忍者ブログ

私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、
 愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
 たとえ、預言する賜物を持ち、
 あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、
 たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、
 愛がなければ、無に等しい。

 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、
 誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、
 愛がなければ、わたしに何の益もない。

 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。

 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

 愛は決して滅びない。
 預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう。
 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、
 幼子のように思い、幼子のように考えていた。
 成人した今、幼子のことを棄てた。

 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。
 だがそのときには、顔と顔とを合わせてみることになる。
 わたしは、今は一部しか知らなくとも、
 そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。
 その中で最も大いなるものは、愛である。」

(Ⅰコリント13:1-13)
 
世界中で緊急事態が展開する中、我が国だけは、まるで何事もなかったかのように日常に戻りつつある。さすがにあの原発事故をさえ、何事もないかのごとくやり過ごそうとした国だけのことはあると感じる。

筆者の周りでは買い占めも起きていなければ、騒動もない。もちろん、勤務が休みになることもない。当ブログでは、オリンピックは決して開かれないと予想しているが、それ以外の点において、この国の人々が危機に直面しても、まるでないがごとくにそれをやり過ごす力には非常に驚かされる。

筆者は、日常生活を一歩一歩、踏みしめながら、素朴な生活を守り抜いて生きることが、非常事態に対する確かな抵抗であると感じている。

ところで、冒頭に挙げた御言葉は、キリスト者でも、往々にして、耳を塞ぎ、口に上らせることも避けて通りたいと考えるような、最も身につまされる箇所であり、教会でも、結婚式が行われる時などを除いて、滅多に語られることもない箇所だ。

なぜなら、この御言葉を語ると、クリスチャンは自分の愛の卑小さ、非力さ、自分自身の人格の未熟さ、欠点を思い知らされ、神と人との前で、恥じ入らずにいられないからだ。

牧師たちも、往々にして、この御言葉とは正反対の人生を歩んでいる。忍耐はないし、情け深くもなく、妬みと競争心に燃え、自慢話が大好きで、高慢に人に説教をする。その上、復讐心が強く、些細なことでいつまでも相手に恨みを抱いて赦そうとせず、時に平然と嘘をつき、人を侮辱し、黙って理不尽を耐えることなどまっぴらごめんという態度である。

そこで、そんな牧師たちはもちろんのこと、信者たちも、この箇所を語るとき、そそくさと足早に通り過ぎようとする。そして、ほんの少しだけ立ち止まっても、要するに、これはキリストの愛、神の愛のことを言っているのであって、自分たち人間の愛などはそれに遠く及ばない、これに倣おうと思っても、人間は未熟だから、なかなかできないものだ・・・、などと自己弁明の言葉を添えるのが通常である。

とはいえ、筆者には最近、この箇所が思い浮かんで来るようになった。そして、この御言葉は、そんなにも非現実的なことを言っているのではなく、キリスト者の自然な生長段階をよく示しているだけのように感じる。

それは筆者の周りに置かれている人々の質、そして状況が、今までと全く変わって来たためでもある。

最近、筆者は人々に誤解され、根拠のないことで悪しざまに言われ、嘲笑の的とされ、あるいは、自分の努力の成果が正当に評価されなくとも、その理不尽に耐える力が、以前よりも、少しずつ、増し加わって来たように感じる。

地獄の軍勢から来ているとしか思えない集団的な悪意に取り囲まれるときにも、恐怖に立ち向かう力が、前よりはるかに養われて来たように思う。

状況は相変わらず困難に満ちているにも関わらず、筆者が恐怖を感じることが、だんだん少なくなって来ている。それもこれも、天はすべてを見ており、すべての出来事の本当のありようをちゃんと観察している方がおられるという確信のゆえだ。

天においてのみならず、この地上の人間社会においても、多くの人がうわべだけの様相を見て誤解するようなことがあっても、事の真相を見抜いている人は、どこかにいるものだ。ただ一人であってもいいから、筆者が自分の苦労を真に知ってもらい、評価してもらいたいと願う人が、真実を知ってくれれば、それでばいい。その誰かがわざわざ言葉をかけて筆者をねぎらってくれずとも、真実が知られているというだけで十分なのだ。

つまり、筆者の受けた苦しみを知っていてくれる人が、天においてのみならず、この地上においても、どこかに存在している。たとえ声に出して共感を示さずとも、その痛みを分かち合ってくれる人が、どこかに存在している。そのことが分かっていれば、自分の受けた苦しみが、ただちに取り去られずとも、不合理な状況が、ただちに改善せずとも、失ったものに償いが与えられずとも、慰めを受け、心安らいでいられる。

それは不思議な平安である。

これまで長い長い間、筆者の苦悩を受け止めることのできる力を持った人間は、ほとんど現れなかった。そのことが、筆者の人生の悲劇だったと言っても良い。ところが、近年、そういう力を持った人々が、ちらほらと複数、現れ始めた。順調なときだけ、喜んで付き合うのではない。逆境の時にも見捨てず、根気強く向き合うことのできる人。

もちろん、筆者は誰にも依存するつもりはないので、理想的な人物の到来を待つつもりはないし、他者に向かって、長い長い愚痴を吐露し、説明に説明を重ねたりして、理解を乞うようなこともしたくない。苦しみを分かち合うにも、ほんの一瞬の語らいで良い。いや、語らいさえ成立しなくても良い。ただ受け止められている、理解されている、知られている、という確信が、ありさえすれば良い。

それがあるだけで、状況が根本的に解決しておらずとも、あるいは、自分の望みの通りに物事が運んでおらずとも、苦しみの元凶となる出来事が何ら取り去られたわけでなくとも、心が満たされるし、勇気を出してそれに立ち向かって、進んで行く力が与えられる。

そういう意味で、自分を理解できる力を持った誰かに、自分を知ってもらっている、という感覚は、大きな安心感をもたらすし、心を強くする。

だから、神に自分を知っていただいていることが分かれば、人はとても心を強められるはずだ。次の御言葉にもある通りだ。

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4:6-7)

グノーシス主義者は、自分が神によって「知られる」客体であることに反発を示す。彼らは自分たちこそ「主人」になりたいので、客体とされることを侮辱のように考えている。そもそも彼らは、創造主なる神がおられることを認めず、自分たちは造られた者であって、被造物に過ぎないという事実にさえ納得しない。

だが、筆者はそうは考えない。神に知られていることは、人にとってどれほど光栄なことであろうか。人は働くとき、雇い主の満足を考えないだろうか。ペットは、飼い主に喜ばれることに、生きがいを見いださないだろうか。

筆者の飼っているペットたちは、筆者から眼差しを注がれる瞬間を切に待ち望んでいる。筆者の姿を見ると、飛び跳ねて喜ぶし、鳥も筆者の行くところどこへでも後を追って飛んでくる。

彼ら動物たちは、筆者によって知られ、存在を喜ばれ、受け止められていることに、慰めと光栄を見いだしている。筆者が姿を現すこと、筆者が彼らの存在を受け止めることが、彼らの喜びであり、光栄である。その関係の中に、どうして侮辱や、卑下などが存在し得ようか。

それと同じように、筆者も、筆者を愛し、受け止めることのできる者の眼差しによって見つめられ、知られ、受け止められる瞬間を、光栄なものとして待ち望んでいる。

もちろん、神以外に、人の心を隅々まで理解し、人を愛し、受け止めることのできる方はいない。だから、筆者を完全に理解できる存在とは、神に他ならない。

とはいえ、地上においても、神と人との関わりを表す絵図として、人を深く理解することのできる人間たちが時折、現れる。信仰の友の中にも、そうでない人たちの中にも。
 
そういうわけで、筆者の周りに現れる人間の質が、近年、変化して来たのを感じる。もちろん、残念なことに、以前よりも状態が悪くなって、理解が成立しなくなって去っていった人々もいるにはいたが、その反対に、非常に稀有な理解を示す人々も現れて来たのである。

そういう人たちから、ほんのわずかな助けを得るだけでも、筆者は心満たされ、十分に一人で歩いて行ける力をチャージされる。そういう人たちが存在すると分かっているだけでも、心を強くされる。

そうして、他者の強さによって、筆者が自分の心の弱さを覆われるとき、筆者は、自分自身もまた誰かに対しては、とても強い人間であること、筆者の強さも、他人の弱さを覆うために役立つことが分かる。

そのとき、黙って他者の弱さを担うことができるようになる。自分が誰かをかばってやったなどと吹聴して、他人の前で誇る必要はないし、他者の弱さを暴露する必要もない。むしろ、黙って、他者の弱さを身に引き受け、自分のもののように負うだけで良いのだ。

そうして、黙って、弱さ、侮辱、窮乏、迫害、行き詰まりを負ってご覧なさい! そうすれば、そこにどれほどの栄光が与えられるか、試してみれば良い。弱いはずにも関わらず、そこに神の強さが働き、苦しんでいるはずにも関わらず、慰めが与えられる。窮乏しているはずなのに、満ち足りており、迫害されているにも関わらず、行きづまりに達することなく、何にも不自由のない、十分に恵みを受けた人間として、すべてに毅然と立ち向かい、尊厳と喜びを持って、すべてに勝利をおさめることができるようになる。

「それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないようにと、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。

だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(2コリント12:7-10)

筆者が地上において何をどれだけ耐え忍んだか、それが誰のためであって、誰がそれによって利益を受けたのか、そんなことを誰にも説明する必要はない。それを知っていて下さる方は、神だけで良い。神が筆者の苦労を知って下さり、ねぎらって下さりさえするならば、筆者はどこまででも人の誤解を恐れずに進んで行くことができる。

主が筆者の労苦をねぎらって下さるのが、いつなのか、筆者は知らない。だが、いつかその出会いが来るときまで、筆者はこの地上において奮闘を続ける。その時がくれば、筆者は、主と顔と顔を合わせるようにして向き合い、筆者は自分の心の労苦が、すべて主に知られていることを、鏡に映すように知らされて、心から安堵を覚えるだろう。また、その時に、はかりしれない忍耐を持って人を愛して下さる神の愛の大きさをも、はっきりと鏡に映すようにして知らされることになろう。
 
今、筆者のこの手には、ただ自分自身以外には、自分の心以外には、捧げるものが何もない。しかも、それは様々な痛みや苦しみや悲しみを通過して、踏みしだかれたり、乱暴に扱われ、擦り切れて、よれよれになって、古びかけている筆者の真心である。しかし、飾らず、気どらず、あるがままの正直な心である。

その気取らない真心を主に捧げる以外には、筆者には差し出せるものがない。だが、そんな古びた心にも、キリストと共に十字架の死を経由するなら、主の復活の命によって、新しい命の力が注ぎ込まれる。

いつの間にか、苦しみは慰めに満たされ、悲しみが喜びに取って代わり、弱さが強さに覆われて、勇気が与えられる。すると状況は何も変わっていないのに、心の中心に立っておられるキリストの命の統治により、すべてが徐々に変えられて行く。

そういうわけで、命の水を注ぎだすためのパイプラインは今も作動中である。筆者が休業の札を置いておきたいと願うときにも、それは休みなく稼働したままであり、筆者はその水を流し出すための生きた通路とされている。

ウォッチマン・ニーが「血の高速道路」と呼んだものが、筆者を切り裂いて作られている最中なのである。つまり、命の水を流し出す作業は、人が割れたビスケットのようにならない限り、決して完遂できないものであって、私たち信じる者の痛み苦しみの只中に働く死なくして、復活の命が流し出されることはない。

だから、筆者は死の立場に甘んじるしかなく、日々、水の下に沈められ、殺されていると言っても差し支えない。その死と引き換えに、命が人々のもとに届けられているのである。それが筆者の役目となり、職業のようになり、筆者が建設しているパイプラインは、まさに筆者自身を切り裂いて作られている通路である。

とはいえ、それは筆者が一人だけで完遂する孤独で苦悩に満ちた悲惨な体験ではないし、無意味な自己犠牲でもない。主が共にいて下さり、筆者の労を知ってねぎらって下さっているので、それは孤独ではなく、耐えられない試練でもない。

