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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

十字架の死と復活の原則―労働によって自由を目指す偽りの生き方を退け、真理によって自由とされて、御言葉に養われて生きる―

「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたは書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。」(Ⅰテサロニケ5:1-3)

わたしの民よ、彼女から離れ去れ。
 その罪に加わったり、
 その災いに巻き込まれたりしないようにせよ。
 彼女の罪は積み重なって天にまで届き、
 神はその不義を覚えておられるからである。」(黙示18:4-5)
 

最近、あらゆる情報を見るにつけても、エクソダスの時が近づいていると思わずにいられない。筆者の人生は、アブラハムの生涯のように、エクソダスの連続である。

できるだけ早い段階で首都圏を離れるべきだという思いが、最近、どうにもこみ上げて来てならないのだ。バビロンの倒壊がいよいよ始まっていることを、あらゆる兆候から見て取れる。

首都圏に住むことに対する疑問を筆者が初めて抱いたのは、「シン・ゴジラ」という映画を観た時であった。この映画は創作と呼ぶにはあまりにも駄作すぎて、ここで取り上げて論じる価値もないが、筆者は、この映画は創作というより、創作に託した政治的プロパガンダ映画であって、何者かが東京に来たらんとしている戦争の惨禍について告げるために作成した予告映画であるように感じた。

むろん、そのような解釈には何の証拠もないため、同意できない人も多かろうが、筆者は、その映画を観た時、被災地の苦しみや、貧しい人々の苦しみを見殺しにして、富を貯め込み、身勝手な繁栄を享受して来たこの国の主都に、裁きの時が迫っていることを思わされたのであった。その裁きは、ソドムとゴモラのような形ではないにせよ、何者かが東京を戦禍に晒し、火の海にしようとする悪しき計画によって成就されるかも知れないことを思わされたのであった。

ところで、日本政府の悲願は、核武装にある。改憲の先に見えているのは、戦争である。しかも、ただの戦争ではない。核戦争である。

そして、そのようなことが現実に起きた日には、我が国首相は、ゴジラ映画のような「英雄」とはならず、ただ己が野望のために核のボタンを押して、大勢の国民を破滅に晒す独裁者にしかならないであろう。

そういう日が、刻一刻と近づいていることを筆者は感じているのである。東京オリンピックもそうだが、こうした計画はすべて「大日本帝国の復興」という呪われたイデオロギーの延長線上に進められている。そして、筆者はそのような恐るべき計画と、それがもたらす破滅に巻き込まれるつもりは毛頭ないので、首都圏からお暇したいと考えている。

戦争の話はさて置くとしても、それ以外の面でも、この国の未来に暗雲が垂れ込め、滅びが近づいていることは、あらゆる兆候からよく感じられる。

たとえば、裁量労働制について、今国会で行われている議論は、この国にいよいよ国民に底なしの労働の義務を課し、国民が働いても働いても、決して個人に利益が還元されず、すべての利益が国や巨大企業に吸い上げられて行くだけの呪われた社会主義システムが完成されつつあることを物語っている。

アベノミクスの本質は、全体主義なのであるが、アベノミクスの本番の地獄は、いよいよこれからなのである。経済再生などという謳い文句は、詐欺の入り口でしかなく、国民は、夢のような偽りの繁栄の約束と引き換えに、騙されてアウシュヴィッツ行きの列車に乗せられ、今や強制労働収容所の入り口に掲げられた悪名高い看板「働けば自由になる(Arbeit macht Frei)」の下をくぐり抜けようとしているところだ。

こうして、全国民に未来のない労働が強制される時代が到来し、そのしばらく先に、共謀罪による大粛清やら戦争による殺戮やらが待ち受けているのである。

だが、キリストの十字架の贖いによって義とされ、罪の奴隷状態から自由とされたキリスト者が、こんな呪われた運命に巻き込まれる筋合いはないのであるから、我々は自由を勝ち取って生きねばならない。

ちなみに、上記の「労働は人を自由にする」とのスローガンは、「真理はあなたを自由にする」という聖書の御言葉の悪質なパロディであり、悪質な虚偽である。労働を通じて人間が自由を勝ち取ることなど決してできない。

だが、そのような偽りのスローガンは、全体主義体制に共通するものである。ソビエトの強制労働収容所の入り口にも、アウシュヴィッツとほぼ同じような意味のスローガンが掲げられていた。あたかも労働こそ、人民の栄誉と繁栄と自由への道であるかのように…。

当ブログではこれまで再三述べて来たことであるが、このような労働賛美の思想は、歪んで異常な考え方であって、そこで言う「労働」とは、呪われた概念であって、ただの労働を指すのではない。要するに、それは人類が自己の罪を自分で贖い、自力で神に至り着こうとする、神に逆らう計画としての、終わりなき不毛な贖罪行為を指しているのだ。

クリスチャンならば誰しも知っているように、人間の罪は、人が自分で贖うことはできない。どんなに真面目に働いてみたところで、人はわずかでも自分の罪の負債を減らせはしない。

罪の奴隷状態を抜け出て、自由になるためには、真理によるしかない。真理とは、人となって地上に来られ、十字架にかかられた神の独り子なるイエス・キリストであり、御言葉なるキリストのうちにとどまることこそ、自由への道である。

わたしの言葉にとどまるならば、あなたがたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:31-32)

そこで、この真理を知っている筆者は、"Arbeit macht Frei"との偽りの標語が記された列車に、大勢の人たちと一緒に乗り込むことを拒否して、我先にと順番待ちをする群衆を置き去りに、一人、駅から立ち去る。

カルト被害者救済活動の支持者らは、筆者が輝かしい労働への道に進まず、強制収容所行きの乗車への乗車を拒否して、一人どこへともなく去ろうとしていることを知って、筆者が変人で、あたかもまともな仕事に就けない浮浪者であるがごとくにあざ笑っている。

だが、彼らは自分の身にこれから降りかかろうとしている悲惨な末路を全く知らないのだ。歴史を振り返るが良い。人々は「まともな仕事に就ける」とか、「十分な賃金と、豊かな生活ができる」などの謳い文句を信じて、アウシュヴィッツ行きの列車に乗り込まされた。幸福で豊かな生活が待っていると、これから乳と蜜の流れる土地へ行くのだと、騙されて死への旅路へ出かけて行ったのだ…。

カルト被害者救済活動の支持者らは知らない。政府の唱える「一億総活躍」の偽りのスローガンを信じれば、強制労働収容所へ連れて行かれるだけだと。そこで待ち受けているのは、未来ある労働どころか、飢えと、死だけである。

だから、彼らが自分は金持ちだと言って、貧しい人々をあざ笑っていられるのは、ほんの束の間でしかない。

聖書にはこうある、富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。

ご覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがた支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。」(ヤコブ5:1-6)


カルト被害者救済活動の支持者らの中には、人助けを職業として選んでいる者も多い。だが、その職業が見栄のためだけであって、自分は人助けをしているのだと人前に誇りながら、不幸な他人よりも一段上のところに立って、上から目線で他者の苦しみを見下ろし、苦しむ人を踏みつけにし、嘲笑するためだけのものならば、その職業は彼らから取り去られ、他の人々に与えられるだろう。

たとえば、社会福祉士は国家資格であるから、法律で欠格条項が定められている。社会福祉士の信用を傷つけ、刑法に触れるようなことをすれば、当然、国家資格を剥奪される恐れが出て来る。

カルト被害者を「冒涜」することは何の罪にも当たらないが、貧しく寄る辺のない国民を誹謗中傷すれば、この世の刑法に触れることになるのだ。

だから、そういうことを考えれば、大淫婦バビロンが「わたしは、女王の座に着いており、やもめなどではない。決して悲しい目に遭いはしない。」(黙示18:7)とつぶやいたのと同じように、自分だけは立派な職業に就いて、豊かな生活を送っているから、あの浮浪者や、この貧乏人とはわけが違うなどと、ゆめ神と人との前で豪語したりするものではない。

バビロンは心の中でそうつぶやいただけで、そのつぶやきを神に見透かされ、罪として裁かれたのだから、そんな呪われた文句を神の教会の前で公然と吐き捨ててクリスチャンを侮辱した人々には、どういう恐ろしい運命が待ち受けていることだろうか。

バビロンは宣告されたのだ。

彼女がしたとおりに、
 彼女に仕返しせよ、
 彼女の仕業に応じ、倍にして返せ。
 彼女が注いだ杯に、その倍も注いでやれ。
 彼女がおごり高ぶって、
 ぜいたくに暮らしていたのと、
 同じだけの苦しみと悲しみを、
 彼女に与えよ

 「それゆえ、日のうちに、さまざまな災いが、
 死と悲しみと飢えとが彼女を襲う。
 また、彼女は火で焼かれる
 彼女を裁く神は、
 力ある主だからである。」(黙示18:6-8)

また、箴言(13:21-23)にはこうある、

「わざわいは罪人を追いかけ、幸いは正しい者に報いる。 善良な人は子孫にゆずりの地を残す。 罪人の財宝は正しい者のためにたくわえられる。 貧しい者の開拓地に、多くの食糧がある。 公義がないところで、財産は滅ぼし尽くされる。」


このように、義のないところでは、富は長続きしない。罪人がどんなに豊かに財産を蓄えたとしても、それはすべて罪人の手から取り上げられて、義人の手に委ねられる。義人は貧しく見えても、その開拓地には多くの食糧を持っており、子孫のために財産を残す。

繰り返すが、罪人の富は義人のために蓄えられるのだ。カルト被害者救済活動の支持者らは、愚かな行為に及んだクリスチャンを非難して言う、民事で巨額の賠償金を支払って和解しても、刑事ではずっと捜査が続くのだと。だが、その言葉は、クリスチャンを非難し、教会をあざ笑っている彼らにそのままお返ししよう。

目に見える地上の神社に油をまく行為は、世間から見れば迷惑千万であり、かつ文化財を毀損する罪かも知れないが、滅びゆくものは、放っておいてもいつかは消滅するのだ。だが、キリストの花嫁たる目に見えない教会は新創造であり、永遠性を持つ。そこで、神の聖霊が宿っている教会を冒涜する罪は、未来永劫、赦されることはない。旧創造を毀損する罪と、新創造を冒涜する罪と、果たしてどちらが神の目から見て重い罪なのか、それはこれから公然と人前に証明されよう。

さて、筆者の目から見れば、今やこの国全体に、巨大な不幸が降りかかろうとしているのは明白であるにも関わらず、未だに勤労の精神を説いたり、自分だけはまっとうな職業に就いているから、貧しさや孤独とは無縁で、不幸にはならないなどと豪語している連中は、まさに愚の骨頂である。

この先、この国には「まともな仕事」と呼べる職業がほとんど存在しないような恐ろしい時代が来ようとしているのだ。信仰によって生きるキリスト者以外は、生き延びることさえ困難な時代が到来しているのである。

バビロン体系の中で生きるには知恵が要る。秘訣はただ一つ、世間が奨励するような「まっとうな生き方」を目指すのではなく、神の目から見て、真に「まともな職業」に就くことである。人の目にではなく、神の目に評価される生き方をすることである。そうせねば、結局は、誰一人、生きられない時代が到来しているのである。

そこで、筆者は、"Arbeit macht Frei" との偽りのスローガンの掲げられている広き門に背を向け、「真理はあなたを自由にする」という聖書の御言葉の掲げられた狭き門を入って行く。

キリスト者である筆者は、「不信者とのつり合わないくびき」を負うことを拒否し、自力で罪を贖うために、罪人と共に底なしの罪の連帯責任を負わされることを避け、神に逆らうバベルの塔建設の計画に加担せず、労働によって自由を目指すのではなく、真理によって自由を獲得し、二度と人の奴隷とされることなく、また、自分の貴重な労働の成果を、悪者にかすめ取られたり、怠け者の利益に還元されたり、強欲な雇用主を富ませるために利用されることなく、自分の労働の成果が、天に蓄えられ、真に自分自身に還元されるような生き方を目指す。

これは、信者に無限の献金や奉仕を要求する強欲なカルト宗教からのエクソダスにとてもよく似ていて、気づくのが早ければ早いほど、被害が少ないと言える。

さて、呪われたバビロン経済を脱し、真に正しい神の国の霊的秩序に生きるためには、キリスト者は御言葉の奉仕人でなければならない。詩人が詩人であることをやめて、労働者になっても何の役にも立たないのと同じように、キリスト者は、神の国のために働く奉仕人であり、「天職」に生きるべき人々である。

天に収穫をもたらすことこそ、我々の職業であり、我々の仕事は「人間を漁る漁師」であって、その職は地上のすべての職を超える。キリスト者は地の塩としての役目を果たさなければ、外の暗闇に投げ捨てられ、踏みつけられるだけである。

地上の経済は、キリストの復活の命の統治に服さねばならない。神の霊的な秩序はこの世の秩序よりも優先する。その順序は決して入れ替わることはない。従って、神の国の霊的秩序に生きる人々のために、地上の経済は仕える立場に置かれるのである。

牧師でさえ言う、御言葉の働きのために報酬をもらうのは当然であると。そして彼らは地上の職業から遠ざかっているではないか。

だとすれば、まして真にキリストに従う奉仕者たちのためには、神が必ず天に報酬を備えておいて下さる。蒔くことも、刈ることもしない空の鳥や野の花のために、神がすべての必要を備えて彼らを養って下さっているのだから、キリスト者が、自分で自分を養うために、奴隷的強制労働などに従事せねばならない筋合いはないのである。

そういうわけで、未だ勤労の精神を説いたり、人の目に認められようと、お国のために役立つ人間になろうと努力しているカルト被害者救済活動の支持者らは、大変な思い違いをしているのである。

彼らが仕えている地上の国は、彼らを滅ぼすだけで、決して幸福にしない。また、彼らが誇っている地上の「まっとうな職業」も、糞土にも値しないものであって、人を滅びにしか導かないものであることは、やがて多くの人の目に明白になるだろう。

欺かれてはならない。狭き門から入る人は幸いである。

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができおうか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:25-34)
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十字架の死と復活の原則―小羊の血と証の言葉により、サタンの要塞を打ち壊す―

わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(Ⅱコリント10:4-6)

この御言葉が心に迫って来る。これは、私たちの述べる証の言葉が、敵の要塞を打ち砕く力を持っていることの力強い証明である。

兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで、彼に打ち勝った。
彼らは、死に至るまでも命を惜しまなかった。
このゆえに、もろもろの天と、その中に住む者たちよ、喜べ。
地と海とは不幸である。
悪魔は怒りに燃えて、
お前たちのところへ降って行った。
残された時が少ないのを知ったからである。」(黙示12:11-12)

これから激しい戦いが起きようとしている。

それは、キリスト者が証しの言葉を守り抜くための決戦である。
天の大掃除と言っても良いかも知れない。

このブログに対する暗闇の勢力からの激しい攻撃があることは、周知の通りである。何しろ、その戦いが始まって以来、もはや8年間にもなろうとしているのだ。

神によらない、人間による救済を唱える人々が、このブログを敵視し、根絶しなければ気が済まないというほどの執念を持って追いかけ、逐一因縁をつけ、著者である筆者に対しても、もはや筆者の人生そのものを潰そうと考えているとしか思えない、まさに呪いと言って差し支えない敵意と執念を燃やしている。

考えてみると、彼らが投げつけて来る言葉の一つ一つは、まさに「呪い」としか言いようのないレベルに達している。

だが、筆者が思わず可笑しいと思ってしまうのは、筆者のブログは、最盛期でさえ、一日に50人ほどが読んでいただけの小規模なものであったことである。いや、もっと多くても、100人を超えたことはなかった。さらに筆者自身も、有名な政治家でもなければ、大学教授でもない。牧師でもなければ、指導者でもない。

一体、人生をかけて執念を燃やし、追い続けるほどの価値がどこにあるのだろうかと、思わず首をかしげ、苦笑してしまう。

ところが、暗闇の勢力にとっては実際にそれだけの価値があるのだ。だからこそ、これほど激しく筆者の証しを地上から取り去ろうとしている。この戦いは、人間的な血肉のレベルのものではない、とはっきり分かる。

そこで、筆者は「ほえたけるしし」を捕獲する作戦に出ねばならないと思う。
しかも、ゴリアテに立ち向かったダビデのように、石つぶてだけを持って。

筆者は気楽な性格なので、暗闇の勢力を捕獲するための条件が完全に揃ったことを今まで知らなかった。前々から色んな下調べをしていたのだが、パズルの最後のピースがぴったりはまる時をずっと待っていたのだ。

今は詳細を記すことはしない。どうせまた大言壮語していると思わせておけば良いのだ。肉を切らせて骨を断つ、とでも言うべきか? 

筆者がとても残念に思うのは、キリスト教界の中から今まで誰一人として、この「ほえたけるしし」に敢然と立ち向かう者が出なかったことだ。そればかりか、筆者の知っている立派な年配者のクリスチャンたちは、自分だけは決して厄介な問題に巻き込まれまいと、そそくさとブログをやめたり、非公開にしたり、信仰告白を開かれた場所に発表し続けることをやめて、逃げ去って行ってしまった。

彼らにはきっと、このような激しい妨害に敢然と立ち向かって、神に対する証を立派に守り抜くことは、多分、初めからどうでも良いことだったのだと言わざるを得ない。殉教したクリスチャンの事を涙ながらに語りながら、誰一人として、汚し言を言う口に毅然と立ち向かって口を封じ、神の真理を公然と世に輝かせることをしなかったのだ。

だからこそ、筆者のような人間が、キーパーソンになってしまっているのである。他に立ち向かう者がいないからだ。

だが、証の言葉は、様々な圧迫に屈せず、それに立ち向かって発表し続けていればこそ、価値がある。なぜなら、代価を払って神に従わなければ、その従順には価値がないからだ。

筆者がこれまで払い続けて来た代価については、神ご自身が知っておられる。筆者は人間的な利益や地上的な名誉を捨てても、神に従うことを選んだのであり、これから生きている限り、もそうし続ける。

ブログは、ただそのことの表明なのである。

ある時、筆者のブログを読んで、クリスチャンを名乗っていた人が言った。「あなたの文才は、何か困っている人たちの権利の主張のために用いられるかも知れないわね。たとえば、弁護士を頼めない人たちのために、代理で文書を書くとかね・・・」

それは慈善事業の好きなクリスチャンであった。いつも困った人たちを見つけ出して来ては、かいがいしく世話にいそしんでいる、同情好きな人であった。クリスチャンの中にはそういう人たちがたくさんいる。ホームレス伝道、その他、その他、常に彼らはどこからか自分よりも「困った人たち」を見つけ出して来ては熱心に世話を焼く。社会的弱者への彼らの関心は尽きない。

だが、彼女のその言葉を聞いて、筆者は、何かが違うと強烈に心に違和感を覚えたのを思い出す。そして、今になってもやはり、筆者がブログを書いているのは、そのような目的のためではないと思わずにいられないのだ。

むしろ、筆者が当ブログで何度も訴えて来たのは、彼女の言葉とは正反対のことばかりであった。常に自分よりも弱く、困っていそうな人たちばかりを周りに集めては、しきりに人助けに邁進し、人を教えたがるような人間(信者でなくてもだが)は、誰よりも信用ならない、油断できない偽善者である、ということである。

一見、そういう人々は、とても心優しく、思いやり深く、親切そうな人に見えるかも知れない。だが、神の福音と慈善事業は違うのだ。物質的支援を最優先するこの世の人たちでも十分に可能な人助けと、神の目に見えない御言葉を第一優先とする信仰生活は全く異なる。

キリスト教の中に慈善事業が押し寄せて入り込んで来た結果、クリスチャンの主要な活動は、神の福音伝道ではなくなり、かえって物質的支援に福音を添え物とするような内容に堕落して行って行った。

思い出すが、筆者はかつてある時、教会関係者らによって、横浜のホームレスの街、寿町界隈にある教会に、ホームレス伝道の見学に連れられて行ったことがある。今となっては、名も覚えていない教会であるが、関係者には知られていたようだ。

