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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

神の国とその義を第一として生きるならば、地上を生きるための必要はすべて添えて与えられる。

さて、一つ前の記事は、今から何年も前に起きた出来事を指しており、その後、筆者はこの世の不正に巻き込まれず、むしろ、それを拒み、理不尽には毅然と立ち向かうことを続けて来た。そうして立ち向かう仕事は、だんだん筆者の真の意味での「お仕事」になって来たと言える。

多くの人は知らないが、世の中では、正しいことは正しい、間違っていることは間違っていると、臆することなく、公然と根気強く主張し続けることによって、無益な騒動が起きるどころか、失われた利益が豊かに戻って来ることが多い。

むしろ、どんな理不尽に巻き込まれても、何一つ苦言も呈さず、抵抗もせず、ただ暗闇の勢力のなすがままに翻弄されているからこそ、一方的に奪われるだけに終わるのであって、嘘や不正には毅然と立ち向かうべきなのである。それをしない限り、人は自分を犠牲者とする道を自ら選んでいるも同然なのである。(ただし、このことは事実を公然と主張することを意味し、力づくで復讐を果たすこととは全く訳が違う。)
 
特に、我々の年代以下の世代は、きちんと声をあげて自分の権利を世の中に主張することをしなければ、この先、未来永劫、強欲な経営者(や年長世代ら)によって踏みしだかれ、犠牲とされていくだけである。筆者は世代間の対立を煽るためにこう言うのではない。それが高齢化社会の避けられない構図だからである。(また、それは先祖崇拝や儒教などの精神のもたらす弊害でもある。)
  
そこで、たとえ自分よりも年長であったり、力の強い人間を相手にする時であっても、自己の尊厳を守るために、自分自身の命を守るために、嘘は嘘であり、不正は不正であり、誤ったことは誤っていると、公然と主張すべきであって、それをするかしないかは、生死を分ける問題なのである。

そんなわけで、筆者はかつて信仰の友が語ってくれた通りに、反対に遭っても、あきらめないで根気強く訴え続けることの重要性について、今に至るまで大いに学ばされている。神に対しても、人に対しても、その原則は同じである。

時には、神に対しても、一歩も退かない覚悟で、自分の望みを切に申し上げ、答えを得るまで、直談判を続けねばならない。そして、神はそのように強い願いを持って、ご自分を信頼して御許にやって来る人々を、決して無碍に退けられることなく、むしろ、その願いを喜んで受け止めて下さる。

そのため、私たちはただ自分が生き延びられさえすればそれで良いなどという、あまりにも低い目標で満足して生きるのではなく、決してあきらめることのできない崇高で切なる願いを、誰しも持つべきである。そして、それをこの社会に、人々に訴え、まことの神に訴えながら、根気強く実現を目指して生き続けるべきなのである。

ところで、話題は変わるようだが、筆者の地上の家系には、求道者の血筋が流れていると言えるかも知れない。

筆者は現在、キリストにあって、地上の生まれとは全く異なる新しいアイデンティティを生きているが、それでも、時折、地上の生まれにも、深い意味があったのかも知れないと思いめぐらすことがある。

そう思うほど、筆者の家には、宗教に関わりのある人々が多く、キリスト教徒も、数は少ないが、祖先にいないわけではない。どうやら筆者の地上の家系には、飽くことなく道を探求する血筋が受け継がれているようである。

しかし、筆者は中途半端な求道者にはなりたくない。どうせならば、生涯に渡り、本気で道を究め、真剣勝負で生きたいものである。

筆者の遠い親戚のある一人は、若い頃に、尼僧になろうとして禅寺に出家した。本来ならば、この世を最も謳歌していて不思議ではない娘時代のことである。

彼女は少しも引っ込み思案でもなければ、厭世的な性格でもなく、むしろ、幼い頃から活発で、怜悧で、いつも大勢の友達に慕われ、成績も抜群で教師からの覚えもめでたかった。

それにも関わらず、俗世での成功をすべて捨てて構わないと決意したのには、おそらく、戦後、敗戦の根本的な反省もないままに、経済成長だけを至高の価値のように目指していた当時の時代の風潮や、物資と愛情に不足しながら育った家庭環境への疑問が影響していたのではないかと思われる。

彼女は、自分の生まれ育った家庭を見て、一体、これが真の幸福だろうかと疑問に思い、家庭に入って妻となり母となるという役割は、人生のゴールたりえないと思ったのであろう。また、受験競争や就職戦線を通して、何なく勝ち得られそうなこの世のもろもろの成功も、移ろいゆく表面的な有様に過ぎず、真の満足を見いだせないものと見たのであろう。

目に見えるものよりも、もっともっと本質的で、永遠に消えることのない確かな価値を求めて、か細い希望を辿りながら、暗闇の中を手探りするように、俗世における幸福をすべて捨てる覚悟で、修行に入ったと見られる。

しかし、その探求は中途で止まってしまった。修行中に、生涯独身を貫くことを覚悟していた彼女に、熱心にプロポーズする人が現れたのである。その人もまた修行僧であった。「あなたには尼さんのような孤独な生活は向かない。ぼくが住職になるから、ぼくの妻になって、ぼくをサポートしながら、幸せな生活を送りなさい」

真面目で働き者だった彼女は、人を助けることには向いていたと思われる。そのプロポーズの言葉を、真摯な愛情だと思い、尼僧になる道をあきらめ、住職の妻となり、家庭に入った。

しかし、その後、歩んだ道は、およそ道と呼べるものではなく、彼女が当初、探求していた目標とは、大きくかけ離れていた。

苦しい修行の時代が終わると、黙っていても、死者が出る度に、寺にはいくらでも収入が入ってくるようになった。夫も遊び好きで、贅沢な別荘を買い、国外へ進出し、豪奢な生活をほしいままにした。

子供たちにも何不自由ない暮らしをさせて、良い大学に進学させ、良い就職先に送り出した。あるいは、寺に嫁がせたりと、ちょうどキリスト教界における牧師の師弟らが政略結婚を重ねているのと同じように、血縁とコネがものを言う、世俗にまみれた特権的生活が築き上げられたのである。
 
それは、外見的には大きな成功であったかも知れないが、若い頃に彼女が真剣に探求していた道とは随分、異なっていただろう。本当にそんな生活を送るために、寺に入ったのだろうか。これでは俗世と何の違いがあろうか。しかし、その疑問は、心の奥底に封印されてしまった。

そのうちに人生の引退を考えるべき年齢になり、夫も病に倒れ、以前のように精力的な活動ができなくなった。幸福という幸福は手に入れたので、人生でやり残したことはもうないかのようであった。だが、幼い頃からずっと抱えて来た心の飢え渇きは、答えを見つけて解消しない限り、老人になっても、ずっと満たされないまま持ち続けられる。

夫に尽くし、子供に尽くし、寺を発展させるという選択肢がもはや人生の第一目的ではなくなった時、彼女は、生まれ育った家庭の両親を振り向いて、親の必要を満たすために尽くし始めた。

しかし、それは自分がすでに出て来た家庭であり、そこでは、すでにほかの兄弟が親に仕えていた。

にも関わらず、彼女は夫に仕えるようにかいがいしく両親に奉仕し、湯水のように使える金を惜しまず介護に投じた。
 
だが、その奉仕は、兄弟には喜ばれなかった。むしろ、やればやるほど、兄弟との間にライバル関係が出来上がって行ったのである。それはただ幼い日の生活の再現でしかなかった。

彼女の親は、彼女の熱心さ、親切さを大いに利用したが、それは娘を評価するがゆえではなく、自分が有利になれる保険を常に用意しておくことが目的だった。

悪い親は、子供たちを自分の利益の道具として競争させて、ライバル関係に置く。兄弟姉妹の信頼関係はそのせいでズタズタに壊され、もしそのことに気づかなければ、生涯に渡り、血を分けた兄弟姉妹の間で、親の評価を奪い合う骨肉の争いが続くことになる。
 
彼女はそれが分からず、親に仕えた。それはちょうど彼女が、尼僧になる道を捨て、夫の人生のサポート役として、自ら夫の出世を実現するための道具となって仕えたのと同じである。
 
彼女はそれが善意であり、親切だと考えていたのであろう。しかし、彼女が仕えた相手にとって、彼女は保険でしかないことを考えてみなかった。
 
彼女が彼らに仕えれば仕えるほど、ますます彼らはわがままになって行き、彼女の誠意を軽んじるようになった。それは彼らがいつも、彼女とは別な誰かを天秤にかけて、彼女と競争させることで、自分に有利な結果を引き出そうとしていたからである。
 
彼女の奉仕は、平和ではなく争いを生んだが、彼女はそのことに気づかなかった。
 
出家したにも関わらず、彼女がそのように自分の家を重んじ、人の関心や評価を勝ち取るために、人の利益に仕えて生きて来たのは、おそらく、まだ日本が豊かさの中に入っていなかった幼い時代に、彼女が両親から十分に振り返ってもらえず、物質的にだけでなく、精神的にも貧しい家庭生活を送ったことに原因があると見られる。

その時代、同じような幼少期を送った人々は多かったであろう。彼女は決して親を煩わせることのない、よく出来た子供であったが、そのように優秀であったがゆえに、余計に、必要な時に親に助けを求めることもできず、振り返ってもらうことのできない寂しさを心に抱えていたと考えられる。

その満たされない思いが、大人になり、老人になっても、持ち続けられ、そのせいで、人からの評価や関心が欲しいという心の飢え渇きが、出家後も、我が道を貫くことを邪魔して、彼女を常に人の思惑の方へとひきつけて行ったのである。
 
それは、彼女が出家しながらも、真の意味での「出家」ができていなかったことを意味する。生まれ育った家庭からのエクソダスが、心の中で完了していなかったからこそ、自分の心の探求よりも、地上の「家」を優先して生きる道に舞い戻ってしまったのである。
  
筆者はこの人に直接、聞いてみたことはないが、心の中で次のように問うてみる、禅寺であなたが探していた答えは見つかりましたか。そこで人生の本当の満足は得られましたか。裕福な家庭を築き上げることが、あなたの出家の真の目的だったのでしょうか。それから、あなたを幸せにすると約束した人は、本当にその約束を果たしてくれたと思いますか。むしろ、あなたを道から逸らして、あなたが目指していたのとは全く違う目的のために、あなたを都合よく利用しただけの可能性があるとは思いませんか。
  
もしもその推測が当たっていたとして、あなたを取り巻く人々が、あなたに対して心から忠実でなく、あなたの親切心や善意を利己的な動機で利用したのだとしても、それは他ならぬあなた自身が、自分の心が最も求めていた答えに忠実でなかったから、周りの人々も、あなたに対して同じように振る舞ったのだとは思いませんか?