むしろ、非常に逆説的なことに、そこには大きな喜びがあり、慰めが伴い、何より、愛がある。神への愛、そして、人々への愛がある。復活の命は、人々のためだけではなく、まさに筆者自身のためにも与えられているものなので、そのパイプラインの恩恵を真っ先に受けて、命の力によって満たされ、強められるのも、筆者自身である。

主は、絶対に筆者を見捨てられない、と言われる。だから、筆者は、自分を取り巻く状況を変えるために、終わりなく弁明したり、奮闘すまいと決意している。主が共にいて下さり、すべてを知っていて下されば、それだけで満足である。その命なる方にこそ、すべての解決があることを筆者は知っているからだ。
 
「ヤコブよ、なぜ言うのか
 イスラエルよ、なぜ断言するのか
 わたしの道は主に隠されている、と
 わたしの裁きは神に忘れられた、と。

 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。
 主は、とこしえにいます神
 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。
 倦むことなく、疲れることなく
 その英知は究めがたい。

 疲れた者に力を与え
 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
 主に望みをおく人は新たな力を得
 鷲のように翼を張って上る。
 走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ40:27-31)

PR

わたしの恵みは,あなたに十分である。というのは,わたしの力は,弱さのうちに完全に現われるからである。

ヨシュア記7章20節~26節
「アカンはヨシュアに答えた。
「わたしは、確かにイスラエルの神、主に罪を犯しました。わたしがしたことはこうです。

分捕り物の中に一枚の美しいシンアルの上着、銀二百シェケル、重さ五十シェケルの金の延べ板があるのを見て、欲しくなって取りました。今それらは、わたしの天幕の地下に銀を下に敷いて埋めてあります。」
ヨシュアの出した使いたちがアカンの天幕に走って行って見ると、果たして彼の天幕の中に、銀を下に敷いて地下に埋めてあった。
彼らはそれを天幕から取り出して、ヨシュアとイスラエルのすべての人々のもとに運び、主の前にひろげた。
ヨシュアはゼラの子アカンはもとより、銀、上着、金の延べ板、更に息子、娘、牛、ろば、羊、天幕、彼の全財産を取り押さえ、全イスラエルを率いてアコルの谷にそれらを運び、
こう宣言した。
  「お前は何という災いを我々にもたらしたことか。今日は、主がお前に災いをもたらされる(アカル)。」全イスラエルはアカンに石を激しく投げつけ、彼のものを火に焼き、家族を石で打ち殺した。

彼らは、アカンの上に大きな石塚を積み上げたが、それは今日まで残っている。主の激しい怒りはこうしてやんだ。このようなわけで、その場所の名はアコルの谷と呼ばれ、今日に至っている。 」

* * *

最近、主は筆者にこう問われたように思われた。
「ヴィオロンさん、あなたは本当に自分のことを不器用だと思っているのですか?」

筆者はその問いを受けて考え込んだ。

「ヴィオロンさん、もう一度聞きます、あなたは私が着いているのに、自分は不器用だ、と人前で吹聴し、それをあたかも謙虚さであるかのように言うつもりですか?」

筆者ははっとして黙り込んだ。

「ヴィオロンさん、もう一度聞きます。私があなたの中で、あなたの弱さを覆い、あなたのための強さとなっているのに、それでも、あなたは自分は不器用だ、他人に比べて何もできない、自分は大した人間ではない、などと吹聴して回る気ですか?

 そのあなたの言葉は、あなた自身に対する侮辱であるだけでなく、私に対する侮辱でもあり、不信仰であることが分かりませんか?

「しかし,主は,『わたしの恵みは,あなたに十分である。というのは,わたしの力は,弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。」(2コリント12:9)

この御言葉はあなたの中でどこへ消えたのです? なぜあなたは自分は弱い、などと得意げに吹聴して回るんですか? なぜそうした言葉を聞かされて、それに無条件に頷くのです・・・?」

このような気づきがあってから、筆者は人々との関係性を根本的に見直さねばならないことに気づいた。いつからか分からないが、振り返ってみると、筆者のものの考え方が、巧妙に主ではなくこの世を中心とするものへ、次第にシフトしていたことに気づかされたからだ。

「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは 、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えること はできない。」(マタイ6:24)

この御言葉は、どういうわけか、筆者の記憶では、いつも「神と人とに兼ね仕えることはできない」という風に思い出される。ここで言う「人」とは「この世」のことだ。つまり、この御言葉を、筆者は、神と世の両方に兼ね仕えることはできない、という風に理解して来た。富とは、この世の権勢のことでもある。だから、この御言葉が「神と世に兼ね仕えることはできない」という意味を兼ねていると筆者が考えたとしても、その理解は、この御言葉の本質からそうかけ離れていないだろう。

筆者は、これまで自分を取り巻いている状況があまりに苦しくなったり、極度に自由が圧迫され、天の高みから地に投げ落とされたように感じられ、さらに退路が封じ込められたように思われるときには、自分をつぶさに振り返ってみると、大抵、巧妙に、「この世」が生活の中に入り込んでいることを発見したことを思い出す。

しかも、そうしてキリスト者を堕落させたり、自由を奪う「この世」とは、ほとんどの場合、人を通してやって来る。誰かが神の御前を孤独に静かに歩くことをやめ、「自分は一人ではない!」などと豪語し始めれば、その人は、大変な危険に直面していると思った方が良い。人々から誹謗中傷され、のけ者にされ、蔑まれることがやんで、笑顔で迎えられるようになり、どこへ行っても、もてなされ、必要とされ、歓迎されるようになり、本人までが、その状態を喜んで、自分は二度と孤独になることはないなどと、人前に吹聴するようになれば、もはやその人は、まことの信仰の道から逸れて、偽預言者の道を歩いていると考えた方が良いのだ。

そういう意味で、筆者は、この年始に、主によって、危ない道から危険に遭遇する前に引きずり出された。筆者は年明けに、真に気高い目的のために、人々に本当に奉仕する道を選ぼうと決意したが、それは直接的に、人間の喜ぶ奉仕をして、人々を喜ばせようという計画ではあり得ず、そこで、筆者は、直接的に人の心を喜ばせ、満足させる生き方からは、引きはがされねばならなかった。

モーセがシナイ山に登って、十戒を授かったとき、民は山のふもとで金の子牛像を作って、これを拝み、歌い踊り、戯れていた。てんでんばらばらな欲望を心に抱き、それを互いに自慢し、承認し合って、祝杯をあげていたのである。モーセは民のその姿を見て、憤りに燃え、十戒の刻まれた石板を地にたたきつけて粉砕した。

キリスト者の道は、山のふもとで生きる道ではない。むしろ、ふもとにいる民を置いて、高い山を登り、望みうる限りの最高の目的を神に向かって申し上げ、その高みへ到達できることを信じ、孤独な戦いを一人で戦い抜くことが必要な道である。そうして信仰の戦いを戦い抜いて帰って来ても、民は理解もせず、歓迎もせず、むしろ、そのキリスト者はとうに死んだと思って、怪訝そうな顔をし、疎んじるだけかも知れない。

それほどまでに、誰も理解も賞賛も感謝もしないかも知れない道であり、それはとてもとても婉曲で、困難で損な道に見えるかも知れないが、結果的には、それこそが、民全体のために奉仕するエクソダスの道なのであり、天の無尽蔵の栄光で報いられる十字架の道なのである。

私たちは自己満足のために高い山に登ろうとしているわけではない。それは自己の栄光のためではなく、まさに山のふもとにいる民に本当の利益をもたらすための試みでもあるのだ。
 
そういうわけで、筆者は年始になると、心から狭い道を行こうと決意させられると同時に、それから瞬く間に、心にある「アカンの外套」を手放すよう求められた。それが、神を喜ばせない「この世」の奉納物であるとは、筆者は知らなかったのだが、主は「自分は一人ではない!」と豪語する道を行ってはいけないと、早速、筆者を引き戻された。

主は、それがイミテーションの心の慰めであり、この先の道で、筆者はそれらのものを携えて行くことはできないし、それを持ち続ける限り、それは筆者の心の偶像となり、筆者の生活を堕落させて敗北に導き、地に投げ落とす原因になると告げられた。

筆者はその時が来るまで、その外套が、これまでの間にも、筆者を天的な生活から地に投げ落とすきっかけとなっていたことを知らなかった。筆者の気高さ、尊厳を失わせている源は、筆者がまさに仕えていると考えていた民だったのであり、もっと言えば、彼らの心を支配する欲望であった。主は、金の子牛を拝んでいる民のために給仕することは、決して神の御心ではなく、筆者の尊厳を失わせるだけだと示された。
 
それらの被造物が、あたかも筆者の主人のごとく、ぴったりと筆者に身を寄せて、味方のように振る舞い、なおかつ、真実な信仰者の姿に非常によく似ていたので、筆者にはそのことが分からなかったのである。

だが、筆者が霊的な山に登り、真に困難な挑戦に挑もうとした時、それはふもとの民となって、筆者を引き留めようとし、訣別の時が来た。彼らは彼らなりの金の子牛像を取り出して、筆者にそれを拝むよう求め、筆者がそうしないならば、筆者とはもはや一緒に行けないと告げて来た。その瞬間が来てから、ようやくそれらは世から来たものであり、偶像であることに気づかされたのである。

筆者は主以外に筆者の心を占めるものを完全に取り除き、筆者の隣の席を、主のためだけに空席として、進んで行くことに決めた。

この世でも、人は誰しも、誰かの愛人になりながら、自己の尊厳を主張することなどできはしない。まして大勢の愛人の一人の立場に自ら甘んじながら、尊厳などという言葉を口にすること自体が、僭越であり、滑稽であろう。それと同じように、欲望の奴隷となった人には、尊厳も自由もなく、この世(地上的な人間関係、この世の富、権勢、栄誉など)は、すべて堕落した人間の欲望から成り、世に支配される者は、欲望の奴隷であり、罪と死の奴隷である。そこにあるのは、いわば、一夫一婦制ではなく、人を奴隷にする愛人関係のようなものだけである。それに仕えている限り、その人は卑しめられた状態から抜け出せない。

堕落した欲望に縛られ、その奴隷となりながら、自分は高貴で自由な人間であると、どんなに叫んでも無駄なことである。

だからこそ、御言葉は、私たちが主と共なる十字架を経由することにより、「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、 十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:24)と言うのであって、私たちはこの十字架を離れてはならないのである。

だが、この世には偽りの信仰の一大体系や、偽りの信仰者たちがいて、その教えは結局は、グノーシス主義に他ならないのだが、それは人が自己修練することで、信仰の高みを目指せると教える。

確かに、信仰の高みというものは存在するものと筆者は思う。だが、その高みは、あくまで人の個人的な望みによるものであり、その道も、個人的に様々に異なっているのに対し、グノーシス主義の教える信仰の高みとは、いわば、偏差値みたいなもので、何かしらの共通のヒエラルキーの階段を通して、人々が自分の信仰の度合いを比べ合い、裁き合って、品定めし合いながら、自分はどこまでその階段を登ったのかを競い合うことを言う。

そういう考えを持つ人々は、一見、この世の信仰を持たない人々のように、あからさまに己が肉欲の奴隷となったりはしないため、あたかも敬虔な信仰を求める人々のように見えるかも知れないが、よくよく話を聞いてみれば、その内容は、ヒエラルキーの階段を上に上に登ることで、あなたも自己の栄誉欲を満しなさい、という内容となっている。彼らは弟子をたくさん作って互いに競争させながら、彼らの言う「高み」を目指すよう、過酷な鍛錬を敷いて、成果を競い合っている。

そうして自己修練に励むことで、神に近付けると考える人々は、肉体を鍛えたり、修道僧のように禁欲的な生活を送り、自分よりもはるかに弱い人たちに仕え、謙虚で、誠実そうにも見えるため、一見すると、この世の人々の及ばない人格者のようにも見える。また、弟子を作ることに熱心なので、人々をスカウトする術にも長けているし、人の心に寄り添う術を心得ている。

