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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

十字架の死と復活の原則―裁きの時には一つの罪でも有罪となるが、恵みが働く時には、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下される

オースチン-スパークスの論説を読むと、キリスト者の中には、神から特別に厳しい訓練を課される者たちがいることが記されている。

そういう者たちは、端から見れば、信じがたいほど絶え間なく困難に見舞われているように見えるだろう。しかも、苦難の規模が通常人をはるかに上回っているため、なぜそこまで苦しまねばならないのか、周りの人々には理解できない。中には自業自得と誤解して責める者もあるかも知れない。

だが、そうした患難には神の深遠なご計画がある。

困難が次々と起きるからと言って、それだけを見て決して落胆する必要はないと言えるのは、これまで幾度となく繰り返して来たように、神がクリスチャンに地上で苦しみを許される時には、必ず、それと同時に天に慰めも用意されているからだ。

つい数日前、筆者はブログを更新していない間に、一つの思いがけない喪失を経験したが、ほぼ同時に、神は大きな慰めを用意して下さっていた。筆者が探してみると、ただちに失ったものを上回るほどの稀有な新しい宝を得ることができたのである。良い人と出会うことができ、受けた損失を補うほどの価値のあるものを得ることができた。

そこで、求めなさい、そうすれば与えられます、叩きなさい、そうすれば開かれます、あるいは、罪が増し加わるところには恵みも増し加わる、と聖書に書いてある通り、どのような出来事が起きても、キリスト者は、落胆することなく、死から命へ、苦しみから慰めへ、天に備えられている恵みだけをまっすぐに見上げ、それを実際にすべく具体的な行動を起こすなら、そうして信仰によって踏み出すと同時に、苦しみの時は束の間に過ぎ去り、豊かな恵みと慰めが待ち受けていることをすぐに確認できるだろう。

繰り返すが、キリスト者には、苦しみもあるが、同時に、その苦しみを補って余りあるほどの豊かな慰めが必ず天に備えられている。だから、クリスチャンの中のある人々が絶えずひっきりなしに困難な状況に見舞われているように見えたとしても、その人には、受けた苦難と比べものにならないような慰めが天に同時に用意されていることをも思った方が良い。そういう人生を送ることは、非常に希少な幸福であると言えるかも知れない。
 
イエスは言われたのである。

「わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」(マルコ10:29-30)
 
クリスチャンが地上で福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てて、主に従わざるを得ない瞬間に、失ったものの百倍を受ける時が来るというこの御言葉を思い返しても、信じがたい気持ちになるだけであろう。そういうことが起きる度に、心は悲しみにふさがれ、孤独に苛まれるかも知れない。

実際に、神の御手の中で訓練を受けているクリスチャンが、苦しみの渦中にある時、慰めの方向へ目を向けることは難しい。見えるものに従って歩んでいるわけではない、とどんなに口では言っても、目の前に嵐のような目まぐるしい状況が展開するときに、その出来事に注目しないことは難しい。

さらに、以前にも書いたように、クリスチャンが霊的に巨大なエクソダスを遂げる直前には、特に大きな激動が起きるものだ。キリストと共なる十字架の死を経て、命へと移される直前には、極めてドラマチックな展開があることが稀ではない。だが、その中をくぐりぬける当人にとっては、それは少しも「ドラマチック」などと言って笑っていられる状況ではなく、全世界が自分に敵対しているかのような、まさに生きるか死ぬかのような体験に感じられることだろう。

そのような状況の中でも、失望や落胆に沈むことなく、どんなことが起きても、あるいはそれが自分の過失や、不注意や、愚かさによって起きた取り返しのつかない損失のように見える時でさえ、決して自分自身の不完全さに拘泥することなく、神の憐れみや恵み深さにのみ目を留め、どんな瞬間にも、神を信頼し、天に備えられた希望だけを見つめ続ける姿勢が必要である。そのような姿勢が保たれていて初めて、苦しみと同時に天に用意されている慰めに到達することができる。

だが、クリスチャンの信仰の歩みの中で最も難しいのが、以上の姿勢を保つことではないかと筆者は思う。つまり、どんなことが起きても、決して失望落胆することなく、絶えず自分の不完全さから目を離し、キリストの完全さだけを見つめ続け、自分自身ではなく、キリストに依拠して、神の完全が自分自身に適用されることを求め続ける姿勢である。

さて、聖書には裁判官とやもめの有名なたとえ話がある。

イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。

ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとはしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』

それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(ルカ18:1-8)

このたとえ話は、クリスチャンが神に正しい裁きを求める権利を有していることをよく示している。

もちろん、地上ではすべての市民に裁判を受ける権利がある。世にはスラップ訴訟なども存在し、司法が悪用される危険もないとは言えないが、裁判それ自体が悪ではないことは、誰しも認めることであろう。

上記の聖書箇所における地上における裁判官の描写は、クリスチャンが神に正しい裁きを求めて祈ることのたとえとして描かれている。

だが、その御言葉は、幾分かは地上の裁判にも当てはまるであろう。筆者はこれまで、地上の裁判に対する考え方を少しずつ変えて来た。教会に関わる事柄は依然としてこの世の裁判にかけるべきでないと考えているが、この世に関する事柄は別である。

筆者は、暗闇の勢力がいかに人の正当な訴えを邪魔し、正しい主張を封じ込めようとするかを、幾度にも渡り、見せられて来た。人が自分に保障された正当な権利を取り戻そうとして主張する前に、主張すること自体を諦めさせようとするのが彼らの手口である、と言って良い。

たとえば、ブラック企業が従業員の正当な訴えを封じ込めようとする手口を考えてみると良いのだ。世に言うブラック企業には、往々にして、専属の悪徳社労士や悪徳弁護士が雇われている。彼らは企業が従業員に対して定められた賃金を支払わなかったり、不当解雇を行ったりして、様々な不正かつ不当な措置に出る時、常に企業の味方となって、従業員を黙らせる役割を担っている。この人々は、いわば、口封じのために雇用されている「専門家」だと言っても過言ではない。

このような「専門家」がブラック企業についている場合には、彼らは、企業によって不当な措置を受けた従業員が、決して裁判に訴えて自らの権利を取り戻したりしないよう、事前に様々な文書を送りつけては、訴えを封じ込めようとする。訴えるよりも前から、訴えてもどうせ結果は変わらないので諦めた方が良いと、あの手この手で主張を放棄させようとするのである。

むろん、そのようなことは、社労士や弁護士でなくともできるのだが、強欲な依頼主の要望に従って、そのようなむなしい目的のために自分の専門知識を活用している人々が存在する。本来、そのような人たちは、専門家と呼ぶにも値しないが、彼らはうわべだけは、自分たちが本来の道理を曲げていることを悟られないよう、まことしやかな文書を書き記すものだ。
 
従業員はそれを見たとき、考えなければならない。本当に、自分が何をしても結果は変わらないのか、それとも、それはそう思わせるためのうわべだけの工作に過ぎないのか。自分に何の責任もないにも関わらず、不当な措置を黙って受け入れ、その結果を自分で身に背負うべきか、それとも、そのような事態は、自分のせいで起きたことではないと、公然と主張して、不当な結果は、不当な措置を行った張本人にお返しして、彼らに背負っていただくのか。

主張するか、しないかによって、人生の結末そのものが変わって来ると言って良い。その争いは、法廷などに持ち出されるよりもはるか前に、従業員の心の中で始まっている。その従業員が、専門家を名乗る連中からやって来る様々な脅しのテクニックにまんまと乗せられて、失望落胆して、自分の権利をみすみす諦め、主張せずに終わるのか、それとも、最後まで不当な決定に抵抗して、正々堂々と自分の主張を打ち出して、権利を取り戻すのか。すべては従業員の心次第である。

多くの人々は、主張することの重要性を考えてみない。専属の弁護士がいるかどうかや、書類が自分で上手に書けるかどうかや、要するに、人数やテクニックの問題ばかりに目を留めて、初めから自分には分が悪すぎると諦めている人が多いものと思う。

だが、本当の戦いは、そのような表面的な事柄にはなく、最も弱い、不利な立場に立たされた本人の心の中から始まる。明らかに不当と分かっている主張に遭遇した時、人がどのような態度を取るか、最後まで勇気を持って抵抗するのか、それとも、脅されれば簡単に諦めるのかどうかにすべてがかかっている。

ある人々は、これまでクリスチャンを提訴して法廷に引き出すことに何のためらいもなかったにも関わらず、筆者にはあたかも彼らと同じように市民としての権利を行使することが全く許されないかのように主張している。

その人々は、筆者がまだ何一つ手続きもしていないうちから、まるで今しも自分が筆者に提訴されるのではないかとでも言うような勢いで、筆者を含む数々のクリスチャンが、彼らに対してスラップ訴訟に及ぼうとしているかのように非難して来た。

だが、彼らの主張を見ても分かることは、彼らは、よほどクリスチャンから訴えを起こされることを常日頃から恐れているに違いないということだけである。

彼らは、何とかして自分が訴えられることを阻止し、自分の主張の不当さが、公然と世人の前に知れ渡るのを避けるために、筆者一人だけでなく、彼らを訴える可能性のありそうなすべてのクリスチャンをさんざんに罵倒したり、脅しつけたりせずにいられないのであろう。

そのような彼らの行動は、自分が罪を犯していることを、内心ではよく知っているがゆえの本能的な自己防衛の心理に基づくものだと言える。

なぜなら、身の潔白を信じている人々は、誰かから不当な訴えを出される可能性があると分かっても、決して慌てないからである。不当な訴えには、ただ毅然と立ち向かえば良いだけであり、訴えられる前から自分を懸命に弁護したり、自分を訴える可能性のある人間を片端から攻撃・非難したりする必要もしない。そのような行動を取る人間は、訴えられれば必ず負けると分かっていて、恐れの心(本質的には罪の意識)に支配されているのである。

筆者は、自分の運命を振り返って、よくよく数奇な歩みだと思わずにいられない。

筆者は、初めの内こそ、教会のカルト化はあってはならないという立場に立ち、カルト化の疑いをかけられた牧師や教会を非難しても構わないという考えを持っていた。にも関わらず、筆者の運命は、その後、それとは全く逆の方向へ転換し、カルト化の疑いをかけられた教会よりも、むしろ、カルトを撲滅すると自ら主張している人間の方がはるかに重大な危険であることが分かった。そこで、前者ではなく、後者にこそ、筆者は立ち向かってもの申さなければならないことが判明したのである。

筆者はキリスト教界の堕落を否定するつもりはない。筆者自身が、当ブログにおいて、プロテスタントの諸団体の中に怪しげな理念のものが数多くあることについて書いて来た。

今ここでは詳しく繰り返さないが、そうした例の中には、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団(および聖霊派の主張)の誤りや、ゴットホルト・ベック氏の集会の理念の問題性や、Kingdom Fellowship Churchの問題もあった。

筆者はこうした集会の理念について、具体的な問題点を挙げ、それを聖書の御言葉と対比しながら、何が問題であるかについて説明して来た。
 
筆者自身は、教会に牧師制度を導入することに反対である。牧師制度というものは、本来、対等であるべき信徒間に差別をもうけ、信徒の献金で養われる特権階級を作り出すものでしかない。

多くの霊的先人が、この制度が間違いであることを指摘し、ゴットホルト・ベック氏の集会や、KFCなども、表向きは、公然と牧師制度を否定している。こうした集会は、牧師制度を取っていることを理由の一つとしてキリスト教界と訣別している。

ところが、上記の団体は、一方では、牧師制度を否定しながら、他方では、牧師制度とほとんど変わらない固定的な指導者制度を置いている。そこで、これらの集会の現実は、表向きに掲げている理念とは正反対であり、大きな自己矛盾をはらんでいることを指摘し、筆者はこれらの集会の理念と行動の首尾一貫性のなさを非難して来た。

だが、筆者が当ブログにおいて、以上のような見地から、これらの集会の理念と活動を疑問視する発言を行ったからと言って、こうした団体から、筆者に抗議が送られて来たことは、これまで一度もない。対立関係が起きたこともない。筆者の記したブログ記事内容について、彼らの側から教義論争が起こされたり、反対意見が寄せられて来たことも一度もなかった。

そして、このことは、これらの団体が筆者の主張を初めから誤謬とみなして相手にしていないためではなく、もともとこうした団体は、筆者が彼らに関わるよりはるかに以前から、数多くの批判にさらされて来た過去があるためであると見られる。
 
以下にも記すように、こうした団体は、過去に巨大な分裂、大規模な離反などの騒動を繰り返し経験して来ている。そこで、彼らは批判や離反には相当に慣れているだけでなく、批判者や離脱者を執念深く追いかけては取り戻そうとして脅しつけたり、論争をしかけるようなことをしないのである。

たとえば、ベック氏の集会は、もともと争いを嫌う平和的な性格の団体であり、さらに教養人が数多く集まっているせいもあって、集会の雰囲気そのものが温和で上品で寛容である。兄弟姉妹の間で意見が割れたからと言って、口汚い論争が発生することはほぼなく、兄弟姉妹は、離脱者に対しても寛容で、筆者が彼らと異なる考えを持って集会を離れた後でも、いつでも交わりはウェルカムという態度を崩さない。

つい先日も、知り合いの兄弟が召されたから祈って欲しいという連絡が、その集会の一人の姉妹から来た。そのリクエストの是非はともかく、こうしたことからも、時が経っても、依然として、彼らが筆者を兄弟姉妹の一人に数えている様子が分かる。

残念ながら、筆者はそうした接触を機に、集会に戻ろうとは思わないが、そのような連絡が未だにやって来ること自体が、この集会にいる兄弟姉妹の誰一人として、筆者に憤りを持っておらず、筆者を憎んでもおらず、筆者の考えをあるまじきものとみなして、筆者が考えを改めない限り、二度と受け入れるつもりはない、などという狭量な考えを持っていないことをよく示している。

そして、彼らがそのような考えに立っている理由は、この集会の成りたちを考えてもすぐに分かる。

ベック氏の集会は、もともとキリスト教界に失望幻滅してそこを去って来たクリスチャンが大半を占める。ベック氏のメッセージの中心的テーマの一つにも、キリスト教界には決して行ってはいけないということがある。そして、こうしたメッセージ内容は、ベック氏が独自に編み出したものではなく、古くはハドソン・テイラーや、オースチン-スパークス、ウォッチマン・ニーなどを含め、地上の組織や団体としての教会の欺瞞性を悟り、組織としての教会から離脱し、エクレシアが地上の団体ではなく天的な共同体であるという事実を知って、本来のエクレシアのあり方を追い求めた霊的先人たちから部分的に受け継がれたものである。

こうして、この集会には、キリスト教界を離脱した人々が数多く集まっているため、この集会の信徒たちの多くが、かつて何かの苦い対立や、深刻な失望を味わって、教会組織を出た経験を持つ。それゆえ、彼らは、信徒が牧師や指導者の意向に逆らって、時には悪魔扱いさえされながら、組織と対立し、組織を離脱することの難しさや、苦しみをよく理解している。

こうした背景があるので、この集会の信徒らは、一人の信徒が彼らの集会にやって来るまでの間に、どれだけ数多くの団体で苦い経験を味わったか、どれだけの団体を遍歴したかなどの事実を追及し、あげつらっては、これを非難や嘲笑の材料としたり、あるいは、彼らの集会を離れた信徒をいつまでも悪しざまに言うことをしない。

彼らにとってはキリスト教界は出るべきところであって、教会組織を離れる行為を悪とみなすような考え方は彼らにはない。

むろん、そうは言っても、それでも、彼らが自ら立てた指導者にだけは従うべきと考えていることは自己矛盾なのであるが、だからと言って、この集会が、筆者が集会を去ったことを、指導者に対する下剋上のようにみなして非難して来ることもない。まして、筆者を追いかけて来てまで、戻るよう説得した者もいない。
 
筆者がその集会を立ち去る前に、筆者を引き留めようとして色々とお説教めいた忠告をして来た兄弟姉妹からは、そのすぐ後に、お詫びと理解して差し支えない内容の手紙が届いた。そこには、彼らとは根本的に考えの異なる筆者を異端者扱いして退けるどころか、依然として、筆者を兄弟姉妹の一人とみなしていることが分かる内容が書かれていた。

このように、この集会の信徒らは、基本的には非常に情の篤い、世話好きで、もてなし上手で、人間的にも好感の持てる純朴な人々である。彼らの信仰のあり方は、日本の戦後間もない開拓時代を思わせるような、極めて単純で素朴なものである。筆者は彼らがクリスチャンでないなどと決して言うつもりはなく、筆者と同じ信仰が彼らの中には全く見られないとも考えていない。

だが、そのように、彼らが極めて好感の持てる人々で、筆者と幾分かは信仰も共有している兄弟姉妹であるという事実と、その集会の理念が持つ問題性は、別個の問題なのである。

筆者はすでに述べた通り、エクレシアにはいかなる固定的な指導者をも置く必要がないと確信している。そこで、この集会が自ら牧師制度を否定しているのであれば、牧師制度に類するいかなる制度をも置くべきでなく、にも関わらず、一人の指導者を祀り上げているのは自己矛盾でしかない。

筆者は、牧師という名であろうと、その他の名称であろうと、人間に過ぎない者を師として仰ぎ、その指導者が教会を管理するようになれば、組織が腐敗することは避けられないと考えている。ただ腐敗するだけでなく、その指導者は、キリストに代わって信者の心と生活を支配するようになるため、反キリストに等しい存在となる。そこで、牧師制度という名称であろうとそうでなかろうと、階級制度としての教職制度自体が教会にはあってはならない、というのが筆者の見解である。

また、以上の集会が家族ぐるみで信徒を取り込もうとすることに対しても、筆者は非常に懐疑的である。なぜなら、聖書は地上における肉の家族の絆がそのまま霊的な神の家族を形成するとは全く述べていないからである。むしろ、地上における肉の家族は、往々にして福音には敵対する誘惑となる。

このように、筆者がとらえている聖書のエクレシアの理念と、以上の集会の理念とは、多くの点で著しい相違がある。このような理念の相違こそが、筆者がこの集会を去った理由であり、人間的な対立は起きていない。起きたとしても、すでに解消されており、そのようなことが本質的原因ではないのである。

にも関わらず、筆者がその団体を去ったことを人間関係の問題に置き換え、すべての問題を、常に聖書との対比において検証しようとせず、ただ人間関係の相克といった低い次元のドラマに置き換えようとする人々は、そのようにして、筆者が組織を離脱した根本的な原因をすり替えることで、牧師制度そのものが根本的に誤っているという、筆者が提起している重大な議論の本質をごまかしているのである。

さらに言えば、その人々は信者を再び人間の支配(組織のヒエラルキー)に従わせ、人間(指導者)の奴隷としたいだけなのである。
 
そういう人々の理屈は、たとえるならば、ブラック企業を辞めようとしている社員に向かって、「社長の言うことには従うべきだ。権威には従いなさい」と説教するようなものである。社員が過重労働のために死の寸前まで追い込まれても、それでも社長という権威に逆らうことや、組織を離脱することは悪だと教え、人間関係を損なうべきではない(和を乱すべきではない)などという口実で、社員が命を守るために逃げ出すことさえ禁止して、自由を奪おうとするのである。

そのようなやり方で、信者一人一人が、何が聖書の理念に照らし合わせて正しいことであるのか、自分自身で判断して行動する自由を妨げ、人間(指導者)の思惑や支配に盲信的に従わせようとすることこそ、まさにカルトの手口と言って差し支えない。

カルト化した組織では、すべての物事の是非が、聖書の御言葉に照らし合わせて検証・吟味されず、ただ指導者の思惑や、組織のヒエラルキーに従って解釈される。人間の立てた権威や秩序に逆らわずに黙って従うことが、聖書の御言葉に従うことよりも優先される。聖書の理念が、人間の作り上げた指導者制度を支えるための添え物として利用されているのである。

こうして、何が正しく、何が間違っているかという価値判断を、信者自身が行うことを阻止し、人間に過ぎない指導者が代わって行い、その指導者の意向に信者を盲信的に従わせるのがカルトである。

笑止千万なのは、カルトに立ち向かうと豪語しているカルト被害者救済活動の支持者が述べている言葉が、まさにカルトのマインドコントロールの手口そっくりになりつつある点である。

彼らは、筆者が様々な団体を離脱したことを悪であるかのように非難する。しかし、もしそれらの団体が聖書の御言葉に従っていないならば、筆者がそれらの団体を離脱したことは何ら悪でないどころか、離脱しなければ正しい信仰生活を送れないのだから、離脱して正解なのである。

にも関わらず、カルト被害者救済活動の支持者らは、決して聖書の理念に照らし合わせて物事を考えようとはせず、ただ筆者が人間の立てた権威や秩序に従わず、組織のヒエラルキーに従わず、団体内で波風立てる行動に及んで(団体の理念に異議を唱えて)そこを離脱したことを理由に、筆者があたかもそれらの団体であるまじき対立関係を引き起こした(「和を乱した」)かのように筆者を非難している。

そのような彼らの主張には、どこにもクリスチャンらしい判断基準はない。聖書は、「和をもって貴しとなす」という価値観とは正反対の理念に貫かれている。

聖書は、人間の作った地上的な組織の秩序の中で、「波風立てずに行動する」ことを正しい信仰生活のあり方として教えていない。むしろ、多くの点で、聖書の御言葉は、この世の人間関係に「波風立てる」ものばかりであり、地上のすべての権威や支配を超える霊的な秩序を唱えているのである。

従って、彼らが、筆者が地上的な団体を離脱したことを下剋上のようにみなして非難しているのは、彼らが内心では、筆者を人間の立てた権威や制度に盲信的に従わせ、人間の奴隷にしようと目論んでいたことを表しているに過ぎない。

しかも、彼らは、筆者とは異なり、以上の団体に通ったことが一度もなく、それらの団体の実情を少しも知らず、筆者の行動を見て知っているわけでもなく、兄弟姉妹の心中も知らないにも関わらず、ただ筆者がいくつかの団体を去って来たというだけで、その離脱が「悪」であるかのように非難しているのである。

彼らは結局、筆者が人間に過ぎない指導者たちの意向に盲信的に従わず、自分自身で物事の是非を判断して行動したことが気に食わないために、筆者を非難しているだけなのである。結局、彼らの言い分は、筆者は牧師制度の前にひざまずくべきであり、指導者の意向に従うべきであった、ということに尽きる。

これは、組織内で波風立てずに行動することを至上の価値のように唱えるこの世的な価値観そのものであり、もっと言えば、指導者に対する絶対服従を要求するカルト的思考である。

こうして、カルト被害者救済活動の支持者らは、筆者に指導者への絶対服従を要求しているのであり、彼らの思考こそ、笑止千万なことに、どんなカルトよりも、より一層ひどいカルト的思考に陥っているのである。
  
さらに、追記しておけば、ベック氏の集会では、対立など全く珍しいことではなく、筆者が立ち寄る以前から、ベック氏の後継問題を機に巨大な分裂騒動が起きていた。筆者がこの集会を訪れた頃は、かつて一つだった集会が真っ二つに分裂し、互いに論争を続けながら、別々の場所で集会を開いていた。

だが、この集会はもともとかなり平和的な性格の団体であるため、集会が分裂したからと言って、両者の間で、あからさまな中傷合戦や、政治的駆け引き、教会財産の争奪戦のような、あまりにも次元の低い争いが起きることはなかった(と見られる)。分裂した二つの集会は、できるだけ衝突や対立を避けながら、独自に平穏な集まりを続けており、さらに、筆者が驚いたことには、深刻な対立があったにも関わらず、両方の集会を行き来しながら楽しんでいる信徒もいるという始末だった。

このように、元来がジメジメした対立や論争を嫌う、根の明るい性格の団体であるから、筆者がそこを去った後でも、「深刻な対立」やら「相克」は起きようがなかった。

KFCも然りである。KFCもそのほとんどはキリスト教界を去ったクリスチャンから成るため、ここにも、指導者に絶対服従を説いたり、組織や教団を離脱することを「悪」とみなす考え方はほぼ見られない。ウォッチマン・ニーなどを一時しきりに教本のごとくメッセージの土台としていた様子を見ても、地上の組織や団体に信者を縛りつけて従わせようとする考え方には根本的に否定的であると言える。

この団体も会員制度がなく、さらに、時期によってメッセージ内容があまりに大きく変化していることもあり、信徒の入れ替わりが非常に激しい。一時はメッセージに共感していた信徒も、ある時期を過ぎると、着いて行けなくなり、去って行くという具合で、大きな離散があり、古参のメッセンジャーもほぼいなくなって現在に至っている。

こうして、もともと信徒を管理し、団体に縛りつけようとする制度自体がない上に、様々な離反や騒動を経験し、信徒の入れ替わりが激しい以上、その団体に失望幻滅して去る信徒が出たからと言って、それは全く珍しいことではなく、去った信徒がいつまでも悪しざまに言われることもない。

中にいるうちは色々言われるかも知れないが(しかも、外野のようなメンバーを中心に)、むしろ、出てしまえばすっきりしたもので、去った信徒を追いかけてまで嫌がらせを加えるような陰湿さは全くないし、そんなことに携わっていられるほど余裕があって執念深い人間もいないと言える。

特に、KFCには、昔から相当に数多くの批判者がいた。もともとキリスト教界への辛辣な批判を定番としており、キリスト教界側の人々には恨みも買っていたであろうし、彼らに言わせれば、「どこの教会からも落ちこぼれた信徒しか集まっていない」と言われるほどに「異端児的」な団体であるため、筆者が当ブログでKFCの理念に対して相当に深く切り込んだ批判を述べたからと言って、そのようなことはKFCにとって何ら目新しいことでなく、誰一人としてその内容に反駁して来た信者もいない。この団体に残っている人々と筆者との間で対立や論争が起きたことは一度もない(その理由には、この団体の信者の平均年齢が、筆者とは全く異なるため、そもそも共通の理解さえ成り立たないということもあったかも知れない)。
 
今になって考えてみると、KFCという団体は、筆者の子供時代にTVで放映されていた「ジミー・スワガート・アワー」にも似たような、聖書の教義の中核に迫る議論からはおおよそ外れた、興業的な意味合いの強い集会であったように思われる。もっと卑近なたとえでは、七色に光るイミテーションのガラス玉か、3分で完成するエスニックの即席麺のようなもので、たくさんの香味は効いているが、本質となるべき中核を欠いているのである。ウォッチマン・ニーやその他の先人の教えを数多く引き合いに出していたとはいえ、それもうわべだけの装飾でしかなく、すべては単なるパフォーマンスとして見るべきもので、真面目に論じるだけ時間の無駄であったかも知れない。

