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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

私ではなくキリスト―義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。

「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。」(マタイ5:6)

さて、大きな解放があると、必ず、暗闇の勢力からの妨害が起きて来ることは、いつものことなのなので、驚くには当たらない。

実は掲示板に関しては、もう少し権利侵害の明白な証拠が欲しいと内心で思っていたところであった。そんな頃合い、再び、材料が手に入り始めた。

だが、その材料をどのように利用するか、作戦はあえて明かさない方が良いだろう。今、事件は高裁に行っているので、私はブログで反論することはあまり考えていない。私の戦いの舞台は、もはやネットではなくなっているのだから、虚偽のプロパガンダについては、しかるべき人たちに耳を傾けてもらえるよう、きちんと反論を書面にして作成すれば良いことである。

ところで、最近、私と似たような目的を目指していると思われる、非常に優秀な女性に出会った。詳しく会話したわけではないため、心の内をことごとく確かめることができたわけではないが、短い間、心の喜びを共有することができ、勇気づけられた。私と同年代ではない。こんな風な大人になりたいと少しばかり思える例を見たように思う。

このところ、困難な暗いトンネルを通過して、非常に大きな戦いの成果があった。巨大な妨害が起き、打ちのめされそうになった時、主が私を勇気づけて下さったのである。

「どうやってこんな嵐に立ち向かえばいいというのです?」と尋ねる私に、主は「一番、困難な道を行きなさい」と教えてくれた。

誰も行かない一番困難な道を黙って行けば、人々はいつか納得してくれる時が来て、ついに最後は敵だった人まで、根負けする時が来る、というのである。もちろん、すべての人が生きているうちに理解を示してくれるわけでないにせよ、少なくとも、自分の心の中で、無理解な人々に煩わされ、受けるダメージが減る。

誰がどんな態度を取ろうとも、それに影響されず、自分の十字架を取って主に従うために全力を尽くす姿勢を示し続けなさい、と主は教えて下さり、それから、特別に激しい困難や迫害が起きるときは、特別に大きい勝利の前触れなのだと気づかせて下さった。

悪魔と暗闇の勢力の妨害が最も激しさを極めるときは、最も大きな勝利が目の前に迫っている時だ。だから、ひどい誤解や、中傷が起き、離反が起きるときには、特に大きな喜びと栄光が目の前に迫っていることを信じなさい、と主は示された。

そして、ヨルダン川の底に立って、誰よりも困難な戦いを静かに続行しなさい、あなたの覚悟のほどを皆に見せなさいと、神は私に示して下さった。その時、私の心は落ち着いた。

ようし、最後までやって見せよう。そうして力の限りを尽くそう。分かってもらえても、もらえなくとも、全力を尽くして向き合おう。そう覚悟を決めると、やはりそれなりの成果が物事に現れて来たのである。

こうして、主が戦い抜くための力を与えて下さったので、大丈夫だ、私一人に見えても、主の軍勢が着いている、どんな攻撃や非難が起きても、何度でも立ち上がって、目的を目指し続けることができる、と勇気が湧いて来た。

ここ数ヶ月の中で、初めて勝利の確信をはっきりと心に掴んだ瞬間だった。逆に言えば、ここ数ヶ月は、それほど激しい嵐の連続だったということである。

さて、著作権侵害の申立などもせねばならないため、その用意も兼ねて、忘れないうちに、ひとこと欄の文章を掲載しておきたい。
 
当ブログでは、基本的に、ひとこと欄の文章は、記事の題材となるものでしかないので、そのまま載せないことにしているが、権利侵害を主張する際には、役に立つものと思うので、ここに掲載しておく。

以下は、本日(6月21日)に投稿したものである。
 
私はこの国で、特に労働関係の役所が非常にひどい腐敗ぶりを示していることを、長年に渡り、自ら観察して来た。厚労省を始め、この国では、雇用情勢を含めたすべてが上向き、改善しているかのような「真理省のデータ改ざん」のようなことが行われて来たが、それは偽りである。

この国の雇用情勢は決して改善などしてはいない。だが、最近、そうして虚構の成功を演出し続ける大本営発表も終わりに近づいている、という予感を私は持った。以下はその予感を告げたもの、そして、嘘を駆逐するのは、私たち自身の努力にもよるのだ、という決意を述べたものである。

* * *

これだけ労働関係の行政が腐敗すれば、この国の労働市場が悪くなるのは仕方がないですね。厚労省でもデータの改ざんが問題となりましたが、その下の役所はもっと徹底的に腐敗しています。しかし、私はこうした事情から、特に絶望は感じません。むしろ、雇用情勢を色よく見せかけ、この国の様々なデータを改ざんして来た大本営発表がもうすぐ終わる気配を感じます。彼らは下々の者に責任を押しつけて、自分たちは悪事を隠して逃げる時を待っています。営利が目的の民間企業だけでなく、役所の腐敗が何よりも労働者を搾取し、日本の雇用情勢の悪化の原因を作って来たのです。なるほど国が外国人技能実習生を見殺しにするはずです。

しかし、恐ろしいほどの知性の崩壊を目の前に、この国の終わりが近いと感じます。日本がかつて敗戦した時、責任を取れるリーダーは一人もいなかった。破滅へ向かっていることをみな知りながら、それを止める力もなかった。権威が、権力が、正しく行使されなかったのです。今はその状況に似ている。お偉いさんたちが、私利私欲のことしか考えなくなり、弱い者たちを平気で見殺しにした結果、国ごと理性を失っているのです。私は一度労働関係の役所が企業と意を通じて徹底的に腐敗していることについて、記事をまとめてみたいですね。

ただし、こうした情勢を終わりに近付けるのも、私たち一人一人の努力で可能です。個人の力で様々な事柄を明るみに出せますし、それなりに是正することもできるのです。私が訴訟を提起したのは、まず法律の専門家としての肩書がなくとも、個人の力で物事をはっきりさせることに貢献できると示したかったから。法令順守の精神を、行政や役所が失った代わりに、個人が持ち続けることができると示したかったから。

私は弁護士でも法律家でもありませんが、法律に対する畏敬の念はあります。現行法が完全だとは言わない。しかし、今あるものを守ろうとしない人たちが、未来に向けて規則を制定してみたところで、これを守るはずがない。法律は義務も定めているが、私たちの自由の根源であり、存在を深い所で規定しているのです。

私は違反に対しては、裁判所の判決や行政による罰則の適用を求めると同時に、できるなら、もっと法律そのものに近づき、中へ入り込みたいという気持ちがあります。なぜなら、法それ自体が変わることによって、多くの人たちの生活が根本的に変わり、もっと解放される見込みがあるからです。法律家の観点とは異なる立場から、私は未来に向けての法整備に人生のどこかで関わりたい気持ちがあるのですね。そのための試行錯誤が現在であり、現行法の抜け穴や欠陥と言える部分についても学習を重ねているのです。

クリスチャンにとっての御言葉との一体化と、法との一体化はどこかしら似たものである気がします。法との一体化とは、つまり、 命令が私自身のうちですなわち実行となる時、約束された保障が値引きなしに実現される世界を私が求めているということです。

私たちは憲法で保障されている権利さえ、まだ値引きなしに自分の手にしたことがなく、多くの保障が絵に描いた餅で終わっているのです。その観点から見ますと、法体系からは、まだまだ汲み出せるものが無限にあると共に、法に保障された私たちの権利が実現しないように妨げている中間搾取者の排除も必要です。牧師階級からの信徒の自立が不可欠であるように、国民が肥大化した役所の助けを不可欠とする時代も終わりつつあるように思います。私たち自身が自立へ向かうことが肝要なのですね。

* * *

そして、以下は、6月20日に書いたもの。これは私が心から正しい、真実な裁きが欲しいと、そのために妥協なしに戦い抜くという決意を述べたものである。
 
私は当ブログを巡る第一審を担当してくれた裁判官にも、同じことを述べたのを覚えている。私は本当に正しい判決が欲しい、そのためなら、争いの決着までに、どんなに時間がかかっても構わないと述べたのだ。

聖書には、義に飢え渇いている者は幸いだ、その者は飽き足りるようになる、という一説がある。私はそれは私自身のことではないかと考えている。
 
私は真実な判決が下されることをどれほど待ち望んでいるだろう。そして、それが私一人だけでなく、多くの人を潤し、自由にするものとなることをどんなに心から願っているだろう。

地上の裁判官に判決を求めるというのは、確かにこの世の人々の判断を仰ぐことである。しかし、緻密な議論の積み上げがないのに、裁判官の人情や知性や人柄だけで、正しい判決を出せるわけではない。

一審では、担当裁判官から、書類が読み切れないとSOSが出されたことがあったのを思い出す。だが、私は、結果的に、書面を減らすどころか、もっと多くの書面を出さなければ、議論を尽くせなかったことを思う。

これは裁判官のせいではないし、実際には、私自身が、あの当時、それ以上の書面を出すことも、議論を尽くすこともできなかったのは確かであるから、当時は、それで良かったのである。
 
しかし、今になって思うと、私はその当時から、本気で戦っているつもりであったが、それでもまだ決意のほどが足りなかったことを思う。最後まで沈黙せず、裁判官を説得してしまうような主張を書き、足りない主張を補えば良かったのである。そのために、前進し続けなくてはいけなかった。

だが、その頃はまだ色々と見えていない事柄があり、争点も十分に理解し得ていない点があった。判決が下されて初めて新たな争点が浮上して来た。そういう意味で、まだまだ第一審は多くの改善点を残すものであったが、それがあればこそ、主張を補うのはやりがいがある。

これから先は、今まで以上に最後の一瞬まで真剣勝負をやめずに進んで行かねばならない。

* * *

どう言えばいいんでしょう、私は正しい裁きがほしい。死ぬほど正義の実現に飢えている。目先の利益じゃなく、私がいなくなった後も残る正しい裁きがこの地になされてほしいのです。私個人を越えた利益を得ること、多くの人たちがその恩恵にあずかることのてきるリーディングケースを打ち立てること、そのためにこそ身を呈して戦う価値があるのです。そのために一番、遠くて難しい道を行きたい。

アクロバティックな作業の前半が完遂しました。大量の書面を作成しました。それでブログが更新できなかったのですけど。これはまだ前半戦に過ぎません。でも、呪いが完全に吹っ切れたのが分かります。その呪いの半分は、つい最近、私を打ちのめそうと悪魔が考案した底意地の悪い決定と、どうしようもない役所への無意味な期待から来ていたように思います。

たとえば、当ブログを巡る一審は、警察の捜査がまだ何も進まないうちに終わらねばなりませんでした。その当時、警察には指一本期待できない状況で、捜査の進展に期待を寄せて、それが訴訟において強力な援護射撃になってくれることを期待していた私は、どれほど煮え湯を飲まされたか分かりません。それは本当につらい状況でしたが、でも、この時期、私は一人で戦い抜くことが必要だったんですね。

一審判決は、警察の手を借りて勝ち取ったものでは決していけなかったのです。私と主との二人三脚でなくてはならなかったのです。その段階が終わってからは、警察は心強い仲間のようになりました。今では、事件のために関わっているというより、人生相談みたいなこともやれるようになりました。以前には考えられないような展開です。たくさん有益なアドバイスももらっていますし、気づかされることもあります。かつての状態を考えると、ものすごい変わりようです。

今回、それと似たようなことが起きました。本当は役立ってもらわねばならなかったのに、どうしようもなく足手まといとなった役所が、さんざん私の書面の作成を邪魔し、私を滅多打ちにして苦しめましたが、結局、私はこの役所を振り切って、一人ですべての作業を完遂しました。最後の校正を終えた瞬間、「終わった!!」という解放感に包まれました。書面の効果のほどはまだ分かりませんが、主張というのは、霊的存在に対して宣言するものでもあるため、目に見える相手に届いておらずとも、内容が言い切られた時点で、すでに効力を発しているのです。

実は、反論の書面を書き続けることで、呪いを解除できるということを知っている人は少ないと思います。私は究極的に圧迫された状況でも、誰の手も借りず、自分の力だけで、最後まで自分の言うべき言葉を出し切らねばならないことを知らされています。どんなに大変でも、人の力を借りず、主と自分だけの努力によって勝利を掴まねばならないのです。

他人から受けた負の言葉、マイナスの宣告や、明白な呪いの言葉を跳ね返すのは、ものすごく困難かつ大変な作業ですが、そういう言葉を放置しておいてはなりません。やはり、納得のできない決定は、とことん追及して覆さねばなりません。それができるのは、しかし、主張対主張の対決をする時だけなのです。反論せねばならないのですよ。

悪魔は、キリスト者に大きな勝利がもたらされようとしている直前に、徹底的に打撃をもたらして来ることを、よく覚えて置かれると良いと思います。今回、私に痛烈な打撃を与えた悪だくみに満ちた決定がありますが、なぜこのようなものが、今の時期に出されたかと言うと、その先に大きな勝利が待っているからなのです。それを阻もうとして暗闇の勢力が仕組んだことです。諦めさせるために。主張を述べることを断念させるために。

私はそのことを予測していたからこそ、これに絶対に負けないで前進しようと決めて、自ら主張すべき事柄を一歩も退かずに書き続けました。ものすごく大変な作業でした。でも、一方的にやられっぱなしになっているのではなく、脱出のチャンスが近いからこそ、敵は意気阻喪させようとして来るのだということを知っていれば、困難だけに注目するのでなく、その向こうに、すぐ目の前に、目には見えないが、非常に大きな栄光と幸せに満ちたチャンスがぶら下がっていることが、予測できるはずです。真っ暗闇のトンネルを抜けるまで、あと一歩という地点が、一番攻撃が激しい地点なのです。

だから、呪いの預言なんか受けることがあったら、もしもあなたが敵から死にもの狂いの攻撃を受けることがあったなら、その一歩先に、大きな勝利があることを予測した方が良いと思いますよ。敵はあなたにそれを掴ませたくないから、祝福があることを決して信じさせないように仕向けているだけなのです。しかし、決めるのは、悪魔ではなく、あなた自身です。このように、「なぜ敵は今私を攻撃してきたのか」という問題を考えてみること、そして、「もうすぐ先に主が用意された出口があるのだ。勝利があるのだ」ということを予測し、彼らが妨害しようとしている祝福を、何としても諦めずに、絶対に邪魔されずにつかみ取ると決意することは有益です。

正直な話、私が通されている道の困難さ、苦しさについては、とても説明することはできません。これはあまりにも激しすぎる妨害で、私自身がこれほどまでに地獄の軍勢の徹底的な憎しみの前に立たされていることに、驚愕せざるを得ません。しかしながら、その中で、キリスト者は、すべてを主と自分との間で切り抜ける方法を学ばなければならないのです。誰の助けも借りることなく、誰をも当てにすることなく。主はそのすべてに対して勝利を与えうる方であることを信じ、何があっても、それを取り逃がすことなく、敵を上回る執念で勝利を追い続ける覚悟と姿勢が必要なのです。

徹底的な戦いを通され、勝利の秘訣を学ぶことが必要です。ある時期までは、なりふり構わぬ激しい戦いが続きます。何トンもの重荷に押しつぶされかかっているかのような状態で、自分の正常な意識さえ遠のき、すべての人に理解されないという感覚に陥ることもあるでしょう。しかし、敵を上回る執念で勝利を目指し続けねばなりません。そうしたら、必ず、戦いを抜ける時が来ます。呪いが解除されて、肩から荷が転げ落ち、解放されて、終わったと分かる時が来ます。それは平安が到来するから分かるのです。

圧迫は敵から来るものです。意気阻喪であれ、悲しみであれ、失意であれ、それは敵から来るものです。勝利を掴むためには、どれほど困難があっても、圧迫に立ち向かうことをやめてはなりません。全ての重荷を跳ね返さねばなりません。それには非常な困難が伴いますが、徹底して立ち向かう術を学ぶこと、それが訓練であり、学びなのです。

もしもあなたが嘘を言っているのでないならば、困難が伴っても、徹底的に真実を追及すれば、道は必ず開けます。ですから、語ることをやめてはなりません。真実な証言は、絶対にやめてはいけませんよ。絶対に人に遠慮して口をつぐんではいけません。相手がどれほど権威を持っていても、人間に過ぎない者は、恐れるに足りない。

私が目指しているのは、前にも書いた通り、私自身を超える利益なのです。私が自分を手放している以上、他の人々の利益にも、絶対にとらわれるわけにはいかない。とことん信じる道を突き進むしかないですね。 


* * * 

以上の文章に書いた通り、実は第一審が進行していた間、警察とは実に様々なやり取りがあり、手続きが遅々として進まないことに私は焦燥感を覚えていた。そのことは当時、書くわけにいかないと思い、こらえていたのだが、長大な時間を費やして、警察とは書類のやり取りをし、何とか早く事件を進めてもらいたいと幾度も懇願を重ねたものである。

ところが、判決が下り、しばらくしてから、警察との関係が以前と変わった。今は焦燥感もなければ、緊張関係もない。そして、この事件に限らず、様々な出来事について、私には見えていない多くの点について、たくさんの指摘をもらえるようにもなった。

警察官と接触していて思うことは、彼らはやはり数多くの悲惨な事件や事故の現場に立ち会ってきているためか、人の苦しみや悲しみを受け止める深い感受性がある、ということである。

それは、一概に同情や共感の能力が高いという意味ではなく、通常人が滅多に経験しないような出来事に遭遇して来ているので、普通の感覚では理解し得ないような様々な尋常ならぬ事件や、尋常ならぬ人々の性格を受け止める耐性があるということである。

だから、こういう人たちと話していると、普通の人たちからは得られない助言や、面白い気づきを得ることがある。とにかく事件を早く進めてもらいたいという焦燥感から解放された時に、私は彼らの言い分をとても面白く感じられるようになった。