だが、それでも神は、筆者がそうした仕掛けにひっかからないよう、それが偽りであることが分かる瞬間を用意される。

筆者はこうした人々が築いた偽りの一大宗教体系の真っただ中を何度も通過して来たのだが、いつも、彼らと筆者とは異質であることが、途中で判明するのだった。それはこんな具合である。筆者が一歩でも彼らの言うヒエラルキーの階段を上に上ろうとすると、その階段が、まっさかさまになって筆者の上に落ちかかってくる。階段が、ものすごい重さになって筆者にのしかかり、筆者の人生を押し潰そうとしてくる。そこで、筆者は、ああ、これは何かしら栄光に満ちた達成のように思われたが、やはりそうではなく、決して聖書に基づく信仰の道ではなく、むしろ、破滅への道だったんだな・・・と分かり、一歩も登らないうちに、その階段にさよならを告げることとなる。

そうして筆者は、これら清楚で謙虚で誠実そうに見える人々を離れて、彼らの賞賛や関心を得ようとすることもやめて、一人、神の御前に、静まって自分の道を申し上げ、極めて個人的な、誰にも知られない、主と二人だけの道を歩き始める。人の考えなどどうでも良いから、何事も主に相談の上、真実、神に喜ばれ、真実な栄誉を得るための道を、歩いて行きたいと、主に率直に申し上げる。

そういうわけで、新年早々、筆者のトランクからは、二つのアカンの外套が見つかった。それは色違いのおそろいの外套であり、一つはこの世の生地で出来ており、もう一つは、信仰に似た生地で編まれていた。どちらも人からプレゼントされたものであり、これを着れば、高みへ舞い上がれると勧められたが、着ようとして手に取っただけで、外套は鉛のように重く、一歩たりとも進んで行けそうになかった。外套についていた札を見てみると、素材は小羊の毛に似せて造られた合成繊維のイミテーションであることが分かった。

しかも、もっと悪いことに、その外套は、プレゼントされたものにも関わらず、支払いが完了していないというのである。つまり、贈り物と言いながら、手渡されたのは負債であった。それに気づいて、筆者はこの呪われた二着の外套を焼き捨てる(もしくは贈り主に返す)ことに決めて、初めから筆者にプレゼントされていた真っ白な外套を手に取った。それは小羊の毛で編まれ、小羊の血で洗われて、雪のように白く、また、軽い外套であった。それはもちろん、ただで贈られたものであるばかりか、すべての負債を帳消しにする力まで持っていた。

その小羊の毛で出来た真っ白な外套を着ると、改めて次の御言葉が思い出された。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

そうだ、何だか随分疲れた気がしていたのは、あの偽物の外套のせいだったのだ。あれを着ると、自分はあれもできない、これもできない、この世に自分ほど不器用で、何もできない人間はいない、自分にできることは、せいぜい人々の後から着いて行って、彼らに奉仕するために、地に頭を擦りつけて、身を投げ出すことだけだ・・・などと思わされ、人々を喜ばせるために、絶えず奔走させられることになり、疲れ切ってしまうだけだ。日々、歓迎され、引っ張りだこにされ、感謝されて、喜ばしいイベントが連続しているようでありながら、その裏では、陰口が絶えず、絶えず不満を述べて来る人たちのご機嫌をなだめるために、果てしなく新たなノルマが課され、てんでんばらばらな人々の心の欲望を満たすために、奴隷のごとく奔走せねばならなくなる・・・。

しかも、その外套は何日着ても、体になじむことなく、ますます重くなり、ますます歩きづらくなり、ますます足手まといになって行くばかりなのだ。

その一方で、小羊の外套は、着るや否や、心の内が軽くなり、内なる人の力と尊厳が回復されて、主が着いておられるから、どんなことでもできる、と、御言葉が自然と口から湧き出て来る。この外套には、多分、翼がついているのだろう。歩いてもたゆまず、走っても疲れない。そして、疲れたときには、隠れ家なる主の砦の高い塔に筆者を連れて行って休ませてくれる。
 
休日に電話が鳴って、潰えたはずの希望が再びよみがえり、御国への奉仕に呼び出された。主よ、私をお見捨てにならなかったのですね、と思わず、感謝が心に溢れた。だが、この世は、筆者がしようとしていることが、御国への奉仕だとは、理解することはないし、認めることもない。あの外套を着た、敬虔そうな恰好の信者たちは、こんな仕事が神の栄光になどなるものかと反対して、それに唾棄して、踏みつけにして去って行った。彼らは世を捨てられなかったのである。

そうやって、宝石をちりばめた僧服のように重すぎる外套を着た人たちが、筆者のしようとしていることをかえって罪のように考えて、自分から去って行ってくれたのは、まことに好都合なことであった。

筆者は、別離の時も、出会いの時と同様、すべて主が定めておられると確信している。だから、来る者も拒まず、去る者も追わない。主が与え、主がとりたもう。

キリスト者の道は、神の御前でつつましやかな、やもめの道であって、時期尚早に現れた愛人たちをぞろぞろと引き連れては、豪奢な服を着て、自分は孤独ではないから悲しみを知らないと豪語する女王の道とは異なる。
 
だから、心して、自分は一人になることはないとか、孤独とは無縁だなどと言う台詞を、どんなことがあっても、二度と口にすることがないよう気をつけねばならない。そういう台詞は、まさに地獄から出て来るのではないだろうか。キリストは人に蔑まれ、忌み嫌われ、人に尊ばれず、顔を背けられるほど、疎んじられた。彼は歓迎されず、良いことをしてもなじられ、絶えず誤解され、罵られた。それなのに、なぜ、私たちが彼に先だってこの世で栄誉など受けて良いものだろうか。

筆者は、孤独でつつましやかなやもめの道を、シナイ山へ一人で登って行ったモーセの道を、ゴルゴタへ向かった主の道を、人知れず歩き続けようと思った。勝利は、この細い道の向こうにあり、復活は、いつも我々の死の先にある。

ところで、グノーシス主義者は、自力で神が「光あれ」と言われる前の状態、すなわち、神と人とが分離される前の状態に逆戻ることによって、自己を神と同一にすることを願っている。だが、筆者は、彼らとは異なり、神から切り離されて堕落した人間が、キリストの十字架の贖いを通して神に立ち戻り、その後、主と同労して、共に「光あれ」と力強い命令を発する時を待ち望んでいる。

命令は、実行されなければ意味がない。筆者は命令(御言葉)と実行(その成就)が一体化する時を待ち望んでいるのであって、そのために、何とかして命令そのものに近づき、これがまさに発せられんとする瞬間に立ち会い、さらに、それが発せられた後に、実際となって成就する有様を、主と共に見たいと願っているのだ。

そのことを、信仰においてだけでなく、この世の働きを通しても、経験できないものかと願っている。今年はそのための挑戦となるし、筆者が真にその道を行かない限り、おそらく筆者が本当の意味で、人々に仕え、益をもたらすこともできないものと確信している。もしかすると、モーセがシナイ山で十戒を受けたように、筆者も筆者なりのやり方で、神から御言葉を授かろうとしているのかも知れない・・・。
  
山に登る時は、すべてのからみつく罪を捨て、心の偶像になりそうな一切を振り切り、主の前に心を孤独にして、一人で進み出なければならない。その意味で、この道は決して人に優しい道とは言えないし、楽な道であるとも言えない。だが、その代わり、真に筆者を支えてくれる真実な主人があり、筆者を迎えてくれる天の栄光がある。

日に日に罪の負債の重さだけが増し加わる、色違いの美しい外套の贈り物を捨てたとき(もちろん、これは比喩であるが)、それが足手まといとなって、これまで天の高度に飛び立てなくなっていたことが、はっきりと筆者には分かった。

次の御言葉は極めて象徴的である。大勢の信者たちが、この聖句をお気に入りの歌にして口ずさんでいるが、この御言葉は、信仰によって実際となるばかりか、主の民のために下される神の正しい裁きと密接につながっている。
 
「ヤコブよ、なぜ言うのか
 イスラエルよ、なぜ断言するのか
 わたしの道は主に隠されている、と
 わたしの裁きは神に忘れられた、と。

 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。
 主は、とこしえにいます神
 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。
 倦むことなく、疲れることなく
 その英知は究めがたい。

 疲れた者に力を与え
 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
 主に望みをおく人は新たな力を得
 鷲のように翼を張って上る。
 走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ40:27-31)


わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。

さて、非常に意義ある一週間を過ごした。相変わらず、裁判所と警察と数多くの書類のやり取りを重ねており、その作業はこれからも続く。だが、控訴理由書を書き上げるために、主が特別に与えて下さった最後の自由時間が終わった。

数ヶ月をかけて書き上げた理由書が、ようやく筆者の手を離れると、主はたちまち新しい進路を筆者のために指し示された。

筆者が書類を自分で運んで行くことに決めて、霞が関駅へ向かっている最中、日比谷線の六本木駅あたりで、電話が鳴った。天はすべてを見ている。いつ筆者の仕事が終わったのか、いつのタイミングで新たな課題を与えるべきか、主はすべてご存じなのである。

こうして、御国への奉仕が一つ終わると、次の新たな仕事が与えられる。筆者は前回の記事で、自分の専門を去り、残る生涯を、見栄えのしない「干潟」としての紛争処理というフィールドにとどまり、この干潟から、可能な限りのエネルギーを汲み出して生きようと決意したと書いた。

これは決して筆者が法廷闘争に生きることを意味しない。裁判所で働こうとしているわけでもない。だが、筆者は、法律家ではない立場から、困っている人たちのために自分の経験を役立て、法律をパートナーに新たな人生を生きようと決意したのである。

かつての専門は、筆者とはついに相思相愛の関係にはならなかった。これは不幸な片想いの道で、このパートナーは、利己的で、横暴で、筆者に幸いを与えることもほとんどなかったが、新たな道連れは、どうやら非常に気前が良く、豊かで、何より正義と真実に溢れており、筆者を守ってくれることができるらしいと分かったのである。

そこで、筆者はこの新しく頼もしい道連れと、常に一緒にいられて、一瞬たりとも離れないで済むように、また、いつでもこのパートナーに頼んで、自分のみならず、他の人々のためにも、必要な命を汲み出すことができる働きをして生きることに決めたのである。

筆者には、まだまだこの「干潟」にとどまってなさねばならない仕事がたくさんある。

そうして、筆者が自分の興味関心ではなく、真に価値ある正しい目的のために、多くの人々を利する目的のために生きようと決意した途端、これまでとはうって変わって、ただちに生きる心配など全く無用な立場に置かれた。日常のために、あれやこれやと心を煩わせる心配もなくなったのである。

さらに、この一年間、筆者が取り組んでいた別の難問も、向こうから筆者を手放し、立ち去って行こうとしている。

筆者はこれらの問題について、どういう解決策を選ぶべきか、自分では分からず、まだまだ取り組む必要があるのかと覚悟を固めていた。しかし、自分だけの思いや判断で、誤った選択をしてしないように、神が願われる事柄が実現するよう、祈り求め、手探りで進んでいたところ、神は「もうよろしい。あなたの任務は終わりました」と言われるように、これらの問題に終止符を打たれたのである。

改めて、主の御心の中心は、当ブログを巡る訴訟――というより、筆者が最後まで、信仰の証しを守り通し、十字架上で約束された復活の命を通して、キリストにある新しい人として生きることを、どのくらい実現できるのか、というテーマにあるように感じられる。それ以外のすべての問題は、些末なものでしかなく、この戦いにおいて最後まで勝利をおさめるためにこそ、すべての時間と資金が采配されていると思わずにいられなかった。

だが、その戦いとは、要するに、筆者自身が、すべての恐れと圧迫に打ち勝って、神が約束された新しい人としての内なる尊厳を完全に取り返すための戦いなのである。

一審判決の前後、筆者に時間的余裕が与えられていたことには、非常に深い意味があった。この時に、ネット上で起きている事柄に注意を払っていなかったならば、当然ながら、控訴のタイミングも逸したであろうし、紛争は中途半端なまま終わっていただろう。

