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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

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あなたはどこにいるのか(3)

「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。・・・真の礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」(ヨハネ4:21-23)

この山でも、エルサレムでもなく・・・

クリスチャンの交わりを求める時に、この御言葉は筆者の心に常に警告のように響く。霊と真理によって天におられるまことの父を礼拝する、その真の礼拝は、他でもなく信者の心の中にあり、まさに筆者自身の中に存在するのである。

だから、自分自身の中にキリストをいただいている者が、あの山、この山、エルサレム、はたまた聖地と名のつく様々なセンターを訪ね歩く必要は全くない。

さて、前回の記事で、ある愛に溢れた姉妹との交わりと、彼女の突然の死について触れたが、少しだけそれを補足したい。

彼女にまつわる思い出にはさまざまな不思議が溢れている。まず、彼女の死は、彼女自身にとっては決して思いがけないことではなかった。彼女は死に対して万全の備えをしており、遺書から、墓から、何もかも生前に準備を完了していた。しかも、生前から、長い間、病み患いながら生きていたいという願いを彼女は持っておらず、特に終末の時代になる前に召されたい、という願いを、筆者の前でもよく口にしていた。だから、ほとんど苦しむことなく天に召されたのは、周囲の人々にとっては残念でも、彼女の願いが叶えられた結果だったと言えるだろう。

前の記事に書いたように、彼女の葬儀の日、葬儀場から出たバスが、渋滞で進みそうにもないので、筆者が途中で降りて、鎌倉の土産物屋に入ったのも、偶然ではなかった。ちょうどその頃、筆者は、家族の誕生日に向けて、家でプレゼントを用意していたのだが、少し前に、その中に入れようと思っていた他ならぬ鎌倉の土産物屋で買ったお菓子が、賞味期限が切れており、送れないことが判明したのだった。

新しいものを買わねばならないが、鎌倉へなど行く用事がなく、そんな時間もない・・・。当時、仕事に明け暮れていた筆者がそう残念がっていたところ、折しも彼女の葬儀の日、バスが思いがけなく懐かしい観光地を通り過ぎたのである。まさしく主の采配と感じられた。そうして、プレゼントは揃った。

筆者には、神が筆者の必要を覚えて下さり、不思議な形でそれを満たして下さったことが喜びでならなかった。そんなわけで、葬儀のように悲しい出来事が起きている最中にさえ、事この姉妹に関しては、まるで天から恵みが降り注ぐような有様であった。

彼女の葬儀の日、バスを降りて後、筆者は喪服のまま、一人で海や、観光地や、思い出のコースを巡り歩いた。ゴールデンウイーク中だから、どこもかしこも観光客が溢れ、江ノ電も満員であった。そんな観光地での喪服の一人歩きは、さぞかし場違いであろうと思われるのに、まるで幽霊人間にでもなったように、誰一人として注意を払う者もなかった。

その思い出の場所に、数ヶ月後に、今度はロシアの学者たちが訪れて来た。筆者が紹介した思い出の場所の一つ一つは、彼らの感嘆を呼び起こし、こうして、その場所は、全く別の思い出へと変えられるのだが、そんなことになるとは、当時は夢にも想像せず、ただ親しい友が一人地上から取り去られたことを寂しく思いながら、思い出の記憶を辿っていただけであった。

筆者の当時の心の思いは、神の他には知る人もなく、葬儀の場に訪れていた見知らぬ大勢の人たちとも、思い出を分かち合うことはなかった。だが、神はたとえ信者が口にせずとも、信者の心の中で起きていることのすべてをご存知で、悲しみを慰めに変え、失意を喜びに変え、欠乏を豊かに補い、孤独を祝福で満たして下さろうと、常に愛をもって待ち構えておられることが、あらゆる出来事を通して分かるのである。

しかし、同時に、神は決して信者の心が、人や、物、場所に執着することを望んでおられない。この姉妹との交わりも、束の間のようであり、彼女は、「ただ神だけに信頼を置くように」という忠告を残して地上から去って行った。

彼女は、筆者の働き方を見て、そのようにまで苦労して働かなくてはならない生き方に疑問を持っていた。それは筆者も同じであった。ある時期まで、筆者はこの国の年々悪化していく雇用情勢に絶望感を覚え、国外に出れば事情は変わるのではないかと思い、かなりあけすけにその希望を周囲の兄弟姉妹に語っていたこともあった。

そんな中、まるで渡りに船のように、ある時、筆者に海外出張を提案して来た会社があった。仕事に採用される条件として、モスクワ出張に応じよというのである。しかも、かなり長い期間の出張を想定しているようであった。

以前の筆者ならば、その提案に喜んで飛びついたであろうと思う。筆者はそれまでに幾人もの知り合いの兄弟姉妹に向かって、いかにこの国にとどまることに希望がないか、という話をしており、一度は、ロシアの知り合いが、まるでその確信を補強するように、日本に居続けても将来がないので、早くモスクワに来なさい、と筆者を説得する始末だった。あまりにも彼らが親切に道を整えてくれたので、本当に、二度と戻って来ない決意で国を出る直前のところまで行った。

そんな筆者が決心を翻したのは、自分自身で何年かぶりにロシアを下見に行ったことがきっかけであった。飛行機が離陸する直前、富士山が窓からきれいにくっきりと見え、あたかもその旅路が、神に大いに祝福されているように感じられた。富士山が大好きだった亡くなった姉妹のことを思い出し、まるで彼女が天から見守り、背中を押してくれているようだと感じた。

しかしながら、どういうわけか、その短い旅の最中に、筆者の心境に大きな変化が起きて、ロシアに行けば、すべてが見違えるように変わることは決してあり得ない、という当然の結論に至った。別に、モスクワに失望したわけでもなければ、その旅が期待外れだったわけでもなく、ロシアは以前に筆者が知っていた頃よりも、格段に印象良くなっていた。この調子だと、悪評高いロシア的な無秩序と混沌も、間もなく数年のうちには駆逐されるのではないかという変わりようであった。

にも関わらず、これは何かが違うぞという気がしたのである。かつてアッセンブリーズ教団や、KFCや、ベック集会に信徒の交わりを見いだせるのではないかと模索していた頃と同じように、またしても、今度は別の種類の「この山、エルサレム」に心を惹かれているだけだ、という気がしてならなかったのである。

正しい順序はそれとは逆でなければならない。筆者が「あの山、エルサレム」に出向くのではなくて、「あの山、エルサレム」の方がこちらへ向かって来なければならない。もし、山やエルサレムがどうしても本当に必要だというのであれば、それは信仰によって呼び出すのだ。ちょうど、山をも動かす信仰について、聖書で語られているように。

