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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

命の御霊の法則に従って支配する―一羽の雀さえ、父のお許しがなければ、地に落ちることはない。(4)

「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」(ヨハネ16:13-15)

さて、今回も、前回に続いて御霊の導きに従って生きることについて書きたい。

最近のオリーブ園のオースチンスパークスの連載が興味深い内容のため、冒頭で引用しておきたい。聖書箇所は、イエスがまだ幼子だった頃、両親がイエスを主にささげるために宮に連れてやって来たとき、救い主の誕生を待ち望んでいた祭司シメオンが、御霊の導きの中で、ちょうど神殿の境内に入って来たところである。

これはとても美しい調和のとれた絵図である。このように、何の前触れも約束もなかったにもかかわらず、まるで示し合わせたように、シメオンは出会ったその子が救い主であることを証し、祝福すると同時に、イエスに課せられた十字架の使命について語り、それゆえに母マリアが受けねばならない苦難のことも予告するのである。

この記事に該当する聖書箇所をそのまま引用しておこう。

「さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。

 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。

シメオンが”霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
 この僕を安らかに去らせてくださいます。
 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
 これは万民のために整えてくださった救いで、
 異邦人を照らす啓示の光、
 あなたの民イスラエルの誉れです。」

父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」(ルカ2:22-35)


以上の箇所について、T.オースチンスパークスの解説している「御霊による生活」 第六章 聖霊の職務と御業 (5)(6)の記事を引用したい。

霊の人の定義

 少しの間、霊の人についてさらに考えることにします。霊の人とは何でしょう?霊の人は聖霊を受けて、聖霊の器官・機能・能力と一致するものに構成された人です。「主に結合される人は一つ霊です」。これは姿・性質の一致です。それはある種の性質や、性質の質だけでなく、能力でもあります。これは、これから生じる諸々の特徴、実際的性質を帯びた諸々の特性の存在を意味します。ですから、霊的識別力、霊的知覚、霊的知識の類があります。使徒は、御言葉があらゆる霊的理解力によって私たちの中に宿りますように、と祈っています。

 さて、これは物体に及ぼす力の働きとは異なります。物体は、その中にその力と一致するもの、その力に協力するものが何もなくても、衝撃を受けただけで動きます。その動きは純粋に力学的です。違いは、私たちの新しくされた霊の中には、御霊の諸々の器官と一致するこれらの器官が導入されており、そこには知的合一が存在するということです。

 これについて説明しましょう。ルカによる福音書の冒頭に、エルサレムにシメオンという名の人がいた、とあります。彼は正しくて敬虔な人であり、イスラエルの慰めを待ち望んでいました。そして、聖霊が彼の上におられました。さて、「両親が子供のイエスを、律法の慣わしにしたがって彼に行うために連れて来た時、この人が御霊によって宮の中にやって来た」と御言葉は告げます。

「前もって手配されていたに違いない。シメオンは祭司だったのだから」と考える人々もいるようです。記録はそのようにはまったく述べていません。ここの語り口はとても自然です。両親は子供のイエスを主に捧げるために連れてきました。この人がそこにいたのは、子供を受け取る用意の整った司式の奉仕者としてではありませんでした。彼はちょうどその時、宮の中にやって来たのです。

「彼は偶然ちょうどその時やって来たのです」と言うべきでしょうか。否!彼は御霊の中でやって来たのです。両親が子供のイエスを連れて来た時、シメオンがその子が誰かを知っていたことを示唆するものは何もありません。だれも、「この子がイエスです」と言いませんでした。彼は外見的には他の子供と同じように見えました。宮の中にやって来た数百、数千の子供たちと、おそらく何の違いもなかったでしょう。普通の両親に普通の赤ん坊でした。

エルサレムで生活していた人であるシメオンは、ちょうどその時、御霊の中でやって来ました。そして、両親が子供を連れて来た時、彼はその子を両腕で抱いて、極めて驚くべきことを述べ始めました。「主よ、今こそあなたは、あなたの御言葉にしたがって、あなたの僕を安らかに去らせて下さいます。私の目があなたの救いを見たからです」。両親は過去を思い出しました。この人は何について話しているのでしょう?どうしてこの人はこのことをすべて知っているのでしょう?これはどこから来たのでしょう?


 その意味合いがわかるでしょうか?シメオンは御霊によって入ってきました。彼の動きは御霊によりました。彼の動きは御霊によって時が計られていました。そして、彼がその赤ん坊を両腕の中に受け取った時、御霊は彼の霊に「この子がキリストです」と証しされました。その赤ん坊が誰なのかを示唆するものは他に何もありませんでした。御霊はキリストについて証しされました。これはつまり、シメオンには、彼の上に御霊がおられたがゆえに、霊的知覚があったということです。自分がキリストの御前にいた時、彼は自分の霊の中で彼を認識しました。

 今、霊の人とは何かわかります。シメオンは一つの例です。とは言っても、後の、ペンテコステ後の霊の人の完全な代表ではありません。霊の人は御霊の促しによって動く人であり、その動く時は聖霊によって計られています。霊の人はいつ動くべきかを御霊によって知ります。御霊の中で動くことにより、キリストに関する御霊の諸々の秘密を発見します。したがって、霊的知覚の器官を持っており、主が何事かをなさっている時、それを知ります。この器官は、神の大いなる御旨に関する機能へと導きます。

 これはあなたには難しく聞こえるかもしれません。しかし、ローマ八章によると、これが信者の正常な生活です。確かに、私たちはその中に直ちに完全に入るわけではありません。「あらゆることで成長して彼へと至りなさい」というパウロの御言葉が私たちに想起させるように、私たちは成長してそれへと至るのです。



この記事では、上記の記事については詳しく触れないが、信者が御霊の導きの中で行動する時、そこには偶然と呼ぶにはあまりにも不思議な調和の取れた神の最善の巡り合いが起きていることが分かるだろう。むろん、それは御霊の命の支配によって起きることであって偶然ではない。

この記事では、信者の実生活に生きて働く御霊の働きについて述べたい。冒頭に挙げた聖書の御言葉を通して、私たちは、聖霊が、来るべき事柄を信者に教えてくれることを知っている。つまり、聖霊は未来についてのビジョンを私たちに見せられるのである。
 
別な言葉で言えば、そのビジョンは私たち自身が心に抱くものでもある。

信者は、御霊の導きに従うことも、その外に出ることもできるが、いつどういう時に、自分が御霊の導きに従って行動しているのか、必ずしも自分ではっきりと知らない場合がある。

多くの信者は「一体、どうやったら、私は何が御霊の導きであるかを知ることができるのでしょうか。どうやったら御霊を悲しませないように行動できるのでしょうか。私のしていることが、御霊の導きに反するものではないかどうか、私には分からないのです。そうである以上、私は主を悲しませたくないので、私のしていることが、御霊の導きに反しないという確証がない限り、信仰によって何も行いたくないのです」などと言うかも知れない。

そんな風に、御霊の導きから逸れること怖さに、自分が行うすべての決断が、御霊から来るものだと確信できないことには、一歩たりとも動かない、などと言う信者もあるかもしれないが、御霊の導きとはそういう風に、まるで占いでもするように、これから自分は右へ進むべきか、左へ進むべきか、はっきりしたお告げを受けなければ、何もしないという生活のことではない。

確かに、御霊は、時には、何かの具体的な行動を明白に信者に対して禁じられたり、何をなすべきかを明白に教えられたり、待つよう求められることがあるが、しかし、多くの場合、信者にはただ普通に行動しているだけの膨大な時間がある。

そのとき、信者には特に自分が御霊の導きを受けて行動しているという自覚はないかも知れないが、それでも、そういう時にも、信者が御霊の調和の中を、信仰によって歩み、何かを待ち望んでいるならば、信者が特に何かを確信して行動しているわけでなくとも、常に御霊は信者と共に働いて、御霊の命の統治の原則がその人と周囲に及んでいるのである。

一体、御霊の導きとは何なのか。それを形容することは少し難しいが、御霊はすべてを支配する超越的な命であって、信者の信仰を通して初めて働きをなすと同時に、ナビゲーターのような働きをも持っており、常に未来へ向かって信者を進ませる。

御霊が、信者に進むべき具体的な方向を指し示すことは少なくないが、ナビに目的地を設定するのはあくまで信者自身である。

信者は信仰によって、自分が何を望み、何を成し遂げようとしているのか、その目的を自分で設定しなければならない。たとえば、シメオンの望みは、「生きているうちに救い主をこの目で見たい」というものであった。あるいは、ジョージ・ミュラーは、寄る辺ない大勢の孤児を信仰によって養いたいと願った。

こうして、信仰によって抱く目的は、信者個人によって異なるものである。必ずしも福音伝道のために是とされているものだけではない。信者自身の生活の必要、あるいは、信者の極めて個人的な願いもそこには含まれる。明らかに主を悲しませる悪であると分かっている事柄でない限り、どんな目的でも願っていけないということはない。あるいは、筆者のように、大型鳥を飼いたいといった願いでも構わないのである。

その目的を、信者は信仰によって今待ち望んでいる目的の一つに設定する。すると、信者がそこへたどり着こうと歩みを進めたその瞬間から、御霊が共に働き始める。(もちろん、筆者はここで御霊が信者の願い事を叶えるためのサーバントだと言っているわけではない。信者の願い事の目的は、ただ自分が満足することに終わらず、あくまで神に栄光を帰することにあるからだ。)

しかし、多くの場合、ただ目的地を設定しただけで、御霊が自動的に信者をそこへ平穏無事に送り届けてくれるというわけでは決してない。まず、信仰によって望んだ目的が実現するためには、信者は必ずと言って良いほど、何かの困難(試練)の中を通らなければならない。あたかも約束によって待ち望んだものが、失われたかのように思われたり、はるかに遠く、手の届かないところにあるように思われたり、長い時間がかかり、信者が自分にはそれを目にすることができないのではないかという不安を持つような状況の中を通らされなければならないことがよくある。

その試練を、信者が信仰によって乗り越えて、周りの状況がどうあれ、待ち望んだものから目を離さずに、確固として目的を目指し続け、達成が可能であると信じ続けて行動したとき、信者が望んだ事柄が実際にこの地上に目に見える形で実現するのである。

とはいえ、ほとんど困難が伴わずに自然に望んだものが実現する時もある。

話は変わるようだが、筆者は昨年頃から、小型~中型鳥の色変わりの鳥を探して来たのだが、なかなか美しい色合いの鳥は見つからず、遠い店まで出かけて行かねばならないなどのこともあって、しばらく鳥探しを中断して、そのような目的があったことさえ自分で忘れかけていた。

ところが、今年、初めて訪れた店で、昨年からずっと探し続けて来た色々な種類の鳥たちを偶然のように一挙に見つけたのである。筆者は以前にもそのようにして鳥を一挙に増やしたことがあったのだが、その時の比ではない珍しい種類の鳥たちに出会った。筆者の鳥ライフになぜかはよくは分からない自然なグレードアップが起きたような具合だった。

そこで、鳥たちの取り揃えを変えたのに合わせて、鳥かごも変えることにして、金色の大きな鳥かごに、珍しい南国の明るいオレンジやブルーの珍しい鳥を何羽も入れてみた。すると、ほんのわずかな価格で買える文鳥たちまで含めて、我が家の鳥たちがみんな、大邸宅の大理石の床に飾ってある豪華な鳥かごの中にいる鳥たちのように見えるようになったのである。

一言でいえば、何もかもが見違えたのであった。その時、初めて、筆者は、鳥というものは、インテリアの一部のように、目の保養として楽しむべき生きものなのであって、それができなければ、鳥の魅力の半分も味わったことにはならないということが分かった。

そして、そこからさらに進んで、このように素敵な装飾としての鳥たちがいるならば、それに見合った家や部屋があるべきで、むろん、今の環境もそれなりに筆者が自分で工夫したものとはいえ、すべてを今以上にグレードアップすることが可能なのだということを思わされたのである。

筆者は長年、鳥の愛好家のつもりだったが、小鳥の楽しみ方においては、ずいぶんと質素すぎるほどに味気ないつまらない人生を歩んで来たことを感じた。ほんのわずかな魅力すらも、まだまだ味わっておらず、この先、もっともっとはるかに豊かな生活が待ち受けていることに、今更のように気づかされたのである。

もちろん、筆者の家には文鳥などのありふれた鳥たちもたくさんいるので、これは決して珍しくない鳥には価値がないなどと言っているのではない。だが、たとえば、市場に出回っている鳥かごは、筆者も色々と試してはみたが、どれもこれも、決して見栄えが良くなく、まるで鉄格子の檻のように殺風景にしか見えない上、サイズも十分でなく、餌入れも小さいので、補充を忘れたときのリスクが高く、フードフィーダーをつけるようなスペースの余裕もなく、構造的にも、目の届かない死角が実に多く危険であった。

何よりも、市場に出回っている鳥かごは、小鳥を鑑賞する目的のために作られたというよりは、一般家庭の部屋の大きさに合わせて、最低限度の設備を用意しただけのものであって、美観の点でよろしくないだけでなく、世話するにも決して最適と言えないことが分かった。

小鳥というものは、その愛らしい性格もさることながら、まずはその姿形の美しさを鑑賞して楽しむことこそ、飼い主に与えられた最大の特権である。だが、その特権を存分に味わうためには、やはり、小鳥を美しく見せられる環境がどうしても必要となるのであって、広々とした場所で、伸び伸び暮らさせて、世話をすることが決して苦痛にならず、億劫にも感じられない環境を作ることができて初めて、飼っている側も楽しい気分になれる。

そう考えると、第一に、必要なのはスペースということになろう。鳥も人間もやっとのことで生きているような環境ではまるでダメなのである。最終的には、広々とした家が必要になるのは言うまでもない。大型鳥の愛好家たちは必ず口を揃えて言う、籠の中に閉じ込めておいてはいけない、鳥のために一部屋は確保するのが最善であると。

そのようにして、小鳥たちの飼育環境について考えながら、筆者は自分の生活にも、決定的に欠けていたかも知れない要素について考えさせられた。たとえば、鳥かごを変えただけで、同じ鳥が、見違えるようにきれいに見える。だが、市販の鳥かごではなかなかその願いを実現できない。この原則を人間に当てはめたらどうだろうか?

