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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(4)わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネ15:16)

さて、日曜はゆっくり休んで、週明けになると、風邪もどこかへ去っていた。
  
週明けから暗闇の勢力に対して、予定していた厳しい措置を実行する。被告に法的措置を取るため、書類をしかるべき機関に宛てて送付した。これで「命令」を「実行」するためのすべての書類手続きが整ったことになる。

これは判決を得た以上、避けて通ることのできない過程である。筆者が人生で初めて足を踏み入れる新たな厳しい領域だ。
 
訴訟で負けた人には、様々なデメリットが降りかかる。仮執行は控訴によって実行を遅らせることはできない。従って、判決によって抱えた債務は、早々に整理しなければ、社会的に多くの負の影響をもたらし、ますます増えていく可能性すらもある。

被告はかつて「一度、自分の口から出た言葉は後から消すことができないということがわかっていない。もし、それがネット上のものではなく紙媒体の印刷物であれば不可能である。」と書いていたが、その言葉は誰よりも彼自身に当てはまるものとなることを考えてみたことがあるのだろうか?

聖書には、
 
「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。」(ヤコブ2:13)

とある通り、自分が他者に対して憐れみ深く接した人には、憐れみ深い態度が返って来るが、それをしなかった者には、いずれ自分が他人に行ったことが、そっくりそのまま跳ね返ることになる。

バビロンの崩壊が、今始まった。
 
掲示板の読者は特にそうだが、これから被告に起きる事柄を、読者にはぜひしっかりと見ておいて欲しい。なぜなら、掲示板において、匿名で当ブログ執筆者に対する誹謗中傷を日夜重ねている者たちは、自分にだけは決して追及の手が及ばず、自分には苦しみは降りかかることはないと高をくくっているのであろうが、人物が特定されれば、だれでも同じような末路を辿ることになるのだ。

被告の今日は、掲示板の投稿者の明白であるから、警告としてよく見ておいて欲しい。そして、天に唾すれば自分の顔に落ちるように、自分が他人に向かって吐いた言葉は、いずれことごとく自分に返されることの意味をよく考えてみることをお勧めする。

彼らは自分には報いが降りかかることがないと確信しており、筆者が凡人ではないという事実を否定して嘲笑しているようだが、学者という職業の人々は、もともと物事を徹底して追及することに慣れており、またその方法論を知っている。掲示板に対しても、被告に対するのと同じように徹底した態度で臨み、必ず、権利侵害に及んだ人間に対しては、実名を公表の上、責任を追及することを予告しておく。
  
* * *

さて、筆者は今、思い出すことがある。それは筆者がアッセンブリーに所属していた子供時代に、キャンプで初めて村上密を遠目に見かけたときのことである。

あの頃、筆者は中学生で、村上は「先生」と呼ぶよりも、子供好きな「お兄さん」という若さで、筆者よりも少し年上なだけの子供たちを楽しそうに引率していた。

それを見て、筆者は「若い先生のいる教会はいいなあ」と考えたことを思い出す。筆者の所属していた教会は高齢化しており、筆者は子供心にも、教会が高齢化していることに寂しさを覚えていたのである。

その頃、村上密がどんな活動をしているのか筆者は知らず、筆者から見れば、村上はただ単にアッセンブリー教団に属する教職者の一人の「若い先生」であり、まさかその後、現在のような状況が起きるとは、予想だにすることもなかった。
 
そのキャンプでは他教会の人々とは話すこともあまりなかったので、筆者は大勢の人々とにぎわいを楽しむということはなかった。その代わりに、聖霊の存在を知り、おそらくその時、洗礼の決意を固めたのではなかったかと思われる。

キャンプの終わりに、証しをしたい人は名乗り出るようにと求められたので、筆者は手を挙げて講壇に立ってマイクを握り、何か証しの言葉を語った。何を言ったかは覚えていないが、生涯、神様に着いて行くつもりだといった決意を語ったように思う。そのキャンプに連れていってくれた引率者の信者(日曜学校の先生)が嬉しそうに頷いていたことを思い出す。

家に帰って洗礼を受けると親に報告すると、深い感動が込み上げ、涙が出て来た。嬉しいというのとは違う。筆者に対する神の深い愛を感じ、その決意が、筆者の生涯を分ける決断になることを理解していたためである。

しかし、それから、家ではバトルが始まった。我が家の宗教は分裂しており、父はアッセンブリー教団にも疑問を持ち、子供を早くから教会に所属させることに反対で、そこで、当然、洗礼を受けることにも反対であったため、それを押し切って洗礼を受けるには極めて大きな代償が必要であった。

このように、筆者の人生には、子供の頃から、神に従うために、代価を伴う「エクソダス」の過程があった。ただ単純に信じますと言って、それですべてが成就するような安易な状況ではなかった。神に従うために、筆者はまず最初に、自分の家族の情愛や理解を、心の中で後回しにせねばならなかったのである。

その他にも、この世との別離もあり、子供としての筆者は、非常に大きな苦しみを耐えねばならなかったと言える。その上、筆者はアッセンブリーの教会生活には全く満足していなかった。教会生活そのものが苦痛に近いものだったと言っても良い。その当時の教会の様子について、改めて書く必要もないとは思うが、そこには大きな問題があり、真の信仰はほとんど見られない状況であった。筆者には、教会生活は人工的なもので、本物ではないという違和感が心に絶えずあった。

だが、その頃から、筆者は、教会と信仰は別物であって、死んだような礼拝とは別に、聖書の神御自身は生きておられるという確信が心にあった。そこで、教会生活がどれほど形骸化していようと、教職者がどれほど信用できない人々であろうと、そのことは筆者の内心に影響を与えなかった。むしろ、筆者はこれほど大きな代償と引き換えに、従おうとしている存在は、筆者の全自分を捧げるだけの価値のある方であって、筆者の人生は、その方のために聖別されて、とりわけられていることを知っていたのである。

筆者は子供の頃から、幾度か親に向かって、筆者の人生の終わりは必ず普通でないものとなるだろうという予測を語ったことがあった。それは決して非業の死を遂げるという意味ではない。ただ筆者なりに、神に従って生き、神に従って召されるという、殉教の予感であった。

だが、そういう決意も、大学生くらいになると散漫になり、ある時が来て、何もかもが一変するまで、筆者の生活は世人とほぼ同じであった。しかし、そのような生活をしている時でさえ、筆者は自分の人生の終わりは、完全に主のためだけのものとなること、自分のために何か特別な召しが存在するということを、心に感じることがあった。

そして、筆者に与えられた人生の最期の瞬間が来るまで、神の愛は余すところなく筆者に注がれているということをはっきりと感じたのである。

不思議なことに、殉教の決意などなく、信仰すらもあるのか分からない暮らし方をしていても、筆者は神を離れていたわけではなく、神も筆者を離れられなかった。従って、筆者は、自分が神を選んだのではなく、神が筆者を選んだのだということを、今でも確信せざるを得ない。人は、自分の歩みを自分で決めていると考えているが、それを決めておられるのは神である。そう考える他には説明できない、あまりにも数奇な事件が、筆者の人生には多すぎる。

さて、筆者の父親は、人間洞察力に関してはピカイチで、筆者の人間観察眼も親譲りである。(筆者は論理的な思考と冷徹な観察眼を父から、豊かな情感を母から受け継いだ。)

その後、筆者は2008年になって、他教会で起きたトラブルを解決する目的で、村上の教会に向かい、そこに親を呼んで村上と対面させたことがあった。

筆者の父が、その時に村上から受けた印象を後になって述べた。父はアッセンブリー教団の非や、キリスト教についての意見を述べる前に、村上と筆者では人間のスケールが合わないということを真っ先に指摘した。彼は言った、「あれはヴィオロンを相手にできる人間だと思わない。だから、すぐに(ヴィオロンの方から)離れて行くだろうと思った。実際にその通りになった」と。さらに言った、「初対面の人間に向かって、家族カウンセリングのために、実家を訪れても良いとか、やたら熱心に自分の活動や親切心をアピールするところに、かえってうさん臭さを感じた」と。

筆者はこの感想を聞いた時には、すでに村上の教会からもアッセンブリー教団からも完全に離れ去っていたので、この印象は正しいと感じた。そして、たった一度、1時間にも満たないくらいのごくわずかな時間、会話しただけで、相手の人間性を的確に見抜ける父の洞察力に感心した。

もちろん、それは世間知らずの若い牧師に比べて、この世でもまれながら生きて来た年長者としての正しい判断と知恵でもあったろうが、それ以上に、我が親族には、父に限らず、一人一人に、何かしら非常にシビアかつ不思議な観察眼が備わっている。
 
だだ、父というものは、やはり、自分の子供の人間のスケールを直観的に理解・把握していると言えるだろう。筆者のようなタイプの人間は、通常人に理解できる域をはるかに超えた、とらえがたい要素を持ち(これも親譲りだが)、これを理解し、受け止めるためには、並々ならぬ特別な資質が必要となる、ということを、父はよく知っていたのである。

だからこそ、村上密には、筆者のために何もできないで終わるだろうことを、父は最初から分かっていた。筆者のリクエストに応えるという形で、村上の教会を訪れはしたものの、村上が、自分は経験不足の未熟者でありながら、他人の家庭に僭越に口を出し、自力で他人の家庭を是正するために家族カウンセリングに取り組むなど、もってのほかだということを、よく分かっており、口にこそ出さなかったが、最初から全く相手にしていなかったのである。
 