しかし、神はそのようなことが起きないよう、時間的余裕をもうけて下さっていた。その間、ネットで起きていた議論は、すべて控訴理由書の土台となるものであった。その当時に記事にしたためた内容を、正式な書面の形で書き表すために、数ヶ月を要した。

古書として破格の値段で入手した室井忠著『日本宗教の闇 強制棄教との戦いの軌跡』手元に届いたのは、理由書を提出しようとする前日であった。

今回、どうしても訴えねばならなかったのは、カルト被害者救済活動の中心には、こうしたプロテスタントの猛毒の副産物と言うべき強制脱会活動が脈々と流れているということである。

当ブログでは、カルトと反カルトは本質的に同じであって、どちらも牧師制度の悪から出て来るものだということを幾度も書いた。プロテスタントは、カトリックのような聖職者のヒエラルキーと、聖職者による聖書の独占という問題から、信徒を解放したものの、その解放は、牧師制度を残すことによって、不完全に、中途半端に終わっているのであり、今やプロテスタントからの「宗教改革」が必要とされているのである。

プロテスタントが、もはやかつてのような新鮮な御霊の息吹を失って、形骸化した歴史的遺物となり、さらに有害なものにさえなりつつあることが、様々な現象を通して、確認できるのが、今日という時代なのである。

そこで、この度、筆者はプロテスタントそのものを脱出することにした。

筆者のもらった判決は、見えない紅海を渡って、新たな復活の領域に到達するために、なくてはならない「エクソダス」の道を指し示すものであった。
 
数ヶ月前に、筆者は「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(1)」という記事を書き、そこで、バビロン王国を去り、エクレシア王国の住人になったと書いた。

そのエクソダスは、理由書を書き上げている数ヶ月の間にいつの間にか完了していた。

エクレシア王国は、復活の領域であるから、そこに生まれながらの自分自身(セルフ)から出たものは、何一つ持って入ることはできない。

そこで、筆者はバビロン王国を脱出し、エクレシア王国の永住権を得るに当たり、➀プロテスタント、②資本主義、③筆者のかつての専門、この三つを「セルフ」に属するものとして捨てねばならなかった。

さらに、筆者は営利を目的としないエクレシア会社(企業ではないので、エクレシア法人としておこう)に雇用されるに際して、最初の給与は、判決という名の手形として支払われるから、これを現金化する方法を学びなさいと、ただ一人の主人から命じられたと書いた。

筆者は、それはあたかも取立によって債権を回収しなさいという意味であるかのように考えていたが、実はそうではなく、判決は、天の尽きせぬ富を引き出すための手形であり、目に見えない「干潟」から利益を汲み出す方法を知りなさいという命令だったのである。

地上の判決は、被告に対しては、永遠の断絶を言い渡し、天から新たな宝を引き出すための根拠となるものであった。
 
だが、それは死んだ文字だけにとらわれていれば、決して見えて来ない事実であった。

そこで、筆者は、見えない法の世界への招待券に書いてある、目に見えない地図に従って、しかるべき団体に出向いた。すると、そこに実際に、筆者が地上で果たすべきミッションを示す契約の書類が用意されており、それに対する報酬も約束されたのである。

地上の判決には、まだ補うべき点が存在しているが、そこには、それ以上に、もっと深い、尽きせぬ霊的な意味が込められていた。それ自体が、汲んでも汲んでも汲み尽くせない命の泉のような、終わりなき「支払い」を筆者に約束する手形だったのである。

しかも、それは筆者のためだけに命を与えるものではなく、いつの間にか、他の人々に命を分け与えるためにも役立つものとなっており、それが、筆者の新たなミッションとされていたのである。

ただし、その支払いは、純粋に天から来るのであって、地上のものに依存しておらず、地上の被告とは関係がなく、地上の人々に対して行使するものでもなかったのである。

その手形を天に向かって行使することが、天の富を地上に引き下ろす方法であって、これが天のサラリーを「現金化」する方法だと初めて分かったのである。

もしも判決を地上的方法で行使していれば、そこに死んだ文字として書かれたもの以上のものは決して得られない。ところが、筆者が得た天の報いは、使えば尽きてしまうようなものではなく、終わりなき富であり、新たな世界での筆者の身分を保証するものであった。

このようなことをどう表現すれば良いかよく分からない。多分、比喩としてさえほとんど理解されないのではないかと危ぶむ。

筆者はかつて裁判所は家のようなものだと書いた。筆者の目から見ると、そこは正義の実行される場所、真実が何であるかが明らかにされる場所、虐げられて、弱り切った人たちが、ようやく正しい裁きを得て、休息と安堵にたどり着く場所であった。

むろん、これは筆者の理想化に過ぎないと考える人たちは多いだろう。この世には、裁判所に正義など見いだしておらず、むしろ、不当判決ばかりの世界だと考えている人たちもいるかもしれない。

しかし、筆者はそうは見ていなかった。筆者にとって、そこは要塞であり、砦であり、真実と、正しい裁きが生まれて来る場所であり、それが与えられると信じないことには、そもそもそこに助けを求めて近づくわけにもいかなかったのである。

そのような望みを抱いてやって来た筆者の目には、まるで裁判所の地下に、見えない命の泉があって、そこから、人々を生かし、潤す命の流れが、こんこんと湧き出ているようにさえ映った。

ところが、いざ自分が判決をもらってみると、いつの間にか、その泉は、筆者の内側に移行していた。筆者は、「あなたは解放された。自由になって生きなさい」との宣言を受けたが、気づくと、その自由は、筆者自身の内側に書き込まれ、根づき、筆者自身が、与えられた命を持ち運び、これを他の人々に分かち与える存在となっていたのである。

判決を通して、筆者に分与された不思議な命は、筆者が地上の債権を回収しようとむなしい取立を行っている最中も、日々刻々と生長し、いつの間にか、それなりの分量に達して、筆者自身の内側から外へ川のように流れ出して、周囲を潤すものへと変わっていた。
 
それはまだ小さな川なので、気づくか気づかないという程度であろう。だが、それがやがて大きな川となって流れ出す時が来る。それが筆者に地上で与えられた真のミッションなのである。

一体、どういうわけでそういうことが起きたのか知らないが、まるで蝋燭から蝋燭へ火が灯されるように、筆者が飽くことなく求めて来た正しい裁きは、筆者の中に種のように蒔かれ、気づかぬ間に発芽し、他の人たちに向かって、新たな命をもたらす小さな種として伝播するようになっていた・・・。

こうして目に見えない終わりなき命の連鎖が始まった。それは地上におけるいかなる人間関係にもよらない、それを飛び越えた領域で起きる不思議な命の伝授である。
 
そうした立場を得たことで、筆者は内側で、あるべき尊厳を回復し、自分が何者であるかを、よりはっきり自覚するきっかけを得た。筆者は、自分があるべき場所、果たすべき使命に相当に近づいたことを感じている。

人の高貴さは、その人が抱いているミッションの気高さと大いに関係がある。聖書に登場する霊的先人たちはすべて神の解放のみわざに従事し、民を自由に導こうとする主の御旨を体現する人々ばかりであった。ヨセフは幼い頃から、おぼろげながらに自分に与えられた使命の大きさを知っていた。だが、そこへ到達するためには、様々な苦い試練を味わい、徹底的にへりくだらされねばならなかったのである。

それが十字架の道である。すべての先人はその道を通った。だが、へりくだる人に神は恵みを注いで下さり、試練がその人の糧となり、ますます高貴で栄えあるミッションを与えてくれる。その栄光、高貴さは、生まれながらのその人自身から来るものではない。

「主は霊である。そして、主の霊のあるところには自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」(Ⅱコリント3:18)

「顔の覆い」とは、罪による隔てを意味する。地上の判決は、被告との間に打ち立てられた「永遠の遮蔽の措置」であると書いた。
 
その隔ては、裁判官と原告との間にはない。これは、あたかもまことの裁き主なる神と、贖われた人との関係を指すかのようである。

これらはすべて予表である。

地上における判決は、カルバリの十字架において破り捨てられた私たちの罪の債務証書を予表している。それは悪魔によって、私たちに転嫁されていたあらゆる不当な責め言葉や呪いを断ち切って、これを負うべき者へと投げ返すものである。

カルバリの十字架における宣言を根拠に、私たちは顔の覆いなしに、何の隔てもなく、まことの裁き主である父なる神に、子として近づき、大祭司なる方の恵みの御座に大胆に進み出て、必要なものを何でも願い出ることができる。
 
同時に、「顔の覆いなしに」とは、花嫁のベールアウトの瞬間のようなものである。花嫁の顔を覆っていたベールが取り払われるのは、結婚式のことであり、そこで花婿と花嫁とが初めて「顔と顔を合わせる」。

以上の御言葉は、キリストとエクレシアとが、ついに婚礼によって顔と顔を合わせる、人の贖いの完成の瞬間を指したものである。その時、神と人との間には、すべての隔てが取り除かれる。罪による隔てが、完全に取り除かれる日が来る。こうして、隔てが取り除けられたとき、人は神の栄光を映す存在となり、人は創造の当初、神に似せて造られたその目的と使命を完全に回復する。

人は神の助け手として創造されたのであり、人の役目とは、神が宣言なさることに対し、「アーメン(その通りです)」と答えることにある。第一審判決に対しては、筆者はまだ完全に「その通りです」と言えない部分が残っているがために、それを補うために控訴に及んでいるものの、このことは、あたかも、人の贖いが、地上にあっては、まだすべては完成されていないことを指すかのようである。

私たちには、完全な約束が与えられているが、その贖いの完全な成就は、来るべき世を待たねばならない。

とはいえ、そのことは決して、この地上において、私たちが目的に近付けないことを意味しない。むしろ、逆であり、筆者は、その瞬間へ向かって、一歩一歩、あるべき姿を確かに取り戻している。

ただし、それは純粋に筆者の内なる尊厳の回復であって、外見のことを指すわけではない。筆者の滅びゆく地上の人としての外見は、年々、ますます取るに足りない、見栄えのしないものとなっていくだけであろうが、主の御手の下にへりくだらされた人は、まるで外なる人に反比例するがごとく、内側では、栄光と尊厳がますます増し加わって行く。

その高貴さ、尊厳は、やがて隠しようのない不思議な魅力、権威、力となって、その人の内側から外へ溢れ出し、かつ他の人たちにも分け与えられて行くことであろう。

十字架で一度限り永遠に下された判決は、私たちに一生、必要なものをすべて与え、さらなる自由を、尊厳を取り戻させてくれる。もはや後ろを振り返る必要はない。

第二審は、より完全な贖いの成就を予表するものとなり、キリストにある新しい人の出現を、さらにはっきりと約束してくれるものとなるだろうと筆者は見ている。だが、それと並行して、筆者には、それと同じくらい重要なミッションがあって、今や自分だけではない多くの人たちにも、自由に至るエクソダスの道があることを告げ知らせ、自分に与えられた解放を、他の人々のために役立てたいとの願いがある。

その成果が一定の分量に達したときに、さらに大きなミッションが与えられることになるだろうと筆者は前もって感じている。いずれにせよ、筆者はなさねばならない仕事、新たな課題の只中に置かれたのであり、それを果たせることは、筆者にとってはかりしれない光栄である。


村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(4)わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネ15:16)

さて、日曜はゆっくり休んで、週明けになると、風邪もどこかへ去っていた。
  
週明けから暗闇の勢力に対して、予定していた厳しい措置を実行する。被告に法的措置を取るため、書類をしかるべき機関に宛てて送付した。これで「命令」を「実行」するためのすべての書類手続きが整ったことになる。

これは判決を得た以上、避けて通ることのできない過程である。筆者が人生で初めて足を踏み入れる新たな厳しい領域だ。
 
訴訟で負けた人には、様々なデメリットが降りかかる。仮執行は控訴によって実行を遅らせることはできない。従って、判決によって抱えた債務は、早々に整理しなければ、社会的に多くの負の影響をもたらし、ますます増えていく可能性すらもある。

被告はかつて「一度、自分の口から出た言葉は後から消すことができないということがわかっていない。もし、それがネット上のものではなく紙媒体の印刷物であれば不可能である。」と書いていたが、その言葉は誰よりも彼自身に当てはまるものとなることを考えてみたことがあるのだろうか?