人々は、洋服やら髪型やらにはこだわり、自分を美しく見せるために、あれやこれやの工夫をするかも知れないが、そのような小手先のごまかしのような工夫はさて置き、そもそも自分を入れる鳥かご(自分の生きる環境条件そのもの)について、神に大胆な願い事をしたことはあるだろうか? これは家のことだけを指すのではない。すべての環境条件を指している。

人は自分のためにどんな環境を願うだろうか。

かつて筆者の小学生時代の友人の家では、文鳥一羽を入れられるのが関の山という程度の広さの竹籠に、五羽の文鳥が入れられていたのを思い出すが、そういう環境をあなたは望むだろうか。それとも、大きな翼を持って、遠い距離をゆうゆうと渡ることのできる鳥が求めるような環境条件を願うだろうか。

私たちを最も魅力的に見せることができるのは、主人である神の愛情に満ちたとりはからいであるが、私たち自身が主に何も願わないなら、主も私たちに何もお与えにはならない。私たちは鳥ではないが、私たちが自分を何者だと思い、自分のために何を願うのか、どんな条件を求めるのかによって、私たちを入れる「鳥かご」のサイズも変わって来る。

冒頭の記事の趣旨とは異なると感じられるかも知れないが、御霊によって生きるとは、御霊の命の統治の中を生きることであり、その命の支配は、必ず私たちの信仰と連動して働く。そこで、私たちが何を信じ、何を願い、何が自分にふさわしいものであると考え、どんな条件を実現しようとするのか、その願いに連動して、命の統治の力が働く。従って、私たちの願いがあまりにも小さく凡庸なものであるなら、御霊の働きもそれに見合ったものにしかならないのである。

筆者は、美しい鳥たちの姿を見ながら、空の鳥も、野の花も、海の魚たちも、何もかも、すべての生き物は神が人間のために造られたものであることを今更のように思う。それにも関わらず、人間は何とこれを楽しむどころか、重荷や苦痛に変え、この小さな命を通して与えられた祝福を全く味わわずに通り過ぎているのだろう。そのようになっている原因は、人間側の思いの狭さにあるに違いないのではないだろうか?
  
信じる者たちは、一体、何を願うのかによって、その人の人生に信仰を通じて実現する内容、スケールも全く違ってしまう。

 シメオンが願ったように、救い主を生きて見たいという願いを抱くのか、それとも、ジョージ・ミュラーが願ったように、数えきれない孤児を養いたいと願うのか、あるいは、筆者が書いたように、数えきれない鳥を養うことのできる巨木のような、尽きない豊かな資源が備えられている環境を願うのか。あるいは、ただ自分一人かろうじて死なずに生きられる程度の環境が与えられればそれで満足するのか。

神がどんなに素晴らしい方で、御霊にどんな力があろうと、信者が何も願わず、何も信じなければ、何一つ起こることはない。

最後に、こうした文脈でしょっちゅうよく引用される詩編の句を引用しておきたい。ここには、信者が信仰によって大きな願いを心に抱くべきことと、それと同時に、それが実現するために守らなければならない掟が記されている。冗長な解説は省くが、その掟さえ守って生きるなら、信者の生活からは、無用な重荷が取り除かれ、信者に敵対する者には、神が報復をなさり、信者の生活は、最良の小麦、飽くほどの蜜で、存分に潤される。

流れのほとりに植わった木のように、暑さや日照りに関係なく、欠乏とは無縁の、溢れるほどの命の豊かさを味わう生活を送れるのである。
 
「わたしは思いがけない言葉を聞くことになった。
わたしが、彼の肩の重荷を除き
 籠を手から取り去る。
 わたしは苦難の中から呼び求めるあなたを救い
 雷鳴に隠れてあなたに答え
 メリバの水のほとりであなたを試した。
 
 わたしの民よ、聞け、あなたに定めを授ける。
 イスラエルよ、わたしに聞き従え。
 あなたの中に異国の神があってはならない。
 あなたは異教の神にひれ伏してはならない。
 わたしが、あなたの神、主。
 あなたをエジプトの地から導き上った神。
 口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう。

 しかし、わたしの民はわたしの声を聞かず
 イスラエルはわたしを求めなかった。
 わたしは頑なな心の彼らを突き放し
 思いのままに歩かせた。
 わたしの民がわたしに聞き従い
 イスラエルがわたしの道に歩む者であったなら
 わたしはたちどころに彼らの敵を屈服させ
 彼らを苦しめる者の上に手を返すであろうに。

 主を憎む者が主に屈服し
 この運命が永劫に続くように。
 主は民を最良の小麦で養ってくださる。
 「わたしは岩から蜜を滴らせて
 あなたを飽かせるであろう。」」(詩編81:6-17)

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命の御霊の法則に従って支配する―一羽の雀さえ、父のお許しがなければ、地に落ちることはない。(3)

御霊によって統治する、というテーマについて語る際、これまでキリストの復活の命は、あらゆる環境条件や物流をも支配する力を持っている、ということを繰り返し書いて来た。

その文脈で、先日、我が家の小鳥たちも、御霊の導きによって与えられたと書いたが、その矢先、筆者自身が、改めて主に問われるような出来事が起きた。もちろん、愛らしい小鳥たちに何の不満があるわけではない。だが、こんなスケールの出来事よりも、はるかにもっと大きなものを、信仰によって望むべきであることを思わされたのである。

ちょうど主にこう問われたような具合だった、「あなたの満足は、こんな小さなスケールで終わるようなものなのでしょうか。あなたはこれらの小鳥たちにすっかり満足しきっているようですが、あなたの望みは、そして信仰の名に、御霊の名にふさわしい恵みは、この程度だとあなたは考えているのでしょうか。これよりも大きな望みはないのでしょうか」と。

その時、筆者は以前に大きな鳥を飼い、今やその鳥にまさる鳥を手に入れたいと願いつつ、それを素通りして来たことをはっと思い起こされたのだった。
 
それというのも、希少な鳥には、庶民が聞いて呆れるような値がつけられている。一言で言ってしまえば、良いクラスの新車を買うのと同じくらいの値がつく。その値段を見た瞬間、「あ、これは私には関係ないことだな」と思って、願うよりも前に諦めて通り過ぎて来たといったことが何度も起きてきたことを思い出したのだ。

だが、愛らしい小鳥を何羽も与えて下さる主が、大きな鳥だけは無理だとおっしゃるはずがない。
 
むろん、これは比喩である。そんな風に、心の底では、何か望むところがあるのに、あれやこれやの現実のリスクを回避したいがために、本能的に自分には過ぎた贅沢であるかのように考えて素通りして来た恵みがどれほどあっただろうか、と考えさせられたのである。
 
後から考えてみれば、そのような稀有な出会いは、まさに信仰によるプレゼントだったとしか思えず、その時、恐れを捨てて一歩踏み出しさえしていれば、そこから開けていたものがあったに違いないと思われることが多い。

そうやって、真に信仰を要する選択を素通りし、信仰がほぼ必要のないささやかなスケールの恵みだけを手に取り、それがあたかも偉大な信仰によって得られた戦利品ででもあるかのように誇っている場合ではない。

むろん、そこにもちゃんと信仰は働いてはいるのだが、それが可能であるならば、もっと大きな事柄も当然ながら可能であったことを常に思うべきなのである。

私たちが信仰によって何かを得るとき、そこには常にある種の困難、リスクが伴う。目に見える世界にはその選択が正しいと保証してくれるものが何もなく、ただ内なる確信だけに基づいて進んで行かねばならないからだ。

信仰による創造は、たとえるなら、常に目に見えないデポジット(預り金)を担保にした引き出し行為のようなものである。言い換えれば、主に対するつけ払いのような形になる。
 
あなたの預金口座に今現在、うなるほどに自由になる資金があるなら、あなたはどんな壮大な娯楽も、自分には贅沢すぎると思うことなく、あるいは、今あなたが広大な土地の所有者であれば、あなたはその土地を担保に、何の不自由もなく、新しい壮大な事業を開始することができよう。

しかし、 信仰による歩みはそういう目に見える保証によらない。それは常に目に見える担保が存在しない時に、ただ信仰だけによって、無から有を生み出し、創造する行為である。だが、クリスチャンの間でもあまりよく知られていないことは、信仰の世界でも、「信用創造」は存在しており、目に見えない新しい「資金」を天から調達するには、元手となるものが要ることだ。それが、からし種一粒の信仰なのである。

聖書には、もしも人の内にからし種一粒の信仰でもあるならば、山をも動かす原動力になるだろうとの句がある。

「使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。
もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」(ルカ17:5)

「弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」(マタイ17:19-20)

「イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」(マタイ13:31)

こうしたイエスの言葉は、すべて信仰による無からの創造を指している。ほんのわずかでも人の内に信仰があれば、それを担保に、人は目に見える世界に大きなものを呼び出して来ることができるのである。

最初からいきなり巨大なスケールのものが生まれることも稀にあるとはいえ、ちょうど「わらしべ長者」の物語みたいに(むろん、この話は聖書とは本質的に関係ないが)、信仰によって一つ一つの創造行為を積み重ねているうちに、最後にそれが巨大なスケールにまで達する場合も多い。

いずれにしても、筆者が何羽かの美しい小鳥が手に入ったと喜んでいるようなスケールはごく些細な話であって、むしろ、そうした小鳥たちが無数に宿ることのできる木を育てるのが、信仰の力なのであり、 その木は、今、私たちの目には見えないかも知れないが、すでに信仰によって存在しており、筆者は今、その木に宿る小鳥たちのほんのごく一部を目にしているに過ぎないことを思わされたのである。

その木には、まだまだ筆者が一度も見たことのない魅力的な鳥、まだ知らない美しい稀有な鳥が、たくさん宿っている。そして、その木は、それらの鳥たちを全て養うのに必要かつ十分な条件を備えている。その木を、私たちは信仰によって心の内に持っているのである。

見るべきは小さな枝葉ではなく、その木それ自体であり、その木は当然ながら、キリストご自身であり、彼の命の力なのである。

・・・

霊的に前進して行くためには、ある意味で、非常に貪欲でなければならない。これは決して物欲のことを指して言うのではなく、人が神の御前で、真に自分のために備えられた恵みを理解するためには、自分自身のちっぽけな思考と経験の枠組みを常に打破しながら、飽くことなく先へ進んで行く態度が必要となることを意味する。

神が人間のために備えられた崇高で偉大な使命、恵みの大きさ、完全さを生きて知りたいと願うならば、信者にはある意味、わき目もふらずにその目標だけに向かって突き進む覚悟がいる。そうした中で、自分自身の思いの限界が障壁となるだけでなく、人々の思惑や、人々の理解といったものも、障壁となり、そうしたものに気を取られるならば、先へ進むことができなくなってしまうことが往々にしてある。
 
最近、筆者は、オリンピックを間近に控えた頃に、TV番組である記者が外国のアスリートたちの稽古場を訪ねた風景を目にした。その時、当時、金メダルの最有力候補の一人と見られていた若いアスリートが、TVの記者に気前よく自分たちの稽古場を案内していた。
 
それを見たとき、筆者は、その有名なアスリートの親切でオープンな態度は、きっとカメラ映えし、誰にでも好感を持たれ、取材班は大喜びだろうが、金メダル候補が試合前にそのようなことに時間を費やしていたのでは、その人は勝てないかも知れないと思った。

そして、案の上、その人は自分よりも年若い選手に敗れて二番手におさまり、その上、自分が気前よく記者たちを案内してやった稽古場を去ることになったのである。むろん、それには様々な要因があり、一概に、稽古場を案内したことが原因だなどと決めつけられる問題ではないが、筆者は、この選手が、受付係よろしくTV番組の取材記者を自分たちの稽古場に導き入れた姿を見たとき、そこに、この選手の油断(もしくは慢心)を見た気がした。

稽古場は、表舞台には見せられない、人の目からは隠れた勝負の場所であって、そこでは常に過酷な競争や死闘が繰り広げられている。そもそもアスリートは俳優ではなく、案内係でも、受付係でもない。稽古場でアスリートが果たすべき役割は、観光案内よろしく、記者を親切に案内して取材に協力してやることではなく、稽古場で目に見えない苦労を人知れず負い、積み重ねながら、自分が真に満足できる高い目標だけをわき目もふらずに目指し続けることである。