それよりも、村上が他人の心を癒すこともできないのに、一体なぜ、何を目的として、信者に向けて熱心にカウンセリングなどを勧め、そこに家族までも巻き込んでいるのか、父はその真の目的がどこにあるのか、当初から非常に疑問に思っていたと語った。

それから後、村上の人間性は、今やすでに余すところなく明らかになっているので、言及する必要もないと思うが、筆者は時折、「ではどういう人間ならば、父の目に適うのだろうか?」ということを考えてみることがある。筆者の父は、信仰者ではないため、価値観は全く共有できないが、親として、この人間になら、子を預けても構わないという人物が現れれば、多分、一目でそれを見抜く洞察力はあるに違いない。

だが、それだけのスケールを持った人間とは、一体、どういう人物なのだろうかと、筆者は疑問に思う。そして、今のところ、地上のどの人間の中にも、筆者はそれほどの器を見つけたことがない。

筆者から見れば、日本人は特にそうだが、男性はあまりにもナイーブで傷つきやすすぎて、女性からの絶えざるサポートや励ましを常に必要としているため、非常に厄介で面倒な側面を持った存在である。

多くの男性は、自分が強くて、大きくて、頼もしい、懐の深い人間であって、か弱い女性をサポートできることを、心の誇りとし、自信とし、よすがとしているので、女性の方が自分よりも強いことが判明した場合、それだけで打ちのめされ、自分を否定されたように感じ、侮辱を感じ、憤ったりする。女性が自分を少しでも上回っていると感じただけで、もはや愛も消え失せ、憎しみだけが残ったりもするのだ。

それはちょうど多くの男性が、自分よりあまりにも身長の高い女性と連れ立って歩くことを嫌うようなものである。学校時代、筆者の級友の中に、190cmは身長があろうかという女生徒がおり、筆者はその人を容姿端麗だと思っていたが、彼女は色々な苦労があることを話してくれた。もちろん、自分に合ったサイズの服や靴を見つけるのに苦労するだけでなく、特に、男性からの妬みのような蔑み、嘲りがひどいと嘆いていた。

このように、ただ女性の身長が高いというだけでも、男性はコンプレックスを感じるらしいのだ。つまり、多くの男性は、すべての面で、自分が女性に優っていることを確認できなければ、それだけで、心傷つけられたように感じ、侮辱を感じる非常にナイーブな生き物で、少しでも自分が女性から「見下ろされている」と感じることに、耐えられないと言えるのではないかと思う。

筆者はこのことを考えると、多くの人々がこのようにまで傷つきやすく、心が脆弱で、自信喪失しているために、自分のあるがままを認められず、それゆえ、他者のあるがままをも認められない状態に陥っているということは、非常に不憫で気の毒なことであると思わずにいられない。

さて、心の身長などというものは、誰にもはかれないにせよ、筆者の場合は、たとえるなら、見えない心の身長は190cm以上(場合によっては、200cmくらい)あるかも知れない。だが、そうなると、そういう人には、世界が他の人々とは異なって見えるのは当たり前のことである。むろん、理解者が減って行くことも、同じ価値観を共有できる人が減って行くことも、当たり前のことである。

強い女性は、自分のスケールに見合った、自分を守り、かばうことのできる、より強い男性をなかなか見つけられないどころか、男性も女性も含めて、多くの人々から、いわれのないやっかみや差別を受け、かえって心弱い男性を守る側に立たねばならず、苦労することになる。自分よりも心弱い男性たちのプライドを考慮して、絶えず、自己の強さを発揮せず、弱いふり、かばってもらっているふり、気遣われるふりをせねばならない。

これは非常に大きな負担である。何をどう言ってみたところで、大は小をカバーできるが、その逆は成り立たないからだ。かばう側には立っても、かばわれることができないというのは、恐るべき孤独である。

だが、最近、神はそういうお方なのだということが分かって来た。神は私たちがあまりにも心のスケールの小さい人間であることをよく理解して、私たちのプライドを完全にへし折って、私たちが生きて行く気力をなくすことのないように、非常に気を遣いながら接している。強く、頼もしく、大きいからこそ、絶えず私たちの限界をかばうために、ひたすら忍耐して私たちにつきあうしかなく、時には私たちがあまりにも自分のちっぽけな心にこだわりすぎるのを見て、怒り、苛立ちながら、私たちが新たな一歩をやっと踏み出すのを待っていて下さる。これは途方もない忍耐だということが分かって来る。

さて、筆者の父は、人の人間的な器の大きさを直観的に見抜くことができる人だったので、筆者のような人間は、村上密のような人間に何とかできるような存在ではない、ということを確実に知っていたし、筆者もその通りだと考えている。

だが、これは以下にも書く通り、ただ単に人間のスケール云々という問題ではなく、私たちがそれぞれ何に立脚して立っているのかという問題を伴う。

村上と筆者の立脚点は、完全に対極にあり、それ だからこそ、この争いは、村上の勝利で終わらず、控訴審に持ち込まれたのであって、そこで一審判決は覆されることになる。理解ある裁判官が下した良識的な判断でさえ、神の目には完全でないため、覆されることになる。この争いに、決着をつけられるのは、神御自身である。

筆者は、神の完全なることを証明するために立たされた人間であり、その召しに立っていればこそ、主は筆者の願うことに応えて下さるであろう。

だが、このようなことは、筆者に限ったことではない。杉本徳久がかつて書いていた「干潟」に関する記事を思い出せば分かる通り、杉本も、かつて村上とは対立関係にあり、その当時に書いた、村上をほとんど偽預言者扱いせんばかりの記事を未だ掲載し続けている。
 
この「干潟」に関する記事で、杉本は、村上がカウンセリングを通して、人の心に溜まった「悪水」を抜けば、その人はハッピーになれると書き、自分の活動を、干潟を埋め立てる公共事業にたとえて自画自賛していたことを痛烈に批判し、干潟は断じて人の心に溜まった「悪水」などではない、村上は初歩的な思い違いをしている、と非難していた。

まさしくその通りなのである。

もしかすれば、地上には、一人くらいなら、筆者よりも強く、懐の深い、頼もしい存在はいるかも知れないし、あるいはそういう人々は、十人か百人くらいはいるのかも知れない。そういう人々によりかかれば、筆者の重荷は軽くなり、筆者はより悩みなく生きて行けるように思われるかもしれない。

だが、筆者は、誰か自分よりも頼もしい人間によりかかり、支えられ、理解され、慰められて生きたいとは全く思わず、それが幸福だとも感じないのである。

仮に肉の父の目にかなう人間が十人、百人いたとしても、天の父の目にかなうのは、御子ただお一人だけである。

従って、筆者は他のすべてのものと引き換えにしてでも、ただ真に完全で価値のあるものだけを掴みたいと願っている。

筆者が何を言おうとしているかと言えば、私たちにとって、孤独や悩み苦しみは、取り除くべきものではなく、それ自体が、神に通じる十字架の道だということである。誰か孤独や悩み苦しみを埋めてくれそうな人間に手を伸ばせば、手っ取り早くそういうものは、なくなるように思えるかも知れないし、それこそが人間の幸福のように考える人々がいるかも知れないが、それは根本的な誤りである。
  
そこで、子供の頃、キャンプで遠目に他教会の子供たちの楽しそうなにぎわいの様子を見たときのことを思い出すにつけても、あの時、あの孤独の中にあって、まことに良かったと筆者は考えている。

あの時、村上とその教会の人々は、筆者から見て「対岸」のようなところで、陽気に楽しんでおり、筆者は、こちら側の岸で、自分たちの教会には若い人々が少なく、子供も少ないので孤独だと感じていたが、それは何ら嘆かわしいことではなく、まさしくそれで良かったのだと思わざるを得ない。

これは筆者の所属していた教会が正しかったという意味でもなければ、アッセンブリー教団を肯定するものでもない。ただすべての状況の中に、神の御手が確かに働いていたということに過ぎない。

その頃から、筆者には様々な重荷、様々な孤独、言い知れない苦悩があったが、筆者は、そのようにして、世から取り分けられたことは、非常に良いことであったと考えている。

投獄されたパウロなどは言うに及ばず、ガイオン夫人も、ウォッチマン・ニーも、すべての信仰の先人は、必ず望むと望まざるとに関わらず、不思議な状況の巡り合わせによって、世から分離されるという過程を辿ったのである。

そこで、自分が孤独や苦しみとは一切、無縁の、心の「悪水」などとは一切関係のない、絶えず楽しそうなにぎわいの中で騒いでいられる「あちら側の人間」の一人であれば良かったのにとは、筆者は全く思わないのだ。

人のにぎわいからは離れた静寂の中に、神の選びと、愛に満ちた眼差しがあった。死んだような教会、心の通わない信徒の交わりとは別に、神は確かに筆者に対して、筆者自身の心の願いにこたえて、個人的に語りかけ、働いて下さった。むしろ、そのような環境があったからこそ、主は筆者に応答して下さったのだと言えよう。(これは断じてそのような教会にとどまり続けることを勧めるものではない。)

あの時、神ははっきりと、筆者にしか分からない方法で、あなたを選ぶとおっしゃって下さり、そのことを、筆者はすべての人たちの前で証し、そして、それが人生の極めて重大な一歩となって行ったのだから、それで十分なのである。筆者はとにもかくにも、見せかけでないもの、束の間でないもの、一番大切なもの、永遠に残るものを掴んだ。そして、筆者の心からの決意は、神に重んじられ、聞き届けられたはずである。

このように、神は常に人を荒野に導いて、ねんごろに語りかけられる。神が好まれるのは、見栄えのしない「干潟」であって、整然と整備された街並みとしての「公共事業」ではない。神は人の心にどれほど「悪水」がたまっていようと、そのようなことは決して障害とはみなされず、そのすべてを自分が受け止めることができるから、私のもとに来なさい、とおっしゃる。