あなたは道を究めようとしながら、同時に世俗の幸福を追い求めた。それは二心ではなかったでしょうか。豊かに生きることが悪いことなのではない。しかし、禅の道に入ったのは、決してこの世の成功を第一に目指して生きるためではなかったはずです。あなたにはそれ以上に求めていた目的があったのではないでしょうか。

人から真に評価を勝ち得たいと思うなら、そのためにも、我が道を貫かねばならず、望んでいる最高の答えを見つけ出さねばならないのです。

しかし、あなたは本当の答えを見つけるために、孤独な生活を耐え抜いて、納得がいくまで、すべての物事を見極めるという探求に、自分は値しないという人の言葉を信じてしまった。

あなたはそのような高い犠牲を払える人間ではないから、その道は早々にあきらめた方が良いという他人の言葉を信じてしまった。その人は、その言葉をあなたのために発したのではなく、自分のために発したのに、あなたにはそれが見抜けなかった。そして、求めている最高の価値に、自分は値しないと思い込み、他者のサポート役に徹し、自分の目的をあきらめたから、あなたの探求は、世人と同じように、中途で終わってしまったのです。

だからこそ、現在のあなたの生き方の中には、俗世の人々と同じ価値観の他、出家して初めて得られたという知恵と喜びが見受けられないのです。
 
* * *

上記の話は厳しい批判の言葉であるが、一種の比喩である。クリスチャン家庭にも、似たような事例は数えきれないほどある。真理を探究しながら、途中で別の道へ逸れていく人は、いつの時代にも後を絶たない。
 
人の目には、この世で成功しているように見えさえすれば、心の探求を置き去りにしたことなど、誰にもとがめられないであろうが、神の御前には、自分の心をごまかすことはできない。

私たちは、道を探し求める時、自分自身の心の飢え渇きに対してどれほど忠実に歩めるかを試される。そして、その問題にまだ答えが見つかっていないうちに、それ以下のもので満足させられて、探求をやめてしまうことには、重大な危険が伴うことを知らなければならない。

筆者は、キリスト教徒として、「自分の心に忠実に歩む」のでなく、「神の御心に忠実に歩む」と言わなければならないが、しかし、神に忠実であるとは、そもそも自分自身の心の求めに忠実でなければ、できない相談である。

自分で自分の本心を偽っておきながら、神に対してだけは忠実に歩むなど、不可能だからである。

そこで、真実に神に従うためにも、自分で自分の心をごまかさず、偽らず、自分に対しても、他者に対しても、神に対しても、正直でなければならない。

しかし、多くの人々は、人の目に評価されるために、自分で自分の心を偽り、自分の本当の願いを後回しにし、自分を押し殺して生きている。そのような不真実な歩みの中で、神に対してだけは忠実に生きるとか、あるいは、真剣に真理を尋ね求めるなど、土台、無理な話なのだが、それを知らないのである。

自分で自分の心をごまかしている人が、真理に到達するなどということは、いかなる宗教であろうと、絶対にあり得ない相談である。

しかし、自分の心を偽らないで生きることは、かなりの犠牲を要し、他者が何と言おうとも、一切、その言い分に引きずられたり、心惑わされることなく、わき目もふらずに、自分の心の願い求める利益だけを第一優先して生きる姿勢がなくてはならない。

納得のいく答えを得るまで、絶対にあきらめず、困難にぶつかっても一歩も退却せずに、目の前にある課題とずっと取っ組み合わなくてはならない。
 
それはこの世の人間関係のしがらみにとらわれず、他者の思惑を全く意に介さない生き方であるがゆえに、この世の価値観とは全く異なり、わがままだとか、非常識だとみなされることが多い。そして、そのように誤解を受けたり、反対を受けたり、その探求をやめるよう説得されたり、世の賛同や理解を失うときにも、他者からの評価をすべて置き去りにしてでも良いから、自分の心の願い求めを最優先して生きることには、相当な犠牲が伴う。それを貫徹できるかどうかで、求めている答えが人生で得られるかどうかが決まるのである。
 
しかし、それを果たしてこそ、求道生活なのであり、答えを得るためには、自分の心が真に求めているものに対して、徹底的に正直な姿勢が必要である。

伝統的なキリスト教においては、自分の利益を最優先して生きることは、罪深いことだと教えられている。しかし、そのような考え方の中には、ある種の危険が伴う。キリスト教徒の間でも、物欲が罪だとか、年長者の意見に従わないことは罪だとか、フルタイムの献身者になりたい人がペットを飼うのは罪だとか、ありとあらゆる愚かしい誤解が飛び交っている。

しかし、真の罪とは、人が神でないものを神として最優先して生きることであり、人がこの世の事物や思惑によって、自己決定権を奪われ、自分の意志により御言葉に従うことができなくなった状態を指す。

もしも物欲や、欲望それ自体が罪だというならば、人間は地上に生存する術すらもなくなるであろう。何かを欲することそれ自体が罪なのではなく、その欲望が、神に従うことと両立しないまでに、その人の心の王座を占め、人が己が欲望の奴隷になるとき、罪が発生するのである。

筆者は記事冒頭で、禅寺に出家した人が、世俗的な享楽を謳歌することを批判したが、それは決して禁欲的な生活を奨励するためではなく、裕福な生活を送ることや、家庭を持つことが罪だと言いたいがためではない。

そうではなくて、人は自分が願い求めている最高の価値を、まず第一に追い求めて生きる姿勢を貫かねばならず、その原則は、キリスト教に限らず、すべての物事に共通するということを言いたいのである。

金メダルを目指していた人が、それ以下の賞で満足できるだろうか? 「あなたには金メダルは無理だから、目指すなら、最初から銅メダルくらいにしておいたらどうですか?」という言葉が、人を真に尊重する言葉であろうか?

どうせ高い目標を打ち出すならば、高望みしただけで達成できなかったと言われないために、最後まで犠牲を払って目的を追い続けなければならない。自分が目指している目標のために犠牲を払うこと怖さに、自分で自分の心を偽り、二義的な利益で満足してしまうと、最も価値ある探求がやむことになり、結果として、地上的利益が、真理を退ける罠となってしまう。

裕福な生活を送ることそれ自体が罪であるわけではない。しかし、そうしたこの世的な価値を至高の価値であるかのように錯覚して、この世の事物を超越した、真理を求める自分の心の探求を、二義的なものとして扱うときに、目に見えるこの世の事物が、人間の心を誘惑し、堕落させる罠となるのである。

だから、もう一度、以下の御言葉を挙げておこう。

「信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それらはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:30-34)

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御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(6)

 

「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。

しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。

主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」(ルカ12:42-48)

一つ前の記事で触れた天に召された夫婦のことを書きたい。筆者はこの夫人から生前、一度だけ、有意義な叱責を受けたことがあった。

夫人が三渓園に筆者を誘い出してくれて、いつものように親しく交わりのひと時を持とうとした際のことである。その日は、筆者の霊的コンディションがそれまでと違い、交わりのために整えられておらず、最悪の状態にあった。

私たちは出店のテーブルに着き、夫人は道すがら買った筆者の大好きな桜餅を取り出して、団らんのひとときを持とうとしたが、その時、

「あら、お茶がないわね。あなた、買って来てくれる?」

と、気づいて筆者に言った。

筆者は立ち上がって、近くにある出店をいくつか覗いてみたが、目ぼしいものがなく、早々に引き返して来た。筆者が手ぶらで戻って来たのを見て、夫人は呆れて言った。

「あら、どうしたの?」

筆者が見つからなかったと言うと、夫人は呆れた様子で、

「お茶を売ってないわけないじゃない。もっとよく探さなきゃ」

と言ったが、筆者があまりに疲れ果ててもう行きたくない様子なのを見て言った。

「もういいわ、あなたはそこで待ってなさい、私が見つけて来るから」

夫人は自分で店を回り、すぐに戻って来て、ペットボトルのお茶を筆者の目の前に置いて言った。

「ほらね、すぐに見つかったでしょう。一体、あなたはどこを探したのよ?」

夫人はそれから筆者に向かってお説教を始めた。

「あなたには言わなくちゃいけないことがあるわ。このお茶のことだけじゃないのよ。あなたはいつもこんな風に、ちょっとした困難にぶつかったら、もう自分の望みを早々と簡単にあきらめてしまうの? この世のことなら、まだそれでも許されるかも知れないけれども、神様に従うに当たって、そんな姿勢では、この先、あなたは進んで行けなくなるわよ。
信仰を立派に守り通すためには、どんな困難があっても、それを突破して、最後まで望みを捨てずに進んで行く勇気と強さが必要なのよ。それがこんな情けないことでどうするの。あなたはもっと強くならなくちゃいけないわ。自分の目的を最後まであきらめずに貫き通すことをもっと学ばなくちゃいけないわ」

夫人が筆者に説教などしたのは、後にも先にもこの時一度限りであった。しかし、それを聞いている間にも、筆者はただぼんやりと力なく笑うだけであった。

実は、そのようなことになったのには原因があった。

この頃、筆者は、夫人からの再三に渡る忠告を無視して、仕事に打ち込み、毎日のように終電近くまで会社に残って残業していた。専門の仕事で実力を発揮し、自分で自分を支えなければならないというプレッシャーがあり、また、他の人々の負担を軽減することが期待されていたのである。

そのため、ようやく休日が来て、夫人に交わりに呼び出されても、疲労のあまり、指定された外出先に出て行くのがやっとで、美しい風景にも、心ここにあらずの状態で、ペットボトル一本の買い出しを頼まれても、果たせないほどに、疲れ切っていたのである。

残業だけではない、ほんのわずかな人数しかいない狭いオフィスで毎日のように変わる不安定な力関係、経営者からの無理筋の要求、愚かしい紛争にも、辟易するまでに心を疲弊させられていた。そして、それがまるで筆者の人生の中で重大事件のように心の座を占めていたのである。

夫人はそれまで常に率先して気前よく他者を助ける側に回っていたため、信仰の交わりにおいて、筆者は夫人から何かを要求されたことがなく、苦言を呈されるなどのこともそれまで一度もなかった。夫人はすべてにおいて満ち足りており、いかなる形でも、誰にも助けを求める必要がなく、筆者に買い出しを頼むどころか、いつも自分から交わりに必要なものを持ち寄っていたので、年少者に使いを頼むなどのこともなかったのである。

