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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(10)―義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

村上密が挑発的な記事を書いている。

自分は全国行脚の旅に出ており、各地から引っ張りだこで、宗教トラブル相談センターへの相談は尽きないという。

筆者の著作者人格権を侵害し、筆者を刑事告訴したとブログで発表し、控訴審で名誉毀損を主張されても、仮に自分が刑事告訴されたとしても、そんなことでは、自分の率いるセンターはびくともしないと言いたいらしい。

まるで「ヴィオロンよ、俺の首を討ち取ってみろ、そんなことができるわけがない。センターは永遠だ」と言いたげな記事に感じられる。

だが、このような状況で、このようなことしか書けないとは、本当に愚かなことであると筆者は思う。こうした話には、「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」(箴言16:18)との御言葉を繰り返すのみである。

村上はこれまで高慢さゆえに、ことごとく自らの言葉につまずいて来た。むしろ、筆者にとって、村上がこのような多忙状況に置かれていると知らされることは、まさに幸い以外の何物でもない。

ここ一年間、筆者は民事訴訟における戦い方を学んできた。次回期日までに一カ月程度の時間しかない中、複数の仕事をかけ持ちしながら、準備書面を用意することは、並大抵の苦労ではない。しかも、筆者はそれを2名の被告相手に、他の様々な煩雑な作業と並行して成し遂げて来たのである。

その作業が、これから村上に落ちかかることとなる。控訴審では、村上は本格的な防御に回らなければならないからだ。これまでのように、杉本を盾のように利用しながら、杉本と筆者との全面対決を傍観者的に見ていられる立場ではなくなったのである。

控訴審で村上とどのような議論になるか、そのロジックの基本部分は、判決では全く認められなかった杉本の書面からも十分に拝借できる。むろん、第一審でも、筆者はそれを利用したが、筆者はこれから杉本の主張を裏返しにして、村上に適用して行くことになる。まずは真実性・相当性の法理である。

村上は私人ではない。TVの記者会見に出演し、数多くのカルト被害者の訴訟にも支援者として関わり、宗教トラブル相談センターを率いて、自らカルト問題の専門家を名乗っている著名な牧師である。以上の記事でも、村上自身が、自分は全国から引っ張りだこになっているかを強調している通り、村上の活動は、社会の関心事であり、それゆえ、村上の活動を筆者が批判したとしても、その内容が公共の具体的な利害に関係しており、なおかつ、摘示した事実が真実もしくは真実であると信ずるに相当な理由があり、その批判の目的が、もっぱら公益を図ることにあれば、その批判が、村上の社会的な評価を低下させるものであったとしても、名誉毀損とはならず、違法性阻却事由に該当する。

それに引き換え、筆者は私人であり、筆者の執筆しているブログも限定されたテーマであるから、それに対する非難が公共性のあるものと言えないことは一審でも認められている。

そこで、村上はこの先、筆者の記事がなぜ違法性阻却事由に該当しないと言えるのかを自ら証明し、さらに、村上が発表した記事が、筆者に対する名誉毀損にも該当しないことを自ら証明するという二段階の論証をせねばならない。

その他にも、そもそも刑事告訴がなされたのかどうか、これを客観的に立証するのも、村上の仕事だ。

それに加えて、村上は4月1に発表した人格権の侵害が不法行為に当たらないことをも主張して、自己防御せねばならないが、こうしたことは、すべて相当な困難を極める作業となるはずである。

しかも、村上は一審判決が言い渡されるや否や、すぐに筆者の人格権を侵害しつつ、事件について触れた記事を発表し、さらに筆者が控訴したことを、筆者に先んじて発表し、それ以外にも、筆者を名指しで批判する記事を発表している。

こうした一連の記事に、筆者は当然ながら、反論する権利を有する。ただ反論内容が気に入らないということで、名誉毀損が成立するはずもない。

そこで、村上が主張している名誉毀損が、成立の条件を満たしていない場合には、当然ながら、虚偽告訴罪が視野に入って来ることになる。民事でまず村上の主張を崩し、次に刑事事件でこれを無効化し、最終的には、虚偽告訴罪を主張して行くという段取りになるだろう。

このように、村上が軽率にブログで蒔いたいくつもの種は、これからことごとく村上に極めて厄介な問題となって跳ね返るものばかりである。正直に言えば、今の筆者から見て、村上が今、専念すべきは、宗教トラブル相談センターの活動を自慢することではなく、この訴訟において、これだけ不利な要素を抱えながら、確実に勝利できる手立てを必死に考えることである。
 
筆者から見て、村上が以上に挙げた問題について、不法行為を主張されないための十分な反論を行うこと自体が極めて困難であるばかりか、村上が現在のように訴訟を見くびった態度で、他の仕事に専念している状態では、到底、勝つことはできない。

準備書面を作成するのは、ただでさえ全国を忙しく飛び回っている牧師には、相当な負担となるであろう。きちんとした論を展開するためには、まとまった時間が必要であり、何より自由に物事を熟考するための余裕が必要である。

いくつもの仕事の合間に、細切れに文書を作成することは、極めて難しく、思考がとぎれとぎれになり、主張が明確化できない。論敵に反論するのは、ただでさえ厭わしい仕事であるから、逃避の手段が他にあれば、すぐにそこから逃げてしまうのが人間である。

自分の考えもまとまらないうちに、下手に弁護士に丸投げすると、ますます支離滅裂で筋の通らない理屈を立てられ、敗北へと誘導されるだけである。

筆者は、訴訟が時間との戦いであり、主が采配して下さらなければ、このような戦いを完遂するための条件を、自力で整えることは不可能であることを知っている。

訴訟に勝つためのポイントは、まずは時間的制約という問題を取り払い、この問題において、論敵よりも圧倒的優位に立つことである。

別の言葉で言えば、その争いにどれほど強い思い入れがあり、自分の望む結果を得るために、どれほど時間と労力を惜しみなく投入できるかが、勝敗を分ける。勝つためのロジックは、まず時間的余裕があって初めて生まれる。時間と労力において、論敵よりも不利に立たされながら、訴訟で勝利をおさめることは、まず不可能なのである。

そこで、この時間的制約という厄介な問題を、可能な限り取り払うためには、何よりも、自由であることが必要だ。この問題は、訴訟だけでなく、すべての物事に共通する。自由こそ、勝利のための基礎なのである。

そこで、多くの人々から呼びつけられ、歓迎され、引っ張りだこにされていることは、「これだけ私は社会で必要とされているのだ」という満足感を本人にもたらし、自慢話の種にはなるかも知れないが、それは裏を返せば、自分の必要のためでなく、人々の必要のために、絶えず時間を費やさせられ、奔走させられていることを意味するから、自己を防御するための時間は、その合間にしか残らない。このような状態は、極めて無防備と言えるのであって、こちらから見れば、まさしく好都合でしかないのである。

村上が控訴審の議論も、A4・3枚で事足りると考えているのかどうかは知らないが、その「簡潔な」書面で、以上のような極めて複雑で厄介な問題をどのように整理できるのか、まずはお手並み拝見と言えよう。繰り返すが、弁護士に依頼したからと言って、本人がきちんと考えてもいないものを、弁護士でさえ補えない。唐沢治の弁護士が作成したような書面では、ほぼ勝ち目がないことは、はっきり断言できよう。

神の御前で本質的に重要な事柄をおざなりにしながら、自分の栄光のために東奔西走したとしても、それは滅びにしかつながらない。心を静かにして、御前に立ち止まり、人間の思惑から離れたところで、自分の問題をすべて主に委ね、心を注ぎだして解決を求める謙虚さが必要である。

* * *
 
さて、掲示板では、ビュン事件の性暴力の被害者もしくはその関係者と見られる信者(?)の女性が、当ブログをひどく中傷し、おびただしい数の権利侵害を繰り返しながら、当ブログが性被害事件に理解がないと責めている。

だが、こうした言い分に流されて、カルト被害者を巡る裁判に肩入れすることが、いかに危険であるかを考えてもらいたいと筆者は思う。

掲示板では、次のような趣旨の投稿があるのを筆者は読んだ。2009-2010年にかけて、「唐沢治から密室で呪いの予言を受けた」と杉本ブログに書き込んだKFCの元信者が、当時、杉本ブログの関係者に被害を訴えて泣きついたところ、このブログに深く関わっていた黒幕のような人物から、唐沢に対して訴訟を起こせ、さもなくば、俺たちに金を払え、と脅され、元信徒は杉本ブログを取り巻いているヤクザのような連中に恐れをなして、彼らの陣営から逃げ出したのだと。

むろん、こういった話の真偽のほどは定かではないが、これは十分にあり得ることだと筆者は考えている。ここに、なぜカルト被害者救済活動の支持者らが、訴訟にこだわるのかという理由がよく表れているものと思う。

つまり、KFCの元信徒の訴えた被害は、カルト被害者救済活動の陣営にとっては、新たな訴訟を起こして賠償金をせしめる絶好のチャンスと映ったと考えられるのだ。彼らは元信徒の訴訟を助けるように見せかけて、これにたかり、賠償金をせしめようと考え、元信徒を訴訟に焚きつけようとしたが、元信徒がこれをためらったので、目当てとしていた金が手に入らないと踏んで、手のひらを返して彼を恫喝し始めたのである。まあ、ゆすり、たかりのようなものであろう。

安易にカルト被害者救済活動に接触すると、このようなひどい目に遭わされるという教訓である。また、訴訟を支援するように見せかけている人々の本当の目的が、被害の克服にではなく、訴訟で得られる金にある様子もよく見えて来る。

掲示板でも指摘されている通り、ビュン・ジェーチャンの事件では、被害者は民事で四桁の賠償を勝ち取った。むろん、性被害事件のすべてがこのような高額の賠償で終わるわけではない。むしろ、個人が性被害を訴えた事件では、被害の認定さえも行なわれないで、敗訴に終わるケースは少なくない。

その点、ビュン事件は、被害者が団結してメディアなどでも被害を訴え、世間から注目されていたことなど、様々な条件が有利に働いて、以上の結果が出た。もちろん、このような好条件が整えられたのも、カルト被害者救済活動の側からの効果的な演出によるもので、偶然ではないと見てよかろう。

だが、それゆえに、おそらくは、この事件で被害者に支払われた賠償金の何割かは、この訴訟をバックアップした陰の支援者たちに、「謝礼金」としてキックバックされたのではないかと考えられる。

むろん、こうした話は、闇から闇へと消えて行くものであって、確かな証拠を提示することは難しいとはいえ、業界の常識を考える限り、暗黙の了解として、そういうことが行われているのではないかと考えるのは妥当である。

たとえば、音楽の業界でもこういうことがある。バイオリンを習っている生徒が、新たな楽器を購入したいと考えて、自分の師匠に相談したとして、師匠が懇意にしている楽器商を生徒に紹介し、生徒がその楽器商から新たな楽器を購入すれば、その購入代金の3割程度が、楽器商から紹介した師匠にキックバックされる。

あるいは、労働紛争を考えてみれば、もっと分かりやすい。労働紛争を専門に担当している弁護士、NPO法人、ユニオン、組合などは、すべてボランティアではなく、成功報酬型の商売である。彼らは労働者を助けてやると言いいつつ、労働者の問題にたかって利益を得ている。労働者の訴訟を支援する代わりに、勝訴した場合の賠償金の少なくとも2割程度は、成功報酬として彼らに差し出される。

従って、労働紛争も、被害者ビジネスとして大いに利用されているのであって、訴訟の支援者たちは、成功報酬の一部を受け取ることで、それを利益としている。その中で、カルト被害者の裁判だけが、例外ということはまず考えられない。四桁の賠償金の2~3割となれば、相当な金額に上る。
 
つまり、カルト被害者の裁判は、これを陰から支援している代理人や支援者にとっては、実に美味しいビジネスになりうるということなのである。
 
筆者は、杉本徳久のような人物が、カルト被害者から恒常的にキックバックを受けていたと言っているわけではない。むしろ、杉本ブログは、特に初めの頃は、カルト被害者の裁判をビジネスの手段としている人々に、都合の良い宣伝広報係として、大いに利用されていた可能性があるものと思う。

このように、KFCの元信徒を巡る話を考えてみる限り、非常に強欲な勢力が、杉本ブログの背後に着いていて、金儲けのために、杉本にどんどん被害者の訴訟に関する記事を発表させたり、杉本ブログに助けを求めてやって来る被害者を食い物にしようと待ち構えていた可能性が、考えられないことではないのだ。

そこで、いかに真偽のほどは分からないとはいえ、訴訟を巡っては、実際に高額の金銭が動くのであって、表向きの美談だけを見て、カルト被害者の支援者を名乗る者たちが、正義の味方だなどと思い込むことは、極めて浅はかかつ危険であると筆者はみなしている。

カルト被害者の訴訟を、ビジネスの手段として利用している様々な勢力が存在している可能性があること、彼らが被害者の弱みにたかり、栄光と金をむしり取っている可能性があることを疑ってみなければならないのだ。
 
そしておそらく、2009年当時から、それがすでに実状となっていたからこそ、被害者意識が(加害者意識と表裏一体の)罪深いものであることを指摘し、これを聖書にさからう悪として、神の御前に投げ捨てる必要を訴え、被害者を一方的に美化する活動の危険を訴え続けて来た当ブログは、カルト被害者救済活動の陣営から見れば、非常に目障りだったのだと言えよう。

むろん、村上密も、カルト被害者の裁判に、支援者・代理人として関わっている。上記の記事で、村上は、「北海道の山々はまだ雪に覆われている。ここでの仕事が終われば沖縄での仕事が待っている。それから富山、茨城、神奈川、東京、大阪、奈良、石川、宮城、沖縄、東京、福島。宮城、奈良、東京、大阪、沖縄と二月間の巡回の予定である。」と記しているが、こうした活動も、基本的には、被害者の相談に乗ったり、被害者の会合に参加することを指しているものと見られる。

だが、一体、それだけの旅費・交通費はどこから出るのか、という疑問が湧いて来るのは当然であろう。まさか京都七條基督教会が単独でそこまで負担するはずもない。だとすれば、その旅費の大半は、おそらくは村上を招いた人々が自主的に負担しているのだろうと見られる。

もちろん、旅費のみならず、牧師を招聘し、メッセージやカウンセリングを依頼するとなれば、招聘した側の人々は、それにも謝礼を支払うであろう。だが、そうした献金は、活動報告と共に、京都七條教会の会計に上がって来ることはないものと考えられる。

従って、カルト被害者救済活動には、訴訟における賠償金のキックバックだけでなく、こうした日常的な活動においても、誰の目にも触れないところで、被害者から牧師に渡される極めて不透明な資金の流れがあることが予想される。

これは村上に限ったことではない。村上の登場以前から行われていた、統一教会からの信者脱会運動などにも同様に当てはまることである。カルト被害者の家族が、カルト宗教の信者となっている娘息子の脱会を牧師に依頼した場合、その牧師に、娘息子が取り戻されてから直接、手渡した謝礼金というものが存在するはずである。それは教会の一般の会計報告には上がって来ない、闇から闇へと消える金である。そして、おそらくは、この不透明な資金の流れこそが、一部の人々が、いつまでもカルト被害者救済活動から離れられない理由ではないかと筆者は見ている。
 
カルト被害者たちは、裁判を起こせば、勝訴した後も、被害者の会を結成し、いついつまでも、訴訟を支援した者に、「先生、ありがとうございました」と頭を下げつつ、定期的に支援者を自分たちの会合に招いて集会を持つ。彼らは、それが立ち直りのために必要なことであると考え、自分たちはこの先生に助けられてこそ、今の人生があると考えているので、招聘の度ごとに、食費、旅費、交通費、謝礼金などを喜んで負担する。その他、相談料、献金など、様々な名目で金銭の受け渡しや便宜供与が行われる。