私は伝えている、いつか、この事件に関わるすべてのことを、私自身が手放せるようになったとき、自然とあるべき結果が出されるだろうと。

何としても賠償金を回収したいとか、何としても犯人を有罪に追い込みたいといった気負いも、すべてが通り過ぎたその後で、何一つ自分の力で進めていないのに、自然と、あるべき結果が出る時が来るだろうと。そうなったときに、この事件は、自然と調和のとれた終わりが来るだろうと私は述べた。

私は正義の実現をあきらめるわけでは決してないし、約束された権利を手放すつもりもないし、罪に対してはふさわしい罰が伴うべきであるという考えを捨てるつもりもないが、ただそれを自分の力で実行しようとはせず、神に信頼して裁きを委ね、そして、必ずその裁きが実現することを信じるというスタンスを取るべきであると思い、これからもそうすることを決めたのである。

そういった結論は、警察官との会話の中で、得られたものであった。そこで、私は第一審の時に、警察が民事訴訟の助けにはあまりなってくれなかったことを、今は不満には思っていない。警察官を証人として呼ぼうとしたが、それも実現しなかったことにも、それなりの意味があると考えている。

ひとこと欄に書いた通り、私には誰の力も借りず、(主と)自分自身の力で敵の虚偽を跳ね返したと言える状況が必要だったのである。
 
さらに、以下は、その2日ほど前に掲載したもの。これはとても残酷な言葉を突きつけられ、まるでどん底に突き落とされたように困難を感じる状況の中で、立ち上がる決意を決めて書いたものである。

これまで、多くの人たちが、残忍な行為に加担するのを見て来た。私はその度毎にショックを受けて、人の心の頼りなさを思わされた。しかし、この先、周りにいる人たちが善良な人々であるか、それとも悪人であるか、ということに一切煩わされまい、と決意したのである。

言ってみれば、想像を絶するような悪人に遭遇することがあっても、人間とはもともとそういうものであって、神が介在されない限り、みなこの罪深い状態が出発点なのだというところに立ち、物事のひどい状況に目を留めず、あくまで主を見上げて進んで行きたいと願ったのである。

そして、たとえ今まで私をとりまいていた善良な人たちや、恵まれた環境条件などが、一切、なくなったように見える時でも、主が私の解決であることを見て、環境の変化に煩わされることなく、進んで行こうとの決意を述べたのである。

* * *

良い人たちと出会わせて下さるのも主。しかし、それだけに決して頼らないこと。 運の良さや、周りの人たちの善良さ誠実さに期待して、それによりすがって物事を進めようと思わないことが肝心。たとえ周りに誠実で良い人たちが絶え果てたとしても、それでも信念に基づいて物事を進めて行く努力をやめないことです。

私は真っ暗闇の中を通される時にも、主が私の足の灯であるということを考えさせられます。
これほど暗闇が深くなった時代もないと思いますが、それでも、神は必ずご自分を求める者に、
応えて下さる方であることを信じることに変わりはありません。

知っていますよ、良い人たちは存在していること。でも、私は人間に栄光を帰したくないのです。たまたま条件が揃っていたから物事がうまくいったと思われたくないのです。たとえ完全な
闇が周りを取り巻いている時でも、私は神以外の助けなしにその状況を打開できることをきちんと証明してみせたいのです。

だから、金輪際、周りの人たちの善良さを評価し、彼らに栄光を帰することはいたしますまい。
目に見える人間の歓心をどう買ったか、とか、どう上手く立ち回り、人の心を得、誤解されたり、 敵対されないように歩んだか、ではなく、主と私との二人三脚、誰にも知られないところでのひそやかな祈りと語らいがすべての物事を決定し、左右して行くことを私は確信している。
人の心も、状況も、何もかも主が掴んでおられること、神にあって、私はすべてを動かすことが
できることを決して忘れることはありません。暗闇は打破されるでしょう。 

女性の弱点は、自分が引き裂かれることに耐えられないことにあるんですよ。 男性は打たれても耐える力がある(例外もいますが)。基本的に美に執着しない。プライドを折られても、その痛み苦しみを自分で黙って負うことができる。しかし、女性の90%は、私が知っている限り、栄光と美を失うことに耐えられません。そして、苦しみを自分一人で負う力がない。女性が年がら年中、愚痴ばかり言っているというのは本当のこと。自分一人で苦しみを負えない生き物だからです。

しかし、私は女性もそういう弱さは脱却する必要があると思います。そのためには、ある意味、女性も墓の向こうまで行く必要がある。手放すものが何もないという境地まで。そして、そこまで行っても、まだ尊厳を保って生きられるところをきちんと証明する必要がある。

女性の中には、残念ですが、優秀な人はとても少ない。でも、いないわけじゃない。私自身、その少ない人たちに出会って来た経験はあります。そして私は女性の中に優秀な人が少ないのは、守られるのが当たり前の世界で生きているからだと、そして、自己の尊厳を失うことに男性よりもはるかに弱いからではないかという気がしてなりません。私はそれとは別の道を行きたいのです。本当に困難な道を、弱くとも、並大抵の強い人が通らないような道をあえて行きたいのですね・・・。

そして、そのためには、やっぱり、自己の美と栄光とを徹底的に死に渡すことがどうしても
必要ではないかという気がするのです。

男女を問わず、「私は正義のために命がけで戦っている」なんて軽はずみに言う人たちがいますが、 試金石は、自分を捨てられるかどうかでしょう。自己の栄光と美を、正義の実現と引き換えに、 一体、どれくらい犠牲にすることができるのか、そこだと思いますよ。1ミリたりとも自分を手放さないまま、正義など唱えても、むなしいだけなのです。しかしそれは結局、自分が踏みにじられたり、誤解されたり、讒言されたり、傷つけられたりすることを、どれくらい耐え忍ぶことができるかという問題に直結するわけです・・・。

だから、私は何度でも言います、神の正義と真実は、私のこの身とは引き換えにならない価値があると。それは私の価値を何倍も超える、比べられない価値であると。だから、私は自分をそのために投げ打つことを惜しいとは思わないし、自分自身の名誉、評判、権利、利益がそのために傷つけられることを全く惜しまないと。

どうぞ、傷つけたいなら、好きなだけ傷つけなさいな。でも、私が選ぶのは、常に「私ではなくキリスト」なのです。その選択がある時に、初めてキリストと共に私も死を経て、生かされるわけですね。私も守られるのです。その勝利を私は知っているし、信じているのです。 これは通常の女たちにはない絶大な防御ですよ。

でも、女性であっても、その価値が分かる人はいると思います。

*  * *

そして、以上に書いた通り、実際に、女性であっても、自分自身を超えた正義の実現のために、自分を捧げることの価値が分かる人は必ずいるのだ!ということが判明した。

やはり、思った通りになった。たとえ優秀な人が数少なくとも、女性の中にも、当然ながら、優れた資質を持つ人たちが存在するのである。
 
キリストの系譜には、貧しく弱く見捨てられた女性たちがたくさん登場している。そのような女性たちに、神は目を留めて下さり、彼女たちを重宝された。見た目の優秀さではなく、多くの苦難を経験し、心を打ち砕かれて、へりくだって、神の御言葉に真実に従った女性たちを、主は重んじられた。その原則は、多分、今日も変わらないと考える。

だから、私はやはり、「私ではなくキリスト」、十字架の死に自分を渡したいと願う。

以下は、さらに少し前に、神の御前で自立するという決意を述べたもの。自分よりも強い者たちに頼らず、誰の力によっても支えられず、自分で信じるところに従って、主と自分との力ですべての苦境をくりぬけようと決意したもの。

* * *

さて、これまでは私も未熟だったので、他人に守ってもらったり、かばってもらったりということも時折はあった。しかし、一人前になるためには、独り立ちせねばならない。真に自分の実力だけで歩いて行かねばならないと痛感。そして、誰もを納得させねばならない。しかし、それは可能であるということも、これまでの経験上、分かった。
そのためのポイントは最も難しい道を行くこと。敵は常に口を封じようとする。しかし、語りなさい。語りやめないで、 勇気を持って証しを続けなさい。重要なのは、サポートしてくれる人がいるかいないかではなく、主にあって、自分自身の中にある霊的中心性を手放さないこと・・・。

いいですか、考えられる限り、一番困難な道を行きなさい。人に誤解されることも、嘲られることも、 踏みにじられることも、見捨てられることも、讒言されることも、疑われることも、中傷されることも、 何もかも覚悟し、すべての重荷を負って、他の誰よりも著しく困難な道を行けば、必ず、見ている人は、 すべてそれが冗談でもなければ、私怨でもなく、信念から出た行動であることをやがて確信せざるを得なくなる。
しかし、その荷は私が自分で背負うのではなく、主が負って下さる荷。だから、人が負わせる荷に比べれば軽いのです。

私はこの先、他人の善良さにはもう期待しないでしょう。周りにいる人がたまたま良い人で、
理解と思いやりがあるから、その人にサポートしてもらえたおかげで、運よく何かが好転した
などと決して思われたくない。松葉杖を一切捨てて、自分自身で歩いて行かねばならないし、
そうする時に初めて、自己の尊厳が着いて来るわけです。私は本当にすべてのことの手柄を
自分だけのものにしておきたい。それは自分を誇るためではなく、もはや誰にも中間搾取を
されないためなのです。 
 
* * *

さらに、最後にレジ袋無償化について。実はこのひとこと欄をもとに記事を書きかけていたので、以下に掲載しておく。

* * *

レジ袋無償配布禁止が来年4月からまことしやかに実施されるかのように報道。法整備もなされていないうちから、まるで既定路線のごとく、反対を封じ込め、国民を諦めさせようとしている。ここまで全国津々浦々のスーパーに至るまでの民間企業のサービスに国が介入するなんて、もはや社会主義国ですね!! これ、どこから始まったか知ってます? 環境省のマイバッグ運動。

要するに、プラスチックごみを減らし海洋汚染を防ぐためにレジ袋を規制するという口実なわけ。しかし、プラごみ全体の中でレジ袋が占める割合など全く証明もされていないほど微々たるもの。レジ袋の中にもプラスチック原料でないものがある。天然素材のものまで禁止するのはおかしい。それなのに、一網打尽に無償配布を禁止しようとしていることの恐ろしさ。違うでしょ、プラスチック由来のゴミ袋だけを禁止しないと、環境汚染を止めるという口実さえ成り立たないのに。理屈がおかしい。こうして、産業ゴミには規制をかけず、国民の負担になることばかり実施。それを環境のためと偽る。

かつてのマイバッグ運動は国民に強制できないとして法制局で頓挫した。今回は前回の教訓もかえりみず、法制局まで巻き込んで、強引に無理やり押し通そうとしている。そういうことをすれば、大手スーパーは打撃を受けず、中小零細の店がつぶれ、ますますシャッター街が増えるだけ。

私から見れば、これ、国家総動員体制の復活の始まりね。そのうち、買い物袋持参の上、配給の列に並ばせ、鍋や釜も全部出せって話になっていくのでは。東京オリンピックを前に、心の国家総動員体制を敷きたいだけなんですよ。今考えるべきは、除染した土をどこに埋めるかという問題であって、レジ袋の有料化じゃない!!呪われたオリンピック・・・。

でも、まことしやかに報道している割には、実際には、プラごみ由来ではないレジ袋の無償配布まで禁止する法的根拠が本当にないんですよね。無償配布したから、汚染が拡大するという因果関係も立証されてない。こんな滅茶苦茶な法律は通せないし、通ったらもはや世も末と思います。だって、無償配布が害になるという因果関係の証明がない限り、禁止する根拠がないんですから。法制局がどう出るかですよね。

もしレジ袋の無償配布が禁止できるなら、この先、何だって禁止できますよ。ホームレスへの炊き出しだって無償配布ですし、駅前でのポケットティッシュの無償配布だって同じ、理屈さえあれば、何だって禁止できることになりますよ。小さく産んで大きく育てる式に、レジ袋はほんのとっかかりで、次々と無償配布が禁止に・・・。多分、そこが狙いなんだと。国民生活はますます不自由と窮乏へ向かう。まさに恐るべき時代が到来しつつある・・・。

「産めよ、増えよ、地に満ちよ」vs.「産むな、増やすな、地から絶え果てよ」

* * *


レジ袋無償配布禁止が来年4月から実施されるなどという報道がまことしやかに飛び交っている。法整備もなされていないうちから、まるで既定路線と言わんばかりだ。

こうして盛んに報道発表することで、反対を封じ込めようとしている気配がありありと感じられる。だが、国がここまで全国津々浦々のスーパーに至るまでの民間企業のサービスに介入するなど、もはや社会主義国ではないかという印象だ。
  
要するに、プラスチックごみを減らし、海洋汚染を防ぐためにレジ袋を規制するというのが口実なのだが、プラごみ全体の中で、レジ袋が占める割合など、全く証明もされていないほど微々たるもののはずだ。

しかも、レジ袋の中にもプラスチック原料でないものがある。



画像:海洋汚染をなげくサーファーが作った「飲めるプラスチック」とは?

プラスチック製のゴミ袋だけを禁止しないと、環境汚染を止めるという口実さえ成り立たないのに。天然素材のものまで含め、無償配布を禁止するというのは、理屈がおかしいではないか。

しかも、こうして、産業ゴミには規制をかけず、国民の負担になることばかり実施。それを環境のためと偽る。

これはかつてのマイバッグ運動の焼き増しのようなものらしいが、かつて環境省はマイバッグ運動を法制化して国民に義務づけようとしたが、そこまで国民の選択を強制できないとして、法制局で頓挫したそうだ。

ところが、今回は前回の教訓もかえりみず、来年4月から必ず実施してやると、大臣らが叫び、法制局まで巻き込んで、強引に無理やり押し通そうとしている気配が感じられる。だが、そういうことをすれば、大手スーパーは打撃を受けない代わりに、中小零細の店がつぶれ、ますますシャッター街が増えるだけではないか。

以下の記事を見ると、インドではスーパーのビニール袋を禁止したが、法律は死文化しているというから、日本でも、強引に押し通したとしても、この法律の先行きは暗そうだという気がしてならない。

インドのスタートアップ企業、100%生分解性の「食べられるビニール袋」を開発」

インドでは増え続けるゴミ対策の一環としてスーパーのビニール袋は所持、使用、補完しているだけで最大19万円の罰金となる違法な物質とされました。正直なところ多くの場所でほぼ死文化している法律とはいえ違法は違法であり、賄賂目当ての悪徳警官にとっても格好の口実となります。
EnviGreen創始者である25歳のAshwath Hedgeさんはこの法律によって悩まされている人に新たな選択肢をと考え、この製品を開発しました。Hedgeさんは4年の再悦を掛けて多くの材料を研究、実験してきました。」
 
無償配布を一網打尽にしようとしているのは、有償化することによって、電話のユニバーサルサービス料のように、環境税のようなものをもうけて、政府の新たな財源にすることが狙いだからなのか。

だが、筆者から見れば、そもそもこはれ、国家総動員体制の復活の始まりだ。この政府は、東京オリンピックを前に、国民生活を統制し、心の国家総動員体制を敷きたいだけなのだ。

そのうち、買い物袋持参の上、配給の列に並ばせ、鍋や釜も全部出せという世の中に逆戻りするのではという悪寒がしてならない。今考えるべきは、除染した土をどこに埋めるかという問題であって、レジ袋の有料化ではないだろうに。

プラスチック由来かどうかも確かめず、レジ袋の無償配布を禁止したからと言って、汚染が縮小するなどという因果関係を、誰も立証できるはずがない。なのに、こんな滅茶苦茶な法律が通るようであれば、世も末だ。

レジ袋の無償配布を禁止ししたからと言って、プラスチックごみが減らないとなると、第二、第三の規制が法制化される可能性がある。

また、レジ袋の無償配布を禁止にできるなら、それを皮切りにして、この先、何でも禁止できる。ホームレスへの路上の炊き出しも禁止、駅前でのポケットティッシュの配布も禁止。チラシの配布も禁止。理屈さえあれば、小さく産んで大きく育てる式に、次々と無償配布を禁止にできる・・・。

多分、そこが狙いなのではないのと筆者は考えている。国民生活をますます不自由と窮乏へ向かわせるための策が練られているに過ぎない。さに恐るべき時代が到来しつつある・・・。

「産めよ、増えよ、地に満ちよ」vs.「産むな、増やすな、地から絶え果てよ」

* * *

以下は、誤解しないでもらいたいが、当ブログを巡る訴訟そのものを指すものではなく、その書面を置き去りにしてまで、当時、真剣に取り組んでいた別の問題のことである。

当時、裁判記録の捏造とか、証言の偽造といった問題を考慮していた。なりすましとは、裁判所で作られた不正な記録のことである。

裁判所で作られた判決は、基本的に、裁判所を出ないので(当事者がもらうものはコピー)、判決でさえ偽造されるという事件は過去にも起きている。

以前は、そんな問題については、考えてみることさえなかったが、そういう事件を防ぐためには、やはり、すべてを光のもとにさらすことが不可欠だと、私は考えるようになった。

訴訟とは、原則的に公開の手続きであるから、裁判官も、滅多なことでは、不正な判決など出せない。市民が見ているからだ。当事者も、裁判官も、自分たちは市民の目にさらされているという緊張に包まれている。だから、誰もが襟を正さねばならない。そこが、訴訟の強みでもある。

訴訟に限らず、隠れたところで物事を論じるのではなく、公の光のもとに出すことは有益だ。当ブログに過去に掲載したある人物の陳述書も、こうして公開の場に持ち出すことによって、本人の人柄、また、これを信じる人の人柄に光を当てることができたと私は考えている。

あの陳述書の内容を信じるとすれば、信じる人もそのレベルだということが証明されるだけである。

このように、怪しげな内容のものは、どんなものであれ、光の下に公然とさらすことで、その悪しき効果は半減する。そして、やはり記録が公開される訴訟というのは、ブログなどには比べものにもならない重さを持っているし、そうであればこそ、そこで話し合われる内容、下される決定には、相当な意味があるものと思う。

そういう意味で、私は仮に裁判所で不正が行われるようなことがあったとしても、それでも、裁判所が持つ権威を否定するつもりには全くならないし、訴訟や、法的手続きに対して持っている一種の畏敬の念を失うこともないだろうと思う。
  