一体、筆者が何を言おうとしているのか全く理解できない、何を馬鹿馬鹿しい作り話を並べているのか、という人もあるかも知れない。多分、これを誰にでも分かるように説明するのは無理であろう。

信者にあっては、すべては信仰によってのみ、始められるべきなのである。信者が地上にあるあの山この山に執着し、この聖地に行って跪いて祈れば、そこから祝福された偉業が始まるだろう、などと思っているならば、そんなことは決して起きない。そうではなくて、キリスト者の霊の内に、彼の信仰の中にこそ、すべてを引き起こす鍵があり、信者の内に住んでおられるキリストからのみ、すべてが始まらなければならないのである。

だから、目に見えるものに心惹かれ、自分にはあれが足りない、これが足りない、あそこへ行きさえすれば、あれがありさえすれば、あのような人と出会えさえすれ、すべては見違えるように変わるだろう・・・、などと考える前に、信者はまず自分の内に住んでおられるキリストこそ、「栄光の望み」であって、この方の内にこそ、全てを呼び出す秘訣がある、という原点に立ち戻らなければならないのである。

一歩まかり間違えば、このような言説を聞いた人は、あなたは自分を超人とみなしているのか、と言いかねないであろう。自分を何様だと思っているのか、神だとでも思っているのか、と問われるかも知れない。

だが、クリスチャンは神の子であり、主イエスの御名を通して、天の父なる神に、何でも願い出ることのできる特権を与えられている。御名の権威を行使する権限が与えられているとは、信者がキリストご自身と一体であり、キリストの権威を代理で行使するよう委ねられていることを意味する。

さて、前述したモスクワ出張を提案して来た会社は、残業代は出ない、と但し書きをつけた。つまり、無賃で長時間残業せよと、あからさまに筆者に向かって言うのである。その時点で、この道はやはり主の道ではない、と筆者は思った。そこで、筆者は自分の家には色々なペットが住んでおり、一日に一回は必ず世話をせねばならないので、帰宅しないわけにはいかないと語ったところ、彼らにはそれがいたく心外だった様子で、表情ががらりと変わった。まるで、筆者のようなさして裕福にも見えない未熟な若者が、ペットを飼っているなど、許されない贅沢である、とでも言いたげな表情であった。

筆者は平然と言った、誰にでも個人としての生活がありますからね、子供を持って働いているお母さんだっていますし、仕事だけが人間にとっての全てではない。人として豊かな生活を送るために、誰しも工夫すべきですよ、と。

彼らは口にこそ出さなかったが、目下の年若い人間から思いがけなく聞かされたこの「説教」に憤慨した様子であった。内心では、筆者のことを、働く覚悟が全く足りない甘えた人間、プチブル、労働者の敵、とみなしているようであった。

本当はその時、ペットのみならず、筆者の家には、観葉植物もたくさんあり、しかも、普通の値段で買えば、一つに一万円以上の値がつきそうな大型の植物もあった。その上、バイクもあれば、車もあり、家そのものも、何カ月も閉め切って放置するわけにはいかないのだ。

にも関わらず、こんな悪徳企業に万が一にも身を委ねるようなことがあれば、植物はみな枯れ、ペットは手放さざるを得なくなり、車などは長いこと放置したために余計な修理が必要となり、家は老朽化し、長時間残業のためにアフターファイブなど夢のまた夢となり、友人や信者との交わりも不可能となり、仮にもし子供でも身ごもろうものならば、まるで犯罪でも犯したかのように責め立てられ、子供も生まれる前にいじめ抜かれて殺されてしまうであろう、しかも、そこまで耐え忍んだ挙句に、毎月、口座に振り込まれる給与は、どんなに残業しても初任給のまま変わらないのである・・・と、そんな風に、まだ何も起こらない前から、そういう筋書きになるであろうことがはっきりと頭の中で思い描けた。大体、ペットを飼っていることすら罪悪とみなされるような企業で、誰が結婚して子供を産むことなどできようか。生きて人生を楽しんでいることさえ罪深い所業とみなされ断罪されるのであろう。

マモン(悪魔)に支配されるこの世の経済も、こんなにも厚かましい要求を出会いがしらの人間にぶつけて来るとは、いよいよ彼らの支配も煮詰まって来た模様だ、と筆者は思った。敵は相当に焦っているらしい。

筆者は表立って対立こそしなかったが、本心を偽らず、彼らの失望を呼び起こす数々のネガティブな制約を列挙して、この会社の人々が筆者に何の期待も抱かないように釘を刺した。社会勉強も足りない若者のくせいに、甘えている、自己中心だ、働く覚悟が足りない、と思いたいなら、勝手に思いなさい。無賃の奴隷的労働は、そもそも労働とは呼べない。無給で自分を奴隷に差し出してまで、筆者には仕事に志願する必要もなければ、国外に逃れる必要もない。奴隷労働によって殺されることに比べれば、何もしない方がまだましである。ペットや植物も、筆者の家族の一員であり、筆者にはこれらを管理し、守る義務がある。いと小さき命も守れない環境で、どうして自分を守ることなどできよう。あなた方は、本質的に人殺しである。それが筆者に分からないと思うか。

人々は言うだろう、それでは、あなたは悪魔が猛威を振るい、世の情勢がますます悪化して、まともな仕事がますます減って行く時に、どのようにして生計を維持するつもりかと。そんなに自分を高く見積もって、えり好みばかりして、本当に大丈夫なのかね? と。

それに対しては、筆者はこう答えるだけだ。「あなたがたの提案する方法では、どうせ誰も生きのびられやしませんよ。そもそもの最初から、残業代は出ない、などと脅して来る企業が、賃金だけはまともに払うと思うほど、こちらも浅はかで愚かではないんでね。そういう連中は、みな本質的に詐欺師であって、殺人者ですよ。そのうち彼らはきっとこう言うんです、企業が株で大損して巨額の負債が出来たから、これを切り抜けるために、社員同士で負債を山分けしてくれと。賃金を払うどころか、金を寄越せと、脅して来るんですよ。我が国の経済は、まだその一歩手前でとどまっていますが、あと数年のうちに、どうせそういう話になるのは分かり切っているんです。

カラクリは教会と一緒です。信徒の人数に見合わない、採算も取れないような、豪華礼拝堂の建設など、まるで身勝手かつ無意味で強欲な計画を次から次へと立てておいて、そこへ詐欺師たちが群がって、ありもしないプロジェクトをさんざんぶち上げておいて、その夢もかなわず、最後には途方もない借金だけを抱えることになるわけです。しかも、その時になると、都合よくその借金を教会債という形で信徒に押しつけようとするんです。そんな場所に居残って、借金返済の道具とされて生きることが、信仰生活と呼べますか? それがクリスチャンの正しい生き方だと思いますか。誰も思いませんよ。その何が神の選民なものですか。

