に付き合わされる中で発揮されよう。日米の共犯関係が深まるわけだ。

悲しいかな被爆者までがオバマ演説を好意的にとらえている。この国の人々はいったい何度アメリカに騙されれば気が済むのだろうか。思えば「平和のための原子力」を押し付けられたときもそうだった。おー!原子力を平和のために!原発、すばらしい!と。

いずれにせよ安倍政権にとっては思惑通りの展開ではないだろうか。G7やオバマの広島訪問で世論の支持を得た。次は消費税増税延期の表明、株が急伸して、衆参同時選挙、自民圧勝、改憲、とまあこーゆーシナリオでしょう。



最後の自民圧勝の下りについては筆者には異論がある。植草氏もこの先には「まさか」という坂が控えていると指摘しているように、そこまで浅はかな展開にはならないであろうと思う。
 

 植草一秀氏のブログ
安倍首相のこじつけリーマン級危機説に異論噴出 から抜粋
2016年5月26日 (木) 

サミット後、安倍首相は消費税再増税再延期を打ち出し、参院選に臨むものと見られる。
衆院選については、先送りして2016年から2018年までの好機を見定める方向に傾いていると思われるが、安倍政権の政局時計の歯車は明らかに狂い始めている。
サミットでは日米同盟の強化をアピールする予定であったが、沖縄での米軍関係者による卑劣で凶悪な事件が表面化して、同盟そのものの矛盾が表面化することになった。
オバマ大統領が広島を訪問することが目玉となったが、
「謝罪なき広島訪問」
は広島を侮辱するものである。
広島は物見遊山の観光地ではないのだ。
沖縄の事件についてもオバマ大統領は謝罪すらしていない。
米軍のトップに大統領が位置し、その配下の米軍関係者による凶悪犯罪について、トップが謝罪するのは当然のことだ。
植民地での凶悪犯罪については謝罪する必要がないと判断しているのだろう。

参院選で安倍政権与党が敗北すれば、衆院選に向けて野党共闘が加速する。
株価は安倍政権発足後から2015年6月までが上り坂。
2015年6月からは下り坂に転じているが、この下り坂の先には
「まさか」
が控えているようだ。


  
安倍政権の先行きが明るいとは筆者はお世辞にも思わないが、いずれにしても、安倍とオバマの今回の会見は、「お互いに過去のことをとやかく言わない(=過去の戦争犯罪については責任を問わない)」という暗黙の同意が日米のもとでなされたことを意味する。

つまり、米国がお手本として「過去の戦争犯罪について謝罪は不要」と示したので、日本もそれにならって、従軍慰安婦問題から人体実験その他その他の数々の忌まわしい戦争犯罪について謝罪が必要なくなったということである。(誰に?むろん、被害者となった人々に対してである。)
 
その目論見は、「のんきに介護」の記事「橋下徹さん 小物ぶりを発揮 相変わらず、かっこわるいおっさんですな」で指摘されている通り、橋下透氏の以下のツイートにもよく表現されていると言えよう。(橋下氏が故意に「戦争犯罪」と書かずに「戦争」としか書いていないことにも注意が必要。)
 
 

橋下徹‏@t_ishin さんのツイート。

――今回のオバマ大統領の広島訪問の最大の効果は、今後日本が中国・韓国に対して謝罪をしなくてもよくなること。過去の戦争について謝罪は不要。これをアメリカが示す。朝日や毎日その一派の自称インテリはもう終わり。安倍首相の大勝利だね【橋下ゼミ】⇒11:29 - 2016年5月12日11:29 - 2016年5月12日 〕――


 

 
このように、敗戦という歴史的事実と、過去の戦争犯罪を帳消しにしようという流れは、昨年の安倍談話によってあからさまに形成されて来た流れである。筆者は「一事不再理の原則(1) ~東京裁判の否定―日本のグノーシス主義的原初回帰~」において、日本政府は東京裁判で下された日本の戦争犯罪に対する有罪判決を公式に受け入れていたことに言及した。

ところが、その後まもなく、上の記事でも示した外務省のホームページは安倍談話の発表とほぼ同時期に削除されたのである。(記事「引き分け」から「敗北」へ~グノーシス主義的な原初回帰が招く政治的悲劇~安倍談話がもたらす日本の世界的孤立~」参照。)これも現政府による歴史の書き変えの試みの一環としてとらえることは可能である。
 