偽造すなわちなりすましの問題については、虚偽は虚偽であることを、オリジナルとの対比によって、公然と示すことが、何より必要である。そういうわけで、「なりすまし」問題を訴えるに当たり、オリジナルを掲載しておくことが有益と考えればこそ、ひとこと欄をこの記事にまとめた。
 
* * *

アクロバティックな方法ですが、主張書面を作り上げています。記事を止めているのは、他に書き上げねばならない書類があるためで、全部を仕上げるのに、そう時間はかからないでしょう。「語らせない」「沈黙させる」「口を封じる」この流れに、全力で対抗せねばなりません。さらに「なりすましによって他人の言葉を奪う」人たちにも、全力で抵抗せねばなりません。しかし、同時に、議論を終えなければならない時を、見間違えてもいけない。いつまでも果てしなく語れば良いというものでもないのです。

それにしても、物事を公開するインパクトは大きいですよ。嫌がらせはいつも隠れたところで行われますので、その事実をそっくりそのまま、公開してあげれば良いのです。保全事件はすべて非公開。だからこそ、暗闇の中で、彼らにはやりたい放題のことができる。むろん、すべての裁判所の保全係がヘンなわけではない。多分、横浜だけでしょう。ですから、電話の録音も、決定文書も、証拠も、全部、公開の場所に引き出して、裁きに委ねましょう。そうすれば、氷が解けるようにその効果も消えて行くと思います。本当に、嫌がらせって、本人にしか分からないようにやるからこそ、いつまでも続けられるんですよ。掲示板もそうだけど、社会からの非難が集中するところに持ち出せば、辞めざるを得なくなる。

ウソの情報を信じて広めると、広めた人が罪に問われるんですね。誰かさんの陳述書とかも同じで、他人の発言を根拠にして発言するときってよほど注意しなくてはいけない。

なりすましの法則。これを警戒せねばならない。少し前までは身近な人の裏切りや讒言が問題となっていましたが、今は何気なく近づく人たちのなりすましによる簒奪。次は思いがその人自身を奪取するという問題か。なりすましは主従関係の逆転です。この逆転した関係を覆して元に戻す必要があるわけです。

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まだまだ仕事が山積みのため、ブログ記事の更新はスローペースとなるが、それでも、やはり、主の恵みを語り続けることは有益であるがゆえ、口を閉ざすわけには行かない。

私たちの主は、最も困難な瞬間に、力強く共にいて下さる方である。そして、義に飢え渇き、神の正しい御言葉に合致する、正義の判決が欲しいと願い続けている私を、決して置きざりにしては行かれないだろうと信じている。

私は、私がこの地上から取り去られた後も、ずっと世に残り続け、多くの人たちを不自由や圧迫から解放することのできる裁きを求めている。そのためにならば、長い時間をかけて犠牲を耐える価値があると思っている。

だが、その原則は全てに共通する。朽ちる卑しいものから、朽ちない尊い永遠に残る収穫を生み出すためにこそ、我々は日夜、奮闘し続けている。そして、私たちを生かしていることば――正しい掟――の実現のためならば、目に見える地上の存在としての自分をなげうっても構わないと思うほど、私はこれを尊重している。

それは、聖書の御言葉への畏敬の念に基づくクリスチャンとしての当然の信念であると同時に、私自身の中では、この世の法に対しても、似たような畏敬の念となって表れている。私たちが求めているのは、この世の目に見える世界に、正しい掟が適用され、命令と実行が一つになる世界であり、私たち自身が、主なる神の御言葉と一つとなって、その約束の実現の中を生きる時である。それはまだ完全な実現を見てはいないが、私たちは飽くことなくその実現の日を待ち望んでいる。主の御言葉が、私たち自身をとらわれの状態から完全に解放してくれるその時を――。

だから、私たちは告白する、信じます、いつか必ず、そのようになることを。お言葉通り、僕の身になりますようにと。

「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」

申命記30章1~20節から

わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに臨み、あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、

あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、

あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。

たとえ天の果てに追いやられたとしても、あなたの神、主はあなたを集め、そこから連れ戻される。

あなたの神、主は、かつてあなたの先祖のものであった土地にあなたを導き入れ、これを得させ、幸いにし、あなたの数を先祖よりも増やされる。

あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる。

あなたの敵とあなたを憎み迫害する者にはあなたの神、主はこれらの呪いの誓いをことごとく降りかからせられる。

あなたは立ち帰って主の御声に聞き従い、わたしが今日命じる戒めをすべて行うようになる。

あなたの神、主は、あなたの手の業すべてに豊かな恵みを与え、あなたの身から生まれる子、家畜の産むもの、土地の実りを増し加えてくださる。主はあなたの先祖たちの繁栄を喜びとされたように、再びあなたの繁栄を喜びとされる。

あなたが、あなたの神、主の御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主に立ち帰るからである。

わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。

それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。

海のかなたにあるものでもないから、「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。

御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。

見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。

わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。

もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるならば、

わたしは今日、あなたたちに宣言する。あなたたちは必ず滅びる。ヨルダン川を渡り、入って行って得る土地で、長く生きることはない。

わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、

あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命であり、あなたは長く生きて、主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地に住むことができる。
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村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(29)―彼のものは一切、債権者に奪われ 働きの実りは他国人に略奪されるように。

本日、筆者の中で何かの一線を超える出来事があった。筆者の中でいよいよ堪忍袋の緒が切れたのである。

杉本が筆者の用意した供託書の内容では供託ができず、自分には債権債務はないと告げ、債務を支払うつもりもないのに、直接、口座間でやり取りをする必要性があるかのように告げて来てから、筆者は二度と杉本には返信しないことを決意していた。

支払いの意思を示さない人間に個人情報など伝える必要は全くない。そして、供託書は最後の温情であるから、これに従わないのであれば、筆者の側からは一切の救済措置はない。

筆者は今日になって、もうこれ以上、被告らにいかなる発言の機会をも与えてはいけないこと、彼らにお伺いなど絶対に立ててはならないことを理解した。

杉本はただ単に賠償金の支払いを拒んでいるだけではない。そもそも彼は負けを認めておらず、この紛争は、どちらか一方の陣営が、完全に社会的に抹殺されるまでずっと続くことであろう。

これは激しい霊的戦いであって、通常の紛争とはわけが違う。筆者が人間としての情けから、敵に猶予を与えれば、自分が死に直面することになるだけだと分かったのである。

裁判官の与えてくれた判決は、被告の意志次第で変更できるようなものではない。ところが、取立という名目で、筆者が被告に接触すれば、被告はその機を最大限に利用して、自分にとって都合の良い言い訳をひたすら並べ、筆者を自分の要求に従わせようとして来る。あわよくば、判決内容さえを自分に都合よく変えようとして来る。

そこで、これ以上、筆者は敵の意思を問うたり、敵に猶予を与えることをしてはならず、そのようなことは、筆者の尊厳をいたく傷つけ、筆者に死以外の何物ももたらさない行為だと理解した。

ところで、先の記事の中で、筆者は訴訟において提出する準備書面は、裁判官に宛てたラブレターのようなものだと書いた。だが、このことを、筆者は訴訟が始まった時からすぐに自覚していたわけではない。

そもそも紛争などというものには、当事者でさえ、積極的に関わりたいとは願っていないので、裁判が始まった頃の筆者には、裁判所の人々が最初から身近な人々に見えていたわけではない。むしろ、できるだけ早く決着をつけて、この事件の関係者とは関わらなくて済む日が来るのが、皆にとって最善だと考えていた。
 
また、被告らとはつきあいが長かったので、当初は、裁判所の人々よりも、被告の方がリアリティを持つ存在のように見えていたほどである。持ち前のお人好しさや人間的な甘さから、筆者はこの訴訟の途中で、被告らが何とかして自分の行動の誤りを悟り、良心の呵責を覚えて、少しでも生き方を改めてくれるのではないかといった楽観をも持っていた。
 
だから、筆者は書面を通して被告らに語り掛けようと試みた。被告らに対する厳しい叱責と非難と忠告の言葉を並べながらも、それが筆者から彼らに向けた真心のこもった「ラブレター」だと述べたことさえあった。

ところが、その関係が、裁判の途中で逆転して行った。筆者は書面を通して語りかけねばならない相手は、被告ではなく、裁判官であることに気づいた。口頭弁論の最中、ほとんど何も発言しない裁判官であったが、彼にははっきりと自らの判断があり、考えがあり、計画があり、筆者を守ろうという思いがあることが分かり、この人に判断を委ねなければならないということに気づき始めた。

そこで、書面を提出する目的も、被告の主張を論破することが第一義的課題であってはならないと途中で気づいたのである。

これは極めて、本当に極めて重要な気づきであった。だが、残念なことに、その気づきは長くは続かず、一審の最後の口頭弁論が終わり、裁判官に宛てて書面を書くこともなくなって以後、筆者はまたしても、被告との差し向かいの牢獄に閉じ込められ、その上、掲示板の嵐のような誹謗中傷が追い打ちをかけた。

筆者は、心を圧迫され、どこにも助けを求めようのない、出口のない状態に置かれ、頭を抱えて嵐が過ぎ去るのを待つ人のように、自力でそれに耐える以外には、何ら方法のない受け身の状態に置かれたかのようであった。

唯一できることは、ただひたすら彼らの嘘を論破することだけであった。

一審判決の言い渡しが、筆者にとって大きな緊張を伴うものであったのは、ただ単に、それが事件の真の終わりにならないという予感が伴ったためだけではない。ようやく築き上げられた裁判官との信頼関係が断ち切れれば、筆者はその後、誰に向かって、何を訴えれば良いのか分からなかったためでもある。

実際、一審判決言い渡し後、賠償金を取立てるためには、筆者は自ら被告に接触する以外に方法がないという状況に置かれた。

これはまさに地獄のような状態への逆戻りであったと言える。だが、その状態にも二審を前に、いよいよ新たな体制が組まれ、書面の送り先も決まり、手続きが開始してから、終止符が打たれた。

筆者には、自分の主張をこれから誰に向けて提示すべきかが見えて来たので、ようやく自分の陥れられていた恐るべき密室状態に、風穴を開けることができたのである。

そこから、脱出口が見えて来た。筆者は、もうこれ以上、取り合う価値のない被告らのごたく(控訴審では被控訴人だが、あえて被告としておく)に注意を向けたり、彼らにお伺いを立てたり、彼らに眼差しを注いだりしなくて良いことが分かった。

見るべき人を見、掴むべき目的を見失わないようにしなければならない。

筆者はまだ二審を担当する3名の裁判官に会ったこともないが、全身全霊のSOSと共に、この人々のもとに駆けこまねばならない。そして、わき目も降らず、彼らの与えてくれる判決をつかみ取り、それを抱えたまま、まっしぐらに前に走り、二度と絶対に被告らの方を振り返ってはいけないし、彼らに発言の機会を与えてもならないということを理解した。

まだ審理が始まってもいないうちから、それが分かった。被告らを振り切り、なおかつ、彼らを合法的に二度と追って来られない場所へ追いやらねばならないのだと。モーセの率いる民とエジプト軍が、紅海で隔てられたようなエクソダスである。

それが明白に分かった時、紛争はまだ続いているが、同時に終わっていること、これを終わらせるのは、筆者自身の意思と決断によることも分かった。

そういうわけで、本日、筆者の前には、二つの手続きが目の前に置かれていた。命につながる手続きと、死につながる手続きとである。死につながる手続きとは、筆者が被告の意思を問うもので、この手続きは、筆者を再び牢獄へ連れ戻そうと、残酷な本性を発揮して、筆者を思い切り打ちのめし、痛めつけた。だが、筆者は獄屋の刑吏の手から逃れるように、そこから逃げ出し、命につながる手続きを掴んだ。

死につながる手続きは、あらん限りの力で、筆者の前進を妨げようとしたが、命につながる手続きは、すべてぎりぎりのところで予定通り達成された。

夜になって、高裁に宛てて申請書を出すために、郵便局の夜間受付窓口へ走った。右折車線に並ぶために車線変更しようとしたが、入れてもらえなかったので、仕方がなく直進し、Uターンして左折すると、筆者を入れてくれなかった行列がまだ停車しているうちに、目的の道へ進むことができた。

こういうものなのだなと思った。これ以上、開かない扉を叩き続けてはならない。遅々として進まない行列に入れてもらおうとしてはいけない。むしろ、遠回りに見えても、青信号に向かってまっすぐ走りなさい。その方がはるかに早く目的地に着けるだろう。

そういうわけで、筆者は、一見、遠回りに見えても、被告の意思を問わず、各種の手続きを次々と実施することにしたのである。

これが命へつながる手続きである。その手続きには、誰一人、反対する者もなければ、滞らせる者もなかった。筆者は時刻ぎりぎりで駆け回っていたが、何もかもが予定通りに達成された。それを見たとき、改めて、これがゴーサインで――神の御思いは、きっとここにあるのだろうという気がした。

筆者の脳裏に、以下の詩編の御言葉が思い起こされる。

特定の人間に向けるには、あまりに残酷すぎるように思われるダビデの言葉である。多くの信者たちは、この御言葉を読んで、さすがのダビデも、私怨には打ち勝てなかったとか、悔しさがにじみ出ている――などと思うかも知れない。これはダビデの神へ向けた愚痴だと言う人もあるかも知れない。

だが、筆者はそうは思わない。これはダビデが聖徒らの代表として、霊的な敵に向けたふさわしい宣告なのである。

聖書には、サタンに対する厳しい裁きの宣告は、あちこちで語られているが、それはあくまで神のなさるわざであり、信仰者個人が、ここまで容赦のない宣告を敵に向けた箇所は、聖書の他の場所では、そうあまり多くは見られない。

だが、筆者は、これは比喩でなく、暗闇の勢力に真実、発せられねばならない当然の宣告であることを思う。

人々は以下の詩編を「呪いの言葉」と理解するかも知れないが、ダビデは、ここで、敵の発した呪いの言葉を、敵に向かって返しているだけである。

ここでダビデは、彼を絶え間なく悩ませ、神と聖徒らに敵対する者たちに、太刀打ちできない敵対者が起こされるように、彼らが裁きによって罪に定められ、祈りが聞かれないようにと願っている。

さらに、彼らの地位が取り上げられ、家が取り上げられて、彼らのすべての財産が債権者に取り上げられ、働いても、働いても、その実りはすべて他人のものとなり、家族が路頭に迷い、極貧の状態に落ち込み、子孫が絶え果て、ついには地上から彼らの名が消し去られるように、と願っている。

すさまじい宣告に聞こえるかも知れないが、筆者は、これは何ら行き過ぎた宣告でもなく、不適切な内容でもなく、ただ単に峻厳な霊的事実を告げたものに過ぎないと思う。

これは暗闇の勢力に対する極めて妥当な宣告なのだということが、今ならば、はっきりと分かる。

筆者が誰かの身の上にこのような事柄が成就することを望んだのではない。筆者は幾度も、幾度も、敵にチャンスを与えたにも関わらず、彼らが自ら悔い改めの機会を拒みながら、筆者の情けを嘲り、破滅へ向かって走っているのである。

そこで、筆者は彼らの発した呪いの言葉を、ダビデと同じように、彼ら自身に跳ね返すと同時に、慰め主なる方のもとへ向かって一目散に逃げ込む。

神よ、あなたはこの状況を御存じです。私たち聖徒らがどれほど侮られ、嘲られ、助けない状況に置かれて、踏みにじられて来たか、あなたはすべてご存じです。報復なさる方よ、公正で真実で人を偏りみない方よ、私はあなたに裁きを委ねます。どうか敵に対して、あなたの正しい宣告を、あなたの容赦のない裁きの宣告を発していただきたいのです。そして、あなたが私たちに与えて下さった救いの確かさと、あなたの愛の大きさを、今一度、私たちに見せていただきたいのです。

私たちは、あなたを信頼しています。どのような状況にあっても、あなたが正しい方であり、私たちを苦難の中に見捨てておかれない方であることを知っています。

* * *
 
「彼に対して逆らう者を置き
 彼の右には敵対者を断たせてください。
 裁かれて、神に逆らう者とされますように。
 祈っても、罪に定められますように。

 彼の生涯は短くされ
 地位は他人に取り上げられ
 子らはみなしごとなり
 妻はやもめとなるがよい。

 子らは放浪して物乞いをするがよい。
 廃墟となったその家を離れ
 助けを求め歩くがよい。

 彼のものは一切、債権者に奪われ
 働きの実りは他国人に略奪されるように。

 慈しみを示し続ける者もいなくなり
   みなしごとなった彼の子らを
 憐れむ者もなくなるように。

 子孫は断たれ
 次の代には彼らの名も消されるように。
 主が彼の父祖の悪をお忘れにならぬように。

 母の罪も消されることがないように。
 その悪と罪は常に主の御前にとどめられ
 その名は地上から断たれるように。

 彼は慈しみの業を行うことに心を留めず
 貧しく乏しい人々
 心の挫けた人々を死に追いやった。

 彼は呪うことを好んだのだから
 呪いは彼自身に返るように。

 祝福することを望まなかったのだから
 祝福は遠ざかるように。

 呪いを衣として身にまとうがよい。
 呪いが水のように彼のはらわたに
 油のように彼の骨に染み通るように。

 呪いが彼のまとう衣となり

 常に締める帯となるように。

 わたしに敵意を抱く者に対して
 わたしの魂をさいなもうと語る者に対して
 主はこのように報いられる。」(詩編109:6-20)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(26)―神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。

「あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたはささいな事件すら裁く力がないのですか。わたしたちが天使さえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。

それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。

なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通をする者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を植えkÞぐことができません。

あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。」(一コリント6:1-11)
 