国も企業もこれと同じですよ。今、国が同じことをやっているじゃないですか。安いエネルギー源だと喧伝していたものが、巨大な爆発事故を起こして、巨額の負債が生まれたら、これを都合よく国民の連帯責任として、みんなに押しつけようというわけですよね…。国がこれだから、企業だって当然、同じことをやります。次から次へと勝手なプロジェクトをぶち上げておきながら、その失敗のツケはみんな弱い者に回し、組織の存続のために人身を犠牲にしようとして来るんです。そんな強欲企業の犠牲となって、彼らの厚顔無恥な欲望の成就のために、正当な賃金も払われないまま、架空の正社員のバッジをもらったって、それに何の意味がありますか。何が正社員ですか。そんなものは、単なる奴隷のバッジ以外の何物でもありませんよ・・・。」

むろん、こんなことを誰かの前で面と向かって口にすることはないが、結局、事の本質はそういうことなのである。最後に見て来た企業では、ついに幹部が、会社の利益が出ない時には、給与を返上して無賃労働をしていると筆者の前で告白した。それを聞いて、筆者はどれほど呆れたことだろう。家族を犠牲にし、可愛い子供たちを犠牲にし、自分自身を犠牲にしながら、その高い地位に見合うだけの対価さえ、もらっていないというのだ。こうなっては、役職もバーチャルなものに等しい。現実には、責任だけが増し加わり、ふさわしい報いは何一つ得られていない。上部がそれでは、部下に何の希望があろうか。馬鹿馬鹿しいにも程がある。もうお付き合いできない、と筆者は思った。これでは、囚人労働と変わらないではないか。そこにどんな栄光が、どんな人間性があろうか。こうまで歪んだ労働の概念に、まともな神経の持ち主の誰が着いて行くことができようか。その先には組織との心中の道しか、残っているものはないだろう・・・。彼らには、マサダの自決のような命運が待ち構えているだけである。自分は選ばれた社員だ、立派な労働者だ、企業の幹部だ、役員だ、選民だ、などと誇っているうちに、そういう結末に至るのに違いない。彼らにどんな夢があっても、こんなやり方では、かなうはずもない。正義を曲げており、神の御心にかなわないからだ。それは共産主義ユートピアと同じで、ただ人間に果てしない犠牲を要求するだけで、決して願っているものを与えはしない・・・。

聖書にはこう書いてある、野の花を見よ、空の鳥を見よ、と。野の花も空の鳥も、労働によって自己を養っているのではなく、神が養って下さっている。信じる者のすべては、これと同じように、神によって創造され、神によって生かされ、養われている存在である。神は一羽の雀さえもお忘れにならないのだから、まして信じる者に何が必要かは、知り尽くしておられる。

神が面倒をみて下さっているのに、信者が自分の努力によって生きていると思うのは傲慢である。人が自分で自分を支えていると思っているのは、むなしい錯覚でしかない。人は自分の力では天候一つ変えることはできず、自分の健康を維持することもできず、まして己が労働によって自分を支えることなどできはしない。我が国の労働システムは途方もなく歪んでおり、それは社会主義と同じ呪われた優生思想から発生して来た、死の恐怖に基づく人間の終わらない自己犠牲の苦役である。アダムが罪のゆえに呪われて、一生、地を耕さなくてはならなくなった時から、人間の労働は不毛となったのである。だから、もがいても、もがいても、人は労働によって自己の魂を贖うことはできない。自分を救うことはできない。

にも関わらず、人が組織を作って、互いの弱さをかばい合う「イチヂクの葉同盟」を作って、神によらずに、人間の努力によって互いの生存を保障し合おうと試み、そこに偽りのヒエラルキーを築いて、あたかも立身出世や、裕福になることが可能であるかのように思い描いて、富を増し加えて組織を拡大し、天にまで届く摩天楼を建てようとしているのは、単なる幻想であり、驕りである。

企業も、教会と同じく、組織から逃げ出せば救いを失う、暮らしの安定を失い、命を失うという恐れを煽ることによって、人々を組織に拘束し、逃げ出せないようにしているだけのことで、これらの人々をそこにつなぎとめているのは、生存の恐怖であって、自由ではないのだ。しかも、弱者を犠牲として踏みしだき、彼らに当然支払うべきものさえ支払わず、弱い人々を貧しさと死に追いやり、踏みつけて嘲笑し、罪に罪を増し加えながら、肥え太り、勝ち誇っている罪深い共同体は長続きしない。だから、ある日、彼らは自分を養ってくれていると思っていたその体系全体が、音を立てて崩れるのを見る日が来よう。

「聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。
 あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、あなたがたの金銀にはさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。

 見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。
 あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。
 あなたがたは、正しい人を罪に定めて、殺しました。彼はあなたがたに抵抗しません。」(ヤコブ5:1-6)

このように、最低限、支払うべき賃金さえ支払わない呪われたシステムは、崩壊することが定められているのであって、どんなにそこで信者が頑張っても、それ自体が、神の目に忌むべき呪われた体系である以上、彼の努力に報いが与えられる日は来ないであろう。

神が養って下さると言ってくれているのに、どうして信者はそのように先がないと分かっている不法で罪深い条件に身を委ねてまで、悪人の仲間入りし、悪魔に自分を生かしてくれと懇願し、跪く必要があるのか?

そんなものは社会勉強でもなく、努力とも呼べない。人が自分で自分を奴隷として売り飛ばし、強欲な人々が彼らに君臨し、その恐れにつけ込んでいるだけの話である。そんな愚かしい奴隷的奉仕を得るために奔走するのはもういい加減にやめて、信者であれば、本当に心から納得が出来る道が開かれるまで、天の父なる神に直談判して、条件を申し上げるが良い。そのために時間を使え、と、今の筆者ならば答えるであろう。

前述した姉妹は亡くなって久しいが、ようやく筆者も、姉妹の警告を理解し、当時の彼女と変わらない見解に達したのである。

悪魔は言うだろう、「もう時間がないよ。あなただっていつまでも若くないんだから、この辺で妥協して、手を打たないとね。あなたはいつも高望みしすぎなんだ。理想が高すぎるし、潔癖すぎるんだよ。そんなにも難しい注文ばかりつけていれば、開かれるものも開かれないよ。今の世の中では、あなたの言うことは贅沢だ。もっとハードルを引き下げなくちゃね。もっと世と妥協して、口うるさく注文をつけるのはやめて、正義だの、真実だの、聖書の御言葉だの、神の御心だの、青臭い主張はひっこめた方が、身の為だ、その方が、あなた自身も格段に生きやすくなるよ」と。