聖書には、
 
「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。」(ヤコブ2:13)

とある通り、自分が他者に対して憐れみ深く接した人には、憐れみ深い態度が返って来るが、それをしなかった者には、いずれ自分が他人に行ったことが、そっくりそのまま跳ね返ることになる。

バビロンの崩壊が、今始まった。
 
掲示板の読者は特にそうだが、これから被告に起きる事柄を、読者にはぜひしっかりと見ておいて欲しい。なぜなら、掲示板において、匿名で当ブログ執筆者に対する誹謗中傷を日夜重ねている者たちは、自分にだけは決して追及の手が及ばず、自分には苦しみは降りかかることはないと高をくくっているのであろうが、人物が特定されれば、だれでも同じような末路を辿ることになるのだ。

被告の今日は、掲示板の投稿者の明白であるから、警告としてよく見ておいて欲しい。そして、天に唾すれば自分の顔に落ちるように、自分が他人に向かって吐いた言葉は、いずれことごとく自分に返されることの意味をよく考えてみることをお勧めする。

彼らは自分には報いが降りかかることがないと確信しており、筆者が凡人ではないという事実を否定して嘲笑しているようだが、学者という職業の人々は、もともと物事を徹底して追及することに慣れており、またその方法論を知っている。掲示板に対しても、被告に対するのと同じように徹底した態度で臨み、必ず、権利侵害に及んだ人間に対しては、実名を公表の上、責任を追及することを予告しておく。
  
* * *

さて、筆者は今、思い出すことがある。それは筆者がアッセンブリーに所属していた子供時代に、キャンプで初めて村上密を遠目に見かけたときのことである。

あの頃、筆者は中学生で、村上は「先生」と呼ぶよりも、子供好きな「お兄さん」という若さで、筆者よりも少し年上なだけの子供たちを楽しそうに引率していた。

それを見て、筆者は「若い先生のいる教会はいいなあ」と考えたことを思い出す。筆者の所属していた教会は高齢化しており、筆者は子供心にも、教会が高齢化していることに寂しさを覚えていたのである。

その頃、村上密がどんな活動をしているのか筆者は知らず、筆者から見れば、村上はただ単にアッセンブリー教団に属する教職者の一人の「若い先生」であり、まさかその後、現在のような状況が起きるとは、予想だにすることもなかった。
 
そのキャンプでは他教会の人々とは話すこともあまりなかったので、筆者は大勢の人々とにぎわいを楽しむということはなかった。その代わりに、聖霊の存在を知り、おそらくその時、洗礼の決意を固めたのではなかったかと思われる。

キャンプの終わりに、証しをしたい人は名乗り出るようにと求められたので、筆者は手を挙げて講壇に立ってマイクを握り、何か証しの言葉を語った。何を言ったかは覚えていないが、生涯、神様に着いて行くつもりだといった決意を語ったように思う。そのキャンプに連れていってくれた引率者の信者(日曜学校の先生)が嬉しそうに頷いていたことを思い出す。

家に帰って洗礼を受けると親に報告すると、深い感動が込み上げ、涙が出て来た。嬉しいというのとは違う。筆者に対する神の深い愛を感じ、その決意が、筆者の生涯を分ける決断になることを理解していたためである。

しかし、それから、家ではバトルが始まった。我が家の宗教は分裂しており、父はアッセンブリー教団にも疑問を持ち、子供を早くから教会に所属させることに反対で、そこで、当然、洗礼を受けることにも反対であったため、それを押し切って洗礼を受けるには極めて大きな代償が必要であった。

このように、筆者の人生には、子供の頃から、神に従うために、代価を伴う「エクソダス」の過程があった。ただ単純に信じますと言って、それですべてが成就するような安易な状況ではなかった。神に従うために、筆者はまず最初に、自分の家族の情愛や理解を、心の中で後回しにせねばならなかったのである。

その他にも、この世との別離もあり、子供としての筆者は、非常に大きな苦しみを耐えねばならなかったと言える。その上、筆者はアッセンブリーの教会生活には全く満足していなかった。教会生活そのものが苦痛に近いものだったと言っても良い。その当時の教会の様子について、改めて書く必要もないとは思うが、そこには大きな問題があり、真の信仰はほとんど見られない状況であった。筆者には、教会生活は人工的なもので、本物ではないという違和感が心に絶えずあった。

だが、その頃から、筆者は、教会と信仰は別物であって、死んだような礼拝とは別に、聖書の神御自身は生きておられるという確信が心にあった。そこで、教会生活がどれほど形骸化していようと、教職者がどれほど信用できない人々であろうと、そのことは筆者の内心に影響を与えなかった。むしろ、筆者はこれほど大きな代償と引き換えに、従おうとしている存在は、筆者の全自分を捧げるだけの価値のある方であって、筆者の人生は、その方のために聖別されて、とりわけられていることを知っていたのである。

筆者は子供の頃から、幾度か親に向かって、筆者の人生の終わりは必ず普通でないものとなるだろうという予測を語ったことがあった。それは決して非業の死を遂げるという意味ではない。ただ筆者なりに、神に従って生き、神に従って召されるという、殉教の予感であった。

だが、そういう決意も、大学生くらいになると散漫になり、ある時が来て、何もかもが一変するまで、筆者の生活は世人とほぼ同じであった。しかし、そのような生活をしている時でさえ、筆者は自分の人生の終わりは、完全に主のためだけのものとなること、自分のために何か特別な召しが存在するということを、心に感じることがあった。

そして、筆者に与えられた人生の最期の瞬間が来るまで、神の愛は余すところなく筆者に注がれているということをはっきりと感じたのである。

不思議なことに、殉教の決意などなく、信仰すらもあるのか分からない暮らし方をしていても、筆者は神を離れていたわけではなく、神も筆者を離れられなかった。従って、筆者は、自分が神を選んだのではなく、神が筆者を選んだのだということを、今でも確信せざるを得ない。人は、自分の歩みを自分で決めていると考えているが、それを決めておられるのは神である。そう考える他には説明できない、あまりにも数奇な事件が、筆者の人生には多すぎる。

さて、筆者の父親は、人間洞察力に関してはピカイチで、筆者の人間観察眼も親譲りである。(筆者は論理的な思考と冷徹な観察眼を父から、豊かな情感を母から受け継いだ。)

その後、筆者は2008年になって、他教会で起きたトラブルを解決する目的で、村上の教会に向かい、そこに親を呼んで村上と対面させたことがあった。

筆者の父が、その時に村上から受けた印象を後になって述べた。父はアッセンブリー教団の非や、キリスト教についての意見を述べる前に、村上と筆者では人間のスケールが合わないということを真っ先に指摘した。彼は言った、「あれはヴィオロンを相手にできる人間だと思わない。だから、すぐに(ヴィオロンの方から)離れて行くだろうと思った。実際にその通りになった」と。さらに言った、「初対面の人間に向かって、家族カウンセリングのために、実家を訪れても良いとか、やたら熱心に自分の活動や親切心をアピールするところに、かえってうさん臭さを感じた」と。

筆者はこの感想を聞いた時には、すでに村上の教会からもアッセンブリー教団からも完全に離れ去っていたので、この印象は正しいと感じた。そして、たった一度、1時間にも満たないくらいのごくわずかな時間、会話しただけで、相手の人間性を的確に見抜ける父の洞察力に感心した。

もちろん、それは世間知らずの若い牧師に比べて、この世でもまれながら生きて来た年長者としての正しい判断と知恵でもあったろうが、それ以上に、我が親族には、父に限らず、一人一人に、何かしら非常にシビアかつ不思議な観察眼が備わっている。
 
だだ、父というものは、やはり、自分の子供の人間のスケールを直観的に理解・把握していると言えるだろう。筆者のようなタイプの人間は、通常人に理解できる域をはるかに超えた、とらえがたい要素を持ち(これも親譲りだが)、これを理解し、受け止めるためには、並々ならぬ特別な資質が必要となる、ということを、父はよく知っていたのである。

だからこそ、村上密には、筆者のために何もできないで終わるだろうことを、父は最初から分かっていた。筆者のリクエストに応えるという形で、村上の教会を訪れはしたものの、村上が、自分は経験不足の未熟者でありながら、他人の家庭に僭越に口を出し、自力で他人の家庭を是正するために家族カウンセリングに取り組むなど、もってのほかだということを、よく分かっており、口にこそ出さなかったが、最初から全く相手にしていなかったのである。
 
それよりも、村上が他人の心を癒すこともできないのに、一体なぜ、何を目的として、信者に向けて熱心にカウンセリングなどを勧め、そこに家族までも巻き込んでいるのか、父はその真の目的がどこにあるのか、当初から非常に疑問に思っていたと語った。

それから後、村上の人間性は、今やすでに余すところなく明らかになっているので、言及する必要もないと思うが、筆者は時折、「ではどういう人間ならば、父の目に適うのだろうか?」ということを考えてみることがある。筆者の父は、信仰者ではないため、価値観は全く共有できないが、親として、この人間になら、子を預けても構わないという人物が現れれば、多分、一目でそれを見抜く洞察力はあるに違いない。

だが、それだけのスケールを持った人間とは、一体、どういう人物なのだろうかと、筆者は疑問に思う。そして、今のところ、地上のどの人間の中にも、筆者はそれほどの器を見つけたことがない。

筆者から見れば、日本人は特にそうだが、男性はあまりにもナイーブで傷つきやすすぎて、女性からの絶えざるサポートや励ましを常に必要としているため、非常に厄介で面倒な側面を持った存在である。

多くの男性は、自分が強くて、大きくて、頼もしい、懐の深い人間であって、か弱い女性をサポートできることを、心の誇りとし、自信とし、よすがとしているので、女性の方が自分よりも強いことが判明した場合、それだけで打ちのめされ、自分を否定されたように感じ、侮辱を感じ、憤ったりする。女性が自分を少しでも上回っていると感じただけで、もはや愛も消え失せ、憎しみだけが残ったりもするのだ。

それはちょうど多くの男性が、自分よりあまりにも身長の高い女性と連れ立って歩くことを嫌うようなものである。学校時代、筆者の級友の中に、190cmは身長があろうかという女生徒がおり、筆者はその人を容姿端麗だと思っていたが、彼女は色々な苦労があることを話してくれた。もちろん、自分に合ったサイズの服や靴を見つけるのに苦労するだけでなく、特に、男性からの妬みのような蔑み、嘲りがひどいと嘆いていた。

このように、ただ女性の身長が高いというだけでも、男性はコンプレックスを感じるらしいのだ。つまり、多くの男性は、すべての面で、自分が女性に優っていることを確認できなければ、それだけで、心傷つけられたように感じ、侮辱を感じる非常にナイーブな生き物で、少しでも自分が女性から「見下ろされている」と感じることに、耐えられないと言えるのではないかと思う。

筆者はこのことを考えると、多くの人々がこのようにまで傷つきやすく、心が脆弱で、自信喪失しているために、自分のあるがままを認められず、それゆえ、他者のあるがままをも認められない状態に陥っているということは、非常に不憫で気の毒なことであると思わずにいられない。

さて、心の身長などというものは、誰にもはかれないにせよ、筆者の場合は、たとえるなら、見えない心の身長は190cm以上(場合によっては、200cmくらい)あるかも知れない。だが、そうなると、そういう人には、世界が他の人々とは異なって見えるのは当たり前のことである。むろん、理解者が減って行くことも、同じ価値観を共有できる人が減って行くことも、当たり前のことである。

