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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

主は計らい、あなたの正しさを光のように、あなたのための裁きを真昼の光のように輝かせてくださる。

悪事を謀る者のことでいら立つな。
 不正を行う者をうらやむな。
 彼らは草のように瞬く間に枯れる。
 青草のようにすぐにしおれる。
 
 主に信頼し、正義を行え。
 この地に住み着き、信仰を糧とせよ。
 主に自らをゆだねよ
 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

 あなたの道を主にまかせよ。
 信頼せよ、主は計らい
 あなたの正しさを光のように
 あなたのための裁きを
 真昼の光のように輝かせてくださる。

 沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。
 繁栄の道を行く者や
 悪だくみをする者のことでいら立つな。
 怒りを解き、憤りを捨てよ。
 自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。
 
 悪事を謀る者は断たれ
 主に望みをおく人は、地を継ぐ。
 しばらくすれば、主に逆らう者は消え去る。
 彼のいた所を調べてみよ、彼は消え去っている。

 貧しい人は地を継ぎ
 豊かな平和に自らをゆだねるであろう。
 
 主に従う人に向かって
 主に逆らう者はたくらみ、牙をむくが
 主は彼を笑われる。
 彼に定めの日が来るのを見ておられるから。

 主に逆らう者は剣を抜き、弓を引き絞り
 貧しい人、乏しい人を倒そうとし
 まっすぐに歩む人を屠ろうとするが
 その剣はかえって自分の胸を貫き
 弓は折れるであろう。

 主に従う人が持っている物は僅かでも
 主に逆らう者、権力のある者の富にまさる。

 主は御自分に逆らう者の腕を折り
 従う人を支えてくださる。
 無垢な人の生涯を
 主は知っていてくださる。
 彼らはとこしえに嗣業を持つであろう。
 
 災いがふりかかっても、うろたえることなく
 飢饉が起こっても飽き足りていられる。
 しかし、主に逆らい敵対する者は必ず滅びる。
 捧げ物の小羊が焼き尽くされて煙となるように。

 主に逆らう者は、借りたものも返さない。
 主に従う人は憐れんで施す。
 神の祝福を受けた人は地を継ぐ。
 神の呪いを受けた者は断たれる。

 主は人の一歩一歩を定め
 御旨にかなう道を備えてくださる。
 人は倒れても、打ち捨てられるのではない。
 主がその手をとらえていてくださる。

 若いときにも老いた今も、わたしは見ていない
 主に従う人が捨てられ
 子孫がパンを乞うのを。
 生涯、憐れんで貸し与えた人には
 祝福がその子孫に及ぶ。
 悪を避け、善を行えば
 とこしえに、住み続けることができる。

 主は正義を愛される。

 主の慈しみに生きる人を見捨てることなく
 とこしえに見守り
 主に逆らう者の子孫を断たれる。
 主に従う人は地を継ぎ
 いつまでも、そこに住み続ける。

 主に従う人は、口に知恵の言葉があり
 その舌は正義を語る。
 神の教えを心に抱き
 よろめくことなく歩む。

 主に逆らう者は待ち構えて
 主に従う人を殺そうとする。
 主は御自分に従う人がその手中に陥って裁かれ
 罪に定められることをお許しにならない。
 
 主に望みをおき、主の道を守れ。
 主はあなたを高く上げて
 地を継がせてくださる。
 あなたは逆らう者が断たれるのを見るであろう。

 主に逆らう者が横暴を極め
 野生の木のように勢いよくはびこるのを
 わたしは見た。
 しかし、時がたてば彼は消えうせ
 探しても、見いだすことはできないであろう。

 無垢であろうと努め、まっすぐに見ようとせよ。
 平和な人には未来がある。
 背く者はことごとく滅ぼされ
 主に逆らう者の未来は断たれる。
 
 主に従う人の救いは主のもとから来る
 災いがふりかかるとき
 砦となってくださる方のもとから。
 主は彼を助け、逃れさせてくださる。
 主に逆らう者から逃れさせてくださる。
 主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。」(詩編第37編)

* * *

さて、以前にも、なぜ使徒行伝には、使徒たちの殉教の場面が書かれていないのかということについて書いた。

本来ならば、使徒たちの殉教は、信仰の道を貫くためのクライマックスであるから、物語としては、これが描かれていた方が、ドラマチックで完成しているように見える。

それに引き換え、現存の聖書66巻に含められている使徒行伝では、使徒の殉教は随所で示唆されてはいるものの、実際にその場面の描写はなく、むしろ、使徒たちおよびクリスチャンが迫害に耐え抜いて、信仰を宣べ伝え、各地の教会が紆余曲折を経ながら成長して行く過程が重点的に描写されている。

使徒行伝の締めくくりにはこうある、「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」(使徒行伝録28:30)

ここには、パウロがいずれ殉教するのだという悲壮感は全くない。むしろ、神の国を告げる福音が拡大して行き、これからエクレシアは完成へ向かって行くのだという期待感が感じられる。

これは中途半端とも見えるような、未完成を思わせる終わり方である。花嫁エクレシアはまだ幼く、婚礼の支度にも入っていないが、もっと後になれば、物語のクライマックスがやって来る。しかし、それはこの時代にはまだ起きていない事柄であるから、描かれていないだけであって、真に重要な出来事は、これから始まる、まさにあなたたちの生きる時代に起きるのですよ・・・、とでも言いたげな期待感を込めたニュアンスが伝わって来るように思う。

つまり、使徒行伝は終わっておらず、今日の時代までずっとこの物語は続いていているのであり、パウロの生活から、一歩、前へ足を踏み出せば、そこに私たちの時代があって、私たちもその続きを生きているのだ、と言いたげな終わり方に感じられる。

とにもかくにも、エクレシアが完成に向かうというテーマに比べると、使徒たちが殉教して生涯を終えるということは、取るに足りない事であるかのように扱われているような気がしてならない。

さらに、使徒たちの殉教の描写が聖書にないのは、それがローマ帝国という多神教の異教的世界観を土台とした政治状況の中で起きた出来事だからこそであると、筆者はかつて書いた。

もしも使徒行伝の中に使徒たちの殉教の場面が描かれていたならば、おそらく、それを読んだ後世の人々は、彼らの生涯の終わりを模範のように考えるようになり、信者は誰しもそのようにして、時の政治権力と対立関係に陥り、迫害されて、非業の死を遂げるのが理想だとさえ考えるようになるだろう。

しかし、聖書はもともと人類の罪を贖うためのキリストの死と復活を中心に据えており、最初から最後まで、被造物の代表・初穂として贖われ、ただ一人神の目にかなう「完成された人」であるキリストについて語っているのであり、政治問題には全く主眼を置いていない。時の政権による信仰に対する迫害というテーマは、聖書のメインテーマから外れている。さらに、聖書はこの世において立てられた権威に逆らうようにとは信者に全く教えていない。従って、聖書は、信者を政権に対して刃向かうように、政治闘争へ赴くように焚き付けることを全く目的としていない。

しかも、使徒たちの殉教は、ローマ帝国が多神教の神話を建国の理念とし、キリスト教を公認していなかった時代という、一定の政治・時代状況を背景にしてこそ、起き得たものなのであって、今日の民主主義に基づく政治体制において、同様の現象が再び、繰り返されうるかと考えれば、それは(独裁体制やら共産主義国などの特殊な政治形態を除き)考えにくい。

そこで、そのように特殊な政治状況、時代状況のもとにしか起き得ない現象を、あたかも普遍的な事象(もしくは信者のあるべき模範)であるかのように描くという混乱が起きないために、また、キリスト教徒を政治権力との無用な対立関係に陥らせたり、使徒を迫害したこの世の政治権力に対する反感をいたずらに信者たちに抱かせるという結果が起きないよう、あえて聖書には、使徒たちの殉教の描写が省かれているのではないかと筆者は考えるのである。
 
ところで、「ルカによる福音書」と「使徒行伝」はともに同じ著者による二巻の書物であるが、どちらもが、パウロの死後十数年以上が経過してから書かれたものであるとみなされている。つまり、使徒行伝は、パウロの殉教後に書かれたものであって、まだ事件が起きていなかったために、この書物にパウロの殉教の描写がないというわけでは決してない。

さらに、パウロの殉教後に書かれている以上、これらの2つのルカによる書物が、パウロが裁判において有利な結果を得られるよう援護射撃として書かれたとみなす理由は存在しない。

ルカの2巻の書物が目的としているのは、パウロの運命を左右するために何らかの手立てを講じることではなく、あくまでキリストがどのような方であるかを宣べ伝えることにある。
 
さらに、パウロが上訴したカエサルとは、今日、キリスト教徒の迫害者として知られている悪名高い皇帝ネロである。その時代、ネロはまだキリスト教徒に対する大迫害に及んでいなかったが、パウロがカエサルに上訴したことによって、裁判において有利な立場に立ったとか、勝訴判決を得たといった記述は、聖書の中では全く見受けられない。

パウロがネロに上訴したことによって、いかなる結果が起きたのか、また、パウロが殉教に至った理由と、パウロがそれまでに受けた裁判との間にどのような関連性があるのか、具体的なことは不明である。

とはいえ、パウロは皇帝ネロの命により、斬首されて処刑されたとも言われている。パウロの殉教は、暴徒による襲撃などの結果ではなく、為政者から有罪とみなされたがゆえの処刑であったことは、ほぼ定説である。

このように、パウロがキリストの復活の命にあずかり、神からの力強い義認を受けていたにも関わらず、なぜ異教的世界観の支配するこの世の不正な裁判によって罰せられたり、不正な君主によって死をもって処罰されるようなことが起き得たのかという問題は、聖書では取り上げられていない。このことは他の聖書箇所と対比して、大いなるパラドックスに見えるかも知れない。

なぜなら、もし神が私たちの味方であるならば、だれが私たちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義として下さるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(ローマ8:31-34)

というあの力強い神の義認に関する宣言は、他ならぬパウロ自身の記述だからである。このように書いたパウロが、ユダヤ人からの讒言に基づき、裁判で有罪を宣告されるか、もしくは皇帝から不当な判決を受けて処刑されたりするようなことがどうして起き得ようか。

聖書はこのパラドックスを説明していないが、筆者の目から見ると、それはやはり、ギリシア・ローマ神話の多神教の世界観に基づくローマ帝国という特殊な政治・時代背景と関係があるように感じられる。つまり、パウロの殉教という出来事は、異教的な世界の中で、その時代状況に限定して起きた出来事だったからこそ、聖書はあえてパウロの殉教を「キリスト者の模範」のように描くことなく、むしろ、「例外」のごとく扱い、パラドックスとして説明することもなく、通り過ごしているように思えてならないのである。

確かに、聖書には多くの殉教者が存在することが記されている。殉教そのものは、キリスト教徒の召しの中で非常に重い価値のあるものである。ステパノの殉教の時と同じように、使徒たちの殉教が土台となればこそ、その後、福音の広がりがあり、ローマ帝国へのキリスト教の浸透という出来事も起きたのであろうと見られる。今日我々が享受している信教の自由も、そうした犠牲の上に獲得された権利であると言えるかも知れない。

しかしながら、使徒たちの殉教は、教会の最初の礎が築かれたことを意味しているに過ぎず、今日のキリスト教徒が、パウロや、他の使徒たちと同じ政治状況に生きていないのに、彼らと同じように、時の政権からの迫害と受難の末、殉教すべきであるという定式のようなものは、決して存在しないと筆者は見ている。

むしろ、今日の「殉教」のスタイルは様々であり、「日々の殉教」というものもありうるし、何よりも、信者が殉教を目的化して、自ら死を目指すようなことを、聖書は全く教えていない。特殊な政治情勢下における迫害が起きた場合を除いて、今日のキリスト教徒のために、神は死ではなく命を、罪定めではなく、小羊の血潮に基づく潔白を、圧迫ではなく、むしろ、大いなる自由を与えて下さり、主により頼んで生きるすべての人々に対し、様々な苦難はあれど、神は最終的には、冒頭に挙げたダビデの詩編のごとく、

「あなたの道を主にまかせよ。
 信頼せよ、主は計らい
 あなたの正しさを光のように
 あなたのための裁きを
 真昼の光のように輝かせてくださる。」

主は御自分に従う人がその手中に陥って裁かれ
 罪に定められることをお許しにならない。
 
 主に望みをおき、主の道を守れ。
 主はあなたを高く上げて
 地を継がせてくださる。
 あなたは逆らう者が断たれるのを見るであろう。

と記された通り、主により頼む信仰者が、不当な濡れ衣を着せられて恥をこうむり、罪に定められるようなことが決してないよう、キリストの義がそれにあずかる者にもたらす絶大な効果を、クリスチャンのみならず、この世の人々の前でも、真昼の光のように輝かせ、私たち信じる者を悪人たちによる謀略や、あらゆる虚偽の訴えから、守って下さるものと筆者は確信している。

だから、筆者自身も、真に信仰により頼んで生きるキリスト者が不当な判決を得て有罪に終わることなど全くあり得ないこととみなしており、

「もし神が私たちの味方であるならば、だれが私たちに敵対できますか。」

「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義として下さるのは神なのです。」

「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」


とのパウロの宣言を文字通り、心に確信している。パウロに起きた出来事は、あくまでローマ帝国でキリスト教が国教化される前の、帝国内にキリスト教が浸透しつつあり、教会が生まれたばかりで成長し始めていたその困難な状況の中で起きた出来事であり、今日の一人一人のクリスチャンがそれを模範や理想として生きるために起きた出来事ではないのである。

だから、我々が心がけるべきは、あらゆる理不尽な出来事が降りかかるように思われる時にも、虚偽の訴えや、謀略によって追い詰められるような時にも、心真直ぐに主を信頼し、神がふさわしい解決を与えて下さり、信じる者を義として下さることにいささかも疑いを抱かないで、憤りを捨て、心騒がせず、平安の中に座すことであろうと考えるのである。
 
「無垢であろうと努め、まっすぐに見ようとせよ。
 平和な人には未来がある。
 背く者はことごとく滅ぼされ
 主に逆らう者の未来は断たれる。
 
 主に従う人の救いは主のもとから来る
 災いがふりかかるとき
 砦となってくださる方のもとから。
 主は彼を助け、逃れさせてくださる。
 主に逆らう者から逃れさせてくださる。
 主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。」