このように、すでに安倍政権による歴史の書き換えが進行して来た。すなわち、日本の過去の戦争犯罪に対して歴史的裁きが下されたという事実そのものを否定し、裁きはなかったとした上で、やがてそれらの戦争犯罪は犯罪ではなかったということにして、善悪の区別を排除して、罪人を名誉回復し、すべてをうやむやにしたいという意図が見えるのである。

筆者はここにグノーシス主義的原初回帰の野望があり、歴史を逆転させて東京裁判を否定して日本の敗戦と戦争犯罪の罪を帳消しにしようとすることは、戦争犯罪人を名誉回復させて、人殺しを無罪放免しようという悪魔的願望であり、これはキリストの十字架における裁きを否定して、罪人を名誉回復させたいという悪魔的願望に重なることを幾度も指摘して来た。

しかし、このようなことを敗戦国である日本が主張するだけならば、まだ理解もできようが、それを米国が追認したのが今回のサミットの驚くべき悪しき「成果」である。

それによって、旧日本軍による従軍慰安婦等の女性の徴用の問題と、米軍属による女性殺害という、国境を超えた軍隊がらみの忌むべき犯罪行為がともにうやむやにされようとしているのである。過去だけではない、サミット前の沖縄の事件に対する両政府の対応は、現在起きている事件までも同じ影響下にあることを示している。その意味で、安倍とオバマの会見は、かつての皇軍と米軍が一体化したこと(及びこれがまさに現代に復活しようとしていること)を暗に示していると言えるのではないか。

そこには、ただ女性に対する軍隊による犯罪を容認する思想が根底にあるだけでなく、強い者が弱い者に対して力によって何をしても許される世界を作ろうという意図が隠されている。
  
もし強い者がその力によって弱い者に何をしても、謝罪も必要なく、形ばかりの同情や、むなしい再発防止の決意や、空涙でことが終わるならば、米国が今後、力によって日本に何をしようとも、属国民である日本は異議を申し立てられないということになる。そのことは、日本国民には圧倒的な無力感をもたらすであろう。さらに、日本においても、もし自衛隊が軍隊に昇格することがあれば、その軍隊が無辜の民に何をしても罪に問われないという全く同じ理屈が出来上がるのである。

 従って、これは、もはやかつての戦争犯罪や、沖縄の基地問題だけに限定されることではないのである。そこで軍隊の犠牲となって殺害されようとしているのは、「女性」や「市民」といった非武装の個人であるばかりか、象徴的に、日本国民全体でもあるとも言えよう。
 
本来、市民一人一人が、武装せずとも殺されず、脅かされず、平和のうちに生活するための、誰にも侵害されることのない確固たる主権が回復されなければならないのに、その「主権」こそが、弱肉強食の力の論理の前に蹂躙され、否定されているのが現実なのである。そして、その考えは、政権与党においては、あろうことか、憲法改正と緊急事態条項案における人権停止のような極端な発想にまで結びつけられようとしている。

こうして、弱い国民には無力感と失意を植えつけて、人権を奪い取り、抵抗できないようにしておいてから、最上層部の詐欺師連中が自分たちの人気取りと汚名挽回のためのパフォーマンスを上から目線で見せつけているのである。

だが、日本政府が己の戦争犯罪を無罪放免しようという野望を抱いているとしても、それはまだ理解できるとしても、本来、日本と米国との間には、戦勝国と敗戦国としての圧倒的な差がある。原爆投下について、米国はこれまで「日本のファシズム・軍国主義政権を無条件降伏に至らせるために不可欠な措置であった」と主張して、大きな顔をして来た。それを戦後70年以上が経過した今更になって、原爆投下の「罪悪感」を帳消しにするために、米国が日本と取引しなければならなかったとはおよそ考えられない。

なのに、なぜ戦勝国である米国までが、日本政府が過去の汚名を払拭したいという野望を認め、それに便乗する形で、己の罪を払拭しようとして日本政府と取引するに至ったのか。

それには二つの理由が考えられる。一つ目には、そこから、米国支配層も相当に追い詰められて自己正当化をはからずにいられない様子が見えて来ることである。

つまり、そこにはパナマ文書の公開によって高まった世界の人口の1%に過ぎない富裕層の支配に対する99%の非難と憎悪にも見られるように、米国の支配層もまた追い詰められて、かりそめにも、「弱者への配慮」や「同情」があるかのように見せかけねばならない状況となっている様子が伺える。そのようにして形ばかりのパフォーマンスで欺かなければ、あからさまな偽善と、力の論理だけではもはや進んでいけなくなっているのである。