しかし、この時ばかりは、事情が違った。夫人は、筆者が主の道から逸れかけていることを知っており、筆者の陥りかけている悲惨な状況の危険性を指し示すために、あえて筆者に買い物を命じた(ものと考えられる)。そして、筆者はそのどうでも良いような些細な買い物をさえ、遂行する力がなくなっていたことを示されたのである。

その事件が示していた結論は、筆者が、このままこの世の価値観に没入し、神の国とその義ではないものを第一として生きる方向へ進めば、デリラに欺かれたサムソンに勇士としての力が失われたのと同じように、筆者の内なる力と尊厳は完全に消え失せ、筆者はわしのように翼をかって、天高く舞い上がるどころか、ペットボトル一本のお茶さえ買う力がないほど、弱々しい人間となり、地を這うように生きるしかなくなるということであった。そんなことでは、やがて夫人にも呆れられ、交わりからも脱落し、ついには自分の生活も失って、命さえなくなるであろう。

そういった方向性を、夫人は暗に指し示したのである。そして、どちらを選ぶのか、筆者に選択を迫ったのであった。 しかし、筆者は、その当時、そのような忠告は、働かなくて良い立場にある夫人の浮世離れした生活スタイルに過ぎないかのように思い、自分のような者に他にいかなる選択肢があるのかと、心の中で弁明するだけであった。

そんな考えが根本的に誤っていたことは、その後すぐに判明した。会社は残業代を支払わなくなり、残業代は定額制に移行し、それに同意しない社員は、愚痴や不満を経営者に告げ口されて、栄えある記念行事の前夜に、密室で契約打ち切りを言い渡されるという残酷な仕打ちに遭わされたのである。

そういう出来事を見て、筆者もようやく目が覚めたのだが、こうした結果を実際に見るまでは、夫人の忠告の正しさが分からなかった。自分で自分を支えなければならないというプレッシャーはそれほど大きく、筆者はこの世の仕組みがいかに御国の法則とかけ離れているか、まだ具体的にほとんど学んでいなかったのである。

夫人はそうしたことを見越した上で、筆者に様々な忠告をしてくれた。その当時、筆者はまだ多くのことを理解していなかったとはいえ、筆者は、故意に神の御心に反したわけではなく、ただ考えが甘く、経験が不足していただけであったので、神は筆者の正しい導き手として、その後も、忍耐強く、筆者に幾度も教訓を与え、筆者が天的な法則を学び、それを理解し、それに沿って生きられるよう手助けして下さった。

天的な法則と言っても、何もそれは神秘的な漠然としたものはない。それはただ神の国とその義、および、神を第一とする信徒の交わりを、この世のすべての関係や価値よりも優先して生きよというものである。筆者の内なる力、人としての尊厳、自由なゆとりある生活は、このように天の御国の権益を第一として生きる時、初めて保たれるのである。
 
命を保ち、自由と豊かさに至り着きたいならば、神の国とその義を第一として生きなさい。地上での生活や利益を最優先する態度では、囚人同然の生活が待っているだけであり、最後には、必死でつなごうとした命さえ、失われて終わるだけである。
 
そのように、それから今日まで何年間もかけて、筆者は御言葉の正しさを実地で試し、ことごとく証明して来たのである。
 
筆者の人間としての力は、地上にある限り、いつでもごく限られたものに過ぎないが、それでも、真に神を第一に尊んで生きるならば、筆者の限界の中でも、十分にすべてを行うことができるよう、神ご自身がすべてを整え、按配して下さる。

主ご自身が筆者の知恵と力となって下さり、決して筆者が行き詰まりに達して立ち止まることがないよう、守り、育て、養って下さる。

このように、天的な法則に従っている限り、人は雄々しく、強く、気高く、賢い、すべてに不足のない、自由な人として生きることができる。この世の問題に巻き込まれて疲弊し切ったり、行き詰まり、方々に助けを求めて人としての尊厳を失うことはない。

主イエスは、父なる神の御心を行うことが、ご自分の隠れた糧だとおっしゃられたが、それはこういうわけであり、私たちは天の雇用主にこそ喜ばれる生活を送らなければならず、そのことが私たちの地上生活において真のサラリーとなるのである。

この天的な道から逸れるや否や、私たちの力はすぐに失われる。地上では、この世の弱肉強食の原理が働くだけで、自力で自分を保つ力のない弱い人間は、真っ先に残酷で容赦のない結末へと追いやられるだけである。何らこの世における後ろ盾をも優位をも持たないキリスト者の存在などは、地の塩たる役目を失えば、まるで吹けば飛ぶ木の葉のように、この世の事件に翻弄された挙句、世人よりももっとひどい残酷な結末に追いやられるだけである。

そこで、私たちは、無駄な損失を避けるためにも、ただ神の力によって支えられ、守られて生きることこそ、この地上で人としての尊厳を保って生きる唯一の道であることを、できるだけ早期に学ぶ必要がある。天の父なる神に喜ばれる仕事をしてこそ、この世におけるすべての必要が満たされ、生存が保たれることを早期に知らなければならない。

いや、ただ生存が保たれるだけではない。もしも天的な法則に従って生きるならば、私たちは自分の肉体的限界、精神的限界、時間的な制約といったすべての物理的限界の中にありつつも、それを超えて、いかなる限界によっても脅かされることなく、何にも不足することのない、自由と豊かさの中を生きることができるのである。

それが天高く、わしのように翼をかって、自由に雄々しく舞い上がることの意味である。地上の限界に満ちた法則を、はるか足の下に踏みしだき、一人の有限な人間でありながら、一人ではとてもなし得ないような数多くの有益な仕事を果たすことができる。

そこに私たちの尊厳、高貴さがある。しかし、そういう人生が実現するためには、私たちが、まことの命であり、すべての供給源であるキリストに頼り、御父の喜ばれることが何であるかをわきまえて、私たちの真の雇用主を喜ばせるために生きねばならない。

キリストは、人間として地上に来られたとき、罪の他は、私たちと同じようにすべての人間的な弱さと限界を持っておられたが、それにも関わらず、彼はその限界によって、一切、神の御旨を実現するに当たり制約を受けられなかった。

キリストは、地上的な制約の中を生きられたにも関わらず、それによって全く損なわれず、不足することもない完全な人だったのである。キリストは万物を足の下に統べ治める方として、この世の物理法則もご自分に従えることのできる、真に完全な人である。そのキリストにある私たちは今日、自分も彼と同様に生きられることを知る必要がある。

実のところ、物理法則は、私たちを縛るためにあるものではなく、かえって生かすために存在している。
 
考えてもみれば良い、もしも私たちが見栄えの良い鳥かごを買い、そこに美しい鳥のヒナたちを買って入れるとすれば、それは一体、何のためであろうか? まさか様々な限界によって鳥たちを脅かし、苦しめるためではあるまい?

神が目に見える万物を人間のために創造され、その中に私たちを置かれたのも、本来は、同様の目的と配慮からである。それは決して幾多の限界によって私たちを脅かし、苦しめることが目的ではなかったのである。

この地球だけでなく、時空間を含め、すべての造られた被造物は、本来は、人間を生かし、人間に奉仕するためにこそある。しかし、アダムの堕落後、そのような創造の本来的な目的は失われたので、これを回復するには、私たちが真に完全な人であるキリストと霊的に一つに結び合わされ、この世を超えた新たな御国の法則の中を生きることが必要である。

この天的な法則は、この世の言葉で言い尽くすことはできないが、肝心なのは、何をするに当たっても、まずはただお一人の神に栄光を帰することを第一優先し、そのためにこの世的な利益や価値観を二義的なものとして扱う態度を貫くことである。

そうして御国の権益を第一とする姿勢を保つならば、その生き様に対しては、神が最終責任を負って下さる。しかも、それはこの世を超える永遠の保証である。

この世の経営者は、あなたがどんなにその意に従って奉仕してみたところで、あなたの生活を微塵も保障してくれず、むしろ、あなたから取れるものをすべて取り上げ、もう取るものがなくなったと判断した時点で、あなたを捨てて路頭に迷わすであろう。しかし、良き羊飼いである神は、あなたがその御声に忠実に聞き従うならば、あなたに命を与え、あなたを緑の牧場に、憩いの水際へ導いて下さる。あなたはそこで安らかに眠り、安らかに食べ、安心して好きなだけ駆け回ることができる。
  
人間に過ぎない者の栄光のために、自分自身をなげうてば、ただ破滅が待っているだけであるが、天の雇用主であり、まことの羊飼いなるお方の支配下を出なければ、自由が約束されている。

そこで、私たちは、神に栄光を帰するために、毎瞬、自分の力によって生きるのでなく、神の知恵と力に頼って、天的な法則に従って生きることを選び取るのである。

筆者は、この安らかな恵みをもっとよく知りたいと思っている。神の愛と憐れみの深さを、その恵みの大きさを、生きてもっとよく知りたいと思っている。何よりも、キリストにある新しい人の麗しい尊厳、高貴な生活をもっとよく知りたいと願っている。

以前の筆者は、困った時に神に助けを求め、神がもしも助けて下さるならば、その代わりに自分の人生を神に捧げても良いなどといった、まるで取引のような祈りをよくしていたものだが、今はそのような祈り方はもうしない。

むしろ、神は私たちの同労者であり、最も忠実な相談役であり、慰め主である。もちろん、神は私たちの主であり、私たちはその僕であるから、私たちが神と対等になることは決してなく、私たちが、御言葉に服従しなければならない立場にあることは変わらないとはいえ、神はへりくだっておられるので、私たちに必要な時に、いつでも喜んで助けを与え、私たちを支えて下さる。神は忠実な僕にとっては、決して僕を脅かす恐ろしい主人ではない。私たちが心の最も奥底まで信頼して打ち明けることのできる、最も親しい相談役、確かな助言者である。

筆者は夫人が世を去って後、様々な困難を突破して、決して望みを捨てずにあきらめることなく前進する方法を少しずつ学んだ。今はもう悪しき経営者のために、身を粉にして残業するなどの愚かな振る舞いはしない代わりに、御言葉の正しさを生きて証明するためならば、どんなにでも時間を費やし、困難を乗り越え、決してあきらめずに結果を勝ち取りたいと願っている。

こうして、だんだん「お茶」のストックにも、バリエーションが出て来たような気がする。今ならば、筆者は夫人から意志薄弱で弱々しい人間であるかのように叱責を受けることはないのではないか? 