* * *

ところで、一旦、御言葉による確信に立ったならば、恐れや、不安や、疑いを抱かないことは重要である。なぜなら、これまでにも幾度も書いた通り、キリスト者にあっては、彼の霊の内側で起きることが、周囲の環境にそのまま影響するからである(霊的命が環境を創造する)。

「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37)
 
イエスが言及された「生ける水の川」とは、御霊であり、復活の命であるキリストの霊の只中から生まれて来る命の流れであり、天的な秩序のことでもある。

 信仰によって、不正のあるところに正義をもたらし、嘘の只中に真実をもたらし、弱く貧し人たちを豊かさへと導き、悲しむ者に慰めを、とらわれ人を自由にすることのできる、天的な秩序をこの地に引き下ろすことのできる、清く純粋な命の泉は、信じる者の霊の内側にある。

その清い命の流れは、人の霊の内、心の只中から湧き出て来る。その流れを絶やさないようにし、周囲を潤すことのできる、清い心の泉を枯れさせないよう守るためには、信者が神と自分の心との間に、さえぎるものを置かないようにすることが重要である(それが無垢であることの意味である)。

我々の生活の中では、理不尽だと感じられる出来事は、絶え間なく起こる。それによって、心を曇らせ、霊を圧迫されて、命の流れをせき止めてしまうと、私たちの働きは止む。

様々な疑念、不満、悩み、理不尽であるという憤りなどが、どんどん心をにため込まれて行くと、それはやがてバリケードのようにうず高く積みあがり、命の流れを完全に塞いで、せき止めてしまう。

キリスト者の霊の内側から流れ出す命の流れは、その人の心が信仰によって抱く喜び、愛情、希望、信念等と密接な関係があり、心が重荷で塞がれて、意気阻喪していたり、憤りに満ちているときに、開放的な命の流れを生み出すことはできない。

だから、信者は絶え間なく、新しい創造を行って、大胆に主の御業の中を生きるためには、心に去来する様々な重荷や圧迫を手放し、投げ捨て、自分自身の霊(むろん心も)の状態を常に明朗に、清く、軽快に、開放的に保っておくことが必要なのである。

それは決して、ポジティブ・シンキングのような心のコントロールを意味するものではないし、あるいは、不当な状況の只中に置かれても、笑ってなすがままになれという意味ではないし、理不尽な出来事を、理不尽であると感じて憤ってもならず、そのように主張してもいけないという意味ではない。

以前にも書いた通り、理不尽な状況は理不尽であると主張して構わないのである。ただし、状況の理不尽さを打ち破るための最大の秘訣は、憤って自分で誰かに報復したりすることにはなく、ただまっすぐに主の救いを信頼し、これを砦とし、糧とし、よすがとして、喜びを持って歩み続ける信仰の姿勢を捨てないことにある。

だから、心を憤りでいっぱいにしてはならないのである。

私たちの心は、被告であるサタンに対して開かれていたのではいけない。しかし、憤りを持ち続けると、やがてそれは報復願望や、悪事の企みへとつながって行き、悪魔に対して心を開くことにつながりかねない。

だから、私たちは、理不尽な状況に遭遇したとき、敵対者に対する憤りを心に抱き続けるのではなく、むしろ、まことの裁き主である神に直接、その事件を訴え、私たちの力強い弁護者でもあ神に自分の言い分を聞いていただき、主が自らの言い分を私たちに向かって述べて下さるときを待ち望むべきなのである。

そうして、理不尽と見える様々な状況の中に置かれたときにも、その状況の理不尽さだけに目を留めることなく、むしろ、その状況の中に、神の御手が働いており、その状況さえも、私たちが自分の心を治める上で、必要不可欠な訓練として与えられているものであって、私たちがその訓練において学ぶべきことを真に習得しさえすれば、その状況は、早急に取り除かれることを思うべきなのである。

神が信者のために正しい裁きを輝かせて下さるのは、私たちがそれを理解した後の瞬間のことである。つまり、私たちは今この時代に、使徒たちのように殉教して命を捨てることを自ら願う必要はないにしても、「日々の殉教」は否が応にも与えられる。

私たちにとって、理不尽かつ苦難と感じられる出来事は日々起きて来る。その中には、私たちの感情を揺さぶり、圧迫し、怒りを抱かせるような、相当に困難と感じられる出来事も含まれているであろうが、すべての状況には意味があり、それも神の深い采配の下に与えられているのであって、信者がいかなる状況においても、主を信頼して心騒がせず、勝利の確信に立って、揺るがされない方法を学びさえすれば、信者を取り巻く状況は、劇的に改善する。

悪の軍勢はカルバリで打ち破られているため、本当は、私たちを取り巻く状況が真実なのではなく、私たちが何を信じるのかにすべてがかかっているのである。だから、私たちは自分の外で嵐のような出来事が荒れ狂う瞬間にも、心を穏やかに保ち、勝利はすでに主にあって取られているという確信に常に立てるようにならなければならない。それができるようになれば、状況はもはや信者の心に触れなくなり、悪しき様々な問題には終止符が打たれる。

すべての試練、困難な状況は、信じる者が、自分で自分の心を守り、そこから湧き出る価値ある命の流れを絶やさず、いかなる状況においても、注意を逸らされずに、自分のミッションを果たし続けることを学ぶためにこそ、与えられているものなのである。

だから、神に対して心を開き、その御言葉に従い、サタンの言い分には心を閉ざし、これを退けなさい。あなたの心を、敵の蒔く様々な悪しき思いから守り抜き、喜びを絶やさないで目的へ向かって進む方法をできるだけ早いうちに学びなさい。
 
「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。」(箴言4:23)

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あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。

「また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。

あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」(ルカ22:24-30)


訴訟の判決が、出口のない堂々巡りのような問題に、待ち望まれていた新たな脱出口を与え、紛争当事者だけでなく、社会のあり方までも変えることが分かって以来、筆者は、裁判所という不思議な場所に魅了されてしまった。そこから、汲めども汲めども尽きることなく流れて来る命の泉のような流れに、日々、何かの形で関わりたい、もしくは、関わることができないかと願っている。

身近で日々、法律関係、裁判関係の用語を見聞きすることができるのは、筆者にとっては、まさに、演奏家が毎日、様々な楽曲の音色に耳を傾け、楽譜をめくっているような具合で、幸いである。

筆者の夢は、この地に召されてやって来たときから、いつかここから、生ける水の川々が尽きせぬ洪水のような流れとなって溢れ、流れ出ることにある。

これがいわば、筆者に与えられた「開拓伝道」である。これを馬鹿らしいファンタジーを語っていると笑いたい人がいれば、それはそれで結構である。

筆者の住んでいる県の名前は、全国で唯一、神の名がつけられている都道府県であるが、長年、命の川どころか、荒野しか見当たらない中で、敵の襲来や、かんばつに脅かされ、一体、初めに与えられたビジョンが、いつどういう形で実現するのか、分からない月日がずっと続いた。

もはや筆者に何かの召しがあったことさえ、人々はもちろん、筆者自身さえも忘れ去ろうとしていた頃、筆者は、裁判所という不思議な「干潟」を見つけ、そこから不思議な命の流れが湧き出ていることを発見した。

霊的大干ばつの最中のことである。裁判所には、人々が目を背け、耳を塞ぎ、足早に通り過ぎて行きたくなるような、こじれた訴えばかりが送りつけられ、うず高く積まれていた。それはまるで見栄えのしないヘドロや泥水ばかりがたまった何の役にも立たない「干潟」のようである。

筆者自身が、誰も見向きもしない訴えを抱えてそこにたどり着いた。その時は、誰一人として筆者を応援する者もなかった。しかし、筆者はそこに正しい裁きが存在するという噂を聞きつけ、最後の望みを持ってそこにたどり着いたのである。

やはり、噂は嘘ではなかった。その「干潟」にたどりつくと、そこにたまった「あぶく」の一つ一つに、不思議な光が当てられ、光合成が働き、それが神秘的な作用により、新たな命を生み出すエネルギー資源へと変えられていることが分かった。

干潟は単に水が腐った無用な地帯ではなく、そこには人手によらず、太古から続けられて来た途方もなく不思議な天然のエネルギー資源の循環があった・・・。そこで、筆者も自分の訴えに順番が回って来て、光が当てられるのを待った。実際に、その結果としてどういう現象が起きるのかを知ってから、この不思議な「干潟」に魅了されて、そのそばを離れられなくなったのである。

裁判所が扱う訴えの範囲は、とどまるところを知らない。たとえば、筆者は我が国に、行政職員を罷免する制度がないのは、本当に異常であると感じている。本来ならば、国家公務員に対して、国民は罷免権を持っているはずだが、行政の職員に対してはそれはない。

筆者は我が国で国家・地方公務員と呼ばれている人々は、憲法上定められた公務員の定義から外れており、これは戦前の遺物としての「官吏」の残存物のような、不明な位置づけにある集団だという考えを、他の人々の主張を踏まえ、提示して来たが、罷免権がないという意味でも、その考えは裏づけられているように思う。

本来ならば、公務員の選定と罷免は、国民固有の権利であるはずなのに、実際には、行政職員に対しては、市民は何もできない立場に置かれており、それゆえ、あまりにも行政の腐敗が進み過ぎたのである。

国家公務員の不祥事について、人事院は個別の要件を扱わず、関係省庁は苦情があったからと言って、何の対処の権限も実際にはほとんど行使しない。行政に関する苦情について、市民にはどこにも訴える場所がほぼないのが実状である。

だからこそ、今日の行政には決して自浄作用というものが全く期待できず、裁判所のように市民からの訴えを真剣に取り上げる場もほぼほぼなくなっているため(システムが形骸化してしまっている)、一旦、役所が腐敗すれば、その腐敗はとどめようもなく、仕事をしない役人がいたからと言って、これをクビにする方法も市民にはないといった状況が生まれる。

行政は、市民と直接、接しているにも関わらず、市民からの声を汲み上げづらい状況にあり、その乖離がますます進んでいるように見えてならない。
 
もちろん、行政といっても、ありとあらゆる分野が存在するわけで、すべてがすべて腐敗の危険の只中にあると言うつもりはないが、やはり、国民からの選定と罷免の権利が及ばないことには、それだけの大いなる暗闇が存在するものと筆者は思う。
 
ところが、裁判所はそうした用件であっても扱える。もちろん、裁判所が公務員を罷免するわけではないにせよ、事件を裁判所に持ち出すことによって得られる効果は絶大である。裁判所には、行政の決定さえも覆すだけの権威がある。そして、その原動力となるのは、やはり、取るに足りない弱い無名の市民からの一つ一つの訴えである。

紛争を起こすことは、一見、物事を紛糾させ、問題を深化させるだけの行為のように見えるかも知れないが、筆者は、その一つ一つの訴えには、はかりしれない意味があると考えている。

物事を丸くおさめ、自分が譲歩して、あるいは願いをあきらめて、穏便に早期に和解によって紛争を解決するのは、「美しい」決着のように見える。それに比べ、紛争を提起する行為自体が、和を乱す「美しくない」行為と見える。まして紛争を徹底的に戦い抜いて、白黒決着をつけるなどの行為は、なおさらそう見えるだろう。

だが、実際には、その見栄えの悪い、調和を壊すような「美しくない」訴えの数々の中から、はかりしれない価値が生み出されているのが現実なのである。リスクを覚悟で最後まで訴訟を戦い抜く人々がいなくては、画期的な判決が生まれることもなく、その分だけ、社会の進歩や、成果が、勝ち得られずに終わる。

そういう意味で、筆者は、当事者が戦い抜いて得た判決には、やはり決して社会全体がおざなりにできず、またそうしてはならない絶大な価値があるものと考えている。

賠償金がいくら払われるか、どうやって支払わせるのか、といった金銭的な問題だけがすべてではないのである。もちろん、債務名義は、強制執行を行うこともできる根拠となるが、そのことをさて置いても、裁判所がもたらす新たな判決は、それ自体が、新しい生命の息吹となり、社会の目に見える物事の正邪を切り分け、目に見える物事を超越した立場からこれに裁きを宣告し、実際に物事を是正し、変えて行くだけの力を持つものである。
 
筆者は、裁判所が持っている権威の大きさや、市民が起こす一つ一つの訴えの意義、そして裁判所の使命について、飽くことなく考えさせられている。

我が国における三権分立は、決して行政を司法の下に置くものではないにせよ、もしも腐敗した行政というものがあるとすれば、それはやがて裁判所の権威の下に是正されることになるだろうと筆者は思う。
  
ところで、当ブログに関する訴訟の第一審は、そのほとんどの部分が、法廷ではないところで、弁論準備手続きとして行われ、裁判官が法衣を着て現れたのも、全体で三度でしかなかった(開廷の時、弁論終結の時、判決言い渡しの時)。

さらに、今、事件は控訴審へ向かっているため、これからは三人の裁判官が事件を担当することになる(それも何かしら三位一体を象徴するようにも感じられる)。

しかし、筆者にとって、法廷のイメージとは、常に法衣をまとった一人の権威ある裁判官が、原告・被告の双方が揃っているところで、厳かに判決を言い渡すというものである。

ただ裁きに権威があるというだけでなく、裁判官は決して当事者と同じ目線に立たず、当事者を見下ろす法壇に立ち、そこから裁きを宣告するからこそ、より一層、厳粛に感じられるのである。

この法廷のイメージは、筆者の心の中で、神とサタンと人間とが相対してそれぞれの主張をぶつける天的な法廷の地上的な絵図のようである。

ところで、筆者は三権分立を、不正確なたとえとはいえ、霊、魂、体という聖書に登場する三部位に置き換えて考えてみる。

行政とは、いわば「からだ」であって、司法は「頭脳」である。
 
立法は「命令」そのものを考えて発令する部位であり、聖書にたとえるなら、「光あれ」といった命令が発せられるところである。筆者から見ると、この発令は、あたかも霊からすべてが始まることを予表するかのようである。

司法は、発せられた命令に基づき、目に見える物事が実際にあるべき秩序にかなっているかという是非を判断し、違反を是正する部位であるから、一旦、「光あれ」という命令が下されたなら、何が光であり、何が闇であるかを精査し、光と闇とが決して混ざることのないようにこれを切り分ける機能を持つ。