ここでは、戦勝国も敗戦国もなく、ただ弱者を徹底的に踏み台とし、どこまでも欺きながら、自分だけが栄光を受け、うまい汁を吸い、助かりたいという一念によって団結する世界の支配層の姿が見えて来る。

第二に、彼らは手を組んで過去の罪を無罪放免しようとしているのみならず、これから犯そうとしている罪を無罪放免しようとしているのだと見られる。過去の戦争犯罪について、「とやかく言わない」空気を作り出そうとしているのは、日米両政府に過去を無罪放免したいという思惑があるためだけではない。何よりも、これから過去と同様か、あるいは過去を凌ぐような「戦争犯罪」を作り出したい勢力が、その欲望を予め正当化するために先手を打っているのだと見ることができる。

その悪しき野望を気取られ、非難させないために、かつての戦争犯罪については、被害者を形ばかりの「同情」でなだめ、沈黙させておきながら、それ以外の人々は、予め共犯とすることで、ものを言わせないようにしようとしているのである。

そのために、我が政府が行おうとしているのは、学術界を堕落させることである。まず、日本のマスコミはすでにほぼ完全に御用機関に堕しており、抵抗・非難する力を奪われている。次なる標的は学術界である。「軍事研究」の復活により、インテリ層を完全に攻略して、共犯とすることが必要となる。

東京新聞 2016年5月26日 朝刊
学術会議会長「自衛目的の研究許容を」 軍事否定から転換の可能性

 国内の科学者を代表する機関である日本学術会議(東京都港区)の大西隆会長が、「大学などの研究者が、自衛の目的にかなう基礎的な研究開発することは許容されるべきだ」とする考えを、四月の総会で示していたことが分かった。学術会議は今後、委員会で軍事研究の許容範囲などについて議論し、一定の見解をまとめる見通し。これまで軍事目的のための研究を否定する声明を発表してきたが、その基本姿勢を転換する可能性も出てきた。 (望月衣塑子)

 学術会議は一九四九年の発足時の決意表明で、科学者の戦争協力を反省し平和的復興への貢献を誓った。五〇年と六七年には、「戦争目的」や「軍事目的」の科学研究を行わないとする声明を決議した。五〇年の声明に会員として関わったノーベル賞受賞者の湯川秀樹氏は戦時中に原爆研究した反省から、戦後は核廃絶運動に取り組み「科学者の社会的責任」を唱えた。軍事目的の研究に関わることを否定する考え方は科学者の間に定着していった。

 大西会長は、学術会議の全会員が参加した四月の総会の会長報告で、過去の声明を「堅持する」とする一方で「国民は個別的自衛権の観点から、自衛隊を容認している。大学などの研究者がその目的にかなう基礎的な研究開発することは許容されるべきではないか」と述べ、学術会議としての見解が必要と主張した。

 こうした発言に対し、自由討議で「従来の立場と異なる考えだ」との反対意見も相次ぎ紛糾。京都大の山極寿一(やまぎわじゅいち)総長は「自衛隊の活動全般にわたって国民の総意は得られていない」と指摘し、見解をまとめる際は「これまでの声明を変えることのない文言を考えてほしい」と求めた。別の会員からは「会長の私見には疑問がある。科学には倫理や規範が必要な時がある」という意見もあった。

 大西会長は二〇一一年十月に会長就任。都市工学が専門で、豊橋技術科学大学長を務める。



こうして巧妙に線引きをずらしながら、日本の学術界には、良心を葬って、かつては全面「禁止」されていた軍事研究を少しずつ「許容」して行く方向に方針転換しようという動きが生まれている。いよいよ科学者がかつて訣別したはずの殺人や人体実験を主たる目的とする「悪魔的研究」に取り込まれ、軍事研究を容認する空気作りが行われようとしている。軍事研究の中心は、もちろん、核兵器である。かつて湯川秀樹博士が原爆開発の反省に立って禁止したものを、全面的に容認したいというのが本音であろう。

この国で、すでに文官統制が廃止され、制服組の優位が確立しようとしていることは、「科学者の社会的・道義的責任」が事実上、退けられたこと、つまり、人の良心によって、人間の欲望の暴走や権力の暴走に歯止めをかけ、枷をはめようとする試みそのものが否定されようとしており、知性を排除したところでの力と実利優先の唯物論的な考え方にこの国が傾きつつあることを意味する。このまま、この政府が存続し続けたなら、いずれ、政府の補助金を断たれたくなければ、大学関係者は進んで軍事研究に協力しなければならないような状況が作られるものと見られる。