もちろん、そのような会合を何度重ねたところで、彼らはキリストに至り着くことなく、心の解放を得られるわけでもない。むしろ、生涯に渡り、訴訟の代理人・支援者となった者と、心の癒着が生じ、受けた被害から離れられなくなって行くだけなのである。
  
今後の記事では、このようにビジネスとして他者から食い物にされないためにも、人が被害者意識そのものを捨てることの必要性について触れたいと考えている。特に、性被害事件のトラウマを引きずり続けることは、人間の男女の健全な関わりを生涯に渡って壊してしまう恐れがあるだけでなく、神と人との関係をも、根本から破壊する恐れがあるためである。

聖書によれば、神と人との関係は、小羊とエクレシアの婚姻になぞらえられている。そこで、性被害事件の被害者が、その事件のトラウマのために、地上における男女の健全な関わりのイメージが傷つけられ、穢され、壊されたままで、小羊とエクレシアとの婚姻の問題だけを、健全に考慮するということは、非常に難しいであろうと考えられる。

つまり、地上において受けた被害が、魂の傷となるだけでなく、霊的にも非常に深い傷となって残り、神との正常な関係を妨げ、傷つける恐れがあるのだ。

筆者は、何らかの事件に遭遇すれば、合法かつ正当なやり方で、これを解決することに反対するつもりはない。物損事故は、弁償されればすぐに終わるであろうし、名誉毀損事件も、賠償で終えられるかも知れないが、性被害事件のような事件のトラウマは、決して金銭で解決できる種類のものではない。受けた心のトラウマは、どれほど高額な賠償を得たとしても、それによって払拭されない。

そこで、受けた被害を神の御許に持って行くという行程が必要となる。だが、カルト被害者救済活動の支持者たちは、いついつまでも被害の思い出から離れることなく、決してその傷を神の御許へ持って行き、解消するよう促さず、かえって被害者であることを強調しつつ、まるで被害を記念するような会合を持ち続けている。

そのようなことをしている限り、彼らのトラウマは、消え去るどころか、ますます強化される一方である。そして、健全な自己イメージを回復できず、かえって傷つけられた自己イメージを、あたかも正常な自分自身であるかのように勘違いし、その結果として、地上における男女の健全な関わりが不可能になるだけでなく、神との関係においても、傷つけられた自己イメージを持ち続けることによって、恵みから疎外されることとなり、やがてその被害者意識が、キリストの完全性に悪質に逆らう罪にさえなって行く。

筆者の書いていることが厳しすぎると考える人々がいれば、掲示板で、今、カルト被害者を擁護する人々が、当ブログに対して、どれほど悪質な誹謗中傷を加えているかを見てみれば良い。このような汚い言葉を他者に向かって平然と吐き捨てることができる人たちが、本当に被害者の味方であろうか。また、仮に自身が被害者であったとしても、自分を憐れむあまり、他者に対してこうまで残酷となり、狼藉を加えることがどうして許されるであろうか。

しかし、当ブログでは10年ほど前から、カルト被害者を名乗る人々に接触し、彼らの中には、このようにまで自分の被害から離れられなくなり、自分は受けた被害のゆえに、自分は人々から無条件に憐れまれるべきで、何をしても許されると思い込むほどまでに、人格が腐敗し、幼稚化してしまった人たちが混じっていることを見て来た。

こうした被害者意識をこそ、私たちは主と共なる十字架において死に渡し、手放して行く必要がある。裁判で社会的決着が着いた後も、いついつまでも被害を記念すべき会合など持ち続けて、支援者を名乗る人々に束縛され、利用されている場合ではない。その被害の思い出そのものを、罪深いものとして手放し、きっぱりと捨て去って、新たな出発を遂げ、被害者であるというステータスと訣別しなければ、その被害は、やがて山火事のように、あなた自身を食い尽くすことになろう。

当ブログは、聖書の御言葉に基づく信仰に立つものであるから、性被害を訴えることが目的でもなければ、カルト被害者の裁判の模様を発表することを目的ともしておらず、カルト被害者を擁護することも目的としていない。それゆえ、カルト宗教における性被害の問題は、ほとんど取り上げることもなく、詩織さん事件などについても、これまで何も言及して来なかった。

筆者は、詩織さんの事件についても、深い懐疑の念を持っている。それは、詩織さんという一人の女性が、あまりにも美化され、彼女がまるで性被害事件の象徴のようになって、一人歩きしていることに、大いなる疑問を感じるからである。自分が遭遇した一過性の事件として、彼女がこれを解決するならば、それは大いにすれば良いことである。もちろん、弱さを抱えている若者を食い物にする現在の日本社会の問題も一緒に論じられることは構わない。

だが、当ブログが懐疑するのは、彼女に群がって、彼女を美化し、神話化し、象徴化し、生涯に渡り、彼女を性被害を受けた被害者の象徴として祀り上げ、これを存分に利用しようとしている実に数多くの人々や団体があることである。

そして、それに利用されれば、彼女は生涯に渡り、自分が受けた一過性の被害から抜け出ることができなくなり、自分の人生を失って、絶えず被害者の象徴として、無数の人々の被害を代弁しながら、悲劇の人として生きて行くことになるであろう。そして、そのような役割を、もしも彼女が喜んで引き受けるとすれば、そこには、ただ彼女を担ぎ上げた団体や人々の思惑が働いているだけでなく、彼女自身がこの事件に遭遇するよりも前から、心に持ち続けていた何かの問題、弱者性から抜け出ることのできない世界観が、影響を与えているのではないかと筆者は見ている。(彼女の世界観がどのようなものであるかは、彼女が制作した作品を見れば分かるであろう。)

つまり、当ブログでもずっと主張しているように、カルト被害者が、被害に遭遇したのには、何かの理由が存在するのであって、被害者はいかなる心の弱さが自分の側にあって、それが暗闇の勢力がつけこむ隙となったのかについて、よく考えてみなければならない。この問題を考えるよう促すことは、断じてセカンドレイプではない。なぜなら、弱さがあればこそ、被害者はつけこまれたのであって、そこには、当然、心の弱さも含まれており、その弱さを克服することができなければ、何度でも、同様の問題に巻き込まれることがありうるからである。

神はキリストにあって、私たちを完全にしようと願っておられる。そこで、私たちは、その完全性を受けとるために、自分の弱さを知り、それを神の完全に逆らうものとして手放しつつ、その弱さを主にあって補われ、克服できることを知らなければならない。自分は弱いかも知れないが、神の強さによって覆われる道が開かれているのだから、いつまでも弱さの中にとどまり続ける必要がはない。

事件に立ち向かうことを通して、自分自身の心の中にも、克服すべき弱さが存在することを知って、その領域を光によって照らされ、より完全な人としての自己意識へたどり着くことが必要である。
 
筆者が述べていることの意味がまだ分からないという人のために、別なたとえを述べよう。筆者が掲示板の誹謗中傷の書き込みを、名誉毀損の被害として訴訟で訴えたとして、それは単に一過性の事件に過ぎない。筆者はそれを機に、生涯、掲示板における誹謗中傷の問題を世に訴え、これと戦うために、活動家に転身しようなどとは全く思わないし、そのようなことは実に馬鹿げたことである。投稿者が判明し、賠償をさせれば、その時点で、何が書かれたにせよ、その問題は、以後、終わったものとして考えるだろう。

それなのに、一度、掲示板の投稿者を敗北に追い込んだことで、これをいつまでも掲示板への勝利の記念として、会合を開いては、そこにいかなる誹謗中傷が書かれたのか、つぶさに文言を読み上げて、自分がどれほどそれによって深く傷つけられたかを思い出し、涙を流すようなことは決してしない。むしろ、毅然と立ち向かったがゆえに、敵の嘘をきっぱり退けて、この問題を克服し、虚偽の投稿によって自分の心を傷つけられず、それを鵜呑みにすることもなく、心の平和を無事に保ったことをこそ、喜ぶであろう。

もちろん、そうなるまでには、多くの月日が必要かも知れないが、一旦、一つの問題を解決したならば、もはやそれは心に影響を及ぼすことはない。その後、筆者はまた別のより困難な問題に取り組むかも知れないが、それは、掲示板とは全く別の新しい問題である。筆者はその新たな問題をも克服して、前進して行くであろう。このようにして、絶え間なく前に進んで行き、そこで自分の心の弱さと取っ組み合って、これを打破し、勝利をおさめ、さらに前進して行くためにこそ、人は試練に遭遇するのだと筆者は考えている。

従って、一つの課題をクリアしたのに、その問題にいついつまでもとどまり続け、いついつまでもとらわれ続けることは、有害である。一つの問題を解決したならば、それを後にして、前に進んで行くべきなのである。

このように、起きた事件を一過性のものとして決着をつけることと、生涯、自分をその問題の被害者の立場に置いて生きていくことは、全くわけが違う。だが、被害者に群がって、これをビジネス化する人々は、被害者の像を無限大に美化し、神話のように祀り上げることによって、かえって被害者が生涯に渡り、その問題に束縛され、被害者としてのステータスから抜け出るチャンスを失うように仕向ける。

その結果、彼らは、神にあって約束されている健全さ、完全性を見失い、傷つけられた自己イメージを生涯に渡って持ち続けることになり、その中を生きるようになる。一つの問題を克服して、次なる次元に進むことさえ、できなくなって、生涯、一つの問題の中だけにとどまり、それにとらわれて前進することができなくなってしまう。そのようにして、被害者自身もそうだが、それに群がる無数の人々が、被害者の像を美化することで、被害者を「被害者性」の中に閉じ込め、永遠にそこから抜け出せないように仕向けて行くことは、神が約束された人間の自由と解放に悪質に逆らう行為であり、非常に罪深い行為であると筆者はみなしている。

* * *

さて、本日の当ブログのテーマに戻ろう。まず最初に、オリーブ園に掲載されているオースチンスパークスの論説を挙げておきたい。この記事には、キリストと教会の結婚の奥義について、詳しく書いてあるからである。
 

 「キリストとの合一」第五章 夫婦の合一(4)


交わりと配偶

 これを二、三の単純な、自明と思われる点にまとめることにしましょう。最初のアダムの最初の夫婦関係という絵図・型に沿って、これに注目して調べることにします。そして、「これに関する神の御思いは何だろう」と問うことにします。そうするなら、それらの御思いを、あらゆる関係の中で最も幸いな関係の中にあるキリストと教会、キリストと私たちに適用することができます――確かに、これはキリストとのすべての関係の中で最も幸いな関係です。神の御思いは何だったのでしょう?

 まず第一に、聖書が示すところによると、神が女を創造してこの合一を生み出そうとされたのは配偶のためでした。「人が一人でいるのはよくない」(創二・一八)。これに尽きます。しかし、それには豊かな内容があります。これをキリストと教会に適用するのはおこがましく思われますが、それでも、キリストに対する教会の関係――教会はキリストの妻です――には、これを確証・証明する多くの他の要素や特徴があります。

これはこれだけではありません。旧約聖書の中には花嫁の型がとてもたくさんあり、その思想をキリストと教会に適用するに足る十分な証拠に満ちています。それらがキリストと教会を指し示している証拠や証しがふんだんにあります。今はその学びに取りかかるつもりはありませんが、確かにあります。証拠はたくさんあります。ですから、おこがましく思われるかもしれませんが、私たちはこの点を私たちの主との私たちの関係に適用することができます。すなわち、教会を神が創造されたのは、御子の益を促すためであり、御子のために配偶を願ってのことだったのです。

 地上におられた時の主イエスを見ると、彼がどれほど交わりを求めておられたのかを見落とすことはありえません。おそらく、彼が語られた最も悲しい言葉の一つは――「あなたたちは(中略)私を独り残すでしょう。しかし、私は独りではありません。父が私と共におられるからです」(ヨハ一六・三二)という言葉です。これによって彼の発言が弱まったり相対化されるわけではありませんが、「私は独りです」という彼の言葉には悲しい響きがあります。彼が常に配偶を求めておられたことは自明です。彼は人であり、他者の必要を感じておられました。それは神聖なものです。キリストは交わりを求めておられます――「交わり」というこの言葉を取り上げる新約聖書の方法は素晴らしいです。これは何と豊かな言葉でしょう!自分のコンコーダンスを調べてみてください。そうすれば、「交わり」というこの言葉の原語がわかります。そうするだけでも豊かな学びと黙想になります。確かに、とても貴重な経験になります。「あなたたちは御子の交わりの中に召されたのです」(一コリ一・九)

 これは、まず、夫婦の合一、配偶もしくは交わりの思想、観念を表しています。第一に、配偶に先立つ交わりは交わりにすぎません。この関係の最初の調べ、支配的調べはまさに交わりです。

 交わりとは何でしょう?交わりは生活と目的の一体化です。キリストは生活と目的が御自身と同じ人々、御自身の心と一つ心である人々を望まれました。あなたや私はそのような関係の中に召されました。あなたや私が主イエスに、御自身の生活や目的と一体化した人々を求める深い心の願いと願望を起こさせなければならないとは、高遠なことであり、聖なることであり、貴いことです。今述べるのはこれだけですが、これが夫婦の合一の意義の第一歩です。



ここに、キリストと信者(エクレシア)の交わりの本質は、「生活と目的の一体化」であると記されていることは、注目に値する。

なぜなら、数多くの信者が、キリストとの交わりとは、日曜礼拝に参加することや、甘美な讃美歌の調べに身を委ねること、説教を聞くこと、パン裂きの儀式に関わることや、兄弟姉妹と交流することなど、何か宗教的な名目のついた心地よい体験に浸ることだと勘違いしているからである。

もしくは、ある日突然、天から神の啓示が下り、キリストが自分に対して特別にご自身を現して下さり、何か尋常でない恍惚体験に浸ることを、神との交わりであるかのように勘違いしているる人々もいる。

確かに、神は信じる者に、ご自身を啓示して下さることがないわけではないが、オースチンスパークスは、以上のような感覚的な享楽や、恍惚体験が、神との交わりであるかのような考えをきっぱり退け、主との交わりとは、「生活と目的の一体化」であると断言する。

そこからも分かる通り、主との交わりとは、信者の生活のあらゆる場面が、ただ一つの目的――御国の前進、御心の実現――のために集約されて行くことを言う。別の言葉で言えば、それは信者が、自分の人生のすべてを神のために捧げ、神の満足のために生きることを言う。

それは決して信者が神学校に行って牧師になったり、伝道師や宣教師になったりすることを意味しない。

信者の人生の一瞬一瞬のすべてが、ただキリストのために、キリストの満足を目的として捧げられることを指している。

パウロは自分に与えられた人生の時間を、すべて主のために注ぎだしたいと考えた。彼はただ神の満足のために生きたいと願っていたので、それゆえ、自分の時間をそれ以外のことに費やすことを惜しんだのである。

もしもパウロが地上で妻を得れば、彼は伴侶を喜ばせるために、たくさんの気を遣わなければならなかったろう。子がいれば、多くの世話をしてやらねばならない。家庭を持てば、パウロ自身も、満たされることはあるかも知れないが、彼は感覚的満足と引き換えに、自分の時間と労力を、人間のために捧げねばならなくなる。だが、パウロは、自分の持てる時間を、自分の満足のためでなく、神の満足のために捧げたいと考えた。

パウロが誰よりも喜ばせたいと考えていた相手は、人ではなく神であり、そうすることが、他のどんな事柄りも尊い価値ある生き方であることを、彼は知っていたのである。

さて、オースチンスパークスの論説からも伺えるのは、神の悲しいまでの孤独、配偶を得たいと願われる切なる御思いである。

「人が一人でいるのはよくない」(創二・一八)――この言葉は、神の独り言と言って差し支えない。神は天地を創造され、人を創造された際、人(アダム)のために助け手(エバ)を造られた。しかし、ご自身はまだ助け手を得ておられなかった。