また、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団について言えば、この教団は「しるし・不思議・奇跡」を求め、常軌を逸するほど聖霊を強調する過激な集会のあり方のせいで、長らくプロテスタントの中でも、異端視され、排除されて来た過去があることは周知の事実である。この教団がプロテスタントの一部であるかのように公然と認められるようになったのは、比較的最近のことであり、それもキリスト教人口が一向に増加しない中、大衆受けする集会のあり方が功を奏して、この教団の人口の成長率がプロテスタントの他の教団と比べても著しかったためでしかない。

教義面では、依然として、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、聖書研究に重きを置く福音派などの伝統的な教団教派からは、あまりにも思慮分別の足りない「体育会系」に偏りすぎた教団とみなされ、半ば軽蔑気味に退けられる傾向が強い。

そのことは、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を出てから、他の福音派の教団に行って、実際に、評判に耳を傾けてみればすぐに分かることである。だが、そうした評判を待つまでもなく、事実、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、聖書に基づく深い理念の考察を怠り、現象・活動にばかり熱中して来た歴史があるため、もともとしっかりした教義というものが存在しないも同然である。

そこで、伝統的な福音派から見れば、このように聖書研究が考えられないほどにお粗末で幼稚なレベルにとどまっているにも関わらず、異言を語ることや、しるしにばかり重点を置いて、それがないことで、他のクリスチャンを見下し、自分たちが優位に立っているかのように思い込んでいる態度が気に食わないと、半ば軽蔑ぎみに批判されるのも仕方がない。そして、その批判は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団もそれなりに理解しており、昨今は、以前はトレードマークのようであった過激な礼拝のあり方を自粛する教会も増えている。

このように、この教団は、長きに渡り、プロテスタントの中でも異端視されて来た歴史があるので(教義の面から見ても、異端視されて当然の理由(重大な欠陥)があったと筆者は考えるが、今はその問題には触れない)、批判には慣れており、教団を去ったクリスチャンが批判を口にしたからと言って、いちいち目くじら立てることもなく、まして去った信徒を追いかけてまで口封じしようと嫌がらせに及んで来ることもない。

そのようなわけで、筆者はいくつかのプロテスタントの団体を束の間、通過した過去があるとはいえ、現在に至るまで、それらの団体と筆者との間で、対立や論争が続いている例は一つもない。
 
現在に至るまで、筆者との間で長年、対立関係を深め、筆者の考えを改めさせない限り決して許さないと尽きせぬ執念を燃やして筆者に論争をしかけている存在があるとすれば、それはただカルト被害者救済活動の支持者だけである。
 
そして、これは極めて重要な事実である。つまり、色々と問題を抱えて欠点が多く異端視されても仕方がない数多くの教会は、筆者を決して中傷したり、論争をしかけて来ないし、打ち負かそうと挑んでくることもない。むしろ、そういうことをして来るのは、正義の旗を掲げて「カルトを取り締まる」と主張している陣営だけなのである。

だから、そのことを見るにつけても、筆者は、牧師制度には反対を唱えないわけには行かず、教義面で多くの問題を抱える教会が数多く存在することも疑わず、地上の組織や団体としてのキリスト教界を擁護するつもりは微塵もないにも関わらず、だからと言って、そのような疑わしい教えを唱える教会がすべて筆者と敵対関係にあるとは思わないし、そこにいるクリスチャンが、ことごとく筆者の兄弟姉妹ではないと言うわけでもない。
 
ここに、クリスチャンに対峙することの非常な難しさがある。クリスチャンは外見的には、全員が、途方もなく多くの欠点を抱えた、とりわけ未熟な人々ばかりである。この世の人々と引き比べても、何一つ長所が見いだせないどころか、むしろ、格段に劣っているとさえ言える場合が少なくない。何しろ、何かのきっかけで自分の限界を思い知らされなければ、教会になど足を運ぶことはなかったであろうし、神を求めることはなかった。そういう意味で、クリスチャンは、世の人々と比べても、圧倒的に弱々しく、生きるのに不利となる様々な厄介事や困難や弱さを抱えた人々ばかりであり、とりわけ見劣りのする不器用な連中から成っていると言っても過言ではないだろう。

その上、聖書の御言葉への理解や、信仰の成長という点でも、全く芳しくない人々が99%以上を占めるのである。こうなっては世人からは、弁護の言葉もほとんど出て来ないであろう。
 
ところが、そのように、外面的には極めて弱々しく、不器用で、ぱっとしない、見栄えの悪い人々、そして内面的にも、極めて未熟で、欠点だらけの、愚かな人々に、この世の不信者以上に、神の愛と憐れみが信仰によって及び、義認が行き届いているのが現実なのである。

クリスチャンとは、自分自身の優れた長所によらず、立派で正しい心がけによらず、ただ信仰によって神に受け入れられた人々である。そうである以上、たとえ彼らが未熟であって、その行動が欠点や誤りに満ちており、さらに理念の面でも愚かさと誤りが明白であって、危ない道を歩んでいるようにしか見えなかったとしても、彼らの心の内に、もし真摯に神を信じ、すがり続ける信仰が少しでも残っているならば、その限りにおいて、ただ彼らが未熟で欠点だらけであるという理由だけで、兄弟姉妹ですらないと全否定することは難しく、また、すべきでもないのである。

筆者は、すでに書いて来たように、兄弟姉妹を名乗っている人々に裏切られた回数は数知れず、二度と関わりたくないと嫌気が差した人々や、その高慢さにうんざりした人々も存在する。そういう思いを味わえば、彼らをクリスチャンだとは一切認めたくない気持ちになることも人間としては往々にしてあると言える。いっそ自分は正しく、彼らはみな異端者だと決めつけてしまえば、気も楽になるであろう。

だが、誰がクリスチャンで、誰がそうでないのか、その線引きは、筆者がすることではなく、その線引きは非常に難しく、判断は極めて慎重でなければならないと思う。たとえあるクリスチャンの欠点や非が明々白々であって、また、そのクリスチャンが筆者を再三に渡って裏切り、打撃を加えて来たような場合であっても、もし筆者が彼らを全否定すれば、それによって神を敵に回してしまう危険性が十分にありうるためである。

それだからこそ、筆者は、特定の人物をその人格の未熟さや行動の欠点を取り上げて非難することをできるだけ避け、むしろ、その人物の主張の内容や、特定の集団に流れる思想・理念の問題を洗い出し、理論面からの批判にとどめるように心がけているのである。そして、ほとんどの場合、理論面から問題を洗い出すと、そこに異端思想の共通構造が隠されていることが分かって来るのである。

つまり、敵はあれやこれやの人間ではなく、神に敵対する思想なのである。そして、悪魔から来る思想の基本構造とでも言うべき、異端の型というものが存在することを、筆者は当ブログで再三に渡り、繰り返して来た。

そのようなわけで、あれやこれやの危うい歩みをしているクリスチャンを敵のようにみなして非難することによっては、何ら異端の問題は解決しないのである。そのような方法は、まるで病原菌を根絶するために、感染した人間を全員殺しましょうと言っているのと同じほどナンセンスである。

つまり、教会の堕落は看過すべきでない問題であるとしても、一部の堕落のために、エクレシア全体を否定することは避けねばならず、そのような極端な議論を容認すると、恐るべき結果が生まれるのである。

見かけ上は肉的であり、堕落そのものにしか見えない教会であっても、そこに信仰によって霊的なエクレシアの成分がわずかでもあるとすれば、すべてを否定するわけには行かないのである。たとえ神社に油をまくようなクリスチャンや教会が出て来たとしても、そのような恐るべき行動に及ぶ人々も、やはり教会の末端に位置する以上、そこには、嘘と真実、信仰と不信仰が混じり合い、本物も少しは紛れ込んでいる可能性があり、それにも関わらず、行動があまりにも未熟かつ異常だからと言って、一概にすべてを異端と決めつけて退けてしまうと、本物のエクレシアの成分さえも否定することになってしまうという難しさが存在するのである。

かつて教会の迫害者であり、クリスチャンを断罪して殺すことに加担していたパウロでさえ、あのような回心を遂げたわけであるから、神に対する熱心さのあまり、逸脱を犯している信者らについては、判断は慎重でなければならない。

神社に油をまくことが、神の国に奉仕することでないことは、聖書的観点から見て明白であり、そのような行為は、この世的な観点から見れば、言語道断でしかないであろうが、それでも、そのような行動を本気で正しいと信じるクリスチャンの中にも、1%でも純粋な信仰があるならば、我々は、その行為の表面的な愚かさと迷惑さ加減だけを取って、彼らをクリスチャン失格であるかのように決めつけることができないのである。もちろん、そうした行動は正されるべきではあるが、それはあくまで同胞としての忠告によって是正を試みるにとどめるべきであろう。

このようなわけで、筆者の目から見れば、最も重大な危険は、未熟さや愚かさや過ちがあまりにも明白すぎるために、誰からも「カルトの疑いがある」と名指しで非難されているクリスチャンにはなく、むしろ、自分だけは正しく、決して誤らないという根拠のない自己過信に陥って、指導者然と、自分以外の数多くのクリスチャンの「非行」をあげつらっては裁き、「カルトを撲滅する」と主張している人々の方にあるのである。

繰り返すが、クリスチャンはどの人間も未熟であり、自分は神に従っていると思いながら、実際には、間違いを繰り返しながら生きている人々でしかない。間違いは、それが大きなものであれ、小さなものであれ、神の目から見て、同じように逸脱であり、不従順であるという点で、すべては五十歩百歩である。神社に油をまくことを非常識だと笑うクリスチャンも、毎日、何かの行動において、神の願っておられる水準に達せず、神の聖霊を悲しませながら生きている。

そういうことが全くないと胸を張って言える信者は、地上に一人も存在しないことであろう。それでも、神の愛や憐れみ、義と聖と贖いは、その愚かなクリスチャンにも、信仰によって十分に及んでいるのである。だとすれば、一体、表面的な行動だけをあげつらって、クリスチャンを断罪できる存在がどこにあるのだろうか?
 
我々が警戒しなければならないのは、愚かな間違いを犯して、クリスチャンの村社会の中でもの笑いのたねにされることではなく、むしろ、「私は完全に正しい」という思い上がりに陥って、自己反省の余地を全く失って、自分が神のようになって、自分以外の信者を裁くようになることである。

異端に関する教義論争はいくらでも行われるべきであるし、構造面から異端を明るみに出す作業には意義がある。だが、ある人間がクリスチャンと呼ぶに相応しいかどうかを判断する基準は、決して特定の人間に委ねられるべきでなく、その判断に当たっては、極めて慎重な吟味がなされなければならない。

クリスチャンであるかどうか、クリスチャンとしての要件を満たしているかどうかは、この世の価値観によっておしはかることはできず、それにも関わらず、この世から見て、常識的に振る舞い、世人に受け入れられる条件を満たしているかどうか、まして社会的に成功しているかどうかとかいった基準で、クリスチャンが判断され、裁かれるべきではない。

むしろ、信者は、クリスチャンであるがゆえに、世人から見てどんなに失格者の烙印を押されようとも、神の尽きない愛と憐れみにあずかって、その弱さを神の強さによって覆われているのであり、この世の価値観に従って判断されることから解放されているのである。

クリスチャンとは、そのようにして、信仰によって神の特別な寵愛(恩寵)を受けている人々であり、そうである以上、クリスチャンの価値は決してこの世的な判断基準でおしはかることはできないのである。

筆者はこのことを開き直りの材料として使っているわけではないが、それほどまでに信じる者への神の恵みが深いのは事実である。

そこで、我々は、あるクリスチャンの人間的な欠点や、未熟さ、あるいは、誤った熱心さが行き着いた愚かで非常識な行動だけをとって、彼らがクリスチャンに相応しいかどうかを外側から判断すべきではない。ただし、誤った理念がこの先も、他のクリスチャンらをそうした行動に駆り立てる危険性が十分にあるため、異端を糾弾したいのであれば、行動面だけにスポットライトを当てることをやめ、他の信者の愚かで非常識な行動をあげつらっては、これを一方的に上から非難・断罪して終わりとするのではなく、何よりも信者をそうした行動に及ばせる原因となった思想・理念が何であるかを地道に検証しながら、その誤謬を証明する作業を行っていかねばならない。

時に、筆者は、異端の教えというものは、空中をうごめく病原菌のようなものかも知れないと思う。病原菌は、体力の弱った人々には重大な感染の脅威となり、存在しないに越したことはないかも知れないが、それがない限り、人の免疫抵抗力も育たない。
 
仮にクリスチャンが、一切の異端とは無縁の、完全に純粋で正しい教えだけを受け取り、その中で成長することができるとしても、もしその人が誤りとは何かを知らなければ、それはあたかも無菌室の中で育つ人生のようになってしまうだろう。

霊的無菌室だけしか知らずに育った人間は、その部屋を一歩でも外に出れば、たちまち生きる力を失って死んでしまうだろう。悪に対する免疫抵抗力がないためである。
 
そこで、信者は地上に生きている限り、数多くの疑わしい教えに出会い、その嘘を自力で見抜き、識別し、退けて行く力を養わなければ、信仰は育たず、従順も育たない。神への従順を証明するためには、不従順を選ぶことが可能な状況が前提としてなければならない。信者が誤った道を選ぼうと思えば選べる状況で、自ら正しい道を見分けて、偽りを退け、神に従うことを自ら選ぶのでなければ、その信者には、判断力も、自己決定権も育つはずがない。

だから、信者が多くの誤った教えを見聞きした上で、その誤りを自ら識別する力を養うことが大切であり、その意味で、誤謬と出会うことは何ら恥でないどころか、それこそ、信者の霊と魂の成長のために、避けて通れない不可欠な過程(訓練)ではないかと筆者は思う。

そういう意味で、筆者はこれまでに通過して来た団体や集会を振り返り、そこを訪れたことを後悔するつもりは微塵もない。そうした団体の理念に疑わしいところがあるというだけの理由で、そこに行ったのは時間の無駄であったとか、そこで出会ったクリスチャンのすべてが兄弟姉妹ではないと否定するつもりもない。

むろん、ある団体で唱えられている理念に、聖書に合致しない点がないかどうか、吟味することは重要であり、もし聖書い合致しないと分かったならば、分かった瞬間から、筆者はそこにとどまるべきではないだろう。だが、だからと言って、その中に残っているすべての人々が、みな異端者であるとか、非クリスチャンであるなどと筆者は考えてもおらず、そこで見聞きした経験のすべてが無駄であるとも思わない。
 
筆者はその団体にいる兄弟姉妹が、筆者と同じようにその団体の理念を疑わないからと言って、彼らに自分の見解を押しつけるつもりはない。筆者が理解している内容を彼らに向かって述べたとしても、それが彼らに理解されるかどうかは分からない。すべては信者自身の中の「時」による。今日気づかなくとも、明日気づく人も出て来るかも知れない。気づかせて下さるのは神である。
 
筆者の義務は、自分で理解した事柄に忠実であることであり、他の人々がどう行動するかまでは、筆者の責任ではない。ただし、筆者は、誤りだと分かっているものに接触を続けるわけにはいかないため、忠告しても聞き入れない人々からは離れるのみである。
 
カルト被害者救済活動の支持者らの盲点は、自分の欠点や未熟さには目を向けようともせず、常に他者の欠点や未熟さばかりをあげつらい、神ご自身を退けて、神になり代わって、自分がクリスチャンの内心や生き様に対する裁き主になり、周囲の人々がまだ理解する時期が来ていないかも知れない事柄についてまで、何の資格もなしに、強制介入・干渉して行き、聖霊になり代わって信者を教え、信者の内心や行動を正し、支配しようとしている点にある。
 
異端は教義面から明らかにしなければ意味がないにも関わらず、彼らは信者の行動の欠点や、外側の出来事ばかりを中心に据えて、この世の観点から信者の行動の是非を論じ、信者を裁こうとする。

だが、そのような観点からは、決してこの先も正しい教義論争は生まれて来ないであろう。それどころか、彼らは何をよりどころにして他者を裁いているのか、その土台をますます見失って行くだけである。聖書は何と言っているか。
 
「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。

この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。


裁きの場合は、一つ一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。

そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。

律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」(ローマ5:15-21)

クリスチャンを裁くことに躍起になっているカルト被害者救済活動の支持者らは、信者の行動の非をあげつらったところで、自分自身の罪から逃れられるわけではないことを知らないのだろうか。彼らは無罪とされるためには、完全に罪なき人でなくてはならず、自分の内にわずかに一つの罪でも見いだされれば、たちまち有罪を宣告されることを知らないのだろうか。

他方、クリスチャンは、キリストのゆえに、「いかに多くの罪があっても、無罪の判決」を受けた人々である。罪が増し加わるところには恵みはなお一層増し加わるというのは、クリスチャンにこそ誰よりも当てはまる。クリスチャンがいかに欠点が多く、多くの罪を犯して来たとしても、キリストにあって、神はそのクリスチャンのすべての非をすでに血潮で覆って下さっているのである。クリスチャンが世人に比べ、いかに絶大な特権を持つ者であるか、いくら認識してもし足りない。

だから、誰かがこの世的な観点に立って、一人一人のクリスチャンを、見かけの貧相さや、行動の不器用さや、未熟さ、愚かさや、弱さのゆえに、非難したり、断罪するのは、非常に容易であろうが、そんなことはやめておいた方が良い。むしろ、クリスチャンが弱々しそうに見えれば見えるほど、その弱さが神の憐れみに満ちた強さによって特別に覆われていることを考えてみるべきなのである。その事実を見ずしてクリスチャンの表面的な弱さだけを見て、これをあげつらって非難・説教・嘲笑していれば、いずれ神ご自身を敵に回すことになる。聖書には次のように警告されている。

「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」(マタイ18:10)

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十字架の死と復活の原則―日々の十字架を代価として払って主に従う―「私に従って来なさい、死人を葬るのは死人に任せなさい」―

以前にも、「死人を葬るのは死人に任せなさい」という趣旨の記事に書いた通り、肉の絆に対する十字架の取り扱いは相当に厳しいものである。それは自分で分かっているつもりの領域を超えて、なお、生まれながらの人間の情に鋭くメスを入れ、これを断ち切る。

幾度も書いて来たことであるが、肉による情をキリストの死の向こう側の復活の領域にそのまま持ち込むことは許されない。たとえば、家人だから、親族だから、親しい友人だから、自分にとって身近な大切な人だから、長くつきあった仲間だから、肉の情愛に結ばれたまま、手をつないで、天国の門をくぐりたい、この地上で別れても、永遠の世界で再び出会いたい…などとどんなに願ったとしても、そのような願いを神が聞き届けられることはない。

むしろ、そのような肉の思いこそ、徹底的に十字架の死に渡されなければならないであろう。
 
なぜならば、人が真に救われるためには、まず、水と御霊によって生まれなければならないからだ。(信仰仲間との連帯であっても、肉による情のすべては十字架において死に渡されなければないのだが、今回は、まず生まれながらの肉による情や絆について書いておきたい。)
 
何よりも、神が唯一であり、神の独り子である主イエス・キリストが人類の罪のために十字架で死なれ、よみがえられたこと、信じる者のために永遠の贖いとなられたことを信じ、この救いを受け入れないのに、天国に入れる者は誰一人としていない。

だが、ニコデモがそうであったように、水と霊によって再び生まれなければ、誰も神の国に入ることはできないというイエスの御言葉を聞いて、それを即座に素直に信じて受け入れることのできる人は、ごくごく限られており、非常に少ないであろうと思う。

筆者は、90歳を超える親族が病の床に着いた知らせを聞いたとき、自分の書いた記事を思い出し、この親族が救われて神に至ることを願いつつ、帰郷した。

しかしながら、しばらくの間、この親族を観察してよく分かったことは、この親族は、二十年以上の歳月をかけて、生長の家の信者を続けており、病床で残されたわずかな時をさえ、生長の家の説教テープを聞くことに費やしていたことである。その姿は、筆者には、衰えゆく自分自身への不安を紛らし、過去から目をそらし、現実から目をそらし、死の恐怖から目をそらすためとしか見えなかった。
 
それにしても、この老いた親族が病床から起きられなくなってから、生長の家で親しくしていたはずの信者たちはどこへ消えたのか、誰一人姿を見かけることもなく、訪問して来ることもなかった。

それもそのはずであろう。生長の家は、人間は生まれながらにしてみな神の子であって、神の威厳と大能を帯びて、金色のオーラに包まれており、病や邪念などはみな影や幻想に過ぎないものであって、人間に触れて害することはできないと教えているからだ。

この偽りの宗教は、人間は生まれながらにしてみな神の子であると嘘を教えて、キリストの十字架の贖いを介さなければ、誰も神の国に入れないという聖書の事実を否定している。そして、生まれながらに神の子である人間はみな、神の体、神の命を持っていると、偽りを教えている。

ところが、生まれながらにして神であるはずの信者を、影に過ぎないはず、幻想に過ぎないはずの病が脅かし、病の床に臥させ、信者を今や死の恐怖をもって脅かしているのだ。この現実に対し、彼らはどう言い訳できようか。それでも彼らは、実相の世界においては、人間の霊魂は不滅なのだから、病に冒された肉体も幻想なのだと言って、矛盾のすべてをごまかすのであろうか。
 
彼らがどんなに多くの詭弁を用意していたとしても、そのような虚しく空々しい言葉が、厳しい現実を前に通用するはずもない。死を目前に見ている病人に真の安心を与えるはずもない。そこで、この宗教の信者たちが、この親族が元気なうちには、徹底的に偽りの教えによって献金を巻き上げた上、不都合な事態が起きると、寄り付きもしなくなり、姿を消すのは当たり前であると思う。

だが、それにしても、90を超える老人にも、家族の反対を押し切ってまで、献金をまきあげるように捧げさせていたこの宗教には、恐るべしと言うほかない。その献金のために、この親族はわざわざ新札まで用意していたというから、そこまでさせていたこの宗教に、呆れ、憤慨するだけだ。だが、さすがにそのお布施は、家族が反対してようやくやめさせるに至ったようである。

家族の理解も得られないまま、長年、周囲に反対されつつ、多額の献金と奉仕を費やして、この宗教にはまり続けて来たのである。今更、説得して、どんな効果があるのか、とまずは思わざるを得ない。そんな風にして、家庭から長年に渡り、家族の成員の心と体を奪って行ったこの宗教の欺瞞を、まずは糾弾せずにいられない。

生長の家は、アッラー、仏陀、キリスト、その他のどんな神々を信じようとも、最終的にはみな救いに至れると教えており、一言で言えば、あらゆる宗教の「いいとこどり」だけで出来あがった混合物である。
 
しかしながら、こうした生長の家のいいとこどりの教えは、汎神論や、原始宗教の名残のような、八百万の「神々」への信仰心の残る日本の精神風土にはなじみやすいものである。伝統的な日本の土着の宗教は多神教だからである。

さらに、「人間は生まれながらにしてみな神の子である」という、生長の家の偽りの教えは、人の自尊心やエゴを巧みにくすぐって、人間の心をおだてあげる。自分自身を「神である」と思わせるのである。この親族は、特に、家長であったから、自分自身がもともと家全体のシンボルであり、長年、先祖供養などを通して、いずれは自分も子孫として、(神や仏となって)その家系に連なるのだという自覚を養われていたことであろう。

さて、筆者が上記の記事を書いた時には、まだ筆者はこの親族の病のことを全く知らなかったので、何の関連性もなくこの記事を書いたのであった。

だが、人間は知らないことも、神だけでなく、悪霊どもも知っている。そして、筆者は、親族の病という不幸を聞いて、たとえ回想であっても、こんな不吉な記事を書くものではないと当初は考えたが、むしろ、現実はその逆であったと言えよう。

筆者は、肉親の情から、この親族の病を哀れんだが、逆に、この親族の内にいる(キリストを知らない)霊は、肉親の情や絆に訴えかけることで、筆者との取引を願っていたのだと思われてならない。

なぜなら、すでに書いた通り、この親族は、筆者を呼び寄せて、開口一番、こう言ったからである。「苦しまなくて済むように、キリストさんに祈って欲しい」と。

この親族は、自分の病名も知らず、この先、自分がどうなるのかも知らなかったが、直観的に、死が近いことを感じていたのであろう。最期が苦しくないものとなるように願って、筆者に助力を求めたのであった。その時、親族は、体力はそれなりに衰えていたので、寝ていなければならない状態であったが、まだ自分で行動することもでき、会話も可能で、それほど重大な苦しみには直面していなかった。

そこで、親族からの求めに対し、筆者は、筆者だけが代わりに祈っても意味がないこと、何より、そう願っている本人が、自分でまことの神を信じて祈らなければ効果がないことを述べた。それは、果たして、この親族に、キリストを心から信じる気持ちがあるのかどうかかをはっきりさせるためにあえて問うた内容であった。

しかし、このようなやり取りがあったこと自体が、実に不思議なことであった。何しろ、この親族は90歳という高齢で、人生の大先輩であり、かつ肉においては先祖に当たり、筆者などはまだほんの小娘に過ぎない。かつて信仰について論争した時にも、この人は筆者の助言や忠告など何も必要としていなかった。しかし、「キリストさんに祈って欲しい」とわざわざ依頼して来たところに、自分の力ではもはや太刀打ちできない深刻な事態が起きているという切迫感があるのだろうかと思わされた。

この際、きっかけが何であれ、構わない。たとえそれが苦しみたくないという利己的な願いからであれ、あるいは死の恐怖から逃れたい願いであったとしても、どのようなことがきっかけでも良いから、何が何でも、まことの神に至りつき、真理を知って平安を得たいという心さえあれば、神は聞いて下さると筆者は信じてやまないので、その助けになれないかと筆者は考えた。

筆者自身も、窮地にあって、何度、神に助けを求めたり、率直に願いを祈り求めたか知れない。そして、その祈りの中に、利己的な動機が微塵も含まれていなかったとは言えない。自分が楽になりたいという気持ちが微塵も含まれていなかった、とか、すべては自分自身のためだけではなかった、などとは言えず、言うつもりもない。

だが、それでも、筆者の多くの祈りを、願いを、実際に、神は御言葉に応じてかなえて下さった。神は私たち人間の地上における弱さ、脆さ、儚さを十分に知っておられ、その弱さの中で強さとなって下さる方である。聖書の神が、我々の肉体の限界から来る悩み、苦しみに、耳を傾けて下さらない方だとは、筆者は思っていない。
 
だが、神の助けを受けるためには、条件がある。それは、他の神々を捨てねばならないこと、そして、自分がまことの神をおざなりにして来たならば、そのことを罪として悔い改めねばならないことだ。その罪に対する赦しとして、キリストの贖いがあることを信じねばならないことだ。

だが、それは、人は生まれながらにして神の子ではなく、生まれながらにはただの罪人でしかないと認めることを意味する。自力で、つまり、地上の生まれ持った出自によって、血統によって、永遠に至ろうとするのではなく、神の一方的な恵みとしてのキリストの十字架の贖いを受け入れることによって、神の国に至ることを意味する。それがこの親族に出来るだろうか?
 