もしも主がお要りようならば――。もしも主が本当に私をお要りようならば、そのためにこそ、喜んで自分の持てるすべてを捧げよう。スカルの井戸で、イエスのために水を汲んだサマリヤの女のように、あるいは、ダビデの渇きを癒すために、決死の覚悟で敵陣に乗り込んで飲み水を獲得した僕たちのように、私たちは神の御心の満足のためになら、地上で自分の限界ある存在をすべてなげうってでも勇敢に進んで行くべきである。その働きが私たちの地上での糧となって行くのである。

私たちの心も、体も、すべては神の栄光のために聖別されて捧げられた生きた供え物である。他の誰のものでもない。そこで、もしも誰かが働いて豊かな報酬を得たいと思うならば、まずは主のために、御国のために、神から栄誉を受けるために働きなさい。フルタイムで御国のために働きなさい。そうすれば、やがて思いもしない豊かさにあずかり、どんな困難に遭遇しても行き詰ることなく、常に幸福に満ち足りて生きることができるだろう。

こうして、私たちは、地上で天の権益のために身を費やす代わりに、それによって失われるものとは比べるべくもない、巨大で重い天の報酬にあずかる。その報酬とは、御父、御子、聖霊の交わりの中に入れられること、そして、私たちの主なる神からの誉め言葉である。

キリストが再び地上に来られる時までに、大いなる祝賀式典に備えて、彼のために栄光の花道を整え、豪勢な食卓を用意せねばならない。
 
だが、神が喜ばれる祝宴の食卓とは一体、何だろうか? それは神の御心を満足させるべく整えられた人の心である。かつてバプテスマのヨハネが人々を悔い改めに導き、主イエスの到来のために道を整えたのと同様、地上にあるすべてのものが、御前に膝をかがめ、すべての思いがとりことされてキリストに従う日のために、私たちが道を整えなければならないのである。

そのために、私たちは自分自身を叱咤激励し、忍耐しながら、奮闘を続け、幾多の戦いをくぐり抜けて、収穫を勝ち取っている。地上にける信徒の交わりのためにも、いくつかの物品を持ち寄るが、何よりも、主の満足を勝ち得るために、日々、働いているのである。
 
わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものにあるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(Ⅱコリント10:3-6)

命の御霊の法則に従って支配する―一羽の雀さえ、父のお許しがなければ、地に落ちることはない。(1)

「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を畏れなさい。

二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(マタイ10:26-31)

さて、標題につけた「一羽の雀でさえ、天の父の許しなくして地に落ちることはない」という御言葉は、従来の文脈では、神がご自分の創造された最も小さな取るに足りない命までも、最新の注意を払って心に留めて、養っておられるという、神の愛や憐れみの深さを示す文脈でよく引き合いに出される。

しかし、今回は、そういった従来の文脈とは、少し違う文脈で、この御言葉を引用したい。

なぜなら、今回の記事のテーマは、一羽の雀が地に落ちるかどうかは、私たちの采配にかかっているのだという点にあるからである。

神は人類を創造された際、地上のすべての生き物に対する支配権を人間に任された。それゆえに、むろん、神はそれらの生き物の生殺与奪の権を握っておられるとはいえ、現在、それらの生命を直接的に管理する権限を与えられているのは、私たち自身なのである。

創世記の人類創造の場面にはこうある、

「神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。 」(創世記1:26)

そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。 」(創世記2:19-20)

以上の御言葉に示されている「名をつける」という行為は、人間が地球上のすべての生き物の名を支配することで、その生き物の命に対する支配権を握ったことを表す。地球を、神が造られた大きな庭にたとえるならば、人間はその庭を管理する園丁のような存在である。

神はこの目に見える世界をご自分で直接、統治することもできたが、あえてその支配権を人間に委ねられ、人が神の代理としてこの目に見える世界のすべてを適切に支配・管理するよう任されたのである。

しかし、その後、アダムの堕落が起こり、アダムが任された地上における支配権は、堕落したアダム自身と共に、悪魔に渡ってしまった。しかし、それにも関わらず、神が人間を創造された目的はその後も全く変わっていないのである。

堕落して不適格者となったアダムの代わりに、神は人類に与えられた正当な使命を取り戻させるべく、独り子なるキリストを地上に遣わされた。クリスチャンは、キリストの十字架の贖いが、ただ単に、人間の罪の赦しのためだけにあるのではなく、また、贖われたキリスト者が個人的に聖霊に満たされて幸福な生活を送る目的のためだけでもなく、また、福音宣教によって地上にキリスト者が増え広がるといったキリスト教の拡大などという目的のためでもなく、そもそもアダムの失敗によって失われた統治権を人類に取り戻させるためにこそ、キリストが贖いを成就されたことを認識する必要がある。

そこで、今日、神はキリストにあって新生されたクリスチャンに、再びこの地の適切な統治権を任せようとしておられるのである。それによって、人自身が神の御思いの体現者として、山上の垂訓に見るような神の憐れみに満ちた霊的統治を、この世に実現することを願っておられるのである。
 
とはいえ、その統治権とは、目に見えない霊的な統治を指しており、この世に目に見える地上の権力を打ち立てることではない。御霊による統治は、新生されたクリスチャンが、この世に自分たちの名を冠した偉大な宗教組織を作り上げ、その威信を全地にとどろかせ、地球の覇者たろうとするといった方法でなされるのではない。

御霊による統治は、常に取るに足りない一人一人のクリスチャンの心の内側で、目に見えないひそやかな形で、個人的に進行する。それは人の目からは隠された歩みであるが、どんなに取るに足りないように見えるクリスチャンであっても、その内側で、もし御霊による統治が実際に行われているならば、そのプロセスは、天地にとって絶大な価値を持つ。

今日、宗教組織に所属しているほとんどのクリスチャンは、自分に与えられた絶大な御名の権威を知らず、キリストの復活の命に働く偉大な法則性をも知らず、その新しい命の力を行使した経験もほとんどないばかりか、自分に任されている支配権のことなど全くと言って良いほど知らない。

彼らは、まるで次々とチャンネルを変えながらTV画面にくぎ付けになる視聴者のように、数多くの宗教指導者のパフォーマンスに心を奪われ、魅力的な指導者らが、自分たちの代わりに物事を決定してくれ、自分たちの代わりに命令を下してくれるのを受け身に待っているだけである。

このような信者たちは、指導者が与えてくれる哺乳瓶を介さなければ、自分では何一つ聖書の御言葉の意味をわきまえることもできず、何事も決められず、いつまでも天を仰いで、神のお告げや宣託が自分にそれと分かる形でひらめき降りてくるまで、そこを動かないと決めてただぼんやりと待っているような具合である。

彼らは、祈りと称して無数の願い事を告白することはしても、誰かがゴーサインを与えてくれるまで、決して求めている解決が与えられたと心に信じることなく、大胆に立ち上がって自分の人生を自分で決めるために歩いて行こうともしない。彼らの祈りは、言いっぱなしの告白のようなもので、彼ら自身にとってさえ、神がそれに応えられたかどうかは、しばしば全く重要ではないのである。

こうした人々は、クリスチャンを名乗っていても、人間の古い言い伝えに従って生きており、宗教的なしきたりを守ることには熱心であっても、その生き方は、完全にこの世の不信者と変わらず、この世の常識から一歩も外に出ようとはしないため、彼らには、キリストが信者にお与え下さった内なる命の法則性に従って主体的・能動的に生きた経験もなければ、御子の贖いを通して自分に与えられた命の中にどれほど測り知れない神の力が隠されているかといった知識も全くと言って良いほどない。

一言で言えば、今日のあまりにも多くの信者は、自立の力が欠けすぎており、神が与えて下さった新しい命の力だけによって生きた経験自体がないため、その命の性質を知らず、その命の中にどんなに偉大な力が隠されているかも知らないのである。

キリストの復活の命に働く法則性は、それを行使しなければ、発揮されることはない。車を運転するためには、車のメカニズムを知らねばならず、楽器を弾くためにも、楽器の性能を理解しなければならないのと同じように、御霊による新しい命の法則性に従って生きるためには、信者はまずはその命がどういう性質のものであるのかをよく探ってこれを知り、その命を活用する方法を自分で学ばなければならない。

それなのに、ただ天を仰いでいつまでも願い事を祈っているばかりで、自分で物事を考えようともせず、自主的に決断も行動もせず、宗教指導者が決めた古い人間的なしきたりや常識に従って歩み、自分に与えられた新しい命の法則性に従って生きる秘訣を全く探ろうとも知ろうともしない人々のうちには、新しい命の法則性が働くことは決してない。

その命は、あくまで信じる者に個人的に一人一人に与えられているものであり、誰も本人に代わってこれを行使することのできる者はいないのである。従って、信者がいつまで経っても、自分以外の誰かがやって来ては、自分を適切に指導・操縦してくれることを願っているだけの受け身の赤ん坊のような状態では、キリストのよみがえりの命の法則も、御霊に導かれて生きることも、その人には最後まで分からずじまいで終わるであろう。

話を戻せば、宗教界には、常に時代を超えて、キリストの復活の命の統治といったものがあることなど考えもしない赤子的クリスチャンが大勢いるとはいえ、そのような現状とは一切関係なく、神が人間を創造された当初の目的は、今日も、全く変わらず、それはあくまで人間が、地上の目に見える世界およびそこに住むすべての生き物たちを適切に管理・支配する者となることなのである。その管理を通して、神の栄光を生きて地上に表すことなのである。

そういう意味で、「一羽の雀でさえ、天の父の許しなくして地に落ちることはない」という御言葉の意味は、本来の意味から転じて、天の父は、一羽の雀も含め、地上にいる生き物たちを管理する責任と役割を人間に委ねられたので、今やその雀が地に落ちないかどうかは、人間自身の選択と確信にかかっているという意味として受け取れる。
  
それは言い換えれば、キリスト者には、自分の許しなく、自分の支配圏内にあるいかなる命も失われることがないように支えることができるという絶大な権限が与えられていることをも意味する。むろん、地上の命はいつか終わりを迎えるとはいえ、信者は少なくとも御霊によって生きている限り、信者自身の同意なくして、信者の支配する領域にある命に突然の災いがふりかかることなどを防ぐことができるのである。

もしもそれにも関わらず、信者が自分の支配圏内で思いもかけない異変や災いが起きていることを察知したなら、信者の生活のどこかに御霊による支配の破れ目がないかどうかをもう一度、点検することを勧めたい。信者が生活の中で何を最優先しているのか、優先順位が狂い、命の御霊の法則から信者自身が逸れていないかどうかを点検することを勧めたい。