その役割を忘れた途端、その選手は、後学に追い落とされて、選手としての価値を失ってしまう。そして、その稽古場は、その選手にとって、自分が記者を案内してやった通りの観光地のようなものにはなっても、もはや自分の稽古場ではなくなってしまう。

その原則はすべてのことに共通するのであり、真に一位を取ろうと思ったとき、つまり、他者の追随の及ばないような高みに到達したいと願ったとき、人はその目的以外のすべての目的をみな捨て去り、誰からどう思われようとも、わき目もふらずに、自分を満足させるたった一つの目的のためだけに、自分のすべてを捧げ、先へ進まなくてはならなくなる。

信仰の世界でも、その原則は同じなのである。もし信者が、キリストのみに仕え、神を満足させるという目的を目指すならば、誰にどう思われようと、たった一人で、人の目には全く評価されない、気の遠くなるような地道な試行錯誤の積み重ねの中で、信仰の模索を絶え間なく続けて、他のすべての目的を犠牲にして、ただ一つの目的(神を知ること)だけに仕えねばならなくなる。

往々にして、多くの人々に対して気前よく親切で、社交的であろうと考える人間には、それができない。彼らは、他者の心の満足を基準に得られる自分の満足を捨てきれないために、人の思惑とは一切関係なく、ただ自分だけの満足だけを目指して、貪欲に一つの目的に向かって進むことができないのである。言い換えれば、一つの目的、一人の人(キリスト)だけに仕えるには、あまりにも気が多すぎるのである。
 
だが、他者と自分はそもそも同じ人間ではない以上、人が他者と同じ満足を共有できることはほぼない。ある人が、他者の満足を自分の満足と考え、他者の利益のために仕え始めれば、その途端に、その人は、自分の目的を他者に奪われ、見失ってしまう。
  
キリスト教界というところには、人が自分個人の目的を目指すことを最初からあきらめさせ、捨てさせてでも、無数の鏡のような(抽象的かつ曖昧な)他者の満足のために、自分の人生を初めから差し出して生きるように促す魔力的な悪しき力が働いていると筆者は感じている。

そして、筆者はそれが正しい生き方であるとは全く考えていない。
 
そのようにして「他者の満足のために生きる」という実現不可能な虚構の生き方を手本として目指す筆頭格が、牧師である(牧師という名で呼ばれていないすべての宗教指導者をも含む)。

牧師などの宗教指導者は、絶えず信徒らを養うためと称して講壇からメッセージを語り続けるが、それは、筆者から見れば、自分自身が選手であるにも関わらず、そのことを忘れて、自分の訓練を後回しにして、自分の稽古場を訪れる無数の記者らを絶えず得意げに気前よく稽古場に案内してやっているアスリートとほとんど同じなのである。

牧師とは、自分個人の満足のために生きることができなくなった人々である。彼らは絶えず信徒の満足を自分の満足に置き換えて、他者のために生きようとして努力している。彼らはそれが福音伝道に仕えることだと考えており、そして、多くの信徒らがその牧師の姿にならって、自分自身も同じように他者の利益と満足のために生きようとする。

だが、本当は、そんな生き方は誰にとってももとより不可能な相談なのであり、人は本質的に自分のためにしか生きられないのである。それは献身者の場合も全く同じで、神に身を捧げ、神の満足のために生きることと、自分以外の人間の満足のために生きることは全く話が別である。

神は人にそれぞれ他者とは異なる使命を与えておられる以上、自分の個人的な人生目的を捨ててまで、他者を助け、他者を満足させることに人生を費やすことは、最初から間違っており、自分自身を犠牲にすることであるから、してはならないことである。

人が自由になるのは、外からの物質的・精神的な助けによるのではなく、ただその人の内なる命の力から来る自立による。従って、たとえ人が直接他人を助けようとして、自分のすべてをかけて物質的・精神的支援を与えたとしても、それによって他者を自立へ導くことはできず、かえって相手の自立の力を著しく奪い取ってしまい、その人の尊厳を根こそぎ奪い、傷つけるだけである。そんな方法で人助けを行うことは無理である。

筆者はこのことを以前にホームレス伝道になぞらえて語り、またハンセン病者への絶対隔離政策になぞらえて語った。要するに、他者を助けてあげているという自己満足の中に潜む悪というものがれっきとして存在するのである。

たとえば、ホームレスであるという人々の弱みを利用して、彼らがまるで公園に群がる鳩のように、パンを求めてキリスト教の伝道者たちの集会に毎回依存して生き、そこから抜け出られないように囲い込んで行くことが、支援なのでは決してない。

カルト被害者救済活動も同じであり、人の弱みや挫折体験につけこんで、それを解決することを助けてやるように見せかけて、その人の自立をより一層、損ない、人の弱さを食い物にして自分が脚光を浴びようとすることが、人助けなのでは断じてない。

だが、牧師は、そもそも神に代わって、自分が信徒のために自己を犠牲にすることで、信徒を助けるという不可能事を目指している人々であるから、彼らがそういう「伝道」を次々と考え出しては、弱みを抱えた人々を食い物にしてさらに自立を損なう事業を考え出すのは不思議なことではない。

しかし、信徒たちがこれにならって「福音伝道」という、実体のよく分からない抽象目的のために、自分個人の人生を捨て去ろうとすれば、自分の人生を完全に失って行くことになる。その行き着く先は、エホバの証人とほとんど変わらない生き方である。
 
筆者は、神はそのようなことを決して人間に期待されてはおられないと確信している。また、そのような方法で、人の信仰が成長することも決してないと確信している。

人にはそれぞれ決して他者には理解できない、他者とは異なる生き方が存在するのであり、まず自分自身のオリジナルな生き方を発見しないことには、自分の人生もない。漠然とした抽象的な基準に従い、誰か別人を手本として生きることも人には無理である。

従って、自分を捨てて他者の満足のためだけに生きられる人間はどこにもおらず、そもそも他者の満足とは一体、何なのか、誰一人として、それを明白に定義できる人間もいない以上、それは実体のない漠然とした抽象的な基準でしかなく、そのようなあるかなきかの基準に身を捧げて、人が自分の利益を捨て去ったような風を装い、他者の満足だけを目的に生きるようになれば、その人の人生は破綻・崩壊することになる。

だから、人は、神が人間(自分)に願っておられる真に高い水準の生き方が何であるかを本当に心の底から理解しようと願うならば、わき目もふらずに、ただ自分だけのために、神が天に備えて下さったはかりしれない恵みを見つめ続け、それを引き出して生きることにすべての心血を注ぐというある種の熱心さとそれゆえの犠牲が必要になるのである。

キリストご自身以外の方には目もくれず、地上を生きる他者の思惑などには決して左右されずに、自分が定めた目的を一心に見据えて進み続けるだけの決意が必要になるのである。

そのようにして、真に満足できる高い水準に達しないことには決してあきらめず、一歩も後に退かない覚悟で、自分のために備えられた恵みを一心に目指すことは、決して悪として非難されるべき貪欲さではない。

むしろ、私たちが生きて味わうために主が備えて下さった恵みを知ることなのであるから、まずはそれを十分に開発すべきであって、自分がその道を知りもしないうちに、今現在、自分が持っている乏しい知識だけで他者を助けられると思うべきではない。
 
人を真に助けたいならば、まずは自分自身が尽きることのない泉を発見し、そこから十分に水を汲み出した上で、その泉へたどり着く方法を他者に教えるべきである。しかし、箴言には、以下に示す通り、自分のための泉を他人に与えるなという警告がある。

アスリートは、自分が苦しい思いをしながら猛特訓をして、自己を犠牲にして獲得した技術を、他の人に簡単に伝授するだろうか。引退して教師にでもなれば、そういうこともあるかも知れないが、現役の選手がそれをすることは決してない。そんなことをしていて、どうやって一位を獲得できるだろうか。
 
代価を払って得た教訓が貴重であればあるほど、人はそれをただ自分だけのものとして大切に扱うことであろう。現に、代価を払わない人間に、どんなに方法論だけを教えても、それを他人が獲得することはできない。

だから、他者を助けようなどと思う前に、人はその同じ時間を使って、もっと自分自身の目的と満足のために生きるべきなのである。その満足とは、神が人間に対して願っておられることは何なのか、神が人間を創造された当初の高い目的、完成、尊厳とは何なのか、自分はどうやってそこへ達するのかというテーマを存分に追求することである。

要するに、人は神の恵みと約束の確かさを、生きて十分に味わい知ることを第一に追い求め、どんな満足を得ても、それで満足したなどと考えるべきでなく、それは目的に向かうほんのごくわずかな一歩でしかないということを思うべきであり、それなのに、ほんのごくわずかな恵みを得たからと言って、それを偉大な達成であるかのように満足げに吹聴して回っているようでは、その人にその先はないということなのである。

(むろん、信仰によって神がなされた御業を他の人に伝え聞かせ、証することが決して悪いというわけではないのだが、人には往々にして、ほんのわずかな恵みを得ただけで、それを十分な恵みを勘違いし、しかも、それを自分が獲得した偉大な方法論の獲得であるかのように吹聴して人に教えようとする傾向があり、もしそのような地点で立ち止まるならば、あなたの信仰はそこで終わりになることを思うべきなのである。)
   
以下の箴言第5章における「遊女」が何を意味しているかについては、諸説あるだろうが、筆者は、これはバビロンを指しており、遊女の道とは、自分がキリストになり代わり、教師となって講壇に立って信徒らを教え、信徒らから注目を浴び、感謝され、栄光を受けようとするすべての目に見える宗教指導者に就き従う道に当てはまると考えている。

このような指導者たちは、他人に向かって教訓を語るが、自分自身はそれを実践しない。他人に向かって泉のありかを指し示すが、自分自身はその泉から汲んで飲もうとはしない。

彼らは親切心を装って、絶えず困っている他者のために気前よく奔走し、「神はあなたを愛しておられます。その愛を十分に受け取って下さい」などと説教はするが、自分の心の内では「神が分からない。神はどこにおられるのだ」と叫んでいる。そして、キリストを自分の心の内に確信できず、そこから恵みを引き出す方法も分からないまま、自分が持てるほんのわずかな物質的・精神的なアイテムだけを頼りに、人助けにもならない人助けを行おうとし、他者の眼差しの中に「神」を探し、他者から肯定・承認されることで自己存在を獲得しようと、常に困った人々のもとを駆け回っている。
 
私たちは、どんなに彼らが卓越した指導者のように名を馳せていたとしても、そのような空虚な人間には決してなってはいけないし、彼らにつき従って行ってもいけないのである。

以下の御言葉の中で「会衆のうちにあって、わたしは、破滅に陥りかけた」という表現から、私たちは、以下の警告が、不信者に向けられたものでないことが分かる。

「遊女」というのは、要するに、地的なもの、悪魔的なもの、すなわち、地上を生きる生まれながらの人間全般の欲望の総体を指すのであり、人間の宗教指導者の栄光を建て上げ、人類の利益に仕えて生きることも、遊女の道に従うことである。

人間の利益に仕えて生きることと、神の利益に仕えて生きることは、決して両立せず、それにも関わらず、人類全般の利益を優先して、人間社会の思惑に従い、人間の満足を目的に生きれば、その信者は、ただ自分自身のためだけに備えられた命の泉を、他者の欲望の犠牲として失ってしまうことになるという教訓なのである。
  
「わが子よ、わたしの知恵に心をとめ、わたしの悟りに耳をかたむけよ。
これは、あなたが慎みを守り、あなたのくちびるに知識を保つためである。
遊女のくちびるは蜜をしたたらせ、その言葉は油よりもなめらかである。
しかしついには、彼女はにがよもぎのように苦く、もろ刃のつるぎのように鋭くなる。
その足は死に下り、その歩みは陰府の道におもむく。
彼女はいのちの道に心をとめず、その道は人を迷わすが、彼女はそれを知らない。

子供らよ、今わたしの言うことを聞け、わたしの口の言葉から、離れ去ってはならない。

あなたの道を彼女から遠く離し、その家の門に近づいてはならない。
おそらくはあなたの誉を他人にわたし、あなたの年を無慈悲な者にわたすに至る。
おそらくは他人があなたの資産によって満たされ、あなたの労苦は他人の家に行く。
そしてあなたの終りが来て、あなたの身と、からだが滅びるとき、泣き悲しんで、
言うであろう、「わたしは教訓をいとい、心に戒めを軽んじ、
教師の声に聞き従わず、わたしを教える者に耳を傾けず、
集まりの中、会衆のうちにあって、わたしは、破滅に陥りかけた」と。

あなたは自分の水ためから水を飲み、自分の井戸から、わき出す水を飲むがよい。

あなたの泉を、外にまきちらし、水の流れを、ちまたに流してよかろうか。
それを自分だけのものとし、他人を共にあずからせてはならない。

あなたの泉に祝福を受けさせ、あなたの若い時の妻を楽しめ。

彼女は愛らしい雌じか、美しいしかのようだ。いつも、その乳ぶさをもって満足し、その愛をもって常に喜べ。

わが子よ、どうして遊女に迷い、みだらな女の胸をいだくのか。

人の道は主の目の前にあり、主はすべて、その行いを見守られる。
悪しき者は自分のとがに捕えられ、自分の罪のなわにつながれる。
彼は、教訓がないために死に、その愚かさの大きいことによって滅びる。 」(箴言第5章)