最近、掲示板での誹謗中傷もすっかり影をひそめた。そして、村上のブログからも、筆者をあからさまに断罪し、勝訴を誇る以前のような記述が消えた。

さすがに、杉本に対する取り調べが行われると分かり、掲示板でも、個人を特定して責任追及がなされることが予告され、掲示板の投稿者らも、危ないと理解したのであろう。そして、村上には二審で不利な証拠が積み上がっている。一審の時と同じようにはならない。

週明けから、杉本に対する新たな差押の準備を進めていたところ、またしても日曜日に杉本が筆者にメールを送り付け、そこで筆者の取立が迷惑行為であるとか、脅迫、恐喝であるなどと騒ぎ立て、支払いに応じる姿勢も全く見せず、何と控訴しているとまで書いていた。

相変わらず、自分に都合の良い言い訳だけを一方的に並べ、自分を振り返ってもらうためだけに他人に接触する行動パターンは何一つ変わらない。しかしながら、筆者が犯してもいない罪を犯しているかのように触れ回れば、それは新たな名誉毀損行為に該当する。

判決で削除を命じられたブログ記事の多くを5月になるまで削除せず(現在、非開示にしているだけなのかも不明)、コメントも改ざんしただけで、完全に削除もせず、賠償命令に逆らい、もはや、争うべき事実もほとんどないのに、判決を不服として控訴しても、受理される見込みは低いだろうと筆者は予想する。

杉本が一審で出して来た怪文書のような文書は事件ファイルにおさめられている。そのような内容の文書にこれ以上、目を通すことには、誰にも合理性が見いだせない。一審で反訴を言い立て、ついには裁判官に職権で拒否すると言われた悪印象もある。判決を不服とする控訴はそれ自体が非常に印象が悪く、控訴審では一審以上に反訴が難しいので、そのための保険にするつもりか、あるいは報復のためだけの控訴なら、ますます印象を悪くするだけで、容易には受け入れられないであろう。

筆者も、控訴する時には、この点に留意し、新たな証拠の発見等による判決の変更を求めるとして、一審判決と争う姿勢を見せることを避けている。裁判官の見立てと異なる考えがあっても、判決が言及しているのとは、別な角度から主張を補い、判決と合わせた共同作品を作るような構えで理由書を書いている。

一審で打ち立てられた成果を土台にして、二審をさらに完全なものとする。筆者の目的はそこにあるのであって、積み上げた成果を崩すことにはない。
 
今、こうして杉本が、またもや筆者が犯してもいない罪を言い立て、判決に従わない姿勢を見せていることをも、理由書にてよく示しておき、この先、杉本の控訴を受理することには、いかなる合理性もないことを主張して、控訴審に備えることとなる。
 
正直な話、控訴が正式に受理されてもいないうちに、その旨を杉本が筆者に告げて来たことは、かえって筆者に対策を講じる十分なチャンスを与えるだけの結果となった。
 
さて、勤務先に対する強制執行などは、人生そのものをひっくり返す可能性のあるものである。面識もない個人に対する名誉毀損行為に及び、判決で賠償を命じられても従わず、社会的責任から逃れ続けていることが分かれば、社会福祉士としての信用も、この先、得ることはできまい。

それだけではない。ヤギの会から、メールが来ていた。裁判関係の資料と杉本のブログを送付しておいたところ、ただ一方的な情報提供だけに終わるかと思いきや、受領の連絡があり、紛争には介入できないとしても、随分、丁寧に対応をされているという印象を受けた。

たった1件のコメント削除の依頼を受けただけで、このような紛争を自ら引き起こし、判決にさえ従わない人間が、大勢の人たちと協力して物事を進めなければならない世話人の仕事をきちんと果たすことができるとは、筆者には思えない。火種を抱えることになるだけで、会の信用にも関わるだろう。この先、よく検討されることをお勧めするのみである。

しかし、このような結果に至ることも、すべて杉本が自分で選んだ選択なのである。速やかに負うべき責任を負って、滞りなく支払いの連絡を済ませていれば、このような事態に至ることもなかった。筆者は幾度も、猶予をもうけ、チャンスも与え、諫め、警告したが、杉本が合理的な選択肢をことごとく拒否したために、現在に至っている。

こうして、判決から今日まで、何も変わったことがあるわけではないのに、一審判決の言い渡し直後と、現在とでは、当ブログを取り巻く雰囲気はまるで異なることに驚かされる。

これが裁判のもたらす社会的影響力なのだと筆者は思う。判決に従わないことが、どれほど人の信用を落とすかかがよく分かる。杉本がこうして裁判所の決定にも逆らっている以上、筆者が最後の手段を講じねばならないとしても、もはや筆者を責める人間は誰もいないであろう。

 * * *

「だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。」(1コリント3:14-15)

さて、先の記事で、サタンの体が焼き尽くされた可能性があると筆者は述べたが、高慢な者に対する裁きはいつも同じで、彼らが「体を失う」ことではないかと筆者は見ている。

だが、ここで言う体とは、文字通りの体ではなく、人間の外側の部分のことである。つまり、人の居場所や、社会的受容、富、名誉、地位、職・・・、神の喜ばれない生き方をしている人が、よすがとして来たすべての虚栄を剥ぎ取られ、焼き尽くされ、高慢さの源となるものがすべて失われることである。神の妬みの炎が、永遠に至らない何もかもを焼き尽くしてしまう。

「見よ、彼らはわらにすぎず、火が彼らを焼き尽くし
 炎の力から自分の命を救い出しえない。
 この火は体を温める炭火でも
 傍らに座るための火でもない。」

「ハレルヤ。大淫婦が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。」(黙示19:3)
 
神の妬みの炎が、おのおの人生の価値を試すのだ。
  
筆者が現在、村上、杉本、唐沢の3名に対して(まだ提起していないものも含め)訴訟を展開しているのは、信仰の争いをこの世に持ち出すためではないし、彼らの属している教会を訴えるためでもない。

むしろ、長年の観察の結果、これらの3名は、もはやキリスト教徒ではなく、兄弟と呼ぶべき人々ではないことがはっきりと分かったため、教会をこの世の支配下に置こうとするこの人々の魔の手から、教会を解放するために、筆者は、この人々を世の前に訴え出ることにしたのである。

これらの人々がクリスチャンでない以上、筆者の行為は何ら以上の御言葉に抵触するものとはならず、変節にも当たらない。

昨年一年間はかなり大変な戦いであったが、ようやく人々の理解を得、関わる人たちの信頼を勝ち得ることができ、また、その秘訣を学んだので、すでに書いた通り、今はこの裁判に反対する人は、もう周りにはほとんど誰も見かけなくなった。
 
少しずつだが、一審の影響が各地に波及している。二審の結果はもっと大きなものになることを予想している。これまで作られた淀んだ空気の流れを完全に払拭し、変えられるとすれば、あと2~5年くらいだろうか。

5年も経つ頃には、おそらく、杉本・村上・唐沢の名は、もはや聞かれなくなるものと筆者は思う。カルト被害者という言葉も、ほぼ絶えて聞かれなくなるであろう。筆者の裁判に最後まで反対していた人たちも、口を閉ざして、何も語らなくなるものと思う。
  
* * *

さて、上記3名に共通する点は、自己の内に深刻なコンプレックスを抱え、キリストの聖なる花嫁であるエクレシアに対し、尽きせぬ憎悪を抱いているということである。当初は、この3名は互いに対立し合っており、何の共通点もないように見えたが、最終的には、エクレシアを敵とするという点で、利害が一致したものと筆者は見ている。

杉本は、すでに記事で書いた通り、プロテスタント、福音主義に対して根強い不信感を持っており、アッセンブリー教会でペンテコステ運動につまずき、大きな心のトラウマを抱えた。
 
村上密も、青年期に統一教会に入信、暴力を伴う強制脱会を経験したことにより、キリスト教に対する根強いコンプレックスもしくは恨みを持っていると見られる。村上の救済活動が、彼の幼少期のトラウマに基づくものであって、真の救済活動ではないということを、筆者は幾度も記事で述べて来た。
 
唐沢治は、かつて異端のローカルチャーチに入信していた経歴があり、若い頃に、自分の失敗にで花嫁に去られた経験を持つ。そのことは唐沢自身が幾度もメッセージで語り、また、当時は、記事などにも書いていたことである。

彼はある女性と結婚を約束し、その女性から約束の実行を求められていたのに、(記憶によると)進学などを理由に、結婚を先延ばしし、不信感を持たれて花嫁に去られた。それによって、深い心の傷を負い、苦しみ、自分の身勝手さを悔い改めて神を求め、聖霊のバプテスマを得たと、当時はブログやメッセージでさかんに語っていた。

今でも、ホームページのプロフィールに書かれている唐沢の「聖霊による油塗り」の体験は、傷ついた心に対する癒しとして与えられた当時の体験を綴ったものではないかと見られる。

だが、それは本当にキリストの霊であったのかどうか、そこから筆者は疑問に感じている。村上密の眉唾物の回心の体験と同じくらい、それには根拠が乏しいのだ。
 
今現在、唐沢は幸福で安定した家庭生活を送っているかのように豪語している。その点では、村上も同じである。だが、それはうわべだけのことであって、村上の家族に起きた不幸な事件についてはすでに記した通りであり、また、唐沢も、大学講師時代には常に女学生への人気を誇り、とても妻帯者とは思えない不誠実な言動の数々を見せていた。

さらに、杉本や村上が、筆者や、鳴尾教会の女性牧師に対して、長年、中傷をまき散らして来た行為を思うと、彼ら3人の心の中には、女性に対する深い心の傷があるように見受けられてならない。

杉本や村上には、唐沢のような体験はないにせよ、3者の心の中には、何かしら共通する男性としての深い心の傷、自分自身へのコンプレックスが存在するように見受けられてならないのだ。

その心のトラウマが、悪霊の働く牙城となって、キリスト教に対する彼らの憎悪と結びつき、エクレシアに対する憎悪に転じている。

唐沢が、ニュッサ氏や筆者を含め、去って行った信徒を断罪し、自分を追い出すも同然に否定したニッポンキリスト教界を日々、嘲り、罵っているのも、結局のところは、自分のもとを去った花嫁に重ねて、キリストの花嫁たるエクレシアを侮辱・冒涜しているだけだと見ることができる。

自分を否定して、自分のもとを去った花嫁が、自分ではない誰かのもとで幸福になるなど絶対に許さない、という執念が、唐沢の記事における、去って行った信徒への共通する憎しみと非難の中に見て取れる。

不思議なことに、村上や杉本にも、唐沢と全く同じ精神が見られるのだ。彼らは、自分たちの率いるカルト被害者救済活動から離反して行こうとする筆者のような信者を、徹底的に呪い、断罪し、二度と立ち上がれないような打撃を加えようと試みた。

結局、これらの3者は、うわべの主張には様々な違いがあるように見えても、根底では、同じ精神を共有している。それはキリストの花嫁たる神の教会を、自分の思いに従わせ、自分の支配の下に置こうとする欲望である。

ウォッチマン・ニーは『キリスト者の標準』の中で、人類には二人の花婿がいると語っていた。最初の花婿は、生まれながらのアダム(律法)で、これは横暴で、利己的で、心が狭く、嘘つきで、約束を守らず、絶えず花嫁を上から目線で断罪し、非難しては蹂躙する、どうしようもない主人である。

人類がこの横暴な主人から逃れるただ一つの方法は、死だけである。そして、神は人をこの破滅的な霊的結婚から救うために、十字架の死と復活を用意された。

こうして、十字架の死によって、人は横暴な主人との結婚から解放され、その後、キリストとの新しい婚姻関係が与えられた。この新しい花婿は、横暴でなく、利己的でもなく、誠実で、花嫁を心から愛し、命を与え、守り抜くことのできる本物の主人である。

唐沢は、自分たちの団体こそが、キリストの聖なる花嫁なるエクレシアであって、既存の教団教派(ニッポンキリスト教界)は堕落したバビロンであると述べて来た。

だが、事実はその逆である、と筆者は主張している。杉本や村上のしていることも同様で、彼らは自分たちがあたかも正しいキリスト教徒であって、他のキリスト教徒の横暴や逸脱を取り締まることのできる存在であるかのように述べるが、それは事実に反しており、実は杉本や村上こそ、誰よりも暴走している偽クリスチャン、偽預言者なのである。

彼らは、本物のエクレシアを弾圧し、これを自分たちの抑圧の下に置いて、自分たち偽物を、本物に取り替えるためにこそ活動しているのだと言えよう。
 
そうして彼らは、エクレシアを簒奪、否定、蹂躙しながら、自分たちこそまことの信者であって、花嫁は俺たちのものだと叫んでいる。

だが、これは花嫁の強奪であり、私物化であり、蹂躙であり、冒涜であるから、そんな方法では、決して花嫁は手に入らない。

自分の思い通りにならないくらいならばまだ良いが、花嫁を冒涜することを繰り返していれば、いつかその所業のすべてが自分に跳ね返って来ることになる。

筆者は昨年の春頃から、この問題について、三島由紀夫に関する映画を引き合いに出しながら、一連の長い分析記事を書いた。
 
記事「神に疎外された者たちによる神への復讐としての「エクレシア殺し」」などの中で、人は神の神殿として造られたのであって、神殿を破壊する者は、自分自身を破壊するのであり、自滅して終わるという霊的法則性を示した。

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」(1コリント3:16-17)

筆者は紛れもなく神に贖われたキリスト教徒であって、エクレシアの一員である。だとすれば、杉本・村上・唐沢が筆者に対して行っている仕打ちは、彼ら自身が、自分を滅ぼしているのと同じ効果をもたらすことになる。

彼らはきっとそうは考えていないことであろう。ヴィオロンをどれほど痛めつけ、嘲ろうと、それは自分とは関係のない事柄だと。悪いのはすべてヴィオロンであって、自分たちではないと、今も自己正当化を図っているのだろう。

だが、霊的法則性においては、人がエクレシアを蹂躙することは、人が自分で自分を滅ぼすことと同義なのである。

その結果として起きるのが、『金閣寺』のプロットに見られるのと同じような、神の宮である自分自身の破壊(体の破壊)である。体の破壊とは、すでに書いた通り、肉体の破壊だけを意味するのではなく、人の外側にあるもの―虚栄をもたらすすべてのもの―が焼き尽くされることを意味する。
 
こうした霊的法則性が存在すればこそ、すでに杉本には敗訴と共に破滅が降りかかり、さらに、村上も二審で不利な立場に立たされることになり、唐沢にも同じ追及の手が及ぼうとしているのである。

冒頭の御言葉をなぜ引用したのか、解説を忘れるところであった。これはキリスト者がどれほど絶大な裁きを行う権限を持っているかを示したものである。

私たちのまことの裁き主は神である。しかし、キリスト者も、それなりにこの地上において事件を裁く権限を担っている。その権限は、この世を超えるものであって、私たちは御使いたちをも裁く権威を持っている、とパウロは告げたのである。

私たちは裁判官としての職務には就いていないが、キリスト者として、この世の裁きに対しても、非常に大きな影響を及ぼす者である。

村上や杉本や唐沢は恐るべき思い違いをしている。彼らはエクレシアの一員を断罪する権威が自分に与えられているかのように考えているが、実は、彼らこそ、エクレシアの裁きの権威に服さなければならない存在なのである。

神はおよそ地上のすべてのものを管理する仕事をキリスト者に与えられ、この世を裁く仕事をも教会に任せられた。だからこそ、私たちの裁き、私たちの宣告は、この世に属する者たち、とりわけ神の教会を迫害する者たちに対しては、まことに厳粛な効果をもたらすものとなる。

それだからこそ、筆者は、裁判が終結する前から、その結果がどうなるのかを知っている。以上の3者が、まことの信仰を持ったキリスト者の告発の前に、決して立ちおおせない事実を予め知っている。裁判は、その霊的事実を実際とするための方法論に過ぎない。
  
<続く>


村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(18)―愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。

 「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。

愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。

わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」(一ヨハネ4:16-21)

さて、このとこと筆者は複数の仕事を果たさねばならず、かけもちで忙しい。掲示板では、反カルト陣営の抑えがたい凶暴性、悪質性が表面化している様子で、魔女狩り裁判をしたくてたまらない人々が次の獲物を求めて集まっているようだ。


 
やれやれ、牧師が信徒を訴えたくてたまらない時代。何という恐るべき曲がった世の中になったことだろうか。

このようなことが起きることを予見して、当ブログでは再三、牧師制度の悪なることを主張し、牧師制度から離れるよう読者に警告して来た。牧師制度は撤廃するしかない、そういう明白な結論が出るところまで来たと筆者は考えている。

ちなみに、信徒を刑事告訴した牧師などは、筆者が知っている限り、日本にたった二人しかいない。いみじくも二人とも筆者の知り合いで、これには運命の数奇な縁を感じる。
 
一人目は、KFCの元信徒を訴えた唐沢治だが、この件は、後になって、筆者自身が唐沢の告訴の正当性に疑問を抱くようになり、筆者の他にも、「呪いの予言はあった」と証言する人物が現れるなど、虚偽告訴だった可能性が指摘されている。

二人目は、村上密で、何とこちらは筆者を告訴したという記事を発表、すでに記事が削除されている以上、この情報の真偽の程は定かでないが、事実であれば、こちらは虚偽告訴罪を主張する構えでいることも、すでに記事に記した通りである。

いずれにしても、牧師が信徒を訴えるという行為が、どれほどキリスト教の精神に反するものであるかは、今更、説明するまでもない。村上は、筆者が理由なく村上を悪魔扱いしているかのように非難していたが、黙示録には、こうあるではないか。我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者」(黙示12:10)。悪魔の主要な特徴は、救われた兄弟姉妹を告発することにある。だとすれば、筆者に反訴を予告したり、告訴を予告する行為は、これに該当しないと言えるだろうか。
  
なぜ牧師が信徒を告訴するなどという恐るべき出来事が起きるのか。それは、牧師という職業そのものが、「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。」(一テモテ2:5)の御言葉に反し、神と人との間に、目に見える「代理権威」としての人間を置こうとする制度だからである。

