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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。

空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。


あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができるようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどに着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。

信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられるだから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:25-34)

さて、 今回は、憲法に定められた居住移転職業選択の自由について、また、聖書において信仰者に与えられている自由について、この二つの話題を関連付けながら書きたい。

もっとはっきり言えば、聖書の御言葉を信仰によってこの地上に具現化することが可能であるならば、なおさらのこと、我々信仰者にとっては、憲法に保障された自由を具現化することくらいは、朝飯前だ、という話題について書いておきたいのだ。

ところで、冒頭から物騒な話を書くようだが、筆者は、籠池泰典氏夫妻が逮捕されたのと同じ今年の7月31日に、ブラック企業から突如としてクビを言い渡されそうになり、その是非についてしばらく争うという事件があった。

ちょうど引っ越して間もない頃だったので、筆者には、悪魔がこの出来事を通して企んでいる事柄が手に取るように理解できた(悪の軍勢は前々から筆者をこの土地から追い払いたく思っており、筆者の生活が少しでも豊かになったり、幸福になったりすると許せない思いで、妨害せずにいられないのである。)

もうはるかに昔のことではあるが、過去に筆者は一度だけ、自分で生計を立てることに自信がなくなり、お気に入りの家財をただ同然で売り払い、気に入っていた家をも手放して、よその土地に移ったことがあった。その頃の筆者は、まだ悪魔の策略に一人で敢然と立ち向かうなどということはおよそ考えたこともなく、聖書の御言葉の力なども全く知らない、無自覚で未熟な若いクリスチャンの一人に過ぎなかった。当時の筆者は、信仰者としては精神的に未熟で、いつも自分以外の誰かに心の支えを求めていたし、たくさんの思いがけないネガティブな出来事が、まるで洪水のように不意に積み重なって押し寄せて来る時に、それにどうやって一人で立ち向かうべきかなどと考える知恵もなく、その勇気もなく、立ち向かう前に、さっさと諦めて退却する道を選んでしまっているような臆病な信者であった。そして、それが暗闇の軍勢に対するあまりにも情けない敗北であることにさえ気づいていなかった。

その当時に起こった様々な出来事は、筆者の心にはかりしれない衝撃を与え、トラウマにも近い悲しみを呼んだ。その家を去るよりも前に、まず親族が住み慣れた家を離れて郷里に帰ってしまっていたので、まるで家が二つなくなったかのような衝撃や喪失感をも受けたのであった。

だが、その時の苦い経験を経て、また、その後、聖書の神との力強い本当の出会いを経て、今や、筆者はそういった人間を苦しめ、追い詰め、絶望に至らせようとする数々の出来事が、決して偶然ではないこと、その実に多くが、悪魔に由来する攻撃であり、信者が信仰によって立ち向かわなければならない苦難なのだということをはっきりと理解するようになったのである。

筆者はそうした喪失の後で、神の御言葉に基づき、再びすべての必要を不思議な形で満たされて立ち上がり、移住を遂げた上、今度こそ自分の力によらず、信仰によって、以前にもまさる幸福な生活を打ち立て、徐々にそれを拡張して来たのであった。それと同時に、そのようにして信仰によって上から与えられた生活を、信仰によって今もこれからも自分が守り抜かねばならない責任を負っていることをも知らされたのである。
 
そのような過程を経た現在、筆者は、たとえ悪魔がブラック企業のような団体を通して馬鹿げた宣告を言い渡して来たとしても、そんな内容を真に受けて、神がせっかく与えて下さった自由や解放をみすみすと手放していたのでは、この先、到底、生きていけないことを、とうに理解していた。むろん、筆者も人間なので、理不尽な事件に出会えば憤慨もすれば、嘆きもするが、かといって、自分のせいで起きたわけでもないことを、まるで自分の責任ように負って、不当な苦しみを黙って耐えているようであっては、神の名折れであり、信者の風上にも置けないことくらいは承知していた。

そういう時には、クリスチャンは、悪魔の策略に知恵を駆使して立ち向かい、暗闇の軍勢の当てが外れて、彼らが恥をかかされねばならなくなるように、首尾よく戦うべきなのである。

きちんと立ち向かうと、嘘の霧はさっさと晴れるものだ。抜群のタイミングで問題は解決し、筆者の不敗記録はまたしても更新され、それによって、筆者の信仰および聖書の神の正しさがまたしても暁の光のようにはっきり現れた。

筆者はクビにされず、かといって、労働の義務も免除されたので、結局、「空の鳥のように、野の花のように、蒔くことも刈ることもしないで、神が生活を保障して下さる」という、筆者が今まで唱え続けて来た生き方が、またしても現実になったのである。悪魔が振り上げた斧が、かえって悪魔自身に打撃となって跳ね返るのを見せつけられたような恰好である。

このようなことは、今までにも、幾度も実現して来たが、筆者の目から見て、このようなことは決して偶然に起きることではなかった。筆者はいつもいつもアダムの呪われた苦役としての労働には加担しなくて良いと放免されるのである。

これまで再三、ブログで書いて来たことであるが、筆者の目から見て、この地上における労働とは、罪ある人間が自分で自分の罪を贖おうとする達成不可能な努力のことを指す。

つまり、今や地上における労働とは、人が単に生計を支えるための、もしくは他者の必要に応えるための働きのことではなくなり、本質的に、人類が自分で自分の罪を贖うための自己救済の試み、神に逆らうバベルの塔建設の試みになってしまっているのである。

筆者はこれまで、自分の生活を自己の努力によって拡張したことは今まで一度もない。筆者の人生に劇的な展開(飛翔・拡張)がもたらされたのは、いつも筆者が、信仰によって、聖書の御言葉の実現を求めたときのことであった。それに引き換え、筆者が懸命に働いて、自己の労働によって自分を養い、支えようとし始めると、途端に物事は悪い方へ転がっていくのである。

毎日、すし詰めの満員電車に乗って阿鼻叫喚の地獄のような混乱の中を通勤し、上司の覚えめでたい部下となるために、粉骨砕身して夜遅くまでサービス残業したり、休日を返上までして働き、そうして自分の涙ぐましいまでの努力によって、自分をひとかどの人間として世間に認めてもらおうとする人生は、神の目にはまさに呪われていると言って良い、と筆者は考えている。

そのような努力は、決してまっとうな労働とは呼べず、勤労の義務という概念からも外れており、どんなに繰り返しても、人の幸福にも安定にもつながらないどころか、人をますます追い詰めていくだけである。それは、そのような(今日において当たり前のようにみなされている歪んだ)労働の概念が、本質的に、人類の自己救済の願望から来るものだからであると筆者は考えている。

昨今、この世における人類の労働という概念は、ますます人が自分で自分を義としようとする神に対する反逆を意味するものになりつつあって、今回も、その結論がまた裏づけられる結果となったのだと筆者は考えている。
 
このような経験を幾度も味わった結果として、筆者が今考えることは、もしかすると、旧創造(神によって贖われない、滅びゆくもの)を維持する責任は、旧創造自身にあるのかも知れない、ということである。

冒頭に挙げた御言葉からも分かるように、神は、クリスチャンに対し、神の国と神の義をまず第一として生き、衣食住のことで思い煩うな、と命じている。

信者にも、生きている限り、衣食住の問題はつきまとう。にも関わらず、神は聖書を通して、そのような問題は二義的であるから、クリスチャンは衣食住のことで悩まず、まずは神の国と神の義に注意を向けなさいと教える。

だとすれば、筆者が信者として一義的な問題に心を砕くのは良いとして、筆者の二義的問題を解決する責任は誰が負うのであろうか?

実は、その責任はこの世が負うのではないだろうかと筆者は考えている。

むろん、直接的には、クリスチャンを養うことは、神の仕事である。クリスチャンは「日々の糧を与えて下さい」と神に向かって祈ることができるが、しかし、そのような訴えを延々と繰り返さずとも、神は自然に信者に必要なものを送って下さる。そして、その多くが、この世から不思議な形で提供されるのである。

もっとはっきり言えば、この世にはクリスチャンを支えなければならない義務と責任があるのではないだろうかとさえ、筆者は思うのである。(この世はこれを聞いて憤慨するであろう。だが、実際に、神の国と神の義を第一にして生きるなら、信者は、いつもこの世が自らの富をすすんでクリスチャンに明け渡す結果にならざるを得ないことを痛感するのではないだろうか。)
 
さて、話題を戻すと、本日は、居住移転職業選択の自由、というのがテーマなので、聖書と憲法をからめて語りたい。

筆者の世代は、これまで労働市場において全く有利とは言えない数々のハンディキャップを負わされて来た。だが、それにも関わらず、我らが憲法は、「職業選択の自由」を国民に約束している。

この言葉の意味は絶大である。

なぜなら、それは「雇用主が労働者を選ぶ自由」ではなく、労働者たる「国民が自ら職業を選ぶ自由」を保障するからだ。

筆者はこれまで繰り返し、記事の中で、キリスト教の信仰者として、聖書の御言葉の記述をリアリティとして地上に引き出すことが可能であることについて記してきたが、それに比べれば、人間が造ったことばに過ぎない憲法の文言を具現化するくらいのことは、非常にたやすいことなのだ。

というより、憲法が国民の権利として保障している程度の内容ならば、それは最低限度の条件として、ほとんどすべてが聖書の約束の中に含まれているとも言えるかも知れない。

しかし、残念なことに、今日、多くの国民にとって、憲法の文言は単なる絵空事でしかない。

それは労基法が、多くの雇用主ばかりか、労働者にとっても、絵空事であるのと同様である。

多くの労働者は、残業代を受け取る権利が自分にあっても、雇用主から「それはあんたが勝手に行ったサービス残業だから、残業代を支払うつもりはない」と言われれば、あっさりとあきらめてしまう。

それどころか、雇用主から、ある日、「おまえはクビだ!」と言われれば、それがどんなに不当な理由でも、さっさとあきらめてしまう者も少なくない。

だが、不当な結論を黙って受け入れるのは、悪魔の不当な言いがかりをすべて真に受けて、自分が悪かったと全面的に降伏するのと同じである。自分の側に落ち度がないならば、そんなことをしてはならず、不当な主張とは戦って、身の潔白を主張し、権利を取り返さなければならない。権利は行使しなければ、失われてしまうのは仕方がない。

この時、権利を主張するための正当な根拠となるものが、法である。

憲法は法の中でも最高法規である。

この最高法規に基づいて、日本国民は自分の望みを自分の当然の権利として主張し、「要求する」ことができる。

このようにして、法的根拠に基づいて自らの権利を主張することで、論敵の不当な言い分を退けるという論戦は、基本的に、聖書の神を信じるクリスチャンが、聖書の御言葉を自分に対する神の変わらない約束として受け止め、それを根拠に、神に対してその約束の実現を求め、同時に悪魔の不当な言いがかりに対して立ち向かう論戦と、基本的にルールは同じである。

さて、国民はどのようにして「職業選択の自由」を現実にすることができるのだろうか?