神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。

空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。


あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができるようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどに着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。

信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられるだから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:25-34)

さて、 今回は、憲法に定められた居住移転職業選択の自由について、また、聖書において信仰者に与えられている自由について、この二つの話題を関連付けながら書きたい。

もっとはっきり言えば、聖書の御言葉を信仰によってこの地上に具現化することが可能であるならば、なおさらのこと、我々信仰者にとっては、憲法に保障された自由を具現化することくらいは、朝飯前だ、という話題について書いておきたいのだ。

ところで、冒頭から物騒な話を書くようだが、筆者は、籠池泰典氏夫妻が逮捕されたのと同じ今年の7月31日に、ブラック企業から突如としてクビを言い渡されそうになり、その是非についてしばらく争うという事件があった。

ちょうど引っ越して間もない頃だったので、筆者には、悪魔がこの出来事を通して企んでいる事柄が手に取るように理解できた(悪の軍勢は前々から筆者をこの土地から追い払いたく思っており、筆者の生活が少しでも豊かになったり、幸福になったりすると許せない思いで、妨害せずにいられないのである。)

もうはるかに昔のことではあるが、過去に筆者は一度だけ、自分で生計を立てることに自信がなくなり、お気に入りの家財をただ同然で売り払い、気に入っていた家をも手放して、よその土地に移ったことがあった。その頃の筆者は、まだ悪魔の策略に一人で敢然と立ち向かうなどということはおよそ考えたこともなく、聖書の御言葉の力なども全く知らない、無自覚で未熟な若いクリスチャンの一人に過ぎなかった。当時の筆者は、信仰者としては精神的に未熟で、いつも自分以外の誰かに心の支えを求めていたし、たくさんの思いがけないネガティブな出来事が、まるで洪水のように不意に積み重なって押し寄せて来る時に、それにどうやって一人で立ち向かうべきかなどと考える知恵もなく、その勇気もなく、立ち向かう前に、さっさと諦めて退却する道を選んでしまっているような臆病な信者であった。そして、それが暗闇の軍勢に対するあまりにも情けない敗北であることにさえ気づいていなかった。

その当時に起こった様々な出来事は、筆者の心にはかりしれない衝撃を与え、トラウマにも近い悲しみを呼んだ。その家を去るよりも前に、まず親族が住み慣れた家を離れて郷里に帰ってしまっていたので、まるで家が二つなくなったかのような衝撃や喪失感をも受けたのであった。

だが、その時の苦い経験を経て、また、その後、聖書の神との力強い本当の出会いを経て、今や、筆者はそういった人間を苦しめ、追い詰め、絶望に至らせようとする数々の出来事が、決して偶然ではないこと、その実に多くが、悪魔に由来する攻撃であり、信者が信仰によって立ち向かわなければならない苦難なのだということをはっきりと理解するようになったのである。

筆者はそうした喪失の後で、神の御言葉に基づき、再びすべての必要を不思議な形で満たされて立ち上がり、移住を遂げた上、今度こそ自分の力によらず、信仰によって、以前にもまさる幸福な生活を打ち立て、徐々にそれを拡張して来たのであった。それと同時に、そのようにして信仰によって上から与えられた生活を、信仰によって今もこれからも自分が守り抜かねばならない責任を負っていることをも知らされたのである。
 
そのような過程を経た現在、筆者は、たとえ悪魔がブラック企業のような団体を通して馬鹿げた宣告を言い渡して来たとしても、そんな内容を真に受けて、神がせっかく与えて下さった自由や解放をみすみすと手放していたのでは、この先、到底、生きていけないことを、とうに理解していた。むろん、筆者も人間なので、理不尽な事件に出会えば憤慨もすれば、嘆きもするが、かといって、自分のせいで起きたわけでもないことを、まるで自分の責任ように負って、不当な苦しみを黙って耐えているようであっては、神の名折れであり、信者の風上にも置けないことくらいは承知していた。

そういう時には、クリスチャンは、悪魔の策略に知恵を駆使して立ち向かい、暗闇の軍勢の当てが外れて、彼らが恥をかかされねばならなくなるように、首尾よく戦うべきなのである。

きちんと立ち向かうと、嘘の霧はさっさと晴れるものだ。抜群のタイミングで問題は解決し、筆者の不敗記録はまたしても更新され、それによって、筆者の信仰および聖書の神の正しさがまたしても暁の光のようにはっきり現れた。

筆者はクビにされず、かといって、労働の義務も免除されたので、結局、「空の鳥のように、野の花のように、蒔くことも刈ることもしないで、神が生活を保障して下さる」という、筆者が今まで唱え続けて来た生き方が、またしても現実になったのである。悪魔が振り上げた斧が、かえって悪魔自身に打撃となって跳ね返るのを見せつけられたような恰好である。

このようなことは、今までにも、幾度も実現して来たが、筆者の目から見て、このようなことは決して偶然に起きることではなかった。筆者はいつもいつもアダムの呪われた苦役としての労働には加担しなくて良いと放免されるのである。

これまで再三、ブログで書いて来たことであるが、筆者の目から見て、この地上における労働とは、罪ある人間が自分で自分の罪を贖おうとする達成不可能な努力のことを指す。

つまり、今や地上における労働とは、人が単に生計を支えるための、もしくは他者の必要に応えるための働きのことではなくなり、本質的に、人類が自分で自分の罪を贖うための自己救済の試み、神に逆らうバベルの塔建設の試みになってしまっているのである。

筆者はこれまで、自分の生活を自己の努力によって拡張したことは今まで一度もない。筆者の人生に劇的な展開(飛翔・拡張)がもたらされたのは、いつも筆者が、信仰によって、聖書の御言葉の実現を求めたときのことであった。それに引き換え、筆者が懸命に働いて、自己の労働によって自分を養い、支えようとし始めると、途端に物事は悪い方へ転がっていくのである。

毎日、すし詰めの満員電車に乗って阿鼻叫喚の地獄のような混乱の中を通勤し、上司の覚えめでたい部下となるために、粉骨砕身して夜遅くまでサービス残業したり、休日を返上までして働き、そうして自分の涙ぐましいまでの努力によって、自分をひとかどの人間として世間に認めてもらおうとする人生は、神の目にはまさに呪われていると言って良い、と筆者は考えている。

そのような努力は、決してまっとうな労働とは呼べず、勤労の義務という概念からも外れており、どんなに繰り返しても、人の幸福にも安定にもつながらないどころか、人をますます追い詰めていくだけである。それは、そのような(今日において当たり前のようにみなされている歪んだ)労働の概念が、本質的に、人類の自己救済の願望から来るものだからであると筆者は考えている。

昨今、この世における人類の労働という概念は、ますます人が自分で自分を義としようとする神に対する反逆を意味するものになりつつあって、今回も、その結論がまた裏づけられる結果となったのだと筆者は考えている。
 
このような経験を幾度も味わった結果として、筆者が今考えることは、もしかすると、旧創造(神によって贖われない、滅びゆくもの)を維持する責任は、旧創造自身にあるのかも知れない、ということである。

冒頭に挙げた御言葉からも分かるように、神は、クリスチャンに対し、神の国と神の義をまず第一として生き、衣食住のことで思い煩うな、と命じている。

信者にも、生きている限り、衣食住の問題はつきまとう。にも関わらず、神は聖書を通して、そのような問題は二義的であるから、クリスチャンは衣食住のことで悩まず、まずは神の国と神の義に注意を向けなさいと教える。

だとすれば、筆者が信者として一義的な問題に心を砕くのは良いとして、筆者の二義的問題を解決する責任は誰が負うのであろうか?

実は、その責任はこの世が負うのではないだろうかと筆者は考えている。

むろん、直接的には、クリスチャンを養うことは、神の仕事である。クリスチャンは「日々の糧を与えて下さい」と神に向かって祈ることができるが、しかし、そのような訴えを延々と繰り返さずとも、神は自然に信者に必要なものを送って下さる。そして、その多くが、この世から不思議な形で提供されるのである。

もっとはっきり言えば、この世にはクリスチャンを支えなければならない義務と責任があるのではないだろうかとさえ、筆者は思うのである。(この世はこれを聞いて憤慨するであろう。だが、実際に、神の国と神の義を第一にして生きるなら、信者は、いつもこの世が自らの富をすすんでクリスチャンに明け渡す結果にならざるを得ないことを痛感するのではないだろうか。)
 
さて、話題を戻すと、本日は、居住移転職業選択の自由、というのがテーマなので、聖書と憲法をからめて語りたい。

筆者の世代は、これまで労働市場において全く有利とは言えない数々のハンディキャップを負わされて来た。だが、それにも関わらず、我らが憲法は、「職業選択の自由」を国民に約束している。

この言葉の意味は絶大である。

なぜなら、それは「雇用主が労働者を選ぶ自由」ではなく、労働者たる「国民が自ら職業を選ぶ自由」を保障するからだ。

筆者はこれまで繰り返し、記事の中で、キリスト教の信仰者として、聖書の御言葉の記述をリアリティとして地上に引き出すことが可能であることについて記してきたが、それに比べれば、人間が造ったことばに過ぎない憲法の文言を具現化するくらいのことは、非常にたやすいことなのだ。

というより、憲法が国民の権利として保障している程度の内容ならば、それは最低限度の条件として、ほとんどすべてが聖書の約束の中に含まれているとも言えるかも知れない。

しかし、残念なことに、今日、多くの国民にとって、憲法の文言は単なる絵空事でしかない。

それは労基法が、多くの雇用主ばかりか、労働者にとっても、絵空事であるのと同様である。

多くの労働者は、残業代を受け取る権利が自分にあっても、雇用主から「それはあんたが勝手に行ったサービス残業だから、残業代を支払うつもりはない」と言われれば、あっさりとあきらめてしまう。

それどころか、雇用主から、ある日、「おまえはクビだ!」と言われれば、それがどんなに不当な理由でも、さっさとあきらめてしまう者も少なくない。

だが、不当な結論を黙って受け入れるのは、悪魔の不当な言いがかりをすべて真に受けて、自分が悪かったと全面的に降伏するのと同じである。自分の側に落ち度がないならば、そんなことをしてはならず、不当な主張とは戦って、身の潔白を主張し、権利を取り返さなければならない。権利は行使しなければ、失われてしまうのは仕方がない。

この時、権利を主張するための正当な根拠となるものが、法である。

憲法は法の中でも最高法規である。

この最高法規に基づいて、日本国民は自分の望みを自分の当然の権利として主張し、「要求する」ことができる。

このようにして、法的根拠に基づいて自らの権利を主張することで、論敵の不当な言い分を退けるという論戦は、基本的に、聖書の神を信じるクリスチャンが、聖書の御言葉を自分に対する神の変わらない約束として受け止め、それを根拠に、神に対してその約束の実現を求め、同時に悪魔の不当な言いがかりに対して立ち向かう論戦と、基本的にルールは同じである。

さて、国民はどのようにして「職業選択の自由」を現実にすることができるのだろうか?

それを考えるに当たり、まず、今日、我々がまるで当たり前であるかのように思い込まされている状況が、どんなに理不尽な嘘であるかを理解しなければならない。

憲法は「職業選択の自由」という、素晴らしい権利を国民に保障するに当たり、国民を「学歴」や「職歴」によって分け隔てしているだろうか?

たとえば、途切れ途切れの短い職歴しかない人間や、転職回数の多い人間は、まっとうな就職はできず、ひどい仕事にしか就ける見込みはない、などと言っているだろうか?

転職回数が5回を超えれば、もう正規雇用の道は閉ざされたも同然だ、とか、前職でクビにされたり、前職を自己都合で退職したら、次にはろくな仕事が待っていないぞ、などと脅したり、勤続年数が少ないから、まともな仕事に就けない、などと言っているだろうか? あるいは、正社員になれるのは、ほんの一握りの人たちだけであり、それ以外の人間は、もういい加減にあきらめるべきだ、などと言っているだろうか?

そんな条件は全くつけられていない。

制限となるのはただ一つ、「公共の福祉に反しない限り」という一言だけである。

日本国憲法第22条第1項

何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する


この権利保障には、職業選択の自由だけでなく、居住移転の自由も含まれている。
 
そして、職業選択の自由の場合と同じように、居住移転の自由を保障するに当たっても、憲法は、「立派な職業がなければ、立派な家に住めませんよ」とは言っておらず、「大家さんのご機嫌を損ねたら、退去させられます」とか、「かれこれの年収がない人には、引っ越し自体が土台無理です」とか、「職歴のない人間には、家は借りられません」とか、「住みたいところに住むためには、まずあなたの年収を上げる努力をしなければ」などの条件をつけていないのである。

このように、居住移転、職業選択の自由は、大家や、雇用主の自由を保障するものではなく、あくまで国民一人一人に与えられた選択の自由である。

もう一度、目を凝らして読んでみよう。

そこには、「雇用主が、自らの都合や好みに従って、労働者を選ぶ自由」ではなく、「国民が、自分の都合や好みに従って、職業を選ぶ自由」がある。

だが、もし選択肢が一つもなければ、そんなものは自由とは呼べないだろう。従って、職業選択の自由の中には、選択肢が豊富にあるということが、前提として含まれているはずである。

それならば、求職者が現実にありったけの求人広告を目を皿のように探しても、何一つ希望する条件に合致するものが見当たらなかったり、どんな仕事に応募しても門前払いを食らわされたりするのは、どういうわけなのだろうか?