人間に過ぎない者が、神と人との仲保者であるキリストになり代わろうとするなど、筆者に言わせれば、まことの神への反逆、とてつもない高慢である。にも関わらず、そのような恐るべき地位の略奪(=キリストの地位の略奪)をしようとするからこそ、これらの牧師たちには、あたかも自分こそ神であるかのような錯覚が生じ、「自分に盾突く者はどんな手段を使ってでも社会的に抹殺したい」といった残酷な欲望が生じるのである。
 
私たちはこのような現象を見て、神と自分たちの間に、宗教指導者という「代理権威」を置くことがいかに忌むべき行為であるかを理解し、牧師制度に服することを拒否して、見えないキリストだけにより頼んで信仰生活を送るべきである。

牧師たちの暴走は、カルト・反カルトどちらの陣営をも問わず、自己を現人神とする牧師制度ある限り、今後も発生し続けるのである。

さて、村上密の率いる反カルト運動に深い影響を受けた信者らが、村上がブログで新たな団体や信者を「カルト認定」する度に、村上に倣って、村上が標的とした人物や団体に集団で人権侵害の記述を繰り返して来たことは、周知の事実である。

反カルト陣営は10年以上にも渡り、他宗教の信者のみならず、キリスト教徒の中から「獲物」を見つけては、バッシングに及ぶことによすがを見いだしており、村上はこれらの人々に、獲物をくれてやるがごとくに話題を提供する役目を担って来た。

そして、今や彼らは筆者をも獅子の穴に投げ込んだつもりでいるらしい。

だが、筆者には訴えられる理由もなければ、キリスト教徒としてのいかなる信仰的逸脱もないため、筆者はこうした話を全く意に介しておらず、かえって牧師たちこそ、訴えられて倒れると心に確信している。このような時には、ダニエル書6章の記述を思い出すだけで良い。
 

「ダリヨスは全国を治めるために、その国に百二十人の総督を立てることをよしとし、また彼らの上に三人の総監を立てた。ダニエルはそのひとりであった。そこで総監および総督らは、国事についてダニエルを訴えるべき口実を得ようとしたが、訴えるべきなんの口実も、なんのとがをも見いだすことができなかった。
 「われわれはダニエルの神の律法に関して、彼を訴える口実を得るのでなければ、ついに彼を訴えることはできまい」と。

こうして総監と総督らは、王のもとに集まってきて、王に言った、
 「すなわち今から三十日の間は、ただあなたにのみ願い事をさせ、もしあなたをおいて、神または人にこれをなす者があれば、すべてその者を、ししの穴に投げ入れるというのです。それで王よ、その禁令を定め、その文書に署名して、メデアとペルシャの変ることのない法律のごとく、これを変えることのできないようにしてください」
そこでダリヨス王は、その禁令の文書に署名した。

ダニエルは、その文書の署名されたことを知って家に帰り、二階のへやの、エルサレムに向かって窓の開かれた所で、以前からおこなっていたように、一日に三度ずつ、ひざをかがめて神の前に祈り、かつ感謝した。

そこでその人々は集まってきて、彼らは王の前にきて、王の禁令について奏上して言った、
 「王よ、あなたは禁令に署名して、今から三十日の間は、ただあなたにのみ願い事をさせ、もしあなたをおいて、神または人に、これをなす者があれば、すべてその者を、ししの穴に投げ入れると、定められたではありませんか」
 王は答えて言った、
 「その事は確かであって、メデアとペルシャの法律のごとく、変えることのできないものだ」

そこで王は命令を下したので、ダニエルは引き出されて、ししの穴に投げ入れられた。王はダニエルに言った、
 「どうか、あなたの常に仕える神が、あなたを救われるように」
そして一つの石を持ってきて、穴の口をふさいだので、王は自分の印と、大臣らの印をもって、これに封印した。これはダニエルの処置を変えることのないようにするためであった。こうして王はその宮殿に帰ったが、その夜は食をとらず、また、そばめたちを召し寄せず、全く眠ることもしなかった。


こうして王は朝まだき起きて、ししの穴へ急いで行ったが、ダニエルのいる穴に近づいたとき、悲しげな声をあげて呼ばわり、ダニエルに言った、
 「生ける神のしもべダニエルよ、あなたが常に仕えている神はあなたを救って、ししの害を免れさせることができたか」
ダニエルは王に言った、
 「王よ、どうか、とこしえに生きながらえられますように。わたしの神はその使をおくって、ししの口を閉ざされたので、ししはわたしを害しませんでした。これはわたしに罪のないことが、神の前に認められたからです。王よ、わたしはあなたの前にも、何も悪い事をしなかったのです」

そこで王は大いに喜び、ダニエルを穴の中から出せと命じたので、ダニエルは穴の中から出されたが、その身になんの害をも受けていなかった。これは彼が自分の神を頼みとしていたからである。
 王はまた命令を下して、ダニエルをあしざまに訴えた人々を引いてこさせ、彼らをその妻子と共に、ししの穴に投げ入れさせた。彼らが穴の底に達しないうちに、ししは彼らにとびかかって、その骨までもかみ砕いた。」

 
 
ダニエルは、人間である王に祈願を捧げるよう求められたが、神への礼拝を続けて、その命に従わなかった。それゆえ、罪を着せられてライオンの穴に投げ込まれた。

しかし、神はダニエルを守られ、彼は無傷で出て来た。それを見て、王はダニエルの神が本物であることを知り、かえってダニエルを訴えようとした人々を獅子の穴に投げ込む。

村上密のブログは、筆者から見て、キリスト教徒を吊し上げ、教会を断罪するための暗闇の勢力の要塞と化している。杉本徳久のブログも同様で、彼らのブログの真の狙いは、キリスト教徒を迫害することにこそあると筆者は見ている。

そして、当ブログ執筆者が杉本を敗訴に追い込む前後から、反カルト陣営がキリスト教徒をバッシングする場は掲示板に移った。
   
これら反カルト陣営の人々は、獲物を求める殺気立った獣のように振る舞っているが、彼らがどうしても否定したい事実が一つある。それは、彼らが信奉する牧師たちが、すでに刑事告訴されていることだ。ダニエル書にある通り、無実のキリスト教徒は、讒言されても、罰せられず、害も受けないが、無実のキリスト教徒を訴えた者たちには、防御の方法がない。

キリストの贖いの血潮により頼まない者たちが、キリスト教徒を訴えた場合、彼らには小羊の血潮という防御の盾がない分、ダニエルを悪しざまに訴えた人々と同様の末路が待ち受けている。

* * *
 
さて、村上が筆者を刑事告訴したという記事を投稿した際、筆者がただちに村上を虚偽告訴罪に問うという反論記事を発表したので、村上はこれにひるんで、わずか数時間も経たないうちに、記事の削除に及んだことはすでに述べた。

その際、注目すべき出来事が起きた。村上は筆者に対する記事を削除したのみならず、ただちにそれを自分が五次元スクールによって名誉毀損で告訴されたという別の内容の記事に差し替え、筆者に向けた非難の矛先を、自分自身に向け変えたのである。

その行動に、筆者は村上の恐怖心を見た気がした。

おそらく、村上は筆者に恐怖を抱かせる目的で、筆者を告訴したとする記事を投稿したと見られるが、筆者がこれに全く動じず、かえって村上の告訴を罪として非難したので、恐れは村上自身に跳ね返ったのである。

筆者は何年来、反カルト陣営からのいわれのない讒言に立ち向かって、霊的戦いを続けて来たし、ここ数カ月間は特に「一日中死にさらされ」ていると言って過言でない状況であったので、こうした出来事にどう対処すべきかは、すでに十分に学んで来ていた。

私たちの罪の債務証書は、すでに十字架の上で破り捨てられ、無効とされている。そうである以上、私たちを罪に問おうとするいかなる試みも、最終的には効力を失うと決まっている。私たちには、「我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者」(黙示12:10)に対抗するために、最強の武器が与えられている。それは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで、彼に打ち勝(黙示12:11)ことである。

だから、このような状況下での防御の方法は、より入念に過越しのキリストの贖いの血潮の下に隠れつつ、死に至るまで忠実な信仰を持ち続け、証の言葉を公然と掲げることである。

それに引き換え、村上は筆者から虚偽告訴罪に問うと言われ、筆者からの報復と、世間の評判を失うことを恐れて、記事を削除したのである。
 
このような戦いでは、恐れた方が負けである。人には自ら恐れることが、実際となるからである。私たちが恐れないでいられるのは、神を愛しているからであり、また、神が私たちのために独り子を十字架につけて下さった深い愛を知り、生きている限り、その愛に応え、御言葉に従いたいという願いを持っているからである。

聖書に次のように書かれている通りである。

愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」(一ヨハネ4:18)

神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイ2:13-15)

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利をおさめています。」(ローマ8:31-37)

 
村上が筆者に向けるつもりだった不吉な予告を、自分自身へ向け変えたことは、非常に予表的な出来事であったと筆者は感じている。

五次元スクールによる村上への告訴は、以下に示す記事でも指摘されている通り、極めて些末な問題であったため、村上は不起訴になって事件はすでに終わっているが、これから村上に起きる出来事は、もはやそのようなスケールでは終わらない可能性があるからだ。

村上は筆者を有罪に追い込みたかったのであろうが、その決意を確固たるものとして貫き通すことができず、かえって神と人との前で、公然と「兄弟たちを告発する者」(=悪魔)と呼ばれる恐れに耐え得ず、記事における非難の矛先を筆者から自分自身へと向け変えた。

この事実は極めて大きい、と筆者は思っている。

はっきり言えば、主と共なる十字架において、自分の罪が確かに赦されたという揺るぎない確信を持たない者が、このような記述を行ったことを、神も見逃されないであろうし、悪魔と暗闇の勢力も当然、見逃さないだろう。(人には自分で心に信じて予告した事柄が実際となって降りかかるのである。)

1.差し替え後の記事
村上が筆者に対する記事を削除後、自分が五次元スクールから刑事告訴されたことに言及し、告訴状作成から刑の執行までの流れを記した記事
刑事告訴




2.差し替え前の記事
村上が削除した筆者に対する記事の後半
(同じ文面を村上が後になって、自分自身に向けて書き換えた様子が分かる)

 


* * *

さて、村上が五次元スクールからどのような理由で告訴されたのかについては、以下の記事に詳しい。
 

オタクで結構コケコッコー

(該当部分のみ抜粋)

村上さんを名誉毀損で刑事告訴するきっかけとなったのは、
村上さんがブログ上に五次元スクールで販売してるカレンダーの値段を
本当の価格1080円ではなく、12000円と書かれてた事でした。
値段を間違えてただけじゃんとかほんとやめてくださいね...(−_−;)
明らかに許される範囲の間違い方ではないです。
(お金をぼったくってるみたいな事も他の記事に書かれてましたし)
値段を正して欲しいと村上さんにお願いしても聞いてもらえず。
それなら他の手を探して、間違いを正してもらうという当たり前のことをしたまでです。

以前、五次元スクール生数名がブログに書かれてる内容を訂正してもらうために、
直接に村上さんと話しに行ってくれたことがありました。
その時、私が作成したとなぜか思われてる「村上密 悪事を暴く!!」のサイトも違うと
言ってくれたみたいなんですが、村上さんは...
「やってないなら有希が訴えれば良いんですよ」とおっしゃったそうです。\(-_-;) オイオイ

残念ながら今回は不起訴となってしまいましたが、
訴えたからこそ村上さんは五次元スクールに関する記事を非公開にするしかなくなった。
とりあえず、今は嘘の情報を広めるのをやめてもらえてて、おたっきーは嬉しいです。

村上さんご自身のブログに書かれてあった
“このようなことは人の名誉にかかわることなので
慎重に事実を確認してから書くものである。”

ほんとそれな。
“慎重に事実を確認してから書くものである。” とご自身がおっしゃった言葉通り、
事実を確認してから書いていただきたいものです。
沖縄県のみなさま、沖縄県知事選での自民公明党の敗北おめでとうございま~す。その他キリスト教界で有名になっていたアガック竹内一雄事件(準強姦、借金で虚偽提訴された人物)の真実とこの民事裁判でアッセンブリーズオブゴット教団の村上 密牧師が使った汚い手段

(該当部分のみ抜粋)

今から3年半ほど前に、アガック竹内一雄事件というものがキリスト教界で有名になっていた(刑事事件ではない)。
このアガック竹内一雄という人物は、キリスト教界の中では異端とされているペンテコステ(聖霊派)のカリスマ派の牧師(キリスト教系新興宗教)。
この竹内一雄が運営するキリスト教会に一人の女性(子持ち)が集うようになった(最初はカウンセリング 家庭の悩み事の相談だったようだが)。
後にこの女性信者と竹内一雄は恋愛関係に、そしてその女性は竹内一雄の婚約者となるも最終的には女性関係でもめ(浮気だったようだが)、竹内一雄はこの元婚約者だった女性信者から民事で訴えられた、ざっとこんな内容だ。
しかし、その訴状自体が笑ってしまうものだった。

その女性信者は竹内一雄と婚約までしていながら、竹内一雄を準強姦で提訴(裁判官らが事実認定するワケがない)。

おまけに、原告女性が竹内一雄に貢いだお金(全額だったかは不明だが)は、貸したお金だった、として返還要求。
しかし、私の調べでは(友人、知人に聞き込んだ)原告女性は「道で大金を拾ったから(竹内一雄の)通帳に振り込んでおくね」と竹内一雄にお金を渡した内容のメールを送信していた。
案の定、そのメール内容が竹内一雄から裁判所に証拠として提出されたのだ、勝てるワケがない。
ということで一審は原告の敗訴、まあ当然でしょう。

まあ、こんな話はたまに起きるであろう怨恨話だと思うが(私の周囲には嘘までついて提訴するような人間はいないが)。

この馬鹿らしい怨恨訴訟でなにが一番解せないか、というと

この原告女性を支援していたアッセンブリーズオブゴット(略してAG)教団の有名らしい(私は知らなかったが)村上 密氏という牧師がやったことがクズすぎて解せないのだ。
村上 密氏はろくに事実関係を調べもせず、この元婚約者である女性信者の言っていることを鵜呑みにし裁判支援(北海道のテレビにまで出て嘘をばら蒔いたのだ)。
その他、この元婚約者である女性信者の訴えが事実かどうかも確認しないまま、竹内一雄を準強姦の犯罪者扱いをした上、借金を踏み倒した悪人としてブログで記事にしネットで拡散(自分だけではなく大勢の信者を使ってブログの記事させてニセ情報を拡散させていた)。

そして、しまいにAERAという雑誌にまでこの嘘記事を書かせている。
そして、裁判が終わった後もこの牧師(村上 密氏)の悪事は現在も続いている。
民事裁判にて、元婚約者である女性信者の訴え(準強姦及び貸金)が事実ではなかったことがはっきりしたにも関わらず、過去に流した嘘記事を訂正も削除もせず(勿論謝罪もしていないだろう)ずっと流し続けているのだ。
誤解があると困るので書いておくが、私は竹内一雄を擁護しているわけではない。
むしろ、絶対に近づいてはならない人物として色んな人に警告していた側なのだ。

しかし、虚偽の訴えで人を裁いているような人間には我慢がならない、非常に不快なのだ。
 

* * *
 
ここで指摘されているような無責任なデマの拡散は、村上だけでなく、類は友を呼ぶ式に、村上を取り巻いている反カルト陣営のおよそすべての人々に共通する行動である。

彼らのやり方はこうである。裏が取れようと、取れまいと、証拠があろうと、なかろうと、とにかく自分たちがターゲットとみなした人間について、さんざん悪評をまき散らす。そして、訴えられる段になって、ようやくデマの拡散をやめ、削除を命じられれば、記事を部分的に削除したり、書き換えたりという行為には及ぶものの、根本的な反省はなく、さらに、敗訴しても賠償金さえ速やかに支払わないのだから、もはやヤクザのレベルだと言って差し支えない。

明らかに、この人々は信仰者の名に値しないだけでなく、すでに人の道からも外れかかっていると言えよう。

筆者はこれまでの経験に立って言うが、当事者でない人間が、誰かを擁護するために騒ぎを煽る場合には、必ず、ある種の行き過ぎに陥り、当事者よりももっと厳しい処罰を受けてしまうという法則性のようなものがある。

これは杉本ブログに愚痴を書き込んで告訴されたKFCの元信徒にも当てはまるし、掲示板にたむろしている村上の信奉者たちや、坂井能大の裁判にも当てはまる。当事者でもない人間が、確たる証拠を握っていないのに、誰か他人の言い分を鵜呑みにして、その言い分を補強しようと、(たとえば、ある人物が犯罪を犯しているなどと)、他人の名誉を傷つける投稿を続けていると、そういう人間が、真っ先に訴えられるリスクを負うのである。

つまり、指導者の罪を、信者がかばおうとした場合、かばおうとした信者の方に、先により重い責任が降りかかる可能性が高いということである。

そこで、村上密の不確かな記述を鵜呑みにして、中傷を言い広めている人たちは、村上本人よりも、先に責任を負わされる可能性があることをよくよく考えてみるべきであろう。村上自身が、証拠がないまま記事を書いているのであれば、それを鵜呑みにした信者らが訴えられた際、彼は何らの手助けもしてくれるまい。

そして、筆者はこのようなことこそ、偽預言者たちが最も望んでいることではないかと考えている。つまり、偽りの宗教指導者は、自分自身が神の御言葉に逆らい、破滅へ向かって突き進んでいるだけでなく、その破滅に、可能な限りの大勢の無関係な信者たちを巻き添えにするためにこそ、取り巻きを通じてデマを拡散させるなどの行為に及び、多くの信者たちに罪を負わせるのである。


* * *
 
さて、村上は以上に挙げた五次元スクールから告訴されたという記事に、自分が告訴されたことについては反省もなく、得意気に次のように書いている。

「私が持っていた訴えた側の資料が大量に警察の手に渡った。まさか、そんなことが起きるなんて考えなかったのだろう。墓穴を掘ると言う言葉があるが、まだ墓穴には入っていない。しかし、日本での活動がしにくくなったのではないか。」