そこから、悲劇が始まる。人類は本来、神の配偶(助け手)として造られたのに、創造された次の瞬間、神を裏切り、悪魔の支配下に下った。

神は人類を滅びから救おうと、独り子を地上に遣わされたのに、弟子たちは主イエスが十字架にかかられる前、主を裏切って逃げた。

かの有名なイザヤ書53章には、イエスが地上におられた際の孤独が、どれほどのものであったかを伺わせる記述がある。

「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。

乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
この人は主の前に育った。

見るべき面影はなく
輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。

彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。

彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。

彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。

苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を刈る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。

捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。

彼は不法を働かず
その口に偽りもなかったのに
その墓は神に逆らう者と共にされ
富める者と共に葬られた。

病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
彼は自らを償いの献げ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。
主の望まれることは
彼の手によって成し遂げられる。

彼は自らの苦しみの実りを見
それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。

それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、
死んで罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。」

さて、筆者が、当ブログに対して向けられる中傷のすべてが、筆者個人に向けられたものではなく、実は、筆者の背後におられるキリストに向けられたものであることに気づいたのは、ここ最近のことである。

村上や杉本のような人々は、当ブログの内容が、かねてより「創作」であり、嘘に満ちたものであるかのように非難していた。

しかし、杉本がある時、はっきりと聖書は神の霊感を受けて書かれたものでなく、人間の書いた書物に過ぎないと告白し、人類の堕落も、ノアの洪水も、サタンも悪霊も暗闇の軍勢も、みなファンタジーのような比喩に過ぎないと書いたことにより、筆者は、この人々が、当ブログをファンタジーの産物であるかのように述べているのは、実は当ブログの記述の背後にある聖書の御言葉に対する攻撃であることに気づいた。

彼らは、当ブログを「創作」であるとみなしているだけでなく、その背後にある聖書の御言葉をも「創作」だと考え、その真実性を信じていないのである。

今、掲示板等で行われている筆者に対する人身攻撃もそれと同じである。上記の御言葉を参照するならば、キリストには、「見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もな」かったのであり、「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」とある。

これは不思議なことである。一方では、キリストはそのまことの命を人々に分かち与えられたことにより、多くの人々から慕われ、大勢の群衆に囲まれていた。ところが、他方では、彼には、堂々たる風格も、人目を引く容姿もなく、むしろ、人々から軽蔑されて、拒絶され、顔を背けられ、孤独で、見捨てられ、嘲られていたとある。

人々は、自分にとって利益となるものを見いだせる間は、キリストに群がり、その後を追ったが、いざキリストが苦難を受けられると、自分は一切、関わりたくないとばかりに逃げ去って行った。

地上におられた時のキリストの圧倒的な孤独――これは、父なる神の孤独にも重なるであろう。十字架において死の瞬間に、主イエスが、「父よ、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれたのは、ただ罪のゆえに神と断絶して見捨てられた人類を代表する叫びであるだけでなく、配偶を失った父なる神の叫びにも通じるように思う。

神は人類をご自分の助け手として創造されたのに、人類は神を裏切り、見捨て、蔑んで去った。「私は、私の助け手、花嫁とすべく、人類を創造したのに、なぜ人類は、花婿なる私を見捨て、嘲り、踏みにじって去って行ったのか――」主イエスの叫びの中に、神の人類に対する言い尽くせない悲しい叫びが込められ、それが主イエスの言葉の中で、互いに響き合っているように感じられる。

だが、神は十字架の死と復活を通して、ご自分が望んでおられる新しい人を取り戻された。そして、主に連なる人々は、キリストと同じように、神の御心を満足させるために、この世から取り分けられ、召し出された人々である。
 
そのようなわけで、神は今日も人類をご自分のために招いておられる。私たちは、ある時、そのことに気づき、ふと立ち止まって、この召しに応えるかどうかを考えさせられる。

筆者は「わたしについて来なさい」という主イエスの呼び声に応え、神の満足のために身を捧げて生きたいと願う。ところが、ある人々は、これを幻聴だなどと言って嘲笑っている。神が最も願っておられることを嘲笑う――神が人類に与えられた最も貴い召しを嘲笑う――何と恐ろしい冒涜的な考えであろうか。

主の御心は、小羊の婚礼にこそあり、神はご自分の配偶を得て満足したいと願っておられる。神がまだ満足しておられないときに、どうして私たちだけが、地上で先に満ち足りて幸福になって自己満足してしまってよかろうか。

キリストが人々に拒絶され、蔑まれ、見捨てられ、踏みにじられ、栄光を傷つけられたままなのに、どうして私たちだけが、人々に受け入れられ、尊ばれ、喜ばれ、誉めそやされて、担ぎ上げられ、栄光を受けて良かろうか。

筆者が御国のために献身し、神の国の働き人となってから、筆者に対する暗闇の勢力からの攻撃は、以前にもまして激しさを増した。暗闇の勢力は、筆者の召しを嘲笑い、孤独を嘲笑い、容姿を嘲笑い、生活状況を嘲笑り、筆者に属する何もかもを、徹底的に罵倒し始めたのである。

だが、そのような罵倒は、上記の御言葉を見る限り、まさにことごとく主イエスが受けられた嘲りにそっくり重なる。

主ご自身は、地上で軽んじられ、嘲られ、拒絶された。犯してもいない罪のゆえに断罪され、奴隷としての死を担われた。そこで、筆者は、筆者に向けられたいわれのない非難や罵倒の中に、まさに主に対して向けられる非難や罵倒、冒涜の言葉を見ずにいられない。

そういうわけで、私たちは、今日も御名のゆえに、罵られたり、迫害されることにあずかっているわけだが、これはキリストの苦しみにあずかることであるから、実に幸いなことだと筆者は考えている(もちろん、これは誹謗中傷の罪が免責されるという意味ではない)。

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。 喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」(マタイ5:10-12)

私たちは、こうして実に不思議な形で、キリストが地上におられた時に味わわれた苦難の一端を、共に担うという幸いにあずかることができるのである。

地上でも、親友の絆は、共に苦労を乗り越えた時に生まれる。夫婦の愛も、喜びと悲しみを共に分かち合うことによって深まるだろう。どんな人間関係であれ、苦しみを共に乗り越えた体験がなければ、深まらない。そこで、主イエスは、地上でご自分が経験された孤独や悲しみや痛苦しみみを、ご自分に従う人々にも、少しばかり、分かち与え、共に担って欲しいと願っておられるのではないだろうか。

だから、神との関係において、私たちは御手から、ただ喜びや、祝福だけを受けとるのではなく、神が感じておられるであろう悲しみや孤独、痛みや苦しみを、その片鱗でも良いから、託されることは、実に大きな信任のゆえではないかと思わずにいられないのだ。

これは決して、筆者が自分から余計な苦しみを求めていることを意味しない。筆者は苦しみを求めているわけではなく、ただ神の御思いをより深く理解するために、そのへりくだりにあずかり、主の御心の中心にあるものを知りたいと願っているだけである。

そこで、自分のためにではなく、主の満足のためにこそ、あえて孤独や、苦難や、迫害をも耐え忍ぶ価値があると考えるのである。そのような意味でこそ、パウロは地上で得られる利益のすべてを無価値とみなして投げ捨て、自分の生涯のすべてを神のために注ぎだし、捧げることを決意したのだろうと想像する。

筆者は、少し前に、バビロン王国をエクソダスし、エクレシア王国の住人となったと書いた。こうして、エクレシアに終身雇用される神の国の働き人となってから、筆者には毎日、なすべきたくさんの仕事がある。

その仕事の中には、決してここで報告することのない数多くの隠れた働きも含まれているが、それらはすべて、御心が天に成るごとく、地にも成るように、この地上に御国の秩序を引き下ろし、父なる神に栄光を帰するためになされるものである。正義、真実、平和、公平、公正を地にもたらすための激しい霊的戦いである。

この戦いに精通すればするほど、主と共なる生活は、他のどんなものとも引き換えにできない価値があることが分かって来る。

そして、主と共に生きることは、地上におけるすべての権威と支配を足の下にする、極めてダイナミックで壮大な生活である。

これは誇張でもなければ、ファンタジーでもない。私たちは、外見は全く弱々しく取るに足りない民でしかないが、御名の権威を授けられていることによって、絶大な権威と力を帯びているのであり、その権威を実際にこの地で正しく行使して、戦いに勝利して、神が満足される平和を打ち立てることが求められている。

神はこの地上全体を管理するために、人類を創造されたのであり、サタンの支配下から奪還されて、愛する御子の統治下に入れられた一人一人の信者には、当初の神の目的の通り、地上のすべてを治める権限を与えられている。

それが、神の国の働き人となることの意味であり、私たちはエクレシアに身を置き、主と共に天の御座から、地上の物事を管理する。主の御名には、地上のすべての支配と権威を足の下にする超越性、優位性があり、私たちは、御名にこめられた霊的優位性を行使して、敵を足の下にし、御座に住む秘訣を知らなければならない。

キリストにある霊的優位性により、私たちはこの世の喧騒をはるか下に見下ろし、高く御座に引き上げられる。

そこには圧倒的な心の平安がある。

それは決して戦いが止むことを意味せず、私たちが何もかも忘れて、ただ心地よい感情に漫然と浸ることを意味するわけでもない。

依然として戦いはある。苦しみもある。試練もある。だが、もしもキリストと共に苦しむならば、それは主の満足につながるのであり、その苦しみは、しばらくすると、慰めと、勝利の喜びに変わる。

私たちの霊は、たとえ試練の最中を通過する時でさえ、御座に高く引き上げられて、地上の喧騒をはるか足の下にしつつ、御座から流れる命の川々に浸され、神から注がれる清い愛に満たされて、深い満足を覚える。

こうして、私たちの心は、何が起きようと、動かされることなく、揺るぎない平安に住む秘訣を知る。生活の一瞬一瞬のすべてを神の満足のために費やすことには、はかりしれない大きな満足がある。そのように、自分をすべて主のために注ぎだすことを決意し、これを実行すればするほど、たとえ私たちが感覚的には主の臨在を感じておらずとも、あるいは、苦しみの中にあっても、主との交わりは、いよいよ強化されるのであって、私たちは神の愛の中に住み、自分の心を平和に保ち、御座から権威を持って、地上のもろもろの支配と権威に大胆に命ずる秘訣が分かって来る。

御名の権威が、すべての権威にまさるものである以上、地上のもろもろの支配と権威は、私たちの命に従い、これに服さざるを得ない。筆者の述べていることを嘲笑っている人々は、やがてその成果を間近に見て、驚愕させられることになろう。

私たちは御名の霊的優位性・この世に対する超越性によってこそ、暗闇の勢力に対して勝利をおさめ、彼らを凱旋の行列に捕虜として従えて、足の下にすることができるのである。

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村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟の総括(1)―滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。―

4月1日 補記

●村上密が本日投稿した記事に、判決の前提を覆す可能性があることについて

(村上は一旦、当ブログ執筆者に関する権利侵害に及んだ上、後になって該当部分を伏せたらしいですが、記事は保存してあります。検索結果にも残っていますね。まさか書き換えるとは思いませんでしたが・・・。

今回、村上が杉本同様の権利侵害行為に及んだ上で、筆者が以下の記事を投稿したことを知るや、記事を書き換え、「実名を伏せた」と追記していることを、読者は決して忘れないで下さい。
  
刑事告訴の対象になるとしたら、まさにこのような人格権侵害の記事であり、筆者の記事が論評の域を超えることはありません。筆者がこの記事で述べている事実には、杉本・村上が自ら書証として訴訟に提出した数多くの証拠の裏づけもあります。それについては随時、説明して行きます。


(以下は、権利侵害が行われていた時点での村上の記事について)

 考えて見ますと、村上密が4月1日にブログに投稿した記事「判決」は、今回下された判決を根底から覆す可能性のある内容のようです。


なぜなら、今回の訴訟で、村上が2009年にブログに掲載した当ブログ執筆者に関する2つの記事が、不法行為に当たらないと認定されたのは、そもそもそれらの記事で、著作者人格権の侵害(要するに氏名の無断公表)が行われていなかったことを前提とするからです。

判決文
pp.28-29
(3)被告らの責任について
ア 被告村上のブログは、それ自体「ヴィオロン」がブログで表明した意見ないし論評を批判するものにすぎず、その言及も「ヴィオロン」を対象とするものにとどまり、原告個人に関する事実を公表するものではない。<略>以上によると、被告村上は、被告村上のブログを通じて原告のプライバシー、名誉権及び名誉感情を侵害したとは認められない。よって、被告村上の不法行為責任を認めることはできない。
pp.47-48
11 人権侵害に基づく作為等の請求について
(1)ブログの削除を求める部分について
 <略>なお、被告村上に対する請求は、被告村上による人格権侵害が認められない以上、前提を欠く。

このように、村上は「ヴィオロン」に関する評論を述べただけなので、人物の特定もできない記事に人権侵害が成立する余地はない、ということが、今回の判決の大前提だったわけですね。

むろん、「ヴィオロン」が執筆しているブログに関して、氏名を公表するかどうか(著作者人格権)は、筆者自身に属する権利であるため、それを侵害する行為は、不法行為に該当し、さらに、そうして人物特定可能な記述を行った上で、その人物をブログで誹謗中傷すると、名誉毀損や侮辱が成立してしまう可能性が生じるため、杉本のブログ記事における人権侵害が認められ、一連の記事削除と賠償が命じられる結果になったわけです。

掲載当初はペンネームだけしか記していなかったために、人物特定が出来ず、人権侵害が成立する余地がなかった記事についても、後になって、著作者人格権を侵害して、人物特定可能な情報を自ら公開すれば、人権侵害の発生の余地が生まれ、内容が、名誉毀損又は侮辱に当たると判断される可能性がある、ということは、以下の文からも分かりますね。

p.30
(1)緒論
ア 以下においては、被告杉本が掲載したブログごとに、原告が主張する不法行為の成否を検討する。なお、被告杉本のブログのうち、「ヴィオロン」が原告であることを公表する前に掲載したブログ<略>は、いずれもその掲載当初は原告に関する事実を摘示するものではなかったが、被告杉本自身による「ヴィオロン」が原告であることの公表の結果、上記の各ブログの内容は原告が「ヴィオロン」としてしたブログの掲載や電子メールの送信に言及するものとなったと認められるから、上記の各ブログについても、原告に対する名誉毀損又は侮辱に当たるかを検討する<略>。

ちなみに、筆者がこの記事で、村上密の記事に言及していることは、決して自ら著作者人格権を放棄していることを意味しません。また、筆者が自ら訴訟を起こしたことも、筆者が筆名で執筆しているブログについて、被告らが勝手にインターネット上に氏名を公表したする行為を許したことにも該当しません。

ですので、仮に村上がそうした行為(人格権の侵害)を行いますと、村上の書いた「ヴィオロン」に関する記事は、人格権の侵害に該当し、さらにプライバシー権その他の侵害にも該当する可能性が生じ、今回、村上に対して下った判決が、次回の訴訟においては、完全に覆る可能性が出て来るわけです・・・。

分かっていて故意にやったのでしょうか。それとも、自覚がなくやったのでしょうか。リスクを知らなかったのでしょうか。理由は分かりませんが、次回の訴訟の時に本人に確かめてみれば良いことですね。
 

  
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これまでは静かに判決を待つため、あえて記事では言及しなかったのだが、これからしばらく、当ブログを巡る裁判結果と、掲示板で続けられて来た権利侵害について、総括を述べていきたい。まずはかいつまんで短い報告から挙げておく。
  