だが、悪魔にはご退散願おう。そんな理屈は成り立たないと筆者は知っている。人が何をしてみたところで、この先の世界に輝かしい未来の展望はなく、従って、悪魔とどんな取引をしてみたところで、人が「格段に生きやすくなる道」などもとより存在しないのである。悪魔に対しては、一歩譲歩したが最後、百歩譲歩を迫られるであろう。だから、一歩たりとも譲ってはいけないのである。

もともと新卒・既卒などという馬鹿馬鹿しい区別から始まって、次には年齢差別、性別による差別、学歴による差別、経験による差別、果てはペットの有無による差別まで、あらゆることをきっかけに、人を値切りに値切っておいて、ついに最後には無賃労働を耐え忍べとまで言おうとしているわけだから、そんな殺人者に対してどんな妥協が、譲歩があるというのか。全く、がめついにもほどがあるというものだろう。「ハードルを引き下げよ」というのは、結局、「我々のために無賃労働し、奴隷的苦役に従事せよ」と言っているも同然であって、日本の労働市場は年々、そこへ近づいているのである。一旦、契約を結んだが最後、勝手にその内容が書き変えられ、明日には、戦地に赴かされる羽目になっていないとも限らない。ここはそういう国に成り果ててしまったのである。その他にも、あらゆる不法行為に目をつぶって、人権を自ら手放し、自分の不利益を一方的に耐え忍び、あらゆる不当な出来事に見て見ぬふりと泣き寝入りを続けなければ、ヒコクミンという話になるのであろう。悪魔はずるくて卑怯なので、そのように不法な条件と理不尽をとことん耐え忍ぶよう要求しておいて、それらが暴かれ、明るみに出される頃には、巧妙にあなたに濡れ衣を着せて、トカゲのしっぽ切として、あなた一人を監獄に送って済ませようとするかも知れない。詐欺師の仲間入りをしておいて、自分だけは無傷で済むと思うのは甘いのである。誰がそんな取引に身を委ねようと思うだろうか? 人を甘く見、馬鹿にするのもたいがいにしてもらいたいものである。

そもそも、賃金も支払われない「労働」のために、誰が労働市場に身を売りに行くのであろうか? 負債を抱えるために行くのであろうか? 馬鹿馬鹿しいにも程があるだろう。そういうものを、誰が労働の概念に含めることができるだろうか。だが、悪魔の論理はいつもこんな調子である。神の救いを求めて教会に赴いたはずの信者が、愚かな指導者が思い描いた欲深い計画の言いなりとなって、教会債を抱えさせられて重荷に喘ぎ、四苦八苦している始末である。神の救いが、いつの間にか、人間の負債にすり替えられていることの愚かしさに、そうなってもまだ気づかないとすれば、呆れるほどの馬鹿馬鹿しさである。企業も同じなのだ。給与も払わず、生きるに必要な糧を与えず、どんなに尽くしても、会社が倒産するかも知れないなどと絶えず脅して来るだけの連中が、もし自分の味方だと思っている人があるならば、それは暴力を振るう夫から何年たっても別れられない愚かな妻と同じく、自ら招いた災難である、と言えよう。

企業、教会、国家を問わず、地上の組織や団体は、みな人間が自己防衛のために築き上げた「カインの城壁」であって、その本質はバビロンであるから、近寄らないに越したことはないと、筆者は考えている。それらのものは、人間が己が恥、弱さ、無力を隠すために築き上げた「イチヂクの葉同盟」に過ぎず、本質的には、神に逆らうものなのである。だからこそ、そこでは、組織の存続、すなわち、人間の恥が暴かれず、人間の威信が保たれることだけを第一として、組織に逆らう人間や、弱い人間はとことん犠牲にされて行くのである。そして、組織のプライドを建て上げて、組織が一刻も早く「天に到達する」(=神になる)のを手助けするような人間だけが重宝され、勝ち残って行くのである。そこにあるのは、歪んだ優生思想である。そこにあるのは、人間を集団化・道具化することによって、人類が自力で神に到達し、まことの神に挑戦しようという願望だけである。

だが、そうまでして組織が生き残りを図っても、その先に未来はないのだ。いずれバビロンは罪の借金を決済しきれなくなって倒壊する日が来るからである。キリスト以外の土台に建てたものは、どんなものであっても、どうせ長くは続かないのである。

だから、本当は、時間がないと焦っているのは、神ではなく、悪魔の方である。聖書には書いてある、「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」(Ⅱコリント4:16-17)

キリスト者はこの地上や肉体の制約にとらわれて、年々、衰えて行くような存在ではない。世人ならば、自分は年を取ったからもうこの辺りが限界で、この世の常識と妥協せねばと言うかも知れないが、キリスト者はむしろ逆である。私たちは、この肉体を宿としながらも、地上の法則の制約に逆らって、これを超越して、この有限なる幕屋の上に、無限の幕屋を着ようとしているのである。また、不法なこの世にありながら、そこに神の御心にかなう霊的統治を打ち立てようとしているのである。

だから、悪魔の提案になど心を動かされず、世の常識や言い分に耳を貸さず、あくまで聖書の御言葉に基づき、神の正義と真実に立って、御心に反しない正当な条件を、信者は何事についても、願い続けるべきである。世がそれを提供しないというならば、主と同労して自分自身でそれを打ち立てるくらいであって良い。

さて、最後に、筆者がこのような考えに至ったきっかけの一つに、さらに別な出来事もあった。筆者が車を買った際に、車屋が筆者に提案して来た保険の補償金額を、別の保険屋が見て、「安すぎる」と言ったのである。「もしあなたの車にお医者さんが同乗していたら、こんな金額では効かないかも知れませんよ」と、その保険屋は言うのである。

筆者は自分の車に医者を乗せる予定はなく、医者もろともに事故死する予定も全くなかったので、神の守りにより、保険など決して使うはずがないと心の中で確信していたが、それでも、自分とキリストの命の値段をあまりにも安く見積もりすぎていると悪魔に後ろ指を指されない為に、金額を引き上げた。(かと言って、筆者にその助言をした保険屋には何の利益もなく、その保険屋は間もなく廃業となった。)

その後、ある時、筆者は少しでも経費を節約するために、補償額を引き下げることで、保険料を浮かせようという考えを思いついた。ところが、そのような連絡の電話を保険屋に入れたまさにその日の午後、ある駐車場に車を止めると、思いもかけない激しい海風が吹いて来て、筆者が車の扉を開けた瞬間に、風で扉が全開に開き、隣に止めてあった車に思い切りぶつかったのである。

結果的には、大したことのない事故で、相手の車の扉の取手の小さな部品を一つ取り替えるだけで済み、それにかかった金額もまるで大したことなく、保険すらも使う必要がなかったのだが、それでも、引き下げた保険料分を上回る金額が修理費に消えた。