つまり、絶えず善悪の判断を行う魂の働きになぞらえられる。

行政は「からだ」であって、目に見える物事の世界で、命令されたことを実行する手足のような機関に当たる。

この世における三権分立に主従関係はないが、霊、魂、体はそれぞれ主従関係にあり、その中で、最も卑しい部位は体である。なぜなら、体はこの世(目に見える世界の物事)と接触する部位であって、自ら判断を行うわけではないからである。

筆者は以前に、ハンセン病者は、体に痛みを感じなくなることによって、自分で自分の体を傷つけても、それに気づけなくなり、それが原因となり、体の一部を失って、いびつな姿になって行くのだと書いた。

もしかすると、我が国の行政には、これと似たような病が起きているのかも知れないと筆者は思う。我が国の行政は「からだ」である。ところが、この「からだ」は、良心の機能から切り離されて、次第に、自己を統制する力を失いつつある。
 
行政が、国民に奉仕しながらも、国民の選定・罷免が及ばないことによって、ほぼ完全に閉ざされた自存それ自体を目的とする自己目的化した機関のようになっていることは書いた。そのために、これはあくまで比喩であるとはいえ、三権の中でも、行政は、司法からも、立法からも、抑制が及ばなくなって、「良心の機能」という痛みの感覚から切り離されて、自分で自分を傷つけても、あるいは他人を傷つけても、それが分からない状態に陥っているのではないかと感じられる。

そのために、体のあちこちをぶつけ、随分、歪んでいびつな姿になってもそれが分からず、国民からの監視も、選定も、罷免も行き届かないことにより、すでに壊死しているような部分も、たくさんぶらさがっているのではないだろうか。

その「からだ」とは、「頭脳」のコントロールが効かなくなり、「知性」から切り離されて、感覚麻痺した不気味な体である。

そこで、このような「からだ」の感覚鈍磨、もしくは麻痺状態を是正するためには、生命の通わなくなった部位を本体から切り離し、そこに新たな生命力をもった「細胞移植」が必要となる。

良心の働きを、すなわち、痛みの感覚を取り戻すために、死んだ細胞の代わりに、新たな細胞を移植し、体の働きに「頭脳」の指令がきちんと行き届くようにせねばならない。

むろん、筆者が「移植」を行うわけではない。それは筆者とは何の関係もない事柄である。

しかし、自然淘汰に近いような形で、実際には、どんどん「移植」が行われている。行政サービスの様々な分野は、民間企業やその他の様々な団体に移行(委託)されているが、このことは、裏を返せば、純粋に「行政」と言える機関には、もはやこれらの仕事を自ら遂行する力がなくなりつつあることを意味するのではないだろうか。

新たな発想、そして、優れたノウハウが生まれて来るために、もはや自己の力だけではどうしようもなく、外へ助けを求めざるを得ない状況が生まれているのである。

だが、そのようなことは、行政が「閉ざされた機関」ではなく「開かれた機関」であったなら、おそらく起きなかった現象であろうと筆者は考えている。役所から見れば、それは単なる外部委託に過ぎない事業であろうが、真の意味で、政府が(もしくは地方行政が)、長年に渡る業務遂行を通して、絶え間なく国民・市民からの直接の声を汲み上げることができていたならば、その間に、サービスの向上、多様化が進み、民間委託するしか方法がないという状態には陥らなかったことであろう。

むろん、委託によって新たな生命の息吹が注ぎ込まれることは、歓迎すべきことなのであるが、筆者はどうしても、そういう現象が起きていること自体に、行政の行き詰まりのようなものを感じずにいられない。
  
以上で、裁判所の権威とは、目に見える物事を超越した領域から、裁きを宣告することにあると書いた。そこで、三権分立には、主従関係はなく、それは互いに抑制し合い、働きを分散させたものに過ぎないとはいえ、そうはいえども、筆者の目から見ると、実はやはり、目に見える領域で働く「体」=「行政」は、最も知性からはほど遠い場所にあると言って差し支えなく、その意味で、これは、命令を実行する手足のような機関であり、かつ、裁きに服さねばならない、徹底して「仕えるため」にある部位であると考える。

にも関わらず、「体」が知性を凌駕し、頭脳との関係までも覆し、一人の人間の中で、王様になってしまうと、人間の本来的な秩序が転倒する。ところが、我が国では、半ばそれに類することが起きているのが現状ではないだろうかと筆者は考えざるを得ない。

今は問題提起の段階なので、これ以上のことは深く語れないが、筆者はそのように、たとえるならば、麻痺しかかったような状態にある「体」に、良心と生きた感覚の機能を取り戻させるために、いかなる方法(手術・治療)が必要であるのかについて、ずっと考え続けている。

冒頭に挙げた御言葉は、従来の聖書的な解釈によれば、当然ながら、一人一人の信者に適用されるものであるのだが、それと同時に、これは「からだ」の働きを持つすべての職に当てはまる。

人に仕える立場にあるはずのものが、王様のように君臨している状態は、明らかに異常であるから、そのような状態を是正するためにも、自然と、壊死した細胞を生きた細胞に取り替える必要が生じているのではないだろうか。罷免が及ばなくとも、必然的に、何かしらの淘汰や刷新に近いことが起きているのである。

筆者がいたずらに行政の無為を批判し、役立たずの役人を罷免する制度が欲しいと言いたいがために、こうした事柄を、決めつけで書いているとは考えないでもらいたい。国家・地方公務員の選定と罷免を国民の側から可能とすることは、何らかの方法で必要であろうと考えるが、その問題とは別に、まずは行政と司法との間で(筆者は立法府のことはまだ知らず、関わっていないため言及できない)、生きた橋渡しを行い、真に抑制し合う関係を打ち立てるために、今後、必要となることは何なのか、筆者は自分自身の置かれた立場から考え続けねばならないと述べているだけである。

* * *

最後に、いくつかの個人的な事柄について書いておきたい。以下の二つは、筆者が当ブログを巡る訴訟が行われている期間中に学んだ最大の教訓である。
 
➀物事は非常に困難な方法で取り組んでみることにこそ価値がある(望みうる最高の願いを決してあきらめずに、犠牲を払ってそれに向かうことに価値があること)。
②理不尽だという思いを捨てることこそ、すべての物事の解決の最短コースだということ。

➀について言えば、通常の感覚では、訴訟の提起そのものが著しい冒険であり、未知の分野への挑戦であったため、それにも関わらず、控訴審まで及ぼうとしていること自体が、途轍もない大いなる挑戦(もしくは無謀な冒険)と映ることであろう。

しかし、周りからどのような評価を得たとしても、筆者は、やはり、どうしてもこれだけは譲れないと考える望みに対しては、人は妥協なしに取り組まねばならないことをいつも思い知らされている。

筆者の目から見て、なぜ裁判所がそれほどまでに尊い場所に映るのかという理由もそこにあるのだ。それは、そこに人々の命がけの「望み」が託されているためである。

訴訟には一つ一つ、個人的な争いにはとどまらない社会的な価値があると、筆者は考えている。当ブログに関する訴訟では、特に、クリスチャンの側から、どうしても述べておかねばならない問題があった。強制脱会活動の違法性の問題である。

遅ればせながら、ようやく控訴審になってからこの問題に言及することが可能となったとはいえ、こうなったのは運命的な巡り合わせであり、かつ、これははかりしれない価値あるテーマだと筆者は考えている。

なぜなら、今までクリスチャンの側から、強制脱会活動の違法性を認め、こうした活動を批判したり、反省する発言が、公の場所で聞かれたことはほぼないと考えられるためである。しかし、筆者は、これをプロテスタントの恥ずべき歴史としてとらえており、そのことをプロテスタントの中から(これまでプロテスタントの信者であった者の側から)公式に認め、声明することには、非常に重い意味があると考えている。

筆者は牧師でもない一信者に過ぎず、そもそも訴訟では他者の不法行為を指摘しているのであって、自分自身が脱会活動に携わって来たわけではないが、当ブログでは、そもそもの初めから、強制脱会活動はプロテスタントの汚点であるということを指摘し続けて来た。

その意味で、筆者の訴えは、キリスト教徒の側から、異教徒に対して、反省し、懺悔せねばならない問題があることを公に宣言するという意味を持っていないわけではない。筆者の訴えは、統一教会とは何の関わりもないところで提起されているとはいえ、クリスチャンの側から、こうした脱会活動を強く非難する言葉を、公の場所で述べておくことはぜひとも必要であると考えている。

そのチャンスが巡って来たのは、やはりこの戦いを控訴審へ持ち込むことに、真に意義があったたことを表しているように思われてならない。
  
さらに、②の理不尽だと感じる思いを捨てることは、決して誰から何をされても一切異議申し立てをしないという口封じの圧力に屈することは訳が異なる。理不尽なことは、理不尽であると、むしろ、公然と訴えるべきなのである。だが、そのことと、許せないという感情をいつまでも持ち続けることは異なる。

筆者は、第一審が終わってから数ヶ月ほどたった時に、心の中で理不尽だという思いを手放しつつ、それでも、訴えを続行することは可能なのだということを学んだ。それは、真実を明るみに出し、きちんと事実関係と責任の所在を明らかにし、物事をあるべき所に是正して行くために、必要な措置だから、訴えを続けるというだけのことであり、相手を徹底的に追い込むとか、自分の思い通りの決着に従わせるために、何としても争いを続行するというものではない。

そのように個人的な感情を手放すことができた時、その訴えは、神ご自身が取り上げて下さり、人間の努力によらずとも、速やかにしかるべき解決が与えられることを筆者は学んで来た。

ただし、これは繰り返すが、うわべだけ謙虚さを装い、波風立てないことだけを第一として、相手の前にわざと自分の主張を放棄して折れて出るとか、望みをあきらめるということとは全く意味が異なる。筋を通さなければならない場面では、不本意な妥協や和解を退け、最後まで物事を公然と明らかにすることは必要である。だが、それを個人的な怒りや報復感情とは関係のないところで、真に物事があるべき姿を取り戻すためにこそ、行うことは可能だと学んだのである。
 
ところで、最後に蛇足ながらつけ加えておくと、政府の行う行政サービスの中に、国側が敗訴した国賠訴訟への対応というものもある。さすがに、この仕事は外部委託はできないため、半永久的に、政府自身が行わなくてはならないであろうが、その領域まで行くと、役所はもはや自己正当化ができなくなる。たとえば、先の大戦中に政府が犯して来た数々の過ちの償いの問題があるし、ハンセン病者とその家族への償いもあろうが、こうした問題を扱っている役人は、どうしても国民の前に「悪者として立つ」ことを避けられない。

その領域まで来て、初めて行政サービスに自己反省と自浄作用の余地が生まれる。(言い換えれば、それ以下の国賠訴訟で敗訴を味わったことのない下部の行政機関には、我がふりを自分で正すという自己反省の力がないということである。)

だが、それとて、市民たちが必死の覚悟で訴訟を戦い抜いたことの成果なのであって、行政自身の自然な自浄作用によって生まれた結果ではない。集団的な国賠訴訟が起こされなければ、行政が自ら過ちを認めることはなく、苦情の電話や書面といったレベルで対応がなされることも決してなかったであろうと筆者は確信する。

そういうことを考えても、筆者は、やはり、行政が今や決して自力で到達できなくなっている自己反省の部分を補うという意味でも、司法の働きの重要性を思わずにいられない。そして、司法には、人間の魂の最も重要な機能としての「良心」の働きがあるように感じられてならない。だからこそ、そこに筆者は尽きせぬ興味関心を抱くのである。
 
弱く無力で追い詰められた立場から、国を相手取ってでも、訴訟を戦い抜いて、判決を勝ち取った人々の努力と成果があってこそ、先の敗戦によって生じた様々な混乱の責任を含め、数々の過ちの責任を政府に追及することが可能となり、我が国の今日の様々な法と社会のあり方が打ち立てられているのであって、その訴訟がなければ、政府自身が己が過ちを認めることは決してなかったであろうことを考えると、それを起こした人々の努力にはやはり敬意を持たないわけには行かないと思うのである。

それと同時に、「体」に働く痛みの感覚とは、人の良心の働きであって、人が自己反省によって軌道修正して行く力そのものであろうが、それを失ったとき、人は他者を傷つけるだけでなく、自己をも傷つけることになることを思わされる。

自浄作用をなくした行政の腐敗という問題と、プロテスタントが繰り広げた強制脱会活動の問題とは、そういう意味で、筆者から見ると、何かしらの共通点を持っているような気がしてならない。「プロテスタントの教会に自浄作用が働くなったために、被害者は裁判を起こすしかない」と警告していた牧師自身が、強制脱会活動に関わって来たことはまるで運命の皮肉のような話である。

なぜプロテスタントはそのようにまで盲目的で自己反省のない状態に陥ったのか。なぜ自ら神を信じると豪語する人々が、それほどまでに良心を失い、自分自身を正義の担い手のように考えながらも、他者から裁判を起こされるまで、人々の悲鳴に耳を貸さなくなったのか。(さらにもっと言えば、裁判を起こされても、なお不都合な判決には耳を貸さなくなった。)信者はこの問題についてよく考えなければならないものと思う。

筆者は、そこに、数々の外注の業者や、末端の下々の職員を絶え間なく(内心では見下しながら)「選定」したり「クビ」にしながらも、自分たちだけは、決して誰からも「選定」されることもなく「罷免」されることもないという自己安堵に陥った行政役人の「驕り」と、自分たちは由緒正しい正統な信仰を維持するキリスト教徒であるから、救いを知らない(で地獄に落ちる)他の人たちとは全く異なると自負する信者の「驕り」という、何かしら非常に似通った心理的問題があるような気がしてならない。
 
とにかく、そこに共通する問題として、高慢さとその結果としての自分とは異質な他者に対する君臨というものが存在することは確かであろう。それだからこそ、筆者は、逆にキリスト教徒の側から、誰か一人でも、この問題について、自分たちの側に責任があることを認めて、異教徒の前に頭を下げる人間が現れることが必要ではないかと考えている。

そのために、筆者は、誰が当事者として耳を貸すわけではないとしても、また、筆者自身が、責任を負うわけではないにしても、少なくとも、信仰者を名乗る人間が、こうした問題が起きていることに、気づきもせず、神と人の前で、声をあげることもない鈍感さと良心の欠如は、実に恐るべき感覚麻痺であって、そのような状態を避けるためにも、この問題について、真実を公然と明らかにし、責任の所在を問うことは、必要な作業であると感じている。そして、そのチャンスが与えられたことは、光栄だと感じているのである。