それを考えるに当たり、まず、今日、我々がまるで当たり前であるかのように思い込まされている状況が、どんなに理不尽な嘘であるかを理解しなければならない。

憲法は「職業選択の自由」という、素晴らしい権利を国民に保障するに当たり、国民を「学歴」や「職歴」によって分け隔てしているだろうか?

たとえば、途切れ途切れの短い職歴しかない人間や、転職回数の多い人間は、まっとうな就職はできず、ひどい仕事にしか就ける見込みはない、などと言っているだろうか?

転職回数が5回を超えれば、もう正規雇用の道は閉ざされたも同然だ、とか、前職でクビにされたり、前職を自己都合で退職したら、次にはろくな仕事が待っていないぞ、などと脅したり、勤続年数が少ないから、まともな仕事に就けない、などと言っているだろうか? あるいは、正社員になれるのは、ほんの一握りの人たちだけであり、それ以外の人間は、もういい加減にあきらめるべきだ、などと言っているだろうか?

そんな条件は全くつけられていない。

制限となるのはただ一つ、「公共の福祉に反しない限り」という一言だけである。

日本国憲法第22条第1項

何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する


この権利保障には、職業選択の自由だけでなく、居住移転の自由も含まれている。
 
そして、職業選択の自由の場合と同じように、居住移転の自由を保障するに当たっても、憲法は、「立派な職業がなければ、立派な家に住めませんよ」とは言っておらず、「大家さんのご機嫌を損ねたら、退去させられます」とか、「かれこれの年収がない人には、引っ越し自体が土台無理です」とか、「職歴のない人間には、家は借りられません」とか、「住みたいところに住むためには、まずあなたの年収を上げる努力をしなければ」などの条件をつけていないのである。

このように、居住移転、職業選択の自由は、大家や、雇用主の自由を保障するものではなく、あくまで国民一人一人に与えられた選択の自由である。

もう一度、目を凝らして読んでみよう。

そこには、「雇用主が、自らの都合や好みに従って、労働者を選ぶ自由」ではなく、「国民が、自分の都合や好みに従って、職業を選ぶ自由」がある。

だが、もし選択肢が一つもなければ、そんなものは自由とは呼べないだろう。従って、職業選択の自由の中には、選択肢が豊富にあるということが、前提として含まれているはずである。

それならば、求職者が現実にありったけの求人広告を目を皿のように探しても、何一つ希望する条件に合致するものが見当たらなかったり、どんな仕事に応募しても門前払いを食らわされたりするのは、どういうわけなのだろうか?

憲法が間違っているのか?

いや、そうではない。憲法に矛盾する現実がおかしいのである。

さて、ここからが勝負所である。

ここで、国民一人一人が選択するのである。法の支配を現実として受け取るのか、それとも、法の支配にそぐわない、それに反する現実を「現実」として受け取り、約束された自由をみすみすあきらめるのか。

あきらめたくない人は、どんなに法に反する「現実」がまことしやかに、当たり前のように広がり、人々に常識のごとく受け入れられていたとしても、その「現実」こそが異常なのだという点で譲ってはならない。

分かる人には、筆者の言いたいことはすでに理解できたであろうから、あまり長々と論証することは必要ないと思われる。これは憲法にまつわる話といえども、ほとんど信仰の領域にも等しい内容である。

筆者は、最近、「居住移転の自由」を自らの権利として行使し、約束の保障を具現化するということをやってみたのだが、その際、年収だとか、ローンだとか、頭金の額だとか、いわゆる普通に家を移り住む時に必要となるすべての条件をほとんど筆者は度外視して(そうした条件にほとんどとらわれず)、願いを実現に移したのであった。

筆者はそれまで何年間もの間、「移転」の方法を模索して来たのだが、以上に挙げたような、好条件をすべて持っていたわけではなく、それらがすべてそろう展望があるわけでもなく、それにも関わらず、そうした条件がすべてそろわなければ、「移転」は不可能だとは信じず、しかも、妥協することによって自らの願いの水準を引き下げるのでもなく、自らの願いを実現する方法が必ずあるはずだと信じ続け、そして実際にその通りに、道を開いたのである。

だからこそ、その経験に立って言うが、憲法に保障された居住移転の自由を、絵空事でなしに実現できるなら、職業選択の自由を行使することも、できないはずがない。

このように、法の支配を、それと矛盾するように見える現実を打ち破って実現し、現実を見えない法の支配に従わせることは、信仰を持たない人間の地上生活レベルでも実現可能なのである。多くの人は、それを実行に移すよりも前から、現実を見て、法の支配を行使することをあきらめ、自らに約束された保障をあきらめ、手放してしまうが、それは正しくないのである。
 
このように、人間が造った法規に過ぎない地上の憲法でさえ、これだけの自由を人に保障してくれているのだから、まして、絶対的に正しい聖書の神が、被造物である人間のために悪法を定められるはずがなく、信じる者の望みをいたずらに制限したり、無碍に扱われるはずもない。

聖書の御言葉はどれも神から信者への変わらない約束であり、信仰によって実現することが可能なのである。憲法に書かれた文言が、国民にとって単なる絵空事で終わらないように、聖書の御言葉は、信者にとって、目に見える現実を超越して支配する見えないリアリティなのである。
 
そのことは、この先の時代、ますますはっきりと証明されるだろうと筆者は考えている。

今でも、多くの人々は、働いて収入を増やすことによってのみ、自己の自由の範囲を拡大することができると考えているが、実際には、そのような考えは根本的に間違っていると言える。

実際には、人間の自由と労働との間には、何の関連性もないのである。労働を通して収入を増やすことによってのみ、自由の範囲が拡大するという考えは、憲法にも反しており、聖書の御言葉のリアリティにも反する悪質な虚偽であると言える。

ところが、世間では、今になってもまだ、労働して己を支えて生きることこそ、まっとうな生き方であるとみなされている。そういう人々には、ブラック企業で不当解雇されたり、サービス残業を強制されたり、果ては賃金さえ払われず、長時間残業のために過労死するなどのことは、自分には決して起こるはずのない他人事に見えているのであろう。

だが、筆者は、自己の労働を頼りとする生き方は、この先、ますます絶望に落ち込んで行くだけだと考えている。それは、国民全体に勤労の義務を課すことで、社会全体の負債を国民に分かち合わせるという考え方自体が、本質的に、共産主義思想につながるからである。

話が飛躍していると思われるかも知れないが、前にも書いたように、筆者の目から見ると、現在の日本社会は、ソビエト体制に非常によく似た歴史的経過を辿っており、この国は、表向きの体制や法体系とは別に、本質的に社会主義国なのではないかと考えずにいられない。

1928-29年にソビエトで強制集団化がなされた。

この時、農民・労働者にそれまでの税金の水準に照らし合わせて、思いもかけない高額な税金の納付書が届き、家畜にも重税が課され、家畜のと殺も罪とされた。

そこで、自身の税のみならず、家畜の税が払えず、家畜も没収の上、強制収容所送りになるような人々も出た。払いきれない法外な税金を何とかしてくれとソビエト国民が閣僚に泣きついた数多くの嘆願書が残されている。

さらに、農民を対象として政府による穀物徴発などが行なわれるようになり、農家が屋根裏に隠していた穀物までも国家財産として強制的に取り上げられた。

こうして、レーニン死後、それまでソ連が戦後の荒廃から立ち直るために、比較的自由な経済活動が許されていたネップの時代が終わり、ネップの時代にようやく少しばかりの財産を築いた農民や労働者が「富農」として非難され、彼らからの強制的な取り立てが始まったのである。

赤い貴族とも揶揄された政府要職にある一部の特権階級も同然の裕福な人々を除き、圧倒的多数のソビエト国民が極貧の生活を耐え忍ばねばならない時代が始まったのである。

こうして、文字通り、すべての私有財産が廃止されるという共産主義の理念が実行に移されたわけであるが、しかし、廃止された私有財産は国民のものとはならず、その代わりに、すべての財産が国有化された。国民の勤労の成果も、すべて国の財産として没収されたのである。

こうして、すべての財産が、人類の未来社会に共産主義というユートピアを生み出すための母体である国家のものとされたため、ソビエト国民は、自分が飢えて死なないために、コルホーズからジャガイモ一個盗んでも、国家財産の窃盗として死刑に処されるようになった。それだけではなく、そんな恐ろしい生活から逃げるために国外亡命しようとすることさえ、国家に対する裏切りとして死刑に価する罪とされた。こんな恐ろしい国から逃げる自由さえなくなったのである。

こうして、労働者・農民の天国を作ることを目的としていたはずのソビエト政権が、労働者・農民に対する恐ろしい収奪、抑圧を実行に移し始めた。やがてそれは労働者・農民の財産の没収、労働の収奪(搾取)だけには終わらず、やがて無差別的で大規模な思想弾圧の実行に結びつき、その結果として、特に、大粛清と呼ばれる36-38年の時代には、数えきれないソビエト国民が無実にも関わらず逮捕され、投獄されたり、銃殺されたり、強制収容所で強制労働させられたりすることになった。

強制集団化から大粛清の時期までに、約10年近い時が経過しているが、今、日本は、強制集団化の時点に差しかかっているのだと筆者が考えていることは、別な記事でも書いた。

今、サラリーマンや、自営業者や、その他の、これまで普通に働いて、己を支えて生きて来た国民(立憲民主党の枝野氏の言葉によれば、かつては「分厚い中間層」を形成していたような国民)が、国家によって強制的な収奪の対象とされ、貧困に突き落とされ、やがては死の淵にまで追いやられるような時代が近づいていると、筆者は感じている。

ちなみに、立憲民主党は、「分厚い中間層を取り戻す」ことを公約に掲げているが、筆者の予測では、この先の歴史は決してそのようにはならない。筆者の予感が的中していればの話だが、今、我が国で起きていることは、「雇用情勢の破壊」でもなければ、「中間層の没落」でもなく、「下流老人の増加」でもない。

これは目に見えない形での、一般国民の私有財産の段階的な廃止なのである。

なぜ過労死などといった問題が起きるのか、なぜ労働市場においては残業代が支払われない方向へ向かっているのか。マイナンバーとは何なのか。これらの問題は、この国がすでに実質的な社会主義国であり、徐々に「共産主義」社会へ向かっているという理解なくしては解明できない。

それはとどのつまり、今のこの国では、社会そのものを存続させるために、すべての国民に、平等に負担を負わせようとする政策が推し進められていることを意味する。

すべての国民に平等に(社会を維持するための)負担を負ってもらうために、報われない労働にもどんどん従事してもらい、どんどん財産を没収しましょうという目に見えない政策が進行中なのである。

この国に革命は起きておらず、表向き、資本主義国であることに変化はないが、それでも、見えない革命が起きたも同然に、この国の最上層部は、すでにクーデターによって取り替えられ、社会の仕組みは以前とは全く異なっているのだと言える。
 