筆者は経費を節約せねばという恐れに駆られたことを反省した。これは上からの警告であって、そんな事件は決して偶然に起きるものではない、ということがよく分かっていたからである。キリスト者の人生に決して偶然はない。だから、この事件を受けて、筆者はただ生活の不安だけを理由に、自分の生活の規模を自ら縮小するようなことは二度とすまい、と決意したのであった。(ただし本当に無駄なものは削って差し支えないが。)筆者は、キリストと筆者の命の値段は、断固、引き下げられるべきではない、と確信し、またもとの値段に戻した。むろん、これまでに一度も保険を使ったことがないのは言うまでもない。

明日のことを思い煩うな、明日のことは明日が心配する、と聖書に書いてある通り、キリスト者は明日の責任を自分自身で引き受けるべきでなく、必要の全てを天の父なる神に願い求め、神が必要を満たして下さることを確信し、神に全幅の信頼を置きつつ、悪魔の脅しに対してとことん対抗し、彼らに対してキリストの勝利を誇ることで、見栄を張るべきなのである。

神にとって不可能なことはなく、人が日々思い悩んでいるような事柄は、神にとっては全く些末な事柄でしかない。采配一つで、神は信者にそれをお与えになることもできれば、あるいは、その何倍もの損失を一挙にこうむらせることも可能である。なのに、どうしてこの全能の神を信頼しないのか。信者の生存は、御手に委ねられている。それなのに、信者が自分の生存を神に委ねず、自分で自分を何とかしようとすればするほど、罠にはまって行き、悪魔がその不安につけ込んで来るであろう。

多分、世人のほとんどには、いや、信仰者であっても、こういう話は理解されないことであろう。ほとんどの場合、「あなたの考えは尋常ではない。それは現実的ではなく、楽観に基づく、危険な夢物語だ」、「あなたは若いので、人生の苦労を知らず、自分に都合の良い夢を思い描いているだけだ」などと言われて終わるだけであろうと思う。

実際に、筆者の周りでは、以前に豊かだった人たちが、最近、どんどん持ち物を手放し、生活を縮小している。たとえば、筆者がボロボロになるまで同じバイクカバーを後生大事に使っていた頃には、ピカピカのカバーを何度もかけ変えていた人が、筆者よりも先にバイクを手放した。駅前の駐輪場は、以前には定期券を申し込むために長蛇の列ができていたのに、今はもうガラ空きである。

NHKが「縮小ニッポン」という番組を放映したらしいが、多分、この先、生活を縮小しようとの世の傾向はますます強まるのではないかと筆者は思う。今、筆者の周りで車を維持している人は、生活の足や、趣味や、行楽のためではなく、ただ仕事のための必需品として持っているだけである。若者の車離れが激しいなどと言われて久しいが、今や若者から老人まで、必要最低限のものしか持たない生活へとどんどん切り替えて行っている。

だが、それにも関わらず、筆者は確信している。キリスト者は、世の情勢に左右される存在ではなく、世が不況になったからと言って、それに合わせて自分の生活を縮小せざるを得なくなるものではないと。キリスト者は、安易に生活を縮小すべきではなく、特に、恐れに駆られて生活を縮小するなど、もっての他である。それでは悪魔の笑い者になるだけである。

これは貪欲のために言うのではなく、キリストが約束して下さった命の豊かさに達するまで、信者は決して諦めて退却すべきではない、ということを述べているのである。さらに、キリスト者は悪魔と取引して違法な条件に身を委ねてまで、自分の力で生きようとすべきでもない。たとえ明日の保障がないように見える時にも、信者の生存を支えるのは、神の仕事であって、神が共にいて信者のために心配して下さるのだから、信者は焦ったり、悩んだりすることをやめて、神に全幅の信頼を置いて、良心に恥じないで済む、恐れからでなく自分の願いに基づく正当な生き方を、天に向かって乞うべきである。

そして、神はそのような願いを喜んで下さり、必ず、信じる者の願いに応えて下さる、と、筆者は確信している。主に信頼する者は、失望に終わることはないと、聖書に書いてある通りだ。神は、信者の存在を通して、御名の偉大な力を世に示したいと願っておられる。神の愛と憐れみの深さ、神の恵みと助けの大いなることを、世に示したいと願っておられる。だから、信者は自らの信仰によって、神がどのようなお方であるのか、生きて世に証明すべきである。それによって、悪魔は敗北し、恥じ入るであろう。自分を責めて、恥じるべきは、キリスト者ではなく、絶えず無実の信者を迫害し、苦しめ、あざ笑おうとしている悪魔と地獄の勢力なのである。

 
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霊と真理によって神に捧げられる礼拝と、霊における天的なエクレシアの交わり

「なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。」(Ⅰコリント2:2:)

今、日本という国が急速に荒廃している。政治の荒廃は言及するまでもなく、ごく普通の人々の日常生活に至るまで、真実、誠実さが姿を消し、嘘、不法、搾取、虐げが横行し、人々は互いに裏切り合い、貶め合い、蔑み合っている。

終末に向けて、悪の霊が大々的に説き離れたこと、日本に生きる人々(もっともこれは日本だけの話ではなく、世界的な現象であろう)の心の荒廃が進んでいることを思わずにいられない。

だが、筆者は、滝が滝壺に向かって流れ下るように、破滅へ向かう激しい濁流のような流れから、完全に距離を起いて、これと関わりのない天的な人生を生きたいと心から思う。どうやら、そのためには、地上の経済を離れ、地上的交流を離れ、天的な角度から、天的な経済と天的な交流によって、人生を建て上げることが必要なのではあるまいか、という実感がしてならない。

すでに書いたことであるが、以上のような人心荒廃現象は、終わりの時代の様相であり、世人だけでなく、信者と呼ばれる人々の間にも起きて来ている。聖書には、終わりの時代に苦難が来ること、他でもなく信者と呼ばれている人々の中から、以下のような人々が出現することが警告されている。

「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」(Ⅱテモテ3:1-5)

この最後のフレーズ、「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」が、以上のような人々が、神を恐れず、神を知らず、信仰を持たない世人の中から現れるのは言うまでもなく、さらに他でもなく信者と呼ばれる人々の中から出現することをはっきりと示している。

以上のような恥知らずな生き方をする人々が、どうして「敬虔」に見えるものか、という疑問を呈する人もあるかも知れないが、それは主イエスが地上に来られた時、市井の人々からは信仰篤い立派な宗教家のようにみなされていた律法学者やパリサイ人たちが、誰よりも悪質に神の御言葉に逆らい、主イエスを憎み、殺意によって陥れ、主を十字架につけたことを考えれば、不思議ではない。上記の御言葉は、その当時と同じように、終わりの時代には、他ならぬキリスト教の中で、他ならぬ敬虔な信者のように振る舞っている人々が、神の福音に最も激しく敵する者になる、という警告と受け止められるのである。