昨夜、村上密についての記事を書くことをひとこと欄で予告すると、早速、それからほとんど間をおかず、村上密のブログから、当ブログ執筆者の提起した民事訴訟に関するものと見られる記事(断定を避けるためリンクを貼らない)がアップロードされていた。当ブログのコメント投稿欄の隅々に至る記述まで、おそらく目を通しているものと予想される。少しでも不利な内容の記事を書かれそうだと察知すると、先手を打って行動しようとする素早さにはいつも驚き呆れる。
 
村上密は、記事で都合の良い部分にしか触れていないが、この事件では、当ブログ執筆者が、村上密と共にブログ『現代の風景 随想 吉祥寺の森から』を執筆する杉本徳久を名誉毀損等の不法行為で訴え、杉本には、3月27日に言い渡された判決において、当ブログへの名誉毀損・侮辱、著作者人格権の侵害が認められ、賠償請求が命じられた。かなりの数のブログ記事の削除と、決して少なくない損害賠償が認められたのである。

ところが、村上は記事で杉本徳久に記事削除および賠償請求が命じられたという判決の内容には、一切、触れていない。もちろん、杉本徳久との共同不法行為(杉本に対する個人情報の提供)の疑いが、当ブログ執筆者から村上に対する訴えの重要な部分の一つであったという事実にも触れていない。

村上は自分は不法行為に問われなかった、記事の削除も命じられなかったという勝利に満ちた部分だけを報告したいと考え、この記事を投稿したのかも知れないが、村上はこの記事で、筆者の筆名と共に、杉本徳久が幾度となく権利侵害に及んで公表した筆者の個人情報まで明らかにすることにより、牧師として今まで以上に致命的な行動に及んでしまった。

(むろん、こうした情報だけでは、当ブログ執筆者の著作者人格権の消滅とならず、人物の特定にも至りつく根拠ともならないことを読者に断っておく。村上があえて法的責任追及を逃れるためか、ブログ標題や過去記事にリンクを貼っていない手法も注目に値する。)

なぜなら、この記事の発表によって、村上密は、今後、自分を批判する信徒が現れれば、誰であっても、裁判等を通じて信者の個人情報を入手し、それを全世界に向けて発表する用意があることを自ら世に示してしまったからである。

はからずも、この記事の公表が、裁判結果とは裏腹に、村上密という人物の内心を余すところなく証明するものとなったと言えよう。

筆者が知っている限り、村上密はこれまで信徒の実名を挙げて批判記事を書いたことはなかった。従って、この記事は、村上がこれまでとは異なり、一線を超えて、かつて自分のもとに相談に来た信徒に対する批判を、個人を標的に可能な限り人物を特定して開始したことを明らかに示すものである。
 
読者はこの事実をはっきりと見ておいて欲しい。筆者は2007年から2008年にかけて、メールおよび実際に村上密の教会へ幾度も足を運んで、村上に対して他教会で起きたトラブルの相談を詳しく行った。しかし、村上を通じて事件を解決することはできず、筆者は疑問を持ったまま、村上の教会を離れ、2009年に筆者が村上密の活動に対して批判的になるや否や、村上はネット上で筆者および当ブログに対するバッシングの態度に転じたのである。
  
このように、村上が信徒を実名で批判する記事の投稿を開始している様子を見ながら、村上密のもとに宗教トラブル相談に訪れたいと考える信徒は、今後、おそらくほとんどいなくなる可能性が高いと見られる。

筆者としても、それは到底、お勧めできる行為ではない。読者に言えることはただ一つ、どんなにあなたに宗教上の悩みが生じたとしても、この牧師に個人情報を告げることはやめておきなさい。後々、あなたをも標的として、以上のような記事が発表されないとも限らないからです。カルト被害者たちは、みな相談の際に自分の個人情報を詳しく握られたことがあだとなって、相談した指導者らを批判できない状況に置かれているのです。

さて、今回の裁判では、幾度も断って来た通り、裁判官の異動という出来事も手伝って、審理を早期に終結する必要が生じ、杉本に対するおよび掲示板に対する刑事事件の真相究明も間に合っていないため、当ブログで最も解明したいと考えていたインターネット犯罪ネットワークの責任追及に関する立証は十分でなかったと言える。

従って、今回、村上密に対する共同不法行為の責任追及が行えない結果になったのは、何ら予想外の出来事ではない。
 
しかし、そのことが、決して、村上密が杉本徳久による不法行為に全く関与していなかったことの証拠になるわけではなく、一体、杉本徳久による当ブログ執筆者に対する権利侵害行為に、村上密がどの程度関わっていたのか、関わっていなかったのかという点は、今も不明なままであり、掲示板のコメントを対象とする刑事事件の進展も待たれる。
 
ただし、大きな成果であったと言えるのは、この訴訟の最中、村上が杉本と共に筆者を罵るメールを書証として提出して来たことである。それによって、両者の間でメール文通が行われている事実、さらに、村上が杉本と意気投合して、事実でないことを根拠に、筆者を罵っていた事実も発覚した。
 
村上が提出した準備書面や、両者のメール文通については、次回以降の記事で具体的に触れる。

さらに、村上は裁判の最中、筆者の側からはまだ何も言わないうちから、自ら当ブログ執筆者を非難した2つの記事の削除を申し出たが、途中で、記事を削除しないと自ら提案を翻した。

そして、何より重要なこととして、村上が口頭弁論の最中、杉本と一緒になって、筆者に反訴すると言い立てたことも、むろん、村上の記事では全く触れられていない。

筆者は反訴などするのであれば、その前に、村上から提出されたすべての書面を公開すると応酬したため、二人は筆者に対する反訴を行わなかった(結審後、もし反訴状が提出されていたとしても、それは裁判官が却下している)。

そして、昨日まで、筆者は一つたりとも村上・杉本の実名入りで判決に触れる記事を書かなかった。ひとこと欄で、筆者が予告したのも、「ネトウヨが掲示板に書き連ねたコメントを引用して、村上氏に関する分析記事を書く予定」という言葉から分かる通り、掲示板における村上に関する投稿をまとめるということだけであって、判決を公表するとは述べていない。

筆者は、先の記事で、判決文は大きな代価を払って勝ち取ったものであるから、公開するつもりはないと述べている(読む価値は十分にあるので、ぜひ読むことをお勧めするが、希望者は山下公園まで料金を払って見に行かれれば良いことである。)

そこで、以上の投稿記事は、あくまで村上が先に判決の公表に及んだものであることも強調しておく。
 
いずれにしても、今回の村上密の記事の発表を通しても、読者は村上、杉本の両名が、これまで信徒の裁判に関係することにより、信徒の個人情報を入手しては、それを使って、自らに批判的な信徒を非難する(もしくはコントロールする)材料として利用して来た様子を伺えるのではないかと思う。

村上は、当ブログ執筆者が個人情報の公開を望んでいなかったにも関わらず、杉本徳久から執拗に個人情報を公開され、プライバシー権の侵害を受けたと主張したことが、判決で認められたにも関わらず、あえて以上の記事に公表に及んだ。
 
また、今回の裁判では、杉本徳久が、かつて2013年に杉本が坂井能大牧師を訴えた裁判において、唐沢治を通じて書証として提供された筆者のメールの内容から、筆者の個人情報を入手したと自ら述べた。(むろん、杉本はそれ以前から、筆者の個人情報の入手に及んでいた。)

こうした事実は、杉本が裁判を通じて、信徒の個人情報を入手した事実を物語っている。杉本がかつて自らのブログで、ネット上で個人情報を明らかにせずに情報発信していたカルト被害者に対して、個人情報を明かすよう要求していたことも興味深い事実である。
 
(なお、今回の裁判で、杉本徳久は、裁判以外の場でも、唐沢治にメールで接触し、当ブログ執筆者の個人情報を入手したことおよび唐沢が杉本の要求に応じて筆者の情報を杉本に提供したことを、唐沢とのメール文通を書証として提出することにより明らかにした。

むろん、唐沢治は、KFCの指導者として、当然ながら信徒に対して守秘義務を負っているはずであり、筆者は唐沢に裁判へのメールの提出を許可した事実もなければ、杉本への情報提供を許可した事実もない。

そして、唐沢治が、現在、自らの行為を正当化するために、筆者とは「牧師と信徒の関係になかった」と主張していることも、強調しておかねばならない。
  
なお、唐沢治は2010年に杉本徳久に自らへの権利侵害を理由として民事提訴を予告していたが、後になってから、その提訴予告が、あたかも筆者の権利を守るための提訴予告であったかのように主張をすり替え、杉本に対して、筆者の実名が公表されていないから、提訴に及べなかったのだと筋違いの弁明をして、提訴予告を実行しなかった責任があたかも筆者の事件にあるかのように弁明していたことも、強調しておかねばならない事実の一つである。
 
唐沢には、一方では、KFCで「クーデター」があったことを自ら認めながらも、他方では、それが事実でないかのように主張して、筆者が記事で主張しているKFCで起きた事件の記述が嘘であるかのように主張しているという自己矛盾も存在する。この問題についても、また追って詳しく記述することにしたい。

このように、唐沢治も、多くの点で事実に反する主張を行っており、当ブログ執筆者を杉本と一緒になって非難し、かつ、杉本と情報交換して来た経緯があるため、今後、村上密と並んで、当ブログに関して非難記事を数多く投稿する可能性が十分に考えられる人物の一人であると言えよう。)
 
このように、2012年頃まで(ちょうど筆者がKFCにいた頃まで)は、唐沢は杉本に提訴予告をしており、杉本と対立関係にあったが、2013年に杉本が坂井能大を裁判で「勝訴的和解」により打ち破ったことにより、坂井を支援していた唐沢治も、共に杉本に敗れ、杉本との対立関係を解消するに至ったものと見られる(唐沢治はこの裁判の当事者ではないが、いわば、杉本が両名を打ち負かしたような恰好となった)。それ以後は、唐沢は杉本と一緒になって当ブログ執筆者を非難・中傷する立場に転じた。
 
杉本は、このように、自らが訴えられたために訴訟に関わったけでなく、自ら裁判を起こすこれによって、自分にとって不都合な発言を行う信者や宗教指導者を沈黙に追い込むことに成功して来た経緯がある。訴訟では不敗記録を更新し続けていたとのもっぱらの噂だが、少なくとも、当ブログ執筆者が杉本に不法行為で賠償責任を負わせたことで、その記録には終止符が打たれたと言えよう。

さらに、興味深い事実として、今回の裁判では、杉本は「自分はカルト被害者救済活動などしていない」と主張していたことが挙げられる。杉本は「カルト被害者救済活動」という言葉を否定するだけでなく、カルト被害者を支援するために裁判に関わっていた(傍聴・報道していた)事実すらも否定した(はぐらかした)のである。

そこで、筆者は杉本のブログから、実際に杉本が被害者を支援するために発表した数々の記事を、杉本がカルト被害者の裁判をブログで取り上げることにより、支援していたことの証拠として提出した。

このように、杉本はかつて自分が理不尽な訴訟で訴えられた経験から、カルト被害者が起こした裁判を放ってはおけないと、被害者の裁判に応援のための傍聴を呼びかけたり、自ら傍聴に駆けつけたり、盛んにブログでアピールしていた事実があるにも関わらず、今回の裁判では、自分がそうして被害者を支援してきた事実さえも、ないがごとくにとぼけるか、もしくは否定する立場に転じたことを強調しておかなくてはならない。

あれほど「被害者のために」と公然と訴え、被害者の権利回復を自らの信念のように掲げて活動していた人間が、「カルト被害者救済活動」に関わっているとみなされると不利な立場に置かれるかも知れないとなると、途端、被害者の裁判に関わった事実がないかのように、被害者を切り捨てるような主張をしたことに、筆者は心底、驚かざるを得なかった。

そこで、今後、筆者の提起した事件に対して、杉本徳久がどのように対処していくかという事実を見ることによっても、我々は、杉本という人物の内心を明らかにする大きな手がかりを得られることであろうと思う。自分自身も裁判を利用して他者を打ち負かしておきながら、自分にとって不利な判決だけは、認めない態度を取るのかどうかだ。
  
筆者は今回の判決を非常に妥当なものであるとみなしているため、誰かがこの判決に抗ったとしても、覆せる見込みはないであろうと考えている。そして、そのようなことが起きないための手立てを早急に始めているところである。
   
さて、村上が今回の裁判において、提出してきた準備書面は、毎回、A4たった3ページといった長さのものであり、短い時間でワープロ打ちしたようなその軽い内容は、これまで「訴訟のエキスパート」として知られてきた牧師には、あまりにもふさわしくないと思われるような、拍子抜けする印象のものがほとんどであった。

さらに、村上は自分がどの準備書面を提出したのかさえ覚えていないこともあり、そのことからも、この裁判をあまりにも軽視している(もしくは筆者を侮蔑している?)様子がはっきりと伝わって来た。また、杉本徳久の行為を、村上が当時、名誉毀損と認識していなかったことも、村上と杉本と一緒になって筆者を罵ったメールの内容からも明らかであった。
 
このように、村上には(自分を批判した信徒憎しという感情のためか)、法的根拠に基づいた客観的で公平な認識が当初から欠けており、杉本のしている行為に対して、現実的な判断が下せないでいたことは、筆者にとっても実に驚きであった。

以上のような事実および、判決の全体をきちんと踏まえず、自らにとって都合の良い点だけをかいつまんで説明しているという意味で、村上の記事は、今回の事件を公平かつ客観的な観点から分析したとは、到底、言い難いものである。

こうした記事内容の偏りだけを取っても、いかに村上が、杉本が賠償責任を負わされた現在になっても、未だに杉本徳久をかばう立場に立って情報を発信し続けているか、また、都合の良い偏った観点からしか、記事を書いていないかという事実がよく伺えると言えよう。
 
読者には、村上密のブログについては、そこに発表されている内容だけを鵜呑みにするのではなく、そこに書かれていない膨大な事実が存在することをまず疑ってみることをお勧めする。そして、この牧師が、自分を批判する者に対しては、約10年近い以前から、信徒であっても、容赦のない措置に及んできたことをよくよく心に留められたい。
 
さて、筆者はこの裁判を第一段階に過ぎないと考えている。今回の訴訟ではとりこぼした内容、もしくは、今回の訴訟で初めて明らかになった事実があり、それについては、今後の責任追及をしていかねばならない。この事件に関わってくれた人たちのためにも、今後、真相がどこにあるのかという情報を発信していくことは、当ブログの重要な仕事であると考えている。

だが、とにもかくにも、まずは村上が以上の記事を投稿したことは、彼の人格を全世界が判断するに当たり、非常に良い材料になったものと筆者は考えているし、当ブログを巡る大規模な嫌がらせ(権利侵害)がどこから来ているのかを判断するための重要な手がかりの一つになって行くだろうと思う。

杉本のブログに記事の削除と賠償が命じられたことによって、ようやく批判の舞台が村上のブログに移ったのである。当ブログを巡るバッシングは、2009年の村上のブログが最初のきっかけとなって始まっていることを考えれば、何らそれは不思議なことではない。

おそらくは、村上の信者を標的にした同様の行為は、今後も、何らかの形でエスカレートして行くのではないかと予想される。というのも、村上は自らのブログに、子供の頃から、親父に喧嘩の仕方を教わり、売られた喧嘩では、負けて泣いて帰宅することを許されず、「勝つまでやり直して来い」と言われ、負けたままでは、家に入れてもらえなかったと、繰り返し、記事に書いているからだ。

村上の行動パターンには、そうして父から教え込まれた喧嘩の教えがよく表れているのではないかと感じられる。「やられる前にやれ。」「やられたら倍返しにしろ。」「黙っているのは恥だ。負けることは許されない。」
 
もしもこうした筆者の予想が的中していれば、村上は鳴尾教会に対して執拗にいくつもの批判記事を投稿して来たように、今後、筆者と当ブログをも標的にして、おびただしい数の批判記事を投稿し続ける可能性も否定できない。