強い女性は、自分のスケールに見合った、自分を守り、かばうことのできる、より強い男性をなかなか見つけられないどころか、男性も女性も含めて、多くの人々から、いわれのないやっかみや差別を受け、かえって心弱い男性を守る側に立たねばならず、苦労することになる。自分よりも心弱い男性たちのプライドを考慮して、絶えず、自己の強さを発揮せず、弱いふり、かばってもらっているふり、気遣われるふりをせねばならない。

これは非常に大きな負担である。何をどう言ってみたところで、大は小をカバーできるが、その逆は成り立たないからだ。かばう側には立っても、かばわれることができないというのは、恐るべき孤独である。

だが、最近、神はそういうお方なのだということが分かって来た。神は私たちがあまりにも心のスケールの小さい人間であることをよく理解して、私たちのプライドを完全にへし折って、私たちが生きて行く気力をなくすことのないように、非常に気を遣いながら接している。強く、頼もしく、大きいからこそ、絶えず私たちの限界をかばうために、ひたすら忍耐して私たちにつきあうしかなく、時には私たちがあまりにも自分のちっぽけな心にこだわりすぎるのを見て、怒り、苛立ちながら、私たちが新たな一歩をやっと踏み出すのを待っていて下さる。これは途方もない忍耐だということが分かって来る。

さて、筆者の父は、人の人間的な器の大きさを直観的に見抜くことができる人だったので、筆者のような人間は、村上密のような人間に何とかできるような存在ではない、ということを確実に知っていたし、筆者もその通りだと考えている。

だが、これは以下にも書く通り、ただ単に人間のスケール云々という問題ではなく、私たちがそれぞれ何に立脚して立っているのかという問題を伴う。

村上と筆者の立脚点は、完全に対極にあり、それ だからこそ、この争いは、村上の勝利で終わらず、控訴審に持ち込まれたのであって、そこで一審判決は覆されることになる。理解ある裁判官が下した良識的な判断でさえ、神の目には完全でないため、覆されることになる。この争いに、決着をつけられるのは、神御自身である。

筆者は、神の完全なることを証明するために立たされた人間であり、その召しに立っていればこそ、主は筆者の願うことに応えて下さるであろう。

だが、このようなことは、筆者に限ったことではない。杉本徳久がかつて書いていた「干潟」に関する記事を思い出せば分かる通り、杉本も、かつて村上とは対立関係にあり、その当時に書いた、村上をほとんど偽預言者扱いせんばかりの記事を未だ掲載し続けている。
 
この「干潟」に関する記事で、杉本は、村上がカウンセリングを通して、人の心に溜まった「悪水」を抜けば、その人はハッピーになれると書き、自分の活動を、干潟を埋め立てる公共事業にたとえて自画自賛していたことを痛烈に批判し、干潟は断じて人の心に溜まった「悪水」などではない、村上は初歩的な思い違いをしている、と非難していた。

まさしくその通りなのである。

もしかすれば、地上には、一人くらいなら、筆者よりも強く、懐の深い、頼もしい存在はいるかも知れないし、あるいはそういう人々は、十人か百人くらいはいるのかも知れない。そういう人々によりかかれば、筆者の重荷は軽くなり、筆者はより悩みなく生きて行けるように思われるかもしれない。

だが、筆者は、誰か自分よりも頼もしい人間によりかかり、支えられ、理解され、慰められて生きたいとは全く思わず、それが幸福だとも感じないのである。

仮に肉の父の目にかなう人間が十人、百人いたとしても、天の父の目にかなうのは、御子ただお一人だけである。

従って、筆者は他のすべてのものと引き換えにしてでも、ただ真に完全で価値のあるものだけを掴みたいと願っている。

筆者が何を言おうとしているかと言えば、私たちにとって、孤独や悩み苦しみは、取り除くべきものではなく、それ自体が、神に通じる十字架の道だということである。誰か孤独や悩み苦しみを埋めてくれそうな人間に手を伸ばせば、手っ取り早くそういうものは、なくなるように思えるかも知れないし、それこそが人間の幸福のように考える人々がいるかも知れないが、それは根本的な誤りである。
  
そこで、子供の頃、キャンプで遠目に他教会の子供たちの楽しそうなにぎわいの様子を見たときのことを思い出すにつけても、あの時、あの孤独の中にあって、まことに良かったと筆者は考えている。

あの時、村上とその教会の人々は、筆者から見て「対岸」のようなところで、陽気に楽しんでおり、筆者は、こちら側の岸で、自分たちの教会には若い人々が少なく、子供も少ないので孤独だと感じていたが、それは何ら嘆かわしいことではなく、まさしくそれで良かったのだと思わざるを得ない。

これは筆者の所属していた教会が正しかったという意味でもなければ、アッセンブリー教団を肯定するものでもない。ただすべての状況の中に、神の御手が確かに働いていたということに過ぎない。

その頃から、筆者には様々な重荷、様々な孤独、言い知れない苦悩があったが、筆者は、そのようにして、世から取り分けられたことは、非常に良いことであったと考えている。

投獄されたパウロなどは言うに及ばず、ガイオン夫人も、ウォッチマン・ニーも、すべての信仰の先人は、必ず望むと望まざるとに関わらず、不思議な状況の巡り合わせによって、世から分離されるという過程を辿ったのである。

そこで、自分が孤独や苦しみとは一切、無縁の、心の「悪水」などとは一切関係のない、絶えず楽しそうなにぎわいの中で騒いでいられる「あちら側の人間」の一人であれば良かったのにとは、筆者は全く思わないのだ。

人のにぎわいからは離れた静寂の中に、神の選びと、愛に満ちた眼差しがあった。死んだような教会、心の通わない信徒の交わりとは別に、神は確かに筆者に対して、筆者自身の心の願いにこたえて、個人的に語りかけ、働いて下さった。むしろ、そのような環境があったからこそ、主は筆者に応答して下さったのだと言えよう。(これは断じてそのような教会にとどまり続けることを勧めるものではない。)

あの時、神ははっきりと、筆者にしか分からない方法で、あなたを選ぶとおっしゃって下さり、そのことを、筆者はすべての人たちの前で証し、そして、それが人生の極めて重大な一歩となって行ったのだから、それで十分なのである。筆者はとにもかくにも、見せかけでないもの、束の間でないもの、一番大切なもの、永遠に残るものを掴んだ。そして、筆者の心からの決意は、神に重んじられ、聞き届けられたはずである。

このように、神は常に人を荒野に導いて、ねんごろに語りかけられる。神が好まれるのは、見栄えのしない「干潟」であって、整然と整備された街並みとしての「公共事業」ではない。神は人の心にどれほど「悪水」がたまっていようと、そのようなことは決して障害とはみなされず、そのすべてを自分が受け止めることができるから、私のもとに来なさい、とおっしゃる。

むしろ、忌まわしいのは、神の目に、人が己を完全に見せかけようと、自分を飾り、自己浄化しようとして、自分には罪などない、悪水などない、問題などない、自分は聖い人間であって、豊かで、乏しいことはなく、むしろ、自分こそ、他者の問題を解決してやれる能力を持っているのだ・・・、などと己を偽り、思い上がりに陥ることなのである。

日々の十字架を負う意義――わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。

これまでの記事の中で筆者は、嘘にまみれた世界の中で、公正、真実、誠実さを追い求めることが、命を救う鍵となるだろうと強調して来たが、実際にその通りの原則が、筆者の人生において成就している。

もちろん、真実なるお方はキリストただお一人なのだが、キリストは目に見えないお方であるがゆえに、私たちは現実生活の中で、ただぼんやり天を仰いで待つのではなく、自分自身の力で、何が本当であるかを判断し、限りなく、真実性のあるものだけを選び取って行かねばならない。
  
今、何が本当であるかを着実に見分け、真実だけを選び取って行かなければ、命取りとなるような時代が到来している。真実と虚偽を見分けることができるかどうかで、人の命運が分かれるのだ。
 
たとえば、これまで、筆者に向かって色の良いことを約束しておきながら、その約束を実行せず、いわれのない損害を与えようとする人々は、数多く現れて来た。(これは本当のことである。)しかし、その中には、見るからにいかがわしい似非宗教指導者や、求人詐欺を働く悪徳企業のような、初めから誰にでもそれと見分けられるどうしようもない組織やリーダーたちだけが含まれていたわけではない。

残念ながら、そこには、筆者にとって非常に親しい身近な大切な人たちの嘘の甘言も含まれていたのである。

今から少し前、筆者がある問題の解決に悩んでいた頃、「私が必ず力を貸してやる」と申し出た人がいた。その人は身近な人間であり、長いつきあいのある存在であった。

その人は言った、「ヴィオロンは私にとって非常に大事な人間だから、必ず、約束を実行する」と。

ただし、その約束は次のような注釈つきだった。「明日、ある人だけにはこのことを相談しておきたい。私はその人の了解なしには行動できないから」。
 
そこで、筆者は即座に答えた、「あなたは私よりも年長なのに、未だ自分のことも一人で決められないのでしょうか。ほかの人と相談すれば、あなたは必ず心を翻すでしょう」

その人は言った、「そんなことはない。私がそんなにも簡単に自分の約束を破ると思うか。私がヴィオロンのことをそんなにも軽んじていると考えるのか」

筆者は礼儀上、その言葉には何も答えないでおいた。その人はそれを筆者の同意だと思ったのか、我が意を得たりとばかりに満足そうだった。

しかし、その人は筆者と長いつきあいがあるとはいえ、信仰は全く共有しておらず、信仰面では筆者とはむしろ、正反対の立場に立っていた。そこで、筆者は、その日が来るよりもずっと前から、内心ではうすうすその人と筆者との運命は間もなく完全に別れるだろうことを予感していた。おそらく、この会話が最後の試金石になるだろうと感じていた。

その人は案の定、その翌日、まだ舌の根も乾かないうちに前言を翻し、約束は反故にしたいと通告して来た。だが、筆者は、そうなることを予想済みであったので、何のショックも受けず、静かに言った、筆者の方でも、すでに別の解決ルートを見つけたので、助けてもらう必要はなくなったと。

その人が、筆者にあたかも大きな力を貸すかのように述べたのは、筆者の生活であるイベントが予定されていた前日のことであった。もしもその大事な時に、筆者がむなしい約束を信じて、その助けを当てにして、予定通りに行動していたなら、筆者の人生は大きな損害を受けたかも知れない。

だが、筆者はこれまでの経験則から、その人がどんなに筆者にとって身近で大切な人間であっても、一切、信仰を共有することもできず、同じ立場に立っていない人から助けを受けることは決してあり得ないと知っていた。

そこで、そのような人間の約束を、信じず、当てにもしていなかった。むしろ、その人が筆者を必ず助けると言った言葉を聞いた直後、筆者は物事を熟考し、速やかに、その助けを一切、当てにしなくて済む方法に行動を切り替えた。そうでなければ損害を受けていたのは間違いのない事実である。

このように、どんなに感情的には身近で親しい人間に思われる人の言葉であっても、信仰に基づかず、真理に立っておらず、誠実さや真実性に欠ける行動ををしている人間の述べた言葉は、すべて当てにならないものとして、退けなければならない。その原則を筆者はこれまで幾度にも渡って学ばされていた。

人情に働きかけられたり、おだてられて心をくすぐられたりして、自己満足することによって、信じてはならない言葉を信じれば、取り返しのつかない害をこうむるだけである。

これまで筆者の人生において、真実を見分ける力を養うことは、まだまだ小さな予行演習の繰り返しのようであったが、社会全体が、どっぷりと海のような嘘の中に浸かるに連れて、嘘を退け、何が真実であるかを見分ける力は、死活的重要性を帯びるに至っている。

繰り返すが、ただ自分の感情にとって心地よく好ましく感じられるものだけを信じ、選び取ってていたのでは、ただちに死に直結し、生きられなくなる時代が到来しているのである。
 
さて、以上とは似ているようで、また別の話がある。
 
最近、筆者はある事件で協力を得るために、かつての信仰仲間の幾人かに、久方ぶりにコンタクトを取ってみた。すると、そのうちの一人の身に悲しい事件が起きていることが分かった。
 