これは村上が五次元スクールを何とかして「墓穴」に陥れ、日本から追い出したいと願っている意図がよく感じられる記述である。だが、筆者が知っている限り、警察は被告訴人の側から、事件とは直接的な関係のない「大量の資料」が提出されたからと言って、それを精査して、何らかの結論を下すようなことはしない。それは別個の問題として扱われる。まして、それが宗教的な対立や紛争となれば、なおさら、警察はその資料について踏み込んだ捜査をしないであろう。

従って、五次元スクールを壊滅に追い込みたいなら、村上自身がその資料を用いて刑事告訴に踏み切るしかない。だが、彼は被害者でないので、告訴はできないであろうし、被害者がいたとしても、そこまでの措置に踏み切る証拠と決意があるかは定かではない。

従って、村上のこの記述は、明らかに、自分が疑いをかけられて追及される側に回ったという失態を棚に上げて、かえって自分が五次元スクールを追い詰めた事実があるかのように、虚勢を張るものである。そういうことも分からないまま、村上の信奉者たちが彼の記事を鵜呑みにして騒いでいることは、まことに愚かとしか言いようがない。

また、村上は筆者に対する記事でもこう書いていた、

「彼女は、裁判の中で私が反訴を口にすると、「反訴の脅しをかけた」と4月13日の記事に書いている。裁判を仕掛けた人が言う言葉ではない。」
 
これも藪蛇や墓穴と言わずして何と言うのだろうか。村上はこの記事で、自分が「反訴を口に」したとはっきり認めている。
 
ちなみに、裁判において、無実を主張することと、反訴を口にすることは、全く別の事柄である。

筆者が杉本と村上の両名を被告として訴えたのは、杉本が20本以上の筆者に対する名誉毀損の記事をブログに投稿し、その際、誰が杉本に筆者の個人情報を渡したのか分からず、村上以外に思い当たる人物もいなかったためである。

しかし、一審において、村上はそうした事実があったとは認めず、証拠も出て来なかったので、村上には杉本との共同不法行為は認定されていない。

だが、村上はいかに自分が訴えられたことを不快に思っていたとしても、本来ならば、牧師として、杉本の行為をいさめるべき立場にあったことは確かであろう。それが、杉本と一緒になって、筆者を罵ったメールを書証として提出したり、杉本と一緒になって、筆者が彼らの提案する和解条件を飲まなければ、反訴すると言い立てたことは、牧師としての村上の資質を根本的に疑わせる行動である。

ちなみに、この事件では、一審を担当した裁判官も書記官も、被告らが一緒になって原告に反訴を言い立てた場面に遭遇している。

筆者が覚えている限り、その日の口頭弁論では、当事者間で、非常に険悪な議論が展開された。おそらく話題は、杉本が提出して来た筆者と杉本との間で2009年に交わされたメール、および、杉本と唐沢とが交わしたメールのことに触れていたものと思う。

筆者は杉本に向かって、2009年に杉本が筆者に返信した残りのメールも、書証として出してもらえないかと頼み、筆者はそこに非常に興味深いことが書いてあったように記憶しており、そこでは、創世記において、神が人間をご自分のかたちに造られたという御言葉が引用されていたような気がすると述べた。

杉本はこれに対して、筆者をせせら笑うような口調で、「これ以上はもう出せませんよ。あなたは一体、何を言っているんですか。大体、そんな聖句がメールに書いてあるわけもないでしょう?」と突っぱねた。

さらに、筆者は杉本に向かって、唐沢とのメール文通についても、何を目的としてこれを書証として提出したのか問うた。だが、杉本はこれにも筆者を嘲笑うような口調で答えた。

「さあ、知りませんよ。それは唐沢さんにお聞きになったら?」

筆者は杉本の筆者を嘲るがごとき口調に憤りを感じつつ言った、 「そうは言っても、あなたが自分でこれを出して来られたんでしょう?」

また、杉本は別な場面では、急に猫なで声とも感じられる口調で筆者に言った。「ヴィオロンさん、もしもあなたが記事を削除なさるなら、私たちも削除していいと思っているんですよ。もしその言葉が信じられないなら、私たちの方から先に削除してもいい。それで終わりにしましょう。賠償はなしです。」

筆者は首を横に振って、そんな提案には決して応じられない、ときっぱり拒否した。

すると杉本らは筆者が彼らの和解案を飲まないので、怒りを露わにして言った。「だったら、もう反訴しかない。あなたが私たちの和解を蹴るのなら、私たちは反訴しますよ!」

筆者は答えた、「まだ口頭弁論も続いている最中に、何を馬鹿なことを言っているんです。あなた方は、反訴なんか考えるよりも前に、今、目の前で行われている弁論で、ちゃんと十分な議論を尽くして勝つことをまず最初に考えたらどうです? いいですか、刑事事件にもなっていることですし、いたずらに審理を長引かせれば、不利になるのはあなた方なんですよ、そのことをお考えになったら・・・」

裁判官は、議論が険悪な雰囲気になりつつあり、当事者が皆本気で憤っており、杉本が「刑事事件になどなっていない」と書面で頑なに主張していたことも知っていたため、「もういい!」と語気を荒げてこの議論を打ち切った。

あまりにも険悪な雰囲気であった。裁判官も含め、全員がそれに影響されていた。

すると、被告らは、今度は裁判官に向かって、しなだれかかるような口調で語りかけた、「お分かりでしょう、原告が和解に応じないのだから、私たちにはもう反訴しかないですよ・・・」

裁判官は、被告らを何とかして思いとどまらせるべく、苦々しい表情で答えた。「それはやめてもらいたいですね、どうしてもというなら、この事件が終わった後に、提訴にしてもらいたい」

筆者はそれを聞いて、心の中で苦笑しながら首を横に振った、(いやいや、裁判官、それは違います。反訴も駄目だけど、提訴だって駄目だから。)

裁判官は異動を見越して年内終結を目指すつもりで、当事者にはそれを含んでおいて欲しいと予め述べており、反訴されれば、異動前の終結が間に合わなくなることが明白であったので、これを全く歓迎していなかった。しかも、事件がさらに紛糾した状態で、これを別人に引き継いで異動することなど、絶対にしたくないと考えていたものと見られる。

そこで、被告らは、せっかくの提案をないがしろにされてプレッシャーをかけられた裁判官が、非常に気分を害していることを十分に知りつつ、それを楽しむような口調で続けた。「でもねえ、私たちはヴィオロンさんの住所も電話番号も知らないんですよ・・・。これじゃあ、提訴もできないじゃないですか・・・。私たちに反訴以外にどうしろって言うんですか・・・。」

裁判官は実に忌々しそうな表情で押し黙った。まるで審理の年内終結という課題と一緒に、筆者を人質に取られて、全く身動き取れなくさせられたような恰好であった。

筆者は、このやり取りを非常に注意深く観察していた。口頭弁論が終わった時、裁判官は、被告らの言葉を真に受けたのか、これで、この事件をきちんと片付けられる希望はなくなった、こうなったのも、原告らがまずい議論を続けたせいだ、とでも言わんばかに、大きなため息をついた。

その時、筆者は被告らが述べていることは、心理的な脅しに過ぎず、彼らはいたずらに騒ぎを煽っているだけであって、これも被告らがキリストの贖いを無効にしたくて繰り広げている悪のカーニバル(悪ふざけ)のようなものに過ぎず、要するに、筆者と裁判官の心に揺さぶりをかけ、互いにいがみ合わせて、疑心暗鬼に陥らせ、協力体制を壊すことを目的にしていると分かっていたので、裁判官に向かって、まずは落ち着いてもらうよう懇願し、それから、たとえこの先、何があっても、筆者はすべての圧迫に最後まで立ち向かう覚悟が出来ているので、決して筆者の身の上を心配しないでもらいたい、仮に反訴を受けることになり、あるいは一審で終わらなかったとしても、それも覚悟の上であるから、議論を制止しないで、筆者に言いたいことを最後まで言わせてほしいと懇願した。

後から考えてみると、この時、裁判官は、三つも四つもの事件を同時に抱え、それらすべてを異動前に片づけねばならず、筆者の書面を十分に読む時間もなくなり(裁判官からは、提出する書面を減らして欲しいとの要請もあった)、残された時間を考えると、これ以上、事件が紛糾しては、もはや事態の収集がつかなくなるため、それだけは何としても避けたいという重大なプレッシャーに直面していたものと思われる。
 
そこで、裁判官は、何とかしてこの事件のために善処したいと考えながらも、その考えが逆に心理的なプレッシャーとなっており、そういう中で、被告らが筆者に反訴すると述べたことは、裁判官の心の平穏をも失わせるような、さらに重大な心理的打撃となったのである。

こうした状況で、筆者は何としても、ここで自分が動揺してはならず、自分の命を惜しんではいけないということを理解した。もしも筆者が自分の命を惜しみ、反訴されることを恐れ、取り乱して裁判官に助けを求め、裁判官がこれを察知して、筆者に代わって、被告らに受け答えすることで、何とかして筆者をかばい、反訴を押しとどめようとするならば、裁判官は筆者を人質に取られているも同然の立場であるから、何もできず、かえって被告らの思う壺となるだけであることが、筆者には予め分かっていた。そして、最後には、助けてやれなかったという慙愧の念と、誰のせいでこうなったのかという責任の押し付け合いが残るのみであろう。
  
筆者は、そのような事態を回避して、この戦いを貫徹して勝利に導くために必要なのは、死に至るまでも従順な信仰であって、筆者が自分の命、自分の権利を惜しむことではないと知っていた。そもそもこの戦いは、信仰の戦いであって、筆者と同じ決意と覚悟ができていない、当事者でない人間には、どうすることもできない種類のものである。

すでに述べた通り、反訴はそれ自体が被告の権利なので、これを否定したり、押しとどめることは誰にもできず、反訴をとどめるには、人知によらない、それを超えた信仰が必要となる。
 
従って、被告らによる反訴の予告を、空中で粉砕し、押しとどめることのできる人間は、筆者しかいないことは明白なのである。そして、筆者は御言葉に基づき、反訴が実現しないことを前もって知っていたが、この世の人々である裁判官や書記官には、そのことが前もって分かるはずもない。
 
だから、筆者は、裁判官に向かって述べたのであった、一審判決で事件を終結したいという強い願いは筆者にもあるし、また、そのためにできるすべてのことはやりたいと思っているが、たとえ事件が長引き、次の裁判官にこれを委ねることになったり、もしくは、一審で事件が解決しなかった場合にも、筆者はすべてのことに覚悟ができており、今後、どのような展開になろうとも、決して誰にも責任を押しつけるつもりはないと、だから、最後まで主張をさせて欲しいと。

だが、筆者はそれと同時に、裁判官の言うことも心に留めて、その忠告を重んじた。そこで、それ以後、口頭弁論で被告と議論することは一切、避けることに決め、すべての主張を書面で戦わせる方法に切り替えたのである。

そして、最後の口頭弁論前には、裁判官も、筆者がこれを最後の弁論にしたいと願っていることを十分に確認した上で、今後、被告らから反訴があった場合には、職権で拒否するとはっきり告げてくれた。

筆者は、たとえそれが人間的な思いから出た行動であったとしても、裁判官が、被告らの主張を前に、筆者をかばおうとしてくれたこと、被告らの反訴の予告の前にも、可能な限りの手立てを講じて、これを阻止しようとしてくれたことを、重く受け止めている。

いかに筆者が、信仰によって主導権を握り、自らこの事件を引っ張って行かなくてはならない立場にあるとはいえ、民事であれ、刑事であれ、やはり、筆者には協力してくれる人たちが必要なのであって、その人たちの善意があったからこそ、それなりの結果が得られていることへの感謝を忘れることはない。

このようにして、関係者と息の合った協力を打ち立てることに、どれほど大きな価値があるかを知ったからこそ、筆者はどんな脅しに直面しても、それを恐れたり、動揺することなく、最後まで神を信頼して立ちおおせねばならないと理解しているのである。
 
* * *

さて、話を戻せば、被告らは実際に反訴しなかったからこそ、これが「脅し文句」に終わったと筆者は述べている。さらに、筆者が訴えを提起した側に立っていることは、被告らが反訴を言い立てたことを、筆者が精神的な脅しをかけられたことだと理解してはならない理由とはならない。

そもそも牧師としての村上が、元信徒・相談者を非難する記事をブログに投稿し、さらに、その信者の個人情報を杉本に渡したのではないかという嫌疑までかけられ、法廷に呼び出されたこと自体が、村上の大きな失態だと言えようが、そんな事態になってもまだ、村上が杉本をいさめて紛争の早期解決に努力するどころか、杉本と一緒になって筆者を馬鹿にするメールを書証として提出、さらに自分の無実を主張するだけでは飽き足らず、杉本と一緒になって筆者に反訴するなどと言い立て、自分たちの和解案を無理やり筆者に飲ませようとした行為自体が、キリスト教の牧師として、どれほどあるまじき非常識な振る舞いであるかは、ここで改めて説明するまでもないだろう。

その上、筆者が反訴の脅しをかけられたと述べたことを「名誉毀損」だと主張して、刑事告訴に及び、勝訴を宣言しただけにとどまらず、信者の息の根を止めるがごとく、社会的抹殺を望むがごとき行為に及ぶなど、およそ常軌を逸した行動だと言う他ない。
  
そのことが分からないのは、村上だけであろう。これまで、戦いに生きて来た村上は、平和を作る道を知らず、また、その道を誰からも教わらなかったのかも知れないが、村上のこうした行動はいずれも、村上がキリスト教信者に対して、まさに「兄弟たちを告発する者」(=悪魔)のように振る舞っているという以外に、意味するものはない。

村上はこのような行動を取ることによって、キリスト教徒も含め、どんな宗教団体の信者であれ、村上の言いなりにならない者には、同じ措置を講ずる用意があることを示して威嚇しているのである。
 
村上は、かつて他の牧師らと共に、統一教会の信者などを拉致・監禁して、密室に閉じ込め、「誤った考え」を捨てさせるために、信者の尊厳を踏みにじって、強制脱会活動を行っていたが、今もその頃と同じように、自分が「誤った考え」を持っているとみなした信者たちを弾圧するためならば、あらゆる方法を用いて、懲罰を加える用意があることを示している。

そこにある恐ろしいまでの攻撃性、真の動機に、彼は気づいていない。村上は書いていた、

「書けば書くほど怒りが込み上げて来るのか、留まるところを知らない書き方である。書けば書くほど自分に不利なことを書き立てていると気付かないでいる。ブログの中で怒って人を罵倒し、事実でないことをみだりに他人に言いふらし、信用を棄損するような記事を書いている。その内容は放置できないレベルに足している(筆者注:達しているの間違い)。」

村上のこの言葉は、誰よりも村上自身にこそ当てはまるだろう。事実でないことをみだりに他人に言いふらし、信用を毀損し、その内容が放置できないレベルに達しているのは、村上自身である。そのことは、以上に挙げた記事で示した通り、五次元スクールの側からも、その他の人からも指摘されているではないか。

むろん、きちんとした法的根拠を示さないまま、自らの主観だけに基づき、「その内容は放置できないレベルに達している」などと断言する村上の語調が、杉本徳久の言葉とそっくりである様子にも驚かされる。

村上は、自分がのべつまくなしに様々な宗教団体に戦いを挑んでいる真の目的がどこにあるのか、立ち止まって、考えてみるべき頃合いではないだろうか。前の記事にも書いた通り、筆者の目から見れば、それは村上自身が幼少期からずっと受け続けて来たトラウマに起因する行動であって、聖書への信仰によるものではない。
 
村上は若い頃に家庭で起きていた暴力から逃げる術もないまま、家庭という名の「牢獄」に閉じ込められて成長し、さらに統一教会への逃避行を企てた際にも、これを力づくで押しとどめられ、悲劇的な形で強制的に信仰生活に終止符を打たれて、再び家庭という牢獄へ連れ戻された。
 
おそらく村上は、神が自分を虐待という苦しみから助け出して下さることを求めて、統一教会に入信したのではないかと筆者は推察するが、その逃避行が、親族らの暴力によって打ち砕かれて、再び牢獄のような家庭に連れ戻され、そこに閉じ込められたことによって、村上の「神」観は、村上を救い得ない絶望的なものとなってしまったのである。そのことから彼はあまりにも深い心の傷を受けたのではないかと見られる。

そうであるがゆえに、村上の中では、自分に虐待を加えた肉の父が、そのまま神のイメージとなり、神は人に自由を与える方ではなく、束縛と、隷従と、抑圧を加える存在と見えるようになり、それゆえ、彼はそのような残酷な神観に基づき、自由な信仰生活を送る他の信者たちにも、「解放」という名目で、抑圧を加えねば気が済まなくなったのである。

筆者は五次元スクールや統一教会を擁護するつもりはなく、その理念を受け入れるわけでもないが、たとえ信念を共有できずとも、彼らを人として尊重することはできるはずであり、理念が異なるからと言って、彼らに人権侵害を加える行為が許されるはずはないことは言うまでもないと考えている。もしもそのようなことを正当化する理念があるとすれば、そのような理念こそ、誤っている。
 
筆者の神観は、村上の神観とは真逆である。村上から見れば、筆者は「交流の少ない所」「インターネットを頼り」として「甘っちょろい空想」を述べ、「藪の中から石を投げ」「怒りにまかせてものを書いている」だけの無責任な人間と映っているのかも知れないが、その筆者が、神は全能であり、筆者をあらゆる窮地から力強く救い出して下さることを信じ、どんな境遇に置かれても、平安と、喜びと、救いの確信と、神への愛と従順を失わずにいられる秘訣を学んでいるのである。

村上は、筆者が書いているごくわずかな批判の記事にも耐えられなかったが、筆者は匿名の投稿者によって数千件以上の誹謗中傷がなされても、まだ神への信頼と希望と愛情を失わずに立っている。筆者は自分を全く恥じようとも思わないし、自分の信仰をも、自分が信じている神をも恥じてはいない。
 