信者の生活には試練や苦難ももたらされるが、ほとんどの場合、それは信者自身が準備が出来た時にやって来る。神は信者に何かの犠牲を求められるときには、事前に信者が心の準備をする猶予を設けてくださる。しかし、悪魔が信者を攻撃するために不意にもたらす災いには、信者が心の準備をする余裕はない。そのような出来事が起きる時には、今一度、信者は、御霊の警告を軽視したりしたことがなかったどうか、十分に目を覚まして警戒を怠らないでいたかどうかを振り返ることを勧めたい。
 
王国という言葉は、王の支配権が及んでいる領域を指し、神の国とは、神の命の統治が及んでいる領域を指す。御霊が信者の内に住んで下さることによって、神の国が信者の只中に来ていることは、信者自身が、御霊を通して働く命の法則を一定の領域に及ぼし、その領域を管理・支配していることを意味する。

キリスト者は、神に対しては子供であり、僕であるが、地上のすべてのものに対しては、一人の王のような存在なのであり、信者には自分の支配領域を治める権限があり、それを適切に治めることを神に期待されているのである。

繰り返すが、キリストの復活の命を内に持っている信者は、神の命の統治を持ち運ぶ存在であるから、圧倒的かつ絶大な支配権を実際に持っているのである。

しかし、この地上に生きている限り、信者の内には二つの命が存在している。堕落した有限なアダムの被造物の命と、神の永遠の命である。

堕落した朽ちゆくアダムの命に従って生きるなら、信者を通して周囲に及ぼされるのは、罪と死の法則だけである。しかし、命の御霊の法則に従って生きるならば、そこには命と平安が生まれよう。信者がこの二つのうちどちらの命に従って生きるかによって、信者を取り巻く領域に、どのような性質の影響が及ぶかが決定する。

信者はこの選択について非常に注意深くなければならない。信者は自分の支配圏内にあるすべての生き物、自分が関わるすべての他者にとてつもない決定的な影響を及ぼす存在だからである。

聖書には「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒16:31)という有名な御言葉があるが、これが意味するところも、以上と同じように、実は信者の命の支配権の行使という問題なのである。

多くの信者らは、「主よ、家族を救って下さい」と受け身に祈り、天を仰いで、神が自分の代わりに働いて自分の家族を救って下さることを願い、家族に自分自身の霊的支配が及んでいるなどということは考えてもみようともしない。

だが、信者はそのように天を仰いで受け身の祈りを捧げる代わりに、まずは自分自身が、一定の霊的な支配を持ち運んでいること、自分こそが、自らの支配圏内にある全てのものに対して絶大な影響力を行使している主人であって、家族にも当然ながらその影響力が目に見えない形で及んでいることを自覚すべきなのである。

信者は、キリスト者の中にある神の新しい命の法則が、自分自身のみならず、家族にも影響力として及ぶことをまずは心から確信せずに、家族の救いといった問題に答えが与えられることを期待できない。

多くの信者の場合、足りないのは、祈りではなく、その信者の心の確信である。なぜなら、キリスト者が大胆に心に信じたことが、その信者の支配圏内にあるすべての物事に決定的な影響を及ぼすからである。家族とは、信者の霊的統治が及んでいる身近な人々のことであるが、信者自身が自らの統治権をろくに行使する方法も知らないうちに、家族の救いという問題について折るのは、間違いとまで言えずとも、ある意味では、順番が逆だと言えるかも知れない。

ヨセフは、幼い頃からすでに自分が家族の中で極めて重要な役割を果たすことを知っていた。彼の兄たちは、幼いヨセフの大胆な言葉を聞いて、ヨセフは兄たちを差し置いて自分を偉大な人間であると思い違いをして己惚れに陥っているだけだと考えて、ヨセフを憎み、妬んだが、ヨセフは、心の内側で、自分の霊的役割の重要さを初めから知っていたために、それを語っただけであり、彼の言葉は、自惚れから来るものではなかったのである。

それが証拠に、ヨセフは兄弟たちに裏切られてエジプトに奴隷として売られたが、結果的に、ヨセフのおかげで、ヨセフの家族全員が救われる結果となった。その事実は、ヨセフが幼い頃に見た夢は、彼自身が、一家の中で果たす霊的役割の重要さを予見したものであり、それは彼の変わらない召しだったからこそ、彼が奴隷として売られ、家族と離れていた間にさえも、見えない領域で、家族に対して及ぼし続けた霊的支配力があったのである。

しかし、与えられた召しが偉大だったからこそ、それが目に見える形で実現するまでの間、彼は多くの訓練を経なければならなかったのだと言える。本当の意味で、彼が家族に対する霊的支配権を行使できるようになるまでには、それほどの歳月が必要となったのである。
 
このように、キリスト者は、すべての物事が自分の意志に逆らって進んでいるように感じられる時にも、霊の内側では、御言葉に基づき絶え間ない創造と支配を行うことができると信じて進んで行かなければならない。

つまり、この世の有様がどうあれ、信者は、それとは関係なく、朽ちゆく不完全で限界あるものの只中から、命の御霊の法則によって、神の満ち足りた命の力を働かせて生きることが可能なのであると信じねばならず、その気高い目的が自分に与えられていることを確信し続けなければならないのである。

その信者が心の中で何を思いを巡らし、何を現実だと信じるかによって、その確信が信者を通して、信者の霊的支配が及ぶすべての領域に決定的な影響を及ぼす。

もしも信者が、目に見える有様に気を取られ、その限界を現実として受け入れ、罪と死の法則に従って生きるなら、信者の支配圏内にあるすべての生き物、人々、物事の運命にも、同様の影響がもたらされ、その信者の誤った選択に、信者の支配圏内に存在するすべてのものが巻き込まれるであろう。

そういう意味で、「一羽の雀」を天にはばたかせるのか、それとも、地に落とすのかは、常にキリスト者自身の選択によるのだと言える。なぜなら、神がその権限を人間に委託されたためである。

むろん、すでに述べた通り、地上に存在する命あるものはすべていつかはその生涯を終えることになるとはいえ、それでも、信者は、自分の管理している領域においては、決して自分の許しなしに、どんなに小さな命でさえ地に落ちることはないように支える力を持っていることを、まずは信じなければならない。

そして、もちろん、ここで言う「一羽の雀」とは、文字通りの雀だけを指しているのではなく、信者の支配圏外にいるすべての生き物、人々、物事、環境を象徴的に表している。これは信者が自分で世話をしたり、心にかけて管理している自分に属するすべての命と環境のことを指しているとも言える。もしくは、主イエスが「一羽の雀」よりはるかにまさる存在であると言われた信者自身をも指していると言えるだろう。

多くの信者は、そのようにして自分自身で環境を創造するというよりも、むしろ、自分が環境に創造されて、不意の出来事に常に翻弄されて生きているような按配であるが、本当はすべてが逆なのである。信者が環境を統治しなければならず、それが正しい順序なのである。

一言で言えば、神は人間に対して非常に高貴で高い目的意識を持っておられ、私たち自身には思いもかけないほどの人格的完成を願っておられ、それゆえ、非常に高度な責任と絶大な影響力の伴う重大な管理を私たちに任せようとされたのである。

私たちは、神が人間に望んでおられる御霊による命の統治の完全な行使が、どれほど高い成熟度を必要とするものであり、重い責任が伴うものであるかを、おぼろげながらに想像することはできよう。

だが、生きている間に、その支配権の行使に相応しいまでに、キリストの身丈まで成長して到達することは、すべてのクリスチャンのミッションなのである。

キリストの復活の命は、統治する命であるから、その統治の力を働かせて、自分の関わる圏内すべてに及ぼすことができることを、クリスチャンはまず知らねばならない。そして、アダムの朽ちゆく魂の命と、キリストを通して与えられた神の永遠の命と、どちらに従って生きるのか、自分自身で決めねばならない。

そして、もし命の御霊の法則性に従って生きると決めたなら、これまでのように、恐る恐る自分の願い事を神に申し上げたり、不安の表明でしかないような祈りを言い表すといった生き方から、大胆に、望みを確信して、自ら命の支配権を行使するという生き方に転換する必要がある。

しかしながら、それは単純な道のりではない。その方法を学ぶために、信者はしばしばヨセフが辿ったような苦難の道のりを辿らねばならない。

順境の時に、大胆な願いを告白し、それを信じるのは、誰にとってもたやすいことで、そのためには信仰など要らない。しかし、すべての物事が閉ざされて、絶望的で、困難に見える状況の中で、神の恵みの約束に堅く立って、目に見えない命の御霊の統治を大胆に働かせて生きることには、信仰が必要である。

信者に期待されているのは、そのようにして、ただ信仰によって、任されたものを管理し、この世の卑しい朽ちゆく有限なものを通して、見えない高貴な永遠の収穫を得ることを通して、神のはかりしれない恵みの大きさ、完全さ、命の豊かさを、目に見える形で世に実現・証明して行くことで、神に栄光を帰することなのであり、それが、地上でクリスチャンに任された、神の喜ばれる奉仕なのである。

あなたがたが地上つなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。

「はっきり言っておく。あなたがたが地上つなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:18-20)

今、一つの絆を永遠に解き、一つの絆をつなごうとしている。これは厳粛な瞬間である。主の御前で永遠に断ち切れる絆と、再び結び合わされる絆がある。

断ち切るべきものを断ち切って、初めて回復される交わりがある。今、筆者は命ではなく、死に通じる扉を永久に塞いでしまうとしている。神の祝福が失われた枯れ枝のような交わりを幹から丁寧に取り除き、木を剪定して、死んだ枝を焼却炉に投げ込もうとしているのだ。

しばらく会うことのなかった信徒と久々に交わりを持ったが、困難の最中に回復された絆は、さまざまな嵐を耐え抜いて残ったものなので、頑丈だ。

筆者は日曜礼拝などに全くこだわるつもりはないが、これから素朴な日常生活を送りながら、二、三人の集まりが、徐々に拡大して行くだろうという気がしている。

筆者が専門と関係のない様々な仕事をしていた頃、地獄の一丁目のような職場でさまざまな人と出会った。学歴も高くはなく、社会層としても、そう高くない出身の人々に数多く出会い、彼らと一緒に働いた。

そういうとき、何気ないことで、助言ともつかぬ助言を、筆者がその人たちに向かって発したことがある。

何年も経ってから、その人たちが、筆者から受けた忠告を、別れた後も大切に守り続けていることを教えてくれた。彼らは、「あの時、ヴィオロンさんがこう言ってくれたから…」と言って、ずっと筆者の教えた法則を大切にし続けて生きたというのである。