重要なのは、ただ単に人の苦しみが軽減されることではなく、人の魂が救われることである。そこで、たとえ筆者が代わりに祈ってみたところで、この親族の魂が根本的に救われなければ、すべては何の意味もないのだ。だからこそ、この点(自分でキリストを信じることができるかどうか)は極めて重要な争点であると筆者は考えた。

しかしながら、観察すればするほど、親族が願っているのは、そういうことではない、ということが分かって来た。何よりも、二十年以上(あるいは三十年以上か?)生長の家の教えを受け続けて来た影響は相当に根深いものがある。その教え込みを打破して、誤りに気づいてもらうこと自体が、至難の技である。しかも、90歳という高齢者を前にして、そのようなことを、50歳以上の年の差がある小娘が行おうとしているのだ。不遜だと思われても仕方がないだけではない。この親族に関しては、死後についてもすっかりレールが敷かれており、葬儀の依頼先や、墓までも決まっていることが分かった。もちろん、一切、キリスト教とは関係のない、義理の世界の話である。

このような状況の中で、この親族が、キリスト者になることを、誰が望み、受け入れられるであろうか? そして肝心の本人は、この点をどう思っているのか。もし本人が、それでも何が何でも、病床で本当の神を求め、信じると宣言すれば、誰もその内心の決定には立ち入れないであろう。だが、本人がこの点についてはっきりしないのでは、筆者としてはできることがない。

親族がキリストを信じられると言う中には、明らかに、生長の家が、あらゆる神々を奉じており、その中の一人にキリストをも含めているということがあった。つまり、他の神々を捨ててまでキリストを信じるという告白ではないのである。
 
そこで、こうした対話の中で、筆者が感じたことは、この親族(本人の魂というよりも、その内にいる霊)が筆者に、ある種の取引を持ちかけているのではないか、ということであった。

むろん、これは誰にも証明することのできない話なので、筆者の印象と言われても仕方がないであろうが、その(キリストを知らない)霊は、筆者が記事に書いた内容を知っているのであろうと予感せざるを得なかった。

筆者は以上の記事の中で、特定の病においては、死に様が非常に苦しみに満ちたものとならざるを得ないこと、特に、神を信じていない者の苦しみは逃れ難いもので見るにも忍びないものであり、特定の不信者の最期が筆者の目にどのように見えたかを描いた。

おそらく、親族の内にいる(キリストに属さない)霊は、時空間を超えて、その内容を察知し、そこから、自分の未来に起こり得る事態を予想し、そのような結果が自分の身に降りかからないようにと、筆者を通して神に懇願しようとしているのだとしか思えなかったのである。

もしもその人が自らキリストを信じることさえできれば、神ご自身がその人を確かに守って下さるであろう。だが、筆者が「自分で信じて祈らなくちゃね」と切り返しても、親族の反応はなかった。

幾度かそのような対話があって、その霊が望んでいることは、やはり、キリストを信じて、唯一の神に栄光を帰することではなく、あくまでただ自分の苦しみが軽減されることだけなのであろうと感じられた。唯一の神としての聖書の神、神の独り子としてのキリストの贖いを信じないままでも、どうにかして、その憐れみにあずかることができないかと考え、そのルートとして、筆者を頼ったのである。
 
もちろん、この身内は筆者に決してそうは言わないが、筆者にとっては、一種の脅しめいた心理状況が展開された。

要するに、敵は筆者に向かってこのようにささやくのである、「おまえはこの人間の身内なんだろう。この状況を見て、おまえはこの病人を可哀想だと思わないのか。こんな状況でも、おまえはこの身内のために、この人の苦しみが少しでも少なくなるよう、おまえの神に祈ってやる気はないのか。この身内にキリストへの信仰がないからと言って、おまえはその懇願まで突っぱね、拒否するのか。おまえには何と情がなく、おまえらの宗教は何と残酷なのか」

しかし、どう脅されようとも、そこには、筆者がどうしても譲れない厳格な線引きが存在するのであった。

おぼろげながらに記憶しているが、筆者はまだ10歳にも満たない頃、この親族の家で、先祖が祀られた仏壇を拝むよう求められ、それを拒否して立ち去ったことがあった。筆者は、その際、子供ながらに、「私にとっての神様は一人しかいないので、他の神様にお祈りするわけにはいかないの」と言って立ち去ったようである。

だが、その場に立ち会っていた(当時)無神論者の父は、子供のこの思いがけない行動に驚き、「キリスト教とは何と礼儀しらずで排他的な宗教か。先祖に対する無礼だ」としか感じなかったようで、後で(筆者にではないが)文句を言っていたようである。その後、様々な話し合いによって、筆者の聖書の神への信仰のあり方を知って、父も現在はもはやかつてと同じようには考えておらず、仏壇を拝むよう筆者に求めて来ることはまずないであろうと思うが、そんなはるか昔から、筆者の中で、すでに信仰による戦いは始まっていたのである。

その戦いとは、この世界を造ったのは「神々」なのか、それとも「唯一の神」なのか、人間は「生まれながらにして神」なのか、それとも「恵みによらなければ救われない」のか、という論戦である。
 
この論戦は、この世が終わるまでずっと神と悪魔との間で続く激しい戦いである。そして、我々は一体、どっちの側につくのか、絶えず、回答を求められている。筆者は、「神々」の側には決してつかないことを、子供の頃からはっきりと決意していたのであった。その頃は、単に教会の日曜学校で教えられた通りの教えに従っていただけであったかも知れない。その教会も、日曜学校も、まことに誤りの多い組織でしかなかったので、結局、その誤りはすべて後々、気づいて修正しなければならなくなるのだが、たとえそうであったとしても、筆者の中には、その頃から、ただ聖書の御言葉だけに基づいて、唯一の神だけを神とし、「神々を拝む」ことへの拒否感が、親族への情愛や礼節以上に強く、重んじるべきことであり、仏壇を拝むことはやってはいけないというはっきりした認識があったのだ。
 
その当時、筆者が拝むよう求められた仏壇は、筆者の先祖が祀られている場所であり、もしも筆者にキリストへの信仰がなければ、筆者は何のためらいもなく、先祖への感謝と畏敬の念からそれに手を合わせ、そして、何のためらいも不思議もなく、いずれ筆者自身も「神々」の一人となって、その仏壇に加えられ、代々、家系を守る者となり、子孫から手を合わせられるのだということを受け入れていたかも知れない。
 
(想像でしかないが)そうして筆者が仏壇に祀られる頃には、筆者にはもはや己の肉体もなくなって、食べることも、飲むことも、見ることもできなくなっているのに、毎日、毎日、子孫によって、位牌の前に、菓子やら、花やら、米やら、色々な供え物を置かれ、それを筆者はあの世から見て、ああ、もう一度、人生をやり直して、あの美味しそうな菓子を食べられたらなあ、とか、何よりも、生きているうちに、神の救いをちゃんと受け入れておくのだった…、キリストを受け入れなければ、行き先は地獄しかないと、地獄の釜の蓋が開いて、年に一度だけ家に戻れるという盆の時にでもいいから、子孫に警告できたら…などと思っていたかも知れない。

いずれにしても、キリストへの信仰がなければ、筆者は何の疑うこともなく、「生まれながらにして神」と信じる「神々の家系」の一人として祀られることになっていたであろう。

だが、そのようにして血統がものを言う「家」と一体となって、「生まれながらにして神聖」な存在として祀り上げられる人生から、筆者は様々な巡り合わせによって、完全に「ドロップアウト」したのであった。

物心ついた頃から、筆者の目から見ると、そのような価値観は、あまりにも変なのであった。こんなにも誤りやすい、未熟で、愚かな人間たちが、「生まれながらにして神」などということは、筆者から見ても、絶対にあり得なかった。むしろ、筆者が早くから求めていたのは、このような限界ある弱く愚かな人間たちの一切の思惑や行動を超えて、もっと高いところから、すべての被造物を正確に把握し、間違いなく治め、裁くことのできる、まことの神の存在であった。

このように、聖書の神への筆者の信仰は、ただたまたまキリスト教会なるところに、子供時代に関わったことによって生まれたものではなく、早くから、目に見えるこの世の一切の矛盾や不条理を超えて、また、人間の弱さや、愚かさや、罪深さを超えて、それらのすべての目に見える世の矛盾を克服することのできる絶対的な正義がどこかにあるはずだ、という確信に基づくものであり、もしそのような文脈で、神がおられるのでなければ、この地上を生きる意味そのものが存在しないという、筆者自身の切なる確信と求めがきっかけだったのである。

そして、その道は単純ではなく、筆者が今も聖書の神をまことと信じているとはいっても、子供時代にキリスト教会で受けた誤った教え込みから脱して、純粋に聖書の御言葉を自分自身で学び、知り、まことの神ご自身、キリストに直接、出会うために、どのような道を通らねばならなかったかも、すでに書いた通りである。

筆者は、自分が努力によって神に到達したとは言わない。これだけ苦しんだから、神に達する資格や権利があると言うつもりもない。苦行を通して神に達することができるという考えは誤りである。

苦しみがありさえすれば信仰が生まれるということは決してない。だが、信仰が生まれ、深められるために、苦しみが存在せねばならない場合は存在するのである。

聖書の信仰の先人たちのほとんどすべては、生涯を通して、苦しみによって信仰を練られた人々ばかりである。もしも彼らが、人生の初めからすべてが順風満帆で、幸せいっぱいで、何一つ思い悩むこともなく、立ち向かうべき問題も持たず、挫折もしなかったなら、彼らには信仰そのものが生まれなかったか、あったとしても、全く成長しないままに終わったであろう。
 
このように、救いも、信仰も、人間の努力によって達成されるものでなく、神の側から与えられる恵みであるとはいえ、神を求める気持ちが全くない人間に、神がご自身を啓示して下さることは絶対にない。人の中に、神を切に呼び求める願いがなければ、神はその人に自分自身を現さず、信じることのできる力もお与えにならない。

だが、神を切に呼び求める気持ちが人の心に生まれるためにこそ、しばしば、人は逆境や、苦しみの中を通らされねばならないのである。

さて、筆者は、「生まれながらにして神」という高みに祀り上げられる人生の歩みから、早々にドロップアウトしたが、それをとても幸運に思っている。なぜなら、自らその歩みからおいとましたからこそ、キリストの救いにあずかることができたのだと思うからだ。その両方を取ることは絶対に無理であったと確信する。

どういうわけかは全く分からないが、筆者には、子供の頃から、地上の「家」に思いを寄せつつも、そこが自分の最終的な「家」には決してならないという確信が存在していた。先祖から子孫に至るまで、家の人間がみな神々のように祀られている風景を見て、自分もそこに連なるのだという意識は持てなかった。むしろ、そのような自画自賛的な、自己肯定的な、自己顕示的な有様に対して、相当な違和感か、もしくは、拒絶感しか覚えるものはなかった。
 
それは単なる思想信条上の違いにはとどまらず、実際に、年月が過ぎるに連れて、ますます大きな考え方の差異を生んで行ったのである。年月が過ぎるに連れて、ますます、筆者は自分がその「家」の一員ではないという感じを強くして行ったのであった。

これはその土地が住みにくいとか、人々と気質が合わなかったとか、そんな皮相なレベルの問題ではない。むしろ、筆者はその土地が気に入っており、親族にもいたく心を寄せて、家に対する思い入れも存在したのである。あるいは、筆者が、その家を継ぐ者になるという可能性もないわけではなかった。

にも関わらず、そのような肉の情や絆は、決して筆者がその土着の宗教と一体化した家の一員となる決定的な要因とはならなかった。むしろ、それを断ち切ってでも、獲得せねばならない、より高度で重要な課題が現れ、筆者は彼らのもとを立ち去らねばならなくなったのである。

そして、今、「家」を代表する人が、筆者の目の前で、衰えて、子孫に道を譲ろうという段階になって、その人が、筆者に頼みごとをして来ている。だが、筆者は、それを簡単に受けるわけにはいかない。

肉における地上的存在としての筆者への頼み事なら、情によって引き受けることは可能であろう。しかしながら、主の御名を使って、キリストを通して神に願うとなれば、それは安易に受けるわけにはいかないのだ。

筆者が神に願うことができるのは、人の魂が救われて神に至ることであり、それ以前のどんなレベルの要求でもない。そして、人が救われて神に至るためには、しばしば、らくだが針の穴を通るように、その人が苦境を通らねばならないことを筆者は知っている。苦しみを軽減してほしいという人間の願いがどんなに大きなものであっても、しばしば、神はあえて人の信仰を試すために苦しみを用いられることを、筆者は実際に幾度も経験して知っている。

だから、主イエスが祈られたように、「できれば苦しみを私に与えないで下さい。けれども、たとえ苦しみがあっても、私は本当の神と出会うこと、本当の神がご自身を私に示して下さることを願います」というのであれば、それは筆者にはとてもよく分かる祈りであって、協力することは可能であり、そのような祈りを神が聞いて下さらないことはないと思うのだ。
 
人が神を知るために、地上で何の思い煩いも悩みも苦しみもなく、孤独にも迫害にも対立にも遭遇せず、本当の神を知りたいという祈りも探求心も持つことなく、ただ自分にとって喜ばしく心地よいことだけを体験しながら、何一つ地上的利益を手放すことなく、同時に、真理を知って神に至ることができるとは、筆者は全く考えていない。そのような救い、そのような信仰があると言う人がいたとしても、それを本当だとも思わない。

まことの神に至りつくために、苦労があるだけではない。まことの神を知れば知ったで、そこから、この神だけに従うための戦いも始まる。

その代価を自ら支払っていない、もしくは、支払うつもりのない人間に対して、救いだけを安易に投げて寄越す(約束する)ことは、神を軽んじることであり、神の救いを曲げることであり、筆者には、それは決してできない相談なのであった。

だが、死を間近にして、苦しみを逃れたいと懇願する人に、そのように返答すること自体、「おまえの宗教は何と残酷なのか」と受け取られるきっかけになりかねない。地上の肉親の情や絆だけをすべてとする人々には、この言い分は容易には理解できないであろう。そのように誤解される危険を十分に理解した上で、それでもなお、そのようにしか返答できないのである。

それは、筆者自身が、この神に従うために、この神だけに従うために、払い続けて来た代償を知っていればこそであった。他の「神々」にすがりながら、同時に、キリストの救いや慰めも欲しいと主張するのは、心の分裂でしかない。それは、夫以外、妻以外の幾人もの愛人と浮気を重ねながら、夫の愛、妻の愛も欲しい、私は伴侶を愛しているとあくまで言い張るのとさほど変わらず、神への貞潔さが欠けているのだ。だから、どうしても、まことの神に至りつくためには、その人の心の中に、激しいまでの純粋な願い求め、「正真正銘、本当のことだけを私は知りたい。嘘はもうたくさんだ」という思いが、なくてはならないのである。

筆者は、親族の抱える内心の問題を、親族が直接、神に願い求めるよう促し、まことの神はただ一人しかおらず、「神々」は存在しないのだという事実を告げた。そして、厳しいようだが、もし生長の家の教えが真実だったならば、今の現実(病)そのものが存在していないはずなのだから、この結果を見れば、この宗教の教えに、人を救う力がないことは明白ではないかと告げた。だから、もし救いを与える力がないのであれば、その教えは間違いであったことを認めて、本当の神を知りたいと望み、悔い改めて神に立ち返りさえすれば、神ご自身がその願いに応えて下さるはずだと。

キリスト者になったから、死なないと言うつもりはない。だが、私たちは、病を幻想として否定して、死を否定するのではなく、死と正面から向き合った上で、キリストがすでにこの最終的な敵である死を滅ぼされてことを信じている。キリストと共に死ぬならば、キリストと共に復活することを信じている。もしキリストの贖いを信じれば、その人は永遠の命を受けることができ、その命によって、死んでも、主と共によみがえって生きることができるのだ。
  
だが、筆者は、それ以上の説得を行わなかった。後は神と本人との対話である。たとえ苦しみを軽減したいという願いがきっかけであったとしても、他の神々のすべてを捨ててでも、本当の神に願い求めたいという強い気持ちが、本人に生まれるのならば、神が応えて下さるであろう。だが、今までの人生を振り返って、自分がすがり続けて来たものに、自分を救う力はなかったという現実に直面する勇気が本人にあるかどうか、自らまことの神を探し求める気持ちがあるかどうか、それは本人の意志と選択なのであって、もし本人にその希求がなければ、これはどんなに理屈が揃っていても、他者が強要したり、説得したりできるものではない。

そして筆者は、あまりにも親族が色々なものにがんじがらめにされているのを傍観しながら、もしそのようなこと(キリストへの信仰)が仮に親族の中に生まれたとしても、それはきっと想像を絶するほどに激しい戦いを巻き起こすだろうと思わずにいられなかった。

だから、筆者は、それ以上の領域に踏み込み、立ち入ってまで、本人の望まないことを、説得によって押しつけることで、人の意志を無理やり変えようとは思わない。だが、そのような状況で、筆者がずっとそこにとどまっていれば、かえって押しつけないという立場を悪用されて、筆者は情にほだされ、人が苦しまなくて済むことだけを最高の価値とする人間本位な教えに仕えさせられて行き、いずれ「死人を葬る」ことに助力させられてしまうであろう。しまいには、地縁・血縁の支配する土地で、他の神々を拝むことをも余儀なくさせられかねない。そうこうしているうちに、すでに後にしてきたはずのものに、すっかりからめとられ、引き戻されてしまうであろう。
  
おそらくは、キリストに属さない「霊」の狙いはこの点にこそこそにあるのだと思わないわけにはいかなかった。つまり、肉の情や義理を口実として、キリスト者をキリスト以外のものにがんじがらめにして行き、キリスト者の探求をやめさせることである。

だが、そんなことが今になってできるくらいなら、筆者はもともとこの土地を離れて移住することもなく、幼い頃から今に至るまで、この土地で何の問題もなく、親族らと共に、平和に幸福に満足して暮らしていたことであろう。自分も死んでいずれ仏壇に祀られ、神々の一人のごとく子孫に拝まれる対象となるという考えに何の違和感も持たなかったであろう。それらをすべて拒否して後にしてでも、向かわなければならない先があったのである。そこで一体何が打ち立てられたのか、どんな成果があるのか、未だ何もないではないか、と問われても、それでも目指さなければならない地が存在するのである。最終的には、それは見えない天の都である。
   
だが、そうはいっても、感覚的に慣れ親しんだ地上の故郷を後にするのは、人間的には常に断腸の思いであり、今回ほど、それが強く激しかったこともない。何しろ、客観的な判断としては、今の状況では、親族が他の神々を捨てて、まことの神の救いを心から求める可能性は極めて低いと言わざるを得ず、親族の救いを見ないまま、その地を後にすることがためらわれるだけでなく、筆者自身が、この血脈に支配される人間関係の中で、自分が決定的に「異質な存在」になってしまったことを強く感じるからだ。本当は、それはとうの昔に始まっていたことなのだが、それでも、筆者はまだ彼らにそれなりに受け入れられ、情による絆が強く残っていたため、この両者の間に横たわる決定的な違いを、筆者自身がそれほど体感していなかったのである。それが今、何かしら大きな節目を迎え、霊的な領域において、何かが断ち切られ、後戻りの道が閉ざされた。つまり、地上の故郷というものの欺瞞性が、もはや無視できないほどにまではっきりと筆者の目に見え、情による絆に、未だかつてない鋭いメスが入れられ、終止符が打たれたのである。

たとえどんなに長年の絆や、歴史があったとしても、どんなに強い情や義理で堅く結ばれていても、個人の救いというものは、他者がどうすることもできないほどまでに、極めて内心の厳粛な問題である。さらに、土着の宗教や地縁が深くものを言う社会で、このしがらみを脱することには非常に大きな犠牲が要求される。地上の肉による社会から受けられるすべてのメリットを捨て、そこから来る対立をすべて乗り越えるほどの強い信仰がなければ、このような環境で、キリストへの信仰は生まれようがなく、維持することも不可能なのだ。それは奇跡であり、人間の側からの激しい願い求めと、神の側からの強い介入なくしては決して生まれ得ない奇跡である。
  
さらに、筆者が思うことは、筆者が誰かにキリストの救いを語り、十字架の死と復活を語る時、筆者の心に溢れる感動や、喜びは、あくまで筆者自身のものなのであって、他の誰のものではないということだ。

筆者がかつて関東に移住し、エクレシアに連なりたいと願って、それを神に願い求め、神がこの願いを不思議な方法で聞き届けて下さった時、筆者の心には大きな喜びがあり、すぐさま信仰仲間とその喜びを分かち合えるのではないかという期待感があった。だが、それはあくまで筆者の信仰に、神が直接、応えて下さっただけのことであって、他者とは関係ないのであった。それは関東にいた信者たちがとりわけ素晴らしく、彼らが親交に値するから、筆者を彼らの中に投入することで、何かを学ばせようと、神がそういう出来事を起こされたわけでもなかった。ただ、筆者の心に生まれた願いがそれほどまでに強く、諦められないものであり、純粋な願い求めだったので、御言葉に基づいて、神がそれを叶えて下さった、というだけのことである。一言で言えば、その後、起きて来ることについても、その時と同じほどの強い決意を持って、探求を続けねばならないのであって、何もせず待っていさえすれば、何か素晴らしいことが起きるということは、絶対にないのであった。

筆者はしばしば、自分が感じている喜びや感動を、他者とも分かち合うことができるのではないかと期待する。神が筆者に与えて下さった素晴らしい恵みを、他者と分かち合おうと考える。あるいは、神が出会せて下さったキリスト者なのだから、これはきっと素晴らしい信仰仲間なのに違いない、などと安易に考える。ところが、神は、それは違う、とはっきり示される。

「私はあなたが私に求めたから、あなたが私を信じているから、それに応えているのであって、そこに他の人は一切関係ないのです。他者にはほとんどの場合、あなたが考えていることがほぼ全く理解できませんし、あなたと同じ恵みを分かち合うこともできません。どんなにあなたが喜びに溢れ、天に昇るほどの感動を覚え、御言葉の意味を悟り、この恵みをぜひとも他の人に伝えたい、他の人にも同じように解放されて欲しい、などと切に願っていたとしても、ほとんどの場合、それを受けとることができる人々の数は、あまりにも限られており、他者の心の状況はあなたとは全く違うのです。

たとえその人がキリスト者であっても、信仰があるから、あなたと同じ理解を共有できるということも、ほぼあり得ません。この点で、あなたに求められていることは非常に厳粛です。あなたはどんな時でも、他者の理解や共感や賛同を一切当てにせず、ただ私だけに聞き従い、私だけを見て、私の考えだけを探るべきであって、一瞬たりとも、他者との関係で自分をとらえ、他者の心の中で起きることに足を取られて、他者の顔色を伺うようになって、思うように良好な関係が生まれないと言っては自分を振り返り、後悔や反省に明け暮れたりして、自由を奪われるべきではないのです。

あなたが私の名による福音を語っても、人々が聞かず、あなたが手を差し伸べても、人々が拒絶し、あなたが仲良くなろうとしても、嘲笑や拒絶だけがかえってくることは往々にしてあります。さらには、ようやく純粋な信仰仲間に出会えたと思った瞬間に、その人が地上から取り去られるということもあるでしょう。

その時、あなたはいぶかしむでしょう、『このミッションは、神に祈り、願い、神が許されて起きたはずなのに、どうしてこんな不本意な結果にしかならないのか。私がどこでどう間違ったから、このような結果に至ったのか』

それを不本意だと思う必要はありません。もちろん、そのような結果にならないよう、願い求めることは有益です。しかし、動かせない結果が出たなら、それが人々の応答であり、また彼らの選んだ結末なのです。あなたを誰かが拒絶したとしても、それをあなたがまるで自分の責任のように感じる必要もありません。聖書の預言者のすべては、人々からそのように扱われたことを思い出しなさい。私の名で語れば、いつも人々から友好的な反応が得られ、私の名で語れば、人々に通じるということはまず絶対にないと思って差し支えありません。むしろ、人々は様々な地上的な理由づけを持ち出して反対して来るでしょう。しかし、あなたは人々の反応がどんなであれ、ただ私だけに従って来なければなりません。もし人々との間で望ましい結果が出るとしても、それはあなたが人々に良好で望ましい態度で関与をしたからではなく、ただあなたが私との間で自分の召しとして与えられた探求を決して諦めずに遂行し続けた結果でしかありません。」


人類の偽りの自己救済の努力としての労働の不毛性―一億総活躍社会という偽りの救済論と、プロテスタントにおける救いの代替物としての労働―

「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ7:21)

最近、ある会話の中で、プロテスタントのキリスト教界は、神が全く喜ばれない、呪われた場所へと変わっているということが改めて話題となった。信仰を持たない人間から見てさえ、プロテスタントで起きている出来事は、異様に見えているのである。

多くの一般人は、キリスト教に対して、決して悪い印象は持っていない。だが、教会となると話は別だという人も多い。キリスト教には好感を持ち、聖書の神には一定の敬意を払っていても、教会組織にだけは属したくないと考えている人たちの数は相当数に上る。そういう人たちは、現在、キリスト教界で起きている出来事を見れば、こんな組織だけには絶対に属したくないと改めて願うことであろう。

杉本徳久のような人物は、プロテスタントなしには決して登場することのなかった人物であると筆者は思う。このような人間が現れたこと自体が、プロテスタントの終焉を何より物語っているが、同氏が、長年、数多くのクリスチャンに対する迫害に及び、聖徒らを次々と泥沼の裁判に引きずり込んでは、神が贖われた聖徒らに有罪を宣告することを願い、クリスチャンの平和で穏やかな信仰生活を妨害して来たことや、また、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師が、教会を訴え、牧師を訴えては、クリスチャンの平和な信仰生活を妨げている様子を見ても、プロテスタントからは、すでに聖書の御言葉に従う生命の息吹きが消え去り、キリストの香りが消え去り、その代わりに、全く別な異質な霊が持ち込まれ、以前とは全く異なる別の堕落した宗教へ変質しつつあることが明白である。

筆者は、村上密牧師や杉本徳久を率いるものは、まさに「プロテスタントの霊」ではないかと考えている。杉本は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の出身で、とうにプロテスタントを去っていると言われるが、それにも関わらず、自ら去ったはずの「プロテスタントの霊」と未だ訣別せず、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の弊害とも訣別することができないでいる。そのことは、杉本が村上牧師の行って来たカルト被害者救済活動との訣別宣言を出すことができない事実に最もよく表れている。
 
こうした事実を見ても、筆者に思い起こされるのは、キリスト教界への批判が高まっていた2009年当時、「カルト二世」と呼ばれる人々が、信者の中に数多く出現していた事実である。これは一般に多くが団塊の世代の子供たちの世代に属し、リーマンショックなども経験して、当時、生きづらさを抱えていた世代であるが、その中でも、たまたま親がキリスト教徒であったがために、幼少期から教会で宗教教育を受けさせられ、そこで受けた誤った宗教教育がもととなって、大人になってから社会に適合できなくなり、思想的にも生きづらさを抱えることになったと自ら告白する元信者たちが相当数、現れた現象を指す。