人は自分自身が罪を犯したわけではなくとも、人々の代表として、頭を下げなくてはならない瞬間がある。そして、聖書が根本的に述べているのも、人は誰も義人ではなく、生まれながらに罪人であるから、誰もヒーローにはなれないということである。

救われて、キリストに似た者とされるとは、より一層、へりくだって仕える人になることをしか意味せず、尊大で他者を見下しながら、自分だけは特別だと己惚れる人間になることを意味しない。だから、たとえ自分に罪がなくとも、信者にはへりくだることが必要であり、そのために、自分の憤りを手放すことも必要であり、それがなされた時に初めて、我々の訴えは、神と人との前に義と認められて、速やかに聞き入れられるものとなるのではないかと感じている。

そのことを、筆者は自分自身の訴訟を通しても、日々の生活の中でも、毎回、毎回、繰り返し、思い知らされつつ、同時に、それでも手放すこともできず、あきらめることもできない切なる願いを、神と人とに訴え続けながら生きている。それだからこそ、それだけの言葉に言い尽くせない思いを通過しながら、学び、勝ち取られた成果としての判決には、そこに書かれている文字以上の価値があると思わないわけにはいかない。また、そうした人々の悲痛な思いが集積されているのが裁判所であることを思うと、その場所には、畏敬の念や、厳粛さと同時に、深い憧れや愛情にも似た特別な思い入れを抱かないわけにいかないのである。

私ではなくキリスト―義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。

「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。」(マタイ5:6)

さて、大きな解放があると、必ず、暗闇の勢力からの妨害が起きて来ることは、いつものことなのなので、驚くには当たらない。

実は掲示板に関しては、もう少し権利侵害の明白な証拠が欲しいと内心で思っていたところであった。そんな頃合い、再び、材料が手に入り始めた。

だが、その材料をどのように利用するか、作戦はあえて明かさない方が良いだろう。今、事件は高裁に行っているので、私はブログで反論することはあまり考えていない。私の戦いの舞台は、もはやネットではなくなっているのだから、虚偽のプロパガンダについては、しかるべき人たちに耳を傾けてもらえるよう、きちんと反論を書面にして作成すれば良いことである。

ところで、最近、私と似たような目的を目指していると思われる、非常に優秀な女性に出会った。詳しく会話したわけではないため、心の内をことごとく確かめることができたわけではないが、短い間、心の喜びを共有することができ、勇気づけられた。私と同年代ではない。こんな風な大人になりたいと少しばかり思える例を見たように思う。

このところ、困難な暗いトンネルを通過して、非常に大きな戦いの成果があった。巨大な妨害が起き、打ちのめされそうになった時、主が私を勇気づけて下さったのである。

「どうやってこんな嵐に立ち向かえばいいというのです?」と尋ねる私に、主は「一番、困難な道を行きなさい」と教えてくれた。

誰も行かない一番困難な道を黙って行けば、人々はいつか納得してくれる時が来て、ついに最後は敵だった人まで、根負けする時が来る、というのである。もちろん、すべての人が生きているうちに理解を示してくれるわけでないにせよ、少なくとも、自分の心の中で、無理解な人々に煩わされ、受けるダメージが減る。

誰がどんな態度を取ろうとも、それに影響されず、自分の十字架を取って主に従うために全力を尽くす姿勢を示し続けなさい、と主は教えて下さり、それから、特別に激しい困難や迫害が起きるときは、特別に大きい勝利の前触れなのだと気づかせて下さった。

悪魔と暗闇の勢力の妨害が最も激しさを極めるときは、最も大きな勝利が目の前に迫っている時だ。だから、ひどい誤解や、中傷が起き、離反が起きるときには、特に大きな喜びと栄光が目の前に迫っていることを信じなさい、と主は示された。

そして、ヨルダン川の底に立って、誰よりも困難な戦いを静かに続行しなさい、あなたの覚悟のほどを皆に見せなさいと、神は私に示して下さった。その時、私の心は落ち着いた。

ようし、最後までやって見せよう。そうして力の限りを尽くそう。分かってもらえても、もらえなくとも、全力を尽くして向き合おう。そう覚悟を決めると、やはりそれなりの成果が物事に現れて来たのである。

こうして、主が戦い抜くための力を与えて下さったので、大丈夫だ、私一人に見えても、主の軍勢が着いている、どんな攻撃や非難が起きても、何度でも立ち上がって、目的を目指し続けることができる、と勇気が湧いて来た。

ここ数ヶ月の中で、初めて勝利の確信をはっきりと心に掴んだ瞬間だった。逆に言えば、ここ数ヶ月は、それほど激しい嵐の連続だったということである。

さて、著作権侵害の申立などもせねばならないため、その用意も兼ねて、忘れないうちに、ひとこと欄の文章を掲載しておきたい。
 
当ブログでは、基本的に、ひとこと欄の文章は、記事の題材となるものでしかないので、そのまま載せないことにしているが、権利侵害を主張する際には、役に立つものと思うので、ここに掲載しておく。

以下は、本日(6月21日)に投稿したものである。
 
私はこの国で、特に労働関係の役所が非常にひどい腐敗ぶりを示していることを、長年に渡り、自ら観察して来た。厚労省を始め、この国では、雇用情勢を含めたすべてが上向き、改善しているかのような「真理省のデータ改ざん」のようなことが行われて来たが、それは偽りである。

この国の雇用情勢は決して改善などしてはいない。だが、最近、そうして虚構の成功を演出し続ける大本営発表も終わりに近づいている、という予感を私は持った。以下はその予感を告げたもの、そして、嘘を駆逐するのは、私たち自身の努力にもよるのだ、という決意を述べたものである。

* * *

これだけ労働関係の行政が腐敗すれば、この国の労働市場が悪くなるのは仕方がないですね。厚労省でもデータの改ざんが問題となりましたが、その下の役所はもっと徹底的に腐敗しています。しかし、私はこうした事情から、特に絶望は感じません。むしろ、雇用情勢を色よく見せかけ、この国の様々なデータを改ざんして来た大本営発表がもうすぐ終わる気配を感じます。彼らは下々の者に責任を押しつけて、自分たちは悪事を隠して逃げる時を待っています。営利が目的の民間企業だけでなく、役所の腐敗が何よりも労働者を搾取し、日本の雇用情勢の悪化の原因を作って来たのです。なるほど国が外国人技能実習生を見殺しにするはずです。

しかし、恐ろしいほどの知性の崩壊を目の前に、この国の終わりが近いと感じます。日本がかつて敗戦した時、責任を取れるリーダーは一人もいなかった。破滅へ向かっていることをみな知りながら、それを止める力もなかった。権威が、権力が、正しく行使されなかったのです。今はその状況に似ている。お偉いさんたちが、私利私欲のことしか考えなくなり、弱い者たちを平気で見殺しにした結果、国ごと理性を失っているのです。私は一度労働関係の役所が企業と意を通じて徹底的に腐敗していることについて、記事をまとめてみたいですね。

ただし、こうした情勢を終わりに近付けるのも、私たち一人一人の努力で可能です。個人の力で様々な事柄を明るみに出せますし、それなりに是正することもできるのです。私が訴訟を提起したのは、まず法律の専門家としての肩書がなくとも、個人の力で物事をはっきりさせることに貢献できると示したかったから。法令順守の精神を、行政や役所が失った代わりに、個人が持ち続けることができると示したかったから。

私は弁護士でも法律家でもありませんが、法律に対する畏敬の念はあります。現行法が完全だとは言わない。しかし、今あるものを守ろうとしない人たちが、未来に向けて規則を制定してみたところで、これを守るはずがない。法律は義務も定めているが、私たちの自由の根源であり、存在を深い所で規定しているのです。

私は違反に対しては、裁判所の判決や行政による罰則の適用を求めると同時に、できるなら、もっと法律そのものに近づき、中へ入り込みたいという気持ちがあります。なぜなら、法それ自体が変わることによって、多くの人たちの生活が根本的に変わり、もっと解放される見込みがあるからです。法律家の観点とは異なる立場から、私は未来に向けての法整備に人生のどこかで関わりたい気持ちがあるのですね。そのための試行錯誤が現在であり、現行法の抜け穴や欠陥と言える部分についても学習を重ねているのです。

クリスチャンにとっての御言葉との一体化と、法との一体化はどこかしら似たものである気がします。法との一体化とは、つまり、 命令が私自身のうちですなわち実行となる時、約束された保障が値引きなしに実現される世界を私が求めているということです。

私たちは憲法で保障されている権利さえ、まだ値引きなしに自分の手にしたことがなく、多くの保障が絵に描いた餅で終わっているのです。その観点から見ますと、法体系からは、まだまだ汲み出せるものが無限にあると共に、法に保障された私たちの権利が実現しないように妨げている中間搾取者の排除も必要です。牧師階級からの信徒の自立が不可欠であるように、国民が肥大化した役所の助けを不可欠とする時代も終わりつつあるように思います。私たち自身が自立へ向かうことが肝要なのですね。

* * *

そして、以下は、6月20日に書いたもの。これは私が心から正しい、真実な裁きが欲しいと、そのために妥協なしに戦い抜くという決意を述べたものである。
 
私は当ブログを巡る第一審を担当してくれた裁判官にも、同じことを述べたのを覚えている。私は本当に正しい判決が欲しい、そのためなら、争いの決着までに、どんなに時間がかかっても構わないと述べたのだ。

聖書には、義に飢え渇いている者は幸いだ、その者は飽き足りるようになる、という一説がある。私はそれは私自身のことではないかと考えている。
 
私は真実な判決が下されることをどれほど待ち望んでいるだろう。そして、それが私一人だけでなく、多くの人を潤し、自由にするものとなることをどんなに心から願っているだろう。

地上の裁判官に判決を求めるというのは、確かにこの世の人々の判断を仰ぐことである。しかし、緻密な議論の積み上げがないのに、裁判官の人情や知性や人柄だけで、正しい判決を出せるわけではない。

一審では、担当裁判官から、書類が読み切れないとSOSが出されたことがあったのを思い出す。だが、私は、結果的に、書面を減らすどころか、もっと多くの書面を出さなければ、議論を尽くせなかったことを思う。

これは裁判官のせいではないし、実際には、私自身が、あの当時、それ以上の書面を出すことも、議論を尽くすこともできなかったのは確かであるから、当時は、それで良かったのである。
 
しかし、今になって思うと、私はその当時から、本気で戦っているつもりであったが、それでもまだ決意のほどが足りなかったことを思う。最後まで沈黙せず、裁判官を説得してしまうような主張を書き、足りない主張を補えば良かったのである。そのために、前進し続けなくてはいけなかった。

だが、その頃はまだ色々と見えていない事柄があり、争点も十分に理解し得ていない点があった。判決が下されて初めて新たな争点が浮上して来た。そういう意味で、まだまだ第一審は多くの改善点を残すものであったが、それがあればこそ、主張を補うのはやりがいがある。

これから先は、今まで以上に最後の一瞬まで真剣勝負をやめずに進んで行かねばならない。

* * *

どう言えばいいんでしょう、私は正しい裁きがほしい。死ぬほど正義の実現に飢えている。目先の利益じゃなく、私がいなくなった後も残る正しい裁きがこの地になされてほしいのです。私個人を越えた利益を得ること、多くの人たちがその恩恵にあずかることのてきるリーディングケースを打ち立てること、そのためにこそ身を呈して戦う価値があるのです。そのために一番、遠くて難しい道を行きたい。

アクロバティックな作業の前半が完遂しました。大量の書面を作成しました。それでブログが更新できなかったのですけど。これはまだ前半戦に過ぎません。でも、呪いが完全に吹っ切れたのが分かります。その呪いの半分は、つい最近、私を打ちのめそうと悪魔が考案した底意地の悪い決定と、どうしようもない役所への無意味な期待から来ていたように思います。

たとえば、当ブログを巡る一審は、警察の捜査がまだ何も進まないうちに終わらねばなりませんでした。その当時、警察には指一本期待できない状況で、捜査の進展に期待を寄せて、それが訴訟において強力な援護射撃になってくれることを期待していた私は、どれほど煮え湯を飲まされたか分かりません。それは本当につらい状況でしたが、でも、この時期、私は一人で戦い抜くことが必要だったんですね。

一審判決は、警察の手を借りて勝ち取ったものでは決していけなかったのです。私と主との二人三脚でなくてはならなかったのです。その段階が終わってからは、警察は心強い仲間のようになりました。今では、事件のために関わっているというより、人生相談みたいなこともやれるようになりました。以前には考えられないような展開です。たくさん有益なアドバイスももらっていますし、気づかされることもあります。かつての状態を考えると、ものすごい変わりようです。

今回、それと似たようなことが起きました。本当は役立ってもらわねばならなかったのに、どうしようもなく足手まといとなった役所が、さんざん私の書面の作成を邪魔し、私を滅多打ちにして苦しめましたが、結局、私はこの役所を振り切って、一人ですべての作業を完遂しました。最後の校正を終えた瞬間、「終わった!!」という解放感に包まれました。書面の効果のほどはまだ分かりませんが、主張というのは、霊的存在に対して宣言するものでもあるため、目に見える相手に届いておらずとも、内容が言い切られた時点で、すでに効力を発しているのです。

実は、反論の書面を書き続けることで、呪いを解除できるということを知っている人は少ないと思います。私は究極的に圧迫された状況でも、誰の手も借りず、自分の力だけで、最後まで自分の言うべき言葉を出し切らねばならないことを知らされています。どんなに大変でも、人の力を借りず、主と自分だけの努力によって勝利を掴まねばならないのです。

他人から受けた負の言葉、マイナスの宣告や、明白な呪いの言葉を跳ね返すのは、ものすごく困難かつ大変な作業ですが、そういう言葉を放置しておいてはなりません。やはり、納得のできない決定は、とことん追及して覆さねばなりません。それができるのは、しかし、主張対主張の対決をする時だけなのです。反論せねばならないのですよ。