むしろ、忌まわしいのは、神の目に、人が己を完全に見せかけようと、自分を飾り、自己浄化しようとして、自分には罪などない、悪水などない、問題などない、自分は聖い人間であって、豊かで、乏しいことはなく、むしろ、自分こそ、他者の問題を解決してやれる能力を持っているのだ・・・、などと己を偽り、思い上がりに陥ることなのである。
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日々の十字架を負う意義――わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。

これまでの記事の中で筆者は、嘘にまみれた世界の中で、公正、真実、誠実さを追い求めることが、命を救う鍵となるだろうと強調して来たが、実際にその通りの原則が、筆者の人生において成就している。

もちろん、真実なるお方はキリストただお一人なのだが、キリストは目に見えないお方であるがゆえに、私たちは現実生活の中で、ただぼんやり天を仰いで待つのではなく、自分自身の力で、何が本当であるかを判断し、限りなく、真実性のあるものだけを選び取って行かねばならない。
  
今、何が本当であるかを着実に見分け、真実だけを選び取って行かなければ、命取りとなるような時代が到来している。真実と虚偽を見分けることができるかどうかで、人の命運が分かれるのだ。
 
たとえば、これまで、筆者に向かって色の良いことを約束しておきながら、その約束を実行せず、いわれのない損害を与えようとする人々は、数多く現れて来た。(これは本当のことである。)しかし、その中には、見るからにいかがわしい似非宗教指導者や、求人詐欺を働く悪徳企業のような、初めから誰にでもそれと見分けられるどうしようもない組織やリーダーたちだけが含まれていたわけではない。

残念ながら、そこには、筆者にとって非常に親しい身近な大切な人たちの嘘の甘言も含まれていたのである。

今から少し前、筆者がある問題の解決に悩んでいた頃、「私が必ず力を貸してやる」と申し出た人がいた。その人は身近な人間であり、長いつきあいのある存在であった。

その人は言った、「ヴィオロンは私にとって非常に大事な人間だから、必ず、約束を実行する」と。

ただし、その約束は次のような注釈つきだった。「明日、ある人だけにはこのことを相談しておきたい。私はその人の了解なしには行動できないから」。
 
そこで、筆者は即座に答えた、「あなたは私よりも年長なのに、未だ自分のことも一人で決められないのでしょうか。ほかの人と相談すれば、あなたは必ず心を翻すでしょう」

その人は言った、「そんなことはない。私がそんなにも簡単に自分の約束を破ると思うか。私がヴィオロンのことをそんなにも軽んじていると考えるのか」

筆者は礼儀上、その言葉には何も答えないでおいた。その人はそれを筆者の同意だと思ったのか、我が意を得たりとばかりに満足そうだった。

しかし、その人は筆者と長いつきあいがあるとはいえ、信仰は全く共有しておらず、信仰面では筆者とはむしろ、正反対の立場に立っていた。そこで、筆者は、その日が来るよりもずっと前から、内心ではうすうすその人と筆者との運命は間もなく完全に別れるだろうことを予感していた。おそらく、この会話が最後の試金石になるだろうと感じていた。

その人は案の定、その翌日、まだ舌の根も乾かないうちに前言を翻し、約束は反故にしたいと通告して来た。だが、筆者は、そうなることを予想済みであったので、何のショックも受けず、静かに言った、筆者の方でも、すでに別の解決ルートを見つけたので、助けてもらう必要はなくなったと。

その人が、筆者にあたかも大きな力を貸すかのように述べたのは、筆者の生活であるイベントが予定されていた前日のことであった。もしもその大事な時に、筆者がむなしい約束を信じて、その助けを当てにして、予定通りに行動していたなら、筆者の人生は大きな損害を受けたかも知れない。

だが、筆者はこれまでの経験則から、その人がどんなに筆者にとって身近で大切な人間であっても、一切、信仰を共有することもできず、同じ立場に立っていない人から助けを受けることは決してあり得ないと知っていた。

そこで、そのような人間の約束を、信じず、当てにもしていなかった。むしろ、その人が筆者を必ず助けると言った言葉を聞いた直後、筆者は物事を熟考し、速やかに、その助けを一切、当てにしなくて済む方法に行動を切り替えた。そうでなければ損害を受けていたのは間違いのない事実である。

このように、どんなに感情的には身近で親しい人間に思われる人の言葉であっても、信仰に基づかず、真理に立っておらず、誠実さや真実性に欠ける行動ををしている人間の述べた言葉は、すべて当てにならないものとして、退けなければならない。その原則を筆者はこれまで幾度にも渡って学ばされていた。

人情に働きかけられたり、おだてられて心をくすぐられたりして、自己満足することによって、信じてはならない言葉を信じれば、取り返しのつかない害をこうむるだけである。

これまで筆者の人生において、真実を見分ける力を養うことは、まだまだ小さな予行演習の繰り返しのようであったが、社会全体が、どっぷりと海のような嘘の中に浸かるに連れて、嘘を退け、何が真実であるかを見分ける力は、死活的重要性を帯びるに至っている。

繰り返すが、ただ自分の感情にとって心地よく好ましく感じられるものだけを信じ、選び取ってていたのでは、ただちに死に直結し、生きられなくなる時代が到来しているのである。
 
さて、以上とは似ているようで、また別の話がある。
 
最近、筆者はある事件で協力を得るために、かつての信仰仲間の幾人かに、久方ぶりにコンタクトを取ってみた。すると、そのうちの一人の身に悲しい事件が起きていることが分かった。
 
悲しい事件と言っても、本人には全くその自覚がないから、そう思うのは筆者だけである。

その人は、事件への協力を約束したが、その際、あたかも筆者の健康を気遣うような口調で、熱心に電位治療器の無料体験を勧めて来た。

あまり熱心に勧めるので、直接、会うついでに寄ってみようと、筆者はその人の案内で体験会場を訪れてみた。

しかし、会場の入り口に「ハピネス」などと書いた怪しげな旗がひらめいているのを見た瞬間に、筆者の心の中では「あ、これはヤバイな」という警告が鳴り響いた。

体験会場の中に入ると、「一般社団法人ハピネス」という、宗教団体とみまごう組織名が掲げられている。
   
いくつもの椅子が並べられた会場を見回すと、そこには老人ばかりが集まり、まるで病院の待合室のようであった。

会場に並べられた粗末な椅子に置いてある座布団が、電位治療器の役目を果たしているらしいが、そこに集まった人々は、まだ何かが始まる前から、この電位治療器のおかげで、劇的に歩けるようになったとか、病気が治っただとか、ありとあらゆる奇跡物語を「あかし」していた。知人はすっかりその気にさせられている様子だったが、筆者はそれを聞いてますます「ヤバい」と感じた。

そうこうしているうちに、若い販売員が登場して、老人たちの前でパフォーマンスを始めた。そして、「この電位治療器には、病気を治癒する力はありませんが、体の調子を整えることができます。体の調子を普段から整えておくことで、将来的に、がんになったり、深刻な病気にかかるリスクを減らすことができるのです…。ついこの間も、30代の若い女の子が、病気の予防に役立つならと買ったばかりですが、今ならキャンペーン価格で…」などと語り始めた。

キャンペーン価格と言えども、65万円は下らなかったように記憶している。庶民が思いつきで手を出せる値段ではない。しかも、販売員がのっけから「がんのリスク」などと、明らかに人の不安や恐怖を煽るような話を始めたことに、筆者は非常な不快感を覚えた。

筆者は心から病気を憎んでいる。筆者がここへ来たのは、病気の話など聞かされるためではなく、暗闇の勢力にいかに勇敢に立ち向かって、それを撃退するかという問題を話し合うのためであった。こんなくだらない話につきあっている暇はない。
 
やたらと人を不安に陥れる脅し文句を並べ、何一つ科学的な証拠もないくせに、この電位治療器を使ってさえいれば、まるで将来的に病気のリスクを低減でき、がんにかかる可能性を減らせるかのような、眉唾物の話んは、筆者は心の底から憤りを覚えずにいられなかった。
 
しかも、会場の電気椅子(いや、電位治療器)に座っていると、筆者はドキドキして来て、嫌な感じを覚えた。むろん、警戒していたためもあるだろうが、そもそもペースメーカーを使っている人は、使用できないなどの説明を聞いても、明らかに、これは人体に不自然な刺激と圧迫を加えるものであると分かる。

仮にこの電気椅子にほんのわずかでも治療の効果が認められるのだとしても、このような外的刺激に頼らなければ、健康を維持できないほどまでに弱体化した人間にはなりたくないと強く思った。
 
だが、何よりも、筆者が違和感を覚えたのは、その体験会場に来ている人々が、することもなくぼんやり受け身に椅子の上に座って、販売員の説教を待っているだけであることだった。

本当に困っている人たちは、寸刻を惜しんで働いており、こんなところで時間を潰している余裕はない。志の高い人は、同じ時間を使って、社会運動にでも参加するだろう。それなのに、この人たちには、他にすることが何もないのだろうか。

病気のリスクを減らしたいなら、同じ時間を使って、家で体操でもすれば良い。ジョギングでもマラソンでもウォーキングでもして体を鍛えれば良い。そもそも、この人たちの家庭には、彼らの優しい心遣いや、世話を待っている家族はいないのか。泣いている孫や、赤ん坊はいないのだろうか。