憲法が間違っているのか?

いや、そうではない。憲法に矛盾する現実がおかしいのである。

さて、ここからが勝負所である。

ここで、国民一人一人が選択するのである。法の支配を現実として受け取るのか、それとも、法の支配にそぐわない、それに反する現実を「現実」として受け取り、約束された自由をみすみすあきらめるのか。

あきらめたくない人は、どんなに法に反する「現実」がまことしやかに、当たり前のように広がり、人々に常識のごとく受け入れられていたとしても、その「現実」こそが異常なのだという点で譲ってはならない。

分かる人には、筆者の言いたいことはすでに理解できたであろうから、あまり長々と論証することは必要ないと思われる。これは憲法にまつわる話といえども、ほとんど信仰の領域にも等しい内容である。

筆者は、最近、「居住移転の自由」を自らの権利として行使し、約束の保障を具現化するということをやってみたのだが、その際、年収だとか、ローンだとか、頭金の額だとか、いわゆる普通に家を移り住む時に必要となるすべての条件をほとんど筆者は度外視して(そうした条件にほとんどとらわれず)、願いを実現に移したのであった。

筆者はそれまで何年間もの間、「移転」の方法を模索して来たのだが、以上に挙げたような、好条件をすべて持っていたわけではなく、それらがすべてそろう展望があるわけでもなく、それにも関わらず、そうした条件がすべてそろわなければ、「移転」は不可能だとは信じず、しかも、妥協することによって自らの願いの水準を引き下げるのでもなく、自らの願いを実現する方法が必ずあるはずだと信じ続け、そして実際にその通りに、道を開いたのである。

だからこそ、その経験に立って言うが、憲法に保障された居住移転の自由を、絵空事でなしに実現できるなら、職業選択の自由を行使することも、できないはずがない。

このように、法の支配を、それと矛盾するように見える現実を打ち破って実現し、現実を見えない法の支配に従わせることは、信仰を持たない人間の地上生活レベルでも実現可能なのである。多くの人は、それを実行に移すよりも前から、現実を見て、法の支配を行使することをあきらめ、自らに約束された保障をあきらめ、手放してしまうが、それは正しくないのである。
 
このように、人間が造った法規に過ぎない地上の憲法でさえ、これだけの自由を人に保障してくれているのだから、まして、絶対的に正しい聖書の神が、被造物である人間のために悪法を定められるはずがなく、信じる者の望みをいたずらに制限したり、無碍に扱われるはずもない。

聖書の御言葉はどれも神から信者への変わらない約束であり、信仰によって実現することが可能なのである。憲法に書かれた文言が、国民にとって単なる絵空事で終わらないように、聖書の御言葉は、信者にとって、目に見える現実を超越して支配する見えないリアリティなのである。
 
そのことは、この先の時代、ますますはっきりと証明されるだろうと筆者は考えている。

今でも、多くの人々は、働いて収入を増やすことによってのみ、自己の自由の範囲を拡大することができると考えているが、実際には、そのような考えは根本的に間違っていると言える。

実際には、人間の自由と労働との間には、何の関連性もないのである。労働を通して収入を増やすことによってのみ、自由の範囲が拡大するという考えは、憲法にも反しており、聖書の御言葉のリアリティにも反する悪質な虚偽であると言える。

ところが、世間では、今になってもまだ、労働して己を支えて生きることこそ、まっとうな生き方であるとみなされている。そういう人々には、ブラック企業で不当解雇されたり、サービス残業を強制されたり、果ては賃金さえ払われず、長時間残業のために過労死するなどのことは、自分には決して起こるはずのない他人事に見えているのであろう。

だが、筆者は、自己の労働を頼りとする生き方は、この先、ますます絶望に落ち込んで行くだけだと考えている。それは、国民全体に勤労の義務を課すことで、社会全体の負債を国民に分かち合わせるという考え方自体が、本質的に、共産主義思想につながるからである。

話が飛躍していると思われるかも知れないが、前にも書いたように、筆者の目から見ると、現在の日本社会は、ソビエト体制に非常によく似た歴史的経過を辿っており、この国は、表向きの体制や法体系とは別に、本質的に社会主義国なのではないかと考えずにいられない。

1928-29年にソビエトで強制集団化がなされた。

この時、農民・労働者にそれまでの税金の水準に照らし合わせて、思いもかけない高額な税金の納付書が届き、家畜にも重税が課され、家畜のと殺も罪とされた。

そこで、自身の税のみならず、家畜の税が払えず、家畜も没収の上、強制収容所送りになるような人々も出た。払いきれない法外な税金を何とかしてくれとソビエト国民が閣僚に泣きついた数多くの嘆願書が残されている。

さらに、農民を対象として政府による穀物徴発などが行なわれるようになり、農家が屋根裏に隠していた穀物までも国家財産として強制的に取り上げられた。

こうして、レーニン死後、それまでソ連が戦後の荒廃から立ち直るために、比較的自由な経済活動が許されていたネップの時代が終わり、ネップの時代にようやく少しばかりの財産を築いた農民や労働者が「富農」として非難され、彼らからの強制的な取り立てが始まったのである。

赤い貴族とも揶揄された政府要職にある一部の特権階級も同然の裕福な人々を除き、圧倒的多数のソビエト国民が極貧の生活を耐え忍ばねばならない時代が始まったのである。

こうして、文字通り、すべての私有財産が廃止されるという共産主義の理念が実行に移されたわけであるが、しかし、廃止された私有財産は国民のものとはならず、その代わりに、すべての財産が国有化された。国民の勤労の成果も、すべて国の財産として没収されたのである。

こうして、すべての財産が、人類の未来社会に共産主義というユートピアを生み出すための母体である国家のものとされたため、ソビエト国民は、自分が飢えて死なないために、コルホーズからジャガイモ一個盗んでも、国家財産の窃盗として死刑に処されるようになった。それだけではなく、そんな恐ろしい生活から逃げるために国外亡命しようとすることさえ、国家に対する裏切りとして死刑に価する罪とされた。こんな恐ろしい国から逃げる自由さえなくなったのである。

こうして、労働者・農民の天国を作ることを目的としていたはずのソビエト政権が、労働者・農民に対する恐ろしい収奪、抑圧を実行に移し始めた。やがてそれは労働者・農民の財産の没収、労働の収奪(搾取)だけには終わらず、やがて無差別的で大規模な思想弾圧の実行に結びつき、その結果として、特に、大粛清と呼ばれる36-38年の時代には、数えきれないソビエト国民が無実にも関わらず逮捕され、投獄されたり、銃殺されたり、強制収容所で強制労働させられたりすることになった。

強制集団化から大粛清の時期までに、約10年近い時が経過しているが、今、日本は、強制集団化の時点に差しかかっているのだと筆者が考えていることは、別な記事でも書いた。

今、サラリーマンや、自営業者や、その他の、これまで普通に働いて、己を支えて生きて来た国民(立憲民主党の枝野氏の言葉によれば、かつては「分厚い中間層」を形成していたような国民)が、国家によって強制的な収奪の対象とされ、貧困に突き落とされ、やがては死の淵にまで追いやられるような時代が近づいていると、筆者は感じている。

ちなみに、立憲民主党は、「分厚い中間層を取り戻す」ことを公約に掲げているが、筆者の予測では、この先の歴史は決してそのようにはならない。筆者の予感が的中していればの話だが、今、我が国で起きていることは、「雇用情勢の破壊」でもなければ、「中間層の没落」でもなく、「下流老人の増加」でもない。

これは目に見えない形での、一般国民の私有財産の段階的な廃止なのである。

なぜ過労死などといった問題が起きるのか、なぜ労働市場においては残業代が支払われない方向へ向かっているのか。マイナンバーとは何なのか。これらの問題は、この国がすでに実質的な社会主義国であり、徐々に「共産主義」社会へ向かっているという理解なくしては解明できない。

それはとどのつまり、今のこの国では、社会そのものを存続させるために、すべての国民に、平等に負担を負わせようとする政策が推し進められていることを意味する。

すべての国民に平等に(社会を維持するための)負担を負ってもらうために、報われない労働にもどんどん従事してもらい、どんどん財産を没収しましょうという目に見えない政策が進行中なのである。

この国に革命は起きておらず、表向き、資本主義国であることに変化はないが、それでも、見えない革命が起きたも同然に、この国の最上層部は、すでにクーデターによって取り替えられ、社会の仕組みは以前とは全く異なっているのだと言える。
 
今の安倍政権は、第一次の投げ出しに終わった安倍政権とは本質的に全く異なり、今現在、この国が向かっている先にあるものは、「富はすべて国のもの(土地や財産の国有化)」、「すべての負債は国民のもの」(労働の義務及び私有財産の廃止)という、ソビエト体制とほとんど変わらないような負債の連帯責任の社会なのである。

社会主義国では、私有財産制度が廃止されているので、労働者が働いても働いても、その成果が給与に反映されることはなく、店の売り上げがどんなに伸びても、それが労働者の賃金になって跳ね返って来ないので、言ってみれば、そんな社会では、働く意味自体がないに等しい。

怠け者が少ししか働かなくても、勤労者が大きな働きをしても、どちらも同じ報いしか受けないような社会では、労働意欲に溢れている人間ほど、搾り取られるだけに終わるのは目に見えている。

我が国では、名目上、私有財産制は廃止されていないものの、実質的には、それにかなり近い状態が進行している。

労働者の給与は、残業代の固定化、もしくは廃止、あるいは労働時間にとらわれない裁量労働制が広がることにより、個人が働いても働いても、その成果が労働者にますます還元されにくく、かえって一人一人の労働の成果が、会社の共有財産のように分配される時代が近づいている。

安倍政権になってから、貯蓄ゼロ世帯が増えたが、貯蓄がゼロということは、他の財産もほとんど無いに等しい状態を意味する。

若者の車離れも進んでおり、土地もなければ、家もなく、あるとすれば負債だけで、学費すらも、奨学金という負債を抱えなければ捻出できない。そういう世帯が増えているということだ。

このようなことは、目に見えない形で国民の間で私有財産制度の廃止が進んでいることを意味すると言えないだろうか? ほんの一握りの莫大な富を有する富裕層を除き、それ以外の90%以上を占める下層民(そこにはかつて中間層と呼ばれた人々も含む)は、働いても働いてもその成果が何ら給与に反映されず、豊かになれる見込みもなく、貯蓄も減って行く一方で、ほとんど私有財産がなくなるまでに貧困化が進むという事態が、国家の政策レベルで進行中なのだ。

筆者の考えでは、これは目に見えない、段階的な、下層民の間での私有財産制度の廃止そのものであり、この先、ますます、このような傾向は深刻化して行くことになると思われる。
 
政府がサラリーマンからも自営業者からも所得税や年金の取り立て額を引き上げるというニュースがネットを巡っているが、それもこうした流れの中で起きていることであり、いずれその徴収額は考えられないほどにべらぼうな金額にまで引き上げられ、働いてもほぼ意味がないほどまでになって行くものと考えられる。

また、現時点では、共謀罪で死刑とされた人はいないが、これから10年ほどが経つ間に、税の取り立てなどの労働者への収奪がより深刻化すれば、それに伴い、ソビエト政権下で起きたような政府に対する反乱を未然に防ぐための思想弾圧が、この国でも大々的に起きる可能性がないとは言えず、共謀罪はその布石なのだと考えることは十分に可能である。

このようなことは、この国がもはや資本主義国ではなく、社会主義国である、という観点に立たなければ、その意味が本当には理解できないのではないかと筆者は考えている。

この国がどこかの時点で、完全に方向転換して、安倍政権の唱える「この道」(それは安倍晋三自身が考えついて提唱しているだけのものではなく、その背後に存在する勢力と理念がある)を拒否しないならば、必ず、そのような末路にまで行き着くであろう。

さて、共産主義とは、文字通り、すべての人が幸福社会の実現のために平等に働く社会のことである。

概念上では、その幸福社会には何でも豊かにそろっており、商品やサービスをお金で買う必要もないので、私有財産などもとから必要ないのである。

しかし、結論から先に言ってしまえば、そういう社会を理想とする思想の最大の問題点は、そんな社会が到来することが本当にあるのかという一点に尽きる。

むしろ、理想社会の到来を口実にして、人々の財産と労働の成果を不法に収奪することが、その思想を土台に作られる社会の本当の目的となってはしまいかという点にある。

誰もが平等に労働することによって、本当に幸福社会が到来するのならば良いが、もしその幸福社会の実現が、絵に描いた餅でしかなく、人々をタダ働きさせるための口実にしかならないならば、そんな呪われた「幸福社会」の到来を額面通りに信じて、その到来のために真面目に労働する人たちが最も馬鹿を見させられることになる。