ところで、かつてそのような危機感を抱いていたがゆえに、組織としてのキリスト教のあり方を批判し、キリスト教界を出て、直接、神に結びつく信仰生活を心から追い求めていた信者たちが数多く存在していた。

しかしながら、筆者が出会った、そのようにキリスト教界を出て直接、キリストだけにつながる信仰を追い求めていた信者たちは、そのほとんどが途中から、人間のリーダー、人間の組織へと逆戻りして行ったのであった。

筆者が彼らに出会った当初、彼らの口から一様に聞かされたのは、人間の作る地上的な組織や、人間のリーダーから離れなければ、神への本当の信仰を保つことはできず、地上的な組織は、やがて反キリストの体系へと集約されて行くだけだから、そこから離れなければならない、という確信であった。

にも関わらず、こうした人々は、信者のコミュニティから離れて、自分一人、孤立する危険に直面すると、孤立を恐れるあまり、結局、地上的なサークルへの帰属を求めて散って行ったのである。

こうした現象を見るとき、筆者は「どうして当初の信仰の証を失ったのか」と疑問に思わずにいられない。「あなたたちがあの頃、あんなにも熱心に語っていたことは一体、何だったのですか」と。

これまで、多くの霊的先人たちが、組織としてのキリスト教を離れ、地上の組織や団体に属さずに、直接、神に結びつく信仰生活を模索してきた。

ハドソン・テイラーや、ジョージ・ミュラーや、その他の信仰の偉人と呼ばれる昔の人々の伝記を読んでさえ、その当時から、こうした人々の多くが、従来のキリスト教組織の枠組みから幾度となく離脱を余儀なくされた過程が分かるのである。それは必ずしも組織と対立したり、激しい争いの末に訣別するというようなものではなく、あるいはルターの宗教改革のように大々的に新しい教派を打ち立てるといったものでもなかったが、霊的先人たちは、静かに、穏やかに、組織を離れて行ったのである。

以前、筆者が教会に所属していた頃、「教会での礼拝に出席しなくなり、信徒の交わりを離れれば、信者は信仰を維持できなくなり、やがては救いを失う。」と言った思い込みが盛んに流布されていた。教会を離れ、信徒の交わりを離れることが、すなわち、悪魔の餌食となって、やがて救いを失うことと同一視されていたのである。

だが、人間の作った集団に帰属すること、神に帰属することは全く別の事柄である。だから、教会を離れれば救いを失う、などという考えは完全な誤謬であり、それはただ地上の組織から信者が決して離脱しないように使われる脅し文句に過ぎない。

ところが、そのことをよく理解して、そのような心理的な恐怖によって、地上の団体に信者を束縛しようとする従来の教会組織のあり方に疑問を覚え、そこを去ったはずの信者たちも、結局、そのほとんどが、また別に自分たち独自のサークルを打ち立て、今度は「兄弟姉妹の交わりを離れれば信者は信仰を維持できない」などと言い始めたのである。

そして、彼らは、教会の信者たちがしばしばそうしていたのと全く同様に、自分たちのように定期的な「信徒の交わり」を持たず、個別に神を見上げて生きている信者を上から見下して、「あの人たちは交わりが絶えて霊的に荒廃し悲惨な状態にあるから、祈ってあげなくてはならない」などと悪しざまに言い、しきりに可哀想がったりするのである。

それはかつて教会に所属していた信者たちが、自分たちの教会の礼拝に来なくなった信者たちを指して、「あの人たちは世に心を奪われて信仰が薄くなって危機的状況に陥っている。だが、神はそんな彼らをも愛しておられるから、彼らのためにも、祈ってやらねばならない」などと可哀想がっていたのと同じ有様である。

そのようなこともあって、最近、筆者は、一体、彼らの使う「兄弟姉妹の交わり」という言葉は何なのかと、深刻な懐疑を覚えるようになった。

筆者から見ると、すべては彼らの言い分とは真逆なのである。真に可哀想で、真に祈られるべきは、まるで取税人を見下して自己義認したパリサイ人同様に、自分たちは信徒の交わりを持っているから大丈夫と考えて、そこに属さない信者の「霊的荒廃」を想像し、それを心密かに蔑み、嘲笑しながら、自分自身と引き比べて自己安堵に浸っている信者の方なのである。

そのような姿を見て、筆者が思い出すのは、自分には地上で居場所があると誇ったバビロンのつぶやきだけである。

「彼女が自分を誇り、好色にふけったと同じだけの苦しみと悲しみとを、彼女に与えなさい。彼女は心の中で『私は女王の座についている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない。』と言うからです。」(黙示18:7)

バビロンが誇っていたのは、天的な居場所ではなかった。彼女は、地上において、自分が受け入れられ、人から承認を受け、立派な信仰者だと認められる居場所がある、ということを誇っていたのである。バビロンとはまことの神への信仰と異教との混合であり、その本質は、うわべは「敬虔」そうに見えるが、「その実を否定する」信者の集合体に他ならない。

そして、終わりの時代、地上の組織としての教会や、地上の信徒の集まりこそ、神の天的なエクレシアに悪質に敵対するものとして、バビロンの混合体に堕して行くのだ、という確信をこれまで筆者は幾度となく述べて来た。また、オースチン-スパークスなどの論説に見られるのも、これと全く同じ主張なのである。

「私たちのいのちなるキリストが現される時・・・」
(コロサイ人への手紙3章4節)


聖霊の主要な目的の一つは、信者を復活・昇天した主であるキリストと一体化し、彼の復活のいのちを信者の経験の中で実際のものとすることです。

時代が終末――キリストの現れ――に向かって進むにつれて、二つの特徴がますます明らかになるでしょう。一方において、事物、人、運動、制度、組織などが優勢になり、大衆を引きつけ、群衆をとらえるでしょう。他方、そうしたものへの失望と幻滅が増大し、少数の人々が主ご自身に立ち返り、彼だけが自分のいのちであることを見いだすでしょう。

こうしたことには三つの要素があるでしょう。第一は、反キリストの原則の明確なる発展であり、それはキリストに取って代わるか、取って代わろうとするでしょう。

第二は、人造のキリスト教内のキリストご自身の代替物であり、自らの勢いで生成発展する偽りのいのちです。

第三は、真実、真理、主ご自身を知る内なる知識を求める、深い純粋な探求です。

第一の場合、人間の力が崇拝され、ヒューマニズムが大いに氾濫し、人の驚異と栄光がたたえられるでしょう。第三の場合は、いのちであるキリストがすべてでしょう。

教え、伝統、制度、運動、人などの何物かにクリスチャンが帰属するなら、必ずいのちが制限される結果になるでしょう。そして、やがて混乱と幻滅が生じ、おそらくもっと悪いことになるでしょう。新約聖書がまごうことなく明らかにし、強調しているように、万物の運命は「キリストがすべてのすべて」となること
です。