悪魔は、キリスト者に大きな勝利がもたらされようとしている直前に、徹底的に打撃をもたらして来ることを、よく覚えて置かれると良いと思います。今回、私に痛烈な打撃を与えた悪だくみに満ちた決定がありますが、なぜこのようなものが、今の時期に出されたかと言うと、その先に大きな勝利が待っているからなのです。それを阻もうとして暗闇の勢力が仕組んだことです。諦めさせるために。主張を述べることを断念させるために。

私はそのことを予測していたからこそ、これに絶対に負けないで前進しようと決めて、自ら主張すべき事柄を一歩も退かずに書き続けました。ものすごく大変な作業でした。でも、一方的にやられっぱなしになっているのではなく、脱出のチャンスが近いからこそ、敵は意気阻喪させようとして来るのだということを知っていれば、困難だけに注目するのでなく、その向こうに、すぐ目の前に、目には見えないが、非常に大きな栄光と幸せに満ちたチャンスがぶら下がっていることが、予測できるはずです。真っ暗闇のトンネルを抜けるまで、あと一歩という地点が、一番攻撃が激しい地点なのです。

だから、呪いの預言なんか受けることがあったら、もしもあなたが敵から死にもの狂いの攻撃を受けることがあったなら、その一歩先に、大きな勝利があることを予測した方が良いと思いますよ。敵はあなたにそれを掴ませたくないから、祝福があることを決して信じさせないように仕向けているだけなのです。しかし、決めるのは、悪魔ではなく、あなた自身です。このように、「なぜ敵は今私を攻撃してきたのか」という問題を考えてみること、そして、「もうすぐ先に主が用意された出口があるのだ。勝利があるのだ」ということを予測し、彼らが妨害しようとしている祝福を、何としても諦めずに、絶対に邪魔されずにつかみ取ると決意することは有益です。

正直な話、私が通されている道の困難さ、苦しさについては、とても説明することはできません。これはあまりにも激しすぎる妨害で、私自身がこれほどまでに地獄の軍勢の徹底的な憎しみの前に立たされていることに、驚愕せざるを得ません。しかしながら、その中で、キリスト者は、すべてを主と自分との間で切り抜ける方法を学ばなければならないのです。誰の助けも借りることなく、誰をも当てにすることなく。主はそのすべてに対して勝利を与えうる方であることを信じ、何があっても、それを取り逃がすことなく、敵を上回る執念で勝利を追い続ける覚悟と姿勢が必要なのです。

徹底的な戦いを通され、勝利の秘訣を学ぶことが必要です。ある時期までは、なりふり構わぬ激しい戦いが続きます。何トンもの重荷に押しつぶされかかっているかのような状態で、自分の正常な意識さえ遠のき、すべての人に理解されないという感覚に陥ることもあるでしょう。しかし、敵を上回る執念で勝利を目指し続けねばなりません。そうしたら、必ず、戦いを抜ける時が来ます。呪いが解除されて、肩から荷が転げ落ち、解放されて、終わったと分かる時が来ます。それは平安が到来するから分かるのです。

圧迫は敵から来るものです。意気阻喪であれ、悲しみであれ、失意であれ、それは敵から来るものです。勝利を掴むためには、どれほど困難があっても、圧迫に立ち向かうことをやめてはなりません。全ての重荷を跳ね返さねばなりません。それには非常な困難が伴いますが、徹底して立ち向かう術を学ぶこと、それが訓練であり、学びなのです。

もしもあなたが嘘を言っているのでないならば、困難が伴っても、徹底的に真実を追及すれば、道は必ず開けます。ですから、語ることをやめてはなりません。真実な証言は、絶対にやめてはいけませんよ。絶対に人に遠慮して口をつぐんではいけません。相手がどれほど権威を持っていても、人間に過ぎない者は、恐れるに足りない。

私が目指しているのは、前にも書いた通り、私自身を超える利益なのです。私が自分を手放している以上、他の人々の利益にも、絶対にとらわれるわけにはいかない。とことん信じる道を突き進むしかないですね。 


* * * 

以上の文章に書いた通り、実は第一審が進行していた間、警察とは実に様々なやり取りがあり、手続きが遅々として進まないことに私は焦燥感を覚えていた。そのことは当時、書くわけにいかないと思い、こらえていたのだが、長大な時間を費やして、警察とは書類のやり取りをし、何とか早く事件を進めてもらいたいと幾度も懇願を重ねたものである。

ところが、判決が下り、しばらくしてから、警察との関係が以前と変わった。今は焦燥感もなければ、緊張関係もない。そして、この事件に限らず、様々な出来事について、私には見えていない多くの点について、たくさんの指摘をもらえるようにもなった。

警察官と接触していて思うことは、彼らはやはり数多くの悲惨な事件や事故の現場に立ち会ってきているためか、人の苦しみや悲しみを受け止める深い感受性がある、ということである。

それは、一概に同情や共感の能力が高いという意味ではなく、通常人が滅多に経験しないような出来事に遭遇して来ているので、普通の感覚では理解し得ないような様々な尋常ならぬ事件や、尋常ならぬ人々の性格を受け止める耐性があるということである。

だから、こういう人たちと話していると、普通の人たちからは得られない助言や、面白い気づきを得ることがある。とにかく事件を早く進めてもらいたいという焦燥感から解放された時に、私は彼らの言い分をとても面白く感じられるようになった。

私は伝えている、いつか、この事件に関わるすべてのことを、私自身が手放せるようになったとき、自然とあるべき結果が出されるだろうと。

何としても賠償金を回収したいとか、何としても犯人を有罪に追い込みたいといった気負いも、すべてが通り過ぎたその後で、何一つ自分の力で進めていないのに、自然と、あるべき結果が出る時が来るだろうと。そうなったときに、この事件は、自然と調和のとれた終わりが来るだろうと私は述べた。

私は正義の実現をあきらめるわけでは決してないし、約束された権利を手放すつもりもないし、罪に対してはふさわしい罰が伴うべきであるという考えを捨てるつもりもないが、ただそれを自分の力で実行しようとはせず、神に信頼して裁きを委ね、そして、必ずその裁きが実現することを信じるというスタンスを取るべきであると思い、これからもそうすることを決めたのである。

そういった結論は、警察官との会話の中で、得られたものであった。そこで、私は第一審の時に、警察が民事訴訟の助けにはあまりなってくれなかったことを、今は不満には思っていない。警察官を証人として呼ぼうとしたが、それも実現しなかったことにも、それなりの意味があると考えている。

ひとこと欄に書いた通り、私には誰の力も借りず、(主と)自分自身の力で敵の虚偽を跳ね返したと言える状況が必要だったのである。
 
さらに、以下は、その2日ほど前に掲載したもの。これはとても残酷な言葉を突きつけられ、まるでどん底に突き落とされたように困難を感じる状況の中で、立ち上がる決意を決めて書いたものである。

これまで、多くの人たちが、残忍な行為に加担するのを見て来た。私はその度毎にショックを受けて、人の心の頼りなさを思わされた。しかし、この先、周りにいる人たちが善良な人々であるか、それとも悪人であるか、ということに一切煩わされまい、と決意したのである。

言ってみれば、想像を絶するような悪人に遭遇することがあっても、人間とはもともとそういうものであって、神が介在されない限り、みなこの罪深い状態が出発点なのだというところに立ち、物事のひどい状況に目を留めず、あくまで主を見上げて進んで行きたいと願ったのである。

そして、たとえ今まで私をとりまいていた善良な人たちや、恵まれた環境条件などが、一切、なくなったように見える時でも、主が私の解決であることを見て、環境の変化に煩わされることなく、進んで行こうとの決意を述べたのである。

* * *

良い人たちと出会わせて下さるのも主。しかし、それだけに決して頼らないこと。 運の良さや、周りの人たちの善良さ誠実さに期待して、それによりすがって物事を進めようと思わないことが肝心。たとえ周りに誠実で良い人たちが絶え果てたとしても、それでも信念に基づいて物事を進めて行く努力をやめないことです。

私は真っ暗闇の中を通される時にも、主が私の足の灯であるということを考えさせられます。
これほど暗闇が深くなった時代もないと思いますが、それでも、神は必ずご自分を求める者に、
応えて下さる方であることを信じることに変わりはありません。

知っていますよ、良い人たちは存在していること。でも、私は人間に栄光を帰したくないのです。たまたま条件が揃っていたから物事がうまくいったと思われたくないのです。たとえ完全な
闇が周りを取り巻いている時でも、私は神以外の助けなしにその状況を打開できることをきちんと証明してみせたいのです。

だから、金輪際、周りの人たちの善良さを評価し、彼らに栄光を帰することはいたしますまい。
目に見える人間の歓心をどう買ったか、とか、どう上手く立ち回り、人の心を得、誤解されたり、 敵対されないように歩んだか、ではなく、主と私との二人三脚、誰にも知られないところでのひそやかな祈りと語らいがすべての物事を決定し、左右して行くことを私は確信している。
人の心も、状況も、何もかも主が掴んでおられること、神にあって、私はすべてを動かすことが
できることを決して忘れることはありません。暗闇は打破されるでしょう。 

女性の弱点は、自分が引き裂かれることに耐えられないことにあるんですよ。 男性は打たれても耐える力がある(例外もいますが)。基本的に美に執着しない。プライドを折られても、その痛み苦しみを自分で黙って負うことができる。しかし、女性の90%は、私が知っている限り、栄光と美を失うことに耐えられません。そして、苦しみを自分一人で負う力がない。女性が年がら年中、愚痴ばかり言っているというのは本当のこと。自分一人で苦しみを負えない生き物だからです。

しかし、私は女性もそういう弱さは脱却する必要があると思います。そのためには、ある意味、女性も墓の向こうまで行く必要がある。手放すものが何もないという境地まで。そして、そこまで行っても、まだ尊厳を保って生きられるところをきちんと証明する必要がある。

女性の中には、残念ですが、優秀な人はとても少ない。でも、いないわけじゃない。私自身、その少ない人たちに出会って来た経験はあります。そして私は女性の中に優秀な人が少ないのは、守られるのが当たり前の世界で生きているからだと、そして、自己の尊厳を失うことに男性よりもはるかに弱いからではないかという気がしてなりません。私はそれとは別の道を行きたいのです。本当に困難な道を、弱くとも、並大抵の強い人が通らないような道をあえて行きたいのですね・・・。

そして、そのためには、やっぱり、自己の美と栄光とを徹底的に死に渡すことがどうしても
必要ではないかという気がするのです。

男女を問わず、「私は正義のために命がけで戦っている」なんて軽はずみに言う人たちがいますが、 試金石は、自分を捨てられるかどうかでしょう。自己の栄光と美を、正義の実現と引き換えに、 一体、どれくらい犠牲にすることができるのか、そこだと思いますよ。1ミリたりとも自分を手放さないまま、正義など唱えても、むなしいだけなのです。しかしそれは結局、自分が踏みにじられたり、誤解されたり、讒言されたり、傷つけられたりすることを、どれくらい耐え忍ぶことができるかという問題に直結するわけです・・・。

だから、私は何度でも言います、神の正義と真実は、私のこの身とは引き換えにならない価値があると。それは私の価値を何倍も超える、比べられない価値であると。だから、私は自分をそのために投げ打つことを惜しいとは思わないし、自分自身の名誉、評判、権利、利益がそのために傷つけられることを全く惜しまないと。

どうぞ、傷つけたいなら、好きなだけ傷つけなさいな。でも、私が選ぶのは、常に「私ではなくキリスト」なのです。その選択がある時に、初めてキリストと共に私も死を経て、生かされるわけですね。私も守られるのです。その勝利を私は知っているし、信じているのです。 これは通常の女たちにはない絶大な防御ですよ。

でも、女性であっても、その価値が分かる人はいると思います。

*  * *

そして、以上に書いた通り、実際に、女性であっても、自分自身を超えた正義の実現のために、自分を捧げることの価値が分かる人は必ずいるのだ!ということが判明した。

やはり、思った通りになった。たとえ優秀な人が数少なくとも、女性の中にも、当然ながら、優れた資質を持つ人たちが存在するのである。
 
キリストの系譜には、貧しく弱く見捨てられた女性たちがたくさん登場している。そのような女性たちに、神は目を留めて下さり、彼女たちを重宝された。見た目の優秀さではなく、多くの苦難を経験し、心を打ち砕かれて、へりくだって、神の御言葉に真実に従った女性たちを、主は重んじられた。その原則は、多分、今日も変わらないと考える。

だから、私はやはり、「私ではなくキリスト」、十字架の死に自分を渡したいと願う。

以下は、さらに少し前に、神の御前で自立するという決意を述べたもの。自分よりも強い者たちに頼らず、誰の力によっても支えられず、自分で信じるところに従って、主と自分との力ですべての苦境をくりぬけようと決意したもの。

* * *

さて、これまでは私も未熟だったので、他人に守ってもらったり、かばってもらったりということも時折はあった。しかし、一人前になるためには、独り立ちせねばならない。真に自分の実力だけで歩いて行かねばならないと痛感。そして、誰もを納得させねばならない。しかし、それは可能であるということも、これまでの経験上、分かった。
そのためのポイントは最も難しい道を行くこと。敵は常に口を封じようとする。しかし、語りなさい。語りやめないで、 勇気を持って証しを続けなさい。重要なのは、サポートしてくれる人がいるかいないかではなく、主にあって、自分自身の中にある霊的中心性を手放さないこと・・・。

いいですか、考えられる限り、一番困難な道を行きなさい。人に誤解されることも、嘲られることも、 踏みにじられることも、見捨てられることも、讒言されることも、疑われることも、中傷されることも、 何もかも覚悟し、すべての重荷を負って、他の誰よりも著しく困難な道を行けば、必ず、見ている人は、 すべてそれが冗談でもなければ、私怨でもなく、信念から出た行動であることをやがて確信せざるを得なくなる。
しかし、その荷は私が自分で背負うのではなく、主が負って下さる荷。だから、人が負わせる荷に比べれば軽いのです。

私はこの先、他人の善良さにはもう期待しないでしょう。周りにいる人がたまたま良い人で、
理解と思いやりがあるから、その人にサポートしてもらえたおかげで、運よく何かが好転した
などと決して思われたくない。松葉杖を一切捨てて、自分自身で歩いて行かねばならないし、
そうする時に初めて、自己の尊厳が着いて来るわけです。私は本当にすべてのことの手柄を
自分だけのものにしておきたい。それは自分を誇るためではなく、もはや誰にも中間搾取を
されないためなのです。 
 