筆者は村上に聞きたい、あなたはこのようなことに耐えられるかと。あなたはかつて自分が生命の危険を賭してカルトと闘っているかのように主張し、他方、筆者の論は、安全なところから、悪ふざけで石を投げて楽しむだけの無責任なものであると決めつけていたが、実際のところはどうなのか。

筆者は自分の命を最後まで神のために注ぎだしたいと願っており、神に従い抜く上で、中傷されること、軽んじられること、誤解されること、離反されること、孤独や、苦しみの中を通過させられることを、甘んじて受け入れる覚悟があり、実際に日々十字架を負っている。だが、あなたはそれに耐えることができるか、また、それにどれくらい耐えた経験があるのか。

しかし、そのようなことは、筆者にとって、どうでも良い問題である。筆者は人間の思惑を意に介していないので、村上や杉本や唐沢のような人間からどう見られようとも、それが重要な問題なのではない。私たちがただ一人、その眼差しを得たいと願い、その信頼と賞賛を勝ち得たいと切に願い続ける存在は、人間とは別にある。

その方への愛と希望と信頼があればこそ、また、その方がすべての人々の願いと呼び求めに実際に応えて下さるという確信があればこそ、私たちはあらゆる試練に耐えて信仰を保ち続けて前進することが可能なのである。
 
この世に対して、人間に対して、自己に対して、徹底的に絶望し、これらの腐敗・堕落したものに対して、十字架の霊的死を経由することなくして、神に真に希望を見いだすことは、誰にとっても、無理な相談なのではないかと筆者は考えている。この世に対して死んだことがなく、自己に対しても、人間に対しても、絶望することもなく、依然として、この朽ちる、移ろいゆくものに希望をつなぎ、すがりつき、そこによすがを見いだしている人々に、見えない神を本気で愛し、信頼し、従い抜くなどのことができるとは思えない。

聖書は言う、

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)

「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。
「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、
 裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。」(ローマ3:4)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(16)―生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。

11.訴訟費用を払わない他人を非難しながら、自分は賠償金を踏み倒そうとする杉本徳久

もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。

モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて、情け容赦なく死刑に処せられます。まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。

復讐はわたしのすること、
 わたしが報復する
と言い、また、
主はその民を裁かれる
 と言われた方を、わたしたちは知っています。生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。」(ヘブライ10:26-31)

4月29日午後13時頃、筆者は杉本徳久に債務の支払いを要求するために電話で連絡した。何日か前から連絡していたのだが、ようやく電話がつながると、杉本は「忙しい」とか「弁護士と話す」などの理由にもならない理由で、支払いを拒否、そそくさと向こうから電話を切った。この男の狡い本性がよく分かる会話であった。

ちなみに、杉本がかつて勝訴したHCCの牧師に、通常の訴訟ではあまり請求されることのない訴訟費用を請求し、弁護士の手続きの仕方が不誠実で、支払いが遅い、卑劣だ、とブログでさんざんぼやいていたことは周知の事実だ。

「嘘つきの作った合意書」で、杉本がどんな言葉でHCC側の対応を非難していたか、ここに転載しておこう。

「完全敗訴が決まった後に判決で命じられた「訴訟費用」の支払いについてさえのろのろした上に、その訴訟費用請求申し立て手続きについても実際はほとんど全く使われない手続きであるのにそれが一般的な普通の方法だ、と法律家ではない素人の私に対して嘘の説明をしてきた人物。
 私からは彼らに十分な告知、猶予期間を設けて連絡したが、松下自らの怠惰によって応対が遅れに遅れた揚げ句、自分勝手にこの8月末に支払うと振込期限を一方的に設定。ここまで来ると怒りを通り越して呆れかえってしまう。どうしようもない弁護士であり、司法の担い手に全くふさわしいといえない。人間、ここまで卑しくなれるものとは情けない限り。だ

この言葉はそっくり杉本にお返ししよう。もはや判決から一カ月、十分な告知期間、猶予期間をもうけて筆者は杉本に連絡した。ところが、杉本は自らの怠慢によって対応を遅らせ、身勝手な言い訳を並べるばかりで、筆者が提示したGW明けという支払い期限さえ守る姿勢を見せなかった。

杉本の極度なほどのものぐさ精神と、切手代まで惜しむほどのケチさぶりは、民事調停の時点からすでに見えていたのだが、以上の記事で、HCC側が微々たる訴訟費用を払わないことをさんざん非難していた杉本は、自身が判決から1ヶ月経っても、賠償金をまるごと踏み倒そうとしていることについて、どのように弁明するのだろうか。

ここまで来ると、憤りや情けなさを通り越して軽蔑が残るのみである。人間、果たして、ここまで卑しくなれるものだろうか・・・。筆者は杉本自身の言葉をそのまま彼にお返しする。

杉本はこの記事のコメント投稿欄にもこう書いていた、「榊山清志も、中村良二も、松下泰三も、竹内徹も、みな本当に卑劣で許し難い人たちであると私は思います。 」

いや、卑劣で許しがたいのは自分ではないのか? こうして数多くの他人だけは実名で非難しながら、自分だけは何をやっても許されると言わんばかりに、自分が非難した人々以上の無責任な行為に手を染め、その上、こそこそとブログから名前を消して、幽霊人間にでもなれると思っているのか。

尊大な口ぶりで、他人ばかりを厳しく責めながら、自分は微塵もしかるべき社会的責任を負おうともしない。自分が他者から受けた仕打ちを、ただ自分よりも弱い人間にいたずらに投げ返しては、弱い者イジメにいそしみ、鬱憤晴らしをすることしかできない。

これがこの男の正体なのである。他人には厳しく、自分には甘く、とことん利己的で、子供のように幼稚としか言いようのない身勝手な行動の数々。株式会社メディアテラスと取引することが何を意味するのかをも、読者はよく考える必要があろう・・・。

さて、杉本が弁護士と相談しても、書面を送る先は裁判所以外にどこにもない。むろん、賠償金の支払いの際に、筆者に杉本と合意書など交わす義務がないことは言うまでもないので、杉本の言い分は、単なる時間稼ぎであることは見え透いている。控訴して判決を覆すために戦うつもりがあるなら、とうにそのように意思表示しているはずである。

要するに、自分から本格的に相手と戦うために手間を払いたくないが、不利な判決も認めたくない。どこまでも労力を惜しみつつ、不利な事実から逃げ続けるだけの無責任で卑劣な人間の姿があるばかりだ。

取り立てはこちらの正当な権利なので、今後も、容赦なく実行するのみである。それに従わなければ、杉本の社会生活が、中断せざるを得ないような、合法的かつ正当な法的措置を講じねばならなくなるだけだ。

筆者はあくまで正攻法で行く。だが、正攻法でも相当なことができることは、読者にも知っておいてもらいたい。警察は基本的に、民事不介入であるが、筆者が民事と刑事の二本立てで攻めるのは、ただ処罰を求めるがゆえだけでなく、犯人が逃亡した場合のことを見越しての措置でもある。

先週、筆者は三時間ほども警察の上部とやり取りして、この問題について話し合った。杉本のことだけでなく、村上による権利侵害のことも、掲示板の集団リンチのことも、反カルト脱会運動の人権侵害のことも、何もかも告げてある。告訴事実に記載した内容だけでなく、この紛争がどのような信仰的な意味と背景を持つものであるのかも伝えている。警察からは、しかるべき措置を必ず講じることの約束があり、確かに、天文学的な時間数に渡る労力を払って、上部を呼んだ意味はあると言える会話であった。

今、杉本がこのように極端とも見えるほどの不誠実な態度を見せて、自分が何カ月もかけて関わって来た民事の判決にさえ逆らっているのは、決して偶然ではないと、筆者はみなしている。なぜなら、刑事事件で処罰に至るためには、それなりに超えなければならないハードルがあるからだ。たとえば、不法行為がおびただしい回数、繰り返されており、犯人に反省の意がなく、誠意も見られず、法的・社会的責任を負う能力はあるのに、全くその意思が見られないなど、どうしても処罰しなければならないだけの悪質性が必要となる。

だが、筆者から見て、杉本はそのために必要な要件を見事に満たしつつあるように見える。情けを受ける余地を自分で減らし、行き着くところまで行き着こうとしている。要するに、それほどまでに処罰を望んでいるといことなのであろう。

筆者は2010年から杉本はラスコーリニコフに倣って法的処罰を受けるべきだと主張している。その当時、まだそう言えるだけの明白な根拠は揃っていなかったかも知れないが、時と共に、その予告はますます現実化している。

このように判決をないがしろにすると、刑事事件の進展にも影響を与えるだけでなく、これから始まる控訴審での被告らの印象も、出だしから極めて悪くなる可能性があることは確かだ。それにしても、プロテスタントの諸教会をあれほど居丈高に断罪し、司法・警察を通じて牧師の責任追及を行うよう呼びかけていた男としては、あまりに恥知らずであるとしか言いようがない・・・。

* * *

12.被害者意識をバネに連帯し、御霊に背き、神に逆らう「カルト被害者救済活動」

さて、以下では、筆者のカルト被害者救済活動に対する最終的な決別宣言をかねて、今回、第一審で杉本徳久が出して来た書証の中に含まれていた、2009年に筆者がこの運動と訣別するために杉本に宛てて書き送ったメールを紹介しておきたい。

このメールを長年に渡り、筆者は取り戻したいと願っていた。筆者はこのメールをやり取りした直後、杉本のあまりに常軌を逸したすさまじい憤りの剣幕に、恐れと不快感を覚え、メールを削除してしまった。その後、杉本は筆者の手元にオリジナルが残っていないことを逆手に取るように、筆者の書き送ったメールの内容が、あたかも常識はずれの文面で、高慢で許しがたい内容であったかのように、ブログで一方的に筆者を断罪し始めた。

例の1000件以上のコメントが投稿されて杉本ブログが炎上に至ったバッシング記事から、該当部分の記述を抜き出しておこう。

杉本が筆者のメールの文面を歪曲し、筆者がカルト被害者を冒涜していると非難した記事



 
「10日ほど前、彼女からのメールを受け取った。それは、
  
 http://blog.livedoor.jp/mediaterrace/archives/51884112.html
 2009年3月26日 「沖縄 トランスフォーメーション・グロース」

 に「ヴィオロン」の名で書き込んだコメントを消して欲しいという依頼であった。しかし、そこには非常に思い上がった上に自己中心的な、彼女が経験した「回心」とその後の心変わりについての理屈が並べられてあった。市井の社会で求められる良識からは外れた文面であった。

 また、彼女ががらりと立場を変えて非難し始めた私や独裁カルト牧師の被害者信徒たちのことについて記した最新の投稿を熟読した後、私は彼女にこれらあなたが非難している人物の中には明らかに私が含まれていると読み取れるがその認識で良いのかと問いただす返事を送ったところ、彼女は私に対して真理の御霊に全てを問い尋ねよと言い、非難の対象が私であることを書き送ってきたのであった。一度、自分の口から出た言葉は後から消すことができないということがわかっていない。もし、それがネット上のものではなく紙媒体の印刷物であれば不可能である。」
  
筆者はこの当時、オリジナルの文面を残しておかなかったために、具体的な論拠を示して反論することもできないことが、どれほど悔やまれたろうか。

しかし、筆者はその当時から、おそらくこのメールは、必ず杉本側で保存されており、いつか取り戻す日が来るだろうと考えていた。その予想の通り、それから約10年近い時を経て、筆者が杉本に書き送ったメールは、書証という形で手元に戻って来た。

杉本の以上の記事における主張が、いかに嘘に満ちていたかは、以下に挙げる筆者のメールの文面を読めば分かる。

2009年に筆者が杉本とやり取りしたメール
  
      
 
   

「杉本さん

「東洋からの風の便り」を書いているヴィオロンです。

お書きになられたプロフィールから、連絡先をうかがい、メールさせていただいています。

お手数ですが、この度、一つ、お願いがあります。
以下のページにおいて、私が貴ブログに書き込ませていただいたコメント(17)を削除していただきたく、お願いします。

http://blog.livedoor.jp/mediaterrace/archives/51884112.html
2009年3月26日の記事「沖縄 トランスフォーメーション・グロース」

お手を煩わせないため、できるなら、自分でその作業をしたいところなのですが、
貴ブログでは私自身がコメントを修正することも、削除することもできないようになっています。
管理人様だけが、そのような操作が可能かと思います。

書き込みした本人である私自身が削除を願い出ておりますので、
どうかお聞き届け下さいますようにと願っています。

念のために、不要かもしれませんが、削除を希望する理由を述べておきます。
私はかつてカルト被害者の一人として、キリスト教界の不正を声を大にして訴えるということを自分の使命のように考え、その面から、杉本さんの姿勢にも、しばらく同調・賛同しておりました。

悪事を明るみに出すということは、社会改革のために必要なことであり、正しいことだと思っていたのです。

しかし、ある時、ちょうどパウロがダマスコ途上でイエスの光によって倒されてあように、明確に、神御自身が光となって、私の人生に介在されて、私の過去の被害を全て帳消しにされ、悪事と闘うために人生を捧げる道は、信仰によるものではないことを示されました。

主は、社会改革によっては、いかなる救済も人類にはありえず、ただ十字架だけが私と人々の罪と悪からの救いであることを改めて示されました。
十字架を介さなければ、何を訴えても、無意味であることを示されたのです。

こうして、神ご自身が十字架を通して、私の被害を取り除かれたので、その時点から、私はもはやかつてのようにカルト被害者を名乗ることはできなくなり、また、教界の不正と闘うために、人生を費やしている人たちを心から支持することもできなくなりました。

それまでの私の言動、人生の目的は、御心にかなうものではなかったのです。
ですから、この先、これ以上、私は神への反逆を続けるわけにはいきません。

私はただ神にのみ自分を完全に明け渡し、人々に対して、キリスト教界の悪事ではなく、キリストの十字架について語らねばなりません。

その立場は、私のブログ記事の上ではすでに明らかにしておりますし、今後も、明らかにしていくつもりですが、しかし、杉本さんのブログに残させていただいた私のコメントは、明らかに現在の私の立場と食い違う内容のため、削除しておかねばならないと感じています。

何しろ、貴ブログは、私のブログよりも、百倍以上も社会への影響力が大きいため、たった一つのコメントでも、私のブログ全体を凌ぐほどの影響力になりかねないのです。

最近、このことについて熱心に問い合わせて来られる方があったため、私が、自分から世間に誤解を招く内容の発言を残しておくのはよくないと気づかされた次第です。
そのような理由で、お手数ですが、ご協力いただければ幸いです。

ヴィオロン」

 

* * *

筆者はこの時、神はどんな人の受けた心の傷をも癒すことがおできになり、筆者を力強く「被害」から救い出して下さり、もはや傷のない、完全な新しい人として下さった、という事実を杉本に告げて、反カルト運動および被害者陣営に訣別宣言を出した。

ところが、杉本は筆者が被害者意識と完全に決別し、もはや誰からも憐れまれる必要もなければ、助けの手を差し伸べられる必要のない、完全で新しい人として、杉本らの陣営に別れを告げた行為に猛烈に腹を立て、筆者の考えを「許しがたい高慢」として否定しようとした。

杉本は筆者がキリストにあって「新しい人」とされたどころか、むしろ、カルトの宗教洗脳に陥り、重症の精神異常になっているがために、杉本らの活動に賛同できなくなったのだ、などと、それ以降、本年に至るまで、ネット上で筆者に激しい中傷を向けて来るようになったのである。

だが、そうなったのは、杉本がブログを通して、プロテスタントの福音派を猛攻撃して来たことを見ても分かる通り、杉本自身の心の中に、プロテスタントの教会に対する拭い難い被害者意識が存在したからであろうと思われる。

これは唐沢治、村上密にも共通した心理である。唐沢はかつてキリスト教界から追い出されるも同然にそこを出ており、今や自分たちは従来のキリスト教とは別のものを信じていると告白している。村上密は強制脱会により自らの意思を打ち砕かれてキリスト教に改宗させられた過去がある。そして、杉本もアッセンブリー教団でペンテコステ運動につまずき、それを機に、プロテスタントの全教会に対し、尽きせぬ憎悪と懐疑の念を向けるようになった。

これらの人々は、みなキリスト教の理念と教会に対する根強い被害者意識を持つ人々であり、それゆえ、彼らは教会で被害を受けたとする人々に強く心を惹かれ、自己憐憫の裏返しとして、彼らの被害者意識を慰撫し、彼らを支援しようとしたのだと見られる。

そこに、被害者意識による一大癒着としての要塞が出来上がった。これがキリストが十字架で私たちに約束して下さった自由を告げる神の福音に悪質に逆らう反逆的・冒涜的運動になって行ったのである。

彼らの運動は、カルト被害者を自由にするためでなく、いついつまでも被害者意識の中に閉じ込め、決して「被害者」というステータスから抜け出られないようにし、彼らを「救出」した指導者に栄光を帰する材料とするために利用された。

筆者が杉本に2009年に送ったメールの中で投げかけた言葉、そして、当時、筆者がブログで表明していた信仰は、はからずも、被害者を自称する人々が心に持ち続けている被害者意識が、本質的に神の福音に反するものであり、暗闇の勢力の要塞として利用されている事実を明るみに出した。

そうであるがゆえに、杉本はその指摘に耐えられず、これからも被害者意識に立ってプロテスタントの教会を攻撃したいという思いを手放さないでいるために、筆者の主張に全面的に猛反発を示し、それと共に、神の教会における聖徒の交わりと、神が十字架を通して約束して下さっている解放までも、退けたのであった。

書証の中には含まれていないが、筆者が杉本に依頼のメールを送ってからしばらくして、常軌を逸した剣幕で、筆者を詰問・断罪するメールが、杉本から返信されて来た。そこで杉本は、筆者が杉本とカルト被害者を「冒瀆」しているとか、筆者が「匿名に隠れている」などと非難して、個人情報をすべて開示せよ、さもなくば、依頼には応じない、と筆者をなじっていた。