当時は、そのような生育歴を持つゆえに宗教教育の歪みを理解する人々が、インターネット等でキリスト教界の現状を語り、一体、自分が受けた教育のどこに問題があったのか、なぜその宗教教育が誤っていると言えるのかについて考察していた。当時は比較的、冷静な議論が多く、キリスト教界の諸問題について、かなりあけっぴろげで自由な議論が穏やかに交わされていた。キリスト教界を断罪するためでなく、その弊害から抜け出すために何が必要であるかが、多くの信徒たちによって、穏やかに厳粛に論じられていたのである。

杉本のような人物も、まさに「カルト二世」というカテゴリーに当てはまると言えるのではないかと思う。要するに、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団によって、人生の決定的に重要な時代に、誤った思想を植えつけられたがために、この教団を出てもなお、誤った思想に苦しめられ続けている一人である。そうであるがゆえに、当時、自身のブログにおいても、激しいキリスト教界への批判を繰り広げていたものと思われる。

しかしながら、誤った宗教教育のために生じた苦しい状態から解放されるかどうかは、あくまで本人が自分に植えつけられた思想の誤りにどれくらい気づき、それとどの程度、訣別することができるかによる。

冷静な考察や、穏やかな分析により、教え込みの誤りに気づいて離れられた人たちは幸いであるが、それができない人々もいる。後者は、たとえ自分たちを束縛する偽りの思想を憎み、告発したとしても、その思想と手を切るどころか、むしろ、より一層、深くその道具となって生きることになる。

杉本徳久の生涯を通して、我々が見ることができるのは、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の理念の恐ろしさだけでなく、幼少期や青春時代にこの教団に関わった人々が、その理念の間違いに気づき、この教団を脱したとしても、それだけでは問題は終わりにならないという事実である。たとえ教団を出たとしても、この教団の理念や、教団の牧師の活動に依然として積極的に関わり続ければ、その人は、教団から出たことにはならず、たとえ他の宗教団体に去っても、誤った思想を引きずり続けて、その思想の手先となって生きるしかないのである。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に限らず、人間は誤った理念を持つ団体に気づかず接触してしまうことはありうる。問題は、そういう事件を100%防ぐことにあるのではなく(100%防ぐことは誰にもできない相談である)、その団体が誤っていると気づいた時に、そこに接近した自分自身の誤り、その思想に身を委ねた自分自身の誤りを認めて、その悪しき理念と本心から訣別し、それと二度と関わらないことを誓って、新たな人生へ踏み出すことができるかどうか、その一点にかかっている。

筆者は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を出た人間が、いつまでもこのような教団に関わり続けることに全く意味はないと考えている。そこから離れたならば、思想的にも、この教団とは訣別し、人生を穏やかに再スタートさせた方が良いであろう。

しかし、杉本徳久については、残念なことであるが、多くの人たちが指摘していたように、すでに引き返せる橋をとうに超えてしまったようである。それは同氏が数多くのクリスチャンを断罪する作業に自ら手を染めた時点からすでに判明していたことであるが、現時点では、同氏においては、聖徒らとの和解はもはや永久に不可能となってしまったという印象を筆者は受けている。

これは非常に恐ろしい厳粛な現実でもある。人の肉眼で見える対立は、ただ単に人間的な確執のようにしか見えないかも知れないが、そこにクリスチャンが関わっている場合には、その人間的な対立の背後には、必ず、霊的な対立が存在する。そこで、聖徒らに対して一線を超える罪を犯してしまった人間は、この地上だけでなく、永遠の領域においても、罪を赦される可能性を失い、生きているうちに神に立ち戻る道が永久に絶たれ、不可能となってしまうことが実際にありうるのだという実例を、同氏の例を通して見ることが出来るように思う。どんなに聖徒らが憐れみをかけたとしても、本人の中にもはや立ち戻る道が絶たれてしまっているのである。

神が贖われた聖徒らに対してどういう態度をとるかは、その人が神に対してどういう態度を取っているのかをはかるための重要な指標である。聖書は、兄弟姉妹を愛せない人間が、神を愛することは絶対にできないと告げているからである。

「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」(Ⅰヨハネ4:20)

そこで、聖徒らを裁判に引きずり込んでは罪に定めることに血道を上げるような行為は、まさに、神に対する愛の全くない人間だけが取り得る行動であると言える。そのような願望を抱くこと自体が、キリストの御霊とは程遠い、神から来るのではない別な霊、しかも、クリスチャンを大々的に迫害した皇帝ネロの霊、「兄弟たちを訴える者」と同じ霊の持ち主だけが可能な行為である。

だから、そのような願望を積極的に抱く人間が、聖徒らとの和解の道を失い、ますますキリストの十字架に背を向けて、「キリスト教徒の迫害者」になって行くのは必然的な結果なのである。

そのような恐るべき欲望の持ち主は、キリスト教徒を罪に定めようとして、常に「クリスチャンが世を冒涜した、世人に対して脅威をもたらした」という口実を持ち出すが、聖徒らを罪に定めるための彼らの試みは決して成就せず、成功しない。

なぜなら、永遠に変わらない聖書の御言葉においては、世人の心証を害することが罪なのではなく、神の御言葉に逆らうことこそ、罪と定められているからである。

聖徒らは、キリストと共なる十字架を通して、バプテスマの水の中に沈み、世に対しても、悪魔に対しても、自分自身に対しても、死を帯びている存在である。聖徒を弁護するのは、キリストご自身である。

だから、我々、聖徒らに立ち向かう人間は、肉眼で見える我々自身という人間に立ち向かっているのではなく、神ご自身に立ち向かっているのである。聖徒を告発する者は、信じる者を贖われた神の義に自ら立ち向かっているのである。そうである以上、そのような人間は、永遠に神が変わらないものとして定められた契約である聖書の御言葉に逆らっているのであり、その結果として、必ず、キリストの十字架に敵対した報いとして、滅びだけが待ち受けている。彼らにはもはや弁護の余地は存在しない。

ところで、坂井能大氏、山谷少佐については、Dr.Lukeの支援を受けていたことが、彼らの致命的な弱点となったと筆者が理解していることはすでに述べた。

Dr.Lukeのキリスト教批判を聞いて、同氏が本心から、キリスト教界の制度的な腐敗を嘆き、これを糾弾し、訣別を唱えているのだと誤解した人々は多かったものと思う。しかし、同氏の批判は、結局は、村上密牧師の被害者活動と同じく、キリスト教界の繰り広げる出来レースの一環に過ぎなかった。

Dr.Lukeは自らパスタ―を名乗っていたのだから、牧師と同様の存在であり、その意味で、同氏率いるKFCは、どんなに口ではキリスト教界を批判していたとしても、実際には、牧師制度を取るキリスト教界の一端に位置する組織でしかなかったのである。

KFCは、信者たちに向かってキリスト教界からのエクソダスを唱えていたにも関わらず、自らがキリスト教界をエクソダスしていなかった。そこで、そのような二重性を帯びた立場から、キリスト教界を告発しても、それが真に迫真性を帯びた主張とはならず、そのような方法で、キリスト教界に戦いを挑んでも、勝利することが、土台、不可能なのは目に見えていた。

キリスト教界をエクソダスするとは、牧師制度と訣別することと同義である。KFCだけではない。ゴットホルト・ベック氏の集会のように、キリスト教界を批判しながらも、結局、特定のリーダーの下に強力な牧師制度を維持し、キリスト教界と根本的に変わらない組織を築いているのでは意味がない。それでは、キリスト教界を出たことには決してならず、彼らの唱えるエクソダスや、キリスト教界への批判も、結局は、有名無実のスローガンにしかならない。

筆者は、今やキリスト教界をエクソダスせよ、という表現ではなく、プロテスタントからエクソダスせよ、と言った方が正確ではないかと考えている。プロテスタントは、すでに霊的に終焉を迎えており、ここからはキリストの御霊に息吹かれた新たな信仰復興運動は、決してもう二度と出て来ることはないと確信している。

プロテスタントは当初、ペンテコステ運動のような過激な霊的運動を警戒していたが、ペンテコステ運動が拡大して信者が増えるにつれ、結局、これを受け入れざるを得なくなった。その上、エキュメニズムを通して他宗教にも寛容な理解の手を差し伸べており、こうして教義的に妥協に妥協を重ね、聖書から遠い理念を提唱する団体となった。

その上、自身が統一教会の出身者である村上密のような牧師たちが、統一教会からの信者の半強制的な脱会活動を行って、彼らをキリスト教に改宗させたことにより、プロテスタントには、統一教会からの信者たちが数多く流入し、異質な影響力がもたらされ、そのような活動も、ここ十数年の間で、教界の変質を加速化させる大きな要因となった。

牧師制度の弊害、教会成長論などに見えるような教義の誤り、異端化に加えて、カルト宗教からの信者奪還運動が繰り広げられたことにより、また、それと並行して、問題や悩みを抱えて行き場を失った社会的マイノリティへの支援活動に重きが置かれたことにより、プロテスタントには、カルト宗教の霊が公然と持ち込まれただけでなく、この世の諸問題も雪崩を打って押し寄せ、この宗教全体が、聖書に基づく、神を中心とした、平和な信仰生活の場ではなくなり、人間を中心とした、この世の諸問題に対処するための「病院」のようになり、あらゆる点で問題の宝庫となって、聖書からますます遠ざかり、聖書とは異質な宗教へと変質して行ったのである。

今となっては、この教界は立ち直り不可能であり、平穏な信仰生活を送るためには、信徒はここを出るしかない。牧師制度の中に身を置きながら、キリスト教界を批判しても無駄であり、平和な信仰生活を送るためには、信者は「アカンの外套」になりうる一切の持ち物、つながりを断ち切り、プロテスタントそのものを出るしかないのである。

* * *

筆者は最近、プロテスタントの以上のような問題点は、資本主義の弊害とも密接に関わっているのではないか、という確信を持つようになった。そして、この問題を考えるにつれて、プロテスタントとは、ひょっとすると、最初から、何か空恐ろしい、根本的に聖書に反する問題を内に含んでいたのではあるまいか、という疑念が生じてならないのである。

現在、世界各国においてだけでなく、日本においても、資本主義は末期状態に陥っており、日本の労働市場は閉塞感にまみれ、社会主義国であったソ連における強制集団化の時期のような悲惨な状態へと転落しつつある。

我が国の労働市場の現場は、悪化の一途を辿っており、搾取、騙し合いがますます横行し、人間性がますます失われ、人間を生かす場所ではなく、排除する場所、殺す場所へと変わって来ている。

我が国は、年長者が年少者を搾取し、食い物にするという形で、ようやくこれまでの繁栄を維持しているが、労働市場には、この悪しき弱肉強食の異常な関係が凝縮された究極の形で現れている。

日本の若年者たちは、学校を卒業して社会に出ても、正規雇用にありつけるのはほんの一握りであり、それが出来なかった者たちは、生涯、低賃金で将来の希望のない仕事をずっと続けるしかない状態に置かれている。若年者に限らず、非正規雇用の者たちはますます苦しい状況に置かれ、未来への展望が何も描けないでいる。外国人実習生のような人々は、奴隷制と呼んで差し支えない苦役にあえいでいる。最近では、政府は年金削減のために、老人を死ぬまで働かせることを考えており、生きている限り、国民が労働から解放されることがないような社会づくりに知恵を絞っている。

このように、我が国は、表向きは労働を賛美する社会主義国ではないにも関わらず、社会主義国と同じように、全国民に労働を強制する異常な思想に憑りつかれており、そのような文脈における労働の概念は、正しいものではなく、人間性を貶め、歪める誤った思想でしかない。

そのような意味で、我が国における労働は、もはやただ単に人が働いて身を立て、家族を養い、普通の暮らしを維持するために不可欠な活動ではなくなり、誤ったイデオロギーに基づく、人間同士の騙し合い、搾取のし合い、人間性の貶め合い、弱肉強食の肯定・強化という、極めて不健康で、悲劇的な、社会に地獄絵図をもたらすような恐ろしい概念へと変わり果てている。

そこで、なぜそのような現象が起きるのかという問題を追求していくと、結局、労働の本質とは何かという問題に突き当たらざるを得なくなり、筆者の分析においては、その問題は、そこからさらに進んで、プロテスタントのキリスト教界における奉仕と献金という問題につながり、最終的には、プロテスタントが本質的に抱える教義的な欠陥へと行き当たるように思われてならないのである。

マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、今でもこの点に関して、プロテスタントの本質に鋭い光を当てていると言えよう。

本書は信仰的な観点から書かれたものでないため、筆者はこれまであまりその論に注意を払わず、また、日本のような非キリスト教国に、上記の論理をどの程度、当てはめることが可能であるかについても、疑問であったが、最近、プロテスタントと資本主義との関係性を、批判的な文脈で振り返るに当たり、この書は実に多くの点で、謎解きのヒントを与えてくれており、考慮しないわけにいかないと思うようになった。
 
この書でも指摘されているように、プロテスタントにおける「救い」の概念は、非常に不確かな、非人間的と言っても良いほどまでに、不安定なものであり、プロテスタント独特のこの救済観が、資本主義の発展の原動力となったのだという指摘について、これを今日の我が国における労働との関係性にあてはめて、改めて考察してみる必要があるように思う。

ウェーバーが上記の書で言わんとしていることの中核部分は、かなり荒っぽく要約すれば、次のようになるだろう。

「プロテスタントにおける救いの概念は、一般的に、信者が、自分に対する神の救いが本当に確かなものであるのか、自分が本当に神に受け入れられ、救いを失っておらず、神の国の住人として、いのちの書に名が記されているのかどうか、死後の神のさばきの時が来るまで、信者本人にも本当には分からず、生きているうちに内的確信を得ることができないという、極めて不安定な概念である。

このような不安定で(非人間的な)救済観が、プロテスタントの信者たちに、自分は本当は救われておらず、神に拒まれているのではあるまいか、そもそも神が分からず、神の御心が何なのかも分からないという、生涯に渡る恐怖を抱かせるのは当然である。

そこで、プロテスタントの信者たちは、こうした恐怖から逃れるために、絶えず、行動に駆り立てられる。彼らは、自分が確かに救われているかどうか分からないからこそ、自分が救われた者であることを社会や自分自身に証明しようと、熱心に禁欲と労働に励み、贖われた人間にふさわしい模範的な生活を送る努力をしたのである(=絶えざる自己吟味と現世生活の合理化)。

この点において、カトリックとプロテスタントの間には隔たりがあり、カトリックにおいては、信者たちは、教会内で宗教行事に励んだり、聖職者に教わることで、自分が神に救われている者であることを証明しようと努力する一方、世俗の生活は(教会生活のつけ足しに過ぎないもののように)重視されなかったが、プロテスタントの信者たちは、教会を離れた世俗の生活にも、教会と同じほど重点を置き、世俗生活において禁欲と労働を通じて、天職を全うすることで、キリスト者の召しを積極的に果たすことができると考え、こうして、神に贖われた「新しい人」としての模範的生活を客観的に証明することが、信者の使命であるとみなしたのである。こうして、プロテスタントは、世俗における生活をも、教会生活と同じほど重要な信仰生活の実践の場ととらえ、熱心に労働に励み、利潤を生むことを、信仰生活と何ら対立しないものとみなした。

禁欲は、言い換えれば、世俗生活の合理化のことであるが、それは信者が自己を吟味することによって、神に喜ばれないあらゆる不徳なものを徹底的に自分の生活から捨てて行く一方で、神に与えられた召しに合致するものだけを残して行くことを意味する。

だが、信者にはそもそも自分が救われているかどうかがよく分からず、神の意志も分からないので、自己吟味とは、「おそらく自分は救われているのだろう」という前提のもと、「おそらく神が喜ばれないであろう」と想像されるものを自ら捨て、「おそらく神が召しておられるのだろう」と想像される職業に邁進することで、神に喜ばれようという努力を指す。

こうして、プロテスタントにおいては、信者が自己の(本当にあるかどうか分からない)救済を維持するために、絶えざる自己吟味と禁欲、社会奉仕活動による生活の合理化を行なうことが信仰生活の大前提のようになり、その結果、修道院生活の規範が、世俗の生活に公然ともたらされたような具合となった。

その結果、信者が内心の恐怖から逃れるために行った熱心な禁欲と労働が、資本主義の発展を促し、社会に経済発展がもたらされた。

つまり、極言すれば、「神が分からない。自分が本当に神に救われているのかどうかも分からない」というプロテスタントの信者たちの内心の恐怖と不安、そこから逃れるために、彼らが労働を通じて社会に奉仕し、自分が救われていることを客観的に証明せねばならないと考えた強迫観念が、資本主義の初期の発展の原動力となって行ったのである。」

筆者は、ここでカルヴァンの予定説などに深入りしてプロテスタントの救済観について詳しく議論するつもりはないが、実際に、プロテスタントの一般的な救済観は、今日に至っても、まだなお、ウェーバーが指摘した状態から大きく外れていないように思われる。

クリスチャンとは、本来、神を見いだした人々から成るものと考えられるため(筆者もそう考えている)、実は、神を見いだせず、自分が救われているかも分からない信者が、クリスチャンを名乗る人々の大半を占めるのだと聞けば、世人はさぞ驚くことであろう。
  
だが、それが実際なのであり、もしそうだとすれば、そのようなプロテスタントの救済観は、聖書の提唱する救いに本当に合致するのだろうか?という疑問が生まれる。 そのような不確かな救いの概念しか持たない者を、果たして、クリスチャンと呼ぶべきなのであろうか。

プロテスタントの信者であるかどうかを問わず、クリスチャンが、「自分は神が分からない。神に救われているかどうかも分からない」という状態に陥っているとしたら、それは極めて異常な事態であり、そのような人々を「クリスチャン」とみなすこと自体に、相当に無理があるのではないかと筆者は考えている。
 
「信者」と呼ぶからには、その人間に信仰がなくてはならないが、自分が救われているかも分からない人たちは、果たして、何を信じているかも分からない人々である。自分が神に救われているかどうかも分からない状態にある人々を、「信者」と呼ぶのは適当であろうか。

人間には、自分を本当に救ったかどうかも分からないような不確かな神を信じ、そんな不確かな救いしか提供できない「神」を生涯に渡り、心から愛し、仕えることが可能なのだとは、筆者にはどうにも信じられない。だから、自分の救いさえ、本当にあるかどうか分からない人々は、神を信じている人々の概念に該当せず、彼らの「神」と彼らが、何によってつながっているのかも不明である。 

しかしながら、プロテスタントでは、救いの確信が内側になく、「神が分からない。自分が神に救われているかどうかも分からない」という状態は、極めて信者にありがちな、一般的な状態なのであり、そういう事情は、今日になっても、変わらない。いや、むしろ、そのような異常状態にある信者こそ、プロテスタントの平均的な信者像であると言える。

だから、筆者はそのような不確かな確信しか信者に与えることのできないプロテスタントの救済観を、全く正常なものとはみなしておらず、そこで、ウェーバーが、そのようなプロテスタントの教義とそこから生まれる精神を、資本主義の発展と結びつけて論じているのは、結局、プロテスタントの誤った救済観が、資本主義の発展の最初の原動力となったと言っているのと同じであると理解している。

つまり、ヨーロッパ諸国における初期の資本主義の発展は、プロテスタントにおける誤った救済観がもたらした結果であり、そうである以上、その発展は、発展という言葉が持つ、一見、輝かしい、喜ばしい響きとは裏腹に、そこに流れる思想的弊害は、必ずや、何かの恐るべき形で実を結ばざるを得ないだろうと考える。それが、今日、労働の悪なる本質として現れていたとしても不思議ではないのである。

さて、上記の書から、筆者に理解できるのは、自分が本当に救われているかどうか分からないという不安ゆえに、プロテスタントの信者たちは、絶えず労働に邁進し、社会貢献することで、自分が善人であることを世にアピールせずにいられないという一種の強迫観念に陥っていたことである。

こうした事柄は、当ブログでずっと述べて来た問題と重なる。要するに、「神が分からない。自分が神に救われているかどうかも分からず、罪が赦された確信もない」という恐怖が根底にあればこそ、プロテスタントからは、カルト被害者救済活動やら、ホームレス伝道やら、マイノリティへの救済活動といった、各種の社会奉仕活動が登場して来たのである。

つまり、自分が救われているのかどうか分からない不安から逃れるために、プロテスタントの信者は労働に励み、数々の社会奉仕活動を生み出して来たのである。

こうして、プロテスタントが生んだ社会奉仕活動は、カトリックの慈善事業に見かけはよく似ているが、その動機が決定的に異なる。

筆者は再三に渡り、プロテスタントの諸教会が繰り広げる社会奉仕活動や、マイノリティへの支援活動は、隣人愛に基づく活動ではなく、そもそも自分自身が罪赦されたという実感を持てない「信者」たちが、自らの心の内側にある払拭されない罪悪感を解消するために行う贖罪行為であり、彼らは自分よりもはるかに哀れな境遇にある弱者を探して出して来ては、彼らの状態を改善することにより、その弱者の姿に自分自身を重ねて、彼らを救うことで、自己救済をはかろうとしているのだと述べて来た。

つまり、プロテスタントの社会奉仕活動は、根本的に救いの確信を得られない信者たちが繰り広げる終わりなき贖罪行為であり、彼らが自己の罪悪感、不安、恐怖から逃れようとして強迫観念に基づいて生み出す活動なのである。

だから、そのような社会奉仕活動に従事する信者たちが、さぞ立派な人々だろうと考えるのは間違いで、むしろ、そのようにして熱心な社会貢献を目指さざるを得ない信者たちのほとんどは、信者を名乗っているにも関わらず、教会の中で、神に出会うことができず、救われてもいない世人のもとで神を探すしかないほどまでに、救いの確信がなく、内心では絶望している人たちである。彼らは自分が贖われたという実感を持てないからこそ、不信者への奉仕活動を通して、自分の正しさをアピールし、不信者たちの間で神を見い出せない絶望感を薄め、自己を慰めることしかできないのである。

そのように、自己の救いの確信がないがゆえに、絶えず不安に脅かされる状態、自らの信仰生活の中で真の満足が得られず、教会の外の世においてしか、神を見いだせる希望を持てないという転倒した心理状態は、プロテスタントでは、一般の信徒のみならず、牧師にさえ見られる一般的な状態である。

そうした文脈で、以前にも引用したホームレス伝道に励む奥田知志牧師の文章を、改めて引用してみたい。

神はどこだ。どこにおられるのだ。」 こんなことを考えている人間が、牧師になることなどできるのか。しかし結局のところ、私が牧師になったのは、生涯を通じてこの問いの答えを探すためである、としか言いようがない。それが、牧師になった理由なのだ。答えは今もはっきりしないしかし、混迷がさらに深まる今日の社会において、「神はおられる。いてもらわないと困る」という思いはますます深まり、「神を探す」日々はより忙しくなっている。

牧師というものは、何かを悟った人ではないだろう。もちろん、すでに神を見いだしている人でもない信徒も牧師も厳しい現実のなかでもがいており、ただ聖書を頼りに神を探しているのだろう。「神はどこにおられる。」それは、私たちの人生そのものの問いであり叫びなのだ。生きている限りこの問いを、問い続けなければならない。」
(『もう、ひとりにさせない』奥田知志著、いのちのことば社、pp.28-29)

 
奥田牧師のこの記述の中には、「自分は神が分からない。自分が本当に救われているのどうかも分からない」というプロテスタントの信者に共通する心の不安(=叫び)がよく現れている。
 
神を見いだせない人たちが、それゆえに、生涯かけて、神とは何かということを探求するために、教会生活に足を踏み入れていき、牧師にまでなるのだというのである。

だが、このような形では、どれほど探求を重ねても、彼らが神に出会うことはできず、答えが出ることもないであろうと筆者は考える。ただ生涯、神を見いだすための探求だけが続き、救いの確信は、ついに得られないまま終わるのである。

そうなるのは、彼らが神に出会うために、決して神ご自身に向かおうとはせず、絶えず人間の方を向いて、世の不信者の方を向いて、人に向かって自分の正しさを主張し、不信者の間で神を見いだそうと、見当外れな方向を探し求めているせいである。

筆者は、プロテスタントの信者がこのような状態にとどめ置かれていること自体が、極めて異常な状態なのだと思わざるを得ない。そして、そのような人々が、本当のクリスチャンであるとも考えていない。

自分は救われているかどうかも分からない不安を抱える人々が、信者であるだけでなく、牧師にさえなって、福音を知らない、自分よりもはるかに哀れな状態にある社会的弱者に助けの手を差し伸べ、その人たちと一体化して、彼らの生活の向上に喜びと恵みを見いだし、彼ら弱者の中に「神」を見る、それが、果たして、正常なキリスト者の信仰生活と呼べるのか? 絶対に無理である。

そのような形で、「神を見いだせない」不安に駆られ、世の方を向いて行く信者たちの姿は、ウェーバーが著書において指摘したプロテスタントの信者が抱える不安とまさに一致するが、ウェーバーの著書が書かれた時代、そのような信者たちは、自己の不安を、職業訓練に振り向け、労働に励み、自分の職業に邁進することで解消しようとしていたが、それが今日の時代には、労働のみならず、各種の社会奉仕活動、マイノリティへの支援などに結びついている。

しかし、表面的にどんな形態を取っていようと、これらの社会貢献活動は、みな根本的に同じ動機から発生したものであり、それらはすべて「自分が救われているかどうか分からない」という内心の恐怖から、信者が逃れるために生み出された模索(現実逃避)の過程なのである。
 
その探求は、神を求めるために行われているというよりも、むしろ、神が分からないという恐怖を紛らすために行われるアリバイ工作のようなものだと言った方が良い。

もしも真実、それが神を求めるために行われている活動ならば、その活動は決して人の方を向かず、見えない神だけにすべてを求め、神ご自身から全ての答えを求めるというものであったろうが、プロテスタントの信者たちの「探求」は、常に世の方を向き、社会に対する貢献に重きを置いて、人からの承認や賛同の中に、自分たちの信仰の正しさを求めようとするものなのである。

こう考えると、一体、プロテスタントとは何なのか、そこで唱えられる救済は、本当に聖書の神が提供する救いと関係があるのだろうかという疑問にまで辿り着かざるを得なくなる。

何よりも、プロテスタントの信者が、本当に自己の救済を確かなものとして、個人的に救いの確信を得たいならば、なぜ、彼らは神ご自身に向かわず、絶えず人間にばかり奉仕し、あるいは自己吟味に没頭し、常に神の目から見た救いの合格ラインではなく、人間の目から見た合格ラインにこだわり続けるのか、疑問に思われてならないのである。