* * *

さらに、最後にレジ袋無償化について。実はこのひとこと欄をもとに記事を書きかけていたので、以下に掲載しておく。

* * *

レジ袋無償配布禁止が来年4月からまことしやかに実施されるかのように報道。法整備もなされていないうちから、まるで既定路線のごとく、反対を封じ込め、国民を諦めさせようとしている。ここまで全国津々浦々のスーパーに至るまでの民間企業のサービスに国が介入するなんて、もはや社会主義国ですね!! これ、どこから始まったか知ってます? 環境省のマイバッグ運動。

要するに、プラスチックごみを減らし海洋汚染を防ぐためにレジ袋を規制するという口実なわけ。しかし、プラごみ全体の中でレジ袋が占める割合など全く証明もされていないほど微々たるもの。レジ袋の中にもプラスチック原料でないものがある。天然素材のものまで禁止するのはおかしい。それなのに、一網打尽に無償配布を禁止しようとしていることの恐ろしさ。違うでしょ、プラスチック由来のゴミ袋だけを禁止しないと、環境汚染を止めるという口実さえ成り立たないのに。理屈がおかしい。こうして、産業ゴミには規制をかけず、国民の負担になることばかり実施。それを環境のためと偽る。

かつてのマイバッグ運動は国民に強制できないとして法制局で頓挫した。今回は前回の教訓もかえりみず、法制局まで巻き込んで、強引に無理やり押し通そうとしている。そういうことをすれば、大手スーパーは打撃を受けず、中小零細の店がつぶれ、ますますシャッター街が増えるだけ。

私から見れば、これ、国家総動員体制の復活の始まりね。そのうち、買い物袋持参の上、配給の列に並ばせ、鍋や釜も全部出せって話になっていくのでは。東京オリンピックを前に、心の国家総動員体制を敷きたいだけなんですよ。今考えるべきは、除染した土をどこに埋めるかという問題であって、レジ袋の有料化じゃない!!呪われたオリンピック・・・。

でも、まことしやかに報道している割には、実際には、プラごみ由来ではないレジ袋の無償配布まで禁止する法的根拠が本当にないんですよね。無償配布したから、汚染が拡大するという因果関係も立証されてない。こんな滅茶苦茶な法律は通せないし、通ったらもはや世も末と思います。だって、無償配布が害になるという因果関係の証明がない限り、禁止する根拠がないんですから。法制局がどう出るかですよね。

もしレジ袋の無償配布が禁止できるなら、この先、何だって禁止できますよ。ホームレスへの炊き出しだって無償配布ですし、駅前でのポケットティッシュの無償配布だって同じ、理屈さえあれば、何だって禁止できることになりますよ。小さく産んで大きく育てる式に、レジ袋はほんのとっかかりで、次々と無償配布が禁止に・・・。多分、そこが狙いなんだと。国民生活はますます不自由と窮乏へ向かう。まさに恐るべき時代が到来しつつある・・・。

「産めよ、増えよ、地に満ちよ」vs.「産むな、増やすな、地から絶え果てよ」

* * *


レジ袋無償配布禁止が来年4月から実施されるなどという報道がまことしやかに飛び交っている。法整備もなされていないうちから、まるで既定路線と言わんばかりだ。

こうして盛んに報道発表することで、反対を封じ込めようとしている気配がありありと感じられる。だが、国がここまで全国津々浦々のスーパーに至るまでの民間企業のサービスに介入するなど、もはや社会主義国ではないかという印象だ。
  
要するに、プラスチックごみを減らし、海洋汚染を防ぐためにレジ袋を規制するというのが口実なのだが、プラごみ全体の中で、レジ袋が占める割合など、全く証明もされていないほど微々たるもののはずだ。

しかも、レジ袋の中にもプラスチック原料でないものがある。



画像:海洋汚染をなげくサーファーが作った「飲めるプラスチック」とは?

プラスチック製のゴミ袋だけを禁止しないと、環境汚染を止めるという口実さえ成り立たないのに。天然素材のものまで含め、無償配布を禁止するというのは、理屈がおかしいではないか。

しかも、こうして、産業ゴミには規制をかけず、国民の負担になることばかり実施。それを環境のためと偽る。

これはかつてのマイバッグ運動の焼き増しのようなものらしいが、かつて環境省はマイバッグ運動を法制化して国民に義務づけようとしたが、そこまで国民の選択を強制できないとして、法制局で頓挫したそうだ。

ところが、今回は前回の教訓もかえりみず、来年4月から必ず実施してやると、大臣らが叫び、法制局まで巻き込んで、強引に無理やり押し通そうとしている気配が感じられる。だが、そういうことをすれば、大手スーパーは打撃を受けない代わりに、中小零細の店がつぶれ、ますますシャッター街が増えるだけではないか。

以下の記事を見ると、インドではスーパーのビニール袋を禁止したが、法律は死文化しているというから、日本でも、強引に押し通したとしても、この法律の先行きは暗そうだという気がしてならない。

インドのスタートアップ企業、100%生分解性の「食べられるビニール袋」を開発」

インドでは増え続けるゴミ対策の一環としてスーパーのビニール袋は所持、使用、補完しているだけで最大19万円の罰金となる違法な物質とされました。正直なところ多くの場所でほぼ死文化している法律とはいえ違法は違法であり、賄賂目当ての悪徳警官にとっても格好の口実となります。
EnviGreen創始者である25歳のAshwath Hedgeさんはこの法律によって悩まされている人に新たな選択肢をと考え、この製品を開発しました。Hedgeさんは4年の再悦を掛けて多くの材料を研究、実験してきました。」
 
無償配布を一網打尽にしようとしているのは、有償化することによって、電話のユニバーサルサービス料のように、環境税のようなものをもうけて、政府の新たな財源にすることが狙いだからなのか。

だが、筆者から見れば、そもそもこはれ、国家総動員体制の復活の始まりだ。この政府は、東京オリンピックを前に、国民生活を統制し、心の国家総動員体制を敷きたいだけなのだ。

そのうち、買い物袋持参の上、配給の列に並ばせ、鍋や釜も全部出せという世の中に逆戻りするのではという悪寒がしてならない。今考えるべきは、除染した土をどこに埋めるかという問題であって、レジ袋の有料化ではないだろうに。

プラスチック由来かどうかも確かめず、レジ袋の無償配布を禁止したからと言って、汚染が縮小するなどという因果関係を、誰も立証できるはずがない。なのに、こんな滅茶苦茶な法律が通るようであれば、世も末だ。

レジ袋の無償配布を禁止ししたからと言って、プラスチックごみが減らないとなると、第二、第三の規制が法制化される可能性がある。

また、レジ袋の無償配布を禁止にできるなら、それを皮切りにして、この先、何でも禁止できる。ホームレスへの路上の炊き出しも禁止、駅前でのポケットティッシュの配布も禁止。チラシの配布も禁止。理屈さえあれば、小さく産んで大きく育てる式に、次々と無償配布を禁止にできる・・・。

多分、そこが狙いなのではないのと筆者は考えている。国民生活をますます不自由と窮乏へ向かわせるための策が練られているに過ぎない。さに恐るべき時代が到来しつつある・・・。

「産めよ、増えよ、地に満ちよ」vs.「産むな、増やすな、地から絶え果てよ」

* * *

以下は、誤解しないでもらいたいが、当ブログを巡る訴訟そのものを指すものではなく、その書面を置き去りにしてまで、当時、真剣に取り組んでいた別の問題のことである。

当時、裁判記録の捏造とか、証言の偽造といった問題を考慮していた。なりすましとは、裁判所で作られた不正な記録のことである。

裁判所で作られた判決は、基本的に、裁判所を出ないので(当事者がもらうものはコピー)、判決でさえ偽造されるという事件は過去にも起きている。

以前は、そんな問題については、考えてみることさえなかったが、そういう事件を防ぐためには、やはり、すべてを光のもとにさらすことが不可欠だと、私は考えるようになった。

訴訟とは、原則的に公開の手続きであるから、裁判官も、滅多なことでは、不正な判決など出せない。市民が見ているからだ。当事者も、裁判官も、自分たちは市民の目にさらされているという緊張に包まれている。だから、誰もが襟を正さねばならない。そこが、訴訟の強みでもある。

訴訟に限らず、隠れたところで物事を論じるのではなく、公の光のもとに出すことは有益だ。当ブログに過去に掲載したある人物の陳述書も、こうして公開の場に持ち出すことによって、本人の人柄、また、これを信じる人の人柄に光を当てることができたと私は考えている。

あの陳述書の内容を信じるとすれば、信じる人もそのレベルだということが証明されるだけである。

このように、怪しげな内容のものは、どんなものであれ、光の下に公然とさらすことで、その悪しき効果は半減する。そして、やはり記録が公開される訴訟というのは、ブログなどには比べものにもならない重さを持っているし、そうであればこそ、そこで話し合われる内容、下される決定には、相当な意味があるものと思う。

そういう意味で、私は仮に裁判所で不正が行われるようなことがあったとしても、それでも、裁判所が持つ権威を否定するつもりには全くならないし、訴訟や、法的手続きに対して持っている一種の畏敬の念を失うこともないだろうと思う。
  
偽造すなわちなりすましの問題については、虚偽は虚偽であることを、オリジナルとの対比によって、公然と示すことが、何より必要である。そういうわけで、「なりすまし」問題を訴えるに当たり、オリジナルを掲載しておくことが有益と考えればこそ、ひとこと欄をこの記事にまとめた。
 
* * *

アクロバティックな方法ですが、主張書面を作り上げています。記事を止めているのは、他に書き上げねばならない書類があるためで、全部を仕上げるのに、そう時間はかからないでしょう。「語らせない」「沈黙させる」「口を封じる」この流れに、全力で対抗せねばなりません。さらに「なりすましによって他人の言葉を奪う」人たちにも、全力で抵抗せねばなりません。しかし、同時に、議論を終えなければならない時を、見間違えてもいけない。いつまでも果てしなく語れば良いというものでもないのです。

それにしても、物事を公開するインパクトは大きいですよ。嫌がらせはいつも隠れたところで行われますので、その事実をそっくりそのまま、公開してあげれば良いのです。保全事件はすべて非公開。だからこそ、暗闇の中で、彼らにはやりたい放題のことができる。むろん、すべての裁判所の保全係がヘンなわけではない。多分、横浜だけでしょう。ですから、電話の録音も、決定文書も、証拠も、全部、公開の場所に引き出して、裁きに委ねましょう。そうすれば、氷が解けるようにその効果も消えて行くと思います。本当に、嫌がらせって、本人にしか分からないようにやるからこそ、いつまでも続けられるんですよ。掲示板もそうだけど、社会からの非難が集中するところに持ち出せば、辞めざるを得なくなる。

ウソの情報を信じて広めると、広めた人が罪に問われるんですね。誰かさんの陳述書とかも同じで、他人の発言を根拠にして発言するときってよほど注意しなくてはいけない。

なりすましの法則。これを警戒せねばならない。少し前までは身近な人の裏切りや讒言が問題となっていましたが、今は何気なく近づく人たちのなりすましによる簒奪。次は思いがその人自身を奪取するという問題か。なりすましは主従関係の逆転です。この逆転した関係を覆して元に戻す必要があるわけです。

* * *
  
まだまだ仕事が山積みのため、ブログ記事の更新はスローペースとなるが、それでも、やはり、主の恵みを語り続けることは有益であるがゆえ、口を閉ざすわけには行かない。

私たちの主は、最も困難な瞬間に、力強く共にいて下さる方である。そして、義に飢え渇き、神の正しい御言葉に合致する、正義の判決が欲しいと願い続けている私を、決して置きざりにしては行かれないだろうと信じている。

私は、私がこの地上から取り去られた後も、ずっと世に残り続け、多くの人たちを不自由や圧迫から解放することのできる裁きを求めている。そのためにならば、長い時間をかけて犠牲を耐える価値があると思っている。

だが、その原則は全てに共通する。朽ちる卑しいものから、朽ちない尊い永遠に残る収穫を生み出すためにこそ、我々は日夜、奮闘し続けている。そして、私たちを生かしていることば――正しい掟――の実現のためならば、目に見える地上の存在としての自分をなげうっても構わないと思うほど、私はこれを尊重している。

それは、聖書の御言葉への畏敬の念に基づくクリスチャンとしての当然の信念であると同時に、私自身の中では、この世の法に対しても、似たような畏敬の念となって表れている。私たちが求めているのは、この世の目に見える世界に、正しい掟が適用され、命令と実行が一つになる世界であり、私たち自身が、主なる神の御言葉と一つとなって、その約束の実現の中を生きる時である。それはまだ完全な実現を見てはいないが、私たちは飽くことなくその実現の日を待ち望んでいる。主の御言葉が、私たち自身をとらわれの状態から完全に解放してくれるその時を――。

だから、私たちは告白する、信じます、いつか必ず、そのようになることを。お言葉通り、僕の身になりますようにと。

「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」

申命記30章1~20節から

わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに臨み、あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、

あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、

あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。

たとえ天の果てに追いやられたとしても、あなたの神、主はあなたを集め、そこから連れ戻される。

あなたの神、主は、かつてあなたの先祖のものであった土地にあなたを導き入れ、これを得させ、幸いにし、あなたの数を先祖よりも増やされる。

あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる。

あなたの敵とあなたを憎み迫害する者にはあなたの神、主はこれらの呪いの誓いをことごとく降りかからせられる。

あなたは立ち帰って主の御声に聞き従い、わたしが今日命じる戒めをすべて行うようになる。

あなたの神、主は、あなたの手の業すべてに豊かな恵みを与え、あなたの身から生まれる子、家畜の産むもの、土地の実りを増し加えてくださる。主はあなたの先祖たちの繁栄を喜びとされたように、再びあなたの繁栄を喜びとされる。

あなたが、あなたの神、主の御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主に立ち帰るからである。

わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。

それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。

海のかなたにあるものでもないから、「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。

御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。

見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。

わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。

もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるならば、

わたしは今日、あなたたちに宣言する。あなたたちは必ず滅びる。ヨルダン川を渡り、入って行って得る土地で、長く生きることはない。

わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、

あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命であり、あなたは長く生きて、主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地に住むことができる。