筆者は、当時、教会指導者たちの仲間の一人として、彼らの客のようにして現場に連れられて行き、初めてホームレス伝道の様子を観察したのであった。

時間になると、公園に舞台が用意され、そこで讃美歌が謳われ、説教が始まる。
数多くのホームレスたちは、いつ教会関係者がやって来て、給食が受けられるかを事前に知っており、どこからともなくぞろぞろ集まって来る。

筆者は、ベンチもない公園のコンクリートの床に、座ったり、立ったまま、讃美歌を聞いているホームレスたちの中に混じって、現場に佇んでいた。

やがて説教が終わり、給食が始まった。ホームレスたちは一人一人列に並び、コンビニの弁当を少しばかり小さくしたような軽食を受け取って自分の場所へ戻って来る。

筆者はその時、ふと自分が空腹であることに気づいた。すると、どういうわけか、ホームレスの一人が、まるで筆者の空腹を察知したかのように、筆者に向かって自分の弁当を差し出したのである。ニコニコ笑って、筆者に自分の弁当をくれると言う。
 
あなたは要らないのか、と筆者が尋ねると、筆者はお客さんだから、もてなしてやりたいのだと言う。構わず食べてくれと勧める。

ホームレスの中にはこういう人たちがいるのだ。もしかしたら、彼はすでにクリスチャンだったのかも知れないが、自分が給食を受け取りに来ているにも関わらず、自分がもらったものに全く無欲かつ無頓着なのである。所有物だとかいう意識はなく、自分がもらったものの価値も分からず、親切心から、それを簡単に人にやってしまったりすることがあるのだ。

ところが、筆者の所有意識のなさは、彼らを上回っていた。筆者は、その時、年配のホームレスが筆者に見せてくれた「親切」や「もてなし」が、単純に嬉しかったので、その給食を受け取ったのである。

すると、その時、教会関係者らは、どんなに奇異の眼差しで筆者を見つめていたことだろう。

彼らは、心の中で、何ということだ、この人は一体何をしにここへやって来たんだろうか、とでも思っていたに違いない様子で、筆者を奇異の眼差しでで振り返っていた。
 
その時の教会関係者らの、鳩が豆鉄砲を食らったとでも言うのか、何とも表現しがたい眼差しを覚えている。

今から思えば、筆者は暗黙のうちに、何かのタブーを踏み越えてしまったに違いなかった。筆者の行動は、「もてなす側」と「もてなされる側」、「救う側」と「救われる側」、「施す側」と「施される側」との関係性を逆転するものだったのだ。
 
筆者は教会関係者と一緒に、伝道の有様を見学するためにやって来たのだから、筆者はあくまで「施す側」に立っているはずであった。筆者の空腹を満たすことなどは、もとより見学の目的ではない。それなのに、教会関係者が、突如、ホームレスに「もてなされ」、「施される側」に回ってしまったのだ…。
 
筆者は、ただホームレスの「親切」を喜んで受けただけだったのだが、そのようにして差し出された弁当を一口食べた途端、瞬時にすべてを理解した。

そこでホームレスの置かれている状況が、どんなものであるか、ホームレス伝道とは何であるか、その実態が、筆者に突如、鮮明に理解できたのである。

それは、筆者が自分自身も、ホームレスの一人のようになって、彼らと同じ目線で、彼らと同じ立場で、その給食を受け取って食べなければ、決して分からなかったであろう感覚であった。

一言で言えば、その給食を口にした途端、ものすごい侘しさと惨めさが体を吹き抜けて行ったのである。

椅子もテーブルもない公園で、知り合いも友達もおらず、当然、家族などの語り合える身内も誰一人いない中、まるでエサを求めて集まって来る鳩のように、ホームレスばかりの群れの中で、コンクリートの床に、立ったまま、もしくは、座って、慌ただしく弁当を食べる。

しかも、短い伝道集会が終わらないうちに、早く食べ終えなければならない。

こうして、ただ食べ物にありつくためだけに、お約束事のように、時間になると、ぞろぞろと公園にやって来ては、囚人のように配給の列に並び、上からのありがたい親切としての給食を受け取る。当然、その食事と引き換えに、牧師のありがたい説教にも耳を傾け、讃美歌も歌わねばならない。すべてはお約束事だ。

そういう事柄を、この人たちは、食べ物をもらっているのだから当然だと思って、受け入れているのかも知れない。多分、全く疑問を持たないのだろう。

だが、筆者の心には、何ということだという思いがこみ上げて来た。こうして、食べ物とワンセットになった福音、自由意志によって、人が自ら探求するのではなく、人々の弱さを利用して、有無を言わさず、上から与えられ、受け取らざるを得ないように用意された福音に、やるせなさとむなしさが込み上げ、さらに、何とも言えない寂しさと侘しさしが感じられない食事に、失望がこみあげて来た。

もしこれを「伝道」だ「支援」だと本当に思っているならば、そんなものは、クリスチャンの側からの自己満足でしかないだろう。
 
だが、筆者は、客として案内してもらっている立場なので、そのような思いを表に出すわけにも行かず、違和感を心の中にしまい込んだ。

それから次に、教会に連れて行かれ、そこで回心した元ホームレスの「証(あかし)」を聞かされた。

筆者はそれを聞いていると、ますます耐えられない思いになって、逃げ出すように部屋をそっと何度も抜け出た。なぜかと言えば、それは到底、元ホームレス自身が、自らの言葉で語っているとは、思えないような不自然に出来すぎた「あかし」だったからだ。

もっとはっきり言ってしまえば、その証は、「ホームレス伝道の稀有な成功事例」を来賓にアピールすることを目的として用意されたことが、あまりにも明白だったのである。

ホームレスになるような人々には、概して、それほど高い教養を受けた人々はいない。何事であれ、自分自身の言葉で、立て板に水のように、流暢かつ論理的に話すことのできる人は少なく、まして、幼い頃からの信者でもないのに、信仰の証など簡単に語れるはずがない。なのに、その回心した元ホームレスは、型通りの「立派な証」を語っている。

筆者には、それがすべて予め準備された「舞台」のようなものだと分かってしまった。しかも、その内容は、よく聞いてみれば、回心する前、いかに彼が罪深く、堕落した人間であったか、いかに地獄へ堕ちて当然の人間が、教会によって助けられたことが、ありがたい奇跡であったか、いかに今後は心を入れ替えて、真人間になって、伝道に邁進するか…などと言った、まさに定番と言って良い内容で、要するに、過去の自分自身を貶めることで自分を助けてくれた教会を持ち上げ、教会に感謝し、牧師に感謝し、人間に栄光を帰しながら、これからはクリスチャンとして、牧師の望むような人生を「まっとうに」生きて行くと述べた回心の証であった。

しかも、元ホームレスということで、その証には、過去の罪に対する反省が、通常のクリスチャンよりも、とりわけ熱心にちりばめられていた。だが、筆者には、そのような証は、彼が自分で考え出したとは到底、思えず、ただ牧師から教えられたことを、そのまま受け売りして、それが正しいと信じ込んで語っているのだとしか思えなかったのである。おそらく、疑うことさえできずに…。
 
筆者には、元ホームレスが、教会と出会う前の自分の人生が、どんなに悪く、悲惨で、滅びに向かっているだけの、目も当てられないものであったか、ということを、繰り返し語るのを聞きながら、「もうやめて下さい、これ以上、謝らないで下さい!」と言いたい思いに駆られた。

「あなたの罪はすでに赦されたんじゃありませんか。神は『緋のように赤くても、雪のように白くなる』とおっしゃっているじゃありませんか。福音とはそういうものですよ。あなたの罪は赦されたんですから、もうそんな風に、過去のことを何度も何度も思い出しては、人前に自分を責め、貶めながら、懺悔し反省し続けることは、あなたには必要ないんです!」

思わずそう言いたくなったが、ぐっとこらえた。だが、その証を聞いていることは、まるで捏造された裁判で、無理矢理自白を強要させられ、懺悔を迫られた囚人の証言を見せつけられているようで、耐えがたい思いになるだけだったので、筆者は黙ってその部屋を抜け出した。

指導者たちは、まるで模範的な「回心事例」だとでも言うかのように、満足そうに頷きながら、その証を聞いている。拒否反応を覚えた者は誰もいないらしかった。

筆者はその部屋をそっと抜け出して、元ホームレスのクリスチャンたちが共同生活を送っているという部屋に行こうとして、廊下に出た。公園にいた時のように、ざっくばらんに、率直に語り合ってみようかと思ったのだ。

だが、筆者が廊下から扉のノブに手をかけた瞬間、ガチャリと音がして、中から鍵が閉められた。何一つ予告の言葉もなしに、筆者が扉の外までやって来たことを察知した途端、中から鍵が閉められたのである。むろん、鍵をかけたのは、元ホームレスの信徒ではなく、教会関係者の誰かであった。
 
まるで共産国を旅していて、自由に写真を撮ろうとして、警官に呼び止められた旅行者のような気分であった。その時、筆者は、ああ、ここは筆者には立ち入ってはいけない場所だったのだな、と分かったが、それと同時に、筆者がこれまで見せられたすべての風景は、来賓のために用意された「見せ物」だったことが分かった。
 
筆者は、それまで見て来たものが完全に「舞台」であることを理解したのだった。

もちろん、寿町が近ければ、色々と物騒な事件も起きる。ヤクザの抗争などもあれば、死体が見つかったりもするという。だから、そういうところにある教会が、初めてやって来た人にすべてを見せるというわけにはいかないのは当然ながら理解できる。

だが、その時、筆者が感じた違和感は、そういう種類のものではなかったのである。

その伝道現場を後にする頃には、筆者は「作られた結構づくめの人工的な雰囲気」に調子を合わせることに、すっかり疲れ、参ってしまっていた。

どんなに美しい風景であっても、それが不自然で人工的な統制のもとに、人の自由を奪い取って成り立ったものだと分かれば、げんなりしてしまう。

筆者は、帰りがけに、そこに連れて行ってくれた教会指導者に向かい、「こんな伝道は伝道ではないと思います」と率直に感想を述べた。今となっては明確に再現できないが、多分、次のような内容を伝えたものと思う。

「これでは、伝道というより、ただ彼らの無知と弱さを利用して、自分たちの思い通りの型にはめて、それでこの人々は回心した、再教育が成功した、と思い込んでいるだけです。全然、彼ら一人一人の人格を取り戻したり、自由に生きさせるどころか、まるでみんなコピーみたいに、教会の付属物にしてしまっているだけじゃありませんか。

食事だって、あんな侘しい食事では、人としての尊厳を取り戻したことにはならないでしょう。なのに、こんな食事で、彼らを助けてやっているとか、必要なものを与えてあげていると思っているなんて、驕りもいいところです。それはまだ許せるとしても、それと引き換えに福音を押しつけるなんて…。

これじゃあ、地上の食事を餌にして、彼らをおびき寄せ、福音の名のもとに、かえって彼らを束縛し、自由から遠ざけながら、パンと引き換えに、自分の信念を押しつけているだけではないでしょうか。人の弱みにつけ込んで説教を聞かせていることにしかならないでしょう? しかも、あの人たちには、教えられた内容を自分で疑ってみる力もなく、吟味することもできないのだとしたら、人の弱さと引き換えに、そういう形で福音を受け入れさせるのは、フェアじゃないと思います…」
 
筆者はこうして「ホームレス伝道」なるものは、自分には決して賛成できない、という感想を述べた。ホームレス伝道への案内をしてもらうことは、筆者のリクエストで始まったことではなかったので、義理立てせずに、感想を言うことくらいのことはできた。

だが、その指導者は、筆者が何を言っているのか、全く分からないらしかった。怪訝そうな顔をして肩をすくめ、一体、あの素晴らしい伝道の何がそんなにまでいけなく、不満なのか、彼らは至極善良なことをしているだけなのに…、という面持ちで、筆者を見るだけであった。今から考えれば、当然なのだ、この人も指導者だったのだから。この人の会衆はホームレスではなかったにせよ、この人も、結局は、講壇に立って、自分も会衆に全く同じことをしているのだ。どうしてそのような伝道のあり方を自ら疑うことができようか。

話を最初に戻そう。他者の考えはともかく、筆者は、以上のような弱者救済事業が、教会の主要な活動であるとは、今になっても全く考えていない。さらに、筆者自身も、自分の言葉を、決して貧しい人たちへの物質的支援を生み出すための道具とするつもりもない。
 
世間には、未だに筆者がこのブログを「人の歓心を買うため」、「人に受け入れられるため」、「人間に奉仕するため」に書いていると誤解している人がいるようだが、事実は全くそうではないのだ。「人助け」という美名の下、生まれながらの人間の利益に奉仕することを目的としてこのブログを書くつもりは筆者にはなく、人との関わりを目的として書いているわけでも全くない。

筆者がブログを書く理由は、人の心を掴むためではなく、神の歓心を得るためであり、人間の利益のためでなく、神の利益のためであり、教会と呼ばれている人間の作った地上の集団を賛美するためではなく、ただ神を見上げ、自ら信仰に立って生きるためなのだ。

クリスチャンは他者などを助けている場合ではない、と筆者は思う。自分が他者を助けられると思うこと自体が、一種の思い上がりであり、高慢であると言って良い。他人の人生に干渉するよりも前に、まずは自分自身がしっかり御言葉に立ち、神をしっかり見上げて、失格者になることなく歩むことに専念した方が良い。

さらに、筆者がこのブログを書くのは、血肉によらない、霊的な戦いのためである。この戦いの中で、自分の立ち位置をはっきりさせるためである。

天と地の前で、筆者が一体、誰の権益を守るためにここに立っているのかを、はっきりさせるために書いているのである。

筆者が守ろうとしている権益とは、地上の滅びゆく生まれながらの人間の権益ではないのだ。
 
ある人々には、こうした事柄が全く理解できない。彼らには、貧しい人たちが物質的な利益を得るのを支援するために文章を書くことならば、いくらでも理解できるし、賞賛もできようが、血肉によらない霊的な戦いで勝利を得るために、神と悪魔の前で、キリスト者が霊的な主張文を書くことの意味が、全く分からないのだ。

こうした過程で、筆者は、ますます生まれながらの人間のサイドを離れなければならないと思うようになった。

この度、筆者は二つの主張を提起するつもりでいるが、多分、それは生まれながらの人間にとっては、今まで以上に厳しい、聞きたくもない内容となろう。そして、それを機に、筆者は、すべての地上の人間に対する未練や執着を断ち切り、旧創造への一切の憐れみとしらがみを断ち切り、今までよりもさらに一層、地上の人間の仲間としてではなく、ただキリストによって上から生まれた人間として、新しい人間として、生まれながらの人間のそばから離れて生きるだろうと思う。
 
筆者はこうして、人間でありながら、人間自身の利益を守るためではなく、神の利益を守るために、御国の権益の側に立つのである。それは、かつて旧約聖書において、レビ人が、神を裏切った兄弟たちを剣にかけて殺してでも、ただ神の側だけに立ったがゆえに、祭司にふさわしい種族として認められたのと同じである。

クリスチャンとは、世から贖い出された者、世から聖別され、神のために召し出された者、神を満足させるために、生まれながらの人間の中から、贖い出され、取り分けられた者である。世から分離され、神に聖別されたという特徴を失っては、もはや神の民とは呼べない。

そこで、筆者は、人間の利益を守ること、人間の感情に寄り添うこと、人間の歓心や理解を得ることを第一として生きるつもりは今もこれからもなく、それよりも、聖書の神が何を第一に求めておられ、神が何を人間に要求しておられるかの方を、はるかに優先事項として生きる。

そうして信仰によって歩む過程で、生まれながらの人間が、筆者から離反し、むしろ、敵対する側に回って行ったとしても、それは当然のことであり、皇帝ネロの時代にクリスチャンたちが迫害を受けたのも、まさにそういう理由からなのである。

肉に従って歩んでいる者は、霊の事柄をわきまえることはできず、霊の事柄に激しく敵対する。そういう中で、我々は、生まれながらの人類の側に立つのか、それとも、これと分離して、神の側に立ち、神によって生まれた新しい人類の側に立つのか、その選択を迫られているのである。

人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方とすべきです。
「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、裁きを受けるとき、勝利を得られる
と書いてあるとおりです。」(ローマ3:4)

これまで筆者は生まれながらの「人類」に対する必要のない憐れみを持ちすぎたのだと思っている。それは筆者の人間的な感情であり、地上の出自から来る、習慣的な思いであった。

だが、その「旧創造への憐れみ」を、今、ここで、レビ人の剣にかけて絶ち滅ぼし、かつて自分の兄弟姉妹と思われたものでも、神の御心にかなわないならば、それにきっぱりと背を向けよう。

筆者の「兄弟姉妹」とは、神の御心を行い、神の御言葉に従って生きる人々のことであり、それ以外の人々を指すのではない。それ以外の人々は、肉にある親族であれ、あるいはこの世の友人・知人であれ、あるいはクリスチャンを名乗っている人々であっても、「兄弟姉妹」ではないのだ。従って、その人々に筆者が義理立てしなければならない一切の理由はない。

もし家族でないのに、まるで家族の一員のような顔をして家に乗り込み、俺の言うことを聞けと命令して来る人間がいたとすれば、それは強盗や、詐欺師や、殺人者だけである。

なぜ、クリスチャンが、そのような者の顔色を伺い、彼らの命令に従い、彼らが自分の家の居間やリビングを泥靴で荒らしまわっても、ただ優しく「やめて下さいませんか」と懇願するだけで、この人々が一向に出て行かないのを見ながら、彼らが捕えられてしかるべき場所へ連行されるために必要な措置を何も講じないのか。

そのようなものは「愛」とも「憐れみ」とも呼べない。「愛」や「憐れみ」は神の家族に対して向けられるべきであって、このような狼藉者に対して向けられるべきものではない。

にも関わらず、キリスト教界はあまりにも深くこの世と結びついて、世の歓心を買うことを第一にしてしまったので、こうした者たちが単なる狼藉者であって、教会の一員ではなく、そもそも教会について論じる資格などなく、まして教会に手を触れる資格などなく、彼らはただ人里に降りて餌を探し回る獣のように、クリスチャンを獲物として教会を荒らしまわっているだけで、野獣のように捕獲されてふさわしい扱いを受けるのが当然であることをすら、公然と主張することができなくなってしまっているのだ。

このような有様だから、筆者以外には、誰も動こうとする者もないであろう。

それでも構わない。むしろ、それだからこそ、この仕事に意味があるのだと言える。筆者は霊の剣である御言葉を取り、神の聖なる神殿を守るために毅然と立ち上がり、そして、主イエスが商売人たちを憤りを持って宮から駆逐されたように、神の宮を泥靴で荒らしまわる狼藉者を排除し、駆逐する。

そうして、聖なるものと、俗なるものとの区別を明白にし、何が神の宮であるか、その境界をはっきりさせて、自分が神に選ばれ、神の目に義と認められた「信仰による義人」であることをはっきりさせる。神が義とされた以上、筆者を罪定めできる人間は誰もおらず、罵ることができる人間もいない。御国の秩序がこの世の秩序に優ることが公然と世に示されねばならない。
 
筆者は、神が義とされた以外のものを決して宮の中に持ち込むことはしない。

このことが、神の御心にかなうことだと確信するがゆえに、筆者はそうするのである。神は教会の聖を愛しておられ、ご自分の聖なる性質が教会の中に保たれることを何より願っておられるはずだと思わずにいられない。
 
そのために筆者は誰とも提携せず、この作業を神と筆者との二人三脚で行う。エリヤが450人のバアルの預言者の前に立ったとき、見た目には、誰一人として、エリヤに神がついておられると思う者はなかったであろう。450人のバアルの預言者に真理があるように見えていたに違いない。奴隷になったサムソンが神殿に手をかけた時、人々はサムソンは疲れているだけであると考え、彼のやろうとしていることがたとえ分かったとしても、世迷いごとだとしか思わなかっただろう。

だが、悪魔がこれほど激しくクリスチャンを糾弾するのは、実際には、クリスチャンこそ、悪魔を神に訴える資格を持っているからなのである。そして、我々の訴えは永遠性を持つほどに強力である。世はクリスチャンのさばきの下にすでに罪に定められている。我々は御名によって手にしている絶大な権限をきちんと行使すべきである。