安倍氏と並んで反知性主義者の代表のような橋下徹氏が愚かにも賞賛しているように、これはインテリの良心に対する殺人、インテリの抹殺である。マスコミのみならず、学術界のインテリも抹殺されようとしているのである。「過去の戦争について謝罪は不要。これをアメリカが示す。朝日や毎日その一派の自称インテリはもう終わり。」

こうして、米国が率先してお手本として広島の核による犠牲に対して善悪を問わない姿勢を見せることで、米国がかつての日本のファシズム・軍国主義政権の戦争犯罪をうやむやにする手助けをし、なおかつ、日本政府による核開発の野望を根底に秘めた軍事研究が(米国の暗黙の認可の下)解禁に向かっているらしい様子は、やがて米国と日本とが共に絶望的な戦争に突入しようという計画があることを伺わせる。

さらに巧妙に文官や一般市民をもこうした犯罪的な企てに加担させていこうとする動きが見られる。たとえば、以下の記事である。すでに削除されているようなのでキャッシュから拾った。

「ゆとり」市職員、空自で鍛え直し…3年目研修
 YOMIURI ONLINE  2016年05月26日 15時00分
 
 東京都府中市は今年度から、入庁3年目の市職員全50人を自衛隊に2泊3日で体験入隊させる。
 研修の一環で、同市は「厳しい規律の中で『ゆとり世代』の若手職員を鍛え直したい」とその意義を強調。ただ、識者からは否定的な意見も出ている。

 研修は同市内にある航空自衛隊府中基地で実施。事務職、技術職、保育士職の全員が6月の平日3日間を使い、災害時の救助活動やあいさつ、行進などの基本動作の訓練を行う。宿泊を伴う集団生活では時間厳守や整理整頓も重視される。

 同市の入庁3年目は、初めて配置された部署から異動する時期。一部の職員には自分が何をすべきかを見失ったり、積極性に欠けたりする傾向が見られるという。

 このため、市職員課は「規律に厳しい自衛隊の訓練を通じて、ゆとり世代があまり経験していない上下関係を学び、チームワークや積極性などの向上につなげたい」としている。



 おそらくこの記事にはあまりにも大きな反発があったものと見られる。ネット上ではどこを見ても、不気味だ、ぞっとするという人々の反感が溢れている。そこで、このような世論の下では、上記の構想の実現は無理だろうと筆者は考えるが、おそらくそれでも、この手の話は、今後も、繰り返し繰り返し出て来るであろうと思う。マイナンバーカードの携帯が国家公務員に義務付けられているように、若年層の自衛隊での「研修」も、まずは国家公務員、地方自治体職員から始まり、やがて民間企業に及ぶということが考えられる。すでに幾年も前に民間企業の新入社員を自衛隊で研修させるという提案が出ていたのだ。
 
 こうして、裁判員制度と同じように、人間が人間を殺すという行為に全国民を加担させるような試みが行われようとしている。上の記事でも強調されている通り、軍隊での序列は絶対的なものであり、個人は命令に従うロボット同然に、上部の命令に逆らうことは許されない。軍隊は個人の良心に基づく意志決定よりも序列と上官の命令がものを言う世界である。殺せと言われれば殺すしかない世界である。

  このような厳しい軍隊の規律と上下関係の中で、一兵卒のような末端の末端にいる人間は心を破壊される。その結果が、自分よりもさらに弱い者(女子供)を痛めつけることによる鬱憤晴らしとなる。そうして行なわれる「女性殺し(エクレシア殺し)」の問題については、今は触れないが、東洋思想と絡めて今後、書いて行く予定である。

 ちなみに、G8から早々に除外されたために、ロシア首脳が今回、伊勢神宮に足を踏み入れることなく、キリスト教徒として、G7諸国ほどのあからさまな堕落に至らなかった点は、幸運だったと言えるだろう。原爆投下に拍手を送ったオバマと十字を切ったプーチンではどちらが本当に被曝者に「同情的」か、たとえパフォーマンスだけであったとしても明白である。

 G7諸国のメディアは、消費税増税の先送りを正当化するために発せられた安倍の「リーマンショック前の状況に似ている」という発言に皮肉と失笑と懐疑の混じった反発を投げかけているが、それでも、これらの国々が、サミットの場に居合わせたことによって、安倍の共犯として利用されてしまった事実は変わらない。

 聖書の神はご自分に忠実な信仰者を覚えておられ、すべての危機から必ず救い出して下さることを筆者は確信しているので、悪しき政権と命運を共にするつもりなど全くないが、安倍氏の策略を十分に知りながら、あえて利用された諸国にも暗い将来が待ち受けているであろうことを疑わない。