そこには、何かしら重大な概念のすり替えがある。本来、神と信者との間で、信仰に基づいて個人的に結ばれるものである救いの確信が、神を抜きにした、人間の目で見て確かめられる一般的な承認や賛同という代替物に取り替えられているのである。

早い話が、神が信者に信仰を通じて個人的に与える救いが、社会貢献という、救いとは似ても似つかない代替物にすり替えられているのである。

信者が自己を吟味し、禁欲と労働に励み、社会貢献を果たすことによって、世人に認められる模範的な生活を送ることは、信者が神に受け入れられることとは、直接的に何の関係もない。それはすべてこの世の観点、人間の観点から見た活動であって、神の視点というものが徹底的に欠落している。

天職や、社会貢献という言葉は、魔法のトリックのようなものであり、人間が自分自身の状態を見て自己安堵するために作り出された幻想に過ぎないと言うこともできよう。人間の必要を満たして、人の目に認められ、社会に貢献し、自分の目から見ても、自分に合格点を出せるようになりさえすれば、神もきっと納得して下さるだろう思うのは、人間の側の独りよがりでしかない。信者が人間社会にどれほど奉仕してみたところで、それは神がその信者をどうご覧になり、どう思われるのかをはかる基準にはならない。

神の御思いを知るためには、神に向かうしかないのであって、社会にお伺いを立てても無駄なのである。信者がどんなに人間社会に配慮を示しても、その信者の心が神に向かわないならば、信者の信仰生活は無である。

そして、神がご覧になるのは、人の立ち振る舞いのうわべの美しさではなく、信者の行動の真の動機である。人の目にどんなに立派な行いをしても、その労働や奉仕が、信者の恐怖から、信者の自己満足・自己肯定・自己安堵を目的として行われているのであれば、そのような自己中心な動機で、神を喜ばせることはできない。自分のために行われた奉仕は、神のためではなく、御心にかなわず、神のために実を結ぶこともない。

それにも関わらず、プロテスタントの信者は、徹底的に神ご自身だけに向き合って、神から回答を得ることで、自己の恐怖を克服しようとはせず、むしろ、「神が分からない、救われているかどうか分からない」からと、神からはさっさと目を背けて、分かりやすい人間社会の方を向いて、人間の中へ埋没して行き、人間の只中で承認や慰めや安堵を得、これを神からの承認や賛同と取り替えようとするのである。

こうなった時点で、それはすでに信仰生活からの著しい逸脱である。だが、プロテスタントは、教義的に、もともと救いに関して極めてあいまいな重大な欠陥を抱えているがゆえに、信者たちは、その弱点を補強するために、世の方を向かざるを得ないという悪循環が続いているのである。

このような教義は根本的におかしく。そもそも、救われているかどうかという信仰生活の根幹に関わる重大問題が、死後になってしか分からず、神のさばきの座に立たされるまで、本人に分からないというのでは、一体、信者の地上生活は何のためにあることになるのか、甚だ疑問である。それでは、その信者の地上生活は、ただ刑の執行を待っている囚人と変わらないことになる。

こうして、あるかなきか分からない救いの確信を補い、自分は本当は救われていないかも知れないという内心の恐怖を克服するために、信者たちは、刑の執行を待っている囚人が赦免を求めるように、世に対する奉仕をにいそしみ、お勤めに励むことで、不安から目をそらし、神に受け入れられていないかも知れないという恐怖を、世からの賛同や承認を得ることで埋めようとする。そして、自分はこんなにも善人として模範的に努力し、自分の利益を差し置いて社会に貢献しているのだから、その努力はきっと神も認めて下さるはずだと自己を慰める。

だが、そういう外側の努力が、内側の確信の欠如を補う日は決して来ない。神からの承認を、世からの承認に取り替える事は無理なのである。 

そのような信者の「社会貢献」は、救いとは何の関係もないものである。「義人は信仰によって生きる」という聖書の御言葉と、救いが本当か分からないがために地上の職業に邁進して社会貢献を果たすことで救いに近づこうという生き方は、まるで正反対である。

後者は、律法の義務を全うすることで神に受け入れられようとしたユダヤ教徒の努力と変わらず、贖われて、罪赦された人々の生き方ではなく、まさに罪ゆえに刑罰を待っている囚人が、自分の努力でわずかでも減刑されようと願う生活に他ならない。そんな地上生活は、神の召しを果たす場というよりも、囚人同士の慰め合いに近く、神のさばきに至るまでの地上の待合室で、恐怖から少しでも気を紛らしたいと考えている人たちが、互いに目くらましのために行う現実逃避に過ぎない。

だから、そのような観点から見るならば、プロテスタントの救済観は、初めから決定的に何かがおかしいのである。それゆえ、その決定的に異常な救済観がもたらす恐怖に基づいて生まれる各種の良さそうな社会貢献活動も、結局、決定的に異常な結果しかもたらさないのである。

筆者自身の経験について言えば、筆者が神とは何か、救いとは何かということを明確に理解したのは、プロテスタントの教会に関わるのをやめてからのことである。この教界を出て、教界とのつながりを絶って、誰の仲介もなしに、自ら聖書に接して、初めて、聖書の神ご自身がリアリティであること、キリストの贖いが永遠であること、信じる者に与えられた救いが永遠に変わらないこと、それがまさに自分自身に対する救いであることがクリアに見えたのである。そして、「神はどこにおられるのか」という問いは終結し、神はキリストを通して、信じる者の内側に住んで下さり、力強く御業を行なって下さり、必要な時に常に助け手となり、砦となって下さるということが分かったのである。

だが、だからと言って、信者は、確かにいつもいつも神の意志が自分に分かるわけではなく、神と直接結びついているという感覚的な実感を常に持っているわけでもない。感覚的には、パウロが、「ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。」(Ⅱコリント5:6)と述べている通り、人間の堕落した肉体の感覚は、常に人を神から引き離そうとする。信者は、地上で様々な問題が持ち上がる時などには特に、神が遠くにおられるように思ったり、神が何を願っておられるのか分からない時もあり、神に見捨てられたのではないかとさえ思われる瞬間もある。

だが、そういうものはあくまで信者の地上の幕屋としての肉体の感覚、この世の影響が感じさせることであって、信仰とは関係ない事柄である。信仰は、そのような表面的な感覚よりも、もっと深いところで感知されるものであって、一見、かすかな実感に過ぎないように思われても、信者の内側で、深く持続的な、変わらない確信をもたらす。だから、信者の心の内側では、外側で何が起きようとも、表面的な感覚や印象に関係なく、救いの確信は決してなくならず、神が生きておられ、自分を贖って下さったことへの確信は変わらないのである。信者は不安に駆られても、その不安の分だけ余計に、神に助けを求めて祈ることができ、神が確かに応答して下さることを信じて待つことができる。だから、この世で起きるどんな事象も、信者を神から引き離すものとはならない。

こうして、信仰に基づく自らの生涯を通じて、信者は神が確かに生きておられ、あらゆる場面で信者を守って下さり、自分が確かに神の愛する子供として神に受け入れられ、愛され、助けられていることを実践的に確かめることができるのである。どんな人生の嵐に見舞われようとも、いつまでも不安の中に取り残されることなく、まして、神が分からないとか、救われているかどうか分からないといった不安の中を堂々巡りしてさまよい続けることはないのである。

ところが、プロテスタントにおける救済観は、これとは全然違うものであって、そこにいるほとんどの信者たちは、自分が救われたかどうか、内的確信を持っておらず、どんなに教会生活を続けても、神に出会うことがない。ただ学校で教科を教わるように、キリスト教の教義を学ぶだけである。自分は神を信じている、とどんなに思っても、その信仰が、現実生活における力とはならず、信者を変える力ともならず、そして、ウェーバーが述べたように、信者たちは、自分が救われているかさえ分からないという不安ゆえに、社会において労働に励むだけでなく、教会生活をもそのような観点から行う。

自分が救われているかどうか分からないがために、信者たちは熱心に教会に通い、牧師の説教を聞いて自分の行動を正し、奉仕と献金に励むのである。そのような精進の果てに、自らの「霊性」を高め、神に近づくことができるかのように、彼らは錯覚している。そのような信者たちは、この世における労働も、教会に献金を払うために行う。彼らは、そうした熱心な努力によって、自分の信仰の正しさを客観的に証明することをやめて、教会を離れてしまえば、自分は悪魔の餌食となって、救いを失うだけだと思わされており、絶えず恐怖に駆られているのである。

このように、プロテスタントの信者は、禁欲と労働だけでなく、教会生活すらも、恐怖から行っている。救いの確信が内側にないからこそ、それを教会への所属という目に見える地上的な代替物に取り替えようとするのである。そして、教会への所属を失うことを、救いを失うことと同一視し、所属先を失いたくないがゆえに、熱心に世でも労働に励み、献金と奉仕の源を得る。だが、いつまで信者が努力し、奉仕と献金にいそしんでも、目に見える地上的な保証は、目に見えない天的な保証とはならない。地上の教団教派、教会組織に所属しているという信者の立場が、信者の内側で、救いの大胆な確信へとつながることは決してなく、どんなに牧師の説教を聞いて自己吟味し、いつまで奉仕を重ねても、自分は救われたのだという確信がやって来ることはなく、清められた実感もなく、様々な問題、思い煩いから解放されることもない。まして、新創造に達したなどという確信が生まれることはない。だから、信者はあるかなきかの救いを求めて、ハムスターが輪の中を走り続けるように、ずっと教会への所属にしがみつき、奉仕と献金に励み続けるしかないのである。

このようなものは、神の救いの概念を悪用しただけの、何か空恐ろしいトリックであり、救いの悪魔的代替物だとしか筆者には思えない。人の目の前に、救いという幻想をちらつかせておいて、それを求めてやって来た人々に、決して救いを与えず、その偽りの夢の代わりに、彼らを永遠に馬車馬のように走らせて、奉仕と献金を提供する道具とするために作り出された偽りのトリックでしかないものと思う。

このように、プロテスタントにおける救いの不確かさという恐るべき教義的欠陥が信者にもたらす恐怖は、資本主義という体制を通して、非キリスト教徒にも無意識のうちに及んでいるのではないかと筆者は想像する。

我が国では、まるでプロテスタントの信者たちがそうするのと同じように、非信者も、労働を通じて、自己の正当性や価値を証明しようと、勤務先に熱心に奉仕する一方で、労働から除外されて、働く場を失い、所属先がなくなり、「社会貢献」できなくなれば、自分は人間でさえなくなるかのように思い込まされ、恐怖におののいている。

このようにして、絶えず人目を気にし、自分が社会からどう思われているのか、模範的に義務を果たせているのか、社会に貢献しているのか、価値ある存在として認められているのか、人の思惑ばかりをおもんばかって、人に良く思われ、自分には所属先(居場所)があると誇って、自己安堵するために、終わりなき奉仕にいそしまざるを得なくなっているこの世の人々の姿は、まさに救いが分からないがゆえに教会への奉仕と献金をやめられなくなっているプロテスタントの信者の姿にぴったり重なる。

救いの確信がないがゆえに、それを教会籍と取り替え、存在しないかも知れない救いを維持するために、絶えず奉仕と献金を行なっていなければ安堵できない信者の姿と、自己価値が分からないがゆえに、企業や団体などの地上の所属先から承認を受け、その承認を維持するために絶えず奉仕を行なっていなければ落ち着かない世人の姿は重なる。

つまり、現代においても、信仰を持たない非キリスト教徒でさえ、プロテスタントと同様の精神に毒されており、労働は恐怖から行われるのであって、人々は、労働し続けることでしか自己の救いを担保できないかのような強迫観念に絶えず無意識に追い立てられているのである。

そのような文脈における労働は、根本的に異常であって、それは本当の意味での他者への奉仕ではなく、また本当の意味で本人の幸福につながるものともならない。

これまでずっと述べて来たように、我が国における労働は、単なる労働の概念に当てはまらず、より深い意味がある。そこで言う労働とは、神に逆らって行われる、人間の偽りの自己救済の努力であって、人間が人間の力で自己肯定し、理想状態に達しようという、カルト的な偽りのイデオロギーに基づく、決して報われることのない努力なのである。それだからこそ、そのような文脈における労働は、根本的に呪われており、何の実りもたらさず、人間をただ不幸に追いやる効果しか持たないのだと筆者は言うのである。

それはちょうど、沈没船に乗っている人たちが、互いに「私たちは大丈夫、死ぬはずはない」と言って慰め合う風景のようなものである。船はまだ沈んでおらず、沈む気配もそれほど感じられず、船の中ではまだ平穏な生活が維持されている。ある人は甲板を磨き、ある人は食事を作り、ある人たちは子供たちの世話をし、談話に明け暮れ、舵を取る。そうして皆が互いに心地よく過ごせるために配慮し合って、互いに奉仕し合い、一見、まことに美しい、思いやりに満ちた風景が広がっている。

だが、そのようにして人々が互いに配慮を示し合い、仕え合い、認め合うことの本当の目的が、船の沈没という決定的に覆せない未来の事実を覆い隠し、そこから目を背けることにあるとすれば、彼らのその涙ぐましい努力は一切が無意味であり、悪であるとさえ言える。彼らがどんなに努力して、そこに生活の向上と発展をもたらし、弱い人々を助け、他者の幸福を支え、善良に高潔に振る舞い、互いを受け入れ合っても、その船が決定的に壊れており、やがては沈むしかないことが明らかならば、彼らの労働や奉仕の成果はすべて無に帰するのである。彼らの自己肯定は、自己否定へとつながるのである。沈みゆく船の上で、互いへの愛や、社会貢献度を誇り合っても、むなしいだけである。

むしろ、沈没船から一刻も早く脱出することこそ、救済であり、善であり、社会貢献である。沈没船上での生活を維持することが善なのではなく、その生活から人々を解放し、自分も解放されて、沈没船によらない新たな永続的な生活を打ち立てることの方が、緊急課題である。

だが、どういうわけか、沈没船の中にいる人たちは、絶対にそこを出ることができないと思い込んでいる。彼らは自由になるために、船が沈む前に脱出することを自らの義務とはみなさず、むしろ、自らそこにとどまり、破滅を選びながら、それまで通りの生活を送り、さらに生活を向上させることができるという偽りの夢にしがみついている。そして、「神は私たちを見捨てるはずはない、神は私たちを哀れんで下さる。ほら、私たちはこんなに恵まれているし、こんなに努力している。私たちの善良な努力は神に覚えられている。私たちは神に受け入れられている」と言い続けているのである。

彼らは一度も神の方を向いたことがなく、ただ人間に奉仕しているだけなのに、自分たちの人類への奉仕活動、社会貢献の努力を、神も認めて下さるはずだと思い込み、自分たちの奉仕を指して、神が自分たちを見捨てるはずがない根拠だと言い続けているのである。

要するに、彼らは、自分たちの努力を振りかざして、これをもって自分たちを義と認めよと、神に迫っているのである。

人間が己が労働を通じて経済を上向かせ、社会を発展させ、理想状態に近づけることができるという考えは、筆者に言わせれば、それ自体、神に敵対するイデオロギーであり、結局、沈没船に乗っている人々が唱える実現するはずもないユートピア理論と同じなのである。

その労働や奉仕は何のためのものなのか? 結局、人間が恐怖から目を背け、自己安堵するためのものでしかない。もっと言えば、人間が自力で己が罪を克服して、自力で新創造に達して、神を抜きに、自力でユートピア的理想社会に至りつくために行うむなしい努力でしかない。

そこには徹頭徹尾、神が不在なのである。個人的な救いの確信がなく、神が分からず、神を見いだせない人々が、互いに寄り集まって支え合い、集団的に自己肯定しようという、イチヂクの葉同盟、バベルの塔の試みしか存在しないのである。神はそのような人類の自己救済の努力をこそ、最も忌み嫌われ、退けられる。

だから、我が国が推し進めている一億層活躍なる概念も、結局、プロテスタントの教会の信者たちと同様に、自分が本当に救われているという確信のない人たちが、罪の意識と恐怖から目を背けて、自己肯定するためのに作り出された嘘のカラクリに過ぎないのである。

そのような自己救済の努力としての労働や社会貢献を通じて、人が自己の正しさを客観的に世に証明し、あまつさえ、これを神にまで認めさせ、それによって自ら救いにあずかり、新創造へ至りつこうという考えは、完全な幻想に過ぎず、絶対に実現することはない。

その願望は嘘であり、恐怖に基づく現実逃避でしかないからこそ、そのような努力としての労働は、やればやるほどますます人間を悪くし、不幸を増し加えて行くだけなのである。


兄弟たちを日夜訴える者の敗北――プロテスタントの終焉と、キリスト者の新しい時代の幕開け――

カルト被害者救済活動の自滅――兄弟たちを訴える者の敗北と、プロテスタントの時代の終焉――
 
「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためなのです」(Ⅱコリント5:20-21)

最近、筆者はキリストの義、キリストの贖いの完全性、永遠性というテーマを追求している。

キリストの贖いを通して、クリスチャンが受けた神の義は、この地上の生涯だけでなく、永遠にまで及ぶ。

キリストが十字架で達成された贖いの御業を通して、神が信じる者にお与えになった義は、この世のどんな事物や、どんな人間の思惑によっても、左右されず、信者の年齢、性別、能力、知識、経験などにも全く左右されない。

信者自身がこの尊い救いを自分自身で否定して退けでもしない限り、神が信者にお与え下さった義は、永遠に至るまで信者に適用されて、悪魔の側からのどんな訴えをも大胆に退ける根拠となる。

だから、たとえば、仮に共謀罪に類する法律が、この国で、100、200と制定され、訴える者たちが何百人、何千人集まって、信者を罪に定めようと協議しても、無駄なことである。

パウロは、キリスト者が神から受けた絶大な特権についてこう言った。

神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めて下さるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」(ローマ8:33-34)

「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。<…>

 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらのすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(ローマ8:35-37)


「圧倒的な勝利者」。これは信者にとって、絵空事や空文句ではなく、揺るぎないリアリティなのである。

だが、信者は依然として、見かけは弱く、取るに足りない人間にしか見えないことであろう。しかし、信者を勝利させるのは、外見的な強さではなく、信仰にあって働く神の力である。

だから、神がキリストを通して信者にお与え下さった義が、永遠に変わらない完全なものであることがこの地上で証明されるためには、あえて戦いは難しい方が良い。ダビデがゴリアテの前に立った時のように、エリヤがバアルの預言者たちの前に立った時のように、信者には、敵の訴えの前に立つとき、信仰以外の肉の武器は、できるだけ少ない方が良い。

こうして、己の権勢にも、能力にも、知識にも頼らず、ただキリストの御霊だけに頼るいと小さき者が、御言葉への信仰だけによって、激しい戦いを勝ち抜いて、勝利をおさめるのを見る瞬間ほど、キリスト者にとって光栄かつ爽快な瞬間はない。

肉の腕により頼んで、己の勝利を確信してすっかり自己安堵していた人たちが敗北し、キリスト者の神が、永遠に生きておられ、正義を持って右の手を動かし、信者を力強くかばってすべての訴えを退け、あらゆる危難から救い出して下さる方であることを知って、茫然自失するのを見るのは、キリスト者としては言葉に尽くせない喜びであり、そういう瞬間には、ああ、やっぱり、私はキリスト者になって良かった、と思いながら、神の御言葉の確かさの前に、畏れかしこみ、心から神に感謝を捧げ、神に栄光を帰するのである。

そういう瞬間が、筆者の人生には増えつつあって、大きな楽しみとなっている。

我らの神は、その名を不思議と呼ばれる方、どんな時にも信者と共におられる力強い助け主。神には対処できない状況は何一つない。

だから、信者が自分をどんなに力不足のように感じたとしても、恐れることはないのである。キリストが、信者のために、神の知恵、義と、聖と、贖いになられるからである。

「なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

 しかし、神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。

 また、この世の取るに足りない者や、見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。

 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。
 まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。」(Ⅰコリント1:25-31)

さて、信者がいくつもの戦いを経験し、その中で、神への愛と信頼をより深め、キリストの義、キリストの聖、キリストの贖いを自分自身のものとして受け取れば受けとるほどに、信者の心からは、恐れから去って行く。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」(Ⅰヨハネ4:18)

恐れは、罪の意識から生じるものであって、人が自分の罪や、未熟さ、不完全さのゆえに、報いとして刑罰を受けねばらないという予感がその根源なのである。

だが、神の愛の中に確信をもってとどまる信者は、罪意識とは無縁であり、恐れることなく、心を雄々しく、強く持っていられる。そのような信者は、もはや「兄弟たちを訴える者」である悪魔からの挑戦や脅しの前に、揺るがされることなく、大胆な確信を持って、御言葉を証言することができる。その確信は、やがて来るべき日に信者が神の御前で受けるさばきの時にも、大胆に立ちおおせる力を与える。

このように、キリストにあって神の目に義とされたという確信は、信者が信仰の道を進めば進むほど、より確かなものとなって行く。それにも関わらず、神が義として下さった信者を再び罪に定め、訴え、陥れ、滅ぼそうとするような者は、信者個人に挑戦しているのではなく、信者を贖われた神ご自身に挑戦し、神の国の秩序に挑戦しているのであるから、その者は、自分こそ罪に定められて滅びるであろう。

神が義とされたクリスチャンを再び罪に定めるという、悪魔的挑戦は、どんなにやっても無駄な骨折り損で終わる。それは神の定められた永遠に変わらない秩序を覆そうとする試みであるから、続ければ続けるほど、当人にとって不利益をもたらすだけである。

ところで、主の御業は、早い時にはとても早い。

先日、武蔵野警察から連絡があった。当ブログの読者であれば、これが何の件に関するものであるかは、説明するまでもないと思う。この地球上に、武蔵野警察経由で、筆者に連絡を試みて来るような人間は、たった一人しかいない。

それはかつて筆者を警察に訴えると言って息巻いていた杉本徳久氏である。同氏がどれほど筆者を提訴することを強く望んでいたかは、杉本自身の書いた文章からはっきり感じられる。

上記の文章も、ゴールデンウイーク中に送られて来たことを思い出すと、同氏はこの年末年始も、またしてもこの件に夢中になっていた可能性があるように想像される。

だが、武蔵野警察は筆者にはっきりと言った、杉本氏からの筆者に対する告訴は事件として成立しないと。

これは筆者の読み通りであった。筆者は、長年、このような事件に巻き込まれたせいで、それなりの下調べを行ったので、どうせこういう結末になるだろうと予想していた。それは上記の杉本氏の文章に対する返答の中でも書いた通りである。

しかしながら、筆者のその確信は、冒頭に書いた通り、何よりも信仰に基づく確信であり、神がキリストを通して筆者に付与して下さった神の義が、こんな程度の事柄で動かされるようなことは絶対にないという確信に基づいていた。

信者が、こんな程度の事実無根の脅しを真に受けて、信仰告白を自ら放棄しているようでは、キリスト者の名がすたる。

こうした事件は、信者の信仰を試すために、神があえて許されて起きているのである。神は、信者が脅しを真に受けて、自ら信仰告白を断念するかどうか、ご覧になる。

もしも筆者の信仰告白が、見ず知らずの、信仰さえあるかどうかわからない第三者の、根拠もない恫喝によって、簡単に左右されたり、放棄されるほどに軽いものであるなら、そんな程度の証は、初めからしない方が良いであろうし、神の名折れにしかならないその信者は、信仰者を名乗らない方が良い。

それほど不確かな救いの確信しか持っていないなら、そんな信仰は、生涯の終わりを迎えるまでに吹き消されるだろう。

そんな風に、自分を危険にさらしたくないばかりに、不利な状況になればさっさと信仰告白をやめて、神の栄光のために、自分を惜しんで働くことを厭う、無精で自己中心で臆病な信者は、来るべき裁きの日に、神に叱責を受け、そして、人前でイエスを拒んだ罪の報いとして、主イエスからも拒まれて、御国から除外されるであろう。

聖書によれば、おくびょう者を待ち受ける分は、「第二の死である火と硫黄との燃える池だけである。臆病者は神の国に入れない(黙示21:8)

臆病者は、神が自分に与えて下さった贖いの完全さを信じないので、悪魔に脅されれば、自分が贖われた者であることをあっけなく否定して、犯してもいない犯罪の数々を喜んで自白して、自ら世の罪人の軍門に下って行くであろう。そんな信者が、神の国に受け入れられることはまずありえない。自分で告白した通りに、罪人のまま死ぬであろう。

悪魔の嘘は、いつも最大限に膨らました風船ガムのようなもので、どんなに大きく見えても、細い針でわずかな穴をあけただけで、音を立てて弾け飛ぶほど、脆く、はかないものでしかない。あるいは、ナメクジのようなもので、塩をかけておけば、そのうち溶けて消え去る。もっと美しい表現が好みなら、シャボン玉と言っても良い。七色の光彩を放って、一時的には美しく輝くかも知れないが、次の瞬間にはもう跡形もなく消えている。掴むこともできず、痕跡すらも残らない。そういうものを真に受けて、これを揺るぎないリアリティだと思い込むのは、子供か、よほどの愚者だけである。

だから、武蔵野警察には、この機をとらえて、むしろ、筆者を口封じしたいと思っていた連中が、長年に渡り、どんなに卑劣で陰湿な方法を用いて筆者を追い詰め、断筆させようと数々の不法な嫌がらせを行って来たか、かなり時間をかけて仔細に説明しておいた。

警察も、根拠のない訴えを真面目に取り上げたりすれば、自分自身が逆に訴えられ、害をこうむる可能性があることは知っている。虚偽の事実に基づいて刑事告訴に及んだりすれば、訴えた人間だけでなく、その訴えを取り上げた警察も、一緒になって名誉棄損で訴えられる危険が伴うのだ。

昨今、スラップ訴訟という言葉が世間に普及するに連れて、カネや権力や地位や人数にものを言わせて、ただ恫喝によって自分に不都合な言論を口封じすることだけを目的に、何らの確たる証拠もなしに、自分よりもはるかに弱い市民を、法廷闘争に引きずり出しては、痛めつけようとするような人間は、相応の社会的制裁を受けてしかるべきだという考えが、世間に常識として広まり、定着しつつあるように見受けられる。

折しもちょうど良い頃合いで、DHCという巨大企業から、企業に不都合な言論弾圧を目的に、6000万円という高額なスラップ訴訟を起こされて、被告とされながらも、この闘いを耐え抜いて勝訴した弁護士のブログ「澤藤統一郎の憲法日記」のつい最近の記事「「ヘイト・デマ ニュース番組」の元凶・DHCとの闘いにさらなるご支援をー「DHCスラップ訴訟」を許さない・第99弾」(1月28日)にも、スラップ訴訟をしかけるような人間に対しては、その逆の損害賠償の訴訟を起こすことで決着をつけねばならないことが書かれている。