* * *

 杉本の激昂したメールに対し、筆者は以下のように返信した。


「杉本さん、

とりあえずご返信いただけたこと感謝いたします。

私があなたにお願いしたことは、あえてここで二度目に繰り返す必要もないかと思いますが、以前にあなたのブログに書き込みました私のコメントを削除して下さいという、その一点だけです。

それ以外の点について、私は今、あなたとやり取りをする必要性を感じていません。
またコメント削除のお願いを出すにあたって、私には住所氏名等を相手に明かす義務もありません。

コリントⅡ10:12-18節を参照いただければ、分かりますが、私たちの推薦状はキリストだけです。

「自分で自分を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ、確かな人なのである。」

もしあなたが聖霊を受けて、証印を押された主にある私の兄弟であるならば、
私がキリストを信じ、キリストの同じ御霊の証印を受けて遣わされている姉妹であることを
私の証しを通して、そして例によって、おのずから識別するでしょう。

それに加えて、私はあなたのブログに意見することを目的としてメールを出したのではありませんし、また、あなたも、自分のブログに関して、私の意見などをお求めになる必要は全くないかと思います。

なぜならば、杉本さんが本当に主の忠実な僕であるならば、誰の意見を聞くまでもなく、
主が直接、あなたに必要な真理を、御霊を通して、全て教えて下さるはずだからです。

「あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので、
だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。
それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、
あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい。」(Ⅰヨハネ2;27)

どうか真理の御霊に全てを問い尋ねて下さい。

人の意見などには何の価値もありません。それに振り回されていては何一つ始まりません。

杉本さんが心から主に願うならば、唯一、真実であられる神が直接、あなたに必要なこと全てを教えて下さるでしょう。

さて、杉本さんへの私のお願いはすでに申し上げました。それをもしお聞き届けになるご意志がないのでしたら、それはあなたの判断ですから尊重しましょう。そして、後のことはどうあれ、全てを主にお任せいたしましょう。

杉本さんのために兄弟姉妹と一緒に祈っていますよ。

願うことはただ一つ、あなたがこの先、キリストにとどまられ、キリストの命を失うことがありませんように。

また主の平安があなたにあるように。

ヴィオロン」


 
ここで筆者はあえて議論を避けるために、杉本に対して、真正面から反対意見を述べたり、コメント削除の依頼を強要したり、自分の考えを押しつけるような返答は一切しなかった。だが、杉本はここで筆者が「真理の御霊に全てを問い尋ねて下さい」と書いたことを曲解・悪用し、後にこれは筆者が自らのブログでカルト被害者を「冒涜」したことを認める発言だなどと吹聴、あくまで個人情報を開示せよと執拗に求めた。
 
 


そこで、筆者は以下のように返信した。
 

「杉本さんへ

残念ながら、ネット上では、匿名を保つのが一般常識です。

それは個人のプライバシーを守るために社会的に奨励されていることです。

杉本さんがネット上で住所氏名電話番号まで公開なさるのは、あなたの自由ですし、
また、あなたにはきっとあなたなりの信念があって、あえて公人並の負担を自主的に背負い込んでおられるのでしょうが、

それと同様の負担を、あなたのような作業に従事していないほかの人(=公人ではなく私人)にも同様に求めることいささか行き過ぎていると思います。

特に、ネット上で知り合っただけの人に誰かがあなたに個人情報を明かさなかったからといって、すぐに「匿名に隠れている」という表現を遣って、相手を非難するのは適切ではありません。

というのは、その人は、単に防犯上の必要性から、何の悪意もなく、ただ常識に従って、
そうせざるを得なくなっている場合がほとんどだからです。

しかし、杉本さん、それとは別に、もしもあなたが個人として、本当に、私がどのような人間であるのかを知りたい、

と希望なさっておられるのであれば、
私はいつでも喜んであなたに直接、お会いして構わない覚悟でおりますよ。

大人として、個人として、また主の御前にあって、一つの魂として、恥じることなく、互いに礼儀正しく、あなたが私に対して自分を現し、また私もあなたに自分自身を現すことを願っておられるのなら、私はいつでも喜んでそれに応じるつもりです。

ただし、もちろん、せっかく互いに貴重な時間を使うのですから、できるだけ不愉快にならないように気をつけましょう。

互いに非難をなすりつけあったり、罵り合ったり、まるで興信所か、あるいは事情聴取のように自分の聞きたいことだけを根掘り葉掘り無遠慮に尋ねたり、

ただ互いを断罪し合って終わるというような、不愉快でみっともない邂逅は避けましょう。

それではあまりにも幼稚ですからね。互いの印象はますます悪くなるだけでしょうし、主も悲しまれるでしょう。

夫婦喧嘩は犬も食わぬと言われますが、クリスチャンの痴話喧嘩は蛇の餌食になるだけです。

問題は、キリスト教界の問題について、私たちが意見の一致に至れるかどうか、ではありません。

あなたと私とのやり取りの中から、少しでも、1グラムでも、キリストが現れることができるかどうか、なのです。

その希望があるならば、私は喜んで自分の時間を遣うでしょう。

あなたと私との間にはすでに多くの事柄について膨大な意見の食い違いが見受けられますが、しかし、そのような事柄は、キリストご自身の絶大な価値とは比べようもありませんから、それに比べれば、すべては些末な問題です。

しかし、たとえ杉本さんがそう思われなかったとしても、私たちは互いに大人なのですから、ある程度までは、意見の食い違いを耐え忍ぶことはできるでしょう。

「相手にとって不愉快なことを決して強要したりせず、たとえ話が一致しなくとも、穏やかに話、激昂したり、相手をなじったりしない、互いに良い印象で時間を過ごすことにつとめる」という、ごく当たり前の事柄をごく当たり前に守るということに、杉本さんがもし異論がないのであれば、直接、お会いして、互いに相手を確認する方法が、一番、いいのではないかと思いますが?

もちろん、あなたは忙しい人できっと時間は限られているのでしょうが、犠牲はお互い様です。互いに互いを自分の目できちんと見て、その声を聞き、表情を見て、相手に悪意が無いことを確認し、これなら大丈夫と思った範囲内でのみ、自分を明かす、ということは、世間の常識かと思います。

こんな危険なご時世にあって、その確認ができてもいないのに、何でも自分のことを自分からペラペラ話す人がいたとすれば、それはきっと愚か者だけでしょう。

杉本さんご自身も、ご自分が安全な人間であられることを
いつでも喜んで世間に向かって公平に広く証明する心の備えが出来ている人であることを願っていますよ!

吉祥寺付近は一度だけ歩いたことがあります。

それでは。」


 
これに対して、杉本からの返信と筆者からの最後の返信が、杉本側から書証として提出されている。


 
 
以下の杉本の返信を読めば、杉本が自分の気に入らない主張に対しては、揚げ足取りのような難癖をつけ、自己の言い分が通るまで、他者の希望を踏みにじり、まるで自分が世間代表であるかのように尊大で上からのもの言いに終始し、それと同時に、極端な自己卑下によって、直接人と対面することへの恐怖心や劣等感を隠そうとしている様子がよく分かるだろう。

自分から相手に個人情報を要求しておきながら、それでは直接、会って話してはどうかと問い尋ねられると、子どものようにこれを突っぱね、自分自身が相手を拒絶しているにも関わらず、あたかもその拒絶が、相手のせいで起こったものであるかのようにかこつける。

自分の欠点を何も見ようとせず、すべて相手のせいであるかのように転嫁し、ひたすら相手だけを責め続けるあまりにも幼稚な駄々っ子のような返答に、当時の筆者も強い当惑と不快感を覚えた。

ただし、杉本のこうした憎悪を含んだ非難の中には、おそらくは、筆者個人に対する反発だけでなく、そもそも御霊によるエクレシアの信徒の交わりそのものへの嫌悪、教会への憎悪が反映していたのではないかと見られる。

杉本はその後も、カトリック教会に通い続けたと見られ、ミサや祝祭日に出席する必要だけは嫌と言うほど強調し、筆者が既存の教会に通わず、日曜礼拝にも出席しない行為を盛んに非難していたが、杉本はこうして形式的な教会生活の重要性を説く代わりに、不思議なほど、信徒の交わりというものの重要性に言及しない。むろん、信徒の交わりだけでなく、神との交わりの重要性についても、全く触れることはなかった。
 

「拝復、

杉本です。

>杉本さんへ、

>残念ながら、ネット上では、匿名を保つのが一般常識です。
>それは個人のプライバシーを守るために社会的に奨励されていることです。

>杉本さんがネット上で住所氏名電話番号まで公開なさるのは、あなたの自由ですし、
>また、あなたにはきっとあなたなりの信念があって、あえて公人並の負担を自主的に背負い込んでおられるのでしょうが、
>それと同様の負担を、あなたのような作業に従事していないほかの人(=公人ではなく私人)にも
>同様に求めることいささか行き過ぎていると思います。

そのような「一般常識」は存在しません。個人のプライバシーを守るために、
個々のユーザーがそうしている事実はありますが、それが「社会的に奨励」されている良識はありません。
公的なもの言いをするのであれば、特に対外的な信頼が落ち、まして、他者への批判を伴うのであればなおのこと、責任が大きいこと。

あなたがもし、同じ事を、英語やドイツ語、フランス語で書き記したとしても、所詮は匿名。学生論文の方がまだ読む価値がある、と判断されるでしょう。

>特に、ネット上で知り合っただけの人に誰かがあなたに個人情報を明かさなかったからといって、
>すぐに「匿名に隠れている」という表現を遣って、相手を非難するのは適切ではありません。
>というのは、その人は、単に防犯上の必要性から、何の悪意もなく、ただ常識に従って
>そうせざるを得なくなっている場合がほとんどだからです。

他人を公然と否定し、罵倒し、内心に至るまで徹底的に扱き下ろしておきながら「匿名に隠れている」あなたに言えた台詞ではないでしょう。

>しかし、杉本さん、それとは別に、もしもあなたが個人として、本当に、私がどのような人間であるのかを知りたい、
>説き某なさっておられるのであれば、
>私はいつでも喜んであなたに直接、お会いして構わない覚悟でおりますよ。

私は特にあなたにお会いしたいと思っておりません。

>大人として、個人として、また主の御前にあって、一つの魂として、恥じることなく、互いに礼儀正しく、
>あなたが私に対して自分を現し、また私もあなたに自分自身を現すことを願っておられるのなら、

匿名に隠れて散々、私や被害者信徒を否定し、独自の珍説を開陳なさるあなたに言えたことでしょうか。

>ただし、もちろん、せっかく互いに貴重な時間を遣うのですから、できるだけ不愉快にならないように気をつけましょう。

あなたの「貴重なお時間」を私ごときのつまらぬ人間のためにお使い下さらなくて結構です。

>問題は、キリスト教界の問題について、私たちが意見の一致に至れるかどうか、ではありません。
>あなたと私とのやり取りの中から、少しでも、1グラムでも、キリストが現れることができるかどうか、なのです。
>その希望があるならば、私は喜んで自分の時間を遣うでしょう。

あなたとの対話の上には、私に限らず「どなたであれ」、それが現れる希望はないでしょう。

>「相手にとって不愉快なことを決して強要したりせず、たとえ話が一致しなくとも、穏やかに会話し、
>激昂したり、相手をなじったりしない、互いに良い印象で時間を過ごすことにつとめる」という
>ごく当たり前の事柄を当たり前に守るということに、
>杉本さんがもし異論がないのであれば、直接、お会いして、互いに相手を確認する方法が、
>一番、いいのではないかと思いますが?

 そういうことはあなたが中学生の先生にでもなって、子どもに教えて差し上げれば良いでしょう。私はあなたのクラスの生徒ではありません。

>もちろん、あなたは忙しい人できっと時間は限られているのでしょうが、犠牲はお互いさまです。
>互いに互いを自分の目できちんと見て、その声を聞き、表情を見て、相手に悪意が無いことを確認し、

 私ごときのためにあなたの「犠牲」をお払いいただくことは必要がありません。また、あなたに悪意が無いとも私には到底、思われません。

>杉本さんご自身も、御自分が安全な人間であられることを、
>いつでも喜んで世間に向かって公平に広く証明する心の備えが出来ている人であることを願っていますよ!

 私が危険な人間だ、と思っている、と思いたいのであればどうぞご自由に。
 
 あなたと対話することは、「世間に向かって公平に広く証明する心の備えが出来ている」ことに繋がることはありません。

 私と直接会いたいという方は他にもおりますが、基本的にお受けしておりません。

 自分の名を売るためにやっていることではありませんし、目立ちたいとも思っておりません。

 あなたからは、一切、謙虚な心が感じられません。そのままであれば、私に限らず、これからも多くお人から拒絶されるであろうと思われます。

 

杉本はこの時、筆者の提案をことごとく拒絶することによって、おそらくは、聖徒の交わり、御霊の交わりそのものを拒絶したのではないかと見られる。杉本はそうなる前から、プロテスタントのキリスト教会、とりわけ聖霊派の教会を嫌悪・憎悪していたが、この時、決定的に御霊の導きに背を向けて、自分をあらゆる被害者意識から解放することのできる神の福音に背を向けてしまったのではないかと見られるのだ。

それにも関わらず、杉本は、拒絶されているのは筆者であって、自分ではないかのように置き換え、自分自身が神に心を閉ざし、教会にも、聖徒らにも、すべての者に心を閉ざしている疑心暗鬼から来る苦しみを、何のいわれもなく筆者に転嫁しようとしたのである。

それでも、筆者はこの時、杉本の返答に対して厳しい非難の応酬をすることはなかった。 

「杉本さん、

このようなお返事をいただき、とても残念です。

お会いしても構わないということは、あなたが私が何者であるかを予め確認したいと最初におっしゃられたのであえて勇気を持って申し出たことです。

氏名住所電話番号を聞いても相手の人柄は分かりませんが、直接、面と向かって対峙すれば、かなりの程度のことが理解できます。

そうして、顔と顔を合わせて互いに自己紹介して、知り合いになることは、声のないメールだけのやり取りに比べ、人間の出会い方としてはよほど自然です。

しかし、杉本さんにそうされたいご希望がないのであれば、別にそれは結構です。

私は主にあって多くの兄弟姉妹と交わりの機会を得させていただいています。
ネット上でもどれほど多くの貴重な友を得てきたかはかりしれません。

キリスト者は「私の名ゆえにすべての人に憎まれるだろう」とはっきりとイエスによって
聖書で迫害が予告されているとはいえ、しかしながら、今、多くの兄弟姉妹との
優しい愛情の絆を主にあって結ばせていただいているのは、ひとえに恵みとあわれみに
よるのです。また、このつながりは永遠です。

杉本さん、お怒りなのは十分に伝わってきますし、お怒りになるのもあなたの自由ですが、
それにしても、いつでも、火に油を注ぐような結果を招かないために、もう少し冷静になって、
言葉を抑えられた方がよろしいかと思います。

あなたのような方に今のような言葉はふさわしくありません。
見ず知らずの相手に対しては、特に、たとえ好意を持てない相手であっても、
言葉を選んだ方が、あなた自身の御評判と将来を守ることにつながるでしょう。

(おそらく、今のあなたは私のこの言葉さえも悪意という風に解釈されるでしょうが…。)

あなたに主が御顔の光を示してくださり、ただ主ご自身が真実が何であるかということをあなたに見させて下さいますように。

そして、平安があなたに戻りますように。

それでは、これにて失礼します。

ヴィオロン」


  
杉本は筆者がこのように最後まで杉本と議論の応酬を避けたことが、よほど気に入らなかったのであろう。筆者を恐怖させるか、取り乱させるかを目的に、以上のメールを送ったのに、筆者が非難の応酬に応じなかったことに怒りが収まらなかった杉本は、筆者にさらに打撃を与えようと、筆者が上記のメールを返信した直後に、筆者と当ブログだけを標的に、1千件のコメントを伴うバッシング記事を発表した。

それ以来、エクレシアの兄弟姉妹の一員でもなければ、信仰の仲間でもない杉本が、あくまで個人情報を開示せよと、ナンセンスな要求を続け、筆者を異端者と呼んで、長年に渡る不毛かつ不快な関わりを強いて来たわけであるが、そのような不毛な応酬の結果、筆者は現在、間違っても、二度と杉本に対して、上記のような忌憚なく本心を打ち明けたメールを送ろうとは思わないし、杉本を兄弟姉妹の一員として和解を呼びかけることもない。

杉本にふさわしいのは、もはや呼びかけではなく、命令であり、提案ではなく、強制である。しかし、このような地点に至るまでに、筆者自身も、幾度となくためらい、悩み、様々な策を講じたのであるし、杉本にも、幾度も引き返すチャンスが与えられた。

判決が言い渡された後も、杉本は望むならば、自分からメールを送って、支払い方法を相談することも可能であり、差押通知が来た時点で、そうすることもできたのである。

しかし、杉本は自分が人間らしく、思いやりと配慮を持って扱われるための前提条件を自ら破壊し続けた。

そこで、今、杉本に残ったふさわしい呼びかけの言葉は、杉本自身が幾度となく、年末年始やGW中に筆者に送りつけて来た恫喝メールの調子を、そっくり返した債務取立の文面、「ゴールデンウィーク明けまでに債務の支払いなき場合」くらいであろう。

こうして呆れるほどに長い、無益なエクソダスの行程の果てに、2009年以来、筆者が主張していたカルト被害者救済活動との訣別はようやく成し遂げられた。

筆者は二度と「カルト被害者」を美化したり、彼らに寄り添おうとは思わない。むしろ、これから、聖書に反するこの運動に対する裁きが始まると考えている。「被害者」という美名に隠れて、神の聖なる教会を容赦なく断罪した人々には、どんなに厳しい裁きが下されるであろうか。人は自分自身が他人を裁いて来た基準で、自分自身も裁かれることになるのである。
  
もう一度、冒頭に挙げた御言葉を繰り返しておく。

モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて、情け容赦なく死刑に処せられます。まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。

生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。