おそらく帰宅すれば、彼らの温かい配慮や世話を待っている家族の一人もいるはずであり、その他にも、社会のためにできることはいくらでもあるはずなのに、それらすべての問題を差し置いて、自分の体のことばかりを心配し、こんなところで受け身に座っていれば、ますます筋力は衰え、知性も後退し、他人にお膳立てしてもらわなければ、何もできない無能な人間になって行くだけである。そんな方法で病気を防げるなどと本気で信じているなら、まさに愚の骨頂だ。

筆者は、眉唾物の怪しげな奇跡体験談が飛び交ういかがわしい会場に、一刻たりともとどまる気がせず、販売員の話もそこそこに、知人を無理やり外に引っ張り出すようにして会場を立ち去った。筆者がそこにいたのは、わずか5分から10分くらいだっただろう。

その後、筆者はその知人に向かって説いた、これはほとんど宗教で、霊感商法と同じだ、こういういかがわしい商売に関わるのは危ない、と。

しかし、その知人には全く効き目がなかったようであった。

それでも、しばらくの間、その知人とは連絡を絶たなかった。そのうちに、再び、ひょんなことから、会話の中で電位治療器の話が出て来た。

筆者はその会話の中で、キリストの十字架の贖いこそ、私たちの完全な命であって、救いであるのに、昨今、キリスト教徒を名乗りながらも、あからさまに聖書66巻は神の霊感を受けて書かれた書物ではないなどと否定して、自ら神の救いを拒んでいる、呆れるような人々がいる、と述べた。

そして、その話のついでに、知人に向かって、やはりあの電位治療器の無料体験に通うのは早くやめた方がいい、科学的にも十分な実験が行われたわけでないのだから、どんな副作用や禁断症状が伴うかも分からない。依存状態になる前に、こういう外的手段に頼らず、自分の命の力だけで、健康を維持できるようにした方が良い、と語った。

すると、知人からは、思わぬ拒否反応と共に、驚くべき叱責の言葉が返って来たのである。

「ヴィオロンさん、あなたは何も分かっていない。あなたはほんのわずかもあの体験会場にとどまらなかったくせに、試してみるよりも前から、電位治療にはどうせ効果なんかないと決めつけている。そんなあなたの態度は、まるで聖書66巻は神の霊感を受けた書物ではないと、聖書を読むよりも前から決めつけて、救いを拒んでいる人たちと全く同じだ!!」

「はあ? 一体、何を言っているの!?」

筆者は驚いて問い返した。

「まさかあの電位治療器に、キリストの救いや聖書66巻と何の関係もあるわけないでしょう?」

「いや、同じだ! あなたは救いがあるのに、救いなんてない、聖書なんて信じない、と救いを自ら拒んでいる人間たちと同じだ!!」

筆者は鳩が豆鉄砲を食ったように驚き呆れると同時に、これは重症だ、手遅れかも知れない、という手ごたえを持った。

孤独な老人が、販売員の親切そうな口調や、無料体験会場の賑わいに釣られて、電位治療器にはまりこむのはまだ分かるとしても、かつてキリスト教徒だった人の口から、その電気椅子があたかもキリストの救いと同等であるかのような言葉を聞かされるとは、こんな商売がまっとうなものであるはずがないという確信が込み上げて来た。

「あれはただの電気椅子でしょ。それなのに、どうしてそれを聖書とか、神の救いと同列に並べられるわけ。しかも、あれを試さないからと言って、何で私が救いを拒んでいるということになるわけ。

もしそういう理屈が成り立つならば、同じような椅子が、他にもたくさんあるはず。試せというなら、全部試して、見比べてみるべきじゃないの。他の椅子を知らないし、よく知りもしないくせに、あれだけが救いみたいに決めつけてるのは自分でしょう?」

「そりゃ、全部、試したわけじゃないから、他にももっと良いものはあるかも知れないけど…」
と知人は口ごもる。

「そうでしょう? でも、それを言い始めたら、電気椅子だけじゃなく、青汁や、サプリメントや、マッサージ器や、その他、ありとあらゆるものに、それなりの効能があるはずでしょう。TVをつければ、通販番組で、いくらでも奇跡体験を聞ける。あなたはそういうものをいくつ試したわけ。他のを十分に試してもいないのに、どうしてあの椅子だけにそこまでこだわるの?」

「自分で試したから。あれが効くって分かったんだよ」

「呆れた。騙されてるだけだって、分からないわけ」

「騙されてなんかいない。何も買ってないし」

「買わなくたって、宣伝係として大いに利用されてるじゃないの」

「だって、歩けなかったのに、歩けるようになったって言ってる人にも会ったし。それを否定するの?」

「馬鹿馬鹿しい。そんな話はベニー・ヒンの大会で病気が癒されたとか言ってる奇跡体験と何も変わらないじゃない。そういう『あかし』を聞かされただけで、証拠もないのに飛びついて信じるの? 何度、騙されたら学習するわけ?」

「きついなあ。ヴィオロンさんだって、今はそういうことを言っているけれども、十年後には、体が弱くなって、考えが変わるかも知れないよ」

「馬鹿なことを言わないで。十年経っても、私の考えは変わらないから」

「いつまでも健康でいられないかも知れない。がんになるかも知れないよ?」

「いい加減なこと言わないで。ほらね、もう脅しが始まった。あのお兄さんが会場で言っていたことを、あなたは受け売りしているだけじゃない。だって、言ってたものね、がんのリスクを減らせるかも知れないとか、云々。

あなたはそういう話を聞いただけで、愚かにも真顔で信じ込んで、都合よく利用されて、会場のサクラにされた上、電気椅子の伝道師にまでされちゃったんだね。

でも、私にはそんな伝道は要らない。私には癒し主であるキリストがすでに着いておられるんだから、病気を恐れる必要なんてないし、ましてあんな訳の分からない椅子にすがりつかなきゃいけない理由もない。
 
まことの命であり、健康そのものであり、すべての問題の解決である方が、すでに内におられるのに、何のために、あんなあの世の待合室みたいな会場の椅子に、救いを求めて通わなくちゃいけないの。

毎日、あんなところに通わないと健康を維持できないと思い込んでるなら、それはまるで教会に通っていないと救いを失うと脅されて、日曜ごとに教会のベンチにしがみついている信徒と同じじゃないの? そういう信仰生活はもう卒業したんじゃなかったの?」

「・・・」

「私から見れば、あなたはあそこで大勢の人たちと会ってちやほやされて、孤独を紛らし、自分の健康を心配してもらうことと引き換えに、すっかり洗脳されちゃって、病気の治療どころか、病気を受け入れさせられてることが分からないんだね。
 
人の人生では、自分で信じたことが本当になるんだよ。病気になるかも知れないなんて言われて、それを真に受ければ、本当にその通りになるだけだよ。しかも、がんになるかも知れないと言われて、大真面目に信じて電位治療器を買うのは、先祖の祟りと言われて、壺を買うのと同じだよね。

でも、言っておくけど、先祖の祟りは、壺を買ったくらいでは、きっと免れられないよ。一つの脅しを受け入れれば、次から次へと新たな脅しがやって来るだけだよ。壺では終わらず、さらにもっと高価なものを買わなくちゃいけなくなるだけ。同じように、がんのリスクは、あんな電位治療器なんかでは、防止できない。あのお兄ちゃんだって言ってたじゃない、電気椅子には、病気の治療の効果はないって。

だから、あなたは存在しない幻の解決と引き換えに、現実の巨大なリスクを引き受けさせられているだけなんだよ。本当の目的は、治療の効果もない機械と引き換えに、がんになるかも知れないっていう恐れを現実のものとして引き受けさせることにあるんだよ」

「・・・」

「だから、病気や祟りの脅しなんて、聞いた瞬間に、断固、拒否しなくちゃいけないわけ。しかも、私たちには真実な救いが与えられているから、そういう恐怖で脅される理由はないって分かっているはずなのに、あなたはあんな低次元な脅しを拒否しないどころか、私にまで恐怖を広めようとしているの?
 
でも、そもそもがんがどれくらいお金がかかる病気か、あなたは本当に考えたことがある? 電位治療器も買えない人が、そんな病気とおつきあいしてる余裕があるわけ? 自分の生活を考えたら、がんなんて病気と仲良くしている余裕は、最初から全く存在しないってことが、自分で分かるんじゃないの。そんな病気、お呼びじゃない。早期発見してみたところで、仕事も休めないし、残業しないと生きられない人に、どうやってそんな病気の予防策にお金を投じている暇があるの。誰がその間、面倒をみてくれるの? そんな病気、かかっただけで一貫の終わりだよね。そんな病気のことで、四六時中悩んでいられるような人たちなんて、あそこに来ている老人みたいに、ほんの一握りの恵まれた人たちだけだよ。私に言わせれば、まさにぜいたく病みたいなもの。

それでも、あなたがどうしてもそんな眉唾物の話を本気で信じて、私にまで布教したいって言うなら、まずは、あの椅子を自分で買ってからにすればいい。どうせあなたが言っている『試さないと分からない』なんて台詞は、無料お試し体験程度でしょう。

そんな中途半端な体験で、知ったかぶりされても困るんだよね。ちゃんとローンでも組んで機械を買って、自宅で毎日長時間試して、博士論文くらいのデータを集めてから、人にものを言いなさいな。中途半端にしか試してない人間から、中途半端な説教を受ける気は私にはないから。そんな薄っぺらい無責任な言葉と態度で、人を説得できると思ってることが大間違い、というか他人を馬鹿にしてるんだね。
 