「いつか人類の幸福社会が実現して、モノが豊かに溢れ、格差がなくなり、誰も貧しさに苛まれることのない、豊かで幸福な世の中が来ます。そして、その時には、あなたも好きなものをよりどりみどり、何でも自由に取って楽しめるのです。ですから、あなたはそういう社会の到来を信じ、その時が一刻でも早まるよう、粉骨砕身して労働し、今は雀の涙のような少ない給料や、ただ働きにも黙って耐えて我慢しなさい」

などと言われれば、

「えっ、それって、要するに、詐欺ですよね?」とただちに問い返すべきである。

「間もなく日本は戦争に勝利するのですから、その時は、何でも欲しいものが自由に手に入ります。ですから、勝つまでは、欲しがりません、と言って、みんなで貧しさに耐え、お国のためにすべてのものを差し出しましょう」などと言われれば、「いや、それって詐欺ですよね。私たちからすべてのものを身ぐるみ巻き上げた国が戦争に勝つ時なんて、絶対に来ないと思いますよ。そもそも戦争に勝てる力があるなら、こんなことをやる必要もないと思います」と即座に切り返さなければならないのである。

「どうせ約束した共産主義のバラ色の未来なんて、初めから嘘っぱちでやって来ないんでしょう。そのバラ色の未来を口実にして、今、国民からあらゆる権利を、財産を、労働の成果を取り上げることだけが、あなた方の本当の目的なんでしょう? 嘘はいけませんよ、私は信じませんし、応じませんからね」と返答し、そんな不当な契約は悪魔に突き返すべきである。

「未来の幸福社会」などというあるはずもない謳い文句を口実に、実際に、結ばされるのは、ひたすら赤字や負債だけを山分けするという不利な契約だけだからである。

そういうわけで、現在の日本社会においては、今までと同じように、国民一人一人が頑張って働きさえすれば、社会全体が底上げされて、みんなで豊かになれるという前提が、もう幻想も同然に、存在していないのである。そのような時代は過ぎたのであり、今となっては「神話」である。

そもそも日本がかつてのような経済的繁栄を取り戻せるという発想自体が幻想なのだが、その幻想の中には、アベノミクスという「神話」だけでなく、残念ながら、立憲民主党の主張している「分厚い中間層を取り戻す」という「神話」も含まれると筆者は考える。

現実には、国民一人一人が頑張って働けば、社会が底上げされるどころか、少子高齢化及び原発事故等々のツケをその一人一人がみな連帯責任のごとく負わされることになるだけであり、しかも、労働できる世代や人口自体が限られている以上、一人一人がどんなに頑張って働いても、社会全体を今まで通りの水準に維持することはほぼ不可能であり、そのために負わなければならない負担が、天文学的な額にまで上っており、そのような理不尽な状況下では、むしろ、真面目な人々が努力して働けば働くほど、働かない人々がその努力に便乗して利益をむさぼるので、真面目な人々の負担は重くなって行く一方であり、どんな努力を持ってしても、この理不尽な状況を変えることは誰にもできないという時代が来ていることは明白なのである。

この事態の深刻さを直視せず、今まで通りの勤労の概念に踊らされて、従来通りに労働していれば、あたかも社会全体がますます豊かになるかのような幻想を抱いていれば、その人間は、その浅はかさを誰かに都合よく利用され、負いきれない(社会全体の)負債を連帯責任として負わされて、死が待っているだけである。

過労死も、サービス残業も、すべてこの社会が慢性的に負わされている負債を、最も弱い末端の労働者にまで連帯責任のごとく負わせようという考えから起きていることである。

その負債の中には、むろん、デフレや、少子高齢化や、福島原発事故の後始末など、あらん限りのマイナス要素が含まれるであろうが、広義では、その負債は、最終的には、人類の罪そのものを指す。

人類が絶対に自己の力で贖うことのできない罪を、己の力で贖い、何とかしてみんなで己が失敗を償って幸福な社会を自力で打ち立てようという目的で働いていればこそ、どんなに働いても、その労働に終わりが来ることはないばかりか、むしろ、働けば働くほど、要求が過剰なものに引き上げられ、人は永遠の蟻地獄の中でもがき続けるしかないのである。

そのような文脈における労働には希望がない。それは人がどんなに力を尽くして頑張っても、しょせん、返せるはずもない、底なしの負債を、社会のメンバー全員で分け合うことで、あたかも返せるかのように見せかける幻想でしかないからだ。

そこで、そんな試みは決して成功に終わることはないだけでなく、もしそのような仕組みの嘘を見抜けず、その罪の連帯責任に同意してしまったなら、やる気のある人間は、死に至るまでとことん割に合わない条件で働かされるのみである。

そこで、正しい答えは、そのような呪われた労働システムからは、一刻も早く、外に出るべきだ、ということに尽きる。

我々は、義務としての労働ではなく、自由としての労働をどこまでも目指すべきなのである。

国民の勤労の義務を説くにしても、それは「職業選択の自由」があって初めて成り立つのであり、それがないのに、勤労の義務だけを説けば、苦役を課しているのも同然になる。

そして、義務としての労働ではなく、自由としての職業選択の自由を本当に実現するためには、憲法という概念よりも、もっと大きなスケールにおいて、死の恐怖によって人を虜にしている罪の強制収容所の囚人であることをやめるための絶大な効力を持った証書が必要となる。

つまり、社会全体を没落させないという、死の恐怖から逃れるという目的のためではなく、自分自身の望みに従って、完全な自由の中で労働するという新たな文脈が必要なのである。

そのような自由を人に与える効力を持つ証書は、全宇宙にただ一つしかなく、それは死の力を持つ悪魔を十字架において滅ぼしたキリストの贖いだけである。

この十字架における贖いの証書だけが、人を死の恐怖及び罪を贖うための終わりなき苦役としての労働から解き放つことができる。

筆者は、この先、この十字架発の証書を握りしめて進んで行くことだけが、来らんとしている強制集団化と大粛清の中を無傷で生き残る鍵であろうと考えている。読者は、ソビエト時代の社会と現在の日本社会を重ねている筆者の想像を笑うかも知れないが、それでも、筆者の予想は、非常に厳しいものであり、この先、日本にかつてのような平和な時代が取り戻されるというものではない。

そして、聖書の御言葉への信仰に立って、与えられた自由を確固として行使し続けることが、どんな過酷な時代にあっても、無傷で生き残るだけでなく、一回限りの人生で、真に価値ある労苦によって、見えない栄光を掴むための秘訣なのである。

最後に、もう一つのことを書いておきたい。

聖書の神を心から信じるクリスチャンは、神に似た者として振る舞うべきではないかと、最近、筆者は思うのだが、(これは最近はやりの、「人が神になる」というアセンションを意味しない。人間が何かとんでもない神々しい存在になるという種類の自己高揚の話ではない。)果たして、クリスチャンが神に似た者として振る舞うとはどういうことなのかを思うとき、聖書の次なる文句が思い出されてならない。

たとえ飢えることがあろうとも
お前に言いはしない。
世界とそこに満ちているものは
すべてわたしのものだ。」(詩編50:12)

世界とそこに満ちているすべてのものを所有しておられるただお一人の神には、不足というものが全くない。にも関わらず、「たとえ飢えることがあっても」という表現が出て来るのは、一見、パラドックスのようにも思われる。
 
神が飢えるなどということは、想像することもできない。むろん、それは肉体的な飢餓のことを言っているのではなかろう。ここで言われている「飢え」とは、あれやこれやの具体的な話ではなく、欠乏全般を指すものだと考えるのが妥当であろうと筆者は思う。

つまり、この表現が意味するものは、「どんなことについても、神は決して欠乏を口にせず、ご自分以外の者を頼りとされない。なぜなら、神はすべての必要をご自分で満たすことのできる方だから」ということに尽きると思うのだ。

神は全知全能であるから、ご自分以外のものを決して頼りとされる必要がない方である。神は完全であればこそ、不足や欠乏に直面してご自分以外の者に助けを求めることを余儀なくされるという状況自体が、決して起きない方なのである。言い換えれば、どんな欠乏が生じても、それをご自身で満たすことのできる方なのである。

そこで、神がもしそのような方なのであれば、その神に贖われ、神のものとされ、神の子供とされたクリスチャンも、神に似た者として、同じように振る舞うべきではないだろうか?と筆者は考える。

つまり、クリスチャンは、ただ神だけに信頼を置いていればこそ、安易に神以外の者に向かって、欠乏を口にすべきではないし、誰にも助けを乞うべきではないと言えるのではないだろうか? 

筆者はそのことを今回も再び学ばされたように考えている。

我々は生きている限り、多くの苦しみや、時には窮地にも遭遇することがあろう。そのような中で、心弱くなり、ふと誰かに優しい言葉をかけてもらいたいとか、同情してもらいたいと思ったり、あるいは、人に支援を乞いたい不安に駆られることがあるかも知れない。

あともう少しのところで、誰かに心細さや欠乏を打ち明ける寸前だった、というところへ追い込まれることもあるかも知れない。

だが、それでも、クリスチャンであれば、私たちが助けを乞うべき相手は、肉なる人間ではないことを思うべきであり、欠乏に取り囲まれているように感じられる時こそ、あえて以上の原則を思い起こし、神以外の何者にも助けを乞わないという姿勢を貫き通すべきなのである。

そうすれば、万物の造り主なる方、全宇宙をつかさどる方、全知全能の神、死を打ち破られた方が、信者のすべての必要を本当に知っておられ、気遣って下さるので、私たちは、滅びゆくこの世の者に助けを求めないで済むのだということが、実際に分かるであろう。

クリスチャンがこの世に助けを乞うのではなく、むしろ、この世の方が、クリスチャンが持っているはかりしれない権威と力のゆえに、自らクリスチャンを支える義務を負っているのだとさえ言えるのではないかと思う。

クリスチャンは、この世のあらゆる欠乏からすでに十字架における勝利によって解き放たれており、従って、この世のどんな事象にも縛られず、人の思惑に振り回されることなく、むしろ、それらをはるかに超えて、神と共にこの全宇宙を治める側に立つことができる。そのようにこの世を超越した立ち位置にこそ、キリスト者の自由が存在するのである。

これが、憲法という地上のレベルをはるかに超えて、聖書の御言葉が壮大なスケールで信者に与えてくれている自由である。地上の憲法は、場合によっては書き変えられることがあり得るかもい知れないが、聖書の御言葉にはそれはない。
 
聖書の御言葉により、死を打ち破った復活の命によって生かされていればこそ、クリスチャンは地上で様々な困難が持ち上がって来る時にも、右往左往して世に助けを乞うのでなく、むしろ、現実の事象に対して権威を持って命じることができる。

すなわち、現実が御言葉に従うまで、天的な権利の行使を貫徹し、命じ、戦うのである。その時、聖書の御言葉に基づく目に見えない支配が、目に見える事象すべてを上回る圧倒的な支配力であることが実際に証明されて、私たちは自分たちの信じている神が、神と呼ばれるにまさにふさわしいお方であることを痛感することになる。


今日が恵みの時、今日が救いの日ーー栄光から栄光へ、主の似姿に変えられて行く

最後の記事から随分日が空いたが、この間にヴィオロンの人生には実に大きな進展があった。

まず、耐え難く狭苦しく感じられるようになった住居を脱出して、広いところへ移った。さらに仕事も新しくなり、かつての専門の道に戻りつつある。

こうしたことが成就したプロセスがまた素晴らしかった。それは全てが私の力というより、神のみわざとしか言えない方法だったからである。

まるでイザヤ書第59章のみことばがまさに私の身の上に成就したかのようであった。

横浜に来ることが決まった直前、以下の みことばを噛み締めていたことを思い出す。

「海沿いの国々よ、わたしに聞け。
遠いところのもろもろの民よ、耳を傾けよ。
主はわたしを生れ出た時から召し、
母の胎を出た時からわが名を語り告げられた。
主はわが口を鋭利なつるぎとなし、
わたしをみ手の陰にかくし、
とぎすました矢となして、
箙にわたしを隠された。
また、わたしに言われた、

「あなたはわがしもべ、
わが栄光をあらわすべきイスラエルである」と。

しかし、わたしは言った、
「わたしはいたずらに働き、
益なく、むなしく力を費した。
しかもなお、まことにわが正しきは主と共にあり、
わが報いはわが神と共にある」と。

ヤコブをおのれに帰らせ、
イスラエルをおのれのもとに集めるために、
わたしを腹の中からつくって
そのしもべとされた主は言われる。
(わたしは主の前に尊ばれ、
わが神はわが力となられた)
主は言われる、
「あなたがわがしもべとなって、
ヤコブのもろもろの部族をおこし、
イスラエルのうちの残った者を帰らせることは、
いとも軽い事である。
わたしはあなたを、もろもろの国びとの光となして、
わが救を地の果にまでいたらせよう」と。

イスラエルのあがない主、
イスラエルの聖者なる主は、
人に侮られる者、民に忌みきらわれる者、
つかさたちのしもべにむかってこう言われる、
「もろもろの王は見て、立ちあがり、
もろもろの君は立って、拝する。
これは真実なる主、イスラエルの聖者が、
あなたを選ばれたゆえである」。