オースチンスパークス著、「私たちのいのちなるキリスト」から。


バビロンが誇ったのは、神からの承認ではなく、人からの承認であった。新約聖書を振り返っても、主イエスはいつも、自分たちは立派な信仰者で、敬虔で、落ち度なく礼拝を守っており、神から覚えめでたい本当の信者だと自負していた宗教家のもとへは足を向けられず、かえって、ザアカイや、サマリヤの女のように、人々から承認されず、コミュニティからも半ば見捨てられかかったような人々に積極的に声をかけられた。それは人には蔑まれ、見捨てられて深い孤独の中にあったこうした人々の心の中に、ただ神だけを呼び求める信仰が生まれていたからに違いないと筆者は思う。

主イエスが地上で御言葉を語られたのは、常に当時の社会で「敬虔な信者」の外見からはほど遠く見える人々ばかりであった。イエスの弟子たちも、主イエスに召されるまで、当時の社会ではそれほど尊敬されない職業についていたし、主イエスが誕生された時に、天使たちが荒野で姿を見せた羊飼いたちも、社会では蔑まれ忘れ去られているような人々であった。

それを考えても、やはり、教会や信者の集まりの中に身を置いて、「自分たちは信徒の交わりに出ているから霊的状態は万全」などと考えている人たちは、主が再臨される時には、きっと素通りされるのに違いない、と筆者は思わずにいられないのである。

それどころか、終わりの時代、バビロンが高らかに誇った地上の「居場所」は、まさに「兄弟姉妹の交わり」という名目でこそ、美化され、栄光化され、高みに押し上げられて行くのではないだろうか。

筆者が今思い出すことの中に、かつて筆者が心から「兄弟姉妹」と呼べた数少ない信者の一人であったある姉妹(彼女はすでに亡くなった)が、生前、「兄弟姉妹」という言葉に反発していたということがある。

筆者自身は、まだその頃、「兄弟姉妹の交わり」というものに相当な美的イメージを持って、交わりに憧れ、これを追い求め、建て上げることに関心があったので、彼女の台詞にそれほどの共感は持てなかった。

だが、彼女は自分もクリスチャンであるにも関わらず、この言葉だけはどうにも抵抗があると言うのであった。彼女は言うのである、「どうしてクリスチャンの集まりでは、まるで専門用語みたいに『兄弟姉妹』という言葉を使って互いを呼び合うの?」

彼女いわく、「兄弟姉妹」という呼びかけは、クリスチャン(しかもどこかの組織に属している信者)の間
だけでしか通用しない専門用語であり、しかも、自分は正統な信仰生活を送っていると自負したいクリスチャンが互いを承認しあって慰め合うために自己満足のために発する言葉だというのである。

まだはっきりとした信仰を持たない者が教会に足を踏み入れ、そこで信者同士が「兄弟姉妹」と呼び合っている言葉を聞くと、「自分は兄弟姉妹の一員ではないから、この人たちの仲間ではないのだ」と思い知らされ、自分はこの信者たちから排除されている、という印象だけしか受けられずにそこを立ち去ることになる、そんな高慢な兄弟姉妹の交わりはあるべきでない、というのだ。

今日、クリスチャンの書いた色々な読み物に目を通すとき、筆者は、彼女のいわんとしていたことの意味がよく分かるように思う。

排除されているのは不信者だけではない。教会と呼ばれない集まりであっても、多くの場合、そこにいる信者たちは、「兄弟姉妹の交わり」に定期的に出ているかどうかを、まるで信者の霊的状態をおしはかるためのバロメーターであるように思い込み、他の信者の「霊性」を品定めし、裁くために使っている。

彼らから見ると、定期的に「兄弟姉妹の交わり」を持たない信者たちの「霊性」は荒廃しているに違いなく、そのようにして信者の群れからはぐれた信者は、やがては救いを失う、という結論が決めつけられている。だが、よくよく彼らの言うことを吟味してみると、結局、そこでは、「イエス・キリストに直結しているか」よりも、「兄弟姉妹の交わりに直結しているか」ということの方が、はるかに重視されている。あたかも、「イエス・キリストに直結していなくとも、(しばしば牧師やリーダーに直結し)、兄弟姉妹の交わりに直結してさえいれば、何とかなる」とでも言いたげに・・・。

しかしながら、筆者が覚えている限りでは、彼らがそれほど重視する「兄弟姉妹の交わり」という言葉自体、文字通りには、聖書には登場しないのだ。

聖書には、「交わり」という言葉はいく度も登場する。だが、その多くは主として、「神との交わり」、「御霊の交わり」、「イエス・キリストとの交わり」といった文脈で、信徒同士のヨコの関係というよりも、神とのタテの関係を強調するものとなっている。

信徒同士のヨコの関係を示すものとしては「信徒の交わり」という言葉が使われるが(頻度としては神の霊との交わりという文脈よりは少ない)、それとて、神の霊によって生かされる信徒たちの神の霊の中における交わりであることを大前提としている。

そこで、聖書の御言葉が「交わり」と言うときには、それは第一に、神の霊との交わりを指しており、信徒の交わりに言及される場合も同様に、神の霊の中における信徒の霊による交わり、という意味で用いられる。つまり、正しい交わりというものが、神の霊を抜きにしては決して成り立たず、神の霊を抜きにした信徒だけのヨコの関係は「交わり」には含まれないことが分かる。

検索サイトを用いて、口語訳と新共同訳の新約聖書で、「交わり」という言葉がどのように使われているかをざっと検索してみると、結果は次のようになる。そこからも、聖書の言う「交わり」とは第一に「神の霊との交わり」であることがよく理解できる。(ちなみに、交わりという言葉を、神と信者とのタテの関係でとらえる文脈を赤、信徒同士のヨコの交わりを青とした。)
 
使徒行伝/ 02章 42節
そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。

使徒行伝/ 05章 13節
ほかの者たちは、だれひとり、その交わりに入ろうとはしなかったが、民衆は彼らを尊敬していた。

ローマの信徒への手紙/ 12章 16節
互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。

コリント人への第一の手紙/ 01章 09節
神は真実なかたである。あなたがたは神によって召され、御子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただいたのである。

コリント人への第一の手紙/ 15章 33節
まちがってはいけない。「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」。