今の安倍政権は、第一次の投げ出しに終わった安倍政権とは本質的に全く異なり、今現在、この国が向かっている先にあるものは、「富はすべて国のもの(土地や財産の国有化)」、「すべての負債は国民のもの」(労働の義務及び私有財産の廃止)という、ソビエト体制とほとんど変わらないような負債の連帯責任の社会なのである。

社会主義国では、私有財産制度が廃止されているので、労働者が働いても働いても、その成果が給与に反映されることはなく、店の売り上げがどんなに伸びても、それが労働者の賃金になって跳ね返って来ないので、言ってみれば、そんな社会では、働く意味自体がないに等しい。

怠け者が少ししか働かなくても、勤労者が大きな働きをしても、どちらも同じ報いしか受けないような社会では、労働意欲に溢れている人間ほど、搾り取られるだけに終わるのは目に見えている。

我が国では、名目上、私有財産制は廃止されていないものの、実質的には、それにかなり近い状態が進行している。

労働者の給与は、残業代の固定化、もしくは廃止、あるいは労働時間にとらわれない裁量労働制が広がることにより、個人が働いても働いても、その成果が労働者にますます還元されにくく、かえって一人一人の労働の成果が、会社の共有財産のように分配される時代が近づいている。

安倍政権になってから、貯蓄ゼロ世帯が増えたが、貯蓄がゼロということは、他の財産もほとんど無いに等しい状態を意味する。

若者の車離れも進んでおり、土地もなければ、家もなく、あるとすれば負債だけで、学費すらも、奨学金という負債を抱えなければ捻出できない。そういう世帯が増えているということだ。

このようなことは、目に見えない形で国民の間で私有財産制度の廃止が進んでいることを意味すると言えないだろうか? ほんの一握りの莫大な富を有する富裕層を除き、それ以外の90%以上を占める下層民(そこにはかつて中間層と呼ばれた人々も含む)は、働いても働いてもその成果が何ら給与に反映されず、豊かになれる見込みもなく、貯蓄も減って行く一方で、ほとんど私有財産がなくなるまでに貧困化が進むという事態が、国家の政策レベルで進行中なのだ。

筆者の考えでは、これは目に見えない、段階的な、下層民の間での私有財産制度の廃止そのものであり、この先、ますます、このような傾向は深刻化して行くことになると思われる。
 
政府がサラリーマンからも自営業者からも所得税や年金の取り立て額を引き上げるというニュースがネットを巡っているが、それもこうした流れの中で起きていることであり、いずれその徴収額は考えられないほどにべらぼうな金額にまで引き上げられ、働いてもほぼ意味がないほどまでになって行くものと考えられる。

また、現時点では、共謀罪で死刑とされた人はいないが、これから10年ほどが経つ間に、税の取り立てなどの労働者への収奪がより深刻化すれば、それに伴い、ソビエト政権下で起きたような政府に対する反乱を未然に防ぐための思想弾圧が、この国でも大々的に起きる可能性がないとは言えず、共謀罪はその布石なのだと考えることは十分に可能である。

このようなことは、この国がもはや資本主義国ではなく、社会主義国である、という観点に立たなければ、その意味が本当には理解できないのではないかと筆者は考えている。

この国がどこかの時点で、完全に方向転換して、安倍政権の唱える「この道」(それは安倍晋三自身が考えついて提唱しているだけのものではなく、その背後に存在する勢力と理念がある)を拒否しないならば、必ず、そのような末路にまで行き着くであろう。

さて、共産主義とは、文字通り、すべての人が幸福社会の実現のために平等に働く社会のことである。

概念上では、その幸福社会には何でも豊かにそろっており、商品やサービスをお金で買う必要もないので、私有財産などもとから必要ないのである。

しかし、結論から先に言ってしまえば、そういう社会を理想とする思想の最大の問題点は、そんな社会が到来することが本当にあるのかという一点に尽きる。

むしろ、理想社会の到来を口実にして、人々の財産と労働の成果を不法に収奪することが、その思想を土台に作られる社会の本当の目的となってはしまいかという点にある。

誰もが平等に労働することによって、本当に幸福社会が到来するのならば良いが、もしその幸福社会の実現が、絵に描いた餅でしかなく、人々をタダ働きさせるための口実にしかならないならば、そんな呪われた「幸福社会」の到来を額面通りに信じて、その到来のために真面目に労働する人たちが最も馬鹿を見させられることになる。

「いつか人類の幸福社会が実現して、モノが豊かに溢れ、格差がなくなり、誰も貧しさに苛まれることのない、豊かで幸福な世の中が来ます。そして、その時には、あなたも好きなものをよりどりみどり、何でも自由に取って楽しめるのです。ですから、あなたはそういう社会の到来を信じ、その時が一刻でも早まるよう、粉骨砕身して労働し、今は雀の涙のような少ない給料や、ただ働きにも黙って耐えて我慢しなさい」

などと言われれば、

「えっ、それって、要するに、詐欺ですよね?」とただちに問い返すべきである。

「間もなく日本は戦争に勝利するのですから、その時は、何でも欲しいものが自由に手に入ります。ですから、勝つまでは、欲しがりません、と言って、みんなで貧しさに耐え、お国のためにすべてのものを差し出しましょう」などと言われれば、「いや、それって詐欺ですよね。私たちからすべてのものを身ぐるみ巻き上げた国が戦争に勝つ時なんて、絶対に来ないと思いますよ。そもそも戦争に勝てる力があるなら、こんなことをやる必要もないと思います」と即座に切り返さなければならないのである。

「どうせ約束した共産主義のバラ色の未来なんて、初めから嘘っぱちでやって来ないんでしょう。そのバラ色の未来を口実にして、今、国民からあらゆる権利を、財産を、労働の成果を取り上げることだけが、あなた方の本当の目的なんでしょう? 嘘はいけませんよ、私は信じませんし、応じませんからね」と返答し、そんな不当な契約は悪魔に突き返すべきである。

「未来の幸福社会」などというあるはずもない謳い文句を口実に、実際に、結ばされるのは、ひたすら赤字や負債だけを山分けするという不利な契約だけだからである。

そういうわけで、現在の日本社会においては、今までと同じように、国民一人一人が頑張って働きさえすれば、社会全体が底上げされて、みんなで豊かになれるという前提が、もう幻想も同然に、存在していないのである。そのような時代は過ぎたのであり、今となっては「神話」である。

そもそも日本がかつてのような経済的繁栄を取り戻せるという発想自体が幻想なのだが、その幻想の中には、アベノミクスという「神話」だけでなく、残念ながら、立憲民主党の主張している「分厚い中間層を取り戻す」という「神話」も含まれると筆者は考える。

現実には、国民一人一人が頑張って働けば、社会が底上げされるどころか、少子高齢化及び原発事故等々のツケをその一人一人がみな連帯責任のごとく負わされることになるだけであり、しかも、労働できる世代や人口自体が限られている以上、一人一人がどんなに頑張って働いても、社会全体を今まで通りの水準に維持することはほぼ不可能であり、そのために負わなければならない負担が、天文学的な額にまで上っており、そのような理不尽な状況下では、むしろ、真面目な人々が努力して働けば働くほど、働かない人々がその努力に便乗して利益をむさぼるので、真面目な人々の負担は重くなって行く一方であり、どんな努力を持ってしても、この理不尽な状況を変えることは誰にもできないという時代が来ていることは明白なのである。

この事態の深刻さを直視せず、今まで通りの勤労の概念に踊らされて、従来通りに労働していれば、あたかも社会全体がますます豊かになるかのような幻想を抱いていれば、その人間は、その浅はかさを誰かに都合よく利用され、負いきれない(社会全体の)負債を連帯責任として負わされて、死が待っているだけである。

過労死も、サービス残業も、すべてこの社会が慢性的に負わされている負債を、最も弱い末端の労働者にまで連帯責任のごとく負わせようという考えから起きていることである。

その負債の中には、むろん、デフレや、少子高齢化や、福島原発事故の後始末など、あらん限りのマイナス要素が含まれるであろうが、広義では、その負債は、最終的には、人類の罪そのものを指す。

人類が絶対に自己の力で贖うことのできない罪を、己の力で贖い、何とかしてみんなで己が失敗を償って幸福な社会を自力で打ち立てようという目的で働いていればこそ、どんなに働いても、その労働に終わりが来ることはないばかりか、むしろ、働けば働くほど、要求が過剰なものに引き上げられ、人は永遠の蟻地獄の中でもがき続けるしかないのである。

そのような文脈における労働には希望がない。それは人がどんなに力を尽くして頑張っても、しょせん、返せるはずもない、底なしの負債を、社会のメンバー全員で分け合うことで、あたかも返せるかのように見せかける幻想でしかないからだ。

そこで、そんな試みは決して成功に終わることはないだけでなく、もしそのような仕組みの嘘を見抜けず、その罪の連帯責任に同意してしまったなら、やる気のある人間は、死に至るまでとことん割に合わない条件で働かされるのみである。

そこで、正しい答えは、そのような呪われた労働システムからは、一刻も早く、外に出るべきだ、ということに尽きる。

我々は、義務としての労働ではなく、自由としての労働をどこまでも目指すべきなのである。

国民の勤労の義務を説くにしても、それは「職業選択の自由」があって初めて成り立つのであり、それがないのに、勤労の義務だけを説けば、苦役を課しているのも同然になる。

そして、義務としての労働ではなく、自由としての職業選択の自由を本当に実現するためには、憲法という概念よりも、もっと大きなスケールにおいて、死の恐怖によって人を虜にしている罪の強制収容所の囚人であることをやめるための絶大な効力を持った証書が必要となる。

つまり、社会全体を没落させないという、死の恐怖から逃れるという目的のためではなく、自分自身の望みに従って、完全な自由の中で労働するという新たな文脈が必要なのである。

そのような自由を人に与える効力を持つ証書は、全宇宙にただ一つしかなく、それは死の力を持つ悪魔を十字架において滅ぼしたキリストの贖いだけである。

この十字架における贖いの証書だけが、人を死の恐怖及び罪を贖うための終わりなき苦役としての労働から解き放つことができる。

筆者は、この先、この十字架発の証書を握りしめて進んで行くことだけが、来らんとしている強制集団化と大粛清の中を無傷で生き残る鍵であろうと考えている。読者は、ソビエト時代の社会と現在の日本社会を重ねている筆者の想像を笑うかも知れないが、それでも、筆者の予想は、非常に厳しいものであり、この先、日本にかつてのような平和な時代が取り戻されるというものではない。

そして、聖書の御言葉への信仰に立って、与えられた自由を確固として行使し続けることが、どんな過酷な時代にあっても、無傷で生き残るだけでなく、一回限りの人生で、真に価値ある労苦によって、見えない栄光を掴むための秘訣なのである。

最後に、もう一つのことを書いておきたい。

聖書の神を心から信じるクリスチャンは、神に似た者として振る舞うべきではないかと、最近、筆者は思うのだが、(これは最近はやりの、「人が神になる」というアセンションを意味しない。人間が何かとんでもない神々しい存在になるという種類の自己高揚の話ではない。)果たして、クリスチャンが神に似た者として振る舞うとはどういうことなのかを思うとき、聖書の次なる文句が思い出されてならない。