主はこう言われる、
「わたしは恵みの時に、あなたに答え、
救の日にあなたを助けた。
わたしはあなたを守り、
あなたを与えて民の契約とし、
国を興し、荒れすたれた地を嗣業として継がせる。
わたしは捕えられた人に『出よ』と言い、
暗きにおる者に『あらわれよ』と言う。
彼らは道すがら食べることができ、
すべての裸の山にも牧草を得る。
彼らは飢えることがなく、かわくこともない。
また熱い風も、太陽も彼らを撃つことはない。
彼らをあわれむ者が彼らを導き、
泉のほとりに彼らを導かれるからだ。
わたしは、わがもろもろの山を道とし、
わが大路を高くする。

見よ、人々は遠くから来る。
見よ、人々は北から西から、
またスエネの地から来る」。

天よ、歌え、地よ、喜べ。
もろもろの山よ、声を放って歌え。
主はその民を慰め、
その苦しむ者をあわれまれるからだ。

しかしシオンは言った、
「主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた」と。

「女がその乳のみ子を忘れて、
その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。
たとい彼らが忘れるようなことがあっても、
わたしは、あなたを忘れることはない。
見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。
あなたの石がきは常にわが前にある。
あなたを建てる者は、あなたをこわす者を追い越し、
あなたを荒した者は、あなたから出て行く。

あなたの目をあげて見まわせ。
彼らは皆集まって、あなたのもとに来る。
主は言われる、わたしは生きている、
あなたは彼らを皆、飾りとして身につけ、
花嫁の帯のようにこれを結ぶ。
あなたの荒れ、かつすたれた所、こわされた地は、
住む人の多いために狭くなり、
あなたを、のみつくした者は、はるかに離れ去る。
あなたが子を失った後に生れた子らは、 なおあなたの耳に言う、
『この所はわたしには狭すぎる、
わたしのために住むべき所を得させよ』と。

その時あなたは心のうちに言う、
『だれがわたしのためにこれらの者を産んだのか。
わたしは子を失って、子をもたない。
わたしは捕われ、かつ追いやられた。
だれがこれらの者を育てたのか。
見よ、わたしはひとり残された。
これらの者はどこから来たのか』と」。

主なる神はこう言われる、
「見よ、わたしは手をもろもろの国にむかってあげ、
旗をもろもろの民にむかって立てる。
彼らはそのふところにあなたの子らを携え、
その肩にあなたの娘たちを載せて来る。
もろもろの王は、あなたの養父となり、
その王妃たちは、あなたの乳母となり、
彼らはその顔を地につけて、あなたにひれ伏し、
あなたの足のちりをなめる。
こうして、あなたはわたしが主であることを知る。
わたしを待ち望む者は恥をこうむることがない」。

勇士が奪った獲物を
どうして取り返すことができようか。
暴君がかすめた捕虜を
どうして救い出すことができようか。

しかし主はこう言われる、
「勇士がかすめた捕虜も取り返され、
暴君が奪った獲物も救い出される。
わたしはあなたと争う者と争い、
あなたの子らを救うからである。
わたしはあなたをしえたげる者にその肉を食わせ、
その血を新しい酒のように飲ませて酔わせる。
こうして、すべての人はわたしが主であって、
あなたの救主、またあなたのあがない主、
ヤコブの全能者であることを知るようになる」。


長い引用であったが、ここにはヤコブ(イスラエル)がこうむった苦難と損失の深さと、神にあって与えられた回復の大きさの見事なコントラストがよく見て取れる。そして、その回復は、ヤコブが世間で強く、尊敬される者であったから成し遂げられたのではなく、むしろ、ヤコブが弱く、侮られ、蔑まれていた時に、神がその恵みに満ちた選びによってこれを救われたのである。

さて、筆者の今回の「エクソダス」は、横浜へ初めてやって来た時とは少し違った。かの時は、筆者が人と交渉して何も要求せずとも、神が全てを整えて下さったが、今回ははっきりと交渉し、要求することが必要だったからである。しかも、自分が不当にこうむった損失の数々を取り返すために、立ち上がり、主張することが必要だった。それはある意味では、「悪魔に奪われたもの」の数々を列挙して、このひどく不当な損失、不当に苦しんだ月日の補填のために、悪魔を責め、悪魔に請求書を出し、これを最後まで支払わせる、という霊的なプロセスを踏むことを要した。むろん、これは比喩であるが、現実を動かすには、霊的秩序を踏むことが必要であり、結果を出すためにたゆみない交渉をし続け、実際に「悪魔を非難し、悪魔の加えた理不尽な打撃の補填のために悪魔に請求する」ことが可能であることを知ったのである。

これは信仰における大きな前進であった、と言える。今までは、ただ神に望みを申し上げるだけで、執拗に戦ってまで結果を出すということに、どちらかと言えば消極的だったが、ここに来て、筆者は自分が今までどれほど悪魔の嘘を吹き込まれ、本当はとうにみことばにより解放されてしかるべきものを理不尽を不当に耐え忍ぶよう、欺かれてきたかに目が開かれたのである。そして、このことを不信仰として嘆き、反省するのもさることながら、何よりも人を欺いた張本人である悪魔を糾弾し、失われた月日を補填させることをしなければならないと気づいたのである。

たとえば、あまりにも多くの人たちが、私の周りで、あまりにも苦痛に満ちた、自由も望みもない仕事に従事している。彼らの仕事内容とは、交通費も支給されず、毎日の労働時間も自分の希望通りにならず、土日も祝日も休むことができず、雇用主のご機嫌次第でいつ解雇されても文句も言えず、しかも労働契約は一ヶ月未満で、その先は保証の限りではない、というような仕事である。その他の劣悪な条件は推して知るべしで、仕事内容のほとんどは不誠実な企業や団体や上司の引き起こしたトラブルの後始末であり、その仕事のみじめさ、やりがいのなさには言及する価値もない。

ところが、それでも彼らはその仕事を辞めれば、自分は路頭に迷うしかなく、代わりはないと思い込み、何があっても黙って耐え忍びつつ、その仕事にしがみつくのである。たたしがみつくだけでなく、辞めて行く者を引き止め、裏切り者扱いしさえする。しかし、このことはすでに何度も書いたが、筆者は自分の経験から、そのような仕事には代わりはいくらでもあって、もっと幅広い選択の自由が存在することを知っていた。特に、キリスト者には、選択の自由がないはずがない。

そこで私は実際に、まるでわらしべ長者の物語のように、これまでに仕事を変わる度に、一歩、一歩、極度の制限の中から、信仰によって自由を獲得して来たのであった。たとえば、たった数ヶ月の契約は年単位の契約に置き変え(ついには終身雇用になるであろうが)、日曜日は当然、休みとし、勤務時間は固定し、残業代が支払われないよう違法労働は当然ながら拒否、さらに交通費は全額支給が当然(できれば数ヶ月分の前払い。通えば通うだけ損になるような仕事に何の価値があろうか)などなど。むろん、ただ生きるためだけに専門外の仕事をすることも、ある時期を境に完全にやめたのであった。

以上のような世界を筆者が去って来たのはとうの昔のことであるが、しかし、これら全ては、こんなに当たり前のように些細なことでさえ、信仰のない人から見れば、無謀な冒険にしか見えなかったろうし、わがままとさえ断じられたであろう。その言い分に耳を貸していたならば、筆者自身の境遇も以前と何一つ変わらず、当然ながら、生活を拡張するの無理な相談に終わったはずだ。

だが、こうして、信仰によって天に直談判し、悪魔に請求書を出し続ける過程で、ヴィオロンはふと高校時代の学友を思い出した。彼女は私に触発されてのことか、高校生になってからピアノを始めたが、そのうち、何が何でもピアニストになるのだと言い出し、音大受験に挑むと決めた。私は彼女の熱中ぶりがあまりにも凄じかったので、幾分か距離を置いて、冷ややかな眼差しで他人事のようにその挑戦を見守っていた。

その頃、筆者も本当は音楽にはかなりの熱意があったので、音楽の道に進むことを考えてはみたものの、隣で彼女があまりにも熱意を込めてピアニストになるのだと言い張っているさまを見て、何だか先を越されたというか、気がそがれた感じで、同じように挑戦して音楽家になろうとは決して思わなかった。彼女は音大の短大に合格し、それから四大に編入するのだと言って頑張っていたところまでを知っている。

だが、音大生になってからの彼女は、再会すると以前よりもさらに変わっており、今度は好きな人が出来たと言っていた。が、その人にはすでに彼女がおり、片思いなのだが、その彼女は彼に相応しい人間ではないと言って、何が何でも彼を彼女から奪い取りたいのだと言うのである。

私はそれを聞いて、彼女の凄まじいまでの熱意にまたもや興ざめになり、その恋愛を応援する気にもならず、人から横取りしてでも自分の望むものを手に入れようとしている彼女の態度にうんざりしてしまった。そして、その時を限りに、彼女に会ったことはない。彼女はピアニストになるのだと言い張っていた時と同じように、今度は好きな人を手に入れたいと望み、望みに従って行動することの何が悪いのだと言って私を非難したのであった。

時を経て、彼女はおそらく意中の人の心を得ることに成功したのであろう。結婚して、子供も生まれたことを風の便りに知った。一見、めでたしめでたしである。結婚してしまえば、それが最初は横恋慕であろうと、何であろうと、非難されることはないであろう。

だが、音楽はどうだろう? 音楽もそのような熱意で手に入れられるものであろうか?

音大というところは、過酷な競争の世界で、高校生からピアノを始めた人を好意的に受け入れるような環境では決してない。神学校では信仰を学べないのとよく似て、おそらく音大では音楽の真髄は学べず、学歴としての価値はあっても、打ちのめされ、大きな壁にぶつかることになったのではないかと思う。

そういうことの影響があったのかどうかは知らないが、彼女はその後、純粋なクラシックの世界からは幾分か遠ざかり、あえてそれに背を向けて、純粋に楽しめるもっと庶民的な音楽の方向へ舵を切ったように見える。というより、クラシックの世界は、裕福でなければ、あるいはコネがなければ、コンサート一つも簡単に開けず、熱意と努力だけではどうすることもできない世界だ。彼女はその世界に居場所を見出せなかったのではないか。そういうこともあってか、子供のための音楽や、民族音楽などの方向へ、関心が変わって行ったようである。

だが、ヴィオロンは、そこでも、めでたしめでたし、とも思わないのである。自分が若くて小さな子供がいるうちは、子供向けのコンサートを開くのも良いだろう。しかし、年を取り、自分の人生にそれなりの深みが出て来なければならない年代にさしかかったとき、誰を対象として、何を訴えるために演奏するのかという課題に、誰しもぶち当たるであろう。憧れや、楽しい気分だけでは、もはや進んで行けない時が来る。特に、年老いて来た時、彼女が何を原動力として進み続けるのか、それは筆者の目から見れば(余計なお世話ではあろうが、かなり)疑問である。

私から見ると、この彼女は、いつも何か欲しいものがあって、(しかも大抵、それはもとは他人が持っていたものなのだが)、他人に触発されて、自分も同じように欲しいものを得て、望みの自分像になるために、頑張ってアプローチして生きてきた人だった。たしかに、望みへ到達するための努力は大変なものであったろう。しかし、芸術というものは、もともと自分自身の中にあるものが外側に湧き出て来て表現されるものであって、努力して到達するものではない。努力するのはただ表現力を磨くためでしかない。

カラオケでも上手な人は本物の歌手そっくりに歌うことができるが、クラシック音楽も、努力すれば、素人でもそれなりの域に達することはできる。音大に入ることさえそう難しくはない。だが、それで音楽家になったと言うのは早すぎる。そもそも、自分自身の中に湧き出てくる泉のように、表現の源、核となるものがなければ、どんなに練習を積んでみたところで、それは他人の真似事にすぎないのだ。偉大な作曲家の優れた楽曲をうまく演奏すれば、誰でも「ひとかどの人間」に自分を見せることはできるが、それでも、真似事だけでは決して進んで行けない、より深い動機が必要とされる時が必ず来るのだ…。

ただ単にピアニストという職業が醸し出す、煌びやかで崇高そうな雰囲気、俳優のように自分の演技を人に見せて観客と一緒に酔いしれることのできる陶酔感、自己満足だけが目的だったのであれば、それだけでは、進んでは行けない時が来よう。特に、金やコネで占められている、あらゆる汚辱の存在を知っていながら、それでもそれなりの苦い代償を支払って、それでもあえてクラシック音楽にとどまるのは無理であろう。

これらの苦い代価の全てを支払ってでも、自分のうちに音楽を通してどうしても表現せずにいられない何かがあって、そのために演奏家にとどまっているのか、それとも、ただ自分が舞台の主役となって、美しい音楽を奏で、心地良い注目を浴びて、聴衆と共に満足したいがためだけに演奏家を続けているのか、試される時が必ず来るであろう。

さて、しかし、今ここでその彼女のことを引用したのは、彼女を批判するためだけではなかった。むしろ、長年、私は彼女の猪突猛進型の熱意に、ある種の恐れを抱き、それを自己中心だと思って、敬遠してきたが、今考えてみると、その態度にさえも、何かしら学ぶところもあったものと思う。