前々から述べているように、もしも「兄弟姉妹」に対して接する場合ならば、それは教会の事柄として扱うのが当然であるから、この世に持ち出すべきではないだろう。だが、「兄弟姉妹」でない人々にまで、教会の方法を通して近づく必要はない。彼らに適用されるのは、この世の諸手続きだけで十分である。彼らには、天の国籍、天の市民であることよりも、地上の市民であることの方が大切なのだから、彼らの流儀で応答すれば良いだけである。

あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとべリアルに何の調和がありますか。信仰と不信仰にどんな一致がありますか。

わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。

「『わたしたちは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せになる。
 「そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。
 全能の主はこう仰せられる。」
 

愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」(Ⅱコリント6:14-7:1)

アーメンである。神の子供たちが自ら汚れた者に触れないのは当然だが、それでも汚れた者が神の宮に侵入して、神の子供たちに手をかけようとするならば、その者が追い払わるのは当然である。もし神の宮を自称しながら、そうしない者があるなら、その者は自分自身が神の宮であることを自ら否定して世に同化しているも同然であろう。

悪魔には毅然と立ち向かいさえすれば、必ず、逃げ去って行く。暗闇の勢力は、兄弟たちの振りかざす小羊の血と、証の言葉によって、天から投げ落とされる。ただし、その代わり、地は悲惨なことになるかも知れない。なぜなら、暗闇の勢力はまた別な獲物を求めて、地に下って行くだけだからである。「ほえたけるしし」と我が身を公然と分離しようとしない者は災いである。


十字架の死と復活の原則ー地上の実りなき死んだ労働を離れて、天に永遠の収穫をもたらす労働に生きる(2)ー

「主のほかに神はない。
神のほかに我らの岩はない。
神はわたしに力を帯びさせ
わたしの道を完全にし
わたしの足を鹿のように速くし
高いところに立たせ
手に戦いの技を教え腕に青銅の弓を引く力を帯びさせてくださる。

あなたは救いの盾をわたしに授け
右の御手で支えてくださる。
あなたは、自ら降り
わたしを強い者としてくださる。

わたしの足は大きく踏み出し
くるぶしはよろめくことがない。
敵を追い、敵に追いつき
滅ぼすまで引き返さず
彼らを打ち、再び立つことを許さない。
彼らはわたしの足もとに倒れ伏す。

あなたは戦う力をわたしに帯びさせ
刃向う者を屈服させ
敵の首筋を踏ませてくださる。
わたしを憎む者をわたしは滅ぼす。

彼らは叫ぶが、助ける者は現れず、
主に向かって叫んでも答えはない。
わたしは彼らを風の前の塵と見なし
野の土くれのようにむなしいものとする。

あなたはわたしを民の争いから解き放ち
国々の頭としてくださる。
わたしの知らぬ民もわたしに仕え
わたしのことを耳にしてわたしに聞き従い
敵の民は憐れみを乞う。
敵の民は力を失い、おののいて砦を出る。

主は命の神。
わたしの岩をたたえよ。
わたしの救いの神をあがめよ。
わたしのために報復してくださる神よ
諸国の民をわたしに従わせてください。
敵からわたしを救い
刃向う者よりも高く上げ
不法の者から助け出してください。

主よ、国々の中で
わたしはあなたに感謝をささげ
御名をほめ歌う。

主は勝利を与えて王を大いなる者とし
油注がれた人を、ダビデとその子孫を
とこしえまで
慈しみのうちにおかれる。」(詩編第18篇32-51)

快適な環境で秋を待つ。夏祭りのシーズンには、例年には見えなかった花火を窓から楽しみ、夜になると虫の音が耳に心地よい。わずか数日間の風邪が去った後には、いつものように、ショパンのソナタを最後の楽章まで弾き通すことができるほどに体力が回復した。疲れた足腰も元気を取り戻し、少しの間触れていなかったヴァイオリンの再開も間近である。

筆者にとって、土曜日、日曜日は、信仰によるエネルギー・チャージの時間である。日曜日は何もしないという意味での安息日ではなく、むしろ、神の御心を行う日である。当然ながら、この日には特に念入りに戦いの準備に余念がない。

戦いと言っても、具体的にそれが何を指すのかを詳しく記せないことも多いが、この不法のはびこる地上にあって、キリスト者の人生は絶えざる戦いの連続である。

筆者がこれまでに通り抜けて来た戦いは実に数多く、あざける者たち、嘘つき、悪党、ならず者、不法者、自己愛者、異端者など、終わりの時代に登場する神に敵対する者たちの名称は尽きない。しかし、たとえ彼らが大群となって遅いかかって来たとしても、信者にはかなわない。敵がどれほどの言いがかりをつけようとも、信者はこれに御言葉をもって立ち向かい、勝利をおさめることができる。その勝利とは、信者自身の力ではなく、キリストの血によるものなのである。

私たちは、生きているうちに様々な悪に遭遇する。しかし、悪を放っておかず、黙って犠牲者になることもせず、きちんと敵の罠を見抜いて、毅然と立ち向かいさえすれば、勝利をおさめるのはそう難しいことではない。この戦いは、この世の権力や武器を用いるものではなく、無駄な非難の応酬や、終わりなき報復合戦を意味するのでもない。ただ公然と御言葉を掲げ、御言葉に従い、真実に生き、正義を曲げずに主張し続けることによる。

信者が邪悪な日に、一歩も退かずに御言葉に基づいて公然と正義を主張し続けるだけで、悪が恐れおののいて敗退することを知っている人は少ないだろう。信者の中にも、そのような戦いを実際に経験して来た人は少なく、ほとんどの人は、そのようなことをしても無駄だと最初からあきらめている。だが、そうではないことを筆者は何度も試し、自ら経験して来たのである。

こうした戦いの末に、筆者の力はますます磨かれて、冒頭で引用したダビデの詩編のように、熟練した兵士のようになりつつある。
 
このようなことを筆者が言うと、たちまち気分を害する「信者」たちがいるかも知れない。そのような人たちは、筆者が不遜におごり高ぶって自慢話に興じているだけで、悪魔との戦いなど、しょせんカルト信者の妄想や戯言に過ぎないと言ってあざ笑う。

余談かも知れないが、キリスト者を名乗っている人々の中には、悪魔との戦いというテーマそのものに拒否反応を示す一群もいる。だが、その人たちが、一体、なぜこのテーマを毛嫌いし、拒否反応を示すのか、理由をよくよく調べて行くと、彼らは結局のところ、自分たちを神に属する信仰による義人ではなく、むしろ悪魔の一味のようにみなし、悪魔が攻撃される度に、自分の後ろ暗さが暴かれるように感じて、自分と悪魔を一緒にかばおうと、このテーマ自体を封印しにかかっているのだということが分かって来る。

こういう「信者」たちは、筆者のような信者が本気で御言葉に基づき、悪魔の嘘に対抗するために、悪の軍勢に宣戦布告する言葉を聞くと、一体、どういうわけか、居ても立ってもいられない気持ちになって、悪魔の嘘や悪事が暴かれることを何とかして阻もうと、憎しみを燃やして信者を攻撃にしにかかって来るのである。

彼らは、悪魔に立ち向かうなど、気が触れたカルト信者の言い分だとあざ笑うだけでは足りず、それをまるで「自分たちに対する攻撃」であるかのようにみなして、「自分たちは被害を受けた」などと言って絡んで来ることさえある。

当ブログの古くからの読者は、このような愚かしい事態が実際に幾度も起きてている事実であることをよく知っているであろう。そのような信者とも思えぬ「(自称)信者」の中には、稀にではあるが、本当に自分自身を悪魔と同一視して、悪魔への宣戦布告を、自分自身に対する宣戦布告と受け止める「自称クリスチャン」さえいる始末だ。

一体、どこをどうすれば、聖書の神を信じているはずの「クリスチャン」が、そのような考えに至るのか、ただ首をかしげるばかりである。その信者は教会生活で何を学んだのだろうか。そんなヘンテコかつ異常な信念を「信者」に植えつける教会があるのだとすれば、それは限りなくおかしな団体としか言いようがない。
 
そのような「信者」たちが、見ず知らずの通りすがりの存在であればまだ良いのだが、最も激しい拒否反応が、筆者を身近で見て知っている「自称信者」から来る場合もないとは言えない。預言者は故郷では敬われないと言うが、筆者の人物を実際に目で見て知っており、筆者の外見の平凡さや弱々しさゆえに、常日頃から筆者を取るに足りない人間と決めつけて、心の中で見下げていたような人々が、筆者が「悪魔に立ち向かう」というテーマを大胆に語っているのを聞くと、「あんな小娘ごときが、何を思い上がって、自分を何様だと己惚れているのだ。一つ思い知らせてやろう」などといわれなき憎しみに駆られて、かつての仲間を売り渡したり、裏切ったり、攻撃する側に回るということも起きるのである。

筆者はそういう対立の背後には、霊的な理由が存在することを疑わない。クリスチャンの信仰生活は、この点でとても厳しいものである。誰かがあなたに近づいて来て、「私はあなたの友ですよ」とか「助力者です」とか「信仰仲間です」と親しげにささやいても、その言葉を、むやみに信じるわけにはいかないのだ。こういう人々を仲間だと誤解すれば、やがてしたたかに裏切られるだけである。

クリスチャン生活では、誰かと相性が良いからとか、年齢が近いからとか、境遇が似ているとか、見た目が好ましいとかいった理由で、他人と徒党を組んで進んで行くことはできない。自分の好みで仲間を選別することができない。他者と信頼が築けるかどうかは、その人が神に対して、御言葉に対して、どのくらい忠実に歩んでいるかによってしか判断できない。どんなに人柄がよく、外見が麗しく、人物像が好みに合致していても、神に従わず、御言葉に忠実でない人間をそばに近づけると、災いが降りかかるだけである。

さて、話を戻せば、そもそも聖書の神を信じると告白している信者でありながら、クリスチャンの信仰生活が絶えざる戦いであることを否定するような者は、聖書が次のように告げている御言葉そのものを無視しているのだ。

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身につけなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。

だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

立って、真理の帯を腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。・・・」(エフェソ6:10-17)

これまで幾度となく述べて来たように、クリスチャンの戦いは、霊的な論戦であって、目に見える誰かを力によって打倒することが目的ではない。それはディベートのような、主張と主張のぶつかり合いであり、聖書の神に敵対する者たちが、この世の様々な人間や事象を操りながら、信者たちにぶつけてくる、ありとあらゆる支離滅裂で嘘に満ちた言いがかりに対して、信者が確固として御言葉に立脚して応戦し、キリストの贖いゆえの自身の潔白と、敵に対するキリストの勝利、神が敵に定められた地獄の刑罰を主張して、敵の屁理屈を打ち破り、これを粉砕して、退け、その言いがかりを無効化することが、信者の勝利なのである。

この戦いにおいて、御言葉が剣のような武器になることが、はっきりと聖書に示されている。我々信じる者たちは、聖書の御言葉を揺るぎない正しい理屈として握りしめ、この理屈を用いて敵の嘘に満ちた屁理屈を論破するのである。まさに硬い岩盤をドリルで粉砕するように、御言葉を鋭い剣のように貫き通すことによって、分厚い層のように積みあがった敵の嘘を破壊し、木っ端みじんに打ち砕くのである。ダイヤモンドとガラスでは勝負にならないように、御言葉の強度の前に、嘘は敗北して道を譲らないわけにいかない。

以下の御言葉の中では、悪の軍勢との間に繰り広げられるこの激しい論戦の中で、信者は、御言葉を駆使することによって、敵の要塞をも打ち砕くことができることが示されている。

「わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞をも破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(ニコリント10:3-6)
 
以上の御言葉から分かるのは、敵の使う武器にも色々種類があって、単なる屁理屈や、こじつけ、論理のすり替え、ごまかし、歪曲、捏造、隠蔽などの単純工作から始まって、分厚い壁のように積みあがった嘘、バリケードのように堆積した嘘、ついには要塞のように塗り固められた嘘なども存在するということである。

敵の「要塞」とは、単なる屁理屈の域を超えた、もはや「思想の領域に入った嘘」とでも言うべきものである。嘘の中でもとりわけ洗練されて完成された嘘(嘘に完成というものがあるとすればの話だが)、端的には、偽りの思想そのものであると筆者は考えている。

そのように敵の要塞と呼ぶにふさわしい偽りの思想こそ、太古から存在するグノーシス主義なのであり、それは元を辿れば、最初の人類アダムとエバに、サタンが蛇の姿を取って吹き込もうとした「神の知恵に逆らう高慢な偽りの知恵」そのものである。

聖書の御言葉は、このような悪の要塞と化した偽りの思想を、完全に論破し、破壊することができる。御言葉はその意味で「世界最強の武器」である。我々はこの最強の理屈で理論武装することによって、敵に対峙し、敵の嘘、敵の罠を見抜き、これを退け、粉砕するのである。

クリスチャンたちがこの戦いに熟練して完全な者とされ、(クリスチャンの目に見えない集合体としての)教会が、完全に御言葉に従順な者とされる時に、この恵みの時代が終わり、敵の高慢な思想に従う不従順な者たちがいよいよ本格的に罰せられる最後の時が訪れるのである。

しかしながら、すでに述べたように、このような激しい論戦にとりわけ嫌悪を示す者たちがいる。中には、クリスチャンでありながら、「悪魔に立ち向かう」というテーマの一切をカルト思想と決めつけ、耳を塞ぐ者もいる。そのような人々は、まさに敵の思想に従っていればこそ、このテーマに激しい拒否反応や嫌悪感を示すのである。

東洋思想には、理屈対理屈の勝負によって、物事の是非をはっきりさせることを非常に嫌う性質がある。東洋世界においては、物事の是非を究極まで追求すること自体が、まるで悪なる所業であって、「和」の精神に逆らう、「和」を乱す悪い行為であるかのようにみなされる傾向が強い。

この「和」という正体不明の言葉によく表れているように、東洋世界では、すべての物事を曖昧にしたまま、誰をも罪に定めず、誰にとっても脅威とならないような、人に優しく無難な結論を出すことで、「すべてを丸くおさめる」ことこそ、人間の美徳であって、正しい行ないであるかのように奨励される。

このように、物事の白黒をつけることを嫌い、善と悪をごちゃまぜにして、事の是非を曖昧にしたまま、ただ波風立てずに話をおさめることを至高の解決方法とするような、性善説に基づく「和」の精神が土台にあってこそ、我が国では、今になっても、学校ぐるみでいじめが隠蔽されたり、企業が内部告発者に不当な制裁を加えたり、社会の中で悪事を糾弾して真相を究明しようとする人間が、集団的に排斥されて、かえって濡れ衣を着せられたりする伝統があるのだと言える。

このようなことは、ただ単に悪事を暴かれては困る人間たちが、自己の保身や報復のために行っている行為であるばかりではない。そもそも、東洋思想が、人間の罪や悪というものを認めず、物事の是非をはっきりさせること自体を「波風立てる行為」「和を乱す行為」とみなして、空気に従って物事を丸くおさめることを至上の価値としているがゆえに、このような思想的・文化的土壌で育てられた人間は、無意識のうちにそれに従って、善悪を切り分ける人間を悪者扱いして、闇に葬ろうとする衝動に駆られるのである。

このような東洋思想の「和」の精神の忌まわしさが、究極の形で現れたのが、我が国の軍国主義の時代であった。そこでは偽りの概念である「和」の実現を名目として、社会に隣組が形成され、国民同士が監視し合い、密告し合い、天皇崇拝や戦争へ協力しない国民は「非国民」として排斥され、村八分にされ、投獄され、殺されたのである。

このように、見かけは情緒的で美しい「和」の精神は、その大義名分のもとで、この精神に従わない人間を暴力によって社会から排斥し、殺しさえして来た。このような非道な暴力を駆使して打ち立てられる「和」が、その言葉の通り美しいものであるはずがなく、恐ろしい嘘に過ぎないことは、今日、誰の目にも明白である。

我が国は戦争に負け、東洋思想の嘘は暴かれ、我が国が理想のごとく唱えていた「和」の精神も、幻想として崩れ去った。東洋思想が西洋思想に対して、とりわけキリスト教に対して、何ら優位性も持つものではなく、人類の理想にもなり得ない事実が公然と明らかになったはずであった。それにも関わらず、今になっても、大蛇のごとく、すべての理屈を絡め取って曖昧化しながら丸ごと飲み込んで行く、あるいはすべてを丸呑みして腹の中におさめてしまう巨大な子宮のような、この得体の知れない「和」の精神は、我が国では未だに健在であり、それがゆえに、この国では未だに、物事の真相を暴き、何が悪であり、何が善であるかをはっきりさせようとすること自体がタブー視され、そのようなことに着手する人間は、有形無形の暴力にさらされ、あらぬ罪を着せられ、排斥され続けているのである。

こうした文脈で、上記したように、「神に従い、悪魔に立ち向かう」という聖書の御言葉を持ち出すだけでも、「信者」を名乗る人々が拒否反応を示すことがあり得る。それはクリスチャンを名乗る人々の中にも、東洋思想が浸透していることの何よりの証である。

クリスチャンが聖書に記されている「血肉によるものではない」霊的な戦いがれっきとして存在することや、この戦いの重要性をきちんと理解するためには、まず日本人(を含む東洋人)の目を鱗のように覆っている東洋思想のバイアスを取り払わなければならないと筆者は思う。

東洋世界の価値観は、聖書と真逆であり、聖書では善悪の切り分けはとりわけ受容であるが、東洋世界においては、「理屈を駆使して、人の嘘を暴き、悪事を立証しようとする行為」自体が、非常な高慢であり、悪でさえあるかのようにみなされている。また、東洋人には、ことに女性が理屈を振りかざして男性を論破することを非常に嫌う傾向がある。

だが、こうした傾向は、結局、東洋思想の「和」というものが、弱者を強者に従わせ、強者の罪を覆い隠して正当化するための都合の良い目隠しの役割を果たしていることをよく表している。「和」というのは、結局、権力者の罪が暴かれないための、また、弱者たちが搾取や不法に気づいてそこから抜け出さないようにするための都合の良いマインドコントロールの仕組みなのである。

東洋思想の「和」の精神は、よくよく見れば、結局、社会の強者だけに都合よく作られていることが分かるであろう。弱い者には黙って強い者に従うことを求め、間違っても、弱者が強者の誤りを指摘したり、これを暴露して、強者に恥をかかせるなどという「不遜な考え」を持つことを許さず、そんなことを試みる者は間違いなく村八分になるとほのめかす、暗黙の脅しに満ちた思想である。

この思想が、一体、何のために、物事の是非をはっきりさせることを嫌うのかと言えば、結局、それは強い者たちによる横暴を見逃し、弱い者が強者の支配から抜け出ることを阻止するためである。つまり、人をいついつまでも奴隷のままにしておくためにこそ、この思想は、人間一人一人が自分自身の力で善悪を判断し、それを明るみに出すことを嫌うのである。

こうして、「和」の精神は、世間に波風立てないことを至高の価値とすることによって、人間一人一人の内側に確固として存在する善悪の判断(良心の声)を眠らせ、ただ時の権力者の言い分に黙って逆らわずに従うように促しながら、強者による悪事を隠し、弱肉強食を正当化する偽りの美徳、偽りの思想である。

筆者はここで弱者救済を唱えているわけでも、フェミニズムを推奨しているわけでもない。ただ、物事の是非や善悪を自ら判断する力は、男女や年齢を問わず、すべての人間に備わっているものであって、それは人の人生の方向性を決めて行くコンパスのようなものであり、自分の良心の声を眠らせて、これを放棄して、他人に判断を委ねてしまうなら、その時点で、人は自分の人生の自立と自由を失って、他人の支配下に置かれるのだと警告しているのである。

何が正しく、何が間違っているのかを、人の言い分に流されずに、自分自身で判断し、自己の生き方を決めて行く力は、人間の自由と尊厳とに密接に関わっている。この力(自主性、自己決定権)を奪われると、人は他人の思うがままに操られ、利用され、欺かれ、人生を犠牲にする結果にしかならないのである。

従って、私たちは、決して「和」などという表面的な美辞麗句に踊らされることなく、はっきりと物事の真相を見て、「和」という偽りのスローガンの向こうにある忌まわしい実態を見なければならない。こんな屁理屈のために、善悪を判断する力を少しでも鈍らせたり、眠らせたりしてはならない。