たとえ飢えることがあろうとも
お前に言いはしない。
世界とそこに満ちているものは
すべてわたしのものだ。」(詩編50:12)

世界とそこに満ちているすべてのものを所有しておられるただお一人の神には、不足というものが全くない。にも関わらず、「たとえ飢えることがあっても」という表現が出て来るのは、一見、パラドックスのようにも思われる。
 
神が飢えるなどということは、想像することもできない。むろん、それは肉体的な飢餓のことを言っているのではなかろう。ここで言われている「飢え」とは、あれやこれやの具体的な話ではなく、欠乏全般を指すものだと考えるのが妥当であろうと筆者は思う。

つまり、この表現が意味するものは、「どんなことについても、神は決して欠乏を口にせず、ご自分以外の者を頼りとされない。なぜなら、神はすべての必要をご自分で満たすことのできる方だから」ということに尽きると思うのだ。

神は全知全能であるから、ご自分以外のものを決して頼りとされる必要がない方である。神は完全であればこそ、不足や欠乏に直面してご自分以外の者に助けを求めることを余儀なくされるという状況自体が、決して起きない方なのである。言い換えれば、どんな欠乏が生じても、それをご自身で満たすことのできる方なのである。

そこで、神がもしそのような方なのであれば、その神に贖われ、神のものとされ、神の子供とされたクリスチャンも、神に似た者として、同じように振る舞うべきではないだろうか?と筆者は考える。

つまり、クリスチャンは、ただ神だけに信頼を置いていればこそ、安易に神以外の者に向かって、欠乏を口にすべきではないし、誰にも助けを乞うべきではないと言えるのではないだろうか? 

筆者はそのことを今回も再び学ばされたように考えている。

我々は生きている限り、多くの苦しみや、時には窮地にも遭遇することがあろう。そのような中で、心弱くなり、ふと誰かに優しい言葉をかけてもらいたいとか、同情してもらいたいと思ったり、あるいは、人に支援を乞いたい不安に駆られることがあるかも知れない。

あともう少しのところで、誰かに心細さや欠乏を打ち明ける寸前だった、というところへ追い込まれることもあるかも知れない。

だが、それでも、クリスチャンであれば、私たちが助けを乞うべき相手は、肉なる人間ではないことを思うべきであり、欠乏に取り囲まれているように感じられる時こそ、あえて以上の原則を思い起こし、神以外の何者にも助けを乞わないという姿勢を貫き通すべきなのである。

そうすれば、万物の造り主なる方、全宇宙をつかさどる方、全知全能の神、死を打ち破られた方が、信者のすべての必要を本当に知っておられ、気遣って下さるので、私たちは、滅びゆくこの世の者に助けを求めないで済むのだということが、実際に分かるであろう。

クリスチャンがこの世に助けを乞うのではなく、むしろ、この世の方が、クリスチャンが持っているはかりしれない権威と力のゆえに、自らクリスチャンを支える義務を負っているのだとさえ言えるのではないかと思う。

クリスチャンは、この世のあらゆる欠乏からすでに十字架における勝利によって解き放たれており、従って、この世のどんな事象にも縛られず、人の思惑に振り回されることなく、むしろ、それらをはるかに超えて、神と共にこの全宇宙を治める側に立つことができる。そのようにこの世を超越した立ち位置にこそ、キリスト者の自由が存在するのである。

これが、憲法という地上のレベルをはるかに超えて、聖書の御言葉が壮大なスケールで信者に与えてくれている自由である。地上の憲法は、場合によっては書き変えられることがあり得るかもい知れないが、聖書の御言葉にはそれはない。
 
聖書の御言葉により、死を打ち破った復活の命によって生かされていればこそ、クリスチャンは地上で様々な困難が持ち上がって来る時にも、右往左往して世に助けを乞うのでなく、むしろ、現実の事象に対して権威を持って命じることができる。

すなわち、現実が御言葉に従うまで、天的な権利の行使を貫徹し、命じ、戦うのである。その時、聖書の御言葉に基づく目に見えない支配が、目に見える事象すべてを上回る圧倒的な支配力であることが実際に証明されて、私たちは自分たちの信じている神が、神と呼ばれるにまさにふさわしいお方であることを痛感することになる。

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今日が恵みの時、今日が救いの日ーー栄光から栄光へ、主の似姿に変えられて行く

最後の記事から随分日が空いたが、この間にヴィオロンの人生には実に大きな進展があった。

まず、耐え難く狭苦しく感じられるようになった住居を脱出して、広いところへ移った。さらに仕事も新しくなり、かつての専門の道に戻りつつある。

こうしたことが成就したプロセスがまた素晴らしかった。それは全てが私の力というより、神のみわざとしか言えない方法だったからである。

まるでイザヤ書第59章のみことばがまさに私の身の上に成就したかのようであった。

横浜に来ることが決まった直前、以下の みことばを噛み締めていたことを思い出す。

「海沿いの国々よ、わたしに聞け。
遠いところのもろもろの民よ、耳を傾けよ。
主はわたしを生れ出た時から召し、
母の胎を出た時からわが名を語り告げられた。
主はわが口を鋭利なつるぎとなし、
わたしをみ手の陰にかくし、
とぎすました矢となして、
箙にわたしを隠された。
また、わたしに言われた、

「あなたはわがしもべ、
わが栄光をあらわすべきイスラエルである」と。

しかし、わたしは言った、
「わたしはいたずらに働き、
益なく、むなしく力を費した。
しかもなお、まことにわが正しきは主と共にあり、
わが報いはわが神と共にある」と。

ヤコブをおのれに帰らせ、
イスラエルをおのれのもとに集めるために、
わたしを腹の中からつくって
そのしもべとされた主は言われる。
(わたしは主の前に尊ばれ、
わが神はわが力となられた)
主は言われる、
「あなたがわがしもべとなって、
ヤコブのもろもろの部族をおこし、
イスラエルのうちの残った者を帰らせることは、
いとも軽い事である。
わたしはあなたを、もろもろの国びとの光となして、
わが救を地の果にまでいたらせよう」と。

イスラエルのあがない主、
イスラエルの聖者なる主は、
人に侮られる者、民に忌みきらわれる者、
つかさたちのしもべにむかってこう言われる、
「もろもろの王は見て、立ちあがり、
もろもろの君は立って、拝する。
これは真実なる主、イスラエルの聖者が、
あなたを選ばれたゆえである」。

主はこう言われる、
「わたしは恵みの時に、あなたに答え、
救の日にあなたを助けた。
わたしはあなたを守り、
あなたを与えて民の契約とし、
国を興し、荒れすたれた地を嗣業として継がせる。
わたしは捕えられた人に『出よ』と言い、
暗きにおる者に『あらわれよ』と言う。
彼らは道すがら食べることができ、
すべての裸の山にも牧草を得る。
彼らは飢えることがなく、かわくこともない。
また熱い風も、太陽も彼らを撃つことはない。
彼らをあわれむ者が彼らを導き、
泉のほとりに彼らを導かれるからだ。
わたしは、わがもろもろの山を道とし、
わが大路を高くする。

見よ、人々は遠くから来る。
見よ、人々は北から西から、
またスエネの地から来る」。

天よ、歌え、地よ、喜べ。
もろもろの山よ、声を放って歌え。
主はその民を慰め、
その苦しむ者をあわれまれるからだ。

しかしシオンは言った、
「主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた」と。

「女がその乳のみ子を忘れて、
その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。
たとい彼らが忘れるようなことがあっても、
わたしは、あなたを忘れることはない。
見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。
あなたの石がきは常にわが前にある。
あなたを建てる者は、あなたをこわす者を追い越し、
あなたを荒した者は、あなたから出て行く。

あなたの目をあげて見まわせ。
彼らは皆集まって、あなたのもとに来る。
主は言われる、わたしは生きている、
あなたは彼らを皆、飾りとして身につけ、
花嫁の帯のようにこれを結ぶ。
あなたの荒れ、かつすたれた所、こわされた地は、
住む人の多いために狭くなり、
あなたを、のみつくした者は、はるかに離れ去る。
あなたが子を失った後に生れた子らは、 なおあなたの耳に言う、
『この所はわたしには狭すぎる、
わたしのために住むべき所を得させよ』と。

その時あなたは心のうちに言う、
『だれがわたしのためにこれらの者を産んだのか。
わたしは子を失って、子をもたない。
わたしは捕われ、かつ追いやられた。
だれがこれらの者を育てたのか。
見よ、わたしはひとり残された。
これらの者はどこから来たのか』と」。

主なる神はこう言われる、
「見よ、わたしは手をもろもろの国にむかってあげ、
旗をもろもろの民にむかって立てる。
彼らはそのふところにあなたの子らを携え、
その肩にあなたの娘たちを載せて来る。
もろもろの王は、あなたの養父となり、
その王妃たちは、あなたの乳母となり、
彼らはその顔を地につけて、あなたにひれ伏し、
あなたの足のちりをなめる。
こうして、あなたはわたしが主であることを知る。
わたしを待ち望む者は恥をこうむることがない」。

勇士が奪った獲物を
どうして取り返すことができようか。
暴君がかすめた捕虜を
どうして救い出すことができようか。

しかし主はこう言われる、
「勇士がかすめた捕虜も取り返され、
暴君が奪った獲物も救い出される。
わたしはあなたと争う者と争い、
あなたの子らを救うからである。
わたしはあなたをしえたげる者にその肉を食わせ、
その血を新しい酒のように飲ませて酔わせる。
こうして、すべての人はわたしが主であって、
あなたの救主、またあなたのあがない主、
ヤコブの全能者であることを知るようになる」。


長い引用であったが、ここにはヤコブ(イスラエル)がこうむった苦難と損失の深さと、神にあって与えられた回復の大きさの見事なコントラストがよく見て取れる。そして、その回復は、ヤコブが世間で強く、尊敬される者であったから成し遂げられたのではなく、むしろ、ヤコブが弱く、侮られ、蔑まれていた時に、神がその恵みに満ちた選びによってこれを救われたのである。

さて、筆者の今回の「エクソダス」は、横浜へ初めてやって来た時とは少し違った。かの時は、筆者が人と交渉して何も要求せずとも、神が全てを整えて下さったが、今回ははっきりと交渉し、要求することが必要だったからである。しかも、自分が不当にこうむった損失の数々を取り返すために、立ち上がり、主張することが必要だった。それはある意味では、「悪魔に奪われたもの」の数々を列挙して、このひどく不当な損失、不当に苦しんだ月日の補填のために、悪魔を責め、悪魔に請求書を出し、これを最後まで支払わせる、という霊的なプロセスを踏むことを要した。むろん、これは比喩であるが、現実を動かすには、霊的秩序を踏むことが必要であり、結果を出すためにたゆみない交渉をし続け、実際に「悪魔を非難し、悪魔の加えた理不尽な打撃の補填のために悪魔に請求する」ことが可能であることを知ったのである。