悲しい事件と言っても、本人には全くその自覚がないから、そう思うのは筆者だけである。

その人は、事件への協力を約束したが、その際、あたかも筆者の健康を気遣うような口調で、熱心に電位治療器の無料体験を勧めて来た。

あまり熱心に勧めるので、直接、会うついでに寄ってみようと、筆者はその人の案内で体験会場を訪れてみた。

しかし、会場の入り口に「ハピネス」などと書いた怪しげな旗がひらめいているのを見た瞬間に、筆者の心の中では「あ、これはヤバイな」という警告が鳴り響いた。

体験会場の中に入ると、「一般社団法人ハピネス」という、宗教団体とみまごう組織名が掲げられている。
   
いくつもの椅子が並べられた会場を見回すと、そこには老人ばかりが集まり、まるで病院の待合室のようであった。

会場に並べられた粗末な椅子に置いてある座布団が、電位治療器の役目を果たしているらしいが、そこに集まった人々は、まだ何かが始まる前から、この電位治療器のおかげで、劇的に歩けるようになったとか、病気が治っただとか、ありとあらゆる奇跡物語を「あかし」していた。知人はすっかりその気にさせられている様子だったが、筆者はそれを聞いてますます「ヤバい」と感じた。

そうこうしているうちに、若い販売員が登場して、老人たちの前でパフォーマンスを始めた。そして、「この電位治療器には、病気を治癒する力はありませんが、体の調子を整えることができます。体の調子を普段から整えておくことで、将来的に、がんになったり、深刻な病気にかかるリスクを減らすことができるのです…。ついこの間も、30代の若い女の子が、病気の予防に役立つならと買ったばかりですが、今ならキャンペーン価格で…」などと語り始めた。

キャンペーン価格と言えども、65万円は下らなかったように記憶している。庶民が思いつきで手を出せる値段ではない。しかも、販売員がのっけから「がんのリスク」などと、明らかに人の不安や恐怖を煽るような話を始めたことに、筆者は非常な不快感を覚えた。

筆者は心から病気を憎んでいる。筆者がここへ来たのは、病気の話など聞かされるためではなく、暗闇の勢力にいかに勇敢に立ち向かって、それを撃退するかという問題を話し合うのためであった。こんなくだらない話につきあっている暇はない。
 
やたらと人を不安に陥れる脅し文句を並べ、何一つ科学的な証拠もないくせに、この電位治療器を使ってさえいれば、まるで将来的に病気のリスクを低減でき、がんにかかる可能性を減らせるかのような、眉唾物の話んは、筆者は心の底から憤りを覚えずにいられなかった。
 
しかも、会場の電気椅子(いや、電位治療器)に座っていると、筆者はドキドキして来て、嫌な感じを覚えた。むろん、警戒していたためもあるだろうが、そもそもペースメーカーを使っている人は、使用できないなどの説明を聞いても、明らかに、これは人体に不自然な刺激と圧迫を加えるものであると分かる。

仮にこの電気椅子にほんのわずかでも治療の効果が認められるのだとしても、このような外的刺激に頼らなければ、健康を維持できないほどまでに弱体化した人間にはなりたくないと強く思った。
 
だが、何よりも、筆者が違和感を覚えたのは、その体験会場に来ている人々が、することもなくぼんやり受け身に椅子の上に座って、販売員の説教を待っているだけであることだった。

本当に困っている人たちは、寸刻を惜しんで働いており、こんなところで時間を潰している余裕はない。志の高い人は、同じ時間を使って、社会運動にでも参加するだろう。それなのに、この人たちには、他にすることが何もないのだろうか。

病気のリスクを減らしたいなら、同じ時間を使って、家で体操でもすれば良い。ジョギングでもマラソンでもウォーキングでもして体を鍛えれば良い。そもそも、この人たちの家庭には、彼らの優しい心遣いや、世話を待っている家族はいないのか。泣いている孫や、赤ん坊はいないのだろうか。

おそらく帰宅すれば、彼らの温かい配慮や世話を待っている家族の一人もいるはずであり、その他にも、社会のためにできることはいくらでもあるはずなのに、それらすべての問題を差し置いて、自分の体のことばかりを心配し、こんなところで受け身に座っていれば、ますます筋力は衰え、知性も後退し、他人にお膳立てしてもらわなければ、何もできない無能な人間になって行くだけである。そんな方法で病気を防げるなどと本気で信じているなら、まさに愚の骨頂だ。

筆者は、眉唾物の怪しげな奇跡体験談が飛び交ういかがわしい会場に、一刻たりともとどまる気がせず、販売員の話もそこそこに、知人を無理やり外に引っ張り出すようにして会場を立ち去った。筆者がそこにいたのは、わずか5分から10分くらいだっただろう。

その後、筆者はその知人に向かって説いた、これはほとんど宗教で、霊感商法と同じだ、こういういかがわしい商売に関わるのは危ない、と。

しかし、その知人には全く効き目がなかったようであった。

それでも、しばらくの間、その知人とは連絡を絶たなかった。そのうちに、再び、ひょんなことから、会話の中で電位治療器の話が出て来た。

筆者はその会話の中で、キリストの十字架の贖いこそ、私たちの完全な命であって、救いであるのに、昨今、キリスト教徒を名乗りながらも、あからさまに聖書66巻は神の霊感を受けて書かれた書物ではないなどと否定して、自ら神の救いを拒んでいる、呆れるような人々がいる、と述べた。

そして、その話のついでに、知人に向かって、やはりあの電位治療器の無料体験に通うのは早くやめた方がいい、科学的にも十分な実験が行われたわけでないのだから、どんな副作用や禁断症状が伴うかも分からない。依存状態になる前に、こういう外的手段に頼らず、自分の命の力だけで、健康を維持できるようにした方が良い、と語った。

すると、知人からは、思わぬ拒否反応と共に、驚くべき叱責の言葉が返って来たのである。

「ヴィオロンさん、あなたは何も分かっていない。あなたはほんのわずかもあの体験会場にとどまらなかったくせに、試してみるよりも前から、電位治療にはどうせ効果なんかないと決めつけている。そんなあなたの態度は、まるで聖書66巻は神の霊感を受けた書物ではないと、聖書を読むよりも前から決めつけて、救いを拒んでいる人たちと全く同じだ!!」

「はあ? 一体、何を言っているの!?」

筆者は驚いて問い返した。

「まさかあの電位治療器に、キリストの救いや聖書66巻と何の関係もあるわけないでしょう?」

「いや、同じだ! あなたは救いがあるのに、救いなんてない、聖書なんて信じない、と救いを自ら拒んでいる人間たちと同じだ!!」

筆者は鳩が豆鉄砲を食ったように驚き呆れると同時に、これは重症だ、手遅れかも知れない、という手ごたえを持った。

孤独な老人が、販売員の親切そうな口調や、無料体験会場の賑わいに釣られて、電位治療器にはまりこむのはまだ分かるとしても、かつてキリスト教徒だった人の口から、その電気椅子があたかもキリストの救いと同等であるかのような言葉を聞かされるとは、こんな商売がまっとうなものであるはずがないという確信が込み上げて来た。

「あれはただの電気椅子でしょ。それなのに、どうしてそれを聖書とか、神の救いと同列に並べられるわけ。しかも、あれを試さないからと言って、何で私が救いを拒んでいるということになるわけ。

もしそういう理屈が成り立つならば、同じような椅子が、他にもたくさんあるはず。試せというなら、全部試して、見比べてみるべきじゃないの。他の椅子を知らないし、よく知りもしないくせに、あれだけが救いみたいに決めつけてるのは自分でしょう?」

「そりゃ、全部、試したわけじゃないから、他にももっと良いものはあるかも知れないけど…」
と知人は口ごもる。

「そうでしょう? でも、それを言い始めたら、電気椅子だけじゃなく、青汁や、サプリメントや、マッサージ器や、その他、ありとあらゆるものに、それなりの効能があるはずでしょう。TVをつければ、通販番組で、いくらでも奇跡体験を聞ける。あなたはそういうものをいくつ試したわけ。他のを十分に試してもいないのに、どうしてあの椅子だけにそこまでこだわるの?」

「自分で試したから。あれが効くって分かったんだよ」

「呆れた。騙されてるだけだって、分からないわけ」

「騙されてなんかいない。何も買ってないし」

「買わなくたって、宣伝係として大いに利用されてるじゃないの」

「だって、歩けなかったのに、歩けるようになったって言ってる人にも会ったし。それを否定するの?」

「馬鹿馬鹿しい。そんな話はベニー・ヒンの大会で病気が癒されたとか言ってる奇跡体験と何も変わらないじゃない。そういう『あかし』を聞かされただけで、証拠もないのに飛びついて信じるの? 何度、騙されたら学習するわけ?」

「きついなあ。ヴィオロンさんだって、今はそういうことを言っているけれども、十年後には、体が弱くなって、考えが変わるかも知れないよ」

「馬鹿なことを言わないで。十年経っても、私の考えは変わらないから」

「いつまでも健康でいられないかも知れない。がんになるかも知れないよ?」

「いい加減なこと言わないで。ほらね、もう脅しが始まった。あのお兄さんが会場で言っていたことを、あなたは受け売りしているだけじゃない。だって、言ってたものね、がんのリスクを減らせるかも知れないとか、云々。

あなたはそういう話を聞いただけで、愚かにも真顔で信じ込んで、都合よく利用されて、会場のサクラにされた上、電気椅子の伝道師にまでされちゃったんだね。

でも、私にはそんな伝道は要らない。私には癒し主であるキリストがすでに着いておられるんだから、病気を恐れる必要なんてないし、ましてあんな訳の分からない椅子にすがりつかなきゃいけない理由もない。
 
まことの命であり、健康そのものであり、すべての問題の解決である方が、すでに内におられるのに、何のために、あんなあの世の待合室みたいな会場の椅子に、救いを求めて通わなくちゃいけないの。

毎日、あんなところに通わないと健康を維持できないと思い込んでるなら、それはまるで教会に通っていないと救いを失うと脅されて、日曜ごとに教会のベンチにしがみついている信徒と同じじゃないの? そういう信仰生活はもう卒業したんじゃなかったの?」

「・・・」

「私から見れば、あなたはあそこで大勢の人たちと会ってちやほやされて、孤独を紛らし、自分の健康を心配してもらうことと引き換えに、すっかり洗脳されちゃって、病気の治療どころか、病気を受け入れさせられてることが分からないんだね。
 
人の人生では、自分で信じたことが本当になるんだよ。病気になるかも知れないなんて言われて、それを真に受ければ、本当にその通りになるだけだよ。しかも、がんになるかも知れないと言われて、大真面目に信じて電位治療器を買うのは、先祖の祟りと言われて、壺を買うのと同じだよね。

でも、言っておくけど、先祖の祟りは、壺を買ったくらいでは、きっと免れられないよ。一つの脅しを受け入れれば、次から次へと新たな脅しがやって来るだけだよ。壺では終わらず、さらにもっと高価なものを買わなくちゃいけなくなるだけ。同じように、がんのリスクは、あんな電位治療器なんかでは、防止できない。あのお兄ちゃんだって言ってたじゃない、電気椅子には、病気の治療の効果はないって。

だから、あなたは存在しない幻の解決と引き換えに、現実の巨大なリスクを引き受けさせられているだけなんだよ。本当の目的は、治療の効果もない機械と引き換えに、がんになるかも知れないっていう恐れを現実のものとして引き受けさせることにあるんだよ」

「・・・」

「だから、病気や祟りの脅しなんて、聞いた瞬間に、断固、拒否しなくちゃいけないわけ。しかも、私たちには真実な救いが与えられているから、そういう恐怖で脅される理由はないって分かっているはずなのに、あなたはあんな低次元な脅しを拒否しないどころか、私にまで恐怖を広めようとしているの?
 