善悪を切り分け、見抜く力は、人が自由になるために欠かせないものであり、他人の奴隷となって犠牲者とされないためには、この判断力を眠らせて放棄させようとする一切の悪しきマインドコントロールを打ち破らなければならない。

先の記事でも書いた通り、筆者は、「和をもって貴しとなす」という考えは、東洋思想に基づく非聖書的な、悪魔的な思想であると考えている。「和」とは、実際には実在するはずのない、悪魔の嘘なのであるが、もっと踏み込んで言えば、それはバベルの塔にまで遡る人類の偽りの知恵を指すのである。

そもそも「和」という言葉自体が、「バベル(分裂)」の反意語としての意味を持つ。「和」とは、人類の和合を意味し、究極的には、人類の幸福社会のことである。この語は、旧約聖書の時代に、人類が神に逆らって知恵を結集し、バベルの塔を建設することによって、神を凌駕して打ち立てようと企んでいた調和に満ちた幸福社会(ユートピア)に端を発する。

その時に人類を神に敵対して結集させた反逆的な知恵が、その後、(西洋キリスト教の中では異端として駆逐されたがゆえに)、東洋思想の中に潜入し、東洋世界を通じて今日にまで達しているのである。

それだからこそ、筆者は、終末のバビロンとは、キリスト教と東洋思想の合体によって生まれる異端の混合宗教であると、再三に渡り、警告している。聖書の中で、終わりの時代に現れることが記されている大淫婦バビロンとは、バベルの塔が巨大化して完成体に近づいたものであるが、その根底に流れる思想は、東洋思想とキリスト教との「婚姻(姦淫)」によって出来上がった巨大な統一的な異端の宗教なのである。

今日、バビロンの思想はまだ完成にまでは至っていないが、ペンテコステ運動などは、まさにこうした混合宗教のはしりであると言える。ペンテコステ運動の理念は、「西洋的な父性による切り分け」を残酷なものとして否定し、これに「東洋的な母性による包容」のエッセンスを加えることによって、「父性」と「母性」をドッキングさせて、聖書の御言葉による切り分けを曖昧化した、「人に優しい(人に残酷でない)新たなキリスト教」を生むことである。このような思想の中には、まさに東洋思想と西洋的キリスト教の混合物としての偽りの宗教、バビロンにつながる異端思想が表れている。

さて、このように見て行くと、「和」という概念は、クリスチャンにとって、過ぎ去った時代の思想ではなく、それは今日まで連綿と続いている、人類が自らの力で神の聖に至りつき、自らの努力によって天的な調和を地上の人類社会にもたらそうとする、神の知恵に逆らう悪魔的願望を言い表しているのであり、人類による神に対する反逆そのものを象徴する恐ろしい単語であることが分かる。

だが、このようにして人類が自力で「和(調和)」を打ち立て、社会に理想状態をもたらそうとする誤った欲望には、神がすでにバベルの塔の分裂という形で制裁を加えられた。この法則は今日でも少しも変わらず、人類がどんなに自力で「和」を打ち立てようと追求したとしても、結果としてもたらされるのは、「分裂」だけである。人類は、自分自身の力によって平和に生きる術を知らない。このことは、我が国が引き起こした先の戦争がどんなに悲惨な終わり方をしたかを振り返るだけで十分であろう。もし「和」の精神が正しいものであるなら、そのような悲惨な終わりはなかったはずである。

 さて、この恐ろしい偽りである「和」の精神に関連して、一つ前の記事で筆者は、我が国がすでに共産主義国であり、我が国で唱えられる経済発展の夢も、ソビエト体制が唱えた共産主義ユートピアと同じく、決して叶わぬ悪魔的な偽りの夢であって、この偽りの夢に仕えるために地上で行われるすべての労働は、ソビエトの強制収容所における囚人労働と同じく、むなしく呪われた所業であって、人に幸福をも実りをもたらさないと書いた。

つまり、我が国で奨励されている労働は、単なる労働ではなく、かつてソビエト政権が目指したのと同じような、歪んで誤ったイデオロギーに基づく、全体主義を完成させるための手段なのである。

そうである以上、目的が誤っているのに、目的達成のための手段だけが正しいということは決してあり得ない。だからこそ、今の我が国では、(まさにソビエトの強制収容所と同じように!)人がどんなに真面目に働いても、決して豊かになる見込みがないどころか、かえってその真面目な労働があだになるような呪われた悪循環が生じているのである。

「一億層活躍」などという言葉は、かつて天皇を中心とする「神の国」を世界的に建設するために行われた国家総動員体制と何ら変わらず、要するに、バベルの塔建設のための人員の徴用なのである。今日ではあからさまに「天皇のために」とは言われないかも知れないが、戦前回帰主義者はこの点でもかつての体制に逆戻ることを夢見ているわけであるし、たとえ天皇を持ち出さなくとも、「人類の社会の幸福と発展のため」という名目で、決して訪れることのない偽りのユートピアのために国民を無駄に使役している実情は変わらないのである。

かつて作家ドストエフスキーは、パリで開かれた万国博覧会を見学して、そこで水晶宮(クリスタル・パレス)を見た。科学の英知を結集し、粋を凝らして造られたこの精緻な建造物を見たとき、キリスト教徒としてのドストエフスキーは直観的に、この建造物に未来のバビロンを予見した。この作家は、科学の発展の結果、人類社会にやがて巨大なバビロンが構築されること、終末の時代に異端のキリスト教が統一的な宗教として人類を悪魔的な知恵によって支配することを予見していたのである。

この作家は、『地下室の手記』の主人公の言葉を借りて、人類の未来社会に現れるバビロンたる水晶宮に、思い切り非難と嘲笑の言葉を浴びせて、訣別宣言を下した。すなわち、人類の英知を結集して、人類の未来に作られるクリスタル・パレス(幸福社会)が、どんなに結構づくめの美しく素晴らしい世界であっても、その幸福社会なるものは、その住人に一切の批判を許さない、恐ろしい全体主義のディストピアになるであろうから、自分は決してその住人になりたくないし、そのような恐ろしい社会を誉めたたえる気もない、というのである。何もかもが数値化されて、規則づくめで成り立つ一分の隙もないクリスタル・パレスに、物陰からあっかんべーをしてこれをあざ笑う自由を失わないために、自分は、未来の幸福社会の一員としてふさわしくない劣った人間の烙印を押されても良いから、惨めな地下室に引きこもって不幸な人生を送る方を喜んで選ぶというのである。その方がこんな偽りの牢獄たるディストピアに閉じ込められて生きるよりも、はるかにマシだと豪語するのである。

面白いことに、ドストエフスキーはこの主人公に、こんな広大なアパート(クリスタル・パレス)のために自分は煉瓦一つ運びたくない、と言わせている。水晶宮なのに、煉瓦運びとはなぜなのか?という疑問が生まれよう。この比喩は決して誤りでも偶然でもなく、煉瓦には深い霊的な意義があることを、クリスチャンならばよく知っている。

聖書では、神の力である御言葉は「石」にたとえられる。キリストは「人手によらず切り出された石」(ダニエル書2:34)である。つまり、キリストは人の力が一切加えられない、人工的な要素を全く持たない、純粋に神の力だけによって生まれた聖なる人である。これに対し、「煉瓦」は、人間が自分で粘土をこね上げて、焼いて作り上げるものであり、つまり人が神の力を模造して、人手によって(自己の努力によって)人工的に作り上げる産物全体を象徴している。
 
人類の涙ぐましいまでの努力の結晶たるバベルの塔の建設に「煉瓦」が必要とされるのは当然である。その意味で、水晶宮の建設に煉瓦運びが必要となるというのは、比喩として正しい。この比喩からも、ドストエフスキーが水晶宮をバビロンを暗示する象徴として描いていたことがはっきりと分かる。つまり、水晶宮は、神の知恵に逆らう悪魔的な思想の化身であり、悪の要塞の権化なのである。

さて、話を戻すと、現在、日本政府が「一億層活躍」の名で推奨し、国民が実質的に強いられている労働とは、まさに「水晶宮のための煉瓦運び」であり、そうである以上、このような文脈での労働は、神に喜ばれる勤労ではなく、むしろ、神の目に呪われた、決して永遠に実を結ぶことのないむなしい所業である、と筆者は断言せざるを得ない。

煉瓦造りも、煉瓦運びも、それ自体は、他愛のない行為に見えるかも知れないが、もしそれが人類の偽りの幸福社会の建設という忌まわしい目的のために行われるのであれば、泥棒の片棒を担ぎ、悪魔の共犯者になるも同然の自殺行為である。

このことに気づいた時、筆者は、これまでどの職業においても、必ずと言っていいほど見られた甚だしい理不尽の意味がすっかり分かってしまった。一体なぜ、ほとんどの企業や団体では、正義が曲げられ、真実が闇に葬られ、善人が罪に定められ、悪人が大きな顔をして悪事を隠蔽して居場所を占めているのか。その風景はまるで、まことの信者が無実にも関わらず「悪魔の手下」のレッテルを貼られて、牧師とその手先となった(極悪)信者らによって教会の外に追い出され、その一方で、聖書の御言葉から最も程遠い極悪な「(自称)信者」だけが、大きな顔をして教会の座席を占めている地上の偽りの宗教団体と何も変わらなかった。

このことに気づいた時、筆者は、国のGDPを上げるために、強欲な経営者の手先となって、地上で労働にいそしみ、就職戦争を勝ち抜いて、富を築き上げて生き残ろうとすることが、神の忌み嫌われる悪であると知り、先の記事で引用したソビエトの強制収容所の物語を読んだときと同じような慄然とした感覚を覚えた。

誤解のないように言っておけば、筆者は勤労の精神を教えられて育った世代の一員であり、働くことを好まない人間ではない。筆者の人生には、受験競争もあれば、就職戦線もあり、より良い暮らしを得るために、人は努力することが必要だと常に教えられて来た世代である。

しかし、その教え込みは、聖書に反し、神の目に完全に誤っているのである。実際に、筆者がいかに勤労の精神に満ち、いかに優秀に働き、どれほどの功績を打ち立てたとしても、この社会では、その勤労は悪用されるばかりで、手柄は筆者のものにならない。圧倒的大多数の国民は、熱心に働いても裕福にはならず、むしろ、働けば働くほど、悪党が栄え、悪魔が喜ぶだけの仕組みが出来上がっている。

この世の経済がバビロン化し、国民の勤労が悪用されて、国民の富とはならず、ただ収奪されるだけになっている明白な証拠として、政府は現在、年金支給開始年齢を75歳(できればそれ以上)に引き上げて、国民が働いても働いても、定年にさえ至りつけず、死ぬまで労働から解放され得ないような、恐ろしい仕組みを作ろうとしている。

国家公務員の給与だけが年々引き上げられる一方で、国民から徴収される社会保険料はますます重くなり、民間企業の給与水準は一向に上がらず、国民は死ぬまで休みなく馬車馬のように働いて、貧しい中から政府に税金をおさめ、死によってしかこの泥沼のような労働から抜け出せない、まるで家畜のような存在とみなされているのだ。

このような中で、「一億層活躍」などという馬鹿馬鹿しいスローガンに踊らされて馬車馬のように働き続けることが、果たして人にとって善だと言えようか? そのような行為が人に何の幸福をもたらすであろうか? 断じて否である。それはただ悪党どもに死ぬまで使役され、搾取され、狡賢い他人の餌食となって、犠牲となるだけの人生である。今日は生き残れても、明日はないであろう。そのことは、クリスチャンでなくとも、ほとんどの人々が異論なく認めるものと筆者は思う。

このような意味での労働は、甚だしく歪んでおり、社会の発展にも個人の幸福にも決して寄与せず、人間をただ不幸に追いやるだけである。

だとすれば、正しい結論は、このような呪われたバビロン経済の仕組みの中で働くことをきっぱりやめて、水晶宮の完成のための煉瓦運びを手伝う作業から身を引くことである。そのようなことからは一刻も早く足を洗い、このような文脈での労働とは全く違った労働によって身を立てることを考えるべきであり、それこそ善であり、幸福への道だという結論となる。
 
しかし、もう一度、問題提起するなら、呪われた労働と手を切って、正しい労働によって生きるとは、具体的に何を意味するのであろうか。

それはニートになることや、物乞いになることや、親の富にすがって生きることや、生活保護に頼って生きることや、自己破産することを意味しない。はたまた、人々の恐怖心につけ入る何かのいかがわしい詐欺的なセミナーを開いて、参加者から金を徴収したり、いかがわしい新たな宗教の開祖となって、信者の献金に頼って生きたり、学生を食い物とする学校法人ビジネス、あるいは社会でつまづいた人々を食い物にする弱者救済ビジネスに手を染めることによって、講習料や、授業料や、寄付金や、献金や、支援金などの名目で、心弱い人々から金をむしり取って、他人に寄生して生きることを意味しない。

筆者に言わせれば、以上のような方法での集金活動は全て「煉瓦運び」の域を出ないものである。これに対し、真に望ましい形での正しい「労働」とは、御言葉に従い、真実に生き、あくまで正しいことを主張し、その行動の対価として相応の報酬を得ながら、自立を失わず、他人の支配を受けず(人の奴隷とならず)自由を保って生きることを意味する。その最善の形は、この世の労働によらずに「天の糧」によって生きることである、と筆者は疑わない。

数年前から筆者は、呪われたバビロン建設作業から抜け出て「天の糧」によって生きる方法を模索し、その実現のためにこそ、数々の戦いを戦い抜いて生きて来た。

筆者はこれまで様々な職業を経験したが、筆者がどんな職業に就いても、分かったことは、神は筆者がただ金儲けのために己を奴隷として差し出し、悪事に目をつむり、正義を曲げて生きることを決して望んでおられないということであった。

神が望んでおられるのは、神を信じて自由にされたはずの信者が、まるで働き蟻か馬車馬のように、再び強欲な他人の奴隷となって、自分をないがしろにし、犠牲にしながら生きることではなく、神に信頼しつつ、より自由に、より安息して、自分の望みに従って生きることなのである。

そのように自由で解放的な生き方ができるようにと、神は信者のために、いつでも天に宝を備えて下さっている。だが、この天的な富を地上に引き下ろすには、条件がある。「神の国と神の義をまず第一に求めなさい」という優先順位を守るときに、初めてそれが可能になるのである。

強欲な雇用者のどんな金儲け願望も、あるいは国家が打ち出す「一億層活躍」のスローガンも、生活の不安も、地震も、災害も、戦争も、どんなものも、決してその優先順位を変えることはできない。神の国と神の義を第一として生きることは、人が己を養うために行うどんなもがきよりも、はるかに優先されるべき課題なのである。

「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたなの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:31-34)


この御言葉を根拠に、ある時点を境に筆者は明日の不安を投げ捨て、ただ命をつなぐために今日を馬車馬のように働くむなしい人生と完全に手を切って、空の鳥のように、自分自身を完全に天に委ね切った。だが、それは信仰の戦いを抜きにして成り立つ人生ではなく、自分自身の力によらず、ただ全身全霊で神の御言葉だけに頼って生きる生活を意味した。

地上の労働についても、筆者はこれまで一度たりとも、縁故に頼って就職を試みたことはない。すべては地上的には何の保証もないところから、筆者がただ信仰だけを頼りに切り開いて来た道であった。また、筆者は大学時代にも、指導教官のコネを頼って就職を目指したことはなく、教官の力を使って返済不要の助成金を得たこともなかった(そのような提案がなかったわけではないが、筆者はこれを受けなかった)。また就職先の団体の力で奨学金を返済不要にするなどの特別な利得も受けていない。

このブログについても、昨今、多くのブロガーが有料メルマガなどを発行して日々の糧を稼いでいる中、有料化するという案を筆者が一度も考えなかったわけではない。特に、どんな記事を書いても、返って来るのが、ただ読者の悪罵と、憎しみと、脅しだけであったような時期には、ブログを続けて何の益があろうかという思いが心に去来しなかったわけではなかった。
 
それにも関わらず、筆者は信仰告白を無意味なものとは思わず、決して辞めなかったし、記事の有料化もしなかった。どんなに敵対的な反応が返って来ても、採算が取れないと考えて、信仰告白を売り物にするようなことはしなかった。それは超えてはならない一線であるという認識が筆者にはあったからである。もしそのようなことをすれば、キリスト教を売り物にして、信者から献金を巻き上げて生きる牧師たちと一体、何の違いがあろうか。どうして彼らを非難することができよう。信仰告白を金もうけの手段に変えるなら、このブログは単なるビジネスに堕し、筆者の告白は純粋さを失い、筆者はまことの命なる方を見失って、ブログも早々に立ち行かなくなるだけであろう。
 
実際に、記事を有料にしたからと言って、採算が取れる保証は全くない。世の中全体が窮乏化している状況で、有料記事を発行しているブロガーが、この先、どれほど長くそのやり方を保てるかは疑問である。

このようなわけで、筆者はこのブログの信仰告白のために、一銭のカネも受け取らず、(詐欺師による心にもない嘘を除き)一言の賞賛の言葉も受けなかったが、それを実に結構と考えている。また、筆者が地上の生活を生きるに当たって、どんな有力者のコネも、推薦の言葉も不要であり、ましてや強欲な雇用主に媚びるために、悪魔に魂を売ってまで、搾取や不法に加担しながら、職場での地位の安泰をはかることは必要ないと考えている。

そのように信念を曲げないやり方で、このブログが存続し(まして告訴の脅しさえも受けながら!)、筆者の人生が成り立つのかどうかは、信仰による賭けであった。しかし、筆者には勝算があった。筆者は、利得のために、また地上で己が命を保つために、悪魔に魂を売って、正義と真実を売り払い、信仰の道を曲げる生き方を良しとしなかった。

この世の人々から見れば、こうしたことは、実にまずい、あまりにも不器用かつお人好しな人生、割に合わない、不採算な、もっと言えば、可哀想な人生にさえ見えるに違いない。どんなに真実だの正義だの言ってみたところで、たった一人での抵抗など、どうせ長くは続かず、どこかで悪党にしたたかにやられて、悲劇となって幕を閉じるだけだろうと思われていたことであろう。

ところが、悪党には非常に残念なことであるが、決してそうはならなかった。ブログも健在であり、筆者も健在である。むろん、そうなるために、戦いが水面下であったことは否めないが、その戦いを信仰によって最後まで忍び通し、勝ち抜くことにより、このような結果が生まれているのである。

筆者は外見的には未だ頼りなく弱々しく見え、「かろうじて生きている」だけに見えるかも知れないが、筆者の内側には、死を打ち破ったキリストの復活の命が、生きて力強く働いている。それゆえ、筆者はどんなに追い詰められているように見える時にも、決して「かろうじて生きている」だけには終わらず、圧倒的な勝利を掴む秘訣を知っているのである。

だから、世の中がどんなに不況に転じても、筆者が絶体絶命に追い込まれることはなく、明らかに、年々、生活水準が向上し、ますます望みに従った自由な生き方が可能になりつつある。それは一足飛びの解放というわけには行かないが、一段ずつ階段を昇って行くように、解放を勝ち取るのである。そして、このように自由になるための戦いの中で、ますます勇気と力が与えられ、戦略が磨かれて、熟練した兵士のようになって行くのである。

戦いが始まったばかりの頃は、筆者はまだどこにでもいるありふれた控えめで頼りない小娘のような一人に過ぎず、御言葉だけに頼ることに不安を覚え、助力者となってくれそうな誰かを探していたかも知れない。しかし、今はもうキリスト以外に誰にも教えを乞う必要のない、他人の助けを必要としない、熟練した兵士へと近づき、敵が近づいてくるのを見るや一目散に戦場から逃げ去る臆病な一兵卒などでは決してないのである。

さて、筆者がこれまで各種の戦いに勝ち抜くために、最も重要な教訓として学んだのは、神の御言葉に信頼して自分の全存在を委ね切って生きるには、決して「人の助言に頼らないこと」、「世間の顔色を伺わないこと」が重要という秘訣であった。この「世間」の中には、当然ながら、クリスチャンの世間も含まれる。