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(29)―彼のものは一切、債権者に奪われ 働きの実りは他国人に略奪されるように。

本日、筆者の中で何かの一線を超える出来事があった。筆者の中でいよいよ堪忍袋の緒が切れたのである。

杉本が筆者の用意した供託書の内容では供託ができず、自分には債権債務はないと告げ、債務を支払うつもりもないのに、直接、口座間でやり取りをする必要性があるかのように告げて来てから、筆者は二度と杉本には返信しないことを決意していた。

支払いの意思を示さない人間に個人情報など伝える必要は全くない。そして、供託書は最後の温情であるから、これに従わないのであれば、筆者の側からは一切の救済措置はない。

筆者は今日になって、もうこれ以上、被告らにいかなる発言の機会をも与えてはいけないこと、彼らにお伺いなど絶対に立ててはならないことを理解した。

杉本はただ単に賠償金の支払いを拒んでいるだけではない。そもそも彼は負けを認めておらず、この紛争は、どちらか一方の陣営が、完全に社会的に抹殺されるまでずっと続くことであろう。

これは激しい霊的戦いであって、通常の紛争とはわけが違う。筆者が人間としての情けから、敵に猶予を与えれば、自分が死に直面することになるだけだと分かったのである。

裁判官の与えてくれた判決は、被告の意志次第で変更できるようなものではない。ところが、取立という名目で、筆者が被告に接触すれば、被告はその機を最大限に利用して、自分にとって都合の良い言い訳をひたすら並べ、筆者を自分の要求に従わせようとして来る。あわよくば、判決内容さえを自分に都合よく変えようとして来る。

そこで、これ以上、筆者は敵の意思を問うたり、敵に猶予を与えることをしてはならず、そのようなことは、筆者の尊厳をいたく傷つけ、筆者に死以外の何物ももたらさない行為だと理解した。

ところで、先の記事の中で、筆者は訴訟において提出する準備書面は、裁判官に宛てたラブレターのようなものだと書いた。だが、このことを、筆者は訴訟が始まった時からすぐに自覚していたわけではない。

そもそも紛争などというものには、当事者でさえ、積極的に関わりたいとは願っていないので、裁判が始まった頃の筆者には、裁判所の人々が最初から身近な人々に見えていたわけではない。むしろ、できるだけ早く決着をつけて、この事件の関係者とは関わらなくて済む日が来るのが、皆にとって最善だと考えていた。
 
また、被告らとはつきあいが長かったので、当初は、裁判所の人々よりも、被告の方がリアリティを持つ存在のように見えていたほどである。持ち前のお人好しさや人間的な甘さから、筆者はこの訴訟の途中で、被告らが何とかして自分の行動の誤りを悟り、良心の呵責を覚えて、少しでも生き方を改めてくれるのではないかといった楽観をも持っていた。
 
だから、筆者は書面を通して被告らに語り掛けようと試みた。被告らに対する厳しい叱責と非難と忠告の言葉を並べながらも、それが筆者から彼らに向けた真心のこもった「ラブレター」だと述べたことさえあった。

ところが、その関係が、裁判の途中で逆転して行った。筆者は書面を通して語りかけねばならない相手は、被告ではなく、裁判官であることに気づいた。口頭弁論の最中、ほとんど何も発言しない裁判官であったが、彼にははっきりと自らの判断があり、考えがあり、計画があり、筆者を守ろうという思いがあることが分かり、この人に判断を委ねなければならないということに気づき始めた。

そこで、書面を提出する目的も、被告の主張を論破することが第一義的課題であってはならないと途中で気づいたのである。

これは極めて、本当に極めて重要な気づきであった。だが、残念なことに、その気づきは長くは続かず、一審の最後の口頭弁論が終わり、裁判官に宛てて書面を書くこともなくなって以後、筆者はまたしても、被告との差し向かいの牢獄に閉じ込められ、その上、掲示板の嵐のような誹謗中傷が追い打ちをかけた。

筆者は、心を圧迫され、どこにも助けを求めようのない、出口のない状態に置かれ、頭を抱えて嵐が過ぎ去るのを待つ人のように、自力でそれに耐える以外には、何ら方法のない受け身の状態に置かれたかのようであった。

唯一できることは、ただひたすら彼らの嘘を論破することだけであった。

一審判決の言い渡しが、筆者にとって大きな緊張を伴うものであったのは、ただ単に、それが事件の真の終わりにならないという予感が伴ったためだけではない。ようやく築き上げられた裁判官との信頼関係が断ち切れれば、筆者はその後、誰に向かって、何を訴えれば良いのか分からなかったためでもある。

実際、一審判決言い渡し後、賠償金を取立てるためには、筆者は自ら被告に接触する以外に方法がないという状況に置かれた。

これはまさに地獄のような状態への逆戻りであったと言える。だが、その状態にも二審を前に、いよいよ新たな体制が組まれ、書面の送り先も決まり、手続きが開始してから、終止符が打たれた。

筆者には、自分の主張をこれから誰に向けて提示すべきかが見えて来たので、ようやく自分の陥れられていた恐るべき密室状態に、風穴を開けることができたのである。

そこから、脱出口が見えて来た。筆者は、もうこれ以上、取り合う価値のない被告らのごたく(控訴審では被控訴人だが、あえて被告としておく)に注意を向けたり、彼らにお伺いを立てたり、彼らに眼差しを注いだりしなくて良いことが分かった。

見るべき人を見、掴むべき目的を見失わないようにしなければならない。

筆者はまだ二審を担当する3名の裁判官に会ったこともないが、全身全霊のSOSと共に、この人々のもとに駆けこまねばならない。そして、わき目も降らず、彼らの与えてくれる判決をつかみ取り、それを抱えたまま、まっしぐらに前に走り、二度と絶対に被告らの方を振り返ってはいけないし、彼らに発言の機会を与えてもならないということを理解した。

まだ審理が始まってもいないうちから、それが分かった。被告らを振り切り、なおかつ、彼らを合法的に二度と追って来られない場所へ追いやらねばならないのだと。モーセの率いる民とエジプト軍が、紅海で隔てられたようなエクソダスである。

それが明白に分かった時、紛争はまだ続いているが、同時に終わっていること、これを終わらせるのは、筆者自身の意思と決断によることも分かった。

そういうわけで、本日、筆者の前には、二つの手続きが目の前に置かれていた。命につながる手続きと、死につながる手続きとである。死につながる手続きとは、筆者が被告の意思を問うもので、この手続きは、筆者を再び牢獄へ連れ戻そうと、残酷な本性を発揮して、筆者を思い切り打ちのめし、痛めつけた。だが、筆者は獄屋の刑吏の手から逃れるように、そこから逃げ出し、命につながる手続きを掴んだ。

死につながる手続きは、あらん限りの力で、筆者の前進を妨げようとしたが、命につながる手続きは、すべてぎりぎりのところで予定通り達成された。

夜になって、高裁に宛てて申請書を出すために、郵便局の夜間受付窓口へ走った。右折車線に並ぶために車線変更しようとしたが、入れてもらえなかったので、仕方がなく直進し、Uターンして左折すると、筆者を入れてくれなかった行列がまだ停車しているうちに、目的の道へ進むことができた。

こういうものなのだなと思った。これ以上、開かない扉を叩き続けてはならない。遅々として進まない行列に入れてもらおうとしてはいけない。むしろ、遠回りに見えても、青信号に向かってまっすぐ走りなさい。その方がはるかに早く目的地に着けるだろう。

そういうわけで、筆者は、一見、遠回りに見えても、被告の意思を問わず、各種の手続きを次々と実施することにしたのである。

これが命へつながる手続きである。その手続きには、誰一人、反対する者もなければ、滞らせる者もなかった。筆者は時刻ぎりぎりで駆け回っていたが、何もかもが予定通りに達成された。それを見たとき、改めて、これがゴーサインで――神の御思いは、きっとここにあるのだろうという気がした。

筆者の脳裏に、以下の詩編の御言葉が思い起こされる。

特定の人間に向けるには、あまりに残酷すぎるように思われるダビデの言葉である。多くの信者たちは、この御言葉を読んで、さすがのダビデも、私怨には打ち勝てなかったとか、悔しさがにじみ出ている――などと思うかも知れない。これはダビデの神へ向けた愚痴だと言う人もあるかも知れない。

だが、筆者はそうは思わない。これはダビデが聖徒らの代表として、霊的な敵に向けたふさわしい宣告なのである。

聖書には、サタンに対する厳しい裁きの宣告は、あちこちで語られているが、それはあくまで神のなさるわざであり、信仰者個人が、ここまで容赦のない宣告を敵に向けた箇所は、聖書の他の場所では、そうあまり多くは見られない。

だが、筆者は、これは比喩でなく、暗闇の勢力に真実、発せられねばならない当然の宣告であることを思う。

人々は以下の詩編を「呪いの言葉」と理解するかも知れないが、ダビデは、ここで、敵の発した呪いの言葉を、敵に向かって返しているだけである。

ここでダビデは、彼を絶え間なく悩ませ、神と聖徒らに敵対する者たちに、太刀打ちできない敵対者が起こされるように、彼らが裁きによって罪に定められ、祈りが聞かれないようにと願っている。

さらに、彼らの地位が取り上げられ、家が取り上げられて、彼らのすべての財産が債権者に取り上げられ、働いても、働いても、その実りはすべて他人のものとなり、家族が路頭に迷い、極貧の状態に落ち込み、子孫が絶え果て、ついには地上から彼らの名が消し去られるように、と願っている。

すさまじい宣告に聞こえるかも知れないが、筆者は、これは何ら行き過ぎた宣告でもなく、不適切な内容でもなく、ただ単に峻厳な霊的事実を告げたものに過ぎないと思う。

これは暗闇の勢力に対する極めて妥当な宣告なのだということが、今ならば、はっきりと分かる。

筆者が誰かの身の上にこのような事柄が成就することを望んだのではない。筆者は幾度も、幾度も、敵にチャンスを与えたにも関わらず、彼らが自ら悔い改めの機会を拒みながら、筆者の情けを嘲り、破滅へ向かって走っているのである。

そこで、筆者は彼らの発した呪いの言葉を、ダビデと同じように、彼ら自身に跳ね返すと同時に、慰め主なる方のもとへ向かって一目散に逃げ込む。

神よ、あなたはこの状況を御存じです。私たち聖徒らがどれほど侮られ、嘲られ、助けない状況に置かれて、踏みにじられて来たか、あなたはすべてご存じです。報復なさる方よ、公正で真実で人を偏りみない方よ、私はあなたに裁きを委ねます。どうか敵に対して、あなたの正しい宣告を、あなたの容赦のない裁きの宣告を発していただきたいのです。そして、あなたが私たちに与えて下さった救いの確かさと、あなたの愛の大きさを、今一度、私たちに見せていただきたいのです。

私たちは、あなたを信頼しています。どのような状況にあっても、あなたが正しい方であり、私たちを苦難の中に見捨てておかれない方であることを知っています。

* * *
 
「彼に対して逆らう者を置き
 彼の右には敵対者を断たせてください。
 裁かれて、神に逆らう者とされますように。
 祈っても、罪に定められますように。

 彼の生涯は短くされ
 地位は他人に取り上げられ
 子らはみなしごとなり
 妻はやもめとなるがよい。

 子らは放浪して物乞いをするがよい。
 廃墟となったその家を離れ
 助けを求め歩くがよい。

 彼のものは一切、債権者に奪われ
 働きの実りは他国人に略奪されるように。

 慈しみを示し続ける者もいなくなり
   みなしごとなった彼の子らを
 憐れむ者もなくなるように。

 子孫は断たれ
 次の代には彼らの名も消されるように。
 主が彼の父祖の悪をお忘れにならぬように。

 母の罪も消されることがないように。
 その悪と罪は常に主の御前にとどめられ
 その名は地上から断たれるように。

 彼は慈しみの業を行うことに心を留めず
 貧しく乏しい人々
 心の挫けた人々を死に追いやった。

 彼は呪うことを好んだのだから
 呪いは彼自身に返るように。

 祝福することを望まなかったのだから
 祝福は遠ざかるように。

 呪いを衣として身にまとうがよい。
 呪いが水のように彼のはらわたに
 油のように彼の骨に染み通るように。

 呪いが彼のまとう衣となり

 常に締める帯となるように。

 わたしに敵意を抱く者に対して
 わたしの魂をさいなもうと語る者に対して
 主はこのように報いられる。」(詩編109:6-20)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(26)―神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。

「あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたはささいな事件すら裁く力がないのですか。わたしたちが天使さえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。

それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。

なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通をする者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を植えkÞぐことができません。

あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。」(一コリント6:1-11)
 
最近、掲示板での誹謗中傷もすっかり影をひそめた。そして、村上のブログからも、筆者をあからさまに断罪し、勝訴を誇る以前のような記述が消えた。

さすがに、杉本に対する取り調べが行われると分かり、掲示板でも、個人を特定して責任追及がなされることが予告され、掲示板の投稿者らも、危ないと理解したのであろう。そして、村上には二審で不利な証拠が積み上がっている。一審の時と同じようにはならない。

週明けから、杉本に対する新たな差押の準備を進めていたところ、またしても日曜日に杉本が筆者にメールを送り付け、そこで筆者の取立が迷惑行為であるとか、脅迫、恐喝であるなどと騒ぎ立て、支払いに応じる姿勢も全く見せず、何と控訴しているとまで書いていた。

相変わらず、自分に都合の良い言い訳だけを一方的に並べ、自分を振り返ってもらうためだけに他人に接触する行動パターンは何一つ変わらない。しかしながら、筆者が犯してもいない罪を犯しているかのように触れ回れば、それは新たな名誉毀損行為に該当する。

判決で削除を命じられたブログ記事の多くを5月になるまで削除せず(現在、非開示にしているだけなのかも不明)、コメントも改ざんしただけで、完全に削除もせず、賠償命令に逆らい、もはや、争うべき事実もほとんどないのに、判決を不服として控訴しても、受理される見込みは低いだろうと筆者は予想する。

杉本が一審で出して来た怪文書のような文書は事件ファイルにおさめられている。そのような内容の文書にこれ以上、目を通すことには、誰にも合理性が見いだせない。一審で反訴を言い立て、ついには裁判官に職権で拒否すると言われた悪印象もある。判決を不服とする控訴はそれ自体が非常に印象が悪く、控訴審では一審以上に反訴が難しいので、そのための保険にするつもりか、あるいは報復のためだけの控訴なら、ますます印象を悪くするだけで、容易には受け入れられないであろう。