あなたがその霊感商法と手を切らないなら、この交わりもこれで終わりにしましょう」

この説得の言葉を聞いても、知人はまだ筆者の考えが間違っていると確信していたらしかった。

電気椅子はそれほどまでにその知人の心をとらえ、もはや心の王座を占めていると言って良く、それに比べ、筆者のような人間は、あの会場のサクラの一人程度にしか見えていなかったのであろう。知人が誘えば、筆者もあの機械に病みつきになると本当に思われていたのだとすれば、随分と軽くみられたものである。

ところが、サクラでなければならない筆者から、電気椅子を捨てなければ、交わりは終わりだと宣告され、知人はよほど腹に据えかねたのか、その後、自ら信仰の交わりを絶つと言って来た。

しかし、それには「あなたとはこれまで互いに信仰的見解が最も近いと思っていたので、とても残念だ・・・」という未練がましい注釈と、さらに、電気椅子はやめない代わりに、これから当分の間、信仰告白をやめさせてもらう、と挑戦的な捨て台詞のおまけがついていた。

それは筆者が、この知人に向かって、人前で神を拒む人間を、神も拒まれると聖書にあるから、困難があっても、公に信仰のあかしを続けることはとても重要だと思うと語った直後のことであった。
 
ああ、やっぱりな・・・、と筆者は思った。 恐るべし、あれはただの電位治療器ではない。この知人が、筆者の前で、電位治療器などというこの世のガラクタを、聖書66巻やキリストの救いになぞらえて語ったことは、偶然ではなかったのだ。

その知人にとって、あの電位治療器は、まさに「踏み絵」の役割を果たし、信仰を棄てる契機にまでなってしまったのだ。
 
そんな人間から、「信仰的見解が最も近いと思っていた」などと言われたことに、筆者はただただぞっとして冗談はやめてくれと薄気味悪さを感じるだけであった。
 
さて、この電位治療器については、ほんの少しネットを検索しただけでも、筆者と同様の意見がたくさん見つかる。

ネットでは、筆者が目にした高額で販売されている電位治療器は、原価5万程度の代物でしかないと言われている。さらに、売り方にあまりにも問題があることは、数多くの場所で指摘されている。

「治療の効果があるわけではないが、体の調子を整えることで、がんの予防にもつながる」などと、正式に認められてもおらず、科学的に一切証明されていない効能を無理やりこじつけのように謳ってアピールするなど、違法すれすれの説明である。

しかも、販売員が奇跡体験を語ると違法になる恐れがあるため、無料体験会場には、予めサクラと思われる参加者が仕込まれ、その参加者の口から「これを使ったら、歩けなかったのが、歩けるようになった」とか、「病気が治った」などと、奇跡の「あかし」をさせることで、眉唾物の「福音」を口コミで広めて行こうとする念の入れようである。

老人や病者の孤独や弱みにつけこみ、親切心を装いながら、人々を食い物にする悪徳商法には、強い憤りを感じるが、それと同時に、筆者が思うことは、以下に引用する記事にも書かれている通り、それにひっかかる人間の側も、どうしようもなく愚かで無責任で自己中心で能天気な阿呆だけだということだけだ。

それでも、福音を知らないならば、まだ弁護の余地もあるかも知れないが、最も救いようがないのは、キリストの福音の価値を自ら知っていながら、天の御座に憧れるのではなく、あのような地上の安物の電気椅子に心を奪われ、その無料体験ごときを、キリストの救いと取り替えた人間である。これでは、まるで一杯のレンズ豆のあつものと引き換えに、長子の権を売り払ったエサウとほとんど変わらないではないか。

筆者は、暗闇の勢力との闘いの中で、少しでも力を借りられないかと思ってその知人に声をかけたのであったが、あまりにも愚かすぎる結末に、開いた口が塞がらなかった。

大体、自分の体の心配、自分の健康の心配、自分の必要性、自分の快楽・・・、そんなことばかりを四六時中、気にしているから、最後にはこういう結末へ引っ張られて行くことになるのだ。

四六時中、自分の心配ばかりをしているから、最後には椅子から全く動くことさえできなくなり、ついには立ち上がることもできなくなって、病が癒されるどころか、病に倒れて終わるのである。あれはただの椅子ではない。肥大化したセルフの玉座である。

しかも、電位治療器に正式に認められている効能とは「頭痛、肩こり、慢性便秘、不眠症の緩解」だけであるらしい。

だが、「頭痛、肩こり、慢性便秘、不眠症」などは、取り立てて大騒ぎするような不調ではなく、まして高額な治療器を使ってまで早急に撃退しなければならない深刻な病ではない。

誰でも、悩み事が生じれば、夜も眠れないほど考え込んだり、頭痛や肩こりを覚えたり、食欲もなくなり、体調も一時的に悪化したりもするだろう。

だが、それは一過性のことだ。それなのに、一体、いつから、人にとってそのような一時的で些細な悩み苦しみまでが、あってはならないもののようにみなされ、不眠や肩こりや頭痛までが、あるまじき重大な病のようにみなされるようになったのか? 

しかも、「がんになるかも知れない」などという、手に負えない巨大な病のリスクを引き受けることに比べれば、頭痛や肩こりといったほんの些細な痛み苦しみを黙って甘んじて受けることは、はるかにたやすいことではないのだろうか?

それなのに、ほんの些細な悩み苦しみをも、あるまじきことのようにみなし、ほんの少し、自分が痛み苦しみを負わされたくらいのことで、まるで重大事件が起きたかのように大騒ぎし、四六時中、我が身可愛さから、自分の体、自分の健康、自分の感情、自分の感覚のことばかりを話題にし、ほんの些細な体調不良にも神経質に騒ぎ立てて早急に手を打たねばならないと走り回り、朝から晩まで常に自分の体のことだけを心の中心に据えて生きているから、その不安につけこまれて、経済的に損失を負わされるだけでなく、巨大な病のリスクまでも引き受けさせられるはめになるのだ。

聖書は言う、

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」(マタイ16:24-27)

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」(Ⅱコリント4:16-17)

私たちの「外なる人」が衰えて行くことは、避けようのない事柄である。私たちは内に復活の命をいただいてはいるが、あくまでそれを土の器の中に抱えており、常に外なる人の限界に脅かされている。

しかし、そのために生じる痛み、悩み、苦しみなどは、実に些細なものであって、一時的な軽い艱難でしかない。地上での生涯を立派に耐え抜けば、その艱難とは比べものにもならない天の栄光が約束されているのだ。

そのようなわけで、キリスト者にあっては、地上における一時的な軽い艱難は、有益な実を生みこそすれ、無駄になることはない。ところが、そんな些細な艱難さえをも、甘んじて負うことを避け、常に自分にとって心地よい快楽体験ばかりけを追い求め、朽ちゆく自分の地上の命を惜しみ、これを大事に握りしめて手放さず、生まれながらの自分を永遠にまで永らえさせることを考えていれば、最後にはその命すらも失って、どん底に突き落とされて終わるのが関の山だ。

もともとその命は有限で、どんなに工夫しても永遠に永らえさせることなどできはしない腐敗したアダムの命なのだから。その命にしがみつく者が呪われたり、罰せられたとしても仕方がない結末である。

何がハピネスだ。もしこんな薄っぺらい幸福が、幸福だというなら、筆者はそういう幸福は要らない。

人間の幸福は、ただ喜びや快感だけでなく、悲しみや悩みや痛み苦しみと相合わさって絶妙に美しい織物のようになっている。私たちは、主の御手から恵みだけを受けとるのではなく、艱難をも甘んじて受け取るべきである。

そして、神が私たちを悩み苦しみを通しても、練り清めて下さり、私たちの思いのすべて知って下さり、必ず、問題には解決を与え、ふさわしい時にそれを取り除け、苦しみをも、栄光に変えて下さることを信じて、外からの助けにすがらず、ただ内におられるキリストの命の力だけによって、すべての危機を乗り越えて行く方法を学ぶべきなのである。

それなのに、一体、どうして、キリストの十字架における永遠の救いと、神の霊感を受けて書かれた書物である聖書66巻を、たかが電位治療器ごときと引き換えにできようか。
 
去って行った知人の後ろ姿を見つつも、筆者は、やはり、このような商売は、憎むべきものであって、何があっても関わりたくないし、こんなもののために貴い救いを失うなど、あまりにも愚かすぎる結末だと思うことしきりであった。
 

憎むべし、電位治療器。憎むべし、悪徳商法。」から抜粋

「ネット上で、私はこんなに効果がありました!と鼻息を荒くしている人がいます。
こういう人たちには、きっと悪意はないのでしょう。
自分が良くなったのだから、純粋な好意から、他人にもすすめたい、と。
しかしその好意は、周囲にとっては迷惑で、無責任なものでしかありません。
効いた原因もろくに説明出来ず、厚生省の認可も受けていない。
そんなものを、”たまたま自分に効果があった”からといって、他人に勧めるというのは、
極めて無責任で、能天気で、浅はかで、滑稽で、馬鹿で、救いようがない。
ある意味では幸せとも言えますが。
こういう図式は、カルト宗教にも良く似ています。


高齢者を集め「がんが治る」などと宣伝していた電位治療器の販売業者」(国民生活センター)から抜粋

「本件業者は、体験会場へ大勢の高齢者を集めて、「血圧を正常値に戻す」「がんが治る」などの効能・効果をうたい電位治療器を販売していた。会場でビデオを見、病気が回復したという人の話や業者のもっともらしい説明を聞き、病気を抱える高齢者は効果を信用し契約した。