でも、そもそもがんがどれくらいお金がかかる病気か、あなたは本当に考えたことがある? 電位治療器も買えない人が、そんな病気とおつきあいしてる余裕があるわけ? 自分の生活を考えたら、がんなんて病気と仲良くしている余裕は、最初から全く存在しないってことが、自分で分かるんじゃないの。そんな病気、お呼びじゃない。早期発見してみたところで、仕事も休めないし、残業しないと生きられない人に、どうやってそんな病気の予防策にお金を投じている暇があるの。誰がその間、面倒をみてくれるの? そんな病気、かかっただけで一貫の終わりだよね。そんな病気のことで、四六時中悩んでいられるような人たちなんて、あそこに来ている老人みたいに、ほんの一握りの恵まれた人たちだけだよ。私に言わせれば、まさにぜいたく病みたいなもの。

それでも、あなたがどうしてもそんな眉唾物の話を本気で信じて、私にまで布教したいって言うなら、まずは、あの椅子を自分で買ってからにすればいい。どうせあなたが言っている『試さないと分からない』なんて台詞は、無料お試し体験程度でしょう。

そんな中途半端な体験で、知ったかぶりされても困るんだよね。ちゃんとローンでも組んで機械を買って、自宅で毎日長時間試して、博士論文くらいのデータを集めてから、人にものを言いなさいな。中途半端にしか試してない人間から、中途半端な説教を受ける気は私にはないから。そんな薄っぺらい無責任な言葉と態度で、人を説得できると思ってることが大間違い、というか他人を馬鹿にしてるんだね。
 
あなたがその霊感商法と手を切らないなら、この交わりもこれで終わりにしましょう」

この説得の言葉を聞いても、知人はまだ筆者の考えが間違っていると確信していたらしかった。

電気椅子はそれほどまでにその知人の心をとらえ、もはや心の王座を占めていると言って良く、それに比べ、筆者のような人間は、あの会場のサクラの一人程度にしか見えていなかったのであろう。知人が誘えば、筆者もあの機械に病みつきになると本当に思われていたのだとすれば、随分と軽くみられたものである。

ところが、サクラでなければならない筆者から、電気椅子を捨てなければ、交わりは終わりだと宣告され、知人はよほど腹に据えかねたのか、その後、自ら信仰の交わりを絶つと言って来た。

しかし、それには「あなたとはこれまで互いに信仰的見解が最も近いと思っていたので、とても残念だ・・・」という未練がましい注釈と、さらに、電気椅子はやめない代わりに、これから当分の間、信仰告白をやめさせてもらう、と挑戦的な捨て台詞のおまけがついていた。

それは筆者が、この知人に向かって、人前で神を拒む人間を、神も拒まれると聖書にあるから、困難があっても、公に信仰のあかしを続けることはとても重要だと思うと語った直後のことであった。
 
ああ、やっぱりな・・・、と筆者は思った。 恐るべし、あれはただの電位治療器ではない。この知人が、筆者の前で、電位治療器などというこの世のガラクタを、聖書66巻やキリストの救いになぞらえて語ったことは、偶然ではなかったのだ。

その知人にとって、あの電位治療器は、まさに「踏み絵」の役割を果たし、信仰を棄てる契機にまでなってしまったのだ。
 
そんな人間から、「信仰的見解が最も近いと思っていた」などと言われたことに、筆者はただただぞっとして冗談はやめてくれと薄気味悪さを感じるだけであった。
 
さて、この電位治療器については、ほんの少しネットを検索しただけでも、筆者と同様の意見がたくさん見つかる。

ネットでは、筆者が目にした高額で販売されている電位治療器は、原価5万程度の代物でしかないと言われている。さらに、売り方にあまりにも問題があることは、数多くの場所で指摘されている。

「治療の効果があるわけではないが、体の調子を整えることで、がんの予防にもつながる」などと、正式に認められてもおらず、科学的に一切証明されていない効能を無理やりこじつけのように謳ってアピールするなど、違法すれすれの説明である。

しかも、販売員が奇跡体験を語ると違法になる恐れがあるため、無料体験会場には、予めサクラと思われる参加者が仕込まれ、その参加者の口から「これを使ったら、歩けなかったのが、歩けるようになった」とか、「病気が治った」などと、奇跡の「あかし」をさせることで、眉唾物の「福音」を口コミで広めて行こうとする念の入れようである。

老人や病者の孤独や弱みにつけこみ、親切心を装いながら、人々を食い物にする悪徳商法には、強い憤りを感じるが、それと同時に、筆者が思うことは、以下に引用する記事にも書かれている通り、それにひっかかる人間の側も、どうしようもなく愚かで無責任で自己中心で能天気な阿呆だけだということだけだ。

それでも、福音を知らないならば、まだ弁護の余地もあるかも知れないが、最も救いようがないのは、キリストの福音の価値を自ら知っていながら、天の御座に憧れるのではなく、あのような地上の安物の電気椅子に心を奪われ、その無料体験ごときを、キリストの救いと取り替えた人間である。これでは、まるで一杯のレンズ豆のあつものと引き換えに、長子の権を売り払ったエサウとほとんど変わらないではないか。

筆者は、暗闇の勢力との闘いの中で、少しでも力を借りられないかと思ってその知人に声をかけたのであったが、あまりにも愚かすぎる結末に、開いた口が塞がらなかった。

大体、自分の体の心配、自分の健康の心配、自分の必要性、自分の快楽・・・、そんなことばかりを四六時中、気にしているから、最後にはこういう結末へ引っ張られて行くことになるのだ。

四六時中、自分の心配ばかりをしているから、最後には椅子から全く動くことさえできなくなり、ついには立ち上がることもできなくなって、病が癒されるどころか、病に倒れて終わるのである。あれはただの椅子ではない。肥大化したセルフの玉座である。

しかも、電位治療器に正式に認められている効能とは「頭痛、肩こり、慢性便秘、不眠症の緩解」だけであるらしい。

だが、「頭痛、肩こり、慢性便秘、不眠症」などは、取り立てて大騒ぎするような不調ではなく、まして高額な治療器を使ってまで早急に撃退しなければならない深刻な病ではない。

誰でも、悩み事が生じれば、夜も眠れないほど考え込んだり、頭痛や肩こりを覚えたり、食欲もなくなり、体調も一時的に悪化したりもするだろう。

だが、それは一過性のことだ。それなのに、一体、いつから、人にとってそのような一時的で些細な悩み苦しみまでが、あってはならないもののようにみなされ、不眠や肩こりや頭痛までが、あるまじき重大な病のようにみなされるようになったのか? 

しかも、「がんになるかも知れない」などという、手に負えない巨大な病のリスクを引き受けることに比べれば、頭痛や肩こりといったほんの些細な痛み苦しみを黙って甘んじて受けることは、はるかにたやすいことではないのだろうか?

それなのに、ほんの些細な悩み苦しみをも、あるまじきことのようにみなし、ほんの少し、自分が痛み苦しみを負わされたくらいのことで、まるで重大事件が起きたかのように大騒ぎし、四六時中、我が身可愛さから、自分の体、自分の健康、自分の感情、自分の感覚のことばかりを話題にし、ほんの些細な体調不良にも神経質に騒ぎ立てて早急に手を打たねばならないと走り回り、朝から晩まで常に自分の体のことだけを心の中心に据えて生きているから、その不安につけこまれて、経済的に損失を負わされるだけでなく、巨大な病のリスクまでも引き受けさせられるはめになるのだ。

聖書は言う、

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」(マタイ16:24-27)

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」(Ⅱコリント4:16-17)

私たちの「外なる人」が衰えて行くことは、避けようのない事柄である。私たちは内に復活の命をいただいてはいるが、あくまでそれを土の器の中に抱えており、常に外なる人の限界に脅かされている。

しかし、そのために生じる痛み、悩み、苦しみなどは、実に些細なものであって、一時的な軽い艱難でしかない。地上での生涯を立派に耐え抜けば、その艱難とは比べものにもならない天の栄光が約束されているのだ。

そのようなわけで、キリスト者にあっては、地上における一時的な軽い艱難は、有益な実を生みこそすれ、無駄になることはない。ところが、そんな些細な艱難さえをも、甘んじて負うことを避け、常に自分にとって心地よい快楽体験ばかりけを追い求め、朽ちゆく自分の地上の命を惜しみ、これを大事に握りしめて手放さず、生まれながらの自分を永遠にまで永らえさせることを考えていれば、最後にはその命すらも失って、どん底に突き落とされて終わるのが関の山だ。

もともとその命は有限で、どんなに工夫しても永遠に永らえさせることなどできはしない腐敗したアダムの命なのだから。その命にしがみつく者が呪われたり、罰せられたとしても仕方がない結末である。

何がハピネスだ。もしこんな薄っぺらい幸福が、幸福だというなら、筆者はそういう幸福は要らない。

人間の幸福は、ただ喜びや快感だけでなく、悲しみや悩みや痛み苦しみと相合わさって絶妙に美しい織物のようになっている。私たちは、主の御手から恵みだけを受けとるのではなく、艱難をも甘んじて受け取るべきである。

そして、神が私たちを悩み苦しみを通しても、練り清めて下さり、私たちの思いのすべて知って下さり、必ず、問題には解決を与え、ふさわしい時にそれを取り除け、苦しみをも、栄光に変えて下さることを信じて、外からの助けにすがらず、ただ内におられるキリストの命の力だけによって、すべての危機を乗り越えて行く方法を学ぶべきなのである。

それなのに、一体、どうして、キリストの十字架における永遠の救いと、神の霊感を受けて書かれた書物である聖書66巻を、たかが電位治療器ごときと引き換えにできようか。
 
去って行った知人の後ろ姿を見つつも、筆者は、やはり、このような商売は、憎むべきものであって、何があっても関わりたくないし、こんなもののために貴い救いを失うなど、あまりにも愚かすぎる結末だと思うことしきりであった。
 

憎むべし、電位治療器。憎むべし、悪徳商法。」から抜粋

「ネット上で、私はこんなに効果がありました!と鼻息を荒くしている人がいます。
こういう人たちには、きっと悪意はないのでしょう。
自分が良くなったのだから、純粋な好意から、他人にもすすめたい、と。
しかしその好意は、周囲にとっては迷惑で、無責任なものでしかありません。
効いた原因もろくに説明出来ず、厚生省の認可も受けていない。
そんなものを、”たまたま自分に効果があった”からといって、他人に勧めるというのは、
極めて無責任で、能天気で、浅はかで、滑稽で、馬鹿で、救いようがない。
ある意味では幸せとも言えますが。
こういう図式は、カルト宗教にも良く似ています。


高齢者を集め「がんが治る」などと宣伝していた電位治療器の販売業者」(国民生活センター)から抜粋

「本件業者は、体験会場へ大勢の高齢者を集めて、「血圧を正常値に戻す」「がんが治る」などの効能・効果をうたい電位治療器を販売していた。会場でビデオを見、病気が回復したという人の話や業者のもっともらしい説明を聞き、病気を抱える高齢者は効果を信用し契約した。

当該治療器は医療機器承認番号を取得していたが、効果として表示できるのは「頭痛・肩こり・不眠・便秘」のみであった。


消費者契約法や薬事法に抵触する販売方法と思われることから、当センターは、信販会社に、加盟店の指導を十分行うよう申し入れた。

 また、本件のようなケースでは、仮に、業者が消費生活センターの相談員や相談者を訴えたとしても、逆に、業者に対して不法行為による損害賠償請求の訴えを提起することが可能であろう。


ダマされないぞ!インチキ商法! (悪質商法データベース)」から引用

分類

薬事法における管理医療機器(クラスII)に分類される。認証基準に適合する製品に関しては頭痛、肩こり、慢性便秘、不眠症の緩解が効能効果として認められる。

注意点

上記のとおり、頭痛、肩こり、慢性便秘、不眠症の緩解については薬事法により効能効果が認められているが、その他の効果については法的に認められているわけではない。パワーヘルスの例に見られるように、これ以外の効果(たとえば、糖尿病・高血圧・ガンの治癒など)を公的に求められた効果として謳って販売した場合、違法行為とみなされる。