ヴィオロンは、他人から何かを奪い取ってまで手に入れようとは決して思わないし、なりふり構わず、己の欲望に突き進むことを賞賛するつもりも全くないが、しかし、本当に心から望む(理にかなった正しい)目的のためならば、人はどんな困難があろうと決して諦めずに前進し続けるだけの揺るがない決意と情熱が必要であると思う。その意味においてのみ、彼女の態度にも学ぶべきものはあると感じる。今までを振り返り、私にはいささかそのなりふり構わぬしぶとさ、図太さ、粘り強さ、自己中心なほどに諦めないしつこさ、といったものがかけていたのかも知れないと思わないこともない。もっと言えば、かけていたのは、どれほどの障害にぶち当ろうとも、何が何でも信念を貫き通すために必要な、不動の自信と勇気、決意だったかも知れない。

だが、これは信仰の文脈で言うことであって、神の栄光、みことばの正しさを証明するためにこそ、人は自分の全てをかけて戦う価値があるのであって、自分勝手に望みのままになりふり構わず突進して生きよと言っているのではないのだ。そのようなあきらめることのない熱意は、人やモノに向けられる前に、まず神にこそ向けられるべきである、とヴィオロンは思う。どんな些細な願いも、まずは神のみ元にこそ持って行き、しつこく交渉してみるべきなのである。

だから、私はこの度、ちょっと実験してみることにしたのだ。前述の彼女のしつこさには及ばないにせよ、自分の望みを、困難がやってきたからと決して簡単にあきらめることなく、天の扉を叩くことに使ってみようと思ったのである。

その結果、実際に生活を向上させ、仕事を変えることができた。こうしたことは、前述のピアニスト志望の学友の望みのように、世間からは、わがままだと非難されることもあるかも知れないし、博打のような冒険とみなされることもあろうが、誰に何と言われようとも、私はこれ以上、もう一歩も退却したくないし、この望みをあきらめるわけにも行かない、というほど、にっちもさっちも行かないところまで追いこまれたのである。現状のままでは、何が何でも我慢できないうという思いが到来したのである。そして、しつこく天に直談判してみた結果、扉が開いたのであった…

家庭集会などは開くつもりはないが、家庭集会が夢のまた夢だと言わねばならないような環境からは抜け出ることができ、ほっと一息ついて、神の恵みに感謝することができるようになった。

さて、こうした飛躍や進展と思われる事柄も、代償なしに与えられたものではなく、以前、書いたように、もしヴィオロンが、地上の生まれ故郷にとどまって、地上の親族への義務感や情愛から、「死人を葬ること」に熱中していたならば、決して達成できなかったろうと言える。

最後の記事で触れた件の親族は、病床についてから一ヶ月半という比較的短い期間で亡くなったので、その苦しみはそんなにも深刻重大ではなかったかも知れない。というより、筆者はその最期の様子を知らない。だが、それでも、この故人は、人生の最期になって、「私は何も悪いことはしていないのに、なぜこんなに苦しまねばならないのだろう」とこぼしていたというから、悔い改めは、まさに神が信仰によって人にお与えにならなければ、誰も決してすることのできない奇跡なのだと言うしかない。

ヴィオロンは、この親族の最期の時に、枕元で、人間の原罪と、人が救われるためには悔い改めて神に立ち返る必要性があることについて語った。しかし、おそらく、上記の言葉が、この促しに対する故人の偽らざる返答だったのであろう。つまり、故人は、己に罪を認めず、悔い改めの必要性をも認めなかったのだ。何しろ、生長の家は、人間はみな生まれながらにして神の子であり、人に罪はないと教える。そして、神の子である人間を脅かしうるものは地上に何もなく、病も幻想に過ぎないのだと言うのだ。

しかし、彼らの信念によれば、神であるはずの人間が、病に打ち勝つこともできずに亡くなった。だとすれば、悪いのは誰なのか。生長の家の教えが間違っているのか? それとも、罪なき人間をいわれなく罰したもう神が悪いのか? 生長の家の教えだと、きっと暗黙のうちに後者ににならざるを得ないだろう。何しろ、彼らによれば、人間は正しいのだ。正しいから、苦しめられるはずはないのだ。それならば、正しいはずの人間を苦しめる何者かが存在するのであり、その人間以上の存在ーー本当の神は、悪神ということになろう。この問題は彼らの狭い教義からはもはや外にはみ出ているが、彼らは悪魔の存在をもきっと認めないであろうから、きっと人間を理不尽に苦しめている悪神が存在するということにならざるを得ないだろう…。決してそのようなことを教義としては主張すまいが、結局、その教えの根底にあるのは、人間の自己義認と、人を罪に定める聖書の神に対する敵意なのである。

こうして、苦しみを通して、神の力強い御手の下にへりくだるどころか、苦しみにあって、ますます自分は悪くないという思いに凝り固まり、自分以外のところに悪の源を探そうとする人たちが現れる。福音を聞いた時に、人の態度が試されるのである。そして、自分は悪くないのに不当に苦しめられているという思いが最後に行き着くものは、ずっと今まで書いて来たように、神に対する恨みと敵意なのである。

私は、こういう話を聞いて改めて、私がこのような考え方に至らず、自分がキリストの十字架の贖いによらなければ、救われ得ない罪人であることを知って、自分が救いを必要とする罪人であることを素直に認めて、この贖いを受け入れて救いにあずかったことを感謝し、これが私の努力によるものでなく、神の側からの恵みであり、奇跡なのだと痛感するのである。

故人は若い時分に戦争があった他は、平穏な人生を送り、不自由はほとんどなかった。人の目から見れば、幸福であろうし、孤独でもない人生であった。就職氷河期に見舞われたり、女手一つで必死に働いてなお半人前のように言われたり、寡婦となったり、子供に死なれたりすることもなく、平凡な家庭の主婦となり、家長としてごくごく世間並みの人生を生きた。まさに世間から見れば、何も後ろ指さされることのない平穏無事な人生であり、お勤めを果たしたことになろう。病に伏した期間も九十二年という健康な人生の最後の一ヶ月程度でしかないのだから、限りなく恵まれていたと言える。

しかし、その見栄えの良さはあくまで表向きの話でしかない。私は、この人の死を前にして、私の人生はこの人と比べればたとえようもない苦難や紆余曲折に満ちていたかも知れないが、神に対して自分は正しいと言い張って心頑なにしたまま死んで行くことなく、神の御子による永遠の十字架の贖いの事実を認め、受け入れることができている自分の人生に、今更ながら、途方もなく安堵するのである。

このように述べると、肉親の情からは、故人にはいささかすまない気持ちにもなるが、正直に言って、この親族が亡くなったことを機に、筆者の名前も含め、一族全員の名前をあげて、夜な夜な仏壇に向かってお祈りする人間がいなくなったことに、筆者はどこかしらホッとする思いを隠せないのである。人間としての筆者は、誰の死をも喜ばないし、寂しい気持ちを禁じ得ない。だが、それとは別に、この故人が生前、筆者には自分の神様がいるから筆者のために仏壇に向かって祈ってくれるなとどんなに言っても、自らの祈りを善意と確信して、決して筆者の願いを聞き入れることなく得体の知れない対象に祈り続けていたその祈りがもはや聞かれなくなったことに、筆者はどこかしらホッとするのである。家長であった人の死と共に、親族全体に及んでいた一つの強固なイデオロギー的支配力が消失したことをも感じるのである。

この親族が亡くなる前に、筆者は故人の考えを変えることはできないことを感じつつ、自分自身の決意表明として、自分がこのような価値観の支配する地上の家の一員ではないことを証するために去った。むろん、異教の儀式としての葬儀にも参列していない。

それはある人々の目には奇異に映るかも知れないが、筆者の曲げられない信念であり、信仰告白なのである。だが、それは代償なしに行われた行動ではなく、その行動が筆者にとっては決意を要したのは言うまでもない。だが、今回、その信仰による行動がなければ、おそらくそれに続く筆者の人生の進展もなかったのではないかと想像する。もっと言うならば、地上の故郷を振り返ることすら、本当はすべきではなかった。怪我をした小鳥は順調に回復して今はすっかり日常生活に戻っているものの、故郷への大移動がなければ、そうしたことも避けられていたであろう。

こうして、地上の生まれや故郷がどうあれ、我々が見るべきお方、その歓心を得るために心を砕くべきお方は、天にも地にも、たった一人であることを思う。私はたとえ全世界から否定されようとも、その方から是認されることをのみ望んでいる。そして、その是認(義認)あればこそ、どんな困難があっても望みを失うことなく進んで行けるのである。このお方は、信仰によって、私の内側に住んで下さり、今すでに我々は一つであると言って下さる。御名によって願いなさいと言って下さる。願いが成就するまでにそんなに長い月日を耐える必要はない。信じる者にとっては、今日が恵みの時、救いの日なのである。

神を説き伏せることのできる祈りの五大条件(ジョージ・ミュラーの祈りから)

私たちは人生において、少なくとも幾度かは、絶対にこの願いを神に聞き届けてもらわなければ困る、という切迫した祈りを捧げる必要に迫られます。それは自分自身が危機から救い出されるためであるかも知れないし、あるいは、愛する者の健康や幸せのためであるかも知れません。いずれにせよ、その時、私たちが捧げ る祈りが、神に聞き届けられるかどうか、その是非は、私たちにとって生死を分けるほどの重大問題となります。

もちろん、私たちの願いの全てが必ずしも御心にかなったものであるわけではありません。しかし、神に聞き届けられる祈りというものが存在することは確かなのです。私たちが切迫した必要に迫られている時、また心のうちに強い願いを持つ時、信仰によって、確実に神に聞き届けられる祈りを捧げるためには、一体、 どうすればよいのでしょうか。私たちの生活態度は、心の状態は、その時、どうあるべきなのでしょうか。

偉大な信仰の人ジョージ・ミュラーから、祈りの秘訣を学ぶことができます。次のことをよく心に留めておきましょう。

「神を説き伏せるほどの祈りをする際の五大条件を、彼はいつも心に言い聞かせていた。

1 どんな祝福を求める際にも、主イエス・キリストの功績と仲保に全面的に依存すること(参照 ヨハネ一四・一三、一四、一五・一六等)。

2 すべての知っている罪から離れること。私たちの心によこしまなものが残っているなら、主は私たちに耳を傾けて下さらない。もし聞かれるとすれば、私たちの罪を容認することになってしまうからである(詩篇六六・一八)。

3 誓いによって堅くされた神の約束のみことばを信ずること。約束なさった神を信じないということは、とりもなおさず神を偽り者とし、偽証人としてしまうからである(ヘブル一一・六、六・一三―二〇)。

4 神のみこころと一致した祈りであること。私たちの動機は敬けんなものでなければならない。私たち自身の欲望を遂げる目的で、神にいかなる賜物を求めてもいけない(第一ヨハネ五・一三、一四、ヤコブ四・三)。

5 執拗に願いをささげること。農夫が収穫を求めて長い間忍耐強く待つように、私たちも、ただ神のために働くだけでなく、神の働きを待っていなければならない(ヤコブ五・七、ルカ一八・一~八)。

 以上のような原則をしっかり心に留めておくことは、いくら強調しても強調しすぎることはない。ここにあげた第一の条件は、大祭司であられるかたと一つに なるということで、これはすべての祈りの基盤である。第二は、罪を捨てるという祈りの条件の一つを示している。第三は、私たちが信仰によって、神のいます ことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを信じて、神に栄光を帰する必要性を強調している。第四は、神と同じ心を持つということであり、そうするこ とによって初めて、自分のために、また神の栄光を現わすために、何を求めればよいかを知るのである。最後の項は、祈りによって神にしがみつくことであり、 神が御手を伸べて祝福を与えて下さるまですがりつかなければならないことを教えている。

 このような条件が満たされないのに、神が祈りを聞き入れられるようなことがあるとすれば、それはご自身の栄光に傷をつけることである。またそれは、求め た人に対しても有害になる。もし人が自分の名により、あるいは自己義認、利己追求、または不従順な心で神に祈ることを奨励するようなことになれば、それは 罪の中に住むことを奨励し、そのうえに賞金を与えるようなものである。また、信じようともしない人の求めに応ずることは、その人があくまでも神の真実性を 疑い、約束を守られる忠実さを信用せず、結局神の約束のみことばと、それを保証される誓いとを侮辱することになるのに、それに対して目をつぶっておられる ようなものである。

実に、本質的にここにあげられたもの以外に、神を説き伏せる祈りの条件は一つとして存在しない。これは独断的な意志によってかってに決められたものではなく、神のご性質上、また人の益のためにも、どうしても必要なものなのだ。」
(A.T.ピアソン著、『信仰に生き抜いた人 ジョージ・ミュラー その生涯と事業』、いのちのことば社、pp.158-159)

ミュラーの挙げた五大条件に、一つだけ、追加しておきたい。

6.神にしか決して叶えることのできない、神の偉大さにふさわしい、真にダイナミックな願いを捧げること。信者の祈りが聞き届けられることによって、神の偉大さ、神の栄光、神の愛の深さが全地にあまねく証明され、地獄の監獄が揺るがされ、悪魔が敗北して色を失うような、スケールの大きな祈りのリクエストを出すことは、神が信者の祈りと信仰に心動かされ、祈りを聞き届けることによって満足されるための秘訣である。