当該治療器は医療機器承認番号を取得していたが、効果として表示できるのは「頭痛・肩こり・不眠・便秘」のみであった。


消費者契約法や薬事法に抵触する販売方法と思われることから、当センターは、信販会社に、加盟店の指導を十分行うよう申し入れた。

 また、本件のようなケースでは、仮に、業者が消費生活センターの相談員や相談者を訴えたとしても、逆に、業者に対して不法行為による損害賠償請求の訴えを提起することが可能であろう。


ダマされないぞ!インチキ商法! (悪質商法データベース)」から引用

分類

薬事法における管理医療機器(クラスII)に分類される。認証基準に適合する製品に関しては頭痛、肩こり、慢性便秘、不眠症の緩解が効能効果として認められる。

注意点

上記のとおり、頭痛、肩こり、慢性便秘、不眠症の緩解については薬事法により効能効果が認められているが、その他の効果については法的に認められているわけではない。パワーヘルスの例に見られるように、これ以外の効果(たとえば、糖尿病・高血圧・ガンの治癒など)を公的に求められた効果として謳って販売した場合、違法行為とみなされる。

 


十字架における死と復活の原則―神の御前での単独者としての厳粛かつ孤独な歩みを決して忘れるな―

前回、キリストにある新しい人(栄光から栄光へ主の似姿に変えられて行くこと、復活の命による統治、命の御霊の法則)というテーマについて語る際、法則性はない、と書いたが、この点について改めて訂正もしくは補足をしておきたい。これまで繰り返し書いて来たことだが、「主と共に十字架の死と復活にとどまる以外には法則性はない」と。
 
なぜなら、ゴルゴタを離れること、キリストと共なる十字架の死の重要性から少しでも目を背け、これを過小評価したり、言及せずに通り過ぎることは、たちまち、クリスチャンを別な道へ逸らせる大きな危険性であることを、改めて思わされるからだ。

筆者にも、クリスチャンが低められること、主と共に苦しみを負うことについて、長々と語りたくないという衝動が生じることがある。そのようなネガティブな話題からは、いい加減、目を背けてもいい頃合いではないかと。しかしながら、そうした衝動や願望にははかりしれない危険がある。

主と共なる死からクリスチャンが卒業できる日など来ることは決してなく、キリストの十字架は、来るべき世においても永遠の偉業として打ち立てられている。だから、クリスチャンが、主と共なる栄光は欲しいが、死は負いたくないという衝動に安易に身を任せて、十字架の死について沈黙し、復活という側面だけを語ろうとすることは、極めて重大な危険としての背教に陥る最初の一歩なのである。

主と共に栄光を受けたいならば、主と共に苦難をも受けるべきである。高められたいならば、低められることにも甘んじねばならない。キリストと共なる復活の側面だけを重視して、死の必要性を少しでも過小評価することは、たちまち、我々キリスト者を違った教えへと逸らせる要因にしかならない。

実際に、幾度も書いて来たように、筆者の知っている多くのキリスト者たちが道を誤ったのは、彼らがキリストと共なる死の中にとどまることをやめて、ゴルゴタの装甲の外に飛び出し、主と共なる輝かしい復活の要素だけにあずかろうと願ったためである。そのために、彼らは自画自賛、自己顕示、自己宣伝、セルフを建て上げる道へと逸れて行ったのである。その結果、ついにはセルフを神とし、自分への恵みを受けるためだけにキリストを利用し、主イエス・キリストを否定するまでに至っている。

そのような誤りに陥らないために、たとえ生活の何もかもが順風満帆で、思わぬ苦しみや不幸のように見える出来事に全く遭遇することなく、自分の名誉が望まずして傷つけられたり、恥を負わされたりすることがなかったとしても、あえてゴルゴタの死の中にとどまろうとする姿勢がどれほど重要であるかを思う。

特に、人に誉めそやされたり、ありがたがられたり、重宝されるようなことがあれば、特別な用心が必要であり、そうしたどこから来たのかも分からない流れに持ち上げられ、流されることなく、主と共なる死の中に自らとどまろうとする姿勢は非常に重要である。

ゴルゴタは我々にとって最も堅固な要塞であり、装甲のようなものである。そこから一歩でも外へ出ることは、神の守りの外へ自ら出ることを意味し、その結果として、自分を守ることができなくなる。人前に、キリスト者ゆえの苦難を受けることを厭い、他人からのお世辞やお追従を好み、自画自賛や、自慢話に明け暮れ、自分を喜ばせる快楽(目の欲、肉の欲、持ち物の誇り)を好んだ人の中に、正常な信仰を維持しえた人間は、これまで一人もいない。そういう人間は、信仰を持たない世でも忌み嫌われるが、まして信仰者としては完全な失格者となる他ない。だから、我々はどんなに神の恵みが雨のように降り注がれたとしても、決してそのような道を行かないことを宣言する。

さて、筆者の家人や親族への義務はあらかた終わったことを思う。筆者は、束の間、地上の故郷に帰って来たが、それは地上の肉の絆を確かめ合うことが目的ではなかった。

キリストは公生涯の間、家を持たず、地上における職業を持たず、御霊の導きのままに歩まれた。だから、主がそうであれらたのだから、筆者は、地上の故郷を故郷と呼ぶことはもうないだろう。ここは伝道のために立ち寄った地の一つに過ぎず、そこが筆者にとっての真の故郷ではないからだ。
  
『ギルバート・グレイブ』という映画を知っている人は覚えていると思うがが、そこに、地上の家を離れることができないまま生涯を終えた主人公の母親が登場する。彼女の悲劇は、家から一歩も外出ができないほどまでに太ってしまった点にあるのか、それとも家から離れられなかった結果そうなったのか、どちらが先かを論じても仕方がないが、少なくとも家がもたらす精神的束縛(もしくは現実逃避)こそ、そのような結果を招いたことは間違いない。

地上の家というものは、多かれ少なかれ、そういうものだ。肉親の情愛はどんなに美しく飾られていたとしても、最終的には、人間を縛りつけ、また、現実逃避のための砦や繭となってしまう。

地上の故郷や、肉の絆にしがみつく人々は、家族や親子の情愛という麗しいヴェールで、生まれながらの自分自身の弱さを覆い隠そうとしているに過ぎない。それは、堕落した人間の自己欺瞞の手段であり、さかのぼれば、創世記において、罪を犯したがゆえのアダムとエバが、自分が裸であることを知って、己の恥を隠そうとして編んだイチヂクの葉に由来する(それがイチヂクだったのかどうかは定かではないが、筆者はこれを便宜上「イチヂクの葉」と呼んでいる。)また、弟アベルを嫉妬ゆえに殺して神から逃避するに至ったカインが、自分や一族を復讐の脅威から守るために築き上げた都市(要塞、城壁)に由来する。
 
筆者は、地上における家というものは、霊的には、このイチヂクの葉、カインの城壁と密接につながっており、それはすなわち、人間の滅びゆく命の防衛の砦としての地上の肉体の幕屋そのものを象徴しているように思えてならない。
 
人間の肉体は、その人自身の一部であると同時に、その人の脆くはかないアダムの命を持ち運び、これを守るための砦(幕屋、宮)である。

この宮は命を守るために存在する。しかしながら、人間の肉体は、朽ちゆくものであるから、宮を守る使命とは裏腹に、命を守るにはあまりにも不十分であり、脆く、弱い砦でしかなくい。宮だけでなく、肉体という宮によって守られている命そのものも、有限で儚いものである。そのような人間の命の弱さ、脆さ、限界は、罪から来るものであり、最終的には、罪の報酬である死が命全体を滅ぼし、奪い去ってしまう。

だが、そのように人間の命が脆く有限であるにも関わらず、生まれながらの人間は、己の罪を認めず、己の罪のもたらす当然の結果である己の有限性、弱さ、脆さを認めず、最終的には、死をも認めようとしない。
 
たとえば、三島由紀夫は、自らの肉体を鍛え上げることで、己の精神的弱さやコンプレックスを隠し、そこから目を背けようと試みた。三島由紀夫の人生においては、マッチョイズムによる自己からの逃避は、私営の軍隊の創設、盾の会といったより高度な形へと発展して行く。そして、最後には、自己を守るための「殉死」(結局は自己破壊)という、パラドックスに満ちた究極の結末へと至りつく。そこには、天皇を守るためという大義名分がついていたが、その根底にあるのは、生まれながらの人間の有限なる命への絶望感と、己の罪を否定して、己を永遠の存在に高めようとする願望であった。
 
天皇を現人神とみなすことで、三島が何とかして信じようとしていたのは、生まれながらの自己の命の永遠性である。天皇を神とみなし、それに殉ずることで、三島が永遠の存在へと高めようとしていたのは、他ならぬ自分自身であった。

三島は、生まれながらの人間とその美を愛するあまり、生まれながらの人間が朽ちゆくもろく儚い、滅びゆく存在に過ぎないという事実が認められなかった。彼は朽ちゆく人間の命を惜しみ、己の肉体を鍛えることや、目に見える人間を賛美することで、人間の命が滅びゆくものであるという事実そのものを、人類への冒涜とみなして否定し、アダムの命とそれを守るための砦としての人間を永遠とみなそうとした。肉体を鍛え、軍隊を創ることは、人間の有限性という事実を否定する手段であり、最終的には、自分自身を理想化し、これを永遠の存在として保存するために、自死という最期を遂げたのである。

さて、地上における肉による絆だけによって築き上げられる「家」というものも、筆者には、上記と全く同じ文脈で、人が地上の朽ちゆく有限な命と、その幕屋としての肉体を永遠とみなそうとする自己欺瞞の思想の象徴であるように感じられてならない。
 