この記事を通しても分かるように、不当な訴訟に巻き込まれた人々は、ただその訴訟に勝つだけでは不十分なのである。スラップ訴訟にただ勝訴しただけでは、いわれなく被告とされた人々が受けたダメージを消すことはできない。彼らは、不当な訴訟をふっかけられて被告とされた年月の間に傷つけられた社会的名誉、受けた精神的苦痛、訴訟への準備によって奪われた時間、気力、体力などの全ての損失を、原告側から取り返すべきなのである。
 
そうしない限り、スラップ訴訟自体が、悪であり、しかけた人間にも、とてつもない損となって跳ね返ることを思い知らせる方法はない。こうしない限り、カネや権力にものを言わせて、言論弾圧のために、司法の場を悪用して、悪意ある訴訟を起こしたい人々の思いに歯止めをかけることもできない。

杉本徳久氏は、村上密牧師が鳴尾教会にしかけた、初めから勝ち目のなかった、ただ恫喝だけを目的とする訴訟にも、かなり深く関わって、村上サイドを支援して来た。その経過は杉本氏のブログに記されている。

だが、初めから敗訴覚悟で恫喝目的の訴訟をふっかけることは、非常に大きなリスクを伴うことであり、その訴訟を支援した者も、不利益を受ける可能性がある。つまり、村上密だけでなく、村上サイドを支援して、根拠なきデマを広めた人々も、一緒になって賠償請求の対象とされる危険があるのだ。

教会やクリスチャンは、この世の人々と違って、訴えると言われれば、すぐに怯えてひっこむか、あるいは、反駁して、不当な訴訟に勝っても、受けたダメージを取り返すこともなく、何の反撃もして来ない、羊のようにおとなしい人々だと、思われているのかも知れない。もしそうだとしたら、それは事実ではないので、考えを改めてもらわないと困る。

聖書は、悪魔を「兄弟たちを訴える者」と呼んでいる。それは、悪魔がいわれのない罪をおびただしく着せては、クリスチャンを告発することを稼業にしていることを物語っている。あらゆるスラップ訴訟は、まさに悪魔の精神から来るものである。

だが、同時に、聖書は、「訴える者」である悪魔を「ほえたけるしし」にたとえ、この「しし」の咆哮(根拠なき訴え)に、信者はきちんと立ち向かうよう警告している。

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさいご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。」(Ⅰペテロ5:8-9)

ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」(ヤコブ4:7)

「ほえたけるしし」のごとく、獲物を求めて教会をさまよい、咆哮によって聖徒らを脅かし、聖徒らを獲物のように捕まえては、泥沼の裁判に引きずり込んで見世物にし、虚偽の訴えによって傷つけ、苦しめるような不届き者は、獣のごとく捕獲されて、教会の外に追い払われるべきである。だが、それだけでなく、そのような者は、聖徒らに不当な打撃を与え、神の国を宣べ伝える教会の使命を不当に遅延させた罪の報いとして、相応の償いを要求されてしかるべきである。

だから、「ほえたけるしし」に脅かされた人々は、牧師であれ、信徒であれ、いわれなくこうむった損害に対して、黙っておらず、きちんと物申した方が良いであろう。そうしなければ、このような連中は、決してその咆哮をやめないからだ。

箴言には次のような御言葉もある。

罪人の財宝は正しい者のためにたくわえられる。」(箴言13:22)

クリスチャンの使命は、悪魔の不当な訴えを反駁して退けることだけにあるのではない。悪魔に「立ち向かう」姿勢が必要なのである。それは、聖徒が、神の義によって、自分自身の潔白を主張するだけでなく、神が贖われた聖徒を訴えた悪魔の有罪性を指摘し、悪魔の不当な打撃によってこうむった損失について、悪魔に補てんを要求し、ダメージを取り返すことを含んでいる。

悪魔から財産を没収して、悪事を働く機会を奪い、これを教会財産として、福音伝道という目的のために用いることは、神の利益にかなっており、罪ではない。

このように、敗訴覚悟でスラップ訴訟を起こすことは、今の時代、自滅行為でしかないのだが、さらに、訴訟さえ成立するかどうかも分からない段階で、気に入らない相手を恫喝して、黙らせるためだけに、「訴えてやる」などと脅しをかけるのは、それに輪をかけてたとえようもなく愚かな行為である。

だが、武蔵野警察は、杉本徳久氏が、相も変わらず、筆者を憎み抜いて、打撃を与えるために、警察にせっついているのではないらしいこと、明らかに、筆者を告訴するなどといった荒唐無稽な脅しは霧消し、むしろ、今は同氏が「早期解決を望んでいる」らしいことを伝えて来た。

特に、筆者に感じられたのは、杉本氏が、もうこれ以上、村上密や、他の牧師たちの仲間とみなされたくないと考え、村上の活動から手を引きたいと願っているらしい様子であった。おそらくは、杉本氏自身が、こんなむなしい反キリストの悪魔的精神に貫かれた聖徒らの迫害運動に関わることに嫌気がさして、それが自分にとってどんなに限りなく不名誉な損失であるかを理解したのであろう。そして、この活動に関わった記録を消し去りたいと望んでいるのであろう。

もしそうだとすれば、それは大変、歓迎すべき事実であって、筆者には反対する理由もないのだが、ただし、筆者としては、できもしない告訴その他その他の脅かしにより、8年にも渡って、脅され続けた年月に対しては、相応の責任は取ってもらうことが条件となる。

杉本氏とのトラブルは、そもそも、2009年の秋に、筆者がたった一件の自分の手で杉本氏のブログに投稿したコメントを削除してほしいと申し出たことをきっかけに始まった。この何でもない依頼をきっかけに、杉本氏は削除に応じるどころか、見ず知らずの筆者に向かって、削除を要求した理由が我慢ならないと、不当な因縁をつけ、それ以来、自分にとって不都合な言論を筆者が発表する度に、中傷や脅しや嫌がらせによって、次々削除を要求して来たのである。こうして、筆者が脅され続けた年月は、なんと今年で8年目を迎える。

約8年間という長きに渡って、できもしない告訴をちらつかされたり、個人情報をばらすと言っては脅されたり、誹謗中傷の弾劾記事を次々と書かれて冷やかされ、病気でもないのに人格障害だと言われ、重症のマインドコントロールを受けているとか、カウンセリングを受けているとか、人間関係についても虚偽の事実を流布され、社会活動をも、執筆活動をも、妨害されて来たのだから、このような他人を深く傷つける行為には、相応の対処を求められて当然である。もし杉本氏に市民としての自覚や礼節の感覚がわずかでも残っているなら、彼は自分の行為に対して責任を取るべきである。

だが、それに応じさえするならば、筆者の側でも、和解は可能である。我らの神は、悔い改めた人の罪は二度と思い返されないと言われる方なので、一旦、書いた記述は取り消せないとは、筆者は考えていない。悪魔にも悪霊にも悔い改めの余地はないが、人間はそうではないのだ。人間は生きている限り、変わり得る存在であり、願わくば、良い方へ変わって、神の和解を受けるチャンスを逃さないことである。

「今日、もし御声を聞くならば、
 荒野で試みの日に
 御怒りを引き起こしたときのように、
 心をかたくなにしてはならない。」(ヘブル3:7-8)

警察は、以上のような思惑を告げると、民事には不介入だが、かといって、筆者の意見に反対するでもなく言った、「あなたの納得のいくようにして下さい」と。

まるで、いたずらでボールを投げて学校の窓を割った悪餓鬼中学生を、反省させるために、学校へ同伴して来た親のようであった。

こうして、筆者に対しては、スラップ告訴も成立しないうちに、杉本氏が筆者について訴えていた「罪状」なるものは、シャボン玉のように消し飛んだわけだが、このことは、筆者に対する神の贖いが正真正銘、完全であることをはっきりと物語っている。

聖書によれば、クリスチャンは、世によって罪に定められるような存在ではなく、まさにその逆であって、クリスチャンこそ、世をさばく存在なのである。

キリストと共なる十字架により、律法によって律法に死んで、神の御前に義とされたクリスチャンは、もはや、この世のどんな法によっても、罪に定められることのない、むしろ、世のすべての法体系を超える、超法的な存在なのである。

だからこそ、パウロは次のように言ったのである、あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえさばく力がないのですか。私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか」(Ⅰコリント6:2-3)

もちろん、クリスチャンも、神の御前で申し開きを求められるので、自分の行動については、何が神が喜ばれることであるかをきちんとわきまえねばならないが、パウロは、クリスチャンは、世から罪に定められるどころか、世を超越し、世をさばく資格のある天的存在であり、さらに、御使いさえもさばく者であると言ったのである。

それほど絶大な権威をキリストにあって付与されて、天的な秩序の中に召されているクリスチャンを、村上密のような人々は、再び、世の支配下に置いて、世の法廷のさばきの下に引きずり出して、世人の目線によって罪定めしようと望んでいるわけだから、これは聖書の御言葉の完全な否定であり、まさに悪魔的発想から来るものとしか言えない。

筆者はこれまで、村上密の主張の根本的な異端性は、同氏の思考における、この世の秩序と、天的な秩序の逆転にあることを、再三に渡り、述べて来た。

つまり、この牧師が試みたように、神が罪赦されて義とされたクリスチャンを、世の法廷に引きずり出して、罪に定めようと試みることは、クリスチャンに適用された神の救いの御業を否定し、人類の罪を贖うために十字架で流されたキリストの血潮の価値を否定し、それによって我々信じる者に与えられたキリストの義を否定することであるから、それは到底、信仰のある者の取る行動でないが、そのような考えは、この世が教会の上に立ち、世が教会の裁き主となることを肯定するものであるから、天と地の秩序を逆転させて、教会におけるキリストの支配を否定して、教会を世の支配下(悪魔の支配下)に置き、悪魔を教会の主人に据えようとするのと同じであり、神に対する反逆の反キリスト的精神からでなければ、決して生まれ得ない発想であることを述べた。

そのようにして、神が贖われて世から召し出された者である教会に、恐れ知らずにも有罪判決を下そうと試み、教会を再び世の奴隷とし、世の支配下に置こうと企む者たちは、反キリストの精神に息吹かれたアイディアを提唱しているであり、しかも、このようなアイディアを、他ならぬキリスト教界の牧師が提唱し、その主張を他の牧師たちが、反対するどころか、黙認し、賛同さえしているのだから、その様子を見れば、キリスト教界というところが、どんなに聖書から遠い、悪魔的精神に毒された場所であるか、また、牧師という連中が、どういう異常な考えの持ち主であるか、おのずと知れようというものだ。

そもそも、この世の社会でも、自分に不都合な言論を繰り広げる人間に向かって、誰彼構わず告訴の脅しをかけまくるヤクザのような人間は、誰からも信用されないのが当たり前で、まして尊敬など受けるはずもない。そのような人間は、公衆の面前でナイフを振り回す幼児と同じく、気のふれた人間として、大人たちによって取り押さえられ、隔離されるだけである。

ところが一体、どうして、キリスト教界では、そんな人間が、いつまでも傍若無人に歩き回り、その乱暴狼藉を周りの人々が黙認し、あまつさえ、拍手を送っているのであろうか。

自分の教団や教会がありながら、教団や教会の規則を無視して、他教会の内政に首を突っ込み、他教会の信徒に密偵のごとく近づいて、他教会やその信徒を法廷闘争に引きり込んで教会を崩壊させるチャンスがないかどうか、弱点を探り出すために、密告を奨励し、チャンスがあれば、スラップ訴訟をしかけて教会に打撃を与え、リーダーを悪者扱いして追放し、信徒を分裂させて弱体化させ、こうして弱体化した教会を自分の教会に併合し、群れを乗っ取ることで、自分の教会を拡大して行く。これらすべてのことを「被害者救済」や「傷つけられたマイノリティへの支援」という正義の旗印のもとに行う。

こういう人間、こういう異常な牧師を、クリスチャンがどうして仲間とみなすことができるだろうか? こんな人間を、もしクリスチャンが「神の家族」の一員、「兄弟姉妹」として自分の教会に歓迎し、さらには、「牧師」として、リーダーとして敬意を払ったりすれば、その人たちの教会の行く末がどうなるか、分からないのであろうか?
 
以上のように教会を荒らし回る人間は、どこからどう見ても、牧者ではなく、ただ羊の群れに紛れ込み、羊を食い散らすためにやって来た凶暴な狼」(使徒20:29)でしかない。聖徒らを法廷闘争に引きずり込んで有罪を宣告することをライフワークとするような牧師は、牧師の名にすら値せず、私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」(黙示12:10)、「荒らす憎むべき者」(マタイ24:15)、「ほえたけるしし」(Ⅰペテロ5:8)などの名で呼ばれることこそふさわしい。

ところが、こんな似非キリスト者、もっと言えば、悪魔に息吹かれた反キリストの精神の持ち主としか言えない人間が、公然と教職者を名乗り、講壇から信徒に向かって教師として説教し、信徒の献金を集め、それによって自らの生計を立て、あまつさえ、その献金をキリスト教界に内紛を起こして、信徒同士を争わせるために用いている。そして、他の牧師たちがその活動の罪深さを指摘するどころか、同業者だからと、その罪をかばいだてし、喜んでその悪しき教会破壊活動を黙認している。これが、今日のプロテスタントのキリスト教界のあまりにもお粗末かつ悲惨な現状である。

結論から言えば、こんなキリスト教界は、もはや霊的に機能しておらず、とうに終わっている組織だと言って良い。

そういうことになるのは、この教界に君臨・支配している牧師たちのほとんどが、本当の牧者ではなく、むしろ、キリストの栄光を盗んで、自分が神の代理人(いや、本心を言えば神そのもの!)として栄光を受けることを願う、信徒を踏み台にして、自分の名を上げたいだけの偽牧者ばかりだからである。

プロテスタントの牧師制度は、以下に記す通り、根本的に聖書に反する誤った制度であり、このような誤った制度のもとで、教職者となっているほとんどの牧師たちは、残念ながら、羊のために心を砕く牧者から、最もほど遠い人たちで、信徒から収奪した献金と奉仕によって己を養う特権階級としての偽牧者に過ぎず、彼らは「羊の所有者でない雇い人」(ヨハネ10:12)である。彼らは、己の名誉、地位、俸給を目当てとして教会にやって来た、雇われサラリーマン牧者だから、もともと羊を守る気などさらさらなく、村上密のような牧師が現れて、他教会を泥沼の訴訟に引きずり込み始め、羊を中傷し、食い散らすのを見ても、「ほえたけるしし」の脅威から信徒を守るどころか、むしろ、獣の咆哮に喜んで同調し、獣の怒りをなだめるために、気に入らない信徒をいけにえに差し出し、信徒が食いちぎられる瞬間を見世物として楽しみ、獣による蛮行に自ら加わることで、自分も「兄弟たちを訴える者」となり、自ら獣と化すのである。

こうして、多くの牧師たちが、「ほえたけるしし」の咆哮に自ら同調したのは、彼らが村上密と同じように、自分自身を神に等しい存在であるとみなし、聖書の御言葉に逆らうことを罪とせず、教職者である牧師の意向に信徒が逆らうことを罪とみなし、自分に歯向かって来る信徒は、徹底攻撃して引き裂いても構わないという、村上密と全く同じ、恐るべき悪魔的思想の持ち主だったからである。
 
教会内で事実上の現人神と化した高慢な牧師たちにとって、村上密の繰り広げるカルト被害者救済活動は、何ら反対すべき性質のものでなく、むしろ、自分たちの特権的地位を脅かしうる、不都合な信徒を、自ら直接手を下さずに「始末」するのに非常に役立つ、手堅い運動であって、手放せない道具であった。
 
何しろ、この運動は、放っておいても、選ばれた特権階級としての牧師たちの地位を脅かすような告発をする「不心得な信徒」を、次々と泥沼の訴訟や、誹謗合戦に引き入れて、都合よく「始末」してくれるのである。しかも、牧師たちが争いの矢面に立って、自らの手を汚すことなく、信徒同士の争いという形で、この「始末」を成し遂げてくれるのである。

キリスト教界の不祥事が次々と暴かれ、被害者運動のようなものが拡大して行くことは、牧師たちにとっては、常に脅威であった。なぜなら、それはやがてキリスト教界全体への批判の高まりを招き、牧師全体に対する批判となって、キリスト教界全体が揺るがされる事態へと発展しかねない危険を秘めているからである。

そこで、牧師たちは、そのようなことが決して起きないように、一計を案じる必要があった。すなわち、キリスト教界への批判を骨抜きにして、キリスト教界(=牧師たちの特権的地位を守るための砦)を揺るがしうるような、本質を突く批判が、決して信徒の中から出て来ないように、まずはキリスト教界への批判者たちを、「カルト被害者救済活動」という、出来レースのような嘘っぱちの似非改革運動の旗のもとに集めて、牧師たちの監視下に置いておき、他方では、この活動に賛意を示さない信徒、あるいは、この運動から離脱する信徒には、暴徒のような被害者運動の支持者をけしかけて、誹謗中傷を浴びせ、信徒同士の同士討ちに陥れることで、口を封じようとしたのである。

こうして、牧師たちが被害者運動を自らの管理下に置いて、動向をつぶさに監視し、信徒同士を互いに争わせている限り、どこの教会でどんな牧師がどんな不祥事を起こうそうとも、キリスト教界全体が揺るがされることはない。出来レースに過ぎない被害者運動に、キリスト教界への批判を独占させている限り、牧師階級全体に非難の矛先が向くことは決してなく、牧師たちの地位は安泰である。キリスト教界の異端性を真に告発する信徒は、みなこの運動が「始末」してくれる。

こうして、自分たちの特権的地位を守るためにこそ、キリスト教界の牧師たちは、暗黙のうちに、村上密の運動と手を結んだのである。牧師たちは、「神に等しい」キリスト教界の聖職者たちの悪事を率先して暴いたり、牧師制度を否定したり、キリスト教界の欠点を指摘し、その教義に紛れ込んだ異端の要素を暴き出すような、分をわきまえない、小賢しく、不届きな信徒を、全員、抑圧・排除して、言論弾圧するための装置として、「カルト被害者救済運動」を大いに利用し、これを用いて、いついつまでも気に入らない信徒を辱め、脅すことを願ったのである。

こうして、信徒を食い物にして自分自身を養うだけの雇われ羊飼いたちの身の上には、「狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。」(ヨハネ10:12-13)という主イエスの御言葉が、文字通り、成就したのであった。

こうした牧師たちにとって大切なのは、羊(信徒)ではなく、教団や教会で得られる自分の地位、名誉、俸給だけである。それだからこそ、彼らは狼の脅威の前に羊をさっさと見捨て、狼の支配に喜んで屈し、羊を恐怖と暴力で支配し、教会の上に世(悪魔)を主人に据えることに同意したのである。こういう牧者たちの姿は、エゼキエル書で、神が糾弾された「羊を犠牲にして自分自身を養う牧者」たちの姿にそっくりである。

「神である主はこう仰せられる。ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。

弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力づくと暴力で彼らを支配した。

彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。<…>

それなのに、わたしの牧者たちは、わたしの羊を捜し求めず、かえって、牧者たちは自分自身を養い、わたしの羊を養わない。それゆえ、牧者たちよ、のことばを聞け。神である主はこう仰せられる。わたしは牧者たちに立ち向かい、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。牧者たちは二度と自分自身を養えなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らのえじきにさせない。」(エゼキエル34:2-10)
 
今日のキリスト教界にはびこる以上のように歪んだ偽牧者たちの姿は、主イエスが地上におられた時に、御子を最も激しく迫害した、律法学者やパリサイ人たちといった宗教的エリートの姿にぴったり重なる。

今日の多くの牧師たちは、自らが、律法学者、パリサイ人と変わらない、歪んだ宗教的エリートとなっていればこそ、自分たちの罪や、キリスト教界の闇が真に暴かれて、牧師階級全体が糾弾されて揺るがされることのないように、策謀を巡らせ、表向きには「キリスト教界で被害を受けた者たちの優しい支援者」を演じながら、その実、キリスト教界への不満分子をことごとく監視対象とし、弾圧することで、批判を骨抜きにし、批判者を駆逐して行ったのである。その際にも、この牧師たちは自分自身が訴えられないために、杉本徳久氏のような人物を、まことに都合の良い捨て駒のような存在として、自分の身代わりに全てのリスクを負わせて争いの矢面に立たせ、存分に利用するほどまでに卑怯・卑劣であった。

とはいえ、その杉本氏も、村上密の繰り広げるカルト被害者運動をすでに見放しているようだから、一時は疫病のように猛威を振るった村上の運動も、もはや事実上は、壊滅し、無と化していると言って良い。

こうして、己を神とみなすキリスト教界の教職者たちが、どんなに寄り集まって、陰謀を巡らして、気に入らない信徒を誹謗中傷し、引きずりおろして罪に定めようと試みても、その計画は成らなかった。今や、信徒はみな次々とこの悪魔的活動から手を引き、神が贖われた信者を再び罪に定めるような不届きな願いを抱いているのは、もはやキリスト教界の牧師たち以外にはいない。

筆者は、キリスト教界はそれ自体がフェイクであって、偽物の教会であることを、これまでずっと書いて来た。プロテスタントの牧師制度は、「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(Ⅰテモテ2:5) 「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。」(マタイ23:8)という聖書の真理に真っ向から逆らい、神と信徒との間に、キリストの他に、神の御言葉を取り継ぐための教師としての宗教指導者を、不可欠な存在として置くものであるから、聖書に根本的に反している。

牧師制度は万民祭司という新約の真理を否定する制度であり、制度自体が反キリストの精神の上に成立している以上、こういう制度によって生まれた牧師たちが、神が贖われた信徒を中傷したり、罪に定めようと策謀を巡らし、見世物にして食いちぎったとしても、全く不思議ではない。

牧師制度の忌まわしさは、この制度が搾取にまみれているという点からも、明らかである。プロテスタントでは、聖書の真理を否定して生まれた牧師という忌むべき聖職者階級全体を維持するために、信徒が献金と無償奉仕を続けて、牧師一家を養っている。牧師だけでなく、牧師の妻や子供までも養っている。退職金や、老後の世話までもする。中には、一週間、労働もせずにブラブラしている若い牧師を支えるために、信徒が夜の仕事をする例もある。信徒の奉仕はどれほど長い年月に渡って続けても無報酬だが、牧師だけは一年生でも報酬をもらう。こうした事実に照らし合わせても分かるように、牧師制度とは、結局、教会内の信徒間にもうけられた不当な差別であり、キリスト教の装いをしたカーストであって、牧師は事実上、信徒に君臨する特権階級、宗教貴族なのである。

結局、牧師制度とは、宗教に名を借りただけの、信徒からの搾取と差別の体系なのであり、カトリックの聖職者のヒエラルキーとはまた違った形で、信徒間に差別をもうける、神の御心にかなわない反聖書的な制度である。
 
さらに、プロテスタントの牧師職には、一体、どうして上記したように、神に逆らい、聖書の御言葉を否定して、信徒を食い物にし、恐怖と暴力によって羊を支配する、見栄と出世欲と自己保身の塊のような、人格的に未熟で、どうしようもない考えの持ち主がやって来るのかと言えば、それはただ牧師制度が間違っているだけでなく、牧師になるためのハードルも、あまりに低すぎるからである。

プロテスタントの牧師職に就くためには、一般的に、カトリックのような長い教育訓練は必要とはされない。人手不足や、大した俸給をもらえない事情も手伝って、候補者が少なく、誰でも志願すれば、簡単に牧師になれる。

特に、ペンテコステ運動に属する組織では、状況は他の教団教派と比べても呆れるほどひどく、すでに述べた通り、牧師になるための条件は、本人の熱意以外には、無きに等しいと言って良い。信仰歴も要求されず、場合によっては、神学校での教育さえ受けずに、名乗り出れば、明日からでも、誰でも「パスタ―」になれるというお手軽さである。

そのようなハードルの低い牧師職には、当然ながら、集まる人々の人格的・教養レベルも低くなりがちで、果ては神に出会ったこともなく、救いの確信もなく、神から召しを受けていないことが明々白々な、信仰さえあるか不明の人間が、ただ自分勝手な情熱だけで、献身して牧師になったりもする。あるいは、社会ではどこへ行っても通用しない、到底、教師やリーダーにふさわしくない未熟な人間が、手っ取り早く地位と名誉を求めて献身する。あるいは、カルト団体から強制脱会させられた人間が、マインドコントロールさえ解けていないのに、ただカルトの教義とキリスト教の教義を取り替えて献身する。家庭的に大きな不幸を抱える人間が、自らの抱える精神的問題が全く解決していないのに、問題解決を求める過程で献身したり、あるいは、プロテスタントの多くの教会が繰り広げるお涙頂戴の社会的弱者への支援の対象となったホームレスや、元ヤクザのような人々が、受けた恩義を返したい気持ちから人情によって献身する。あるいは、世襲制の寺のように、たまたま親や親族が牧師だったからと、その息子や娘が二世三世として献身して牧師になる。

神学校は、牧師の卵たちが、自分の将来に有力なコネとなってくれそうな牧師家庭の子女を物色するための結婚相談所も同然の存在に成り果てている。つまり、キリスト教界は、水と霊によって新しく生まれた信者が集まる場所どころか、この世の肉の絆や、血統がものを言う、完全に地上的で世俗的な宗教に成り果てているのである。

こういう得体の知れない不届きな動機で聖職に志願した人々が、社会で切磋琢磨して人格を練られることもなく、ほんのわずかな学びの年月を経ただけで、もうひとかどの教師となって、「先生」と呼ばれ、信徒にお説教を垂れ、信徒が汗水流して働いて得た献金で自分自身を養い、寄り集まって、自分の教会を互いに自慢し合い、ライバル牧師を凌ぐために、教会をどうやってもっと大きくして、献金額を増やすか、日々、思いを巡らせているのである。

一般に、プロテスタントでは、牧師同士の争いは相当にひどいと言われている。牧師たちは、自分の教会の礼拝堂の規模や、信徒や献身者の人数を巡って、絶えず競い合い、教団が事実上の献身者のノルマを課したりして、争いを煽っている。そこで、牧師たちは、互いの成功を妬み合い、陰で中傷し合って、足を引っ張り合うなどは日常茶飯事で、こんな場所で、エキュメニズム運動など、どんなに唱えてみたところで、互いに競い合う牧師たちの間に信頼関係や、協力関係が生まれることはない。

プロテスタントの「多重分裂病」(=牧師たちの争い、教会同士の争い)のひどさは、牧師たち自身も認めており、これこそプロテスタントの致命的な弱点であって、牧師たちの目指す「リバイバル」を不可能にしている最も深刻な原因であるということは、牧師たち自身が、認め、度々、説教などで反省材料として語るほどである。(人間的な確執に加えて、宗派や教義の違いから生じる絶えざる争いもある。)