聖書の原則は、「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。」(ローマ3:4)というものであり、この原則を守り抜くことができなければ、信者は敗北する。どんなに立派で、どんなに頼りがいがあるように見える人間も、実態はことごとく「偽り者」でしかなく、キリスト以外に頼るべきお方はいないのである。
 
「和を乱さない」などのうわべだけの綺麗事のために、権威者を名乗る人間たちや、「世間」の思惑に流されて生きるようになれば、信者が神に従い、真実に正しく生きることはもはや不可能である。

筆者が知っている限り、信仰の破船に遭ったクリスチャンの8~9割がたが、世間での自分の評判を愛し、惜しんだために、神に従うのではなく、人に従う人生を選び、信仰の道から逸れて行った。彼らがかえりみた世間とは、不信者の世間ではなく、クリスチャンの世間であった。それを見ながら、筆者は、はっきりと言えるのだが、もしも信者が、ほんのわずかでも、世間での自分の評判を惜しみ、世間から後ろ指さされたくないとか、軽蔑や嘲笑や非難を受けたくないとか、つまはじきにされたくないという恐れから、世間の思惑や動向を気にし、少しでも人々に良く見られようと、自分の見てくれに気を使い、人々の意見や評価や流行に自分を合わせようとし始めると、そのとたんに、その信者はもう自由を失って、人の思惑の奴隷へと転落し、神の御心を全うすることができなくなるのである。

そのようにして、信者が自分の人生の主導権を「世間」などという正体不明の存在に乗っ取られれば、その船は、正しく舵を取る者がいなくなり、転覆は間近である。牧師や教師や信仰の先人を名乗る人々の顔色を気遣うことも、これと全く同じ効果をもたらし、それは人生の主導権を他人に乗っ取られることを意味する。

そこで、クリスチャン生活における戦いの中で、とりわけ常に重要なポイントは、たとえこの地上の目に見える世界において、誰からも理解されず、誰からの支援も賞賛も後押しもなくても、たった一人となっても、聖書の御言葉の正しさを心から確信し、御言葉に立脚して、どんなに御言葉に矛盾する現実があるように見えても、その約束から一歩も逸れず、信仰の確信に最後まで立ち仰せられるかという点にある。このような孤独な道を一度も通らずに、一度も試されることなしに、信仰の戦いを立派に戦い抜いて勝利をおさめることのできるクリスチャンは一人もいないと、筆者は心から確信している。

もしも信者が、いつも数多くの理解者や支援者に取り囲まれて、ひっきりなしに人からの慰めや励ましや賞賛の言葉を受けていたら、たとえ試練の日にその信者が何かの重大な信仰告白を成し遂げたとしても、一体、どこまでが本人の確信で、どこからが他人の影響力や受け売りによる「補強」なのか、誰にも分からないであろう。

そこで、神はこのような「取り巻き」による影響力をすべて剥ぎ取られ、信者を他の人々から切り離して、孤独な場所に置かれる。そして、誰もいないところで、信者の心を個人的に極みまで探り、試される。また、信者が神に従うことが、決して信者本人にとって何の栄誉ともならず、何の快楽ももたらさず、むしろ、信者にとって不利であって、苦しみが伴い、損と映るような状況をあえて用意される。このような過程を通して、信者が自分自身の利益のためではなく、御言葉の正しさへの確信、神の栄光のために、神に従うという境地まで導かれることなくして、信者の信仰告白は決して本物にならず、御言葉が信者の内側に生きて造り込まれることもないのである。

このような苦しみの伴う不快な過程をすべて耐え抜いて、それでも信者が御言葉へ従順であり続けることができるのは、ただひとえに地上における軽い苦難の先に待っている重い天の永遠の栄光を見据えているためである。

ヘブル書第12章2節は、口語訳では、「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」となっており、共同訳ではこの箇所は、「このイエスは、ご自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」とある。かなり文脈が異なっており、筆者はおそらく共同訳の方が原文に近いのではないかと思うが、口語訳も誤りではないと言えると思う。なぜなら、主イエスは、十字架の苦難の向こうに、はかりしれない栄光が待っていることを実際に知っておられたのであり、それと同じ文脈を以下の御言葉にも見て取れるからである。

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。」(ヘブル11:13-14)

信者は、信仰の戦いを戦い抜くことによって初めて御言葉の確かさを実際に知り、御言葉と深く一体化して、その約束の中を実際に生きることができる。全世界の誰一人、信者の確信を理解せず、目に見えるすべてが絶望的で、頼りなく、聖書の約束を否定するように見える状況の中でも、信者が「目に見えない方を見ているようにして、耐え忍」び(ヘブル11:27)、御言葉に従って、神のみを信頼して、揺るがされることなく平安の中を生きるならば、幾度も述べたように、たとえ生きているうちに天の都に到達することはないとしても、天に溢れるばかりに備えられている重い栄光の一端を、地上に生きているうちに垣間見ることができる。

地上での苦難は、信者を訓練するために神が許されて与えられるものであるが、その小さな訓練をも耐え抜けば、相当の褒賞が待っている。多くの場合、その褒賞は、ただ目に見えない約束であるだけでなく、その一端が、信者の地上生活に、(呪われた水晶宮への煉瓦運びの労働とは比べものにもならない)豊かな富や自由となってもたらされるのである。天の糧を得るとは、天の父なる神の御心を行って生きることである。その道を行くとき、信者の生存に必要なすべてを、神自らが備えられる。
 
「わたしの民がわたしに聞き従い、
 イスラエルがわたしの道に歩む者であったなら
 わたしはたちどころに彼らの敵を屈服させ
 彼らを苦しめる者の上に手を返すであろうに。

 主を憎む者が主に屈服し
 この運命が永劫に続くように。
 主は民を最良の小麦で養ってくださる。

 「わたしは岩から蜜を滴らせて
 あなたがたを飽かせるだろう。」(詩編81:14-17)


十字架の死と復活の原則ー地上の実りなき死んだ労働を離れて、天に永遠の収穫をもたらす労働に生きるー

さて、梅雨に逆戻りしたかのように雨がちな一週間が過ぎたが、その間、エアコンを通常通りに回していると、風邪を引きかけた。しかもそれは単なる風邪でなく、悪寒と共に身体中の関節が痛み出すという厄介な風邪であった。筆者には長年眠っている腰痛があるのだが、もしこれが再発したら二週間は起きられなくなっていただろう。

だが、そんなことは決して起きないという確信があった。幸い数日の養生ですっかり元通りになった。健康の秘訣はよく食べること、よく眠ること。それから、どんな時も神の御守りと御助けを確信し、目標をまっすぐに見つめて、そこから目をそらさないこと。何よりも無駄に心を悩ませないことである。この記事を書き終えた頃には、全ての症状が消し飛び、引きかけた風邪は嘘のようにおさまっていた。

さて、これまでの人生経験から、筆者には、ヨブに与えられた試練のように、悪魔は信者の大胆な信仰告白を聞いた後には、必ず信者の信仰を試しにやって来るものと分かっている。

たとえば、もしあなたがある日、長年苦しめられた大きな圧迫やしがらみから、聖書の御言葉の約束に基づき、神の力によって、信仰によって、大胆に脱出を宣言し、また奇跡的な脱出を遂げたとしよう。あるいは貧しさから、搾取から、束縛からの脱出であり、あるいは悪習慣から、他人の支配から、不幸から、あるいは病から、他の何でもいいが、明らかに悪だと分かっているものと手を切って、そこから解放されたのだとしよう。すると、あなたが解放を喜んでいるのも束の間、悪魔は必ず、あなたに忍び寄り、あなたに去って来た環境をもう一度振り向かせ、もう一度、束縛の中に連れ戻そうと、あなたの心を揺さぶって来る。あなたに起きた解放がまるで嘘のように感じられるような環境の激変を引き起こしたり、その異変に、親しい人たちの裏切りなどといった非常に心痛める事件を加えたりなどして、あらゆる不快事を引き起こしながら、一体、あの解放は何だったのだろうかとあなたに思わせようとする。それによって、あなたがいったん握ったはずの自由の確信が揺るがされ、あなたが受けたはずの神の助けを疑い、あなたが自分は信仰によって御言葉に基づいて解放されたのではなく、たた自分勝手にとんでもない冒険を遂行しているだけで、そこに真理は存在しないのだという疑いを生じさせるのが悪魔の狙いなのである。

こうした体験を筆者は数え切れないほど通過してきたので、今となっては、何か一つの解放が起きる度に、悪魔は再び以前の圧迫をよみがえらせようとするのだと、それを当たり前の通過儀礼のようにしか思わず、ほとんど動かされることもない。栄光から栄光へ、キリストの似姿とされるために、名実共に心身の全てにおいて自由とされるために、信仰によって目的を目指して歩み続ける秘訣はここにある。つまり、どれほどの圧迫や異変が周りで起きようと、内側で一度掴んだ確信を確固として手放さず、ただ前だけを向いて、真っ直ぐに進んで行くことである。

例を挙げれば、筆者が過去に牧師崇拝という罪に堕した偽りのキリスト教と手を切った後、この束縛に満ちた似非宗教にもう一度筆者を引き戻そうと、どんなにひどい圧迫が起きてきたかは周知の通りである。それは筆者がどうしても去らなければならない、筆者の居てはならない、神の御怒りのとどまる忌むべき場所であったが、そこからエクソダスするに当たっては、苦しみが伴い、信仰による代償が必要だった。この代価を全て払い切って、勇気と確信を持って前に進んで行かなければ、まことの神とは誰か、本当の信仰とは何かを筆者が生きて知ることはできなかったのである。

こうした体験を通して、筆者は、いったん、クリスチャンが神の忌み嫌われるものと手を切り、そこからエクソダスを果たし、自由になろうとしたならば、必ず、次の瞬間、悪魔はあなたの信仰が本物かどうかを試すために、あなたの心に揺さぶりをかける事象を引き起こしてくることを知った。悪魔のなすことはどれもこれもえげつなく、とんでもない事件を引き起こしてはあなたを驚かし、苦しめようとして来ることも稀ではない。

だが、驚くなかれ! そこにも神の御手が働いており、そうした患難の中にこそ十字架の死と復活の法則が大いに働く余地があるのだ! あなたはエクソダスを決意した瞬間に、すでに復活の予表を見た。あなたの目の先には、自由と解放が見えており、あなたの心はもうそれを掴んでいる。今度は、心の中ですでに見えているこの復活の確信を、死の影の谷を通り抜けて、その先に自らの手で掴み取り、揺るぎない現実としなければならない。信仰によって戦って解放を得て、確信を現実に勝ち取らねばならないのだ。

そのために、あなたは、自分の心の確信が試されていることと、すでに勝利が約束されていることを知り、周りで何が起きようと、そこに注意を払わず、心をぐらつかされないようにすべきである。あなたの確信を奪い取るために用意された外側の圧迫がどんなに激しくとも、それを打ち破る復活の命があなたの中にすでにあることを信じ、神が必ず最後まであなたを解放へと導いて下さることを信じ、この確信を固く握り締め、守らなければならない。つまり、一度信仰によって掴んだ確信を決して手放さず、決して後ろを振り向かず、以前の圧迫に戻るしかないと考えて心を翻すことなく、一心に前だけを向いて、追い迫る地獄の全軍を全力で振り切り、撃退しつつ、ゴールへ向かってひた走らねばならない。思い切りアクセルを踏み込み、とにかく全力で前進するのである。

これに成功した時、初めて、あなたは、あなたを再び奴隷にしようと追い迫るエジプトの軍勢が溺れ死に、あなたの内側て確信として与えられた復活の命の確証が揺るぎないものとなって、あなたを取り巻く環境に及んで実際となるのを見るであろう。つまり、環境をコントロールするキリストの命の支配力が、あなた自身から外に流れ出て、現実に力強く及んで行くのを知るのである。もはや圧迫があなたをコントロールすることはなく、環境の主導権はあなたにある。その時、あなたは大胆に命じることができる、嵐よ、静まれと。

キリストの復活の命には、この世の気象条件、経済条件、物流など、この世の諸条件を治める力がある。しばしば神を知らない人の心さえ動かす力がある。なぜなら、この神の命は、統治する命であり、この世の全ての事象を超越する支配力を持つからである。しかし、このように絶大な威力を持つキリストの命の権威と力を行使する秘訣を信者が知るためには、まず信者の信仰が試されなければならない。信者自身が十字架の死と復活の法則を体験しながら、しばしば極限まで試され、苦難を通して、主の死を自分自身の死として負うことなくして、この超自然的な神の命の働きを、生きて実際に知ることはできないのである。

信仰が試されることには苦難がつきものであり、それゆえ、信者の信仰の生長は苦しみを経ることなくしては得られない。時にその戦いは想像をはるかに超えたスケールの圧迫を伴う。しかし、信仰の観点から見れば、それは軽い艱難に過ぎず、注意に値するものでもない。その苦しみに勝利することによって得られる天の栄光に満ちた収穫の大きさは、束の間の試練がもたらす痛みとは比べることもできないものである。

ヨブのたとえを引き合いに出したように、その戦いに勝利した暁には、信者は以前の二倍の恵みを手にするかも知れない。苦難を乗り越えて忍耐によって試された信仰は、試される前よりももっと大きな祝福を引き出す秘訣を学んでいることだろう。

さて、これから先、筆者が述べることは、多くの人には全く理解できないか、理解したくもない内容に感じられるであろうが、これは本当のことである。筆者はここ数年、人間の地上での労働は、罪の報酬として与えられた、ただ不毛なものであるばかりか、ことごとく共産主義につながるのだという事実に気づき始めた。

日本人の多くは、幼い頃から学校教育などで勤労の精神を叩き込まれているので、経済活動に従事することを全て良いことだと思って疑わず、低賃金で実り少ない労働に従事させられてもそれに疑問も持たないかも知れない。だが、働いても働いても豊かにならないような労働は悪でしかなく、全く推奨されるべき行いではなく、正しい勤労の概念にも該当しない。それは歪んだ搾取、不法以外の何物でもなく、その中にとどまっていても、誰も幸福にはならず、ましてキリスト者は悪魔のもたらす呪いと圧迫と束縛以外の何物も受けることはできない。従って、信者はそのような歪んだむなしい労働からは、エクソダスしなければならないのである。カルト宗教の中にいても幸福になれないのと同じように、不法と搾取の中にとどまっていながら、神の望んでおられる自由な生き方を遂げることは無理なのである。

しかし、ここで疑問が生まれよう。地上の労働で搾取と無縁のものが果たしてあるのか、一体、神の御心にかなう正しい労働とは何なのか、それはどうやって信者に遂行可能なのか、という疑問だ。

この疑問にはおいおい答えて行くとして、まず、地上の労働の何がおかしいのかを見てみよう。すでに述べたように、聖書によれば、人の地上における労働全般は、アダムが犯した罪の報いとして人類に科せられた呪われた刑罰のようなものである。人類の罪のゆえに、人が地を耕しても、耕しても、地は実を結ばなくなり、その労苦の果てに、人は自分の築き上げた全財産を他人に譲って、塵に帰るしかなくなったのである。

こんな不毛な労働は呪われているとしか言いようがないが、その次には、人間は、この労働から解放されるための安息の日にさえも、どうやって安息を守るかについて果てしない議論を起こし、安息さえも苦役に変えてしまった。だが、今そのことは脇に置いておこう。このような呪われた不毛な労働は、一切が無意味であり、この堂々巡りの路線でどんなに努力しても、何も生まれない。それは「肉から生まれるものは肉である」ことを象徴しており、人間の生まれもった生存本能から出た努力によっては、それがどんなに必死の努力であっても、永遠に至るものは何も生まれないということの証拠だ。だが、絶望するのはまだ早い。なぜなら、これに代わって、天において永遠の収穫をもたらす労働というものが別に存在するからだ。その内容について後ほど述べることにしたい。

さて、地上における一般的な労働の呪われて無駄であることを示すために、別な表現をすると、すでに述べたように、筆者の考えでは、地上の経済を発展させる名目で行われる人間の労働というものは、国が資本主義の形態を取っていようと、社会主義であろうと、うわべの政治体制に関わらず、およそ全てが本質的に共産主義に通じるのである。

ある人々はこういう話の展開に着いて行けず、「ヴィオロンは気が狂っているに違いない」とあざ笑うかも知れないが、その前にまずは腰を据えてよく考えてもらいたいものである。

共産主義とは、要するに、人類社会の幸福と発展のために、全ての人々が平等に労働の責任を負う(みんなで働けば共産主義ユートピアが到来する)という発想であるが、実際には、もちろん、そんなユートピアは決して到来せず、これは嘘の約束であるばかりか、悪党どもは、決して最初から真面目に働く気などさらさらなく、ただ労働の重荷を騙されやすい善良な人々に押しつけ、自分たちは彼らを搾取することによって新たな貴族階級になるために、方便としてこうした思想を利用しているに過ぎない。

そもそも労働の成果が私有財産という形で個人に還元されない仕組みの中では、誰も労働しようとの意欲を持たないであろう。働けば働くほど怠け者を助けるだけのシステムの中で、誰が真面目に働きたいと願うだろうか。

従って、共産主義とは、平等の概念の下、誠実な者たちの真面目な労働を、強欲な怠け者たちの利益のために掠め取り、悪党が善人を収奪し、虐げることを正当化するための経済体系のことであると言える。「みんなで国を豊かにするために、みんなで同じ夢を目指して、平等に働こう」などと表向きにどんなに謳っても、そんな平等は決して実現しない。そのスローガンに踊らされるのは馬鹿だけである。悪党どもは決して自分の手を汚し、汗水流して真面目に働こうとはせず、かえってそのスローガンを利用して、真面目な人間を、己を富ませるための歯車としてこき使うのである。

しかしながら、こうした話は社会主義国だけのことでなく、我が国の現状も似たり寄ったりである。上を見れば世襲議員がとんでもない高額な報酬をもらって遊び暮らし、連日目も当てられない退廃的な活動に耽っているかと思えば、下は貧しい者はますます貧しくなり、死者からも国家が税金をむしり取ろうとする有様だ。ブラック企業は労働者の健康と生き血を絶え間なく吸って富んでいる。まさに善人の労働が悪人たちの利益のために搾取され、働く者たちの誠実な苦労の実が、働かない者たちを富ませる手段になっているのだ。このような転倒したバビロン経済をさらに推し進めようと、アベノミクスなどが性懲りもなく打ち出され、一億総出で経済活動に邁進すれば、バブル期の夢よ再びで、ユートピアが到来するかのような偽りの夢が恥知らずにも未だ公然と語られている。(いつになったら、それが嘘の約束でしかないことに国民全体が気づくのであろうか。)

その上、このように善人を踏み台にして悪人を生き永らえさせるための転倒した経済を今ばかりか永遠に支えるために、もっとバビロン経済の盲信的で忠実な奴隷になってくれそうな無知で愚かな次世代の人材を全社会をあげて育てようというのである。そのためには人文科学などは邪魔にしかならないので、大学には不要なのだそうである。余計な知性は要らないから、自分の頭で考えることなどやめて、政府や企業や組織の言い分を大人しく聞いて、彼らの利益のために、疑うことなく黙って命令に従ってくれる従順で愚かな働き者のロボットかモルモットのような人間をだけを優秀な人材として生産しようというのである。

こうした傾向が行き着くところまで行きつけば、いずれ我が国も、家畜的労働を推進するだけでは飽き足らなくなって、ソビエト政府のように、共謀罪を利用して、反政府的な思想の持ち主はみな強制収容所にぶち込んで「労働による再教育」を受けさせるなどというとんでもない発想に至りかねない。

陰謀論や国際金融資本などといったものを持ち出すまでもなく、聖書によれば、この世は悪しき者の支配下にある。従って、この世の経済も、悪しき者の配下にあって、悪しき者(だけ)の利益になるよう作られているのは当然である。