これは信仰における大きな前進であった、と言える。今までは、ただ神に望みを申し上げるだけで、執拗に戦ってまで結果を出すということに、どちらかと言えば消極的だったが、ここに来て、筆者は自分が今までどれほど悪魔の嘘を吹き込まれ、本当はとうにみことばにより解放されてしかるべきものを理不尽を不当に耐え忍ぶよう、欺かれてきたかに目が開かれたのである。そして、このことを不信仰として嘆き、反省するのもさることながら、何よりも人を欺いた張本人である悪魔を糾弾し、失われた月日を補填させることをしなければならないと気づいたのである。

たとえば、あまりにも多くの人たちが、私の周りで、あまりにも苦痛に満ちた、自由も望みもない仕事に従事している。彼らの仕事内容とは、交通費も支給されず、毎日の労働時間も自分の希望通りにならず、土日も祝日も休むことができず、雇用主のご機嫌次第でいつ解雇されても文句も言えず、しかも労働契約は一ヶ月未満で、その先は保証の限りではない、というような仕事である。その他の劣悪な条件は推して知るべしで、仕事内容のほとんどは不誠実な企業や団体や上司の引き起こしたトラブルの後始末であり、その仕事のみじめさ、やりがいのなさには言及する価値もない。

ところが、それでも彼らはその仕事を辞めれば、自分は路頭に迷うしかなく、代わりはないと思い込み、何があっても黙って耐え忍びつつ、その仕事にしがみつくのである。たたしがみつくだけでなく、辞めて行く者を引き止め、裏切り者扱いしさえする。しかし、このことはすでに何度も書いたが、筆者は自分の経験から、そのような仕事には代わりはいくらでもあって、もっと幅広い選択の自由が存在することを知っていた。特に、キリスト者には、選択の自由がないはずがない。

そこで私は実際に、まるでわらしべ長者の物語のように、これまでに仕事を変わる度に、一歩、一歩、極度の制限の中から、信仰によって自由を獲得して来たのであった。たとえば、たった数ヶ月の契約は年単位の契約に置き変え(ついには終身雇用になるであろうが)、日曜日は当然、休みとし、勤務時間は固定し、残業代が支払われないよう違法労働は当然ながら拒否、さらに交通費は全額支給が当然(できれば数ヶ月分の前払い。通えば通うだけ損になるような仕事に何の価値があろうか)などなど。むろん、ただ生きるためだけに専門外の仕事をすることも、ある時期を境に完全にやめたのであった。

以上のような世界を筆者が去って来たのはとうの昔のことであるが、しかし、これら全ては、こんなに当たり前のように些細なことでさえ、信仰のない人から見れば、無謀な冒険にしか見えなかったろうし、わがままとさえ断じられたであろう。その言い分に耳を貸していたならば、筆者自身の境遇も以前と何一つ変わらず、当然ながら、生活を拡張するの無理な相談に終わったはずだ。

だが、こうして、信仰によって天に直談判し、悪魔に請求書を出し続ける過程で、ヴィオロンはふと高校時代の学友を思い出した。彼女は私に触発されてのことか、高校生になってからピアノを始めたが、そのうち、何が何でもピアニストになるのだと言い出し、音大受験に挑むと決めた。私は彼女の熱中ぶりがあまりにも凄じかったので、幾分か距離を置いて、冷ややかな眼差しで他人事のようにその挑戦を見守っていた。

その頃、筆者も本当は音楽にはかなりの熱意があったので、音楽の道に進むことを考えてはみたものの、隣で彼女があまりにも熱意を込めてピアニストになるのだと言い張っているさまを見て、何だか先を越されたというか、気がそがれた感じで、同じように挑戦して音楽家になろうとは決して思わなかった。彼女は音大の短大に合格し、それから四大に編入するのだと言って頑張っていたところまでを知っている。

だが、音大生になってからの彼女は、再会すると以前よりもさらに変わっており、今度は好きな人が出来たと言っていた。が、その人にはすでに彼女がおり、片思いなのだが、その彼女は彼に相応しい人間ではないと言って、何が何でも彼を彼女から奪い取りたいのだと言うのである。

私はそれを聞いて、彼女の凄まじいまでの熱意にまたもや興ざめになり、その恋愛を応援する気にもならず、人から横取りしてでも自分の望むものを手に入れようとしている彼女の態度にうんざりしてしまった。そして、その時を限りに、彼女に会ったことはない。彼女はピアニストになるのだと言い張っていた時と同じように、今度は好きな人を手に入れたいと望み、望みに従って行動することの何が悪いのだと言って私を非難したのであった。

時を経て、彼女はおそらく意中の人の心を得ることに成功したのであろう。結婚して、子供も生まれたことを風の便りに知った。一見、めでたしめでたしである。結婚してしまえば、それが最初は横恋慕であろうと、何であろうと、非難されることはないであろう。

だが、音楽はどうだろう? 音楽もそのような熱意で手に入れられるものであろうか?

音大というところは、過酷な競争の世界で、高校生からピアノを始めた人を好意的に受け入れるような環境では決してない。神学校では信仰を学べないのとよく似て、おそらく音大では音楽の真髄は学べず、学歴としての価値はあっても、打ちのめされ、大きな壁にぶつかることになったのではないかと思う。

そういうことの影響があったのかどうかは知らないが、彼女はその後、純粋なクラシックの世界からは幾分か遠ざかり、あえてそれに背を向けて、純粋に楽しめるもっと庶民的な音楽の方向へ舵を切ったように見える。というより、クラシックの世界は、裕福でなければ、あるいはコネがなければ、コンサート一つも簡単に開けず、熱意と努力だけではどうすることもできない世界だ。彼女はその世界に居場所を見出せなかったのではないか。そういうこともあってか、子供のための音楽や、民族音楽などの方向へ、関心が変わって行ったようである。

だが、ヴィオロンは、そこでも、めでたしめでたし、とも思わないのである。自分が若くて小さな子供がいるうちは、子供向けのコンサートを開くのも良いだろう。しかし、年を取り、自分の人生にそれなりの深みが出て来なければならない年代にさしかかったとき、誰を対象として、何を訴えるために演奏するのかという課題に、誰しもぶち当たるであろう。憧れや、楽しい気分だけでは、もはや進んで行けない時が来る。特に、年老いて来た時、彼女が何を原動力として進み続けるのか、それは筆者の目から見れば(余計なお世話ではあろうが、かなり)疑問である。

私から見ると、この彼女は、いつも何か欲しいものがあって、(しかも大抵、それはもとは他人が持っていたものなのだが)、他人に触発されて、自分も同じように欲しいものを得て、望みの自分像になるために、頑張ってアプローチして生きてきた人だった。たしかに、望みへ到達するための努力は大変なものであったろう。しかし、芸術というものは、もともと自分自身の中にあるものが外側に湧き出て来て表現されるものであって、努力して到達するものではない。努力するのはただ表現力を磨くためでしかない。

カラオケでも上手な人は本物の歌手そっくりに歌うことができるが、クラシック音楽も、努力すれば、素人でもそれなりの域に達することはできる。音大に入ることさえそう難しくはない。だが、それで音楽家になったと言うのは早すぎる。そもそも、自分自身の中に湧き出てくる泉のように、表現の源、核となるものがなければ、どんなに練習を積んでみたところで、それは他人の真似事にすぎないのだ。偉大な作曲家の優れた楽曲をうまく演奏すれば、誰でも「ひとかどの人間」に自分を見せることはできるが、それでも、真似事だけでは決して進んで行けない、より深い動機が必要とされる時が必ず来るのだ…。

ただ単にピアニストという職業が醸し出す、煌びやかで崇高そうな雰囲気、俳優のように自分の演技を人に見せて観客と一緒に酔いしれることのできる陶酔感、自己満足だけが目的だったのであれば、それだけでは、進んでは行けない時が来よう。特に、金やコネで占められている、あらゆる汚辱の存在を知っていながら、それでもそれなりの苦い代償を支払って、それでもあえてクラシック音楽にとどまるのは無理であろう。

これらの苦い代価の全てを支払ってでも、自分のうちに音楽を通してどうしても表現せずにいられない何かがあって、そのために演奏家にとどまっているのか、それとも、ただ自分が舞台の主役となって、美しい音楽を奏で、心地良い注目を浴びて、聴衆と共に満足したいがためだけに演奏家を続けているのか、試される時が必ず来るであろう。

さて、しかし、今ここでその彼女のことを引用したのは、彼女を批判するためだけではなかった。むしろ、長年、私は彼女の猪突猛進型の熱意に、ある種の恐れを抱き、それを自己中心だと思って、敬遠してきたが、今考えてみると、その態度にさえも、何かしら学ぶところもあったものと思う。

ヴィオロンは、他人から何かを奪い取ってまで手に入れようとは決して思わないし、なりふり構わず、己の欲望に突き進むことを賞賛するつもりも全くないが、しかし、本当に心から望む(理にかなった正しい)目的のためならば、人はどんな困難があろうと決して諦めずに前進し続けるだけの揺るがない決意と情熱が必要であると思う。その意味においてのみ、彼女の態度にも学ぶべきものはあると感じる。今までを振り返り、私にはいささかそのなりふり構わぬしぶとさ、図太さ、粘り強さ、自己中心なほどに諦めないしつこさ、といったものがかけていたのかも知れないと思わないこともない。もっと言えば、かけていたのは、どれほどの障害にぶち当ろうとも、何が何でも信念を貫き通すために必要な、不動の自信と勇気、決意だったかも知れない。

だが、これは信仰の文脈で言うことであって、神の栄光、みことばの正しさを証明するためにこそ、人は自分の全てをかけて戦う価値があるのであって、自分勝手に望みのままになりふり構わず突進して生きよと言っているのではないのだ。そのようなあきらめることのない熱意は、人やモノに向けられる前に、まず神にこそ向けられるべきである、とヴィオロンは思う。どんな些細な願いも、まずは神のみ元にこそ持って行き、しつこく交渉してみるべきなのである。

だから、私はこの度、ちょっと実験してみることにしたのだ。前述の彼女のしつこさには及ばないにせよ、自分の望みを、困難がやってきたからと決して簡単にあきらめることなく、天の扉を叩くことに使ってみようと思ったのである。

その結果、実際に生活を向上させ、仕事を変えることができた。こうしたことは、前述のピアニスト志望の学友の望みのように、世間からは、わがままだと非難されることもあるかも知れないし、博打のような冒険とみなされることもあろうが、誰に何と言われようとも、私はこれ以上、もう一歩も退却したくないし、この望みをあきらめるわけにも行かない、というほど、にっちもさっちも行かないところまで追いこまれたのである。現状のままでは、何が何でも我慢できないうという思いが到来したのである。そして、しつこく天に直談判してみた結果、扉が開いたのであった…

家庭集会などは開くつもりはないが、家庭集会が夢のまた夢だと言わねばならないような環境からは抜け出ることができ、ほっと一息ついて、神の恵みに感謝することができるようになった。