このように、プロテスタントには、牧師たち自身が、教職者たちの間で争いがやまないことを憂慮している現状があり、インターネットで起きていることは、その反映に過ぎない。要するに、牧師たちの分裂闘争や、妬み合い、足の引っ張り合いが、信徒に飛び火しているだけなのである。インターネット上で、信徒をさらし者にし、中傷することで、誰よりも喜び、鬱憤を晴らしているのは、牧師たち自身なのである(村上密はその代表格に過ぎない)。

筆者は物心ついた時から、プロテスタントを観察して来たので、決して誇張した事実をここに書いているわけではないが、このような状況なので、人格的に高潔で、真実、信仰深い信徒は、どんなに主イエスに従う決意をしても、あくまで信徒のままにとどまり、決して牧師にはならない。謙虚な人間ほど、決して自分から名誉や高い地位を求めないものだが、さらに、聖書が「多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」(ヤコブ3:1)と述べている以上、多くの信者は、この警告に真摯に耳を貸して、自ら「先生」と呼ばれる立場に立って、格別きびしいさばきに自分をさらそうとは思わない。また、プロテスタントの多くの牧師たちがやっているように、自分の名を大々的に掲げて、正義の旗の下に、お涙頂戴の偽善的な弱者救済活動を繰り広げたり、福音伝道を口実に、奇抜な格好をして世界各国を練り歩き、神の恵みと言っては高価な車を乗り回したりはしない。カルト問題の専門家として、世間で有名になったりすることを目指したりもせず、こうしたすべてのことを売名行為として嫌悪し、忌避する。(筆者がこのブログをペンネームにしているのも、関係者を守るためと、自ら栄光を受けないためである。)

だが、牧師職は、神の目にのみ覚えられるように、隠れたところで奉仕を行う生き方とは正反対の生き方をする人たちが、積極的に手を挙げる職業であり、なおかつ、上記した通り、この職業は、それ自体が、信徒への搾取の上に成り立ち、見えない神ではなく、牧師という目に見える人間に栄光を帰するシステムであるから、この職に志願するために集まって来る人々が、お世辞にも謙虚とは言えない、信徒を踏み台にして出世することを願う名誉欲・出世欲・自己保身の塊のような卑しい人間であっても、何の不思議もないのである。

つまり、牧師制度という聖書に反する制度自体が、教会を腐敗させる根源となっているのである。

だから、村上密の訴えているような「教会のカルト化」は、一部の腐敗した牧師だけの専売特許ではなく、牧師制度そのものが結ぶ悪しき実なのだと、いい加減に、理解すべきなのである。牧師制度という、聖書に逆らい、キリストの栄光を奪って成り立つ、人間崇拝の罪にまみれた制度ある限り、カルト化はやまず、牧師制度そのものの持つ根本的な悪を見ずして、ただカルト化という現象だけをどんなに叩いても、トカゲのしっぽ切にしかならず、一切は無駄なのである。

しかも、牧師が牧師を取り締まることで、カルト化を抑えようという発想なのだから、呆れるようなマッチポンプ、プロレスごっこでしかなく、それは結局、教会のカルト化を取り締まることを口実に、村上密のような野心的な牧師が、他の牧師たちを抑えてキリスト教界の覇権を握りたいがために行われているだけの運動であって、そんな方法では、カルト化は防げないばかりか、教界は前よりもより一層悪くなり、もっと恐ろしいカルト的腐敗に落ち込んで行くだけである。
 
だから、こういう人々の行うカルト取締運動は、上記した通り、本当は牧師制度そのものを温存するために作り出された目くらましの運動であって、牧師階級に属する者たちの利益を守り抜くために作られた出来レースに過ぎないのである。
 
筆者の目から見れば、カルト被害者救済活動などというものが登場して来て、諸教会の腐敗が次々と明るみに出された時点で、これはプロテスタントが役目を終えて、霊的に終焉を迎えていることが、公然と世に示されたという事実を意味する。

かつてマルチン・ルターの登場と共に、ヨーロッパで隆盛を極めたカトリックの組織的腐敗が暴かれ、宗派としてのカトリックの信用が徐々に権威失墜して行き、これに代わって、プロテスタントに信仰復興運動のバトンが預けられたのと同じように、今また、プロテスタントの牧師制度の闇が暴かれ、教会成長論や、ペンテコステ・カリスマ運動のような、教界に蔓延する異端思想が明らかになったことにより、プロテスタントも存在意義を失って、霊的に終焉を迎えつつあるのである。

だから、今後、信徒が真剣に心を砕くべき課題は、プロテスタントの腐敗したキリスト教界をどう立ち直らせるかという問題ではなく、むしろ、このようにまで腐敗したキリスト教界を離れて、牧師制度のないところで、どのように神が贖われたエクレシアとして、神の国の権益に仕え、天的リアリティをこの地においても実際とし、キリストと共にこの地を治め、キリストにある成人になるまで、信仰を成長させるのかを模索することにある。

重ねて言うが、牧師制度という人間崇拝の罪と手を切らない限り、信者が見えないキリストだけに頼り、聖書に基づく信仰の本質に立ち返ることはできないであろう。この教界に身を置いていたのでは、信者は信仰の何たるかも分からないまま、ただ聖職者階級を養うための道具として生涯を終えるだけである。

牧師制度という、人間崇拝・指導者崇拝の罪なる制度を敷くキリスト教界の組織の中で、信者はまことの神に出会うことはできず、真にキリストに従うこともできない。だから、真実、主イエスに従いたいならば、信者は人間の指導者に従うことをやめて、キリスト教界を出て、御霊によって直接、御言葉を教わりながら、見えない神にだけ頼り、キリストだけに栄光を帰する生活に転換するしかないのである。


統一教会に後押しされる安倍首相が推進する共謀罪が日本経済にもたらす破滅的な委縮効果

統一教会に後押しされる安倍首相が推進する共謀罪の成立が、日本経済にもたらすであろう壊滅的な委縮効果

さて、新年になって、これまで統一教会の機関紙「世界日報」の表紙を何度も飾り、統一教会と密接な関わりがあることがインターネットではもはや周知の事実となっている安倍首相が、またもや国民を恐怖に陥れ、新たに重荷を課すための、悪巧みに満ちた法案を国会へ提出することに意欲を示した。

今月20日から始まる通常国会に、与党自民党はこれまで3回、国会に提出されて廃案となった悪名高い「共謀罪」を法案として提出するという。この法案の成立にとりわけ執心しているのが、他ならぬ安倍首相であることが、ニュースを通しても明らかにされている。将軍様が独裁を完成するためには、必要不可欠な法であるわけだ。

(「<安倍首相>「共謀罪」に意欲 通常国会で提出か」(Yahooニュース掲載 毎日新聞 1/5(木) 20:58配信などを参照。)

だが、共謀罪は、何よりも、統一教会が以前から熱心に成立を推進していることが知られている。統一教会の機関紙「世界日報」においては、2006年の時点で「共謀罪/与党再修正案で成立させよ」(「世界日報」2006年5月14日付社説)との社説が掲載されるなど、それ以来、以下に見るように、今日に至るまで、一貫して、共謀罪の成立に俄然、意欲を示す一連の社説が掲載されている。

統一教会は、ごく最近の社説「共謀罪創設、テロ対策強化に不可欠だ」(「世界日報」編集局 2017年1月07日付社説」においても、「2020年東京五輪・パラリンピックを控え、テロ対策強化は喫緊の課題だ。共謀罪創設法案は過去3度にわたって国会に提出されたが、野党の反対で廃案となった。今度こそ成立させなければならない。」などと、3回の廃案にも全く動じる気配なく、オリンピックにかこつけて、法案成立への強い意気込みを示している。

これを見れば、安倍の共謀罪へのこだわりが、まぎれもなく、長年、この法案成立に執拗にこだわり続けて来た統一教会の野望と一致すること、共謀罪の成立を推し進めているのは、何よりも、政界と結びつき、政治家を陰で操るカルト宗教勢力であることが誰しもよく分かるだろう。

共謀罪という呼び名は、過去3回、廃案となった際に、すっかり世間に拒否反応を呼び起こすマイナスイメージとして定着してしまったので、今回は、東京五輪にかこつけたテロ対策を前面に押し出した、「テロ等組織犯罪準備罪」という名に変更する予定のようだ。

さて、当ブログの以前からの読者には、筆者の立場は、あえて説明せずとも、了解済みの事項であるものと思うが、それでも改めてもう一度、触れておきたい。

当ブログでは、統一教会出身で、現在、プロテスタントのキリスト教界のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に属する牧師である村上密が、「キリスト教界のカルト化を取り締まる」という名目で提唱した「カルト監視機構」の危険性を、早い段階から訴えて来た。この監視機構は公には設立されなかったが、村上密はその思想を捨てることなく実行に移し、そして、筆者の危惧した通り、村上密の活動は暴走し、最後にはほとんど無差別的なキリスト教徒の迫害を引き起こしたのである。

最初は「カルト化した一部の教会だけを監視と取締の対象とする」と言っていた牧師が、疑心暗鬼に陥り、途中からは自分の活動に理解を示さない者をすべて「カルトの疑いがある、敵」のようにみなして、インターネット上で支持者などを利用して人格攻撃し、ついには、敗訴も覚悟で、ただ教会に打撃を与えるためだけのスラップ訴訟に及び、自分の活動に賛意を示さないすべてのクリスチャンへの無差別的な迫害に及んだ様子は知られている。同氏の疑心暗鬼の対象は、ついには同じ教団に属して同労していた牧師や、自身が所属しているアッセンブリーズ教団にまで及んだ。

こうして、最初は「カルト(だけ)を取り締まる」と言っていたカルト監視機構の提唱者は、最後には、「自分に反対する者はみなカルト」と考えて、無差別攻撃に及んだ。「カルトを取り締まる」という一見、正しそうに聞こえる牧師の使命感は、最後には信徒の自主的な信仰生活と、福音伝道という教会の本来的使命を著しく害して終わったのである。

安倍の提唱する「共謀罪」は、かつて村上密が提唱した宗教版「カルト監視機構」を、そのまま土台として政治版に書き変えただけのものと見て良い。なぜなら、両者に流れる思想的基盤は、全く同じだからである。

しかも、上記の村上密牧師は、若い時分に統一教会に入信していた経緯があることが知られており、その意味でも、安倍と思想的な基盤が非常によく似ていると言える。そもそも「カルト監視機構」という同牧師の発想は、まさに統一教会流の思考からこそ生まれた発想であり、統一教会で受けたマインドコントロールの影響や、統一教会流の二元論的思考の教え込みが、形を取って表面化したものと考えられる。そして、この発想は、後述するように、もとを辿れば共産主義思想に遡るのである。

だから、共謀罪が成立すると、カルト監視機構を巡ってキリスト教界で起きたような事件が、今度は政治の世界で繰り広げられることになるのは自明の理である。安倍の提唱する共謀罪は、成立すれば、必ずや、村上密の唱えたカルト監視機構の発想と同じように、暴走するであろう。この法案はすでに多数の場所で、数えきれない人々によって、治安維持法の再来だとの懸念が表明されているが、まさにその懸念の通りに、当初は「テロを防止する」(≒「カルトを取り締まる」)という名目を掲げていたものが、必ずや、最後には「全国民」(≒「全クリスチャン」)を無差別的な嫌疑の対象とするであろうことを予測しないわけにはいかない。

共謀罪は、「カルト監視機構」の場合と全く同じように、それを提唱した人間の思考が、完全に悪魔的発想に毒され、狂わされていることをよく物語っている。共謀罪の法案を推進する勢力に、統一教会があるのだから、カルト思考に毒されるのは当然である。

だが、ここから先、今までとちょっと違う論調で記事を書いていきたい。

この場所において、共謀罪の成立に声を大にして反対するのは簡単なことである。「共謀罪は一部のテロリストだけを取り締まる」と言いながら、結局、最後には、全国民を無差別的に迫害する巨大な暴力・抑圧装置となるだろうことは明白だから、絶対に阻止しなければならない」と訴えることはたやすい。

筆者の目から見れば、安倍晋三はすでに村上密とほとんど変わらないパラノイド的思考に陥っており、この法案を利用して、自らの独裁を完成するつもりなのであるから、なおさら、危険である。

だが、この記事は、何よりも、聖書の信仰に基づく分析記事であるから、ここから先、筆者は、共謀罪を成立させてはならないということだけに力点を置くのではなく、共謀罪が成立すると具体的にどういう現象が起きるかについて、共謀罪や、カルト監視機構という発想の生まれる本家本元となったソ連の歴史をも振り返りつつ、それを日本に当てはめて考えていきたいと思っている。

統一教会は、共謀罪(≒カルト監視機構)の土台となる発想を、ソ連の共産主義思想から学んだのである。前にも書いた通り、統一教会の政治組織である勝共連合は、「共産主義の脅威に立ち向かう」ことを旗印に掲げながらも、共産主義国に対抗するために、核武装を含めた、自国の防衛と軍備の強化に関するほとんどの手段を共産主義国から学び、内に取り入れたのであった。

統一教会がこうして共産主義国から学んだ発想の一つが、国家(≒教会組織)を世界革命(≒統一教会の人類一家族理想)の中心となる神聖な母体とみなし、国(≒教会)の転覆を企てた罪(≒教祖や宗教団体に逆らう罪)に対しては、死刑に相当する罰を持って報いる(≒悪魔扱いして教会から追放し、一生呪い、迫害する)という、ソ連が取った反革命分子の取り締まりのために秘密警察を設立するという手法であった。

ちなみに、このようにして、国家や、企業や、あるいは、教団や、教会などの宗教組織、またそれを統治する指導者を含め、人間自身、または人間の作った組織や団体を、何らかのユートピア的理想的共同体社会を到来させるための「神聖な母体」とみなし、組織そのものを絶対化することにより、それを批判したり、逆らうことを「罪」とみなし、反対者を実力行使によって強制的に排除・処罰するという思想は、すべて元を辿れば、グノーシス主義に由来する悪魔的発想である。いう間でもなく、ペンテコステ運動のリバイバルなども同じである。

ちなみに、プロレタリア国家としてのソ連を神聖視するがゆえに、世界革命をもたらす母体となる社会主義国家を転覆させる思想をテロリズムと位置づけ、危険思想を未然に取り締まるための法整備と、反対者を実力行使によって排除するための秘密警察組織を設立するという発想は、ソ連の成立以前から、社会主義思想から受け継がれたものであった。

ソ連における秘密警察は、最初の名称はヴェーチェーカー(反革命・サボタージュ取締非常委員会)であり、革命直後に設立され、それが後に巨大な秘密警察組織へと発展するのだが、この組織は、レーニンが革命のわずか前に著した『国家と革命』の中で、反革命分子としてのブルジョアジーの抑圧のための機関として、青写真が提示されていた。さらに、レーニンの唱えたこの発想も、それ以前の社会主義者の思想にも見られたものであった。そもそも、社会主義革命それ自体が、暴力によって既存の国家秩序の転覆をはかるものである以上、革命を維持し続けるためには、旧体制の支持者を抑圧するための暴力装置が必要になるのは、自明の理である。

だから、筆者が「カルト監視機構はキリスト教界に恐怖政治をもたらす秘密警察である」と述べたのは、まさに統一教会が借用した、こうした社会主義思想のルーツと歴史を踏まえた上での発言であり、村上密が考えたような、夢想のとごとき戯言ではないのである。そして、カルト監視機構についても、筆者の懸念が裏付けられたが、共謀罪にも全く同じ危険が当てはまると言える。

村上密は、カルト監視機構を設立できなかったにも関わらず、その発想を独断で実行に移し、教会内規則や、法を無視して、自らの反対者に対する実力行使としての迫害に及んだのであるから、共謀罪の場合も、成立の可否に関わらず、これを唱えた人間が、自らを神として、自分への反対者をことごとく迫害するために悪用する可能性が十分にあると言えるだろう。

共謀罪は、現存の政府を率いる一人の為政者が、日本版NSCや、秘密保護法などと連動して、自らに反対する者たちをことごとく弾圧・排除するための巨大な秘密警察組織を作り出し、独裁を完成するために打ち出されたという線が濃厚である。オリンピックなどはほんの口実に過ぎない。

プーチンも、ブッシュも、これまでテロとの闘いを口実に、反対者を駆逐し、政治権力を強化して来た。安倍も、いよいよ「テロとの闘い」を口実にして、自らに逆らう人間をすべて「テロリスト」の汚名を着せて、実力行使によって排除できる権限を手に入れる手前まで来ているのであり、これに自衛隊の軍隊への昇格を加えれば、核のボタンを独断で押すことのできる無制限にも近い権限を手に入れて、歴代首相を超える権力を手にすることができる。そして、その背後では政治指導者を操り、これに寄生したカルト団体が己が権勢を拡大するのである。 

実際、ソ連ではスターリンという一人の為政者が、法制度と秘密警察を手足のように駆使して国民への無差別的な抑圧を行ったのであり、共謀罪も同じように一人の為政者によって存分に政治利用されるであろうという懸念が生じるのは当然である。
 
しかしながら、結論から言えば、筆者は、この日本で、仮に共謀罪を成立させてみたとことろで、恐るべき独裁体制を確立し、維持することのできるような体力は、おそらくもう残されていないのではないかという気がしてならない。太平洋戦争の際にも、日本軍が最も計算を誤ったのは、兵士の兵糧だったという。常に国民の体力を無視して無謀な計画に走って自滅するとところが、この国の政府の変わらない欠点である。

安倍はこの国の経済の状態を偽っているため、国の恐るべき貧困化という現状が見えておらず、独裁や、核武装など、みな現実を無視した夢想に過ぎないことが分かっていないのである。今の日本国の経済状態では、これ以上のどんな圧迫にも耐えうる力はないと筆者は見ている。この先、雇用情勢の悪化による国全体の急速な貧窮化と、急速な高齢化、それに加えて原発事故の悪影響による多死社会という要因が、国の体力をあっという間に削ぎ落とすと考えられるからだ。

ソ連も、国内戦の疲弊と一国社会主義の孤立によって貧困化に追い込まれたが、それでも革命を維持することができたのは、徹底的な恐怖政治を強いたことと、反革命・テロリストの汚名を着せて大量に強制収容所に送り込んだ囚人を奴隷的無賃労働に従事させることを経済効果に見込んだからである。我が国に、そこまでのことができるか。無理であろう。高齢化した社会では、囚人の奴隷労働も笑い話である。

さらに、安倍政権には国民全体に貧苦を耐え忍ばせてでもけん引することのできる理想が決定的に欠けている。ロシア革命の際には、社会主義イデオロギーの正しさを本気で確信する人々が相当数存在しており、思想教育によって人々はそれが正しい国家的イデオロギーだと信じていたので、欺かれているとは知らず、心から国家政策に身を捧げる一定数の人々が存在したが、我が国に、あるのは安倍率いる腐敗した政治家たちの卑しい金儲けの願望だけであることが見え透いているので、オリンピックもそうだが、国民感情が着いて来ないし、人々に大志を抱かせるイデオロギーが何ら存在しないのである。

今、我が国政府の要職に就いているのは、クーデター後のウクライナと同じような、犯罪者、ギャング集団ばかりであり、彼らには国を率いて行くだけの知性が存在しない。ロシア革命にはレーニンという指導者があったが、今の日本には唾棄すべき悪魔的思想を率いるのにさえ、ふさわしい指導者がない。クーデターによって犯罪者が政権の座に就いたウクライナは、今やもはや国の形を成しておらず、再生の見込みもなくなっている。

このようなことを踏まえると、共謀罪を仮に与党が成立させたとしても、それを機に自らの権力を絶対化したい人々の思惑とは裏腹に、日本をソ連のような国に変えてしまう効果を及ぼすとは考えにくい。むしろ、共謀罪は、東京オリンピックの高揚感に著しく水を差し、日本経済にも絶大なマイナス効果を及ぼし、日本経済を死滅させる決定打となるだろう。

昨年末に、以下のようなニュースが発表されたことは、まだ我々の記憶に新しいが、国土交通省の調査結果では、日本国民全体の外出率が低下していること、特に、若者の外出率の低下が著しく、過去最低を記録したことが発表された。20代では就業者の外出率(移動回数)が60歳以上の世代を下回っており、20代では、就業者も、非就業者と同様の貧困に見舞われている可能性が高いことを予想させる。

筆者は、若者の外出率の低下が、ネットやゲームの普及によって外出の魅力が失われたせいだとは考えていない。若者の結婚離れなどの現象にも共通して見られるのは、その背景にある、若者世代の貧窮化である。つまり、若い世代ほど、仕事に就いても、低賃金で過酷な労働に従事させられる割合が高く、外出に伴う出費と疲労に耐えられないので、休日にも出かけない、という選択肢を選びがちなのである。
 

約4割が「休日出かけない」 1日の移動回数も過去最低に 国の交通特性調査
gooニュース 2016年12月27日 06:30 から一部抜粋

若者の「移動回数」、高齢者を下回る

 国土交通省は2016年12月26日(月)、2015年度の「全国都市交通特性調査」(速報版)を公表しました。

人がどのような目的で、どのような交通手段を利用して移動しているかなど、人の動きをおおむね5年おきに調査するものです。今回は、調査日に外出した人の割合が平日で80.9%、休日で59.9%、ひとりが1日に移動する平均回数(移動回数)が平日で2.17回、休日で1.68回と、いずれも1987(昭和62)年の調査開始以来、最低の値でした。

 若者の移動回数が減少し、高齢者の移動回数が増加しています。休日における20代の移動回数1.43回に対し、70代の移動回数はそれを上回る1.60回でした。特に20代の非就業者における外出率が大きく低下している一方で、人口が増加している60歳以上では就業者、非就業者ともに移動回数が増加していることがわかりました。(以下略) 

 

この調査結果は、共謀罪などが成立して委縮効果が及ぶよりもはるか前から、我が国の国民の自主的な活動が、すでに死に絶えつつあり、この国に巨大な世代間格差が生じていることを想像させるものである。日本経済は特に何事も起きずとも、すでに今の時点で瀕死の状態にあり、その上、共謀罪が成立すれば、老いも若きも、共に外出を控え、人の多い場所や、人との交流を避けるようになるだろう。

何しろ、スタジアムでうっかり隣の席に座って、気さくに話しかけて来た人間が、実は政府が前々から目をつけていたテロの容疑者だった…、などと後になって判明すれば、自分だけでなく自分の周囲の人々にも迷惑が及ぶ。気晴らしに街を歩いていて偶然、昔の知り合いに会って談義していたら、「あいつはどこそこの喫茶店で疑わしい人物と親しく話し合い、交流していた」などと、自分の全く知らないところで、誰かから密告されたりしても困るからである。

東京五輪などは、エンブレム問題や、競技場問題、招致の腐敗した過程、予算の膨張などのスキャンダルが絶えず、政府や五輪組織委員会や、利権団体による自己満足と非難されて久しく、国民の間では、盛り上がりも人気もない。その上、五輪を名目とする共謀罪が成立すれば、五輪は完全にお上によって強制された「官製行事」になってしまい、国民的人気は死に絶えるだろう。

国民の間では、「五輪を批判しただけでも、お上が思想犯の疑いをかけてくる危険があるから、五輪については沈黙するに限る」という暗黙のお約束事が出来上がり、東京オリンピックは腫物扱いされ、話も絶えて聞かれなくなるであろう。オリンピック景気や、盛り上がりどころの話ではない。国民が無差別的にテロリストの疑いをかけられるかもしれない法が成立しようとしている時に、わざわざ自ら出費して、オリンピック観戦に出向く酔狂な者がどれくらいいるのだろうか。

そもそも、共謀罪が成立すれば、日本国民は、人の集まる公共の場へ出かけて行くことを自ら避けるようになる可能性がある。これは人々の草の根ネットワークを一網打尽にすることで、経済を委縮させる危険がある。こうして、貧困に加えて、思想犯との疑いをかけられたくないがために、人々の交流、会話、出会いが途絶えて、少子高齢化にさらに拍車がかかり、すでにあった自主的なサークルや団体も解散することで、無縁社会が加速化し、日本経済に著しいマイナス効果が及ぶであろうと筆者は思う。

それでも成立にこだわりたい勢力は、強行採決に及ぶ所存なのであろうが、カジノ法の強引な成立と同じく、そんなことをしたからと言って、人気が戻ることはなく、彼らに何一つリターンはない。

さらに、次に、共謀罪の真の目的とは一体、何なのか、ということについて考えてみたい。

一つには、共謀罪は、政府に対する草の根反対運動を委縮させて潰すことが狙いである、ということが考えられる。つまり、この悪法の成立を機に、安倍政権への批判が委縮すること自体が、法案成立を目論む勢力の狙いの一つであるかも知れない。

だが、その他にも、筆者は、共謀罪の真の目的として、「テロリストの嫌疑」を名目とする➀国民財産の不当な没収と、②奴隷労働の強制という事実がある可能性を指摘しておきたい。なぜなら、これは、ソ連では実際に行われた事実だからである。

ソ連においては、革命後のアバンギャルドの高揚などは、ネップの終了と共に、1920年代に終わり、1930年代を迎える頃には、すでにスターリンが権力を完全に掌握して、官僚制に基づく巨大な中央集権的な国家を作り上げていたため、ソビエト国民の間では、政権を批判できない空気が出来上がっていた。国民の間での格差は、開く一方で、20年代の終わりに、強制集団化が行われて農民を含む一般国民は、徹底的な窮乏に陥れられる一方で、官僚が貴族のような存在となって特権的な生活を謳歌し、国民に君臨していた。革命の息吹を直に知っている当時の生き証人は官僚機構から次々と粛清されていた。1934年に祖国への裏切りに関する法が成立し、ソビエト国民は政権を批判しただけでも「国家転覆罪」の容疑をかけられて死刑に処される可能性が生じ、実際に、それに基づき、スターリンの政敵が粛清されて行っただけでなく、その弾圧は一般国民にも及び、36-38年の大粛清の時期には、スターリンの指示により数えきれない国民が「人民の敵」のレッテルを貼られ、無実の罪で大量に逮捕され、死刑や強制収容所送りとされた。その後もソ連が崩壊するまで、国家権力にとって好ましくない人物への弾圧は続くことになる。

ソビエト政権がこのように国民に無差別的に「反革命分子」の汚名を着せて大量逮捕に及んだ背景には、疑心暗鬼による恐怖政治の強化、残酷な見せしめ効果、実際に反対者を抑圧したいとなどの思惑があっただけでなく、もう一つの隠れた目的に、収容所群島と呼ばれる大量の強制収容所網を国内に作り上げて、故意にでっちあげの罪により逮捕して囚人とした人々を収容所に送り込んで、強制労働に従事させることによって、囚人労働によって、国内経済の回復をはかろうとする意図があった。だが、むろん、囚人労働を財源とするという意図は隠され、それは表向きには「労働による再教育」と謳われて、美化された。