だが、仮にそうなったとしても、それも、村上密の人格を極みに至るまで明らかにするための、とても良い材料になると筆者は考えている。どちらにしても、隠れていた事実が明らかにされる行程が必要なのである。
 
幾度も書いて来たように、当ブログの目的は、批判をかわすことには初めからない。そして、筆者という個人が、ごくごく限られた権利を有するだけの取るに足りない人間であることを見ても分かる以上、誰がどれほどの誹謗中傷を筆者に向けようとも、それによって生じるダメージというものはごくごくわずかなものに限られている。

筆者にとって重要なのは、永遠に揺るぎない御言葉の正しさに生きること、神の国の権益を守ること、聖書の神の正しさを証明し、この方に栄光を帰することであり、筆者自身のこの世で過ぎ行く束の間の有様を必死になって保存しようとすることではない。そして、筆者がキリストと共にすでに十字架で死んで、よみがらされている以上、地上的な利益が失われることを恐れる理由は、筆者には何もないのである。

(どうして筆者がパウロのような生き方を勧めるのかを、読者には考えてみて欲しい。筆者は御言葉を第一として生きるためには、失われるべき利益を最初から神に捧げて、持たない生き方もあるものと考えている。)
  
そこで、批判を恐れることなく、これからしばらくの間、当ブログでは、今回の裁判を通して新たに発覚した事実について公表していくことにしたい。

その第一回目として、書きたいのは、杉本徳久・村上密の両名を被告とする裁判が、昨年末の12月に結審して、いよいよ今年3月の判決を迎える段階になってから、この数ヶ月間というもの、インターネットの掲示板で、当ブログへの夜昼を問わない、またとない集中的で激しい誹謗中傷が展開されたことだ。

こうした悪意あるコメントの投稿は、これまでにもなかったわけではないが、結審から判決言い渡しまでの期間、夜となく昼となく続けられ、苛烈を極めた。その掲示板は、もともと当ブログのために作られたものでもないにも関わらず(杉本徳久のブログを論じるために立てられたスレッドである)、当ブログだけが、そこで主たる標的とされ、筆者個人や、当ブログの記事の内容を徹底的に罵る投稿が、日夜、絶え間なく連続して続けられたのである。

そうした投稿内容の大半は、杉本徳久・村上密の唱えた説に深く共感し、筆者は訴訟に負けるに違いないと断言して、筆者を嘲笑い、誹謗中傷するものであり、筆者が当ブログに新たな記事を投稿する度に、記事内容を剽窃しては、無断で転載する著作権侵害のコメントが、おびただしい数、投稿された。その執拗さと、常軌を逸した敵意の集中は、想像をはるかに超えるものであった。
 
さらに、特筆すべきは、こうしたネガティブ・キャンペーンと言うべき掲示板での激しい中傷の多くが、筆者がかつて村上密の教会に赴いた際に、村上に対して直接、個人的に相談した際に伝えたトラブル内容や、今回の訴訟において、両被告に送付した書面に記載した筆者の個人情報を利用して、それを材料に筆者を叩き、嘲笑い、中傷するものだったことである。

そこで、こうした事実を見るならば、今回の裁判結果とは裏腹に、杉本・村上を擁護する立場から行われたこの激しい中傷と権利侵害に、両名が全く関与していないと見るのは自然ではないと言えよう。

共同不法行為が行われたのかどうかを立証するためには、直接的な関与を証明する証拠を入手することが急がれるが、そうした意味も込めて、この事件は、まだまだ最初の第一歩が踏み出されたに過ぎず、今後の解明が待たれる事柄が数多く存在するのである。

おそらく掲示板での悪質な書き込みは、判決の言い渡し前に、当ブログの評判を貶めることで、何とかして、判決によって、杉本・村上に及ぶダメージを少しでも最小限度に押さえることを目的としていたのではないかと見られる。

つまり、両者を日頃から支持して来た人たちが、筆者を集団で誹謗中傷し、精神的に圧迫することで、当ブログを閉鎖に追い込むことができれば、訴訟の結果が世間に知れることもないと考えて、予防策を張ったものではないかと見られるのだ。
 
掲示板で行われている大がかりな犯罪行為(権利侵害)は、ことごく刑事告訴の対象となっており、判決の言い渡しと同時に、かなり沈静化した。やはり、杉本徳久に賠償が命じられたことが、他のコメント投稿者にも大きな影響を与えたものとみられる。

そういう意味では、この裁判には、至らない点もあったとはいえ、初めの第一歩としては、まずまずの成果であり、何よりも、犯罪の抑止力としての大きな効果を持つものであり、これまで集団的に行われて来た当ブログに対する大がかりな権利侵害にも、かなりの程度、(正当な)萎縮効果を与えるものであったと言えよう。
 
* * *

ところで、本日(この記事を書き始めた3月31日)にも、筆者がひとこと欄にわずかに2、3行、文章を付け加えただけで、早速、掲示板に以下のような文章を掲載する者が現れた。

この投稿者は、どうやら日曜日に筆者がブログを更新した行為を責めたいらしい。
 


筆者は何も騒いでおらず、ただこの投稿者が筆者が、2、3行ひとこと欄を更新しただけでも、それを許せず、針小棒大に騒ぎ立てているだけのことに過ぎない。同調者もめっきり減っている。

むろん、筆者の関係者は誰一人としてこのような掲示板を見てもおらず、このような中傷を鵜呑みにする人がいるとすれば、筆者も、そういう人と関わろうとは願わない。

だが、筆者があえて今、この稚拙なコメント内容を引き合いに出すのは、この主張内容が、杉本徳久が当ブログに向けた名誉毀損に相当する非難に酷似しているのみならず、主イエスが地上におられたときに、律法学者やパリサイ人が、主イエスのわざに難癖をつける時に使ったものと全く同じであることに、驚かざるを得ないからだ。

主イエスは、安息日に人々の病を癒され、数々の奇跡を行われ、とらわれ人を解放された。ところが、律法学者やパリサイ人たちは、それを見て、長年不自由にとらわれていた人々が自由にされたことを喜ぶどころか、「イエスが安息日に労働をして、掟を破った!」と非難したのである。
 
そこで、イエスは言われた、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」(マルコ3:4) 「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」(マルコ2:27-28)

クリスチャンには、主日に他人を誹謗中傷して罪を犯して良いなどという努めはない。従って、こうした投稿者は、自らクリスチャンでないと告白している上、主日に罪のない他人を罵ることで、主日を穢して罪を増し加えているだけとなる。

今回、筆者が起こした民事訴訟では、すでに述べた通り、精神異常に陥ってもいない人間を精神異常者呼ばわりする記事内容が、名誉毀損に相当することがはっきりと認定された。

こうした判断は、筆者の知る限り、刑事事件でも、民事でもほぼ変わらない。それを考えれば、以上の投稿に示されているような汚い言葉を使って、他者を誹謗中傷した場合、もしも人物特定が可能と判断されれば、それは名誉毀損に相当するか、どんなに少なく見積もっても、侮辱に該当するという判断が下される恐れは十分にあるのだ。

一つのコメントの中で人物特定ができずとも、他のコメントと合わせて人物特定が可能と判断されれば、名誉毀損が成立する可能性があることは、かつて唐沢治がKFCの元信徒を訴えた際に証明されている。その信徒は、心神喪失により不起訴になったが、刑事事件としての処理スピードはかなり速く、病がなかった場合には、まさにどうなっていたか分からない。

そこで、民事裁判の結果が出ているにも関わらず、以上のような投稿を続けている者は、最後には非常に重い罪に問われることになるであろうと予告しておきたい。もちろん、他者の公表されていない親族関係を暴いたりすれば、それもプライバシー権の侵害として扱われる可能性があるし、刑事事件で個人が特定された後に、民事で賠償請求の対象となることも考えられる。

このように行き過ぎた誹謗中傷が大目に見られるのはネット上だけのことで、現実世界では厳しい判定が下されて来た。万一、名誉毀損で刑事告訴が成立しているのに、同一人物が再犯を重ねていれば、当然ながら、情状酌量の余地も減って行く。

さて、この投稿者は「キリストを知るという知識の香り」についても、どうやら、何も知らないようだ。おそらく、「キリストの香り」と言えば、誰にとっても、甘く、芳しく、心地よい香りに違いないと決めつけているのだろうが、あいにく、聖書にははっきりとこうある。

「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられた良い香りです。

滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。」(Ⅱコリント2:14-17)

つまり、「キリスト(を知る知識)の香り」とは、救われない者(「滅びる者」)にとっては、「死から死に至らせる香り」、まさに「腐臭」のようなものだと、はっきりと聖書に書かれてあるのだ。

従って、当ブログの記述を「腐臭」としか感じないと告白しているこの人間は、自分で「滅びる者」に属すると告白しているに等しい。

さらに、キリストに従う道は、人を寄せつけない「狭き門」である。

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ7:13-14)

この御言葉を考えれば、当ブログの信仰告白が、万人受けするものとはならないのは、当然であろう。それは筆者が「狭い門」を通過しているからこそのことで、まさに当然の結果なのである。それにも関わらず、万人受けする内容であることだけが、あたかも内容の正しさの証拠であるかのように主張するこの投稿者は、自分はまさに大勢の人たちが好んで入って行く「滅びに通じる門」に入る人間だと自分で述べているだけである。

哀れ、この投稿者には、何から何まで救いに至らない条件が兼ね揃っているのだから、自分で予告した通りの結果を辿ることになるだろう!

ちなみに、以上の投稿では、復活祭についても触れられているが、筆者は、今回の民事訴訟では、結審からきっかり3ヶ月間、判決を待った。この3という数字は、当然ながら、イエスの死と復活を表す数字である。

ちょうど判決が出たのが、復活祭を目前に控えた今の時期であったことも感慨深い事実である。

これは筆者にとって非常に重要かつ象徴的な「葬りの期間」であったと言えよう。原告であっても、生涯で初めて受ける判決言い渡しは、それなりに緊張を伴うものであり、いかに裁判官を信頼しているとはいえ、まさか笑顔で聞くというわけにいかない。

さらに、3ヶ月も判決を待つことには、それなりの苦労が伴った。だが、この待望の期間こそ、筆者にとっては、まさに主と共なる葬りの期間だったのである。

判決は筆者にとって、それほど予想と異なるものではなく、それは筆者にまぎれもなく命を与える内容であったが、筆者はまだその解放を、これから受けるのであって、今も葬りの期間は続いている。

このように、今年は例年よりもさらに意味深い復活祭を迎えることができた。

筆者は今年、文字通り、主と共に死んでよみがえる経験を、いつになく深いレベルで体験でき、また、今もその最中にあるのであって、このように感慨深い復活祭を迎えることを、心から主の恵みとして受け取り、喜んでいる(ただし、筆者は祝祭日を祝おうとは思わないが)。
 
従って、このことを考えても、以上の投稿がいかに的外れであるかよく分かろう。さて、裁判の総括は、次回以降の記事でするため、今回は短い報告にとどめておく。

裁判が終わると、色々とせねばならない後処理も残っているが、これからが正念場である。そうした手続きの一つ一つに習熟することは、将来起きうるもっと大きな戦いに対する重要な予行演習であると感じられてならないため、これも感慨深いことである。


何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(1)

ウォッチマン・ニーは、信仰とは天の目に見えない預金口座から、目に見える形で預金を現金化することに似ているとたとえた。これを聞いて、何という現金なたとえだろうかと思う人もあるだろう。あるいは、「そんなことが本当にあるはずがない。あれば、誰も苦労しませんよ」と笑う人もあるかも知れない。

ところが、そういうものが確かに存在するのだ。それは、イエスがスカルの井戸で出会ったサマリヤの女に語られた、尽きることのない命の泉である。

「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:13-14)

このいつまでも絶えることのない命の水の泉、多くの人は、これを単なる比喩か何かだと考えている。命の水、クリスチャンはこの言葉が好きだ。しかし、多くの信者は、本当にそのようなものが存在するとは信じていない。

ところが、それはあるのだ。これは信じる者の内側で起きる御霊の働きである。御霊が、私たちの内側で、まさにとめどなく溢れる命の泉としての働きをなすのであって、それは目に見えない霊的秩序、天的な圧倒的な支配力として、私たちに必要なすべてを供給する。

御霊の命を供給する働き、それは、何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である。」(マタイ6:33-34)との御言葉にもよく表れている。

この命の泉から汲み出すためには、神の国と神の義を第一に追求して生きる必要がある。それは、筆者自身の言葉で言えば、ただ神を心から愛し、神に栄光を帰し、御言葉の正しさを世に証明するために、全身全霊を捧げて、実際に御言葉に生きることである。

私たちの神は、正しい方であるから、神を愛し、その戒めを守って生きるとは、言い換えれば、真実を愛し、正義を愛し、慈しみを愛し、公義を行うことだと言うこともできよう。今、これらの言葉の定義について、長く説明することはしない。

信仰によって、神の御言葉に従い、神が喜ばれる生き方をするために、身を捧げるとき、その人は、天に直接雇用される。そして、その人が生きるための必要のすべてが、この世の方法によらない、不思議な方法で天から与えられる。

このことが、聖霊による命の泉が人の内側から湧き出ることの意味であり、その泉は、ただその人一人が生きるためだけの必要を供給するのではなく、やがて洪水のように溢れ、周囲を潤すようになる。

渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れるようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)

私たちは、この泉を開拓しなければならない。今、筆者が「干潟」にとどまってやっているエネルギー資源開発が、ちょうどそれに当たるが、このように、この世を超越した不思議な方法で、私たちはとめどのない命の流れを汲み出す秘訣を実際に知らなければならない。

当ブログでは、数年前からこのことについて書いて来た。つまり、馬車馬のように生きることをやめ、生活の心配から解かれたいなら、真に正しいと心から信じられる目的のために、自分のすべてを捧げなさいと。御言葉の奉仕者となるために、自分を完全に捧げなさいと・・・。

地上の団体に雇用されて月給をもらっていれば、どんなにその月給が多いように思われたとしても、それは決して一定額を超えることはない。それはいつも人間の予想の範囲を超えず、あなたの必要に応じて変化して、伸び縮みすることもない。

何よりも、その給与では、ジョージ・ミュラーのように、信仰だけによって、5千人の孤児を養うにはあまりにも少ない。すべてが人間の定めた決まり事であり、予想の範囲内から一歩も外に出ず、そこには何一つ不思議も奇跡もない。

だが、信仰によれば、人間の予想の限界を大きく超えて、無からとどめようのない命の流れを汲み出すことが可能なのだ。もちろん、最初からすべてが一足飛びには行かない。だが、あなたはもしも本当に信仰があるなら、ぜひともこの方法を開発しなければならない。そうでなければ、イエスを信じた意味がない、と言っても差し支えない。

さて、こうした結論を当ブログでは何年も前から述べ、また、一部、実際に実行に移しながらも、筆者は今まで、完全には御言葉の奉仕者として生きず、世俗の所属先をかけもちし、バビロン化した経済体系からエクソダスしても完了していなかったゆえ、この命の泉の汲み出し方がまだ十分には分からないまま、現在まで来てしまった。

だが、今や筆者は、資本主義からも、プロテスントからも、本格的に足を洗わねばならないと考え、この度、やっとそれを実行に移すことができたと考えている(これは冗談で述べているのではないため、嘲笑しないでいただきたい)。これらはともに「バビロン」という一つの宗教に組み込まれた複合的な体系なのであり、その呪われた体系の一員として生きている限り、決して人には自由はやって来ないのである。

筆者は長い間、この体系の一員であったので、今やこのバビロンが本当に破滅に瀕していること、早急にそこを出て、真に御言葉の奉仕者として、天に雇用されて生きることによってしか、この先、生きる道がないという時代が到来していることを心から確信している。