そのため、キリスト者が真に神の御心を満足させる正しい労働に従事して生きようと願うなら、まず第一に、どうしてもこのように歪んでバビロン化した悪や不法の温床になるだけの経済の仕組みの外に出ることが必要になる。それは信者がこの世の経済そのものから完全に身を切り離して隠遁生活を送ることを意味せず、信者がこの世に身を置きながらも、この世の経済の支配体系の奴隷とならず、その限られた貴重な例外となって、この世とは別の、この世を超越した異なる正しい支配体系をそこにもたらすことを意味する。そのために、クリスチャンはまず、この世がいわゆる「常識」として定めている考え方に盲信的に従って、自分の良心を眠らせながら、「人類の幸福社会の実現」を口実とするこの世のバビロン経済の発展(バベルの塔建設)に仕える盲目的な歯車になって生きることをやめなければならない。

この地上のほとんどの人々は、たとえ信仰があっても、ことごとく盲信的にバビロン体系の奴隷となって生きている。だが、聖書のまことの神に仕えて生きることと、マモンの神(悪魔)に仕えることは両立しないのである。 「不信者と釣り合わないくびきを一緒につけてはいけません」という聖書の御言葉は、神に贖われて自由とされたはずの信者たちが、悪魔の推奨するバビロンの偽りの調和や偽りの福祉のために、不信者と同じように奴隷的労働に従事させられて、割の合わない人生を送ってはいけません、という警告でもある。

「空中の権を持つ者」とは悪魔のことであり、悪魔は、いわば空気を支配する王である。どんなことでもそうだが、もし人が自分の頭を使って自ら主体的に考えることをやめて、ただぼんやりと「良さそうなもの」に見境なく飛びつき、「世間がみなそうしているから」とか、「周りがみんなこれが正しいと言うから」とか、「習慣だから」、「波風立てたくないから」、「仲間外れにされなくないから」、「ひとかどの人間として認められたいから」などといった諸々の動機で、村八分にされるのを恐れ、「空気」に流されて行動するようになると、その人はすでに思考停止状態に陥り、生きた人間というよりは、バビロン建設のための単なる歯車、ロボットに成り果てているのである。そのように有無を言わせず大勢を同じ方向に追いやり、同じ価値観の奴隷としようとする「空気」こそまず第一に疑ってかからねばならない曲者である。

悪魔は、悪事を働くに当たって、決して悪しき動機を公然と語ったりしない。むしろ、悪魔が悪事を働くに当たり、最も好んで使うのが、「人類社会の幸福や平和や発展のため」という美しい大義名分である。「和をもって貴しとなす」という大義名分は、昔から悪魔の大好きな常套句で、彼らはこれを印籠のように振りかざしては、不都合な人間を異分子として排除し、黙らせ、人々を思考停止させて従順な奴隷に変えるために用いて来た。すなわち、「和」にそぐわない人間は「協調性がない」、「愛国心がない」などの名目で罪に定め、実力行使で強制排除して行けば良い。そのことによって、表向きは「和」が保たれているかのように見せかけ、偽りの安心感を人々に与え、良心を眠らせるのだ。しかし、その「和」とは、一体、具体的に何を指すのかと問えば、シャボン玉のように実体のない、ぼんやりしてフワフワした宙ぶらりんの抽象概念でしかない。しかも、この美しい大義名分の向こう側に隠されているのは恐ろしい全体主義であり、そこでは、全体の利益のために個人が持てるすべてを供出せよと迫られ、犠牲にされ、裸にされ、殺されている。異分子を排除するとの名目で、圧倒的多数の人々が罪に定められて排除されている。それは結局、ありもしない「和」という綺麗事の陰で、人間を奴隷化して使役し、権力者にとって不都合な人間を排除するだけの残酷なシステムであり、そんな残酷な「和」に最終的に適合しうる人間は誰もいない。それは恐怖政治であり、どんなに人がそれに熱心に仕えても、そのシステムは個人の必死の努力に決して正当に報いず、約束した平和をもたらさない。あるのは絶えざる流血、絶えざる排除、絶えざる罪定め、いわれなき村八分だけで、「和」から締め出され、村八分にされたくないと恐れて、それに仕えれば仕えるほど、人はますます恐怖にがんじがらめにされ、苦役から逃れられなくなって行く。それは自分のために果てしない奉仕を人間に要求する高慢で冷たくて恐ろしく非人間的な「和」である。

そのような価値観に支配される世界では、表向きの美名とは裏腹に、無秩序が横行し、全ての価値観が裏返しとなる。正しい人が罪に定められ、悪人が大手を振って無罪放免される。たとえ人が無実の罪で強制収容所に連れて行かれ、「再教育」を受けさせられたとしても、そこでは罪の償いさえままならず、刑期は減るどころかますます追加されて伸びて行くだけである。何もかもが転倒している。だが、我が国はもうほとんどそこへ近づいており、その混沌とした世界まであともう一歩である。極めて危うい崖っぷちに立っていると言えよう。

結論から言えば、これが堕落したバビロン経済の転倒した価値観であり、バビロンの本質は全て共産主義なのである。そこでは最も誠実でお人好しの働き者が誰よりも虐げられ、あざ笑われ、最も卑劣な怠け者が左団扇で暮らしている。悪人を生き永らえさせるために善人が罪を着せられ、虐げられている。繰り返すが、神に贖われた信者は、この転倒した価値観から逃げ出さなければならない。その奴隷となって、バビロンを富ませるための労働力となってはいけないのである。

さて、共産主義の思想に仕えて生きることがどんなに無益な生き方であるかを念押しするために、蛇足かも知れないが、ソビエト時代の強制収容所に関する物語の中で、あるストーリーのあらすじを引用しておこう。うろ覚えなので正確でない可能性があるが、これはソビエトの強制労働収容所の日常の風景の一コマを題材とする創作物語である。

普段は飢えと過重な労働のために死の淵で金鉱採掘労働に従事させられていた囚人たちが三人ほど収容所当局に呼び出され、数日間の森林伐採を命じられた。普段の金鉱労働では、囚人たちは仕事のノルマの達成量に応じてしか食料の配給をもらえない(ノルマは並の人間ではおよそ達成できないような途方もない数字である)ため、ノルマ未達の囚人たちは、少ない配給しかもらえず、飢えて死ぬか、骨と皮だけになってかろうじて生き延びるしかない。しかし、森林伐採のために呼び出された囚人たちには、予め手弁当が配給された。囚人たちにとって、これは絶大な意味を持つ出来事であった。なぜなら、食料が配給されたことは、この数日間は全く労働せずとも生き延びられる保証を意味するからだ。囚人たちの腹は決まっていた。

囚人たちにとって、森林伐採は死の鉱山労働から逃れるための休暇であった。ここは仕事するふりだけして、みんなでこの休暇から最大限の自由と休息を引き出そう。どうせ真面目に働いてもノルマなど達成できず、待っているのは罰だけなのだ。明日のことなど明日考えればいい。

ところが、囚人たちの中に一人だけ真面目な共産主義者がいて、彼だけは、今までの過酷な収容所生活にも関わらず、なおソビエト政権と共産主義イデオロギーの正しさを心から確信してやまなかった。彼は収容所当局が定めるノルマが、始めから非人間的な、達成不可能なものなどとは信じようとせず、サボタージュなどせず真面目に働くべきだと言って、労働の意義をみんなに力説するのだった。

他の囚人たちはこれを聞いて呆れつつも、それでもこの「同志」があまりにも純粋で熱意に溢れており、憎めない人間なので、その説得にほだされて、また、彼に真実を思い知らせてやろうという気持ちから、仕方なくノルマ達成のために一緒に働いてみることにする。その労働の結果を見れば、さしもの「同志」も当局の課したノルマがどんなに最初からメチャクチャであったかが分かって、ソビエト政権のイデオロギーの無意味さを悟り、自らの誤りを認めるだろうとの予想からであった。

ところが、そうしてみんなで協力して真面目に働いてみると、最初はサボタージュしか願っていなかった囚人たちにも、だんだん仕事が面白くなって来る。チームプレーを通して互いに連帯感が生まれ、普段の囚人生活では生まれ得ない友情のようなものまで育まれた。あながち「同志」の言い分も間違いではなく、働くことにはそれなりの楽しさや意義も確かにあった。彼らのチームプレーは素晴らしかったが、それでも、三日間かけて彼らが達成したものはノルマの三分の一にも満たなかった。

その結果を見た「同志」はなんと自殺して果ててしまう。だが、すでに仲間意識も芽生えて、彼を友人のように思っていた他の囚人たちは、彼の自殺を知って、今までよりもなお一層、ソビエト当局に対する憎しみに燃える。もとから達成不可能なノルマを課して、人間を愚弄し、この「同志」のように騙されやすい人間に嘘の希望を吹き込み、絶望へ至るまでこき使い、この恐るべきむなしい思想のために心中までさせるとは…

ストーリー解説はこのくらいにしておくとして、最近、この話が何かにつけて、筆者には思い起こされるのである。

これは私たちが生きている今の世の中とさほど変わらない描写ではないだろうか。ここはソビエト政権下ではないし、我が国の経済はそこまで極端な歪みではないかも知れないが、それにも関わらず、この地上における労働は、上記の収容所における囚人労働とほとんど変わらないどころか、本質的には全く同じものだと筆者は思うのである。

それはプロテスタントの教会における奉仕と献金の義務にもとてもよく似ている。信徒たちは日曜礼拝に足しげく通い、多額の献金を払い、教会のために様々な奉仕を積み重ね、牧師の説教をよく聞いて、牧師の覚えめでたい人間となることで、神に仕え、正しい生き方をし、聖なる者に近づけると思い込んでいる。ところが、そんな信徒の苦労をあざ笑うかのように、奉仕と献金を積み重ねれば重ねるほど、信徒のくびきはますます重くなり、ますます多くの奉仕、ますます多額の献金が要求されるようになる。信徒は聖くなったと感じるどころか、牧師や教会の要求に応え切れない自分自身に罪悪感を覚えるだけである。こんな風に、やればやるほど罪の意識が増し加わるだけのむなしい奉仕が、「信徒の義務」とみなされ、神に近づく手段のようにみなされ、それをやめれば、信徒はたちまち正しい信仰の道から逸れて悪魔の虜となり、救いを失って地獄へ一直線に落ちていくだけ…、などと真面目な信徒は本気で思い込まされている笑止千万な場所である。

こういう文脈での教会への奉仕と献金の義務は、聖書の信仰にカモフラージュした極めて悪質な罠であり、それによって神に近づけるなどと信じている信者は、ソビエト政権のイデオロギーを信じるあまり、死ぬまで収容所でこき使われた囚人たちや、ブラック企業に酷使されながら、自分が何をされているのか分からないで過労死して行く愚かな労働者と変わりはしない。そのような歪んだ労働(搾取の肯定)を通して、人類社会の発展に貢献できるという考えは嘘であり、そんな労働を通じて人間性を改造でき、ユートピア社会をもたらせるなどのことはあるはずもない。そんな労働は、やればやるほどますます世の中をヘンテコな場所へ、異常で転倒した世界へと変えて行くだけで、人類に不幸を増し加え、人間性を貶めるだけなのである。

このような不法で歪んだあるまじき労働によって、人間を改造できるかのような嘘は、元を辿れば、グノーシス主義から来ている。グノーシス主義とは、幾度も述べて来たように、もとは人が自分自身の努力によって、自己を改造し、神の聖にまで至れるとする偽りの神秘主義思想であり、この異常な思想ではそのような嘘の希望を信じることが、「知性」を獲得することだとされる。今日のキリスト教も、全ての異端の根源であるこの思想の侵入や攻撃を受け続けているが、この偽りの思想では、「知性」に目覚めた人間が、それぞれ努力によって達した段階に応じて無限の霊性のヒエラルキーがあることになっているので、この思想の影響を受けた信者たちは、霊性のさらなる高みに上るために、勉学や奉仕や精進を積み重ねるのである。だが、神の高みに上るためには、人は生きているうちばかりか、死後も永遠に修行を続けなければいけないとこの思想は言う。早い話が、ソビエト当局が囚人に課した達成できない労働のノルマと同様に、グノーシス主義は、一方では、人は己の精進の努力次第で、霊性の階段を上って、神の高みにまで達することができると言いながら、もう一方では、それができた人間は今まで地球上に一人もおらず、その修行は人の全存在をかけてもまだ足りないので、どんな偉人も今もって修行中である、と言うのである。結局、これを聞いて分かるのは、どんな嘘をや方便を使っても、神と人との合一は、人間側の努力によってはおよそ達成できず、それを人間側の努力によって成し遂げようとすると、それはただ人間にとって負い切れない重荷になって跳ね返って来るだけだという自明の理しか証明できない事実である。

悪党どもはまさかこんな嘘っばちな思想を初めから信じてはいない。そこで、この手の思想は、悪党が、騙されやすくおめでたい人間を都合良くこき使い、うんと搾取するための方便として利用されるに過ぎない。多くの牧師たちは、信徒たちが教会に奉仕し献金したくらいのことでは、決して神に近づけないことを知っている。それが証拠に、彼らは教会のために一銭の献金も奉仕もせず、神を全く信じないで死んだ不届きな不信者たちをも、信者たちと同じように、気前良く平等に教会で葬ってやる。こうして彼らは、信者たちが都合良く騙されているだけであることを親切に身を持って示してやっているのである。彼らは教会に奉仕と献金を捧げることと神に仕えることが全くズレていることをよく知っていながら、それでも己の栄誉と権勢拡大のために、愚かな信徒の労働を搾取しているのである。その曲がった利己的な動機を覆い隠すために、神の国だの聖化だのと言って新たなセミナーを開いているだけである。それと同じ究極の騙しのテクニックが、ソビエト政権による囚人労働であった。無実の人間にあらぬ罪を着せて大量に強制収容所に放り込み、そこで奴隷的囚人労働に従事させて搾取しながらも、それをソビエト当局は「共産主義ユートピアを到来させるため、労働による再教育、人間改造の試み」であるとしたのである。囚人を利用した奴隷労働は、ソビエト政府による人間の再教育の模範的な成功事例として世界に宣伝された。

こういうものは全て、追い詰められた悪党どもが、苦し紛れに無から有を生み出すために、人間をただ働きさせ、さらなる収奪を合法化しようと作り出したシステムに過ぎない。しかし、その悪事を人類社会の発展やら幸福やらと言った大義名分のもとに誤魔化し、公然と正当化しようとするところに、その根底に流れるイデオロギーの忌まわしさがよく表れている。

「人類社会の幸福」や、「公共の秩序」や「和」などといった概念の実体は、しょせん、このようなものなのだ。そんな曖昧模糊とした情緒的で不確かな概念が、現実の個人の権利や自由を縛り、犠牲にする正当な言い訳となったことなど一度もない。こんなもののために、個人の人権を犠牲にする思想は、全て呪われた全体主義から出て来たものと言って差し支えない。 (元を辿れば、グノーシス主義。)

グノーシス主義とは、端的に言えば、「神が救済し損なった哀れな人類を、人類が己が力で救済しようとする似非救済思想」と言えるのではないだろうか?何度も述べて来た通り、このキリスト教の異端思想は、ヨーロッパで駆逐された後も、東洋思想の中に温存されて来た。「和を以て貴しとなす」という考えの中にその思想の形がよく表れている。ここて言う「和」とは、空気のことであり、さらには、自然を含む万物を生み出す母性の象徴であり、引いてはその母性の中には人間も含まれており、この母性とは、人類の自己崇拝の思想だとも言える。結局、「和」とは何かと言えば、それはいわば、へその緒が切断される前の母子の一体化した状態であり、母子がそのような原初的な一体性を取り戻すことによって、人間の孤独を埋め、完全性を得ようとする原初回帰の願望なのである。もっと言い換えれば、歴史を逆行して、人類が神の子宮にまで逆戻る(神が人類を創造する前の状態に人類が自力で回帰する)ことによって、人が自ら神の地位を「取り戻そう」(奪おう)とする極めて愚かで不遜な試みのことである。

(ちなみに、神の子宮などというものはないのだが、この思想は、聖書の父なる神を否定して、神を女性化することによって、また、目に見える万物を聖なる母体であるかのようにみなすことによって、この屁理屈を正当化する。裏を返せば、このような子宮回帰願望は、人が一生、母の子宮から出られず、母の胎内に閉じ込められた状態を理想とする恐るべき思想である。全体主義の全体が、母に当たるのであり、これは母と子の分離を認めない、母子一体となった赤ん坊返りの思想である。それゆえに、この「和」の思想を信じた者は例外なく精神的に大人になることができず、「母」の精神的子宮に閉じ込められたまま、マザコンとして終わって行くのである。「和」というのは、離脱を認めない母性による永久支配を意味し、怨念を持つ母が、父に対する復讐心から、我が子を一生自立させないで己が欲望を満たす道具として支配するために、へその緒で自分に縛り付け、いつまでもコントロールすることの言い訳でしかない。そのような恐るべき思想に喜んで身を委ねる「子」もどうかしているが、こうして、この思想は、他者の自立を決して認めず、全ての人間を「母」(組織や国家などの容れ物を含む)に縛りつけ、強い者が弱い者を自分の付属物のごとく支配し、決して一個の自立した人格として認めない暴力に満ちた冷たい思想であり、その残酷な支配が、「和」という情念を込めた言葉で美化され、曖昧化され、誤魔化されているのである。)

さて、以上のような文脈で、全体主義に仕えるための悪なる労働に、クリスチャンは従事してはいけないし、それがクリスチャンの使命でもない。それはやればやるほど人を不幸にするシステムであり、そのような呪われた文脈で不毛な労働に関わることがクリスチャンの召しではないのだ。

それでは、もう一度、問うてみよう、永遠に至る実を結ぶために、人はどんな労働に従事すれば良いのか?一体、真に実を結ぶ正しい労働とはどういうものなのか?