ソビエト政権は、たとえ宗教のように「神聖」という概念を用いなかったにしても、事実上、プロレタリアートを神聖視し、労働を神聖視する疑似宗教国家であったので、この国家の疑似宗教理念にそぐわない人間を、当局は、「思想的に再教育」して「矯正する」必要があると考えており、再教育の手段として、強制収容所(矯正収容所)に送り、そこで「奴隷的無賃労働」という懲罰に従事させたのである。

だが、実際のところ、その再教育なるものの本当の目的は、国内戦と計画経済で疲弊したソビエト政権が、国力を回復して世界に向けて体面を保つために、国民をタダ働きさせたい、そのために、どうしても一定数の人々を収容所に送り込んで、懲罰的な囚人労働に強制的に従事させる必要がある、ということに尽きた。

むろん、その当時は、ソビエト政権下で、数えきれない人々がいわれなき罪により銃殺されていたわけだけだから、そんな野蛮な環境で、囚人労働がどれくらい国力の回復に役立ったかは分からず、ただ人類に対する無意味な苦痛と抑圧を増し加えただけと言えるわけだが、このようにして、「労働による再教育」という美名を囚人を意図的に作り出してタダ働きさせる口実として用いた詭弁に、労働というものが本質的に持っている忌まわしさが究極の形で現れているように筆者は思う。

実は、筆者が、現在の日本は、事実上の社会主義国であると考える所以もここにあるのだ。話が脱線するようだが、ここで労働の本質とは一体何なのか、考えてみたい。

当ブログではこれまでにも幾度か、触れたように、筆者は、聖書においては、人間の労働は、もともとは罪の結果としてもたらされたものであり、苦役にも等しい呪われた労役であるとみなされていると考える。だが、罪に堕落したアダム来の人間が、実り少ない労働に従事して、自分で自分を支えねば生きられないという恐怖に絶えず脅かされているのに対して、キリストへの信仰を持つ信仰者は、自分の努力によって自分を生かすのではなく、神が養って下さるという信仰に生きる安全と自由がある。

だが、社会主義者は、労働をどうとらえていたのかと言うと、1917年のロシア革命においても、それ以前の社会主義思想においても、彼らは出発点においては、労働について、以上のような聖書的概念から、それほどまでにはかけ離れた考えを持っていたわけではなかった。つまり、社会主義者の目から見ても、常に解雇の危険に脅かされながら、身を粉にして実りの少ない労役に従事せねばならない労働者は、非常に不憫で気の毒な立場に置かれている可哀想な人々であって、プロレタリアート全体が「虐げられている人々」であるから、それゆえに、救済されなければならない対象だとされていたのである。

それにも関わらず、社会主義国は、気の毒な状態にある可哀想なプロレタリアートを解放するどころか、彼らを救済の対象とすると言いながら、その哀れな状態をより一層強固に固定化し、プロレタリアートを賛美することで、抑圧された人々の抑圧された状態を美化し、ついには神聖視までし、永久不変の人間のあるべき姿にまで高め、そこから自由になろうとする人々に「再教育」を無理強いしてまで、抑圧状態から決して逃がすまいと連れ戻したのである。ここに、我々が目を背けるべきではない、非常に深刻かつ危険なパラドックスがある。

ここには、筆者が当ブログで常に訴えてきたマイノリティの美化に潜む危険があると言えよう。カルト被害者にせよ、障害者にせよ、病者にせよ、同性愛者にせよ、ハンセン病者にせよ、元ヤクザ、元カルト信者にせよ、対象が誰であっても同じなのだが、「虐げられている弱者」を、その弱者性のゆえに美化し、同情し、彼らを賛美する思想というものは、およそすべて、結果的に、以上に述べた通り、人間の罪なる状態と、抑圧そのものを神聖視し、人間を抑圧から解放するどころか、ますます抑圧の枷の中に強固に閉じ込めて行く枷になるというパラドックスが存在するのである。

そうなるのは、こういう思想にとりつかれた人々がみな、人間のあるべきでない「可哀想な状態」そのものを美化し、人間の弱みを神聖視しているからである。実際は、罪のゆえに起きただけの不自然で抑圧された状態を、「罪がないのに犠牲者とされた悲劇の人々」のように美化し、弱者の悲劇に酔いしれ、これに涙を流し、人間を美化しているために、そういう現象が起きるのである。

このようなパラドックスが働くために、本来は、低賃金で重い労役からいつまでも逃れられないプロレタリアートを解放するために起きたはずの社会主義革命が、人間をより強固に奴隷的労働の枷の中に閉じ込めて行く檻となったのである。同じ逆説が、カルト化した教会から信徒を救うと言って始まったはずの牧師による救済活動が、信徒をよりひどいカルトの危険にさらしつつ、無差別攻撃し、教会から抜け出せないようにがんじがらめにして行くというものになるのである。

彼らは「可哀想な人々」に同情の涙を流し、人の弱みに上から助けの手を差し伸べることにより、実際には、抑圧された状態を神聖視し、人の罪や、弱みを美化して、そこから人々が抜け出すことが決してできないように仕向けているのである。この偽りの思想に欺かれた人々は、弱者のユートピアという、決してやって来ることのない嘘の理想郷の夢と引き換えに、自主的にあらゆる権利を放棄して、自己犠牲を耐え、宗教団体に献金をし、無償で奉仕をしたり、果ては奴隷的囚人労働にさえ喜んで赴いて行くのである。

だから、こういう偽りの弱者救済の思想が引き起こす矛盾に満ちた現象は、宗教団体であっても、政治的組織であっても、国家であっても、基本的には変わらない。筆者はクリスチャンであるにも関わらず、地上の組織としての教会は、キリスト不在の、牧師という人間の指導者の統治する悪魔的な場所となっているという見解を幾度も述べて来たが、地上の組織としての教会が教えているのは、「人が救われて神に到達するために精進する方法」である。霊的ヒエラルキーの階段を上り、いつかは神に到達するためにこそ、献金や奉仕や学びが奨励されるのである。だが、それは結局、プロレタリアートの国を作り、労働に励むことで、いつかは共産主義ユートピアが到来すると信じた人々の自己救済の努力と何ら変わらない、人間が自力で救済にあやかろうとする終わりなき努力なのであり、聖書の神の提供する救いに本質的に敵対する悪魔的思想なのである。

だからこそ、人が救われて神を信じるために足を向けたはずの教会が、信徒から法外な献金を巻き上げたり、気に入らない信徒を呪ったり、悪魔扱いして追放したり、障害者や、病者や、元ヤクザや、元カルト信者を看板のように売り物にして、伝道を繰り広げたりするといった、歪んだ組織に成り果てたりするのである。それは、そこで提供されているものが、もともと、自分一人では神を求めることができないと考える弱者の弱みにつけこみ、弱者の心を甘言でくすぐり、彼らを美化し、助け手やるように見せかけながら、彼らをダシに己の権勢と利得を追求したいだけの人々が、神を口実にして、永久に彼らを食い物にするために作り出した偽の救済システムだからである。

だから、そういう組織は、自分一人では、決して救済を求めることができず、一人では生きられず、常に誰かの助けや慰めを必要とする人間が、寄り集まって、互いの弱さをかばい合い、弱さを美化して自己肯定感を得るための場所となっており、そのために、そこに集まった人々は、自らの抑圧された状態を美化し、神聖視して、己が不幸に酔いしれて涙を流し続けるのである。

そのようなことをしている限り、彼らの目指す解放は、絶対にやって来ることのない嘘の約束で終わる。そういう場所で、「神聖視」されているものは、人間の抱える弱さであり、罪であり、被害者意識であり、抑圧された状態であって、自由でも、解放でもない。解放は、未来にやって来るかのように各種の謳い文句として掲げられてはいるが、虐げられた哀れな状態を美化する人々がそれに到達することは絶対にない。

結局、教会にある「教え」とは、ソビエト政権が行った「労働による再教育」とカラクリは同じで、生涯、雇用主との関係から逃れられないプロレタリアートを養成するのと同じように、生涯、宗教指導者から離れられない信徒を養成するための再教育の仕組みである。救いに到達したい(≒自分はまだ救われていない)という弱みを持つ人々に、偽りの救済を提供することによって、いつまでも解決を与えないで、弱みを持つ人々から利益だけを搾り取る仕組みである。だからこそ、そこでは牧師(≒官僚)が特権階級として各種の利益を享受している一方で、平信徒(≒一般国民)は彼らに献金と無償奉仕を貢ぐ存在として、終わりなき精進を求められているのである。

むろん、本来、信徒は信仰を持った時点で、すでに救われているのだから、それ以上、救いを求めて精進する必要などないのだが、「教会を離れれば救いを失う」と脅されているために、奉仕や献金をやめれば信仰を維持できないように思わされ、恐怖のために、そこを出られなくなっているのである。

そして、そんな臆病な信徒たちを騙すがごとくに自らの生活の糧を得る手段として利用している牧師たちは、そんなにも立派な教師や人格者なのかというと、それはない。そのほ多くは、村上密自身が、自らの反対者について書いた批判内容のあまりの一方的な決めつけと根拠の薄さ、感情論を読めば分かるように、自分が批判されることにも全く耐えられないほどの未熟者である。

かつてある人が、プロテスタントの牧師には、人格的に未熟で幼稚な者があまりに多いと語ったが、筆者にも同感できる部分が多々ある。若くして、大した人生経験もないまま、自分の教会を任され、一国一城の主のようになって、自分よりもはるかに年上の信徒から敬われ、誉めそやされながら、人生の早い時期に「先生」として持ち上げられることに慣れてしまえば、高慢になるのは無理もない。牧師家庭に婿養子に入って牧師になった者や、二世三世の牧師が、親の七光りと親族のコネを利用して神学校に入り、二、三年、勉強したというだけで、信徒とは別格の存在となり、自分は神の御言葉を取り継ぐ偉大な聖職者だという自負に落ち込むのだから、自惚れにつける薬がなくなるのも当然である。

そのように幼稚で未熟な人間が、事実上の現人神のようになって、信徒に君臨し、栄光を受けている呪われたシステムの中で、信徒がどんなに奉仕と献金に励んだとしても、そこで神を見いだすことは決してなく、高慢になって罪に罪を増し加えるだけで、救いから遠のいて行く一方であろう。

だから、プロテスタントに少数の潔癖で良心的な牧師が仮に存在したとしても、教職者と平信徒の差別的な階級制度を固定化している以上、教界組織には未来がないと筆者は判断するのである。

さて、労働に話を戻せば、我が国における労働にも、教会と似たような効果があると思われるのだ。筆者は、人が働くことに伴う楽しさもないわけではないと思うが、それにしても、我が国における労働の賛美は異常である。日本にはソビエト社会と同じほど、勤労を美徳として、働くことこそ、まっとうな社会人の証であり、働かない人間は、人間でさえないとみなすような風土がある。ひとつ間違えば、それは自主的な囚人を作り出すための思想教育と同じであり、人間の自由よりも、隷従や、抑圧や、束縛を重んじる本末転倒な思想となる。

そして、見渡せば、我が国の労働市場の現状は、ソビエト政権(あるいは教会)と同じように、人間を組織の存続のために容赦なく選別し、踏み台とし、排除する場となっている。社会主義国が、事実上、プロレタリアートを神聖視していたのと同じように、我が国も、労働者を美化することで、これを永久不変の人間のあるべき姿のように目指していると感じられてならない。

だが、こうして人が自由を奪われて抑圧された状態を、望ましい理想のように掲げている限り、我が国における労働は、年々、ますます苦役としての様相を増し加え、勤労者が不憫で気の毒な状態から抜け出せる日も来ない、と思わざるを得ない。

ソビエト政権は、囚人労働まで使って国力を維持しようとしたが、それで国が豊かになることはなかった。ソ連の貧しさ、発想の貧困は、今でも当時を知る人々の記憶にとどめられている。そういう体質、風潮は、今日のロシアにも残っている。なるほど見かけは街や商品が美しくなったように見えるかも知れないが、ソ連時代に教育されて人々に植えつけられた気質は、そう簡単になくなるものではない。特に、抑圧を美化し、不幸を耐え忍び、自由や解放を自ら拒む精神性は、今でも根強く残っていると感じざるを得ない。

だから、結論を述べると、今回の記事では、共謀罪というものは、筆者の目から見れば、すでにずっと前から社会主義国である我が国が、およそ全ての社会主義国が辿った必然的な過程を進む中で登場して来たものに過ぎない。つまり、共謀罪という法案は、国民の自主的な囚人奴隷労働のシステムの完成のために現れて来たのである。

共謀罪の根底には、国家の威信強化のため、官僚制の維持と、大企業の利益と存続のために、我が身を資材として積極的に投げ出す覚悟のない、プロレタリアートの自覚がない人間は、この国の国民としてはふさわしくないので、財産を没収し、強制労働に従事させたい、という意図があったとしてもおかしくない。歴史上、似たようなイデオロギーを持った別な国ではすでに大規模に行われたことであるから、これを妄想として片付けるのは早すぎるであろう。


・人間の定める恣意的な「罪」の概念に振り回されることなく、キリスト者が小羊の贖いの完全性に確固として立ち続ける必要性

さて、ここから先は、信仰の話に戻りたいが、ネット上で起きる出来事は、現実生活において起きる事柄について、筆者に多くの示唆を与えてくれた。そこから学んだ大きな教訓の一つが、人間の考える罪の概念と、神の定める罪の概念の大きなズレであった。

特に、もし共謀罪などというものが成立すれば、そこで定められる「テロ」やら「罪」の定義は、人間が恣意的に解釈するものとなるため、その結果、この法に基づいて、罪人が罪人を罪に定め、万人の万人に対する告発と闘争のような、醜い泥仕合が持ち上がる可能性がある。

だが、たとえそのようにして、人間が人間を訴え、互いに告発し合う、修羅のような社会が広がったとしても、信仰者に必要なのは、ただキリストの義認の永遠性に立脚して、悪魔のいわれない脅しに毅然と立ち向かう姿勢であると筆者は確信している。

人間による罪の定義は、偏っており、不公平で、不完全である。社会は、人間の心身を傷つけ、人間の気分や名誉を害することだけを罪と呼んで、社会的立場が低い者が傷つけられても声をあげない一方で、社会的立場が高く、人々の尊敬や注目を集め、大勢の味方がいる者が傷つけられる時には、我が事のように立腹し、声を上げる。

人はただ自分の心境がいたく傷つけられ、自分の名誉や利益が少しばかり損なわれたというだけの理由でも、他人を罪人呼ばわりし、存在しない嫌疑をかけて誹謗したり、過剰な報復行為に及んで、集団的に痛めつけたりもする凶暴な生き物であるが、ただ人間が傷つけられたというだけの理由では、本当の意味で「罪」と呼べないことは、聖書の御言葉に立脚して主張して行けば分かることである。

人間は、罪について、どこまで行っても、不公平な定義と判断しかできない。だが、神はそのような見方を全くなさらず、人を偏り見ず、しかも、人間の心証を害することを罪とせず、ご自分の御言葉を曲げることを罪とみなされる。

だから、我々は、真に「罪」と呼ばれるにふさわしいものは、一体何なのか、ということを常日頃からよくわきまえておく必要がある。そのことによって、自分自身の身を守ることができるのである。

特に、聖書によれば、悪魔は「日夜、兄弟たちを告発する者」であるから、信者をあることないこと、日々、訴えることをその仕事とし、よすがとしている。これに対して、信者がただ手をこまねいておとなしくその言い分に耳を傾けているようでは、信者には義認の感覚もなくなり、生きる道すらも残らないであろう。

悪魔に立ち向かいなさい、そうすれば、彼はあなたから逃げ去るだろう、という聖書の御言葉が言うのは、この訴える者のいわれなき嫌疑には、毅然と「立ち向かう」ことが必要だという意味であるが、それは「反駁しなさい」という意味を持つと同時に、「悪魔の有罪性を指摘して追い払いなさい」という意味をも含んでいるものと筆者は解釈する。

人があらぬ告発に対して自分を弁護し、自分の正当性と相手の不当性を訴えようとする時には、一定の技術力が必要である。論戦は、格闘技と同じであり、自分が向き合っている相手の特徴と弱点をきちんと見抜いて、取り組み方を考えることが必要である。

あらゆる戦いには防衛と攻撃とがあり、キリスト者の自己防御のためには、小羊の血潮によって保証された自分の潔白と神の守りを微塵も疑わないでいられる揺るぎない信仰が必要となる。信者の攻撃のためには、信者は、真に神の御前で罪とみなされるものは何か、という事実をきちんと踏まえ、悪魔の有罪性を確信し、これを容赦なく追及して訴え、退かない姿勢が必要となる。この防御と攻撃の両者が上手くかみ合えば、どんな者を相手にしたとしても、信者は揺るがされることはない。

キリストが地上におられた時、立派な宗教家である律法学者やパリサイ人たちは、常に御子を罪に定めようとして論戦を挑んだが、キリストはかえって彼らの有罪性をはっきりと指摘された。

筆者がこれまでの経験から分かるのは、人をいわれなく脅し、中傷し、罪に定めようとするような人間は、多くの場合、彼らこそ良心が汚されており、自分は有罪であるという事実を、心の深いところで知っているので、自らの悪事が見抜かれ、暴かれる前に、自分を訴えることのできる潔白な人間をいわれなく罪に定めることで、自分を守ろうとしているだけである。

だから、彼らの良心がすでに汚されているという事実をこちら側が理解し、彼らの弱点に対して彼ら自身が使っているのと同じ方法を適用して、彼らの有罪性を指摘すれば、ほとんどが退散するしかなくなる。

なぜなら、人の自己弁護は、その人の良心が本当に曇りなく明らかでないと、できないからである。罪人も自己弁護するし、悪事を言いぬけようとする。だが、彼らは良心が潔白でないため、自分に対する全ての有罪宣告をことごとく覆すことができるような信念の持ち合わせはないのである。

罪にとらわれている人間は、罪の奴隷であり、打撃が加えられ続ければ、必ずどこかの時点で妥協する。それが罪ある人間の生まれ持った弱点である。

ソビエト政権下では、スターリンによる大粛清の期間には、秘密警察のそれぞれの地域の組織に、逮捕者数のノルマ、銃殺者数のノルマ、強制収容所送りの囚人数がノルマとして極秘に割り当てられた。各地域の秘密警察は、国民の一定数に不当にテロリストの容疑をかけて、逮捕し、拷問により自白を引き出し、あるいは銃殺するか、あるいは強制収容所送りにするか、これを職務上のノルマとして遂行することを求められたのである。

この大量逮捕を実現するために、国家規模で、国家転覆を目的とした大規模なテロ犯罪の容疑がでっち上げられた。スターリンに好ましくない政界の大物を中心として、大規模な秘密のテロ計画があったことにされ、その末端に位置するとの容疑で、一般国民が大量に巻き込まれて逮捕されたのである。

逮捕された中には学生もいれば、アルバイト中の労働者もいれば、主婦もいれば、教師もいた。全くごく普通の生活を送る人々が、突如、職場で、あるいは自宅で、あらぬ容疑をかけられ、あるいは就寝中の真夜中に秘密警察に踏み込まれ、家族の前で連れ去られたのである。だが、そんな不当逮捕にも関わらず、多くの人々は、身内がテロリストの嫌疑をかけられて、警察に連れ去られたことを社会にひた隠しにした。抗議すれば、自分自身も同じ道を辿るだけであると分かっていたからである。隣人や職場の同僚であっても、苦難を分かち合うのは無理であった。そこで、夫を秘密警察に連れ去られた妻が、勤め先では、夫は愛人のもとへ走って自分を捨てたのだと触れ回った例もある。夫が収容所から戻って来た初めて人々は事実が何だったのか理解した。

逮捕された人々の多くは、過酷な拷問や、心理作戦に耐えられず、取調べの途中で司法取引に応じ、当局に指示された通りの嘘の供述、嘘の自白をして、供述書にサインして、自ら犯してもいない犯罪を認めた。その中には、家族や知人に迷惑をかけたくないので取引に応じたとか、親しい誰かに裏切られたショックに耐えられなかったとか、様々な理由があり、人々の心理を熟知した上で、取調官は、できるだけ早く自白を引き出すために、彼らの尋問に当たったのである。

筆者が不思議に思うのは、もしソビエト当局が、警察に逮捕者、銃殺者、強制収容所送りのノルマを課すなら、初めから有無を言わせず有罪という結果を人々に押しつけることもできたはずであり、なぜわざわざ人を痛めつけ、恐怖を抱かせるという手の込んだ手法を使ってまで、時間のかかる嘘の自白を強要したのだろうか、という点である。そこでは、あらゆる証拠よりも、自白こそ最も有力な手がかりとされたわけだが、容疑のみならず、供述書も、果ては自白すらもでっちあげられる状況で、なぜ彼らは嘘の自白の有無にそれほどこだわったのだろうか。

ここに、明らかに国家権力の側からの一方的な暴力だけでなく、人々がそれにどう応じるかという自主性を確かめる余地がある様子を見る。不思議なことに、人間の人生には、特に残酷な時代には、多くのことが、抵抗できない不可抗力のように降りかかるように見えても、実は、その中にも、一抹の自己決定の余地が残されている場合がある。そして、この一抹の関与の余地にどう応答するかが、人にとって極めて重要な問題なのである。信仰者にとっては、これこそ、悪魔の嘘に対して、どう応答するのかを示すとても良い機会なのだ。

以上のような、ソ連で行われたでっちあげの大規模テロ犯罪の容疑と、それに伴う国民の大量逮捕などという恐るべき出来事は、今日の日本には起きない、と人々は言うかも知れない。だが、共謀罪は、そのような国家規模の捏造された事件を生まない保証はなく、さらに、類似した事件は、はるかに小さい規模で、信者の人生には毎日のように起きている。

信者は、毎日、毎瞬、訴える者の告発や脅かしに対してどう向き合うかという選択を迫られているのである。そして、筆者がここで言えるのは次の通りである。

信者は、本来、自分に効力を持つはずのない、魔法のようにいい加減な他人の言葉を信じず、人間が恣意的に定めただけの不安定な罪の概念をも信じず、永遠に変わらない聖書の御言葉が何を言っているかだけに立脚して物事を考える必要がある。

人間は過ちの多い存在であるが、それにも関わらず、キリストの贖いの血潮の効力が永遠である以上、血潮により頼んでいるキリスト者を罪に定めることのできる者は、地上に誰一人としていないのである。その事実は、信者がそこに立ち続けるなら、信仰を通じて現実世界にまで波及する。これが分かると、キリスト者の生き方は変わるであろう。

筆者は上記で、社会主義国が賛美していたプロレタリアートとは、人間の抑圧された状態であって、労働を賛美する人々は、己の罪なる呪われた状態を賛美しているのにも等しいということを述べた。別の言い方をすれば、己の罪を己の努力によって贖う終わりなき苦役を、彼らは賛美しているのであって、労働とは、人類による決して叶うことのない自己救済の方法なのである。

今日、事実上の社会主義国である我が国においても、同様の思想が奨励され、教会に所属している信者が、所属していない信者を見下して、自分は救われており安全だと誇るのと同じように、正社員になったとか、役員になったとか、理事になったとか、どこの団体に所属しているとか、どんな立派な企業や組織に身を置いて、どんな立場や肩書を持って、どれほどの俸給をもらっているかに立脚して、己の完全性を誇ろうとする者は多い。

だが、そんな彼らの義認は、彼らの所属先が奪われた瞬間に、はかなく消え去るであろう。もともと、人間に過ぎない者が、己の罪を自分の努力によって贖うことはできず、所属団体に尽くしたことによって免罪してもらうのは無理なのである。

だから、生まれながらの罪人は、どのように自己救済の努力としての労働を褒めたたえ、自分を選民だと豪語し、己の権力によって他者を脅かし、踏みつけにしようとしても、もしその人間が、救いを知らない単なる罪人であるなら、あるいは、神の御言葉を知りながら、それに従わない罪人であるなら、彼らは結局、自分の罪の奴隷でしかないのである。

そうである限り、罪の奴隷である人間は、一歩たりともその終わりなき贖いという苦役の外に出られない。たとえ無限大の権力を誇っているかのように振る舞い、どんなに支持者が数多くいても、その強大な権力は単なる見せかけであって、彼は自分自身の罪に束縛されて、そこから自由になれず、罪の中に生き、死んで行くしかないのである。その本質を見抜けば、彼らの限界がはっきりと理解でき、その人々が振り回す恣意的な「罪」の概念による脅しは、嘘のように消えて行くだろう。

だから、当記事では、共謀罪の成立を全力で阻止せよという政治的な主張を述べるよりも前に、悪魔的思想に息吹かれた人々が、どんなに無実のクリスチャンを訴え、迫害しようと願ったとしても、クリスチャンには、これを超越するだけのキリストの義認がある、という事実を語ったのである。共謀罪などというものが成立しようとすまいと、小羊の血潮の過越の中にある信者には、悪魔は手を触れることができないのであり、かえって、聖徒を罪に定めようとする人間の方が、それによって罪に定められることであろう。共謀罪が想定する罪状が千になろうと、一万になろうと、それは変わらない。

もともとあらゆる法体系は、人間の良心から出て来たものであり、書かれた文字が全てなのではない。法には、それを超える人間の見えない良心の体系が存在する。最近、イタリアの最高裁では、飢えた者が少量のパンを盗んでも罪には当たらないという判決が出されたそうだ(「「飢えた時、食べ物を少し盗むのは罪ではない」イタリア最高裁の判決とは」 ハフィントンポスト 更新: 2016年05月12日 12時35分 JST )が、それもまた、法の適用にはどんなものであれ、例外が確実に存在することと、法とは本来的に、人間の良心に照らし合わせて解釈すべきものだということを表しているに過ぎない。

そして、人間がどんな悪法を定め、どんなに厳格にそれを人々に適用しようとしても、それは決して律法以上の効力とはならない。この律法による罪定めをキリストは廃棄して、ご自分の霊を通して、律法を信じる者の心に焼きつけたのであるから、この律法によって裁かれ、律法に対して死んだキリスト者は、もはや律法によって罪定めされない自由を持っているのである。だから、キリスト者こそ、本当の意味で、この世の法体系を超える超法的な存在なのだと言って良い。地上にどんな法があっても、キリストに連なる信者を罪に定められる法は事実上、存在しない。小羊の贖いの義認は、この世の全ての体系を超えるのである。

逆に、懸念されるのは、カルト監視機構に賛成していたような教会の行く末である。もしもこの先、キリスト教が「政府に逆らう危険な宗教」と認定されて、信者が教会に集うこともできなくなれば、「教会を離れれば救いを失う」などと言っていた信徒たちは、どこへ行くのであろうか。何しろ、エキュメニズムなどというものが存在する教界であるから、その日には、彼らは「神はキリスト者だけの神ではなく、統一教会の信者の神でもある」などと言って、統一教会にも喜んで合流して行くかも知れない。