ただ法則を知らないがゆえに、迷い続けている人が、法則を掴みさえすれば、生き方が安定することがある。筆者が発した何気ない言葉は、彼らにとっては、まさに必要な光だったのだと思う。

その頃、筆者には助言をしているというつもりはなく、ただ自分自身が生きて掴んで来た法則性をよかれと思って彼らに伝えただけである。だが、その後、伝授された法則を守って生きるのか、それを無用な忠告と退け、侮って生きるのかで、人の道は分かれた。

こちらの言い分を重んじて耳を傾けてくれる人たちには、関わる価値がある。華やかな学歴や教養に乏しくも、どんなに貧しく社会の底辺に位置している不安定な人々のように見えたとしても、忠告に耳を傾け、重要な法則に逆らわないで、これを掴んで取り入れる人たちは、時間と共に着実に生き方が進歩して行く。

それに比べ、自分は賢い、誰からも何も教えてもらう必要はないと考えている高慢な人たちは、何年、関わっても、全く進歩がない。彼らは恵まれた境遇にあるため、いい加減な生き方をしていても、それが何となく成り立ってしまい、試練を通して人間性が練られることも、変化することもなく、ただ同じところを堂々巡りし続ける。地位や肩書や財産などがあるので、かしづいてくれる人たちはたくさんいるが、それによりかかって生きているため、人格がいつまでも成長が止まったまま、幼稚で、未熟である。はっきり言って、そういう人との関わりは退屈でしかない。

彼らは貴重な助言も、侮り、罵倒し、逆らい、踏みつけて来るだけなので、助言する価値も、関わる価値も無い。どんなにクリスチャンを名乗っていても、そのような怠惰な人々との関わりは、交わりと呼べるものではないので、枯れた枝のように、木から剪定して行き、みずみずしい葉のついた生きた枝だけを残すべきである。

もちろん、枯れ枝を切り取って焼却することは神のなさるわざなのだが、それでも、時には、私たちが自分で剪定しなければならないこともある。私たち自身の意志表示も、やはり重要になって来るのだ。枯れ枝なのに、自分は生きていると主張して、他の枝の成長を妨げるような枝は、やはり木から取り除かねばならない。

さて、第一の訴えに付随して、何と段ボールひと箱分以上の資料が出来上がった。これも複合的な訴えなので、必要部数をすべてそろえると、当然、それくらいの分量にはなるのだ。ひと箱では運ぶのに分量が多すぎるため、3箱くらいに分けた。

訴えの中のあるものは約180頁、証拠だけで70以上もの番号がふられている。一セットゆうに400頁くらいになるだろうか? 

しかも、これは第一弾に過ぎず、続編が待っている。家庭用印刷機のレベルを超えた仕事だ。我が家の床も、ちょっとした私立探偵の事務所風になっている。

さて、この書類の山をどうやって裁判所へ持ち込むか思案し、台車があればちょうど良いのだが・・・と思いめぐらしていると、夜間、交わりから車で戻って来た際、ちょうど駐車場に車を止めると、すぐ真横のコンクリートの塀に、どうぞ使って下さいと言わんばかりに、使い古したキャリーが立てかけてあった。

まさかそんな都合の良いことが現実にあるだろうかと目を凝らすと、本当だった。駐車場は個別のスペースで区切られているため、間違ってそこにこんなものを置いて行く人がいるとは思えない。しかも、そのキャリーはほどよい古び具合で、持ち主が大急ぎで取りに戻って来るような代物ではない。そこに捨てられた可能性も十分に考えられた。

これはまさに筆者のために特別に用意されたものであるとしか思えなかったが、一体、誰がそんな親切を? 筆者に今これが必要だと知っている人はいるはずないのだが。

その時、「主がお要りようなのです」

という言葉が脳裏をよぎった。

まさにエルサレム入場の際の子ろばのことが思い出された。

これは主だ、としか思えないありがたいタイミング。ありがたく数時間、お借りして、またもとの場所に戻しておくことにした。必要なら、持ち主が取りに来るだろうし、捨てて行ったのなら、取りに来る人はいまい。

似たような具合で、必要のすべてがそろった。細かな道具の一つ一つに至るまで、目指した日にまでの間にすべてが供えられた。

このようにして、このところ、この地上は、まるで筆者のための共産主義社会になったような具合だ。決して他人の所有物の概念を否定する考えを述べるつもりはないが、キリスト者にとっては、誰かが地上に引いた境界線や、誰かが独占的に蓄えた私有財産などといった区分は、事実上、ないようなもので、すべてのものは天地を造られた神の所有なのである。そこで、神の子供たちに必要なものは、すべて天から適宜、供給される。

復活の命を生きて体験した人は、筆者の言わんとしていることを理解してくれるだろう。キリストの復活の命は、神の非受造の命であって、どんなものにも依存しない、死を打ち破った命である。そこで、この命が、持ち主のために、必要のすべてをおのずから供給する。

天の経済は、キリスト者の必要に応じて伸縮し、拡大・縮小する。

筆者は、これは神の喜ばれる正しい仕事なのだということを、あらゆる機会に痛感している。筆者はこの仕事をただ自分の必要、自分の権利を守るためだけにやっているのではない。聖書の神が生きておられ、今日も神の子供たちを十分に守って下さり、すべてのことについて、必要な解決となって下さり、ご自分の栄光を信じる者に存分に表して下さることを、公然と生きて世に証明することが、私たちの責務であり、証なのだと考えているからこそ、それに取り組むのである。

この方を信じて生きることが、人間にとっての喜びであり、最高の満足であり、どんな場合にも、その信仰は決して失望には終わらないことを、生きて証明し続けることが、私たちの責務なのである。そして、神はその期待に十分に応えて下さることがおできになる方である。

敵の要塞はエリコの城壁のように崩壊する。多くのことは書かないが、結果が目に見える形で現れるとき、何が起きているのかを人々は理解するだろう。

筆者が今手がけているのはすべて弁護士が書くような書類ばかりであるが、そういうことも、一般人でも工夫すれば十分に対応できる。バッハの『シャコンヌ』をヴァイオリンで満足の行くように弾くことに比べれば、書類作成などはるかに易しい。

筆者はある会社に勤めていた時、100頁近くもある就業規則を外国語に訳したことがあった。そこにはネイティブスピーカーもいたが、誰一人その仕事に着手する者も、完遂できる者もいなかった。業者に依頼すれば20万円以上に相当する翻訳だと言われた。それを他の仕事と共にやった。まるで頭髪の長さまで規定した校則のように、社員をがんじがらめにする意味のない規則ばかりではあったが、その時、そのように苦労して書類を作るのならば、会社を去った後も、自分の人生に残るもっと価値のある書類を作るべきだと心から思った。

今、やっていることが、それに似ている。誰のためでもない、自分のための権利の主張文である。だが、その書類では、筆者一人だけの権利ではなく、そもそもキリスト者の権利とは何か、天と地において、人とは何者なのか、という問題が提起されている。

たとえば、信教の自由、思想信条の自由という言葉が、私たちが様々な紆余曲折を経ながら、まことの神を探求し、神と共に生きる道を模索し続ける求道者としての魂の遍歴を十分に優しく認めてくれている。人は神と出会うために、また神に従って生きるために、必ずしも平坦ではない様々な試練の道を通らねばならない。だが、その道が平坦でないからと、これを罵倒できる人などどこにもいはしないのだ。

神は、私たちに「求めなさい」と言われる。あなたたちは何も求めないから、手に入らないのだと。多くの人々は、それを聞いても、自分は富んでいて、豊かで、何も乏しいことはなく、神の御前で打ち明けるべき弱さや、問題などない、と考えているため、何も神に求めようとはしない。求めるものは現世利益だけで、それさえも、つつましく分相応に見えるように、自分の規定したスケールの範囲内でしか求めない。常に周りを気にし、人並みの生き方をしてそこから逸脱しないことにしか目標がないのである。

彼らはあまりにも神と人との前で虚勢を張りすぎているため、自分の弱さを認めず、自分の人生の尺度を自分で規定してしまい、神の御前に素直に問題を打ち明けることもできず、自分の人生を打ち破るようなスケールの恵みを求めることもない。自分のために何も要求しないし、自分はその恵みに価しないと考えている。だから、何も与えられないのである。信じないから、何も与えられないのである。

それに引き換え、主張文を書くことは、自分の正当な権利の行使であり、要求である。自分はそれに価すると信じなければ、要求することはできない。地上でさえ、人の訴えを裁判官が取り上げ読み、審議するのだから、天に出すべき訴えというものも、当然ながらある。神は正しい方であり、真実が曲げられるようなことをなさらない。寄る辺ない人々の訴えに喜んで耳を傾けて下さる。

だから、地上で書類の山を作るのも必要だが、まして重要なのは、天に向かって訴えを出し続け、父なる神に向かって子としての権利を要求し続けることだ。

時に、信者が本気で神にぶつかり、扉が開けるまで懇願し続けなければならないことがある。答えが遅いように見える時もあるかも知れない。だが、信じてよい、神は我が子の訴えに喜んで耳を傾け、これを取り上げて下さると。神は信じる者たちの願いを喜んで受けられ、彼らの信仰に応えることを、ご自分の栄光とみなして下さる方である。


神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。死人を葬ることは、死人に任せなさい。

どのようなことでも、自分自身でやってみることに価値がある。最初は抵抗感を覚えるような難しいことでも、少しずつ、取り組んでいるとコツが分かって来る。訴状もいわば作品の一つのようなものだ。
  
ものを書くのは、ひたすら考察と推敲の繰り返しである。当ブログの記事も、かなりの回数、書き直している。一度書いたものは二度と書き直さないという人々もいるが、筆者はとにかくひたすら文章を推敲するタイプだ。まして公に出す文書は、それにかける手間暇はすごいものがある。

その作業をこれまでずっと着実に果たして来たからこそ、自信を持って、どんなことでも自分でできると断言できるのだ。これは主イエスがついておられるがゆえの自信でもある。自分自身により頼まず、神により頼んでいるからこそ、言えることなのだ。

筆者は、当ブログを迫害して来た暗闇の勢力の手口を、何年間もかけて研究した結果、その手口には、ほとんど定型化された複合的なパターンがあることを学んだ。恫喝による口封じ、誹謗中傷による圧迫、個人情報の暴露の脅し、猜疑心を植えつけることによる仲間との分断工作、訴訟で反撃しようとすれば、スラップ訴訟だとわめき、権利を主張することを何とかして諦めさせようとすることなど・・・。