このことについて、聖書を頼りに判断するならば、第一に「人の奴隷になってはいけない」ことが分かる。つまり、真に正しい労働とは、不正な人間、悪党、怠け者、強欲な詐欺師どもなど、この世の不正な悪人たちの利益のために、クリスチャンが彼らの身代わりになって苦しみ、その悪事の片棒を担ぎ、彼らの不正の尻拭いをすることではない、と分かる。クリスチャンはそのような不正な仕事からは一切手を引くべきであり、そのような仕事をどんなに懸命に果たしても、悪魔の喜びを増し加えるだけで、自由にも解放にも至ることはない。

むしろ、クリスチャンはこれらの悪人どもに対し、公然と正義と真実を突きつけ、彼らの嘘と悪事を白日の下に晒し、彼らに償いを要求し、悪事を終わらせるべきなのである。その戦いを一歩も退かずに行うべきである。

しかし、ここで大抵の人々は言うだろう、「またそう来ましたか。でもね、ヴィオロンさん、その方法では、我々はきっと犠牲にされるだけですよ。正論を述べたからと言って、誰が力のない者を相手にしますか。報復されて潰されるだけですよ。あなたは未だにそれが分からないんですか。あなたが引き合いに出すソビエト政権でも、あまりにも多くの人々が、当局に歯向かったために殺されたり、収容所送りになったんじゃありませんかね。空気に歯向かって、権力に歯向かって、どうやって生き残れるんですか。もっとひどい犠牲にされるだけです。それくらいなら、私たちはまだ搾取されていた方がマシです。」

言っておくが、こんなにも臆病でやる気のない人々は、初めから説得するだけ無駄である。どうせいつまでも永遠に搾取されるしかないだろう。筆者はその運命に反対しないし、彼らの意気地なさに指一本責任を負うつもりもない。彼らは言うだろう、抵抗して殺されるよりは、いつまでも搾取されている方がまだマシだと。しかし、その搾取でさえ、明日はもう持ちこたえられないかも知れないのだ。貧しさの極みまで収奪され、明日には命さえ奪われるかも知れないのだ。あるいは、悪党どもの悪事の全責任を身代わりに負わされて、全ての名誉を失い、トカゲの尻尾切りで、自由を失うかも知れないのだ。それでも、その方が公然と抵抗して反撃を受けるよりはまだマシだと、この人々は本気で言うつもりなのであろうか?自分だけはそうならないと言いたいのであろうか?どこまでも愚劣で甘すぎる予想だと筆者は言わざるを得ない。

もしこの人々の中に自分はクリスチャンだと思っている人間があるなら、言っておかねばならないが、クリスチャンに対する悪魔の攻撃は、世人に対するものよりもはるかに激しいものがあるのだ。もしクリスチャンが悪魔に抵抗せずにまんまとその言いなりになるなら、世人には生き延びられる可能性があっても、クリスチャンだけにはその術は決して与えられないだろう。もしクリスチャンが悪魔の拷問に抵抗せずに身を任せれば、世人の三分の一の時間で死に絶えるだろう。クリスチャンは一般的にもともと世の中で最も無力な部類の者たちから成っているのであり、そんな人間が、武装を自ら解いて悪魔の毒牙にかかれば、二度と戻って来る術はない。悪魔はとりわけ激しい憎悪を込めて、自分の作った収容所全体への見せしめとして、真っ先にクリスチャンを血祭りに上げ、憎しみの限りを尽くして痛めつけるであろう。

従って、クリスチャンには「長いものに巻かれて」、不正に身を委ね、心を悪魔に売り渡して生き延びられる選択肢など初めから存在しないことをよくよく言っておかねばならない。悪魔との妥協などもあり得ない選択肢だ。全ての要求を飲んで敗北して死ぬか、徹底的に抵抗して立ち向かって命を勝ち取るか、二つに一つしか道はないのだ。クリスチャンは神に仕えるために召し出された一群であり、それ以外の生き方は許されない。塩が塩気を失えば、人からだけでなく、神からも見捨てられる。そこで、クリスチャンが無事に命を保っていられる道はただ一つしかない、たとえ全世界の否定に出くわしたとしても、神に従い、悪魔に抵抗すること、すなわち、自分の全存在をかけて、常に真理の側に立ち、命がけでこれを守り抜き、あざける者の座に座らず、悪党の仲間にならず、正義に立ち、虚偽を退け、真実に生きることである。虐げや、不法や、搾取からは全力て遠ざかり、身の潔白を保つことである。自分が悪を行わないだけでなく、悪事の犠牲になってもいけない。

もしこのような文脈で、悪魔に立ち向かうという原則を本気で実践すれば、その過程で、おそらく、信者は誰しも戦い方が分かって来るであろう。この戦いは、最初から完全な勝利というわけに行かないかも知れないが、信仰が残っている限り、方法論を磨くことができ、反撃によって潰されることもない。なぜなら、どんな凄まじい反撃によっても潰されないだけの圧倒的な命の力を、信者はすでにキリストを通して内側に持っているからである。そこで、この世の人間にはできないことが、キリスト者にはできる。中途半端な抵抗では勝てないかも知れないが、勇気を持って、徹底的な抵抗をすれば、必ず、勝つことができる。なぜなら、我々に与えられている御名の権威、我々に行使するよう委ねられた御名の権威は、この世の全ての権威を超えるからである。取り組めば取り組むほど、この戦いに勝利するコツが分かるはずである。

このことは、筆者が表向きクリスチャンを名乗っている偽善者どもの悪意ある中傷や脅しに遭遇した時、御言葉をどのように用いて戦ったか、また、どのように信仰によって確信に立ち、その告白によって、敵の嘘を打破したか、筆者がどのように彼らが筆者になすりつけようとした嘘の罪状書きを退けたか、などを思い出してもらえば分かるはずである。筆者はこれらの戦いで決してやられっぱなしになったことはなく、覚えている限り、全ての戦いで勝利をおさめてきた。

敵の咆哮は、現実に差し迫った脅威のように感じられるかも知れないが、御言葉によって徹底的に立ち向かい、その嘘を木っ端微塵に粉砕すれば、しょせんその脅しは実体のない空虚なものに過ぎなかったことが証明される。それが証明されるまで、真実を貫き通すことである。それを貫徹すれば、敵の撒き散らす嘘や脅しは、当初どんなに大きく見えても、真実の前に到底立ち仰せる力のない、実体のない弱々しいものであり、恐れを持つ者にしか効果を持たないことが分かるだろう。他方、その嘘の軽薄さに比べ、御言葉は、永遠に揺るぎない神の重い約束であり、大砲のような威力で嘘を粉砕し、物事の真実なありようを暴露する。御言葉は、神に贖われた者はもはや罪ゆえの恐れを感じなくて良いことを教えてくれる。小羊の血に立脚することで、勇敢に戦って、敵の嘘を暴き、全ての恐れを退けることが可能になるのである。正しい道を守るためならば、どんな犠牲を払うことも厭わないし、どんな反撃をも恐れないと言える心境に至るまで、あなたの戦いを突き進みなさい。そうすれば、嘘は必ず力を失い、嘘て塗り固めた敵の要塞は崩れる。

さて、そろそろのこの記事を締めくくる時が来たが、この世のバビロン経済は、ソビエトの強制収容所と同じように、あなたに囚人番号(マイナンバー)の烙印を押し、いついつまでもあなたを囚人として、収奪の対象とすべく、脅し、不当な命令を下し、逃げようとすれば、長い罪状書きを持って、あなたを罰しようと追いかけて来るであろう。それはちょうどカルト宗教が金づるとなる信者を逃がすまいと、手ひどい恫喝によって逃げ道を塞ごうと囲い込む時と同じである。

しかし、あなたはこの恐るべき負債だけから成る汚れ切った世界から足を洗うことを決めたのだ。だとすれば、この決意を貫徹せねばならない。追っ手に対して、あなたはキリストの十字架の上で無効とされて破り捨てられた罪の債務証書を突きつける。あなたは神に贖われた聖なる者なので、彼らにはもはやあなたを罪に定める権限がなく、あなたを奴隷として使役する権限もないことを高らかに宣言する。あなたにはもはや世人と同じように罪の奴隷として収容所に拘束されて実りなき不毛な苦役に従事させられるいわれは全くなく、悪党どものやりたい放題やった後片付けや悪事の尻拭いを身代わりに負わされる筋合いもない。そのような理不尽な重荷をあなたに課したことで、むしろ彼らこそあなたに謝罪と償いをせねばならない。

つまり、罪に定められるべきはあなたではなく、あなたを収容所に閉じ込めようとした彼らの方なのだ。その事実を宣告して、彼らの前ではっきりさせねばならない。彼らが強欲にもあなたを収奪の対象とし、犠牲者にしようとした魂胆が悪であることを明白にせねばならない。この結論を、彼らが認めるまで、恥じ入るまで、その目的を諦めて撤回するまで、貫き通さねばならない。あなたは彼らの奴隷ではないことを思い知らせなければならない。そうして敵に目的を諦めさせ、償いをさせ、あなたが自由と高貴さを取り戻した後に、そうして敵から得られた戦利品を手に、あなたはこの呪われた実りなき労働にさよならを告げて、もっと有益な人生を生きるために、堂々と収容所を出て行くのである。そこから先、あなたは二度と自分の労働の成果を悪党に掠め取られないよう注意しなければならない。共産主義は終わったのである。あなたの勤労の実は、あなたを栄えさせるためのものであり、怠け者や悪党のために用意される助けではない。あなたは自分の仕事の成果がきちんと自分のものとされる職業を選ばなくてはいけない。

繰り返すが、あなたがクリスチャンである限り、あなたには強制収容所の中で囚人となっていては生き延びられる術はない。他の囚人には生き延びられても、あなたにだけは無理だろう。あなたがもし生きたければ、収容所当局に従うのをやめて、彼らを断罪し、屈服させて、戦利品を持って、娑婆にでることしかない。彼らとは違った秩序に生きるしか方法はないのだ。収容所がどんなにあなたを罪に定め、刑期を増し加えようと追って来ても、あなたはこれに勝つことができる。そのためにこそ、他の囚人にはない恐るべき御名の権威が、血による贖いが、死を打ち破った復活の命が、あなたに与えられているのだ。それはどんな獄屋の扉をも開けられる自由の鍵である。この約束の確信に立っている限り、あなたさえ怖じけづいたり、退却しようなどと願わなければ、戦いに負けることはない。もしあなたが真に贖われているなら、あなたは自由人であって、囚人ではないのだから、むしろ、収容所があなたの言い分によって揺り動かされ、震え上がらねばならない。あなたには彼らの罪を指摘する権威も与えられている。そこで、あなたがこの正当な権利を行使さえすれば、大魚がヨナを陸に吐き出したように、罪による収容所はあなたを収容し切れなくなって、これ以上我々を苦しめないでくれと懇願しながら、あなたを外に吐き出すであろう。

このようにして戦いに勝利し、敵の要塞を打ち壊す秘訣を知れば、あなたは、天に永遠の実りをもたらす労働とは何だったのかが分かるだろう。つまり、「悪魔のわざを打ち壊すこと」、「敵の仕掛けた罠を見抜き、敵の要塞を破壊すること」、「敵の嘘の圧迫や支配を無効にすること」そのものが、天の父なる神の御心にかなう「労働」なのであり、そのような信仰による激しい戦いに勝利することで、実際に敵の城が陥落し、それに伴って必ず地上の富も何らかの形で明け渡され、収穫がもたらされることが分かるであろう。

こうしてキリスト者は、全宇宙の中心であるキリストを内にいただきながら、全てのものをキリストに従わせ、地に御心を打ち立てるのに貢献する。それが、キリスト者の役目なのである。これ以外の方法で、キリスト者がこの地上を治めることはできない。

そして、その戦いは、地上の権力者におもねることや、人の生まれ持った資質や手練手管にはよらず、また、地上の権力によって権力を倒すことにもよらない。その統治は、嘘をついたり、収奪したり、盗んだり、卑劣な方法で他人を騙して支配することにはよらず、あくまで真実を貫き通し、それに従う人々を増やすことによるのである。力づくで敵を倒すことによって、敵を支配するのでなく、何が真実であるかを暴露し、宣言し続けることにより、敵がやがて自ら作り出した嘘を放棄して、恥じ入り、かつ恐れ、退散せざるを得なくなるまで追い詰めるのである。

こうして戦う目的は、キリスト者自身がさらなる自由、さらなる解放、さらなる豊かさへと達し、それによって喜びに溢れて天の神を誉めたたえ、神に栄光を帰するためである。それは霊性の階段を上って行くこととは違うが、キリスト者の解放は一挙には訪れない。キリスト者の地上の歩みは、絶えざるエクソダスの連続であり、復活の原則は、必ず死の原則とセットになって働く。時に圧迫は想像を超えるものにもなるが、キリスト者が霊の内側で獲得した自由を失わずに掴んで、それを真っ直ぐに見つめて進むなら、実際に、それに反する全ての外側の現実が打破され、圧迫は消え去り、信者は内側の解放の確信が現実になるのを見るだろう。こうして、クリスチャンは主の十字架の死と復活に絶え間なく同形化されながら、栄光から栄光へと、主の似姿へ変えられて行く。栄光から栄光へと変えられる秘訣は、死の圧迫の只中にあっても、まことの命だけを見つめ続けることにある。これは信者の外側の解放であると同時に内側の解放であり、試練の只中で、命の冠をもたらす信仰が増し加わって行く過程である。

全信者をプロレタリア化してこの世の堕落したバビロン体系に仕える奴隷とするプロテスタントの誤った理念から、愛する御子キリストの支配の中へのエクソダス

さて、一つ前の記事では、「信者は世俗生活において労働を通じて社会貢献を果たし、自らの天職をまっとうすることで、神に奉仕でき、キリスト者としての召しを全うできる」というプロテスタント独特の考えが誤っていることを書いた。
 
プロテスタントにおける以上のような(天職としての)「労働」という概念は、社会への貢献や奉仕という、表向きの輝かしい名目とは裏腹に、その実、信者の奉仕の対象を、巧妙に神ご自身ではなく、人間社会(この世)にすり替えるものであり、すでに書いた通り、その労働が生み出される動機も、神への愛に基づくのではなく、むしろ、それは自分が神に救われているかどうかが分からないという状態にあるプロテスタントの信者が、自己の抱える不安や恐怖から目をそらそうとして生み出す現実逃避のトリックでしかない。そこで、そうした文脈における労働は、神からの逃避にはなっても、神のための奉仕として実を結ぶことはなく、信者の状態を真に変えて神へ近づけるきっかけともならないのである。
 
つまり、プロテスタントにおける以上のような労働の概念は、何かが決定的に狂っており、おかしいのだと言える。その労働は、信者の神への奉仕としてなされるものでもなければ、隣人愛からなされるものでもない。むしろ、「神が分からず、救いが分からない」という不安に苛まれている信者たちが、死後、神のさばきの座に立たされる瞬間まで、地上生活で感じるあらゆる不安や恐れを少しでも和らげようと、この世における人間社会の生活に埋没し、そこで人々に熱心に奉仕することによって、内心の救いの確信の欠如を、善行などの外側の立派な行動によって補い、神から承認を受けられない分を、この世の目に見える人間からの承認や賛同によって埋め合わせようとして行う、目くらましのような時間稼ぎであり、アリバイ工作のようなものでしかない。

そんなプロテスタントの信者にとっては、世俗生活における労働だけでなく、教会生活における奉仕と献金さえも、「自分は神に救われていないかも知れない恐怖」を紛らすために行われる。

本来、信者の地上の組織としての教会への所属は、外見的な要素に過ぎず、それはその信者が真実、救われて神に受け入れられているかどうか、天のいのちの書に名が記されているかどうかをはかるものさしとはならない。ところが、プロテスタントの多くの信者は、教会に所属し、牧師の説教を熱心に聞き、熱心に献金と奉仕を行なうことでしか、自らの信仰を維持できないと思い込んでおり、教会への所属を失えば、自分は道に迷って信仰を失い、救いから漏れ、神に見捨てられて悪魔の虜とされるだけであるかのように思って怯えている。
 
そのような転倒した考えがなぜ生まれるのかと言えば、プロテスタントの教義上の欠陥のせいで、この宗教の信者たちの大半には、もともと救いの確信が内側に無く、その得られない確信を、手っ取り早く他者(牧師や他の信徒たち)からの承認へと取り替え、一体、神が自分に何を願っておられるのか、神の御心が分からない分だけ、自分たちの熱心な奉仕活動によって、自分が救われた人間であることを、人前にアピールし、客観的に証明することで、埋め合わせようとしているからであり、教会をそのようにして自分の正しさを証明するための場としてとらえ、教会への所属を捨てられないからである。

このような信者たちにあっては、この世における労働も、教会における自己の正当性の主張と基本的に同じ動機で行われる。つまり、全ての奉仕は、信者たちが、自分は贖われた新しい人であることを世間にアピールすることで、自分の内に欠如している内的確信を、外側における自分の立派な行動と、世人からの承認によって補うために行われるのである。

こうした人々の中では、救いの確信について、完全に転倒したさかさまな思考が出来上がっていると言える。彼らは救いの確信を、人が信仰を通じて、個人的に心の内側に神に直接啓示されて得るものではなく、自分の行動や、人からの評価や承認などといった、外的な、地上的な要素によって確認可能なものであるかのように考えているのである。

彼らは、神の救いを、まるで企業が社員に配る社員証のように、教会などの団体に所属していることによって、集団的に保障されるものであるかのように思い込んでいるのである。

こうした信者たちは、教会への所属という外側から目に見えるバッジによって、内的確信の欠如を補うべく、熱心な奉仕活動(労働)を行い、自分に(偽物の)救いのバッジを与えてくれる団体に熱心に仕えようとする。だが、そのバッジは、聖書に記された神の真実な救いのように、信仰に基づいて、信者に一度限り永遠に与えられるものではなく、信者が熱心な奉仕活動を絶え間なく継続することによってしか貸し出されないものである。

そこで、プロテスタントの信者たちは、救いの確信がない不安を、人の目に正しいと認められる活動によって補おうと、教会の内・外に関係なく、どこにいても、自己の本質(不安や恐怖や罪悪感)を紛らすための奉仕活動にいそしまざるを得なくなる。だが、こうした動機からなされる彼らの労働は、自分自身の不安を覆い隠すために行われる自己欺瞞であって、神や人への奉仕ではないのである。
 
マックス・ウェーバーが書いたように、プロテスタント特有の現実逃避願望としての労働を奨励する思想が、本当に資本主義の発展に貢献したのだとすれば、そのような文脈における「発展」は、人間にとって真に望ましいものとは言えず、むしろ、資本主義そのものが、プロテスタントの信者の奉仕と同じように、人類全体が自己の恐怖から逃れ、自己の本質を偽るために生み出された壮大なフェイク、現実逃避のしかけでしかないということになろう。
 
クリスチャンであれば、この世の経済体系が、悪魔の支配下にある堕落したものであり、経済のみならず、文化的にも、この世の全ての体系が、堕落した複合的なバビロン体系であることは否定しないものと思うが、資本主義もその一部であり、それは人類の現実逃避願望から生まれて来た偽りの「マトリックス」であって、信者・非信者を問わず、真理から目を背けたい人々が互いに寄り集まって、神から遠く離れて堕落している自己の罪なる本質を覆い隠し、自己の惨めな姿から目を背け、自分は正しく立派な人間になろうと不断の努力をしている善人であるから、神も人も一目置かざるを得ないはずだと、互いに誇り合い、虚飾の外見を見せ合って、それをあたかも本物であるかのように承認し合い、慰め合うために作り出されたフェイクの体系なのである。

人類が飽くことのない経済発展を目指すのは、そのような偽りの努力の果てに、社会を向上させ、いつかは理想状態にたどり着き、神に至ることができるという驕りがその思いの根底に存在するからである。
 
このように、この世の偽りのバビロン体系は、人類が自らの努力によって社会に理想状態を来らせることができるかのような幻想に基づいて出来上がっており、そこで労働を通じてこの体系に仕える人間は、たとえるならば、フェイスブックのようなSNSに没頭する人間のようなものである。孤独な人間がある日、SNSを開設し、そこにとりわけ良く撮れた自分の写真や、耳障りの良い言葉の数々を並べて、面白い話題をちりばめて記事を作り、たくさんの「いいね!」をもらえば、何かしたような気になって、孤独も紛れる。だが、そのようにして飾り立てた写真は、本人の偏った不真実な姿しか示しておらず、耳障りの良い美しい言葉をどんなに並べても、それは人の内面を1ミリたりとも変える力とはならない。しかも、「いいね!」のほとんどは、義理で押されたお世辞の賞賛に過ぎず、「友達」の大半は、久しく現実生活でコンタクトも取っていない縁遠い人々であり、どこで出会ったかすらも思い出せないような人々も数多く含まれている。

SNSの内容が現実から乖離していることは、本人も重々承知であるが、それでも体裁を保つためには、果てしなく友達承認を続け、記事を書き続けるしかない。こうして、現実とは似ても似つかない、虚飾にまみれた、偏った、偽りの「マトリックス」が出来上がり、そこでは、誰もが自己の正しいイメージを見失って、虚像が独り歩きして行く。当初は人間が自己の満足のために始めたものであっても、途中からは、人前で自己の「有用性」や「幸福で理想的な状態」を絶え間なく証明しなければならないという強迫観念のせいで、やめたくてもやめられなくなり、最後にはすっかりSNSの奴隷状態となり、捏造してでも自慢話を披露して、「あらまほしき人間像」の演出を永遠に続けねばならない羽目に陥るのである。

プロテスタントにおける労働の奨励はこれによく似ている。ここで言う労働とは、ただ単に人が己を養うためだけに働くという単純な概念ではなく、家族を養ったり、自分の適している職業に従事することで幸福を得るというものでもなく、「天職を通じて神の召しを果たす」という、何やらよく分からない概念であり、そのような概念としての労働は、内容が規定されていないだけに、本人にとっても、とてつもない重荷になりかねない。

しかも、「神が分からない。救われているかどうかさえ分からない」という不安を抱える信者たちが、自己の不安を紛らすために、「天職を通じて神の召しを果たす」ことに励むのであるから、一体、そんなことがどうして可能だろうか。それではまるで現実生活の重荷から逃れて空想の中で気を紛らしたい人々が、SNSに集まって繰り広げる果てしない談話と同じく、神が分からず、自分が分からず、自己の本心と直面することを恐れ、自分に対する神の召しが何であるかすらも分からない人々が、ひたすら神を無視して、神を抜きにして、神を納得させるために行う、独りよがりな、自画自賛の、自己欺瞞の活動でしかなくなる。どんなに努力しても、そのような現実逃避的な動機からなされた奉仕や労働が、神の御心にかなう成果をもたらすことはなく、真に人類の幸福に寄与するものになることもないであろう。