すでに別な記事で幾度も論じたように、万世一系という神話を作り出し、天皇と臣民を一つの家になぞらえ、「家」を守るために、個人が自己の命を捧げることが、人の最高の使命であるかのように教え、親のために子が命を捨て、指導者のために部下が命を捨て、天皇のために臣民が命を捨てて、こうして、「家」を存続させることによって、人類が己の「神聖な」命を存続できるかのように教える考えは、結局、人が生まれながらのアダムの命の有限性を否定して、自らを永遠とみなそうとする偽りの思想から出て来たものに他ならない。

そうした文脈における「家」とは、通常の文脈におけるただの家を指すのではなく、偽りの神話に基づいて、生まれながらの人間の家系(=アダムに属する人類の血統)を神聖視・絶対視するために作り出された要塞であり、かつ神話である。人間には明らかな寿命があるため、人間の命が永遠でないことは、誰の目にも明白な事実であるにも関わらず、子孫が先祖に仕え、代々、家を守ることが人間の使命であるかのように説くことによって、この思想は、人間の命を血統になぞらえて不滅のもののようにみなし、アダムの命の有限性から目を背けて、人類という堕落した血統を神聖で永遠のものであるかのように讃えようとしているのである。

そのような考えで、もし個人を「家」を守るための手段とするならば、その時、その個人はもはや個人ではなくなり、実際には存在しない「神聖な家」の附属物か、もっと言えば、家の象徴のようなものへと変えられて行く。
 
そのようにして「家」と一体化した個人は、自らの意志を奪われた、偽りの神話の象徴となり、束縛された奴隷も同然になってしまう。万世一系などといった神話でどんなに飾りたて、どんなに不滅のもののように見せかけ、誉め讃えても、この偽りの思想は、その虜となった人間を滅ぼしてしまうだけなのだ。

『ギルバート・グレイプ』に存在する母親のように、人が自らの弱さ、脆さを隠すために築き上げる要塞としての家に束縛されてしまうと、その人間は、その偽りの安全から外に出て、現実に直面する勇気を失って、家と一体化してその象徴と化してしまう。その家は、人間の弱さや脆さと直面することを拒否する、同情や優しさに見せかけた様々な偽りの情に塗り固められて美化されてはいるが、実際には、人を縛りつける場所にしかならず、誰をも自由にはせず、幸せにもしない。

筆者は、今、我が国は曲がり角に来ており、大きな過渡期にあるものと思う。すなわち、敗戦後、我が国は、天皇を現人神とみなすことをやめ、象徴天皇制に移行した。官吏は天皇に仕える僕ではなくなり、公務員は国民の公僕とされた。しかしながら、この改革は非常に中途半端なもので、数多くの矛盾を抱え、数多くの点で、ミイラのような過去の残存物を内に抱えている。

すでに書いたように、憲法上の真の公務員の定義は、官僚を指すものではなく、選挙で選ばれた政治家を指すものであって、現在の官僚は、本当の意味での公務員ではなく、戦前の官吏の影のような残存物であって、勝手に公務員を詐称しているに過ぎない。さらに、天皇が国民の象徴として存続し続けることの矛盾は、天皇自身が退位を望んだという事実に何よりも明白に表れている。

筆者は、神と人とがつながるために、キリスト以外のどんな仲介者もあってはならず、牧師という役職は不要であると再三に渡り、述べて来たが、それと全く同様に、国民の象徴としての天皇という存在も必要ないと考えている。

すでに説明したように、カトリックのような、法王を中心とする聖職者階級を否定して、聖書の真理をすべての人々に解放すべく行われたプロテスタントの宗教改革は、結局、牧師を中心とする教職者制度を残したことによって、非常に中途半端で、かつ、矛盾だらけの改革に終わった。そして、当然のごとく、このように中途半端に教職者制度を肯定したことは、悪魔に口実を与えるきっかけとなり、その結果、牧師夫妻を「霊の父・霊の母」として崇めるような、全く聖書に反する異端の思想が、公然とプロテスタントに侵入して来る契機を作ったのである。

日本国憲法も、結局はプロテスタントに起きた現象と同じような、中途半端な過渡的改革を示している。敗戦後、天皇を神として崇める思想は否定されたものの、天皇制そのものは廃止されず、これが国民の「象徴」として残されたことによって、依然として、主権在民が完全に実現しないまま、改革は中途半端に終わったのだ。国民一人一人が完全に個人としての自覚や責任を持つには大きな妨げが残ったのである。

そして、天皇が「象徴」として残されたことによって、ただ未来への前進が中途半端に妨げられただけでなく、さらに、過去に立ち戻ろうとする動きにも口実を与えることとなり、戦前回帰などという愚かな潮流の出現も手助けされているのである。

そこで、以前も述べた通り、次なる時代が到来するためには、筆者は、プロテスタントもそうであるが、我が国の体制そのものも、この中途半端な「象徴」を取り除き、一人一人が完全な主権を取り戻し、個人が個人として生きられるような形式を整えるしかないと考えている。今はそのための過渡期・移行期であって、歴史を逆行して、天皇を再び現人神とすることによって、後退することが必要とされているのではなく、むしろ、天皇制を廃して、完全なる国民主権を実現することで、未来へ前進することこそ必要なのであり、もしも憲法を改正するならば、そのような前進の文脈でこそ、初めて意義が生まれるのである。

皇族や、国民の象徴という言葉は、いかにも偉大な響きを帯びてはいるが、実際には、天皇の任務は、考えられているほど尊いものでもなければ、美しいものでもない。そのことが、天皇の退位という問題をきっかけに、今になってようやく多くの人々に広く認識されるようになった。

象徴天皇制は、天皇自身に人権すら与えずに、一生、生まれながらに選択の自由もなく、象徴としての義務に縛りつけるような、残酷な束縛の枷にしかなっていない。

天皇自身がその矛盾に気づいており、象徴であり続けることに疑問を感じているにも関わらず、そんな制度をありがたがり、天皇の気遣いを受けることで、自分が満たされ、高められるかのように錯覚している国民がいるとすれば、その国民の方も、(まるで牧師の気遣いに依存する信徒同様に)全くどうかしていると言わざるを得ない。

他人に犠牲を強いることによってしか、自己の価s値を十全に感じられないというならば、その充足感は偽りである。たとえ高齢の天皇が退き、若い世代に道を譲る事で、新たな天皇を立てたとしても、生きた人間を「象徴」的存在に閉じ込め、自由な意志選択や自己決定権を奪うことの忌まわしさは何一つ変わるものではない。

それなのに、なぜ人間は、まるで金の子牛像を拝むようにして、常に自分の偉大さを証明してくれる、目に見える象徴を求め、目に見える自分以外の人間からの賞賛や支援や同情や激励の言葉を求めずにいられないのか。

そういう浅はか弱々しく自己本位な願望と訣別すべき時が来ているのである。にも関わらず、もしこれから先も、我が国の国民が、他者からの賞賛や激励や同情といったものを求め続けるならば、その美しい言葉を口実に、どんどん自らの自由と権利をかすめ取られて行くだけであろう。

そのような文脈での「象徴」としての任務が、光栄な務めであって、偉大な使命であると考えるのは間違っている。それは人間の依存心を助長し、自立を妨げ、無用な束縛を増し加えるだけである。

さて、話を戻せば、偽りの思想における「家」というものの欺瞞性に、筆者が言及したのも、以上と同じ文脈である。家系を代々、絶やさないことによって、家を守ることを人の最高の使命とし、それによって、人類の血統を永遠のものに高めようとする思想は、非常に忌まわしいものでしかなく、そのような文脈によって生まれる「家」というものも、何ら美しい存在ではない。
 
また、『ギルバート・グレイプ』の映画に登場する母親のように、分厚いたるんだ脂肪に包まれているだけの人間も、三島由紀夫のように、自らの肉体を鍛え上げることで、肉体美・筋肉美を誇る人間も、外見はまるで正反対のように見えたとしても、本質的には全く同じであり、両者ともに、生まれながらの人間の自己を神格化し、その考えに基づいて、人類という「家」を守るためのカインの城壁にしがみつき、束縛されているだけなのだ、という事実に気づく人は少ないだろう。

結局、この両者は、己の肉体にしがみつくことで、どちらもが地上の故郷である「家」へしがみつき、執着しているのである。象徴としての「家」を絶対視・神聖視し、それに自ら束縛されることで、己の有限性、弱さ、罪を否定して、現実から目を背けて、堕落した人類には存在しないはずの永遠に思いをはせているのである。その偽りの思想は、個人に個人として生きることを許さず、秩序を転倒させ、最終的には、個人を滅ぼしてしまう。
 
その結果、本来、家というものは、家族の成員を守るための屋根のようなものに過ぎないのに、この屋根を守るために、家族が命を捨てるという本末転倒な結果が生まれるのである。あるいは、肉体は、命を守るための砦に過ぎないのに、その砦を不滅のものとするために、人が自己の命そのものを滅ぼすという結果になる。こうした考え方を延長して行くと、牧師のために、あるいは教会組織のために、信徒が命を捧げ、企業を守るために社員が命を捨て、象徴天皇制を守るために、国民が犠牲を払い、あるいは天皇のために、もしくは国のために、再び国民は命を捨てよという思想が生まれる。

このような思想においては、何もかもがさかさまである。人間のために家があるのに、家のために人間が存在することにされ、人間のために肉体があるのに、肉体のために人間が存在することにされ、人間のために組織があるのに、組織ために人間があることにされ、国民のために国があり、天皇が存在するのに、天皇のために、国のために国民が存在することにされてしまう。
 