当ブログを嘲笑っている人々は、そのような生き方が可能だとは全く考えないだろう。彼らは、筆者がいたずらに自分を王妃エステルや預言者エリヤになぞらえているだけだと言っては、筆者の裁判を嘲笑い、当ブログの信仰の証しを嘲笑して来た。

彼らは、筆者の生き様がこの世の常識から外れているため、筆者はただ破滅に向かって進んでいるだけで、筆者がより頼んでいる神は、筆者を助け得ないと言って今も嘲笑っている。ちょうどノアが箱舟を建設していた頃、人々が彼を嘲笑ったのと同様である。

ところが、結果はどうだったであろうか。神は生きておられ、エステルのように死を覚悟して、筆者が目に見えない王の前に進み出たところ、王は金の笏を伸べて「生きよ」とおっしゃり、筆者に命を提供して下さった。

また、現在も、筆者は、バアルの無数の預言者の前に、たった一人で立ち向かったエリヤと同様、一体、どこからこんなに湧いて来るのかと思うほど、名も知れない大勢の人たちから、夜となく昼となく、向けられる非難や中傷にも、一人で勇気を失わずに立ち向かっている。

筆者のたとえを嘲笑する人々は、このようなことが、冗談でできるはずがないことを知らないのだろうか。

彼らは、自分たちが「バビロン王国」の一員であって、立派な所属先として「バビロン株式会社」に就職していることを誇っている。彼らにとって、それはかけがえのない輝かしいステータスであるらしい。ところが、その国にも、会社にも、やがて間もなく倒産と破滅が決定していることを彼らは知らない。それは沈みゆく泥船であって、その「会社」や「社会」に仕えている限り、誠実な人は、何一つ築き上げることができないのが現状である。

あなたは「バビロン株式会社」の社員として、毎月、雀の涙のような給与と、負いきれない多忙なスケジュールの仕事を任され、それに押しつぶされそうになりながら生きている。その会社は、強欲な幹部や役員らによって支配されているので、あなたの売り上げがどんなに伸び、あなたがどれほど優秀な働きをしても、あなたの給与が増えることはなく、あなたに課せられる任務は、日に日に重くなる一方で、休みさえ満足に取ることができない。

あなたは、その会社の人間関係に疲れ果てるまでがんじがらめにされて、日々、取引先の接待に追われ、休日も携帯電話が鳴って上司に呼び出されることも稀でなく、いつか取れるという有給休暇に憧れているが、なぜかそれを取得した経験がない。賞与などというものも、約束されていたはずだが、一度も受け取ったことがない。むろん、昇進もするはずだったが、なぜかずっと平社員にとどめおかれている。

約束されていた夢のような待遇は、どれもこれも実現したことがないし、最も恐ろしいことに、当初は終身雇用と言われていたはずだが、今や雇用契約は一カ月ごとの更新である。給与も、当初は年俸制だったはずだが、すぐに月給制に変わり、今や時給制になっている。あなたは毎月、生きた心地もしないが、そうなったのは一体、なぜなのか、真剣に考えてみたこともない・・・。

ルターは、ピラトの階段を膝でのぼるうちに、このような精進を通してしか、人が罪赦されて聖化されて神に近づくことはできないというカトリック教会の教え全体が、全くのまやかしでしかないことに気づいて、その苦行を放棄した。

我々が生きるのは、自分の力で階段を上って精進するからではない。「義人は信仰によって生きる」(ヘブル10:38)からだと気づいたのである。

この御言葉が真実ならば、信仰は、我々が生きるためにすべてを供給するまことの命に直結しているはずである。すなわち、ただ一人の命なるお方が、私たちのためにすべてを成し遂げて下さったと信じることこそ、私たちのすべての必要が満たされる根拠なのだから、膝で階段を上るという苦行によっては、人が自分で自分を救うことはできず、自由も解放も得られないのは当然である。

この世で今、多くの人々が獲得しようともがいている安定や、社会的成功は、まさにこのピラトの階段を膝で上るのと同じ苦行でしかない。はた目には、成功例も、あるように見えるかも知れないが、その階段には終わりがなく、上に上って行くためには、あなたは今よりもさらに多くの理不尽な苦悩を耐え忍ばなくてはならない。そして、上に行けば行くほど、ますます解放されるどころか、自由がなくなり、あなたは自分の良心を殺して生きなくてはならなくなる。

さらにもっと言えば、ピラトの階段を上まで登りつめれば、待っているのは死だけであって、そこには約束された自由も解放もない。それはすでにイエスが私たちの代わりに上って下さった階段であって、その先にはゴルゴタの十字架がそびえたっているのであって、私たちはイエスと共にすでにその階段を信仰によって上り切ったのであるから、再びその苦行を身に負う必要はないのである。

従って、あなたが真に健全に、自由に、豊かに、幸せに生きたいならば、この階段を上に上るのではなく、できるだけ早くそこから降りて、このようなまやかしとは無縁の人生を生きなくてはならない。このような階段を他者と競争しながら、誰よりも早く上へと上って行くことが、あたかも正しい人生であり、成功であるかのような幻想と錯覚を、愚かしい誤謬として、一刻も早く捨て去らねばならない。

これが、資本主義とプロテスタントからのエクソダスの意味である。それは双方ともにヒエラルキーに組み込まれて、自分よりも上の階層に位置する人間に利益をもたらすための道具として生きることを意味し、エクソダスはそのような生き方自体をやめるという意味を持つ。
 
さて、天的な命の法則性を確かなものとして習得するために、このような生き方を選ぶことを、当ブログでは、少し前から宣言して来た。昨年の初め頃から、筆者はソドムとゴモラと化したこの地に嫌気がさしたので、ここから脱出するという考えを繰り返し述べて来たが、その脱出は、筆者がどこか地上の別な町へ逃れることを意味するのではなく、ただ地から天へ向かって逃れることを意味した。

筆者は、予めバビロン王国からの国外亡命の準備を整えていたので、まずはエクレシア王国の住人としての永住権を取得し、さらに、亡命後、安定した雇用からあぶれなくて済むよう、エクレシア会社に終身雇用されるための入社手続きも済ませておいた。
 
そして、ある日、信仰と名付けられた飛行機に乗って、ソドムを脱出したところ、離陸の際、バビロン王国とは、全体が一つの高い塔であって、ピラトの階段は、この塔にからみつくように、地上から天に届くほどまで渦高く続いている様子が見えた。ああ、あんなにも長く果てしない階段を膝で登らされようとしていたのかと分かり、そんな不可能事を可能であるかのように教え、自分をそこまで騙したバビロンへの失望と幻滅はさらに募った・・・。

さて、エクレシア王国に着いて、前もって入社しておいた会社へ挨拶に行くと、社長自らが出迎えてくれて、歓迎会を開いてくれた。「エクレシア無限会社」に就職するときには、入社時にただ一人の慈悲深い社長のもとで、社長に栄光をもたらす働きをするためだけに、終身雇用となる契約書にサインを求められる。

社長は言った、この会社では、すべての社員が、社長の直属の部下であるから、上司は、ただ一人しかいないのだと。そして、ダブルワークは禁止されているから、他の社長のためには、二度と働いてはいけないと。

実際に、この会社には、あの頭痛しかもたらさない尊大で横暴な幹部は一人もいなかった。同僚もいるはずだが、一人一人が全く違う部署にいて違う働きに従事しているため、競争や妬みが発生することもない。
 
不思議なことに、雇用契約書には、サラリーの規定がなかった。なぜなら、この会社では、社員のサラリーは、社員の必要に応じて、変化するからである。そして、サラリーという言葉の語源が塩であると同様、一人一人の社員の仕事も、「地の塩」としての役目を果たすことである。
 
 社長は、エクレシアへ脱出してきたこと自体が、あなたの果たした最初の仕事であると労をねぎらってくれ、最初のサラリーも、すでに見えない給与口座に払い込まれていると教えてくれた。
 
手渡された給与明細を見ると、そこには、「罪人の富は神に従う人のために蓄えられる。」(箴言22:13)と書いてあり、それは、地上の人々の言葉では、判決という名で呼ばれていると告げられた。

社長は述べた、この会社では、すべての社員のサラリーは、必要に応じて十分な額が支給されることになっているが、それはいつも支給される時期も形態も異なる。ただし、常に目に見えない給与口座に振り込まれる仕組みになっているので、それを天の銀行で、「現金化」して持ち帰ることも、社員の重要な仕事の一つである。だが、それには困難も伴うことを覚えておいてもらいたい。仕事が常に容易だなどとは決して思わないでもらいたい。だが、信仰によってすべてを乗り越えられると信じなさい。あなたがそうしてミッションを果たすことにより、天には栄光がもたらされる・・・。
 
さて、最初のサラリーを現金化するこの作業がどのように成し遂げられるかを、読者はよく見ておいて欲しい。この世の人々は、筆者の述べていることは、愚かしいたとえ話でしかないと考えて笑うかも知れないが、これは決してたとえ話などではないからだ。

ウェーバーなどを引き合いに出すまでもなく、この世では、実はキリスト教の最先端の信仰回復運動こそ、目に見えない圧倒的優位を誇り、政治体制のみならず、経済をも支配してきた。それは、ピラトの階段を上る者こそ出世するというのが、この世の掟だからであって、それゆえ、この階段を上ったと自負する聖職者階級が、今日に至るまで、この世で最も大きな力を誇っているのは何ら不思議ではない。むろん、プロテスタントの牧師階級もその一部である。

プロテスタントの牧師たちは、信徒とは異なり、教会で俸給をもらい、特権的な地位についている。だが、何ゆえ、彼らと信徒との間に、そのような「格差」が生じるのかと言えば、それもピラトの階段ゆえである。牧師たちは、フルタイムで献身する御言葉の奉仕者を名乗っているゆえ、信徒よりも霊的に一段上の階層に立っているのである。

すなわち、この世の人々は、世俗の仕事に従事しており、世俗に生き、御言葉への献身度が低いために、牧師に比べて罪人であるから、その罪人らが月曜から金曜までフルタイムで汗水流して働いた労働は、牧師たちに捧げられ、彼らの俸給となるのは当然だというわけなのである。
 
筆者は、こんな理不尽かつ愚かしい制度に何ら賛同するつもりはないが、少なくとも、そこにも、「罪人の富は神に従う人のために蓄えられる。 」という見えない法則が働いているのは確かなことであろうと思う。

このような制度を見ても、いかに神の御言葉を独占的に扱う者(御言葉の奉仕者)が、この世において、歴史時代や、国境や、制度を超えて、御言葉に奉仕しない他者に比べて、圧倒的な優位を占めて来たかが、垣間見えると言えよう。

だが、御言葉の奉仕者になる資格は、今日、信じる者には誰でも与えられているのであって、なおかつ、我々は、ピラトの階段を自力で上ることによって、ヒエラルキーの階段を上って行く必要はない。むしろ、信仰によって、この階段をはるか足の下にして、命の御霊の法則に従って、圧倒的な自由と解放を掴んで生きることが可能なのである。ただし、そのための唯一の手段は、「神の国と神の義を第一として生きる」こと、すなわち、「地の塩」としての役目をきちんと果たすことである。
 
このように、「天に直接雇用されて生きること」は、あらゆる時代の信仰の先人たちの証しを見ても、彼らに共通して必要なステップであったことが分かるだろう。ハドソン・テイラーなどもそうであろうが、多くの宣教師たちは、任地へ赴いた後、自分たちを任地へ派遣した所属団体を離れた。それは、組織に所属していることによって、必ず、心のしがらみが生じることを知ったからである。その後、彼らは、所属団体から俸給を受けとることによってではなく、天から直接、俸給を受けることによって生きることを余儀なくされ、それゆえ、信仰を試された。

今日も、神に従って生きる人々にとって、これは避けては通れない学びの一過程であると、筆者は考えている。

さて、今はバビロン王国を脱出したことにより、とりあえず最初のミッションを果たしたので、しばし休息が必要である。慣れない飛行機に長時間座るのは、やはり緊張が伴い、それなりの苦労もある。これから、次回以降の記事で、天のサラリーをいかにあらゆる困難を乗り越えて「現金化する」かという具体的な作業について、書いて行くことにしたい。


良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶ。

* * *

 さて、これまで、プロテスタントはもはや霊的に終焉しており、聖書への正しい信仰を保つためには、ここからエクソダスするしかないという結論を繰り返し書いて来た。

 ここから先は、プロテスタントを脱出することが、資本主義から脱出することと本質的には同じ意味を持つこと、今や私たちはこれらの両方からエクソダスして、真に万民祭司の原則に基づき、新しい生き方をすることが求められている、というテーマについて書きたい。

 一つ前の記事で、カルト被害者救済活動は、プロテスタントの牧師制度の悪から出て来た猛毒の副産物であると書いた。

 プロテスタントは、その発生の当初は、カトリックの宗教腐敗を正し、カトリックの聖職者が独占していた聖書をラテン語から各国語に翻訳して全世界に普及させるなどして、聖書を一般に解放・普及するために、大きな役割を担った。

 さらに、プロテスタントは、聖書をただ一般の人々に解放しただけではなく、一般の信者が、聖書の御言葉を自ら知的・霊的に理解し、御言葉の証しを、自分自身の言葉で述べるという、初代教会には当たり前であった信仰を目覚ましく回復したのである。

 カトリックのミサは、儀式的な色合いが強く、司祭が聖書の内容を自分で咀嚼・吟味して、その解釈を信徒に説教として向かって語ることはない。

 しかし、プロテスタントの礼拝においては、人間に過ぎない者である牧師が、聖書の内容を自分自身で吟味・理解して、これを自分自身の言葉を通して、信徒に向かって証として語るという説教のスタイルが取られ、これは人間による聖書の知的理解という意味で、画期的な役割を担ったのである。
 
 プロテスタントにおいては、聖書の御言葉は、ただありがたいお経のように受け身に受容すべきものとしてはとらえられず、むしろ、信者らに積極的で深い知的な理解を要求するものとみなされた。牧師は信者の代表格として、「御言葉を取り継ぐ」奉仕に専念し、信者たちも、勉強会を開いたりすることによって、聖書研究を行おうと熱心に励んだ。
 
 20世紀頃になって、プロテスタントの中では、最も最新かつ先駆的な運動として、ペンテコステ・カリスマ派と呼ばれる、御霊の働きを回復しようとする各種の運動が登場して来た。

 もちろん、こうした運動は、それ以前から存在していたのだが、大規模な大衆運動として拡大し、各種の教団教派を生んだのは、20世紀になってからのことである。

 この運動は、聖書の御言葉を、ただ知的な文脈で、死んだ文字としてとらえるのではなく、聖霊の働きによって、そこに生きた霊的衝撃力を伴わせることで、信者たちの聖書研究に新たな息吹を吹き込んだ。それは現代の信者の生活においても、主イエスが地上におられた当時に行われた奇跡のように、人間の常識的な理解を超えた、ダイナミックな働きを取り戻すことを目指すものだったからである。
  
 だが、「霊」を識別することなく、霊的なムーブメントを無分別に受け入れたために、ペンテコステ・カリスマ運動は著しい誤謬の中に落ち込んで行き、多くの混乱を生むこととなる。

 そこで、今日、求められている新たな信仰回復運動も、聖霊の働きと切り離せないものであるとはいえ、偽物の聖霊運動を排除して、真の御霊の働きがどこにあるのかを見分けることは、死活的重要性を帯びた課題であると言えよう。

 さらに、プロテスタントには、もう一つの決定的と言える弱点があった。それは、この宗派においても、カトリックほどに厳格な聖職者階級というものはなかったにせよ、まだ、聖書は完全に一般に解放されたとは言えず、依然として、牧師だけが「御言葉を取り継ぐ者」であって、信徒は、牧師の説教を受け身に聞いて、牧師に教えを乞い、教会に献金を納め、牧師一家を支える奉仕者として、牧師よりも実質的に下の階級(被抑圧階級)に置かれ、聖書の御言葉の積極的な理解から排除されていたことである。