こうしたことは、ブラック企業が労働者に権利をあきらめさせようとする時に使う手口と非常によく似ている。だが、筆者はこうしたやり方にも、毅然と立ち向かう術を学んで来た。それ通して、卑劣な訴えにどう立ち向かうかという具体的な方法論を学んで来たのである。学生時代のディベートで鍛えた能力に加え、悪徳社労士、悪徳弁護士のような人たちにも根気強く向き合い、代価を払って、どのようにして自分の権利を守るかという具体的な方法を学んだ。

今やネトウヨが弁護士に大量に懲戒請求を出したりしている時代であり、人権そのものを敵視し、これを葬り去りたいと願っている勢力が蠢いている。しかし、そのような考えにチャンスを与えてはいけないのだ。弁護士を攻撃することの背景には、人権への敵視が潜んでいる。だが、卑劣な訴えには、弁護士の方も黙ってはいない。何百人ものネトウヨに毅然と反撃を開始しているし、DHCのような巨大企業からスラップ訴訟を起こされた弁護士もこれに立ち向かい、今やDHCを被告席に座らせていると聞く。 

パウロは空を撃つような拳闘はしないと言ったが、筆者も負けるような戦いはしない。だが、努力なしに勝利できる戦いなど何一つない。実践の積み重ねでしか、手応えを掴むことはできないのだ。従って、脅されたからと言って、すごすごと引っ込んで取引に応じて妥協などしていれば、そんな臆病な態度では、初めから何一つ学習できない。まして殉教などを語る資格は全くないと言えよう。
  
さて、今回の訴えの中には数々の不法行為に加えて、著作権侵害も重要なポイントとして含まれるので、記事にまとめるために推敲しようと一旦、非開示にしていたコラム欄も公開しておきたい。

当ブログに長年敵対しているブログだけでなく、匿名掲示板でも多数の剽窃が行われている。掲示板のコメント投稿者らの中には、ネタ探しのためだけに、様々なブログを訪問し、出典も示すことなく、文章を無断で剽窃して行く者たちがいる。

剽窃者らは、ブロガーが最も手間を割いて書いた肝心な記事には見向きもせずに、ただゴシップ探しのためだけに様々なブログを訪問している。そして、わずか1~2秒ほどで、前後もわきまえずに、短い文章をコピペして盗み取り、別な場所へ貼りつけるために去って行く。そういう読み方を、ブログの作者は全く望んでおらず、それがブロガーへの敬意でもない。

法律上、出典を示せば、ある程度の引用は認められているが、本文のほとんどがコピペのような文章は、引用の範疇には含まれない。他者の画像や文章の出典を示さずに引用することは、剽窃に当たり、それだけで違法行為として、後日、責任追及がなされる可能性がある。

そこで、当ブログの文章を許可を取らずに引用することは控えていただくようにされたい。匿名掲示板だから、他人の争いだけを高みの見物できると高をくくっていると、思わぬところから足をすくわれることもありうる。

権利侵害を受けている当事者には、被害を語る権利があり、訴えられている人間にも、合法的な範囲で自己弁明する権利がある。もし合法的な範囲を超えて、反論をすれば、当然ながら、その訴えは認められず、かえって罪として追及されるだろう。

だが、当事者でなく、裁判官でもないのに、どっちつかずの立場から、人を裁き続ける「無数の匿名氏」らの罪も非常に重いと言えよう。もし真に「匿名氏」として非難されるべき存在があるとすれば、それは、当ブログではなく、むしろ、自分は何の苦労も責任も負うことなく、最低限度の自己紹介もなしに、ただ他人の文章を無断でコピペして、評論家然と、知ったかぶりで物事を論じ、部外者にも関わらず、当事者をよそにして、他人の人生を見物材料として高みの見物し、裁判官でもないのに、どっちつかずの立場から、人々を裁き、争いに火に油を投じようとしている人々であろう。

誰からも被害を受けていないにも関わらず、自分が審判者となって他人の争いに首を突っ込み、事態をよりこじらせるような投稿を行い続ける人々は相当に悪質であると言える。

また、人が自分で公開していない個人情報を無断で収集し暴露することも、プライバシーの侵害であり、不法行為に当たる。どんな理由があっても、本人が公開していない個人情報を第三者が無断で暴き、公表することは許されない。

ところが、牧師の中にさえ、当ブログを「匿名氏」と呼んで、実名暴露せよといきり立つ暴徒のような人々に暗黙の賛同票を送り、彼らの怨念を煽り立て、犯罪行為に焚きつけようとする者がいる。それはカルト被害者救済活動の筆頭に立ち、実際にこれらの暴徒たちに筆者の個人情報を提供したと見られる村上密のような牧師だけではない。

たとえば、以下の記事を読んでいただければ分かるように、筆者と面識のない牧師でさえ、そのような考え方に暗黙の賛同表を送っているのである。

死人を葬ることは死人に任せなさい―肉による情愛や、弱者救済を口実に、エクレシアにこの世を公然と持ち込むプロテスタントの偽牧師たち ―

異なる意見を持つ人々がネット上で議論することは大いに奨励されて良い。だが、平和な議論と、他人が公開していない個人情報を暴露したり、暴露を助長するような呼びかけを行うことにより、恫喝や権利侵害によって反対意見を力づくで封じ込めようとする行為は、厳に区別されなければならない。

実名でブログを書くかどうかは、あくまで本人の判断であり、ペンネームでブログを記すことは何らの不法行為にも当たらない。個人情報をどこまで公開するかは、あくまで本人の自主的な判断によるのであって、それは他人がとやかく言える問題ではない。実名を出さないから無責任だとか、逃げているなどといった主張も成立しない。

特に、現代社会ではセキュリティ上の観点から、一人一人が慎重な決断を求められており、世間でも、様々な犯罪事件の被害者が二次被害の発生などを抑えるために、個人情報の公開を自ら制限することは当然視されている。

にも関わらず、キリスト教界の牧師たちには、以上のような認識がまるで欠けているのである。
この教界には、表向きには、弱者を助ける優しい正義の味方のような顔をしつつも、実際には、自分よりも目下と考えている信徒らから、ほんの少しでも自分の論を批判されただけでも、相手を赦すことができない思いになり、生涯をかけてその相手を恨み続け、相手が一般信徒であっても、個人情報を暴露するなどして、何年間かけてでも徹底的に報復せずにいられないという、ヤクザ顔負けのような牧師たちが跋扈している。

自分が信徒に批判されて、少しでも面子を傷つけられたと感じると、一人を寄ってたかって大勢で痛めつけ、個人情報を暴き、徹底的に辱めようとする。むろん、相手が女性であろうと、一般信徒であろうと、一切の容赦もデリカシーもない。さらに、自分の手を汚さないために、一見、自分の教会とは無関係に見える信徒を焚き付け、手先のように利用して、復讐を加える。

しかも、その執念深さたるや、まさに異常のレベルである。些細なことで10年間も誰かを恨み続ける。法律には時効があるのに、彼らはその時効さえ無視し、法も無視して、私刑を加える。たった一件のコメントでさえ、頼まれても削除に応じない。一旦人を憎むと、恥知らずな嘘のプロパガンダを終わりなく流布して、徹底的にその人の人生を滅ぼそうとする…。

世間は、これがキリスト教の宗教組織の醜い現実の有様であることをよく見れば良いだろう。筆者の知り合いには、他宗教の信者も数多くいるが、自らの知人に対して、このような陰惨な復讐劇のような光景が繰り広げられているキリスト教界を見て、これに人々は少しでも近寄りたいと考えるだろうか。このような悪しき、忌むべき牧師たちを抱える宗教組織に自ら関わりたいと、人々は考えるだろうか。

むしろ、筆者に対して彼らが行っている仕打ちを見れば、筆者でなくとも、このような業界からは、誰しも「エクソダス」を唱えるのが当たり前であろう。当ブログで批判されて向きになって言い返している牧師や信徒たち、信徒の個人情報を言いふらす信徒、嘘八百を垂れ流して信徒を傷つける信徒、掲示板で騒ぎを拡大している信徒らを見て、こういう人たちに関わりたいと思う人は、誰もいないだろう。要するに、カルトを批判している人たちが、一番カルト化しているわけで、この光景を見ただけで、この宗教は何かがおかしいと世間は考え、近寄りたくないと思い、逃げ去って行くのは当然であろう。

こんなものが真実なキリスト教徒の姿と言えるはずもない。一般人以上に異常である。このような人々の出現は、キリスト教の名折れでしかないと、筆者ははっきり言っておきたい。そして、このような人々が、他の宗教団体を敵視して、正義漢ぶって争いをしかけるなど、百年早いと断言する。

だが、こういうことが起きたのも、牧師制度が既得権益となり、政治家と同じように世襲制となり、利権そのものと化していればこその事態である。牧師制度などというものが導入されたこと自体がとてつもない誤りであり、牧師制度が徹底的に腐敗すると同時に、キリスト教界全体が腐敗し、完全にセルフで塗り固められた搾取と虚栄の世界と化したのである。

筆者は生涯の終わりまでキリスト教徒であり、聖書への信仰は失わないつもりだが、こんなにも醜い宗教組織は、聖書とは何の関係もない、堕落した世界でしかなく、関わりたいとも思わない。世間はよくよくこうした事件を通して、この宗教の何たるかを学ぶことだろう。筆者は幼い頃からキリスト教界を知っており、通りすがりの人間としてコメントしているわけではないことも重く見られると良い。

牧師たちは自教団・自教会内での地位さえ守れれば良く、そのためならば、どんな手段を使ってでも、信徒の口を封じれば良いと考えているのかも知れないが、そのようにプライドと自己保身がすべてとなった姿が、客観的に見て、あまりにも幼稚で醜く忌まわしいものと映り、キリスト教の評判をさんざんなものにしていることに、自分で気づいていないのである。

安倍政権と同じだ。内実のない者が職務的に高い地位に就き、自分よりも賢明な者たちに横暴な権力を振るっている。だが、偉そうに君臨していられるのは国内だけで、世界からは呆れられている。要するに、自分を客観的に見る能力が欠けているのである。

かつて筆者の前で、プロテスタントの牧師の未熟さ、幼稚さ、傲慢さについて思いの丈をぶちまけ、非難の言葉を残して、カトリックへ去ると述べた信者がいた。筆者は、プロテスタントに絶望してカトリックに去ることが正しい選択だとは思っておらず、キリスト教を改革して母性原理を補うべきと唱えるペンテコステ運動をも支持しないし、禅や、ニューエイジ思想を取り込むことにも賛成できず、統一教会やその他の異端を支持するわけでもない。