最終的には、そのようなさかさまの思想は、神と人との秩序を転覆させる。聖書によれば、本来、人間は、神に仕える宮であるのに、その宮に過ぎない者、被造物に過ぎない者が、主人である神を超えて、自らを永遠の存在として誇るという秩序転倒に至る。宮が主を超えてしまうのである。

その結果、パラドックスに満ちた現象が起きる。自らが神聖でないのに、神聖の領域に不法侵入した者が、打ち滅ぼされる。 自らが永遠でないのに、自らを永遠と宣言した者が、己を滅ぼし、それによって、自らが永遠でないことを逆説的に立証するのである。天皇のために「殉死」した三島もそうであったし、滅んだ「皇軍」もそうであり、家と一体化したまま死んだ母親もそうだが、結局は自殺としか言えない結末に至るのである。

こうして、腐敗した朽ちゆくアダムの命を神聖視し、滅びゆく不完全な地上の幕屋としての肉体にしがみつき、人間を滅びに導くだけの肉欲にしがみつき、朽ちるものに執着し、それに同情の涙を注ぐことによって、滅びゆく自分の堕落や弱さから目を背けて、自己を保存しようとする人間の自己防衛の試みは、究極的に、自己破壊という結果に至りつくだけなのである。

だから、家を自分の弱さから逃避するための手段として用いる人々もまた、自己の罪を隠すためのイチヂクの葉により頼んで生きているだけなのだと言える。地上の組織の強化や拡大にこだわる人間もすべてこれと同じである。

家にしがみつく人間も、企業の繁栄や、宗教団体の繁栄や拡大にこだわり、あるいは国家の強化や、軍備の増強を唱える人間は、すべて同一線上に立っている。それは決して十字架の死を経ることのない、アダムに属する人間の、生まれながらの自己(セルフ)を建て上げ、永遠に肯定したいという欲望の言い換えに過ぎないのである。
 
生まれながらのセルフの腐敗・堕落を隠すために、彼らはその覆いとしての宮(肉体、家、組織、国家)を賛美し、そうすることで、神に背いた人類の堕落した本質を隠しながら、被造物に過ぎない自分自身を、造物主以上に掲げて、神と宣言しているのである。

このように、神を口実にしながら、結局、神の地位をのっとることで、己を高め、神格化しようとするこの思想の傲慢さ、忌まわしさは、三島の「殉死」が、彼が最も崇めたはずの他でもない天皇の意志を無視して単独で行われたことにもよく表れている。どんなに天皇を口実に掲げていても、三島の最期は、現実の天皇の意志をまるで無視して行われた独りよがりなパフォーマンスに過ぎず、結局、三島が望んだのは、天皇を口実に持ち出すことで、自らを神格化することだけだったのである。

今、戦前回帰を持ち出して天皇を担ぎ上げ、讃えている人々がしていることも、全く同じである。天皇をありがたがる人々ほど、実際には、天皇自身の意志や人格などまるで尊重してはおらず、単に自己を高める口実として、他者を利用しているに過ぎない。

そして、プロテスタントの信者が牧師や教会組織にこだわる理由もこれと同じである。彼らは、自分たちの属する教会やリーダーを絶対視し、誉めそやすことで、結局、自分を偉大な存在に祀り上げようとしているだけなのである。家や家系を絶対視する人々もそれと同じであり、その根底にあるのは、常に自己を偉大な存在とする口実が欲しいという「セルフの神格化」の願望だけである。
 
真のキリスト者の願いや、目指す目的は、決して、以上のような人々と同じものではない。キリスト者の目的は、地上的な様々な象徴によって自己を強化し、武装し、己を高めて、神聖視し、それによって、自己の抱える本当の弱さ、愚かさ、罪深さから目を背けて、自分を偉大に美しく見せかけることにはない。我々にとって、真により頼むべきものは、そうした地上的なものではない。

だから、冒頭のテーマへ話を戻すと、もしもクリスチャンが、主と共なる十字架の死にとどまることの重大な意味を忘れ、主と共なる復活、栄光だけを願い始めるなら、その人はたちまち、自分では神に従っていると錯覚しながら、実際には、生まれながらの己を神として祀り上げる誤った方向へ逸れて行くであろう。
 
また、少しでも、神との直接的な交わりではなく、地上の人間たちとの横のつながり、人間との絆や連帯を賞賛し、もしくは自分の帰属集団などに価値を見いだし、栄光を帰そうとするなら、たちまち以上のような誤った思想へ逸れて行くであろう。

多くのクリスチャン(と称する人々)が実際にそうなったのであり、筆者はまさにそれゆえに、地上における家にこだわり、地上的な情愛にとらわれることへの重大な危険を思い、また、それを警戒している。
 
もしもこうした要素を信仰生活に少しでも混ぜ込むならば、たちまち、神への純粋な従順も失われてしまうであろう。

確かに、「主イエスを信じなさい、そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」という御言葉には重大な意義があるが、それは、決して、我々が肉の情愛を神聖視し、それにしがみつき、埋没するための口実ではないのだ。
 
人は、地上における自分の家や、勤め先の企業や団体、もしくは宗教団体や、国家といった組織を隠れ蓑のように利用して、その中に埋没することで、己の罪や弱さや限界から目を背けるのではなく、常に個人として、一人分の重荷を負って生きねばならない。その生き様は、集団の中に自分の居場所を求め、地上への帰属を誇ることで、個人としての孤独や自分独自の使命を忘れ、自己の本質から目をそらそうとする衝動や生き様とは正反対である。

集団に埋没することの中には、自己忘却の誘惑としての安楽が常にあるが、それはキリスト者の道ではない。

人はもともと集団を維持するための道具として生まれているのではなく、個人として生きており、それゆえ、個人としての意志や、独立性を生まれ持っている。他の誰のコピーや附属物でもない、オリジナルな、他から独立した、個人として生きており、それゆえ、個人としての尊厳や、諸権利が生じるのであり、個人の尊厳は、決して、帰属集団によって担保されたり、定義されるものではない。誰のコピーでもないオリジナルであるがゆえ、その使命も人と同じではなく、独自の重荷を負わねばならない。ましてキリスト者はそうであり、キリスト者は、「日々の十字架」として、一人分の重荷、一人分の孤独、一人分の十字架を常に負う任務があることを筆者は疑わない。地上では寄留者として、どこにも最終的に定住することなく、つつましく歩み、常に神の御前の単独者としての孤独を負い続けねばならない。
 
だが、多くのクリスチャンを名乗る信者たちが、まさにつまずき、脱落して行ったのは、この点であった。

彼らを堕落させたのは、自分は絶対に一人になりたくない、孤独を負いたくない、人間の絆から切り離されたくない、人間の絆から生じる温もりや、連帯を失いたくないという願望であった。その思いが、彼らが十字架の死を経ない、アダムの命によって生じる生温かい情に身を委ね、集団の中に安易に埋没して、神の御前での単独者として、自分独自の重荷、自分独自の孤独、自分独自の十字架を負うことを拒ませるきっかけとなり、その孤独な歩みを忘れさせたのである。そのような信者たちは、その後、まるで営利企業や、軍事力の強化に走る国家も同然に、自分たちの連帯を神聖視し、賛美しながら、自分たちの属する宗教団体の権威や威光を誇示し、これを強化・拡大することを至高の目的として、完全に誤った道へと逸れて行った。
 
筆者は、彼らと同じ道を決して行くまいと決意している。だが、そのためには、神の御前で、どんな時も、キリスト者が自分一人分の孤独を自ら背負い続ける姿勢が、極めて重要なのだと思わずにいられない。その任務は、人の目には、孤独で悩み多きもののように見えても、地上における人間たちのどんな種類の連帯にもまさる意義を持つと確信している。

つまり、神に満たしていただくためには、神が来られる前に、信者である人間が、すでに満たされてしまっていては駄目なのだ。神の御許にだけ、我々が携えて行かねばならない一人分の孤独、弱さ、限界、飢え渇きがどうしても必要なのである。神の御前で、人間が、すでに満たされてしまっておらず、孤独で、飢え渇いていることが必要なのである。

ところが、人間が、自分自身の弱さを恥として否定すべく、自分で自分を強め、孤独を忘れるために、自分を慰め、励ましてくれる象徴を自ら作り出し、人間の温もりと連帯の中に安易に身を埋めると、本来は、神に向けるべき、一人分の飢え渇きが、あまりにも簡単にあっけなく失われてしまう。そして、もはや以前のように、悩みや苦しみの中でも、心の底から神を求め、信じて見上げるだけの純粋な信仰、純粋な叫び、祈り、求めが曇らされ、なくなってしまう。最終的には、そのような人間にとっては、ただ神にのみ自分のすべてを委ねて生きることよりも、悩みや苦しみから手っ取り早く目を背けて、自己の弱さを忘れることおの方が、はるかに重要課となり、まるで中毒患者のように、現実の自分自の弱さから目を背けるために、自己に慰めをもたらすものに依存し、それを手放せなくなる。それが家であったり、家族であったり、偉大に見える指導者であったり、企業や宗教団体であったり、または国家になったりするのである。
 
そのような状態こそ、筆者は恐れるのだ。人間的な観点からは、まことに幸福そうで、問題がなく、強そうで、理想的で、満たされているように見えたとしても、神を語りながら、実際には、まるで神を必要としないという、人間側の独りよがりな状態以上に、忌むべき状態があろうか。しかも、キリストが来られるよりも前に、信者の側がすでに満たされてしまい、自己陶酔、自己満悦、自画自賛に陥っていることほど、神の目に忌むべきことはないと思われてならない。我々にそのような錯覚としての偽りの満足をもたらすものは何であれ、早々に手放し、ゴルゴタの死へ戻るのが最善である。