 プロテスタントにおける牧師階級は、前述した通り、その発生当初は、人間が自ら聖書の御言葉を解釈して、大胆に証を述べるという意味で、画期的な役割を担い、また、大衆伝道を通して御言葉を全世界に宣べ伝える点で、大きな貢献を果たしたと言えるかも知れないが、その後、福音が全世界に普及し、宣教師たちが命がけで未開・未踏の地に福音を届けるというミッションがほぼ終了して消え去った後では、ただ信徒を搾取し、信徒を聖書の理解から排除し、いつまでも信徒を霊的赤子状態にとどめるという点で、信仰の前進の著しい妨げとなったのである。

 牧師だけが聖書を知的・霊的に理解・咀嚼して、信徒に説教を語り、信徒は牧師から「霊的な乳」を飲ませてもらわなければ、信仰に生きることができない「赤子」にとどめられるというプロテスタントの礼拝スタイルは、今やそのものが、キリスト教の前進の著しい妨げとなって、排除を迫られているというのが現状である。

 いわば、プロテスタントからの新たな宗教改革が必要とされているのが、現代という時代なのである。その改革の核心として、牧師階級から聖書をさらに一般に向けて解放することが、早急な課題として求められていると言えよう。

 さて、こうして、牧師階級の弊害というものが、一般に認知されるようになった大きなきっかけは、昨今、一部の教会で、牧師による信徒へのあまりにもひどい搾取や差別や虐待が行われているために、それを是正するという名目で、カルト被害者救済活動が登場して来たことによる。

 だが、この運動は、決して聖書に基づくものではなく、従って、教会に真実な信仰の回復をもたらすこともなかった。

 このことは、すでに述べた通り、ブラック企業とそれに対抗する団体との抗争を思い浮かべれば、非常に分かりやすい。

 資本主義が行き詰まりを迎えるに連れて、労働者は著しく劣悪で非近代的な労働環境に置かれるようになり、我が国でも、1995年以来続く不況の中で、追い出し部屋、賃金未払い、過重労働、過労死、リストラ、非正規雇用など、様々な悪しきトピックが取りざたされるようになり、ブラック企業という言葉も、一般に認知されて定着した。

 ブラック企業の登場と共に、ブラック企業との闘いを公然と唱える団体も、行政及び民間の中から登場して来たが、よく見てみれば分かることであるが、こうした団体が究極の目的としていることは、ブラック企業との闘いのために立ち上がった人々を支援するという名目で、これらの人々を新たに自分たちの利益の源とすることにある。

 つまり、ブラック企業との闘争を売り物にする各種団体は、弁護士ほどではないが、かなりの割合で、成功報酬をかすめ取ることを定めており、行政もまた、表向きには、ブラック企業撲滅を掲げてはいても、その本質は、ブラック企業が真になくなってしまうと、存続できないというものなのである。

 このように、ブラック企業も、ブラック企業の根絶を掲げる各種団体も、共に虐げられた弱い人々に群がり、そこにたかって、利益を食い漁る利権団体であるという点で、本質的には変わらないのであって、ただブラック企業根絶を掲げる各種の団体は、ブラック企業ほど悪質かつ強引な搾取を行わないだけである。

 それ以外の点では、これらは、双方で利益を補い合って存続している車の両輪のようなものであって、もしかすると、ブラック企業根絶を掲げる団体は、正義の旗を掲げているだけ、ブラック企業以上に悪質である可能性も否めない。

 話を戻せば、カルト被害者救済活動も、プロテスタントの牧師階級による金銭的・霊的搾取に対抗することを目的に掲げて始まったものの、結局は、牧師階級によって食い物にされた信徒を、さらに食い物にして栄光と利益を吸い上げ、かすめ取る点で、カルト牧師と同質か、より以上に悪いものであり、プロテスタントを浄化する作用を全く持たなかったどころか、かえって牧師階級の持つ致命的な毒素をそっくり温存したまま、さらにこれをより強固なものとして信徒を支配する契機となったのである。

 今や日本のプロテスタントは、牧師制度の腐敗を是正するという正義の旗を掲げて登場して来たカルト被害者救済活動によって、完全に恫喝され、沈黙に追いやられるという恐るべき状態に陥っている。

 そのようなわけで、不況下のサラリーマンがいつまでもブラック企業と労基署との間を行き来していても仕方がないように、プロテスタントの信者も、カルト化した教会とカルト被害者救済活動の間での愚かしい堂々巡りに終止符を打って、今やプロテスタントという水槽そのものから、脱出せねばならない時に来ていると言えるのである。

 「エクソダス」の原則は極めて単純であって、これ以上、人間の指導者や、組織や団体に属さず、万民祭司の原則に従い、キリストご自身に直接、属して信仰生活を送ることである。

 信者が、霊的・金銭的に搾取される立場から抜け出るためには、自分を搾取する存在から離れなければならないのは当然である。牧師制度を敷く教会の中にい続ける限り、決して搾取の構図からは抜け出られないのは明々白々の事実である。牧師のみならず、すべての聖職者制度から離れるべきである。

 さて、以上の経緯を踏まえた上で、プロテスタントからの脱出と、資本主義からの脱出は、根底では一つの事項であるという話に戻りたい。

 マックス・ウェーバーは、著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において、プロテスタントのキリスト教国において、資本主義が目覚ましく発達したのには、宗教が大きく関係しており、プロテスタントの信者は、「自分が本当に神に救われているかどうか分からない」という不安を払拭するために、神の召し(天職)としての自分の職業に邁進し、それによって、資本主義の発達が促されたのだとしている。

(ウェーバーの著書を知らない人のためには、あまりにも要約しすぎであるとはいえ、「5分でわかるウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(プロ倫)」要約」を紹介しておく。)

 福音書では、主イエスは、弟子たちに、御言葉を実践して生きるように教え、信者たちには、それによって、神の国の収穫を増し加えるというミッションが与えられていることを、次の御言葉を通して語られた。
 
 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。

 早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、②タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントンを預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。

 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントンを預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンをお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。」

 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』

 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』

 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所から書かき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりをするだろう。』」(マタイ26:14-30)

 以上の御言葉は、神の国の権益拡大の原則を示したものであって、キリスト教徒が、この地上における生涯を、神の国に利益をもたらすために、有効に用いなければならないことを示している。それが商売にたとえられ、有益なもうけを出した者が、神からの褒賞にあずかるというのである。
 
 とはいえ、神の国の権益拡大といっても、プロテスタントの一般の信者たちには、牧師と違って、それぞれに世俗の職業がある。それゆえ、彼らは、毎日、聖書の御言葉だけに没頭して暮らすわけにはいかない。

 そこで、プロテスタントの信者たちは、自分の生活において、御言葉を実践して、より多くのタラントをもうけ、まことの主人である神に誉めていただくとは、一体、どのようなことを具体的に指すのかを考えた。

 その結果、信者たちは、神の国の権益を拡大するために、日曜礼拝に出ている以外の週日は、自分の「天職」としての職業に励み、自分の資産を拡大し、その結果として、利益の十分の一を教会に献金として捧げることが、神の国の権益拡大に当たると考えて、それゆえ、自分の職業に熱心となったのである。

 ウェーバーの説を極端に要約するならば、そういうことの結果として、資本主義が発達した、という結論と至るだろう。

 さらに、これと同じ理屈を用いて、さらに前進するならば、資本主義が行き詰まりに達したのも、プロテスタントの倫理そのものが行き詰まりに達したからだ、という結論が自然と導き出される。

 なぜなら、組織としてのプロテスタントは、その霊的な息吹を失った時点で、形骸化して、自己目的化してしまい、プロテスタントにおける十分の一献金には、かつてカトリックが免罪符を売ったのと全くよく似た腐敗が隠されていたからである。

 すなわち、プロテスタントの信者たちがどんなに日々、労働に励み、自分の資産を賢く拡大し、その利益の十分の一を教会に納めても、その献金が、プロテスタントの聖職者制度という、信徒の上に君臨する独占的・特権階級をより富ませ、彼らの独占状態をより強固にするという悪しき目的のために利用されるならば、それは真に神の国の権益拡大にはつながらない。

 いわば、ブラック企業の従業員が、自分が搾取されていることも知らずに、どんなに身を粉にして会社のために働いても、その真面目な労働が、すべてブラック企業の社長の利益として吸い上げられ、その企業がますます悪くなるだけに終わるのでは意味がないのと同じである。

 このような行き詰まりを打開するためには、ブラック企業の従業員は、ただ身を粉にして働くだけではいけないのであって、自分の労働が真に正しい成果を生むように、ブラック企業を退職して、自分のためになる事業を起こすなどするしかない。

 だが、そこに一つの困難がある。その従業員は、ブラック企業を辞めても、これまで、社長の定める指揮命令系統に忠実に従って労働を受け身に提供するだけの雇われ社員であったので、自分の事業を起こすためのアイディアやノウハウの蓄積がないということである。

 この状態は、プロテスタントの信者たちの霊的「赤子状態」に非常によく似ている。十分の一を教会に納める代わりに、聖書を知的・霊的に理解する仕事を、牧師という存在に任せっきりにし、自分たちは、月曜日から金曜日まで、望むがままに世俗の生活を自由に送り、牧師から「霊的な乳」を飲ませてもらうことで、かろうじて信仰を保っていたに過ぎない弱々しい信者には、いざ牧師を離れて、自分自身の力で信仰生活を送る力が、ほとんど養われていないのである。

 とはいえ、どんなに信者たちが霊的に幼く弱くとも、プロテスタントが行き詰まりを迎え、牧師階級そのものがこの宗派の重荷となっている以上、牧師制度の下に身を置いている限り、信徒らも、ますます貧しく、弱くなって行くしかないのであって、そうこうしているうちに、ついに信者には牧師たちを経済的に支える力もなくなり、教会は完全に押しつぶされてしまう。

 その悪循環を抜け出すための選択肢はただ一つしかなく、信徒が牧師の霊的赤子状態から自立して、聖書の御言葉を自分自身で咀嚼・理解・実践することのできる霊的「おとな」になって、御言葉により、何者にも奪われることなく、永遠に残る収穫を生み出す存在となることである。

 このようにして、霊的「おとな」になることには、信者の生活をすべてにおいて富ませるのであって、経済的な富も、当然ながらそこに付随して着いて来る。

 もしも資本主義の発達が、ウェーバーの言うように、プロテスタントの倫理によって促されたものであるならば、新たなる経済発展の鍵も、聖書の御言葉の中にこそ存在することを、信者らは特に否定しないことであろう。

 歴史を振り返るならば、経済の発達は、霊的優位性と密接な関係があり、いわば、聖書の御言葉をよく理解し、これを実生活に応用する秘訣を知っている者が、この世においても、真の意味で支配者となり、不足のない豊かな生活を送ることができたという原則があることが分かるはずである。

 すなわち、世界史を大きく動かしているのは、戦争でもなければ、国際金融機関の動きでもなく、宗教であって、その中でも、キリスト教の最も先駆的で、革新的な信仰回復運動こそが、時の経済の発達と密接な関係を帯びていることが分かるであろう。

 現代キリスト教においては、プロテスタントが最も先駆的な信仰回復運動であり、資本主義はその倫理を土台として成り立ったと言って良いが、プロテスタントは、キリスト教の教会史の発展の一時的な形態に過ぎず、プロテスタントの次に来る信仰回復運動というものが、必ず存在するはずである。

 だが、なぜ宗教すなわちキリスト教が、経済の発達を促す原動力になり得たのか。

 カトリックの聖職者制度およびプロテスタントの牧師階級に注目するならば、そこには、救いの確信を心の内に得ている者が、救いの確信を持たない者よりも霊的に優位に立って、彼らの労働の成果を搾取して支配する根拠を得て来た、という構図があることが分かるであろう。

 ここには、非常におぼろげかつ不正確な形であるとはいえ、「罪人の富は正しい者のために蓄えられる」という聖書の原則が、影のように反映している。

 カトリックの聖職者や、プロテスントの牧師たちが、多くの信徒に君臨して彼らを搾取の材料とし、支配することのできた理由は、自分たちがあたかも人間の罪を指摘し、これを赦す権限を持ち、何が正しい生き方であって、何が誤った生き方であるかを人に教え、彼らを導くことのできる者であるかのように振る舞うことで――言い換えるならば、聖書の知識を独占し、自分たちこそ神かその代理人であるかのように振る舞うことで――罪赦されて義とされたいという人々の心の不安を巧みに利用して、彼らよりも優位に立ち、信者らに対して指導的権限を握ることができたからである。

 プロテスタントの信者は、「自分が本当に救われているかどうか分からない」という不安を埋め合わせ、慰めてもらう代価として、目に見える教会と、目に見える指導者の教えのもとにつなぎとめられ、週日の労働の成果を、十一献金という形で教会に納めたのである。

 今日でも、自分が確かに救われて、罪赦されているという、信仰による平安を持たない信者たちは、手っ取り早く、目に見える形で、自らの不安を解消しようと、目に見える教会に籍を置き、見えない命の書ではなく、目に見える会員名簿に自分の名前を記載してもらい、見えないキリストではなく、目に見える牧師に教えを乞い、その”ありがたい”説教を聞くことで、まるでお祓いでも受けるように、自分の罪が清められたかのように思い込み、教会に献金を納めることで、神に仕えているのだという安心感を持ち、目に見える自分の名札(教会籍)と、目に見える兄弟姉妹を見て、自分は神の国に連なって救われているのだと、心慰め、安心しようとする。

 しかし、それは手に取ればすぐに消えてしまうあぶくのような、不確かな保証に過ぎず、信者たちの心の中の永遠に取り去ることのできない確信ではないから、信者たちは、まるで鎮痛剤でも打ってもらうように、その効果が消える頃に、またも同じ痛み止めを打ってもらうことを求めて牧師たちのもとを訪れるしかない。牧師たちは、このような信徒たちの拭い去れない不安を定期的に慰めてやる代価として、彼らの献金によって支えられ、信徒らの上に君臨しているのである。

 筆者は、牧師たちが、救いの確信を本当に得ているとは言わない。ほとんどの場合、彼らは、ただ自分たちが他の信徒に優って、聖書の御言葉をよく知っており、あたかも揺るぎない救いの確信を持っているかのように振る舞う秘訣をよく心得ているだけであり、なおかつ、他の信徒たちの不安を見抜き、これを自分に都合よく利用して、利得の手段と変える心理的トリックを豊富に持っているだけである。

 多くの牧師たちは、筆者から見て、外面的行動だけを取っても、本当に救われているかどうかさえ、全く分からないような人々である。

 しかし、いずれにしても、彼らは自分たちがまるで魂の医者よろしく、揺るぎない救いの確信に立っているかのように振る舞う術を心得ている点で、一般信徒以上にしたたかなのであって、自分の心の内側に、救いの確信を持たない信者は、心の不安を巧みに利用されて、こうした自分の救いを保証してくれそうな指導者(もしくは団体)にいつまでもすがりつき、彼らに年貢を納め、心の不安を解消してもらうことで、平安を得るという生き方をやめることができない。

 こうした信者たちは、自分で自分の貧しい心の状態に気づかない限り、その霊的弱さのゆえに、自分たちの汗水流して真面目に働いた労働の成果を、いつまでも詐欺師のような人々に吸い取られ続ける運命にある。

 このような弱く貧しい信者が、経済的にも、魂的にも、自由になるためには、彼らが一刻も早く、目に見える人間の指導者から自立して、その助けなしに、キリストに直接、連なり、御霊によって直接、御言葉の意味を教わり、誰にも保証してもらう必要のない救いの確信をはっきりと心に得て、御言葉を自分の人生に実際に適用して生き、その成果を勝ち取る秘訣を自分で学ぶしかない。