筆者はカルト団体を支持しないが、他のカルトの犯した罪がどうあれ、今日、これほどまでに徹底して腐敗堕落したキリスト教界は、そもそも他宗教を非難できる筋合いにはないと思う。まずは牧師制度という階級制度を撤廃すればよろしい。牧師制度こそ、諸悪の根源であり、どの異端よりもさらに悪質で、完全に間違った制度であると、声を大に言わざるを得ない。
 
カルト被害者救済活動の暴徒のような信徒を生んだのも、牧師制度であり、キリスト教界を声高に非難し、憎しみの言葉を発し続けているKFCを生んだのも、牧師制度である。この制度こそ、まさに信徒同士を戦わせるすべての悪の根源になっていることが、なぜ多くの人々には分からないのだろうか。

牧師制度には聖書的な根拠がない。使徒パウロは信徒らから献金を受けとることができる立場にあったにも関わらず、何が何でもその権利を使うまいと考えて、身を粉にして働いた。初代教会には、信徒からの献金で生計を立てたような宗教指導者は、誰一人として存在しなかった。

今日の牧師たちは、羊を食い物にする強盗であり、霊的な中間搾取者階級でしかない。彼らには自分たちの利権だけが大切なのであり、信徒は野望を実現する手段でしかない。だからこそ、彼らは思い通りにならない信徒に徹底的に復讐を果たし、信徒を闇に葬ろうとするのであり、このような醜い精神は、悪魔から来るものであって、どこをどうやっても聖書に基づいて生まれて来るものではない。

だからこそ、当ブログでは、彼らはグノーシス主義者だと、再三、言っているのである。筆者がこの論稿を書いているのは、今日のキリスト教界が、全く聖書に基づかない別な教えによって陥落されていることをはっきりさせるためである。

誰が本当のキリスト教徒であるのかは、神ご自身が証明される。悪党を支援した牧師は恥を見ることになる。

さて、当ブログについて虚偽の非難を繰り広げている人々に公に反駁することは、訴訟が始まってからで良いと思っているので、ここに書いていることは、あくまで予告であって、公の反論は後日、きちんと手順を踏んで行うつもりであるが、それに先立って、いくつかかいつまんでトピックを挙げておこう。
 
労働紛争を闘うためには、会社の登記簿謄本を取り寄せるのは必須条件なので、会社と闘ったことのある人が、会社情報の調べ方を知らないことはあり得ない。だが、料金を払ってまで、会社の登記簿謄本を取り寄せたいと願う人がいるかどうかは別問題だ。仮に登記簿謄本を取り寄せなかったとしても、それだけで「会社情報の調べ方も知らない」と決めつけることはできず、そういう決めつけを発表すれば、誹謗中傷となるだろう。

さらに、「…という説もある」とあえて疑問の余地を残している記述を基に、「ガセネタを流布した」と言い切ることはできず、そのような主張こそ、かえって「ガセネタ」とみなされる恐れがある。むろん、掲示板からの情報だと記されていないものについて、勝手に掲示板の情報だと決めつけ、それを基に非難を繰り広げることも、誹謗中傷である。

さらに、「キリストの香り」「キリストを着る」といった言葉は、クリスチャンとしては最低限度、知っておかねばならない聖書表現である。この表現を知らないのであれば、せめてネット検索だけでもしていれば、すぐに分かったはずである。むろん、どちらも筆者の「お得意の造語」などではない。むしろ、「一人修道院」といった訳の分からない言葉の方が、間違いなく造語に該当するだろう。

「殉教」を「言論テロ」と決めつけたい者たちがいるようだが、もはやこうした稚拙な論には呆れて反論する気にもならない。テロを主張するためには、まずは具体的な犠牲が出てなくてはならないが、殉教の精神を説くことによって出る犠牲とは何を意味するのだろうか?

日本でも、長崎を含め、殉教したクリスチャンは、すべての信者らから尊敬を受ける存在である。殉教者を尊敬する気風は、世界のすべてのキリスト教に共通する。にも関わらず、今日、殉教の精神を説くことだけで、これを「カルト」とみなしたり、「言論テロ」と決めつける者がいるとすれば、その人は果たして本当のクリスチャンなのかという疑問が生じるのは当然である。

むしろ、彼らが自分たちの論を批判する言動をすべて「言論テロ」や「犯罪」と決めつけていることこそ、最も激しい言論テロではないのか。

筆者が、当ブログに対して長年、行われている嫌がらせ行為を刑事告訴の対象としたことを嘘だとわめきちらしている人々がいる。

だが、実際には、刑事告訴が成立しているのは事実であり、ちょうど警察が追加された中傷記事についても、長い報告書を書いているところである。筆者は、ゴールデンウィーク明けに、当ブログに対して加えられたさらなる誹謗中傷の記事を警察に提出し、これからも、改めて追加資料を提出する予定である。

警察が作成している報告書は、量刑に関わって来るものであり、むろん、筆者もさらに調書を提出する。このような話が、全て筆者による作り話だと、読者は本当に思うのだろうか? 

しかも、刑事告訴された事件について、警察は捜査義務を負う。捜査しなければ、職務放棄に当たるわけで、事件が解決してもいないうちに、警察が告訴人を「見離す」という事態は起き得ない。

警察は一般に警告を文書で出さない。もしそういうことをするとしたら、裁判所の仮処分等であろう。また、民事調停委員は中立的立場で話し合いに臨んでいるため、申立書の内容について個人的な意見を言う立場になく、まして職務として臨んでいる調停の申立内容を「分からない」と発言すること自体があり得ない。

むろん、筆者が提出した申立書の趣旨は、具体的な損害賠償請求であるため、「神学的議論」には当たらない。もしも神学的議論で埋め尽くされた申立書が出されるようなことがあれば、裁判所がそれを受け付けない。裁判所は、訴訟であれ、調停であれ、申立書に不備があれば、訂正を求め、訂正が完了するまで、決して審理を進めない。
 
申立人が、自ら費用を払って調停を申し立てたこと自体が、話し合いによる解決を目指す姿勢を意味する。そこで、相手方が、申立人の訴えを「棄却する」という答弁書を出したにも関わらず、「自分は話し合いを強硬に拒否された」と主張しても、それが認められることはまずない。

期日当日、開始時刻間際に出した答弁書の内容は、その日の議題に取り上げてもらえず、従って、その日中に回答が出ないのは当然である。それを「回答できないからしないのだ」と決めつけるのは無理筋の話である。調停では、申立人と相手方は対面しないため、必要な説明はすべて調停委員から行われる。もし説明不足があるならば、それは委員に言わなくてはならない。

第二回目の期日が決められれば、「今後の見通し」が立ったことになるので、「今後の見通しが立たず」という主張は成立しない。民事調停への出廷は任意なので、調停に呼び出されたことで損害を受けたという主張は成り立たない。
 
さらに、筆者はネット上を含め、どこにも「随想」を発表した事実がなく猫を飼っていたこともない。KFCに夜行バスを使って訪ねたのも、人生に一度きりの出来事であり、夜行バスを使って月に何度もKFCに通った事実などない。むろん、会ったことのない人間に「ラブレターのようなメール」を送った事実もなく、当ブログのグノーシス主義研究は、大田俊寛氏以外にも、荒井献氏、ハンス=ヨナス氏など、グノーシス主義研究で著名な研究者の論を度々引用しており、一人だけの研究に依拠して書かれていないことは明白である。当ブログのグノーシス主義批判が研究者の「受け売り」であると主張できるだけの具体的な論拠は何もない。

また、「Sさんへの手紙」の中には、どこにも「実名」は出されていない。この手紙が書かれたのは、2010年10月であり、当ブログに対する1千件のコメントを伴うバッシング記事がネットに掲載されたのは、2009年11月である。従って、この手紙が紛争のきっかけになったという主張は時系列的に成立しない。むろん、この手紙が和解のために書かれたものであることは、一読すればすぐに分かる。当ブログがカルト被害者の裁判を狂言呼ばわりした事実もない…。

この他にも、終わりなく事実は列挙できるのだが、わずかにたったこれだけの事実を挙げただけでも、当ブログに向けられている非難が、いかに嘘八百のデタラメであるかは、誰にでも十分に分かるだろう。そうした主張には、いかなる具体的な証拠も示されていない。真実性を証明するためには根拠がなくてはならないが、そこにあるのは嘘、ごまかし、すり替え、トリックだけなのである。

これでクリスチャンを名乗ろうというのだから、まさに呆れるような詐欺としか言いようがない。さらに、筆者から見て、最も気になる点は、どうにも彼らには「御霊に導かれるクリスチャン」という言葉に、拒否反応を起こさずにいられない傾向が見受けられる点だ。

筆者は当ブログにおいて、自分が聖霊に導かれるクリスチャンだと決して誇示したり、それを自己顕示の材料としたりはしていない。さらに、筆者は「自分たちだけが正しい信仰を持っている」と一度も述べたことがない。そもそも当ブログは、筆者個人の信仰告白を述べたものでしかなく、団体による告白ではないのだ。

さらに、既存の教会組織からのエクソダスを唱えたのも、当ブログが初めてでは全くない。内村鑑三、古くはハドソン・テイラー、ジョージ・ミュラー、それから、オースチンスパークスや、ウォッチマン・ニーなども、みな同じことを主張して、既存の教団教派から離れて行った人々である。それにも関わらず、筆者が「エクソダス」を主張していることが、まるで筆者特異の極めて新奇な概念であるかのように考えている人々があるとすれば、その人々は、キリスト教史を知らなさすぎると言えよう。
 
それはさておき、いずれにしても、「御霊に導かれるクリスチャン」に対する拒否反応こそ、彼らが、一体、なぜ当ブログに対して、これほど執拗に絡み続けて来たのか、その答えを解く最も核心となるだろうと思う。この問題を突いて行けば、隠れていた最後の動機が明らかになるという気がしてならない。

どうして彼らはこれまで聖霊派をあれほどまでに敵視し、徹底的に叩き続けて来たのか? そのような行動を取る動機として何が具体的に隠されているのか? ただ単に過去にペンテコステ派の異様な集会を見てつまずいたといったような表面的な動機ではないだろう。そこには「聖霊」そのものに対する憎しみが隠れているのだと筆者には感じられてならない。まさにステパノに向かって歯ぎしりした群衆や、イエスをベルゼブルと呼んだ人々のように・・・。