さて、こうした飛躍や進展と思われる事柄も、代償なしに与えられたものではなく、以前、書いたように、もしヴィオロンが、地上の生まれ故郷にとどまって、地上の親族への義務感や情愛から、「死人を葬ること」に熱中していたならば、決して達成できなかったろうと言える。

最後の記事で触れた件の親族は、病床についてから一ヶ月半という比較的短い期間で亡くなったので、その苦しみはそんなにも深刻重大ではなかったかも知れない。というより、筆者はその最期の様子を知らない。だが、それでも、この故人は、人生の最期になって、「私は何も悪いことはしていないのに、なぜこんなに苦しまねばならないのだろう」とこぼしていたというから、悔い改めは、まさに神が信仰によって人にお与えにならなければ、誰も決してすることのできない奇跡なのだと言うしかない。

ヴィオロンは、この親族の最期の時に、枕元で、人間の原罪と、人が救われるためには悔い改めて神に立ち返る必要性があることについて語った。しかし、おそらく、上記の言葉が、この促しに対する故人の偽らざる返答だったのであろう。つまり、故人は、己に罪を認めず、悔い改めの必要性をも認めなかったのだ。何しろ、生長の家は、人間はみな生まれながらにして神の子であり、人に罪はないと教える。そして、神の子である人間を脅かしうるものは地上に何もなく、病も幻想に過ぎないのだと言うのだ。

しかし、彼らの信念によれば、神であるはずの人間が、病に打ち勝つこともできずに亡くなった。だとすれば、悪いのは誰なのか。生長の家の教えが間違っているのか? それとも、罪なき人間をいわれなく罰したもう神が悪いのか? 生長の家の教えだと、きっと暗黙のうちに後者ににならざるを得ないだろう。何しろ、彼らによれば、人間は正しいのだ。正しいから、苦しめられるはずはないのだ。それならば、正しいはずの人間を苦しめる何者かが存在するのであり、その人間以上の存在ーー本当の神は、悪神ということになろう。この問題は彼らの狭い教義からはもはや外にはみ出ているが、彼らは悪魔の存在をもきっと認めないであろうから、きっと人間を理不尽に苦しめている悪神が存在するということにならざるを得ないだろう…。決してそのようなことを教義としては主張すまいが、結局、その教えの根底にあるのは、人間の自己義認と、人を罪に定める聖書の神に対する敵意なのである。

こうして、苦しみを通して、神の力強い御手の下にへりくだるどころか、苦しみにあって、ますます自分は悪くないという思いに凝り固まり、自分以外のところに悪の源を探そうとする人たちが現れる。福音を聞いた時に、人の態度が試されるのである。そして、自分は悪くないのに不当に苦しめられているという思いが最後に行き着くものは、ずっと今まで書いて来たように、神に対する恨みと敵意なのである。

私は、こういう話を聞いて改めて、私がこのような考え方に至らず、自分がキリストの十字架の贖いによらなければ、救われ得ない罪人であることを知って、自分が救いを必要とする罪人であることを素直に認めて、この贖いを受け入れて救いにあずかったことを感謝し、これが私の努力によるものでなく、神の側からの恵みであり、奇跡なのだと痛感するのである。

故人は若い時分に戦争があった他は、平穏な人生を送り、不自由はほとんどなかった。人の目から見れば、幸福であろうし、孤独でもない人生であった。就職氷河期に見舞われたり、女手一つで必死に働いてなお半人前のように言われたり、寡婦となったり、子供に死なれたりすることもなく、平凡な家庭の主婦となり、家長としてごくごく世間並みの人生を生きた。まさに世間から見れば、何も後ろ指さされることのない平穏無事な人生であり、お勤めを果たしたことになろう。病に伏した期間も九十二年という健康な人生の最後の一ヶ月程度でしかないのだから、限りなく恵まれていたと言える。

しかし、その見栄えの良さはあくまで表向きの話でしかない。私は、この人の死を前にして、私の人生はこの人と比べればたとえようもない苦難や紆余曲折に満ちていたかも知れないが、神に対して自分は正しいと言い張って心頑なにしたまま死んで行くことなく、神の御子による永遠の十字架の贖いの事実を認め、受け入れることができている自分の人生に、今更ながら、途方もなく安堵するのである。

このように述べると、肉親の情からは、故人にはいささかすまない気持ちにもなるが、正直に言って、この親族が亡くなったことを機に、筆者の名前も含め、一族全員の名前をあげて、夜な夜な仏壇に向かってお祈りする人間がいなくなったことに、筆者はどこかしらホッとする思いを隠せないのである。人間としての筆者は、誰の死をも喜ばないし、寂しい気持ちを禁じ得ない。だが、それとは別に、この故人が生前、筆者には自分の神様がいるから筆者のために仏壇に向かって祈ってくれるなとどんなに言っても、自らの祈りを善意と確信して、決して筆者の願いを聞き入れることなく得体の知れない対象に祈り続けていたその祈りがもはや聞かれなくなったことに、筆者はどこかしらホッとするのである。家長であった人の死と共に、親族全体に及んでいた一つの強固なイデオロギー的支配力が消失したことをも感じるのである。

この親族が亡くなる前に、筆者は故人の考えを変えることはできないことを感じつつ、自分自身の決意表明として、自分がこのような価値観の支配する地上の家の一員ではないことを証するために去った。むろん、異教の儀式としての葬儀にも参列していない。

それはある人々の目には奇異に映るかも知れないが、筆者の曲げられない信念であり、信仰告白なのである。だが、それは代償なしに行われた行動ではなく、その行動が筆者にとっては決意を要したのは言うまでもない。だが、今回、その信仰による行動がなければ、おそらくそれに続く筆者の人生の進展もなかったのではないかと想像する。もっと言うならば、地上の故郷を振り返ることすら、本当はすべきではなかった。怪我をした小鳥は順調に回復して今はすっかり日常生活に戻っているものの、故郷への大移動がなければ、そうしたことも避けられていたであろう。

こうして、地上の生まれや故郷がどうあれ、我々が見るべきお方、その歓心を得るために心を砕くべきお方は、天にも地にも、たった一人であることを思う。私はたとえ全世界から否定されようとも、その方から是認されることをのみ望んでいる。そして、その是認(義認)あればこそ、どんな困難があっても望みを失うことなく進んで行けるのである。このお方は、信仰によって、私の内側に住んで下さり、今すでに我々は一つであると言って下さる。御名によって願いなさいと言って下さる。願いが成就するまでにそんなに長い月日を耐える必要はない。信じる者にとっては、今日が恵みの時、救いの日なのである。

神を説き伏せることのできる祈りの五大条件(ジョージ・ミュラーの祈りから)

私たちは人生において、少なくとも幾度かは、絶対にこの願いを神に聞き届けてもらわなければ困る、という切迫した祈りを捧げる必要に迫られます。それは自分自身が危機から救い出されるためであるかも知れないし、あるいは、愛する者の健康や幸せのためであるかも知れません。いずれにせよ、その時、私たちが捧げ る祈りが、神に聞き届けられるかどうか、その是非は、私たちにとって生死を分けるほどの重大問題となります。

もちろん、私たちの願いの全てが必ずしも御心にかなったものであるわけではありません。しかし、神に聞き届けられる祈りというものが存在することは確かなのです。私たちが切迫した必要に迫られている時、また心のうちに強い願いを持つ時、信仰によって、確実に神に聞き届けられる祈りを捧げるためには、一体、 どうすればよいのでしょうか。私たちの生活態度は、心の状態は、その時、どうあるべきなのでしょうか。

偉大な信仰の人ジョージ・ミュラーから、祈りの秘訣を学ぶことができます。次のことをよく心に留めておきましょう。

「神を説き伏せるほどの祈りをする際の五大条件を、彼はいつも心に言い聞かせていた。

1 どんな祝福を求める際にも、主イエス・キリストの功績と仲保に全面的に依存すること(参照 ヨハネ一四・一三、一四、一五・一六等)。

2 すべての知っている罪から離れること。私たちの心によこしまなものが残っているなら、主は私たちに耳を傾けて下さらない。もし聞かれるとすれば、私たちの罪を容認することになってしまうからである(詩篇六六・一八)。

3 誓いによって堅くされた神の約束のみことばを信ずること。約束なさった神を信じないということは、とりもなおさず神を偽り者とし、偽証人としてしまうからである(ヘブル一一・六、六・一三―二〇)。

4 神のみこころと一致した祈りであること。私たちの動機は敬けんなものでなければならない。私たち自身の欲望を遂げる目的で、神にいかなる賜物を求めてもいけない(第一ヨハネ五・一三、一四、ヤコブ四・三)。

5 執拗に願いをささげること。農夫が収穫を求めて長い間忍耐強く待つように、私たちも、ただ神のために働くだけでなく、神の働きを待っていなければならない(ヤコブ五・七、ルカ一八・一~八)。

 以上のような原則をしっかり心に留めておくことは、いくら強調しても強調しすぎることはない。ここにあげた第一の条件は、大祭司であられるかたと一つに なるということで、これはすべての祈りの基盤である。第二は、罪を捨てるという祈りの条件の一つを示している。第三は、私たちが信仰によって、神のいます ことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを信じて、神に栄光を帰する必要性を強調している。第四は、神と同じ心を持つということであり、そうするこ とによって初めて、自分のために、また神の栄光を現わすために、何を求めればよいかを知るのである。最後の項は、祈りによって神にしがみつくことであり、 神が御手を伸べて祝福を与えて下さるまですがりつかなければならないことを教えている。

 このような条件が満たされないのに、神が祈りを聞き入れられるようなことがあるとすれば、それはご自身の栄光に傷をつけることである。またそれは、求め た人に対しても有害になる。もし人が自分の名により、あるいは自己義認、利己追求、または不従順な心で神に祈ることを奨励するようなことになれば、それは 罪の中に住むことを奨励し、そのうえに賞金を与えるようなものである。また、信じようともしない人の求めに応ずることは、その人があくまでも神の真実性を 疑い、約束を守られる忠実さを信用せず、結局神の約束のみことばと、それを保証される誓いとを侮辱することになるのに、それに対して目をつぶっておられる ようなものである。

実に、本質的にここにあげられたもの以外に、神を説き伏せる祈りの条件は一つとして存在しない。これは独断的な意志によってかってに決められたものではなく、神のご性質上、また人の益のためにも、どうしても必要なものなのだ。」
(A.T.ピアソン著、『信仰に生き抜いた人 ジョージ・ミュラー その生涯と事業』、いのちのことば社、pp.158-159)

ミュラーの挙げた五大条件に、一つだけ、追加しておきたい。

6.神にしか決して叶えることのできない、神の偉大さにふさわしい、真にダイナミックな願いを捧げること。信者の祈りが聞き届けられることによって、神の偉大さ、神の栄光、神の愛の深さが全地にあまねく証明され、地獄の監獄が揺るがされ、悪魔が敗北して色を失うような、スケールの大きな祈りのリクエストを出すことは、神が信者の祈りと信仰に心動かされ、祈りを聞き届けることによって満足されるための秘訣である。