 すなわち、霊的な優劣を作り出す差別的な宗教制度を離れ、霊的中間搾取者階級を自分の上に置かず、組織や目に見える人や事物に依存せず、あらゆる虐げから遠ざかり、自分の救いの確かさが自分で分からないほどまでに惨めな霊的赤子状態から抜け出すしかないのである。

 霊的な乳を、牧師から飲ませてもらうことをやめて、キリストご自身から、御霊によって、すべてを教わる方法を知り、それによって生長して、霊的に「おとな」になって、すべての物事について自立した大人の考えを持つこと、そうして生長することだけが、「赤子」と「大人」との霊的優劣を撤廃するただ一つの方法である。
 
 かくてプロテスタントは霊的に役目を終えて終焉しつつあり、プロテスタントに次ぐ新たな信仰回復運動の登場が待たれているのであるが、資本主義の行き詰まりを打開する鍵も、その新たな信仰回復運動にあるものと筆者はみなしている。
 
 その新たな信仰回復運動とは、万民祭司の原則に基づき、信者がいつまでも自分を赤子にとどめるゆりかごなる「囲いの呪縛」(目に見える組織や団体による束縛)から抜け出て、キリストご自身から来る、誰にも奪われない救いの確信を心に得て、その命の自由の中を生きることである。

 自分が救われているかどうか分からないという心の不安を埋めるために、自分で自分を贖おうと、ひたすら労働に励み、かつ、その成果を、いつまでも目に見える指導者や、組織に貢いでは、その対価として慰めを受けるのをやめることである。
 
 資本主義における労働は、救いの確信を持てないプロテスタントの信者が、自分で目に見える救いを確保しようと、自分で自分を贖う悲痛なまでの努力が、体系化して生まれたものであると言えるかも知れない。

 そのような意味で、今日には宗教的要素が抜け落ちて形骸化しているにせよ、資本主義における労働には、初めから、人類による人類の自己救済という、聖書の御言葉とは相反する願望が込められていたのであって、それゆえ、その労働は実を結ばずに終わることが運命づけられているのかも知れない。

 それでも、プロテスタントが全世界に福音を届ける使命をまだ積極的に担っていたうちは、資本主義も、その対の車輪として勢いよく回り続けたかも知れないが、今は両方のタイヤにヒビが入り、取り換えが必要な時期が来ている。

 私たちキリスト者は、信じる者として、一人一人が神の祭司であり、御言葉の奉仕者であるが、自分たちの働きが、誰からも不当にかすめ取られることなく、真に実を結ぶものとなるように、今一度、自分が誰に奉仕しているのか、どこに向かって種を蒔き、どうやって収穫を勝ち取るのか、私たちの本当の主人は誰なのか、といった問題について、考えるべきであろう。

 以下のよく知られている聖書箇所も、御言葉には、信じてこれを行う者に、天においても地においても、豊かな実りと栄光をもたらす力があることをはっきりと示している。なぜなら、御言葉は、復活されたキリストであって、私たち一人一人をすべての問題から救い、満たすことのできるのまことの命だからである。

 聖書の御言葉は、信じてこれを行う者に、どんなに少ない場合でも、三十倍の収穫をもたらすことができるのであり、その収穫とは、天的な利益だけでなく、この世のすべての必要性が満たされることをも含んでいる。

 だが、信者が実際にその収穫を獲得し、これを存分に享受し、キリストの満ち満ちた命の豊かさの中を生きるためには、盗人だけでなく、中間搾取を行う者どもをも、自分たちの生活から徹底的に排除しなければならない。

 御言葉を実践しているのに、収穫がもたらされない信者には、常に邪魔しているものが存在するのであって、自分のための泉の水を、道端にまき散らし、自分のための栄冠を常に他人に奪われているような生き方では、残るものがないのは当然である。

 従って、自分一人では十分に物事を考えられないとか、一人では救いの確信が持てないとか、一人では自己価値を感じられず不安だなどといった理由で、常に自分以外の目に見えるものにすがりつき、それによって自己価値を保証してもらおうと頼っている限り、その信者に蒔かれた種は、発芽しても、その実はすぐに奪い取られ、手元には何も残らないことを知るべきである。

 組織や、事物や、指導者に依存して、目に見えるものによって自己価値を保証してもらうことをやめ、霊的な中間搾取者から離れなさい。そうすれば、信者は、見えない神に直接、仕えることができるようになり、その働きが、誰にもかすめ取られず、信者自身の人生に利益として還元され、いつまでも残る実りになるでしょう。

「よく聞きなさい。種を蒔く人が種まきに出て行った。

 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。

 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ目を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。

 他の種はいばらの中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。

 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。


「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。

 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。

 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐに喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。

 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるのである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。

 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。
」(マルコ4:1-8, 14-20)


主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。
 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。

どのような時にも、”霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。また、わたしが適切な言葉を用いて話、福音の神秘を大胆に示すことができるようん、わたしのためにも祈ってください。

わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。」(エフェソ6:10-20)
 
オリーブ園の直近のオースチンスパークスの記事「「霊の力の回復」第四章 霊の事柄のための霊的能力 (11)」も依然としてタイムリーな内容である。

この論説は、今日の弱体化した教会(エクレシア)が主の霊によって力づけられ、上から生まれた人々によって構成され、霊的な戦いに対して十分に備えられ、訓練された戦闘員となる必要性を訴えている。

前回の記事にも書いた通り、今日、クリスチャンと呼ばれている民の多くは、戦争が勃発しているのに、そのことを知らされずに非武装のまま土地に残された民間人のようである(まして非クリスチャンは戦いがあることなど全く知らされていない最も無防備な人々である)。

しかし、彼らが知らなくとも、戦いの火蓋はすでに切って落とされており、暗闇の勢力の欺きの活動が存在し、敵の襲来が迫っているのは事実であるから、彼らがずっと無防備のままであれば、やがて捕えられ、捕虜として引いていかれ、緩慢な死に追いやられるか、たちまち暴虐に見舞われるか、いずれにしても、悲劇が待ち構えているだけである。

そのような結果に至らないために、我々は戦って勝利をおさめなければならない。だが、今日、戦いがあることを知って、神の武具で武装して、きちんと戦闘に備えているクリスチャンはほとんど見当たらない嘆かわしい現状がある。

そこで、一部、ごくわずかに訓練を受け、戦いに備えて武装することを知っている信者が、無防備な民のために見張り人となり、防御兵の役目を果たさなければならない。

バビロンの倒壊はすでに始まっているのであり、私たちはその滅びに巻き込まれないよう、自分だけでなく、多くの人々をも避難させる役目を担っている。サムソンは最期の力を振り絞ってペリシテ人の神殿を倒壊させ、自分もその下敷きとなって死んだが、今日、私たちはキリストの十字架の死と復活を帯びているから、自分自身と人々を倒壊する火宅から生きて助け出す力を持っている(ただし霊的には絶えず死をくぐらなければならない)。

私たちが激しい戦いの中で、自己の安寧を最優先して、さっさとあきらめて退却するのか、それとも最後までその戦いの中に踏みとどまって、勝利を確信し、人々を説得して避難させ、彼らが川を渡り終わるまで、そこで最後まで契約の箱を抱えあげて立ち尽くせるかどうかで、多くの人々の命運までが決まってしまう。

エクソダスは一人だけで成し遂げられるものではなく、多くの人々がそれに続くのである。彼らが紅海を渡り終えるまで、海を切り開き、道を支えている誰かが必要である。

筆者は長い間、そのことを知らず、筆者自身も、自分が戦闘員として立たされていることに気づいていない一人であったが、それでも神の子供の一人として、さまざまな訓練を受けることになり、それが戦闘員とされるための訓練であることが、徐々に分かって来た。そうこうしているうちに、ついには、自分の生まれながらの弱さや限界、あるいは知恵の不足をすべて補って、自分のものではない、神の上からの力が私たちの内に働き、どんな激しい戦いをも最後までくぐり抜けることを十分に可能にしてくれるため、私たちはそれを最後まで信じて立ちおおせなければならないことが分かったのである。
  
オースチンスパークスが以下で「非戦闘員」と呼んでいる人々は、ほとんどが、いわゆる既存のキリスト教の組織や団体の枠組みの中にいる人々である。それらの団体の構成員は、血縁や、友人関係や、その他の地上の生まれながらの魂の情愛による絆や、縁故によってほとんど占められており、神の命によって生まれたのでない大勢の人々、また、地上的な人間関係の絆でがんじがらめとされている。その団体は全く霊的な戦いがあることも知らず、その戦いに巻き込まれないために、垣を巡らし、城壁を作り、その中に閉じこもってしまった人々である。

しかし、聖書におけるエクレシアはそのようなものではなく、神の新しい命によって上から生まれ、キリストの頭首権に服する人々によって構成される目に見えない共同体である。そして、私たちは自己の安全のために、自分の団体の中に閉じこもるのでなく、絶えず全世界に出て行って、福音を宣べ伝える使命を帯びている。

自覚があろうとなかろうと、一人一人のクリスチャンは、常に新しい霊的領土を獲得するための戦いの中に置かれているのであり、私たちの信仰的態度は、私たちが身を置いている見えない領域に、誰の支配が及ぶのか、すなわち、キリストの主権が打ち立てられるのか、それとも、それに反する者の主権が打ち立てられるのか、激しい支配権の争奪戦の行方を決定する。

私たちはそこで暗闇の勢力の支配を駆逐し、彼らが恐怖によって人々を従わせようとするわざを打ち壊して、そこに自分たちが掲げているキリストの御名の旗を打ち立てて、キリストの主権を確立せねばならず、その作業によって、私たち自身のみならず、大勢の人々が、暗闇の支配下から解放され、まことの命なる方の支配へと移し出されるのである。

しかし、それは決して、私たちがこの世の力によって支配権を奪還するというクーデターによって成し遂げられるものではない。むしろ、私たちが最も弱くされて主と共に十字架の死を通ることによって、そこに逆説的に復活の命が働くという方法でなくてはならない。

その時、私たちの弱さの中に、私たちのものではないはかりしれない神の力が働き、私たちが霊的に経由した死と復活が、すさまじいまでの衝撃力となって、これまで暗闇の勢力の欺きにとらえられて盲目とされていた多くの人々にも波及し、人々は自ら事の本質を悟り、神に直接、連なって、愛する御子の支配下にかくまわれ、そこで御名のために命をかけて戦うことのできる戦闘員へと変えられて行くのである。

次の御言葉は、今日の荒廃した状態の教会にも、当てはまるものであり、終末の時代のことだけを指して言われたわけではないと筆者は信じている。

シオンの子らよ、あなたがたの神、主によって喜び楽しめ。主はあなたがたを義とするために秋の雨を賜い、またあなたがたのために豊かに雨を降らせ、前のように、秋の雨と春の雨とを降らせられる。
 

打ち場は穀物で満ち、石がめは新しい酒と油とであふれる。 わたしがあなたがたに送った大軍、すなわち群がるいなご、とびいなご、滅ぼすいなご、かみ食らういなごの食った年をわたしはあなたがたに償う。

あなたがたは、じゅうぶん食べて飽き、あなたがたに不思議なわざをなされたあなたがたの神、主のみ名をほめたたえる。

わが民は永遠にはずかしめられることがない。 あなたがたはイスラエルのうちにわたしのいることを知り、主なるわたしがあなたがたの神であって、ほかにないことを知る。わが民は永遠にはずかしめられることがない。


その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。

その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。 その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。 その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。
 
だが、上記の御言葉を、聖霊を受ける必要性だけをことさらに強調する運動と混同することはできない。私たちの信仰生活の中心に位置するものは、いつでもキリストの十字架の死と復活でなくてはならない。十字架を中心に据えず、自分への祝福や、霊的現象ばかりを追い求めれば、必ずや別な目的へと逸れて行くことであろう。

必要なのは、万民祭司の時代にふさわしく、私たち一人一人の信者がキリストに直接、連なり、神の霊によって上から生まれ、直接、御霊から教わる民となることである。そして、日々、自分の十字架を取って主に従い、子としての訓練を受け入れることである。
  
私たちは地上的な団体に所属して形骸化した信仰生活を送ることを神に従うことと同一視するのではなく、上から生まれ、神の教会の中に、直接、上から置かれ、そこで使命を与えられ、果たすことの意味を考えなければならない。

戸口で自己を焼き尽くされた上で、目に見えない共同体であるエクレシアの中に入れられ、そこで神が望んでおられる役割を果たすことの意義を考えなければならない。エクレシアはただ単にキリストが再び来られるのを待ち望んでいる聖なる花嫁であるだけでなく、頭首なるキリストの意を受けて、それを地に実現するための神の最強の軍隊でもある。神の多種多様な知恵が、教会を通して、天上の諸々の主権や権威に対して知らしめられ、教会を通じて、サタンのわざが打ち壊され、サタンが天から投げ落とされ、神に栄光が帰されるのである。

エクレシアには主の安息が満ちていると同時に、これは花婿の栄光のために戦う花嫁でもある。そして、そのような役割を確実に教会が果たせるようになるためには、幾度も述べた通り、一人一人の構成員が真に主と共なる十字架の死と復活を経て、神の命によって上から生まれ、エクレシアの中に上から入れられ、それぞれの場所に置かれる必要がある。そうなって初めて、それぞれに置かれた場所で、自分にどのような召しが与えられているのか、各自が理解して、これを果たせるようになるのである。

私たちは、主の御名によって呼ばれる軍隊の一人として、目に見えない霊的なミッションを担う戦闘員として、自分に与えられている召しが、確かに自分自身の思いから来たものではなく、神から来たものであることを確信し、どんな犠牲が伴っても、それを最後まで貫徹して勝利をおさめ、成果を勝ち取るまであきらめないという強い願いを持つ必要がある。

そのような召しを与えて下さることは、ただ神だけに可能であるが、私たちクリスチャンは一人一人が本来、みなそのように神の武具で武装し、戦いに熟練し、霊的に訓練された戦闘員となる必要があり、エクレシアはそのように整えられた戦闘員によって神の栄光のために大胆なわざがなされるべき場所なのである。
 
以下、オースチンスパークスの論説から。

  最も霊的な事柄に関しても、多くの非戦闘員がいるおそれがあります。彼らがその中にいるのは、そこから出るのを恐れているからです。彼らは撤退しようとしません。それは自分に何が起きるのかを恐れているため、あるいはその中に友人がいるため、あるいはそれに個人的関心を持っているため、あるいはそれに全く同意しているためです。

主に私たちの心を探ってもらって次のように自問しましょう。「なぜ私はこの中にいるのでしょう?私がその中にいるのは、上からその中に入ったからでしょうか?神が御自身に関する強力な経験に基づいて私をその中に置かれたので、それ以外どうしようもないためでしょうか?それは辞めたり、引き下がったり、他の何かに行ったりできるものではなく、私の命なのです」。

神がそこに一つの民を獲得される時、彼の主権が宣言される扉が開かれます。とても多くの人々は隅にいて傍観しています。それが正しいのかどうかまったく確信がなく、それは完全に安全なのかどうか疑問に思っています。そして、状況を分析しています。これは彼らがその中にない証拠です。主の主権は、その中におらず、そしてその中に上から入ったことのない人々のせいで、停滞させられるおそれがあります。

 私たちは神に属する事柄の中に上から入らなければなりません。協会や運動に加わるようにキリスト教に加わることはできません。そのように神の事柄の中に入ることはできません。「上から入る」という言葉で私が何を言わんとしているのか、あなたは疑問に思っておられるでしょう。私が言わんとしているのは、あなたは死んで葬られ、今や天の側から中に入ったということです。それは開かれた天を通ってであり、あなた自身の心の中にイエス・キリストが啓示されるという方法によってです。これはあなたにとって地的事柄では全くありません。その起源は天にあります。