筆者も、控訴する時には、この点に留意し、新たな証拠の発見等による判決の変更を求めるとして、一審判決と争う姿勢を見せることを避けている。裁判官の見立てと異なる考えがあっても、判決が言及しているのとは、別な角度から主張を補い、判決と合わせた共同作品を作るような構えで理由書を書いている。

一審で打ち立てられた成果を土台にして、二審をさらに完全なものとする。筆者の目的はそこにあるのであって、積み上げた成果を崩すことにはない。
 
今、こうして杉本が、またもや筆者が犯してもいない罪を言い立て、判決に従わない姿勢を見せていることをも、理由書にてよく示しておき、この先、杉本の控訴を受理することには、いかなる合理性もないことを主張して、控訴審に備えることとなる。
 
正直な話、控訴が正式に受理されてもいないうちに、その旨を杉本が筆者に告げて来たことは、かえって筆者に対策を講じる十分なチャンスを与えるだけの結果となった。
 
さて、勤務先に対する強制執行などは、人生そのものをひっくり返す可能性のあるものである。面識もない個人に対する名誉毀損行為に及び、判決で賠償を命じられても従わず、社会的責任から逃れ続けていることが分かれば、社会福祉士としての信用も、この先、得ることはできまい。

それだけではない。ヤギの会から、メールが来ていた。裁判関係の資料と杉本のブログを送付しておいたところ、ただ一方的な情報提供だけに終わるかと思いきや、受領の連絡があり、紛争には介入できないとしても、随分、丁寧に対応をされているという印象を受けた。

たった1件のコメント削除の依頼を受けただけで、このような紛争を自ら引き起こし、判決にさえ従わない人間が、大勢の人たちと協力して物事を進めなければならない世話人の仕事をきちんと果たすことができるとは、筆者には思えない。火種を抱えることになるだけで、会の信用にも関わるだろう。この先、よく検討されることをお勧めするのみである。

しかし、このような結果に至ることも、すべて杉本が自分で選んだ選択なのである。速やかに負うべき責任を負って、滞りなく支払いの連絡を済ませていれば、このような事態に至ることもなかった。筆者は幾度も、猶予をもうけ、チャンスも与え、諫め、警告したが、杉本が合理的な選択肢をことごとく拒否したために、現在に至っている。

こうして、判決から今日まで、何も変わったことがあるわけではないのに、一審判決の言い渡し直後と、現在とでは、当ブログを取り巻く雰囲気はまるで異なることに驚かされる。

これが裁判のもたらす社会的影響力なのだと筆者は思う。判決に従わないことが、どれほど人の信用を落とすかかがよく分かる。杉本がこうして裁判所の決定にも逆らっている以上、筆者が最後の手段を講じねばならないとしても、もはや筆者を責める人間は誰もいないであろう。

 * * *

「だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。」(1コリント3:14-15)

さて、先の記事で、サタンの体が焼き尽くされた可能性があると筆者は述べたが、高慢な者に対する裁きはいつも同じで、彼らが「体を失う」ことではないかと筆者は見ている。

だが、ここで言う体とは、文字通りの体ではなく、人間の外側の部分のことである。つまり、人の居場所や、社会的受容、富、名誉、地位、職・・・、神の喜ばれない生き方をしている人が、よすがとして来たすべての虚栄を剥ぎ取られ、焼き尽くされ、高慢さの源となるものがすべて失われることである。神の妬みの炎が、永遠に至らない何もかもを焼き尽くしてしまう。

「見よ、彼らはわらにすぎず、火が彼らを焼き尽くし
 炎の力から自分の命を救い出しえない。
 この火は体を温める炭火でも
 傍らに座るための火でもない。」

「ハレルヤ。大淫婦が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。」(黙示19:3)
 
神の妬みの炎が、おのおの人生の価値を試すのだ。
  
筆者が現在、村上、杉本、唐沢の3名に対して(まだ提起していないものも含め)訴訟を展開しているのは、信仰の争いをこの世に持ち出すためではないし、彼らの属している教会を訴えるためでもない。

むしろ、長年の観察の結果、これらの3名は、もはやキリスト教徒ではなく、兄弟と呼ぶべき人々ではないことがはっきりと分かったため、教会をこの世の支配下に置こうとするこの人々の魔の手から、教会を解放するために、筆者は、この人々を世の前に訴え出ることにしたのである。

これらの人々がクリスチャンでない以上、筆者の行為は何ら以上の御言葉に抵触するものとはならず、変節にも当たらない。

昨年一年間はかなり大変な戦いであったが、ようやく人々の理解を得、関わる人たちの信頼を勝ち得ることができ、また、その秘訣を学んだので、すでに書いた通り、今はこの裁判に反対する人は、もう周りにはほとんど誰も見かけなくなった。
 
少しずつだが、一審の影響が各地に波及している。二審の結果はもっと大きなものになることを予想している。これまで作られた淀んだ空気の流れを完全に払拭し、変えられるとすれば、あと2~5年くらいだろうか。

5年も経つ頃には、おそらく、杉本・村上・唐沢の名は、もはや聞かれなくなるものと筆者は思う。カルト被害者という言葉も、ほぼ絶えて聞かれなくなるであろう。筆者の裁判に最後まで反対していた人たちも、口を閉ざして、何も語らなくなるものと思う。
  
* * *

さて、上記3名に共通する点は、自己の内に深刻なコンプレックスを抱え、キリストの聖なる花嫁であるエクレシアに対し、尽きせぬ憎悪を抱いているということである。当初は、この3名は互いに対立し合っており、何の共通点もないように見えたが、最終的には、エクレシアを敵とするという点で、利害が一致したものと筆者は見ている。

杉本は、すでに記事で書いた通り、プロテスタント、福音主義に対して根強い不信感を持っており、アッセンブリー教会でペンテコステ運動につまずき、大きな心のトラウマを抱えた。
 
村上密も、青年期に統一教会に入信、暴力を伴う強制脱会を経験したことにより、キリスト教に対する根強いコンプレックスもしくは恨みを持っていると見られる。村上の救済活動が、彼の幼少期のトラウマに基づくものであって、真の救済活動ではないということを、筆者は幾度も記事で述べて来た。
 
唐沢治は、かつて異端のローカルチャーチに入信していた経歴があり、若い頃に、自分の失敗にで花嫁に去られた経験を持つ。そのことは唐沢自身が幾度もメッセージで語り、また、当時は、記事などにも書いていたことである。

彼はある女性と結婚を約束し、その女性から約束の実行を求められていたのに、(記憶によると)進学などを理由に、結婚を先延ばしし、不信感を持たれて花嫁に去られた。それによって、深い心の傷を負い、苦しみ、自分の身勝手さを悔い改めて神を求め、聖霊のバプテスマを得たと、当時はブログやメッセージでさかんに語っていた。

今でも、ホームページのプロフィールに書かれている唐沢の「聖霊による油塗り」の体験は、傷ついた心に対する癒しとして与えられた当時の体験を綴ったものではないかと見られる。

だが、それは本当にキリストの霊であったのかどうか、そこから筆者は疑問に感じている。村上密の眉唾物の回心の体験と同じくらい、それには根拠が乏しいのだ。
 
今現在、唐沢は幸福で安定した家庭生活を送っているかのように豪語している。その点では、村上も同じである。だが、それはうわべだけのことであって、村上の家族に起きた不幸な事件についてはすでに記した通りであり、また、唐沢も、大学講師時代には常に女学生への人気を誇り、とても妻帯者とは思えない不誠実な言動の数々を見せていた。

さらに、杉本や村上が、筆者や、鳴尾教会の女性牧師に対して、長年、中傷をまき散らして来た行為を思うと、彼ら3人の心の中には、女性に対する深い心の傷があるように見受けられてならない。

杉本や村上には、唐沢のような体験はないにせよ、3者の心の中には、何かしら共通する男性としての深い心の傷、自分自身へのコンプレックスが存在するように見受けられてならないのだ。

その心のトラウマが、悪霊の働く牙城となって、キリスト教に対する彼らの憎悪と結びつき、エクレシアに対する憎悪に転じている。

唐沢が、ニュッサ氏や筆者を含め、去って行った信徒を断罪し、自分を追い出すも同然に否定したニッポンキリスト教界を日々、嘲り、罵っているのも、結局のところは、自分のもとを去った花嫁に重ねて、キリストの花嫁たるエクレシアを侮辱・冒涜しているだけだと見ることができる。

自分を否定して、自分のもとを去った花嫁が、自分ではない誰かのもとで幸福になるなど絶対に許さない、という執念が、唐沢の記事における、去って行った信徒への共通する憎しみと非難の中に見て取れる。

不思議なことに、村上や杉本にも、唐沢と全く同じ精神が見られるのだ。彼らは、自分たちの率いるカルト被害者救済活動から離反して行こうとする筆者のような信者を、徹底的に呪い、断罪し、二度と立ち上がれないような打撃を加えようと試みた。

結局、これらの3者は、うわべの主張には様々な違いがあるように見えても、根底では、同じ精神を共有している。それはキリストの花嫁たる神の教会を、自分の思いに従わせ、自分の支配の下に置こうとする欲望である。

ウォッチマン・ニーは『キリスト者の標準』の中で、人類には二人の花婿がいると語っていた。最初の花婿は、生まれながらのアダム(律法)で、これは横暴で、利己的で、心が狭く、嘘つきで、約束を守らず、絶えず花嫁を上から目線で断罪し、非難しては蹂躙する、どうしようもない主人である。

人類がこの横暴な主人から逃れるただ一つの方法は、死だけである。そして、神は人をこの破滅的な霊的結婚から救うために、十字架の死と復活を用意された。

こうして、十字架の死によって、人は横暴な主人との結婚から解放され、その後、キリストとの新しい婚姻関係が与えられた。この新しい花婿は、横暴でなく、利己的でもなく、誠実で、花嫁を心から愛し、命を与え、守り抜くことのできる本物の主人である。

唐沢は、自分たちの団体こそが、キリストの聖なる花嫁なるエクレシアであって、既存の教団教派(ニッポンキリスト教界)は堕落したバビロンであると述べて来た。

だが、事実はその逆である、と筆者は主張している。杉本や村上のしていることも同様で、彼らは自分たちがあたかも正しいキリスト教徒であって、他のキリスト教徒の横暴や逸脱を取り締まることのできる存在であるかのように述べるが、それは事実に反しており、実は杉本や村上こそ、誰よりも暴走している偽クリスチャン、偽預言者なのである。

彼らは、本物のエクレシアを弾圧し、これを自分たちの抑圧の下に置いて、自分たち偽物を、本物に取り替えるためにこそ活動しているのだと言えよう。
 
そうして彼らは、エクレシアを簒奪、否定、蹂躙しながら、自分たちこそまことの信者であって、花嫁は俺たちのものだと叫んでいる。

だが、これは花嫁の強奪であり、私物化であり、蹂躙であり、冒涜であるから、そんな方法では、決して花嫁は手に入らない。

自分の思い通りにならないくらいならばまだ良いが、花嫁を冒涜することを繰り返していれば、いつかその所業のすべてが自分に跳ね返って来ることになる。

筆者は昨年の春頃から、この問題について、三島由紀夫に関する映画を引き合いに出しながら、一連の長い分析記事を書いた。
 
記事「神に疎外された者たちによる神への復讐としての「エクレシア殺し」」などの中で、人は神の神殿として造られたのであって、神殿を破壊する者は、自分自身を破壊するのであり、自滅して終わるという霊的法則性を示した。

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」(1コリント3:16-17)

筆者は紛れもなく神に贖われたキリスト教徒であって、エクレシアの一員である。だとすれば、杉本・村上・唐沢が筆者に対して行っている仕打ちは、彼ら自身が、自分を滅ぼしているのと同じ効果をもたらすことになる。

彼らはきっとそうは考えていないことであろう。ヴィオロンをどれほど痛めつけ、嘲ろうと、それは自分とは関係のない事柄だと。悪いのはすべてヴィオロンであって、自分たちではないと、今も自己正当化を図っているのだろう。

だが、霊的法則性においては、人がエクレシアを蹂躙することは、人が自分で自分を滅ぼすことと同義なのである。

その結果として起きるのが、『金閣寺』のプロットに見られるのと同じような、神の宮である自分自身の破壊(体の破壊)である。体の破壊とは、すでに書いた通り、肉体の破壊だけを意味するのではなく、人の外側にあるもの―虚栄をもたらすすべてのもの―が焼き尽くされることを意味する。
 
こうした霊的法則性が存在すればこそ、すでに杉本には敗訴と共に破滅が降りかかり、さらに、村上も二審で不利な立場に立たされることになり、唐沢にも同じ追及の手が及ぼうとしているのである。

冒頭の御言葉をなぜ引用したのか、解説を忘れるところであった。これはキリスト者がどれほど絶大な裁きを行う権限を持っているかを示したものである。

私たちのまことの裁き主は神である。しかし、キリスト者も、それなりにこの地上において事件を裁く権限を担っている。その権限は、この世を超えるものであって、私たちは御使いたちをも裁く権威を持っている、とパウロは告げたのである。

私たちは裁判官としての職務には就いていないが、キリスト者として、この世の裁きに対しても、非常に大きな影響を及ぼす者である。

村上や杉本や唐沢は恐るべき思い違いをしている。彼らはエクレシアの一員を断罪する権威が自分に与えられているかのように考えているが、実は、彼らこそ、エクレシアの裁きの権威に服さなければならない存在なのである。

神はおよそ地上のすべてのものを管理する仕事をキリスト者に与えられ、この世を裁く仕事をも教会に任せられた。だからこそ、私たちの裁き、私たちの宣告は、この世に属する者たち、とりわけ神の教会を迫害する者たちに対しては、まことに厳粛な効果をもたらすものとなる。

それだからこそ、筆者は、裁判が終結する前から、その結果がどうなるのかを知っている。以上の3者が、まことの信仰を持ったキリスト者の告発の前に、決して立ちおおせない事実を予め知っている。裁判は、その霊的事実を実際とするための方法論に過ぎない。
  
<続く>