筆者は個人的に、プロテスタントにおける労働奨励の理念を、「全信者のプロレタリア化の理想」と呼んで差し支えないのではないかと考えている。

プロテスタントの教義の中には、プロレタリアートという言葉こそ使われていないものの、もともと「労働を通じて社会貢献することで、人間は神の召しに応え、贖われた新しい人間としての生き方を提示できる」という発想があり、この宗教の中には、社会主義思想の登場以前に、「すべての信者をプロレタリアート化することで、神の国を到来させることが可能になる」という、発想がすでに提示されていたのであった。

一般に、プロテスタントの信者は、教会の中においては、聖職者階級を支えるための道具(労働力)として自分を差し出し、教会の外においても、社会を発展させるための道具(労働力)として自分を差し出す。

プロテスタントの信者は、このように、教会の内外を問わず、どこにいても熱心に労働や奉仕に励み、常に自己吟味を重ね、少しでも自分の目に、また、周りの人々の目に、自分をあるべき人間と認めさせるために必要な努力や学習を惜しまない。彼らはそういう努力が、神の召しに応える行為であって、神の国を地上に到来させる秘訣であるかのように思い込んでいる。

そして、このようなプロテスタントにおける「全信者のプロレタリア化」の精神こそ、資本主義の発展の原動力となったのであり、さらには、この精神を受け継いで、社会主義思想も生まれたのである。

共産主義ユートピアという発想は、それ自体、聖書における神の国の悪魔的模倣なのであるが、労働を通じて人間が自己を改造し、理想的な人間に近づけるという共産主義の理念は、もとを辿れば、その土台はプロテスタントの「天職を通じて神の召しを全うできる」という考えにあったのではないかと思われてならない。

ここで注意すべきは、筆者が、共産主義における労働の概念だけが間違っているのではなく、プロテスタントにおける労働の概念も同じほど非聖書的で間違っていると考えている点である。

筆者の見解では、労働を通じて人が自己改造して理想状態に近づくことができるという考えは、思想・宗教の形態を問わず、根本的に全て間違っている。なぜなら、労働を通じて自己改善できるという考えは、肉体改造を通じて人の自己を変革しようとするのと同じく、外側から人間を改造する試みであり、内側からの変革ではないからである。それゆえ、これは聖書の真理のベクトルとは完全に逆なのである。聖書の提示する人間の変革は、常に信仰を通じて、人間の自己の内側(霊)からなされるものであり、人間の外にある影響力を通してでなく、その人の内側で、神との個人的な交わりを通してなされるものだからである。
 
労働を通じて信者が神の召しに応答し、理想的人間に近付けるというプロテスタントの理念が誤っていることの証拠の一つとして、プロテスタントの「全信者のプロレタリア化」の理念は、教会の中においては、牧師制度のような聖職者階級のヒエラルキーをより一層、強化・固定化する材料となり、教会の外においても、バビロン化したこの世の経済体系の差別や格差を助長・固定化するのに大いに役立ったことが言えよう。熱心な奉仕や労働それ自体は、人の目にあたかも良いもののように見え、他者への愛や思いやりに基づいて行われるかのように見えるかも知れないが、それが結局、社会における差別や搾取をより一層、強固に固定化する要因になっているならば、果たして、そのような「労働」や「奉仕」が本当に社会に貢献していると言えるであろうか?

さらに、このような観点から、もしもクリスチャンは社会的弱者に対して冷酷だとか、差別を助長しているなどといった非難が浴びせられようものならば、プロテスタントの信者たちは、早速、今度は、その罪悪感を払拭するために、社会的マイノリティの救済のための各種の事業に乗り出して行く。

だが、こうした他者への奉仕が行われる動機は、全て信者が自己の内側に持っている拭い去れない不安や罪悪感をごまかすためであり、神との関係で救いの確信を持てない信者が、人との関係において自己の正しさを主張するために行われているのである。このような動機では、どんなに他者のための奉仕を装っていても、その労働は神への従順や、隣人愛から出た行動ではなく、すべては結局、自分のためであり、しかも信者が自己の本質から逃避するために生み出された自己欺瞞の活動でしかないのである。

だから、どんなにプロテスタントの信者が「天職」や「社会貢献」といった言葉で美化しようとしたとしても、こうした信者たちの行う奉仕や労働の目的は、本質的に、神からの逃避、自己からの逃避、自己の本質を偽ることにあり、そのような逃避行動に熱中すればするほど、その信者たちは、神に近づくどころか、ますます神から遠ざかり、本当の自分自身が分からなくなっていく。
 
プロテスタントの信者たちの世俗における労働だけではなく、彼らが作り上げる「教会」も、彼らの(贖われていない)魂の状態から来る心の不安や恐れを覆い隠すために作り出される現実逃避であり、巧妙な「マトリックス」の一環なのである。

こうした信者たちは、この世においても教会においても、自ら作り出した「マトリックス」に埋没し、そこで何らかの「役割」を演じることで、自分の真の姿から目を背ける。そして、自分は他者に奉仕しており、他者にとって「有用」な人間であるから、あるべき状態にあって、価値を持つ人間であると考え、これを救いの代替物として、自分は神の御前で単独では何者なのかという恐怖に満ちた問いと直面することを避けるのである。

信者は絶え間なく自己の外側での活動に熱中し、他者との関係に埋没することにより、神が分からないことからくる自己の不安、恐れ、罪悪感などから目を背け、そうした意識のせいで感じられなくなっている自己価値を、自分自身の善行や、他者からの承認や賛同といった外的な要素に置き換えるのである。

信者たちは教会や社会の中で、奉仕や労働を通じて「役割」を果たし、その役割を通して作られた自分のイメージを自分自身(もしくは自分に対する神の召し)にすり替え、自らが果たしている役割に他者からの承認や評価を受けることで、人の目から見た評価を、自己価値とすり替えるのである。こうして、他者との関係性の一切ない、ただ神と差し向かいで、神と自分しかいないところで、自分とは一体何者なのか、自分の価値とは何なのか、自分は本当に贖われているのか、神に受け入れられているのか、罪は赦されているのか、神は一体自分をどうご覧になり、自分に何を求めておられるのかといった一連の疑問と向き合うことを避けるのである。表向きには、神の召しに応じることを口実にしながらも、その実、ひたすら人間社会の生活に埋没することにより、神ご自身と向き合うことを避け続けていると言って良い。
 
こうして、プロテスタントは、信者が差し向かいで神とだけ向き合い、人間を通してではなく、ただ聖書の生けるまことの神ご自身を通して、聖書の御言葉の意味を理解し、キリストを内に啓示され、キリストの義と聖と贖いを、神が自分のために個人的に備えられた確かな恵みとして受け取るのではなく、むしろ、そのような揺るぎない救いの確信は、生きているうちに得られるものではないとして、信者が神と向き合わないために得られない救いの確信を、この世の人々に奉仕し、人から受ける承認や賛同によって埋め合わせることができるかのように教え、神と出会ってさえいない、贖われたかどうかも分からない信者が、熱心な奉仕や労働によって、あたかも神に近づけるかのような、偽りに満ちた教義を提示するのである。

だが、どんなに信者たちが行いによって自分を正そうと努力しても、外側の事柄は決して内側の事柄に取って代わらず、外側の目に見える人間の客観的な評価が、人の内的な自己価値を決めるわけでもない。どんなに人から承認を受け、社会で立派な役割を果たして、自他共に満足したとしても、その満足は麻酔薬のような束の間の効果しか持たず、人が内心で抱える根本的な恐怖や不安を寸分たりとも払拭する効力を持たない。真のリアリティは、信者の外側で起きることにはなく、内側で起きることにある。

しかしながら、プロテスタントの教義には、もともと神の御心をとらえがたいものとみなし、人間の価値を、神との関係性において規定されるものではなく、人間同士の関係性を通して規定されるものであるかのようにみなし、信者が神にとって有用な人間になることではなく、目に見える他者にとって有用な人間になることを、神の召しに応えることと同一視するという著しい概念のすり替えがあった。

その概念のすり替えこそ、プロテスタントの信者たちを誤謬に向かわせた最大原因なのであり、そのような転倒した文脈で信者に奨励される奉仕や労働は、結局、信者を人間の利益のために道具化する効果しか生まず、プロテスタントは、信者が人の目に有用と認められる奉仕を続けることにより、神の召しに応えられるかのような偽りを教えることで、信者の存在を、神の目に絶対的に尊い存在ではなくして、社会において役割を果たし、人間の目に有用性が認められることにより、相対的に信者としての価値が高まるかのようにみなし、こうして信者を人間の利益と欲望を叶えるための道具に貶めてしまったのである。その結果、教会の中にも外にも、神の召しや新しい人間などという言葉からはほど遠い、人間の欲望にまみれた現実逃避のマトリックスとしての一大バビロン体系が築き上げられたのである。

筆者は、このようなものが「信仰生活」であるとは考えていない。この生活の中には、ただ人類の利益だけがあって、神が不在である。

こうした文脈における労働の概念には、神の国とか、神の召しだとか言った高尚な言葉よりも、むしろ、囚人の懲罰労働のイメージの方がよく合っている。

自分が確かに救われて神に受け入れられていると信じることのできる人々は、神のさばきを恐れることなく、救いが失われるのではないかという不安や恐怖に苛まれることもなく、自分が他者に奉仕しているかどうか、他者から承認や賛同があるかないかに関係なく、安息していられる。自らの内心の恐怖から逃れるために、絶え間なく外側の活動に熱中して労働に従事したり、自らの努力によって、自分がいかに素晴らしい人間であるかを社会に言い聞かせる必要もない。

だが、自分が確かに救われているという確信がなく、キリストの贖いの完全性を信じられず、自分が罪赦され、神に受け入れられているという確信のない人間にとって、この世における生活は、自分に対する神の厳しい審判と罪の結果としての刑の執行を待つための恐怖に満ちた時間でしかない。そこで、神の恐るべき審判を待つための待合室でしかない地上での厄介で心苦しい時間をどうやってやり過ごすかということが課題になる。
 
救いの確信の欠如した人々は、この恐れを紛らすために、互いに寄り集まって、慰め合い、自己肯定し合うための各種のもっともらしい奉仕活動を生み出し、これを贖罪行為として、互いに仕え合うことで、自分は罪の償いを果たしたのだと自他に言い聞かせようとする。だが不思議なことに、その罪の意識は、決して真実、人の罪を赦す権限を持っておられる方には向かわず、むしろ、罪を赦す権限のない罪人同士の告白のし合い、傷の舐め合い、慰め合いという形で終わって行くのである。

こうして、互いに内心の恐怖を抱える人間同士が、神から逃避するために集まって慰め合うために行われる奉仕や労働は、神や隣人への奉仕にはならないどころか、それは人が自己の罪なる本質から目を背け、他者との関係性の中で偽りの自己像を作り出すことによって自己を欺き、内的な救いの確信がないのに、自分は贖われた正しい人間であると自己の正当性を主張しようとする「イチヂクの葉同盟」でしかなく、それは人類が神に逆らって、自力で自分を贖おうとする神の最も忌み嫌われる反逆的な「バベルの塔建設の試み」でしかないのである。

問題は、一体、信者は誰のための奉仕者、誰のための労働者なのか、という点にある。プロテスタントの信者が、牧師一家の生計を支えるために、あるいは組織としての教会の拡大のために、熱心に奉仕と献金に励むことと、信者が神の召しに応答し、神に仕えることは完全に別の事柄である。また、信者がこの世の不信者を助け、この世の社会を発展させるために熱心に労働に励むことと、神の召しに応答することは必ずしも同義ではない。何よりも、これらの奉仕の対象は、常に人間であって、神ではない。

パウロは自分自身を「キリストの奴隷」と呼んだが、今日のプロテスタントは、信者を「キリストの奴隷」よりも「教会組織の奴隷」、「聖職者の奴隷」、「社会の奴隷」、「この世の奴隷」に変えようとする各種の運動を生んでいる。

かつてプロテスタントには、ハドソン・テイラーのような宣教師や、ジョージ・ミュラーのような信仰の偉大な先人たちが存在し、そうした信仰者たちは、大衆を対象とする大規模な伝道や、困っている孤児たちを信仰によって養うという、一見、社会奉仕活動にも似た活動を行った。

だが、世が終わりに近づけば近づくほど、そのように大衆の心を動かして社会に変革をもたらす偉大な信仰者の時代は過ぎ去り、むしろ、大衆受けするものの中に潜む「セルフ」の堕落が、この上なく明らかになって、ますます「セルフかキリストか」の厳しい選択を信者一人一人が迫られることになっているように感じられてならない。

今日、一般大衆に大規模に影響力を及ぼそうとする全ての活動は、反聖書的で、堕落したものであり、たとえクリスチャンの活動であっても、大衆の心を掴むことを目的にし始めた時点で、神に向かう純粋な信仰から逸れてしまう。

さらに、目下、世界経済が行き詰まりを迎えていることは、誰も否定しない事実であり、そこで従来通りの考えで、大衆を喜ばせ、「社会を発展させる」ことを目的に労働に従事したとしても、かえってますます矛盾が深まるだけであることは、誰しも気づいていることであろう。現在の我が国において、年金制度は崩壊に向かい、税は正しく運用されず、国富はまるでATMのように米国へ注がれ、吸い取られている。マスコミや、大学や、政府からは、良心的な知識人が次々と排除され、権力を批判する言論は封殺され、人々の良心の声は踏みにじられ、犠牲とされている。この国はすでに社会主義国と何らか変わらない歪んだイデオロギーに基づく偽りの社会となっており、あたかも一般大衆の信任を得たかのように、公の場で繰り広げられる運動は、ことこどく虚偽と化しているという印象を受けざるを得ない。

このような現状で、人がただ社会の発展のために己を労働力として差し出して生きるだけでは、実際には何の社会貢献にもならず、そのようなことが決して人の使命ではなく、正しい生き方でもないということは、多くの人々がすでに理解しているところであろう。

むしろ、この状況下で、人がただ黙って労働に従事することは、バビロン体系とそのイデオロギーを延命させる措置にしかならず、それは「一億総プロレタリア社会を作り、労働を通じて自己改善することで、理想社会を到来させよう」という、神に逆らう人間中心の歪んだイデオロギーを、人が無意識に肯定し、自らをその「マトリックス」の発展の礎として捧げることにしかつながらない。

そんな奉仕や労働を通して、クリスチャンが神の召しに応えることはできないばかりか、それでは人間の幸福に寄与することもできず、社会貢献にもつながらないであろう。むしろ、社会をより不幸な場所とし、自分と他者を道具化して、より一層の不幸に追いやる原因を作るきっかけにしかならない。

キリスト者とは、本来、この世の君の支配する「マトリックス」としての世をエクソダスした人々である。キリスト者は、贖われていない人々の堕落した自己(セルフ)の集大成としてのこの世のバビロン体系を出て、御子の復活の命によって治められる領域に召し出された人々である。

この贖い出された新しい人々の目的は、すでに後にして来たエジプト・バビロンを振り返ってこれに仕えることにはなく、神に対して生き、御国の権益に仕え、神に栄光をもたらすことにこそある。そこで、キリスト者にあっては、人間を喜ばせ、自分自身を喜ばせ、滅びゆく地上の人々の欲望から成るこの世の社会をより一層、発展させるために、自らを奴隷のごとく差し出して仕えるという生き方はすでに終わっていると言って良い。

キリスト者は、人類の栄光のためではなく、神の栄光のために、キリストと共に死を経て、よみがえらされ、キリストの復活の証人として、この新しい命の領域の中で、神の国の統治を地上にもたらすための働き人として召し出されたのである。

だから、キリスト者はあくまで神のための働き人であって、この世や、この世の目に見える人間のための働き人ではないのである。たとえ他者に愛ゆえに奉仕するにしても、それは人間的な動機からなされるべき事柄ではなく、まして、神が分からない自己の不安や恐怖から逃避するために行われるのでは本末転倒である。だが、プロテスタントでは、この点において、極めて重要な争点がごまかされ、すり替えられており、御国のために召し出されたはずの人々を、再び、世の方を振り向かせ、信者が神からの承認を受けるのではなく、人(世)からの承認を受けるために生きるように唆す教えが語られている。そして、この教えは、信者が世人の前で自分自身の価値を自ら証明するよう促す。その手段が労働なのであり、己が労働を通じて、信者は天地の前に、自らの正当性を、自分が贖われた者であることを証明せよ、というわけなのである。

キリスト者がこのような無限ループのような悪魔的罠に、これ以上、はまっていてはならないと筆者は確信する。もしこのような偽りの囁きに耳を傾けるならば、クリスチャンは早速、ユダヤ教の時代に引き戻され、再び、律法の要求にがんじがらめになるだけであろう。社会の発展に貢献するとか、天職に邁進するとかいった、一見、もっともらしく聞こえる、美しい言葉に欺かれるべきでなく、そのようなところに自分の召しを置いてしまうと、その人は結局、見に見える人間や、この世の贖われていない人々の思いや、価値観、評価を通して、自分自身の価値を規定されてしまうことになる。

その結果、贖われた人々が、再び世の支配下に置かれることになるのである。世人は、信者がどんなに労働を通じて社会に貢献しても、「もう十分だ」とは決して言わず、「もっと寄越せ」、「まだまだ足りない」と言ってくるであろう。何しろ、人の魂の身代金は高すぎて、自分では払いきれず、人間が労働を通じて自己の罪を贖う試みは、永久に終わらないからだ。それはいつまで経っても登り切れないピラトの階段、グノーシス主義の果てしない偽りの霊性の梯子であり、信者が自分で自分を人の奴隷とすることと同じなのである。
 
神は、キリストを通して、信じる者のために必要なすべてをすでに備えて下さり、信者のために完全な贖いを提供して下さった。そこで、信者は、神の目に完全になるために、これ以上、自分の努力によって自分に何かをつけ加える必要はないのである。健全な労働は、自己を改造して理想状態に近づくために行われるものではない。絶えず他者との関係性において自分があるべき役割を果たしていることを確認することで、自己の正当性を主張するために行われるものでもない。

そのような文脈で、絶え間なく自己改造の努力にいそしまなくとも、神は信じる者をご覧になって、キリストをご覧になるのと同じように、「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ」と言って下さり、また、最初に創造された人類を見て満足されたのと同じように、信者を見て「甚だ良い」と言って下さる。

神が「甚だ良い」と言っておられるものを、何のためにそれ以上、信者が自己改造する必要があるのか。むしろ、キリスト者は、そういう不安を抱かせる世人の偽りの評価を、自分の心から完全に締め出し、絶え間ない奉仕を通して、自己を吟味し、自力で自己を改善することで、世人の批判を交わし、神の召しにも応じて、理想状態に近づけるかのような思い上がりを一切、捨て去るべきである。そして、自分の義と聖と贖いは、目に見えるどんな人間の評価にもよらず、ただキリストだけから来るものであり、自分は信仰を通じてそれをすでに受け取っている以上、自己改善は不要であることを認識し、キリストの贖いの完全性の確信に安んじると共に、絶え間なく社会の思惑を気にするのではなく、神は何を喜ばれ、何を自分に望んでおられるのか、それだけに関心を絞って生きるべきであろう。

信者の古き自己は、あらゆる点で不完全さしか想起させないであろうが、それはすでに水の中に沈んで、主と共に十字架で死んでいるのであり、もはや信者が注意を払うべき対象ではない。信者は、神の目に生きているのは、「もはや私ではない」ことを認識すべきなのである。そう、とてつもないことであるが、神はご自分の愛する子供たちを、キリストと同じ性質にあずかる者として見て下さるのである。だから、信者は自分自身を規定するものさしを、人間の評価や、社会の評価から、聖書の御言葉を通して注がれる神の変わらない眼差し、神の変わらない約束へと変えるべきなのである。そうしてこそ初めて、「私ではなくキリスト」が実現する。他者に仕えるにしても、全てはその次の段階の事柄であり、神との関係があるべき状態へ是正されて初めて、人への奉仕もなしうる。その順序は決して逆になってはならず、それが守られない時には、人間への奉仕が、結局、神への反逆へと結びつくのである。

たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは
あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。」(ローマ3:4)

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です」(ガラテヤ2:20-21)