遅くなっても待っておれ、それは必ずやって来る(2)

ある姉妹が、自分の理想の家を手に入れるために、何年間も祈り続けたことを語ってくれた。この婦人とは、KFCで出会い、KFCに疑問を持って離れた後、交わるようになり、今すでに彼女はもうこの世の人ではないのだが、KFCで出会った人の中では、例外的に、主にある真実な交わりの何たるかを筆者に教えてくれ、そして心から筆者を愛してくれた本当の姉妹であった。

その彼女が、筆者を自宅に招き(それは素晴らしい家であった)、若い頃から、このような家が与えられるようにと、家の図面を書いて、主に願い続けて来たのだと話してくれた。むろん、色んな紆余曲折があり、どこに土地を買うのかなどで、誤った選択をしそうになったことも何度もあると言っていた。

姉妹が亡くなった後、ご主人にも会ったのだが、実際に、彼女はその家が与えられる前から、「まるでその家がすでにあるように話していた」とのことであった。

面白い姉妹であった。その姉妹のご主人は病気がちな人で、何度も、死ぬような大病に見舞われ、彼女はひやひやさせられるのだが、その都度、彼女の熱心な祈りと、不思議な方法で、夫の病気は回復するのだった。夫があまりに大病を繰り返し、いつもそのために姉妹が祈っていたので、まさか妻である姉妹の方が先に召されるとは、誰も考えていなかったに違いない。

基本的に、やむを得ない手術を除いて、薬は使わず、長く入院しての闘病生活も送らずに、自然な生活の中で夫の病気を治すというのが彼女の方針だったので、彼女は一生懸命、夫のための健康食に力を入れていた。一度は、結石が出来たとき、手術せずにこれを治すために、夫婦でジェットコースターに乗ったら、それで治ってしまった、などという話をしていたこともある。

「神様の知恵よ。こんな不思議な楽しい方法で神様は主人に『手術』をなさったのよ」などと、彼女が喜んで証していたのを覚えている。

この姉妹の話していた内容は、信仰を持っている信者にも、にわかには信じがたいと思うような内容が実に多かったが、筆者にはよく分かる。

話は変わるようだが、最近、筆者がペットを何気なく獣医に連れて行った時に、誤診に遭うという出来事が起きた。些細な怪我の治療のために、獣医へ連れて行くと、それをきっかけに、別件で手術が必要だと医者に言われたのである。

「ヴィオロンさん、これは問題ですね。これは先天性の病気ですよ。こんな問題を知らずに押しつけられたとは、あなたは可哀想です。」

と、そこまで医者は言ったのであるが、その言葉が、全くの誤診だったのである。この誤診がもととなって、大変なすったもんだが起き、あわやペットそのものも手放すかというほどの事態へと発展したのであるが、筆者はそのハプニングの途中で、それが悪霊からの攻撃であると気づき、嘘の不安を振り払って、事なきを得た。

ペットを筆者に譲った人の確認、セカンド・オピニオン、サード・オピニオンの結果、それが獣医の完全な誤診であり、筆者は全く悩む必要のないことで悩まされていたことが判明したのである。

結果的に、問題はすべて嘘のように消えてしまい、平穏が取り戻された。だが、混乱させられ、対応を考えていた時間は、損失であったと言えるかも知れない。さらに、もしも万一、筆者が一人の獣医の診断に従って手術を決行していれば、ただ単に余計な費用がかかっていただけでなく、臓器の一部を永久に摘出し、ペットの一生に関わる重大な悪影響を招いていたことになる。まさに筆者自身が何を信じるのか、ということが問われていた瞬間であった。

筆者は自分自身のためにはよほどのことがない限り、薬も飲まず、医者になど極力かからないタイプなのだが、ペットのためということになると、専門家の判断を無条件に信じてしまいそうになる心の弱さがあることに気づかされた。

そのような不安を入り口として、暗闇の勢力が信者に罠をしかける。獣医が悪意を込めて故意に誤診したとまでは思わないが、この出来事の背景には、筆者の平穏とペットの健康を破壊しようとの暗闇の勢力からの悪魔的な意図が働いていたことは間違いない。

そういう出来事は、今まで、この他にも数知れず、起きて来た。だから、筆者のみならず、神を信じる信仰者の生活には、誰しも戦いがあり、信者は自分の生活に対して悪魔のしかける絶えざる妨害と攻撃の意図を見抜き、それらを全て主の御名によって撃退しながら、自分自身と自分の管理下にあるすべての者たちの平和と健康と安全を守り抜かなければならない義務があると筆者は確信している。

霊感商法のように、人の不安を煽り、それをきっかけに深刻な災いへと発展させようとすることは、暗闇の勢力の常套手段である。そして、悪魔の最終的な狙いは、死をもたらすことである。医者までも、そのきっかけとして利用される危険があることが分かった。だが、そのような試みの最中で、神は常に信者の心に問われる。あなたは何を信じるのかと。

神は筆者に問われる。あなたが信じているのは、神の守りの完全さか、それとも、悪魔のもたらす不完全さと、その結果としての滅びなのか。すなわち、筆者がこれまでにも信じて来た通り、神は信じる者とその家族に完全な健康と幸福と安全を与えて下さり、全ての局面において、守って下さることを信じ切るのか、それとも、神は理不尽な病気を送ったり、思いもかけない災いを下したりして、信じる者の生活を苦しめ、絶えず悩ます存在だと考えるのか。常に筆者自身が、何を信じるのかを選択して行かなければならないのである。

筆者はこれまで自分の生活の全ての局面において、神の守りがあることを確認し続けて生きて来たが、以上のようなことがあってから、神の守りの完全性を、以前よりもなお一層、確信するようになった。そして、神以外のものに頼り、助言を求めようとする心の弱さを、徹底的に追い払って行ったのである。

たとえば、筆者は以前には、専門家と称する人たちに一定の敬意を持ち、定期的に医者にかかるのも良いことだと考えていたが、そのような考えをも改め、たとえ自分に専門知識があるわけでない分野のことであっても、目に見える人間の言葉よりも、まず第一に、まことの命と健康を保証して下さるただ一人の神に信頼を置く生活に切り替えたのである。

もし筆者が神を信じていない人たちに助言を求めるならば、その不信者たちを通して、悪霊が筆者の望んでもいない、御言葉にもそぐわない助言や指導をもたらし、それがきっかけで大変な混乱が生活にもたらされる危険がある。筆者はそのようにして不信仰な人たちに心を煩わされ、翻弄される余地を極力、排除して行ったのである。

だから、そういったことの結果、このブログでそれまで受けつけていたコメントや、設置していたアクセス解析の装置も、すべて取り払ってしまった。良い読者も悪い読者もみなそれによって筆者への応答の余地を失ったわけであるが、それをもったいないとも思わない。

以来、このブログは完全な一方通行になった。すなわち、地から天への一方通行である。このブログはもはや人に捧げられるものではなく、天に向かってのみ捧げられるものになったのである。

他にも、例を挙げれば、スカイプをやめ、以前に登録していた転職サイトのようなものもすべて退会してしまった。登録していると色々な企業からオファーが送られて来て、かつてはそれを見るのも楽しく、筆者を必要としている多くの場所がこの地上にはあるように思われて、悪くない気がしていたものだ。だが、そのようなオファーは、大抵、以上に挙げた獣医の誤診と同じように、全く筆者の望みとは関係ない方向へと筆者を誘導し、無駄な時間を費やさせるだけで、結局、人生で何の助けにもならないのである。

キリスト者は、自分自身の人生の主導権を決して他人には預けず、何もかも、自分の意志によって決断し、決定して行かなければならない。それこそが、統治するということの意味なのである。キリストは、人間的には無力で無知に思われる我々の存在を通して、ご自身の完全な統治を現したいと願っておられるのであり、また、我々の人生をも、我々と共に、統べ治めて下さる。だが、その統治が実現するためには、まず他者からの無用な助言や忠告によって、知らぬ間に自己決定権を奪われるようなきっかけを作らないことである。いたずらに人に頼らず、主導権を明け渡さないことである。そのようなことが起きうる心のきっかけを、とことん排除して行かねばならないのである。

それはちょうど冬が来ると、ロシア人が家のあらゆる隙間を目張りして埋めてしまうのに似ているかも知れない。ロシア人は隙間風を嫌う。冬の冷たい隙間風は人の健康を思いもしない形で損ない、万病のもとになると考えられているため、彼らは本格的な冬が到来する前に、家の窓や扉の隙間を完全に塞いで、外からの風が家の中に全く入りこまないようにしてしまうのである。

それと同じように、筆者は霊的隙間風が筆者の信仰生活に入って来ないように、侵入口を徹底的にふさいだ。その結果、筆者の霊の家には出口がなくなってしまった、ただ一つの方向を除いては。信者は言う、「たとえ信者にとって四方は塞がっていても、天に通じる扉はいつでも開いているのですよ」

そうなのだ。上にあるものを求めなさい、地上のものに心を惹かれてはならない、と、聖書にある通り、我々信仰者の扉は、地上の人々に向かってではなく、ただ天に向かって開いている。我々の心の扉は、天におられるまことの神に向かって開いてさえいればそれで良い。専門家だとか、助言者だとか、教師だとか名乗ってやって来る人々に心を預けても、ほとんどの場合、願っている解決は来ないどころか、とんでもない結末が待ち受けているだけである。

我らのただ一人の助言者、救い主に、常に相談できる特権が与えられていることは大いなる幸いである。この方から、我々は必要な解決のすべてをいただくことができる。たとえ時に、神から来る解決が、遅いように思われ、かなり長い間、待たなければならないことがあったとしても、神はすべてに間に合い、すべてに十分に行き届く方である。

神には遅いということはないし、手遅れということもない。悪魔の囁きに負けて、人間的な不安を煽られて、取り返しのつかない性急な判断をしないことである。ただこの方に信頼し、この方にすべてを打ち明け、力となり、解決となっていただき、健やかに生きるのが、人にとっては最も安全な策である。
 


遅くなっても待っておれ、それは必ずやって来る(1)

クリスチャンの間でよく語られている逸話に、信者が不信仰によって受け取らなかった天からの贈り物の幻というエピソードがある。

正確には記憶していないが、筆者が覚えているかぎり、こんな内容だったように思う。

ある信者が、幻の中で天国に連れられて行き、天使に天国の中を案内された。ある部屋の前で、信者はとても興味を惹かれ、立ち止まった。この部屋の中をぜひとも見てみたいので、扉を開けて欲しいと信者は天使に願う。だが、天使はその部屋は見ない方が良いと信者に言った。理由を尋ねると、天使はこう答える、「その部屋の中には、あなたが生前、神から贈られながらも、不信仰ゆえに受け取ろうとしなかったために、天に送り返されて来たプレゼントの山がしまってあるのです。」