コリント人への第二の手紙/ 06章 14節
不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。

コリント人への第二の手紙/ 13章 13節
主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。

ガラテヤ人への手紙/ 02章 09節
かつ、わたしに賜わった恵みを知って、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネとは、わたしとバルナバとに、交わりの手を差し伸べた。そこで、わたしたちは異邦人に行き、彼らは割礼の者に行くことになったのである。

フィリピの信徒への手紙/ 02章 01節
そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、

ピレモンへの手紙/ 00章 06節
どうか、あなたの信仰の交わりが強められて、わたしたちの間でキリストのためになされているすべての良いことが、知られて来るようになってほしい。

ヨハネの第一の手紙/ 01章 03節
すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。

ヨハネの第一の手紙/ 01章 06節
神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。

ヨハネの第一の手紙/ 01章 07節
しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。


 さて、以上で最後に引用したヨハネ第一の手紙の御言葉、および、以下の聖句、
 
ヘブライ人への手紙/ 10章 25節
ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。

が、「定期的な信徒の交わりから脱落すれば、信者は信仰を失う」、とか、「集会への出席をやめれば、信者は信仰から脱落する」といった半ば脅しめいた固定概念の根拠として引き合いに出されることが多い箇所である。

しかしながら、そんな風に人の心に恐怖を抱かせる台詞を鵜呑みにするよりも前に、まず、聖書の言う「信徒の交わり」とは、何よりも、神の霊における(聖徒らの)霊における交わりであることが大前提であって、単なる地上の人間たちの集まりではない、ということをよく考慮する必要がある。

さて、キリストの霊における交わりとは一体、何なのかを理解する上で、たとえば、パウロは次のような興味深い言葉も記している。
 
コロサイ人への手紙/ 02章 05節
たとい、わたしは肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたと一緒にいて、あなたがたの秩序正しい様子とキリストに対するあなたがたの強固な信仰とを見て、喜んでいる。

つまり、この言葉からも分かるように、神の霊の中における信徒の交わりは、地上の肉体の制約や時空間の制限を超えるのである。

そして、エクレシア(本当の意味での教会)とは、そのような意味において、まさに神の霊によって生かされる信徒らの、時代をも空間をも超越する霊的共同体に他ならない。

エクレシアにおける信徒の正しい交わりとは、たとえば、ある日のある固定された時間にある固定された場所へ行かなければ、決してあずかることのできないような地上的な制限の下にある集会を指すのではなく、何よりも、神の霊の只中における時空間の制約を受けない天的な集まりを意味するのである。

そのようなことをただの一度も思いめぐらしたことはない信者は多いことであろう。天的な集まりと言われても、それが何を意味するのか、全く理解できないし、地上における定期的な集会こそ、正しい信徒の交わりのあり方だと信じている人々はまことに多いであろう。しかしながら、たとえ地上で定期的な信者の集会が開かれていたとしても、それが神の霊の中にない、ということは実際にあり得るのである。

さらに、オースチン-スパークスの警告からも分かるように、いかに外側からは敬虔なクリスチャンの集まりのように見えたとしても、「教え、伝統、制度、運動、人などの何物かにクリスチャンが帰属するなら、必ずいのちが制限される結果になるでしょうそして、やがて混乱と幻滅が生じ、おそらくもっと悪いことになるでしょう。

つまり、最初はキリストの御霊によって生まれた信徒たちによって始められた集まりであっても、もしその集まりが、「教え、伝統、制度、運動、人など」、地上の何物かに帰属するならば、その集まりは、地上のものに束縛されて霊的に制約を受け、最後には、ついに神の自由な霊による天的な集会としての要素をすべて失ってしまうことになるのである。そうなると、その集会に残された道は、反キリストの体系に統合されて、キリスト教と異教の混合体としてのバビロンに吸収されて行くことだけである。

それが、終末に、信者がキリストの御霊にとどまらず、「事物、人、運動、制度、組織など」に帰属されて行った時に起きる必然的結果なのであり、そうしたことの結果として、キリスト教と思われている地上的な団体や組織が大々的にバビロン化して行くのである。

だから、我々は、「兄弟姉妹の交わり」と呼ばれている集会があるからと言って、それがすべて神の霊による集まりであると安易に鵜呑みにすべきではない。むしろ、それは本当に「キリストの御霊」による交わりなのか、それとも、人間の作り出した神の霊によらない地上的な集まりに過ぎないのか、そこをきちんと識別しなければならない。

筆者は、信徒が集まることの意味そのものを否定しているわけではなく、神の霊によって生かされた信徒らが集まり、交わることには確かに大きな意味があると考えている。だが、それは必ずしも地上的な制約の下にある集まりばかりを意味せず、場合によっては、時空間を超える霊的交わりが存在しうる。

また、この地上には、偽物の聖霊、偽物の信徒、偽物の信徒の交わりというものが確かに存在しており、偽物は常に本物以上に、自分たちを本物であるかのように誇ろうとすることに注意が必要である。偽物の信徒の交わりも、自分たちこそ本物だと主張して、そこへ盛んに人々を惹きつけ、束縛して行こうとする。

地上に制限だらけの独自のサークルのような「兄弟姉妹の交わり」を作って、そこにいない人々をあたかもみな憂慮すべき霊的状態にあって神から切り離されているかのように決めつけ、自分たちの交わりを高らかに誇り、それを神の選民とそうでない人々を区別する境界線のようにみなしている人々の主張には要注意である。まずもってそのようなものは真の聖徒の交わりではあり得ない。

 
主イエスは次のように言われた。
「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 <…>
しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。
 
神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。

(ヨハネによる福音書/ 04章 21-24節)

このように、まことの礼拝とは、「霊と真理」によって捧げられるものであり、「この山」、「エルサレム」などといった特定の時空間に制限されるようなものではない。

エクレシアは天的なもので、時代と空間の制限を超える。神の霊によって生かされている信者はみなエクレシアの構成員として天的な礼拝の中に入ることが許されている。だが、一体、時代と空間の制約を超え、信者自身の地上の存在としての制限をも超える本当のエクレシアの霊的交わりとは何なのか、その実際を信者は知る必要がある。
 
神の霊によって生かされる信者らは、ただ霊と真理によって神に礼拝を捧げるのみならず、聖徒らの互いの交わりにおいても、肉的な方法で(人間的な思いで)信徒を知ろうとはしない。パウロが、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」(Ⅱコリント5:16)と述べたように、信者は霊においてキリストを知り、霊において神と交わるだけでなく、信者同士との交わりにおいても、霊において交わるのである。このようなキリストにある新創造の領域における交わりこそ、まさに信徒の交わりとして必要なものである。

「なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。」(Ⅰコリント2:2:)

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)