信者は見ない方がいいと言われても納得できず、天使にどうにか懇願してその部屋を開けてもらってみた。実際に、その部屋には素敵なプレゼントの数々が天井に届くほどうずたかく積まれており、すべての贈り物に、その信者宛てのお祝いのカードまでついていた。どれもこれも、信者が確かに、こんなものがあれば、と生前、神に願って祈っていたものばかりであった。信者は愕然として、こんなにも多くの祝福を、神は自分宛てに送って下さっていたのに、自分は受け取りそこなっていたのかと、いたくがっかりしながら幻から目覚めるというような筋書きであった。

筆者はこの意地悪な作り話の内容をほとんど信じていない。

ある意味では、これは身につまされるような話である。実際に、筆者は不器用ゆえに天からの贈り物を受け取りそこなったことが幾度もある。明らかに、筆者自身が主に一生懸命にこいねがい、その願いに応えて、神が用意して下さったと分かっているものさえ、受け取りそこなったことが幾度もあるのだ。

人は本当に心から願っていたものが目の前に現れるとき、妙な緊張感を覚えるものだ。また、あまりにもタイミングよく物事が進むとき、怖れに駆られ、目の前にある祝福を受けとるのに、奇妙なためらいを覚えることがある。

そんなこんなで、せっかく祈り、またその祈りが応えられたにも関わらず、結局、筆者が怖れに駆られて受け取りそこなったものはたくさんあるのだ。だから、上記のようなエピソードは、まさに筆者にはよく当てはまっているように感じられる。

にも関わらず、筆者は以上のような話をまことだとは信じていないのである。

どうしてかというと、天からの贈り物にも、まず保管期限や不在通知なるものはあって、一度や二度、信者が不信仰によって受け取りそこなったからといって、それで終わりにならないからだ。

宅配便や、郵便と同じように、天から送られて来た荷物も、地上での一定の保管期間がある。それが過ぎると、天に送り返されてしまう。そこまでは確かなことだ。たとえば、祈りが応えられて、自分が受け取れるはずだったものも、長い間、怖れ、ためらっていると、自分の前を素通りして行き、他の人が代わりにそれを受け取り、他の人が祝福にあずかるのを見せられることもある。そうして祝福がもはや他人のものになってから、どっと後悔が押し寄せて来て、どうしてあの時、チャンスが与えられていたのに、もっと勇気を出してそれを受取ろうと行動しなかったのか、行動してさえいれば、それは今頃は自分のものになっていたはずなのにと、嘆いたりする。

だが、信者の人生に、本当はそんな後悔は必要ないのだと筆者は確信している。仮に保管期限を過ぎて、贈り物が天に返されたからと言って、一度や二度、祝福を受け取りそこなうと、天からの祝福は、それで終わりになってしまようなものなのかと言うと、そんなことは決してないからだ。

何よりも、私たちの神は、信者の目の前にたくさんのニンジンをぶら下げて、一番、早く大胆にニンジンに飛びついた者が、天の祝福にあずかるのです、などとおっしゃって、多くの信者たちを競争させるような意地悪な方ではない。早くニンジンに積極的に飛びつきさえすれば、天の祝福により多くあずかれると考えるのは、地上的な愚かな考えであり、錯覚である。

天からの贈り物は、一度、天に送り返されても、その後、何度も、何度も、形を変えて送られて来る。そして、後になれば、食べ物が腐ったりするように、中身が悪くなるのかと言えば、そういうことも全くない。むしろ、後になるほど良いものが送られて来るほどである。

人間の心は、体と同じように、絶えず変化するものであって、信者が神に願い出るものもの内容も、絶えず変化する。天からの贈り物は、常に過去ではなく、現在を起点として、信者が今、神に何を願うのか、それを基準に送られて来る。過去に何があったかなど、全く問題ではないのだ。

たとえば、一年前に買った服は、どんなに気に入っていても、今はもう着られないかも知れない。たとえ着ても、自分には似合わなくなっている可能性がある。人はそれを見て、「あなたが太ったのが悪い。前はもっとスリムだったから、その服がよく似合っていた。あなたはもっと痩せるべきだ」と言うかも知れない。あるいは、「あなたが老けたのが悪い。もっと前は若々しく見えたから、その服がよく似合っていた。あなたは十年ほど若返るべきだ」と言うかも知れない。

だが、よく考えてみれば分かることであるが、そんな考えの何と非現実的なことか。人間は今の自分に合う服を探すべきなのであって、過去に遡って、過去に買った服に現在の自分を合わせるなどナンセンスである。そもそも、服が人間に合わせて作られるべきなのであって、人間が服に自分を合わせるなど馬鹿げている。

だから、それと全く同じように、もし仮に信者が過去に受け取りそこなった天からの祝福なるものがあったとしても、それはその時を逸してしまった以上、今はもうたとえ送られて来ても、役に立たないものばかりである。今、信者が必要としているものは、過去とは違っているはずである。それなのに、過去に受け取りそこなったものを数え上げては、自分の不信仰を責めるなどという無意味な悪循環に陥るよりは、今、自分に何が必要なのかを、率直に天の父に申し上げた方がどれほど生産的か。

にも関わらず、大事にしていた服が着られなくなった時に、人が惨めさや失望を味わい、自分がすっかり変わってしまったことに自責の念すら覚えることがあるように、信仰においても、以上のようなナンセンスな考え方を、信者は自分の信仰生活に適用しがちである。すなわち、過去のことを振り返って、自分の不信仰を責め、あの時、ここで間違ったから、このような惨めな結果に至ったのだ、とか、あの時、ああしていれば、こうはならなかった・・・などとくよくよ考え、まるで自分の行動次第で、現在とは違う、バラ色の可能性が開けていたかのように想像をめぐらして、自分を責める思いがこみ上げて来ることがあるのだ。

あたかも、自分が受け取らなかった恵みの山がストックされた部屋がどこかにあって、意地の悪い天使が、死後、あなたにそれを見せて、あなたにはもっと恵まれた生活の可能性があり得たのですよ、でも、もう今となっては遅いですね、と囁いているかのように。

だが、そんな思いには、きっぱりとさよならを告げて、地獄へお帰りいただかなくてはいけない。その思いは、御霊から来たものではない。実際には、そんな部屋はどこにも存在しないのだ。天からの恵みは、あなたを満たすために送られて来るものであって、受取人であるあなたに恥をかかせるために送られて来たものではない。

神はあなたをあらゆる祝福で満たし、慰め、喜ばせたいのであって、それによって、ご自分も栄光を受けたいと願っておられるのである。神があなたにプレゼントを贈るのは、あなたの不信仰を責めるためではなく、あなたがそれを受け取りそこなって絶えず失意に落ち込むためではなく、あなたが神の気前の良さ、神のあなたへの愛の深さ、あなたへの思いやりの深さを、生きて知るためなのである。

だから、もしあなたが神の恵みを受けとることに不器用であったとしても、自分が願った祈りが本当に叶えられるのか、不信仰なときがあったとしても、神は何度も、何度も、あなたが神はどういうお方なのかを知るまで、あきらめることなく、プレゼントの山を送り続けられる。筆者はそのことを保証できる。

そういう意味では、神は、愛した女性にあきらめずにプロポーズを続ける求婚者のような方であって、一度や二度、いや、百度、二百度、すれ違いが続いたとしても、神の側からは、そんなことは何の障害にもならず、あなたが神の方に注意を向けて、神への忠実と愛を失わないでいる限りにおいて、必ず、また恵みの山を何度でもあなたのもとへ送られるのである。しかも、それは一年前のあなたの願いに応えられるのではなく、現在のあなたの心の願いに基づいて、神が実行されることなのである。

求めなさい、そうすれば与えられます。探しなさい、そうすれば見つかります。叩きなさい、そうすれば開かれます。というのは、そういうことである。

ここには、「いついつまで」という期限は存在しない。どんな風に懇願したか、という態度にも条件はない。具体的にどういうものならば、求めても良いのか、リクエストの内容にも、条件はない。ただ求めなさい、と言われているだけである。

地上における人の人生には限りがあるので、人間は、自分の努力が足りなくて、何かが手遅れになり、もう間に合わなくなるのではないかという怖れを常に抱えている。常に、急がなければならない、もっと大胆に、積極的にならなければならない、そうでなければ、せっかくのチャンスを逸してしまう、という恐怖が心に存在する。だが、神の側からは、人間の有限性など、全く問題にならないのである。

神はあなたの時を知っておられ、あなたの心を知っておられ、あなたの限界を知っておられ、あなたがこの地上では一瞬で消えて行くようなはかない存在であることを知っておられる。どんなにあなたが頑張って、完璧に振る舞おうとしても、あなたにできることなどもともと限られている。それにも関わらず、神は大いなる祝福であなたを満たしたい、と言われるのである。それはあなたが努力によって達成する課題ではなく、神の側からの願いなのである。

神がアブラハムに向かって、彼の子孫が空の星のように、海の砂のように多くなると言われた時、アブラハムにはまだ一人の息子もなかった。あなたは、周りを見回して、自分には何もない、と言うかも知れない。もし本当に神が自分を祝福されたならば、豊かな命で満たして下さったならば、この何もない状況は、何が原因なのか、神が間違っているのでなければ、多分、自分の不信仰のせいで生じたのに違いない、と思うかも知れない。そして、何も結果らしい結果が出ていないことで、自分を責めたり、不信仰ゆえに受け取りそこなった宝の山がどこかに隠されているに違いない、などという無駄な想像までもめぐらすかも知れない。

だが、そうではないのだ。神の祝福は、一見、届くのが遅いように見える、このことをよく覚えておくことも有益である。むろん、早い時もあるのだが、それはあなたが願ってから、あなたの手元に届くまでに、時差があるのが普通だ。随分、長いこと待たされることもあり、一年以上の月日が過ぎ、あなたは自分の願いをもう忘れ、あきらめかかっていることもある。だが、それは必ず、届くのだ。

だから、一体、何のせいで恵みが手元に届くのが遅れているのか、それが人間の側の不信仰によるのか、不器用さのためなのか、それとも別の原因によるのか、などといったことは探らないが良い。それよりも、あくまで神に求め続けることが肝心である。

求めることに、遅すぎるということはない。信者が何かを神に求めることに、期限はつけられていない。何かを願い出るならば、いついつまでに神に予約しなければ、手遅れになる、などとも、聖書に書かれていない。つまり、信者は生きている限り、どんなことでも、神に求め続ければ良いのである。もし期限を考慮されるとしたら、それは神の側で考慮される。神があなたの状況をご覧になって、いつまでに何を送れば良いのかをきちんと考慮される。神はすべてにおいて、必要なタイミングを知っておられ、万事を良きにはからうことがおできになるので、そこに全幅の信頼を置くべきである。だから、遅すぎるかどうか、といったことは、あなたが心配すべきことではないのだ。

信仰においては、遅すぎるということはない。神はすべてに間に合う方である。神にあっては、手遅れであるとか、遅すぎるとか、不可能であるということは、存在しないのである。神ご自身が完全な救いであり、解決だからである。

<つづく>